梁塵 秘 抄 選 釈 ( 第 五回) 巻 第 二 四句 神 歌 神 分 編 (五 ) 植木 朝子 松 石 江 梨香 永池健 二 西 川学 田中 寛 子 藤井隆輔 え て 行 き た いと 望 ん で いる 。 今 回 も ま た 、 先 学 諸 兄姉 の厳 し い御 批 広 く 批 判 と 教 示 を 受 け て更 に そ の注 釈 の 厳 正 さ と 進 展 と に 改 訂 を加 原 本 の影 印 は 、 今 回 も ﹃天 理 図 書 善 本 叢 書 16古 楽 書 遺 珠 ﹄ か ら 転 はじ め に 梁 塵 秘 抄 巻 第 二、 四句 神 歌 神 分 編 の選 釈 第 五 回 を お 届 け す る 。 今 八木 書 店 に 厚 く 御 礼 を申 し 上げ た い。 載 さ せ て い た だ いた 。原 本ご 所 蔵 の天 理大 学 附 属 図 書 館 及び 版 元 の 正 と御 教 示 と を 広 く お 願 い す る も の で あ る 。 回 掲 載 し た のは 、 二五 四 、 二五 七 、 二六 四、 二六 六 、 二 七 四 の五 首 (凡例 ) ( 永 池 健 二) で 、 執 筆 を 担 当 し た のは 植 木 朝 子 、 田 中 寛 子 、 西 川 学 、 松 石 江 梨 一、 本 編 は 、 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ 巻 二、 四句 神 歌 の 今 様 に つ い て 、 歌 ご と に 注 釈 を 試 み るも の で あ る 。 第 五 回は 神 分 編 の五 首 を と り あ げ の メ ンバ ー も 少 し ず つで は あ る が 、 注 釈 作 業 の技 術 や 歌 の解 釈 に 習 る。 香 、 藤 井 隆 輔 の五 氏 で あ る 。 連 載 開 始 か ら 五 年 目 を 迎 え 、 注釈 担 当 練 の度 を 加 え てき た よ う に 思 う 。 し か し 、 一方 で 、 成 果 が は っき り ( 竹 柏 園 旧 蔵 ) ﹃梁 塵 館 善 本 叢 書 16 和 書 之 部 古 楽 書 遺 珠 ﹄ ( 昭 和 四十 九 年 、 八木 書 店 秘 抄 ﹄ 巻 二 を 底 本 と す る。 各歌 の は じ め に、 底 本 を ﹃天 理 図 書 二、 詞 章 本 文 は 、 天 理 大 学 附 属 天 理 図 書 館 蔵 と みら れ た 歌 か ら 先 に選 釈 と い う 形 で取 り上 げ てき た た め に 、 次 第 に 新 た な 成 果 を 打 ち 出 す の が 難 し い歌 が 後 に残 っ て、 そ の 分 注 釈 の 刊 )よ り転 載 し 、そ の後 に 、底 本 の翻 刻 と 校 訂 本 文 と を 掲 げ た 。 作 業 の難 し さ も 逆 の面 で際 立 って き た 。 今 回 の 注釈 で 取 り 上 げ た 歌 が前回より数が少なく、 また、なお問題を後 に残した歌が見 られる 三 、 底 本 の各 歌 に は 、 朱 で頭 に ﹁ ○ ﹂ 印 が 付 さ れ 、 歌 の途 中 に こ れ の も 、 そ う し た 困 難 さ を 反映 し た も の であ る。 本 誌 上 に お け るす べ て の注 釈 は 、 あ く ま で 過 渡 的 な 作 業 の 成 果 の中 間 的 な 発 表 であ り 、 一 ︻ 43 も朱 で ﹁ 、﹂ が 加 え ら れ て い る 。 歌 詞 の傍 ら に は 漢 字 や 平仮 名 に よ る 読 み仮 名 、 傍 点 が 付 さ れ て い る も の も あ る 。 そ れ ら も で き る 限 り 忠 実 に 表 記 し た。 表 記 し た 。 誤 字 、 脱 字 、 術字 と 考 え ら れ る 箇 所 に つ い ては 訂 正 四、 校 訂 本 文 は 、 底 本 を ふ ま え て 各 担 当 者 の解 釈 を 反 映 し た も の を し 、 適 宜 漢 字 を 当 て て読 み仮 名 を 付 し た 。 異 体 字 は 通 行 字 体 に 改 め た 。 ま た 、 歌 の区 切 れ と 考 え ら れ る部 分 に 一字 分 空 白 を 入 梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌 れ た 。 諸 説 が あ る も のに つい て は ︻ 校訂︼ でその旨を記した 。 謡 ﹄ の歌 番 号 に拠 った 。 五、 歌番 号は、 ﹃ 新 日本古典文学 大系 六 、 校 訂 本 文 の 後 に 、 校 訂 、 類 歌 ・関 連 歌 謡 、 諸 説 、 語 釈 、 考 察 を 記 し た 。諸 説 は 、 先 学 の注 釈 の う ち 、 特 に 歌 の解 釈 に 関 わ るも の に つ い て諸 説 を整 理 し て記 した 。 明治書院) ( 大 正 十 二年 七 、 参 考 に し た 先 行 の 注釈 は 以 下 の通 り で あ る。 本 文 中 に は 番 号 も しくは略称 を用いて記した。 ( 1) 佐 佐 木 信 綱 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄ ( 大 正 一年 同 増 訂 版 ) (昭 和 七 年 同 改 訂 版 ) ← 佐 佐 木 注 巻 岩波文庫) ←岩波文庫 春秋社)←歌 謡集成 中古編﹄ ﹁ 第 十 一梁 塵 秘 抄 ( 2) 佐 佐 木 信 綱 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄ ( 昭和 八年 第 二﹂ (昭和 四年 ( 3) 高 野 辰 之 ﹃日本 歌 謡 集 成 巻 二 朝 日新 三省堂)← 小西考 梁 塵 秘抄 ﹄ ( 昭 和 二十 八 年 ( 4) 小 西 甚 一 ﹃ 梁 塵 秘抄 考 ﹄ ( 昭和十 六年 ( 5) 小 西 甚 一 ﹃日本 古 典 全 書 聞社)←古典 全書 ( 6) (7) (8) 日本古典全 甲陽書房)← 荒井 歌謡集上﹄( 昭和 九年 荒井 源司 ﹃梁塵秘抄評釈﹄(昭和三十 四年 評釈 集刊行会)←古典全集 志 田延義 ﹃日本古典全集 岩波書店)←大系 志 田延義 ﹃梁塵秘抄 評解 ﹄ ( 昭和 二十九年 有精堂)← 評解 志 田延義 ﹃日本古 典文学大系 和漢 朗詠集 梁塵 秘抄﹄ (昭和 四十 年 (9) 小林 芳規 ・神作光 一・王朝 文学 研究会 ﹃梁塵 秘抄総索引﹄ ( 昭 梁塵秘抄﹄ ( 昭和 四十 七年 (10 ) 和 四十 七年 武蔵野書院) ﹃ 校注 武蔵 野書院)←総索引 催馬楽 梁塵秘抄 歌 謡H﹄ ( 昭和 五 新間進 一 ﹁梁塵秘抄 ﹂﹃日本古 典鑑 賞講座M 日本 の歌謡﹄(昭 和 三十 四年 角川書店)←鑑賞講座 新間進 一 ﹁ 梁塵 秘抄﹂ ﹃ 鑑賞 日本古 典文学 (11 ) ( 12) 催馬楽 十 二年 角 川書 店)←歌謡新間進 一 ﹃日本古典文学全集 神楽 歌 梁塵 秘抄 ﹄( 昭和六 小学館)←新 全集 神楽 歌 ( 13) 閑吟集﹄ (昭和五十 一年 小学館)← 全集 新間進 一 外 村南都子 ﹃日本古典文 学全集 閑吟集﹄ ( 平成十 二年 新潮 万葉 ・歌 梁塵秘 梁塵秘抄 ﹄( 昭和五十四年 武石彰夫 ﹁ 梁塵 秘抄﹂ ﹃研究資料 日本古典文 学 5 謡﹄ ( 昭和 六十 年 明治書院)←研究 資料 浅野建 二 ﹁ 梁塵秘抄﹂﹃ 鑑賞 日本 の古典 今昔物語集 抄 閑吟集﹄ (昭和五十五年 尚学 図書)←浅 野注 榎克朗 ﹃新潮 日本古典集成 社)←榎集成 新間進 一 外村南都子 ﹃完訳日本 の古典 十三年 小学館 )←完訳 梁塵秘抄 ( 14) ( 15) ( 16) ( 17) ( 18) 一 一 4 4 ( 胆 ( 20) ( 21) ( 22) ( 23) ( 24) 閑吟 新典社)←全注釈 武 石彰 夫 小川寿子 ﹃ 新 日本古典文学大 系 梁塵 秘抄 集 狂言歌謡﹄ ( 平成 五年 岩波書店)←新大 系 上 田設夫 ﹃梁塵秘抄全注釈﹄ ( 平成十三年 みす 西郷信 綱 ﹃日本詩人選盟 梁塵 秘抄﹄ ( 昭和五十 一年 筑摩書 房) ( 平成 二年 ちくま文庫)( 平成十六年 ちくま学芸文庫) 塚本邦雄 ﹃君が愛せし鑑賞古典 歌謡﹄ (昭和 五十 二年 ← 西郷注 ず 書房)←塚本注 梁塵秘抄 ﹄ (昭和六十 一年 岩波書 渡辺昭五 ﹃ 梁塵 秘抄 の風俗 と文芸﹄ (昭和五十 四年 三弥井書 秦 恒平 ﹃NHKブ ック ス 梁塵 秘抄信仰 と愛欲 の歌 謡﹄ (日 本 放送出版協会 昭和 五十三年)←秦 注 店 )←渡辺注 露 ) 加藤周 一 ﹃ 古典 を読む 店 )←加藤注 二五 四歌 あ 乃 気め み・つ ∼ よ る 仁 ・ ∼ やあ φあ プ -に あ .デ け ∼デけ " 7ピ ケ Uわ ー).∵ ズー ζ ∼ ず ,や ひ え のぢ ぞ 町 ポ ・ ー ・ ー ︻翻 刻 ︼ ○ あ ふ み の み つう み にた つな み は 、 は な は さ け と も み も な ら す 、 え た さ }す 、 や ひ え のお や ま のに し う ら に こそ 、 や み つ の み あ り と き け 枝 ささず 水飲 ありと聞け 花は咲けども実 もならず や 何 ぞ の海 七 寳 蓮 華 の波 ぞ 立 つ ( 神分、 二五三) 天 台 薬 師 の池 ぞ か し 比叡 のお山 の西裏 にこそ ○ 近江 の湖に立 つ波は ︻校訂本 文︼ や ・近 江 の湖 は 海 な ら ず ︻類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ 常 楽 我 浄 の風 吹 け ば ︻諸 説 ︼ 近 江 の湖 諸 注、 琵 琶湖 の事 と す る。 花 は咲 け ど も 実 も な らず ここでの ﹁花﹂ は、 立 つ波 の白さ を 花 に讐 え た波 の花 とし (( 8)評 解、 ( £ 大系、⑯ 4 5 [ } 榎 集 成、 葱 全注 釈 )、 さ ら に、 ﹁波 頭を 白 木綿 (白 い幣 ) に見 立 てた 和 歌的 用法 か﹂と す るも のも ある (3 、⑭ 新 全集 、 ⑳ 完 訳)。また 、当該 今 様 を 前 歌 二五 三歌 の連 作、 或 いは 連 謡と 考 え 、 ﹁花 ﹂ を 七宝 蓮 華 の華 と 解 す る説 もあ る (3 小 西考 、 ε 古 典全 書 、 8 評 解 、 3 大 系 )。比 叡 のお 山 の 西 マへ 白木 近 江 の湖 は 琵 琶湖 の こと 。 琵 琶湖 に 立 つ波 を 浦 ﹁﹁ 比叡 のお山﹂とひい、﹁ 西裏﹂といひ、近江あたりの民衆 の言ひ方を 思はせる語であり、﹁ 水飲あり と こそ聞け ﹂といふ洒落も日吉社の神主や延 暦寺の僧 の言ひ方 ではない。皆 民謡を思はせ る明るい軽やかな表現 である﹂ ( ( 6)荒井評釈) 。﹁ 比叡の山に対する親しみ、明るい讃仰。山の仰轍﹂(( 坦 新大系)。﹁﹁ お山﹂にも民衆の平素 の口吻があらわれており、民謡的 発想が こめられ ている。 ( 中略)比叡のお山﹂﹁西裏﹂という ことば や、 ﹁ や﹂とい う嘩し詞の二度 の使用など、ひなびた謡いも のの色調が色濃く漂う謡とな っ ている﹂( ⑳ 全注釈) 。水飲 諸注、﹁ 水の実﹂をかけた洒落であ るとする。 ︻語 釈 ︼ 近 江 の 湖 に 立 つ波 は う た う例 は 、﹃万 葉 集 ﹄ に ﹁ 逢 坂 を 打 ち 出 で て み れば 近 江 の海 万法 空 寂 の 波立 ち て 綿 花 に波 立 ち 渡 る ﹂ ( 巻 十 三 、 三 二三 八) と 見 え る 。 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄ に 罪 障 氷 の解 け ぬ れ ば 五 色 の波 こ そ立 ち 騒 げ 華 蔵 や 世 界 の鐘 の声 十方仏土 に聞こ 真 如 の岸 に ぞ 寄 せ か く る ﹂ ( 巻 二、 般 若 経 、 五 二 )、 ﹁ 毘 喬 山 の麓 に は、﹁ 大 品 般 若 は 春 の水 は 吹 く風 ゆなり﹂( 雑 法 文歌 、 二 一 二〇 ) のよ う に 、 仏 教 的 な 概 念 を 波 に讐 え る 一つも 空 な る こ とそ な き 流れた る 薬 王 大 士 の前 お ん ば さ ら と そ 立 ち 渡 る ﹂ (四句 神 歌 、仏 歌 、 二 八 阿 褥 多 羅 と そ 流 れ 出つ る 妙 な る法 をぞ 唱 ふ な る ﹂ ( 極 楽 歌 、 一七 七 )、 ﹁ 観音 も のや 、 ﹁ 極 楽 浄 土 のめ でた さ は や 立 つ波 鳥 も み な 勢 至 の遣 水 は の池 の波 は 何ぞ の海 二) な ど 、 仏 教 世 界 に立 つ波 を う た う 例 が 見 ら れ る。 ま た、 当 該 今 天台 薬 師 の 池ぞ か し 七 寳 蓮 華 の波 ぞ 立 つ﹂ ( 神 分 、 二五 三) が 配 様 の前 に は 、 ﹁ 近 江 の湖 は 海 な らず 常 楽 我 浄 の 風吹 け ば 列 さ れ てお り、 こ の 今 様 の琵 琶 湖 は 薬 師 の池 に なぞ ら え て い ると も 考 え ら れ る。 花は咲 くけれども実 はならない。法文歌 に典 型 的 な 表 現 と 歌 謡 に 典 型 的 な 表 現 と を 想 起 さ せ る 。 花 は 咲 け ど も 実 も なら ず 今 様 の表 現 一 今 様 の享 受 と 再 生 ﹂ (一九 八 七 年 、 三弥 井 書 店 ) に 述 べら こ の歌 は 馬場 光 子 ﹃今 様 の こ こ ろと こ とば ﹄ ﹁ 第 二章 構造 千 手 の誓 ひそ 頼 も し き 枯 れ た る草 木 も れ て い る よ う に 、 法 文 歌 の パ ロデ ィー と も考 え ら れ る。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ 一味 の雨 に ぞ 似 た り け る 三草 二 木 は し な じ な に 花咲き実な ると説いたまふ﹂( 仏 歌 、 三 九 )、 ﹁ 釈 迦 の御 に は 、 ﹁万 の仏 の願 よ り も たちまちに 法 は た だ 一つ と ぐ ら 定 め て さぞ 遊 ぶ 浄 土 の 植 木 と な りぬ れば 花咲き 花 咲 き 実 な る ぞ あ は れ な る﹂ ( 法 華 経 、薬 草 喩 品 、 七九 )、 ﹁ 切 利 の都 の鶯 は 実 な るぞ あ は れ な る﹂ ( 雑 法 文 歌 、 二 〇 六 ) な ど の例 が あ る 。 ﹁ 花は 咲 けど も 実 も な ら ず ﹂ は 、 法 文 歌 に 典 型 な 表 現 ﹁ 花咲き実 なる﹂を 何ぞ の海 常楽我浄 の風吹けば 七寳 蓮 華 の も と に成 立 し た の では な いだ ろ う か 。ま た 、 ﹁近 江 の湖 は 海 な らず 天 台 薬 師 の池 ぞ か し 波 ぞ 立 つ﹂ ( 神 分 、 二 五 三 ) の替 え 歌 とす る な ら 、当 該 今 様 の花 は 七 花 は 咲 く が 実 は な ら な い こ と を歌 った 例 は 、 古 く は ﹃万 葉 集 ﹄ に 寳 蓮 華 の花 と解 せ る 。 見られる。﹁ た ま かづ ら 花 のみ 咲 き てな ら ず あ るは 誰 が 恋 に あ ら め 吾 は恋 ひ お も ふ を ﹂ ( 巻 二、 相 聞 、 一〇 二)、 ﹁み ま く ほ り 恋 ひ つ つ待 ち ナ し秋 萩 は花 の み 咲 き て な ら ず か も あ ら む ﹂ ( 巻 七 、 讐 喩 歌 、寄 花 、 一 三 六 四 )、 ﹁ 花 咲 き て実 は な ら ず と も 長 き 日聾 々に お も ほ ゆ る か も 山 吹 一 一 46 九 二八) な ど 、 恋 歌 に 多 く 見 ら れ る。 こ の表 現 は 平 安 期 以 降 の和 歌 も 花 に の み咲 き て み え こそ 恋 のな ぐ さ に﹂ ( 巻 十 、春 相 聞 、 問答 、 一 の花﹂( 巻 十 、春 相 聞 、寄 花 、 一八 六 四 )、 ﹁ さ のかたは実にならずと き ることを暗 示﹂ ( 前 掲 論 文 ) し て い る と 述 べ てお ら れ る 。 和 歌 に 木 氏 は 、 ﹁﹁ 咲 く ﹂ は 夫 婦 関 係 を 持 つこ と 、 ﹁ 実 が の る﹂ は 子 供 が で 家 鳥 虫 歌 ﹄) な ど 近 世 民 謡 の例 に 性 愛 の趣 が よ く表 れ て い る 。 佐 々 遺 ﹄)、 ﹁ 寝 た ら よ ご ざ る青 田 の中 で だ ろう か 。 ﹁ 花 は 咲 け ど も 実 も な ら ず ﹂ は 、 古 代 か ら 見 ら れ る歌 の の意 味 が 強 く 、 子 供 が 出 来 る こと を想 起 さ せ る 表 現 だ か ら で は な い 寝 た ら 花咲 く実 も のり て﹂ ( ﹃山 に はわ ず か し か 見 いだ せ な い が 、 よ く 知 ら れ る も のに 次 の よ う な 歌 小町 お い て こ の表 現 が ほ と ん ど 見 いだ せな い の は 、 恋 と いう よ り 、 性 愛 海 のほとりに てこれかれ遣遥し侍りけ る ついでに が ある。 花 咲 き て実 な ら ぬ も の は わ た つ海 のかざ し に さ せ る 沖 つ白 波 表 現 であ り、 歌 謡 の中 で は性 愛 の意 味 を も って 歌 わ れ 続 け 、 当 該 今 小倉 の家 に住 み 侍 り け る こ ろ 、 雨 の降 り け る 日 、 蓑 借 る人 の に は 滑 稽 な イ メー ジ が あ るが 、 こ れ ら が 女 性 や 子が で き る こと を 連 し てさ い の目 の刻 んだ も の の こ と も 意 味 す る。 茄 子 や 南 瓜 な ど の実 掛 詞 と な って い る が 、 ﹁水 の実 ﹂ は 茄 子 や 南 瓜 な ど を お 盆 の供 物 と 様 に も 取 り込 ま れ た の であ ろ う 。 後 半 部 の ﹁ 水飲﹂ は ﹁ 水 の実 ﹂ の 侍 り け れ ば 、 山 吹 の枝 を 折 り て と ら せ て侍 り け り 、 心 も 得 で 想 させ るのであれば 、 ﹁ 花 は 咲 け ど も 実 は な らず ﹂ は 後 半 部 の ﹁ 水 (﹃ 後 撰 集 ﹄ 巻 十 九 、 覇 旅 、 = 二六 一、 他 出 ﹃小 町 集 ﹄ 一 一六) 中 務卿兼明親王 枝 さ さず も のな 宣 び そ 蕨 茄 子 ﹂ ( 四句 苦 瓜甘 瓜 の熟 れ 枝 が 伸 び な い 。 生 長 す る 枝 を 持 ち 出 し て言 う 。 ﹁ 枝さす﹂ の実 ﹂ と い う 表 現 と よ く 響 き 、 寓 意 を 込 め た 一首 と な っ てい る。 ま か り 過 ぎ て ま た の 日山 吹 の 心 得ざ り し よ し 言 ひ に お こせ て 侍 り け るか へり に 言 ひ つか は し け る ( ﹃後 拾 遺 和 歌 集 ﹄巻 十 九 、 雑 五 、 一 一五 四) 七 重 八 重 花 は 咲 け ど も 山 吹 の み の ひ と つだ に な き ぞ か な し き ちぢに枝 させ生瓢 るかな ﹁ 平 等 大 慧 摩 尼 宝 ﹂ には そ の よ う な 者 でも 等 し く救 う と 説 い て い る 。 見え、 ﹁ 末 の枝 ﹂ は ﹁ 素 質 の劣 った 者 ﹂ ( 新 間新 編 全集 ) の意 が あ り 、 末 の枝 とそ 説 いた ま ふ ﹂ ( 法 華 経 、 薬 草 喩 品 、 八 一) の 例 が 紅南 瓜 神 歌 、 雑 、 三 七 一) が 見 え る 。 前 句 の ﹁ 花は咲け ども実もな らず﹂ の 用 例 は ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ に ﹁ 清太が作 りし御園生に う覇旅歌 であり、後歌 は 同様、 ﹁ 枝 さ さ ず ﹂ に も 法 文 歌 の影 響 が あ るか 。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ に は 、 ﹁ 実 の﹂ ﹁ 蓑 ﹂ を 掛 詞 と す る 歌 であ る。 両 歌 と も 、 ﹃万 葉 集 ﹄ の例 と は 異 な り、 恋 の趣 は 排 さ れ て い る。 し か ﹁ 法華 経聞く こそあ はれなれ 前 歌 は 当 該 今 様 と 同 じ く 、 海 の波 の花 は咲 く が 実 は な ら な いと う た し 、佐 々木 聖 佳 ﹁ 実 の のら ぬ 山 吹 考 ﹂ ﹃ 歌 謡- 研 究 と 資 料 ﹄ ( 第 四号 、 尼宝 平等大慧 摩 平 成 三 年 十 月 ) に 詳 し く あ る よ う に、 花 は 咲 く が 実 は な ら な い こと 仏も われらも 同じく て を 歌 う 例 は 、 性 愛 の意 味 を 含 む 歌 謡 に 多 く 見 ら れ る 。 ﹁ さま とわし 花 が 咲 い て も 実 が な ら ぬ ﹂ (﹃ 裡謡集拾 は な は さ け と も み は のら ぬ ﹂ (﹃山 家 鳥 虫 歌 ﹄)、 ﹁一夜 泊 ま り の こ い山 吹 は と は 山 ぶ き そだ ち 一 ﹁ 47 当 該 今 様 に 法 文 歌 の趣 が あ る こと か ら 、 こ こ で の枝 に は実 と 比 べ て ﹁ お は し ま す ﹂ 神 仏 への 尊 崇 の念 が 込 め ら れ て い る 。 ま た 、 ﹁ みつが わ ゆ る 山 号 は 中 国 か ら 禅 宗 と と も に伝 え ら れ た も の で、 こ の 時代 に 集 ﹄ 一 一九 ) に も 見 え る よ う に、 ﹁ お 山 ﹂ は 神 社 に つ い ても 言 う 。い き のか き の みた ゆ る た ま つ さ は み の のお 山 の神 や いさ む る ﹂ ( ﹃実 方 はれ さ さや か な も のと いう 意 を 含 む か 。 また 、 ﹃承 徳 本 古 謡 集 ﹄ ﹁ 伊勢風俗﹂には ﹁ 伊 勢 の海 な るや 八 百 枝 の松 の は ま だ 比 叡 山 延 暦 寺 と いう よ う な 呼 び 方 は さ れ て い な い。 こ こ で は 百 枝 の松 の や 神 仏 の坐 す 実 際 の 山 を ﹁ お 山 ﹂ と 言 って い る。 く ち ら の寄 る 島 の な る﹂ が 子 が で き る こ と を 想 起 さ せ る こと と 関 連 し 、 ﹁ 枝さす ﹂ と 西裏 小伊 勢 の海 な る や いう表現 は、 ﹁ 木 の枝 の繁 き を 歌 う こ と に よ って 木 を ほ め 、 ひ い て う。裏には、自嘲的 に華やかさ に欠ける鄙びた地と いう意味を込め や﹂と見 える。前句 の ﹁ 実が は そ の家 な ど の 繁 栄 を 寿 ぐ 祝 言 の表 現﹂ ( ﹃歌 謡 ! 研 究 と 資 料 ﹄ 第 8 ているか。 も との冨めせ 号 、平 成 十 二年 十 月 、特 集 ﹃承 徳 本 古 謡 集 ﹄ 注 釈 ( 後篇 )、横 田 み な 水飲 今 こそ 梗 さ レ で わ .永 池 健 二、 両 氏 の注 ) と な っ てい る。 前 句 の ﹁ 実 も な らず ﹂ が け 、 前 半部 の ﹁実 も な ら ず ﹂ に 対 し て水 の ﹁ 実 ﹂ が あ る、 とす る 洒 (︻ 考 察 ︼ 参 照 )。 地 名 に ﹁ 水 の実 ﹂ を掛 ﹁ 飲﹂ に限定 水 の みと 限 れ る こ と も な か り け り 心 もす め る 泊 りな り け り ﹂ (﹃ 行 尊 大 僧 正集 ﹄) は んだ ものが見られ る。 ﹁ 水 飲 の泊 り 比叡 山 聖 域 の境 界 地 比 叡 山 の 西側 。 寺 社 が 並 び 賑 や か な 表 の東 側 の 地 に 対 し て言 子が出来 な いことを意味 するとすれば 、 ﹁ 枝 ささず﹂ は家 が繁栄 し 落 。 水 飲 が 和 歌 に 詠 ま れ た 例 は 少 な いが 、 ﹁ 水 飲 ﹂ を 掛 詞 と し て詠 弘 法 大 師 は高 野 の 伝教慈 覚は比叡 延 暦 寺 が あ る 比 叡 山 に 親 し み と 敬 意 を 込 め て言 う 表 な い こと を 表 す と 考 え ら れ る。 比叡 のお山 現 。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ に は、 ﹁ 大 師 の住 所 はど こ ど こぞ 智 証 大 師 は 三井 寺 に な の副 詞 の ﹁の み﹂ を 掛 け 、 水 だ け でな く 心 も 澄 む とす る 。ま た 、 ﹁ 比 横 川 の御 廟 と か の山 叡 の 山 そ の大 嵩 は か く る れ ど 猶 水 飲 は 流 れ てぞ 降 る﹂ (﹃ 堀 川院後度 滑 石 水 飲 四郎 坂 雲母谷 大嶽蛇 の 観 音 院 の下 り 松 お山にまだおはし ます﹂ ( 四 句 神 歌 、 僧 歌 、 二 九 五 )、 ﹁ 観音験 を見 粉 河 近 江 な る彦 根 山 禅師坂 賀 茂川は 川広し 百 首 ﹄源 俊 頼 ) は ﹁ 水飲﹂に ﹁ 水 の身 ﹂ を 掛 け る。 ﹁ 水 飲 ﹂ は ﹃梁 塵 清 水石山長谷 のお山 熟 ら ぬ柿 の木 人 宿 阿 古 也 の聖 が 立 てた り し 千本 の卒 塔 婆 ﹂ (四句 神 歌 、 霊 験 所 歌 、 に 手向 け の神 多 か れ ば 、 水飲 に 泊 ま る夜 、 よ う つ よ の神 て ふ 神 に 手 し、﹃ 増 基 法 師 集 ﹄ に 、 ﹁( 熊 野 の)御 山 に つく ほ ど に 、 木 のも と ご と 三 一二) と あ るよ う に 、 延 暦 寺 参 詣 の行 路 の地 の 一つで あ る 。 し か 池 秘 抄 ﹄ に、 ﹁ 根 本 中 堂 へ参 る 道 間 近 く見 ゆ る す る寺 は 六角 堂 ﹂ ( 四句 神 歌 、 霊 験 所 歌 、 三 コ ニ) の例 が 見 え る。 ﹃ 平家 物 語﹄ には、 ﹁ 滝 の音 こ と に す さ ま じ く 、 松 風 さ び た る 住 ま ひ 、 飛 滝 権 現 のお は し ま す 、 那 智 の お 山 に さ 似 た り け り 。 さ て こそ や が て そ こを ぱ 、 那 智 の お 山 と は 名 づ け け れ ﹂ ( 巻第 二 ﹁ 康 頼 祝 言 ﹂) と 、 鬼 界 ヶ島 に 流 罪 と な った 康 頼 が 激 し い懐 郷 の念 に か ら れ て 言 う 場 面 が あり、﹁ 那 智 のお 山 ﹂ と い う 表 現 に は 心 理 的 な 距 離 の近 さ と 、 そ こに 一 一 48 向 け し つ思 ひと 思 ふ こ と な 成 り な む ﹂ と 、 熊 野参 詣 行 路 に も見 え る 尊 地 蔵 或 水 飲 堂 ﹂ と 見 え 、 水 飲 は 良 源 の時 代 以 前 か ら 俗 界 と の 境 目 る 。﹃叡 岳 要 記 ﹄ に は 、弘 仁 九 年 ( 八 一八 年 ) の記 述 に ﹁ 脱 俗院 右山 門界結同際﹂ を引 き、 ﹁ 水 飲 は い は ゆ る 西方 結 界 で あ る ﹂ と す 本 て ﹁ 水 呑 峠 ﹂ が 見 え る 。 比 叡 山 に 限 ら ず 、 休 息 を と る こと の多 い 登 地 名 で あ る。 ま た 、 時 代 は 下 る が 、 ﹃ 偲 言 集 覧 ﹄ に は 一般 名 詞 と し と さ れ て いた よ う であ る 。ま た 、 同 書 には ﹁ 傅 教 太 師 結 界 。 崩鷲 ﹂ に 駿 河 の富 士 の山 伯 者 の大 山 薬師 も弥陀 も 伊 豆 の走 変 成 男 子 と し て終 に 丹 後 の成 相 と か 讃 岐 の志 度 の道 場 と こそ 聞 け ﹂ (四句 神 歌 、 霊 験 所 ( 八八五年) の太政官符 により ﹁ 西限下水飲 ﹂とさ ( 九 八 八年 )十 月 廿 八 日 の記 述 に は 、 ﹁ 辰時 -二 候御膳 一 、及 備 二侍 臣 等 食 ︼ 、 事 了 赴 給 之 問 、中 使 左 少 将 伊 周 朝 臣 、 政申旨 ︻ 、( 中 略 ) 公 卿 以 下 皆 着 二狩 衣 、 藁 履 } 、 於 二水 飲 一 律師 覧慶儲 許 登 二天 台 一 給 、 御 二御 馬 一 向 -二給 山 脚 一 之 間 、 権 中 納 言 馳 参 、 奏 二摂 か 。 ﹃小 右 記 ﹄ 永 延 二年 こ の地 は 比 叡 山 に向 か う 人 に と って は ど のよ うな 場 所 で あ った の 山 の結 界 の西 の限 界 地 が 水 飲 であ った のだ ろう 。 れ た と あ る。 お そ ら く 、 最 澄 が 定 め た 結 界 の外 の よ り 広 範 囲 な 比 叡 ては 、 仁 和 元 年 ついて ﹁ 西 限 大 比叡 峯 小 比 叡 南 峯 ﹂ と あ り 、 ﹁延 暦 寺 外 堺 ﹂ に つい 山 路 の 頂 上 の地 を 水 飲 と名 付 け た よ う であ る 。 実 は 一仏 な り と か や ( そ う で あ る と ) 聞 い て い る。 ﹃ 梁塵 秘抄 ﹄ に は、 娑 蜴 羅 王 の宮 を 出 で て 文 殊 の こ し ら へと さながら大 日とこそ聞け﹂ ( 巻 一、 一九 、 同 歌 、 巻 二、 ﹁ 仏は さまざ まにいま せども ⋮ こそ∼聞 け 釈迦弥勒 も さぞ 申 す 法 文 歌 、 仏 歌 、 二 五 )、 ﹁ 龍 女 が仏 に成 る こ と は こそ 聞 け 信 濃 の戸 隠 は成仏道﹂ ( 四句 神 歌 、経 歌 、 二九 二)、 ﹁四方 の霊 験 所 は 湯 土 佐 の室 生 戸 色好 み の 於 二水 飲 上 坂 一 、 傅 奏 途 中 安 不 、廼 帰 参 、﹂と あ り 、 ここ では 、 比 叡 山 さこそ聞け 酒 落 を 効 か せ て聖 域 の境 界 地 を 褒 め 讃 え た今 様 。荒 井 評 釈 は 、 ﹁ 水 問、﹃ 此 地何 号 ﹄、 人 答 以 二其 名 一 、時 餓 樹 有 レ果 、見 日 、 ﹃見 今 何 有 レ實 山下 一 有二 柿樹一 、 絶 不 レ結 レ子 、 俗 名 二其 地 一 日 二不 實 柿 一 、 見 到 二其 虚 一 也 、 母 孕 時 悪 二葦 腱 一 、 或 食 レ之 、 慮 レ時 嘔、 甫 七 歳 、 登 二叡 山 一 、近 二 麿だに響まず は﹂ ( 四句神歌 、雑、 多 かる世なれば に登 る途 中 、休 憩 を 兼 ね て 食 事 を し た り 、 必 要 な 報 告 な ど を し た 場 雀燕筒鳥や 三 八 八 ) と ﹁こそ 聞 け﹂ と い う 表 現 が 多 く みら れ る 。 自 分 だ け が そ 四九 年 ) に 関す る 記 述 か ら も、 比 叡 山 に登 る際 に は 水 飲 を 通 った こ 所 の よう であ る。 ま た 、 ﹃元 享 釈 書 ﹄ ( 巻 第 五 )、皇 慶 ( 九 七 七 ∼ 一〇 飲 ﹂に つ い て、 ﹁ 比 叡 山 に 京都 方 面 よ り上 れ ば 雲 母坂 が あ り 、 そ の絶 乎 ﹄、 至 二翠 微 一 有 二館 亭 一 、 降 防 之 人憩 息 焉 、 故 置 二薬 湯 一而 備 二渇 乏 一 、 人は響 むとも う 言 う の では な く 、 す で に 人 々が そう 言 う のを 聞 い た のだ と す る こ 歌 、 三 一〇 )、 ﹁西 の京 行 け ば とで、ある事柄を既成事 実にする効果を狙うか。 頂 が水 飲 み で、山 城 近 江 の 国境 であ る。﹂ と し てい る 。 そ し て、 天禄 俗 呼 為 二水 飲 一 、 見 又問 レ之 、 答 者 日、 ﹃水飲 也 ﹄、 見 日、 ﹃何飲 湯 乎 ﹄、 とが わかる。 ﹁ 釈皇 慶姓橘 氏、黄 門侍郎 廣相之曾孫 、性空 法師之 姪 元年 ( 九 七 〇 年 ) 慈 慧 大 師 良 源 の起 請 文 の記 述 、 ﹁ 籠 レ山 僧 、 不 レ可 レ ︻ 考察 ︼ 出二 内 界地際 一 。 東限悲 田院、 南限般若寺、 西限水飲、 北限 榜厳院。 一 一 49 上 二嶽 頂 一 、 小嶽 叢 生、 見 復 問 レ之 、 答 日 ﹃大 嶽 也 ﹄、 見 日 、 ﹃何 有 二小 な ら ば 、 賑 や か な 表 の近 江 側 と 比 較 し て 、 ひな び た 裏 で あ ると 自 嘲 後 半 で表 裏 の 対 比 が な さ れ て い る 。 や や 皮 肉 が あ る よ う に 解 釈 す る が 、 途 中 、 ﹁不實 柿 ﹂ と い う 地 で 場 所 で 地 名 を 訪 ね 、 果 実 が 生 って し な が ら も 、 こ ち ら に は 水 飲 と い うあ り が た い地 が あ る の だ と 、 聖 叡 山 は 、 湖 のあ る 方 を 表 、 山 のあ る 京 都 側 は 裏 と さ れ 、 歌 の前 半 と い る のに 何 故 ﹁ 不 實 柿 ﹂ と い う の か と 尋 ね た 。 ま た、 水 飲 で は 、 湯 地 の 境 界 の重 要 な 地 を讃 え てい る か 。 竹﹁ 乎 ﹄、 職臨 、 其 幼 敏 、 機 辮 類 レ此 、﹂ 皇 慶 は 七 歳 で比 叡 山 に 登 った を 飲 む のに 何 故 水 飲 と い う のか と 訪 ね、 大 嶽 では 、 大 竹 と い う か ら り、 当該 今様 の ﹁ 水飲 ﹂ には あ る い は 、 二 五 三歌 の パ ロデ ィー で あ り 、 近 江 の 海 を 薬 師 の池 識﹂( ﹃逸 脱 の 唱声 は、 前半 の ﹁ 実 も な ら ず ﹂ を 受 け て の掛 詞 で あ るが 、 これ は 、 ﹁ 花 に は 小 竹 も あ る のか と 尋 ね て い る。 七歳 と は 思 え な い皇 慶 の聡 明 さ し く述 べ ら れ て い る よ う に 、 参 詣 路 の重 要 な 地 点 であ り 、 聖 域 と 俗 は さ け ど も実 も な らず ﹂ と いう 法 文 歌 に 典 型 的 な 表 現 と 歌 謡 に典 型 に な ぞ ら え て い ると 解 す る な ら 、 薬 師 は 東 浄 瑠 璃 世 界 の 教 主 で あ 界 と の境 界 と い う べ き 地 であ った 。 こ れ ら の地 を 和 歌 に 詠 ん だ 例 は 的 な 表 現 であ る こ と を 同 時 に 思 い起 こ さ せ る こと に よ って 成 立 す る を 語 る エピ ソー ド であ る 。皇 慶 が 名 を 尋 ね た ﹁ 不實柿﹂ ﹁ 水飲﹂ ﹁ 大 多 く は な い が 、 源 俊 頼 の歌 に 、 ﹁ 比 叡 の 山 そ の大 嵩 は か く る れ ど 猶 洒 落 であ る。 法 文 歌 の趣 で 解 釈 す れ ば 、 天 台 薬 師 の池 で あ る 近 江 の り 、 四句 目 の西 裏 と 、 東 西 の 対照 を な す 。 ︻ 語釈 ︼ にも記した とお 水 飲 は 流 れ てぞ 降 る﹂ (﹃ 堀 川 院 後 度 百 首 ﹄) と 見 え る。 ま た 、 ﹃行 尊 湖 に立 つ波 に は 、 七宝 蓮 華 の花 は 咲 く が 、 これ に は 実 も な らず 、 枝 嶽 ﹂は 、永 池 健 二 ﹁︿ 王 城 ﹀ の内 と 外 - 今 様 ・霊 験 所 歌 に見 る空 間意 大 僧 正集 ﹄に は 、 詞 書 に ﹁ 水 飲 の泊 り ﹂ と し て、 ﹁ 水のみと限れるこ ﹁ 水 の 実 ﹂ が 掛 け ら れ て い る。 こ れ と も な か り け り 心 も す め る 泊 り な り け り ﹂ と あ る 。 ﹁水 の みと 限 れ ﹁ 水 飲 ﹂ と いう 、 こ こか ら聖 域 へと 入 る あ り が た い地 が あ る と 聞 い が 伸 び な い、 し か し、 比 叡 の お 山 の 西 の裏 に は、 ﹁ 水 の実﹂ ならぬ て い る よ 。 歌 謡 の暗 示 を 汲 み取 る な らば 、 近 江 の湖 に立 つ波 に は 、 歌 謡 の 精 神 史 ﹄ (二 〇 二 年 九 月 、 臭 社 ) に 詳 る ﹂ に は 、 水 飲 が 結 界 の 西 際 で あ る こ と を含 ん で い る のだ ろ う 。 ま た 、 こ の 地 は 単 に 休 息 宿 泊 す る だ け で な く 、 ﹁心 も 澄 め る ﹂ と あ る ﹁ 水飲﹂ と いう ﹁ 水 の実﹂な んかがな りそうな、 なんだ か子 でもで 恋 の花 は 咲 く か も し れ な い が 、 子 が でき るよ う な こ と は な い、 子 ど 当 該 今 様 を 前 の 二五 三歌 と 連 作 、 連 謡 と 解 す る こと も でき るが 、 き そ う な 名 前 の土 地 が あ る と 聞 い て い る よ と 、 性 的 な 意 味 を 匂 わ せ よ う に 、聖 域 に 近 づ く に あ た って 、 信 仰 に 対 す る 気 持 ち を あ らた に こ の歌 の み独 立 し た も のと し て も 十 分 に 理 解 が 成 立 す る 。 全 体 を 通 る 解 釈 が で き よ う か 。 和 歌 の掛 詞 と 比 べ ると 、 多 分 に く だ け た 趣 の こ ろ か 家 が 栄 え る こと も な い 、 し か し 、 比 叡 の お 山 の 西 の裏 に は 、 じ て、 ﹁ 湖﹂﹁ 波﹂ ﹁ 水 飲 ﹂ と 、 水 に 関 す る語 、 ﹁ 花﹂ ﹁ 実﹂ ﹁ 枝﹂と植 表 現 である。 ﹁ 比 叡 のお 山 ﹂ と い う 表 現 に も 、 こ の 霊 山 に 対 す る親 す る場 所 で も あ った の では な い か 。 物 に 関 す る 語 で貫 か れ て い る 。 ま た 、 ﹃ 全 註釈﹄ が記すよ うに、比 ﹁ 一 50 し み が 感 じ ら れ る が 、 ﹁水 飲 ﹂ の地 を 讃 え な が ら も そ の名 前 に か こ 十 里 φモ ま イ 遊竹 煮 ( 田中寛子) つけ て こ の よ う な 酒 落 の歌 を う た い、 山 路 を越 え る 苦 し さ を 労 った ∼ ー怠 Yー ・ ・ラま ハq ひ 、 ㌘ 沿㌧ ・ え・ 2 み へ誘 の では な いだ ろ う か 。 二五七 歌 や署 く 義 て ︻ 翻刻 ︼ よ 、 や す ま つ ひめ ま つこ え う ま つ、 千 里 のは ま ○ く ま の へま い る に は、 な に か く る し き 修 行 者 ︻ 校 訂本 文 ︼ 何 か苦しき修行者よ 、 安 松 姫 松 五 葉 松 、 千 里 の浜 ○ 熊 野 へ参 る に は ︻ 類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ 慈 悲 の道 な れ ば 紀 路 も 伊 勢 路 も 遠 か らず (二五 六 ) ・熊 野 へ参 るに は 、 紀 路 と 伊 勢 路 のど れ 近 し 、 ど れ 遠 し 、 広 大 ・熊 野 へ参 ら む と 思 へど も 、 徒 歩 よ り 参 れば 道 遠 し 、 勝 れ て山 峻 し 、 馬 に て参 れ ば 苦 行 な らず 、 空 よ り参 ら む 、 羽 賜 べ若 王 子 、 (二五 八 ) 淀 の 渡 に 船 涯 け て 、 迎 へ 給 へ大 菩 薩 (二 六 一) ・八 幡 へ参 ら ん と 思 へど も 、 賀 茂 川 桂 川 い と 速 し 、 あ な 速 し な 。 ︻諸 説 ︼ な に か く るし き 諸 注 、 ﹁何 か苦 し き ﹂ ( 9) 評 解 山 野を 巡 って修 行 す る行 者 よ 、 何 の苦 し い ( 来 栖 を か けた か ) こ とが あ ろ う か。 ︻補 注︼ 来 栖 郷 は紀 伊 国 西 牟 婁 郡。 修 行者 諸 注、 仏 道 修 行 をす る人 。 やす ま つ 諸注 ﹁安 松﹂ ( 1)佐 佐 木 注 ( 4) 小西考 曾 )古 典 全 書 ⑥ 荒 井 評 釈 旦 大 系 8 全 集 ( 14) 新 全集 ( 15) 完 訳 ( 16) 榎 集 成 (19) 新 大 系 ( 20) 全注 釈 安松 は和 泉 の地 名 。 和泉 国 泉 南 郡 (現 大 阪府 泉 佐 野市 )、蟻 通 社 の北 にあ る松 原 の付 近 の地 名 。 ( 4) 小 西考 ( 5)古 典 全 書 ( 9) 大 系 ( 13) 全 集 ( 14) 新 全 集 ( 15) 完訳 ( 16) 榎集 成 (19) 新 大 系 ( 20) 全 注 釈 ﹁ 安 ﹂ に ﹁易 し ﹂ をか け 、 松 を 並 べ た。 ひ めま つこ えう ま つ 諸 注 ﹁ 姫 松 五 葉松 ﹂ ( 4) 小西 考 ( 6) 荒 井 評釈 ( 19) 新大 系 姫 松 五葉 松 は 、 ﹁松 ﹂ の縁 で ﹁ 姫 松 五 葉 松 ﹂ と尾 韻 を そ ろ へて続 け た の であ る 。 ( 6) 荒井 評 釈 ﹁姫島 の松 原﹂ ﹁跡 隊 の松 原﹂ を 懸 け て 言 つ て居 るか も知 れ ぬ が、道 順 は 逆行 す る 。恐 ら く洒 落 て 言 つた の であ ら う 。 (13) 全 集 ( 14)新 全 集 (15) 完 訳 未 詳 。 ﹁ 安 松 ﹂ の縁 で 松 の名 を 並 べ た か。 ⑭ 榎 集 成 姫 松 住 吉 明神 ( 大 阪 市 )付 近 の地 名 。安 松 と とも に熊 野 への道 筋 。 五葉 松 松 の 一種 。安 松 ・姫 松 に語 呂 を 合 わ せ、 次 の ﹁ 千里﹂ も含 め て 、す べてめ でた い 語を 並 べた。 @ 新 大 系 姫 松 を住 吉 神社 付 近 の 地名 と す る と、道 順 は逆 行 す る。 ただ し 、 そう 言 えば 、 姫松 が あ った よ と も 解 せ る。 ( 20) 全 注 釈 姫 松 住 吉 神 社 付 近 の地 名 か と さ れ る。 苦 し い ど こ ろか 若 い娘 だ って い るよ と、 これ も 酒落 た も の。 こ こ で三 つの ﹁松﹂ が な ら ぶが 、 松 に は ﹁ 待 つ﹂ がか け ら れ て いる 。 五葉 松 こ れは 地 名 では な い 。 松 を つら ね て きた と こ ろか ら 並 列し た も の と 思わ れ る 。 ︿中略 ﹀縁 起 も の の 木 。 千 里 のは ま 諸 注 ﹁千里 の浜 ﹂。 ( 4) 小西 考 (5) 古 典 全 書 ( 9) 大 系 (13) 全集 ( 14) 新 全集 (15) 完 訳 ( 16) 榎 集 成 紀 伊 国 日高 郡 ( 和歌山県日 高 郡 南 部町 ) の海 岸 。熊 野参 詣 の古 道 で 、歌 に よく 詠 ま れ る。 ⑥ 荒 井 評釈 ( 坦 新大 系 葱 全 注釈 磐 向 の浜 を言 ふ 。紀 伊 国岩 代 (東 岩 代) よ り 、南 部 目 津 崎ま で の十 二、三 町 の海 浜 であ る。智 佐 止 と訓 じ 、せ ん りと 字 音 でも 読 む 。第 四 句 ﹁千 里 のは ま﹂ 以降 の欠落 各 諸 説と も 欠落 の可 能性 を 指摘 す る。 す )大 系 ○ 第 四句ー ﹁ 千 里 の浜 ﹂ の後 欠 脱 。← 補。 ○ 本 ﹁ま つ, 千里 の は ま ﹂ でこ の歌 と し て の二行 目 を終 わ り綴 じ 目 の方 一行 が 足り な い点 ( 各面 九 行 な の に こ の歌 で終 わ る 面 は 八行 ) か ら見 て も、 ﹁千 里 の浜 ﹂ で中 断 、 一 行 脱 した と 認 め られ る。 9 新 全 集 第 四句 は 字 音 不足 の感 じ で、 ﹁千里 の浜 こそ う れし け れ ﹂と でもあ れ ば整 うと ころ 。 [ 一 51 に ﹁ 我 見 て も 久 し く な り ぬ 住 之 江 の 岸 の姫 松 幾 代 経 ぬ ら ん ﹂ と あ っ 読み人知らず て、﹃古 今 集 ﹄の注 釈 では 、 ﹁ 姫 松 ⋮ 住 吉 大 社 の海 岸 一帯 ﹂ ( 角川文庫) 小 さ い松 。姫 小松 、 の こと 。 ﹃ 古 今 集 ﹄九 〇 五 熊野 の 地 名 と す る 。 現 在 は 、大 阪 市 阿 倍 野 区帝 塚 山 一丁 目 に熊 野 街 道 と 姫松 歌 、 第 二回 ・二五 九 歌 、 第 三 回 ・二六 〇 歌 、 第 四 回 ・二 五 六 歌 ︻ 語 南港 通 ( 大 阪 市 の南 港 と 平 野 を 東 西 に結 ぶ ) の 交 点 に姫 松 交 差 点 が ︻語 釈 ︼ 釈︼ ﹁ 熊 野﹂ ﹁( 熊 野 )権 現 ﹂ )なお、 ﹁ 熊 野 へ参 る に は ⋮ ﹂ か ら始 ま る 熊 野 三 山 ・熊 野 三 所 権 現 。 ( ← 選 釈 第 一回 ・二 四 二歌 、 二五 八 熊 野 三 山 への参 詣 を う た う 今 様 は 、 二五 六 歌 か ら 二六 〇 歌 ま で の 連 つ て は 、 大 阪 市 西成 区 南東 部 に 姫 松 通 と い う 町 名 も あ った 。 当 地 付 あ り 、 そ の近 く に 阪堺 電気 軌 道 上 町 線 の停 留 場 の姫 松 駅 が あ る 。 か 近 に昔 、 名 勝 と な って いた ﹁ 岸 の 姫 松 ﹂ が 所 在 し た と いう 故 事 に 由 作 五 首 が 存 在 す る。 修行者 来す る。 ( ﹃大 阪 の町 名 ﹄ 上 ) 現 在 は こ の地 名 は 使 わ れ てお らず 、 姫 仏 道 を 修 行 す るも の 。 特 に 、 諸 国 の霊 場 を 遊 歴 す る行 脚 僧 や 山 伏 を さ し て い う こと が 多 い 。直 音 化 し て ﹁ すぎ や う ざ ﹂ ﹁ すぎ や 松 駅 と は 少 し 距 離 が あ るが 、 歌 語 ・歌 枕 の ﹁ 岸 の姫 松 ﹂ の 地 域 を 広 ﹃日葡辞 書﹄ ﹁ ×βσq巳αす シュ ﹃書言字 考節 用集﹄傷馨 屡禦 範 囲 に考 え た 場 合 は そ の地 域 に収 ま る こと に な る 。 う じ や ﹂。 ま た 略 し て修 行 と も 。 ( ﹃角 川 古 語 大 辞 典 ﹄) ﹃色 葉 字 類 抄 ﹄ ギ ャゥジ ャ ( 修 行 者 )遍 歴 者 。す な わ ち 、聖 地 を 巡 拝 し て回 る人 ﹂ と 五葉松 マ ツ科 の常 緑 高 木 。 西 日本 で は ゴ ヨウ マツ 、 東 日本 で は ヒ 古 辞 書 類 に も あ る 。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ で は 、 ﹁ お ぼ つか な 鳥 だ に 鳴 か ぬ 奥 メ コ マ ツと 呼 ぶ 。漢 名 と し て五 髪 松 、五 銀 松 を 当 てる こと が あ る 。五 修 行 者 の通 るな り け り ﹂ (四七 〇 ) 葉 の松 。 ( ﹃日 本 国 語 大 辞 典 ﹄) ﹃ 枕 草 子 ﹄ 四〇 段 に ﹁ 花 の木 な ら ぬ は 、 あな尊 山に 入 こ そ音 す な れ と 、 鳥 も 通 わ ぬ 深 山 で 修 行 す る 修 行 者 の神 秘 性 が う た わ れ る 。 た き 木 は 、 松 ・櫻 。松 は 五 葉 も よ し 。﹂ と 評 さ れ て い る 。五 葉 松 は庭 か へで。 か つら 。五葉 。 ﹂ と あ り 、﹃徒 然 草 ﹄ = 二九 段 に も ﹁ 家 にあり に 安松 木 や 前 栽 の 立 木 と し て認 識 さ れ 、 評価 さ れ て いた こ と が わ か る 。 ま 安松村 は、﹁ 佐 野 村 の 南 に あ り 、南 東 側 長 滝 村 境 を紀 州 街 道 ( 熊 野街 道 )が た 、 木 曽 地 方 の祝 い歌 ﹁ 高 い山 ﹂ の中 に は ﹁ さ い た盃 中 見 てあ が れ 泉 佐 野 市 の地 名 か 。﹃大 阪 府 の 地名 H ﹄泉 佐 野 市 通 る。 正和 五 年 (= 一 = 六 ) の 日根 野 村 絵 図 ( 九条家 文書)と同時 ﹁ 安 松 ﹂ と 記 さ れ る。﹂ と あ 期 に 作 成 さ れ た と推 定 さ れ る 日根 野 村 近 隣 絵 図 (同文 書 ) に 、 熊 野 街 道 に 沿 った 北 側 に 家 屋 二棟 が 描 か れ 叶た ハ リ ワ ヨ イ ヨイ ヨ イ﹂ と あ り 、 昔 話 ﹁ 唄 い骸 骨 ﹂ ( 鹿 児 島 県 ) では 、 骸 骨 が う た う 歌 と し て ﹁ 叶た ノーイ ソレ よ 中は鶴亀五葉松 り、これが ﹁ 安 松 ﹂ の文 献 上 の初 出 記 録 で あ る 。﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の今 様 謡 は 、 五 葉 松 と 鶴亀 を 併 せ てう た う こ と か ら も 、 そ の祝 意 性 が 考 え 五 葉 の松 ﹂ が あ る。 こ の 二例 の歌 や 熊 野 参 詣 が 盛 ん であ った 中 世 期 初 頭 か ら は 少 し 時 間 的 な 隔 た り が 末じゃ鶴亀 ある。以下、﹁ 安 松 姫 松 五 葉 松 ﹂ に 関 し て はま と め て ︻ 考 察 ︼ で述 べ られる。 思 た こ と叶 た る こと と す る。 一 一 52 ある。また、﹃ 大鏡 ﹄( 中 )太 政 大 臣 伊 サ ( 花 山 院 ) では 、 ﹁ 花山院 の 上 の浜 。 打 出 の浜 。も ろ よ せ の 浜 。千 里 の 浜 、広 う 思 ひ や ら る 。﹂ と 川古語大辞典 ﹄ ) ﹃枕 草 子 ﹄ 二〇 五 段 には 、 ﹁ 浜 は 、 有 度 浜 。 長 浜 。吹 付 近 の熊 野街 道 に 沿 う海 浜 。景 勝 の 地 で趣 のあ る岩 石 があ った 。(﹃ 角 千 里 の浜 さ れ る こと が 典 型 であ り 、 ま た歌 枕 と し て著 名 で あ った こ とが わ か た わ れ た り し て い る。 岩 代 の 松 と 千 里 の浜 の 二 つ の地 名 が 組 み 合 わ らん と 夜 の暁 深 く立 ち 込 む る に 日 は く れ て秋 風 お く る い は し ろ の松 ﹂や 早歌 ﹁ 熊 野 参 詣 四﹂ ﹁ 秋の が わ か る。 千 里 の浜 と 岩 代 の松 は 、﹃夫 木 抄 ﹄ 寂 蓮 ﹁ 末 遠 き 千 里 の浜 ち さ と の は ま 。所 名 。 歌枕 。紀 伊 国 日 高 郡 岩代 ( 南部町) 御 出 家 の本 意 あ り 、 い みじ う 行 は せ た ま ひ、 修 行 せ さ せ た ま は ぬ 所 る。 横 雲 か か る こず ゑ は そ も岩 代 の松 や 皆 へだ てこ し 道 遠 み ⋮ ﹂ と 詠 ま れ た り 、 う 天 の戸 し ら む 方 見 え て 千里 の浜を顧 て 月 に こゆ れ ば ほ のぼ の な し 。 さ れ ば 熊 野 の道 に 、 千 里 の 浜 と い ふ 所 に て御 こ こ ち そ こな は 切目の中山中 々に せ た ま へれ ば 、 ⋮﹂ と あ り 、 花 山 院 が 熊 野 詣 を す る際 に 通 った こと 第 二句目 の ﹁ 何 か苦 し き 修 行 者 よ ﹂ に ︻ 諸説 ︼ ( 9) 大 系 は ﹁ 苦し き ﹂ に和 歌 山 県 の ﹁ 来 栖 ﹂ の地 名 を 掛 け た か 、 と す る 。 これ を ﹁ くる ︻ 考 察︼ す ﹂ と 読 む 場 合 は 、 現 在 では 和 歌 山 市 の来 栖 地 区 の こ と を 指 す 。 し か ら も 熊 野 参 詣 路 の途 中 に あ った こと が わ か る。 さ ら に 、﹃熊 野 御 幸 陣 し 、 ま た 山 を 越 え 、 切部 中 山 王 子 に参 る 。 次 い で浜 に出 で 、磐 代 か し 、 和 歌 山 市 の 栗栖 で は 熊 野 参 詣 道 か ら離 れ てし ま う の で、 本 考 記 ﹄建 仁 元 年 十 月十 二 日 条 に は 、 ﹁ 遅明、御所に参る。出御以前に先 王 子 に 参 る 。 ⋮ これ よ り ま た 先 陣 し 、 千里 浜 を 過 ぎ くこ の間 一町ば 察 では ﹁ 苦 し き ﹂ に ﹁栗栖 ﹂ が 掛 け ら れ て い る と 取 る ︻ 諸 説︼には 熊 野 へ参 る に は (二五 六 ) 羽 賜 べ若 王 子 す ぐ れ て山 どれ遠 し を 表 す 意 味 と し て捉 え た い 。 そ れ は 、 本 歌 の 前 後 に 、 悲 の道 な れ ば 空より参 らむ 徒歩より参れば 道遠し 馬 に て参 れ ば 苦 行 な らず 広大慈 賛 同 し 難 い 。そ れ よ り も 、熊 野 参 詣 の ﹁ 苦 し き 修 行 ﹂ であ る ﹁ 苦行﹂ か り V、 千 里 王 子 に参 る 。﹂ と あ り 、 千 里 の 浜 を 越 え た と こ ろ に 千 里 灘には、 ﹁ 東 岩 代 川 の河 口か ら 目 津 王 子 と い う 熊 野 九 十 九 王 子 の 一つが あ った こ と が わ か る。 な お 、 ﹃和 歌 山 県 の地 名 ﹄ 亜 く か ら著 名 で あ った ら し く、 多 く の古 典 に そ の名 が みえ 、 ﹁ ちさとの 熊 野 へ参 ら む と 思 へど も 崎 ま で、約 一・ニキ ロ の海 浜 。熊 野 街 道 の古 道 に あ た り 、景 勝 地 で古 浜﹂ともよばれた 。( 中 略 ) な お 、 千 里 浜 に つい て ﹁平家 物 語 ﹂巻 十 峻し 紀 路 と 伊 勢 路 のど れ 近 し ( 維 盛 出 家 )に ﹁ 藤 代 の 王 子 を初 め と し て 、王 子 王 子 ふ し をが み参 り 紀 路 も 伊勢 路 も 遠 か らず 給 ふ 程 に 、 千 里 の浜 の北 、 岩 代 の 王 子 の御 前 に て 、 狩 装 束 し た る者 (二 五 八) の今 様 が あ り 、 熊 野 に 徒 歩 で参 詣 す る こと の困 難 さ と 苦 行 さ が う た 七 八騎 が 程 ゆ き あ ひ奉 る﹂ と あ り 、 そ の位 置 が 知 ら れ る 。 古 くは 千 里 浜 の 北 に 続 く 岩 代 浜 を も含 め て の呼 称 と も い わ れ る 。﹂ と あ って、 わ れ て い る の で 、 言 う ま でも な い が ﹁ 苦しき﹂を ﹁ 苦 行 ﹂ の意 味 で か つて の 千 里 の浜 が 岩 代 浜 を も含 む 広 大 な 地 域 の総 称 であ った こ と 一 一 53 は 厳 し い苦 行 の末 に 、 神 仏 の利 生 を 得 る こ と に 大 き な 意 味 と 目的 が 捉え、 ﹁ 苦 しき修行﹂H ﹁ 苦 行 ﹂ と い う 意 味 で解 釈 し た い 。熊 野参 詣 つ語 句 と し て考 え る こと も でき る 。 そ れ ら の名 所 や 地 域 が 実 際 の熊 り 詰 め た 意 識 や 気 分 を リ ラ ック ス さ せ 、 気 分 を 転 換 さ せ る 働 き を持 あ った と さ れ る。 そ の こと は 、 院 政 期 の 白 河 ・鳥 羽 ・後 白 河 院 な ど ( 易 第 三 ・四句 目 ﹁ 安 松 姫 松 五葉 松 、 千里 の 浜 ﹂ の ﹁ 安松﹂には、 ︻ 諸 ︻ 類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ で掲 げ た 今 様 の形 式 と 比 較 す れ ば 字 音 不 足 に な っ て い る こ と は 、 同 じ 歌 い 出 し の語 句 を 持 つ ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ 二 五 六 歌 や 次 に、︻ 諸 説 ︼ で も述 べ ら れ てい る よ う に ﹁ 千 里 のは ま ﹂ で終 わ っ 野 参 詣 す る 際 の休 憩 場 所 であ った の か も し れ な い。 説 ︼ で も 言 わ れ るよ う に ﹁ 苦 し き ⋮ ﹂ か ら の流 れ で、 ﹁ やすし てお り 、 や は り ﹁ 千 里 の は ま ﹂ に 続 く 字 句 が あ った と 推 察 で き る 。 が 何 度 も 繰 り 返 し 熊 野 詣 を 行 って い る こ と か ら も わ か る で あ ろう 。 し) ( 安 し )﹂ の響 き を 対 比 さ せ た 表 現 、 熊 野参 詣 道 に ゆ か り が あ る な る の が 、 ﹁五葉 松 ﹂ に つい て で あ る 。 管 見 では 今 のと こ ろ 地 名 と と 、 熊 野参 詣路 の 途 次 に あ る こと は ︻ 語 釈 ︼ に 述 べ た 。 さ て問 題 に るも の と考 え る 。 最 後 の ﹁ 千 里 の 浜 ﹂ は 、 歌 枕 と し て 著 名 であ る こ 熊 野参 詣道 の関 連 と 歌 枕 と し て名 高 い ﹁ 岸 の姫 松 ﹂ か ら の連 想 に よ 様 で も あ る 。 実 際 に読 み 込 ま れ た 地 を 通 過 し た り 、 そ の 地 が 目 前 に 名 を 読 み 込 む こ と に よ り 、 難 行 苦 行 の熊 野 詣 を 鮮 明 に 想 起 さ せ る今 ら の熊 野 参 詣 への 出 発 と 期 待 を 思 わ せ る 。 ま た 、 実 際 の 参 詣 路 の地 じ 歌 い出 し ﹁ 熊 野 へ参 る に は ⋮ ﹂ か ら 始 ま る同 類 型 の 今 様 で、 京 か 熊 野 信 仰 を う た う 連 作 今 様 五 首 の 内 の 二番 歌 で あ る 。 二五 六 歌 と 同 前歌 二五六歌 の ︻ 考察︼ ( ← 選 釈 第 四回 ) で も 述 べた が 、 本 歌 は 、 し ての ﹁ 五 葉 松 ﹂ を 考 察 す る こと は で き な い の で、 今 後 の 課 題 と し 泉 佐 野 市 安 松 と の掛 詞 で あ る と 考 え る 。 ま た 、 ﹁ 姫 松﹂ に関し ても た い。 し か し 、 ﹁ 安 松 ⋮ ﹂ 以 下 の 地 名 列 挙 も 道 行 の表 現 と し て は 順 そ の よ う に し て難 行 苦 行 し な が ら 修 行 者 た ち が 熊 野 への道 を 歩 い て 迫 った り し た 時 に は 、 思 い 出 し て 口 ず さ む こ と も あ った で あ ろ う 。 通 って 行 った の であ る 。本 歌 謡 か ら は そ の よ う な 情 景 ま で も が 感 じ 序 通 り に な って い な い こと か ら 、 ﹁ 安松 ﹂﹁ 姫松﹂ ﹁ 五葉松﹂と並 べる こ と は 瑞 木 ・霊 木 と し て の ﹁ 松 ﹂ の物 尽 し と ﹁ 松 ﹂ の連 鎖 で あ る と 最 後 に、 本 歌 の特 質 とし て は 、 苦 行 と し て の熊 野 参 詣 を 椰 楡 す る られ る。 今 様 で あ り 、 前 歌 の 二五 六 歌 、 次 歌 の 二五 八歌 ・次 々歌 の 二 五 九 歌 いうことは指摘できる。また、︻ 語 釈 ︼ で述 べた よ う に ﹁ 五葉松﹂は わ れ て い た こと な ど か ら、 特 に め でた い木 と し て 認 識 さ れ て い た 民 こ 庭 木 と し て 評 価 さ れ 、 木 曽 地 方 や 鹿 児 島 で の祝 い 歌 の語 句 と し て使 お の表 現 と対 比 ・対 照 し て考 え て お き た い。 これ ら の 一連 の熊 野参 詣 六 歌 ) と 熊 野 参 詣 の広 大 慈 悲 の御 利益 を 讃 え な が ら も、 ﹁ どれ近し、 る 。 す な わ ち 、 ﹁熊 野 へ参 る には ⋮紀 路 も 伊 勢 路 も 遠 か らず ﹂ (二 五 の今 様 に は そ れ ぞ れ ﹁お か し み﹂ ﹁ 烏濡﹂ が含 まれ ているから であ ( 易 し .安 し ) ﹁ 姫松﹂ ﹁ 五葉松 ﹂ ﹁ 千 里 の浜 ﹂ と 名 所 や ﹁ 松尽し﹂ で さらに、前句 の ﹁ 何 か 苦 し き 修 行 者 よ ﹂ か ら続 い た 場 合 、 ﹁ 安 松﹂ 俗 観 念 が あ った こと が わ か る 。 語 句 を 続 け る こ と に よ り 、 実 際 に熊 野 参 詣 を し て い る 際 の苦 行 で 張 ﹁ 一 54 ど れ遠 し ﹂と戯 け て選 ば せ る よ う な 文 句 を 使 って熊 野 詣 に 勧誘 す る 。 し か し 、実 際 の熊 野 詣 は そ う 簡 単 な も の では な か った 。 ﹁ 熊 野 へ参 る に は 、 何 か 苦 し き 修 行 者 よ ﹂ (二 五 七 歌 ) の よ う な 難 行 苦 行 の状 態 の連 続 で あ り 、 必 死 に ﹁ 安 松 ⋮ 千 里 の浜 ﹂ と気 分 を 逸 ら す よう な文 句 を 続 け た が効 果 は な い。 結 局 ﹁ 熊 野 へ参 ら む と 思 へど も ⋮ 空 よ り 参 ら む 、羽 賜 べ若 王 子 ﹂ (二五 八歌 ) と 、少 し投 げ や り な 、諦 め た感 じ にな って ﹁ 羽 賜 べ若 王 子 ﹂ と 懇 願 す るよ う な参 詣 者 の様 子 を 想 起 さ せ る 。 ま た、 ﹁ 歳 は ゆ け ど も若 王 子 ﹂ (二 五九 歌 ) と 戯 れ の文 句 で う た う と こ ろは ﹁ おかしみ﹂ ﹁ 烏 濡 ﹂ の典 型 で あ ろ う 。 しか し 、 これ らの ﹁ お かしみ﹂や ﹁ 烏 潜 ﹂ と い った 椰 楡 に は 、 そ の 反 対 に 位 置 す 二六 四歌 ・ ゑ ・ ー 冨 日矛 ー ア 仏 畝 獅 i え ∼ み ノ セ ・ ) 与 ノ﹂ く れ ・ /! ひ ぞ 鈴 そ 侭 よ { ・ぶ 、 け ,{ 了 す 九 ゐ 潟 ち 必 . マ え ∼ -㍗ コミ か ∼ ー 津∼ てア ? ・ た ち め あ -ー あ, ー ・ ∼ ・ りー ー な ー ︻ 翻 刻︼ ○ か ね の みた け は 四 十 九 ゐ のち な り 、 を う な は る 熊 野 詣 の信 仰 に対 す る 喜 び や 確 か さ を 強 調 ・主 張 す る こ と に つな が ると 考 え るか ら で あ る 。 す な わ ち 、 そ れ ほ ど 熊 野 参 詣 が難 行 苦 行 みたり 百日千日は見し かとえしり給はす 、にはかに む であ り な が らも 、 そ の功 徳 や 御 利 益 が 大 き く 、 参 詣 す る価 値 が あ っ あ ら は か し た て ま つる 、 ○ 金 の御 嶽 は 四十 九 院 の 地 な り ︻ 校 訂本 文 ︼ には か に 仏 法 僧 達 の 二 人 お は し ま し て 姐 は百日千日は見しかど 仏 法 そ う た ち の ふ た り お は し まし て 、 お こな ひ 学) た の であ る 。 だ か ら こ そ 、 熊 野 詣 の苦 し さ や 大 変 さ と 熊 野権 現 の御 ( 西川 利 生 が 今 様 にう た わ れ、 苦 行 と し て の 熊 野 詣 を 椰 楡 す る こ と が 本 歌 や熊 野詣 の今様 の特 質 であ った の では な いだ ろ う か 。 え 知 り給 は ず 行 ひ現かし奉 る 四十 九 ゐ← 四 十 九 ゐん の ﹁ ん ﹂ の脱 落 ま た は無 表 記 と 見 る 。 ︻校 訂 ︼ ﹁ ふ た り﹂ の右 下 に 小 字 で ﹁み た り ﹂ と あ るが 、 本 文 と し ては ﹁ ふたり﹂ をとる。 一 ︻ 55 ︻類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ ・金 の 御 嶽 は 一天 下 稲荷 も八幡も木嶋も 打 つ鼓 (二 六 三 ) 打ち上げ打 ち下し面白や 人 の参 ら ぬ 時 ぞ な き 金 剛蔵王釈迦弥勒 ・金 の 御 嶽 に あ る 巫 女 の (二 六 五 ) 響 き鳴れ こ の音 の絶 え せ ざ る ら む ていとんとうとも響き鳴れ 如 何 に 打 てば か 我 等 も参 らば や 打 つ鼓 かね 奈 良 県 吉 野 郡 の金 峰 山 。 ﹃う つほ物 語 ﹄菊 の宴 に ﹁ 金 ︻諸 説 ︼ かね のみ たけ 諸 注 、金 峰 山 の こと とす る。 四十九 ゐ 諸注 、弥 勒 菩 薩 の浄 土兜 率 天 の内 院 四十 九重 摩 尼 宝 殿 の ことと す る。 をう な 諸 注 、老 巫 女 の自 称 と す るが 、 § 榎 集 成 は ﹁老女 ﹂ とし て 、巫女 と は 限定 し な い。 百 日千 日 ﹁修 験道 に あ る百 日修 行 、 千 日修 行 を 言 つ て居 る﹂ (( 6)荒 井 評 釈 )。 ( ⑳ 全 注 釈 も従 う。 ﹁百 日ま た は 千 日 を 一期 とす る修 験 道 の苦 行 か ﹂ (( 四 全集 負 ) 新 全集 琵 ) 完 訳)。 ﹁百 日 ・千 日 の期 間 を定 め て﹂ (( 坦 新大 系)。 みし か ど ﹁ 修 行 も し て見 たが ﹂ (( 6) 荒井 評 釈)。 ﹁お 仕 えし て みた け れ ど﹂ (( 9) 大 系 § 全 集 3 新 全集 ⑯ 完 訳 ⑳ 全 注釈 )。 ﹁兜 率浄 土 の相 を直 接 体 験 す る こと が でき た が﹂ (( 19)新 大 系 )。 え しり 給 はず ﹁[権 現 は] 見 向 き も され な か つた ﹂ (( 4)小 西考 )。 ⑳ 全 注 釈も 従 う。 ﹁仏 は認 め 給 はず ﹂ (谷 )荒 井 評釈 )。 ﹁[ 権 現 は ]お 降 り にな れ な く て﹂ (( 9)大 系 )。 ﹁権 現は 降 臨 さ れ な か った ﹂ (( 13) 全集 (14)新 全 集 ( 15) 完 訳)。 ﹁﹁え知 り た ま へず ﹂ の歌 い 詑 であ ろ う。 納 得 でき な か った﹂ (( 16) 榎集 成 )。 ﹁ 統 御 に は 、完 全 に 従 い 得 なか った﹂ (憩 新 大 系 )。仏 法 そ うた ち 諸 注 、仏 法 を行 う 僧達 と 解 す る が、( 19)新 大 系 は ﹁仏 法 は、 単 に 僧 の修 飾 語﹂ と し、 ⑯ 榎 集 成 は 、 ﹁そ う せんだち た ち﹂ を ﹁﹁先 達﹂ の誤 り か 。修 験 道 で 、行 者 の峰 入り の時 に案 内 役 を勤 め る者 を い う﹂ とす る 。お こな ひあ ら はか し た てま つる ﹁ 現 形 し給 ふ のであ る﹂ (( 4) 小 西考 )。 ﹁[仏 は ] 四十 九 院 の地な るこ と を示 現 し給 うた ﹂ (( 6) 荒 井 評 釈 )。 ﹁権 現 が姿 を 現 わ され るよ う奉 仕 し た﹂ (( 9) 大 系)。 ﹁[ 権 現 は] そ の修 行 の念 力 でお姿 が 現 れ る よ う にな った こと だ﹂ (( 13) 全 集 ( 14) 新 全 集 § 完 訳)。 ﹁ 祈 って (四十 九院 の有様 を )目 の前 に 現出 し た ﹂ (⑯ 榎 集 成 )。 ﹁仏 法僧 の修法 では [権 現は ] 姿 をあ ら わ され る ﹂ (( 20) 全注 釈 )。 [ ]内 は 稿 者が 補 った も の。 ︻語 釈 ︼ かね のみたけ みたけ 二 六 五歌 ( 佐 々 木 聖 佳 )。 の御 岳 ﹂ が 見 え る 。 吉 野山 か ら 山 上 ヶ岳 ま で約 二十 数 キ ロに 及 ぶ 一 連 の峰 続 き を さ し て呼 ぶ 。 ← 選 釈 第 一回 役 小 角 の修 行 地 と し て 知 ら れ (﹃ 元 享 釈 書 ﹄)、聖 宝 (八 三 二∼ 九 〇 九 ) が そ の跡 を 慕 って 、 長 く 金 峰 山 で 修 行 し 、 山 を 開 き 、 山 上 の奥 に 堂 宇 を 建 て、 如 意 輪 観 音 、 多 聞 天 王 、 金 剛 蔵 王 菩 薩 権 現 を 安 置 し 、 大 峰 と熊 野 と を 結 ぶ コー スを 開 いた (﹃元享 釈 書 ﹄ ﹃聖 宝 僧 正伝 ﹄ )。 金 峰 山 信 仰 の対 象 は 蔵 王権 現 であ り 、 平 安 時 代 に は皇 族 貴 族 の御 嶽 詣 弥 勒 菩 薩 の浄 土 ・兜 率 天 内 院 の 四十 九重 摩 尼 宝 殿 。 観 弥 が盛ん に行われた。 四十九 ゐ 勒 菩 薩 上 生 兜 率 天経 ( 弥 勒 上 生 経 ) に は 、宝 珠 が空 中 で旋 回 し 、 ﹁四 十 九 重 微 妙 宝 宮 ﹂ と 化 し た こ と が 見 え る。 弥 勒 信 仰 に は 、 釈 迦 入 滅 後 、 五 十 六億 七 千 万 年 を 経 て こ の 世 に 出 現 し 、 衆 生 を 救 済 す る と 伝 え ら れ る弥 勒 が 、 兜 率 天 か ら こ の 世 界 に 下 っ て来 る のを 待 望 す る 下 生 信 仰 と 、 そ れ ま で待 て な い の で現 在 弥 勒 菩 薩 が い る 兜 率 天 に 死 後 生 ま れ 変 わ る こと を望 む 上 生 信 仰 が あ る が 、 兜 率 天 が 重 要 な意 味 を ( 九 五 一∼ 九 六 〇 ) に な った ﹃義 楚 釈 氏 六帖 ﹄ 第 二十 一 ﹁日本 国 ﹂ の条 に ﹁ 都城南 五百 持 つ のは 後 者 に お い て であ る。 中 国 後 周 の時 代 余 里 有 金 峰 山 、 頂 上 有 金 剛 蔵 王 菩 薩 、 第 一霊 異 、 ⋮ ⋮ 菩 薩 是 弥 勒 化 の浄 土 とす る 考 え 方 は 、 平 安 時 代 中 期 に は 存 在 し て い た こ と が わ か 身 ﹂ と あ る の で、 蔵 王 権 現 は弥 勒 菩 薩 の化 身 であ り、 金 峰 山 を 弥 勒 る。 ﹃ 源 氏物 語 ﹄夕 顔 巻 に は 、夕 顔 の宿 で過ご し た 源 氏 が 明 け 方 に 聞 く音を記し て ﹁ 御 嶽 精 進 に や あ ら ん 、 た だ 翁 び た る声 に額 つ く そ 聞 こゆ る。 ⋮ ⋮ ﹁ 南 無 当 来 導 師 ﹂ とそ 拝 む な る ﹂ と す る 。 ﹁ 当来﹂とは 一 ﹁ 56 ひし か ば 奉 い て き 召 し し かば 姫 が 心 のし ど け な け れ ば いと わ 勝 つ世 な し 何 を崇 り た ま ふ 若 宮 の 弟 の 男 子 は 宇 佐 の大 宮 司 が 早 船 舟 子 に請 御 前 ぞ (三 六 三) 神 も 仏 も御 覧 ぜ よ 姐 が 子 ど も の 有様 は 奉 てき こと を 述 べる 言 葉 であ る 。 金 峰 山 に 参 籠 す る のに 先 立 つ精 進 潔 斎 の 将 来 、 来 世 の意 で、 ﹁ 南 無 当 来 導 師 ﹂は 未 来 仏 であ る 弥 勒 に帰 依 す る 場 で も弥 勒 への祈 り が 捧 げ られ て い る こ と が 確 認 で き る 。 鎌 倉 時 代 禅 師 は ま だ き に夜 行 好 む め り 冠 者 は 博 打 の打 ち 負 けや の内 院 に し て﹂と あ る 。 一方 で、蔵 王権 現 は釈 迦 と の 関 わ り も 深 く 、 初 期 に は成 立 し て い た ﹃諸 山 縁 起 ﹄ に も ﹁ か の金 峰 山 は こ れ 兜 率 天 び し (三六 六 ) こ れ ら の例 では いず れ も、 特 に 、 我 が 子 の状 況 、 境 遇 に 関 し て、 ま ﹃扶 桑 略 記 ﹄ 天慶 四 年 ( 九 四 一) 三 月 に 引 く ﹃道 賢 上 人 冥 途 記 ﹄ に は 、 道 賢 が 山 中 で出 会 った ﹁ 大和尚﹂ の ﹁ 我是牟尼化身。蔵 王菩薩 まならぬ身を嘆く老母 が ﹁ 姐 ﹂ と い う 自 称 を 用 い て い る 。 二六 四歌 祈 り を 捧 げ 、 何 ら か の願 を 立 てた 一般 の老 女 と も 考 え ら れ よ う が 、 一 の主 体 は 、 あ る いは 三 六 三 歌 の若 宮 に祈 る 姐 のよ う に、 蔵 王権 現 に 弥 勒 菩 薩 の 浄 土 を 何 と か 見 よ う と す る、 金峰 山 に 関 わ る女 とし て は 57 (一〇 〇 七 ) 八 月十 一日 に、 金 峰 山 山 頂 に 埋 納 し た 経 巻 の容 器 ・金 銅 諸 注 が 指 摘 す る よ う に 巫 女 の よ う な 女 性 祭 祀 者 が 考 え や す い。 金峰 也 。 此 土 是 金 峰 山 浄 土 也 ﹂ と いう 言 葉 が見 え 、 藤 原 道 長 が 寛 弘 四年 山 は 、 ﹃う つほ 物 語 ﹄菊 の宴 に ﹁い み じ き大 願 を た て、あ る は山 に ま 蔵王権現﹂ とある。鎌倉時代 末期 か ら 室 町 時 代 初 期 に か け て 成 立 し た ﹃金 峰 山 創 草 記 ﹄ ﹁ 諸 神 本 地等 ﹂ 経 筒 の銘 文 には ﹁ 南無教 主釈迦 未来弥勒﹂ とあり、 ﹃ 梁塵 ﹁ 金 剛 蔵 王釈 迦 弥 勒 ﹂ と あ る じ り て、 金 の御 岳 、 越 の白 山 、 宇 佐 の宮 ま で参 り 給 ひ つ つ、 願 し申 現在千手 秘 抄 ﹄ 二六 三 歌 に ﹁ 金 の御 嶽 は 一天 下 し 給 は ぬ 人 な き 中 に も ﹂ と あ って 、大 願 を 立 て る山 の 一つであ った 。 き 巫 女 ﹂が い たが ( ← 選 釈 第 一回 過去釈迦 の も 、蔵 王 権 現 が 釈 迦 、 弥 勒 と 結 び つ い て いた 信 仰 関 係 に よ る 。 時 こ の金 峰 山 に は 願 を 占 い、 託 宣 を し てど ん な 願 を も か な え る ﹁正し 歌 の場 合 、 こ の姐 と神 と の交 信 が 成 功 し て い ると は言 い 難 く 、 少 な には、 ﹁ 金剛蔵王 正 頭略 縁 起 ﹂ に は 、 金 峰 山 に つい て ﹁ 誠 哉 、 金 胎 両部 秘 密 の道 場 に 代 は 下 る が 、 江 戸 時 代 前 期 に 成 った と 推 測 さ れ る ﹁ 吉 野 山 二 月会 式 し て 、 法 身 毘 盧 の体 性 直 に 曼 陀 羅 世 界 な り 。 四十 九所 の 霊 地 に は 六 くとも 佐 々 木 聖佳 )、 二 六 四 万 九 千 の印 文 を 符 し 、 三 百 八 十 の窟 に は善 神 塾 て 峯 を 護 る ﹂ と あ っ 僧 の力 に よ って現 出 し た 四 十 九 院 の 目 撃 者 と し て の働 き を 担 っ て い 二六五歌 て、 兜 率 天 内 院 の 四十 九 重 摩 尼 宝 殿 の 一つ 一つと 現 実 の 金 峰 山 四十 ﹁ 正 し き 巫 女 ﹂ と ま では 言 え な い よ う に 思 わ れ る 。 し か し 、 九 か所 の 霊 地 と を 対 応 さ せ て い く よ う な 把 握 が 見 ら れ る 。 え し り 給 はず ﹂ を ﹁ ト ラ ン 尼 が 自 ら 語 る響 きが 籠 め ら る こ と は 重 要 であ ろ う 。 な お 、 阿 部 泰 郎 は 、 金 峰 山 に ま つわ る ト ラ は見しかど ン 尼 伝 承 を 視 野 に 入 れ 、 ﹁姐 ﹂ を す な わ ち 都 藍 尼 と し て、 ﹁百 日 千 日 老女 。 こ こ では 、 歌 の主 体 の自 称 。 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄ に は 、 ﹁ 姐﹂ 二位 中 将 殿 の 厨 雑 仕 に の 用例 が 他 に 二例 あ る 。 ︼人 の 女 子 は を うな 姐 が 子 ど も は た だ 二人 切 り と す る 修 験 道 の修 行 の例 は 多 く 見 ら れ る が 、 ﹁ 姐﹂ は修 験者と 百日千 日 給 へる さ ま を み奉 らざ ら む こそ 恋 し か ら め ﹂ ( 竹取物語) のように、 見 る の意 に と っ て い る た め であ ろ う が 、 そ の場 合 、 ﹁ 老 いお と ろ へ 系 以下が ご と く 、 補 助 動 詞 のよ う に 用 い ら れ る こ と が 多 い。 ま た 、 ( 9) 大 よ う だ が 、 そ の 場 合 ﹁女 も し て み ん と てす る な り ﹂ ( 土 佐 日記 ) の は 考 え に く く 、 修 験 道 の修 行 と いう よ り は 、 参 詣 の 区切 り と し て の 強 者 の立 場 か ら 弱 者 の 世 話 を す る こと を 言 う の で、 媚 が 蔵 王権 現 に ( 6) 荒 井 評釈 が 指 摘 す る よ う に、 百 日 ま た は 千 日 を 区 日 数 で あ り 、 さ ら に は 、 長 い時 間 を 象 徴 的 に 表 す も の と 考 え ら れ 仕え ることを ﹁ 見 る﹂ と い う のは や や 違 和 感 が あ る 。 従 って こ こ で れ て い る であ ろ う﹂ とす る ( 考 察 参 照 )。 る。﹃ 古 本 説 話 集 ﹄ 下 ・六 六 に ﹁( 比 叡 山 ノ僧 ガ 鞍 馬 寺 二) 百 日 ま ゐ ﹁ お 仕 え し て みた け れ ど ﹂ と す る の は 、 ﹁ 見 る﹂を 面倒を り け り ﹂ と あ り 、 そ の 後 、 清 水 、 賀 茂 に も 百 日 詣 を し て い る 。 ﹃発 に ﹁不 曾 有 女 人 得 上 、 至 今 男 子 欲 上 、 三 月 断 酒 肉 欲 色 、 所 求 皆 遂 ﹂ でを 二 度 し た り け り ﹂ と あ る 。 ただ し 、 金 峰 山 は ﹃義 楚 釈 氏 六 帖 ﹄ と る 説 が 多 く 、 そ れ が 穏 当 でも あ る が 、 諸 注 、 ﹁え ⋮ ⋮ず ﹂ と いう 敬 の補 助 動 詞 ( 四段活用)が使 われているため、主語 を蔵王権現と え し り給 は す ら 祈 り 、 見 続 け た の であ る 。 の浄 土 、 四 十 九 院 の有 様 を 何 と か し て見 た い と 願 を立 て て、 ひた す と あ り、 女 人禁 制 であ った 。 従 って 参 詣 と い っ ても 、 結 界 の外 側 、 不 可 能 を 表 す 表 現 であ ると こ ろ に 注意 を 払 って いな い点 は 再 考 の余 は 、 単 純 に 、 存 在 す る も のを 見 る意 で捉 え た い。 ﹁ 姐 ﹂ は 、弥 勒 菩 薩 女 の身 と し て行 く こ と の で き る 境 界 ま でと い う こと で あ ろ う 。 ﹃梁 地 が あ ろう 。 ( 9) 大 系 は 権 現 が ﹁ 京 よ り 日 吉 の社 へ百 日参 る ﹂ 僧 が 登 場 し 、 塵 秘抄 口伝 集 ﹄ 巻 十 に は ﹁ あ る いは 七、 八 、 五 十 日、 も し は 百 日 の 心 集 ﹄ 巻 四 ノ 一〇 には 歌 な ど は じ め て の ち、 千 日 の歌 も う た ひ と ほ し てき ﹂ と見 え 、 今 様 に く い 。 歌 唱 上 の 詑 伝 と いう 考 え 方 を 安 易 に 適 用 す る の は避 け る べ 権 現 が 自 ら の意 志 に 反 し て降 り る こ と が で き な いと い う状 況 は 考 え ﹃宇 治 拾 遺 物 語 ﹄ 巻 六 ノ 四 に ﹁(生 侍 ガ ) 清 水 へ人 ま ね し て、 千 日 詣 の稽 古 日 数 の ひと ま と ま り と し て、 百 日 、 千 日 が 取 り 上 げ ら れ て い 見 ら れ る 。 二六 四 歌 では 、 ﹁ 百 日 千 日 ﹂ 参 籠 し 続 け る姐 に 対 し て、 もあり、 ここでの ﹁ 百 日﹂は、独り寝 の長い期間を誇張 した表現と 従 って 、 ﹁ え 知 り た ま へず ﹂ の歌 い詑 と し 、 ﹁ 給 ふ ﹂ を 下 二段 活 用 の 動 と結 果 と いう 構 成 を と って い る と 考 え ら れ るた め 、 ⑯ き で は あ るが 、 当該 歌 は 、 前 半 が 姐 の行 動 と 結 果 、 後 半 が僧 達 の行 ﹁ お 降 り に な れ な く て﹂ と す る が 、 見 届 け 申 し 上げ る こ と が でき ず 。 ﹁ 給 ふ﹂ という尊 る 。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ 今 様 に は ﹁ 百 日 百 夜 は ひ と り 寝 と ﹂ (三 三 六 ) の例 ﹁に は か ﹂ に 現 れ た僧 達 が 対 置 さ れ 、 長 い無 変 化 の時 間 と 急 激 な 変 補 助 動 詞 と 捉 え 、 姐 の謙 譲 表 現 と 解 し た い。 な お 、 ( 19) 新 大 系 は 統 御 に は 、 完 全 に 従 い得 な か った ﹂ と し 、 主 語 を姐 と と っ て い る点 ﹁みし か ど ﹂ 以 下 を ﹁ 兜 率 浄 土 の相 を 直 接 体 験 す る こ と が でき た が 、 榎集 成に 化 の対 照 が 鮮 や か に 描 か れ て い る 。 見 しか と ( 金 峰 山 の様 子 を ) 見 続 け た が 。 ( 6) 荒 井 評 釈 の ﹁ 修行 も し て 見 た が ﹂ は 、 ﹁み る ﹂ を 試 み る、 た め す の意 味 で 解 し て い る 一 一 58 ︻ 考察 ︼ 姐 が 長 い時 間 祈 って も 見 る こ と の でき な か った 四 十 九 院 の有 様 を 、 は 首 肯 でき る が 、 ﹁ 兜 率 浄 土 の相 を 直 接 体 験 す る こと が で き た ﹂ と 御 ﹂ が 誰 の 何 に つい て のも の か 示 さ れ な い 点 で従 い が た い 。 ま た 、 金 峰 山 が 現 世 に顕 現 す る弥 勒 浄 土 で あ る こ と を 褒 め 讃 え た 一首 。 前提と して、姫が ﹁ 兜 率 浄 土 の 相 を 直 接 体 験 す る こと が でき た ﹂ と つ、 こ の鮮 や か な 絵 画 的 印 象 は 、 兜 率 天 曼 茶 羅 と い った 、 絵 画 の 影 突 如 現 れ た 二人 の僧 が 鮮 や か に 現 出 せ し め た こ と を 歌 う 。 今 様 の持 ﹁ 統 御 に は、 完 全 に 従 い得 な か った ﹂ の逆 接 関 係 が 明 確 でな く 、 ﹁ 統 す ると 、 後 半 の僧 達 と の対 比 が 成 り 立 た な い よ う に 思 わ れ る 。 す る こ と な く 、 広 大 な 兜 率 天 の情 景 を 傭 轍 す る よ う に 描 い て い る 。 京 都 ・興 聖 寺 本 お よ び 大 阪 ・延 命 寺 本 で あ る。 いず れ も 主 尊 を 強 調 ( 十 三世紀)製 作の いた 兜 率 天 曼 茶 羅 の現 存 最 古 の 例 は 、 鎌 倉 時 代 響 に よ る も のと も 考 え られ よ う 。 弥勒 菩 薩 の住 む 兜 率 天 の様 子 を描 て ﹁ 仏 法 僧 達 ﹂ と つなげ た も の で あ ろ う が 、 僧 の 力 の 強 調 表 現 に も ( 仏 と、仏 の教え と、 仏法 そうたち な って い よ う 。 仏 法 僧 を 三 宝 と い う と ころ か ら 、 僧 の こ と を ﹁ 仏法 す な わ ち 、 弥 勒 菩 薩 の説 法 す る 三 層 の宮 殿 を 中 心 に し て 、 そ れ を 取 仏 法 を 行 う尊 い 僧 達 。 仏 法 僧 仏 の教 え に 従 っ て修 行 す る僧 の 三者 ) を い う表 現 か ら 言 葉 遊 び と し 僧宝﹂と いう例もある ( 三 宝 絵 ・下 ・二九 )。 り 囲 む 楼 閣 、 廻 廊 な ど 、 壮 麗 な 四十 九 院 の 様 子 を 表 現 す る 。 宮 殿 の ( 僧 た ち は ) 祈 って (四十 九 院 の お こな ひあ ら は か し た て ま つる 前 面 に は 池 が あ り 、 舟 が 浮 か び 、 宮 殿 内 の道 に は 人 々が 行 き 交 う 。 榎集 成 の 全注釈 ) 、 冒 頭 の ﹁金 の御 嶽 ( 6)荒 井 評 釈 は 、 ﹁ 下 二句 には 伝 説 が あ る か も 知 れ ぬ が 、 今 の所 捜 メ ー ジ を 与 え 、 鮮 烈 な 印 象 を も た ら し た の で は な いか 。 絵 画 に 描 か れ た 世 界 は 、 二六 四 歌 を 聞 く人 々 に よ り 一層 具 体 的 な イ え よ う 。 平 安 時 代 に さ か のぼ る 例 は 現 存 し な い も の の、 こ のよ う な ま さ に 、 き らび や か な ﹁ 四 十 九 院 の地 ﹂ の 様 子 を う つし て いる と 言 完訳 ⑳ ( 9) 大 ら れ て い るた め、 主 語 は 権 現 では な く 、 僧 達 と 考 え ら れ る 。 現 れ た 新全集 3 ( ( 4) 小 西考 有 様 を ) 目 の前 に 現 し 申 し 上 げ た 。 ﹁ 奉 る﹂ と い う謙 譲 表 現 が 用 い 全集 9 も の に つ い て は権 現 の 姿 と す るも の が 多 いが 系 8 は 四十 九 院 の地 な り﹂ と の対 応 か ら、 ( 6)荒 井 評 釈 ・愈 よ う に 四 十 九 院 の有 様 と と り た い 。 ﹁ あ ら は か し﹂ に つい て は 、 ( 坦 都 藍 尼 が 金 峰 山 に 登 った こ と を 記 す も の であ る 。 よ り く わ し い 記 述 剛 蔵 王 本 地 垂 習 事 を あ げ る 。 前 者 は 、 仏 法 を 修 し 、 仙 術 を学 ん だ に引 く 都 藍 尼 の説 話 と十 三 世 紀 末 に 成 立 し た ﹃金 峰 山 秘 密 伝 ﹄ の金 打 聞 集 )、 ﹁ 目 ヲイ カ ラ カ シ ﹂ ( 法 華百座 聞書抄) など、 語尾 の ﹁ か のあ る ﹃本 朝 神 仙 伝 ﹄ に よ る と 、 仏 法 を 修 行 し 、 不 老 長 寿 を 得 た 都 し 得 な い 故 に 、 之 に 近 い 二伝 説 を あ げ てお く﹂ と し て、 ﹃ 扶 桑略記﹄ す ﹂ は 院 政 期 か ら 漸 増 し鎌 倉 時 代 に な って 一層 用 いら れ る に至 った 藍 尼 は 、 精 勤 の末 に 己 が 威 力 を 侍 み 、 金 峰 山 に禁 じ 登 ろう と し て 天 新 大系 口頭語集覧が詳 しく解説す るよ うに、 ﹁ あらはし﹂ が平安 時 口 語的 表 現 であ る。 院 政 期 の 流 行 歌 謡 た る今 様 に そ の早 い例 が 見 え 代 の 文 法 規 範 に適 った 言 い 方 であ るが 、 ﹁思 メ ク ラカ シ テ﹂ ( 長承本 る の も う な ず け ると こ ろ で あ る 。 [ 一 59 弥 勒 の出 世 を 待 つた め に 、 金 剛 蔵 王 が こ れ を 守 ってお り 、 戒 め の地 が 頂 上 に 到 れ な か った 理 由 と し ては 、 金 峰 山 は 黄 金 を 地 に敷 い て、 変 地 異 を 蒙 り 、 遂 に 上 に 到 る こと が か な わ な か った と い う 。 都 藍 尼 う ﹂ と す る (﹁ 女人禁制 と推参﹂ ︿ 大 隅 和 雄 ・西 口順 子 編 ﹃シ リ ー ズ し り給 は ず ﹂ を ﹁ト ラ ン 尼 が 自 ら 語 る 響 き が 籠 め ら れ て い る であ ろ 先 に 述 べた ト ラ ン 尼 伝 承 を 視 野 に 入 れ 、 ﹁ 百日 千日は見し かど い っそ う そ の 感 動 が 強 調 さ れ て い る よ う に 思 わ れ る。 阿 部 泰 郎 は 、 を 思 い 浮 か べ る こ と は 容 易 で あ った ろう し 、 ﹁ 娚 ﹂ に具体的な 形象 頂 上 に 何度 も 撃 じ 登 ろ う と し てか な わ な か った 女 性 と し て、 都藍 尼 一九 八 九 年 ﹀)。 ﹁ 姐 ﹂ 目都 藍 え と し て女 人 を 通 わ せ な い 故 と さ れ て い る。女 人禁 制 に つい て は 、 ﹁ 百 女性 と仏教 ( ﹃金 峰 山 秘 密 伝 ﹄) ほ か 、 ﹃沙 巫と女神﹄ 平凡社 尼 とま で は 言 いき れ な い で あ ろ う が 、 二六 四歌 を 聴 く者 が 金 峰 山 の て 、 祈 願 に 応 じ て神 楽 を あ げ て いる 四 のか は 判 然 と し な い。 金 峰 山 の子 守 神 社 、 勝 手 神 社 に は 巫 女 が い 日 千 日 ﹂ の語 釈 で も触 れ た が 、 具 体 的 に ど の辺 り ま で女 人 が 入 れ た 石 集 ﹄ 巻 一、 ﹁ 神 明 は 慈 悲 を 貴 び 給 ふ 事 ﹂ に は 、 三輪 の上 人 常 観 房 を 与 え る 点 で都 藍 尼 は 重 要 な 人 物 であ る 。 蔵 王 垂 縁 起 井 大 峯 修 行 伝 記 ﹄ に よ ると 、 都 藍 尼 が 金 峰 と 熊 野 の 双 6 0 ﹁ 平安時代 末∼鎌倉時代初期 に成立し た ﹃ 熊 野 三 所 権 現 金 峯 山金 剛 が吉野 で ﹁ 神 慧 き て舞 ひ 踊 り け る﹂ 巫 に行 き 会 った こと が 記 さ れ て 方 に ま た が る 巫 女 の家 系 (正 当 な 相 伝 の家 系 は 役 行 者 の 母 の出 身 家 い る が 、 そ の巫 女 は 金 峰 山 寺 の拝 殿 ま で常 観 房 を 連 れ て い った の で あ った 。 ま た 、 ﹃ 義 経 記 ﹄ に よ れ ば 、 義 経 と 別 れ て吉 野 山 中 を さ ま 系 高 賀 茂 氏 で あ る ) と 、 そ れ に よ る縁 起 相 伝 に 関 わ る存 在 で あ る こ は 、 い ま も 洞 川 の登 山 口 の傍 ら 、 旧 い女 人 結 界 の地 に 建 つ母 公 堂 に 一 よ って い た 静 は 、 金 峰 山 寺 蔵 王 堂 の祭 礼 に行 き 会 い、 衆 徒 た ち に す と が 窺 わ れ る 。 こ こ で動 乱 尼 ( 都藍尼)は高賀 茂氏相伝縁起を奪 い す め ら れ て 白 拍 子 を 奉 納 し て い る た め 、 吉 野 の 蔵 王 堂 ま では 女 人 で 取 るため に金峰 山に登 ろう とし て果た せず、 ついには山 が崩れ か さんじ ょう も 入 れ た こ と に な る。 本 来 の金 峰 山 寺 は 、 山 上 と 呼 ば れ た 山 上 ヶ 岳 の蔵 王堂 と將 か っ て死 ぬ ので あ る。 阿 部 は、 都 藍 尼 が 巫 女 の ﹁ 正 統 を 継 ぐ べき 者 祀 ら れ る役 行 者 の母 が ﹁ ト ラ メ ﹂ と 伝 称 さ れ て い る と こ ろか ら も 察 と呼ばれ た吉野 の蔵王堂を含 む広大な宗教空 間を 指 した ( ﹃金 峰 山 秘 密 伝 ﹄) が 、 明 治 時 代 以降 、 山 上 の蔵 王 堂 は 大 峰 でな く 、 女 人禁 制 の禁 忌 の験 の 厳 し き こと を そ の 違 乱 と 身 命 の破 滅 ケ 岳 へ向 か う と 五 番 関 が 女 人 結 界 と な ってお り 、 山 上 ケ 岳 の頂 上 付 せ ら れ る こ と だ ろ う ﹂ (前 掲 論 文 ) と す る 。 時 代 は 下 る が 、 熊 野 比 しるし 山 寺 と し て 、 山 下 の蔵 王 堂 は 金峰 山 寺 と し て 別 個 の寺 と な った 。 先 の女 性 祭 祀 者 の 一種 普 遍 的 な イ メ ー ジ を 喚 起 す る 響 き を 持 つ こ と を も って賊 う 、 陰 画 的 な 伝 承 像 で あ る 。 し か し そ の名 が 、 こ の霊 地 近 は今 で も 女 人 禁 制 であ る 。 二六 四歌 の姐 は 、 最 終 的 には 至 近 距 離 丘 尼 の唱 導 、 勧 進 に 携 え ら れ た と 思 し い ﹃比 丘 尼縁 起 ﹄ は 、 比 丘 尼 ネガ テ ィブ の中 世 の 例 か ら は 、 少 な く と も 山 下 の蔵 王 堂 ま で は 女 人 も 入れ た ら か ら 四十 九 院 の有 様 を まざ ま ざ と 見 て い るご と く に 歌 わ れ て お り 、 あがな し い こ と が 窺 わ れ る。 現 在 、 奥 駈 修 行 で、 金 峰 山 寺 蔵 王 堂 か ら 山 上 本 来 な ら ば 、 聖 域 に 入 り 込 む こ と の で き な い女 人 であ る が ゆ え に 、 出 離 菩 提 の た め に 伊 勢 熊 野 に 参 詣 し て 、 世 に伊 勢 比 丘 尼 、 熊 野 比 丘 の起 源 と し て 、 光 明 皇 后 が 出 家 し て 都 藍 と 名 の り 、 女 房 達 と と も に は 、 道 賢 は 、 最 初 、 執 金 剛 神 の 化身 で あ る 二 禅 僧 ﹂ に 出 会 い、 そ せ な いが 、 二 人 の僧 に あ た る可 能 性 と し てあ げ て お き た い。 あ る い さ ら に 迂 遠 な 関 係 に は な るが 、 金 峰 山 で出 家 し た道 賢 が 兜 率 天 の の導き で ﹁ 大 和 尚 ﹂ 蔵 王 菩 薩 に 出 会 う の で 、 ﹁一禅 僧 ﹂ ( 執 金剛神) い る こと は 、 阿 部 の指 摘 す る 、 都 藍 の名 が 金 峰 ・熊 野 双 方 に ま た が 外 院 と さ れ る笠 置 寺 で修 行 し て い た折 、 竜 穴 に 入 り、 二人 の鬼 神 に と ﹁ 大 和尚﹂ ( 蔵 王 菩 薩 ) の 二 人 と考 え る 余 地 も あ ろ う か 。 る ﹁ 霊 地 の女 性 祭 祀者 の 一種 普 遍 的 な イ メ ー ジ を喚 起 す る 響 き を 持 会 う話 が ﹃諸 山 縁 起 ﹄ に 見 え る。 二 人 の鬼 神 は 仏 法 を守 護 す る 天 童 尼 と言 い な ら わ し た と 記 し て い る 。 こ こ では 、 光 明 皇 后 と 都 藍 尼 と つ﹂ こと を 側 面 か ら補 強 す る も のと 思 わ れ 、 興 味 深 い 。 そ う し た 伝 ﹁こ の 土 は これ 兜 率 天 の外 院 な り 。 こ れ に 因 り慈 尊 の 聖 な る御 身 体 子 であ った 。 道 賢 が が 一体 化 し て い る が 、 都 藍 の名 が 熊 野 比 丘 尼 の起 源 伝 承 と 関 わ って 承 の広 が り を 背 景 に置 く と 、 二六 四歌 は 都 藍 尼 の伝 承 を持 ち 伝 え た を 顕 は し 奉 る ﹂と 答 え る 。笠 置 山 に ま つわ る こ の よ う な ﹁二人 ﹂ ( 僧 ﹁こ の土 は 何 れ の所 な る や ﹂ と 問 う と 、 二天 は ところ 女性祭祀者たちが自ら を ﹁ 姐 ﹂ と し て歌 っ て いく 歌 で あ った と 捉 え ら れ る の では な いか 。 そ こ で は 、 当 然 な が ら 、 伝 承 上 に生 き る 都 藍 では な い の で 厳 密 に は 一致 し な い が ) と の 問答 が 、 兜 率 天 を 介 し て は聖宝と ﹃ 道 賢 上 人 冥 途 記 ﹄ で知 ら れ る 道 賢 の 二 人 と いう 組 み合 わ 僧 を 見 出 す と す れ ば 、 役 行 者 と そ の跡 を 慕 った 聖 宝 の 二人 、 あ る い 一方 、 一つの 説 話 伝 承 の中 で は な く 、 歴 史 的 な 流 れ の中 に 二 人 の 金 峰 山 と も 結 び つ い て伝 承 さ れ た 可 能 性 も 考 え ら れ よ う か 。 尼 と 、 伝 承 者 た る 女 性 祭 祀 者 が 混 然 一体 と な る 場 合 も あ ろ う。 ( 6) 荒 井 評釈 が あ げ る後 者 は 、 役 優 婆 塞 と 金 剛 蔵 王 権 現 に ま つ ( 悪魔を降伏す お 姿 で は こ の国 の衆 生 を 導 く こ と は 難 し い﹂ と 言 う と 、 次 に弥 勒 の わ る 説 話 であ る 。 役 優 婆 塞 が 金 峰 山 で釈 迦 の像 に 出 会 う が 、 ﹁そ の 形 が 現 れ る。 ﹁ そ のお 姿 で も 無 理 で あ ろ う 。 降 魔 身 せ も 考 え ら れ るだ ろう か 。 ﹁ふ た り ﹂ の右 下 に 小 字 で ﹁ み た り ﹂ と あ る こ と に つ い て、 ( 6) 荒 る 姿 ) を 現 し て いた だ け な いだ ろ う か ﹂ と頼 む と 、 金 剛 蔵 王 の 愈怒 像 が 湧 出 し た と い う も の であ る 。 し ﹂ の縁 語 と し た の で は な い か と 思 ふ ﹂ と す る 。 ﹁ 古 い形﹂ かどう 井 評 釈 は ﹁こ れ が 古 い形 で ﹁三人 ﹂ に ﹁ 見たり﹂を かけ ﹁ 行 ひ現 か か は 確 定 し に く いが 、 ﹃ 金 峰 山 秘 密 伝 ﹄ の 金 剛 蔵 王本 地 垂 習 事 に 二人 の僧 と い う 点 では 、 役 優 婆 塞 、 釈 迦 、 弥 勒 、 金 剛 蔵 王 の 四者 見 え る 、 釈 迦 、 弥 勒 、 金 剛 蔵 王 の 三者 、 あ る い は 、 ﹃ 金 峰 山創 草 記 ﹄ が 登 場 す る ﹃金 峰 山 秘 密 伝 ﹄ の 金 剛 蔵 王 本 地 垂 習 事 よ り も 、 ﹃ 扶 わ し い よ う に も 思 わ れ る。 道 賢 は 金 峰 山 中 で ﹁ 大 和尚﹂ に出会う 桑略 記﹄天慶四年 ( 九 四 一) 三 月 に 引 く ﹃ 道 賢上人冥途記﹄がふさ ﹁ 諸 神 本 地 等 ﹂ に、 ﹁ 金剛蔵王 未来弥勒 ﹂と あ る、 釈 迦 ・千 手 観 音 ・弥 勒 の三 者 が 連 想 さ れ た 可 能 性 も あ る 。 あ 現在千手 が、 こ の 和 尚 は 釈 迦 の化 身 で あ り 、 蔵 王 菩 薩 で あ った 。 こ の道 賢 と 過去釈迦 ﹁ 大 和 尚 ﹂ が 、 四十 九 院 の有 様 を 現 出 せ し め た と い う 記 述 は 見 いだ 一 一 61 る い は 、 そ も そ も 、 本 文 は ﹁二人 ﹂ か ﹁三 人 ﹂ か の いず れ か で は な く 、 ﹁二人 三 人 ﹂ と 読 ま せ る た め の 小字 書 き 込 み と も 考 え ら れ 、 二 者 、 三者 の 組 み 合 わ せ と と も に 、 後 に 問 題 を 残 し て お く 。 金 峰 山 は 奈 良 時 代 に は す で に 日 本 の代 表 的 霊 山 に な って い た が 、 宇 多 上 皇 に続 き 、 平 安 時 代 中 期 に は 藤 原 道 長 ・頼 通 ・師 通 な ど 貴 族 層 の御 嶽 詣 が 盛 行 し 、 白 河 上 皇 に 至 っ て頂 点 に 達 す る ( ﹃金 峰 山 雑 記 ﹄)。二 六 四歌 は 、御 嶽 詣 の流 行 を 取 り 上げ 、女 性 祭 祀 者 の視 点 か ら 金 峰 山 11 弥 勒 浄 土 の素 晴 ら し さ を 讃 え た、 ま さ に ﹁ 今様﹂ ( 当世風) ( 植木朝子) 大將軍 、日 蚕 劇 蔵 王 ㍉ ー 職) の・影 ・、 き yλハ 天 神 〃・ む胤 廟 の 一首 であ ると 言 え よ う 。 二六 六歌 ユ∼ ザ㍗み れ 鴛 聚 たー 六誹 、 ・ f薩 メσ山 王 ・ ク ぞよ → ○ か み の め て た く 幽 むす る は 、 金 剛 蔵 王 は く旗 う ︻ 翻刻 ︼ 大 菩 薩 に し の みや 、 き を ん 天 神 大 将 軍 、 日 吉山 王かも上下 ︻校 訂 本 文 ︼ 西 の宮 祇 園天神 賀茂 上下 八幡 大 菩 薩 日吉山王 金剛蔵王 八幡と改 めた。 ︻ 語釈︼参照 。 底本 ﹁ わ ﹂右傍に ﹁ 王﹂とあ るが、 大 将軍 ○神 のめでたく験ず るは は く わ う← 八 幡 ︻校 訂 ︼ ︻ 類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ 王城 響 か いた う め る聲 頬 結 ひ の 一童 や 、 い ち ゐ さ り 、 ・神 の御 前 の現 ず る は、 早 尾 よ 山 長 行 事 の高 の御 子 、牛 の御 子 、 八幡 に松 童 善 神 、 こ こ に は 荒 夷 (二 四 五) (二四 二) .神 の家 の 小 公 達 は 、 八幡 の 若 宮 、 熊 野 の若 王 子 、 子 守 御 前 、 比 叡 に は 山 王 十 禅 師 、 賀 茂 に は 片 岡 貴 船 の大 明神 ・関 よ り 東 の 軍 神 、 鹿 島 香 取 諏訪 の宮 、 ま た 比 良 の 明神 安 房 の 洲 、瀧 の 口 や 小 口 、熱 田 に 八剣 、 伊 勢 に は 多 度 の宮 ( 二四八) 宮 、播 磨 に 広 峯 惣 三所 、淡 路 の岩 屋 に は 住 吉 西 の宮 ( 二四九) ・関 よ り 西 な る 軍 神 、 一品 中 山 安 芸 な る 厳 島 、 備 中 な る吉 備 津 ︻ 諸説 ︼ め てたく 諸注 ﹁ めでたく﹂ 。﹁ めでたくは ﹃ 愛でたく﹄の義から、有難く著 しくの意に用ゐたと思はれる。﹂( ⑥ 荒井評釈)﹁ 堂 々と﹂(璽 大系)﹁ りっ ぱな姿で﹂ ( ( 13)全集 貧)新全集 ( 葱 完 訳) ﹁ すばらしく﹂ ( ( 四 榎集成) ﹁ 堂 々﹂(葱 全注釈) けむす るは ﹁ 験ず るは﹂( ⑥己 歌謡集成 ( 菖 古典 全書 ( 息 荒井評釈 ⑯ 榎集成 ( 胆 新大系 ( ⑳ 全注釈)﹁ 現ずるは﹂ ( ( 1) 佐佐木注 ( 2)岩波文庫 ( £ 大系 ⑳ 総索引 § 全集 3 新全集 § 完 訳)金剛蔵王 ﹁ 金峰山に在す釈迦念怒神なる金剛蔵王権現 である。﹂(( 6) 荒井評釈)﹁ 金峰山 の金剛蔵王権現﹂ ( ( 馨 全集 3 新全集 § 完訳) ﹁ 金 峰山浄土の統率者で、大日如来が衆生教化のために大葱怒相 であらわれたも の。﹂( ⑳ 全注釈)はくわう大菩薩 ﹁ はくわう﹂ ( →)佐佐木注 穿)岩波 文庫 ( 3)歌謡集成 ( 四 総索引)﹁ 或は ﹁ 薬王﹂か﹂( ( 4)小西考 ( 菖 古典 全書) ﹁ 八幡神の名義を仏説にいふ八正道に出たとするならば 八方を意味す 一 一 62 る ﹁八荒 ﹂、 八 王子 の意 であ ると す るな らば ﹁八 王﹂、源氏 の守 護神 であ る と い ふ意 味 より す れば 源 氏 の重 宝 を さす ﹁八甲 ﹂等 の何れ か よ り、 ﹁は く わう ﹂ と いふ 異 文 が発 生 し た と は 考 へられ な い で あ らう か 。﹂⋮ ※萩 谷 論 文 ﹁ 萩 谷氏 説 の よう に 八幡 であ る べき で 、 ﹁ワう ﹂は 一字 とも 見 得 る ので ﹁宇 ﹂、秘 抄 歌 謡 に多 い ﹁ん ﹂相 当 の表 記 と考 え て ﹁八幡 (は ば う)﹂ と定 め た い 。後 の ﹃ぱ は ん ﹄に 当た る。﹂ (9 大 系) ﹁石清 水 の八幡 大 菩薩 をさ す か。﹂ (9 全集 9 新 全集 ⑭ 完 訳) ﹁﹁は ン﹂は ﹁ は ば﹂ (八幡 ) か。﹂ (@ 榎 集 成 ) ﹁徳 王大 菩薩 住 吉 明神 の本 地 、高 貴 徳 王大 菩 薩 ﹂ (( 6) 荒 井評 釈 愈 新 大 め で た く 。 立 派 です ぐ れ てい て、 褒 め称 え る に 値 す る対 系) 西 の宮 ﹁摂 津 国西 宮 神社 。 広 田神社 の西 にあ り、摂 社 に戎 宮 が あ る。﹂ (⑥ 荒 井 評釈 ) ﹁( 秘 抄 二 四九 歌 の注 と し て、)西宮 神 社 。広 田神 社 と す る説 もあ る 。﹂ (( 13) 全 集 (14)新 全 集 ) そ の他 先 行 注 は、 現 ・広 田 神社 と す る 。 き を ん 天神 諸注 、 現 ・京 都 の八坂 神 社 とす る。 ε 旧大 系 は 補 注 で ﹁天神 を 分 け て北 野 天満 天神 と す る こと も 考え ら れ るが 、日吉 山 王 と対 応 さ せた と 見 よ う 。﹂と 記す 。 大将 軍 ﹁祇 園社 の大 将 軍祠 か 。﹂ (T) 小西 考 ( ゑ 古典 全書)﹁ 現 称 は大 将 軍 八神 社 で 、素蓋 鳴 尊 以 下 八神 を祀 る。京 都 一条 に あ る。 古 く は大 将 軍堂 と いひ 、大 将 軍 神 をま つ つた。﹂ (( 6)荒 井 評 釈 ) ﹁大将 軍 八 神 社 。京都 市 上 京 区西 町 にあ る﹂ (§ 全 書 3 新 全集 § 完 訳 ⑭ 榎 集 成 ) ﹁大 将 軍 八神 社 。 方 除 守護 神 。 武 神 ・軍神 とし て尊崇 。﹂ (( 19) 新大 系) 日 吉 山王 諸 注 、滋 賀 県大 津 市坂 本 に鎮座 す る 日吉 大 社 の祭 神 ・日 吉山 王 権 現 とす る賀 茂上 下 諸 注、 上 賀 茂 ・下 賀 茂 の 両社 な い しは そ の祭 神 と す る。 ※ 萩 谷論 文 ⋮萩 谷 朴 ﹁梁塵 秘 抄 今様 歌 異 見 ﹂ (﹃国 語 と 国文 学 ﹄) ︻語 釈 ︼ め てた く ﹁ げ むず ﹂ と は 、神 仏 な ど が 示 現 し て霊 験 を 示し あ ら では 、 以 下 に列 挙 す る 神 々 の霊 威 の強 大 な る こ と を 讃 嘆 す る。 けむするは 口を 介 し て託 宣 を下 し た り 、 夢 中 に 登 場 し た り し 、 ま た 、 御 神 鏡 の わ す こと 、 ま た 、 姿 を あ ら わす こ と 。 こ こ で は 前 者 。 神 と は、 人 の 発 光 、 塚 や 堂 塔 の鳴 動 、 そ し て 天 変 地 妖 な ど の さ まざ ま な 超 常 的 現 象 に よ っ て そ の霊 威 を 発 動 す る も のと 考 え ら れ て い た 。 原 本 影 印 に コ 六 三 と そ 伽 む し た る﹂ (﹁ け ﹂ の右 ﹁ 三 十 三身 に 現 し て そ ﹂、 二 四 五 番 ﹁か み の みさ よ る ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の ﹁ げ む ず る﹂ 用 例 に は 、 本 歌 を含 め 以 下 の 四例 が あ る 。 一五 七 番 き の け む す るは ﹂、 三 六 七 番 ﹁ 験﹂ と採 るか、改 め て ﹁ 現 ﹂ と 当 て る か で説 が 分 か れ る 。 に ﹁ 現 ﹂ の 傍 書 )。 本 歌 で は 、 ﹁ け﹂ の右傍に ﹁ 験﹂ とあり、諸注そ のま ま ﹁ げむず﹂を ﹁ 現 ず ﹂ と 表 記 す る 例 と し ては 、 ﹃百 座 法 談 聞 書 抄 ﹄ ﹁ 目 連 イ カ } ス ヘカ ラ ム ト 思 テ神 通 ヲ現 シ テ イ カ メ シキ 大 威 徳 ノ 龍 王 ノ 形 ヲ現 シ テ﹂ や ﹃今 昔 物 語 集 ﹄ 二七 ・二 四 ﹁ 鬼 ノ 現 ハ ニ此 ク 人 ト 現 ジ テ見 ユル 事 ヲ﹂ が 、 ﹁ 験 ず ﹂ の例 と し て は ﹃今 昔 物 語 集 ﹄ 一六 ・ 八 ﹁ 等 身 ノ銅 ノ 正 観 音 ノ験 ジ 給 フ所 也 ﹂ や 同 二六 ・八 ﹁ 此 ノ 国 二験 ジ 給 フ神 ノ御 ス ルガ ﹂ な ど が あ る 。 今 、 表 記 に よ る 意 味 の差 異 は 見 一五 番 ﹁こ れ に す ぐ れ て め で た き ﹁青 柳 の や 、 や 、 い と ぞ め で た き や ﹂、 い だ せ な い。 本 来 の 表 記 と し て いず れ が ふ さ わ し い か は 問 題 とし て 番 残 る だ ろう 。 ひ と まず 原 本 傍 書 に 従 い ﹁ 験﹂ の字を当 てる ﹁和 歌 に す ぐ れ て め で た き は ﹂、 一三 〇 番 め でた く 舞 ふ も の 象 に用いる。 = は 、法 華 経 持 て る人 ぞ か し ﹂、 三 三〇 番 ﹁ よくく ←選釈 は ﹂。 神 仏 な ど に 対 し て 用 い る 際 に は 、 そ の神 威 ・霊 験 に 対 す る尊 金 剛 蔵 王 権 現 。 ﹃江 都 督 納 言 願 文 集 ﹄ 金 峰 山 詣 願 文 に ﹁ 夫 (一) 二 四五 歌 参 照 。 金剛蔵 王 ﹁ 我等 ﹁ 極 楽 浄 土 のめ で た さ は ﹂。 ま た 、 金峰 山 者 、金 剛 蔵 王 之 所 居 也 。﹂と み え る 。吉 野 金 峰 山 寺 蔵 王 堂 に 祀 ﹁ 真 言 教 のめ で た さ は ﹂、 六 六 番 が 宿 世 の め で た さ は ﹂、 一七 七 番 ら れ る 、 修 験 道 にお け る 主 尊 。 ﹃今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 十 一 ﹁ 役 優婆塞請 崇 の念 を あ ら わ す 。 四五 番 ひけ ん 、 いく 程 な く 攻 め 落 と さ る。 め で た か り し 神 威 な り ﹂。 本 歌 ﹃保 元 物 語 ﹄ ﹁ 彼 の 念 力 に 応 へて、 山 王 七 社 や 官 軍 に 入 り 替 ら せ た ま 一 一 63 ︻ 考察︼参照。 て いた と い う 京 都 市 南 区久 世 上 久 世 町 ) に あ り 、 京 の裏 鬼 門 を 守 護 す る 役 を 担 っ 第 一后 宮 の 重 篤 に つい て 、 ﹁ 公卿倉議 の上、吉 野山蔵 王権現 は王法 れる ﹁ 吉 野 山 二 月会 式 正 頭 略 縁 起 ﹂ に は、 保 元 二年 、 後 白 河 法皇 の こ と を 戒 め られ た と い う 話 な ど が あ る。 ま た 、 江 戸 期 頃 成 立 と 思 わ 石 山 寺 の条 の、 良 弁 が 蔵 王 権 現 の無 告 に よ っ て金 峰 山 か ら 金 を 採 る 記 ﹂ は 、 道 賢 が 蔵 王 の守 護 を 受 け 日蔵 と改 名 す る 話 や 、 ﹃元 亨 釈 書 ﹄ る 。 そ の 他 、権 現 の霊 験 諌 と し て、 ﹃扶 桑 略 記 ﹄ 所 載 ﹁ 道 賢上人冥途 弥 勒 の後 に ﹁ 青 黒 急 怒 ノ 像 ニ テ忽 然 ト シ テ ﹂ 蔵 王 が 湧 出 し た と 伝 え ﹃金 峰 山 秘 密 伝 ﹄ 上 ﹁金 剛 蔵 王本 地 垂 事 ﹂ で は 釈 迦 ・千 手 観 音 ・ は 釈 迦 ・弥 勒 の後 に て 一 か った のか を 説 明 せ ね ば な るま い 。 ま た 、 ( 6) 荒 井 評 釈 は 、 ﹁ 土佐 めに は、 なぜ住 吉 の名 のみを その本地 に置き換 え なけ ればな らな な っ て歌 わ れ る例 に よ っ て支 え ら れ て い るが 、 こ の説 を 採 用 す る た 二 四九 番 や 三六 五 番 な ど に 見 ら れ る よ うな 、 住 吉 と 西 宮 が 一揃 い と 高 貴 徳 王 菩 薩 ﹂ に よ っ て確 認 す る こ と が で き る 。 徳 王 大 菩 薩 説 は 、 跡於当朝墨江 辺 一 、 松 林 下 久 送 二風 霜 一 。﹂ や 、 ﹃宮 寺 縁 事 抄 ﹄ ﹁ 住吉 龍。御 託宣 云、 ﹁ 我 是 兜 率 天 内 高貴 徳 王 菩 薩 也 。 為 レ鎮 二護 国 家 一 、垂二 聞 集 ﹄ 一・五 ﹁ 住 吉 は 四所 お は し ま す 。 一御 前 は 高 貴 徳 王 大 菩 薩 乗レ これ に あ てる 。 住 吉 神 の本 地 が 徳 王 大 菩 薩 で あ る こ と は 、 ﹃古 今 著 井評釈 や ( 19) 新 大 系 は 住 吉 明 神 の本 地 仏 であ る ﹁ 徳王大 菩薩﹂を す な わ ち ﹃法 華 経 ﹄ 薬 王菩 薩 本 事 品 に説 か れ る菩 薩 か と し 、 谷 ) 荒 ← シ奉 リ 給 ヘル 也 。﹂ と あ り 、 役 小 角 が 吉 野 金 峰 山 で の修 行 中 に 感 得 持 呪 駆 鬼 神 語 第 三﹂ に 、 ﹁ 金峰山 ノ蔵王菩薩 ハ、此 ノ優婆塞 ノ行出 鎮 護 の誓 願 あ り 、 祈 請 あ る へし と て、 勅 使 権 現 に 参 籠 ま し く 幡 多 郡 田 ノ ロ村 日 の 浦 に 白 皇 権 現 が あ り 、 大 己 貴 命 を 祀 つ て あ る 。 諸 説ある。 ( 4) 小 西 考 や ( 5) 古 典 全 書 は ﹁ 薬 王﹂ 身 に 丹 誠 を 凝 し 給 へは 、 恭 も 権 現 御 枕 上 に立 給 ひ 。 尤 定 業 に し て遁 そ れ 故 近 畿 に大 己 貴 命 を ま つ つた 社 で、 白 皇 大 菩 薩 と い は れ る 神 が は くわ う大 菩 薩 れ か た し と い へと も 、 高 算 聖 人 の加 持 力 に よ ら は 業 を 転 し て寿 算 を あ つた か と お も は れ る が、 見 当 た ら な い﹂ と し て い るが 、 こ れ も 俄 し た と い う 。 そ の 詳 細 を 、 ﹃沙 石集 ﹄ 巻 一 ・四 ﹁ 出 離 ヲ神 明 二祈 事 ﹂ 延 へし と﹂ 神 託 を 下 し た と い い 、 ﹁ 花 供臓法略縁 起﹂ も同様 の話を に 賛 同 し が た い。 こ こ で は 、 萩 谷 朴 よ り 始 ま る 八 幡 大 菩 薩 説 を 採 り ﹁ オ ソ ロ シゲ ナ ル 御 形 ﹂ の蔵 王 が 現 れ た と し、 れ た と いう ﹁ 神 名 帳 戒 壇 院 公 用 ﹂ に は 、 蔵 王権 現 の名 が ﹁ 金峰 大菩 た い。 萩 谷 は 、 か つて ﹁ 八 幡 ﹂ に は ﹁八荒 ﹂ ﹁八 王 ﹂ ﹁八 甲 ﹂ な ど の 伝 え る 。 東 大 寺 二 月堂 の修 二会 に お い て神 々 を 勧 請 す るた め に 読 ま 異 文 が 存 在 し た た め ﹁は く わ う ﹂ と 表 記 さ れ た の で は な い か と い う 可能 性 を 挙げ 、 旦 の作と伝えられ る ﹁ 恒 例 修 正 月 勧 請 神 名 帳 ﹂ で は 熊 野 ・八幡 な ど よ ﹁は Σう ( は ば う )﹂、 す な わ ち 後 の ﹁ ばはん﹂に繋がる ﹁ 八幡﹂の訓 薩 ﹂ と し て諸 神 中 も っと も 初 め に 、 ま た鎌 倉 後 期 か ら 建 武 中 興 以 前 り も 先 に 記 さ れ る。 神 威 あ ら た か な る蔵 王権 現 へ の尊 崇 を 窺 う こと 旧大 系 は 、本 文 ﹁ワう ﹂ を ﹁ 宇 ﹂ の 一字 と解 し 、 が で き る だ ろう 。 ま た 、 天 暦 二年 ( 九 八 四) に 浄 蔵 貴 所 が 蔵 王 権 現 ︻ 諸説︼ 参照。 ﹃ 宮 寺 縁 事 抄 ﹄ は、 延 喜 二 み の 変 化 を 見 て取 る ← を 勧 請 し 開 いた と い う 蔵 王 堂 光 福 寺 が 平 安 京 よ り 西 南 の位 置 ( 現 ・ [ ﹁ 64 て大 菩 薩 と 称 す るよ う に な った 由 来 が み え る 。 本 歌 に 数 え 上げ ら れ 幡 大 菩 薩 也 、﹂ と 伝 え 、 八 幡 神 自 身 が 託宣 に よ って大 明 神 号 を 改 め 現 大 井 、 我 是 大 自 在 王丼 也 、 非 大 明神 ニ ハ、 即 改 大 明 神 之 号 、 申 八 元 量 劫 以 来 、 教 化 難 度 衆 生 未 度 衆 生 、 在 末 法 中 為 教 化 、 如 是衆 生 示 年 ( 九 〇 二) 四 月 二 日 の 託 宣 を 取 り 上 げ 、 ﹁二歳 許 小 児 託 宣 か らず 。 当 に御 心 を 広 田 国 に 居 ら し む べし ﹂ と の神 託 を 受 け 、 山 背 后 は務古水 門において天照大神 より ﹁ 我 が 荒 魂 をば 、 皇 后 に 近 く べ の 由 緒 が 見 え、 そ れ に よ る と 、 三韓 征 伐 か ら の凱 旋 の 途 上 、 神 功 皇 ( 三 ) 秘 抄 二 四 四歌 参 照 。 ﹃日本 書 紀 ﹄ の新 羅 征 伐 説 話 に 広 田社 創 建 のと 同 様 に 、都 を 中 心 と し た 方 角 観 に 基 づ い た 謂 で あ ろ う 抄 中に ﹁ 東 の山 王 ﹂ (二 四三 ) や 京 よ り 西 を 目指 す 街 道 上 に 鎮 座 し て いた た め と い う 。 日 吉 大 社 が 秘 た がふ事なし﹂ ( ﹃八 幡 愚 童 訓 ﹄) と 託 宣 し た と さ れ、 古 来 よ り 八 幡 ら ず 。 神 は自 物 い は ず 、 人 代 て 是 いふ 。 吾 教 を 信ず る 者 は 二世 の 願 披 露 し て信 を 発 さ し む べ し 。 玉 篁 ざ れ ば 光 な し 。 語 言 謂 ざ れ ば 人 知 及 ん で 人 の 心 不 信 に し て仏 神 を 信 ぜ ざ ら ん時 、 必 吾 教 言 を も て 世 に は 八幡 説 を 採 る。 天 安 三 年 ( 八五九) 二月三日、八幡神は ﹁ 末 代に ﹃三 代 実 録 ﹄)。 ﹃延 喜 式 ﹄ 神 名 帳 に は 、 ﹁ 広 田神 社 名 神 大 、 月 次 相 嘗 十 七 日 に は 正 三 位 、 同十 年十 二月 十 日 に従 一位 へと 昇 叙 し た ( 以上 には 従 五 位 下 に叙 せ ら れ (﹃ 文 徳 実 録 ﹄)、貞 観 元 年 (八五 九 ) 正 月 二 一戸 が 寄 進 さ れ た こ と が 見 え 、 ま た、 嘉 祥 三 年 (八五 〇 ) 十 月 七 日 祀 る 。 ﹃新 抄 格 勅 符 抄 ﹄ に 、 大 同 元 年 根 子 の娘 ・葉 山 媛 を も って 祀 ら せ た と い い、 当 社 は 天 照 大 神 荒 魂 を ← 選釈 ﹁ 東 の宮 ﹂ (二 四 四 ) と 表 現 さ れ た る の は 、 当 時 特 に 尊 崇 を 集 め た 神 々 の名 で あ る 。 そ の中 に神 で あ り は 託 宣 の神 と し て 知 ら れ た 。 八 幡 神 であ る場 合 、諸 注 、 石 清 水 の そ の祈 雨 奉 幣 の際 、 既 定 の十 六社 のう ち に吉 田社 、 北 野 社 と と も に 加 新 嘗 ﹂ と あ り 、名 神 大社 と な って い る 。西 宮 は 、 正 暦 二年 ( 九 九 一) 我自 な が ら も大 菩 薩 号 を 冠 す る 八 幡 神 が 含 ま れ た の だ と みな し 、 こ こ で れ か と す る 。 石 清 水 八 幡 宮 は 、 貞 観 元 年 (八 五 九 ) に大 安 寺 の僧 ・ 立 し た こと に始 ま る 。 陰 暦 三 月午 の日 に 石清 水 八幡 宮 で行 わ れ る臨 神 乃 広 前 爾 恐 美 恐 美 毛 申 賜 者 久 止 申 久 。﹂ や 、 ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ 延 久 三年 きをん天神 え ら れ (﹃日本 紀 略 ﹄﹃二十 二社 註 式 ﹄)、朝 廷 よ り 篤 い崇 敬 を 受 け た 。 ( 八 〇 六 )、 広 田社 へ神 封 四十 行 教 が 宇 佐 神 宮 に お い て 八幡 神 の託 宣 を 受 け 、 清 和 天皇 が 社 殿 を 建 時 祭 が 南 祭 と 称 さ れ て いた こ と が ﹃建 武 年 中 行 事 ﹄ に み え 、 これ は 従 来 の先 行 諸 注 は ﹁ 砥 園 天 神 ﹂ を祇 園 感 神 院 ( 現 ・八 坂 神 社 ) に 祀 八月廿 五日条に ﹁ 寅 剋 砥 園 天 神 奉 遷 新 造 神 殿 。﹂ と 見 え る こと か ら 、 祇 園 天神 。﹃柱 史 抄 ﹄ 上 の ﹁ 天 皇 我 詔 旨 度 掛 畏岐 祇 園 天 石 清 水 八幡 宮 が 京 の南 方 に鎮 座 す る も のと 意 識 さ れ て い た こと に拠 られる牛 頭天王とされてきた。だが、 ( 9) 旧大 系 が 補 注 に て指 摘 す ← ︻ 考察︼参 照。 に し のみ や る 、 祇 園 社 の牛 頭 天 王 と 北 野 天 満 宮 に 祀 ら れ る北 野 天神 る も のだ ろ う 中抄﹄ ﹁ 広 田 西 宮 也 、﹂、 ﹃二十 二社 註 式 ﹄ ﹁ 広 田社 号 西宮 。延 喜 神 祇 式 御 霊 ) の 二柱 の神 を 指 す と いう 可能 性 も 、 な お 捨 てが た い 。 ﹁ 天神﹂ 西 の宮 。 現 ・広 田神 社 に 祀 ら れ る広 田 明 神 のこ と 。 ﹃ 簾 云 。 摂 州 武 庫 郡 広 田 神 一座 。 大 神 宮御 全 体 也 。﹂、 ﹃ 類 聚既 験 抄 ﹄ 二 ( 菅原道真 広 田明 神 事 。 号 西 宮 ﹂。広 田 を ﹁西宮 ﹂ と 称 す る のは 、 一説 に 当 社 が 一 ﹁ 65 宣 命 神 ﹂ や 、 同書 所 引 の ﹁ 諸社例宣命様 ﹂に ﹁ 加茂皇太神 上社波賀 奉幣次第﹂ に ﹁ 広 瀬 龍 田 住 吉 日 吉 梅 宮 吉 田 広 田砥 園北 野 丹 生 貴 布 祢 類 に も そ の例 は 多 く 見 ら れ る。 ま た 、 ﹃ 朝 野群載﹄巻 十 二 ﹁ 廿 二社 此 法 之 者 。 天 神 必 加 罰 。﹂ が あ り 、ま た ﹃北 野 天神 御 伝 ﹄な ど の縁 起 が 北 野 天 神 を 指 す 用 例 と し て は 、 ﹃続 左 丞 抄 ﹄ 巻 一 ﹁ 若 破 此 式 不遵 れ た も のと い い、 京 都 市 北 区 西 賀 茂 の大 将 軍 神 社 、 東 山 区 三 条 大 路 桓 武 天 皇 が 方 位 守 護 を 目 的 と し て春 日 山麓 よ り 内 裏 の 四 方 に 勧 請 さ て き た 。 大 将 軍 八神 社 の社 伝 に よ れば 、 当 社 は 、 平 安 京 遷 都 の際 に し てき た よ う に 、 そ れぞ れ 特 定 の社 に 祀 ら れ る大 将 軍 神 と 解 釈 さ れ ま た そ の 他 諸 注 が 京 都 市 上 京 区 に 鎮 座 す る大 将 軍 八 神 社 の こと か と ) 小 西 考 と (5) 古 典 全 書 が 祇 園 社 境 内 に 祀 ら れ る大 将 軍 祠 と し 、 し て忌 ま れ た れ て い な い こと を 考 慮 す る と、 ﹁ 祇 園天神﹂ を牛 頭天王と北 野天神 察 ︼ 参 照 。 し か し、 秘 抄 中 に 北 野 天神 を う た う 今 様 が 一首 も 掲 載 さ り 、 北 野 は 乾 方 よ り 王 城 を 守 護 す るも の と 考 え られ て い た れ るよ う にな る 。 延 慶 本 ﹃平 家 物 語﹄ に よ れ ば 、 砥 園 は 京 の東 方 よ る御 霊 神 と し て 恐 れ ら れ 、 後 には と も に 王 城 守 護 の神 と し て崇 め ら う に、 砥 園 と 北 野 は し ば し ば 並 列 さ れ た 。 砥 園 も 北 野 も 元 は あ ら ぶ 大 自 在 天 神 牛 頭 天 王 八王 子 御 宝 前 ﹂ ( 巻 五 百 七 十 一) な ど と あ る よ 師 天満大自在 天神五頭 天王大軍金 峰山金 剛蔵王﹂ ( 巻 二 百)、 ﹁天 満 経奥書﹂ ( ﹃金 峯 山 寺 史 料 集 成 ﹄ 所 載 ) に ﹁ 奉 転読悉趣者為信 心大法 天 神 。 丹 生 乃 河 上 乃太 神 。 ﹂、 ま た 永 久 元 年 (= ← ︻ 考 な じ う く ろが ね の 弓矢 を も た せ て東 山 嶺 に 、 西 む き に た て てう づ ま き 様 と て、 土 に て 八 尺 の 人 形 を つく り、 く ろが ね の 鎧 甲 を き せ 、 お よ れ ば 、 桓 武 天皇 に よ る 平 安 京 遷 都 の 際 、 ﹁( 平安京 は)長久な るべ 上 に あ る将 軍 塚が 挙 げ ら れ る 。 覚 一本 ﹃平 家 物 語﹄ 巻 五 ﹁ 都遷﹂ に が 塚 と し て祀 られ た代 表 的 な 例 と し て は 、 現 ・京 都 市 東 山 区華 頂 山 の信 仰 を残 し て い る と い う ( 任 東 権 ﹃大 将 軍 信 仰 の研 究 ﹄)。 大 将 軍 ほ か 、 祠 ・石 塔 ・立 石 、 そ し て 塚 と い う 形 で も 祀 ら れ 、 今 日な お そ 社 か と さ れ て い る が 未 詳 )。 上 記 のよ う に 大 将 軍 は 社 殿 に 祀 ら れ る され る ( 残 る 一つは 京 都 市 伏 見 区 に 鎮 座 す る 藤 森 神 社 境 内 の大 将 軍 の大 将 軍 神 社 、 上 京 区 一条 通 の大 将 軍 八神 社 が そ れ ら に該 当 す る と ←選釈 ( 三 ) 二六 九 歌 参 照 。 従 来 ﹁ 大 将 軍﹂ は、 ( 4 一三 ) の ﹁ 大 般若 茂 乃 別 雷 乃 皇 太 神 。下 社 波 鴨 御 祖 乃皇 太 神 。 砥 園 乃 天神 。 北 野 天 満 の 二柱 と 断 ず る の は い さ さ か た め ら わ れ る。 こ こは 従 来 の 説 に 従 っ れ け り 。 ﹃末 代 に 此 都 を 他 国 へう つす 事 あ らば 、 守 護 神 と な る べし ﹄ ず 鳴 動 す 。 将 軍 が 塚 と て今 に あ り ﹂ と 伝 え ら れ 、 半 井 本 ﹃保 元 物 て、 ﹁ 祇 園 天 神 ﹂ 甜牛 頭 天 王 と 採 り 、 ﹁ 祇 園 天 神 ﹂ を 二柱 と解 釈 でき 大将軍 語﹄ 上 ﹁ 将軍塚鳴動井彗星出ヅ ル事﹂ に ﹁ 去 八 日 ヨリ 、 彗 星東 方 二 と そ 、 御 約 束 あ り け る。 さ れば 天 下 に事 い で こ ん と て は、 こ の塚 必 は 、 大 将 軍 こそ 降 り給 へ、 阿 律 智 日 廻 り諸 共 に 、 降 り 遊 ふ給 へ大 将 出 デ 、 此 程 又 将 軍 塚 シキ リ ニ鳴 動 ス。 天 変 地 妖 、 占 文 ノサ ス所 、 慎 る 余 地 が 少 な か ら ず 残 さ れ て いる と す る 。 軍 ﹂。 大 将 軍 は 陰 陽 道 に お け る 方 位 を 司 る 八将 神 の 一で あ る 。 三 年 カ ルカ ラ ズ ﹂ と あ るよ う に 、 大 将 軍 は し ば し ば 鳴 動 と いう 形 で神 意 大 将 軍 神 の こ と 。 二六 九 番 ﹁ 大 し や う た つと い ふ か は う に 毎 に 各 方 角 を 遊 行 す る も の と さ れ 、 大 将 軍 の い る 方 角 は 万事 に 凶 と 一 ﹁ 66 祈 祷 を 命 じ た 数 々 の社 寺 の中 に大 将 軍が 含 ま れ て い る こ と が確 認 さ を 表 明 し た 。 ま た 、 建 礼 門 院 徳 子 の御 産 に 際 し 、 高 倉 天皇 が 安 産 の と し て 人 々に 認 識 さ れ て いた こ とは 、 二 四 三 歌 ﹁ 東 の山 王 お そ ろし 賀 茂 上 下 。 賀 茂 別 雷 神 社 (通称 ・上 賀 茂 神 社 ) と 、 賀 茂 (二) 二 や 、 二 宮 客 人 の行 事 の 高 の王 子 、 十 禅 師 山 長 石 動 の三 宮 、 峯 に は 八 かも上 下 ( 通 称 ・下鴨 神 社 ) を 併 せ て い い 、 そ れ ら に 祀 ら れ る 賀 茂 ←選釈 王 子ぞ お そ ろし き﹂ に よ っても 窺 う こ と が で き る 御祖神社 日吉 山 王 権 現 。 天 台 宗 の鎮 守 神 。 ﹃耀 天記 ﹄ ﹁尺迦 ノ 我 ハ れる ( ﹃山 椀 記 ﹄ 治 承 二年 (一 一七 八) 十 一月 十 二 日条 )。 別 雷 命 と賀 茂 建 角 身 命 ・玉依 媛 命 を指 す 。﹃類 聚 符 宣 抄 ﹄ 巻 三 ・天 徳 日吉山王 日僧厳成祈請文 二年 五 月十 七 日 ﹁石清 水 。賀 茂 上 下 。 松 尾 。 平 野 。大 原 野 ﹂、 ﹃ 殿 暦﹄ 四 三歌 参 照 。 祇 園 天 神 石 山 観 音 世 八 所 之 罰 ﹂。 唐 よ り 伝 教 大 師 最 澄 が 帰 朝 し た 際 、 長 治 二 (= 六二)十 月八 天 台 教 学 を 学 ん だ 天台 山 国 清 寺 が 鎮 守 神 と し て 地 主 山 王 元 弼 真 君 を 茂 上 下 、 春 日 、 平 野 、砥 園 、吉 田 、稲 荷 、 日 吉 ﹂。 両 社 を 併 記 す る場 (= 祀 って い た こと に倣 って 、 比 叡 山 の地 主 神 を 天 台 宗 の守 護 神 と し て 合、 ﹁ 賀茂下 上﹂ ﹁ 賀 茂 二社 ﹂ ﹁ 賀 茂 両社 ﹂ な ど と も 記 さ れ る 。 ﹃山 城 日 本 国 ノ中 二日 吉 山 王 ト 神 二現 〆 ﹂。 応 保 二年 祀 った こ と に よ る と い わ れ て い る 。 秘 抄 中 に お い て、 し ば し ば 山 王 国 風 土 記 ﹄ 逸 文 は 、 玉 依 姫 命 が 川 上 よ り 流 れ てき た 丹 塗 矢 に よ って ﹃平 家 物 語 ﹄ 巻 二 ﹁ 座主流﹂ に ﹁ 此 日 域 の叡 岳 も帝 都 の鬼 門 に 峙 て、 こ と に よ る 謂 であ ろう 帳 で は 名 神 大 社 に 列 せ ら れ る。 桓 武 天皇 は 都 を 長 岡 京 よ り 平 安 京 へ 大 同 二年 五 月 三 日 に 正 位 へと 昇 叙 暦三 ( 七 八 四) 年 十 一月 二十 日 に従 二 位 に 叙 せ ら れ (﹃ 続 日 本 紀 ﹄)、 ﹁ 王 城 鎮 守 八 幡 三所 賀 茂 下 上 日 吉 山 王 七社 稲 荷 五 所 権現 は ﹁ 東 の宮 ﹂ ﹁ 東 の山 王 ﹂ と表 現 さ れ る が 、 そ れ は 二四 七歌 ﹁ 王 懐 妊 し 、 賀 茂 別雷 命 を 出 産 す る話 を 伝 え る 。 上 下 両 社 は と も に 、 延 護 国 の霊 地 な り ﹂ と 、 同 巻 二 ﹁一行 阿 闇 梨 之 沙 汰 ﹂ に ﹁ 夫当山は日 遷 す 際 、 そ の こ と を あ ら か じ め 当 地 の地 主神 で あ る 賀 茂 明 神 へ報 告 〇五)年 八月八日条 ﹁ 今 日 九 社 奉 幣 、 伊勢 、 八幡 、 賀 ← 選釈 ( 三 ) 二 四 四歌 参 照 。 ま た 、 覚 一本 城 東 は﹂ の 歌 か ら も わ か る よ う に 、 日 吉 社 が 王城 よ り 東 に 位 置 す る 本 無 双 の霊 地 、 鎮 護 国 家 の道 場 、 山 王 の御 威 光 盛 に し て、 仏 法 王 法 語 ﹄)。 十 一月下 酉 の 日 に 執 り 行 わ れ る賀 茂 臨 時 祭 は 、 賀 茂 明神 の神 ( ﹃日本 紀 略 ﹄)、 ﹃延喜 式 ﹄ 神 名 牛 角 な り﹂ な ど と あ る こと か ら、 山 王 権 現 は 王城 の 艮 方 ( 鬼門)を 八王子 聖真子 し た と い う (﹃日本 紀 略 ﹄ 延暦 十 二年 二月条 、﹃濫 簡 抄 ﹄ 下 、 ﹃平 家 物 王 子宮 小 比 叡 号 二宮 守 護 す る神 と し ても 篤 く 敬 わ れ て い た こと が わ か る 。 十 巻 本 ﹃伊 呂 託 に よ る宇 多 天 皇 の 御 願 に よ って創 始 さ れ た と い い (﹃ 大 鏡 ﹄、 ﹃大 三宮 已 上 謂 之 七 社 鏡 裏 書 ﹄、 ﹃ 年 中 行 事 秘抄 ﹄)当 祭 は ﹁ 北 祭 ﹂ とも 呼ば れ た 。 こ れ は 賀 十禅師 波 字 類 抄 ﹄ 日 吉 の項 に は ﹁ 大 比叡 号 大 宮 早 八王子 行 事 已 上 謂 之 十 一社 ﹂ と あ り、 日 吉社 に 祀 ら れ る権 現 と そ れ に 茂 両社 が 京 の北 に位 置 し て い た こと に拠 る と 思 わ れ 、 延 慶 本 ﹃平 家 客人宮 尾 物語 ﹄に ﹁ 北 方 賀 茂 明 神 ﹂、 半 井 本 ﹃ 保 元物語﹄ に ﹁ 北 ニ ハ賀 茂 大 て怖 れ ら れ 、 そ れ ら 春 属 を 束 ね る山 王権 現 も ま た ﹁ お そろし﹂い神 付 き 従 う春 属 が 紹 介 さ れ て い る。 中 で も 八 王 子 は 強 力 な 呪 誼 神 と し 一 一 67 明神 ﹂ と い う 文 句 が 見 ら れ る ← ︻ 考察 ︼参照 。 ﹃ 柱史 抄﹄ 上所収 の賀茂臨 時祭にお いて読 み上げ られ ていた祭 文には ﹁ 皇大神 平ダ安ダ聞 無 天皇朝 延宝位無蛎 常磐 堅鱗夜守昼缶護幸 騰 天下国茄艦気守 (﹃天 満 宮 託 宣 記 ﹄) と 述 べ て い る 。 つま り 、 八 幡 の春 属 神 で あ る 松 童が ﹁ 所 謂小神俄唄、 大神稽 怒﹂ ( ﹃宮 寺 縁 事 抄 ﹄) と 託 宣 し た よ う 家物語﹄巻 一 ﹁ 願 立 ﹂ に は 、 訴 訟 に き た 山 門 の衆 徒 を 射 殺 し た 関 白 に 、 大 神 に 比 べ小 神 は 手 の 早 い 悪 神 であ る と 理解 さ れ て い た 。 ﹃平 幸 給 ﹂ と あ り 、賀 茂 明 神 は ﹁ 皇 大 神 ﹂ と 呼 ば れ 、皇 祖 神 と し て伊 勢 師 通 を 、 山 王 の摂 社 の ひと つであ る 八 王 子 権 現 に頼 ん で呪 証 さ せ た ぽ 神 宮 に 並 ぶ ほど の神 格 を 得 て い た こ と が 知 ら れ る 。 ﹁ 神 の御 先 の現 ず る は ﹂ では 、 日 吉 の山 王 権 現 幡 の若 宮 や 熊 野 の若 一王 子 な ど 、 大 社 に 祀 ら れ た 若 宮 ・御 子 神 の名 く 収 めら れ て い る 。 例 え ば 、 二四 二歌 ﹁ 神 の家 の 小 公 達 は ﹂ は 、 八 し た構 造 を持 つ、 当 時 広 く 信 仰 さ れ た 神 々 の名 を 列 挙 す る今 様 が 多 に お そ れ ら れ た 神 々 であ る 。 ﹃ 梁 塵 秘 抄 ﹄ 神 分 編 に は 、 本 歌 と類 似 に 示 現 し 崇 り を なす こ と に よ って そ の 強 力 な 霊 威 を 発 動 し た、 人 々 本 歌 に て歌 い 上 げ ら れ る の は 、 ﹁ め でた く げ むず る ﹂神 々、 こ の世 で あ り 、 荒 々し く崇 り を な す 小 神 を統 御 す る こと は 、 す な わ ち 大 神 任 し て、 直 接 に 手 を 加 へん と し な か った ﹂ (﹁ 雷 神 信 仰 の変 遷 ﹂) の 指摘した ように、大神は ﹁ 些 々 た る 治 罰 の事 務 は 之 を 配 下 春 属 に 一 に 本 社 で あ る 広 田 社 への奉 幣 が 行 わ れ た と い う 。 か つ て柳 田 国 男 が わ た り 広 田 社 末 社 であ る戎 社 が 鳴 動 し 、 それ を 受 け て同 月 二十 三 日 記 ﹄ に よ れ ば 、 建 久 五 年 (一 一九 五 ) 七 月十 八 、 二十 二 日 の 二度 に さ れ 、 師 通 の 母 は 日 吉 社 に参 籠 し 、 救 いを 乞 う た と い う 。 ﹃ 仲 資王 話 が 伝 わ る。 そ の 際 、 八 王 子 の呪 誼 は そ のま ま 山 王 の崇 り と も 理 解 が 、 同 じ く 二 四 五歌 に 対 す る 人 々 の信 仰 を 高 め る こ と に も 繋 が った の であ る 。 本 歌 は 、 ︻考 察 ︼ の 摂 末 社 や 八 幡 の松 童 に 広 田 の荒 戎 と、 威 力 あ る神 の 下 に あ っ て猛 若 宮 .王 子 神 の活 躍 を 謡 った 二 四 二歌 や、 御 先 神 ・小 神 達 の怖 ろ し (一) 二四 二 威 を 奮 った 小 神 達 の名 が 数 え 上 げ ら れ て い る さ を 謡 った 二 四五 歌 など と と も に 、 王 朝 末 期 に お け る人 々 の 信 仰 世 ←選釈 歌 .二四 五 歌 参 照 。 本 歌 に 名 を 連 ね る神 の多 く は 、 そ れ ら春 属 神 を 界を如 実に映しだし ている。 荒 井 評釈 は本 歌 に 列 せ ら れ た 神 々に 共 通 す る 特 徴 と し て ﹁軍 陰 陽 道 の方 位 神 であ る大 将 軍 は 、 東 西南 北 を 三 年 ず つ十 二 年 か け た方 位 の守 護 神 で あ った 。 つ。 そ れ ら の神 々 は 、 しば し ば 京 を 中 心 と す る 方 角 観 に 深 く 根 ざ し 祀 ら れ て朝 野 の 信 仰 を 集 め た 、 王城 守 護 と し て の神 の 性 格 を 強 く 持 神 ﹂ であ る こと を 挙げ て い る が 、 そ れ 以 上 に 、 こ れ ら は 京 洛 周 辺 に ⑥ 数 多 く統 べ る こ と に よ って衆 庶 の 信 仰 を 集 め た ﹁ 大 神 ﹂ であ る 点 に 、 まず 注 目す べき だ ろう 。 応 神 天皇 陵 を 荒 ら す 輩 な ど に 対 し て起 こ った 崇 り に 対 し て 八幡 神 は、﹁ 広 大 慈 悲 の躰 な れば 、吾 は兎 にも 角 に も 思 は ね 共 、春 属 の 小神 が いか れ る 也 。無 レカ 。﹂ (﹃八幡 愚 童 訓 ﹄)と 託 宣 を 下 し た と い い 、ま た 、 北 野 天 神 に は老 松 ・富 部 と い う 二 柱 の春 属 神 が お り 、 これ ら に つ い て天 神 は ﹁ 此 二 人 や つと も は 甚 不 調者 と 毛 そ 。 心 つか ひせ よ 。﹂ 一 一 68 こ とが わ か る 。 ま た 、 日 吉 山 王 は 王城 の 東 に 位 置 す る こ と か ら ﹁ 東 な 方 位 神 で あ った 大 将 軍 は 、 王城 を 護 る 防 塞 の機 能 を も 担 って いた 難 をあ ら か じ め鳴 動 と いう 形 で報 せ た 将 軍 塚 が みえ 、 陰 陽 道 の有 力 し た と い う 。﹃平 家 物 語 ﹄ や ﹃ 保 元 物 語 ﹄に は 、 王 城 に お とず れ る危 遷 し の 時 に 王 城 鎮 護 の目 的 で春 日 山 麓 よ り 大 将 軍 を 京 の 四方 に勧 請 た ち の 間 で流 行 し た 。 大 将 軍 八 神 社 の寺 伝 に よ れ ば 、 桓 武 天 皇 は 都 に 一泊 し て か ら 出 掛 け る と い う ﹁ 方 違 え ﹂ の俗 信 が 平 安 時 代 の貴 族 し て忌 ま れ 、 外 出 す る際 に は そ の方 角 を 避 け て、 一度 吉 方 にあ る家 て 一巡 す る と 考 え ら れ て い た 。 大 将 軍 の い る方 角 は 塞 が れ る も のと ﹁ 剣 の巻 ﹂ 下 は 、 渡 辺 綱 の 髪 を 掴 ん で ﹁わ が 行 く 所 は 愛 宕 山 ぞ ﹂ と 北 野 天 満 宮 が あ った 。 百 二十 句 本 東 に 祇 園 、 艮 方 に 日 吉 が あ り 、 大 内 山 近 く 、 す な わ ち 乾 の方 角 に は 法 ヲ 守 リ 、 王法 ハ仏 法 ヲ 奉 レ崇 〆 。﹂ と あ り 、 北 に 賀 茂 、 南 に 八幡 、 比 叡 山 ア リ。 各 仏 法 僧 ノ ス ミカ ト シ テ 、 鎮 護 国家 ノ 契 ニ テ仏 法 ハ王 ノ艮 ノ方 ニハ 霊鷲 山 ア リ 。 震 旦 ニ ハ天 台 山 ア リ 。 日 本 王 城 ノ 艮 ニ ハ 山 王 御 坐 ス。 此 方 ヲバ 鬼 鎖 門方 ト 名 テ是 ヲ慎 ム 。 サ レ バ 天 竺 王 舎 城 原 野 、 乾 方 北 野 天 神 、 平 野 明神 、 北 方 賀 茂 明 神 、 艮 方 忠 須 宮 、 日 吉 砥園天王、 巽方稲荷明神、南方 八幡大菩薩、坤方 松尾明神、 西方小 リ 国 々所 々 二都 ヲ 立 シカ ド モ 、 如 レ此 ノ勝 地 ハ 無 シ 。 東 方 ハ 吉 田 宮 、 と る こと が でき る 。半 井 本 ﹃保 元 物 語 ﹄ 上 ﹁ 将 軍 塚 鳴 動 ノ 事彗 星 出 あ る 。 そ の範 囲 を さ ら に 八 方 へと 拡 大 す る と 、 次 のよ う な 例 を み て た 。 格 式 高 い神 々 は 、 京 の四 方 を 取 り囲 む 形 で 禁 開 を 守 護 し た の で 祭﹂ ﹁ 北 祭 ﹂ と 称 さ れ た よ う に 、 王 城 の南 北 を 護 る 神 と し て 知 ら れ と 呼 ば れ た 。 石清 水 八 幡 と 賀 茂 両 社 は、 そ れ ぞ れ の 臨 時 祭 が 大 菩 薩 や 西 北 の 北 野 天 満 天 神 の 名 が 漏 れ る と は 俄 に 考 え 難 い。 ﹁ は 神 々 の 名 を 歌 い上 げ る本 歌 に お い て、 強 力 な 霊 威 を 湛 え る 南 の 八幡 方 に位 置 す る も のと 理解 さ れ て いた 。 都 を 取 り 巻 く よ う に 鎮 座 す る と 、 綱 は 北 野 社 の 回廊 に 落 下 し た と い う 話 を 伝 え る。 北 野 は 京 の乾 言 い、 一条 戻 り 橋 か ら乾 方 を 指 し て 飛 ん で 行 く 鬼 の手 を 切 り 落 と す ﹃ 平 家 物 語 ﹄ 巻 十 一 ・第 百 八句 の山 王 ﹂ ﹁ 東 の宮 ﹂ と 形 容 さ れ 、 広 田社 は 西 に 座 す た め に ﹁ 西 の宮 ﹂ ヅ ル 事 ﹂に は 、 ﹁ 南 ニ ハ八 幡 大菩 薩 男 山 二跡 ヲ 垂 給 フ。 北 ニ ハ賀 茂 大 の名 と し て 考 慮 す べき 余 地 を 残 し て い よ う 。 く わ う 大 菩 薩 ﹂ は 八幡 でな け れば な ら ず 、 ﹁ 祇 園 天 神 ﹂ は 二柱 の神 ﹁ 南 明 神 、 鳳 城 ヲ守 リ給 フ。鬼 門 ノ方 二当 テ ハ、 日 吉 山 王 御 座 ス 。 大 内 ト ヒ逆 臣 乱 ヲ成 ト モ、 争 力 霊 神 ノ助 ナ カ ル ベ キ﹂ と あ る。 こ こ で も ヲ 守 リ 給 フ。 是 ニヨ リ テ 、 菰 繁 ノ礼 ヲ コタ ラズ 。 扮 楡 ノ頴 ナ リ 。 タ 春 日 ・広 瀬 ・竜 田 ノ社 マデ 、 遠 近 二甕 ヲ並 べ 、 日 夜 二結 番 シ テ 禁 關 寺 も 、 京 の裏 鬼 門 を 守 護 す る重 要 な 役 を 担 っ て い た と い う (﹃ 京都 よ っ て開 創 さ れ た と いう 、 現 ・京 都 府 京 都 市 南 区久 世 の蔵 王 堂 光 福 る 蔵 王 堂 が あ り 貴 紳 の信 仰 を 集 め て いた が 、 天暦 年 中 に 浄 蔵 貴 所 に に 聲 え る霊 山 と 意 識 さ れ て い た 。 そ の山 頂 に は蔵 王 権 現 を 本 尊 と す 象 の場 と な った 吉 野 金 峰 山 は 、 か つ て ﹁ 南 山﹂ と も 呼 ば れ 、 京 の南 平安中期 頃より藤原摂関家 が足繁く 通い ﹁ 御嶽 詣﹂と いう流行現 南 北 そ れ ぞ れ に 八幡 ・賀 茂 が 比 定 さ れ 、 東 の山 王 は 鬼 門 の位 置 に押 山 近 ク 天 満 天 神 顕 ジ 給 フ。 其 外 、 松 尾 ・平 野 ・稲 荷 ・砥 園 ・住 吉 ・ し 上げ ら れ て いる 。 延慶 本 ﹃ 平 家 物 語﹄ 三 十 ﹁ 都 遷 事 ﹂ では 、 ﹁ 昔ヨ 一 ﹁ 69 の 歴 史 ﹄ 學 藝 書 林 )。 こ の 蔵 王 堂 に は 次 のよ う な 寺 伝 が 伝 わ る。 金 ﹃ 戒壇 院公用神名帳 ﹄には、 ﹁ 依例奉勧請大菩 薩大明神等於 無﹂と記 の名 を 続 け る 。 神 名 帳 に 列 記 さ れ た 神 々 の名 を読 み 上げ 、 と な え る 峰 山 で の練 行 を 終 え た 浄 蔵 が 都 へ向 か お う と し た と こ ろ、 蔵 王 権 現 こと は 、 そ のま ま 神 々 の来 臨 を請 う 呪 的 な 行 為 な の で あ る 。 本 歌 の の ﹃清 瀧 宮 勧 請 神 名 帳 ﹄も 、 ﹁ 奉請鎮護大明神﹂ととなえた後 に神 々 我 を も 具 す べし 。﹂ と 託 宣 を 下 す 。 浄 蔵 は 権 現 を背 に 負 い道 を 急 ぐ 。 さ れ た 後 に 、 諸 神 祇 の 名 が 列 記 さ れ る。 同様 に 、 京 都 醍 醐 寺 清 瀧 宮 権 現 は 忽 ち木 像 へと 姿 を 変 え る 。桂 川 西 畔 を 行 く浄 蔵 は 、 持 って い ﹁ 神 名 尽 く し ﹂ と で も い う べき 神 名 列 挙 の特 質 は 、 こ れ ら神 名 帳 と が 示現し、 ﹁ 汝 常 に 法 施 怠 ら ず し て神 妙 の 至 り な り 。 今 都 に 帰 らば た 鉢 を 川 に落 と し てし ま う 。 す る と そ の鉢 は 川 を遡 って 北 上 し 、 あ 類 似 し た 構 造 を 持 っ て いる と いえ る 。 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ 四句 神 歌 ﹁ 神分﹂ 編 に 多 く 見 られ る 本 歌 のよ う な ﹁ 神 名 尽 く し ﹂ の今 様 は 、 種 々 の神 る 岸 に 漂 着 す る 。 そ の岸 近 く の森 の 上 に 光 明 が みえ る 。 そ の地 こ そ は 弁 財 天 の霊 場 で、 木 像 と 化 し た 権 現 は そ こ で巨 石 の よ う に 重 く な 祇 を呼 び 集 め て勧 請 し 、 法 味 を 捧 げ て それ ら の 加 護 を 請 う た 、 そ の 尺 ー へ ( 藤井隆輔 ) り 動 か す こと が でき な く な る 。 そ の夜 、 草 座 を 設 け 木 像 を 安 置 し 持 ){ よ う な 神 分 の場 を 母胎 と し て生 み 出 さ れ た も の で は な いだ ろ う か 。 ( ﹃都 名 所 図 会 ﹄ 巻 二七 四歌 あ ・・ー ▲ ︾ は いち ざ ー あ ∼ -ー み ー 溝す \ め あ 訴 み ← \ー ー 東 生ね る 衆 生 ね か ひ を は 、 いち と う あ ご ㌧そ み てた ま へ、 ○ あ め の み か と よ り 、 い ち と う あ ご 墨そ い て ンた ま へ、 ︻翻 刻 ︼ いち ・ー 念 す る や 、浄 蔵 は 明 天 老 翁 の霊 告 を 得 、 ﹁ 早 く仏 閣 を建 て て 安 住 せば 利 益 広 大 な ら ん﹂ と の教 え に 従 い 堂 宇 を 建 てた 四 ﹁上 久 世 蔵 王 堂 ﹂ 項 。 ﹃ 山 州 名跡 志 ﹄ も 天 暦 九 年 ( 九 五六)のこと と し て 同 話 を 伝 え る )。 こ の蔵 王 堂 開 創 の 由緒 は 、 管 見 の 限 り では 近 世 以 前 を 遡 る こ と が でき な い。 熊 野 詣 が 盛 ん にな る と 、 現 ・京 都 て名 立 た る 熊 野 権 現 を 都 近 く に勧 請 す る よ う な 事 例 が しば し ば 散 見 府 東 山 区今 熊 野 に 鎮 座 す る新 熊 野 神 社 のよ う に 、 後 白 河 法 皇 に よ っ さ れ る 。 浄 蔵 開 創 と い う 伝 承 に は 疑 問 が残 る が 、 蔵 王 堂 光 福 寺 も 同 様 の 経 緯 でも って勧 請 さ れ た も の では な い か 。 後 考 を 倹 ち た い 。 王城 守 護 の霊 威 あ る神 々 を 列 挙 す る本 歌 が 生 み 出 さ れ た 場 を 考 え る と、 神 分 と し て の仏 事 法 会 の場 で読 み上 げ ら れ る 神 名 帳 が 想 起 さ れ る 。 東 大 寺 修 二会 に 関 し て、 ﹃東 大 寺 要 録 ﹄ 諸 院 章 第 四 は ﹁二 月 修 中 、 初 夜 之 終 、 読 二神 名 帳 一 、勧 二請 諸 神 一 、 由 レ薮 影 向 、 或 競 与 二 福 祐 一 、或 諄 為 一 一 守護 一 ﹂と 記 す 。 実 際 に そ の 場 で 読 み上げ ら れ た と い う 一 一 70 ○ 天 の御 門 よ り 一童 吾 児 こそ 満 て た ま へ 一童 吾 児 こそ 出 でた ま へ ︻ 校 訂本文︼ 衆 生 願 ひを ば ︻ 類 歌 ・関 連 歌 謡 ︼ 早 尾 よ 山 長 行 事 の 高 の御 子 こ こ に は荒 夷 (二 四五 ) い や 見 の御 前 ぞ 降 り た ま ふ いや半畳た Σみを敷き井 べ 無 数 の宝 ぞ 豊 な る (二七 二) 参 れ ば 願ぞ 満 てた ま ふ 八幡に松童善神 王 城 響 か い た う め る 髪 頬 結 ひ の 一童 や ・神 の御 先 の現 ず る は 牛 の御 子 いちゐさり ・石神 三 所 は今 貴 船 帰 り て 住所 を う ち 見 れ ば ・い や見 の御 前 の 御 ま へに は いや 半 畳 た ㌧ み の 表 に は いや 衆 生 の願 ひを 満 て 玉 ふ いや 北 の御 門 よ り 参 ら れ よ ( 伊 勢 神 楽 歌 ﹁天 文 本 神 楽 歌 ﹂ 見 の御 前 の嵜 ) ・いや 宮 へ誠 に参 ら れば いや 北 の御 門 よ り参 れ ば ぞ ( 伊 勢 神 楽 歌 ﹁天 文 本 神 楽 歌 ﹂ 北 御 門 の将 ) ︻諸 説 ︼ あめのみかと 天の御門よりー出 でたま へで ﹁( 神が)高天の原から降 る意 であるが、比叡山を天台山とするので、比叡山から出現せられる意 で言 った か﹂ ( 9)大系 ﹁ 天門 の意で御は敬意を持 つ接頭語﹂ ( 6)荒井評釈 ﹁ 天 の門。高天原の神の宮殿 の関門。また太陽や月 の通る道とされる﹂ ⑫ 全集 ( B 新全集 § 完訳 神 々の住所である天上界の門 ⑯ 榎集成 魯 新大 系 ﹁ 神 々の住む高 天の原の門﹂⑳ 全注釈 いちとう 諸説日吉大社 の 一 童神 とする。﹁ ﹃一統﹄を掛 けた﹂( 5)全書 ﹁ 環々杵尊、即ち十禅師の別身 にて童形の神﹂( 色 荒井評釈 早尾社の小社 の童形神 ( £ 大系 日吉大社 の早尾社の小社 ( 腫 全集 ( 14)新全集 露)完訳 ( 16)榎集成 あご 諸注 ﹁ 吾児﹂とし、﹁ 童 形の神であ ったから ﹁ 吾児﹂とい った﹂ε 古典全書 ⑯ 榎集成 ﹁ 童男童女 の称﹂3 荒井評釈 ﹁ 童 子を親しんでいう﹂9 大系 3 全集 9 新全集 § 完訳 ﹁ 童形であることからの呼称﹂ ⑳ 全注釈 安米乃美加度乎 可気 安左 欲比ホ之 亘﹂ ( 万葉集 四四八〇)や、 天 の御 門 の意 。﹁可之 故 伎 也 いてたま へ ﹁ この世に出 て、社に祭られ ておられる﹂⑯ 榎集成 みて たま へ ﹁ 満足させてくださる﹂⑯ 榎集成 ﹁ 満足させてください﹂ ⑳ 全注釈 ︻ 語 釈︼ 祢 能未之奈加由 あ め のみ か と 都礼婆 ﹁ さ れ ば 天 の御 門 の御 歌 に ﹂ ﹁ 昔 天 の御 門 の御 時 に 、 ひと り の 采 女 あ 東乃 大寸御門乎 入 一八 六 ) や ﹁一夜 お は し ま し た り し に 、御 千遍参入之 り し が ﹂ (謡 曲 采 女 )な ど のよ う に、 天 皇 の意 で 用 い られ る こ と が 多 巻 二 い。御 門 は 門 の尊 称 。 ﹁一日者 不勝鴨﹂ ( 万葉 集 か ど に 車 のあ り し を 御 ら む じ て﹂ ( 和 泉 式 部 日記 ) 本 歌 の ﹁ あ めのみ かど ﹂が 天皇 の意 と はと れ な い の で 、天 の 門 で あ る ﹁あ ま の と ﹂の 同 安麻能 刀 義 語 と し てと り た い 。 ﹁ 是 に 火環 々杵 尊 、 天関 を 閣 き 雲 路 を披 け 、仙 多 気ホ阿毛理之 ﹂ ( 万葉集 四四六五) ﹁ あま の 踵 を駆 せ て戻 止 り た ま ふ ﹂(日本 書 紀 巻 第 三) ﹁ 比 左 加多 能 多可知保 乃 と﹂ には 、天 、空 、日 月 の渡 る道 の意 も あ り ﹁ 天 の戸 を お し あ け が た 比良伎 の雲 間 よ り 神 代 の 月 の かげ そ の これ る﹂ ( 古 今 和 歌 集 一五 四 七 ) ﹁ 秋 一童 。 日吉 社 の中 七社 早 尾 社 、 石清 水 八 幡 宮 、 広 田 社 、 一二) 等 の用 例 が あ る。 風 に声 を ほ に あげ てく る舟 は 天 の 門 わ た る か り にぞ あ り け る ﹂ ( 同二 いち と う いちゐさり 早 尾 よ 山 長 行 事 の 高 の御 子 ここ 王城 響 か 天 台 山 王 峯 の お前 八幡に松童善神 牛 の御 子 吉 備 津 神 社 、 春 日社 の若 宮 など の 小 神 と し て祀 ら れ て い る神 。 ﹁ 神の 御 先 の現 ず る は いた う め る髪 頬 結 ひ の 一童 や には荒夷﹂ ( 秘 抄 二 四 五歌 )や ﹁王城 東 は 近 江 一 一 71 衆 生 願 ひ を 一童 に ﹂ ( 秘 抄 二 四 七歌 ) に 歌 わ れ 五所 の お 前 は 聖真 子 出 でた ま へ。 係 助 詞 ﹁こそ ﹂ を 受 け て 已 然 形 。 降 臨 さ い てた ま へ 仲快説﹂ ( 宮 寺 縁 事 抄 )と あ る よ は管見 では未見。 腰太刀持物笏 る 神 であ る 。 ﹁ 吾児﹂ や ﹁ 髪 面 結 ひ ﹂ と いう 表 現 や 、 石 清 水 八幡 宮 の 一童 神 が ﹁ 童形 の中 で神 仏 の示 現 や 出 現 を 表 す も のが 十 一例 (二七 、 七 五 、 一二六 、 れ る 。 梁 塵 秘 抄 の中 に ﹁いつ ﹂ ( 補 助 動 詞 を除 く )は 二十 例 あ り 、 そ 一五 七 、 一九 五、 三 六 七 、 二九 六 、 二 一七 、 二 二〇 、 二 七 四 、 二八 う に、 そ の名 の通 り の童 形 の神 で あ る 。 春 日社 の 一童 も 同 様 に 二 諸 神 本 縁 記 日、 一童 長久 年 中 所 レ令 レ附 之 六 歳 童 也 云 一)。あ る場 所 か ら の移 動 、 出 発 を 意 味 す る も のが 四 例 ( 七 三、 二〇 一前 云 、 小社 鎮 座 記 日 、 長 承 四年 十 一月廿 五 日 甲 午 南 宮 北 大 松 下 、 一童 九 、三 〇 〇 、 五 四 七 )。日 月や 星 な ど 、視 界 か ら 隠 れ て い た も の が 現 童神社 崇 、榊 立 、始 、﹂ ( 春日神社社記改正)と あり、童子に愚依す る託宣 れ る こと を意 味 す るも のが 一例 ( 三 〇 三 )、水 な ど が 涌 出 す る意 味 の も のが 四例 (一〇 六 、 一〇 七 、 二 五 〇 、 四九 六 ) であ る 。本 歌 で は、 神 であ った こ とが う か が え る 。 永 池 は 選 釈 二 四 五歌 で ﹁一童 は 依 童 の呼 称 化 し た も の で、 一童 の ある。 天 の御 門 か ら 一童 が降 臨 し 、 願 い を か け る 衆 生 の前 に 示 現 す る意 で な ど 神 慧 り す る 巫 女 の呼 称 に し ば しば 見 ら れ る音 と の 関 わ り も 考 え み て たま へ も 神 や 巫 女 の席 次 な ど を 示 す だ け でな く 、 イ ツ 、 イ チ 、 イ タ る べき であ る ﹂ と 述 べ て い る。 選 釈 二 四 七 でも 述 べ た よ う に 、 一童 の祈 願 を 果 た し て くだ さ る 。第 二句 の繰 り返 し と な って い る 。 ﹁ 石神 ﹁= と は 有 力 な 御 先 神 や 託 宣 神 のも と で活 動 し て い た 依 童 が 各 々 神 格 化 三所 は 今 貴 船 ( 考 察 ) 廊 御 子 記 と童 形 十 禅 師 と の関 わ り に つ い て 参 れ ば 願 ひそ 満 てた ま ふ 帰 り て住 所 を う ち 見 れば 満 てた ま へ。係助 詞 ﹁こそ ﹂を 受 け て已 然 形 。衆 生 ( 我 々) し、祀られたも のである。 ← 空に 内 田) ﹁ 妙 衆 生 願 ひを 満 て む と て 無 数 の宝 ぞ 豊 か な る ﹂ ( 秘 抄 二七 三 歌 ) ( ← 選 釈 二七 二歌 北 の北 に ぞ お は し ま す 見大悲者 は 伊波敏神多智﹂ ( 万葉集 四二四〇) ている。﹁ い や 宮 へ誠 に参 ら れば 韓 国 辺遣 う た け ど 、 つら き ゆ か り に こ そ え 思 ひ つま じ け れ ﹂ と 呼び か け て い 北 の御 門 よ り 参 れば ぞ 此吾子乎 吾 児 。幼 い 童 や 童 女 に 対 し て親 愛 を 込 め て用 い る。 ﹁ 大 船ホ い や 北 の御 門 よ り 参 ら れ よ 天 いや精進をよく いや衆生 の願ひを満 北御 門 の寄 )﹁い や 日吉 山 王 へ参 れ バ いや 精 進 を よ く し て参 れ ば ぞ いや 一六 三 と そ 現 じ た る﹂ ( 同三 十 の菩 薩 ぞ は星ぞ見 えたまふ﹂ ( 同 二 八 七歌 ) ﹁ 狗 那 城 の後 よ り あご 真梶繁 貫 出 でた ま ふ る。 ま た、 落 窪 物 語 では 、 北 の方 が 自 分 の 娘 た ち の こ と を ﹁ よきあ 文本神楽歌 博 打 の願 ひ を 満 てん と て て ﹁ あ ごは 知 ら じ な ﹂ ﹁ あ ごはわが子にてあれよ﹂( 帯木 )﹁ あ ごは ら と あ る 。 ま た 、 源 氏 物 語 で は、 光 源 氏 が 空 蝉 の弟 で あ る 小 君 に対 し 六 七 歌 ) ま た、 伊 勢 神 楽 に は 同 様 の 詞章 を 持 つ歌 が 数 多 く 採 録 さ れ 子 た ち 、 わ れ ら が 住 ま ん に いと 広 う よ し ﹂ と 言 って い る 。 代 名 詞 と し て参られよ い や衆 生 の 願 ひ を 満 て 玉 ふ ﹂ ( 伊勢神楽 し て用 い ら れ る こ と が 多 く 、 本 歌 の如 く ﹁ ○ ○ 吾 児 ﹂ と い う 用 い方 一 一 72 て玉ふ﹂ ( 同 日 吉 の寄 ) 日吉 山 王 に は ﹁一見 二 山 王 ﹂ と い う 言葉 が あ る。 ﹁ 厳神抄﹂ 及び ︻ 考察 ︼ いう こと に関 し て は 、 十 禅 師 の 託宣 の多 く を 童 神 子 や 児 が と り つい て い る。 ( 鎌 田 東 二 ﹃翁 童 信 仰 ﹄ 雄 山 閣 出 版 一九 九 三 ) だ た め であ ろ う と いう こと は 、 鎌 田 東 二や 阿 部 泰 郎 ら が 既 に 指 摘 し 一見 二 山 王 値 玉 フ、 後 ノ 一見 ト 申 ス ハ、 十 禅 師 二 ( テ)山王ト る 。 そ の際 に 、 十 禅 師 の社 前 で出 羽 の 羽 黒 か ら 上 ってき た身 吉 と い て し ま った 際 に、 師 通 の母 が 山 王 の許 し を 請 う た め に 日吉 に 参 籠 す 立 願 の事 ﹂ に 見 ら れ る 。 師 通 が 山 王 の 轡 め を 受 け 、 頭 に 悪 瘡 が でき 十 禅 師 が 童 神 子 を 依 坐 にす る例 は 、﹃源 平 盛 衰 記 ﹄巻 四 ﹁ 殿下御母 申 ス、 大 宮 権 現 ノ 御 事 也 。 ( 厳神抄 ) ﹁ 惟 賢 比 丘 筆 記 ﹂ に は 、 次 のよ う に書 か れ て い る 。 當 山 一見 二山 王事 。先 一見 者 十 禅 師 御 影 向 。其 子 細 不 聯 口 事 也 。 う童 神 子 に 慧 依 し、 託宣 を 行 う 。 出 羽 の 羽 黒 よ り上 りた る身 吉 と いふ 童 神 子 の籠 も り た り け る が 、 ( 中略) 廿 四 日。 北 轡 林 行 。 一人 災 童 逢 。 最 澄 問 而 白 言 。 童 子何 人 。童 この 一見 と は 十 禅 師 の こ と であ り 、 最 澄 の前 に 一人 の霊 童 と 現 じ さ せ給 へり ひ申 し け る は 、 ﹁ 衆 生 等 、儂 か に 聞 け 。我 に は 十 禅 師 権 現 乗 り居 て走 り 出 で て舞 ひか な つ 。 人 奇 特 の思 ひを なす 処 に 、 汗 押 し 拭 十 禅 師 の御 前 に て、 俄 か に 狂 ひ出 で て 舞 ひ て け るが 、 暫 く あ り た と い う 。 十 禅 師 に 関 す る 資 料 の多 く は 、 十 禅 師 の姿 を 僧 形 と し て ﹃ 源 平盛 衰 記 ﹄ に 登 場 す る童 神 子 は 、 出 羽 か ら参 籠 に 来 た 身 吉 と 子 答 日。 我 是 天 地 経 緯 爽 童 。 衆 生 本 命 同 生 神 也 。 我 則 一名 日 生 いるが、﹁ 厳神抄﹂や ﹁ 惟 賢 比 丘 筆 記 ﹂ のよ う に童 形と す る も の も存 いう 童 子 で あ った が 、 中 世 か ら 近 世 に か け て 日吉 社 に は 廊 御 子 と い て 死 に 入 り け る。 ﹁ 何 者 ぞ 。 門 外 へ鼻 き 出 だ せ ﹂ と 言 ひけ る に 、 在 す る 。 ﹁日吉 社 神 道 秘 密 記 ﹂ に お い て も 、十 禅 師 の夏 堂 に は 、慈 鎮 う 職 階 が あ った こ と が確 認 さ れ て い る 。時 代 は 下 る が 、慶 長 八 年 (一 天 。 一切 衆 生 日生 天 故 。 二名 遊 行 神 。 衆 生 本 命 遊 行 神 故 。 三名 筆 と い う 童 形 の絵 像 が 安 置 さ れ て いた と いう 。荒 井 評 釈 は、 ﹁一童 吾 六〇三) の年記を持 つ ﹁ 廊 御 子 記 ﹂ に は 、 廊 御 子 に つい て以 下 のよ ﹁ 事 の様 を 見 よ ﹂と て、大 庭 に 鼻 き 居 ゑ て これ を 守 る 。 や や あ つ 児﹂と ﹁ 日 吉 神 道 秘 密 記 ﹂ の 挿 図 に 見 え る 八 王 子 の小 社 であ る 二 うに記され ている。 十禅師。十方衆生 興繹悦食。來結縁 能化師故。 ( 惟賢比丘筆 記) 見 神 子 ﹂ の名 が 相 似 であ る ため に同 一の神 と 見 な し 、 ﹁一見 ﹂ と い う 相 ヒ 傳 バ リ御 託宣 ヲ 給 ル 故 、 諸 人 之 御 祈 祷 仕 候 事 、 當 社 神 官 ニテ御 座 候 、 抑 廊 巫女 蜆 男 ト 申 ハ叡 山 慈 鎮 和尚 ヨリ 一廊 巫 女 蜆 男 之 事 名 とこ の ﹁ 惟 賢 比 丘 筆 記﹂ の 記 事 を も と に、 一童 は 十 禅 師 の童 形 の 十 禅 師 と いえ ば 、 日吉 の 上 七社 の中 でも 数 多 く の託 宣 の逸 話 が 残 別 身 で あ ると 考 え て い る 。 さ れ て い る強 力 な 託宣 神 で あ る が 、 十 禅 師 が 時 に 童 形 で顕 現 す ると 一 ﹁ 73 日 に神 歌 を 奏 し 、十 禅 師 に献 供 を 行 った り と十 禅 師 と関 係 が 深 い。廊 い て 巫女 と 共 に 託 宣 を 行 い 、 琴 弾 の役 を勤 仕 し た り 、 山 王祭 の 最 終 廊 御 子 は 、 山 王 祭 の午 日 に大 宮 の拝 殿 で み う ら 御 占 の祝 言 の儀 に お 童 神 と な った の で は な いだ ろ う か 。 中 でも 、 特 に 力 が 強 く 、 尊 崇 を 集 め て いた 童 神 子 が 、 神 格 化 し 、 一 す る諸 社 を拠 点 に 活 動 し て い た と 考 え ら れ る 。 そ のよ う な 童 神 子 の 喧 伝 す る童 神 子 や 児 た ち が 、 日 吉 社 に は存 在 し 、 十 禅 師 を は じ め と 前に用 いられる。 ﹃ 古 今著聞集 ﹄巻第 二 四十 二 ﹁ 貞崇 禅師、 金峰 て親 愛 を 込 め て 用 い ら れ る 代 名 詞 で あ る が 、 し ば しば 幼 名 や 児 の名 次 に 、 ﹁一童 吾 児 ﹂ の ﹁ あ ご﹂ で あ る 。 ﹁ あ ご﹂ と は 、 童 子 に 対 し 神 子は 、 十 禅 師 を 中 心 と し た 地 主 神 系 の諸 社 を拠 点 と し て託 宣 を 職 第 二集 ﹄ 二〇 〇 三 年 ) 能 とす る 巫 蜆 で あ った 。 ( 佐藤 眞入 ﹁ 日 吉 社 の 巫女 ・廊 御 子 ・木 守 ﹂ 福 田晃 .山 下 欣 一 ﹃巫 蜆 ・盲 僧 の 伝 承 世 界 こ の廊 神 子 た ち は 、 ﹁ 廊 御 子記 ﹂ で 自 身 の起 源 を 慈 鎮 と 十 禅 師 と し 権 現之 御 取 上 被 成 、 廊 下 ニヲ カ セ ラ レ候 テ大 行 寺 権 現 へ毎 日参 被 成 候 、其 間 に 昔 ハ廊 下 御 座 候 間 、 然 レ ハ其 谷 ナ ル 子 ヲ十 禅 師 申 候 、 然 レ ハ十 禅 師 権 現 ノ 社 ヨリ 大 行 寺 権 現 ノ 社 迄 神 之 御 通 ひ ノ さ い あ ひ乃 物 ヲ叡 山 ノ 谷 へ捨 を か せ ら れ 候 、 そ れ が 則 子 ト 成 日 吉 十 禅 師 権 現 見 ト変 ジ 給 ヒ テ慈 鎮 和 尚 へ御 通 ひ被 成 候 、 其 間 朝 ま さ に 見 え ん とす る な り ﹂ と 告 げ た 。 明 け 方 に、 一頭 八 身 の龍 が 観 海 法 師 が そ の龍 身 を 見 る た め に 谷 へ向 か う と 、 龍 が夢 に 現 れ ﹁ 明 師 を 冥 護 し 、 阿古 は 崩 れ た 石 にお さ え ら れ た 。 そ の 後 、 貞 観 年 中 に 龍 の体 を 持 った 阿 古 が 師 を 害 そ う と し た 。 し か し 、 そ の際 に 菩 薩 が 谷 に捨 身 し 、龍 と な った 。師 は驚 き悲 し み 、谷 へ向 か う と 、人 の 頭 と 詩 経 で合 格 し た に も 関 わ ら ず 、師 が 別 の も の を得 度 し た こ と を恨 み、 い う童 子 の伝 承が 語 られ て い る 。こ の阿 古 は 聡 明 な 童 子 であ った が 、 山 の 阿 古 谷 の龍 の神 変 に つい て述 ぶ る 事﹂ では 、 本 元 興 寺 の 阿古 と 候 御 神 供 ヲ食 物 ニア テカ ヒ被 成 候 、 其 故 二昔 ヨ リ 今 二至 ル マ テ あ ら わ れ る が 、 法 華 経 を 写 奉 す る こ と を 約 束 し 、 そ の功 徳 に よ っ て て いる 。 て廊 ノ御 子 ト 申 候 、 又 廊 ノ御 子 ノ 名 字 ハ谷 二出 き つる 故 ヲ 以 テ 高 倉 が 子 あ ご法 師 失 踪 の事 ﹂ と し て、 御 湯 殿 の 女 官 の子 であ る あ ご 六 〇五 ﹁ 建 保 の比 、 御 湯 殿 の女 官 大 行 寺 権 現 ノ御 神 供 ハ廊 ノ御 子 ノ 物 也 、 則 廊 下 二そ だ つに よ つ 阿 古 を 救 った と い う。 法 師 が神 隠 し に 遭 う 話 が 記 載 さ れ て い る。 あ ご 法 師 と い う 七 歳 の 小 ま た 、 ﹃古 今 著 聞 集 ﹄ 巻 十 七 谷 ノ子 ト 書 テ 子 谷 ト 申 候 、 則 廊 ノ 御 子 中 ノ名 字 是 也 、 た と い う の であ る。 一度 谷 へと 捨 て ら れ た そ の子 ど も が 、 十 禅 師 と ﹁ 廊 神 子 記 ﹂ に よ る と、 十 禅 師 が 児 と 変 じ て慈 鎮 と 契 り、 子 を 為 し 大 行 事 の問 の廊 下 で育 て ら れ た こと に よ り 、 廊 神 子 と 言 わ れ る よ う 童 は 、 夕 暮 れ 時 に 小 六 条 で相 撲 を と っ て いた と こ ろ 、 背 後 の築 地 か 周 り に いた 童 部 たち も 、 恐 ろし く な って 逃 げ てし ま った 。 母 も 大 層 ら 垂 布 のよ う な も のが お お い か ぶ さ り 、俄 か に姿 を消 し て しま った 。 に な った と い う 。 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄ の平 安 末 期 時 に ま で、 廊 神 子 の 存 在 が 遡 る こと は な い と 思わ れ る が 、 お そ ら く こ の 廊 神 子 のよ うな 託宣 を 受 け てそ れ を ﹁ 一 74 る と 、 軒 先 でた く さ ん の笑 い声 が し て 、廊 のほ う へ物 を 投げ こま れ へる 子 と ら せ ん 。 あ け よ ﹂ と 声 が す る 。 恐 ろし く て門 を 開 け ず に い 家 の門 を たた く も のが あ り 、あ や し ん で内 か ら ﹁た そ ﹂と問 う と ﹁ 失 悲 し み 、 く ま な く 探 す が 見 つか ら な い 。 三 日 過 ぎ た夜 半 に 、 女 官 の た と いう 。 (﹁ 女 人禁 制 と 推 参 ﹂ 大 隅 和 雄 ・西 口順 子 編 ﹃シ リ ー ズ 女 に 近 いも の と化 し て 行 者 に ︿ 聖 な る も の﹀ を媒 す る 役 割 を 描 き だ し ら も 中 世 的 な 存 在 ゆ え に 、 結 界 の禁 忌 に 制 止 さ れず 山 中 に 入り 、 神 で あ ると す る。 ま た 、 児 と い う 女 性 的 な る も の を豊 か に は ら み な が 一九 八九 年 ) 性と仏教 4 そ の噂 を 聞 い た 三 井 寺 南 滝 院 の浄 珍 僧 正が 里 坊 か ら 連 れ 去 って し ま 願 ひ を 一童 に ﹂ と 皆 が 祈 願 す る神 であ り 、 そ の神 力 は 二 四 五 歌 ﹁ 王 と 祈 願 成 就 を 一心 に 乞 う 歌 であ る。 こ の 一童 は 、二 四 七歌 では ﹁ 衆生 が 、 我 々 衆 生 の祈 願 を 成 就 し て下 さ る の で あ る 、 と い う 一童 の 示 現 本 歌 は 、 天 の門 を 押 し 開 い て示 現す る 童 形 神 であ る 一童 吾 児 こそ と し て のイ メ ー ジ を喚 起 す る の で は な い だ ろう か 。 と し て呼 ば れ て い る の では な く 、 神 と 人 と を 結 び つけ る 聖 な る も の 一童 吾 児 の ﹁ア コ﹂ と いう 呼 び 名 に は 、 た だ 童 形 で あ る か ら 愛 称 巫 と 女 神 ﹄ 平 凡社 た 。 火 を つけ て見 て み る と 、 ぐ った り と し 、 馬 のく そ が た く さ ん つ 更 に覚 如 の門 弟 であ る乗 専 (一二九 五 ∼ = 二五 三 )作 の ﹃最 須 敬 重 い た あ ご 法 師 であ った 。 絵 詞 ﹄ に は 、 覚 如 の幼 少 期 の挿 話 が 記 さ れ て いる 。 叡 山 の 里 坊 で宗 う。 連 れ 去 ら れ た 覚 如 は 南 滝 院 で ﹁ 阿 古 ﹂ と呼 ば れ て寵 さ れ 、 将 来 城 響 か い た う め る ﹂ と 称 さ れ る ほ ど に強 い も の であ る。 そ の担 い 手 澄 法 師 に学 ん で いた 十 四歳 の 覚 如 は 、学 問 、 器 量 と も に 優 れ てお り 、 サ テ 三井 ノ南 滝 院 ニ ハ。 寵 異 コト ニ ハ ナ ハダ シ ク 。 愛 玩 キ ハ マ に は院 家 の管 領 に し 、 聖 教 を 相 伝 さ せ よ う と ま で 考 え ら れ て い た 。 ( 松 石 江 梨香 ) には 、 託 宣 を 行 う 童 神 子 や 巫 女 が ふ さ わ し い と 言 え よ う 。 ニ ヨ バ ル \事 モ ナ ク 。 オ サ ナ ク テ 。 阿 古 ト ナ ノ ラ レ ル 。 ソ ノ カ リ ナ カ リ ケ リ 。 ア マ タ ノ 見 達 ノ中 ニ モ。 所 ヲ 、カ レ テ名 字 ヲ 髄 シ テ。 本 尊 聖 教 ノ附 属 モ ア ル ベ キ ムネ ナド シ メ サ レ ケ レ バ。 タ ナ ヲゾ ヨ バ レ 給 ケ ル 。 未 来 ニ ハ院 家 ノ ウ チ 一方 ノ管 領 ヲ ユル ﹁ ア コ﹂ と い う 名 が 用 いら れ る 。 金 峰 山 の阿 古 は捨 こ のよ う に童 子 , 特 に 寺 社 に つか え る児 や 巫的 な 性 格 を 持 つ童 の 名 に、 た び たび 身 によ って荒 ぶ る 神 へと 変 化 し た 。 阿 部 泰 郎 は 、 捨 身 と いう 行 為 自 体 も と も と 神 への 犠 牲 と し て あ ら た な 神 と 転 生 す る 祭 儀 的 な 回路 で コ ・ア コヤ と いう名 は 、中 世 の伝 承 世 界 で普 き 巫 蜆 の代 名 詞 の ひ と つ あ って、 中 世 の伝 承 上 、 児 や 女 人 に 担 わ れ る のが 一般 的 であ り 、 ア 一 ﹁ 75
© Copyright 2024 ExpyDoc