Title 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 Author(s) 遠藤, 芳信 Citation 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 54(1): 125-140 Issue Date 2003-09 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/766 Rights 本文ファイルはNIIから提供されたものである。 Hokkaido University of Education 平成15年9月 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第別巻第1号 JoふrnalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol・54,No・1 September,2003 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 遠 藤 芳 信 北海道教育大学函館校社会科教育研究室 1 はじめに 陸軍刑法は,陸軍にかかわる固有な軍事犯罪とこれに対する固有な刑罰を規定した刑法である.陸軍刑法 は海軍刑法とともに「軍刑法」と称されることがあるが,双方はほとんど同一である.したがって,陸軍刑 法自体を問題にし,あるいは考察することは,海軍刑法を含めた軍刑法全体を考察することを意味する.陸 軍刑法は,普通刑法(一般刑法)との関係では,特別刑法の関係にあった.つまり,普通刑法における司法 権限関係や刑罰範囲等の規定・思想等をふまえつつも,それらの「限界」を認識・確定しつつ,その罪と刑 罰の範囲を質量的に特別に拡大・増強させつつ成立してきた.歴史的には,軍隊を保有してきた国々では, 自己の国家体制やその司法制度,軍隊(特に常備軍の成立・結集)の建制・編制の特質等を考慮したうえ で,特に,そうした軍隊の建制・編制の特質を積極的に維持・強化するために成立させてきた.したがっ て,近代の軍隊保有国の陸軍刑法に現れたあれこれの特色及び歴史的変化等がある場合,それは,近代の国 家体制・司法制度(の変化)や軍隊の建制・編制(の変化)の反映や作用の結果とみるべきである. しかし,他方,軍隊保有国において,あるいは軍隊の保有にあたり,そもそも普通刑法の「限界」(なる もの)を特別に想定し認識することは妥当か?否か?という議論も検討しなければならない.この議論は, 近代の司法制度や刑法の法構成技術等の検討にとどまらず,およそ,民主主義や市民社会の成熟度を基準に して,近代軍隊のありかた(軍隊での生活や業務)と一般社会(民間社会,市民社会における生活や業務) との関係を根底的に検討すべきことを求める.つまり,軍隊での生活や業務の営為・遂行に伴われるべき規 律・秩序等の維持・管理と,一般社会での生活や業務の営為・遂行に伴われるべき規律・秩序等の維持・管 理との断絶・尭離・距離あるいは接近・一致をめぐる民主主義的関係を問うことである.これらの検討は, 本小塙ではとても尽くすことは不可能であるが,歴史的には,近代軍隊を成立させた国々では,戟前日本の 軍隊も含めて,軍隊での生活や業務の営為・遂行に伴われるべき規律・秩序等の維持・管理を基本的には一 般社会でのそれと隔絶きせた上で(隔絶させる思想のもとに),一般社会の安寧秩序維持にかかわる国家権 力行使としての普通刑法の「限界」を積極的に認識・確定しつつ,強力をもって軍刑法を制定してきたこと が多い. 特に戟前日本の軍刑法は,天皇制軍隊としての軍紀維持を最大の目的にして成立したものである.すなわ ち,天皇制軍隊は1873年徴兵令制定を頂点とする常備軍としての結集・成立のもとに軍制の諸方面を形成し つつあったが,1877年西南戦争と翌年の近衛兵反乱(竹橋事件),さらには自由民権運動の展開と軍隊への 影響の中で,自己の軍紀維持及び統帥権・司令権の明確化・絶対化が課題になっていた.1881年陸軍刑法 は,以上の1870年代後半の陸軍の内部秩序と規律の管理の強化を背景にして,陸軍司法等に関する諸制度 (1880年陸軍治罪法制定,1881年の憲兵条例と陸軍懲罰令の制定)の骨格成立とともに成立してきたもので ある.本稿は以上の1881年陸軍刑法の成立過程を軍制史的に考察するものである. 125 遠 藤 芳 信 2 柑72年海陸軍刑律の制定と「読法」の規定 1871年7月の廃藩置県後,兵力・兵権が兵部省に集中した.すなわち,「御親兵」の設置(1871年2月に 編成,総兵力約8千名.1872年3月に「近衛兵」と改称)や鎮台設置(1871年4に鎮台を東山道と西海道に 設置.1871年8月に鎮台を東京・大坂・鎮西・東北の4ケ所に増設,付近の旧藩兵によって編成)である. これらの兵力は士族によって編成されていた. 1872年2月18日制定(3月4日頒布,仝204条)の海陸軍刑律は,その前年の1871年8月28日に天皇裁可 されたものであるが,以上の士族編成軍隊の規律維持をめざした特別な刑罰法であった.この海陸軍刑律の 冒頭には天皇裁可文が掲載されているが,その天皇裁可文には「朕惟フニ兵民途ヲ分チ寛猛治ヲ異ニス」と 記述されている.つまり,「兵」と「民」の犯罪律を明確に分離した上で,前者の犯罪律をきびしく規定し ようとする意気込みが示されている.ただし,この場合の「兵」とは,近代的な軍隊としての兵員・軍人で はなく,後述のように(1873年海陸軍刑律改正増加に対する司法省意見),封建的身分としての武士(団) を意味していた.そして,戦時と「興軍」(軍隊の出動)の際には,「営中艦内二在ル者」(老幼・婦女,「雑 工_」∴諸職人,「客作」へ雇われ人,「家T」∼下人・召使等)はすべて同刑律によって処置するとされ(第 5条),平民であっても兵卒・水夫等を盛誘し,賭博淫姦蕩遊等を媒介する業者に対しては(平時を除き) 同刑律によって処置すると規定した(第6条)。そして,死刑にかかわるものは上請し,勅奏官員の犯罪は 事由を奏し,上裁の手続きをとること(第30条),本刑律内に当該の条文がない犯罪は新律綱領(1870年12 月制定)によって加減し,罪名を仮に定め,奏関して,上裁の手続きをとること(第31条),と規定した. 1872年海陸軍刑律は西周が起草したとされ,(1)漢籍にもとづく難解な字句が頻出し(後に『法令全書』 に収録・掲載されたときには振り仮名がつけられる),その峻厳さが強調されている.刑罰の種類は,将校 にあっては自裁(死刑)・奪官・回籍(免官)∵退職・降官・閉門とされ(第34条),▲F士にあっては死刑 。徒刑・放逐・拙等・降等・禁錮とされ(第41条),兵卒・水夫にあっては死刑・徒刑・放逐・杖刑・苔刑 ・禁錮とされている(第51条).すなわち,将校に対しては旧武士的名誉を重んずることを前提にした精神 的打撃としての刑罰が規定され,下士以下に対しては身体への直接的な苦痛。打撃を加えることを規定して いる。犯罪の種類は,謀叛律・対韓徒党律・奔敵律・戟時逃亡律。平時逃亡律・兇暴劫掠刑律・盗賊律・結 審律・詐欺律が規定された.つまり,「兵」(軍人・軍属)という特有の「身分」にある者に対して,軍事犯 と常事犯等とを区別することなく,軍事に関係ない窃盗・賭博等の罪を含めたことが特徴になっている. ただし,上記第31条に対しては,その後,陸軍省は同年5月24目付で太政官に下記のような伺い書を提出 した∴2)それによれば,軍事に関する罪科は「万変有之」が,本刑律はわずかに二百余条であり,そのた め,その犯罪ごとに奏聞の手続きをとることになれば,「繁擾」になるだけでなく「罪囚掩滞」し,「軽罪モ 亦重罪ノ姿二相成」ってしまうと指摘した.そのため,「此度軍法会議ノ方法ヲ設ケ律二依り推考シ衆議ノ 安シスル処ヲ掛酌初メテ施行仕ル上ハ三ケ月分ヲ取調御属仕度万一衆議両端二分レ決シ難キ者ハ上裁ヲ奉仰 候様致度」と,「軍法会議」を設けて奏聞手続きの簡略化をすすめたいと願い出た.これに対して,太政官 は6月5日付で,陸軍省の願い出の趣旨は,すでに新律綱領の「断罪無正常条例」があるので指令するには 及びがたいと伝えた.ところが,(太政官の判断等を聞きつけた)山県有朋陸軍大輔は「参朝」し,太政官 の指令は陸軍省にとって障碍が多く,現実に施行しがたい旨の「演舌」を行ったとされている.その結果, 太政官は改めて,9月19日付で陸軍省に対して「当分ハ伺ノ通タルヘキ事」と指令を与えた.これは,U」県 有朋陸軍大輔が強固な態度で太政官決定を覆したことを意味しているが,同年5月23日制定の鎮台本分営罪 犯処置条例に規定された軍法会議の考え方を拡大する意図があったものと考えられる.(3− 126 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 ところで,・1872年海陸軍刑律第2条は,軍人の範囲を「海陸軍ノ将校,下士,兵卒,水夫,並二海陸軍武 学生,海陸軍医官,会計書記ノ吏,百工役夫常員アル者」と定義した.そして,将校等の大小官員は拝命の 日から本刑律によって処断するが,「新兵水夫」に村しては隊伍編入後の「読法華ルノ時」から法を犯す者 を同刑律によって処断する,と規定した.この海陸軍刑律第2条に規定された「読法」とは,法(や規則及 び兵員の心得)を新兵・水夫に読み聞かせることであるが,陸軍省は同年9月28日に「読法律条附」(兵員 が遵守すべき忠誠や上長への敬礼の心得と,海陸軍刑律から命令服従等の条項を摘出し,全8条として掲 載)を頒布した.穂積陳重は,「読法」の起源について,古代東洋・西洋からの法律公布式における朗読・ 口頭宣布等を考察し,さらに日本の江戸時代の武家諸法度が朗読法によって宣布されたことを示し,また, 五人組の法令の周知徹底においては,「該法令を五人組帳なる簿冊の首めに『前書』として記載せしめて, 其末に右の法令を堅く遵守して敢て違背せざるべき旨を記して請書を上ら−しめたのみならず,後ちには時期 を定めて右の五人組帳を一般に読み聞かせ,且其奥書に,右の法令を遵守すべき誓詞を記して,名主組頭以 下各五人組員に至るまで悉く連名捺印して,之を地頭若しくは奉行所に届け出しむるを例とした.」と述 べ,(4)古代以降の朗読による法律公布式のカテゴリーや系譜にある、ことを指摘している.つまり,朗読公 布式は文字を理解できない人民に対して法律を公布する際の唯一の告知法であり,「読法」はあらかじめ法 を読み聞かせた後,始めて軍令遵守の責任が発生すべきものとして位置づけられたと指摘した.なお,明治 維新後も五人組帳による法令・規則・心得等の周知徹底形式を継承していた地域があった.穂積陳重の考察 は,明治維新後も一部地域で継承された五人組帳との関係で「読法」の読み聞かせの形式や手続きの意味を 説明したものであるが,契約ではなく,無条件的な義務として徴集され,入営する新兵にとっては,入営時 にそれを読み聞かされ,違犯しないこ、とを誓文帖に署名することは大きな重圧と拘束力が課されることに なった. 1872年海陸軍刑律の「難解さ」に関するエピソードについてはすでに松下芳男などによって紹介されてい るが,(5)同刑律村象者の範囲等や刑罰適用の考え方や当時の陸海軍勤務者の雰囲気等については,翌1873 年7月30日太政官布告第276号の海陸軍刑律改正増加の成立過程等においてさらに明確化される. 31873年海陸軍刑律改正増加と文官の位置づけ (り 陸軍省・海軍省の海陸軍刑律改正増加の上申 まず,1873年3月31日付で勝安房海軍大輔と山県有朋陸軍大輔の連署による海陸軍刑律改正増加の上申書 が太政官の正院に提出された.(6)それによれば,第一に,①第3条改正案として,「凡ソ軍属卜称スルハ 陸海軍各衛門ノ文官及城壁(以下,旧と同じ.すなわち<武器火薬糧食等ノ倉庫,造船場,材木草林等諸廠 二於テ,監守支給使役運輸等ノ用二供スル者ニシテ,或ハ定例ノ課役二充テ,戎ハー時ノ傭役二出ルモ,其 犯罪,海陸軍事二渉ル者ハ,亦此律二依テ,断スヘシ>)と起案され,陸海軍勤務の文官を作業現場等の一 時雇用者等と同一に処置することにし,②第10,14条改正案として,「凡軍人軍属租税地田本貫ノ事二属セ ル諸犯国法之諸犯井二失誤朝賀殿廷失儀衝突儀使至下馬牌不下及違式謹違等ノ諸犯ハ司法衛門二付シ此律ヲ 以テ論セサル事」と起案された.これは,現行の第10条が旧兵部省管轄官吏の事務上の過ち(文案の誤署, 文書の誤写などのミス)を他の法律によって処置することを規定し,第14条が軍人軍属の租税・土地関係等 をめぐる犯罪を他の民事法によって処置することを規定していたのに対して,両条をまとめ、、(宮中での失儀 等や違式謹違等の諸犯も含めて),文案の誤署などは罪を免ずることにし(後述の増加案として起案),他の 普通司法の処置として扱うことにしたものである.第二に,増加案においては,①第1条として,陸海軍の 諸官衛勤務者・艦船乗員者等に関して,「凡軍人陸軍二在テ各種兵隊ノ躯員タラス海軍二在テ艦船乗員及ヒ 127 遠 藤 芳 信 各種兵隊ノ躯員タラスシテ陸海軍省並二該管諸寮司等二出仕スル者並二軍属当該諸司二奉事スル者軍務上ノ 過誤失錯軽犯其罰本律内二十一一日ノ禁鋼二当ラサル以下ノ者ハ尚其軽重ヲ掛酌シテニ週一週三日ノ謹慎ヲ以 テ論ス」などと起案され,②罰が1週間以上になるものは軍裁判所で論決させるが,3日以下の場合には省 内の局長や諸官衛の長官から命じる(第2条),大佐以下や大佐同等の軍属以下の者が軽犯罪3日以内の謹 慎に1ヒまる場合は所轄長官が命じる(第3条),罰が1週間以上になる場合,奏任官以上においては「旨ヲ 請ヒ」「推間」(取り調べる)することを原則にするが,緊急の時には推間の後に奏関することを認める(第 4条),文案誤署などを改めた結果,吾がない場合には免罪し(第5条),第5条の失錯がすでに遂行された 後に始めて発覚したが,害が発生せず,改めることができる場合には1週間から3日の罰にする(第6 条),誤って官物を殴損・遺失した場合に補償でき,また,出納の計算がわずかに誤っても改め正すことが できるものは2週間から1週間の罰にする(第7条),出勤日や宿直日の間違いなどは常律によって処置す る(第8条),③第9条として「凡断官突入人罪放逐以下失出入罪徒以下ハニ過ヨリー過ヲ以テ論ス」と か,第10条として「凡不応為ノ律二当ル者ハー過以下ヲ以テ論ス其事理垂キ者ハ三週以上ヲ以テ論ス」と か,また,私的に借りていた官物が盗難にあった場合などは新律綱領(1873年6月13日に改定律例が布告さ れ,7月10日から施行)によって処置すると起案された(第11条). (2)海陸軍刑律改正増加案に対する司法省の見解 これに対して,正院は4月3日付で江藤新平司法卿に陸海軍両省の海陸軍刑律改正増加案に対する意見を 求めた.その後,司法省では海陸軍刑律改正増加案の審査をすすめ,司法大輔福岡孝弟は5月24日付で下記 のような意見書を正院に提出した. それによれば,第一に,「夫刑罰ハ.政治ノ基本ニシテ.固ヨリニ途二出ヘキ者二非ス」と述べ,政治の 基本として,刑罰が二種類あってはならないことを強調した.これは,刑罰全体を統括していた司法省の見 解(「全国ノ法憲ヲ統轄」)としては当然な強調であった.それ故,軍人・軍属や軍籍にある者に対しては,出 征・行軍時や椙街・巡適時であっても−一般民間人に関連したものや,一般民間人との共犯にかかわるものは 常律によって処断すると述べた.ただし,軍人・軍属は「折衝防御.攻城野戦ノ責二任」じられるが故に, 「平素其鋭気ヲ養ヒ.其勇敢ヲ尚ヒ.以テ有事ノ日ヲ侯サルヲ得ス」とされた.したがって,その「鋭気勇 敢」を勧奨するためには,「醒籍恭情ノ常人」とは異なり,常律をもって懲戒することは困難であり,1872 年に「軍律」(海陸軍刑律)を制定し,軍裁判所が置かれたと指摘した.そして,兵役に服する者(現役) は平時においてもすべて軍律によって処分ことになっているが,後備軍等にあって現役に服さない者は「常 律」(普通刑法)によって処分することになっているので,まして,文官には軍律をあてはめることばでき ないことは当然であると指摘した.以上の司法省の意見には,軍律(軍刑法)の特別な制定の理由として, 軍人には「鋭気勇敢」という精神的構えがあること(あるべきこと)が強調されている.つまり,そうした 精神的構えを基礎にした上での懲戒としての刑罰法として,軍律が制定されたという認識が含まれている. したがって,たとえば,1872年海陸軍刑律が,下士以下に対しては,身体に対する直接的な苦痛・打撃を与 える刑罰を施すことにしたのも,「鋭気勇敢」という精神的構えの勧奨に照応していると考えられる.以上 の司法省の軍律(の制定理由)に関する認識は当時として【一般的なものであったが,軍刑法を軍隊の規律・ 秩序維持の視点から位置づける思想は顕著には現れていないとみるべきだろう.そもそも,当時の軍隊(「御 親兵」など)の兵営生活の管理としての軍隊内務に対する評価として,後に「武士的制裁二於テ嘆美スへキ モノ甚夕多キノミニシテ其他ハ蓋シ不規則ヲ免レサリシ」という記述が出たが,軍隊の兵営生活の諸規則自 体は徹底化されていなかった.(7)ここからは規律・秩序維持の意義に関する観念が現れることは困難であ る. 第二に,改正増加案の個別条文に関しては,①改正案の第3条案における「文官」は陸軍海軍の「卿輔以 128 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 下」を意味することになり,その結果,文官を「課丁傭夫卜一例視シ.其処置ヲ同フセント欲ス.膏二不倫 ノ甚シキ而巳ナラス.法モ亦其当ヲ得タリトセス」として,厳しく批判し,②改正案の第10,14条案は,も ともと司法の権限内に属するものであるので(軍律に記載することはできず),現行通りのままに据え置 き,改正してはならないと指摘し,③増加案の第1条案に出てくる「出仕」と「奉事」はともに文官にかか わるがゆえに,軍律によって処置できず,④増加案の第9,10条案は常律に規定されているので,常律と干 犯抵触するものは削除してよいこと,⑤さらに注目すべきは,最後に総括的に「夫軍律ノ撰ハ明治四年二在 り.時兵民仝ク途ヲ分ツ.故二然り.今ヤ海内ヲ挙テ.皆兵ナレハ .兵民ノ分.僅二其名アリテ.其実ナ シ.時勢ノ進歩.此ノ如シ.豊律独り守株膠柱ス可ケンヤ.新律軍人犯罪条.出征行軍ノ際二非ルヨリハ. 権断ヲ許サス.軍人卜雄モ.平時ハ.法衛常律ヲ以テ処分スル法二復スル.至当ニシテ.亦妨ナキニ似タリ ト雄モ.先ツ前走軍律ノ如ク.武官ノミこ施シ.文官等ハ.従前ノ通り.常律二依り候方.至当卜存候間. 此段中上候也」と強調した.この司法省の総括的な意見で注目されることは,特に前半の部分において,海 陸軍刑律の天皇裁可当時の「兵民」関係は武士と平民との完全分離状態としてとらえることができるが,そ の後(1873年1月徴兵令制定)は「国民皆兵」になったので,その旧武士団としての「兵」の内実は失い, 「民」としての「皆兵」が成立したことを強調したことである.すなわち,「民」を基準にして,平時や文 官にかかわる犯罪のみはできるだけ常律(新律綱領にも規定されているように)によって処置することが必 要であることを述べたのである. なお,新律綱領(巻一 軍人犯罪)は,「凡軍人.罪ヲ犯スニ.出征行軍ノ際二非ルヨリハ.兵部権断シ テ.檀二法ヲ用フルコトヲ得ス.宿衛巡遊ノ時卜錐モ.事若シ常人二関渉シ.及ヒ闘殴殺傷スル等ヲ.亦常 律二照シテ論ス」と規定していた・これに対し 犯の処置に関して,「軍人犯罪律改正伺」を正院に提出していた.(8)それによれば,「凡軍人.軍属.罪ヲ 犯スニ.出征行軍ノ際二非スト雄モ.陸海軍井二其律ヲ以テ処断スル事ヲ得ヘシ.事.若シ常人二関渉シ. 及ヒ共犯二係ル者.軍官逮捕スレハ.軍街二於テ糾問シ.常人ハ鞄状ヲ併セテ.法司二交付シ.法司逮捕ス レハ.法衛二於テ糾問シ.軍人.軍属ハ.鞠状ヲ併セテ軍官二交付シ.軍人軍属ハ.軍律二処シ.常人ハ. 常律二処ス.其大獄疑誠二係ル者ハ.軍官.法司.会同商議シテ.各自二区処ス」と,・平時における軍人犯 罪一般を陸海軍とその犯罪律にもとづいて処置することを述べつつ,常人との共犯にかかわるものは,軍隊 側と普通の法衛側においてそれぞれ逮捕することができ,それぞれの管轄側に送致し,それぞれの犯罪律に もとづき審判できるとした.正院は3月10日に司法省の何いを陸軍省・海軍省に下問し,両省は異存なしの 回答を発し,太政官は4月13日に軍人犯罪律改正を布告した(布告第132号).つまり,新律綱領とは逆に, 軍人・軍属は出征・行軍でない時であっても,その犯罪は軍律でもって処断することにしたのである.その 後,6月13日に太政官布告第206号の改定律例が制定ぎれたが,布告第132号の軍人犯罪律改正はほぼそのま ま取り入れられた.すなわち,上記5月の司法省意見書は,本来は軍人であっても平時には普通の法衛で常 律によって処断することに復することが適切ではあるが,当面,軍律は武官のみに適用すべきことを強調し たのである. (3)太政官における海陸軍刑律改正増加の決定 さて,陸海軍両省上申の海陸軍刑律は太政官法制課の審案を経て6月10日の閣議に提出された.法制課 は,①改正案の第3条については,司法省の意見を採用し,文官を軍属となし,常律によらない処置は「理 ナシ」であり,旧の通りにすること,②改正案の第10,14条は違式註違等の条も加えられたので上申の通り に改正してよいこと,③増加実の第1条案における「出仕」「奉事」は文官にかかわることではあるが,す でに海陸軍刑律第4条には「大小官員,委官署職等二依テ,臨時海陸軍事二関与シ,軍事二於テ,罪ヲ犯ス 者モ,此律二依テ論スへシ」と規定されているので,上申の通り増加してよいこと,④第2,3条案におけ 129 遠 藤 芳 信 る軽犯罪は軍裁判所で処断されるべきではあるが,各地出張などもあって,実際には不便であり,3日以下 の禁錮に限って所轄の長官から刑罰が命じられることは認めてよいこと,⑤第4条案の奏任官以上における 1週間以上相当の刑罰は,「勅奏官位犯罪例」に照らして支障はないので増加してよいこと,⑥第5,6条 実の軽犯罪の処置は上申の通り増加してよいこと,⑦第9条案の「断官」は文官に属することなので,海陸 軍刑律によることはできず,削除すること,⑧第8,10,11条案は常律よりも軽く,常律と権衡がとれない ので,常律によって論決すること,と述べた.そして,今後の取り扱い方として,太政大臣から陸海軍両省 に対して下問し,さらに両省から当否便害等の都合を調査した上で意見を申し立たせることを起案した.な お,⑤の「勅奏官位犯罪例」は,もともと新律綱領に規定されていたが(勅奏官位者の犯罪は「其事由ヲ奏 聞シテ旨ヲ請ヒ推問シ」という手続き),1872年10月13日太政官布告第307号は,緊急な取り調べの処置を要 する場合には,「即時推問セサルヲ得サル者ハ推問シテ後こ奏聞スルコトヲ聴ルス」と規定し,推間の後に 秦関する手続きを許可した. その後,6月18日付で太政大臣から陸海軍両省に下問がなされ,両省は7月4日付で回答した.それによ れぼ,第一に,第3条改正案における「軍属」とは,軍人でない者であって「式事二関カル者こテ文官モ其 内二含メル称ナリ」とはいえ,今回改めて特に文官の字を掲げたのは,「貴顕ノ職二在テ武事二関カル者二 嫌アレハ態卜掲ケタル義ニテ有之」と指摘した.たとえば,西欧各国では海陸諸街門に奉仕する少尉以上の 官職は,陸海軍の各士官養成学校出身の士官でなければ補充しない制度のために,「軍属」とのみ表記する 場合は平民で式事に関わる者を称しても支障はないとした.しかるに,本邦の場合は維新からの年月が浅 く,兵学寮(1869年9月設置,1870年11月に陸軍兵学寮と改称.海軍は1869年に海軍操練所が設置され,1870 年11月に海軍兵学寮と改称)出身の士官が少なく,時々まったく文官で調練の事に適しない者も海陸話術門 において採用するが故に文官の字を表記しないわけにはいかない事情があると答えた.また,現行第4条に おいて「大小官員」が軍事に関する罪を犯す場合は,本海陸軍刑律によって論決することになっているが, ぎー大小官員」は武弁で ない文官なので,まして,文官が軍事に関する罪を犯す場合は本海陸軍刑律によって 処断することは至当であると答えた.第二に,第9条案の「断官」に関しては「陸軍断官ハ本省管下ニテハ 文武官混シ」ており,その軍裁判所の「評事」(判事)・「参座」(陪審員)の構成も武官・将校が中心なの で,文官に限られるものではないと答えた.第三に,第8,10,11条案に関する指摘には異存はないと答え た. これに対して,7月10日の閣議においては,陸海軍省の答議に対して,法制課は,①第3条改正案の「軍 馬」については現行海陸軍刑律に明文があるので(文官を包含しない),同答議と当初の上申とは相違があ ること,②海陸諸衛門中には文武官の区別があるが,その職務によってその区別をしているわけであり,そ の「出身」によって区別をしているわけではないこと,したがって,文官を軍属に加えなくとも不都合はな いこと,③本海陸軍刑律第4条のように,文官であっても臨時に軍事に関与して軍事の罪を犯す場合は軍律 によって論決することになっているので,文官を常に軍属に加えることによって,その軍事に関与しない罪 を軍律によって論決するには及ばないこと,④第9条案の回答に対しては,武官による軍裁判所の「評事」 等の兼任等は,その裁判官をもって武官であると規定することはできないこと,という調査結果を提出し た。そして,陸海軍省の答議は採用できないと報告し,上記の6月10日の閣議の通りに執行してよいことを 申進した.これにより,海陸軍刑律改正増加は上記のように7月30日に太政官から布告された. 1873年海陸軍刑律改正増加は,未だ,西欧を基準にした近代軍隊としての規律・秩序の観念の形成が未成 熟の段階において,旧武士的制裁の思想を残存させつつも,軍隊勤務の文官に対する軍刑法の適用を課題に したものであった.そこでは,特に陸海軍省の第3条改正案にみられるように,文官を軍属に包含し,文官 を軍属と同【一・同等的に処断する考え方を含めたことに対して,司法省や太政官側が反論し,文官に対する 130 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 軍事にかかわる犯罪の処断を制限したことが特徴になっている.これは,当時の文官優位思想をもった太政 官制度の雰囲気を反映している.また,司法省意見のように,1873年徴兵令制定後の軍刑法のありかたとし て,平時や文官にかかわる犯罪をできるだけ「民」(新律綱領)を基準にして処断する意見も注目されるも のである. 41881年陸軍刑法の制定過程 (り 陸軍省における「陸軍律刑法草案」の起草 陸軍卿西郷従道は1880年2月28日付をもって,「陸軍律刑法裁定ノ儀二付上申」という上申書を太政大臣 に提出した.(9)この上中書はノ1872年の海陸軍刑律頒布以降9年が過ぎたが,兵制が拡大し,諸規則が赦 密化した結果,刑律も現在の軍隊状況に適応しないものも出てきたと指摘している.そのため,現今の法制 と軍規を掛酌し,各国の刑律を折衷して,「陸軍律刑法草案」を起草したと述べている. 陸軍省が起草した「陸軍律刑法草案」(仝138条)は,第一篇 総則(第一章 法例,第二章 刑例,第三 草 加減例,第四章 数罪倶発,第五章 数人共犯,第六章 未遂犯罪,第七草 親属例),第二篇 重罪 軽罪(第一章 反乱,第二章 抗命,第三章 授権,第四章 辱職,第五章 暴行,第六章 違令,第七章 逃亡,第八章 詐偽,第九章 私売)から構成されていた.この中で,第一篇の章構成は同年7月17日太 政官布告第36号によって制定された刑法(普通刑法)にほぼ準じたものである(刑法では,他に「不論罪及 ヒ減軽」「再犯加重」「加減順序」の章がある).刑法は1876年から司法省においてその草案起草が準備さ れ,同年末には刑法草案が太政官に提出された.太政官は刑法草案を審査し,1880年3月1日に刑法審査修 正案として元老院の議定に下付した.したがって,陸軍省は,司法省・太政官における刑法の草案起草・審 査の内容等を把握していたことは当然である.なお,1881年7月8日太政官布告第36号は刑法と治罪法を1882 年1月1日から施行するとし,刑法第4条は「此刑法ハ陸海軍二関スル法律ヲ以テ論スヘキ者二適用スルコ トヲ得ス」と規定し,軍隊にかかわる軍事犯罪者への適用の限界を明記していた. さて,陸軍省の「陸軍律刑法草案」の起草に中心的に従事していたのが,歩兵大尉井上義希(兼陸軍裁判 所権評事)であった.井上義行は太政官権少書記官を兼任し,元老院における陸軍刑法実の議定に際して は,内閣委員として法案説明に従事していた.そして,陸軍刑法の施行(1882年1月1日)の直後,『陸軍 刑法釈義』を刊行した(1882年2月2日版権免許,倍行社.陸軍少輔小沢武雄や西周の序文あり).それ 故,まず,井上著の『陸軍刑法釈義』を参照しつつ,陸軍省の「陸軍律刑法草案」の起草特質を検討する. 井上は,同著「例言」において,軍律と常律との区別に関して,軍律における刑を常律よりも重くするこ とによって,軍紀を碓持することを強調した.すなわち,「軍律ヲ設クル所以之ヲ要スルニ軍紀ヲ維持シ軍 隊ヲ保護スルニ在り」と指摘した.特に死刑を多くした理由としては,「夫レ生ハ人ノ欲スル所自由ハ人ノ 好ム所而ルニータヒ軍籍二人レハ其自由ヲ奪ヒ又駆テ必死ノ地二出入セシム故二軍人タル者菅生ヲ舎テ義ヲ 取ルノ人二非サルヨリハ之ヲ待ツニ厳刑ヲ以テセサルヲ得サルモノアリ是常律二比シ死刑ノ多キ所以ニシテ 亦己ムヲ得サルニ出ツ」(4丁)と述べた.つまり,軍人になり,軍籍のもとにあることは,常に「死」に 直面し,「死」を覚悟するという「厳格」な世界に従事することであるが故に,その犯罪に対する刑罰も軍 紀維持のために当然(死刑を多くして)厳格であらねばならないとしたのである.ここでは,軍刑法の必要 として,1872年海陸軍刑律に含まれた旧武士(団)な精神的構えの喚起を前提・基礎にした刑罰処直の必要 性の認識よりも,近代軍隊の規律・秩序の維持の必要性の認識が示されている.また,井上は,第一篇第一 章第1条の刑罰対象になる重罪・軽罪の区別の説明箇所において,罪の軽重の判定は,その罪が「道徳二背 クト社会ヲ害スルノ大小ヲ量り之ヲ走ムルニ在り」(巻一,3丁)と記述し,陸軍刑法は道徳に反するもの 131 遠 藤 芳 信 は小さく,社会を害するものが極めて大きく,「軍事犯ノ生質タル国事犯卜稽其趣旨ヲ同シクスル」(巻 二 3丁)と,国事犯の趣旨との同一性を指摘している.つまり,井上は軍刑法の犯罪(性)の成立根拠 を,個人の道徳性の破壊よりも社会(国家)の破壊に求めたのである.これは軍隊や軍人(社会)せ明確に 国家(組織)の体現者として把握するものであった.次に,「陸軍律刑法草案」で注目される個別条項を検 討しよう. 第一一篇第一−一章(法例)においては,①「本律二正条ナキ者ハ何等ノ所為卜雄トモ此律二関スルヲ得ス」 (第2条)と,刑法第2条とほぼ同じ条文を掲げ,②「准士官以上将校相当ノ軍人ハ総テ将校卜同シク論 ス」(第4条)とか「武学生及ヒ陸軍所属ノ諸生徒並こ軍属本律二掲クル所ノ罪ヲ犯ス者ハ総テ軍人卜同シ ク論ス」(第5条)としているが,軍人や軍属の定義をせず,③「外国人日本ノ軍役二服シ本律ノ罪ヲ犯ス 者ハ国ノ内外二在ルヲ論セス皆此律こ依テ処断ス」(第7条)として,外国人が日本の軍隊に服役すること があることを想定し,④「敵前軍中若クハ臨戟合囲ノ地方こ於テ第二編第一章ノ罪ヲ犯ス者ハ軍人二非スト 雉トモ本律二依テ処断ス」(第8条)と,臨戦合囲の地における民間人の罪(反乱罪)を起草した.この中 で,第8条の意味については(陸軍刑法第13条に相当),井上著は特に長文の説明を加え,「内乱外患ハ国家 ノ大変賊ヲ討シ敵ヲ退クルハ政府ノ責任即チ社稜ヲ保チ蒼生ヲ安スル所以而其之ヲ致ス所以ノモノ軍隊ノカ ニ頼ラスンハアラサルナリ覆巣ノ下完卵ナシ豊我軍敗レテ而政府人民安然ヲ得ルノ理アランヤ是ヲ以テ国家 ノ非常権常律ヲ廃シ軍律ヲ以テ全国人民ヲ処スルノ時アリ夫レ合囲地方ノ如キ仏国二於テハ行政司法ノ権¶一 二之ヲ軍衝こ帰ス本邦未夕合囲ノ規則公布二至ラスト雄モ聞クカ如キハ其制定近キニ在リト蓋シ大差ナキヲ 知ルヘキナリ」(巻一,19丁)と,フランスの合囲を管理する1849年8月の法令と同様に,(10)国家非常時に おける軍隊の力による行政・司法権の統括と民間人の犯罪処分方針を強調した.なお,「合囲ノ規則公布」 とは,後に制定された戒厳令であり(1882年8月太政官布告第36号),陸軍省は1881年12月末に戒厳令制定 を上申していたので,井上はそうした陸軍省の戒厳令起草状況を知っていたのであろう.また,「臨戦合 囲」の定義に関して,「臨戦」は,実際に戟争・戦闘に臨むのではなく,「敵近ツキ来ルノ遠近ヲ量り戦二臨 ム如キ意ヲ以テ警備ヲ布ク」ことであり,「合囲」は敵に囲まれるのではなく,「要塞又ハ城壁等拠ヲ以テ敵 ヲ支柱スルこ足ルノ地ヲ根拠トシ合同中二在ル如キ意ヲ以テ戒厳ヲ為スヲ謂フ」とした.それ故,「合囲」 は特に戦時のみでなく,「土冠内乱」の発生に対しても宣告されることがあると述べた. 第一篇第二章(刑例)においては,①刑を「主刑」(死刑,無期徒刑,有期徒刑,無期流刑,有期流刑, 重懲役,軽懲役,重禁獄,軽禁獄∼以上,重罪.垂禁固,軽禁鋼∼以上,軽罪)と「付加刑」(剥奪兵権, 剥官,停止兵権,禁治産,監視,没収)に区分し(第14,15,16条),②死刑執行は「陸軍卿ノ命令アルニ 非サレハ之ヲ行ブコトヲ得ス」(第18条)として,陸軍卿や司令官・隊長等の「特赦」の願いもあるので, 陸軍卿の命令がなければ執行できないようにし,その「慎重」を加えたとされ(巻二,7丁),③剥奪兵権 において剥奪される権利は,「武員二列シ及ヒ兵器ヲ帯ヒ徽章ヲ装シ制服ヲ著スルノ権」「従軍記章ヲ有シ及 ヒ恩給ヲ受クルノ権」「常律第三十−【−−一条二記載スル所ノ権」(第26条)とされ(刑法第31条の「剥奪公権」に 規定された公権とは,国民の特権,官吏になる権利,勲章・年金・位記・貴号・恩給を有する権利,外国の 勲章を侭用する権利,兵籍に入る権利,裁判所での証人や後見人及び管財人になる権利,学校長や教師・学 監になる権利である),④重罪の刑に処されたものにはすべて剥奪兵権を付加し(第27条),⑤剥官は特に将 校に適用する刑であり,現在官職を剥き,恩給を給しない(第28条),⑤下士兵卒は刑法軽罪実決の刑に処 された時であっても「役限中ハ其職役ヲ免セス」(第32条)として,徴兵制による兵役義務期間の残余期間 を満了させ,終身勤務の将校に対する剥官の考え方と一線を画し,⑥陸軍法街での裁判費用は「徴セス」 (第34条)とし,⑦剥奪兵権・停止兵権及び監視は刑満免除することができないとした(第36条). 第二篇第一章(重罪軽罪)においては,「軍人政府ヲ転覆シ邦土ヲ借窺シ其他朝憲ヲ素乱スルコトヲ謀リ 132 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 千曳ヲ動シ若クハ外国二輿シ本国二抗敵シ反乱ヲ為ス者首魁教唆者若クハ群集ノ指揮ヲ為シ若クハ枢要ノ職 務二従事スル者ハ死刑二処ス」云々(第別条)と,刑法第121条の国事犯(内乱罪,ただし首魁と教唆者は 死刑)の条文と似た条項(政府転覆・邦土借窺・朝憲素乱の三目的をもった反乱)を規定し,同第二章(抗 命)においては,①「軍人命令ヲ下ス可キ権アル者ノ命令二抗シ若クハ服従セサル者敵前二在テハ死刑二処 ス」(第71条)と,敵前抗命者の死刑を設け,②「軍人暴行ヲ為スニ当り上官之ヲ制止シ其命二従ハサル者 ハニ月以上四年以下ノ軽禁鋼二処シ将校ハ剥官ヲ付加ス」(第73条)と,上官の暴行制止命令を設け,第三 章(檀権)においては,①「司令官命令ヲ奉セス檀二同盟国若クハヰ立国其他外国ノ軍民ヲ攻撃スル者ハ死 刑二処ス其予備二止マル者ハー等若クハニ等ヲ減ス若シ其議二参シ共二之ヲ犯ス者ハ各二等ヲ減ス」(第75 条)とか,「司令官命令二背キ若クハ当然ノ理アルニ非スシテ檀二兵隊ヲ進退スル者ハ死刑二処ス」(第76 条)と,司令官の窓意的な戦闘や民間人等に対する攻撃開始(予備を含む)及び軍隊進退を死刑等に処する ことにし,②「要塞司令官若クハ要塞特命司令官其尽ス可キ所ヲ尽サスシテ敵二降り若クハ所轄ノ地ヲ敵二 付スル者ハ死刑二処ス 壁砦ノ地二於テ其司令官之ヲ犯ス者亦同シ」(第78条)と,要塞司令官等の生命を かけて遂行すべき職任の重要性を起草した.特に第78条(陸軍刑法第72条)に関しては,井上著は,要塞は 軍隊安危にかかわるだけでなく,大は「国ノ存亡」に関連し,小は「一府一市ノ安危」につながるものであ り,司令官たる者は「畢世ノカ」を尽くして防御する重要な職住があると説明した.しかし,要塞は「守 地」であって進退自由にならないが故に,「程尽キ使折レ兵疲レ救絶スルノ日二至り軍ヲ挙ケテ死二就カシ ムルハ亦忍ヒサル所是ヲ以テ所謂尽ス可キ所ヲ尽シ礼ヲ以テ敵二降ルハ敢テ軍隊ノ名誉ヲ辱シムルト為ササ ルヲ以テ其罪ヲ間ハサルナリ」(巻三,26−27丁)と述べ,その「尽ス可キ所」を尽くすか否かは死刑と無 罪の判定が分かれるところなので,慎重に対処しなければならないと指摘した.第78条(陸軍刑法第72条) に村する井上著の説明においては,後年の太平洋戦争において美化された,敗北の濃厚・確定の戟闘・戦場 におけるいわゆる「玉砕」等は想定されていない. 第二篇第五章(暴行)においては,①「軍人妄リニ下級ノ軍人ヲ準打若クハ陵辱スル者ハニ月以上三年以 下ノ軽禁鍋二処ス」(第97条)と,下級者に対する暴行の罪を起草し,私的制裁を含む暴力行使を抑止し, ②「軍人質子軍使倖虜降人等ヲ殺ス者ハ死刑二処シ殴打創傷シテ廃篤疾二致ス者ハ軽懲役二処ス其傷軽キ者 ハー月以上三年以下ノ重禁鋼二処シ将校ハ剥官ヲ付加ス」(第101条)と,敵軍の倖虜等に対する殺傷の罪を 起草し,第七草(違令)においては「軍人戦時軍中若クハ合囲ノ地方二在テ急呼ノ号報アル時政ナク来会セ サル者ハニ月以上二年以下ノ軽禁錮二処シ将校ハ剥官ヲ付加ス」(第110条)と起草した.この第110条は陸 軍刑法第102条になったものであるが,井上著は,「戦時」に関する定義を加えている.すなわち,戟時と は,「内乱」にあっては「征討ノ命」が下った日以降であり,「外患」にあっては「宣戦ノ広告」があった日 以降であるとした(巻四,8丁).それ故,戦時とは,全国一般に及ぶものであって,臨戦合囲のように特 定地域を画して宣告されるものでないとされる.なお,戦時には臨戦もその中に含まれるので,戟時と称す る場合には臨戟を掲げないけれども,合図は平時であってもその広告をすることがあるので,本条・本法に 掲げたと説明した. (2)「陸軍律刑法草案」とフランス陸軍刑法の戦時罪刑重点化思想 井上義行は後述の元老院における陸軍刑法案(「陸軍刑法審査修正案」)の説明にあたり,同法案はフランス 陸軍律に基づいたこととドイツ・スイスの陸軍律を参照した;とを述べている.それゆえ,当時のフランス における軍事犯罪の扱いかたや陸軍刑法の特質(「陸軍律刑法草案」との対比)を若干述べておく. フランスの陸軍刑法はその都度制定され,統一した原則はなく,特に「皆戟乱ノ時二制定セシモノナルヲ 以テ治平ノ世こ至リテハ復夕其必要アルヲ見スト錐モ猶ホ其旧ヲ改メス」とされ,(11)戟時・出役時に制定 されたものが多かった、つまり,軍事犯とは,戟時・也役を基準にした犯罪であった.したがって,戦時・ 133 遠 藤 芳 信 出役における犯罪を裁く治罪手続き規定が優先し,コンセイエ・ド・ゲル(Conseilde guerre,邦訳では 「軍法会議」)という威嚇的な名称を持った特別な陸軍裁判所が設置され,軍事犯とはこの陸軍裁判所におい て審判する犯罪を意味することになった.この場合,陸軍裁判所の管轄は,①人については,現に軍隊に属 し,軍旗の下に立つと否とを区別せず,軍務に服し,軍職にあるすべての軍人軍属を対象にし,②犯罪の性 格については,その普通のものと特別なものを区別せず,「軍人又ハ軍人二准セラル者軍隊二在テ犯シ又ハ 場所ノ如何二拘ハラス軍紀二服スル時間二於テ犯シタル罪」(12)を対象にしたとされる.つまり,戦時・出 役や命令服従関係を基本にした軍務・軍職従事の時間中に犯した犯罪一一切(普通犯罪を含む)を管轄するの が陸軍裁判所・軍法会議であり,フランス陸軍刑法は戟時罪刑を重点的に処置する思想を含んでいた. 以上のフランスにおける軍事犯罪の扱い方の起源・思想は,陸軍刑法起草に際して井上義行らが根拠にし たと考えられる『仏朗西陸軍律』の目次にもあらわれている(注㈹参照).すなわち,同書の主要目次は, 第一†一巻が「陸軍裁判所設置条例」(軍管内の常設軍法会議,軍中や合園地の自治体・要塞内の軍法会議など の設置,第1−52条),第二巻が「陸軍裁判所ノ権阻」(軍法会議等の権限,第53−82条),第三巻が「陸軍 裁判所ノ治罪条例」(軍法会議等の治罪手続き,第83−184条),第四巻が「重罪軽罪及刑」(第185w277 条),付録(陸軍律第70条の付録,陸軍律第233条の付録,陸軍律第270条の付録)から構成されているよう に,陸軍裁判所・軍法会議等の設置・権限・治罪手続きの規定を先行させた編集になっている.この中で, 第四巻が軍事犯罪を規定した陸軍刑法に相当するものであるが,その内容は,「第一篇 刑及刑ノ効, 第 二篇 重罪軽罪及其刑(第一章 謀叛内通,第二章 軍人本分こ対シタル重罪軽罪,第三章 徒党抗命暴 行,第四章 檀権,第玉章 違期及逃亡,第六章 軍用ノ器具ヲ販売窺私シ若クハ典売隠匿スル罪,第七章 盗,第八草 掠奪毀損破壊,第九章 陸軍会計上ノ詐偽,第十章 陸軍勤務戎ハ会計事務上二於テノ収賄 涜職不忠ノ罪,第十¶−==−〉い章 制服徽章賞牌従軍牌ノ僧用),第三篇 通則」である. さて,上記の『仏朗西陸軍律』の第四巻第一篇において規定された刑名等は,重罪に対しては「死 {無期 ノ徒 流 有期ノ徒 囚獄 徒刑場内使役 追放 兵権剥奪」とされている(第185条).また,軽罪に対す る刑は「奪官 戒投 票鋼 罰金」であった.この中で,兵権剥奪は付加刑(副刑)としてもあてられるも のである.この兵権剥奪(第190条)の内容は,①官記・徽章を装し,制服を着する権利の剥奪,②今後武 員に列することができないこと,普通刑法第28条・第34条掲載の権利の剥奪,③勲章をつける権利や前年の 功労により恩給・褒賞を受ける権利の剥奪,とされるように,その「兵権」の内容は軍人に限られた特権を 基本にしたものである.価 ただし,この兵権剥奪等は,およそ,法律条文として規定するにはふさわしく ない剥奪儀式をともなって「宣告」された.その兵権剥奪儀式は」F▲記のように実施される. 「第百九十条 本別卜副刑トヲ論セス兵権剥奪ノ刑二処スヘキ者ハ兵隊整列ノ前二於テ司令官裁決書ヲ 宣読スルノ後高声ニテ左ノ如ク宣言ス 某氏 某名 汝軍器ヲ帯スルノ任こ当ラス故二勅命ヲ奉シ兵権ヲ剥奪ス 右宣言シ畢レハ即犯人ノ装飾スル陸軍ノ徽章及勲章ヲ剥奪ス 若シ該犯将校ナルトキハ其面前二於テ侃剣ヲ砕キ地二投ス」 兵権剥奪は,いわば,見せしめ的な剥奪儀式をともない,軍人の特権的な表徴物等の剥奪を目的にするも のであった.軽罪の刑としての戒役も「戒役ノ刑二当スル者ハ制定ノ服ヲ被ラシメ兵隊整列ノ前二於テ裁決 書ヲ宣読ス畢レハ即役二就カシム】j(第193条)と就役儀式が規定された.しかし,井上義行らは「陸軍律刑 法草案」を起草するにあたって,以上のフランスの兵権剥奪(の儀式)をそのまま採用しなかったが,「剥 奪兵権」を拡張し,第26条のように一般国民としての公権の剥奪(刑法第31条の剥奪公権に規定)も含め た.その理由は,おそらく,フランスの兵権剥奪(武官としての特権剥奪・名誉等の喪失)は将校中心とみ ユ34 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 なされ,無権利的な賦役として徴集された日本の一般兵員にとっては効果がないと認識されたことによる・ っまり,日本の陸軍刑法は一般兵員を重点対象者にした上で,その一般国民としての公権の剥奪の部分を増 加・規定することによって,平時においても威圧的に一般兵員を戒めようとしたのである.そして,後述す る1882年3月の「読法」(仝7条,入営時の新兵に読み聞かせる法則)の第7条に陸軍刑法云々の文言が規 定されたことも,「陸軍律刑法草案」における公権剥奪規定の増加の思想に対応していると考えられる. その他,『仏朗西陸軍律』は,①外国人がフランス軍隊に服役することを前提にして,「他邦人法国ノ軍役 二従フ者」に村しても,「謀叛内通」罪における兵権剥奪と死刑の刑をあてはめているが(第204条),これ は,「陸軍律刑法草案」第7条に相当するものであり,②「授権」において,「各司令官命令ヲ奉セス戎ハ允 許ヲ受ケスシテ兵ヲ用ヒ同盟国若シクハ中立国ノ兵隊戎ハ其国民ヲ襲撃シ若クハ襲撃セシムル者ハ死二処 ス」(第226条)と規定しているが,これは同盟国・中立国等の軍民に対する攻撃の犯罪を規定した「陸軍律 刑法草案」第75条に相当するものであり,③「檀権」において,「各司令官講和解兵休職ノ令ヲ受ルノ後猶 仇敵ノ所行ヲ止メサル者ハ死二処ス」(第227条)と規定しているが,これは敵軍の軍使倖虜降人等に村する 殺傷の罪を規定した「陸軍律刑法草案」第101条に相当するものであり,④「檀権」において,「軍人自己戎 ハ他人ヲ保護シ若クハ逃走ノ兵ヲ阻摸シ若クハ掠奪暴行ヲ利通スル為メ巳ムヲ得サル時ノ外下級ノ軍人ヲ殴 打スル者ハニ月ヨリ少カラス五年ヨリ多カラサル禁錮二処ス」(第229条)と規定しているが,これは下級者 に村する「暴行」罪を規定した「陸軍律刑法草案」第97条に相当するものであった.しかし,後述のよう に,「陸軍刑法審査修正案」においてはいずれも削除された. (3)陸軍刑法草案審査局の設置と「陸軍刑法審査修正案」の成立 陸軍省上申の「陸軍律刑法草案」は太政官の法制部で審査された.法制部は4月1日の閣議において,陸 軍省上申の「陸軍律刑法草案」を「陸軍刑法草案」とし,刑法草案の審査と同様に審査局を設置し,新たに 総裁と委員を任命して審査に付されることの決裁を仰ぐという意見(軍事部と合意)を提出した.同閣議は 法制部の意見を了承し,5月5日に陸軍刑法審査総裁として細川潤次郎(元老院幹事)が任命され,同審査 委貞としては,玉乃世履(司法大輔兼元老院議官)・河瀬真孝(元老院議官)・津田出(陸軍少将兼議官) ・鶴由暗(検事兼元老院議官)・名村泰蔵(司法少書記官兼太政官少書記官)・昌谷千里(判事)及び陸軍 砲兵大佐原田一道・陸軍歩兵少佐葛岡信綱(兼陸軍裁判所評事)・陸軍歩兵大尉岡本隆憲・陸軍砲兵大尉岩 下長十郎が任命された.後に上記の井上義行も審査委員に任命された. 陸軍刑法草案審査総裁の細川潤次郎は8月17日に「陸軍律刑法草案」に修正を加えた「陸軍刑法審査修正 案」(仝127条)を太政大臣に上申した.「陸軍刑法審査修正案」の特徴は下記の通りである.(14) 第一に修正・増加等は,まず,①章構成において,第二篇第九章の「私売」(官給物品の私売や私消な ど)が削除されるなど(刑法に委ねる),軍事犯と常事犯との区別を明確にし,第六章には「侮辱」を新設 し,②第一篇第一章(法例)において,第2条が削除され(蛇足のため),③「軍属卜称スルハ陸軍出仕ノ 文官其他総テ宣誓若クハ読法ノ式二由り陸軍二従事スル者ヲ謂フ」(第4条)と,軍属の定義を新設し,④ 第二章の「刑例」において,付加刑の「剥奪兵権」を「剥奪公権」に,「停止兵権」を「停止公権」に各々 修正し(第18条),⑤死刑執行においては「軍中若クハ合囲ノ地二於テ特権ヲ有スル者アル時ハ其命令ヲ以 テ之ヲ行フコトヲ得」(第20条)と増設し,非常時における特命司令官の変則的な死刑執行の命令を加え, ⑥重罪の処刑者の処分として,「重罪ノ刑二処スル者ハ別二宣告ヲ用ヒス終身公権ヲ剥奪ス」(第29条)と修 正し,⑦「下士諸卒ハ此刑法及ヒ普通刑法ノ軽罪ヲ犯シ監視二付シ若クハ主刑ヲ免シテ止夕監視二付ス可キ 時卜雄モ監視二付セス」(第34条)と,下士諸卒に対する監視の不適用を新設した. この新設は徴兵制等においてきわめて注目される思想を含むものである.たとえば,井上義行著(巻二,19 −20丁)は,下士諸卒は年限の定められた一般服役の期限まで兵役義務を尽くすことと,刑法第34条の監視 135 遠 藤 芳 信 に付された者に対する公権停止の規定を適用しないことを前提にした上で,「兵役ハ則チ公権ノーー部公権ヲ 行フコトヲ停止スレハ則チ役限内ノ者卜雄モ役ヲ執り事二従フコト能ハス」として,公権停止即兵役義務未 了効果発生の矛盾的な関係を説明した.そして,兵役義務は刑期中においても「血税」としてその義務を負 わせることが重要であって,監視は何の効果(再犯予防など)も発生させないことを強調した.すなわち, 「軍隊二於テハ起居時アリ出入制アリ規律厳粛以テ之ヲ検束シ其レヲシテ天賦ノ自由ヲ伸暢スルヲ得サラシ ム常人監視ノ法決シテ軍隊ヲ検束スルノ厳ナルニ至ラス故二下士卒二在テハ縦令監視ヲ付セサルモ再犯ヲ予 防スルニ於テ監視二勝ルト云フモ可ナリ」と,規律厳正な兵営生活においてすでに「天賦ノ自由」が束縛さ れていること自体が監視以上の有効な再犯防止の効果を生み出していると説明したのである.井上の説明 は,下士卒の兵役義務を将校の服役と明確に区別するものであり,特に下士の服役を一般兵員の服役の延長 として位置づけるものであった.ただし,そうした服役中の兵営生活における自由束縛の意味を,井上が特 に自然法的な「天賦」の「自由」の束縛として表記・説明したことは,1882年1月4日発布の軍人勅諭にお ける天皇と軍人との全人格的隷属関係(天皇が「頭首」であり,軍人は「股肱」)の規定にもとづく軍紀維持 や服従強化のための兵営生活の管理の説明とは性格を異にする。軍人勅諭や明治憲法においては,国民・軍 人の自然法的な「天賦」の自由は想定されていない.そういう点では,第34条に関する井上義行の説明は, 上述の1872年「読法律条附」(仝8条)を改正した1882年3月9日陸軍省達乙第16号の「読法」(仝7条)に おける「天賦ノ公権」「対等ノ権利」(第7条)という文言表記に対応していると考えられる.(15) 次に,①第二篇第一章(反乱)においては「軍人党ヲ結ヒ檀二兵器ヲ執り反乱ヲ為ス者首魁教唆者及ヒ群 集ノ指揮ヲ為シ若クハ枢要ノ職務二従事スル者ハ死刑二処ス」云々(第51条)と反乱罪を簡潔に規定し,刑 法の内乱罪のような内乱の三目的を掲げず,反乱の目的を問わない(争わない)ようにし,②新設された第 六章の「侮辱」として,「軍人文書図画ヲ流布シ若クハ多衆ヲ会シ演説ヲ為シテ上官ヲ誹毀スル者ハニ月以 上二年以下ノ軽禁錮二処ス」(第95条)と,文書図画配布や集会演説等による上官誹毀者に対する軽禁錮の 刑を設けた.第95条は自由民権運動の影響を軍隊内に及ばないようにするものであった. 第二に,「陸軍律刑法草案」起草の条項で削除された重要なものには,まず,第二篇第三章(授権)の第 75条(「司令官命令ヲ奉セス撞こ同盟国若クハ中立国其他外国ノ軍民ヲ攻撃スル者ハ死刑二処ス其予備二止マ ル者ハーーー【一一等若クハニ等ヲ減ス若シ其議二参シ共二之ヲ犯ス者ハ各二等ヲ減ス」)がある.第75条の「攻撃」の 意味ほ他条項における「戦闘」とは異なり,戦闘態勢・戦闘意思を持たない他国の軍隊と民間人を一方的に 武力行使することである.したがって,第75条削除によって,そうした他国の民間人等に対する司令官の (窓意的な)攻撃(命令)を犯罪とみなさない陸軍刑法構造や戦闘思想を潜在化させることになる.次に, 第二篇第五章(暴行)の第97条(「軍人妄リニ下級ノ軍人ヲ殴打若クハ陵辱スル者ハニ月以上三年以下ノ軽禁 錮二処ス」)と,第101条(「軍人質子軍使倖虜降人等ヲ殺ス者ハ死刑二処シ殴打創傷シテ廃篤疾二致ス者ハ軽 懲役二処ス其傷軽キ者ハー月以上三年以下ノ重禁錮二処シ将校ハ剥官ヲ付加ス」)の削除がある. 条は「下級ノ軍人」に対する殴打・陵辱による私的制裁(リンチ)の犯罪化を規定したものであるが,第97 条が削除されたことは,兵営生活における私的制裁容認の構造や支配服従思想を温存させることになっ た.(ユ6) 後者の第101条は悍虜・降伏者等に村する殺傷罪を規定したものであるが,その削除は第75条削除 と同様に,戦闘態勢・戦闘意思を持たない停虜・降伏者等に対する殺害等を犯罪とみなさない陸軍刑法構造 や戦闘思想を潜在化させることになった. (4)元老院における「陸軍刑法草案」の議定 「陸軍刑法審査修正案」は太政官法制部の審査と参議の回議を経て,9月20日に上奏され,裁可された. その後,内閣から9月25日に元老院に下付され,9月27日に内閣委員として名村泰蔵(太政官権大書記官) と井上義行(太政官権小書記官)が任命された.元老院では,10月4日に第一読会が開かれ,内閣委員の井 136 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 上義行が同案の大旨を説明し,特に,「仏朗西陸軍律二拠り参スルニ独逸瑞西ノ軍律ヲ以テシ」と述べ,軍 事犯と常事犯との区別を明確にし,「軍隊ヲ保護シ軍紀ヲ維持スル」ことを重視した,と強調した.(17) 元老院の第一読会では付託委員5名が選出され,10月14日に第一読会の続会が開かれた.そこでは,付託 委員から修正された修正按(内閣下付議案に村してわずかな字句の修正にとどまったとされている)が元老 院議定の本按になった.しかし,その後,12月16日の第二読会において,海軍律刑法審査委貞に任命されて いた鶴田暗議官から,海軍刑法との権衡を失わないようにするために上記修正按に対してさらに修正・削除 を必要とするものがあるとして,あらためて付託委員を選出して再修正をすべき旨の建議が提出され,新た に陸軍海軍の両刑法審査委貞も加わった付託委員5名が選出された. ところで,鶴田暗議官が提出した建議であるが,海軍律刑法審査局(1880年10月14日に元老院幹事細川潤 二郎が海軍律刑法審査総裁に任命され,ほかに河瀬真孝他9名が同審査委員に任命される)は,10月22日付 をもって,太政官に対して,陸軍・海軍の両刑法起案における国事犯の規定関係等(反乱の罪に含めるか否 か)に関する伺いを上申し,いずれの起案の主義に帰着すべきかの指令を求めていた.(18)同上申書には 「陸軍刑法起案ノ意見書」と「海軍律刑法起案ノ意見書」の2通が添付されている. まず,前者の「陸軍刑法起案ノ意見書」は,①「陸軍刑法審査修正案」第54条以下の数条(たとえば,第 別条は「軍人敵ヲ利スル為メ部下ノ兵隊若クハ軍事二関スル土地家屋船舶及ヒ兵器弾薬其他軍需ノ物品ヲ敵 二付スル者ハ死刑二処ス」)の精神は,概して普通刑法の国事犯の性格・範囲を出ないが,これを普通刑法に ゆだねる場合には,その刑は「軍紀ヲ維持シ軍隊ヲ保護スルニ足ラス且均ク害ヲ軍隊二来スノ犯罪ニシテ常 律二間スル者ハ其刑軽ク軍律二間スル者ハ其刑重ク軽重例置罪刑当ヲ失フニ至ル」とした.ここでの国事犯 とは「外患罪」であり,たとえば,「陸軍刑法審査修正案」第別条に似たものとして,普通刑法第130条は 「交戦中敵兵ヲ誘導シテ本国管内ニ.入ラシメ若クハ本国及ヒ同盟国ノ都府城塞又ハ兵器弾薬船艦其他軍事二 関スル土地家屋物件ヲ敵国二交付シタル者ハ死刑二処ス」と規定されていた.これに対して,同意見書は, 第54条以下の数条は,その精神の如何を問わず,その所業自体をもって軍事犯となし,軍律(陸軍刑法)の 反乱の罪の中に規定したと強調した.②軍属や陸軍諸生徒を軍人と同一視したのは,現在の陸軍の制度にも とづくからであるとした(同一の勤務に従事することなど).そして,「読法」宣誓の式によって誓約し陸軍 に従事する者を「軍律ノ治下」にあらしめることは,現在の制度においては当然であるとした. 次に,後者の「海軍律刑法起案ノ意見書」は,①海軍刑法の起案に際して,普通刑法が国事犯と常事犯を 大別して規定しているが故に,そうした普通刑法の権限を侵してはならないこと,②軍人は国事犯をなしや すい(兵器の備具,軍隊の指揮,艦船の管掌によって)と想像したとしても,その想像のみ一によって,海軍 刑法に掲げて厳刑を期することは普通刑法の権限を侵し,常人の国事犯を「寛典」にし,軍人の国事犯を厳 刑にすることの差を法理において説明できないこと,③国事犯を軍事犯に混同して海軍刑法に編入する場合 には,まず,普通刑法第5条(「此刑法二正条ナクシテ他ノ法律規則二刑名アル者ハ各其法律規則二従フ」)を 改正しなければならないが,国事犯をなす者が常人であっても軍事の妨害となすべき性質の罪として仮認す る時には,海軍刑法によって処罰しなければならず,その結果,普通刑法に国事犯を掲載する理由がなく なってしまうこと,④海軍において「軍事二服従スル」ということは,艦船や屯営所属の諸員として現にそ の軍務に服役従事する者を意味し,海軍省の事務を担任する諸局員はたとえ海軍の将校下士卒であったとし ても,軍事に服従する者ということはできない,と主張した. 以上の海軍刑法審査局の上申書に対して,太政官法制部は軍事部と合議をしたうえで,10月30日に,すで に陸軍刑法審査修正案は反乱の罪の中に国事犯を含め,陸軍に附属する者として非職将疲以下生徒吏卒その 他文官に至るまですべてに軍律を適用することを審走し,同案は元老院の議定に付されているので,海軍刑 法は陸軍刑法審査修正案の主義にもとづいて審定すべきことを太政官に審査・報合した.この結果,11月1 137 遠 藤 芳 信 日の閣議においては,法制部の審査・報告通りに決定された. その後,元老院では翌1881年3月18日に第二読会の続会が開かれ,前年12月16日選出の付託委員が調査・ 提出した再修正案(全124条)が議案として取り上げられ,主に反乱や授権・違令・暴行等の条項に対する 質問等がなされたが,tそのまま決議された.そして,元老院議長大木喬任から同日に太政大臣に対して,勅 裁を仰ぐために上奏してほしいことが報告された.太政官法制部は,元老院議定の陸軍刑法を,第102条中 の字句(「令官」)の削除の他はそのまま布告して不都合はないと審査し,布告接(施行期日は後日布告)とし て,4月21日の閣議に供された.同日の閣議は同布告技を上奏することを決定し,7月15日に上奏され,裁 可された. (5)陸軍刑法布告等と軍人の政治活動禁止条項の成立 刑法と治罪法は上記のように1882年1月1日より施行されることになった.これに村して,陸軍卿大山巌 は1881年7月27日付をもって太政大臣に,陸軍刑法を刑法と治罪法の施行期日に合わせて施行・頒布してほ しいことを上申した.(ユf})太政官法制部は陸軍卿上申を審査し,陸軍刑法を1882年1月1日より施行するこ とが9月5日の閣議に供された.その後,陸軍卿は,10月12日付で,「陸軍律刑法草案」第34条で起草した 陸軍法街での裁判費用は「徴セス」という条文(陸軍刑法第35条)は,常人の普通裁判所での刑事訴訟の裁 判費用負担(控訴・上告)と比べて権衡を失するので,削除したい旨を上申した.(20)さらに10月14日付 で,①下士と上等卒の犯罪で,将校の剥官の付加刑に該当する場合には宣告なしにその官職を失うことにす ること(「陸軍刑法審査修正案」第30条に増加.なお,同第47条における数罪倶発の犯罪に対しても宣告なし に官職を失うことを増加),②下士と上等卒が陸軍刑法・普通刑法・海軍刑法により禁錮に処されて官職を 失った場合においても,「兵役ヲ免セス」,失った官職は主刑終了日から6ケ月経過後行政処分によって旧に 復することができること(「陸軍刑法審査修正案」第33条を改正),とい,う修正案を上申した.この中で,① の理由は,「陸軍刑法審査修正案」第30条(「剥官ハ宣告シテ将校ノ官職ヲ複奪ス」と起案.「陸軍律刑法草 案」第29条に相当)は,本来,将校の剥官処分の手続きとして宣告を行うことによって「以テ公衆二示シ加 辱ノ ート為ス」ことにあるが,下士と上等卒(および軍属や他の官吏)は宣告によって「辱ヲ加へ之ヲ懲戒 スルヲ要セス」としたことにある(井上著巻二,12…13丁).これは,「陸軍律刑法草案」を起草した井上義 行らが『仏朗西陸軍律』第190条の兵権剥奪の儀式規定をそのまま取り入れなかったが,将校の犯罪者に対 する見せしめ的な制裁措置の必要の意義を十分に認識していたことを意味している.また,②が「兵役ヲ免 セス」としたのは,「陸軍刑法審査修正案」第34条(監視の不適用)の理由と同様に,下士と上等卒の禁錮 処分者に対して,双方を本来的に兵卒出身者と位置づけたうえで,各々の官職を失うが,残余の兵役期間を 一一般兵卒として服役させるためであった. 陸軍卿上申の陸軍刑法の第35条の削除と第30,33,47条の修正は参事院で審査され,11月25日付で参事院 議長伊藤博文は同削除・修正を適切なものとして太政大臣に報告した.そして,11月30日の閣議において陸 軍卿上申の陸軍刑法中削除・修正は参議の回議に供された.ところが,この閣議において,参議等から発議 がなされたものと推定されるが,違令罪中の第109条の次に付箋が施され,そこに第110条として「軍人政事 二関スル上書建白及ヒ講談論説ヲ為シ若シクハ文書ヲ以テ之ヲ広告スル者ハー月以上三年以下ノ軽禁錮こ処 ス」という条文が書き込まれた.r21)この第110条加設は軍人の政治関与の犯罪化を規定したものである が,同年9月12日の「四将軍上奏事件」にみられたような軍人の政治運動に対する禁圧を明確に意味するも のであった.以上の第110条加設を含む陸軍刑法中改正は12月12日に上奏され,裁可され,12月15日に太政 大臣から元老院の検視に付された.12月20日の元老院の検視においては,同第110条の趣旨を明確にするた めに,「軍人政治二関スル事項ヲ上書建白シ又ハ講談論説シ若シクハ文書ヲ以テ之ヲ広告スル者ハ」云々と 字句修正すべきとされ(柴原和らが発言),元老院議長から太政大臣に同字句修正の意見が通牒された.12 138 1881年陸軍刑法の成立に関する軍制史的考察 月21日の閣議は,元老院議長に対して,元老院の意見の通りに同第110条の字句修正を回答することに決定 した.そして,12月22日に元老院議長は,陸軍刑法中改正の検視終了と奉還を上奏してほしいと太政大臣に 上申した.太政大臣と左右両大臣は12月27日に元老院の検視終了と奉還の裁可を仰ぎ,陸軍刑法は翌28日に 太政官布告第69号として布告され,翌1882年1月1日から施行されることになった.海軍刑法も12月28日に 布告された(1882年1月1日施行). 1881年陸軍刑法第110条における軍人の政治(活動)関与の禁止規定は,同法布告直前の閣議において政 治的に書き込まれ,加設されたことはいうまでもない.同規定は違令罪中に加設された.「違令」とはすで に存在している法令・規則・命令に違反することであるが,そもそも,当時,一般に軍人の政治活動禁止の 法令・規則・命令は存在しなかった.つまり,本来的には第110条の規定を違令罪中に含めること自体が法 律条文構成技術上においても適切ではなかった.しかし,閣議において,軍人の政治(活動)関与の禁止を 陸軍刑法において措置すべきであるという議論が支持された結果,とにかく,強引に違令罪の中に加設され たとみるべきだろう.この結果,この第110条(海軍刑法第126条)規定の成立によって始めて,軍人の政治 (活動)関与禁止の「法令」自体が成立したことが意味される.同規定は1908年陸軍刑法においても,違令 罪の第103条(一部字句修正されたが)に引き続き規定された.1881年陸軍刑法第110条における軍人の政治 (活動)関与の禁止規定の成立は,同時期に発布準備が進められていた軍人勅諭の「忠節」の項目中の「世 論に惑はす政治に拘らす」という文言に連動するものであった.しかし,特に日露戟争後に,軍の高級官僚 集団が政治的勢力としての「軍部」として成長した後は,政治(活動)関与の禁止規定は,そうした軍部と それに連なる将校に村してはほとんど無効・無力に等しく,その禁止の重みは一般の下士・兵卒に向けられ たものであることはいうまでもない. (6)若干のまとめ 1881年陸軍刑法には,フランス陸軍刑法の戦時罪刑重点化思想に対して,平時に基準をおいた罪刑処置思 想が含められたことが重要な特質である.「読法」が読み聞かされるときに陸軍刑法が引用され,特に制定 ・布告直前に軍人の政治(活動)関与禁止条文が政治的に規定されたことなどは,この特質を具体的に意味 している.これは,天皇制軍隊の成立にあたり,平時における軍紀維持と教育・教化の厳格化に村応したも のであり,戦時・戦場・戦闘における罪刑を合理的・理性的に認識・判断する契機を疎くさせていった. (注) (1)穂積陳垂『法律進化論』第二冊,327,333頁,1924年.傍点を略した. (2)国立公文書館所蔵『太政類典』第二編第四巻兵制36軍律及行刑,第1件所収. (3)陸軍省は海陸軍刑律制定当時,軍における刑事裁判所としての礼間司(1869年に兵部省に置かれ,兵部省が陸軍省と海軍省に二分された 時には陸軍省所管になる)を廃止し,「軍法会議」の設置を調査していた.そして,軍法会議の体制が確立するまでに,礼間司において 「仮会議」を設け,軍隊の犯罪を処断するとした(1872年3月7日陸軍省第15号達).しかし,同年4月9日太政官布告第9号によって陸 軍裁判所が置かれ,軍法会議の名称は消えたが,同年5月23日の鎮台本分営罪犯処置条例によって,各隊に軍法会議が置かれた.山県有 朋の「参朝」「演舌」はこうした鎮台本分営の軍法会議における犯罪処置状況をふまえてなされたものだろう.なお,才出稿「1880年代にお ける陸軍司法制度の形成と軍法会議」『歴史学研究』第460号,1978年9月,青木書店,参照. (4)注(1)の169−176頁.1874年10月陸軍省達第371号の生兵概則には,新兵は「読法」は読み聞かされた後,誓文帖に署名・花押をすること の義務が規定された. (5)松下芳男『明治軍制史論』上巻,417頁,1956年,有斐閣. (6)国立公文書館所蔵『公文録』1873年7月陸軍省之部,第19件所収. 伊 (7)陸軍省「軍隊内務書改正理由書」『借行社記事』第387号付録,1頁,1909年1月.なお,陸軍省や司法省は,当時の陸軍兵が司法省警 保寮(1882年8月設置,東京府所轄の避卒は司法省所轄になる)所轄下の逓卒に対して「暴状」をはたらいていたことに苦悩していた.す なわち,警保寮は1873年3月に司法省に村して「陸軍兵避卒ヲ軽侮シ往々暴慢甚シキニ至ル途中二於テ註違等ノ罪ヲ犯シ邁卒之ヲ制止スレ 139 遠 藤 芳 信 ハ敢テ其制止ヲ用ヒサルノミナラス悪口嘲罵シ甚シキニ及テハ殴撃ヲ加フ」云々と述べ,そうした暴状件数は1872年11月から1873年3月初 旬にまで10余件発生し,本省を通して陸軍省に対して対策を申し入れた結果,その取り締まりの回答書が届いたけれども,陸軍兵の暴状 はなくならず,警察業務に支障を生じているとした.したがって,もはや陸軍省の取り締まり対策を待つことはできず,各遺草や屯所番 人詰所に兵器を備え,帯剣させて非常の偶に供し,鎮静あるいは討果するしかないとして,本省の判断・指揮を仰ぐと申し立てた.これ を受けて,司法卿江藤新平と司法大輔福岡孝弟は正院に対して同年3月20日付をもって,警保寮の申し立て書を添付して,軍人の暴状を 禁断し,遊卒と並立して衆庶が安堵できるようにするために,その指揮を仰ぎたいと上申した.これに対して,正院は4月8日付をもっ て,陸軍省においては軍人の暴状を今後強固に取り締まるとしているので,警保寮の申し立て書と上申書を返却すると回答した(注(6)の 『公文録』1873年4月司法省伺,第8件所収). (8j 注(6)の『公文録』1873年4月司法省何,第10件所収.なお,大警視川路利良は1875年4月に太政官に軍人の犯罪は出征行軍のほかは新 律綱領に照らして常律によって処断することを上申した.これに対して,太政官は同上申をU」県有朋陸軍卿に ̄F問したが,陸軍省の回答 は不明である(防衛研究所図書館所蔵<陸軍省大日記>中『明治八年従五月至七月 太政官』第54号所収). (9)注(6)の『公文録』1881年12月昇一陸軍省,第1件所収.1881年陸軍刑法の起草・起案等に関与した諸官員等の任免・経歴関係等は,霞信 彦『明治初期刑事法の基礎的研究』225榊334頁,1990年,慶応義塾大学法学研究会,に詳しい, (1碩 『法朗西陸軍律』79丁,1876年,陸軍文庫. 摘12舶)ショウポ・アドルフ,フォースタン・エリー著『仏国刑法大全』第一幌上巻,74,101,194頁■,1886年,亀山貞義他訳,司法省蔵 版・フランス刑法第28,34条に列記された権利は,兵器携帯の権利などである.フランスでは1790年4月の法律によって,兵器携帯はす べての人民の権利として認められた。 如)注(9)の『公文録』所収. 個1882年「読法_】は,「誠心ヲ本トシ忠節ヲ尽シ」云々等の7条にわたる徳目を掲載した後,その末尾において「以上掲ル所ノ外法律規則 こ違犯シ罪ヲ国家二得ルニ至テハ父祖ヲ辱シメ家声ヲ汚シ醜ヲ後世二道ス独り其身現在ノ恥辱ノミナラサルナリ況ンヤ重罪ノ如キハ各人天 賦ノ公権ヲモ剥奪セラレ世二立チ人二接ルモ対等ノ権利ヲ得サルこ至ルニ於テヲヤ名誉ヲ尚トヒ廉恥ヲ重ンスルノ軍人二在テハ殊こ戒憤ヲ 加ヘサルへカラス就中陸軍刑法ハ軍隊ノ害ヲ為ス者ヲ懲ス為メニ特こ設ケラルルモノタルヲ以テ其刑亦頗ル厳ナリ」云々と記述し,重罪や 陸軍刑法を犯さないことを憫喝的に規定した.ポアソナアド(司法省等の法律顧問)によれば,日本の1880年刑法第31条規走の「剥奪公 胤lの「公権」とは,droit civic(ドルワ スイヴイク)であり,「独り国民ノミ特有」の権利とされ,「民権」(droit civilドルワ スイ ヴイル,外国人にも属する)と混活してはならないとされる(『ボアソナード氏 刑法草案註釈』上巻,218¶219頁,森順正訳,1886年, 司法省)・したがって,同刑法直後に起案された陸軍刑法第18条の「剥奪公権」や1882年「読法」の「天賦ノ公権」における「公権」は, 当該国の国民の特権の意味である.なお,戦後,あらためて,1882年「読法」の特に「天賦ノ公権」「対等ノ権利」等の文言に注目し て,同「読法」が「自由民権者寄り」の思想を混入させていることを指摘したのは,城丸章夫である(城丸章夫著作集編集委員会編『城丸 章夫著作集』第10巻,55頁,1992年,青木書店. 初出は1975年).その後,1882年「読法」が1934年に廃止されるまで,軍人勅諭と同 「説法」を対比させる議論等が軍隊内部にくすぶっていた(拙著『近代日本軍隊教育史研究』254−258頁,1994年,青木書店). (i6)軍隊と陸軍刑法等における私的制裁については,注(15)の拙著203−204頁参照. (17)『元老院会議筆記』前期第9巻,651頁,1965年,元老院会議筆記刊行会発行. (1由 江(2)の『太政類典』第4編第36巻兵制軍律及行刑二,第4件所収. (1‡姫胱Z方 柱(9)の『公文録』所収. (函館校 教授) 140
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