明代中国の辺境統治をめぐって(続) 荷見守義 中国明朝の辺境防衛体制は

明代中国の辺境統治をめぐって(続)
荷見守義
中国明朝の辺境防衛体制は、モンゴルやジュシェンに対抗するための北辺防衛ラインと
沿海・海域勢力に対抗するための海防ラインとの二つの防衛ラインから構成される。これ
らの防衛ラインには衛所から輪番で将兵が派遣された。当初、明朝の地方軍事体制は各軍
管区に都指揮使司が設置されて、そのもとで各領域を警備しており、外征の場合には総兵
官が軍を統率して軍事作戦を実施したが、やがて巡撫・提督・総督などの文官ポストが設
置されて、各軍管区の軍務に従事するようになった。明朝後半期、経略とか経理と呼ばれ
る新しい文官ポストが登場する。これらの官はモンゴルの辺境侵略に対応するために登場
して来たのではないかと思われるが、文禄・慶長の役に対応するために経略朝鮮のポスト
となり、また、明朝末期のヌルハチの脅威に対応するための経略遼東のポストの設置へと
繋がって行った。特に天啓年間、経略遼東のポストが空くと、東閣大学士孫承宗は自ら志
願して困難な遼東情勢に対応することとなった。彼は経略とは称さず、督師と称し、枢輔
と称されている。これは従来の経略の地位よりもさらに上位の権限を有すると思われる。
それだけ辺境の危機が深刻であり、強い権限が必要とされていたと思われるのである。さ
て、経略朝鮮は禦倭・備倭の肩書を有している。異域への出鎮においては海域勢力たる倭
寇への対抗が大義名分であったことを物語る。