2016年 12月4日 December 4, 2016 聖書:ヨハネ福音書 1 章 1-12

2016
6年 12
2月4日 December 4, 2016
聖書:ヨハネ福音書
-12 節
John 1:1-12
聖書:ヨハネ福音書 1 章 1-
タイトル:「
タイトル:「来られた救い主の誕生」
来られた救い主の誕生」 Title: “The birth of the savior King who came”
John 1:1-12
1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 2 He was with God
in the beginning. 3 Through him all things were made; without him nothing was made that has been made.
4
In him was life, and that life was the light of all mankind. 5 The light shines in the darkness, and the
darkness has not overcome[a] it.
6
There was a man sent from God whose name was John. 7 He came as a witness to testify concerning that
light, so that through him all might believe. 8 He himself was not the light; he came only as a witness to
the light. 9 The true light that gives light to everyone was coming into the world. 10 He was in the world,
and though the world was made through him, the world did not recognize him. 11 He came to that which
was his own, but his own did not receive him. 12 Yet to all who did receive him, to those who believed in
his name, he gave the right to become children of God— 13 children born not of natural descent, nor of
human decision or a husband’s will, but born of God. 14 The Word became flesh and made his dwelling
among us. We have seen his glory, the glory of the one and only Son, who came from the Father, full of
grace and truth.
序
論 Summary
●キリスト教のカレンダーによるなら、先週の日曜日は、既に、
キリスト教のカレンダーによるなら、先週の日曜日は、既に、第一アドベント・サンデーで
キリスト教のカレンダーによるなら、先週の日曜日は、既に、第一アドベント・サンデーで
あり、今年もクリスマス・シーズンが始まった。
According to the Christian calendar last week was already the first week of Advent; therefore, the
Christmas season has begun for this year.
●「クリスマス」は、沢山の子どもたちにとっても、
「クリスマス」は、沢山の子どもたちにとっても、彼らが
「クリスマス」は、沢山の子どもたちにとっても、彼らが最も好きな季節であり、行事であ
彼らが最も好きな季節であり、行事であ
ろう。
Christmas is considered the favorite season among many children.
●クリスマスは、今や、世界中に知れ
クリスマスは、今や、世界中に知れ渡り、祝われている行事、習慣である。言うまでもなく、
クリスマスは、今や、世界中に知れ渡り、祝われている行事、習慣である。言うまでもなく、
日本もその
日本もその例外ではない。
その例外ではない。
Worldwide the custom of Christmas is now known as the most celebrated event. It goes without
saying that Japan is no different I this respect.
●以前にも申し上げたように、もうだいぶ前のことであるが、あるアメリカ人のクリスチ
以前にも申し上げたように、もうだいぶ前のことであるが、あるアメリカ人のクリスチャン
以前にも申し上げたように、もうだいぶ前のことであるが、あるアメリカ人のクリスチャン
が、クリスマスの季節に、日本全体が、「クリスマス、クリスマス」と
が、クリスマスの季節に、日本全体が、「クリスマス、クリスマス」と盛り上がっている様子
が、「クリスマス、クリスマス」と盛り上がっている様子
を見て、「
を見て、「知らない人がこれを見たら、日本はキリスト教国だと思うであろう」と言ったほど
知らない人がこれを見たら、日本はキリスト教国だと思うであろう」と言ったほど
である。
I’ve said this before, it was a while ago, but there was an American Christian that once said that
during the Christmas season in Japan, when seeing people get so excited about Christmas, he
exclaimed that “If we didn’t know any better, we’d think that Japan was a Christian nation”.
●しかし、そんな日本で、「クリスマスって何の日?」と、もし子供たちに聞いたら、「サン
しかし、そんな日本で、「クリスマスって何の日?」と、もし子供たちに聞いたら、「サン
タクロースが来る日」「プレゼントを一杯もらえる日」「サンタクロースが生まれた日」など
が返って来る。
But, if you ask kids in Japan “What is Christmas?”, they would say “It’s when Santa Claus comes”
“It’s the day when we get lots of presents”.
●私たちクリスチャンは、この季節、自らがイエス様の誕生の意味を、今まで以上に深く味わ
私たちクリスチャンは、この季節、自らがイエス様の誕生の意味を、今まで以上に深く味わ
い、神様に近づくと共に、イエス様のことをまだ知らない方々に、クリスマスの本当の意味を
知らせるべきである
知らせるべきである。
べきである。
As Christians, during this season we should remember and experience deeply that Christmas
represents Jesus’ Birthday. Doing this we should draw closer to God while sharing the true
meaning of Christmas with others who don’t know Jesus.
1
●今日はその第一回目としてヨハネの福音書
今日はその第一回目としてヨハネの福音書 1 章 1-
-12 節から「来られた救い主」について学
びたい。
Today let’s read together, as if for the first time, John 1:1-12 while learning about “the savior King
who came”.
1.今日のテキストを見て頂きたい。Please
look at today’s passage.
1.今日のテキストを見て頂きたい。
(1)9節:「すべての人を照らす
9節:「すべての人を照らす、真
9節:「すべての人を照らす、真の光
、真の光(イエス様のこと
の光 イエス様のこと)が世に
イエス様のこと が世に来ようとしていた
が世に来ようとしていた」
来ようとしていた」
Verse 9: “9 The true light that gives light to everyone was coming into the world”
(2)11 節:「この方(イエス様のこと
節:「この方 イエス様のこと)は、ご自分の国に
イエス様のこと は、ご自分の国に来られた
は、ご自分の国に来られたのに
来られたのに」
のに」とある。
11
Verse 11: “ He came to that which was his own, but his own did not receive him.”
(3)イエス様は、
イエス様は、来られた
イエス様は、来られたお方である。
来られたお方である。
Jesus is the savior that came.
2.ルカによる福音書
.ルカによる福音書 19 章 10 節も見たい。そこでイエス様はご自分のことについてこのように
も見たい。そこでイエス様はご自分のことについてこのように
言われた。「人の子(ご自分のこと
言われた。「人の子 ご自分のこと)は、
ご自分のこと は、失われた
は、失われた人
失われた人を探し出して救うために
を探し出して救うために来たのです
来たのです」と。
のです」と。
Let’s look at Luke 19:10. This is what Jesus says of himself: “10 For the Son of Man came to seek and
to save the lost.”
(1)ここでイエス様が「来た」と
ここでイエス様が「来た」と言われたの
ここでイエス様が「来た」と言われたのは、「私はガリラヤ地区から旅をして、今、ここエ
言われたのは、「私はガリラヤ地区から旅をして、今、ここエ
リコの町に来たのは、・・・
リコの町に来たのは、・・・」と言う
」と言う普通の意味の「来た」
来たのは、・・・」と言う普通の意味の「来た」ではなかった。
普通の意味の「来た」ではなかった。即ち、
ではなかった。即ち、
Here Jesus says “he came”. He is not just saying “I came from Galilee on a trip to Jericho”.
(2)イエス様がここで
イエス様がここで「来た」と言って
イエス様がここで「来た」と言って意味されたことは、
「来た」と言って意味されたことは、単に一つ場所から違う場所への移動
意味されたことは、単に一つ場所から違う場所への移動
ではなく、イエス様の「誕生」を意味していた。即ち、「私が生まれて来たのは」の意味であ
る。
Here when Jesus says “I came” he is not just saying “I came from one town to another”. Here, he is
referring to his birth: “This is the reason I was born”.
3.普通は、誕生を意味するとき、「私が生まれて来たのは、きっと誰かを助けるためだった
3.普通は、誕生を意味するとき、「私が生まれて来たのは、きっと誰かを助けるためだった
のか」
のか」などと
などとは言っても、「私が来たのは、
っても、「私が来たのは、・・・」と言わない。
「私が来たのは、・・・」と言わない。
Normally, when someone is referring to their “birth”, for example “The reason I born into this
world was likely to save someone”, they don’t usually say “The reason I came was...”
4.それでは、なぜイエス様は、ご自分の誕生を「私が来た」と言われたのか? それは、イ
エス様は、
エス様は、御子として永遠の昔から
御子として永遠の昔から存在しておられたお方だったからである。
として永遠の昔から存在しておられたお方だったからである。
So then, why did Jesus refer to his own birth by saying “I came”? It’s because Jesus had already
existed for eternity as God’s Son.
(1)イエス様
イエス様は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時
イエス様は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時に初めて
は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時に初めて「存在」
に初めて「存在」を開
「存在」を開
始された
始されたお方ではない。
Jesus didn’t just come into being when Mary gave birth to Him and she named Him Jesus.
(2)イエス様は、
イエス様は、御子
イエス様は、御子、第二位の神として、
御子、第二位の神として、永遠の昔から
、第二位の神として、永遠の昔から存在して
永遠の昔から存在しておられた
存在しておられたのである
おられたのである。
のである。天で父な
る神の御そばにおられた御子が、私たちを救うために、人となるべく地上に来られたのである。
Jesus, as God’s Son, second only to God, has been in existence for eternity. Sitting next to the
Father in Heaven, Jesus, as God’s Son came to earth in order to save us.
5.要するに、御子は人間としては「生まれた」のであるが、救い主としては「来られた」の
である。
In other words, the Son was “born” as a human, but He “came” as a savior to this world.
6、即ち、御子は、「来られた」救い主である。御子は、
6、即ち、御子は、「来られた」救い主である。御子は、3
る。御子は、 つの意味で「来られた」救い主で
ある。
Namely, the Son “came” as a savior; this can be explained in three different ways.
(1)第一に、イエス様は「ことば
第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。
第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。
First, Jesus came “in word” as savior king.
(2)第二に、イエス様は「光」として来られた救い主である。
第二に、イエス様は「光」として来られた救い主である。
Second, Jesus came as “light” to be savior king
2
(3)第三に、イエス様は「
第三に、イエス様は「人」として来られた救い主である。
第三に、イエス様は「人」として来られた救い主である。
Third, Jesus came as a “person” to be savior king.
本
論 Main
Ⅰ. 第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。それは、どういうお方を
意味していたのか?
First, examining Jesus who came “as word”. What kind of person would that refer to?
A. それを知るためにヨハネがイエス様について「ことば」と言う表現を用いた背景にある
二つの世界を見たい。
1.「
1.「二つの世界」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった
二つの世界」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった。
」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった。
The two world’s intersecting were Greek customs and Jewish customs.
(1)
当時は、今で言えば英語
当時は、今で言えば英語に当たるが、コイネーと呼ばれるギリシャ語が世界共通語とし
英語に当たるが、コイネーと呼ばれるギリシャ語が世界共通語とし
て用いられていた。
At that time, much like English is now, the Greek language was considered the “lingua franca”
(aka“Koine”- the common language of the Greeks from the close of the classical period to the Byzantine
era)
(2)そのような中、神様の深い摂理によって
そのような中、神様の深い摂理によって新約聖書はギリシャ語で書かれた。
そのような中、神様の深い摂理によって新約聖書はギリシャ語で書かれた。多くの人々が言
新約聖書はギリシャ語で書かれた。多くの人々が言
うようにそのことがキリスト教が当時の世界に
うようにそのことがキリスト教が当時の世界に急速
キリスト教が当時の世界に急速に広がった大きな要因であった。
急速に広がった大きな要因であった。
Because of Greek being the lingua franca - due to the deep provenance of God, the New Testament was
written in Greek. Many people attribute that as the main reason for the rapid, wide spread of Christianity
during that era.
(3)言葉と思想・文化は
言葉と思想・文化は「
言葉と思想・文化は「一体」
一体」であり、或いは、少なくとも大きなつながりを持っている
であり、或いは、少なくとも大きなつながりを持っているが、
、或いは、少なくとも大きなつながりを持っているが、
当時の世界に広く浸透していた文化思想は
当時の世界に広く浸透していた文化思想はギリシャ文
広く浸透していた文化思想はギリシャ文化であった。
ギリシャ文化であった。
Word and thought/customs are considered “one unit”, in other words, they are deeply intertwined,
but at that era, the thoughts that most widely infiltrated the world were Greek customs.
(4)ヨハネは、そのことを意識し、聖書を知るイスラエルの人々と、それを超えた世界、即ち、
ヨハネは、そのことを意識し、聖書を知るイスラエルの人々と、それを超えた世界、即ち、
ギリシャ文化思想の中に住む
ギリシャ文化思想の中に住む人々と
人々との両方に分かるように、イエス様を救い主としてここで
方に分かるように、イエス様を救い主としてここで紹
ここで紹
介しようとしたのである。
John, being aware of this, and also aware that the people of Israel knew the Bible well, could
overcome the influence of the Greek world. Namely in that John tried to introduce Jesus the savior
to all people living amidst the Greek thoughts and customs.
(5)そのために彼は、ここで、イエス様を
そのために彼は、ここで、イエス様を紹介
そのために彼は、ここで、イエス様を紹介するのに、「ことば」
紹介するのに、「ことば」、ギリシャ語で
するのに、「ことば」、ギリシャ語では、「ロ
、ギリシャ語では、「ロゴ
は、「ロゴ
ス」と言う
ス」と言う表現
と言う表現を用いた。
表現を用いた。
For that reason, John use the Greek term“logos”, meaning “word” when introducing Jesus.
●日本語
日本語訳
新改訳聖書
日本語訳(新
改訳聖書)では、
聖書 では、1
では、 節に 3 回、14
回、 節で 1 回、直接的
回、直接的に「ことば」と
直接的に「ことば」と訳
に「ことば」と訳しているが、
In the Japanese translation, vs 1 (3 times), 14 (1 times) it is translated directly as “word”.
●1-
-18 節全体が「ことば」「ロ
節全体が「ことば」「ロゴ
が「ことば」「ロゴス」なる救い主イエスの紹介
ス」なる救い主イエスの紹介である。
紹介である。
Vs 1-18 (which book?) uses “word”, “logos” to introduce the savior.
2.第一に、
」と言う語は、
2.第一に、この「ことば
第一に、この「ことば(ロ
この「ことば ロゴス)」
と言う語は、ギリシャ文化に深く浸っていた人々に
は、ギリシャ文化に深く浸っていた人々には、
ギリシャ文化に深く浸っていた人々には、
直ちに、この世界を支配
ちに、この世界を支配する理
支配する理性
する理性と原理の中心
理の中心である「
である「神的存在」
存在」を想起
を想起させた。
First, to those immersed in the Greek world, the term “word/logos” brings to mind some entity of
God that evokes ideas of “ruling” and “reason”.
(1)彼らにとって
彼らにとって見える
わるもの、一時的、仮のものであった。
彼らにとって見える物質
見える物質の世界は
物質の世界は、移り行くもの、
の世界は、移り行くもの、変
、移り行くもの、変わるもの、一時的
「そのものをそのものたらしめている」本
そのものをそのものたらしめている」本質
」本質は見えない世界にあると信じ
見えない世界にあると信じていた。
信じていた。
They (the Greeks) believed that the visible things of this world could change, and were temporary.
“These things make other things” in an invisible world.
(2)その見えない本
その見えない本質
その見えない本質の世界にこそ、物
の世界にこそ、物が存在している真の
が存在している真の理
真の理由と根拠があり、
根拠があり、見える世界の
があり、見える世界のす
見える世界のす
べての事象
べての事象の背後に
背後には原理と理性
理と理性があると
があると信じていた
信じていた。
ていた。
3
Because of that, they believe the invisible world holds the key to the basis and reason for truth
behind existence, and the background for all that exists in the visible world.
(3)彼らは、
彼らは、それらの
彼らは、それらの原
それらの原理と理性
理と理性の創造者であり、
創造者であり、その
であり、その究極
その究極を
究極を支配している神
支配している神的
している神的存在を認
存在を認識し、
「ロゴ
「ロゴス」と呼んでいた。
They call this God-like entity that rules over reason and truth“logos”.
(4)ヨハネは、イエ
ヨハネは、イエス様を
ヨハネは、イエス様を紹介
ス様を紹介するにあたり、このギリシャの文化、
紹介するにあたり、このギリシャの文化、哲
するにあたり、このギリシャの文化、哲学思想の「ロゴ
学思想の「ロゴス」を
人々に想
節の終わりで、ハッ
わりで、ハッキリと、そのロ
キリと、そのロゴ
そのロゴス、「ことばは
ス、「ことばは、
「ことばは、神
人々に想起させながら、あえて、1
させながら、あえて、 節の終
であった」、そして、それがイエス様だ
であった」、そして、それがイエス様だと
、そして、それがイエス様だと断言するのである
言するのである。
のである。
John when introducing Jesus as “logos” amidst Greek culture and ideas, successfully gets that point
across as they already understand the meaning of “logos”, and that “God is logos/word”.
(5)即ち、
即ち、イエス様を、ロ
即ち、イエス様を、ロゴ
イエス様を、ロゴスとして紹介
として紹介し、神だと
紹介し、神だと宣
し、神だと宣言したのである。
That’s why he introduces Jesus as Logos – professing He is God.
●私たちは、ロ
私たちは、ロゴ
私たちは、ロゴス、即ち、神であるイエス様の中に、世界の存在理由
ス、即ち、神であるイエス様の中に、世界の存在理由、私たちの存在理由
、私たちの存在理由を
見出すのである。
We, should focus on “logos” (aka Lord Jesus) when trying to understand the reason for our
existence in this world.
●私たちは、イエス様の中にこそ、
私たちは、イエス様の中にこそ、創造者
私たちは、イエス様の中にこそ、創造者であり、この世界の
創造者であり、この世界の支配者
であり、この世界の支配者であるロ
支配者であるロゴ
であるロゴスを見、
スを見、そこ
見、そこ
に、存在と生きる意味、即ち実
に、存在と生きる意味、即ち実存の意義
存の意義を見出すのである。
We should look to Jesus as the creator and ruler of this world, and understand our existence and
reason for living.
B. 更に、ヨハネの「ことば」と言う表現の背後には、ユダヤ文化、旧約聖書の背景がある。
Let’s also consider this against the background of the Old Testament and Jewish customs.
1.旧
1.旧約聖書において、「ことば」とは単なる伝達
約聖書において、「ことば」とは単なる伝達の
伝達の媒体としての「口
体としての「口のことば」ではない。
のことば」ではない。
In the Old Testament, “word” is not a simple term either.
2.「ことば」は、
2.「ことば」は、む
「ことば」は、むしろ、それを発
しろ、それを発せられた人、発
せられた人、発せられたお方そのものであった。
It means “the Person that spoke”.
(1)それ
それゆ
それゆえ、神のことばは、神ご自身
え、神のことばは、神ご自身、神ご自身
、神ご自身の力、神ご自身
、神ご自身のご人格
のご人格であった。
Also, “God’s word” meant “God Himself”, “God’s strength”.
この世界を創造
(2)この世界を
この世界を創造されたのは神様ご自
創造されたのは神様ご自身
されたのは神様ご自身である。創
である。創世記 1 章 1 節が言うように、「初めに、神
が天と地を創造
が天と地を創造した」のである。
創造した」のである。
Genesis 1:1 says “The beginning God created the heavens and the earth” – God is the creator
(3)しかし、神さまは
しかし、神さまは、
しかし、神さまは、それを具
それを具体的には、ご自
には、ご自身
ご自身のお「ことば」
のお「ことば」をもって
「ことば」をもって創造
をもって創造された
創造された。
された。
However, God as “Word” created the heavens and earth
●日本語の新
日本語の新改訳
日本語の新改訳聖書によると、神様の天地
改訳聖書によると、神様の天地創造
聖書によると、神様の天地創造の
創造の業を記す創世記 1 章で、実
章で、実に 11 回、「神は
仰せられた(英語では
said”)」と
」と繰
せられた 英語では“God
英語では
」と繰り返されている。
In the Japanese translation (shinkaiyakuseisho), Genesis 1:3 “God said” several times.
●即ち、神さまは、その
即ち、神さまは、その創造
即ち、神さまは、その創造の
創造の業をご自身
ご自身のお言葉によって
のお言葉によって成
言葉によって成し遂げられたのである。
Namely, God is commenting on His work
●その
その典型的
その典型的例は、「神が
典型的例は、「神が『
例は、「神が『光よ。あれ。』
光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」である。
For example, God says “Let there be light” and there was light.
●それ
それゆ
それゆえ、詩篇
え、詩篇 33 篇 6 節は、「主のことばによって、天は造
節は、「主のことばによって、天は造られた」と言う。
Psalm 33:6 “By the word of the LORD the heavens were made, their starry host by the breath of his
mouth.
●そして、このヨハネ
そして、このヨハネ 1 章 3 節は、「すべてのものは、この方(即ち、ロ
節は、「すべてのものは、この方 即ち、ロゴ
即ち、ロゴス、ことば)によって
ス、ことば によって
造られた」と言う。
John 1:3 “. 3 Through him [Logos/Word] all things were made; without him nothing was made that has
been made.”
4
(4)即ち、このユダヤ文化、
即ち、このユダヤ文化、旧
即ち、このユダヤ文化、旧約聖書の
約聖書の背景からも、「ことば」はすべての始まり、すべての
背景からも、「ことば」はすべての始まり、すべての基
からも、「ことば」はすべての始まり、すべての基
礎である創造者
である創造者なる神を意味していた。
創造者なる神を意味していた。
Namely, In the Jewish custom, with the Old Testament as a background we see that through
the“Word” all began – referring to the all-powerful creator God.
●これは、ユダヤ人なら誰もが
これは、ユダヤ人なら誰もが認
これは、ユダヤ人なら誰もが認めていることである。
All Jewish people would agree with this.
●しかし、ここで、ヨハネは、その「ことば」
しかし、ここで、ヨハネは、その「ことば」なるお方
しかし、ここで、ヨハネは、その「ことば」なるお方が、
なるお方が、ナザ
が、ナザレのイエス様であると言った
ナザレのイエス様であると言った
のである。
However, here John uses “Jesus”instead to represent this “Word”.
Ⅱ.第二に、イエス様は、「光として来られた」救い主である。4-9節
Second, Jesus the savior “came as light” vs 4-9
A. 光の重要性:The importance of light
1.第一に、そもそも光は、神様の「
1.第一に、そもそも光は、神様の「創造
第一に、そもそも光は、神様の「創造」の
創造」の基礎
」の基礎である。
基礎である。
First, the basic origin of God’s “creation” is light
(1) 創世記 1 章 3 節を見るとき、神様の創造
節を見るとき、神様の創造の御
創造の御業
の御業は、混沌
は、混沌とした
混沌とした暗闇
とした暗闇に「光あれ」と
暗闇に「光あれ」と仰
に「光あれ」と仰ったと
ころから始まった。
Genesis 1:3 “3 And God said, “Let there be light,” and there was light.”
(2)罪
罪は、神さまが、人間の世界に造
は、神さまが、人間の世界に造られた光を破壊
られた光を破壊し、
破壊し、奪
し、奪い、私たちを暗闇
い、私たちを暗闇の中に
暗闇の中に閉
の中に閉じ込めた
じ込めた
のである。
Sin is , when God has taken away/extinguished the light created in the human world, and we are left
in darkness.
2.第二に、それ
2.第二に、それゆ
第二に、それゆえ、光は、「救い」の原点
え、光は、「救い」の原点であり、目
原点であり、目的
であり、目的である。この失われた光を取
である。この失われた光を取り戻
し、私たちをまた光りの世界に入
し、私たちをまた光りの世界に入れることが救いであり、救い主の役割
れることが救いであり、救い主の役割である。
役割である。
Second, therefore light is the origin and purpose of“salvation”. Bringing back that light that we lost
and allowing us to enter the world of light is salvation - the role of the savior.
(1)だから、イエス様は言われた。「私は、世の光です。私に
だから、イエス様は言われた。「私は、世の光です。私に従
だから、イエス様は言われた。「私は、世の光です。私に従う者は、決
は、決して闇
して闇の中を歩む
の中を歩むこ
歩むこ
と。
とがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ
とがなく、いのちの光を持つのです」 ヨハネ 8 章 12 節)と。
That’s why Jesus said in John 8:12 ““I am the light of the world. Whoever follows me will never walk
in darkness, but will have the light of life.”
(2)そして、今日のヨハネの福音書のテキストでも、「光は
そして、今日のヨハネの福音書のテキストでも、「光は闇
そして、今日のヨハネの福音書のテキストでも、「光は闇の中に輝
の中に輝いている。闇
いている。闇はこれに打
はこれに打
と、
ち勝たなかった」(1
たなかった」 章 5 節)と、
Like in today’s passage in John 1:5 “5 The light shines in the darkness, and the darkness has not
overcome[a] it.”
(3)どちらの聖
どちらの聖句
どちらの聖句も、真の光であるイエス様の到
も、真の光であるイエス様の到来によって、暗闇
来によって、暗闇が
暗闇が打ち破られて、光が私たち
の中に
回復したことが宣
したことが宣言されている。
Both passages proclaim that the arrival of Jesus, “light of truth” will restore us from darkness.
B.光の意味すること:イエス様はどんな光なのか? どんな暗闇から私たちを救い出してく
ださるのか?
The meaning of light: What kind of light is Jesus? From what kind of darkness will he restore us?
1.実存的光:Existential
光:
light
(1)私たちを
私たちを実
私たちを実存的暗闇から救いだしてくださる。
的暗闇から救いだしてくださる。
Jesus will restore us from existential darkness
(2)私たちは、一体何
私たちは、一体何者
私たちは、一体何者なのか? 一体どこから来て、どこへ行くのか? 一体何のために生き
るべく生まれたのか? 多くの人々がこれらの質問
多くの人々がこれらの質問の
質問の答えのない暗闇
えのない暗闇に生きている。
暗闇に生きている。
In other words, “What/who am I?” “From where did I come?” “Where am I going?” “For what
was I born?” Many people live in darkness without answers to such questions.
5
(3)科
科学は、私たちのする沢山の WHAT, HOW の問題に
の問題には
問題に答えてくれるが、WHY
えてくれるが、
問題には答
には答
えてくれない。
Science can answer many of the “What” and “How” questions, but not the “why”.
(4)即ち、
即ち、科
即ち、科学的答えはできても、
的答えはできても、実
えはできても、実存的な質問には
質問には答
には答えられない。
Namely, existential questions can’t be answered by science.
(5)そ
それは、造
れは、造り主だけが、光を当てることができる質問
り主だけが、光を当てることができる質問である。
質問である。
Only the creator God, light can answer those questions.
2.道徳的
light
2.道徳的光:
道徳的光:Ethical
光:
(1)私たちのもう一つの
私たちのもう一つの暗闇
私たちのもう一つの暗闇は、何が
暗闇は、何が善
は、何が善であり、何が悪
であり、何が悪であるかが分からない道徳的暗闇
であるかが分からない道徳的暗闇である。
道徳的暗闇である。
Another darkness we experience is about the question of good and evil.
(2)罪
罪により光を失った私たちの今の時代
により光を失った私たちの今の時代の恐ろしさの一つは、どんどん光から遠
ろしさの一つは、どんどん光から遠ざ
ん光から遠ざかり、今や、
自らが暗闇
自らが暗闇の中にいることさえ、分からなくなってしまいつつあることである。
暗闇の中にいることさえ、分からなくなってしまいつつあることである。
One of the frightening things about losing the light, is that living in this era is we continually go
farther away from the light. Now, we don’t even recognize that we are in the darkness.
(3)何が
何が善
何が善で、何か悪
で、何か悪で、何があるべき
で、何があるべき姿
べき姿で、何があるべきでないかが、全く混乱
で、何があるべきでないかが、全く混乱している。
混乱している。基
している。基
準がない。真実
がない。真実を、真理を照らすものがない。
What is good, and what is evil? What is proper and what is improper? These things are confused
within us. We have no standard. There is nothing to shine the truth on us.
昔、子ども時代
(4)昔、子ども時
昔、子ども時代によく外で遊
によく外で遊んでいるときに経験
んでいるときに経験したことであるが、大
経験したことであるが、大きな
したことであるが、大きな石
きな石をゴロッとひ
っくり返してどけると、石
っくり返してどけると、石の下に隠れていた小
れていた小さな虫
さな虫たちが、急にあてられた光の前に、慌
たちが、急にあてられた光の前に、慌て
て右往左往して
右往左往して逃
して逃げ回る姿
げ回る姿である。
Long ago, when I used to play outside as a kid I used to experiment by turning over a large rock
and looking for bugs. Some bugs when they saw the light would run away and hide. They would run
frantically back and forth, left and right, confused.
(5)私たち人間は、イエス様の光に照らされるときに、
私たち人間は、イエス様の光に照らされるときに、慌
私たち人間は、イエス様の光に照らされるときに、慌てるような生活
てるような生活をしている。でも光が
ないので、あたかもこのままで良
ないので、あたかもこのままで良いように思い偽
いように思い偽りの安心感
りの安心感の中に生
安心感の中に生活
の中に生活している。
We humans, when Jesus shines His light on us, run frantically back and forth too. But because we
are not used to light in our world, we act as if this is normal, and we live our lives in false security.
(6)イエス様は、そこにメスを
イエス様は、そこにメスを入
イエス様は、そこにメスを入れるように、その暗闇
れるように、その暗闇に光として来られたのである。
暗闇に光として来られたのである。
That’s why Jesus came to operate on our lives and bring light into that darkness.
3.人生の光:
of our lives
3.人生の光:Light
人生の光:
(1)これは、1の「
これは、1の「実
これは、1の「実存的光」とも関連
光」とも関連するが、それを、もっと
関連するが、それを、もっと個
するが、それを、もっと個人的に見る光である。
This is related to 1)“existential light”, but light seen on a more personal level.
(2)私は、一体何
私は、一体何者
私は、一体何者なのか? 私はどんな強み
私はどんな強み、
強み、弱みをもっているのか?
弱みをもっているのか? 私は私の性格
私は私の性格をどの
性格をどの
ように見たら良
ように見たら良いのか? この生い立
この生い立ちが私にどんな影響
ちが私にどんな影響を
影響を与えたのか? 私は、何をして生
きて行ったら良
きて行ったら良いのか? などなど。
Questions like: Who am I? What strengths and weaknesses do I have? How should I look at my
own life? How has my way of life influenced me? How should I live my life?
(3)私たちの人生は、分からないことだらけである。
私たちの人生は、分からないことだらけである。次
私たちの人生は、分からないことだらけである。次の瞬間、何が起
間、何が起こるかも分からない。正
こるかも分からない。正
に「一寸
に「一寸先は闇
先は闇である」
Our lives are filled with unknowns. We don’t know what will happen next. “No one knows what the
future holds”
(4)そんな前の見えない、
そんな前の見えない、否
そんな前の見えない、否、今だって自分が見えない人生を歩
、今だって自分が見えない人生を歩んでいる私たちに、イエス様は、
光を当てて、自分を見せ、また人生の道
光を当てて、自分を見せ、また人生の道を一歩
を一歩一歩導いてくださるのである。
歩導いてくださるのである。
Without seeing ahead of us, we are walking ahead without knowing what the future holds, but Jesus
is guiding us, shining his light, and showing us who we are.
(5)二つの聖
二つの聖句
二つの聖句を思い出して戴
を思い出して戴きたい:
I’d like you to remember two passages in particular.
6
●詩篇
詩篇 23 篇 1 節~:主は私の牧者
:主は私の牧者であって、・・・・
牧者であって、・・・・
Psalm 23: from verse 1 “The Lord is my shepherd...”
●詩篇
詩篇 119 篇 105 節:あなたのみ
節:あなたのみことばは、私の足
ことばは、私の足の灯、私の道
、私の道の光です。
Psalm 119:105: “Thy word is a lamp unto my feet and a light unto my path.”
4.
.ここでこの「光」のポ
ここでこの「光」のポイントを締
イントを締めくくるにあたり短
めくくるにあたり短く二つのことを指摘
く二つのことを指摘したい
指摘したい。
したい。
(1)第一は、この「イエスさまという光」は「いのちの光」であることである。
第一は、この「イエスさまという光」は「いのちの光」であることである。
Here, to summarize, the“light that is Jesus” is “the light of life”
●4 節を見たい。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
Let’s look at John 1: 4. “4 In him was life, and that life was the light of all mankind”
●この世の光、それは、「
この世の光、それは、「律法
この世の光、それは、「律法」に
律法」に代表
」に代表される光である。そのような光は、あれが
代表される光である。そのような光は、あれが正
される光である。そのような光は、あれが正しい、こ
れが正
れが正しい、これが間違っている、等
しい、これが間違っている、等の指摘はできても、
指摘はできても、
Even if by this light that exists in this world, in otherwords“the law=Torah”, could determine
whether “This is right or that is right” Or “this is wrong”,
●そこに「いのち」がないので、
そこに「いのち」がないので、「
そこに「いのち」がないので、「冷たい光」となってしまい、何か善悪
たい光」となってしまい、何か善悪を
善悪を指摘はできても、
指摘はできても、
反って、失望
って、失望を与えるだけで、解決
えるだけで、解決にならない。
解決にならない。救いにならない。
にならない。救いにならない。
There is no “life” in that light, so it’s like “cold light”. It can only tell your good and bad, but it will
end in disappointment, not resolution. It won’t save you.
●それが
それが正
それが正にローマ人への手紙
にローマ人への手紙3章
手紙3章 20 節「なぜなら、律法
節「なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の
律法を行うことによっては、誰一人神の
前に義
前に義と認められないからです。律法
められないからです。律法によってはかえって
律法によってはかえって罪
によってはかえって罪の意識が生じ
の意識が生じるからです」と言う
お言葉で表現
お言葉で表現されていることである。
表現されていることである。
This is clear in Romans 3:20 “20 Therefore no one will be declared righteous in God’s sight by the works
of the law; rather, through the law we become conscious of our sin.”
●しかし、イエス様の光は「いのちの光」である。
しかし、イエス様の光は「いのちの光」である。「いのち」がある光だから:
しかし、イエス様の光は「いのちの光」である。「いのち」がある光だから:
However, Jesus’s light is “the light of life”.
・暖かさを伝
さを伝える、
える、It gives warmth
・人を励
・人を励まし慰
まし慰めることができる、It
めることができる、 encourages
・人を変
・人を変えることができる、It
えることができる、 changes people
・包み、
包み、希望を
希望を与えることができる It gives hope
●何よりも。
何よりも。イエス様
何よりも。イエス様ご自
イエス様ご自身
ご自身が、いのちの光、生きている光である。即
が、いのちの光、生きている光である。即ち、
。即ち、イエス様
ち、イエス様は
イエス様は、口だ
けで教えた単なる知
けで教えた単なる知的
単なる知的光ではない。ご自
光ではない。ご自身
い。ご自身が光として実際
光として実際に生きられた
実際に生きられた命
に生きられた命を持った光であるこ
を持った光であるこ
とを意味していた。
Above all, Jesus calls Himself “the light of life”, living light. Namely, Jesus is not simply teaching
that he is “bright”. He is saying that because He is light. He is life.
・ここが、バ
・ここが、バプテスマのヨハネとの大きな違いである。
プテスマのヨハネとの大きな違いである。6-
な違いである。 -8 節を見たい。
Here, this is different from John the Baptist John 1:6-8: “6 There was a man sent from God whose
name was John. 7 He came as a witness to testify concerning that light, so that through him all might
believe. 8 He himself was not the light; he came only as a witness to the light.
・バプテスマのヨハネが光について言ったことは皆正
プテスマのヨハネが光について言ったことは皆正しかった。しかし、彼は光そのものでは
皆正しかった。しかし、彼は光そのものでは
なかった。即ち救い主ではなかった。光について証
なかった。即ち救い主ではなかった。光について証しした人であった。
He was not the savior. But was witness to the light.
・ここに、この光が、私にも、私の人生にも
ここに、この光が、私にも、私の人生にも実現
、この光が、私にも、私の人生にも実現する救いの
実現する救いの希望
する救いの希望がある。
希望がある。
Here, this light provides hope for salvation for me and my life.
(2)もう一つのことは、
もう一つのことは、必勝宣
もう一つのことは、必勝宣言である。即ち、この光の前に、
必勝宣言である。即ち、この光の前に、闇
言である。即ち、この光の前に、闇の世界は決
の世界は決して勝利
して勝利すること
勝利すること
ができない。5
ができない。 節「光は闇
節「光は闇の中に輝
の中に輝いている。闇
いている。闇はこれに打
はこれに打ち勝たなかった」
One more thing is a sure victory. Namely, in front of this light, darkness can never win. John 1:5
“5 The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome[a] it.”
●人生、
人生、罪
して一時的に、敗北
に、敗北もある。失
人生、罪を犯して一時的
敗北もある。失敗
もある。失敗もある。
We all sin in life. We all are defeated at one time or another in life.
7
●しかし、それらは最
しかし、それらは最終結
しかし、それらは最終結論ではない。イエス様につ
終結論ではない。イエス様についていくなら
論ではない。イエス様についていくなら必ず
いていくなら必ず、最
必ず、最終的勝利
、最終的勝利が
終的勝利が待って
いる。
However, that is not the end. If we follow Jesus, there is a victory waiting for us .
●ヨハネ
ヨハネ 8 章 12 節のすぐ
節のすぐ前の出来事をその文脈
前の出来事をその文脈から見たい(勿
から見たい 勿論、この記
論、この記事については写
事については写本上か
らの問題点
らの問題点はあるが
問題点はあるが)。それは
はあるが 。それは姦淫
。それは姦淫の
姦淫の現場を捕
場を捕まえられた女性
まえられた女性の
女性の記事である。
Considering the events leading up to John 8:12 (the woman accused of adultery), to that Jesus says: ““I
am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of
life.”
結
論
Conclusion
●さて、最
さて、最後
さて、最後に第三ポ
に第三ポイントとして、短
イントとして、短く、14節に記
く、14節に記されている、イエス様は「人として来
られた」救い主について学ぶつもりでいたが、
So then, lastly with the third point, briefly, I wanted to study the fact that Jesus came as a person.
John 1: 14 “14 The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the
glory of the one and only Son, who came from the Father, full of grace and truth.”
●時
時間の関係
間の関係で、このことは、来週、
関係で、このことは、来週、11
で、このことは、来週、 節を中心
節を中心に、「拒
に、「拒まれた救い主」のテーマの一部
まれた救い主」のテーマの一部とし
て学ぶことにしたい。
Because of time constraints, we will look at verse 11, onward. 11 He came to that which was his own,
but his own did not receive him. 12 Yet to all who did receive him, to those who believed in his name, he
gave the right to become children of God— 13 children born not of natural descent, nor of human decision
or a husband’s will, but born of God. 14 The Word became flesh and made his dwelling among us. We
have seen his glory, the glory of the one and only Son, who came from the Father, full of grace and truth.
●今日は、第二アドベントサンデーであるが、当教
今日は、第二アドベントサンデーであるが、当教会
今日は、第二アドベントサンデーであるが、当教会のメッセ
のメッセー
ッセージとしては、第一回目のアド
ベント・メッセ
ベント・メッセー
ッセージとして、「来られた救い主」と題
として、「来られた救い主」と題して学んだ。
Today is the second Sunday of Advent, but this message is for the first Sunday of Advent “The
savior that came”
●イエス様は、「生まれたお方
イエス様は、「生まれたお方」というより、「来られたお方である」。
イエス様は、「生まれたお方」というより、「来られたお方である」。簡
」というより、「来られたお方である」。簡単に言うなら、
「人間が神になった」救い主ではなく、「神が人間となって地上に来られた」救い主である。
Jesus was more than just a person who was born, He was a person that came. Not “A person that
became God” – a savior – but rather, “God that became human and came to the earth” as a savior.
●そして、そのお方は、私たちのために、「ことば」なる救い主として、また「
そして、そのお方は、私たちのために、「ことば」なる救い主として、また「ひ
そして、そのお方は、私たちのために、「ことば」なる救い主として、また「ひかり」なる
救い主として来られたことを学んだ。
Also, that person, came as “Word” and “light” for us.
●それ
それぞ
それぞれの意味を考
れの意味を考えながら、もう一度
えながら、もう一度、お互いに、私も、皆
いに、私も、皆様も、救い主なるお方の名前
様も、救い主なるお方の名前
を呼び、その懐
を呼び、その懐に飛び込む者とな
込む者となりたい
となりたい。
りたい。
Thinking of each of those meanings, one more time, I would like to call upon the name of our savior
together.
8