椿心中 - タテ書き小説ネット

椿心中
堂島うり子
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︻小説タイトル︼
椿心中
︻Nコード︼
N3507DN
︻作者名︼
堂島うり子
︻あらすじ︼
柊家には対照的な姉妹がいた。美しく誰にとっても理想の女であ
る姉。
その姉に隠れ地味にやり過ごしてきた平凡な妹。
両親は娘を利用し望んでいた上流階級への道を手にしたはずだった
けれど、
ある日を境に苦境に立たされることに。
1
追い詰められた父に残されたものは妹の律佳だけだった。
︱︱旧家へ嫁ぐ私を待っていたのは、年上旦那様の歪な支配。
この作品はサイト﹁escha.﹂にも掲載しております。
そちらよりも若干過激さをプラスしておりますが性描写は︵たぶん︶
淡々と、けれども徐々に増えていくと思います。
2
はじまり
﹁お父様と一緒に居たあれが妹さん?そっか、あんな人だったのね﹂
﹁今までもパーティとかでずっと居たでしょ?忘れてた?といって
も私もあんまり詳しく
どんな人だったか覚えてないんだけど。話とかもしなかったしこっ
ちにも来なかったしね﹂
﹁まあ、あの地味な感じじゃ覚えてない人多いでしょうね。姉さん
の方が有名だもの﹂
﹁そうそう。⋮⋮でも、残念ね﹂
﹁あら。お陰であの方を狙えるとかって言ってなかった?﹂
﹁やめてよそんな不謹慎なこと言うものですか。違う子と間違えて
るのよ﹂
﹁そうだったかしら﹂
用事を終えて自分の部屋に戻ったものの椅子に座る気力もなく床に
座り込む。
激しい肉体労働をしたわけじゃないのに全身の消耗が激しくて、頭
もうまく回らない。
今までの私の人生は他人からどう思われていようと親からの期待が
なかろうと
それで苛めも辛い目にもあっているわけじゃないんだから別にいい
と楽観的だった。
何より私だって普通の女の人のように地味なりにも家庭をもって暮
らして行くのだと。
3
女王様のように光り輝かなくても、その人間に見合った幸せは訪れ
るのだと。
そのまま体も床に倒れてぼんやりと壁を見つめていたら部屋のドア
がノックされて
﹁律佳。お前には苦労をかけた。だが、やっと我が家にも希望が出
てきたぞ﹂
﹁希望?﹂
まるで人がかわったようにめっきり喋らなくなって表情も暗く乏し
くなった父が
珍しく興奮気味に部屋に入ってくる。
﹁ああ。一条家と比べれば格は落ちるがあれも立派な旧家。家を建
てなおすには十分だ。
いいか、律佳。この話はお前だけの問題じゃない我が柊家の存続に
も関わるんだからな﹂
﹁家の、存続?お父さんそれはどういう﹂
﹁いいからお前は言うことを聞いていればいいんだ、わかったな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
拒否したら何をされるか分からない空気に押されてそれ以上は何も
聞けずに終わり、
その翌日の朝早くには美容院へ連れて行かれて、帰ってきたら立派
な着物を持ってきた。
父いわく、旧家ならば洋服より和服の方が印象がいいだろうとのこ
とで。
お見合い写真でも撮るのかと思ったらもうこれから直接相手方にご
挨拶に行くからとタクシーに
4
乗せられて、たどり着いたのはまるで時代劇に出てくるような古く
しっかりとしたお屋敷。
門構えも立派で表札には﹁久我﹂と書いてあった。どこまで敷地が
続いているのかわからないくらいの広さ。
人の気配がして視線を向ければ庭師が木の剪定中。庭石の交換や池
の水の管理、些細なゴミ掃除。
そんな細部まできちんと手入れができるほどの経済力があるらしい。
だが私の唇から溢れるのは感嘆の声ではなく早起きしたからあくび
が出た。こんな古めかしい家に
来るのは初めてじゃない。昔から似たような家を見すぎて飽き飽き
しているくらい。玄関に入ると
かなり年配で和服の家政婦さんが出迎える。こんな私達を見ても特
に白い目ではみず笑顔で。
﹁ご子息がこの部屋にいらっしゃるそうだ。まずは軽くご挨拶して
おいで、
私はお父上にご挨拶をしてくる﹂
﹁はい﹂
﹁決して粗相のないようにな。わかっているな﹂
まだ廊下の途中だったのに部屋の前で立ち止まり父親はご機嫌にそ
う言うと
お相手
がいるということで。
彼女とともに去っていく。のこされた私の目の前には部屋の戸があ
る。
ここに入れば
﹁あの、入ってもよろしいでしょうか。私は﹂
﹁どうぞ﹂
5
戸を開ける前に声をかけようとしたらそんな返事が帰ってきたので
お言葉に甘えてさっさと中へ。
ひいらぎりつか
﹁⋮⋮、初めまして。柊律佳ともうします﹂
入ると机に向かっている男性の後ろ姿。振り返る様子もないのでこ
ちらから声をかけた。
﹁そうか﹂
﹁はい﹂
そっけない返事。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
こちらがが黙ったまま立っていても相手はまったく気にする様子は
ない。
もてなされる側の人間ではないけれど、せめてこちらを向いて何か
しらの言葉が欲しい。
だけど彼は私なんて居ないかのようにずっと机で作業中。
初めて会うのだからいきなり打ち解けた会話も出来る訳がないけれ
ど。もどかしくて。
ここはやっぱり自分からもっと派手にアピールしなければいけない
んだろうけど。
でも、そんな気軽に他人と会話するなんてしたことないし見た目だ
って魅力的でもない。
何でこんなことをしなきゃいけないのか、それだけをぼんやりと考
えるばかり。
6
できることなら、もうこのまま帰りたいくらい。それが無理なのは、
分かっているけれど。
7
そのいち
部屋に入るなり無視されてこちらからは何も言えず。ぼんやりとそ
の後姿を見つめている。
言われるままに来てしまったから何を言うとかどうすることも考え
てなかった。
﹁なんだ、まだ居たのか﹂
﹁すっすみません、すぐに失礼します﹂
だが不意に相手が振り返ってこちらを見るなり少し驚いた顔をした。
歳は幾つくらいなのだろうか、私よりはずっと上に見えるけれど。
オジサンというほどでもなさそう、涼しげで凛とした美しい顔立ち
の男性。
どうせ明日には会うのだからと事前に写真も何も見せてもらってい
ない相手。
いつかのパーティの席で私の体に馴れ馴れしく触っていきたガマガ
エルのような
油っぽいオジサンだったらどうしようかと思ったがその心配は消え
てよかった。
﹁これも時代というやつか?こんな呑気な家政婦が居るとはな﹂
﹁家政婦?﹂
﹁違うのか。トメが腰を悪くして隔週でしか来れなくなったと言っ
ていたから。
てっきりお前はその後釜だと思っていたが﹂
﹁父からはそんな話は伺って居ませんけど﹂
8
﹁ではどんな事を聞いてきた?﹂
相手は無表情で問いかけてくる。その雰囲気からして冗談で言って
いるわけじゃなくて、
本気で私がこの家に来た家政婦だと思っていたらしい。
最初だけ適当に返事をしてすぐに振り返らなかったのも、そのため?
こっちはこんな着飾って来たのに。いや、一度もこっちを見てない
からわからないか。
﹁貴方様に嫁ぐ事になったと﹂
﹁俺に?⋮⋮そうか、そんな話もあったか。いきなり言われて驚い
たろう﹂
﹁多少は﹂
﹁この家に嫁ぐとなると家政婦になるより厳しいと思うが。学生で
はないだろうし、仕事は?﹂
﹁今は⋮⋮、喫茶店でバイトをしています﹂
﹁そうか。お前が俺の嫁に来るというのなら好きにしたらいい﹂
それだけ言うと再び視線を机に戻した。これ以上ここで話をするの
は無意味なきがして。
よろしくお願いしますと淡々とお礼を言って部屋を出た。あれが私
の夫になる男。
無関心さと冷め切った空気。でも何故だろうそれでホッとしている
自分がいた。
後は父とともに久我家の現当主とその奥さんとお茶を飲みながら話
をして本日の行程を終える。
9
そのに
私の生家である柊家は表向き取り繕ってはいるけれど実際は何時崩
れてもおかしくない
くらいの絶望的な状況にある。それでも少し前までは希望に満ち溢
れた家だった。
歴史と権威ある旧家というものに憧れて、けれど自分はそれと程遠
いから子どもに託す両親の。
夢の叶う日を待ちわびて浮かれている彼らを私はまるで他人事のよ
うに見ていたけれど。
それが何の前触れもなく消えて。家の灯りも真っ暗になって。
だけどこんなにも早く次の話が舞い込むなんて、父親はまだ諦めて
はいないのだろう。
くがあやと
﹁⋮⋮久我綺斗。か﹂
庭でぼんやりと花を眺めながらあの男の人について考える。近いう
ちに私が嫁ぐ相手。
伴侶として共に生きていくには何も知らなすぎるのに父親からのち
ゃんとした説明が無い。
ただどこで調べてきたのか彼の家、久我家の情報だけは沢山教えら
れた。
旧家としての歴史はそれほど身分の高くない家の分家の一つで父が
明治維新後の日本で早々にそれまでの古い考えを捨て実業
好む権威も古さもない。
ただ、
家としての頭角を現し幾度と
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無く経済危機に見舞われても上手く立ち回り今なお幾つもの不動産、
会社を所有している。
その成功を成り上がりふぜいと影で揶揄されたり、逆にカリスマと
崇められたり。
経済界においてはそれなりに影響力がある家なのだそうだ。
そんな家に求められる嫁なんてやっぱり学歴が高い聡明で知的な女
の人なのだろうけど。
難しい話は理解しきれないし、今から勉強しようにも覚えきれない
からすぐにボロがでる。
やっぱり私のような女が嫁として選ばれるはずがない。断りの電話
が入るのも近いはず。
でもそうなると父が。
﹁律佳。ああ、そこにいたのか﹂
﹁何ですか?﹂
頭の中で彼に言われた言葉が繰り返し再生されていく中、その父が
ご機嫌に近づいてきた。
﹁結納も交わしてないが明日から家に住んで欲しいと言われている
んだ。別に良いだろう?﹂
﹁えっも、もうそんな話に?え!?﹂
﹁ああ、そう言われた。まああちらも事情もあるし。何よりお前を
気に入ったんだろう﹂
ご機嫌にそんな事を言う父。私を気に入った?何処を?どうして?
なんで?
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確かに安定した経済基盤を手に入れている久我家だけどその内情は
良くはない。
優秀だと評判だった長男は病死。まだ若く海外留学に出ていたとい
う三男は事故死。
息子たちの相次ぐ死で母親はこころも体も壊して一時入院していた
というし。
昨日は普通に会話をしていたし、誰も何もその話題には触れなかっ
たけれど。
そんな恐ろしいほどの不運続きの中で唯一生き残ったのがあの次男。
次期当主である長男と家族に溺愛されていた三男を殺したのではな
いかという噂もあるらしい
そんな不気味な家でしかも殺人なんて怖い噂のある次男では相手が
中々決まらないとか?
﹁⋮⋮﹂
﹁律佳。わかっているだろう?お前だけの話じゃないんだ、家のこ
とも考えてくれ。
お前だって柊家の人間だ、家族を守りたいだろう?﹂
実際に綺斗に会ってみた感じではそんな物騒な事をしそうな人には
見えなかったけれど。
でも人間の中身なんてわからない。優しそうにしても酷いことをす
る人は居る。
人の心に深い穴を開けて自分はさっさと消えてしまうような、とて
も酷いことをする人。
﹁⋮⋮、わかりました﹂
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家族を守るため。か。
﹁これでもうあんなみっともないバイトもしなくてすむな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前は明日から最低限の荷物を持って行きなさい。後はこっちで
送るから﹂
﹁はい﹂
あの家にどんな理由があったとしても、ほんの数分話をしただで私
を気に入ったなんてきっと嘘。
やはり建前の嫁でもいいからすぐに欲しいということなんだろうか。
それともまだ何かあるのか。
その辺父親はわかっているはず。けど、彼にとっての理想の柊家の
為にはそんな事は些細なこと。
娘の気持ちなんて考えるはずもない。いや、考えてほしくもない。
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そのさん
自分に何が起こったのか、冷静になんて考えている暇はない。
時間は動いてる。それも思った以上に早く。置いて行かれそうなく
らいに。
大きめのカバンに当分の下着と化粧道具と携帯と財布、最低限のも
のを持って
外で待っていたタクシーに乗り込み久我家へ。
今度はただのご挨拶ではなくこの家に住むことになる。
まさかこんな早くにこうなるなんて思わなかった。実感なんてある
わけもない。
玄関に入ると家政婦さんが出迎えて部屋に案内された。あの人の部
屋ではなく、
私専用の部屋があるらしい。
そこは和室六畳ほどで日当たりも風通しもよく、一人で生活するに
はちょうどいい。
﹁気を悪くなさらないでくださいね。旦那様はもっと広い部屋にと
おっしゃったのですが﹂
﹁いえ。十分です。ありがとうございます﹂
﹁旦那様は会社に出ておいでです奥様は病院へ、綺斗様はお出かけ
中ですがじきにもどられます﹂
﹁わかりました﹂
家政婦さんを見送って荷物を適当に置いたら力なくその場に座り込
む。
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部屋には小さな机があり押入れもあり最低限のものは設置されてい
てそれなりに快適そう。
だけどここは質素な旅館じゃない、私はここで一生暮らさなければ
いけない。
何時正式な妻になるかは知らないがここに来た以上はそのつもりで
行動しなければ。
だけど、一時間二時間とひとりで座っていたら柄にもなく心細さで
辛くなってくる。
最近名前を知ったばかりの家で何も知らない人たちと一緒にこれか
らどう生きていこう?
なんでも命じられるままに素直に動いていればいいのだろうか。お
給金は出ないのに。
こんな時誰に助けを求めたらいいのだろう?私に頼れる人なんて、
もう居ないじゃない。
﹁カーテンもあけない電気もつけないでうずくまっているのがそん
なに楽しいか﹂
﹁楽しくはないですけど、⋮⋮少し落ち着きます﹂
﹁じめじめと暗い女だなお前は。だったら好きなだけそうしていれ
ばいい﹂
暗い部屋で膝を抱えて座っていたら唐突に戸が開いて、帰ってきた
綺斗が呆れた顔をする。
言葉遣いは優しくはないけれど、かといって怒鳴り散らしてくるわ
けでもない。
ただただ静かに呆れている。そのまま部屋を出ていこうとするので
慌てて立ち上がった。
もし、これでこの話が破談になんてなったらそれこ柊家はおしまい
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になるだろう。
GAMEOVERじゃないTHE
END。
﹁すみません。もう大丈夫です、今日からお世話になります。よろ
しくお願いします﹂
﹁荷物はそれだけか?﹂
﹁後で父が送ってくれるそうです﹂
﹁面倒だ。新しく買い直せばいい。それより暇なら来い﹂
﹁はい﹂
綺斗に呼ばれて再び彼の部屋へ。
移動してみて気づいたのは私の部屋と彼の部屋はかなり距離がある
ということ。
家政婦さんは言葉を濁したがあの部屋を選んだのはこの人だと何と
なく察している。
その意図はなんだろうか。よく知らない、怪しいやつと警戒されて
いるのだろうか。
逆にこっちはは相手と離れて安心しているのもあるけれど。
﹁山錦の黒蜜きなこ餅だ。女は甘いモノが好きだろ﹂
﹁そうですね。好きです﹂
﹁やる。俺はもう店で食ってきた。茶ならウメにたのんで出して貰
えばいい﹂
﹁ありがとうございます。すごく美味しそう﹂
﹁そうか﹂
何をするのかと思ったら彼の部屋で美味しそうなおやつを貰う。
興味なんてないだろう女に甘いものをくれる意味は?
それ以降何も言わなくなったので部屋を出て、ウメさんを探しお茶
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をお願いした。
17
そのよん
綺斗から貰ったお菓子を食べて少し気持ちが落ち着いたけれど、そ
れで何が変わることもなく。
外がすっかり暗くなっても自分は何をするべきか分からずに部屋に
篭っていた。
綺斗は部屋に篭ったきり。義両親は外に出ているものだから誰も私
に命令をしてくれない。
突然家が騒がしくなった。何事かと思ったら当主様のご帰宅。同時
に奥さんも帰宅。
ほどなくして夕飯の準備が整ったと家政婦さんが呼びに来てダイニ
ングルームへ通される。
﹁やあいらっしゃい。よく来てくれた﹂
﹁は、はい。よろしくお願いします﹂
ここも和式なのかと思ったが洋風に統一されておりピカピカのフロ
ーリングに重厚なカーペット。
大きくて立派なテーブルに壁には西洋の絵画。天井は繊細な細工の
施された煌めくシャンデリア。
少し離れた所には重厚なピアノ。今にも何処かからレコードの曲が
かかりそうなレトロ感。
﹁準備もあったろうに本当に悪かった。でも私も家内も君をとても
気に入ってね。
早く家になじんでほしかったものだから。不自由なことがあれば何
でもいってくれ﹂
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﹁ありがとうございます、少しでも早くなじめるように努力してま
いります﹂
﹁大丈夫よ律佳さんはこんなに若いのだから。元気そうだし肌ツヤ
もいいし﹂
﹁おいおいそんな品定めみたいなことを言うもんじゃないよ﹂
﹁ごめなんさいね、つい﹂
﹁い、いえ。あの。⋮⋮頑張ります﹂
この食事の席には久我夫妻とその次男、私の四名のみ。
本来ならばここに長男や三男もいたのかと思うと少しさみしい食卓。
﹁そうしてほしい。綺斗は少々とっつきにくいかもしれないが、悪
い子ではないんだ﹂
﹁はい﹂
﹁さあ、律佳さん。たくさんたべてちょうだいな﹂
﹁いただきます﹂
両親から一方的に話しかけられてそれに答えるだけで特に弾んだ会
話もなく食事は終了。
これからこの人達が私にとって義理の両親になるのだと思うと、少
し気が重たい。
怒られたとかいじめられたとかはないのに、何となく雰囲気が怖い
気がして。ただ初めてで
警戒しているだけなのだろうけど。
﹁顔がこわばっていたな﹂
﹁すみません、緊張していたので上手く話せませんでした﹂
食事を終えてご挨拶も終えたので自室へ戻る途中。後ろから声をか
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けてきたのは綺斗。
話をしている間もずっと静かに我関せずで食べていたからまさか声
をかけてくるとは
思わなかった。ちょっと驚く。
﹁なるほど﹂
﹁これから改善してまいります﹂
﹁わかっているだろうが俺もお前もそこまでの期待はされてない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前のそのすぐ暗い顔をする所はどうにかしろ、鬱陶しい﹂
﹁すみません﹂
昼間のように呆れたような顔をしてそのまま自分の部屋へと去って
いった。
彼は私の存在を完全無視をするわけでもないけれど、かといって何
を言ってくれる訳でもない。
私だってどうせあの熱烈な歓迎の裏には何かしらの思惑があること
くらいは察しがついている。
だけどそれで何が変わることもなく、出来るわけもなく。彼から遅
れて自分の部屋へ戻った。
父親に荷物は送って要らないと告げたら嬉しそうに﹁分かった﹂と
だけ返事された。
どうやら上手く久我家に溶け込んでいると思っているらしい。
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そのご
久我家に入って七日目。お前はこれをしろと誰からも命じられず、
最初は焦った。
結局自分で動いて朝から家政婦さんに家の構造を案内してもらう傍
ら一緒に掃除をして、
昼からは義理の母となる人の付き添いで映画鑑賞や美術館へ行きお
茶をする。
夕方からは義理の父親になる人と少しでも距離を縮めるべく積極的
に笑顔で会話。
その間、綺斗は居たり居なかったりと殆ど会話をする機会が無かっ
た。
結婚するのは綺斗なのにその相手と一切関わりがないなんて、自分
から行こうにも
怖いそうな雰囲気と忙しそうにピリピリとしている空気で近寄りが
たくて。
夜がきてようやく一人の時間が来る。やっとのおもいで自分の部屋
に戻っても全ての力を
使い果たして布団を敷く気力もない。綺斗は部屋のものはこっちで
揃えればいいと言ったのに
結局何も動きがなくて閑散としたまま。
買ってもらえるとは思っていなかったが勝手に買いに行くのも悪い
気がして何も出来ず。
やはり父に連絡して運んでもらおうか。あるいはもういっそ部屋な
んて諦めてしまおうか。
21
﹁⋮⋮はぁ⋮⋮何やってるんだろうな﹂
風呂を終えてまた部屋へ戻るために長い廊下を歩きながらぼんやり
考える。
最初こそもしかしたら綺斗に寝室へ呼ばれてソンナ事もあるかもと
丁寧に体を洗い
風呂に浸かっていたけれど、まったくそんな気配なんて微塵もなく
て。
興味すら持たれて無いようなので最近ではシャワーでさっさと済ま
せている。
﹁綺斗様。お帰りなさい﹂
向こうから歩いてくるのは綺斗。朝からずっと居なかったのにこん
な遅くに帰ってきた。
仕事?あるいは、誰かと一緒だったのかもしれない。薄っすらとお
酒の匂いがする。
﹁ん?ああ。何だ、お前か。まだ起きてたのか﹂
﹁はい﹂
﹁だったら俺の部屋に水を持ってきてくれ﹂
﹁分かりました﹂
それだけ言うとさっさと横を通りすぎて去っていく。住み込みの家
政婦さんも居るけれど、
彼女を起こすのも悪いだろうと台所へ向かい冷たい水を用意して彼
の部屋へ持って行った。
﹁ありがとう。そういえば、お前は喫茶店で働いてたんだろ。もう
辞めたのか﹂
22
﹁はい﹂
彼は部屋のソファに座って居たので手渡すと一気にぐいっと飲み干
す。
私はどこに居ればいいか分からずに少し離れた所に立っている。
﹁もったいない。こんな時代錯誤な所に一日中居るより楽しいだろ
うに﹂
﹁でも今日はお義母様がオペラに連れて行ってくださって﹂
﹁オペラ?あんなものを観て何が楽しいんだろうな。お前もそう思
わないか﹂
﹁私の母親が好きで昔はよく一緒に行っていたのでそれほど嫌いで
はないです﹂
﹁それはハイソなご趣味だ﹂
綺斗はそう言ってパンパンと軽く手を叩いた。
﹁⋮⋮﹂
﹁明日はあいてるか。それとも歌舞伎でも観に行くか?クラシック
コンサート?﹂
﹁いえ。まだ何も予定は﹂
﹁なら明日、十三時。家の前に立っていろ﹂
﹁わかりました﹂
どうやらそれで解散の合図らしい、私は軽く頭を下げて部屋を出た。
23
そのろく
翌日、言われた時間より少し早めの時間から家の前に立っていた。
彼から説明がなかったから何をするのかもさっぱり分からないので
格好も何時も通り。
時間丁度に目の前に車がとまって運転席には綺斗。言われるままに
助手席に座る。
﹁ご自分で車運転なさるんですね﹂
﹁安全運転してやるから心配するな﹂
確かに兄弟の不運な最期を考えるにそれは怖いことかもしれないけ
れど。
﹁そう言う訳じゃ﹂
これから二人だけで何処かへ出かけるということでいいのだろうか。
私なんかを仕事場に連れて行くことはないだろうから、もしや映画
とか?
それならそうと先に言ってくれたらもう少し考えた格好にしてきた
のに。
﹁あれこれ見て回るのは面倒だ。ここで全て揃えろ﹂
﹁はい?﹂
だけど到着したのは都内にあるデパート。映画館はここには無い。
ここでもまだ訳が分からずにいる私を置いてずんずん先へ進んでい
24
く。
﹁細々したものからデカイものまであの狭い部屋にどこまで詰め込
めるか知らんが
それくらいは自分で計算して考えて買え。荷物は全部後で業者に運
ばせればいい。
俺はそこの店でコーヒーでも飲んで待っててやるから﹂
﹁あの﹂
﹁何だ﹂
﹁予算はどれくらい?﹂
﹁必要になった分だけでいいだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ほら早く買え﹂
ここでやっと彼の行動の意味を理解する。どうやら私の部屋のもの
を揃える話を
覚えていたらしい。会計は久我家がしてくれるのなら、甘えて買わ
せてもらおう。
といってもそこまで沢山のものがほしい訳じゃないけれど。
十分後。
﹁終わりました綺斗様﹂
﹁早いな﹂
指示されたとおりに商品を選んだらお会計。運んでもらうように住
所指定もした。
待たせてはいけないとは頭の片隅で思っていたくらいでそこまで気
にはしてなかったけれど
25
どうやらびっくりするほど早かったらしい。綺斗は珍しく目を丸く
してきょとんとしていた。
﹁欲しいものは決まっているし、選ぶだけなのでそんなかかりませ
ん﹂
﹁そうか。なら行くぞ﹂
﹁コーヒーまだ殆ど残ってますけど﹂
残っている、というかまだ一口か二口くらいしか飲んでないなみな
みと残るコーヒー。
﹁暇つぶしに頼んだだけだ﹂
﹁もったいない﹂
﹁ならお前﹂
﹁頂きます﹂
﹁飲むのか﹂
久しぶりに口に運んだインスタントじゃない良い香りのするコーヒ
ー。
喫茶店でバイトしていた頃を思い出す。詳しい理由は言わずに辞め
たから
出来ればやめてほしくないと説得されたし、自分も未練が無いわけ
ではないが
久我家の人が許さないだろう。
綺斗は別に私がバイトをしたところであまり気にしなさそうだけど。
﹁⋮⋮﹂
﹁気になるなら寄っていけばいい。俺はそこのベンチに座ってる﹂
﹁五分だけ、いいですか﹂
26
﹁行け﹂
買い物が済んだのでそのまま何もせず見ずに駐車場へ戻る途中、特
設会場に可愛らしい
キャラクターのグッズが置いてあった。最近売出し中のもの。チラ
っと見た感じどこにでも
ありそうで興味もなかったけれど、その中にちょっと気になるもの
発見。
その一瞬の表情をみられていたようで彼の許しを得て足早にそのぬ
いぐるみの側へ。
﹁すみませんおまたせして﹂
﹁お前は女の割に決断が早いんだな。まだ三分も経ってない﹂
﹁そうですか?ほしいのこれだけだから﹂
﹁あれだけ定番の犬だの猫だの鳥だのがいてダニ虫か﹂
﹁これはダイオウグソク﹂
﹁気持ち悪いさっさとしまえ俺に二度と見せるな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
大きいのと迷ったがキーホルダーサイズの小さいのにしておいてよ
かった。
先々歩いて行く綺斗に慌ててついていく。怒らせた訳では無さそう
だけど。
不愉快そうな顔をちょっとだけしていた。
27
そのなな
買い物を済ませ帰る途中用事を思い出したと綺斗の仕事場である工
房へ立ち寄る。
ここで彼が着物の柄や付属する小物のデザイン、及びそのコーディ
ネートをしている事を
初めて知った。父からは﹁次期当主として親の会社の手伝いをして
いる﹂としか聞いてない。
弟子も二人居るとかで、でも今日はお休みで小さな庭付きの家には
誰もいなかった。
﹁生地綺麗﹂
﹁見るだけだからな﹂
中に入ることを許され工房なんて普段は入ることを許されない特別
な場所にちょっと興奮して
触らないように邪魔しないようにうろうろと歩き回る。彼は着物の
プロ、職人ということだ。
﹁⋮⋮っ﹂
その色に形に息が止まるかと思った。目の前に現れたのは黒地に赤
の椿が美しく映える着物。
椿の凛とした美しさを失うことなく、余すところなく。けれど下品
に主張しすぎることもなく。
闇の中でも引き込まれる鮮やかな赤。これを着る人もきっと負けな
いくらい美しいのだろう。
28
﹁それは特注品だ。絶対に触るなよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おい。聞いてるのか﹂
﹁大丈夫です。触りませんから﹂
そのまま飲み込まれそうになる所で綺斗の手が私の肩を揺らす。
﹁何だお前は。椿が好きなのか﹂
﹁⋮⋮私は、椿に呪われているんです﹂
﹁呪い﹂
それで我に返ったのかすぐ着物から視線をそらし、別の着物を眺め
る。
どれも綺麗。私には程遠い華やかさだけど、眺める分にはいいだろ
う。
﹁⋮⋮﹂
﹁美鶴だったかお前の姉。一度何かのパーティで見たことがある。
垢抜けた美人だった﹂
﹁はい。私とは違ってよく出来た姉でした﹂
﹁自殺したとか﹂
久しぶりに姉の名を出されてハッとする。皆気を使ってその話題は
避けてくれていたから。
だけど姉の事は誰が知っていてもおかしくない。大々的なニュース
にこそならなくても、
新聞に小さく載った。それでなくても他人の不幸話はあっという間
に広まっていくもので。
いつ何処でその話題が出てきてもいいように覚悟は決めていたのに、
やっぱり胸が痛い。
29
﹁⋮⋮自殺。の、ようなものです。父が警察の知り合いに頼み込ん
でそうして貰ったらしいです。
姉が婚約していた一条家の方もその方がいいと加勢して、あの家は
ツテもありそうですし﹂
会社を経営しそれなりに良い暮らしをしていた時期もあった柊家。
その没落は何度となく訪れた不景気の波と共にじわじわと押し寄せ
ていたけれど、
決定打にしたのは姉だ。幸せを呼び込む女神のはずの姉。私の不幸
も。何もかも。
﹁実際は違うのか﹂
﹁心中したんです。森のなかで。姉が好んでいた椿の花をお互いに
握りしめたまま﹂
﹁なるほど。それはお互いに口外したくないだろうな﹂
﹁私が結婚するはずだった人と﹂
彼は私が初めて好きになった人。私が全てを捧げようと決めていた
人。
今でもはっきり思い浮かべることが出来る、彼の優しくて穏やかな
笑顔を。
姉のような美貌も利発さもない普通な私を選んでくれたはずの、彼。
それが何の相談もなく私への言葉もなく姉と一緒に死んでしまった。
﹁⋮⋮﹂
﹁今では真相はわかりません、なにも、わからないんです﹂
私と付き合いながら姉とも付き合っていたのかそれとも最初から姉
30
に近づくためだったのか。
それとももっと別のことがあるのか。最初はそんな話信じられなく
て警察に行って何度も話を
聞いたけれど殆ど相手にはされず、親たちの話し合いを経て事件は
あっさりと終わった。
姉と彼ともに遺書のようなものは無かった。せめて私には、と思っ
たけれど。
手にあった椿に意味があったのかもしれないけれど姉が好きだった
というだけで
それ以上の情報は遺された者には分からない。
姉の死によって当然一条家から得られるはずだったものを失い、父
の会社も人に渡り。
あの日から私を取り巻く何もかもが崩壊していった。
椿は彼らには幸せのアイテムだったとしても、その他の身近な人間
を不幸にするアイテム。
だからこれはきっと、椿の呪い。ただの花に呪いなんて言い出して
自分でもヘンだと思うけど。
でもそうとでも思っていなければちゃんと立っていられない気がし
て。
﹁死人に語る口はないからな﹂
﹁諦めています﹂
本来はこんな話は隠すか上手くいいように嘘をつくべきなのだろう
けど、
自分の知りうる事を出来る限り綺斗に伝えた。
もしかしたら聞いてほしかったのかもしれない。自分の不幸話しを。
31
﹁それにしてもお前は嫌な女だ﹂
長い過去の回想が終わって一息ついた私の手首を掴み思い切り自分
に引き寄せる。
不意打ちの行動に私の体はすんなりと彼の思うままに動いて、
後ろから抱きしめられる。
﹁嫌?呪われてるじゃなくて?﹂
﹁呪いなんてものは信じていない。お前は俺に嫁ぐんだろう?
何を勝手に結婚するはずだった男の話しなんて出した﹂
﹁それは﹂
﹁姉が心中した。それだけでいい。お前の姉の話なんて元から興味
もない﹂
﹁⋮すみません﹂
抱きしめていた片方の手はギュッと力が強くなり、もう片方の手は
首へ伸びて
ゆるく締め付ける。耳元で喋っているのは偶然とかでなくわざとだ。
﹁お前が誰を好きでも構わない。俺も良き夫なんてものは反吐が出
る﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だがお前は俺の妻だ。弁えていい子にしていればそう悪いように
はしないでやる﹂
﹁⋮⋮はい﹂
返事を確認すると首を絞めていた手をゆるめ、私の頬に触れて。
そのままの体勢でキスする。
﹁帰る﹂
32
﹁はい﹂
ただ触れるだけであっさりと引いてしまった唇のぬくもりが懐かし
い。
あれだけ密着していた体もあっさりと離れて彼は淡々と作業を終え
る。
工房なんて初めてで納品前の完成品から製作途中のものまであって
もう少しだけ見ていたい気持ちになったけれど。大人しく従う。
﹁そこの帯留め、試作品だが気に入ったものがあれば1つやる﹂
﹁可愛いですね。ウサギに亀に鶴か﹂
﹁これからは着物を着る機会が増える。俺の作品も着てもらう。今
以上には太るなよ﹂
﹁え、わ、私太ってます?﹂
﹁いや。丁度いい。だからこそ体調管理はしっかりしておけ﹂
﹁わかりました気をつけます。⋮えっと。じゃあ、この亀頂きます﹂
﹁ああ。持っていけ﹂
﹁あの。もし、良かったらコレの帯留めとか﹂
﹁そのダニ虫はもう二度と俺の視界に入れるなと言ったはずだ﹂
33
そのはち
﹁どっちがいいかな﹂
デパートで買ったのは化粧台、本棚、ミニテーブル。それらが翌日
のお昼に屋敷に届いた。
家政婦さんたちは皆オバちゃんだから運ばせるのは悪いだろうと全
部自分で持ってきた。
イメージした通りのサイズ感でそれなりに快適になりそうだが配置
が少し悩ましい。
適当でいいはずなのについこんな所でこだわってしまって箱から出
したまま30分経過。
﹁入るぞ﹂
﹁はい﹂
﹁何だこの散らかりは。片付いてからでいい、俺の部屋に来い﹂
﹁わかりました﹂
朝は居なかったはずの綺斗が帰ってきたのか部屋に顔を出す。
ただ部屋の散らかりように顔をしかめたが。
急いで片付けをしてもう悩むことも馬鹿らしくなってきたので適当
に配置して、
ゴミはまとめてから家政婦さんに任せた。身なりを軽く整えてから
彼の部屋へ。
﹁呉服屋の連中が宴会をするらしい、その席に俺も呼ばれた。丁度
いいからお前も来い﹂
﹁ご挨拶するんですね。それはいいです、けど。お酒ですか﹂
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今日も机に向かっている彼に少し距離を置いて立っていたら
後ろで突っ立っているのは鬱陶しいからソファに座れと指示された。
言われるままに座ったら彼は手を止めて振り返る。
﹁ウワバミみたいなツラして下戸か。
甘い酒もあるだろう仕事と思って少しくらいは付き合え﹂
はじめて部屋に来た時は顔を向けることはなかったのに。変な感じ。
﹁いえ。その。法律的に不味いかも﹂
﹁法律?﹂
﹁私まだ一九なんです。けど﹂
不思議そうな顔でこちらを見る綺斗。
自分の顔を鏡で見るのが嫌いだから最低限みないようにしているけ
ど、
もしかして私は老けている?あるいは表情が暗いから?
確かに普段から実年齢よりもう少し上に見られることは多いけれど。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
少しの間、沈黙。
﹁もう一度、ゆっくりと俺に言ってみろ。なんだと?﹂
﹁私はまだ、一九歳なので、お酒を飲むのはグレーじゃないかと、
思って﹂
もう半年くらいしたら二十歳だしそれくらい別に気にしないといえ
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ばしない。
気にせず飲んでる人は多いし。そういう酒の席で飲まないのも
空気が悪くなるかもしれないし、付き合いで飲めというなら飲む覚
悟だ。
だけど後で違法だとかで罰せられたらどうしようかとか考えなくも
ない。
﹁⋮おい、人前では二五か六と言え﹂
﹁はい﹂
﹁酒の席はこなくていい﹂
﹁でも、少しくらいなら﹂
﹁ガキは夜更かししないでさっさと寝ろ﹂
﹁⋮⋮。⋮ちなみに、綺斗様は幾つ?﹂
私達はお見合いですらない1度軽く会っただけで期間を開けずに婚
前同居をしてる関係。
あまりに急展開で父親からろくな情報は貰っていないからここまで
の間ほぼ何も知らなかった。
それは相手も同じだったらしい。私の年齢だけでなく簡単な経歴す
ら知らない様子だったから。
あるいは興味が無くて言われても無視して聞いてなかっただけか。
相手が自分よりも年上なのはわかっている、見た感じだと二七か八
くらいだろうか?
﹁三六﹂
﹁え﹂
三六?
﹁素で微妙な顔をするな﹂
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﹁⋮⋮すみません﹂
もしかして詳しく話をしてくれなかったのはこのせい?
いや、でもガマガエルよりは洗練された綺麗な人には違いない。
﹁⋮⋮ガキを嫁にするのか。だが学生じゃないと言ったな﹂
﹁女子短大に少しだけ行ってましたけど経済的な理由で辞めました﹂
姉も通った超お嬢様学校。周りは皆筋金入りのお嬢様たち。
父親は無理をしてでも卒業しろと言っていたけれど、借金がかさむ
一方の中で
これ以上は無理と判断しやむなく中退。学歴の話は絶対するなと釘
を打たれた。
けど聞かれた以上は素直に応えるべきだろう。
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そのきゅう
柊家はお金がほしい。財界へのコネ資産家との強いパイプが欲しい。
だからどんな要求も答える。
婚約も結納もなにもしてない家に娘を一人で行かせるような行為だ
って。
﹁なるほど。そこまで焦っているのかこの家もお前の親も﹂
﹁⋮⋮﹂
久我家はすぐ嫁が欲しいということでいいのだろうか?
身内に自殺者が居るのに何も言われず誰にいびられることもないし
義母も優しい。
けどそれはきっと裏があるのだろうと思っているので心からは信じ
てないけれど。
﹁利害の一致であっさり娘を差し出すような親の言いなりとはな。
やはり親は怖いか?﹂
綺斗の言葉にぼんやりと思い返して居たら彼は立ち上がり、私の隣
りに座る。
﹁怖くないです﹂
﹁さっさと捨てて逃げてしまえばよかったな。今は女一人でも職を
選ばなければなんとか
生きていける。それとも、親に支配される生活に慣れてしまったか
?﹂
﹁姉が死んで続いて母親も死んで。何もかも駄目になった時、父に
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部屋に閉じ込められて、
もう先は無いのだから、生きてても不幸なだけだからここで一緒に
死のうと言われました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの人も居ないし死ぬのは怖くない。私を気にもしてくれない親
も怖くもない。
だけど、姉は愛しい人と一緒に幸せそうに死んだのに何で私はあん
な自分勝手な男と
無理をして死ななければいけないのかと思うと許せなくて。腹が立
って。だから﹂
父親の勝手で殺されるなんて嫌だ。世間に心中と思われるのも嫌だ。
今までのんきに深く物事を考えずに生きてきた自分が初めて抱いた
負の感情。
でも結局そんな気持ちすら飲み込まれて、ただ親のいいなりになっ
ているだけだ。
﹁不幸自慢なんてどうでもいい。本当にお前はジメジメと暗い女だ﹂
そう言って綺斗は私の肩までしか伸びていない中途半端な髪を撫で
る。
愛情もなにもないであろう、無機質な手で。こんな事になるはずじ
ゃなかった。
姉が居れば全てが上手く進んでくれていたはずだった。
家に必要のない私はあの人が連れだしてくれる。その日を待ち望ん
でいたのに。
だめだ、このまま俯いていてもただ暗くなるだけだ。少し顔をあげ
て話題を変える。
ここで追い出されては意味がない。
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﹁綺斗様は将来的にはお仕事を引き継ぐんですよね?﹂
﹁母親は腸が煮えくり返るほどお怒りになるだろうがあの世から連
れてくる訳にもいかない﹂
﹁デザイナーのお仕事は﹂
﹁それはまだ、考えている所だ﹂
あと少しの差で私も死ぬ所だったのを結果的に助けてくれたのはこ
の男だ。
結局は家同士の道具として使われたに過ぎないけれど。それでも環
境はめまぐるしく
変わったのだから少しは気も紛れてくる。
立場を弁えて良い子にしていれば悪いようにはされないそうだから、
大人しくしていればいい。
﹁あ。あの。宴会行けなくてすみません﹂
﹁後から一人ひとりに説明するのが面倒だと思っただけだ﹂
抱き寄せられても無抵抗で顔を見つめられても見つめ返して。
もしこのまま体を求められても大人しくそれに従おう。
﹁あの﹂
でもじっと見つめられるばかりで何も進まなくて、じれったく感じ
て。つい声をかける。
﹁今は見ているだけだ。お前に合う着物を作る為に、⋮⋮意識させ
たか?﹂
﹁流石にこんな近かったら何かあるのかと思うのが普通です﹂
﹁なるほど。お前、ウジウジしてる癖にハッキリ言うんだな﹂
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﹁そうですか﹂
﹁女というのは少し見ただけで自分に気があると勘違いする鬱陶し
い生き物だと思っていたが﹂
﹁じゃあ鬱陶しくない女になるにはどうすれば﹂
﹁お前の夫の趣味や性癖だ。自分で見て感じて覚えていけ﹂
私が知っているのは久我綺斗が久我家の繰り上がり次期当主で着物
デザイナーで
何かと人を鬱陶しいと言ってくる、優しいようでちょっと意地悪な
人。というくらい。
これからも一緒に暮らしていけば自ずと知っていけるのだろうか。
比翼の鳥になるつもりはお互いにないのだから、適度な距離感で。
⋮⋮難しそう。
﹁一七も違うのか﹂
﹁いちいち口に出すなガキ﹂
﹁⋮⋮おじさん﹂
﹁あ?﹂
﹁着付け教室行かないと駄目ですね﹂
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そのじゅう
姉と同じ両親から生まれ姉と同じ名門学校に通い姉と同じ習い事を
してきた。
だけど私は何一つ姉に勝てるものなどなくて、いつの間にかそれが
当たり前になり
自分が期待されぬ子であることもどうでも良くなった。
スポーツや芸術など積極的に外へ出て行ってはその美貌で男女問わ
ず虜にしていた姉。
人生が明るく楽しいようでよく笑っていたけれど、それも死んでし
まえば無意味になってしまう。
それくらいあの人とあの世で結ばれたかった?死んだらどうなるか
なんてわからないのに。
遺された者のことを、1秒でも考えてくれてた?
こんな恨みがましい事を夢にまでみるなんて、綺斗の言うように私
は鬱陶しい女。
﹁こんな朝早くからお仕事ですか?﹂
﹁打ち合わせがある。昼からは親父の会社に顔を出す。夜はクラブ﹂
寝ている耳元でゴソゴソと何かが動く音がして目を覚ますとお着替
え中の後ろ姿が見えた。
まだ起きるには時間が早い。眠いのを堪えベッドの上に座って朝の
挨拶をして、予定を確認。
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今ここで話しをしておかないと次に会うのは明日の朝なんてことが
ざらにあるから。
﹁クラブですか﹂
﹁クラブだ﹂
﹁クラブでしょ?あの、狭い所で踊る﹂
﹁だからクラブ。女を侍らして酒を呑む店だ﹂
﹁ああ。そっち﹂
寝ぼけているのだろうか普通に考えたらそっちなのに。相手も眉を
ひそめ呆れた顔。
﹁何で俺が踊るんだアホなのかお前は﹂
﹁すいません。じゃあ。帰りは遅いですね﹂
﹁出来るだけ早く切り上げて仕事にかかりたいが、飲めとしつこい
からな﹂
﹁気をつけて﹂
﹁お前もいつまでもそんなトボけた顔をしていないで顔を洗ってこ
い﹂
﹁はい﹂
こちらに視線も向けずにさっさと部屋を出て行く綺斗。
部屋に一人になってからゆっくりと起き上がり、カーテンを開けて
光を浴びる。
まだ早いからそこまで厳しくはない光り。窓から見る庭の景色もす
っかり見慣れたもので、
久我家に来ていつの間にか1ヶ月経過した。
私の毎日は変わらず午前中は家の事をして昼からは義母に付き合う。
もしかしたら欲しかったのは嫁じゃなくて義母の付き添い人なのか
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もしれないとさえ思う。
それくらい比率で言うと彼とよりも義母と居るほうが長い。
たまに呼ばれて彼のベッドで眠るけれど疲れているのか触れられる
こともなく。
﹁女侍らして酒飲むって凄い表現。⋮らしい、けど﹂
綺斗の部屋を出て顔を洗って髪を整えて。またちょっとあくびが出
た。
今のところまだ戸籍は変わらず柊のままで式をいつするとか結納を
交わすとか
そんな話すら出てきていない。
このまま存在を忘れられてただの家政婦に組み込まれても別に構わ
ないけれど。
父親は今度こそ発狂するのだろう。
﹁律佳さん。早いのね﹂
﹁おはようございます、お義母様﹂
﹁おはよう。綺斗も居るのかしら﹂
﹁工房へ行かれました。打ち合わせがあるそうで﹂
﹁そう。親に朝の挨拶もしないであの子は本当に勝手ね﹂
早く起きてもすることがないので朝食の準備の手伝いをしようと台
所へ向かう途中。
庭の花を手入れしていた義母が声をかけてきた。今日は少し調子が
良さそうな顔色。
﹁デザイナーのお仕事が忙しいんですね﹂
﹁そうね。あの子を贔屓にしている女性は沢山居るそうだけど。
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それよりも久我家の後継者としてもっと自覚をして欲しいものだわ﹂
﹁お義母様﹂
﹁今日は昼からデパートへ行ってお買い物してきましょう。貴方も
気晴らしは必要よね﹂
ニコニコと微笑んではいるけれど、その心のなかはどうなっている
のかわからない。
同じ家に住んでいても会話が殆どない親子。敵意をむき出しにする
ことはないけど
冷めているのはすぐに分かる。これはやはり二人も子どもを失った
からだろうか、
綺斗が最期の一人なのだからもっと優しく接したらいいのに。
向こうも興味無さそうだけど。でもそれは親のことだけじゃない気
もするし。
﹁おはよう律佳さん。ここに居たのか﹂
﹁おはようございます、お義父様﹂
﹁この家の暮らしも少しは慣れてきてくれたかな?﹂
﹁はい。なんとか⋮まだ教わることは多いですが﹂
﹁そうか。それはよかった。そろそろ君のお披露目会をしなければ
な﹂
﹁お披露目会﹂
﹁何もかも後回しにしてしまったから急いで準備しよう﹂
45
そのじゅういち
﹁お帰りなさい﹂
﹁起きてたのか﹂
じっと部屋で耳を澄ませていた。この家は就寝が早くとても静かだ
から誰かか動けば
その音がよく聞こえる。部屋が近ければなおさらクリアに。
綺斗が部屋に入っていったのをそれで確認。自室を出て彼の部屋の
戸をノックしたら
すぐ返事があったので中に入る。
時刻は深夜一二時を過ぎた所。なのでこちらはもう寝る準備万端。
﹁お水どうぞ﹂
﹁気が効くな﹂
クラブで飲んだ帰りだから酒の匂いが強くする。
それでも全くふらついてはいないようなので酒には相当強いようだ。
欲しがるだろうと思って部屋に来る前に用意した水を差し出したら
一気に飲み干した。
﹁綺斗様はもう聞いているかもしれませんけどお義父様がホテルで
パーティを開くそうで
そこで私を紹介すると﹂
﹁そういえばそんな話をしていたな。柊家の娘ならこういうパーテ
ィなんて慣れたものだろ﹂
﹁何度か参加はしたことあります。でも何時も姉の後ろに隠れてや
り過ごしていたので﹂
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他の家も似たようなものだけど例に漏れず自分たちのアピールに余
念のない柊家。
というか、両親。パーティや懇親会、誕生会など話を聞けば何処に
でも顔を出した。
もちろん売り込むのは姉。親の思惑通り皆の注目を集め彼女の周り
には何時も賑やか。
私にも一応声をかけてくる人は居たけれど。たいていすぐに明るい
ほうへ皆移動していく。
興味の無い相手とずっと笑って会話するのも疲れるからそれがあり
がたくもあったのだけど。
ああいう場所の空気は何度参加しても慣れない。
おいしい食事や華やかなものは嫌いじゃないのに。
﹁お前にとって姉とは都合のいい盾だったわけだな。これからもっ
と機会が増えるぞ﹂
﹁そうですね﹂
﹁土曜だったか。なら間に合うだろう、明日お前も一緒に工房に来
い﹂
﹁私もですか﹂
﹁改まった場では俺の作った着物を着てもらう﹂
﹁はい﹂
﹁言いたいことはそれだけか。俺は風呂へ行く、もう寝ろ﹂
浮いた存在からハッキリと大勢の前で久我家の嫁になると紹介され
る。
それは避けては通れないものだとわかっているがいざ日にちが決ま
ると憂鬱になる。
とりあえず隣で笑っていればなんとかやりすごせるかな。
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化粧も濃い目にしていけば何時もよりは華やかになるかもしれない。
姉のようにはならなくても、久我家に嫁ぐ以上はそれらしく振る舞
うように心がけないと
不興をかっては面倒だ。今更お前は要らないと言われても待ってい
るのは暗い部屋。
﹁⋮⋮﹂
﹁おい。何勝手に人のベッドの真ん中陣取ってる。さっさと隅へ行
け﹂
肝心の夫とは大きな衝突もなくそれなりにやっていけていると思う
けど。
﹁お弟子さんですか?﹂
﹁男が菅谷。女が室井﹂
今朝は何時もと同じくらいの時間で目覚めて、隣でまだ寝ていた彼
を起こした。
もう少し寝かせろとか怒ってきたが工房へ行くんでしょう?と言っ
たら渋々起きる。
朝食も手早く済ませたら彼の運転する車で再び工房へ。
今日はお休みではないようで何やら作業をしている男性と女性を発
見する。
﹁じゃあ私もご挨拶を﹂
﹁話はしてある。仕事の邪魔はするな﹂
﹁あ。そうか。そうですね、すみません﹂
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二人とも真剣な顔で作業してるから割って入るのも悪いだろう。彼
に連れられて工房に入り
出来上がったばかりだという着物を見せてもらう。私の為にじゃな
いのはわかっているけれど、
やっぱり私をイメージをしてプロにデザインしてもらうのは期待し
てしまう。
﹁あれが先生の奥さんになる人ですか﹂
﹁みたいだな﹂
﹁思ってたより地味ですね。もっと派手な美女を想像してました﹂
﹁まあまあそう僻むなって。相手は親が勝手に決めてきたらしいし、
そんな突然出てきた女に
興味もつこともないだろう、あの人は筋金入りの仕事人間なんだか
らさ﹂
﹁旧家に生まれると面倒ですよね。好きな女が居ても家柄が合わな
ければ拒否されて﹂
﹁先生の好きな女って誰だ?知ってるのか?まさかお前か?﹂
﹁し、しりませんよ!⋮⋮知りたいくらいです﹂
﹁切ない乙女心ってやつか、ま、仕事に支障のないようにやれよ﹂
﹁何のことか理解できません﹂
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そのじゅうに
﹁菖蒲ですか﹂
﹁そうだ。お前らしくて良いだろう﹂
﹁私、らしい﹂
作業部屋を抜けた個室に案内されてかけられている着物を見せても
らう。
白地に菖蒲という大人っぽい柄。私をジロジロと至近距離から見つ
めて
彼の頭のなかで選ばれた花と構図。菖蒲は品があって美しいけれど、
牡丹や芍薬ほどの華麗さや派手さは無いから﹁地味な女﹂という意
味だろうか。
﹁菖蒲は魔除けや邪気を祓う効果があると言われている。呪われて
いるお前には丁度いい﹂
﹁なるほど﹂
﹁こっちへこい、着つけてやる﹂
﹁私でも少しくらいは﹂
﹁少しくらいの知識で俺の着物を着ようなんていい度胸だ。ほら、
来い﹂
確かに相手はプロでこっちは昔ちょっと習って最近本を買って読ん
でいるくらいのほぼ初心者。
そう言われてしまうと何も反論できず、言われるままに部屋の真ん
中にたつ。
すぐ後ろに綺斗が来て私の服を脱がし始める。動きは機械的で無駄
がなく、乱暴でもなく。
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ただ優しいわけでもない。何度かアレコレと注意された。
目の前には大きな姿見。その前でされるがままに下着姿になって、
強制的にそれを見る自分。
だけど、恥ずかしいと思う間もなく着付けられていく。
﹁色も柄も素敵ですね﹂
出来上がったらまるで自分がモデルさんにでもなったようなキラキ
ラした気分。
若干地味かと思っていたのにこうしてみると十分派手さもあって品
が良い。
﹁当たり前だ。髪はもっと伸ばせ、こんな中途半端な長さでは綺麗
には結えない﹂
﹁はい﹂
﹁少しは明るい顔が出来るようになったな。菖蒲の効果か﹂
﹁そうかもしれません。ありがとうございます、綺斗様﹂
﹁人に合う色を見つけるのも仕事だ。お前に俺の作品を着せておけ
ば宣伝にもなるからな﹂
﹁せっかく素敵な着物でも着ているのが私じゃ微妙かも﹂
姉ならきっと何でも綺麗に引き立てて着こなせたのだろうけど。
﹁お前。俺のセンスにケチをつけるのか﹂
﹁そういう訳じゃなくて﹂
﹁気に入らないならそれは破棄して別のを作ることになるな。
ただでさえ仕事が立て込んで忙しい時に﹂
﹁ごめんなさい、我儘をいいました。私はこの着物が好きです。
素敵すぎるから。自分がそれに見合ってるか不安になって﹂
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﹁だから何だ。お前は黙って俺の着物を着ていればいいだけだ、余
計なことは考えなくていい﹂
﹁そうですよね。すみません﹂
似合うとか似合わないとか吊り合うとかじゃなくて、お飾りなのだ
からただ笑っていればいい。
久我家の後継者の妻としてそれらしく立っていればいいだけ。
深いことは何も考える必要はない。もとより金のために物々交換で
この家に来ただけの女。
そこに特別なものはないはずなのにちょっとだけナニカを期待して
しまった自分が
心から恥ずかしい、自分だけじゃなくそれを彼にも気づかれて指摘
されたみたいで。
﹁俺の見立てに狂いはない、アホなお前には分からなくても他の連
中はわかっている﹂
﹁⋮⋮﹂
落ち込んでうつむいた私の顎を捉え上を向かせるとニヤリと意味深
な笑みを向ける。
笑みを見るのは初めてだ。でも、なんだか怖い笑み。
﹁脱がせるぞ﹂
何かされるかと思ったけれど、とくになにもなく機械的な動きで着
物を脱がされた。
少し気になる所があったらしく弟子に声をかけてくると着物を持っ
て部屋を出る。
マネキンのように着せられて剥がされて、あとは放置。
あの時されたキスが嘘みたい。
52
あれから何もされていない。寝る時も本当に一緒に寝てるだけだし。
子どもだと思って手を出さないのかそれとも他にそういう関係の女
が居るのか。
何時体を奪われるかの恐怖は最初だけで今は普通に何故なのか知り
たいとか
彼を気にする自分にも驚いたけれど。たとえ他に女が居ても嫉妬心
というものは
もうあの人と姉の関係を知った瞬間に燃え尽きた。
﹁⋮⋮﹂
いや、本当はまだ心の奥底に残って永遠に消えてはくれないとわか
っている。
それを見ないように考えないようにしたいから大人しく親に従った
所もあって。
全ては言い訳にしかならないだろうけど。
﹁⋮⋮愁一さん﹂
鏡の前で乱れた髪をとかしながらふと口から出てしまったのはあの
人の名前。
﹁そんなに会いたいならお前も会いに行けばどうだ?﹂
﹁っ﹂
すぐ後ろで低く不機嫌な声がする。不味い、と思ったけれどもう遅
い。
声を出そうとした瞬間に後ろから首に手がまわって、本気ではない
が強めに締められる。
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びっくりしたのと苦しさで咄嗟に彼の手を解こうとするけれど全く
かなわない。
﹁あの世で美鶴から男を奪えばいい﹂
﹁⋮⋮んっ﹂
何度目かの抵抗でやっと首から手が離れる。けれどそのまま床に押
し倒された。
やっと呼吸が自由にできるようになったけれど荒い呼吸でひどい顔
をしている。
その自覚はあるがそれを直そうにもまだまだ苦しくて、胸が痛くて、
本当に死にそうで。
涙目になってきて。だけど私を組み敷いて押さえつけ上から見つめ
る綺斗は無表情。
﹁何だ嫌なのか?ふんっ。
しぶとく生きている癖に死んだ人間にすがるような真似をするなみ
っともない﹂
﹁⋮⋮、⋮はい﹂
﹁お前はもう俺のためにだけ生きる女だ。それが妻というものだ。
何度も言わせるな﹂
﹁⋮⋮﹂
怖くて、我慢できずにちょっと泣いた。
﹁これくらいで泣くな﹂
﹁⋮⋮っ⋮⋮、はい﹂
﹁泣くな律佳﹂
﹁⋮⋮、⋮⋮甘いの食べたい﹂
﹁は?分かった、何でも食っていい。⋮⋮いいから、⋮お前ちょっ
54
と声我慢しろ﹂
﹁え?﹂
なんだか声色が変わった気がするのですが何をする予定ですか?
涙目で不安になっていると頬を伝っている涙を舐め取られた。
そして、彼の手が私の服の間から直に体へと侵入してくる。
あれ?これって?ここで為さるおつもりですか?
﹁少しくらいならいいだろ﹂
男のしっかりした指が私の内股から中心にかけてゆっくり何度もな
ぞる。
﹁な、なにが!?何がですか!?え!?こ、ここで?このタイミン
グですか!?﹂
﹁声がでかい。⋮黙って股を開け﹂
﹁えぇ⋮﹂
初めての行為がこんなタイミングでこんな場所?
私の立場は弱い。何をされても受け入れるしか無い、逆らう気もな
い。
だけど出来たらもうちょっと布団とか暗い時間が良かったです。
﹁先生、谷口様よりお電話です﹂
あっさりと脱がされた所でドア越しにお弟子さんの声がする。
﹁後でかけ直す﹂
﹁それが至急のお話とのことで﹂
﹁⋮⋮あの野郎。お前はここで待ってろ﹂
55
苦々しい顔で私の体から離れると部屋を出て行く。ありがとう、谷
口様。
代わりに女性の弟子さんがお茶を持ってきてくれた。
﹁どうぞ﹂
﹁ありがとうご﹂
﹁失礼します﹂
あまり歓迎はされていないようだ。
56
そのじゅうさん
歴史のある一流ホテルの最上階、ここでは政治家や著名人の様々な
パーティをよくするそうだ。
エントランスに置いてあったパンフレットを眺めていたらそんなウ
ンチクが延々と書いてあった。
そんな凄い場所でまさか自分が結婚する事を報告するのに使われる
となんだか変な感じ。
もちろん、メインは久我家の人たちであって私はただのお人形なの
は当然なのだけど。
﹁スペシャルデラックススイート・ルーム⋮⋮長い﹂
特に何も変わらないまま時間だけが過ぎて迎えた土曜日。いつもの
様に過ごして
お昼を食べた後に先にホテルへ行って部屋で待っていてくれと義父
に言われてひとり来た。
綺斗は相変わらず忙しいようで朝早くから工房に行って居ない。
他に誰も付いてきてくれないから不安だったけれど受付で名前を言
ったら相手は把握している
ようで女性が出てきて部屋まで案内してくれた。何かあれば電話1
本で来てくれるそうだ。
﹁テレビでもみてようかな﹂
中はホテルの一室というより広い家みたい。久我家はほぼ和室だか
らこの感じが懐かしい。
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実家はどうなっているのだろうか、経済的な救済は行われている?
あまり悠長にしていると
あの家も失うことになるだろうけど。父は今更ひとりでアパートぐ
らしなんて嫌だろうし。
当然今日のパーティにも来るからきっと大喜びで準備していること
だろう。
入ったはいいがすることもないのでソファに座って何気なくテレビ
を付ける。
与えられた部屋にテレビはないし、義両親の手前なんでも気楽には
観られない。
綺斗の部屋にも無いからもうすっかり無い生活が普通になってしま
っていた。
﹁失礼ます、奥様﹂
﹁室井さん、ですよね﹂
﹁はい。そうです。先生から着物を持っていくように仰せつかりま
したので来ました﹂
﹁そうですか。ご苦労様です﹂
少しして部屋をノックする音。
ルームサービスなんてたのんで無いから誰が来たのだろうかと覗い
てみたら
荷物を両手に抱えた女性。綺斗の弟子の一人。あの不機嫌な人だ。
今日もあまりご機嫌とはいえない表情で淡々と着物の準備をしてい
る。
﹁先生は夕方、パーティの直前にホテルに到着なさるそうです﹂
﹁分かりました﹂
﹁⋮⋮﹂
58
﹁あの。なにか﹂
﹁いえ。⋮⋮それでは、失礼します﹂
何か言いたそうな顔をしていたような気がするけれど彼女は無言で
去っていった。
また一人になって暇になってキングサイズのベッドに寝転んでいつ
の間にか寝てしまう。
ギリギリということは着付けは自分ですることになるのだろうか。
髪のセットも着付けも
夕方様子を見に来た義母に命じられてベテラン家政婦さんが完璧に
してくれました。
時間になってもまだ綺斗は来ていなくて、自分の名前が堂々と書い
てある
恥ずかしいパーティ会場までは義両親と一緒に入ったものの。
上客さまが居たようで挨拶に行ってしまってあっという間にまた一
人になってしまう。
だけどそうして時間稼ぎをしないと主役である綺斗が居ないから始
められない。
﹁ほら!やっぱり柊さんじゃない。私達覚えてる?同じ学校の同じ
学科だった﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁思ってたより元気そうね﹂
﹁ここにいるってことは、噂通りだったんだ⋮⋮嘘みたい﹂
﹁ほんと。皆に教えてあげないと﹂
暇で壁に背を持たれてぼんやりしていたら見たことのある顔が三名
近づいてきた。
派手なドレスとメイクは多分プロにやってもらったのだろう、
59
お嬢様短大の数ヶ月だけ同期だった子たちだ。どれも旧家ではない
けれどお金持ち。
﹁貴方が久我家の次期当主と結婚までこぎつけるなんて本当に信じ
られない。
嫌味抜きでどうやったの?テクニックがあるのならぜひ教えてほし
いわ﹂
﹁十分嫌味でしょ。でもほんとまさか貴方がねえ。何がどう転ぶか
わからないものね﹂
﹁お姉さまが亡くなってそう経ってないけど、まさか相手は知らな
いとか?
私だったらそんな家は不気味すぎてちょっと困るけど﹂
あくまで席が近かっただけで仲が良かったわけじゃないけれど、噂
が大好きな人種。
私の姉の事件も家が傾いていて学校を辞めたことも全部知っている。
それは事実だし、
私自身姉が自殺するような家は気味悪がられても仕方ないと思って
いるけれど。
﹁久我家の方には全て理解して頂いた上で結婚することになったか
ら﹂
どう返事をするか迷って当たり障りない返事をしたらそれが癪に障
ったようで。
ムスッとした三人組の中でも中心的な一人がひときわ不愉快そうな
顔をする。
﹁なにそれ?そんなの無理だと思うけど。それになにその着物の柄。
なんか地味。
60
どこで買ってきたの?こういう場ならもっと派手じゃないと目立て
ないわよ?
まあ、お姉さんと違って気持ち悪いくらい影の薄い貴方らしいけど﹂
﹁まあまあ、そんなに言ったら流石に可哀想でしょ﹂
﹁これは綺斗様が私の為に作ってくれた着物だから綺麗だし特別な
んです!﹂
﹁綺斗様?﹂
﹁なかなかいい友だちが居るじゃないか﹂
﹁⋮⋮あ﹂
その声は私のすぐ後ろからしてきた。目の前に居る3人はびっくり
した顔。
﹁おい、お前﹂
﹁え?私?﹂
﹁そう。お前だ。貧相な体に合っていない下品なドレスに自意識過
剰な化粧、
極めつけはトイレの芳香剤まがいの悪臭。お前は賑やかしに雇った
道化師か?
だったらもっと目立つように面白い芸の一つでもやってみろ﹂
﹁あ、あの。何ですか貴方、私は周防家の﹂
﹁どうしたお前には耳が無いのか?早く芸をしてみせろ。仕事をす
る気がないなら邪魔だ失せろ﹂
﹁お、お父様に言うからっ﹂
何故か私を睨みつけて3人は人の波に消えていく。
これってもしかして私がけしかけみいたいに思われた?そうじゃな
い、
彼は私を助けようとしたんじゃない。自分の着物を悪く言われたか
ら怒っただけだ。
61
私には分かる。それが綺斗という人だから。でもちょっとスカッと
する。
﹁アイツ等とは絶交しろ﹂
﹁もとより友達じゃないです﹂
﹁親父の元へ行くぞ、これから長い挨拶が始まる﹂
﹁綺斗様も着物ですね﹂
﹁俺だけ燕尾服を着ていたらおかしいだろう﹂
﹁⋮⋮あはははっ﹂
﹁何を想像したんだイヤラシイ女だな﹂
義父にちょっとお説教されながらも参加は辞退した父を覗いた四人
でステージに立ち挨拶。
ずっとかかっていた生演奏がとまって100名近い招待客の視線が
一気に自分たちに向く。
私も何か言わないといけないかと思ったがそこは綺斗が代わりに挨
拶をしてくれて、
あんな性格をしていても礼儀正しい綺麗な言葉で挨拶が出来るのは
やはり育ちがいいから?
終わったら一斉に拍手喝采。遠くで満足気な父親の顔とまだ会場に
残っていたあの三人の
不満そうな顔がちらりと見えた。
﹁ここではまだ食うな。着物を汚す﹂
﹁ちょっとだけ﹂
﹁少し食べたらもっと欲しくなるだろう、お前の場合﹂
﹁⋮う﹂
やっとイベントが終わって食事会が始まって、空腹の私はフリーに
62
なった瞬間
ごちそうのもとへ。和洋中フレンチなんでもありのビュッフェスタ
イル。
何から食べようか考えながらお皿を手にしようとしたら綺斗に止め
られる。
確かに着物は汚しては大変だし、今食べようとしたのも中華。
寿司ならいいですか?と聞いたら醤油をつけるなと言われたので我
慢。
﹁綺斗先生。お久しぶりです﹂
﹁ああ、あんたか﹂
﹁そんな冷たい。私と先生の仲なのに﹂
蒸し器に入ったフカフカの肉まんをじーーっと見つめているとそん
な会話が側で聞こえた。
振り返ると派手な美人さんが近距離で綺斗にボディタッチしながら
見つめている。
これってもしかして意味深な関係?
﹁俺の作品のモデルをしてもらった仲だったな﹂
﹁ええ。それから個人的にも﹂
﹁そうだったか。⋮⋮おい!勝手に食うなって言ってるだろうが﹂
﹁すいませんっ﹂
会話中だったから肉まん1個位たべていいと思ったのにバッチリ監
視されてた。
ひと口だけ食べたのを慌てて戻す。
のは、よくないのでお願いしてラップに包んでもらった。
﹁はじめまして奥様。可愛らしいお嬢さんね﹂
63
﹁初めまして。柊律佳ともうします﹂
﹁柊。へえ、あの。私はモデルの梨華。よろしくね﹂
ああ、やっぱりご存知ですよね。というか話に加わりたくなかった
のですが。
美しい人は羨ましいけれど、それ以上に姉を思い出してしまって気
持ちが落ち込む。
適当に切り上げてその場を離れてお水を貰って一息。
まだここに居ないと駄目なんだろうか。もう部屋に戻ってご飯を食
べて寝たい。
64
そのじゅうよん
綺斗は義両親と共に再びご挨拶回りに出て行ってしまった。
あの綺麗なモデルさんもいつの間にか居なくなっていて。
﹁律佳。上手くやってるじゃないか、でかしたぞ﹂
﹁お父さん﹂
手持ち無沙汰な私の前にはゴキゲンな父親がやってくる。
﹁会社への融資も取り付けた。これで家を売らなくて済む。お前は
本当に良い娘だ﹂
﹁よかったですね﹂
姉が居た時は私の存在なんてあって無いようなもので、関心も全く
持たず
良い娘だなんて言ったこともなかった無かったのに。
﹁後はお前の立ち位置を確固たるものにするための子どもだな﹂
﹁子ども﹂
﹁分かっているだろう?相手が望んでるのは綺斗に続く後継者だ。
父さんはコネを作ってくる、お前も頑張るんだぞ﹂
そうか、あの人達は子どもが欲しかったんだ。
むしろこんな簡単な事に何で気が付かなかったんだろう?
未婚で仕事中心な綺斗の年齢と長男三男の重なった不運。
義両親は焦っていると綺斗も言っていた。
65
私はお飾り人形ですらない、ただの道具なんだ。
﹁大丈夫ですか?気分が悪いんですか?﹂
﹁だ、大丈夫です﹂
﹁こう人が多いと酔ってしまいますよね﹂
﹁そうですね﹂
分かってたことなのに気持ちが落ち込んできて。こんな明るい場所
じゃ駄目なのに
何時ものように俯いてぼんやりしてしまう。と、知らない男の人が
優しく声をかけてきた。
最近こんな風に気遣ってくれる人が側に居なかったから、ちょっと
嬉しいかも。
﹁律佳さん、ですよね。ステージに立っていた時から見ていました。
まだお若いだろうに立派にご挨拶なさっていて。それにその、
とても素敵な着物ですね。まるで貴方の為にあるみたいで⋮﹂
たとえお世辞だとしても肯定されるのはこんなに心地いいんだ。そ
れにあの人を、
愁一さんを思い出すくらい優しい声をしている人が居るなんて。
﹁ありがとうございま﹂
ちょっと締りのない表情で顔をあげたら鬼のような顔をした人がそ
の人の後ろに立ってた。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁だ、大丈夫です。なんでもないです!失礼しますっ﹂
66
﹁あ。ちょっとっ﹂
今度こそ本気で殺される。そう本能が告げている。義両親はまだお
偉いさんらしき人たちと
仲良く会話、他のお客さんも父親のようにコネ作りにやっき。
ここで私がちょっとくらい居なくなっても大丈夫だろう、というこ
とでパーティ会場をぬけ出す。
今はあんな鬼みたいな顔で怒っていても時間が経てば落ち着くだろ
うし、
最後のほうでまた顔を出せばいい。
というプランをたてて一旦トイレにこもり、頃合いを見計らってこ
っそり廊下へ出た。
﹁何をしている﹂
﹁⋮⋮﹂
ずっと女子トイレの側で待っていたらしい綺斗に不意打ちで首根っ
こを掴まれた。
出来ればもう少し違う場所を掴んで頂きたいけれど、顔が鬼のまま
なので無理だろう。
昔の子どもみたいにズルズルと引っ張られて物陰へ押しやられる。
パーティの真っ最中
このフロアには人が劇的に居ない。スタッフの人が忙しなく酒や食
事を運んでいるくらい。
﹁答えろ﹂
﹁綺斗様が凄い怖い顔するから﹂
﹁何でか分かるか?﹂
﹁わからないです﹂
﹁そうだろうな、分かってたらこんな事にはなってないな﹂
67
ドンと乱暴に壁に叩きつけられて逃げられないように抑えこまれる。
首は締められなかったが息苦しいのは変わらない。
睨みつけられる視線があまりに痛くて。肌が触れ合うギリギリまで
唇がくっつく際のところまで、彼が近づいているから。
﹁至らない嫁でごめんなさい﹂
最初は震えてぎゅっと握っていた自分の手を開いてそっと綺斗に抱
きつく。
﹁出来損ないめ﹂
そう言いながらも私の唇を奪う。今度はしっかりと強く味わうよう
に。
過去、優しいキスは何度か経験があったけれどこんな強いのは初め
てだ。
舌を入れられてもどうしたらいいか分からずされるがまま蹂躙され
ていたけれど
いつの間にか彼の手が私をしっかりギュッとだきしめて、抱きしめ
返して。
﹁⋮⋮綺斗様﹂
自分でも気持ち悪いくらい甘ったるい声で彼を見上げる。
﹁ガキでも女は女か。俺相手にそんな欲しそうなツラをするように
なったんだな﹂
﹁どうせ私は子どもを生むためだけのものですし﹂
68
義母がやたら私の若さをほめたり体調管理を気にしたり美味しい物
を食べろとか
細すぎるとか栄養バランスとか言うのはそのためだ。早く孫が欲し
いだけ。
その為の優しさ。怒りなんてものはない、やっとモヤモヤしたのが
分かって
安堵さえしているくらいだから。理由の分からない善意ほど怖いも
のはないから。
﹁お前とセックスはしても子どもは作らない﹂
﹁他に産ませる予定の方が?﹂
﹁俺は子どもが嫌いなんだ。好きなように見えるか?﹂
﹁全然見えませんけど、でもそうなると皆困るんじゃ﹂
﹁知るか。どうせ煩いのは老い先短い爺と婆だ。気にすることもな
い﹂
﹁そ、そうですか?﹂
焦ってるからこんな呪われてそうな女でも嫁に連れてきたわけで。
回避してたら後で凄い問題になるような気がするんですけど。
﹁お前がその体で上手に俺から精子を絞り出せるようになったら考
えてやる﹂
﹁⋮⋮じゃあ頑張ります﹂
﹁そんなにガキが欲しいのか?何がいいんだあんなもん﹂
﹁何でそんな拗ねてるんですか﹂
﹁は?拗ねてない﹂
﹁私も別に好きってわけじゃないですけど。でも、子どもが出来れ
ば久我家に貢献できるし。
出来損ないでも嫁らしくなるかなって思ったりするので﹂
﹁ガキがガキを生むな﹂
69
﹁綺斗様は36歳の立派な大人です﹂
﹁うるさい。お前はもう部屋に戻っていろ、飯を運ぶように伝えて
おいてやるから﹂
﹁でもまだ﹂
﹁まだ?ああ、さっきの腐れ優男とニヤけたツラで話をする気なら
お前本気で殺すぞ﹂
﹁⋮戻ってます﹂
あ、やっぱりそこはまだお怒りなんだ。
おとなしく部屋に戻り、言われたとおりに注意を払って着物を脱い
で干して。
シャワーを浴びて部屋着に着替えてルームサービスを心待ちにした。
70
そのじゅうご
﹁よく食うな。少しでも太ってみろ家から追い出すぞ﹂
デザートに手を出した所で綺斗が部屋に戻って来て私服に着替えな
がら吐き捨てる。
いくらご馳走我慢したからってルームサービスの追加を3回やった
のはやはりやり過ぎたか。
彼もまだろくに食べてないはずだろうから残しておいた分を渡した
ら文句を言いつつも食べた。
﹁はあ。満腹。幸せ﹂
﹁安い幸せだ﹂
﹁でも何も感じられないよりはいい気がします﹂
﹁俺に知ったような口を利くな﹂
﹁すいません。やっとパーティ終わったんですね。私、居ませんで
したけど大丈夫でした?﹂
﹁お前は緊張のあまり調子を崩したと言っておいてやったのにルー
ムサービスをこんなに
馬鹿食いしやがって。もし親が様子を見に来ても俺は何も庇わない
からな﹂
﹁すぐ片付けてもらいましょう﹂
それは不味い絶対不味い。慌てて内線電話をかけて食べ終えた食器
を全て片付けてもらった。
あれこれしているうちに時間は深夜12時を越えようとしている。
今日はこのままお泊り。
ずっと続いた緊張からの開放、お腹いっぱいの幸せ、あと疲れも手
71
伝ってこのまま眠れるだろう。
ベッドは広く無理にくっつかなくてもゆったりと出来るし上品ふわ
ふわの寝心地にも期待している。
歯を磨いて眠る準備を整えたら先にベッドに潜り込んだ。やはり寝
心地は最高。
﹁おい、風呂場にアメニティのゴミを放置するな使ったらきちんと
捨てろ。小学生か﹂
入れ替わるように風呂へ行った綺斗が何か怒っている気がするけど
また朝にでも聞き直せばいいかと適当に返事をして寝返りをうった。
まだブツブツと文句を言いながらもベッドに入ってきて真ん中に陣
取る。
﹁⋮⋮﹂
﹁無言で抱きついてくるな鬱陶しい﹂
何時もなら気を使って隅っこによるけれど今夜はくっついて眠るこ
とにした。
引き剥がされたりはしなかったから、たぶんこれでも大丈夫なのだ
ろう。
﹁今日も朝からお仕事ですか?﹂
﹁そのつもりだったが昼からにする﹂
翌朝、モゾモゾと動く振動で目が覚めて。隣を見たらあちら様も既
に起きていて。
このまま何時もみたいにさっさと準備して出て行くのかと思ったら
意外にのんびりベッドの中。
72
流石にパーティの翌朝からお仕事というのは疲れるということかな。
﹁昨日のお披露目会で式は来月って言ってましたね。籍はそれより
先に入れるのかな﹂
﹁その辺は向こうが適当に決める事だ﹂
﹁私まだ柊でいいのかな﹂
﹁好きにしたらいいだろ。呼び方で何が変わるって言うんだ。お前
は何をしたってお前だ﹂
﹁はい﹂
そうだよね、名前が変わったって私は私。気持ち悪いくらい影の薄
い女。
綺羅びやかな姉の後ろに隠れるのが当たり前になりすぎて自分を忘
れた女。
その盾を失いハッキリとお前は鬱陶しいと指摘してくれる人がそば
にいると
自分がいかに諦め堕落していたのかと痛いくらいよく分かって。
それが辛いこともあるけれどそれだけじゃないナニカもあって複雑
な気持ちになる。
﹁風呂でも行くか。おい、そうやって豚みたいに寝転がってるだけ
ならお前も付き合え﹂
﹁せめて牛にしてください﹂
﹁来い家畜﹂
ついにジメジメ女扱いから家畜まで堕ちた。綺斗はさっさとベッド
から出てお風呂場へ。
私もそれに続くようにベッドから出てついていく。スイートだけあ
ってお風呂も快適で湯船は
大きくて丸い形をしていた。何かしらの設定をしたら泡がブクブク
73
と出るらしい。
昨日は疲れてシャワーで済ませたのでその辺全部素通りしたけれど。
﹁あの、お背中お流ししましょうか﹂
﹁軽くシャワーが浴びたいだけだ。風呂でお前と戯れたいワケじゃ
ない﹂
﹁⋮⋮﹂
あっさりとここまできてしまったけれど、初めての一緒にお風呂。
互いの全裸を見る。
私はやっぱり直視は出来ないからさりげなく視線を外しているけれ
ど。
﹁だがそうだな、お前も欲しがってはいるようだから少し触って貰
おうか﹂
﹁さ、触る?﹂
恥ずかしいのもあるし何もしないわけにはいかないと言ってみたら、
何か違う事になってませんか?触る?何を?綺斗がお風呂の椅子に
座り、
私をその前に座らせる。視線の先はもちろん彼の胸。そこから下へ
はいけない。
﹁愛しい男でないと見たくないか?﹂
﹁普通に直視は難しいです﹂
﹁昨日は子どもが欲しいと言ったくせに、ガキめ﹂
﹁ガキです﹂
﹁顔を赤くして潤んだ目をして、なあ律佳。お前はまだ男を知らな
いんだろう﹂
﹁⋮⋮﹂
74
﹁どうせあの両親のことだ。その辺はきちんとお前の父親に確認を
しているはずだ﹂
綺斗の手が私の顎を掴み上を向かせる。
強引にソコを見るようにするのかと一瞬ヒヤっとした。
﹁それは⋮二人で話をして⋮結婚してからって﹂
﹁その裏で美鶴とは何度セックスしていたのやら。そんなことにも
気づけないで、
結婚なんて甘い妄想に踊らされて。お前は本当に、哀れなほど出来
損ないだな﹂
﹁⋮⋮﹂
私だって男女の交わりを知らないわけじゃない。学校でもどこでも
その話題は出る。
そんな会話辟易してた。あの人だけはそんな肉欲に溺れてはいない
と信じてた。
純粋で優しくて甘くてこんな私を愛してくれている。そんな妄想。
﹁お前はもう俺でしか快楽を知るすべはない。きちんと教えてやる
から少しは俺を楽しませろ﹂
﹁⋮⋮努力、します﹂
﹁とりあえず指で扱いて付け根から先へ舐めあげろ﹂
﹁え?な、なめ?﹂
﹁下手でも大目に見てやるが噛んだら罰として全裸で廊下に立たせ
る﹂
﹁はい﹂
75
そのじゅうろく
﹁お前、学校に未練はないのか﹂
﹁少しはあります。あ。やっぱり学歴ってそれなりにあったほうが
いいですか?﹂
﹁あるのか無いのか聞いたんだ、曖昧な返事をするな﹂
ゆでダコみたいに顔を真赤にさせながら言われるままに指で扱いて
舌でなぞって。
1分もしないうちに﹁もういい﹂と不機嫌に言われ体を離された。
噛みはしなかったが
綺斗いわく、お前が絶望的に下手すぎて気分が萎えた。とのこと。
結局お湯をためて2人で横並びに入ったら狭かったので強制的に彼
の膝に座る。
﹁私は家の事しないといけないですし﹂
﹁それは熟知した連中がキビキビ動いてる。母親も家事は一切しな
い命令するだけ。
あれでも由緒正しい公家の姫様だからな、やれるのは花いじりくら
い﹂
そういえば義母が台所に立っている姿も掃除をしている姿も見たこ
とがない。
歴史は浅いと言われてもやっぱり旧家には違いなく奥さんも立派な
家の人を選んでる。
私は秀でた所もないし家も傾いて危ない。今更ながら本当にコレで
いいのだろうか。
でもどれだけ綺斗に怒られてもお前なんかと結婚しないとは言われ
76
ていない。
彼はこの結婚を流れ作業の一つとでも思っているのだろうか。
﹁それで。どうする。もし未練があるのなら話をしてやってもいい﹂
お湯の中で素肌が触れ合うのが恥ずかしいけれど相手はお構いなし。
﹁それは﹂
﹁女子大だったか。昨日の馬鹿どもよりはまともなのも居るだろ﹂
﹁居ますけど。もうあの人たちが私のことを皆に広めてると思うの
で戻るのは面倒かも﹂
﹁学生で結婚してるのは珍しくはない﹂
そうじゃなくって貴方が何時もの刺々しい言葉で彼女たちを追い払
った事も広められてるんです。
もとから彼女たちには良いように見られてないのに。
それで復帰なんかしたら彼女たちの標的にされて、姉という盾もな
いからひどい目にあうわけで。
﹁どうせなら共学がいいです﹂
﹁優しい言葉をかけてくれる男が居たらそいつと逃げる寸法か?そ
れとも心中してみるか?﹂
綺斗はそう言って耳元で意地悪く囁き、耳たぶを甘噛して耳の穴周
辺を舐め始めた。
わざとらしくクチャクチャと直に粘着性のある音がして、吐息も混
じりゾクゾクする。
声が出そうになるのを堪えても私の肩がビクンと反応してしまって、
小さく笑われた。
77
﹁そ⋮⋮んっ。そ、そういう意味じゃなくて。ただ、今までずっと
女子校ばっかりだったから﹂
﹁だったらお前は今後一切男に関わらず生きていけるな﹂
﹁じゃ、じゃあ。学校は別に目標もないのでそれならアルバイトを
再開させていただけたら﹂
辞めるなんてもったいないって貴方も言ってたし、これならいいで
すよね。
﹁バイトか﹂
﹁とっても素敵なお店なので良かったら綺斗様も一度﹂
﹁そうだな。俺が見て気に入れば許してやる﹂
﹁わかりました。何時行きます?﹂
﹁風呂から出て準備したら﹂
﹁早いですね﹂
﹁ちょうどコーヒーが飲みたかった所だ﹂
何だろうこの緊張感。駄目だったらどうしよう、そこまで困るわけ
じゃないけど
バイトが許されたら久我家から離れる自由な時間と好きにできるお
金が出来るわけで。
あの義両親がそれを許すかは置いといて、
それはとても魅力的だと思えるのでここはやっぱり気に入って欲し
い所だ。
﹁綺斗様﹂
﹁何だ。グズグズするな﹂
お風呂からあがるとのんびりは出来ない、急いで着替えて出かける
78
準備をする。
淡々と距離をおいて。会話なんてなくて、けれど私は気になること
があったので。
着替えの途中で振り返り綺斗に問いかける。
﹁もしかして私がまだ子どもだから二十歳になるまで待ってもらっ
てるんでしょうか?﹂
﹁何を?﹂
﹁⋮⋮え⋮え⋮っちなこととか﹂
怖い所もあるけれどたまに優しい?時もあるから。もしかして気遣
い?
﹁お前の為に待つ?あんな下手な愛撫で俺に弄って貰えると思うな﹂
﹁すみません。初めてで、⋮あの、⋮すごく、大きいし、あんなの
口にどうやって﹂
﹁いいからもうガキ臭い事言うな。情けなくなる﹂
﹁⋮⋮はい﹂
苦々しい顔でさっさと着替えろと怒られる。やはりそんな訳ないか。
﹁そんな年中盛ってるようにみえるか俺は﹂
私でなく壁に向かってぼやく綺斗に思わずハイと言いそうになるの
をこらえる。
首を絞めたと思ったら股を開けって言われて、色っぽいモデルさん
とも何かワケアリ。
さもソウイウコトが好きそうなのに。良くも悪くも気分屋なのだろ
うか。
79
﹁あの﹂
﹁なんだ。そんなに俺にシてほしいのか?﹂
﹁変なことをいってごめんなさい。ちょっと確認しただけです。今
後のために﹂
﹁意味のわからん女だ。さっさと行くぞ﹂
﹁はい﹂
80
そのじゅうなな
まさかまたこのお店に戻ってこられるとは思ってなかった。
短大を退学してすぐに働き口を見つけようとしたが秀でたもののな
い高卒の女では難しく。
高給に釣られ安易に考えたホステスや体をハードに使う仕事は父親
に断固として反対されて、
ライバルにこれ以上弱みを見せたくないと知り合いの会社などのコ
ネ入社も嫌な顔をされた。
途方に暮れていた所に偶然目に入った小さな喫茶店のバイト募集の
張り紙。
すぐさまお店に入りちょっと声が上ずりながらもマスターに面接を
してほしいとお願いした。
﹁いらっしゃいませ。おや、りっちゃんじゃないか!元気だったか
い?﹂
﹁お久しぶりですマスター﹂
定年後に奥さんと2人で始めたお店。小さなカウンターと普通の席
が3席とちょっと狭いけれど
マスターの淹れるコーヒーの味と奥さんの作る食事の美味しさが評
判で常連は多く昼時は忙しい。
夫婦が趣味でやっている陶芸や絵画などもさりげなく飾ってあって
内装も可愛い。
﹁⋮⋮﹂
81
のだけど、後ろの人がそれを気に入ってくれるかはまた別のお話。
﹁こちら様は?はてどっかで見たような⋮⋮男前さんだねぇ﹂
﹁久我綺斗さん、です。えっと﹂
どうしよう普通に名前だけ紹介してしまったけど、関係も言わない
と駄目だよね。
﹁久我綺斗。ああ!着物デザイナーの!よく雑誌に特集されたりコ
ーディネート指南したりしてる!
うちの嫁が大ファンでね、貴方の出ている雑誌は全部買ってくるし
テレビも録画しているくらいなんだ﹂
﹁それはどうもありがとうございます﹂
見ているこっちが引くくらいビジネスライクな笑みを浮かべる綺斗。
口調も嘘みたいに穏やか。
それは昨日のパーティでのやり取りを見ていて分かっていたけれど。
彼に対して不快な行動や攻撃をしかけなければ痛烈なカウンターを
喰らうことはないのだろう。
表向き穏やかな顔をしているからとりあえず今のところ彼を怒らせ
る行動はない、と。
﹁すっかり先生に影響されて着付け教室にも通いだしてね。今日も
教室の友達と先生の
作品を見に行くって張り切って出て行ったんだ。惜しかったなあ⋮
サイン頂けますか?﹂
﹁ええ、もちろん。良いですよ﹂
実に嬉しそうなマスターの案内で奥の静かな席へ案内される。
82
注文したのはモーニングセット。飲み物は当然コーヒー。
﹁パンも自家製で美味しいって評判なんです﹂
﹁そうか。想像以上に狭苦しい店だが清潔感があって悪くない﹂
﹁良かったです﹂
﹁⋮⋮この店ならどうせ来るのは爺さん婆さんか﹂
﹁モーニングセットお待たせしました﹂
奥さんが作ったお皿に綺麗に盛られているトーストとサラダ、あと
ゆでたまご。
後は自慢のコーヒー。見た目と香りで一気にお腹が押し寄せて、
タオルで手を拭いたら即座にトーストに齧りつく。これなら3セッ
トくらい食べたい。
﹁んー。美味しいっ﹂
﹁豚のように貪り食うなはしたない﹂
﹁だからせめてそこは牛にしてください﹂
﹁そうだったなすまんな家畜﹂
言いながらこっちを見てもない。人間扱いじゃなくてもいいけど女
の子としてやっぱり豚は嫌。
幸せな気分でトーストにかじりついていたらオーナーがおまけだと
言ってミニケーキをくれた。
それもまた嬉しくて大口でかじりついたら﹁恥を知れ﹂と睨まれた
のでちょっと反省。
﹁それで。りっちゃん。先生とはどういう関係なんだい?もしかし
て新しい就職先の上司?﹂
食べ終えた所でマスターがお皿を片付けてくれてコーヒーのお代わ
83
りももらって。
落ち着いた所でようやく私達の関係を問われた。
﹁説明していなかったのか?﹂
だって結婚しますとか言ってどういう相手なのかと聞かれてもさっ
ぱりわからない。
﹁あ、あの。マスター、私来月式をあげるんです。その相手なんで
す⋮こちらが﹂
﹁式って言うと、まさか結婚?え?りっちゃん結婚するのかい!?
それもこんな有名な先生と!?﹂
﹁は、⋮はい。そうです﹂
やっぱりびっくりしますよね。元女子短大生と着物デザイナー。あ
まりにも接点がなさすぎる。
マスターには面接時に何もかも話をしていて柊家のことはわかって
いるけれど。
﹁なるほど。それはおめでとう。いやあ、そうと言ってくれたら俺
も祝いの一つでも﹂
﹁とんでもない。慣れない私をきちんと指導して頂いて。マスター
にはお世話になってばっかりで。
お礼をしないといけないくらいなのに﹂
﹁いやいや。りっちゃんは覚えが早かったし、常連さんも気に入っ
てたからね。そうか、結婚か﹂
父と違い純粋に嬉しそうに笑って祝福してくれるマスターにちょっ
と胸が痛む。
きっと相思相愛で恋愛結婚とか思っているのだろうけど。そんな優
84
しい世界じゃない。
﹁マスター、もし宜しければもう一度彼女を雇っては頂けませんか﹂
﹁え?それはもうりっちゃんが来てくれるなら嬉しいですけども。
いいんですか?﹂
﹁彼女もそれを望んでいますから。それに、人と接する社会経験も
大事だと思いますので﹂
﹁こうおっしゃってるけど、良いのかいりっちゃん﹂
﹁は、はい。あの。どうかよろしくお願いします!﹂
どうやら全てクリアしたらしい、バイト続行OKのお許しが出た。
マスターも嬉しそうにシフトを組むと言って一旦裏へ。
﹁⋮⋮何だ。ジロジロ見るな気持ち悪い﹂
﹁許してくださってありがとうございます﹂
﹁あの家でお前が母親たちに飼い殺しにされるのが癪に障るだけだ﹂
﹁あ。良かったんでしょうか相談もしないで﹂
﹁お稽古事だのなんだの理由をつければいい。それに毎日きっちり
働くわけじゃない﹂
﹁そうですね﹂
﹁ここならまた来てやってもいい。お前の仕事ぶりも見てやる﹂
﹁⋮⋮がんばります﹂
ちょっとだけ家から自由にはなれるけどやっぱり監視には来るんで
すね。
お腹もいっぱいになった所でマスターとも話し合いをして来週から
再びバイトに入ることが決定。
家に缶詰か義母と気の休まらないお出かけから少しだけ開放されて
内心、嬉しかった。
85
﹁何だ急に﹂
何もかもどうでもいいと麻痺したはずの私の心。時の流れのおかげ
か、
あるいは建前上でも夫が出来たからか。麻痺してくれたほうがずっ
とマシな
胸の痛みが最近じわじわと戻って来た気がする。いや、戻っただけ
じゃない。
﹁真っすぐ行ったら私の実家なのでおろしてください。後は自分で
戻ります﹂
この痛みを抱えて一生過ごすのは嫌だと冷静に思えている。
来月には嫁ぐことが決まっているのだから、
何をためらうことがあるだろう。何をすがることがあるのだろう。
とさえ。
﹁家になにがある?バイトは許してやったが理由のない里帰りは許
さない﹂
﹁あの人との思い出があります。ずっと捨てられなかった大事な思
い出が﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それを全部処分したいんです。だから﹂
﹁いいだろう。だが、女は情にほだされる生き物だ。俺が見ていて
やる﹂
﹁それは﹂
﹁嫌とは言わせない﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
86
そのじゅうはち
広い庭と頑丈な門、外国から取り寄せた数々のインテリアが父の自
慢の我が家。
だけど久我家のような余裕はないので母が好んだ庭は荒れ始めてい
る。
父は仕事に出ているので家には家政婦さんが居るだけ。事前に何の
連絡もなく綺斗を
連れて戻ったから皆驚いた顔をしていたが忘れ物を取りに来たのだ
というと戻っていった。
﹁思っていたよりも小奇麗だな﹂
﹁調度品を幾つか売ったそうです﹂
﹁なるほど﹂
途中ちらっと目につくドア。姉の部屋だ。今も綺麗に保存されてい
る。
それは母が死ぬ間際までそうしていたから。私にもそうしろと遺言
していったから。
父は家のことを優先していて私や家政婦さん任せでそれに興味もな
い。
﹁綺斗様、ここで待っててもらっても﹂
﹁いいから開けろ﹂
懐かしい自室の前まできて彼を止めることは出来ない、そうだろう
なとはわかってたけど
87
一応聞いてみたがやっぱり駄目。仕方なく一緒に部屋に入る。
あまり部屋に物を置かないからそんな汚いとか荒れているわけじゃ
ないけど。
﹁⋮⋮あった﹂
机の引き出しの一番奥。唯一私を可愛がってくれた祖母がくれた鍵
つきの小物いれ。
見た目は繊細な細工のされた木彫の箱だけど、鍵を差し込めば蓋が
あいて
色々隠しておける。その鍵はずっとペンダントにして持っていた。
﹁肌身離さず持っていたわけか、殊勝な心がけだな﹂
﹁⋮⋮﹂
そう言われるのがちょっと嫌だったから待ってて欲しかったのもあ
るんだけど、無理だよね。
﹁その中身がお前にとって大事なものか﹂
﹁愁一さんがくれた手紙。結婚しようってプロポーズされた時に渡
された指輪﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの人はお金持ちとかじゃなくて、普通の学生さんで。今は安物
だけど何れはちゃんと
良い物を買おうって。手紙も、全部あの人の優しい言葉が溢れてる﹂
祖母が亡くなってからは誰からも見向きもされなかった。美しい光
へ引き寄せられて行ってしまう。
その影にかくれて好き勝手にして生きてきたけれど。そんな私を見
つけてくれたのが彼だった。
88
優しい愛の言葉の綴られた手紙は何度も読み返して嬉しくなって、
指輪をもらった時は
その場で号泣したのは今でも覚えている。これでもう隠れなくても
いいんだって思ったから。
﹁結局お前は裏切られたんだろう。優しい言葉が何だというんだ?﹂
﹁私を呪う道具でしかありません﹂
﹁燃やせ﹂
違う。過去の甘い記憶に浸りに来たんじゃない、私はこの過去を消
しに来んだ。
綺斗の言葉に軽く頷き、手紙の束を持って庭へ移動する。ライター
の類は双方
持っていなかったので途中呼び止めた家政婦さんに持ってきてもら
った。
﹁⋮⋮﹂
手紙の束を庭の隅に置いて。ぼんやりと眺める。可愛らしい封筒に
は綺麗な字で私の名前。
彼が居れば私のこのつまらない人生も変わると思ってた。対抗する
とかそんな事は考えてない。
姉に全て持っていかれる妹からただの女として普通の幸せの中で生
きたかっただけ。
名前を指でなぞって、俯いて、どうしてか涙が溢れてきた。もう枯
れたと思ったのに。
﹁なんだ、やはり決別すると言いながら情に流されて消せずに居る
のか?﹂
89
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁これはお前がすることだ。お前が燃やさなければ意味がない﹂
もう彼は居ないのだからこんなの無意味。私は久我綺斗と結婚する。
優しい言葉なんてなくて、愛情もないけれど。でもそうするしかな
いのだから。
そう言い聞かせて、ライターを握りしめて。
﹁⋮⋮っ⋮⋮っ⋮愁一さんっ﹂
どうして私じゃなかったの?
でもそのまま手を離せなくて。手紙を抱きしめる。
﹁未練がましい女め。死ぬことも出来ないくせに自分を裏切った男
を消すことも出来ないとは。
お前のような出来損ないは流石に俺も面倒見きれん。好きなだけ抱
きしめて部屋で蹲っていろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮、それがお前にとって一番幸せなのかもしれんな﹂
私の幸せ。
愁一さんと結婚して得るはずだったもの。でも彼は姉と共に死んで
しまったから。
だから、私は彼の思い出にだけ頼って生きていけばいいの?今度は
彼の影に隠れて生きるの?
楽しい物しか見ないのは心地が良い。守られる盾があることは、と
ても安心できる。
90
﹁⋮⋮﹂
けど、それは幸せじゃ⋮⋮ない。⋮⋮と、思うから。
﹁よく燃えるな﹂
﹁指輪は﹂
﹁それは俺が捨ててやろう﹂
﹁⋮⋮、はい﹂
手紙を燃やして指輪を綺斗に渡しす。あとはじっくりと火を見つめ
て、
きちんと私の愛しい思い出がただの灰になったのを確認したら家に
戻る。
泣いたら喉が乾いてしまって何か飲み物を貰おうと思った。
綺斗は何も言わずにただついてくる。涙は止まっても目がぼやけて
喉も痛いけれど
気持ちは不思議と落ち着いていた。
﹁これはこれは!綺斗様!どうなさったんですか?こんな時間に!﹂
﹁お父さん﹂
﹁律佳。どうした?まさか、娘が何か粗相でも!?﹂
飲み物を貰ってリビングで休んでいたら家政婦さんが電話したのだ
ろう、
父親が家に戻ってきてウソっぽい笑みで迎えた。必死なのは見てい
てすぐわかる。
私が何かやらかして姉の二の舞いは困るからだ。
﹁そんな慌てなくても大丈夫ですよ。それとも何か心配事でも?﹂
﹁いえ。まさか。この子はとてもできの良い娘ですからね!良かっ
91
たらお昼をご一緒にどうですか﹂
﹁結構。あまりこの家に長居はしたくないので、連れて帰ります。
貴方もその方がいいでしょうしね﹂
﹁ははは、⋮何をおっしゃいますかっ﹂
綺斗が父を気に入ってないのは固い口調と表情ですぐに分かる。
けど、別にそれをフォローする気もない。父は何度か息苦しそうに
こっちに助けを求めてきたが
気づいてないふりをして目をそらした。
もらった飲み物を飲み終えて、冷や汗をかいている父に見送られて
家を出る。
たぶんもうここへ戻ることはないと思う。私を引き止めるものはも
う灰になってしまったのだから。
﹁あのツラは何度見ても不愉快だ。お前があの男に似ていなくてよ
かった﹂
﹁私おばあちゃん似で﹂
﹁どうでもいい﹂
﹁すいません﹂
音楽などを流すのは嫌いなようで無音の車。それでも特に気にはな
らない。
気になるのはお腹がすいてきたということ。時計をみるともう12
時近く。
﹁さっき食ったと思ったらもう昼なのか、お前がグズグズするから
だぞ。仕事に遅れる﹂
﹁コンビニにおろしてもらって私適当に何か買ってきますか﹂
﹁そうだな。工房で食べる﹂
92
﹁私のもいいですか?家で食べますから﹂
﹁おい家畜。はしたない真似をするんじゃないぞ﹂
﹁わ、わかってますよ!そんなばかみたいに買ってこないです!⋮
⋮だからいい?﹂
﹁家には寄らない、時間が惜しいからな﹂
﹁わかりました﹂
コンビニに下ろされてお金を渡されて急いで買い出し。
あまりコッテリしたのは好きそうじゃないのでさっぱりしたものを
2つ購入。
本当はデザートとか食べたいと思ったけど、絶対怒られるから我慢
した。
﹁お前は買い物が早いのが唯一の取り柄だな﹂
﹁ごめんなさい綺斗様﹂
﹁は?褒めてやったんだぞ﹂
﹁我慢しようと思ったんですけどやっぱり⋮やっぱり欲しくて﹂
﹁何を買ってきたんだ﹂
﹁⋮⋮グソク君のストラップ﹂
﹁またゴミ虫なのか。お前はどうしてそう気色悪いものを好むんだ﹂
﹁これだけですこれだけ。小さくて可愛かったから。⋮お願いしま
すっ﹂
﹁買ってから言われてもしょうがないだろうが。それだけだぞ。い
いか、もう買うなよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁声が小さい﹂
﹁はい﹂
93
じゅうきゅう
﹁先生、梨華さんがいらしてます﹂
﹁分かった。すぐ行く﹂
工房に入るや否やお弟子さんが声をかけてきて綺斗はそのまま奥へ
行ってしまう。
私はコンビニの袋を持ったまま二階へ行けと言われたので階段をあ
がり一人で昼食。
梨華といったら昨日挨拶された意味深な美人のモデルさんだ。
個人で着物を依頼したのかモデルの仕事かあるいはまるっきりのプ
ライベートなのか。
ただのモデルと先生じゃない関係な雰囲気があった。特にモデルさ
んから。
彼女なら年齢的にも見た目的にも彼の隣に居ても遜色はないけれど。
やはり大人の男だし、職人と言ってもそれなりに女性と関係はあっ
たりするのだろうか。
﹁ちょっと休憩してから帰ろう﹂
空腹なのも手伝ってあっさりと食事を終えゴミを片付けたら後はも
うやることがない。
しいて言うなら帰るだけだけど、すぐ帰るのももったいなく感じて
来客用に置いてあった
座布団を枕にゴロンと寝転ぶ。これは決して放置されてのふて寝で
はない。
どうせ先生は一階でモデルさんやお弟子さんと忙しくお仕事をして
94
いるのだから。
待っていれば何れここに来てご飯を食べるのだろうし。
自分だけが何もしてない、出来てないなんてそんなの前からそうだ
ったじゃない。
﹁お茶をお持ちしました﹂
﹁は、はいっ﹂
ふすまを隔ててお弟子さんの声がして慌てて起き上がる。入ってき
たのはあのちょっと怖い
感じの女の人だ。今日も無表情でお茶を出してくれた。
﹁先生は大変お忙しい方です、今も食事の時間を削って打ち合わせ
していらっしゃいます﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あの?﹂
﹁そろそろお分かり頂けませんか﹂
﹁え?﹂
﹁貴方がここに居た所で先生のために何ができますか?何もお出来
にならない。
そのつもりもないんでしょう?だとしてもせめて邪魔だけはしない
でくださいね。
先生の事はこれからも私達がきちんとバックアップしていますから﹂
﹁⋮⋮だ、大丈夫です。もう帰りますから﹂
やっと話をしてくれたと思ったら帰れと言われた。お茶を一口だけ
貰ってから荷物をまとめて部屋を出る。
何も言わずに行くのは悪いだろうと適当なメモを探したがそんなも
のは無かったのでそのまま。
95
あのお弟子さんが帰ったって言ってくれるかもしれないし。
それでも一階へ降りる際に彼が来ないかとか姿が見えないかと念入
りに確認はした。
綺斗と梨華が入っていった部屋を通り過ぎても声はしない。そんな
中へ行くのも憚られる。
そもそも居なくたって興味も持たないだろうし。
裏切られたのに未練がましくすがっていた過去と決別して、新しい
自分になりたくて
思い出を灰にしたのに。新しい世界でも待っているのはやはりこん
な扱いなんだ。
あの人にしたって私は結局なんでもないのだから、夫婦なんて言っ
たって親の決めたこと。
意識なんてされるはずもないのに、わかってるのに何でこんなに胸
が痛いのだろう?
どうして何度も何度も期待なんかしちゃうんだろう?自分が馬鹿す
ぎてどうしようもない。
﹁おい、律佳を見なかったか?部屋に居ないんだが﹂
﹁奥様でしたら三十分ほど前に帰りました﹂
﹁帰った?お前はそれを見ていたのか?何故引き止めなかった﹂
﹁先生はお忙しいですしいつまでもお待たせしても悪いかと﹂
﹁お前は何様のつもりだ。あいつのことは俺が決める勝手なことは
二度とするな﹂
﹁待ってください先生!私はただ先生のことを考えて﹂
工房から家までは歩きだとそれなりに距離があるのでタクシーで帰
ろうと思ったけれど、
96
すぐに家につくのは勿体無く感じてちょっとだけ歩いてみた。それ
もすぐに疲れてしまって、
ふと目についた公園に入る。ベンチに腰掛けてぼんやりして、俯い
て。深い溜息。
﹁愁一さん。⋮⋮やっぱり、私は一人だよ。どこでだって変わらな
いよ﹂
そんな目の前をカップルとか子どもたちが過ぎていく。無邪気に楽
しそうに笑って。
好きな人と手を繋いで。寄り添い合って。甘い愛のある言葉を伝え
合う。
私が望んだのはそんなありふれた普通の人生であってこんな悲惨な
ものじゃない。
﹁そっちに行ったら受け入れてくれる?⋮⋮お姉ちゃんの方がやっ
ぱり良い?﹂
それでもいいよ、また優しく笑ってくれるなら。律佳ちゃんって呼
んでくれるなら。
縋るもの無く一人で生きていけるほど私は強く出来てない。
期待はもうしたくない。
暫くじっと座っていたが立ち上がりタクシーを呼び止める。でも行
き先は久我家ではないし、
もちろん実家でもない。
97
そのにじゅう
﹁あの⋮⋮つきましたけど、ここで待って無くて大丈夫ですか?﹂
警察からその場所を教えてもらうまでは行ったことも聞いたことも
無かった場所。
調子を悪くしていた母を残し父親と二人で本人確認の為にその森へ
向かった。
最初情報が混乱して父は取り乱しろくに会話も出来ず、私は何が起
こったのか
ちゃんと分かっていなくて相手の男が誰かも分からず婚約者だと言
われていた。
﹁大丈夫です﹂
﹁そうですか、それじゃ。気をつけて﹂
暗い顔をした女が一人森へ行くのは違和感を持たれるだろう。
タクシーに乗り込んで場所を伝えたらちょっと不気味がられたけれ
ど、知り合いのために
花を手向けるのだと言ったら一応は納得したようで黙々とその場所
へ連れて来てくれた。
季節のせいかより一層鬱蒼とした森。それは、姉と彼が心中した場
所。
椿は手に入らなかったけれど、代わりに赤い可愛らしい花を持って。
その場所に一人立っている。
﹁私ひとり生きてもどうしようもない。もっと早くこうするべきだ
98
ったんだよね。
そうだよ。お姉ちゃんに気を使うことなかったんだ﹂
二人が倒れていた場所に花を手向けて。自分もそこに座って苦笑す
る。
花を買うついでに剪定用のハサミを買ってきていてそれを喉元に当
てた。
ひんやりと冷たい刃物の感触。これで思い切って喉を切り裂いてし
まおうか。
こんなのじゃ簡単には死ねないかもしれないけど。
お姉ちゃんは辛くなかったんだろうか、愁一さんは苦しくはなかっ
たんだろうか。
自分で自分を傷つけて死ぬって、想像する以上に怖いものなんだ。
﹁⋮⋮綺斗様﹂
私は今、愁一さんの元へ強引に行こうとしているはずなのに、
頭に浮かんだのは違う人だった。
﹁律佳!おい!しっかりしろ!律佳!﹂
﹁⋮⋮綺斗様﹂
﹁お前!なんて所で寝てやがる!心臓に悪い事をするな!﹂
結局死ねなくて。せめて彼らと同じ視点になろうと寝転んでみた。
どれくらいそんなことをしていたのかわからないけど、
大声で叫んで駆け寄ってきた綺斗に抱き上げられて目を覚ます。
99
﹁すみません、死にきれなくて﹂
﹁過去と決別するつもりで手紙を燃やしたんだろう﹂
﹁そうなんですけど。思えば私の過去はそんな悪いことばっかりじ
ゃなくって。
いざ全部捨てたら今の辛い気持ちだけが残ってしまいました。
それをひとりで全部抱え込むのは難しかったです。生きていられそ
うにないくらい﹂
無理に笑顔を作っても涙が溢れてくる。
騙されていたとしても人の愛を信じられていたのだから。そこまで
不幸ではなかった。
姉の後ろに隠れてやりすごしたり、その姉と比べられて平気で酷い
言葉を投げつけられても
気にしない素振りをしていられた。
それが今、信じていたものをすべてを失っても夫となる相手が出来
て。
懲りもせずちょっとだけ希望なんて持って、慣れない家で必死に妻
を演じようとしたけれど。
結局、元から出来の悪い私は何処に行ったって必要とされない無能
な女でしかない。
誰も私を律佳として認識してくれない。
この世界に一人ぼっちでしかないと改めて認識してしまったら、限
界なんてあっという間。
﹁めそめそするな鬱陶しい。お前は本当に勝手なことばかりして﹂
﹁⋮⋮すい⋮⋮っ⋮ませっん﹂
そして今、こうして迎えに来てくれて抱きしめられる中で分かった。
綺斗の存在が少しずつ私の中で大きくなっていること。
100
でも、それが形になることはないのだろう。私は本当に呪われてい
る。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
ああ、何で私は死ねなかったんだろう。
こんな恥を晒して。自分から馬鹿をして。
﹁おい。いいか、よく聞け﹂
﹁っ﹂
綺斗は泣き止まない私の顎を掴み上げその鋭く澄んだ瞳をしっかり
と私に向ける。
﹁恨み言を吐いた所で世を儚んだ所で結局お前は死ねないんだ。や
り返してやる度胸もない。
何もせずただ悲観して泣いているだけの鬱陶しい女め。そんなに死
にたいなら俺が殺してやる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁自分だけ一人なのは嫌だろ?だったら美鶴と同じようにお前を殺
したら俺も一緒に死んでやる。
それでどうなんだ、ここで今殺して欲しいのか俺に一緒に死んで欲
しいのか。言ってみろ﹂
まさかそんな事を言われるとは夢にも思ってなくて綺斗の言葉が頭
のなかでグルグルと回っている。
ここで死んだら姉と一緒だ。これも心中ってなるのかな?椿はない
けど赤い花はある。
101
﹁もし⋮⋮綺斗様が許してくれるなら、もう少しだけ貴方と一緒に
生きてみたい﹂
私の名前を何度も叫んで、怒り混じりだけど心配そうに見つめてく
れる貴方の顔を見たら。
ぎゅっと強く抱きしめられる温もりに触れたら。たまらなく嬉しく
て。
﹁だったら大人しく俺の妻として生きるんだな。命令には絶対服従
する良い妻で居ろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁お前が死ぬ時は俺が殺す時だ。他は許さんから覚えておけ﹂
﹁はい。綺斗様﹂
﹁それとハサミを持ったまま抱きつくな﹂
でも怒って引き剥がさないのが綺斗様だ。落ち着くまで抱きしめて
もらって、
それから一緒に彼の車で帰る。ハサミは綺斗に没収された。
帰りの車内は静かだった。泣きすぎて顔がパンパンになった顔を気
にしつつ。
でもここまで迎えに来てくれたお礼を言わなきゃいけないと思って。
﹁え。新作発表会ですか﹂
横を向いたら相手も何か言いたそうな顔をしていて先に話題を出さ
れる。
﹁そうだ。それでずっと忙しかった。これが終われば少しは時間が
出来る﹂
102
﹁絶対に見に行きます﹂
﹁お前はモデルとして参加するんだ﹂
﹁あれ。そんなお話でしたっけ﹂
﹁最初に言ったはずだ。お前には俺の作品を着てもらうと﹂
﹁でも梨華さんとかのプロの方も参加するんですよね?﹂
﹁お前に拒否する権利はない。いいか、俺に恥をかかせるな。最低
限マナーを身に付けろ﹂
﹁努力します﹂
と返事したものの。いいんだろうかモデルなんてそんな重要な事。
こんな素人な私で。
もちろん一人だけじゃなくて他にも着るモデルさんは居るのだろう
けど、混ざれる気がしない。
﹁⋮⋮疲れたろう。甘いものでも食べていくか。この通りに山錦が
ある﹂
﹁え。でもお仕事は﹂
﹁お前のせいで昼飯もろくに食えてないんだ。これくらい付き合え﹂
﹁すみません﹂
﹁お前と居ると疲れる。⋮⋮お前が居ないと落ち着かない﹂
﹁え。あ。あの﹂
﹁黒蜜きなこ餅の他にも色々と菓子はあるからな。さて何にするか
な﹂
﹁あ⋮⋮自分で言って照れてる﹂
103
そのにじゅういち
長い長い、もう永遠に続くんじゃないかと思うくらい長い神前式。
自分のしていることの意味なんてわからないままに晴れて法的にも
儀式的にも
無事に久我綺斗の妻になりました。
﹁白無垢って見る分にはいいなって思ってたけど着ると中々辛いで
すね﹂
﹁我慢しろ﹂
義両親が選びぬいた格式ある式の会場から専用の車に乗って披露宴
会場であるホテルへ移動。
そこもまた前回とは違う歴史のあるご立派な場所。裏手からスタッ
フの人に誘導されて中へ。
色々と説明してくれているホテルの人を尻目に隣で無言で歩いてい
る彼に話しかける。
﹁お腹すいた⋮﹂
﹁あれだけ食ってもう腹が減ったのか﹂
結婚式は1日がかり。準備を入れたら1ヶ月がかり。それでも多分
足りなかったと思う。
あのパーティの場で結婚式を行うと宣言したからにはケチらず豪華
に、下手な事はできない。
義両親は大ハリキリで会場を確保し招待客を絞り。食事のコース選
びから引き出物から
どこに誰を座らせるかとか。はては余興をどうするかまで。
104
まるで自分たちが式をするんじゃないかと思うくらい積極的に行動
していた。
﹁もうって言いますけど食べたの8時で今13時ですからね?5時
間も経ったら普通お腹すきます﹂
新郎さんはその辺まったく興味ナシでマイペースに自分の仕事をし
ていて、
私はまだ子どもだからわからないだろうと言われて決まったことを
聞かされるだけ。
白無垢は久我家に嫁ぐ者が代々着てきた伝統のもの。披露宴用の着
物は義母が選んだ。
﹁ドレス無くてよかった。あれこれ着るの面倒すぎる⋮疲れる。⋮
⋮早く脱ぎたい頭重たい﹂
﹁後は披露宴だ。お前は色打掛に着替えてこい﹂
﹁ご飯ですねっ﹂
﹁違う。披露宴だ。いいか、俺が良いと言うまではお前は水以外を
口に入れるな﹂
﹁目の前にご飯があるのに食べられないんですか?披露宴って何時
まであるんですか?﹂
﹁水さえ飲んでおけば10時間ぐらい食わなくても人は死なない﹂
10時間。今5時間我慢してるからあと5時間。気が遠くなるんで
すけど。
やっとホテルに入り案内されるままに別室へ移動。やっと白無垢か
ら開放されたと思ったら
今度は色味の鮮やかな派手な着物にかわり、髪も綺麗に整えて飾り
をつけてもらった。
お化粧ももう一度、こんどは披露宴仕様で。
105
地味な私が気持ち悪いくらい派手な顔になってやっぱりプロは凄い。
全ての行程を終えて披露宴会場の準備が整うまでのちょっとだけ時
間が空いたので
椅子に座って休憩。
﹁律佳。ああ、良い式だったな。さすが久我家の結婚式だ、品があ
ってカネがかかってる﹂
﹁お父さん﹂
そこへ来たのは父親。
柊家の親類関係は会社の借金のお願いとか姉の事件で疎遠となって
しまった。
全然人が居ないのは見栄えが良くないということでお金で雇った人
たちが自然に
違和感なく親族席に座っている。久我家ときちんとした﹁契約﹂を
結べた今、
そんな事は父にとってはどうでもいいのだろう。
﹁律佳。お前はもう完全に久我家の嫁なんだから一日も早く子ども
を作るんだぞ。
そうすればあちらの両親もお前をずっと大事にしてくれるからな﹂
﹁⋮はい﹂
この人は最近それしか言ってない気がする。
﹁この調子で会社も軌道に乗せて盛り返さないとな。良かった良か
った。お前は本当に良い娘だ﹂
こんな人でも披露宴の最後には
106
育ててくれてありがとうございましたと皆の前で言わないといけな
い。
﹁用意は出来たのか﹂
﹁これは綺斗様。いやあ、本当に良い式で﹂
﹁二人にして貰ってもいいですか﹂
﹁は、はい。どうぞどうぞ!⋮⋮わかってるな律佳﹂
ノックもなしに部屋に入ってきたのは綺斗。不愉快そうな顔をして
父をさっさと追い出す。
﹁おい、塩をまいておけ﹂
﹁次から用意しておきます﹂
向こうは羽織っていたものが少し明るい色になって
久我家の家紋つきになっているくらいしか変化なし。男の人は楽で
いいと常々思う。
化粧もしなくてもいいし。頭も重たくない。
﹁定番の柄だな。良くも悪くも平凡だが質は悪く無い。こんなもの
か﹂
﹁綺斗様が選んでくれたら良かったのに﹂
﹁俺は自分の作品しか着せない。1ヶ月ではとうてい無理だ﹂
﹁あっという間に結婚式ですものね﹂
ある日いきなり親に結婚相手が決まったと言われて一度顔を出した
らその翌日には
慣れてもらうのに家に来いと言われて二ヶ月一緒に生活してもう結
婚式。
それはこの人だって同じのはずだけど。
107
怒ってないし不服そうにも見えないのは結婚に興味がないからか。
﹁来い﹂
早いものだとしんみりしていると手招きされたので立ち上がり彼の
前に立つ。
軽く彼の手が私の頬を撫でて、そのまま少し下へ移動し首を軽く締
める。
一瞬ビクッと体が震えたけれど今はまだ彼は私を殺さないと分かっ
ているから。
身じろぎもせず、じっと彼を見つめ返した。
﹁お前は俺の言葉だけ聞いていればいい、他は取るに足らん雑音だ。
いいな﹂
﹁はい。旦那さま﹂
素直に返事をしたのが良かったのか首から手が離れて今度は腰を抱
き寄せられてキスされた。
そんなタイミングで時間ですとホテルの人が呼びに来て、ついでに
私のお腹も鳴ってしまう。
披露宴では音を出すな我慢しろと怒られたけど腹の虫を我慢するっ
て無理だと思うんです。
結婚式って女にとって憧れのもので、私にとってもチョット前まで
は夢のようなものだった。
けど現実は違う。目の前のご馳走を前にして我慢する、空腹との戦
いだった。
﹁やっと終わったな。まったくアホらしい儀式だ。1日を殆ど無駄
108
にした気分だ﹂
﹁大きくて美味しそうだったのに⋮エビフライが冷えててまずかっ
たです﹂
﹁俺の分まで平らげておいて文句言うなガキ﹂
全てを終えたらそのままホテルのスイートルームにお泊り。疲労困
憊で二人ベッドに倒れ込んだ。
披露宴が終わっても挨拶に来る人や酒を勧めるの人やらで何時間も
身動きが取れず、
あいさつ回りもさせられて。限界で泣きついたらやっと少しだけな
らと許可をもらって食いつなぎ、
完全に終わってから一気に食べたらかきこみすぎてお腹が苦しくな
った。やっぱり怒られた。
﹁新婚旅行とか用意してくれてるんでしょうか?食べ物が美味しい
場所がいいですね⋮﹂
﹁本当に食うことに脳が集中しているんだな﹂
﹁他にもありますよ﹂
﹁何だ﹂
﹁寝る⋮とか﹂
﹁お前それでも人間なのか﹂
﹁今までそんなじっくり自分のことなんて考えた事ないからわから
ないだけです﹂
ただ何となく生きてて、やっと希望を見出して、捨てられて。自暴
自棄だったとも言えるけど。
﹁少しは頭を使え。その歳で家畜並みの思考回路でこの先どうする﹂
﹁それは自分でも思っているので今後はもう少し社交的な人間にな
るように頑張ります。
109
姉みたいに、⋮というのは難しいけど﹂
花嫁の癖に疲れとか緊張とか空腹も手伝って最後の方は笑顔も出来
ずに
ひどい顔をしていたと思う。久我家の皆さんはさすが場慣れしてい
るのか
一定のテンションを崩さずに笑顔で最後までやっていた。つくづく
自分は人前とか
華やかな場所に向いてない。姉の真似でもしてみたら少しは改善す
るだろうか。
﹁この先嫌でも学んでいくだろうからな。外面は良いに越したこと
はない﹂
﹁はい﹂
﹁明日は特に何も考えてないが、お前はどうするんだ﹂
﹁えー⋮っと。特に何も考えてないのでとりあえずごろごろ寝てま
す﹂
﹁お前、やっぱり死んだほうがいいんじゃないか。なんだその空っ
ぽの返事は﹂
﹁えっそ、そうですか?じゃあそうしようかな﹂
﹁もういい、寝るぞ﹂
﹁はい﹂
110
そのにじゅういち︵後書き︶
ここで一区切りです。
111
⃝そのにじゅうに
結婚式の余韻なんて感じる事無く綺斗は朝からファッション誌の取
材で居ない。
何でも若い女性に向けての着物特集で次回は簡単なレクチャーなど
もするらしい。
それは今までもやってきたこと。だけどいつになく乗り気ではなか
ったのは
取材が苦手とか嫌いだからじゃなくて﹁アイツラはプライベートま
で覗き込もうとする﹂から。
なにせ最初のオファーが﹁若奥様とご一緒に﹂だったらしくそこは
彼が速攻で断っていた。
﹁まずはご結婚おめでとうございます久我先生。新婚ホヤッホヤの
楽しい時に
朝から取材なんて野暮な事をお願いしてしまって申し訳ありません﹂
﹁いえ﹂
﹁ここ最近の新作モデル、殆どプロを使わず奥様がなさってますよ
ね?それはやはり愛しい
奥様をイメージしてデザインなさっているということですか?ふた
りの愛の結晶みたいな?﹂
﹁そんな大層なものではありませんよ、ただ身近な者でモデル代を
節約しているだけです﹂
﹁幾らだって先生の作品を着たいモデルは多いでしょう。この前も
とある超人気女優が授賞式に
着るのに特注オファーしたとか。なにより先生自身まだまだお若い
上に大変な男前ですから、
結婚と聞いて泣いた女子は多かったでしょうねえ。馴れ初めなんか
112
もよかった﹂
﹁仕事を依頼して頂けるのはありがたいです。最近は忙しくて待っ
ていただくことが多くなってしまい
申し訳ないと思っていますが。それでも精一杯の努力はさせていた
だきます﹂
﹁ま、まあ。仕方ないですよ。だからこそ新作が出るたび着られる
奥様は皆の憧れと言っていい﹂
﹁そうでしょうかね﹂
出て行ったきり連絡も何もないけれどそろそろ帰ってくる頃だろう
か。
工房などに寄り道はしないですぐ家に戻ると言っていたから。
﹁いきなり悲鳴を上げるな﹂
﹁⋮す、すみません。びっくりして﹂
作業の手を止めて玄関の様子をうかがいに行こうとドアを開けたら
目の前に居てびっくり。
絶叫まではいかなくてもちょっと声を上げてしまった。
﹁お前が台所で料理をしているとトメが言うから﹂
﹁はい。もうすぐ完成です。私は食べる専門じゃないって所をお見
せしようと思いまして﹂
﹁⋮⋮﹂
あれ、ものすごく疑いの眼差しで見つめてくる。
﹁綺斗様?だ、大丈夫ですよ?何も仕込んでませんから﹂
113
﹁当たり前だ。所でお前。今日の予定を忘れているんじゃないだろ
うな﹂
﹁予定?﹂
﹁この空っぽ頭。今日は俺が戻ったらすぐに茶会へ行くといったろ
!昼飯もそこで食うと﹂
﹁あ。じゃ。じゃあ。これは夕飯にします。⋮⋮食べてくれます?﹂
﹁まずお前が食え。それから考えてやる﹂
不満げな顔をしているがこの感じならお願いしたら食べてくれるだ
ろう、たぶん。
作業を終わらせて片付けもして後はトメさんに事情を説明してから
出かける準備。
綺斗も着物に着替えるため私の着付けはウメさんがそつなくしてく
れた。
今回のお茶会は懇意にしている呉服屋さんが主催者。関係者だけで
なく上客も招待され
お店の人間とお客様の情報交換や交流を目的として定期的に行われ
ているようだけど、
私は初参加にも関わらず久我家の若妻として皆さんに挨拶するのと、
新作の着物を着て
さりげなく宣伝をするという重大な任務がある。
﹁どうかしました?﹂
﹁今日はやけに化粧が濃いな﹂
﹁顔が地味ですから。これくらいしないと、お大勢の人前に出るわ
けですしね﹂
﹁お前は表情が乏しいだけで顔の作りはいたって普通だ﹂
﹁頑張ってニコニコしてます﹂
114
準備を終えて車に乗り込み茶会の場である呉服屋さんの所有する別
宅へ。
閑静な住宅街の中にあるお屋敷。元は豪商の家だったのを買い取っ
たらしい。
周囲は近代的なお家ばかりなのにここだけ時代劇の舞台みたいだ。
広い庭には茶会の席が幾つか設けられていて植えられた花も綺麗に
咲いて、皆さんも着物。
最近着付け教室に通いだしたような素人の自分が会場へ入るなりそ
んなベテランさんの視線を
集めるのはそれがデザイナー久我綺斗の妻であり着ているのが彼の
新作だからだろう。
久我先生は大人気なのであっという間に取り巻きが出来て、私は少
し後ろで待機。
してたけど茶会なので色とりどりの美味しそうな茶菓子が目を引く。
見るだけならいいよね
ちょっとくらいならフラフラっとしてもいいよね?旦那様は暫くは
自由にならないだろうし。
﹁やっぱり情報は間違ってなかった。君だった﹂
甘い匂いに釣られてふらふらと人の輪から離れていったら突然そん
な言葉をかけられて、
恐る恐る振り返る。こんな親しげに私に声をかけてくる人なんて居
ないはずなのに。
﹁⋮⋮え﹂
115
そこには和装ではないけれど十分な品を持つ美しい王子様が居た。
﹁ずっと君に会いたかったんだ。でも、家族に妨害されてしまって。
よかった会えて﹂
﹁智早様﹂
﹁律佳ちゃん、嬉しいよまた名前を呼んでくれて。ずっと君をさが
してた﹂
﹁⋮⋮﹂
私の顔を見てそんなに感動?したのだろうか声は震えていて表情は
今にも泣いてしまいそうなくらいだったけれど。それすら美しいと
思ってしまう。
女性みたいな訳でもない、立派な男性のはずなのに。
﹁その着物も髪飾りも素晴らしいね。君に合ってる。綺麗だ。まる
で﹂
﹁誰かと思ったら一条家のご長男ではありませんか﹂
﹁綺斗様﹂
智早が一歩私に近づいた所で綺斗がその間に入り、鋭い視線を彼に
向けた。
口調は一応柔らかいままで。だけど表情からは敵意しかない。
﹁由緒正しい一条家のご長男様。人の妻をいやらしい目で見るのは
やめて頂けますか?﹂
﹁失礼は承知でお願いする。彼女と話をさせてもらえないか、少し
でいいんだ﹂
﹁お断りします﹂
﹁頼む﹂
﹁これ以上妻には近寄らないでください。なんなら警察でも何でも
116
呼んでいいんですよ﹂
﹁⋮⋮、わかった。ではまた日を改めるとしよう。また会おう律佳
ちゃん﹂
視線を私に向けそう言うと智早はその場から去っていった。
117
そのにじゅうさん
﹁何だあの頭のおかしい男は﹂
智早が帰ってから表向きは何もなかったように振る舞いながらも予
定よりも早く切り上げ
家には帰らず工房の二階へ連れてこられた。一階ではお弟子さんた
ちが作業をしている音がする。
無言で着物を脱がされて肌襦袢だけになって、立っている彼の前に
正座して。
旦那さまによる尋問の始まり。
﹁⋮⋮﹂
確かにあの状況は二人の間に何かあるのかと疑われても仕方がない
けど。
﹁まさかあれもお前の愛しい男だったなんて言わないだろうな﹂
﹁⋮⋮﹂
彼は私の正面で膝をつき目をまっすぐに見つめ問い詰める。それは
もう鋭い視線で。
﹁あれは何人目の男だ。他に誰が居るんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁黙ってないで何か言え聞こえてんだろっ﹂
118
苛立った顔で思い切り胸ぐらを掴まれて引き寄せられ体勢が大きく
崩れて。
﹁今思い出してるんです!ちょっと黙ってください!﹂
﹁はあ?﹂
私はその掴まれた手をペシペシと叩く。
いちじょうちはや
﹁一条智早様。知ってますよね?姉の元婚約者。何度か会ったり
食事したりはしましたけど、あの人は姉にしか興味ないってくらい
ベッタリであんな事
初めて言われたんですから!こっちが意味不明なんです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何かあったかなって思い出そうとしたけど何もないし強いて言う
なら桜餅食べてない﹂
お茶会なのにお茶も飲めず茶菓子も食べられないままここまで連れ
てこられた。
お昼ごはんだってどうなるかわからない。そもそも姉の事件後一条
家の人間と
関わることなんてなかったし私自身大事な人を失ってそれどころで
はなかったから。
智早は名門中の名門一条家次期当主。頭脳明晰な上に女からみても
美しく
その上誰にでも隔て無く優しくしてくれる、まさに理想の王子様だ。
姉がその心を射止めた時はちょっとだけ悔しい気持ちはあったけれ
ど、自分には眩しすぎるし
遠くから眺めているのが一番良いと思っていた。好きな人もその後
に出来たし。
119
﹁あの男が勝手にお前に懸想してるっていうのか?
まるで恋人と再会したような顔をしてお前を抱きしめそうだった﹂
﹁そう言われても。私あの人とそんな関係ないです婚約者の妹とい
うだけですし﹂
﹁なるほど。今のあの男にはそれで十分なんだろう。お前たち姉妹
は似ていない訳でもない。
だからといって妹に手を出そうなんて、気持ち悪い話だが﹂
﹁智早様、私をみて泣きそうな顔をしていた。ずっと私を探してた
って。やっと会えたって﹂
﹁今更出てきて何を寝ぼけたことを。完全にイカレてるな﹂
妹である私に会いたかったのかそれとも綺斗の言うように姉の面影
を探していたのか。
どっちにしろ酷く疲れているようだった。私を見ただけで泣きそう
になってしまうくらいに。
また会いに来るようなことを言っていたけど私としては波風を立て
てほしくない。
一条家の人たちはもう柊家の者とは関わりたくないだろうし久我家
の人間だって面倒は嫌だ。
﹁でも、あの人も同じなんですよね﹂
裏で親の思惑が絡んでいたとしてもお互いに仲が良くて理想のカッ
プルだったと思う。
結婚してもきっとうまくいく、子どもだってすぐだろう。周囲はそ
んな未来を疑いもしなかった。
彼自身、そうだったに違いない。純粋に姉を愛し、結婚を誓い合っ
ていたはず。
120
それがある日突然なんの理由も明かされないまま断ち切られてしま
ったのだから
心がおかしくなってしまうのも無理はないし抱えてしまった深い闇
も理解出来る。
私には痛いくらい、分かる。
もしかしたら変な意味はなくて同じ境遇の私と話がしたかっただけ
なのかもしれない。
﹁だったら何だ?あの男の傷をお前が舐めてやるのか?お前の傷を
あの男が舐めるのか?﹂
今度は気持ち悪いくらい優しく抱き寄せると耳元で囁きながら舌で
私の耳から首筋をなぞる。
生暖かい感触が私のこそばゆい所を優しく刺激して。ビクっと体が
震えても距離を取ろうとしても
強く抱きしめられて彼の胸からは逃れられない。
﹁⋮っ⋮っんっ⋮綺斗⋮さま﹂
﹁頭のネジが緩んだ者同士、舐め合いはさぞかし心地いいだろうな﹂
さっき胸ぐらを掴まれて緩んだ胸元をさらに広げられて恥ずかしい
と思う間もなく
更に深く首筋に吸い付かれた。そのまま緩やかに押し倒されて組み
敷かれる。
首筋から顎、そして唇へと綺斗の舌がゆっくりと形をなぞるように
這ってキス。
﹁私には綺斗様が居る。綺斗様が私を生かし殺してくれる。
けど、あの人はだれが救ってくれるんでしょう﹂
121
彼の唇が離れた時、ふと思った言葉がついてでた。
自分のことで精一杯だったけど、あの事件で傷ついたのは私だけじ
ゃない。
智早様も同じだ。私と、同じ。
﹁知るか。勝手に死ねばいい﹂
綺斗に身を任せ甘い愛撫を受けていたら襦袢を解かれてほぼ裸状態
に。
流石にこれ以上となると一階に居る人達に気づかれそうで慌てて足
を閉じる。
それ以上にハジメテをこんな何もない所ではちょっと嫌。
﹁綺斗様⋮⋮だめですっ⋮こんな所じゃ﹂
﹁何処でもやることは同じだ﹂
﹁ごはんたべたい﹂
﹁そんなに食いたいなら口いっぱいに頬ばらしてやる﹂
﹁それお腹いっぱいにならない奴ですよね﹂
言葉と態度で抵抗してみたけど完全に全裸にされただけで止まる事
はなかった。
せめて布団がほしいと言ったらおもむろに押し入れを開けて、優し
いと思ったら
面倒そうに枕だけ投げてきた。やっぱりこんな扱いなんだな、私。
それでも律儀に枕をして寝転んだら私の股を開かせて恥ずかしい場
所を指でなぞる。
﹁せっかく生きているんだ、舐めるならココを舐めてほしいだろう
?﹂
122
﹁な⋮⋮舐めるんですか?﹂
﹁まさか俺にセックスを全部説明しろなんて言わないだろうな﹂
﹁大丈夫ですその辺は勉強してきました﹂
﹁⋮⋮それは面白くないな﹂
﹁え?﹂
﹁真っ白で馬鹿なお前にイヤラシイ行為を仕込んでやりたいのに。
そうだな、俺のコレを
お前の狭そうな中に突っ込むくらいの知識だけあればいい﹂
﹁⋮⋮あ、はい﹂
あの、エッチってそれでエンドじゃないんですか?それ以上の何を
なさるおつもりなんですか?
違う意味でドキドキしながら未だ服を脱がない綺斗に足をM字にさ
せられて弄られる。
ソコを指でなぞられて、恥ずかしい言葉をかけられて、聞いたこと
の無い水音がしてきて。
﹁良い濡れ具合だ。少し舐めてやる﹂
﹁ん⋮あぁ﹂
﹁どうした?そんな呆けた顔をして。期待してるのか?﹂
意地悪く笑みを浮かべながら問いかける綺斗。
認めるのは嫌だけど、彼の舌で愛撫されたらどうなってしまうのか
と期待したのは事実。
でも一階ではあの怖いお弟子さんもいる、あまり大きな声を出して
はいけないと必死に堪え。
﹁⋮⋮綺斗様嬉しそう﹂
﹁別に﹂
﹁⋮⋮﹂
123
﹁笑うな﹂
﹁だって。⋮初めて見るから﹂
笑ったり嬉しそうにしたりは人間だからしているはずだけど、
一緒に居てそんな顔を見たことがなかったから。ちょっと嬉しい。
﹁お前、俺を若い女の体ではしゃぐおっさんだと思ったろ﹂
﹁思ってないです!﹂
﹁⋮⋮萎えた﹂
﹁ええ!まって!綺斗様!⋮な、舐めて﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁舐めてください旦那様﹂
﹁⋮⋮半笑いで言うなクソガキ﹂
﹁そんなこと⋮⋮あんっ⋮あ⋮っ﹂
凄い不機嫌な顔をしながらも舐めてくれました。
ただし、それ以上は萎えたからもうしないと拗ねられてしまって。
着替えの服を渡されてそれに着替えると綺斗はさっさと一階へ降り
ていった。
124
そのにじゅうよん
綺斗に胸や言葉には出来ないような大事な所をネットリと愛撫され
放置された。
見られる恥ずかしさや初めての恐怖もあったけれど最後は気持ちよ
くなってイク時は
つい大きめな声を出してしまった。一階のお弟子さんたちに聞こえ
てなければいいけど。
でも今抱えている問題はそこじゃなくて。
﹁ベトベトする﹂
この部屋でティッシュを探しても見つからないしこのままじゃ出る
ことも出来ず。
自前の服でふくのは嫌だし。
胸はともかく下半身のソコからはべとついたものが出たままで気持
ち悪い。
綺斗はおりていったきり帰ってきてくれないし。
﹁奥様﹂
﹁はいっ﹂
襖ごしに男の人の声がする。お弟子さんの男の方だ。でも今開けて
もらっては困る。
気持ち悪くて下着に付けたくなくて下半身裸のままだから。女の人
でも困るけど
男のほうが遥かに困る。だから慌てて戸を開けられないように手で
ブロック。
125
﹁突然申し訳ありません、どうか聞いてください。先日は妹弟子が
失礼なことを言ってしまい
大変申し訳ありませんでした。あいつに悪気があったわけではない
んです、
ただ久我先生を師匠として深く慕っているだけなんです﹂
﹁あ、あの。いいんです。私は綺斗様に何も出来てないから。邪魔
ばっかりして﹂
﹁そんな事はないんです。奥様の存在は先生にとって﹂
﹁え?﹂
﹁なんでもないです、とにかく申し訳ありません。今度はきちんと
あいつを連れて謝らせます﹂
﹁そんないいですから。お仕事がんばってください﹂
﹁ありがとうございます。それでは、失礼します﹂
謝られてもこっちは特に怒っているわけではないし、困るのですが。
お弟子さんはそう言うと去っていったようで階段を降りる音が微か
に聞こえた。
﹁⋮⋮深く慕える相手が居るっていいな﹂
綺斗の存在は慕っているというか縋っているというか。法的には夫
だけど。
考えているうちに寒くなってきたので仕方なく下着をつけて着替え
る。
様子をうかがいながら一階へおりていくとちょうど上がろうとして
いた綺斗がいた。
そのまま車に乗れと言われて帰宅。
126
﹁おい。そこに和菓子屋がある、味はどうか知らないが桜餅ならあ
るだろ。買ってこい﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁あれだけ散々喚き散らしておいてよく言う﹂
﹁そ、そんな子どもみたいなことしてないです﹂
﹁お前は十分糞ガキだ﹂
﹁買ってきます。お金ください﹂
﹁ほら﹂
突然車が路肩によって、綺斗が指差した先に和菓子屋さん。
お金を貰って美味しそうな和菓子を幾つか買って戻ったら﹁買いす
ぎだ﹂と怒られた。
思いの外色んなお菓子があったのでテンションが上って買いすぎた
かもしれない。
﹁仏壇にお供えします。倖人様と淳希様に⋮﹂
﹁死んだ人間に菓子は必要ない。供えたって腐らせるだけだ、トメ
たちに配ればいい﹂
﹁そう、ですか?﹂
﹁お前はもう少し生きている人間に気を使え。あの家での暮らしが
少しは楽になる﹂
﹁はい﹂
何を食べようかウキウキしながら今度こそ帰路につき。玄関にウメ
さんが居たので
おやつに出してくださいとお願いして、残りは皆さんでと言ったら
凄く喜ばれた。
綺斗とは一旦別れて各々別行動をして一時間ほど経過。
﹁何だ﹂
127
﹁一緒にお風呂とかいかがですか﹂
﹁もういいのか?なんだ、早いな。⋮まあ、いいか﹂
準備が整ったのを確認してから綺斗の部屋へ行きお風呂に誘う。ち
ょっと早いけど
夜まで待てなかった。主に私のヌメった体が。
綺斗とともにここのお風呂に入るのは初めて。脱衣所で服を脱いで。
シャワーを軽く浴びてから湯船に浸かる、予定だったけど。
﹁えっこ、これで?﹂
シャワーを浴びていたら後ろから唐突に壁に手を付けと指示されて
続いてお尻を突き出したら腰を掴まれて、何か固いモノがお尻に当
たる。
もういいのか?というのはもしかしてそういう意味でしたか!?
﹁続きがしたかったんじゃないのか﹂
﹁⋮⋮でも綺斗様いじけちゃって﹂
﹁一気に根本まで挿れる。痛くても我慢しろ﹂
﹁ままま待って!待ってください!もう既に⋮入り口から既に痛い
っ⋮ぁあああっ﹂
﹁大げさに騒ぐな﹂
こういうのはまず愛撫が大事だと聞いている。初めてならなおさら
丁寧に。
愛撫されてぬめりけがあったとはいえそれだって時間差があるのだ
から。
せめてもう少しゆっくりとお願いしたい。
けどグイグイと熱くなったモノが入り口から中へ中へと強引に押し
寄せる。
128
﹁も⋮⋮もう⋮⋮全部?﹂
痛い。もうだめ。息も絶え絶えに振り返る。
﹁半分も入ってない﹂
﹁じゃあ後半分は向かい合って挿れてください。初めてなので。そ
の。顔を見てしたいです﹂
﹁一旦抜く﹂
続きをしたいとかそこまで計算したわけじゃなかったけれど、もし
かしたら愛撫の余韻?
かも。ここでようやく初えっち。今のところ怖いのと痛いのしか分
からない。
でも初めては誰だって痛いって怖いって聞いた。
壁に背をつけて勇気を出してこれから一つになる相手、綺斗を見つ
める。
﹁でかい﹂
人間、本気でびっくりすると本音が口から飛び出すらしい。
﹁人の性器を凝視するな好きなのかお前﹂
﹁い、え。あの。はじ、はじめてで﹂
﹁まだそこまで勃起もしてないんだが。⋮⋮さて﹂
﹁南無阿弥陀仏﹂
﹁ああ死ね死ね﹂
その前に股をかせと乱暴に言われぎゅっと抱きしめられて。股の間
に固いのが入ってきた。
129
といっても私の中に入ってくるわけじゃない。私の感じてしまう突
起部分を擦るように。
綺斗が軽く腰を動かすたびにそれが気持ちよくなってきて。ぎゅっ
と抱きつく。
﹁あ⋮き⋮きもちいですね⋮こ、これがセック﹂
﹁そんなわけないだろ、俺のでこすってるだけだ。お前は時間がか
かりそうだからな。
まずはこうして馴染ませていく。⋮⋮俺の形も熱もしっかり覚えて
おけよ﹂
﹁はい⋮⋮綺斗様﹂
耳元で囁かれても余計に体がゾクゾクするだけ。興奮しているのだ
ろうか?
いつの間にか浅く中を突かれても痛みがなくて、もっと欲しとさえ
思ってきて。
頭がふわふわして気持ちよくてなんだか変な感じ。自分にこんな面
があるなんて。
﹁お前はよくても俺はそこまで気持ちよくないんだ。イったらちゃ
んとお前もやれ﹂
﹁気持ちいです綺斗様。こうしてくっついてるのも。こすってもら
うのも﹂
﹁そうか﹂
﹁あ⋮⋮あ⋮ん⋮あっ﹂
﹁いやらしい声出しやがって⋮⋮ねじ込むぞ﹂
﹁⋮ん⋮だめ⋮⋮まだ⋮イクのやだ﹂
﹁煩いさっさとイけ﹂
今まで悩んできた事、新しく出てきた問題。
130
全部頭から抜け落ちてただひたすらに綺斗との行為だけ考えてる。
どうしよう、痛くてもその先へ進みたくて仕方ないなんて。
131
そのにじゅうご
少しずつ綺斗と体の距離が近づいて、最初ほど彼を恐れなくなって
きた。
相手の態度は相変わらずでも。
﹁人のベッドを散らかすな﹂
﹁海外ですよ?色々と心の準備したいじゃないですか﹂
綺斗は忙しそうにずっと無言で机に向かっていたがそろそろ眠るつ
もりか振り返って一言。
だけど彼のベッドには海外旅行の手引やら観光マップやらがずらり。
義両親から新婚旅行の行き先を聞いて資料をもらったり私が準備し
たものたちだ。
﹁海外なんて行く気はない。お前一人で行け﹂
﹁え。良いんですか?じゃあ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁嘘です。すいません﹂
急いでベッドに散らかしたものを片付けて隅に置いたらちょっと不
機嫌な顔をして入ってくる。
結婚しても基本部屋は別々で私が彼の部屋に来ることは許されても
移住は許されないけれど
それで困ることもないし、お互いに自分だけのスペースがあるほう
が落ち着く。
義両親からは色々と二人になることを提案をされるけれど彼はそれ
を気にもしない。
132
﹁どうせ俺を仕事から引き離して子どもを作らせようと思ってるん
だろうが﹂
﹁子ども。⋮⋮そっか。子どもか﹂
﹁俺の作品が真っ当に評価されてこれからって時に呑気なことをし
てられない﹂
﹁大丈夫です。私、海外は結構行っているし英語も片言ならなんと
か﹂
﹁だったら海外なんて何時でも行けるな。適当に温泉でも行って饅
頭でも食ってろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
やっぱりこの人が海外なんて連れて行ってくれるわけないか。
テンションをあげてみたり資料とか見せたらもしかしたらと期待し
たけれど。
やっぱりな返事が来てちょっと残念。温泉でお饅頭も魅力的ではあ
るけれど。
﹁お前だって一日ずっと俺と居ても仕方ないだろ﹂
﹁まあ、それはありますけど﹂
今まで一日をずっと一緒に過ごしたことなんてない。どんな感じか
想像もつかない。
常に忙しそうに仕事をしている綺斗。家の用事とアルバイト以外特
にすることもない私。
手伝いなんて出来っこないし邪魔になると分かっていて彼に構って
欲しいとも思ってない。
その辺は夫婦になったといっても特に変化なくあくまで他人同士で
淡々としていると思う。
133
﹁寝る。お前も明日からあの店に行くんだったな﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮、海外は何時か気が向いたらな﹂
﹁綺斗様﹂
﹁電気消せ﹂
と思ったけど、やっぱりちょっとは違うかもしれない。
﹁りっちゃん。今日からまたよろしくお願﹂
﹁りっちゃん!久我先生と結婚したって本当なの!?あの久我綺斗
先生なの!?﹂
﹁お前落ち着け。ごめんな、こいつ話をしてからずっとこの調子で﹂
久我家を適当な理由で抜けだしてやってきた数カ月ぶりのアルバイ
ト。
ドキドキしながら出勤するといつものようにマスターが笑顔で迎え
てくれて。
あと、今日はやたら興奮気味な奥さんも一緒。
﹁はい、この度久我律佳になりました。不規則な時間で申し訳あり
ませんがまた
アルバイトとしてよろしくお願いします﹂
﹁そ、そんな。りっちゃんがアルバイトしないと駄目なくらい大変
なの先生⋮
たしかお家は大層な旧家だって聞いてたけど﹂
﹁金の問題じゃないんだよ。りっちゃんはまだ若いからね、社会経
験として﹂
﹁先生はここへいらっしゃるのかしらね?﹂
134
﹁お店のコーヒーを気に入っていたので、たぶん来る⋮と思います﹂
﹁あなた!私美容院行ってくる!﹂
﹁待て待て待て。先生はお前を見に来るんじゃないんだよ。りっち
ゃんを見に来るんだから﹂
マスターの静止も聞かず奥へ引っ込んでしまった奥さん。おそらく
サロンに予約中。
呆れている旦那さんを他所に私もいったん奥へ引っ込んで着替えを
済ませる。
着替えと言っても伸ばしている髪をしばってお店のエプロンをつけ
るくらいだけど。
﹁奥さん行っちゃいましたね﹂
﹁まあ居ても煩いだけだからちょうどいいさ。本当にミーハーで困
るよ﹂
そう言いながらもちょっと笑っていて心ではそんな奥さんを可愛い
と思っている。それがマスター。
仲良しの夫婦のお手本のようで羨ましい。少し前までは自分も短大
を卒業したら愁一さんと結婚
してこんな風に歳を重ねていける良い夫婦になると想像してた。
﹁だめだ。仕事仕事。⋮笑顔で接客しなきゃ﹂
玄関先の掃除をしてテーブルを綺麗にして、常連さんが来たら笑顔
で接客。
店内は程なくしてコーヒーの良い香りと常連さんとの楽しい会話、
つけっぱなしのテレビから
流れるニュースでまた話題が出て賑やかに。最初こそ焦ったり戸惑
ったが今はそんな小さな
135
ふれあいも楽しいと思えるくらいには余裕がある。
﹁こういうお店は初めて来るんだ。何か変なことをしていたらごめ
ん﹂
﹁い、いえ。あの。⋮何にしましょうか﹂
異世界に迷い込んできた王子様がご来店。
﹁あ。うん。⋮コーヒー⋮⋮だけでは何だから、そうだな。えっと﹂
﹁無理に注文していただかなくても。コーヒーだけで﹂
﹁パンケーキ﹂
﹁え﹂
﹁パンケーキ⋮⋮で﹂
﹁コーヒーとパンケーキですね、少々お待ちください﹂
こんな目立つ人をこの狭い空間で見間違えるわけがない。最初は夢
かと思ったけど。
会いに来るとは言っていたがまさかこんな早く来るなんて。
あの茶会からまだ3日。
どうやってここを調べたのかも不明だけど、金と人脈のある一条家
ならそれくらい容易いのかも。
カウンターに座らせるわけにはいかなくて奥の席でソワソワしてい
るのは間違いなく一条智早。
﹁あのお客さんこの辺じゃ見ない綺麗な人だね。俳優さん?りっち
ゃんの知り合いかい?﹂
﹁俳優さんじゃないんですけど、まあ、知り合い⋮です﹂
﹁そうか。りっちゃんの周りは華やかなんだねえ﹂
﹁⋮⋮そうでもないです﹂
136
側にいる人は見た目も仕事も華やかなのかもしれない。だけど私自
身はあまりにも普通で、
華やかな世界にかすりもしない。そしてそんなものには興味もない。
私だけ暗い世界に居るんですとはさすがにマスターには言えないの
で笑ってごまかす。
﹁律佳ちゃん。この前はいきなり申し訳なかった﹂
﹁智早様、そんな頭をあげてください﹂
﹁探していた君に会えたのと、その、君の着物姿が⋮⋮美鶴に少し
似ていて。
動揺してしまった。そんなつもりじゃなかったんだ、けど。どうに
も出来ずに﹂
コーヒーとパンケーキをテーブルに置いたら突然頭を深々と下げる
から慌てる。
そして、やはりこの人は私に姉を見ていたらしい。
そんな似せた自覚はなかったけれど、着物だから?化粧を濃い目に
したからだろうか。
﹁温かいうちにどうぞ。どちらも美味しいですよ﹂
﹁ありがとう﹂
優しく微笑んで優雅にナイフとフォークを手にする様は本当に品が
あってお美しいけれど。
カップもお皿もこのお店の奥さんが作ったちょっと不格好なものな
ので若干申し訳ない。
その清らかな空気につい立ち止まってしまうけれど、ここはお店で
私は店員。
いつまでもそばに居てもヘンだから一旦下がって他のことをする。
137
そのにじゅうろく
﹁何だ。その顔は﹂
﹁い、いえ。あの。⋮迎えに来てくださった感じですか?﹂
﹁そうだ。お前が徒歩で出ていかなければこんな面倒せずにすんだ﹂
﹁すみません﹂
あっという間にバイト終了の時間が来てお店の裏手から出ていこう
としたら見覚えある
気がする車。まさかあの人がそんな事をするはずないだろうと足早
に遠ざかろうとしたら
すごい勢いでドアが開いて﹁乗れ﹂と不機嫌な顔をした綺斗に呼ば
れ駆け足で助手席に座る。
﹁⋮⋮本当はもう少し早く着く予定だった﹂
﹁⋮⋮﹂
それってもしかして店の中に入ろうとしていたということ?だとし
たら心のなかで安堵する。
もし店に来ていたらあの人と鉢合わせて微妙な空気になってしまい
そうだから。
来たからって別に智早は何もしてない。
ただ、コーヒーとパンケーキを注文して美味しそうに食べて帰った
だけ。
お口にあったようでとても嬉しそうな顔をして﹁また来る﹂と言っ
ていたけれど。
お客様に来るななんて言えないし。帰り際、マスターにチップを渡
138
そうとして
ぽかんとされてたのを必死にフォローした。
﹁俺の顔を見て嫌そうな顔をしたと思ったらニヤついて。変なヤツ
だ﹂
﹁む、迎えに来てもらって嬉しいだけです⋮よ?﹂
﹁そうか。お前頭大丈夫か﹂
﹁まだ大丈夫です﹂
顔色をコロコロとかえたらヘンに見られるのは分かっているけれど、
仕方ないじゃない。
この僅かな時間で状況がどんどん変わっていくのだから。
だけど素直に迎えに来てくれたのは嬉しい。たぶん、バイトを再開
した初日だから
少しでも様子を見に来ようとしてくれたのも。
もし来てたらサロン帰りの奥さんに質問責めと写真攻撃と握手と面
倒だったろうな。
﹁綺斗。どういうつもりですか?せっかく新婚旅行を手配したのに、
行かないなんて﹂
夕飯の献立が何か考えながら一緒に玄関に入ったら鬼のような形相
の義母が仁王立ち。
思わず私は体が固まる。もしかしてバイトがバレたのかと冷や汗を
かいたけれど、
どうも違ったようでほっとする。いや、そうでもないか。
すっかり忘れていた。旅行を用意したのは義母。綺斗がどう断った
かは分からないけど、
下手な嘘はついてないだろう。ただ忙しいという理由で断られたら
139
普通は怒る。
﹁何ですかいきなり。玄関で話すことでもないでしょう?それに新
婚旅行については最初から海外は
無理だと言っていたはずですよ。それを無視なさったのはそちらの
不手際なのではないですか﹂
﹁その際に言いましたよね?貴方には部下も居るのだから1週間く
らい仕事を休みなさいと﹂
﹁そのお話について一度も頷いた覚えはございません。それに新婚
旅行でしたら律佳と話をして
場所も決めておりますので﹂
﹁あら、そうなの?律佳さん。私はその話を聞いていないけれど﹂
﹁は。はいっ⋮すみませんお義母様。あの﹂
不味い矛先がこっちにきた。
﹁律佳さんも若いのだからもっと積極的に綺斗に関わって頂かない
と困ります。
旦那様をもっと立てて盛り上げてくれないと何のための嫁なんだか﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁母さんは何時からそんな下世話な事を平気で口にするようになっ
たんですか?﹂
﹁なんですって!私は貴方のことを考えて言っているんですよ綺斗
!﹂
﹁心配しなくても律佳とは定期的にセックスしていますから。避妊
具もつけておりませんし。
これでご満足でしょう?もう部屋へ戻ってもよろしいでしょうか?
時間はとても貴重なものですよ﹂
﹁⋮⋮、本当に貴方という子は。⋮⋮勝手になさい!﹂
140
終始ビジネス用の笑みを浮かべた綺斗に押し負けた義母はさっさと
部屋の奥へと去っていく。
萎縮していた私を他所に綺斗はさっさと靴を脱いで部屋に上がって
いった。慌ててそれに続く。
﹁良かったんですか?お義母様ものすごく怒ってましたけど﹂
﹁何を責められることがある。言われたことは全てやってるだろ﹂
続いた勢いでそのまま綺斗の部屋に入ってソファに座ったけれど、
特に何も言わなかった。
机に向かって何やら作業中。今日また新しい作品のオファーが来た
そうだ。本当にお忙しい先生。
この調子でこれから久我家の当主として幾つもある会社を経営なん
てしていけるのだろうか。
﹁それはそうですけど﹂
﹁お前は子どもを宿さないかぎり睨まれ続けるだろうがな﹂
﹁⋮⋮それが仕事みたいなものですしね﹂
健康で若くて、金に困ってるから何をされても逃げ出さない従順な
嫁。
﹁適当にはぐらかしておけば近いうちに死ぬ﹂
﹁でもそうなったら私もう要らないかな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私なんかは代わりが効くけど綺斗様は代わりのない大事な後継者
ですし﹂
あくまで契約したのは私の父親と綺斗の両親。その両親が亡くなっ
たら
141
恋愛感情のない結婚をしている意味もなくなるのだろうか。
バツがついてもそこまで白い目では見られないだろう。父親は気に
するだろうけど。
でももし、綺斗にお前はもう用済みだと言われたら従うしかないよ
ね。
﹁真面目に考えても馬鹿を見るだけだ。絶えるならさっさと絶えれ
ばいいこんな家。
遡れば皇族に行き着く一条家と違ってうちは新興の分家の成り上が
りだからな﹂
﹁綺斗様﹂
﹁今は深く考えず適当にやっていればいい﹂
その一条家の人と話をしたことを彼に言うべきなのだろうか。
ただ客として寛いでいって帰っただけだけど、でもどうしよう。言
わないと後で怒られる?
また来ると言っていたから何時かは分からないが鉢合わせた時の気
まずさを想像すると。
ここは下手に隠さずに先に言っておくほうが吉だ。
﹁綺斗様、あの﹂
﹁電話だ。少し黙ってろ﹂
何でこのタイミング。
真面目な顔で話をしているからたぶん仕事のことだ。電話が終るま
で息を殺して待機中、
自分が持ってきて回収し忘れたカリブの特集記事を発見し眺める。
海外はいつか旦那様の
142
気が向いたら行けるらしいけれど。
それまでちゃんと夫婦として私たちは存在しているのだろうか。
﹁⋮⋮お腹すいた﹂
とりあえず、夕飯が待ち遠しい。
143
そのにじゅうなな
﹁出かけてくる﹂
﹁こんな時間にですか﹂
電話を終えると立ち上がり出かける準備を始める綺斗。さっき戻っ
て来て机に向かったのに、
何か仕事のトラブルだろうか。そこまで焦っている様子はないけれ
ど彼が行かないと駄目な
事態なのは確か。玄関まで行かないにしろ座ったままは行儀が悪い
だろうと慌てて立ち上がり
雑誌もてきとうにソファに置いてお見送り。
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?﹂
そのままさっさと出て行くかとおもいきやこっちをじっと睨んでい
る。
﹁⋮⋮﹂
﹁どうしたんですか?何かありました?﹂
﹁⋮⋮、⋮いや。一時間ほどで戻る﹂
でも結局何も言わずに出て行ってしまった。何だろう?何があった
んだろう?
あの電話が理由?それともまた別のこと?
彼が私を何か言いたげに見つめるなんて今までなかった。言いたい
ことがあったら
144
こちらの気持ちなど気にせず言ってきたから、何か深い意味がある
んじゃ。
﹁綺斗様!﹂
﹁⋮何だ﹂
﹁わ、私も。私もついて行きたいです﹂
﹁は?﹂
気になったら止まらなくて、気づいたら彼を追いかけて急いで走っ
ていた。
﹁外には出ません車で待ってますから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そ、それに。私一人にされちゃったらお義母様とご飯になっちゃ
って大変だなって﹂
﹁⋮⋮、⋮乗れ﹂
﹁はい﹂
玄関から門まで距離があってよかった。もう少しで外に出るという
所で綺斗と合流し
ついていくことに成功。車に乗せてもらって行き先は不明だが出発。
義母と食事したくないというのもあったけれど。やっぱり何かあっ
たのか知りたい。
仕事上のトラブルでも何でも、私に視線を向けた意味が知りたい。
何か出来るのならする。
﹁付いてきたからにはお前も隣りに座って聞いていろ﹂
﹁え。いいんですか?でもお仕事の話は私にはさっぱり﹂
﹁仕事の話じゃない﹂
﹁あっ⋮⋮か、隠し子とかですか﹂
145
﹁良かったな。運転していなかったらお前のそのアホ面に拳骨をめ
り込ませる所だ﹂
﹁そうですね﹂
仕事のトラブルでもなければ女関係でもないと。じゃあ何だろう?
不思議に思っていたら車は普段通ることのない区画へ入り、古風な
和菓子屋さんへ。
まさかの和菓子?と思ったがすでに営業時間は終了しておりその裏
手から手引されて
庭にある小さな、けれど立派な作りの茶室へと通された。
まさかの御茶会にしては他に客は居ないし、そもそも主催者が誰か
もわからない。
﹁律佳ちゃん?君もきたのか﹂
﹁智早様!?﹂
綺斗の隣に座ってじっと待っていたら入ってきたのは智早。
﹁久我君。僕は君とふたりで話しがしたいと言ったのだけど、どう
いうおつもりかな?﹂
﹁付いてきたいと言って聞かないので。貴方が何をなさるのかは存
じ上げませんが、
やましい事をする訳ではないでしょうから別にコレが居ても構わな
いでしょう?﹂
﹁⋮⋮、律佳ちゃん。ごめんね突然。何か飲むかい?﹂
﹁いえ。大丈夫です﹂
喉は渇いてないけれどお腹が非常にすいているので何かお菓子くだ
さい。
と言いたいけど言える空気じゃないのはよく分かっているので黙る。
146
まさか智早が綺斗を呼び出して話をするなんて思わなかったから緊
張して心臓が痛い。
いったい何を話すんだろう?まさか昼間お店に来たこと?
でもそんな事わざわざこんな場所を借りて話すことだろうか?
﹁それで。大事なお話というのは何でしょうか﹂
﹁律佳ちゃんを前にしてこういうことは言いたくはなかったのだけ
ど、仕方がない﹂
﹁⋮⋮﹂
智早様、そんな真剣な顔をして何を言うの?何故私を一瞬見たの?
﹁律佳ちゃんは僕がきちんと幸せにしたい。今すぐには無理だろう
けど、別れてくれないか﹂
﹁智早様?な、なんでそんな事を?私は姉ではないんです、代わり
にはなれません﹂
表情もかえずにあっさりと凄いこと言ってませんか?慌てて身を乗
り出す私に対し
まるでそう言われることが分かっていたかのように綺斗は冷静に座
ったまま動かない。
智早も正座して静かな口調で言っている。落ち着きが無いのは私だ
け。
﹁一条家の次期当主ともあろうお方が、幾らなんでも結婚したばか
りの人間に
別れろとは流石に乱暴ではありませんか﹂
﹁身勝手は承知だ。だけど、君たちは想い合って結婚した訳じゃな
い。
律佳ちゃんには好きな人が居た。彼女の実家が資金繰りに必死なの
147
も知っている。
この結婚は金銭的打算しかない酷いものだ。君も彼女もどちらも幸
せにはなれない﹂
﹁だから貴方がこの可哀想な女を救う王子様にでもなると?お優し
いのも結構ですが、
そこまでするだけのものがこの女にあると本気でお思いですか?﹂
﹁少なくとも君と居るよりは大事に出来る。心の傷を尊重し、側に
いることが出来る。
何れは美鶴や愁一君の事を乗り越えられるようになるはずだ﹂
この人は本気なんだろうと思える真面目な顔でまっすぐに気持ちを
吐露する智早。
だが、綺斗が私の耳元で笑いながら囁く。
﹁この男はよほどお前の傷が舐めたいようだ。お前も⋮⋮舐めたい
か?﹂
同じ傷を持つ者同士だけが共通する痛みがある。終わらない苦しみ
がある。
寄り添って昔話をして笑ったり涙をながし、
故人を恨みに恨めないやるせない思いをぶつけ合ったら少しは傷つ
いた心も
体も癒やされるのかもしれない。
智早は根から優しい人だ。包み込むように優しい甘い愛を与えてく
れるはずだ。
たとえそれが姉の代わりの愛情でも。何れは心からちゃんと愛して
くれそうな気がする。
綺斗はそんなものに興味はないし聞く気もない。ただ自分のしたい
ことをしているだけ。
148
私に構うこともないし、癒やされることはない。
けど。
﹁⋮⋮私は﹂
この場面、このふたり。この空気。どう言葉にしていいか分からず
とっさに綺斗のズボンを引っ張った。
﹁金で女を買うような愛の無いヒドい俺か。初めての女にフラれて
トチ狂った貴方か。
今ここで選ぶのは難しいようですね﹂
﹁倖人から聞いていたよりも随分と酷い物言いをするんだね、綺斗
君﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁彼は何時も君を褒めていたよ。少し素直ではないけれど、根はと
ても優しい良い弟だと﹂
﹁少なくとも貴方の前で良い人間を演じるつもりはないと思ってく
だされば結構です﹂
﹁なるほど。よく分かった﹂
﹁さて、そろそろ帰らせて頂きます。お前はどうする﹂
﹁か、帰ります﹂
﹁では一条様。私どもはこれで失礼します﹂
﹁突然呼び出して申し訳ありませんでした。でも、君の事が少し分
かってよかったよ﹂
﹁それはどうも﹂
﹁律佳ちゃん、時間はかかるかもしれないけど少しずつ距離を縮め
て行こう﹂
﹁あ⋮あの⋮⋮し、失礼します﹂
149
スッと立ち上がる綺斗に続いて歩く。正座で少し足が痺れているけ
ど我慢して。
こんな緊迫した空気の中一人だけ畳に転がり落ちるなんてヒドすぎ
る。
人間緊張すると案外そういうのも堪えられるみたいだ。
﹁⋮⋮おい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おい。まさかお姫様抱っこでも期待しているのか?﹂
でもそれは一瞬だけで外へ出て靴をはいたら本格的に痺れて動けな
い。
﹁だ⋮⋮だっこ﹂
こんな事をしてて智早が出てきたら不味い。もしかしたらの期待も
込めて手を伸ばした。
﹁俺は今最高に機嫌が悪い。そんなクソふざけた事をするなら蹴る
ぞ﹂
﹁足が痺れた﹂
﹁はあ?踏んでやる。踏めばすぐ治る﹂
﹁う、うそ。うそっ⋮⋮あっ⋮あっ⋮ぁああんっ﹂
﹁まだ何もしてないのに喘ぐな﹂
お姫様抱っこの代わりに腕を掴まれて思いっきり引っ張られて車に
戻る。
150
そのにじゅうはち
表向きは久我律佳として何時もと変わらぬヌルい日々を過ごしてい
るけれど。
私を探していたらしい智早に綺斗と離婚してくれなんて話をされて。
何も言えないまま帰ってきた。また何かあるのかとビクビクしてい
たのに
あれから特に何が起こった訳でもなく、店にも智早は来ていない。
綺斗からその話題を出されることもない。彼は仕事で忙しく私に構
う暇はないのだから。
それがいいのか悪いのか。
﹁律佳さん、もっと笑顔作ろうか。俯くのもナシね﹂
今日は懇意にしている呉服屋さんとコラボで作った若い女性向きの
新作撮影会。
モデルとして私も駆りだされて撮影場所である呉服屋さんへ朝から
連れてこられた。
﹁は、はい。すみません﹂
心の切り替えはしているつもりなのに、どうしても笑顔が作れなく
て何度も撮り直した。
こんな素人の為にプロの人に申し訳なかったけれど。綺斗がそばに
居なくてよかった。
居たらきっと凄い怖い顔をして怒鳴られているだろうから。
151
なんとか撮影を終えて休憩に入る。入れ替わりに派手な若いモデル
さんが撮影開始。
﹁どうしたんですか?律佳さん、もしかして調子悪いとか?﹂
﹁すみません。そうじゃないんです、ちょっと⋮何時もと違って、
人が多いですよね﹂
邪魔にならない適当な椅子に座って一息ついていたら
何時もメイクをしてくれる女性が飲み物をくれる。
﹁今回はコラボってことで大々的に宣伝しますからね。テレビCM
も流れるし﹂
﹁CMですか。すごいですね﹂
﹁三人のモデルが三パターンの着物で撮影するそうですよ。その一
人が今日来てる梨華さん﹂
﹁ああ、あの﹂
パーティに来ていた派手な人だ。意味深な笑みを向けてた。
﹁律佳さんは出ないんですか?もう専属みたいなものなんだし﹂
﹁とんでもないです。そんなCMの話も今聞いたところですし﹂
﹁そうなんだ。でも律佳さん私から見てもイイ線いくと思う。うち
にモデル登録してみません?﹂
﹁あはは⋮﹂
お世辞なんだろうけど、無理。今だってギリギリなのに。
姉だったらきっと良いモデルになったんだろうな。たとえ生きてい
たとしても
智早と結婚するのだからそんな事はしないだろうけど。
152
結婚するのが嫌だったのかな、そんな死ぬほど嫌だったのかな。
あんないい人であんな嬉しそうに寄り添っていたのに。
﹁奥様、よろしいですか﹂
﹁は、はいっ﹂
メイクさんが他のモデルさんのもとへ行ってしまった代わりにお弟
子さんが近づいてきた。
二人のお弟子さんも撮影の際はスタッフとして参加して綺斗の手伝
いをしている。
﹁久我先生がお呼びです。部屋に来るようにと﹂
﹁わ、わかりましたっ﹂
さっきの失敗を怒られるのかと身構えたがそうではないらしい。
まだ何も言われてないけど体がビクンと跳びはねる。
あ、でももしかして綺斗に撮影を何度もミスったのがバレた?ドキ
ドキしながら立ち上がり
彼が居る部屋へ移動する。彼が居るのは呉服屋さんが用意してくれ
た客間。朝軽く撮影現場と
作品とモデルのチェックをしたらそこへ引っ込んで会議をしていた
らしいけれど。
﹁おい、室井。いいのか?別に今言わなくてももう少し時間経って
からで﹂
﹁先生がおっしゃってたんですからすぐお伝えするのは当たり前で
すよ﹂
﹁でも俺見たんだよあのモデルが先生の所に﹂
﹁そうみたいですね、でもそれは当人同士のお話じゃないですか﹂
153
﹁お前そんな意地悪な女なのか。⋮⋮知らないぞ後でどうなっても﹂
﹁私は言われたことをしたまでです﹂
建物はそこまで複雑ではないからまっすぐに歩いて左へ曲がり、ま
た歩いて。
﹁ねえ。やっと二人きりになったんだし、もう少しゆっくりしてい
かない?﹂
廊下をぼんやりと歩きながら徐々にその部屋に近づくたびに聞こえ
てくる女の声。
部屋を間違えたワケじゃないよね?と何度も確認するけれどやっぱ
りここだ。
目的地のすぐ前まできてどうしたら良いか分からず動きも思考も止
まる。
﹁ゆっくり?﹂
男の声は間違いなく、綺斗。
﹁そう。撮影はまだ続いているわけだし打ち合わせも終わったし。
ここに人はこないでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴方も大変ね。家の為に子どものお守りを押し付けられて。色々
と疲れてるでしょう?
でも大丈夫、私が癒やしてあげるから﹂
よせばいいのに気になってしまって近づいて耳をすませてしまった
ら襖ごしに
布の擦れる音と女の吐息が聞こえてきた。これは、やっぱり一旦帰
154
るべきだ。
このままここにいたって良いことは何一つ無い。
別に何があったっていいじゃない、邪魔しちゃいけない、邪魔しち
ゃ。
﹁どうなさったんですか奥様﹂
﹁あ。室井さん。まだ忙しそうだったので後で﹂
﹁会議はもう終わっているはずです。早く行かないと先生はお怒り
になりますよ﹂
﹁⋮そ、そうです。よね。はい﹂
逃げ出した先でお弟子さんが作業をしていていつもの様に無視され
ると思ったら
そんな事を言われて戻らないわけにはいかず、
取り繕って苦笑いしながらもう一度綺斗と誰かの居る部屋へ。
こんなタイミングで声をかけたらそれこそ怒られそうだ。
あの人と二人きりで居るとしたら考えられるのはあのモデルさんだ
ろう。
私はまだ体も未熟でちゃんとした挿入も1度やって痛くて泣いてや
めたくらいだし。
やっぱりこんな子どもより大人の女性のほうがいいんだろうな。3
6歳だもんな。
面倒だけど家の為に子守りしてるって思ってたのかな。
私を引き止めてくれたのも嫁が死んだら仕事とか家の事が面倒にな
るから、とかかな。
﹁何処へ行っていた。俺を待たせるなさっさと入って来い﹂
155
また部屋の前まできて怖くなって戻ろうとしたら明らかにこちらに
向けて綺斗の声。
若干不機嫌そうな声で。
﹁すみません。⋮⋮あの、お忙しそうだったので﹂
襖を開けたら絶対ふたり裸で抱き合ってる。お布団があるかは分か
らないけど。
そう思ったら開けられなくて入っていく勇気がなくて、廊下に座っ
て声をかけた。
156
そのにじゅうきゅう
﹁俺は忙しい。遊んでいる暇などないんだ。俺が来いと言ったらす
ぐに来い﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ふざけているのかお前は。さっさと入って来い﹂
﹁でも今、お忙しいんじゃないですか﹂
その、女の人と色々とあって。だけどその言葉の返事はなくてしん
と静まり返る。
つべこべ言わず入ってこいってことなのだろうか。何を見ても平静
でいられますように。
覚悟を決めて静かにそっと襖をあけた。
﹁何時まで待たせる。お前は何度言っても駄目だな﹂
﹁すみません﹂
机に向かって座っている綺斗は若干着物が乱れているが裸ではない。
その彼を後ろからギュッと抱きしめる梨華も肩が大胆に見えている
ものの、まだ大丈夫。
どうやら今まさにこれからというところだったらしい。安堵するよ
うな複雑なような。
﹁何であの子を呼ぶの?もしかして見せつけるのが好きなの?そう
いう性癖?﹂
クスクスと笑いながら綺斗の耳元で問いかける梨華。
私が入ってきて傍に座ったのに構わず綺斗の胸に手を這わせる。
157
﹁お前こそ何時まで居るんだ、CMの打ち合わせは終わったろう﹂
﹁えぇ?なにそれ。そんな酷い言い方ある?﹂
﹁お前はクライアントのお気に入りだからな。これでも気を使って
やっている方だ﹂
だが綺斗は好きにさせて入るものの特に彼女に構う様子はない。
﹁若い奥さんが良いって?じゃあ二人で仲良くなさってたらいいわ。
後で呼んだって来てあげないからね?そこまで都合のいい女じゃな
いから﹂
激怒、まではいかなくてもちょっと不機嫌な顔をして綺斗から離れ
る梨華。
そのまま部屋を出て行った。彼女には悪いけれど、確かに気を使っ
てもらってる方だと思う。
この扱いにくらべて私なんてどうなるのか、比べるものじゃないの
だろうけど。
﹁金になるなら誰にでも股を開くアバズレが偉そうに﹂
﹁綺斗様﹂
﹁お前の着物をもう一つの方に変更する。そこにあるから着替えろ﹂
﹁はい﹂
﹁お前の着付けはまだ甘い。俺がする﹂
呼ばれた理由は撮影する着物の変更のため。着物を脱いでまた別の
作品に着直す。
着付けは教室に通って一通りは出来ているつもりでもやはり綺斗の
ほうが綺麗にしてもらえる。
メイクや髪の毛はさっきの部屋に戻ればメイクさんがすぐに直して
158
くれるからいいだろう。
﹁⋮⋮﹂
﹁さっき撮影スタッフがお前の調子が悪そうだと言いに来た﹂
﹁すみません。もう大丈夫ですから﹂
﹁自己管理も出来ないのか。俺の仕事の邪魔をするのだけはやめろ﹂
﹁わかってます。ごめんなさい。⋮⋮本当に、すいません﹂
あ。やっぱりバレてた。
もちろんスタッフさんは私が病気なのかと気を使ってくれたのだろ
うけど。
でも自己管理できてないというのはあながち間違いじゃないかもし
れない。
私は自分の気持ち一つうまくコントロールできていない。理解も、
できてない。
﹁それともあの男と再婚することでも夢見たか?﹂
着付けが終わって、でもすぐには動かずぼーっとしてしまった私の
耳元でそんな囁き。
まだ新婚なのに夫と別れて姉の元婚約者と再婚するなんて。
家柄も人格も智早のほうが良くて父親も出来るのなら彼をつなぎ留
めて置きたかっただろうけど、
一条家の人間には徹底的に否定された。名門家でなくても普通は避
けられる存在だ。
それでも智早は私を側に置きたがっている。
﹁夢みてないです。でも、考えてました。馬鹿だから結局答えなん
て出てきませんでしたけど﹂
159
たぶんあの人は姉の事を引きずっているから近い者をそばに置きた
いだけなんだ。
この話が私達の間だけでとまってくれて、後は角が立たないように
静まって欲しい。
何がお互いにとって最良なのかも分からないけれどもうこれ以上の
混乱は要らない。
﹁お前ごときが考えて出る答えなんてしれてる。離婚したい時は俺
にちゃんと言え﹂
﹁出来れば綺斗様と別れたくないです﹂
今のこの位置を失うのは嫌だなと薄っすらと思っている。
大々的に宣伝してあんな盛大な結婚式をしてしまったのにというの
もあるけど。
﹁何を考える事がある?まさかあのイカレた男を立ち直らせてやろ
うとでも思っているのか?
だったら立派な精神科医でも調べてやればいいだろう﹂
﹁あの人に必要なのは医者じゃなくて﹂
﹁お前、とでも?女というのは本当にくだらない情に左右される生
き物だな。イライラする﹂
﹁すみません﹂
﹁謝罪は聞き飽きた。もういい、さっさと撮影に戻れ﹂
どんどん綺斗が不機嫌になっていくのが自分でもよく分かる。
彼の言うように私はしっかりとした返事と行動が出来ていない。
でも智早の気持ちも痛いほど理解できる。
既婚者となった私には考えたって仕方ない、くだらない情なのだろ
うけど。
160
智早が私を見つけるのがもう少し早かったら話は違ったのかもしれ
ない。
﹁私最近は綺斗様の側に居るだけでなんとなく幸せだなって思って
ました。
役に立ちたいって心から思ってます。でも、結局過去の事を引きず
って。
自分と同じ境遇の人を見過ごせないで。結局は貴方の邪魔をしてし
まいます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だけど私﹂
﹁グダグダ言うな鬱陶しい!さっさと行け!目障りだ﹂
言葉に詰まってハイとも失礼しますとも言えないで部屋を出る。
彼にちゃんと言いたいことがあったのに、何も言えないなんて最悪
だ。
でも居たたまれなくて怒られるのも嫌でその場から走って逃げる。
外へ。
とにかく外へ。こんな気持のまま撮影なんて出来るわけがない。
﹁⋮⋮やっぱり、駄目なのかな。私じゃ﹂
161
そのさんじゅう
﹁いらっしゃいま⋮⋮いやあ、りっちゃん!見違えたよ!綺麗だね
え﹂
﹁すみません、あの、良いですか?﹂
﹁もちろん。良いよ座って座って﹂
勢いで飛び出したものの久我家には行けないし、実家にも当然帰れ
ない。
着物姿でウロウロするのも人の目が気になるので結局行き着く先は
バイト先。
財布も携帯も何も持たずに来たからとにかく歩いて歩いて、
泣きそうな顔になっていたがマスターは変わらず優しく迎えてくれ
た。
﹁もしかしてそれは先生の新作?!写真とってもいいかしら?先生
はいらっしゃらないの?﹂
﹁あーー。お前は買い出しに行ってきてくれ﹂
﹁で、でも﹂
﹁いいから﹂
興奮状態の奥さんに写真を何枚か撮られた後、渋々ながらお店を出
て行く。
カウンターに座って水をもらって一気に飲んで。深い溜息。
せっかく少しずつ綺斗との距離が近づいていたのに、そこに居心地
の良さを感じてたのに。
何も言わず与えられた仕事を放棄して、自分で退路を断つなんて冷
静に考えて落ち込む。
162
﹁すみませんいきなり﹂
﹁いやいや。いいんだよ。どうせこの時間帯は人が殆どこないから
ね﹂
﹁綺斗さ、⋮⋮旦那様の仕事のお手伝いをしないといけなかったん
です。けど、私﹂
﹁まあまあ。そうだ、ケーキ食べないかい?今日はチーズケーキだ
よ。流行りのNYスタイル﹂
﹁ありがとうございます。でも、私お財布﹂
﹁りっちゃんはバイトさんだからこれは味見です。味見﹂
こんな変な時間にこんな格好で、自分では見えないけど表情も疲れ
た暗いものだろう。
何かあったと察しているにも関わらず変わらず接してくれるマスタ
ーに泣きそうになるけれど、
これ以上心配させてはいけないと必死に堪えて作り笑い。
用意してくれたチーズケーキと紅茶を貰って味わって食べると少し
だけ気持ちも落ち着いた。
でも今の事態が最悪なのは変わらないけど。
﹁律佳ちゃん?⋮⋮驚いた﹂
﹁智早様﹂
綺斗のもとへ帰るきっかけを考えていたらお客さん。それも、なん
てタイミングだろう。智早だ。
﹁いらっしゃい。こちらのお客さんは何時もこの時間に来て貰って
るんですよね﹂
﹁はい、静かな時間帯なので。人が多いのも嫌いではないですけど﹂
﹁ほら、顔が綺麗すぎるから。他のお客さんがジロジロみちゃって
163
落ち着かないですよね﹂
﹁どうにもまだ不慣れで、僕は浮いてるんでしょうね﹂
﹁ささ、いつもの席へどうぞ。りっちゃんも相席したらどうだい?
知り合いなんだろ?﹂
﹁いいのかな。待ち合わせではないの?﹂
﹁大丈夫です﹂
全然店に顔を出さないと思っていたのはただ私がバイト中の忙しい
時間に来ていないだけで
静かな時間にはちょくちょく来ていたらしい。席を移動し奥のテー
ブルへ。
彼は何時ものコーヒーとすっかりお気に入りだというパンケーキを
注文した。
﹁その着物は彼の作品かな﹂
﹁そうです。新作です﹂
﹁華美な装飾はないけれど、繊細で優雅。なんだか君のために作っ
たみたいだな。
彼の作品は初めて見るけど良いものだね。今度頼んでみようかな﹂
﹁褒めてくださってありがとうございます﹂
こんな格好をしていたらその話題になるのは仕方ない。でも今はあ
まり深くは話したくない。
苦笑いしてその話を止めようとする私の気持ちを察したのか智早は
真面目な顔になる。
﹁この前はごめん。僕の発言は久我君が言うように気が狂っている
と思われても仕方ない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁言い訳にしかならないけど、本当は彼とふたりで腹を割って話を
164
するつもりだったんだ。
君をどう思っているのか。もし邪険にしているようなら話し合いを
して別れてもらう方向で
穏便に調整しようと思っていた。でもまさか君も居るとは思わなく
て﹂
﹁すみません。私が気になって付いて行きたいって﹂
あの人のあの視線が気になって。心配になって。
﹁君が彼を気にするとは思わなかった。興味がないと思っていたか
ら。
それで少し嫉妬したのもあるんだ。でも君は僕のことを姉さんの元
婚約者としか思っていない
わけだから、混乱させてしまったよね。年上であるにもかかわらず
本当に馬鹿な行為をした﹂
﹁あの時も言いましたが私には姉の代わりは出来ません。姉とは正
反対で、絶望させるだけです﹂
たとえ少し容姿が似ていても、雰囲気が近くても。姉のような生ま
れながらの光は持っていない。
見た目だけでそばに置いたってやっぱり違ったって失望するだけで。
こんなんじゃなかったと後で
後悔させてしまうのもされるのも嫌だ。だったら最初から失望して
いて欲しいくらい。
﹁探してるのは美鶴じゃない。君に美鶴になってほしいわけじゃな
いんだ﹂
﹁貴方は私に何を求めているんですか?私は姉に勝るものなんてな
にもないです﹂
﹁最初親からは美鶴は自殺したと聞かされてとてもショックだった。
165
だけど噂で彼女が
他の男と死んだのだと聞いて、居てもたってもられなくて。なんと
か場所を聞いて向かったら
そこで君が一人泣いているのを見た﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁後で相手の男が君の恋人だと聞いて胸が痛かったよ。辛かった。
僕も出来ることならあの場で泣き崩れたかったけどそれ以上に君が
可哀想で。
その時思ったんだ。同じ痛みを持つ僕らならもっと強く結びつける
んじゃないかって。
邪な事はない。関係を変えるのはもっと後でいい、愛情は時間をか
けて育むものだしね﹂
﹁そうおっしゃっても一条家の皆さんは柊家の者なんて見たくもな
いはずです﹂
﹁大丈夫、僕の邪魔をするのなら家を出ると言えばいいんだ。一条
家には僕が必要だから。
カゴの鳥でなくちゃんと外で生きていくアテがあるのも知っている
し、無碍にはできない。
何より僕が一条家当主になればもう誰も逆らえないよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今、自分が何をしているのか。これからどうするのか君はわから
ないだろう?
親の言われるままに男に嫁いだ。金のためだということは君も分か
ると思うけど﹂
﹁それは、そうですけど﹂
智早の言うとおり、今自分がすべきことも自分の気持ちすらも上手
くまとめられない。
金のためにあの男に嫁いだ。何も間違ったことは言ってない。事実
だ。
166
﹁君は家にも親にも左右されちゃいけない。自分の意思を持ってい
いんだ。僕が君を守るから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁僕は君に側に居て欲しい。君は自由を手に入れる。今すぐどうに
かなるわけじゃない。
世間体だとか身内の目とか、辛いことも多い。だけどこのまま訳も
分からず言いなりになって
辛い思いをしながら支配されてしまうよりはずっといいと思わない
?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁律佳ちゃん。僕と一緒に明るい自由な世界へ行こう﹂
彼と一緒に行けば私の呪われた人生も明るい楽しい物になるのだろ
うか。
自分の意志で考えて。思うままに行動して。怒られない。
それはずっと昔に諦めていた事ではあるけれど。結局、その場では
返事をしきれなくて。
智早には時間があるからと嘘をついてお店を出た。
﹁明るい世界。⋮⋮お姉ちゃんが見てた世界。私も行ってもいいの
?﹂
あの世界へもし行けるのなら。
167
そのさんじゅういち
﹁新作を汚しやがって﹂
﹁すみません﹂
﹁どの面下げて戻って来たんだ﹂
恐る恐る呉服屋さんへ戻ると久我先生は工房へ戻った言われたので
そちらへ移動。
私のことは調子が悪くなって先に帰ったということになっていたら
しい。撮影は無事に
終了していて安心したけれど。顔を出してちょっと驚いた顔をされ
たのを笑ってごまかす。
﹁新作を着たまま消えるわけにはいかないと思って﹂
﹁当たり前だ﹂
引くも進むもまずは着物だけは返さないといけないと思った。だけ
ど外を歩き回ったせいで
若干薄汚れてしまったのが恐ろしい。着物を脱いで私服に着替える。
綺斗は二階にある書斎で
机に向かったまま振り返りもしない。きっとCMの構想とか新作の
デザインをねっているのだろう。
大事なのは着物であって私なんて代えのきくマネキンにすぎないん
だ。
﹁勝手なことをして申し訳ありませんでした﹂
私は少し距離を置いて正座する。
168
﹁⋮⋮何処に居たんだ。あの店か﹂
﹁はい。そしたら智早様が来て、少し話をしました﹂
﹁あの男、狙ったのか。⋮⋮、どうせ甘い言葉で誘惑されたんだろ
う﹂
﹁智早様は純粋にふたりで力を合わせて乗り越えようと言ってくれ
ました。
すぐどこうじゃなくて、愛情は少しずつ時間をかけて育んでいけば
いいって﹂
﹁また頭の沸いたような事を言う。浮ついた王子様の好きそうなセ
リフだ﹂
確かに智早と一緒に乗り越えるには障害が多すぎる。彼は家を捨て
る覚悟もあるようだけど。
私も家を捨てる必要がある。もっともそんな縋るほどの家なんてな
いけど。
実家はあの父だけなのだし、久我家からも若いだけが取り柄の道具
としか思われていない。
智早との生活は彼の優しさこそ溢れていても周囲からは冷たい目で
見られるのは必至。
だけど。
﹁私、智早様についていこうと思います。あの人がどうって訳じゃ
なくって、今のままじゃ
駄目になりそうだから。強く生きられるようになりたい。乗り越え
たいと思ってます﹂
彼のためになんとかしようって気持ちだけが空回りして結果お互い
にダメになる。
169
ついて行って智早と最後まで生きるのかどうするかはまだ未定だけ
ど。
とにかくこのままじゃ駄目なんだと思うから。綺斗に本格的に嫌わ
れるまえに。
自分なりに前向きになろうとしての決断、のつもり。
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様もこんな出来損ないが居ても目障りですよね。今すぐは無
理でもその期間が来たら﹂
﹁自分勝手な所は姉と同じだな﹂
黙っていた綺斗はそうつぶやくと立ち上がりゆっくりと振り返る。
その手には裁断用の大きな鋏。
その姿を確認したと同時に乱暴に押し倒されて、私に馬乗りになっ
た綺斗の手が私の顔の横に
思い切りその鋏を突き立てた。
﹁俺の言ったことを守らないで勝手なことばかりして!いい加減う
んざりなんだよ!
強くなる?乗り越える?出来もしねえことを偉そうに抜かすな!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前は一生愛した男を姉に寝取られて心中された可哀想な妹から
変われやしねえ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁自分で喧嘩売っといて泣いてんじゃねえよ。テメエのそのしけた
ツラ切り刻んでやろうか?あ?﹂
﹁ただ⋮⋮綺斗様を怒らせたくないだけなんです。ただ仕事に集中
して欲しいだけなんです﹂
﹁だったらお前は黙って俺の側に居たらいいんだ!甘いだけの言葉
に惑わされやがって﹂
170
﹁いいんですか?こんなので﹂
﹁嫌だったら俺の大事な作品を着せたりしない﹂
﹁綺斗様。こんな時なんですけど。さっき言えなかった事なんです
けど、⋮⋮好きです﹂
馬乗りされて顔の側には巨大な鋏。
相手の顔は怒って怖いし今にも顔面を殴り倒されそうな場面だけど。
このまま何も言えないで関係が更に悪化してしまうよりは先に言っ
てしまおう。
﹁だからなんだ?﹂
﹁言ってみただけ﹂
﹁そうか﹂
﹁⋮⋮﹂
あ。ちょっと口元ニヤってした。でもそれ言ったら怒るよね。黙っ
てよう。
﹁物欲しそうな目で見るな。⋮⋮それで。結局どうするんだ。王子
様の所へ行くのか﹂
﹁もし行ったら﹂
﹁そうだな。少し痛いだろうが我慢しろ﹂
そう言って鋏を引き抜く。顔だ。絶対顔をズタズタにされる。
﹁あの。そんな怒るなら最初から綺斗様が行くなって言えばいいだ
けの話だったんじゃ﹂
﹁俺に命令するのか?そうか。お前俺に尻を犯されろ﹂
﹁は!?はい!?え!?お、お!?﹂
﹁ちょうどいい所に鋏がある。下着まで細かくしてやればちょこま
171
かと逃げることもできないよな﹂
﹁綺斗様?あの。⋮⋮あ。い、いや!ほんとに切るの!?まって!
まってーーー!﹂
逃げようとしたけど馬乗りになっている状態なので動けず、顔じゃ
なくて服を細切れにされた。
下着くらいは残してほしかったのにそれもあっさりと。
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?﹂
服をまるまる駄目にされて悲しむ間もなく流れで強引に抱かれる。
けれど愛撫されていた手が止まり、何故か動かない綺斗。
﹁⋮⋮俺が止めたらお前は何処へも行かないのか?﹂
﹁行きませんけど?﹂
﹁⋮⋮何だそれは﹂
﹁な、なんだって言われても。⋮⋮嫁です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの?﹂
﹁煩い死ね馬鹿﹂
﹁は!?﹂
何か突然拗ねた小学生みたいな返事された!?
よく分からなくて呆然としている私を他所に綺斗の手が再び動き始
める。
最初の乱暴な動きとは違い、ちょっとだけ優しく気遣ってくれて。
﹁尻なら中に出してもいいよな﹂
172
指で胸やアソコを愛撫しながら怖いことを耳元でささやき始めた。
﹁出すなら普通にだしてください。痛くても我慢しますから﹂
﹁今日は根本まで挿れるぞ。⋮⋮足、持つからな﹂
そう言うと私の両足を掴み上げ腰を浮かせる。ゆっくりと彼自身が
私の入り口に優しく
何度も浅く入ってくる。ここまでは今までされたことがあって。外
の気持ちよくなる突起や
その周辺を彼のソレでネチネチと嬲られてイクのが私のセックスの
終わりだった。
﹁痛い﹂
﹁我慢するんだろ﹂
﹁が⋮我慢するから⋮⋮我慢するから何か後でご褒美欲しいっ﹂
﹁ああ、良い物を食わしてやる﹂
﹁ほんと!?じ、じゃあ頑張りますっ⋮⋮ううううっ南無三っ﹂
何だろう珍しい素直に了承してくれた。ご褒美はお饅頭かな。ケー
キかな。
でも今は軽食よりもがっつり食べたいから中華とか。でもお寿司も
いいなあ。
ツルっと麺類も捨てがたい。いや、やっぱりご飯ものか。
﹁全部入ったからってニヤニヤするな変態め﹂
﹁⋮⋮入った﹂
やっと全部彼を受け入れられた。これで初めてちゃんとしたセック
スが出来るんだ。
まだ痛いのもあるけど動きはゆるくしてくれているし何より後のご
173
褒美が嬉しすぎて
そこまでの不快感がないから自分が怖い。
ぎゅっと綺斗の首に手を回し足を絡め、彼の動きに合わせ体が上下
に動く。
﹁痛いか﹂
﹁痛い。けど綺斗様が近い﹂
﹁何だそれは﹂
﹁早く馴染んで気持ちよくなったらいいな。そうしたらいっぱい綺
斗様とセックスできますね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁え?あの。なんで無言で腰の速さ早くなってます!?え!?あ⋮
あ⋮⋮んっ﹂
男女のくっつく部分が擦れるたびに私の突起が刺激される。その快
楽だけだったのに。
薄っすらと違う私の中からくる気持ちよさがあるような?綺斗の腰
の動きに合わせて
押し寄せてくるような?あれ、こんな感じ今までなかった。
室内にはぶつかり合う音と息遣いだけがひびく中、私が先に果てて。
﹁律佳﹂
﹁は、はい⋮も⋮イキそうですか⋮?﹂
彼も限界が来たという顔で私を見つめる。
﹁飲め﹂
﹁はいっ⋮⋮え?⋮⋮の、め!?﹂
174
何を?どうやって?質問するよりも早く彼は動いてくれた。
ソレを私から抜いて顔に近づけてきたから。私が咄嗟に手で遮ぎろ
うとするのを
掴んで押さえ込みやや乱暴に、ちょっと顔に飛ばされつつ口内で彼
は果てた。
﹁⋮⋮っ⋮⋮、こぼすなよ﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに私の中には出さないって仰ってましたけども。
﹁おい。顔が死んでるぞ﹂
﹁⋮⋮いっそ殺してください﹂
﹁そうなったら俺も死ぬだろうが。馬鹿か﹂
何で顔に精液飛ばされたあげく口で受け止めるんですか?
これってそういうものじゃないですよね。
もしこれがご褒美だったら死んでやろうって真面目に思いました。
175
そのさんじゅうに
﹁おい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁律佳﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁黙るな。何か言え﹂
散々なりにも初めてのエッチの後、流石に今回はそのまま我慢して
帰るわけにも
いかないので一階にあるお風呂へ。シャワーを浴びて体を洗って歯
も磨いて。
でも私は一切相手を見ないし返事もしない。
だって私、怒ってますからね。これ以上無いってくらい怒ってます
からね。
﹁⋮⋮﹂
﹁律佳﹂
珍しく向こうから何度も声をかけてくるけどこれくらいじゃ許しま
せん。
お気に入りだったわけじゃないけどそれでも大事な服を完全に駄目
にされて
おまけに突然飲まされて。幾らなんでも流石に許せませんからね。
﹁⋮⋮﹂
﹁おい﹂
﹁⋮⋮﹂
176
﹁ちゃんと褒美に美味いもの食わせるって言ってるだろ﹂
お湯の適度に溜まった湯船につかってもだんまりを決め込む。
それで暫く粘って粘って、でもそろそろいいかなと口を開く。
﹁美味しいオムライス食べたい。新しい服も欲しい。綺斗様に褒め
られたい﹂
﹁最後はなんだ。⋮⋮わかった。全部する。から。そろそろ俺を風
呂に入れろ﹂
お風呂の外と中の攻防戦。ここは相手が折れたということで私の勝
ちだ。
一緒にお湯につかって、急遽替えの着替えを用意してもらって工房
を出る。
着替えというのはやっぱり着物。下着はなかったのでノーブラ・ノ
ーパン。
﹁スースーする﹂
﹁行くぞ﹂
﹁綺斗様。すぐ下着が欲しいです﹂
﹁わかったからさっさと乗れ﹂
お腹はすいているけどこの気持ち悪さを先にどうにかしたい。
食事も服も一度に手に入るからとまたデパートへ行こうとするのを
止めて
もう少しお手頃な価格帯であるショッピングモールへ誘導した。
ちょっとは悪かったと思っているのか今の旦那様はなんでも聞いて
くれて嬉しい。
﹁着替えてくるので待っててください﹂
177
﹁ああ﹂
入るなり速攻で下着を買いトイレでお着替え。着物で脱ぐのは面倒
だからパンツだけ。
あんな小さな布だけなのに落ち着いた。
﹁久我先生ですよね!雑誌の特集読みました!﹂
﹁わあ。どうしよう実物の方がずっと格好いい﹂
﹁あ、あのサイン頂けますか!?﹂
トイレから出てきたら旦那様が若い女子に囲まれて何やらキャーキ
ャー言われている。
そういえば最近女性誌の取材に答えていたっけ。そしてこういう所
は若い子が多い。
どうしよう、割って入ったほうがいいのだろうか。
﹁すみませんが今日は妻とプライベートなので写真は遠慮願えます
か﹂
﹁デート中なんだ。すみません邪魔して﹂
﹁応援してますっ!がんばってくださいね﹂
﹁ありがとうございます﹂
どうやら話せば分かってくれる子たちだったようであっさりと行っ
てしまった。
すぐさま彼の側に駆け寄って、私の希望通りにオムライスの専門店
へ入る。
専門といっても洋食店とかでなくトッピングが豊富なチェーン店。
明らかにこんな庶民的な場には不釣り合いな綺斗様だけどそれも面
白い。
178
﹁セルフとは何だ。金を払った俺に給仕をしろというのか?何だこ
の失礼な店は﹂
﹁料理と水は私が持ってきますから﹂
﹁だいたい何だお前のオムライス宇宙激倍盛りって。どれだけ食う
んだ﹂
﹁え?宇宙激倍﹂
﹁そうじゃないだろ﹂
暫く待って番号が呼ばれたので料理を取りに行く。お水もすでに持
ってきた。
綺斗は今は何も食う気にならないからと水だけ。
﹁聞いたらご飯500グラムだそうですよ﹂
﹁関取にでもなるのかお前﹂
﹁一口どうぞ﹂
﹁いらん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮さっさとよこせ﹂
綺斗だって何も食べてないはず。お腹が空いているだろうと思って
思いっきり
山盛りスプーンですくってあげたらイヤイヤながら食べた。残りは
着物を汚さないように
気をつけて私一人で丁寧に食べる。綺斗にお化けでも見るような目
で見られながら。
﹁やっぱり何かトッピングしとけばよかったかな。ずっと同じ味は
飽きちゃいますね﹂
﹁もうなんとでもしろ。さっさと服を買って帰るぞ﹂
﹁あ。そうだった。じゃあその辺で適当にカワイイのを﹂
179
特に服にこだわりはないけれど、どうせなら何時もと違う色合いの
ワンピースとかいいかも。
何件かお店を巡って見つけた服を手に自分の体にアテてみる。
こんな風に買い物をするなんて何年ぶりだろう?姉とも幼いころは
一緒に買い物をしたっけ。
﹁綺斗様。こっちとこっちどっちがいいですか﹂
﹁どっちも同じだ両方買え。もうなんでも良いから買え﹂
﹁⋮⋮はい﹂
昔を思い出してちょっと長引かせすぎたかな。選べないので両方購
入。
荷物を手に車をとめている駐車場へ戻る。外はもう夕暮れ。
今日は本当に色んな事があったけど、結果はそこまで悪くないと思
っている。
智早とはまた改めて話をしないといけないけど。車内は暫くは沈黙
で静まり返っていた。
﹁律佳。お前はどうしたって変われないと言ったろ﹂
﹁はい﹂
でも綺斗から声をかけてきた。
﹁あれはただの俺の願望だ。なんとでも変われるだろう、気にしな
いでお前の好きにしたらいい﹂
﹁綺斗様?﹂
﹁お前が変わったら俺から離れていくだろ。それが怖かっただけだ。
何時もそうなんだ。
思っていることがあってもそれを上手くい言えない﹂
180
﹁⋮⋮﹂
﹁あのクソ王子の言い分が真っ当なのもわかってる。お前がそれに
共鳴するのも当然だろう。
俺じゃお前を幸せにできないのも。⋮⋮わかってるからこそ、腹が
立つ﹂
﹁一言いってくれたらいいんです。何処にも行くなって﹂
何も出来なくても特別大事にされなくても。そばにいて良いのなら、
居る。
﹁お前は何処にも行かないでくれ律佳﹂
﹁はい﹂
どうしよう、凄く嬉しい。
﹁どうだ嬉しいか感動したか?よし、これで終わりだ﹂
﹁え﹂
﹁褒めろと言ったろ?だが残念な事にお前の褒めるべき点が見つか
らなかったから﹂
﹁⋮⋮﹂
嬉しかったのに。嬉しかったのに⋮⋮。
﹁何だ。もっと違う言葉が良かったか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おい。こら。やめろ。チャックを下ろすな!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁運転中なんだぞアホかお前は!乱暴に引っ張るな!﹂
﹁綺斗様が素直に律佳が可愛いって言うまでやめない﹂
﹁何をふざけたこと⋮っ⋮す⋮吸うなっ⋮⋮危ないからっ﹂
181
そのさんじゅうに︵後書き︶
また一区切り。
182
⃝そのさんじゅうさん
途中で勝手に抜け出してしまったものの写真は何枚か撮ってあった
からそれで良いと思っていた。
けれど監修をしている旦那様からお前の表情も着物も気に入らない
からと後日私だけ別の場所で
写真を撮りなおして今度こそOKがでる。
CMはまた別の日に別のモデルさんで撮影するというし、そのCM
で使われる着物の監修も綺斗。
あのモデルの梨華さんも居るからちょっとだけ不安はあったけれど
夕方には家に帰ってきた。
久我綺斗がその容姿や旧家の跡取りという色目抜きでデザイナーと
して売れていくのは良いこと。
だとは思うのだけど。
﹁おはようございます、CM好調みたいですね。朝の番組で話題に
出てました﹂
﹁向こうが選んできた旬のモデルや女優を起用しているからな﹂
何時もより遅く起きてきた綺斗。朝食の準備は何時も家政婦さんが
テキパキしてくれるけれど、
今日は時間がズレたのもあってここは私がやりますと進んで料理を
温めなおし配膳をした。
コーヒーを淹れて渡したら当たり前のように手にして飲んでくれる。
ただそれだけの事なのに
それが少しうれしい私はヘンなのだろうか。
183
﹁お客さんまた増えますね。⋮⋮でも、あまり無理はしないでくだ
さい﹂
これが雑誌やTVの宣伝効果なのか、連日夜遅くまで机に向かった
り何処かへ電話していたり。
睡眠時間も少なそうだし食事も粗末になりがち。彼の体が心配では
あるけれど、かといって私が
代わりにやりますと言うわけにもいかない。邪魔しないように大人
しくしているくらい。
こんな時は何時も以上にピリピリしてどんな些細なことでもすぐに
怒るから。
とはいっても完全に彼の側から離れることは許されていない。あく
まで範囲内でのひっそり。
側に居ても良いと言ってもらったから。道具でなく、ちゃんと律佳
として認識されているから。
﹁お前には俺が無理をしているように見えるか﹂
﹁自分のしたいことをしているのだから無理ではないかもしれない
けど、貴方の体は一つです。
相手に合わせてデザインすることはそんな簡単じゃないのは素人の
私でもわかりますから﹂
﹁⋮⋮﹂
私自身はそれで満足と言うか、ささやかながらも幸せなのだけど。
﹁あ。そうだ。一時間くらい前に電話があったんです、綺斗様に﹂
﹁仕事関係か﹂
﹁だと思います。お名前が西浦⋮﹂
184
﹁西浦清露﹂
﹁そうです。まだ綺斗様部屋から出て来てなかったから、待って貰
おうとしたら
起こさなくていいからと言われたのでご用件を聞こうとしたらまた
かけ直すと﹂
﹁待っている時間がもったいない。こちらからかけ直す。俺の携帯
を持ってきてくれ、部屋だ﹂
﹁はい﹂
その名を出すと珍しく慌てた様子で食事の手を止めて私が持ってき
た携帯をいじる。
すぐに何処かへ電話をかけて何やらコソコソと会話をしていた。電
話をかけてきたのは
結構年配そうな声の男の人だったけれど、どういう相手なんだろう
か。
﹁今日はバイトは無かったな﹂
﹁はい﹂
﹁だったら少し付き合え。出かける﹂
﹁分かりました。着替えたほうがいいでしょうか?﹂
﹁いや。いい﹂
さっさと片付けを済ませ着替えはしなくていいと言われたけれど出
来る限り身なりを整えて。
先に玄関に出ていた綺斗と合流し移動。何処へ行くのかは聞いてい
ないけれど、おそらくはあの
電話をかけてきた人と会うのだろう。お仕事関係なのに私を一緒に
連れて行ってくれるのは
もしかしてまた私がモデルをするとか?最初よりは少しは慣れてき
たけど、やっぱりプロの人と
185
一緒にするのはツラすぎる。でも私に拒否権はない。
﹁招待状まで頂いたのに式に出なくてごめんね、まさか君が結婚す
るとは思わなかったから。
アレは私を驚かせるための冗談だと思ってたんだ﹂
﹁いい歳をした男がそんな下らない冗談で師匠に招待状を書いたと
思いますか?﹂
ここだと言われて入った待ち合わせ場所は普段の綺斗なら絶対選ば
ないであろうお洒落なカフェ。
お店の内装も席も女性ぽく色味もピンクで可愛らしい。選んだのは
待ち合わせている相手だ。
店に入る綺斗の顔がとっても嫌そうで、渋い。
﹁それくらい信じがたかったんだよ。ふたり並んでいても歳の離れ
た兄妹みたいでとても夫婦には﹂
﹁先生。いい加減現実を認めてください﹂
こっちだよと手を振られて着席した場所が右は仲良し女子大生のグ
ループ。
左は若いカップル。周囲からは噂の久我先生の存在に気づく子も出
てざわざわ。
このお店では何処に座ったってこんな感じは逃れられないだろうけ
ど。
﹁師匠より先に結婚とかしちゃう弟子なんて聞いたこと無い﹂
﹁世の中にごまんと居ますよ。先生に女の甲斐性がないだけで﹂
綺斗に師匠と言われた人は和服姿が凛として様になっている格好い
186
いおじさま。
師匠というからには当然着物デザインの。そう思うと余計に大物の
貫禄がある気がするけれど
その辺はまるきり疎いので私はよく知らない。ただ言動がそんな怖
そうには見えない、としか。
それよりもこのファンシーなお店を敢えて選んだ意味は?趣味です
か?
﹁それは言わないでください。で、貴方のお名前は?﹂
﹁律佳ともうします﹂
﹁またえらく若そうな奥さんだ﹂
﹁26です﹂
﹁ほう。そうなの。で、実際は?﹂
﹁⋮⋮19歳です﹂
やっぱりバレたか。特に怒っている様子もなく興味深げにこちらを
見つめている。
表情はそこまで厳しくない。むしろニコニコしている。職人で師匠
というと頑固親父な怖い
イメージがあるのだけど、
それとも切り替えているだけで仕事場では鬼のように厳しいのかも
しれないけれど。
﹁何か頼むよね?女の子だしね、甘いもの好きでしょう?ああ、そ
うだ。綺斗。
君へのご祝儀があるんだけどつい車に置いたままで持ってくるの忘
れた。持ってきてくれ﹂
﹁相変わらずですね﹂
そう言って鍵を受け取るとお店を出て行く。流石に師匠に鋭い言葉
187
は向けない。
残ったのは私と師匠さん。どうしようどうきりだそうか?
﹁見た感じ、結婚生活はそこまで辛くはなさそうだね﹂
﹁はい。私が無知なので綺斗様に迷惑ばっかりかけてますけど﹂
過剰に仲良しを取り繕ってもいないけれど、人前ではギスギスした
感じは無いと思う。
実際私達の関係は悪くはないと思っている。
普通の一般的な夫婦として上手く機能しているかときかれると怪し
いが
私なりに幸せに平和に生活ができているから問題はないし。
﹁彼はすぐ怒るだろ?それも徹底的に罵倒して。時々手もだすんじ
ゃないかな﹂
﹁えっ!そ、それは私が馬鹿なので。それに手をあげることもない
です﹂
いきなりドキッとすることを言うから思わず視線が泳いだ。首は締
められても鋏を向けられても
直接殴られたわけじゃないし蹴られてもない。本当に痛い事といえ
ば初えっちくらいなものだ。
私の反応に師匠さんはクスリと笑って、けれどすぐ真顔になる。
﹁貴方は気をつけたほうがいい﹂
﹁え?﹂
﹁あの男は大事な子ほど痛めつけたいんだよ。思い余って好きな子
の首を絞めちゃうタイプ﹂
﹁⋮⋮そ、そんな事はされてませんから。綺斗様はお忙しいですし﹂
188
私たちのこと、見てないですよね?私と会うのは今日が初めてです
よね?
189
そのさんじゅうよん
思えば夫婦間の話を人にされるのもするのも初めてかもしれない。
こんな時どう言えばいいか分からずただいま脳内で軽いパニック中。
夫を批判されたワケじゃない、むしろ私を心配してくれている?の
だと思うけど。
ここは夫を立ててそんな事ないですとか優しいですとか言わなきゃ
いけない?
だけど私よりもお付き合いが長いであろうお師匠様相手になんて言
えば。
﹁⋮⋮あの﹂
﹁見ていて面白くらい分かりやすいよ。どうでもいい奴ほど朗らか
で態度が良いからね。
あれはかなりの天邪鬼。どうしてあんな捻ているのか、私も昔はそ
れで苦労したものだ﹂
﹁⋮⋮﹂
注文したアイスコーヒーにシロップをドボっと入れながら師匠さん
のその言葉に
つい無意識に頷いてしまう。確かに分かりやすい、気がする。
﹁けど、それで貴方がいいなら綺斗を宜しくお願いします﹂
﹁はい﹂
﹁無理だと思ったら私が何時でも貴方を引き受けよ﹂
﹁それは要らないです﹂
﹁流石に即答されると寂しいんですけど⋮﹂
190
そんな話をしていたら綺斗がご祝儀袋を持って戻って来た。
﹁それは律佳ちゃんにあげてくれないかな﹂
﹁え?ど、どうしてですか?私﹂
﹁たまにはパーッと買い物をしたいでしょ?お小遣い﹂
﹁でも﹂
﹁貰っておけ﹂
﹁⋮⋮はい。ありがとうございます﹂
そしてそれは私の手に。また三人になってそれぞれが頼んだものを
口に含む。
綺斗はコーヒー。お師匠さまはコーヒーと可愛らしいケーキ。やっ
ぱりそういう趣味?
﹁そういえばCMみたよ。やっぱり綺麗な女の子は最高だね。結婚
するならあれくらいが﹂
﹁ああいう着飾った若い女というのは金に目がない。あり金を絞り
とられてあっさりと捨てられる。
やめたほうが懸命です。先生もせっかく築いた名声を恥で汚しては
死ぬに死ねないでしょう?﹂
﹁そんな夢のない。自分はこんな若くて可愛い子がいるからって﹂
﹁居ても居なくても関係ありません﹂
師匠を敬ってない訳じゃないけれど言うときはピシャリと言い放つ
綺斗。ここまで言われたら流石に
怒るんじゃないかと隣で聞いていてヒヤヒヤするけれど、相手は別
に怒っている様子もないし。
むしろ笑顔。綺斗をよく知っていて慣れているからか元々気にしな
い人なのか。
191
﹁まあ見てなさい何れは若くて綺麗な奥さんを紹介するから﹂
﹁高望みはしないほうが幸せになれると思います﹂
半々、かな。仲が悪くない師弟。綺斗が心を許す先生。ちょっとう
らやましいかも。
﹁律佳ちゃん。今度私の家に遊びにこないかい?私の作品を見せて
あげよう、楽しいよ?﹂
﹁え。そ、そうですか?じゃあ﹂
﹁手短な所ですまそうとしないでください。お前も安易に乗るな、
先生はお忙しい身なんだ。
ご祝儀ありがとうございます。もう結構な時間が過ぎました、工房
に戻られてはどうですか﹂
﹁いやいやいや。せっかくだし律佳ちゃんともっと親密になりたい
よ。むしろ君帰り給え。忙しいだろ﹂
﹁は?⋮⋮先生、聞こえませんでした。もう一度お願いします。律
佳がなんですか?﹂
あれ、何か空気が変わった?お隣の旦那さまの声が徐々に低く怒っ
てきてる?
﹁いやだからね?19歳の若妻の味を﹂
﹁先生、いい加減にしないと俺も怒ります﹂
﹁もう怒ってるじゃないか君。そうかそうか、律佳ちゃんは可愛い
くて美味しいか﹂
分かってて煽らないでください師匠さん。隣の湯沸かし器がポッポ
と湧いてます。
これが目上の人じゃなかったら大爆発してるんだろうな。ああ怖い。
192
ちらりとお隣を見ると平静を装えてない、目が笑っていない据わっ
ている綺斗。
﹁⋮⋮綺斗様﹂
これって帰りに二人きりになったら私が怒られるやつじゃないだろ
うか。
何もしてないけど、八つ当たりという酷い目にあうんじゃ。せっか
くご祝儀もらったのに。
内緒で黄金の肉まんとかグソク君グッズをこっそり買おうとか邪な
事を考えたせいかな。
﹁先生は人が悪い。そんな事を言ってどうしようというんです。他
人の下世話な話しなんて﹂
﹁息子のように思っている君がちゃんと嫁をもらったことが嬉しい
んだよ。好奇心も湧くさ。
職人になることしか頭になくて、男前で若いのに他全てを捨てたよ
うな君がさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁兄弟が居た頃はまだもう少し君は柔らかかったけどね。でも今は
少しその頃に似ている﹂
﹁いい歳をした男が過去を振り返っても気持ち悪いだけですよ﹂
﹁それもそうだ。律佳ちゃんも聞いていてつまらないだろうし。私
は御暇しようかな﹂
﹁お疲れ様でした﹂
どう転ぶか分からなくてドキドキしたけれどこの感じなら険悪にな
らず終われそうかな。
私もニコっと笑って﹁ありがとうございました﹂とお礼を言った。
これで帰りに綺斗に八つ当たりというかお怒りを受け止めなくてい
193
いだろう。
﹁はいはい。じゃあ、律佳ちゃん。あの話し宜しく。待ってるから
ね。それじゃまた﹂
お師匠さま!?
﹁⋮⋮おい﹂
﹁違いますなんでもないです何もそんな話はしてないですっ﹂
﹁何もないなら何故焦る?お前、先生にまでフラついてるのか﹂
隣を見るのが怖い。けど、そっと見たらやっぱり怒ってる怒ってる。
湯沸かし器さん思いっきり怒ってる。
﹁までってなんですかまでって。私は綺斗様に付いていく覚悟です﹂
﹁どうだか。少し突き放したらすぐ優しい王子様にフラつく女め﹂
﹁あれは少しって言いません。⋮⋮本気で、思い詰めてたんですか
ら﹂
そう言って私は拗ねた口調で机の下でそっと綺斗のズボンを引っ張
る。
﹁師匠が何を言ったか知らないがお前は俺の側に居るんだ。いいな﹂
﹁はい。⋮⋮綺斗様の側に居ます﹂
その引っ張る手を綺斗がそっと握り返して。
﹁いやあ。君たちラブラブなんだねー素敵だね︱学生さんみたいだ
ねー﹂
194
ばっちり後ろでそれを見ている、帰ったはずの師匠さん。
よほど感動したのか大げさな拍手までされた。
﹁いいか律佳。これが50後半でも結婚できない理由の一つだ﹂
﹁なるほど。よくわかりました﹂
﹁痛々しい。見ていて辛くなってくるだろう、帰るぞ﹂
﹁はい﹂
﹁あれ。君たち揃ってテンション低くない?あと目上の人に冷たく
ない?﹂
195
そのさんじゅうご
本人はまだ居たそうに粘っていたけど結局大した会話もしないまま
帰っていったお師匠様。
終始弟子である綺斗に言いくるめられていたような気がしたけれど
プライベートがこうなだけで
お仕事になると厳しくなるんですよね?まさか終始あんな感じじゃ
ないですよね流石に。
そんなことを考えながら私達もお店を出て車に戻る。旦那様の上司
からご祝儀もらっておいて
名前と年齢言って終わりのご挨拶なんてあるのだろうか。やっぱり
今度なにか御礼の品を
持ってご自宅に挨拶に行くべきなんじゃないだろうか。
助手席に座り、貰ったご祝儀袋をカバンに入れようとしてふと気づ
く。
﹁綺斗様。頂いたご祝儀なんですけど⋮﹂
﹁自由に使えばいい﹂
﹁それがその。お金もあったんですけど、違うものも入ってて﹂
﹁何だ﹂
﹁⋮⋮下着﹂
恥ずかしかったから小声で言ったけどたぶんお隣だから聞こえてい
たと思う。
綺斗は表情はかえずに、けれど車を走らせる方向を強引にかえて路
肩に止めた。
後は無言で私の手から分厚いご祝儀袋を奪い中身を確認。
196
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ご祝儀は師匠なだけあって何十万と入っているのは数えなくても触
った厚みでわかる。
それを私がひとりで使っていいなんて嬉しくて一瞬心がはねたけれ
ど、その下着を見つけて
しまい固まった。ご祝儀袋に折りたたまれても違和感ないほど薄く
て小さい。
純白の上品なレースで出来たスケスケなTバック。
これもご祝儀?
﹁こんなガキに似合うわけないのに。何を考えているのかあの先生
は﹂
﹁凄い先生なんですよね?﹂
﹁体調不良を理由に半ば隠居状態で積極的に新作は作らなくなった
が、過去の作品はどれも
国宝級と言われ高い評価を得ている人だ。中身はお前も見ての通り
いい歳をして色狂いだがな﹂
﹁⋮⋮わあ﹂
やはりあの先生は偉大らしい。下着は捨てずに適当に置いとけと言
われて返された。
やはり師匠からのものは捨てづらいのかもしれない。
私はとてもこんな派手なものは付ける勇気がないから永遠に封印す
ることになると思うけど。
あんなフランクな先生のもとでずっと学んでいた綺斗がどんなふう
だったのか正直気になる。
197
﹁歳の離れた兄妹⋮⋮か﹂
ご祝儀袋を仕舞い一旦静まった車内でぼそっと綺斗が呟いた。
そう言えばそんなことを師匠さんから言われたっけ。
﹁兄妹って言われても全然似てないのに﹂
﹁ただ悔しいから言っただけだ。あの人はとにかく若い女が好きだ
からな﹂
﹁⋮⋮なるほど。そういえば、淳希様とは10歳離れてるんでした
っけ﹂
﹁そうだ﹂
﹁私は姉しかいないので妹や弟が居たらどんなふうなのかちょっと
興味はあります。でも、
この家には生まれないほうが幸せだと思うから。これで良かったと
思ってますけど﹂
妹や弟が生まれたってどうせ道具としてどこかに嫁に行かされるか
借金を一緒に返済させられるか。どっちにしろ自由な未来なんてあ
るわけない。
利用価値のある姉のように生まれ持ったものがあればいいのだろう
けど、
私のように何もなかったらただ可哀想なだけだ。
﹁淳希は兄に頼めば何でもやってくれると思っている舐めたガキだ
った﹂
﹁末っ子体質というやつですね﹂
﹁根性の甘えきったアホだ。それを許していた俺達も大概だが﹂
﹁⋮⋮﹂
198
両親には冷めた態度をとってもやはり兄弟は違うのだろうか。
彼の口から兄弟について語られることは殆ど無いけれど、師匠さん
の話しや
以前智早が話していた事もあるから兄弟仲はそれほど悪く無くなか
ったぽい?
どんな兄弟だったのか見てみたかったけどそれはもう一生かなわな
い。
10年の差が自分だけ歳をとっていってどんどん開いていく、兄の
歳を追い越していく。
それは普通ならもっともっと歳を重ねた先の悲しみのはずなのに。
﹁何だ﹂
﹁都合のいい時で結構ですから、倖人様と淳希様のお墓参りがした
いです﹂
自分だけが生きている現実をどんなふうに乗り越えているのだろう。
何も感じてない事はないはず、この人は心の底まで凍っている訳じ
ゃない。
感情が無い訳でもない。人に知られないように触れさせないように
しているけれど。
﹁面倒だ。今から連れて行ってやるからさっさと済ませろ﹂
﹁ありがとうございます﹂
気にしない素振りをするのはただの強がりなのかきちんと心の整理
ができているのか。
その心を知りたいけれど聞いてもきっと教えてはくれない。側で見
て自分で感じるしか無い。
だから私はこれからも出来る限りこの人の近くに居たいのかも。
199
私が欲しいのは甘く優しい包まれる言葉よりも、痛くても先へ進む
勇気なのかな。
なんて、私のことだからどっちも欲しがってどっちも手に入らない
パターンかも。
﹁早くこい﹂
﹁すみません﹂
程なくして久我家のお墓がある霊園へ到着。突然のことだから花も
お線香もない。
せめてお水だけでもとバケツに入れて急いで綺斗の後を追いかける。
父親は忙しくて、
母親は精神的な問題で大事な日以外は近寄らず手入れは家政婦さん
がするそうだ。
﹁俺は月命日くらいしか来ない。それも、最近は忙しくなってサボ
り気味だ﹂
﹁私はずっと人に任せきりです﹂
﹁お前は複雑だろうな﹂
お墓に到着して手を合わせる。家政婦さんがきちんとしてくれてい
るので綺麗。
人任せにしてばかりで姉や母の墓はきっとこんな綺麗にはなってい
ないのだろう。
掃除くらいしないといけないと頭では分かっていても。
愁一さんのお墓は彼の実家がある他県にあって、中々気軽には行け
そうにないし
今となっては無理をしてでも行こうとも思っていない。
200
﹁倖人様。淳希様。どうか綺斗様が私の作ったご飯ちゃんと残さず
全部食べますように﹂
﹁おい。神様じゃないんだ﹂
﹁仏様じゃないですか。きっと今夜あたり枕元に立って説得してく
れるはずです﹂
﹁お前の作る飯は量が多すぎなんだ。味も濃いし。食いきれる訳な
いだろあんなもの﹂
﹁料理教室通う﹂
﹁通わんでいい時間の無駄だ。とにかく、墓はもういいだろう。帰
るぞ﹂
﹁もう少しだけ。倖人様と淳希様の話を聞いてから﹂
﹁昔話は嫌いだ﹂
﹁じゃあお師匠様に聞いてきます﹂
﹁お前はあのオッサンに押し倒されたいのか?馬鹿言ってないでさ
っさと帰るぞ﹂
﹁⋮⋮オッサンって言った﹂
バケツを持ってさっさと墓から離れていく綺斗。私はもう一度お墓
にお辞儀をして
その後を追いかける。もっと何か話が聞けるかと思ったのに残念。
﹁いいか、よく聞けよ。倖人は脳内花畑の鬱陶しい所のある男だっ
た。
淳希は甘ったれのクソガキだった。これが俺の兄と弟だわかったな
もう聞くな﹂
助手席に座ったらイキナリそんな事を言うからびっくりしたけど
一応説明してくれた?のかな。
201
﹁そこに綺斗様ですからね。バランス取れてたかも﹂
﹁どういう意味だ﹂
﹁綺斗様。やっぱり子どもが欲しいです﹂
﹁要らん﹂
﹁私が上手く絞り出せたら良いって言いましたよね﹂
﹁下手くそな癖に。黙って寝てろ。俺は忙しい﹂
202
そのさんじゅうろく
﹁お帰りなさい綺斗。二人でお出かけ?仲が良くて嬉しいわ﹂
﹁ただいま戻りました。喜んで頂けで良かったです﹂
お墓参りを済ませ帰宅するとお庭で花の手入れをしていた義母が声
をかけてきた。
よほど良いことがあったのか、この前は激怒していたのに今は妙に
ご機嫌でニコニコしている。
仲が良いいかは別として綺斗と一緒に出かけていたのは前回も同じ
なのに。
元からにこやかな人ではあるけど一度あの鬼のような顔を見てから
は怖くなってしまった。
﹁綺斗。この前は声を荒げたりしてごめんなさいね、私もついかっ
となってしまったわ。
でも本当に貴方を心配しているのだけはわかってちょうだいね?お
願いね?﹂
﹁ええ、理解していますよ。大丈夫ですから。手入れの途中でしょ
う?どうぞお戻りください﹂
義母が何時も以上にぎこちないウソっぽい笑みを浮かべると綺斗も
同じように微笑み返し
その場を後にする。
私は置いて行かれたら困ると急いで彼の後を追いかけ一緒に部屋に
はいった。
﹁すごく機嫌良かったですね、お義母様﹂
203
﹁薬を飲んだんだろう。最近は特に荒れていたからな﹂
﹁⋮⋮あ﹂
言われて思い出した。義母は息子たちのことで心を病んでおり病院
へ通って薬も服用していると。
気分のむらがあるのも薬を飲んでいるからなのだろうか。それくら
いしないと心が保てないのか。
綺斗は察していたようだが、私は自分のことで精一杯ですっかり義
母の内面までみていなかった。
いくら金の為に嫁いだ嫁でも、子どもを二人も失った義母に何も出
来ていないのは悪い気がする。
とはいえ、さっき顔を合わせても名前を全然呼んでくれなかったお
義母様に何が出来るのだろう。
一番いいのは最後の息子である綺斗が一緒にお茶するとか?付きそ
うとか?
﹁おい、聞いているのか﹂
﹁はいっ﹂
﹁母親のことは気にするな、ああいうものだと思って適当に合わせ
ておけばいい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
やっぱり久我家の為の孫なんだろうか。そうなるとプレッシャーが
出てきて気が重い。
すっかりリラックスして久我家で生活しているけれど、私の本来の
目的は孫。
若いのだからもっと積極的に行けと思われているに違いない。義母
にも言われた。
204
﹁薬は便利な道具だ。面倒なことを考えなくていいようにしてくれ
る﹂
﹁⋮⋮﹂
考え込んでしまって口ごもった私の前に立ち。そっと私の頬に手を
添える綺斗。
一瞬、首を絞められるのかと思ったけどそうじゃなかった。
私はただ彼を見上げるのみ。
﹁お前は使うな。どうしても使いたいなら先に俺に言え﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前が変わってしまう前に、俺が楽にしてやる﹂
﹁はい﹂
﹁今日はイベントの打ち合わせが15時からある。その後どうせ飲
みに連れ出されるだろうから帰りは遅い﹂
﹁その時間まで工房に行くんですか?それともまた机に向かってお
仕事?少しでいいから休んでください﹂
﹁いや、適当に本でも読んでるつもりだ。お前も居たいなら止めは
しない﹂
﹁居ます﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
その返事に珍しく素直にはにかんだような顔をちょっとだけ見せて、
頬にあった手が緩み
私の腰を引き寄せる。私もぎゅっとその逞しい体に手を伸ばしてい
た。
﹁綺斗様!忘れてました温泉まんじゅう﹂
﹁いきなりでかい声を出すな﹂
205
最初はその気でキスをして愛撫も始まっていたのに朝からバタバタ
したせいか調度良い温もりに
いつの間にか眠ってしまったらしい。それは綺斗も同じだったよう
で寝返りを打ったら彼にぶつかる。
最初は意識がぼんやりしていたけれど、時計を探して目に入った旅
行パンフレットで思い出した。
この前も見たけどあれからまだ片付けてないのは面倒で放置してい
るんだろうな。
いや、存在すら忘れている可能性がある。この人の場合。
たとえ忘れられても一人でも行くと決めている新婚旅行。海外がダ
メならせめて
国内温泉旅館でのんびり美味しいご飯とか蒸したての饅頭などを食
べたい。
﹁ちょうど資金も出来たし私﹂
﹁部屋は取った。イベントが終わったら行く﹂
﹁あ、あの。⋮楽しみにしてもいいですか﹂
﹁好きにしろ﹂
﹁せ⋮⋮せっかくだし⋮デジカメ買おうかな﹂
﹁いちいち俺を見るな。勝手にしろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁どうせ買うなら性能の良いものを選んでこい。安物は駄目だ﹂
﹁はい﹂
206
そのさんじゅうなな
今日も綺斗はいつもの時間に起きてこない。時計を見て軽くため息。
普段なら何もしなくても規則正しく起きてくるから起こしに行く事
なんてないけれど。
どうしても彼に伝えたい事があって、今日は彼の部屋に入り起こす
ことにした。
タイミングを逃せばもう夜まで会えない。
﹁おはようございます﹂
﹁⋮⋮﹂
彼は昨日も忙しそうにしていて、私は自分の部屋で寝たからわから
ないけど眠ったのは
たぶん夜遅く。睡眠時間が少ないから無理に起こしたら怒られるか
と思ったが
寝起きはそこまで悪くなくて、揺り動かすと薄っすらと目を開けて
軽くあくびをする綺斗。
﹁綺斗様。やっぱり西浦先生にきちんと御礼をしたほうが良いと思
うんです﹂
﹁⋮⋮﹂
でもまだぼんやりとしているようで起き上がる様子はない。
私としても話を聞いて頂けたらそれでいいので構わず話を続けた。
﹁ご祝儀も沢山頂いてしまったし。それに、やっぱり綺斗様のお師
匠様だし。
207
お返しに何かお菓子を買っていきましょう。甘いもの大好きって言
ってましたし。
美味しいもののお店なら任せてください。お薦めがいっぱいあって
困るくらいで﹂
﹁煩い少し黙れ。朝から何を言うかと思えば⋮⋮、先生に御礼?﹂
﹁はい。他の方にお返しをして先生には何もしないというのもおか
しいです﹂
﹁⋮⋮そうか。ならお前が適当に菓子を選んでこい。俺が先生に渡
してくる﹂
﹁え。で。でも﹂
﹁なんだ﹂
﹁一緒に行きたいです。私が全部頂いてしまってますし。それに、
西浦先生のお家には
作品も沢山あるって言ってましたよね﹂
﹁⋮⋮、鬱陶しいぞ。いいのか﹂
﹁綺斗様の師匠様ですから。大丈夫です﹂
﹁先生は気まぐれだ。取り次いで貰えるか分からないが、まあお前
が来ると聞けば
快く門を開けてくれるだろう。また連絡しておく﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁お前が起こしに来るほど寝てたのか﹂
﹁あ。今日は私がお話があってそれで﹂
﹁飯の支度をしろ﹂
﹁はい﹂
彼の部屋を出ると早足で台所まで向かって朝食の準備、というか温
め直し。
だけどコーヒーは綺斗が席についてから淹れなおした。
今後もこんな風に遅くなるのなら起きてくるのを待って二人で一緒
に食べようかな。
208
距離があるとはいえ、義両親とヒヤヒヤしながら食べるよりずっと
いい。
﹁何だ﹂
﹁無理だなって思って﹂
一瞬そんな想像をしたけれど、朝起きてまず朝食のメニューが何か
ワクワクしてるのに
それから一時間も二時間も待てる気がしません。ごめんなさい。
﹁は?﹂
今だって貴方の食べているサラダとかパンを眺めているだけでもう
結構お腹すいてきてます。
じーっと見つめていても怒られるだけなので別の話題を振る。
﹁今日も工房ですか﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃ、じゃあ。私はデジカメを買いに行ってきてもいいですか?﹂
実はこれもさっき言いたかった話題。だけど、言い出し辛くて言い
そびれた。
この流れでさらっと聞いてみる。買うこと自体は許可が降りている
けれど。
機嫌が悪かったり言い方が良くないとその許可もなかったことにさ
れるから。
﹁何処の店だ。何時に行く。お前一人か﹂
﹁お店は街の量販店です。バイトもないし、お昼から一人で行って
きます﹂
209
﹁⋮⋮﹂
﹁だ。だめですか﹂
﹁終わったら電話しろ。お前が妙なものを買わされてないか見てや
る﹂
﹁だ。大丈夫ですよ。⋮⋮たぶん﹂
﹁ああいう店の連中は鬱陶しい。見ているだけでもわらわらと寄っ
てきて大声でまくし立てる﹂
﹁そうなんですか?私、実は行ったことがなくて。でもどういうも
のかはマスターの奥さんに
教えてもらってるのでばっちりです!﹂
﹁あのヒョウ柄が目に痛いババアか。一緒に連れていけばいい盾に
なりそうだがな﹂
﹁心強いですけど。お店は普通に開いてますから。私に丁度いいく
らいの探してきます﹂
﹁好きにしろ﹂
ドキドキしたけど大丈夫そう。一時から綺斗の怒る基準がゆるくな
った気がする。
それでも怒るときはすぐ怒るけど、でも前とはまた違う。
この感じでいけばあの事も許してくれるんじゃないだろうか?ずっ
と我慢してたこと。
さっさと食事を終えて工房へ出ていく準備をしている綺斗の側にそ
っと近づく。
﹁あ、あの﹂
﹁何だ。まだ何かあるのか。早く言え﹂
﹁実はずっとずっと欲しかったものがあるんです、それを買っても
いいですか﹂
﹁気色の悪いクソ虫の姿をしてなければ許す﹂
210
﹁⋮⋮行ってらっしゃいませ﹂
やっぱりだめだった。というか、何でわかった?
綺斗を見送ったら後はもう黙々と家の事を家政婦さんたちに習いな
がらやるだけ。
最初こそ家のことを知るためにやっていて、もう本来はしなくても
いいのだろうけど。
でもそれをやめてしまったらこの家ですることもない。だから積極
的に家政婦さんを手伝う。
義父は忙しくてそんなものを見てないし、義母はそれを見ても止め
ろとも何ともいわない。
薬のせいなのか何なのか、
機嫌がいいときは以前と変わらず笑顔で接してくれて買い物や演劇
などに誘ってくれて。
﹁ねえ貴方まだ綺斗をその気にさせられないの?﹂
﹁あ。あの。そんな事はなくて何度かその﹂
﹁またそんな言い訳⋮⋮期待、裏切らないでね?お願いだから﹂
機嫌がよくないとこうして言葉と鋭い視線で突かれる。
綺斗が言ったように、私は身ごもるまで永遠に言われ続けるのだろ
う。
211
そのさんじゅうはち
少し前までの私の一日はイベントごとや習い事がない限りは家と学
校の行き来くらいで
自由に外を散策するなんてことはできなかった。愁一さんとの交際
も地味に目立たぬように。
特に姉が智早と婚約する前後は何がきっかけで相手の両親から無か
った事にされるかと
気を使って息を潜めて、とにかく規則正しく真っ当な良家の娘を演
じていたっけ。
交際を黙認していた癖にやたら目が厳しくなったり。結局そんなも
の意味が無かったけど。
﹁⋮⋮あと一回。あと一回だけ﹂
それが今、生まれて初めてのクレーンゲームに興じています。相談
したマスターに教えてもらった
大体のものは手に入るという量販店に何故か設置されていたゲーム
コーナー。最初は人が多くて
煩いくらいしか思っていなかったけど、偶然にも目に入ったその景
品に惹かれて中へ踏み込んだ。
狙うはリアルなエビのぬいぐるみ。グソク君じゃないから旦那様も
大丈夫だよね。
﹁アレほしいの?良かったら取ってあげようか﹂
﹁えっあっの﹂
﹁こういうの得意だから﹂
212
﹁⋮⋮ごっ⋮ごめんなさいっっ﹂
アームを睨みつけながら五回目のチャレンジ中、にゅっと横から顔
を出すお兄さん。
あまりにびっくりしてお金を入れていたのも忘れて慌ててその場か
ら走って逃げた。
集中しすぎて気づけなかった。もしかしてあの人もあのエビが欲し
くて並んでた?
だったら悪いことをしたかもしれない、でも謝るにももうあの場に
戻る気はない。
﹁いらっしゃいませ。今日はどのようなものをお探しですか?よけ
ればご案内致します!﹂
﹁⋮⋮あ、あの。デジカメ﹂
﹁でしたらコチラです!どうぞ!﹂
綺斗が言うように家電フロアに到着したら店員さんらしき男の人が
凄い勢いで近づいてきて
大きな声で話しかけてきた。確かに物が多すぎて何処に何があるか
わからないけど。
その迫力がちょっと怖い。ドキドキしながらその人についていって、
デジカメを確認。
﹁⋮⋮可愛いのがいいな﹂
﹁でしたらこちらなんて女性に人気のモデルですよ!﹂
﹁はっはい、どうも﹂
ぼやいたつもりなのに思いっきり拾われて次々と紹介される。
もうそろそろ向こうへ行って頂きたいけど、一向に去ってくれる気
配はない。
213
まさかここまでとは。マスターの奥さんについてきてもらうべきだ
ったかも。
﹁あとコチラの商品になりますと更に高画質な上に超軽量!女性の
手にも持ちやすい大きさで﹂
ああ、そんな早口に捲し立てないでください。もうなんでもいいや
適当に買って帰ろう。
もっとちゃんと見たかったのにな。けど、仕方ない。
値段がそれなりのものを選べば機能もよくて悪いものじゃないはず。
﹁はいはいどうもどうもー後はこっちで決めるんで行ってもらって
結構ですよー﹂
﹁そ、そうですか。それではまた何かありましたら呼んでください﹂
その軽い一声であっさりと店員さんは去っていく。
﹁ああいうのほんと鬱陶しいよね。はい、これ﹂
声をかけてくれたのはさっきゲームセンターに居たお兄さんだ。
その手には私が欲しかったエビ。
﹁あ。の。⋮⋮でもこれ﹂
﹁君のお金で取った奴だから。金入れっぱで逃げちゃもったいない
よ﹂
﹁ありがとうございます﹂
本当に取ってくれたんだ。あの一回で取ってしまうなんてすごく上
手なんだな。
素直に受け取る。
214
﹁いえいえ。デジカメ、買うの?カメラが趣味って感じじゃないけ
ど。ここのはどれもプロ顔負けの
ハイスペックなのばっかだけど、ちょっと撮るだけでいいなら向こ
うのが良いと思うよ﹂
﹁そうなんですか。じゃあ、そっちにします。ただ旅行で使いたい
だけなので﹂
﹁そんな感じした﹂
笑いながら私に合ってそうなカメラの場所を教えてもらって、そこ
でゆっくりと考えて選ぶ。
やっと気に入ったカメラを見つけてレジへ向かうことにはお兄さん
は居なかった。
もう一度お礼を言おうと思ったのに、だけどこれでカメラもぬいぐ
るみも手に入って大満足。
﹃ただかカメラに何時間かけてるんだ﹄
﹁色んなものが置いてあってみてました﹂
﹃だったら最初からそう言え。⋮⋮何かあったのかと思うだろ﹄
﹁え?そうですか?大丈夫ですよ私だって繁華街くらいいけます﹂
﹃その辺のアホガキでも行ける﹄
ちょっと休憩をはさみ。家に帰ろうとした所で旦那様に電話するの
を思い出した。
どうせ忙しいだろうしそこまで気にしてないだろうと思ったら思い
の外怒っている。
確かにデジカメを買うだけなら三十分も要らないけど、ゲームで遊
んだり他の物を見て
結局二時間ほどここで遊んでいたことになる。
215
﹁楽しかったです﹂
﹃店名と今いる場所を教えろ。いいか、そこから動くなよ﹄
﹁タクシーに乗ろうと思って、外なんですけど。このまま家に﹂
﹃動くな﹄
何となくそんな気はしてたけど。これはつまり、迎えに来るって意
味だよね?
どうしようぬいぐるみを見られる。こっそり部屋に持ち帰って部屋
に飾っておこうと思ったのに。
隠せるような大きな袋もないしこれはもう怒られるの覚悟で持って
いるしか無いか。
今いる場所を綺斗に伝えて電話が切れる。
だけど今日はあのお兄さんがいてくれて助かった。お陰で楽しめた。
たとえ少しの間だけでも
隣に人が居るのは新鮮。最近になってその楽しみを知った気がする。
誰かと知り合って多少仲良くなっても結局は姉に惹かれて疎遠にな
るから。
笑顔で近づいて来てもどうせ貴方も私を踏み台にするんでしょう?
としか思えなくて。
今更だけど、もうそんなこと思わなくていいんだ。
綺斗様とも何時か一緒に買物とか出来るのかな、⋮⋮無理だろうな。
﹁嫌です。絶対に嫌です。綺斗様﹂
﹁何も言ってない﹂
﹁これはダメなんです。このえびは特別なんです、だからダメなん
です﹂
﹁意味のわかる会話をしろ。全くお前はどうしてそう気色の悪いも
216
のを欲しがる?﹂
﹁可愛いから﹂
﹁お前のそのセンス、心底気持ち悪い﹂
217
そのさんじゅうきゅう
車に乗せられて家まで送ってくれるのかと思いきや、そのまま工房
へ引き返す。
その方が行って戻ってくるより時間のムダもなくて良いとのことで。
だったら最初からタクシー乗って帰ったのに。なんて言うと怒られ
るので黙っている。
旦那様なりに私を気遣ってくれているのだと思っておこう。
﹁さっそく試しに使ってみたいので電池を充電してもいいですか?﹂
﹁ああ﹂
暫くして工房に到着し綺斗はそのまま一階に残り私は二階へあがる。
部屋にエビを持って行こうとしたら怒られたので車に置いてきた。
夕方には家に戻るそうなのでそれまでこの買ったばかりのデジカメ
をお勉強。
箱から丁寧に全部出して充電をしている間に説明書を最初から読み
始める。
﹁奥様、お茶をお持ちしました﹂
﹁はい﹂
十分ほどしてお弟子さんが声をかけてくれる。今度は菅谷さん。男
の人だ。
今度は入ってもらっても大丈夫なので自分から開けて入ってもらう。
彼は机にお茶とお菓子を置いてくれた。
﹁すいません、室井を連れて来ようと思ってるんですが。あいつ中
218
々﹂
﹁そんな、気にしないでください。私は何とも思ってないですし﹂
﹁あいつがもし失礼なことを言ったりやったら遠慮なく叱ってくだ
さい﹂
﹁私はそんな言える立場じゃないし忙しい綺斗様を支えてくれるお
弟子さんも大変ですよね﹂
﹁仕事面では支えられても精神面はそうはいかない。あいつはそれ
を分かってない。
どっちも自分ならやっていけると勘違いしている。⋮⋮女っていう
のは厄介です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あ。いえ、⋮⋮すいません。それじゃ失礼します。ごゆっくり﹂
﹁はい﹂
そう言って彼はそそくさと部屋を出て行く。勘違い、と言っていた
けど。
彼女なら仕事面でも精神面でも綺斗を支えられそうな気がする。ず
っと強い口調で
綺斗を守るために行動していたから。それはお弟子さんとして、一
人の女として?
そんな事本人に聞くわけにはいかないけど、たぶんどっちも混じっ
た複雑なものな気がする。
私は妻として何が出来るのだろう。そして、この一口サイズの最中
は絶品すぎる。
﹁先生、また仕事の依頼が来てます。あと雑誌の取材も。どうしま
しょうか﹂
﹁イベントが終わったら考える、保留にしておいてくれ﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮、いや。どちらも断れ﹂
219
﹁え?良いんですか?どちらも今まで贔屓にして頂いている方で﹂
﹁イベントが終わったら三日ほど留守にする。お前たちも休んで良
い﹂
﹁え!三日もどちらに?﹂
﹁嫁を連れて旅行に行く﹂
﹁あ。そういや新婚旅行まだでしたね!いいじゃないですか!どう
ぞ行ってきてください!
お土産楽しみにしてますよ先生!俺はやっぱり酒に合う珍味とかで
お願いします﹂
﹁わかった。食い物はあいつが詳しいだろうからな。ただ何かあっ
たら遠慮なく連絡はしろ﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
一時間経過。充電もそろそろ終わった頃だろうと取り出してデジカ
メ本体にセット。
説明書を一通り読んでいるから使い方もバッチリ。だと思う。適当
に何か撮ってみよう。
ここにあのエビが居たらイッパイ撮ったのにな。
﹁記念すべき一枚目がゴミ箱﹂
これはあまりにも切ないんじゃないだろうか。他に何か被写体にな
ってくれそうなもの。
隣の部屋に納品前の作品を置いてたりしないだろうか?二階に居ろ
と言われただけで
部屋から出るなとは言われていない。皆さんは一階に居るわけで、
写真を撮るだけならいいだろうとそっと部屋を出る。
何時も決まった部屋しか居ないからそれほど詳しくない。お隣の部
220
屋は鍵はなくて
簡単に開いた。部屋の作りも似ている和室。目当ての着物は飾って
なかったけれど、
どうもここは休憩室らしく私物らしきカバンや服が置いてある。
﹁室井さんのかな?不味い早く出よう﹂
カメラ持って人の休憩室にこっそり入ってるなんて不味すぎる。
﹁何をなさってるんですかこんな所で﹂
くるりと向き直って逃げようとしたら部屋に入ってくる室井さんと
鉢合わせる。
こういうタイミングだけは何時も神がかっていいから嫌になる。
﹁あー⋮⋮あの!違うんです。これはその。着物がないかなって!﹂
﹁着物?ここは私の休憩室ですあるわけないじゃないですか﹂
﹁すみません知らなくて﹂
﹁出て頂いてもいいですか?幾ら奥様でも踏み込んではいけない場
所があると思います﹂
﹁はい。すみません﹂
急いで部屋から出る。やっぱり不審がられるよね、元から嫌われて
いるようなものなのに。
﹁そうだ。私、菅谷さんから貴方に謝れとか言われてるんですけど﹂
﹁そんな気にしないでください。私は別に﹂
﹁最近まで別の男と付き合ってたんでしょう?その男が死んだらも
う先生と仲良く新婚旅行?
カメラなんか買っちゃって。先生もなんだかんだでその気だし。私、
221
そういうオツム?お尻?
とにかく軽そうな女ってどうひっくり返っても謝る気にはなれない
んですよね失礼します﹂
早口でまくし立てるとピシャリと戸を締められた。
﹁⋮⋮﹂
しばし、その場で固まって。でもそのままじゃ彼女とまた顔を合わ
せるから部屋に戻る。
﹁⋮⋮そっか。そう言われると、困るな﹂
カメラを机に置いて、ぼんやりと落ち込んで座ったまま時間だけが
過ぎていく。
﹁どうした。また暗い顔をして。⋮⋮カメラ、もう充電出来たんだ
ろ﹂
﹁⋮⋮綺斗様﹂
いつの間にか窓からの光が薄暗くなっていて、時間がかなり経過し
たことを察する。
仕事を終えたらしい綺斗が隣に居て私を抱き寄せる。
﹁寂しかった、とかか?﹂
﹁⋮⋮少し﹂
﹁どうしてほしい?キスでもしてやろうか﹂
﹁してください。⋮⋮体に、いっぱい﹂
﹁そうか。なら家まで我慢するんだな。ここでは唇までだ﹂
﹁はい﹂
222
軽く唇を合わせて、私たちは工房を出る。
223
そのよんじゅう
家に帰ると家政婦さんが顔を出しいつもの様に綺斗を出迎える。そ
の隣に私も居ても
全く変わらぬ笑顔で奥様として接してくれるのはここに初めて来た
ときから変わっていない。
こんな非難されても仕方ない女でも。やはりプロだからか、それと
も少しは馴染めたから?
﹁お夕飯の準備は間もなく整いますので﹂
﹁そうか。親父の車がとまっていたが今日は皆揃って食事が出来そ
うだな﹂
﹁はい。旦那様も綺斗様がお戻りになるのを楽しみになさっていま
した﹂
﹁楽しみ、か。⋮⋮ふん﹂
面白くなさそうに鼻で笑って綺斗は自室へ戻る。私も自分の部屋に
戻りエビとカメラを机に置いた。
最近は義父も忙しいようで中々一緒に食卓を囲むということがなか
った。義母はそれが普通なのか
何も言わずマイペースに食事をして、時々一方的に綺斗とお喋りを
して。
私にも話題をふりながら部屋に引っ込んでいく。
私が料理を作るのは義父が居なくて義母が体調不良で部屋で食事す
るタイミングをみて。
豪華でなくてもちょっと不格好でも二人で食べたほうがまだ美味し
く感じる。
224
綺斗からは不平不満が凄く出るけど。
﹁お帰りなさい綺斗。お仕事、大変そうね。CMも見たわ。ね、あ
なた﹂
﹁ああ。周りからも評判がいい。知り合いの令嬢が是非お前に頼み
たいと言ってきた﹂
﹁ありがとうございます。依頼は今幾つか待っていただいている状
況ですので、お話は後ほど﹂
﹁なるほど。これは時間がかかりそうだな、先方に伝えておこう﹂
ドキドキしながら部屋に向かうとすでに綺斗が着席して両親と会話
中。
私もひと声かけてから席に着く。これで全員集まったので夕食の始
まり。
次々に運ばれる料理を皆さん慣れた手つきで綺麗に品よく口に運ん
でいく。
義父はワインを飲み綺斗は水、女はスープを静かにすする。
﹁律佳さん、今日はお一人で何処に行っていたのかしら?最近よく
外へ出ているようだけど﹂
﹁律佳には俺の作品を着せるに相応しいようマナーと着付けを習わ
せています﹂
﹁ああ、そうだったわね。それにしてはあまり身についていないよ
うね。お姉様はマナーも行き
届いた利発そうなお嬢さんだったのに、同じ姉妹でも違ってくるの
かしら﹂
﹁まだ若いんだ、そういびるような事を言うんじゃない。気にしな
いでくれ律佳さん﹂
﹁勉強が足りず申し訳ありません。お義母様﹂
225
辛辣な言い方をする義母に苦笑い。今日はちょっと機嫌が良くない
日なのかな。
﹁ごめんなさいね律佳さん。でも、聞いていた話とだいぶ違ったも
のだから。ついね﹂
﹁まあいいじゃないか。何とでもなる﹂
﹁そうだけど﹂
いや、これは素なのかもしれない。時間が経って本音が漏れてきた
のかも。
父親はどんな上手いことを言ってこの夫婦に取り入ったのだろう?
姉をダシにしたのは間違いないだろうけど。
﹁食事中にそんな話はやめませんか﹂
﹁そうだ。食事は楽しいものでないとな。音楽でもかけようじゃな
いか﹂
室内には何処からかクラシックの優雅な音楽。だけど、やっぱり何
を食べても味がしない。
この家の料理は実物じゃないみたい。絵描かれた美味しそうな料理
をただ眺めているだけみたいな、
そんなわびしい気分になる。淡々と食事をして部屋へ戻ろうとする
綺斗に合わせて私も席を立つ。
扉を開けて彼を追いかけようとしたら綺斗が廊下で待っていた。
﹁出かける﹂
﹁え。またお仕事ですか?﹂
だから義父にすすめられてもワインを飲まなかったのか。
226
﹁いや、仕事でたまに使うホテルに行く。そこでなら酒も飲めるし
飯もあるからな﹂
﹁いいな﹂
﹁ルームサービスをアホほど使わないなら連れて行ってやる﹂
﹁はい!﹂
待っててくれたということは連れて行ってくれるのだろうと思って
た。さっさと準備して家を出る。
両親には言わなくていいのかとさり気なく聞いたらガキじゃあるま
いし、と言い捨てられた。
確かにそうかも。義母は気にしそうだけど。目指すは街中にある綺
斗がよくつかうという一流ホテル。
以前のパーティで使ったような歴史のある超のつくほどではないけ
れど、名前はよく目にする。
﹁えびちゃん!﹂
中に入ると何処もピカピカで目が痛い。綺斗が受付をしている間、
私はやることもないので
パンフレットを何気なく眺めていたら何処からかそんな声が聞こえ
てくる。
妙な名前の人が居るものだ。外国の人かな?ホテルには外国から来
た人も多いし、
でもどんな顔をしているんだろう?
﹁えびちゃんてば﹂
ポンポンと肩を叩かれたのは私だった。
227
﹁は?﹂
﹁ほら。えびちゃんだ。俺だよ俺。覚えてない?今日昼間ゲーセン
で﹂
﹁あの時のお兄さん?﹂
﹁そうそう。オレオレ﹂
何度やっても取れなかったエビを一回で取ってくれたお兄さん。
店員さんに困っていた所を助けてくれて、いつの間にか居なくなっ
てた。
でもなんでこんな所に?格好も昼間のラフなものとはちがうしっか
りした格好。
﹁ああ、どうも。その節はお世話になりました﹂
﹁いえいえ。名前、分からないからえびちゃんって呼んでごめんね。
でもカワイイよねエビって﹂
﹁わかります!?エビ可愛いですよね?あの顔がシューってしてる
所とか!目がクリっとしてて﹂
﹁あ。ご、ごめん。食べ物のエビじゃなくてえびっていう言い方の
ほうね?﹂
﹁⋮⋮で、ですよね。ごめんなさい﹂
ちょっと気持ち悪かったかな、若干引かれてしまった気がする。
﹁何だお前は﹂
﹁綺斗様﹂
軽い恥をかいた所で鍵を持った綺斗。
﹁⋮⋮あれ。あれ。あれ!?もしかして綺斗ってことは淳希の兄上
さん?﹂
228
﹁会うのはこれで三度めのはずだぞ、覚えろアホ猿が﹂
﹁お知り合いですか?﹂
﹁このアホは淳希の同級生だ。元、になるのか﹂
﹁そっか。えびちゃん兄上さんの彼女なんだね﹂
﹁えびちゃん?﹂
﹁ここにお泊り?俺もなんだ。良かったら三人で酒でも﹂
﹁殴られたくなかったら今すぐに消えろ﹂
﹁え。そんなキレます?怖いねえびちゃんの彼氏﹂
229
そのよんじゅういち
﹁良かったんですか?綺斗様と話したそうにしてましたけど﹂
﹁話をした所で翌日には忘れているような奴だ、時間の無駄すぎる﹂
﹁そんなすぐに忘れちゃうんですか?﹂
ロビーで立ち話もなんだからと何度も誘われたが完全に無視してエ
レベーターで上へ上がる。
あの人は惜しそうにしながらも流石にそこまではついてこなかった。
強引そうに見えて引くときは
案外あっさりと引くらしい。そういえば昼間もいつの間にか居なく
なっていたっけ。
﹁顔と名前を覚えるのが絶望的に無理な脳みそだからな﹂
﹁でも綺斗様のことは覚えてて良かったですね﹂
﹁何がいいんだ適当なことを言うな﹂
﹁忘れられるより良くないですか?﹂
﹁むしろ忘れて欲しい。何もかも忘れてジャングルに帰ればいい﹂
﹁え、日本人じゃないんですかあの人﹂
﹁冗談だ﹂
真顔でそんな事言うから本当かと思った。顔立ちもハーフだと言わ
れたらそれっぽい。
言動はやや軽いけれどそんな悪い人には思えないし、綺斗からも悪
意までは感じない。
ただ、かなり鬱陶しいと思っているのは確か。
こんな高そうなホテルに泊まれるのだから家は相当なお金持ちなの
だろうけど。
230
でも、お金持ちがあんな所のゲーセンで遊んでいたのは何故?凄く
馴染んでいたし。
あと、素朴な疑問としてあの人は何さんですか?
名前を聞かなかった私も悪いけど。綺斗からの紹介もなければ彼か
らもなく。
私も名乗ってもない。えびちゃんのまま。今後また会う機会がある
のだろうか。
﹁ここが何時も泊まっている部屋ですか﹂
エレベータを出て廊下を歩き、カードキーでドアを開けたらその先
はセミスイート。
一般の部屋ではないだろうと思っていたから驚きはない。
むしろもっとすごい部屋に泊まると思っていたくらい。でも仕事で
使うなら妥当か。
特にすることもないし、部屋を一瞥しソファに座って部屋の説明な
どを眺める。
﹁おい家畜。お前が呼べるルームサービスは1度だけだ。ちゃんと
考えて注文をしろ﹂
﹁大丈夫ですよ対策済です﹂
﹁全部大盛りにしようなんて思ってるんじゃないだろうな﹂
﹁おもってないです﹂
思ってたけど今辞めました。呆れられながらもメニューを眺めて注
文の内線電話。
綺斗はお酒とツマミだけでいいらしい。私はがっつりと肉メインの
ディナーコース。
231
にしたかったけど、そこは諦めて野菜メインのサンドイッチ。
40分ほどしてドアがノックされて注文した品が次々と到着する。
﹁そういえばお前何でえびなんだ﹂
﹁私えびのぬいぐるみ持ってましたよね?あれゲームの景品で。あ
の人に取ってもらって﹂
﹁ゲーム?景品?お前はカメラを買いに行ったんじゃないのか?寄
り道をしたなんて聞いてない﹂
﹁そのお店が大きくてゲームコーナーがあったんです、それでえび
が欲しくてつい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
飲んでいたグラスを机に置いて黙る綺斗。あ。だめだ。これは怒ら
れる。
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁はい﹂
あれ、静まった。怒らない?
﹁俺の居ない所で男とゲームか、少し甘やかしたらすぐ付け上がり
やがっていい度胸だ﹂
﹁⋮⋮﹂
やっぱり怒っていらっしゃる。首を締められるかもしれない。サン
ドイッチを取り上げられる前に
一気に食べて紅茶で流す。もっと味わって食べたかったけど食べら
れないよりはマシ。
232
﹁何が寂しいだ﹂
﹁寂しかったのは本当ですから。それに、一緒に遊んだわけじゃな
いんです﹂
びっくりして逃げたから。その後少しだけ一緒に居たけど。
﹁煩い。一人で行かせるんじゃなかった﹂
﹁じゃあ、一緒に来てくれるんですか?﹂
﹁買い物は同じ女のほうがいいだろう、そうだな。室井にでも行か
せるか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何だ﹂
﹁いえ。⋮⋮暫くは欲しいものもないし、大丈夫です﹂
彼女の言葉が頭のなかに蘇る。それ以上は何も言えなくて、逃げる
ように立ち上がり
お風呂に入る準備をしに浴室へ。シャワーだけでもいいかなと思っ
たけど買い物や
義両親のことで疲れたのもあってちゃんとお風呂に入りたい。
ここまできて綺斗に全身キスをしてもらおうと思っていた気持ちも
だんだんと薄れてきた。
﹁おい。何勝手に脱いでる﹂
﹁お風呂入ろうと思って﹂
﹁俺に何も言わずにか。ずいぶん勝手なことをするな﹂
たまるまで待って、たまったらすぐ入ろうと脱ぎ始める。と後ろか
ら不機嫌な声。
この部屋には二人しか居ないのだから振り返るまでもない。それに
後ろからぎゅっと
233
抱きしめられて身動きも取れないから。綺斗からふんわりとお酒の
匂いがする。
﹁綺斗様もお風呂入ります?﹂
﹁そうだな﹂
﹁しっかり温まって体を休めてください﹂
﹁それでいいのか?お前、俺に全身を舐めてほしいんだろ﹂
﹁キスって言ったんです﹂
﹁一緒だ。⋮⋮そうだ、舐めてやるからお前も舐めろ。練習させて
やる﹂
﹁それって上手く行ったら中に出して貰える、とかですか?﹂
﹁お前の頑張り次第だ﹂
﹁わかりました﹂
234
そのよんじゅうに
﹁⋮⋮美味しかったらいいのにな﹂
あまりにも不味くて死にそうになるレベルではけど口にいれるのは
勇気がいる。
シャワーを浴び体を綺麗にしてから綺斗がその場に寝てその上に私
がそっと乗った。
それぞれ顔は反対にして。ということで、私の目の前には綺斗のソ
レがあるわけで。
まずは手で扱いて様子をうかがいつつ、ゆっくり舌でちょろちょろ
となぞってみて。
﹁きちんと舐めろ﹂
﹁痛い痛い痛い!綺斗様!お尻ひねったら痛いです!﹂
﹁軽くつまんだだけだ。大げさな﹂
﹁絶対アザになった﹂
﹁なっても誰も見ない﹂
﹁わからないじゃないですか﹂
これから新婚旅行で温泉に行く予定なのにお尻にアザなんてあった
らヘンに思われる。
DVとか疑われたら困るのはそっち様じゃないんですか。またお尻
をつままれたら嫌なので
思い切って深く口に入れて吸い付きながら顔を上下に動かす。全て
旦那さまからの指示。
﹁⋮⋮﹂
235
﹁⋮⋮んっ⋮⋮んっ⋮⋮んんっ!?⋮綺斗様?﹂
今度はちゃんと言われたとおりにやってるのに何でお尻の肉引っ張
ってます?
それも恥ずかしい所がよく見えちゃうように、ソコを引き伸ばすよ
うに。この体勢でそんな事を
されたら綺斗からは何がどう見えているのか、想像しただけで顔が
赤くなる。体が熱い。
﹁だから、誰が見るっていうんだ。お前のこんな場所を﹂
﹁あ⋮⋮あの、そんな⋮開かないで⋮息が当たる⋮⋮﹂
﹁愛しい男にも見せたことがないんだろう?それとも舐めさせたり
はしたのか?⋮⋮こんな風に﹂
﹁んっ⋮⋮あ⋮⋮﹂
ぐっとお尻を鷲掴みされて彼の顔に寄せるとジュルっと卑猥な水音
とともに吸い付かれた。
乱暴に力任せに、舌と指とが絡んでくる痛いくらいの刺激。
腰がビクビクっと痙攣して、思わず彼自身を握っていた手が緩む。
﹁どうした。まずは俺を勃起させないと先には進まんぞ。子どもが
欲しいんだろ?﹂
﹁あっ⋮⋮ぅんん﹂
そうだ。私は子どもを宿さないとダメなんだ。皆がそれを望んでい
るのだから。
でもどうしよう、もっとちゃんとやらなきゃいけないのに。下半身
からの甘い刺激に
体が言うことをきかない。もっともっとシテほしくてそっちにばか
り気が行く。
236
﹁ほら、そんなクソ真面目に期待に答えようとするな。覚えたばか
りの快楽をもっと楽しめ﹂
﹁あっ⋮っ⋮綺斗様ぁ﹂
﹁ガキにはまだ俺を悦ばせるのは無理だったな。いいからこのまま
イけ﹂
結局気持ちよくて流されて自分では何もできないまま、綺斗の上で
イク。
自分がその辺のことに未熟なのは分かっていても、やはり一人だけ
イクのは恥ずかしい。
それも盛大に声を上げて、お風呂だから響いて。これが家だったら
恥ずかしくて家出する所。
まだジンジンと鈍い余韻を残しつつ、何時迄も上に乗るなと怒られ
たので起き上がった。
綺斗も同じように体を起こし私を抱き寄せるけれど、その顔はまだ
少し不機嫌そう。
﹁あ、あの。体は綺斗様にしか見せてません。舐めてもらったのも
綺斗様が初めてです。
なのにきちんと舐められなくてごめんなさい。気持ちよすぎて、綺
斗様の舌が⋮凄く﹂
﹁そんなにか﹂
﹁うんっ⋮⋮あ。はいっ﹂
果てた余韻かトロんとしたせいでつい変な返事をしてしまった。怒
られないかな。心配。
抱きしめられている彼の胸からそっと上を向いて顔を確認。
﹁⋮⋮お前、四つん這いになれ﹂
237
﹁え﹂
怒ってはないけど顔が真顔だ。あと私のお腹に固いモノが当たって
いる。
それが何かは見なくてもわかる。でもさっきまでそこまでの元気な
かったですよね?
いつの間に?おどおどしていたらそれこそ怒られるのですぐに言わ
れるまま四つん這いに
なると綺斗が後ろに来てそのモノをお尻に当てる。
﹁散々濡らしてはいるがまだ慣れてないだろうからゆっくり挿れる﹂
﹁は、はいっ⋮⋮えっこ、これで?どうやって?﹂
﹁すぐ分かる﹂
﹁え。え﹂
お尻の割れ目からソコへと最初は軽く浅く行き来して、ゆっくりと
中へ。
なるほどそうですか。そうなりますか。
﹁流石に最初よりすんなり入るようになったな﹂
﹁あの。これだと困ります﹂
﹁こんな格好は恥ずかしいか?すぐ慣れる﹂
﹁そ、それもありますけど。⋮⋮これじゃ綺斗様の顔が見れないか
ら寂しい。
すみません変なこと言って。でも、まだ慣れてなくって綺斗様と一
緒がいいなって﹂
﹁⋮⋮﹂
この体勢のまま無言でいられても困ります怖いです。様子を伺おう
と振り返ろうとしたら
238
私を覆い隠すようにギュッと抱きしめられて、綺斗とぴったりくっ
ついた状態になり。
そこでやっと動いてくれた。最初ほどの違和感はなくて舐められた
直後だからか滑らかに動く。
胸とソコの突起を指で弄られながら私が先に果てる。今回も中には
出されず顔ではなくお腹。
軽くシャワーを浴びて諸々を落としてから改めてお風呂に入る。
正直もう疲れ切ってベッドに横になりたかったけどせっかくためた
のにもったいなくて。
あと、もう少しだけ綺斗と裸でくっついていたかった。相手もそれ
に無言で同意してくれる。
﹁綺斗様﹂
﹁何だ﹂
﹁綺斗様はこれからいっぱい有名になって忙しくなっていきますよ
ね。
そうしたら、私のことも皆さん知りますよね。今ももう結構知られ
てますし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私の過去は、私の実家は貴方の足を引っ張ります。せっかく綺斗
様が頑張っても
私のせいでダメになる日が来るかもしれない。
だからもう私はモデルはしないほうが良いと思います。引っ込んで
いたほうがいいです﹂
﹁誰かに余計なことを言われたか﹂
﹁そういうわけじゃ﹂
私のことを知ったら室井さんのように私に嫌悪感を抱く人は多いだ
ろう。
239
犯罪を犯したわけでもないけれど噂のネタには丁度いい。過去は簡
単に暴かれる。
親たちとしても私がモデルなんてして目立つとは思っていなかった
だろうし。
そもそもただ子どもを生むだけの為の嫁でそこまで考えてすら居な
さそうだから。
もし、それがダメになったら義父のいうように﹁何ともでもなる﹂
のだろうし。
﹁俺の仕事にお前は必要だ。今更引っ込めると思うな﹂
﹁綺斗様﹂
俯きがちになった私の頬を持ち上を向かせ強い口調で言う。
﹁いいか、誰がなんと言おうとお前は俺の妻で。俺の作品を最初に
着るモデルだ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁それで。お前に余計なことを吹き込むのは何処の何という奴だ﹂
﹁だ、だから違いますって﹂
﹁そんな今更なことを今更言い出すのは理由があるだろう。言え。
誰だ?﹂
﹁あ。明日の朝はバイキングがいいです!﹂
﹁雑なはぐらかしだな﹂
﹁朝から中華でも全然いけます。八宝菜とか天津飯とか青椒肉絲と
か!春巻き!肉まん!﹂
﹁やめろ聞くだけで胃もたれする﹂
240
そのよんじゅうに︵後書き︶
一区切り
241
⃝そのよんじゅうさん
風呂からあがり眠る準備を整えて。疲れているからかさっさと綺斗
はベッドに入り就寝。
私も少し遅れて部屋の電気を消してその隣に潜り込む。
﹁⋮⋮お休みなさい綺斗様﹂
形だけの夫婦だと思われているのかなとか嫁として何も出来てない
って見えてるのかなとか。
義両親の期待や久我家の周囲の人達の視線、他の何げない言葉さえ
も最近は気になる。
私としては綺斗との関係は形だけのものじゃなくて、互いを結び合
っている。縛っている?
何かがあると思っている。それが男女の甘い感情かどうかは分から
ないけど。
とにかく、どうせ形だけの夫婦でしょって言われるとムっとする。
﹁⋮⋮﹂
隣で眠る綺斗をぼんやりと見つめる。私の年上の旦那さま。怒ると
怖いけど、
じんわりと大人の快楽を教えてくれて、こんな私を生かしてくれる。
だから、好き。
だけど室井さんに愁一さんのことを言われてハッとした。最近彼の
ことを考えない。
姉の心中も彼の死も。過去として遠く過ぎ去るにはまだ時間が経っ
242
ていないのに。
﹁⋮⋮飯はあと五時間まて﹂
﹁起こしました?﹂
﹁そんな物欲しそうに俺を睨むな。⋮⋮眠れないのか﹂
寝息を立てていたと思ったらぱっちりと目を開けてこちらを見る綺
斗。
﹁私はオツム軽いですか?お尻も軽い?﹂
﹁お前のオツムには白米が詰まってるから安心しろ﹂
﹁そっか。良かっ⋮⋮ってどういう意味ですか﹂
﹁そういう意味だ。寝ろ﹂
でもまたすぐ目を閉じて私に背を向けて眠ってしまう。
﹁⋮⋮どうせならチキンライスがいい﹂
ぼやきつつもその背中に身を寄せて私も目を閉じる。
翌朝、宣言通りにホテル内のレストランで朝食バイキングに挑戦。
綺斗は仕事の電話がかかってきたので後から行くと部屋に残ってい
てまずは私だけ。
そうと決まればお皿に乗せられるだけ乗せて彼が来るまでに食べき
ってやろう。
﹁そういえば俺名乗ってなかったよね﹂
﹁何ですか唐突に﹂
243
トレーを持ってワクワクしながら1歩踏み出したら後ろからそんな
事を言われた。
振り返ると昨日のお兄さんだ。確かにここに泊まるって言ってたけ
れど。
﹁俺、宗親﹂
﹁私は律佳です﹂
﹁兄上さんはまだ寝てるんだね。そっかー起こしに行っちゃおうか
なー﹂
﹁仲がいいんですね﹂
突っ立っていても何だからと料理をお皿に盛りながら歩く。
宗親も沢山食べたいタイプの人らしくもりもりとお皿に野菜が乗っ
ていく。
対する私はハムやウインナーなど肉類がメイン。流石に中華は無か
った。
﹁昔はよく淳希と一緒に兄上さんの家に遊びに行ってたからね﹂
﹁え?ああ、淳希様は留学してたんですよね。宗親様もってことで
すか?﹂
﹁違うよ、もっと昔の話だよ。兄上さんの住んでた家。あんまり綺
麗じゃなかったし狭かったけど。
味があって俺は好きだったなぁー淳希も気に入ってよく遊んだなあ﹂
﹁それってどういう意味ですか?今のお家じゃないんですか?﹂
﹁兄上さんは生まれてからずっと乳母さんの家に居たんだよ?知ら
ないの?﹂
﹁はい。今、聞きました﹂
最初からあの家に居た訳じゃない?あんな自然に家に居たのに?
244
﹁淳希から聞いたんだけど、兄上さん赤ん坊の頃からお母さんにす
っごく嫌われてて
見るのも嫌っあっち行って!て近寄るだけでも凄いヒステリーなっ
てたらしい。
自分で産んだ子どもなのにね?なんだろ?意味分かんないよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁淳希は溺愛してたけど。一番上の兄さんはもう溺愛って言うより
尊敬だったか﹂
﹁そうなんですね。初めて知りました﹂
ちょっとギスギスしていてもそんな過去があったなんて思えない程
度には普通に接している親子。
おまけに義母は笑顔で綺斗に接していたし、彼も嘘っぽくはあった
けど笑みでかえしていた。
それは大事な息子を二人失ったからで失わなかったら綺斗が家に来
ることはなかったのだろうか。
母親に嫌われてもちゃんと最後の息子として居る綺斗はどう思って
いるのだろう。
﹁過去の話しなんかしたくないよね。でも、えびちゃんはそんな兄
上さん好きなんだよね?﹂
﹁嫌いじゃないです﹂
﹁そう。俺も嫌いじゃないよ。あ。俺ちゃんと彼女居るからね?そ
ういうんじゃないからね?﹂
﹁わかってます﹂
﹁じゃあ、ちゃんと愛してあげてね。あの人たぶん初恋になると思
うからさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁淳希が心配してたんだ。兄ちゃんはちゃんと女を愛せるのかって。
もしダメそうなら一緒に
245
性感ヘルスにでも行こうって話してた。ピンサロとかでも結構良い
店知ってるから俺﹂
﹁性感ヘルス?﹂
なにそれ何のお店?お見合いを斡旋するとかそういうお店かな?
こんもりお皿に料理を詰め込みご飯もお味噌汁もなみなみいれて席
に着く。
綺斗が来る前に一気にかきこみたいのに宗親の話が気になって手が
止まる。
﹁知らない?女の子に金はらって設定を決めて執拗に下半身をマッ
サージする﹂
﹁設定?下半身?﹂
﹁そうだなあ。たとえば﹂
﹁それ以上喋ったら通報するぞ貴様﹂
﹁あ。兄上さん﹂
﹁超のつく堅物だらけの黒木家に何故こんなクズが生まれたのか不
思議でならない﹂
﹁たまには息抜きも必要なんです。あ。抜きたいなら言ってくれた
ら紹介﹂
﹁お前の兄は確か警視庁の﹂
﹁あ。だめ。あの人は本当にダメ。俺投獄されちゃうから﹂
﹁病院へ行け﹂
不機嫌そうな綺斗。食事はとらずコーヒーだけいれて私の隣りに座
った。
そして私のお皿からパンを1個とって食べる。なるほどそう来たか。
﹁綺斗様﹂
﹁さっさと食え。こんなに取ってみっともない﹂
246
そのよんじゅうよん
後でちゃんと性感ヘルスの意味を聞きました。ピンサロも。なんて
言葉だろうと唖然としたし、
まずそんなの行かなくても綺斗様は大丈夫ですと怒りたかったけど
もうあの人は居なかった。
本当にいつの間にかやってきてあっという間に消えていく、変な人。
でもお家はとってもお堅い名門らしい。
﹁⋮⋮アホ猿め﹂
﹁綺斗様﹂
﹁煩い。いいからお前はさっさと家に入れ、俺はこのまま仕事へ行
く﹂
﹁夜まで戻りません?﹂
﹁戻らない﹂
﹁体に気をつけてくださいね﹂
﹁いいからさっさと降りろ﹂
自分の居ない所で過去の話をされたのがよほど気に食わないのかピ
リピリして、
たいした会話もできないまま、家の前まで車で来たら強制的に降ろ
される。
今朝までは落ち着いてのんびりと朝の挨拶だって出来ていたのに。
少しくらい話してくれてもいいのにな。昔の話。
﹁あら、律佳さん。またお出かけしてたの?﹂
﹁はい。綺斗様といっし﹂
247
﹁綺斗は居ないの?﹂
﹁はい。もう工房に﹂
﹁そう。⋮⋮挨拶もろくに出来ないのね、あの子は本当に困った子﹂
玄関を開けてすぐ義母が居たからヒヤっとした。追求されるかと思
ったけれどそこまで気には
していなくてニコっと笑って庭へ出ていってしまった。先程の話を
聞いた後だと何時も以上に
義母という人が怖くなる。子どもを偏愛するのもそうだけど、
赤ん坊の頃から追い出しておきながら今はこうしてニコニコと一緒
に暮らしているということが。
﹁綺斗に付き合わされて大変じゃないかね?﹂
﹁お、お義父様。おはようございます。大丈夫です、綺斗様には良
くして頂いてます﹂
自分の部屋に戻ろうとしたら何時もはとっくに出勤しているはずの
義父が居た。
﹁そうか。ならいいんだが﹂
﹁はい﹂
﹁ここの所、君にプレッシャーをかけるようなことばかり言って悪
かった。子どもは授かりものだと
分かっていてもやはり孫は見たいものでね。特に妻は子どもを二人
も亡くして大きな支えがないと
心のバランスが保てなくなってしまう。残念な事にそれは私では駄
目なんだ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁面倒をかけると思うが。後はよろしく頼む。それじゃ﹂
﹁行ってらっしゃいませ﹂
248
何時も忙しそうにして最低限しか会えない話せない義父が珍しく私
に声をかけてくれた。
それも気遣いの言葉をくれるなんて。てっきり義母と同じように孫
はまだかとやんわり
けれどしっかりと釘をさされるのかと思ったのに。
これは素直に受け取ってもいいのだろうか、それとも何か裏があっ
てのこと?
何か裏でされているんじゃないか、怖い目に合うんじゃないか、な
んて勘ぐって
人の言葉をこうもすんなり受け止められなくなっている自分にショ
ック。
部屋に入り適当な所に座る。座布団を買ったもののあまり使ってな
い。ソファが欲しい。
けど、これ以上物を増やすと狭苦しい。他にすることもなくえびの
ぬいぐるみを抱きしめて
ごろんと寝転ぶ。丁度いい大きさで柔らかさ。
宗親と一緒だったのは怒られたけど、ゲームで遊んだこと自体は怒
られなかった。
とはいえ、一緒に遊ぼうって誘っても絶対にこないだろうけど。
﹁⋮⋮綺斗様は本当に強いんだな﹂
あんな扱いを受けても親のために家に来て次期当主になる覚悟をし
て。
デザイナーの仕事をしながらも家の仕事も引き継いで行くのだろう
し。
たまにだけど会社に顔を出している。
249
孤独に耐えかねて私は死のうと思ったのに、あの人はそんな事思い
もしなさそう。
孤独だと感じる前に忙しさが押し寄せるような、そんなイメージ。
男の人はその辺さっぱりしてるのかも、彼の父親もそうだったよう
に。
﹁⋮⋮﹂
じゃあ、死んでしまったあの人は弱かったのかな。何か辛いものを
抱えていたのかな。
﹁やあ、どうだ。律佳。元気にしてたか?﹂
﹁はい。お父さんも元気そうで﹂
﹁ああ。最近やっと運が向いてきたみたいでな﹂
ウトウトしだした所で家政婦さんがドア越しに来客が来たことを告
げる。それは父。
近くまで来たからと手土産を持ってニコニコとごきげんに。あいに
く義父は居ない。
義母も興味がないのか少し顔をだしただけでもう庭へ戻ってしまっ
た。
﹁良かったですね﹂
﹁あと今度引っ越すことになったからもし欲しいものがあるのなら
取りに来い﹂
﹁引っ越し?﹂
﹁ああ。思い切って売った。新しい事業も乗ってきたしあの家には
もう俺だけだからな﹂
250
﹁そう﹂
どんなに貧困しても固執して残そうとした家をそんなあっけなく売
るなんて。
確かにあの広いだけの家に一人は寂しいかもしれないけれど。
もしかしたら新しい女の人でも出来たのかもしれない。
母が病で倒れてから時折父は違う女の匂いをさせてくるときがあっ
たから。
﹁景色のいい高層マンションでも買って優雅に暮らすつもりだ。自
分の荷物以外は全て捨てる﹂
﹁お母さんのものも?お姉ちゃんのものも?﹂
﹁その方がお互いに後腐れがないだろう、あれを何時迄も残してい
ても何の意味がある?﹂
﹁でも、家族の﹂
﹁お前だってお姉ちゃんが恨めしいだろう?そうだ、お姉ちゃんの
宝石やドレスを持っていくか?﹂
﹁要らない。そんなもの﹂
﹁そうか。じゃあ、それは適当に処分しておくから、お前は自分の
物を見ておけ。
生きているからこそ、こうやっていい暮らしも美味しいものも食べ
られるんだからな﹂
この人に育てられてきてそれが当たり前だったのに、今こうして嫁
いで距離ができてからの
父との会話が不愉快だ。腹立たしい。嫌になる。まだ何か喋ってい
たけれど聞きたくもない。
家を売ること、持っていってもらえない母と姉の思い出たちは処分
されること。それは理解した。
251
﹃まさか君から電話してもらえるとは思わなかったな。何かあった
?﹄
﹁すみません、突然。智早様、今いいですか?﹂
﹃いいよ。どうしたの?﹄
父親が上機嫌で帰って少しして、私は部屋に戻るなり慌ててメモを
探す。
何かあったらと番号が書いてあったけれど、携帯に登録するほどか
ける事はない
だろうと思って放置してた。やっと見つけて電話をかけるとすぐに
出てくれた。
﹁私の父が家を売るそうで、姉の物も全部捨ててしまうそうなんで
す。私は引き取る気はないので
もし、智早様がほしいものがあれば持っていってください﹂
﹃そうなんだ。気持ちは有り難いんだけど、女性の私物を持ってい
ても仕方ないからね。遠慮しておく﹄
﹁そう、ですか。すみません出過ぎた真似を﹂
﹃美鶴は過去になった。君にもフラれた。でも、それでよかったん
だろうなって思うようにしてる﹄
﹁智早様﹂
﹃まてよ。確か美鶴の部屋は事件の後誰も触ってないんだよね?﹄
﹁はい。綺麗にそのままに保存してます﹂
﹃じゃあ一度部屋を見てもいいかな。入ったことはあるんだけどね。
ちょっと気になって﹄
﹁智早様なら入ってもらっても大丈夫ですから、どうせ処分する気
なんだし。どうぞご自由に﹂
﹃流石に一人で入ったら怪しまれるから。久我君も一緒でいいから
来てくれないかな﹄
252
﹁綺斗様どうかな。⋮⋮一応、聞いてみます﹂
253
そのよんじゅうご
﹁やあどうもお久しぶり。忙しいだろうに来てもらって悪いね﹂
﹁そう思うのならさっさと終わらせて頂けますか。死んだ女の部屋
に何のようがあるのか知りませんが﹂
﹁まあまあ。君は外で待っているかい?ここは僕と彼女で﹂
﹁早く終わらせて頂けますか﹂
智早は私の都合に合わせると言ってくれて、お昼からは特に用事も
なったのでだったら
今日行こうという話になって。綺斗に何も言わずに行くのは不味い
だろうから連絡をする。
仕事が忙しいしどうせ来ないと思いながら事情を説明すると凄く怒
りながらも私の実家に来てくれた。
こうして綺斗と智早と私の三人で死んだ姉の部屋に居る、なんだか
変な感じ。
﹁智早様、何か気になることでもありました?﹂
﹁ん。うん。⋮⋮ほら、電話でここに入ったことがあるって言った
よね﹂
﹁はい﹂
﹁その一度だけなんだけど。美鶴がこの家で開かれたパーティで酷
く酔っ払ってしまったのを
介抱するのに入ったんだ。その時に彼女が教えてくれた秘密の箱の
ことを思い出した﹂
﹁秘密の箱?﹂
﹁何でも隠しておける秘密の箱らしいよ。サイズは小さいもので、
ちらっとしか見えなかったけど。
254
そんな話は今まで聞いたことなかったし、酔っていたからポロッと
出てしまったのかもしれないね﹂
私もそんな話を聞くの初めて。秘密の箱と聞いて自分が大事に隠し
持っていた箱を思い出した。
祖母からもらった箱。姉にもあげていたのだろうか、優しかったら
それも十分考えられるけれど。
姉妹で同じ箱に同じように秘密を詰め込んでいたってことかな。
姉の秘密、なんだろう。
そう言われると気になって私も一緒になって姉の部屋からその箱を
探す。
﹁⋮⋮﹂
綺斗は壁にせをつけてじっと黙って傍観。
﹁あ。でも、見つけても鍵がないと開かないかもしれませんよ﹂
﹁そうか。鍵か﹂
﹁⋮⋮もし、姉と同じものなら私の鍵で開くかもしれないですけど﹂
﹁見つけたら試してみようか。どうしても欲しいわけじゃないんだ
けど一度気になってしまうとね﹂
突然遺された者として、死者の隠したものを見てみたい願望は何と
なく分かる。
智早も建前は気持ちの整理はつけられてもまだ残る感情に区切りを
つけたいのだろうし。
何気なく開けたクローゼットの隅にそれは眠っていた。やっぱり私
がもらった箱と全く同じ箱。
鍵はペンダントにしていたのをもう辞めて部屋に置き去りだったか
255
ら一旦自室へ取りに戻る。
﹁久我君。もし、この箱に美鶴と愁一君の心中に関する真実が書い
てあったらどうする﹂
﹁どうなっていようともう終わった話しでしょう、別にどうもしま
せん﹂
姉の部屋に綺斗と智早を二人きりにするのは心許ないので急ぎ足で。
﹁もし、美鶴が一方的に愁一君を巻き込んだ無理心中だったら。彼
は最後まで律佳ちゃんを愛し、
なにも裏切っていなかったらことになる。それを彼女が知ったらど
うだろうとか考えないか?﹂
﹁意地の悪い言い方をして俺に何を言わせたいんですか?それで俺
が狼狽えるとでも?﹂
﹁いや。狼狽えているのは僕なんだ。もし、そんな真実があったら
それこそ全てが嘘になる﹂
﹁その箱を思い出したのは貴方だ。言わなければ良かったのに。今
更なことを仰りますね﹂
﹁本当にそんな箱があるのなら、知りたい真実があるのかもしれな
いと最初は素直に思った。
それで美鶴を理解してやれると。最後の供養になるかもしれないと、
純粋にね。けどこうして
実物を手にしたらそんな嫌なことが沢山浮かんできて、頭から離れ
なくなってしまった﹂
﹁それは当然の想像だと思いますよ﹂
﹁そうだろうか。僕はこんな酷いことを考える人間だったのかとシ
ョックだ﹂
﹁貴方がどんな清廉潔白なお心を持っていたとしても、他人と交わ
れば薄汚れていくものなのです﹂
256
﹁⋮⋮﹂
﹁その交わった他人が後ろめたく、薄汚れ黒ければ黒いほど貴方も
同じく汚れていくものなのです﹂
﹁⋮⋮、では君は僕とは逆だな。君が交わったのは白く穢のないも
のだ﹂
﹁そうですね﹂
何処に置いたかすっかり忘れて慌てて家探しして鍵を見つける。
走って姉の部屋に戻ると何やら重たい空気の二人が居て、でも喧嘩
をしている素振りは
なかったので黙ったまま待っていてくれたのかな?と気にせず部屋
に入った。
鍵を手に箱の側に立って、智早の視線を感じながらもゆっくりと鍵
穴に差し込む。
﹁開きましたね﹂
﹁中には何がある?﹂
﹁綺麗なネックレス。⋮⋮トップが椿の花だ﹂
﹁それだけ?﹂
﹁みたいです。ほら﹂
﹁⋮⋮そうか、そう、なんだね﹂
﹁智早様?﹂
箱を開けて中を見せる。何処か安堵したような、残念そうな。複雑
な表情の智早。
﹁それも処分してしまうのは勿体無いね。君はほしくないの?﹂
﹁はい﹂
﹁そうか﹂
257
﹁このペンダントはきっと姉の大事なものだと思うので、お墓にい
れます﹂
﹁ああ。それがいいね﹂
日記なりメモなり、もしかしたら遺書なりが入っているのではと私
は緊張していたけれど。
中にはアクセサリーしか入っていなかったから、やはり姉は秘密を
隠す人じゃないのか。
何もわからないままに三人部屋を出ると家政婦さんが来てお茶を淹
れてくれた。
緊張したせいか酷く喉が乾いてしまって、素直に甘えることにする。
それは他二人も同じ。
﹁そうだ。母の着物の依頼を受けてくれてありがとう﹂
﹁一条家の依頼を断れば後が怖いですから﹂
﹁ははは、母に気に入って貰ったら更に宣伝をさせてもらうよ。母
の情報網はネットより早い﹂
﹁凄いお母様ですね﹂
﹁その分悪評もあっという間に広まるからね、母の取扱は要注意だ
よ﹂
﹁⋮⋮わあ﹂
何処の世界もお母様というのは強くて恐ろしいものなんだな。
258
そのよんじゅうろく
もう来ることはないと思っていたのに、それどころかこの家自体が
人手に渡る。
特に思い入れもないけれど、それでもやっぱり生家である事にかわ
りはない。
せっかくなので置いていった物を幾つか持って帰ることにする。
どうするか悩んだけど幼いころからのコレクションは捨てられず箱
にいれて抱えて
自室を出たらまさかの室井さんでびっくり。綺斗はすでに工房に帰
っているらしい。
何も言われなかったけど忙しい合間にわざわざここまで来てくれた
だけでも凄い事だ。
﹁奥様は私がお送りしますので﹂
﹁そ、そうですか。わかりました﹂
こんな事で綺斗を呼ぶなんてと怒られるんじゃないかとハラハラす
る。
だけどその場では何も言われずに智早の所まで戻り、彼に挨拶をし
て外へ出た。
姉の秘密の箱に入っていたペンダントは私がお墓へ持っていく。後
は処分される。
もっと何か側に置いておきたいような気もしたけれど、やめておい
た。
智早も何処か名残惜しそうにはしていたが結局何も持っては行かな
かったし。
259
室井さんの車に乗り家へと戻る。その間は何も会話はなく静かなも
のだった。
﹁先生から今後奥様の御用の際は私がお供するようにと言われてい
ます。
連絡先はここに書いてありますから、何かあれば連絡をしてくださ
い﹂
﹁でも室井さんも忙しいんじゃ﹂
﹁私は久我先生の弟子であって奥様のお世話係りじゃありませんか
ら。
だけど先生がそう仰るので一応言わせて頂きました﹂
﹁⋮⋮はい﹂
つまりは何かあっても電話するなよ、ということですね。わかりま
した。
名刺を貰って車から降りる準備。なにせ持って帰ろうとしている荷
物が多い。
そんなつもりじゃなかったからワタワタと小物を持って出る。
﹁あーもう⋮⋮だから子どもって嫌い﹂
ちらっと運転席からそんな声が聞こえた気がするけれど、気にせず
一礼して家に入った。
子どもだと言われると何も言い返せない。まだ成人もしていないし、
言動だって子どもじみてる。
周りの大人のようには割り切れないものもあって、それで苛立たれ
るのはよくあることだ。
﹁二十歳になったらもう少し変わるかな。⋮⋮それまでちゃんと夫
260
婦でいられるかな﹂
もし駄目になっても帰る家は無いのですが。
﹃無事に家に帰った?﹄
﹁え?ええ。今戻りましたけど、どうしてですか?﹂
またゴロンと部屋に横になったら携帯が鳴って、みると智早からだ。
﹃いや。久我君の代わりに来た女性、凄く苛立っているように見え
たからさ﹄
﹁忙しいのに私を送るなんて事になって迷惑をかけてしまったみた
いで﹂
あと、忙しい綺斗を外へ連れ出した事とか。
﹃それは確かに迷惑だったかもしれないけどあれは露骨すぎるかな。
二人になった途端君に
危害を加えそうで不安だったんだ。流石にそこまでは無いと思うけ
ど、注意はしたほうがいい﹄
﹁わかりました。私がもう少し上手く立ち回れたら怒らせずに済む
んですけど。難しいですね﹂
﹃彼にも少しは話しておいたほうがいいかもね。弟子さんじゃいい
づらいかもしれないけど﹄
﹁忙しそうですから。また折を見て﹂
﹃君が無事ならいいんだ。またお店にもよらせてもらうよ、またね﹄
﹁はい。お気遣いありがとうございます、失礼します﹂
関係のない智早にも気づかれるほどの不機嫌さだったなんてよほど
怒ってたんだろうな。
261
そういえば笑顔の室井さんとか見たことがないかもしれない。
初対面の時から無表情とか不機嫌そうとか、マイナスなところしか
見たことがない。
僅かな邪魔も許せないくらい仕事に対して真面目な人なんだろう。
ずっといるお弟子さん、
仲良しまでは言わないけど普通に会話出来るくらいにはなりたいな。
夕方まで特にすることもないし、部屋の掃除を兼ねて持ってきた私
物を整理して飾ろう。
﹁増えたな﹂
﹁これは増やしたんじゃなくて元からあったのを移動させただけで
す﹂
ディスプレイにこだわって一時間、二時間。あっという間に夜。飾
るのはほんの少しの
スペースなのにそれでもまだちょっと気に入らなくて粘っていたら。
ノックも何もなく部屋の戸が開いて工房から帰ってきた綺斗が入っ
てくる。
﹁エビが可愛いといいながらエビを頭から貪るお前の神経がしれん﹂
﹁可愛いからこそ美味しいと感じるんです!そして、美味しいから
こそ可愛いと愛着が﹂
﹁お前本当に頭おかしいだろ。それより、先生と連絡がついた。土
曜日に家に行く﹂
﹁それまでにお菓子用意しておきますね﹂
﹁どうせ遠出することになるだろうから、そのときは室井を呼べ﹂
﹁そんな遠い場所じゃないですから歩いて行きます。室井さんもお
仕事が忙しいだろうし﹂
262
﹁お前を一人で街へ出したら何に引っかかるかわかったもんじゃな
い。
菓子なんて三十分もあれば買える、それくらいならどうということ
はないだろう﹂
確かに大丈夫だと見栄を張った割に店員には言われるままになって
あたふたしてたし
宗親に声をかけられて逃げ出したりしたし。その辺は自信がないけ
ど。でも、三十分だって
結構時間がかかってます。室井さんは呼べません。
でもこれ以上ここで粘っても仕方ないし、ここは適当に頷いておく
か。
﹁分かりました呼びます﹂
﹁確認するからな﹂
﹁綺斗様﹂
﹁何だ、やはり嘘か。俺に嘘をつくなんていい度胸じゃないか﹂
私の顔色を見て察したのかまた不愉快そうに睨みつける綺斗。
口先だけの嘘じゃすぐにバレてしまう。私が顔に出やすいのもある
けど。
﹁嘘っていうか。室井さんも困るんじゃないですかそんなお菓子買
うのに付き合えって子どもみたいな﹂
﹁煩い。とにかく、お前一人で街へ出ることは許さない﹂
﹁じゃあネットで買うから綺斗様のパソコンかしてください﹂
﹁ああ。そうだな。そうしろ﹂
ネットでお買い物は簡単だけど、実物をお店で見て楽しめるワクワ
クが好きであまり利用しない。
263
自分がパソコンを持ってないというのもあるけど。彼は仕事用に高
そうなノートを持っている。
私もほしいと言えば買ってもいいのだろうけどそこまで手にしたい
という願望もない。
﹁⋮⋮けち﹂
﹁何か言ったか﹂
﹁いひゃいでふ﹂
小さい声で愚痴ったら即座にほっぺをゆるくだけど捻られた。
﹁お前が心配だから守ってやってるんだむしろ感謝しろ﹂
﹁心配されるほど危ない目にはまだあってないへふへお﹂
﹁あってからじゃ遅いとは思わないのか?このアホ能天気!﹂
﹁心配してくれるなら綺斗様がついてきてくれたら良いのに。二人
でお菓子試食してみたりとか﹂
﹁⋮⋮﹂
あくまで夢を語っただけなのに、剣呑な空気をまとった旦那さまが
私を見つめ手を引く。
﹁あ。い。いや。いやっ⋮⋮駄目です!やめてっ!ご飯前にそんな
の口にいれたくないっ﹂
﹁入れるだけじゃなくて飲ましてやろうな﹂
﹁それだけはっ⋮⋮そ、⋮それだけはっ﹂
﹁お前は俺に言われた通りにしていればいいんだ。ほら、口を開け
ろ﹂
264
そのよんじゅうなな
﹁伸びるの遅いんだよね⋮⋮あ。枝毛﹂
朝、洗面台に立って自分の顔を眺めながらボサボサの髪を整髪剤と
クシで整える。
着物に合わせて髪を綺麗に結いたくて伸ばしてはいるもののそうす
ぐには伸びない。
全く出来ないわけではないけど、まだまだ不格好。
それを以前チラっとメイクさんに言ったら今はウイッグやエクステ
なるものがあって
髪を増やす分には何とでも出来ると言っていた。
今日はこれから身なりを整えて綺斗の師匠様の自宅に行く。夫婦そ
ろって着物で。
前回のファンシーなお店での簡単な自己紹介とは違い、ちゃんとし
たご挨拶なのに
こんな中途半端な長さなら買っておけばよかったかなって今更後悔。
﹁奥様、着付けをさせて頂きますのでこちらに﹂
﹁はい﹂
メイク前まで終わらせて廊下に出たら待っていたウメさんが声をか
けてくれて私の部屋へ。
そこには綺斗が用意した本日の着物一式。着物や帯はもとよりちょ
っとした小物も毎回違う。
その場面に合わせたテーマで気持ちよく統一されていて、
かといってそれが目立ちすぎることもなく控えめ。やはりプロなん
265
だなぁと素人感覚で思う。
﹁髪がだいぶ伸びてきましたね﹂
﹁そうですか?自分じゃ気づかなくて﹂
﹁艶やかな黒髪をしていらっしゃるから、結えるようになったらさ
ぞ美しく映えるでしょう﹂
﹁だと良いんですけど⋮⋮。綺斗様の着物を今よりも着こなせるよ
うになるといいな﹂
着付けてもらったらメイクも一緒に流れでやってもらう。自分で出
来るからとやってみたけれど
それ以降は一切やらせてもらえないところを見るに公の場に出ては
駄目なレベルだったのかな。
その場で罵られなかったのは優しさなのか、もう怒るのも面倒だっ
たのか。
﹁さ。これで大丈夫です、綺斗様はお部屋でお待ちですのでお声を
かけてくださいまし﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
カバンも用意して貰っていたのでそこにお財布と携帯、あとデジカ
メをいれて綺斗の部屋へ。
もちろん悩みに悩んで買ったお礼に渡すお菓子も持って。
彼のことだからすでに着替えを済ませ何時でも行ける準備は出来て
いるはず。ノックをして部屋に
はいると何処かに電話をかけている最中で静かに側で待機して、電
話が終わったらそのまま外へ
出る前に旦那さまの最終チェック。
﹁行くぞ﹂
266
﹁はい﹂
結果は良かったらしい。さっさと部屋を出て行く綺斗に続いて私も
廊下に出る。
義両親には特に挨拶もなく外へ出た。朝食の際に話はしたしそれで
いいのだろう。
最初こそ何も言わずに勝手に動いて大丈夫なのかなと心配になって
いたけれど、
久我家の親子の事情を聞いてからはどちらでも良くなってしまった。
師匠様の家までは車で1時間。繁華街からははるか遠い名も知らぬ
田舎の山中。
それでもポツポツと民家や商店があり、電話やテレビ、はてはイン
ターネットも出来るそうなので
便利な世の中です。まだそれらしい家は見えてこないけれど、車を
止めて山道をあるきだして十分。
﹁ああ、どうもども。綺斗さんいらっしゃい!待ってましたよー!﹂
やっと見えた家の前をほうきを持って掃除中のお爺さん。
﹁田所さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。これは妻
の律佳です﹂
﹁は、はじめまして。律佳ともうしますっ﹂
﹁こちらが噂の若妻さんか。想像してたよりも若いねえ。立ち話も
なんだし中へ入ってください。
先生はついさっき気分転換に山に行っちまって。でもすぐ戻ると思
いますんでね﹂
愛想よくニコニコと笑って家の中へ案内してくれる田所さん。彼は
267
お弟子さんだろうか?
にしてはちょっと年齢が⋮⋮、いや、職人の世界は年齢は関係ない
のかもしれない。
なにより、国宝級の作品を作れる先生の家となったら凄い門構えの
豪邸を想像していた。
弟子ももっと沢山いて活気があって賑わっているような。
でも目の前にはかなり年季の入っているであろう平屋。広さはある
けれどボロい。
庭には小さな畑と幾つかの木と雑草と、あと元気に鶏が三羽走り回
っていた。
お弟子さんの姿は他には見えない。
﹁お弟子さんは田所さんだけなんですか?それとももう独立してる
とか﹂
﹁あの人はただの近所の爺さんだ。弟子は俺で最後﹂
十畳ほどの客間に通されて座布団を敷いてもらってお茶まで出して
もらったけど。
田所さんはここで一人で生活している師匠様を心配して時折様子を
見に来てくれる
近所の人のいいお爺さん。見た目からしてそんな感じだったので納
得。
﹁⋮⋮やっぱりそうなんだ﹂
﹁全く。事前に電話をしたのに。先生らしいな﹂
﹁綺斗様。少し庭を見てきてもいいですか?﹂
﹁構わないが着物は汚すなよ﹂
﹁はい﹂
268
綺斗は慣れているのか特に怒る様子もなくその場で待っているよう
だけど、
私は立ち上がり庭へ移動。そう何度も来ることはないのだろうから
きちんと見ておきたい。
というのは名目で本当は買ったばかりのデジカメをここで活用でき
たらとちょっと狙っていた。
早速カバンからデジカメを取り出して被写体を探す。
自然に溢れた場所へ初めて行ったのが姉の心中現場。だけど、何の
関係もない静かな場所は
都会の人混みよりずっと楽しいし空気も綺麗。庭に出て目についた
ものをカメラに収めながら
ちょろちょろと歩き回る。着物を汚さないように気をつけて。
﹁椿の花が好きかい。なら、もう少し寒くなってから来るといいよ﹂
﹁あっあの。すみません、かってに﹂
﹁こんな何もない家によく来たもんだ。好きにしてくれていいから﹂
それが椿の葉に見えて近づいていったら不意に後ろから声がした。
振り返ったらお散歩から戻った師匠様。
﹁お邪魔しております﹂
﹁丁度いい。これを貴方にあげよう、気に入ってもらえるといいな
あ﹂
そう言って小さい木箱を私に渡してくれる。表紙には何も書かれて
いなくて裏に達筆な筆で
西浦清露と書いてあった。中にはちりめんで作られた繊細で鮮やか
な赤い花。
269
﹁あまり見ないかもしれないが、つまみ細工という技法で作ったか
んざしだよ。モチーフは椿﹂
﹁い、いいんですか頂いて。だってご祝儀でもあんなに沢山﹂
﹁それは久しぶりに創作意欲を刺激して頂いたお礼というやつさ﹂
﹁綺麗﹂
﹁赤は白か、あるいは乙女か。悩んだけれどやはり貴方の黒髪には
赤い方が似合う﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁赤い椿は控えめな美しさ。謙虚な美徳。いいね、実に日本らしい。
⋮⋮毒蛾がつくから大嫌いだけど﹂
﹁えっ!?﹂
﹁いやいや。さあ、戻ろう。綺斗君にも会いたいからね。あっはっ
は﹂
嫌いとか聞こえた気がするのですが、そこは深く追求しないほうが
良さそうですよね。
師匠様と一緒に客間へ戻り綺斗の隣りに座る。もちろん、かんざし
を頂いた事は報告。
すると彼は珍しく顔色を変えた。そんな驚くような事だったのかな。
﹁先生が?お前に?一生大事にしろ。それはとんでもない価値があ
るものだ﹂
﹁は、はい﹂
どうしよう、そんな凄いものを頂いたのに持ってきたのがちょっと
お高いくらいのお菓子なんて。
270
そのよんじゅうはち
﹁律佳の為にお時間を割いて頂いてありがとうございます。あのつ
まみ細工はかなり繊細な作業と
時間を要したでしょう。無理をなさったのでは?体のお加減は大丈
夫ですか?﹂
﹁ん?まあ、ねえ。作業してる間は何も感じないけど終わってみる
とやっぱりキツいねぇ。
ここらで潮時、完全引退する時かもしれない﹂
綺斗が師匠様とお話中、
私は台所を借りて持ってきたお菓子を切り分けお皿に盛り付けて紅
茶の準備。
自分たちの分もと言ってもらったのでお言葉に甘えお皿は三枚用意
した。
﹁勝手かもしれませんが先生には出来れば折を見て復帰して頂きた
いです、まだまだこの世界の
先頭を歩いて欲しいですから﹂
﹁どうしたいきなり。君が私を気遣ったりするなんて気色悪い﹂
﹁これだけ言っておけば何時先生が召されても後味は悪くないだろ
うと思いまして﹂
﹁なるほど。うん、さすが君だ﹂
あのかんざしがまさか師匠様の作品とは思っていなくてその価値の
大きさにうろたえた。
流石に無くすことはないだろうけど少しでも汚したりしたらと思う
と。こういうプレッシャーに
271
私はとても弱い。だけど何度見ても繊細で鮮やかで、完成度の高さ
に見惚れる赤い椿。
あれだけ苦しんだ呪いなんて何処かへ吹き飛んでしまいそうな神聖
さすら感じるのだから。
神がかった職人の技というのは凄い。
﹁おお。これはこれは、老舗の洋菓子店一ノ瀬のバウムクーヘンで
はないですか。大好物ですよ﹂
﹁良かったです、ここのプレミアムバウムは中々手に入らなくて有
名ですよね﹂
﹁え。そんなものがあるんだ?何時も貰ってばかりだったから。こ
れはそのプレミアム?﹂
﹁はい﹂
切り分けたお皿をそれぞれの前に配置してお茶も置いて、気に入っ
てもらえたようで安堵。
どうせお師匠様に差し上げるならプレミアムだろうとネットで予約
してギリギリ間に合いました。
ちなみに自分用にも通常のバウムクーヘンが冷蔵庫に保存されてい
る。
﹁うんうん。美味い美味い。いやー甘いものは最高だなあ。疲れに
は甘いものだよ﹂
君たちも食べなさいと言ってもらってやっと一口。幸せな甘さが広
がってたまらない。
﹁美味しいぃ﹂
272
思わずそんな言葉が口から溢れる。すぐ綺斗からのキツい視線。
﹁素直な感想大いに結構じゃないか。そう怖い顔をすることじゃな
い﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁そうだよ。それとも彼女の可愛い所を他人に見せるのは嫌なのか
な?﹂
﹁可愛い?違いますこんなモノははしたないだけですよ﹂
﹁はいはい。あ。そうだ、綺斗。田所さんにもバウムを持っていっ
てくれないかな。
庭の掃除をしてもらったんだ。奥さんも甘いものは好きだろうし、
家はわかるだろう?﹂
﹁今ですか﹂
﹁今です。今。まさに今。師匠は三日三晩作業に没頭してもう辛く
て歩けません﹂
﹁さっき散歩してましたよね﹂
﹁あれは最後の署名が納得行かなくて場所変えて外で書いてただけ
でーす﹂
﹁⋮⋮律佳、何かあれば悲鳴を上げろ﹂
ぼそっとそう私に耳打ちをして綺斗は台所へ。残りのバウムを綺麗
に切ってお皿に移し
ここから歩いてすぐ近所だという田所さんの家に持っていった。
﹁いやあ。思春期少年のような心は健在だな。面白いよね彼﹂
﹁師匠様だからそう思うだけじゃ﹂
﹁そうかもしれないね。彼は人を寄せ付けるのが嫌いだから﹂
﹁それってやっぱりお母様から離されたせいですか?﹂
﹁存在の全否定から始まった人生で愛情溢れた人間になるのは難し
いかもね。若い彼を弟子に
273
して側に置いていても私のようにユーモアと気品、そして優しさ溢
れた男にはならなかったし﹂
﹁⋮⋮、⋮自分で言うんだ﹂
確かにユーモアはあるかもしれないけどそういうのは隠したほうが
いいような気がする。
でもそれをあっさり言っちゃうのが師匠様らしいかな。ということ
で苦笑。
﹁少しだけ真面目な話しをするよ。いいかい﹂
﹁は、はい。なんでしょうか﹂
さっきまで笑っていたのに唐突に真顔になって私を見つめる師匠様。
私だけに言う真面目な話って何だろう。
﹁彼を、綺斗をちゃんと見ていてほしい。私はずっとあの子を陰な
がら見守ってきた。
だけど私もそう長くは生きられない。他の人間では駄目だ、貴方に
しか出来ないことだ﹂
﹁え?え?⋮ど、どういうことでしょうか?綺斗様を見てるって?﹂
﹁よく聞いてほしい、恐らく綺斗﹂
﹁おっちゃーん。居るならちゃんと返事してよ死んでるかと思うで
しょってあれ。えびちゃん?﹂
丁度いい所で襖が乱暴に開いて見たことあるお兄さんが入ってくる。
相手もこっちに気づいたようで驚いた顔をしていた。
﹁宗親?また何かやらかしたのか?﹂
﹁何も。だって俺真面目に仕事してたんだよ?美大でヌードモデル
っていうお仕事を﹂
274
﹁で。それが身内にバレてここに強制送還された訳か﹂
﹁仕事に貴賎は無いのにね?そう思うでしょえびちゃんもさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁俺とこのおっちゃんの関係?叔父と甥です。兄上さんにおっちゃ
んを紹介したのは誰あろう﹂
﹁煩い座れ﹂
﹁はぶ﹂
﹁お帰りなさい綺斗様﹂
その宗親の後ろから彼を蹴り倒して入ってきた綺斗。定位置に座り、
お茶を一口。
﹁痛いですよ兄上さん﹂
﹁ここは更生施設じゃないんだぞ?まず自分の兄上に謝るべきなん
じゃないのか?﹂
﹁あの人は俺に期待しすぎ。まだ俺が自分と同じエリートな役人に
なれると思ってるから。
お前なら出来る!大丈夫だ!信じてる!とか暑苦しいの毎日聞かさ
れたら嫌になるでしょ?﹂
﹁俺に聞くな。⋮⋮もう良いだろう、そろそろ御暇する﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあ俺も乗っけてってよ﹂
﹁何をやらかしたか知らないがお前はここで反省していろ。先生、
それでは失礼します﹂
﹁ああ。暇になったら顔を出したらいいよ。奥さんも一緒にね﹂
﹁ありがとうございます。かんざし、大事に使わせて頂きます﹂
﹁あ。えびちゃん着物だ。へえ雰囲気変わるね﹂
﹁いいからどけ﹂
逃げ出したい宗親を押しのけて。一気に賑やかになった家を出て車
275
に戻る。
師匠様の言葉が気になるけれど聞きに戻る訳にもいかないから分か
らず仕舞い。
ちらっと隣を見てみても何時もと変わらぬ旦那さまの横顔があるだ
け。
﹁綺斗様。途中何処か寄り道して行きませんか﹂
﹁トイレか﹂
﹁それに飲み物と食べ物と休憩﹂
﹁トイレだけ許す﹂
﹁食べ物を与えないとどれほど私が鬱陶しいかご存知のはずです﹂
﹁お前を黙らせる方法は幾つかあるが、どれから試して欲しい?﹂
﹁⋮⋮トイレだけで十分です﹂
276
そのよんじゅうきゅう
無事に家に到着し自分の部屋に戻ると大事に箱にいれていたかんざ
しを取り出して見る。
貴重だし素敵なものを貰って嬉しいけれど、これを付けるには自分
にはまだ早い気がして。
というか、これに見合う格好もメイクも私一人じゃ出来ない。
着物は綺斗が選んで用意してくれるものだけだし、それに付随する
小物も全部彼。
相性の良いであろう着物を選んでくれた時がきっとこのかんざしを
付けるタイミング。
でもこうして手にしてみて好奇心が押さえきれず試しに自分の髪に
軽くさしてみる。
﹁綺麗だな﹂
色が派手すぎるかも?と思ったけれど上品な赤が黒髪に思いの外し
っくりくる。
かんざしが素敵なだけなのになんだか自分もちょっとだけ綺麗にな
れた気がした。
使える日を夢見て箱に収める。その前に写真を一枚。
﹁お師匠様。あの後何って言おうとしたんだろう﹂
ちょうどいい所で宗親が入ってきて綺斗が帰ってきて、話が流れて
しまった。
まさかあんな真面目な顔をして冗談なんて言わないだろうし。なん
277
だったんだろう?
綺斗のことを言いたかったっぽいけど。その前には私に彼を見てほ
しいと言っていた。
見るってどういうこと?単純にじーっと見ていればいいの?
そんな事したら絶対怒られるじゃないですか?
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
でも何か分かるかもしれないのでとりあえずやってみる。綺斗の部
屋にお邪魔して。
机に向かってノートパソコンでなにやら作業中の彼の側で、じーっ
と見つめる。
でも特に何の変化もない綺斗様の後ろ姿だ。この家に来て最初に見
た旦那様の姿。
﹁何だ。俺を睨んでも何も変わりはしないぞ﹂
﹁睨んでません。見つめているだけです﹂
﹁邪魔だ。そんなくだらん事しか出来ないならとっとろ消え失せろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ほらやっぱり怒られた。それとも私の解釈が間違っているのか、後
者だよねたぶん。
すみません、と一声かけてから彼の部屋を出て自室へ戻る。忙しい
ってわかってるのに、
邪魔なんかして何やってるんだろう、そもそもこんな私に出来る事
なんてあるの?
﹁律佳さん。今日は久しぶりに私とコンサートに行かない?
お気に入りの楽団のチケットが取れたの﹂
278
﹁はい。是非﹂
綺斗を怒らせてしまったせいで着物を脱ぐタイミングを逃した。ウ
メさんは忙しそうだし、
部屋でゴロゴロも出来ず、小腹が空いたので廊下に出たらごきげん
なお義母様。
一瞬、ヒヤっとしたけれど相手はお構いなしにニコニコ。
﹁着物姿も少しは様になってきたわね、やっと久我家の嫁らしくな
って嬉しいわ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁さあ行きましょう。時間は少し早いけれどお茶でも飲みながらお
喋りも良いものよ﹂
﹁はい﹂
お薬がよく効いているのか、それとも素でごきげんなのか。とにか
く今は安全。
笑って頷いていれば多少の嫌味があってもストレートに突き刺され
ることはない。
綺斗に声をかけていこうと思ったがまた怒られそうなので言わずに。
目についた所に居た家政婦さんに声をかけて、言伝をお願いしてお
いた。
義母が車を運転するはずもなく、お抱えの運転手さんが玄関先に車
をとめていて
こちらの姿を確認するとすぐ運転席から出てきて静かにドアを開け
てくれた。
それにお礼なんて言うはずもなく当然のように乗り込んでコンサー
ト会場へ出発。
279
﹁貴方からしたら私は口うるさい姑でしょうね﹂
﹁そんな事はないです。良くして頂いて﹂
﹁いいのよ。律佳さん、私も分かっているの。薬に頼ってばかりの
弱い自分を﹂
﹁⋮⋮﹂
車内で頂いたコンサートのパンフレットを眺めていたら義母が唐突
に切り出した。
口うるさいのは子どもに関してで、他は比較的放置されている気が
するけれど。
それにしてもそんな話をする狙いはなんだろう?
﹁これでも立ち直りたいと思っているのよ。心を強くしたいと﹂
﹁私も母と姉を亡くしましたから、大事な人を喪う悲しみは理解で
きるつもりです﹂
﹁そうでしょう。喪うことは本当に悲しいのよ、私の宝だった。全
てだった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子どものことで貴方にプレッシャーを与えてしまってごめんなさ
いね、これからはもう少し
長い目で見守っていこうと思うの。貴方は若いのだから。チャンス
は何度でもあるわけだし﹂
﹁お義母様﹂
﹁家族である私達が仲良くしていかないとね、元気な赤ちゃんを産
んでほしいから﹂
﹁それは、そうですが。綺斗様はお仕事がお忙しいのにその合間を
縫って私の相手をしてくれて﹂
﹁あの子には今まで散々好きにさせてきました。少しくらい家のた
めに働いて貰わないと﹂
﹁そんな言い方﹂
280
義両親からしたら私は元からその為の道具だから割り切っているけ
れど。
綺斗を家から出したのは貴方じゃないですか、見るのも嫌だって放
棄したのに。
それでもちゃんと自分の力で生きている人なのに。好きにって酷い。
﹁アレでもちゃんと久我の血筋なのに。どうしてこう上手く行かな
いのかしら。
次期当主としての自覚が足りなくて母親として悲しいばかりです⋮
⋮はぁ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁こんな話はやめましょう。ね。律佳さん、私たちは同じ痛みを持
つ者同士なんだから﹂
﹁⋮⋮、そう、ですね﹂
私は自分に嘘をついた。本当は貴方と一緒にしてほしくないって思
った。
けど、私の立場は弱い。それに喪った痛みは事実で大事な息子を二
人も喪っている。
愛情という面ではやはり母親、私なんかよりも深く愛して執着して
いたのだろうし。
けどこれでハッキリとこの人とは分かり合えないものなのだとケジ
メがついた。
嫁と姑、同じ家に住む女と女。ドラマや漫画でしか知識のないいわ
ゆる対岸の火事だったけど
私は静かに心のなかで、この人にこの家に飲み込まれないようにし
よう。と誓う。
281
旦那さまの言うとおり外面は良いに越したことはない、ここで不用
意に波風は立たせては不利。
私は取り繕って笑ってそれらしく頷いて見せる。
義母はそれですっかり機嫌を良くして、話題はコンサートの話にか
わった。
﹁綺斗様。今夜は一緒に寝たいです﹂
その日の夜も遅くまで綺斗の部屋の電気はついている。私は枕だけ
もって彼の部屋へ。
﹁勝手にしろ﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮どうした。そんな泣きそうな顔して﹂
﹁何ででしょうか﹂
変わらぬ貴方の後ろ姿に安堵を覚える私がいる。
﹁さっさと寝ろ。鬱陶しい﹂
﹁はいっ﹂
282
そのごじゅう
﹁あったあった。良かった買えたぁ﹂
その建物自体が全部本屋さんでここならどんなマニアックな書物で
も揃うとネットで見た。
といっても別にそんなマニアな物が欲しかったわけじゃなくて、欲
しいのは綺斗の記事が載った
ファッション雑誌と師匠様の作品が乗っているという昔に出版され
た着物の本。
先日行った師匠様の家で作品が見られるとワクワクしていったのに、
片付けてしまったのか
元からないのか結局それらしいものは見つけられなかったから。
まずは雑誌を手に入れる。こっちはすぐ分かる場所にあるから手に
とるのは簡単だけど、
もしも売れてしまったら嫌だからと焦って先に手にする。雑誌をぎ
ゅっと抱きしめてこれで安心。
﹁あら、柊さん?⋮⋮よね?ごきげんよう。覚えてくれているかし
ら?﹂
﹁あ。ど、どうも。お久しぶりです﹂
店員さんに場所を聞こうとキョロキョロしていたら女の人が声をか
けてきた。
キリッとしたスーツ姿の知的な顔。大人の女性。この顔に覚えはあ
る。
283
﹁もう柊ではないんだったっけ﹂
﹁久我姓になりました﹂
﹁そう。元気そうで何よりね﹂
﹁はい。おかげさまで﹂
短大時代の先生だ。雑誌にコラムや小説なんかも書いてたりしてち
ょっとした有名人。
専門はなんだっけ、近代日本文学?だったような気がする。講義を
何度か受けて廊下で
すれ違った時に軽く挨拶をしたくらいしか覚えてない。
私はすぐに辞めてしまったのだからそんなよくしった関係になるは
ずもないし。
﹁こんなめぐり合わせがあるなんて神様は居るのかもしれない。
実は貴方に連絡を取りたいと思ってたの。暇ならこれからお茶でも
どう?﹂
﹁え?ど、どうしてですか?﹂
顔は派手ですぐわかっても名前が浮かんでこないような相手。向こ
うはこちらを知っている。
どうして連絡しようとしてたの?お茶をして何が楽しいの?
共通の会話なんてあっという間に終わってしまうのに。
﹁取材を申し込みたいとおもって﹂
﹁取材?困ります。綺、旦那さまへの取材は私にはどうにもできま
せんから﹂
﹁旦那さまは新進気鋭の着物デザイナーですものね。でも私着物に
は興味ないの﹂
﹁じゃあ?﹂
﹁幸せだったはずの美女の謎に包まれた死。そこに何があったのか、
284
何が彼女をそうさせたのか。
そんな物語のような出来事が身近で起こっているなんて面白いと思
わない?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁調べてみたら道連れが居たらしいじゃない。公にはされていない
けど、どんな秘められた話が
隠されているのか、何もわからないまま埋もれるなんてもったいな
い。
遺された妹である貴方に事件の取材をさせてもらいたい。もちろん
プライバシーは守るわ﹂
﹁何もお話できるような事はありません。本当です。⋮⋮姉のこと
は、ほっといてください﹂
﹁辛いことに向き合いたくない気持ちは分かるわ。でも、向き合っ
て見えるものもあるはずよ。
逃げてばかりでは解決はしない、それで貴方は乗り越えて強くなれ
る﹂
﹁⋮⋮強く﹂
先生はまっすぐに私を見つめてくる。その強い視線は自信の現れな
んだろうか。
姉の事件は同時に私の恋人の事件でもあり、どちらも辛い記憶。憎
むに憎めない。
乗り越えたいと思う気持ちは今もあるけれど。
﹁そんな甘っちょろい手口で人のプライバシーを踏みにじるんだ。
こういう連中は﹂
﹁綺斗様﹂
﹁あら。旦那様も一緒だったの﹂
割って入ってきたのは店につくなり休憩用のベンチに座っていたは
285
ずの綺斗。
私が一人で街へ出ていけるはずもなく、当然室井さんを呼ぶ事もし
ないで密かにタクシーを
呼ぼうとしたらキレながらもここまで運んできてくれた。
﹁取材には一切答えない、あまりしつこいと通報する。今すぐに目
の前から消えろ﹂
﹁まだ何もしていないのに?﹂
﹁人の不幸をネタにして悦に浸るのは十分罪深い﹂
﹁面白おかしく脚色しようなんて思ってない。今までの取材でもプ
ライバシーは守ってきた。
そんなに怒る話かしら?過剰に反応するほど奥様が大事?
それとも、貴方にも探られると痛い過去でもあるのかしら?それも
興味があるわね﹂
﹁下らない能書きはどうでもいい。話すことは何もない。それが答
えだ﹂
﹁頑なな旦那さまを持つと大変そうね柊さん。それじゃ、気が向い
たらまた連絡してね﹂
苦笑しながらも先生はその場から去っていく。まさか姉の事件に興
味を持ち調べていたなんて。
噂は学内で広まっていたのだろうけど。あのパーティに来ていた三
人みたいに不気味がって終る
話しだと思っていた。コラムにでも載せようとしたのだろうか。あ
るいは小説?
﹁記者か﹂
﹁いえ。私が通っていた短大の先生で﹂
﹁お前の学校にはああいうのしか居ないのか?復学しなくてよかっ
たな﹂
286
﹁そうですね﹂
﹁本は買えたな。帰るぞ﹂
﹁まだ。西浦先生の本﹂
﹁それなら家にある﹂
﹁でもそれは綺斗様の本だし。汚しちゃったら﹂
﹁じゃあさっさと買え。お前はどうも妙なものを寄せ付ける﹂
もちろんあの人に連絡をする気はない。けど、また似たようなのが
来たら嫌だな。
柊家は有名人でもなんでもないのに。
下手なことを言って一条家に迷惑がかかったらそれこそ後が怖い。
久我家の場合は私が嫁をクビになるくらいかな。いや、それは大問
題だ。
今度こそ店員さんに本の場所を聞いて欲しかった二冊を無事に購入。
﹁綺斗様。連れてきてもらってありがとうございます、後はバスで
帰ります﹂
﹁いいから乗れ﹂
﹁分かりました白状します私はそこのカフェでアイスチョコパフェ
を食べてからバスに乗ります﹂
﹁わかった上で言っている。乗れ﹂
﹁あいすちょこぱふぇがたべたいあいすちょこぱふぇがどうしても
たべたい﹂
﹁ネチャネチャ喋るな気色悪い。途中のコンビニでカップアイス買
ってやるそれを食え﹂
後はもうバスに乗ったら良いだけなのになんで許して貰えないのか。
やはりカフェに寄り道しようとしてるのがまるわかりだったのだろ
287
うか。
食べたかったパフェ。
渋々綺斗の車に乗って家に戻る。今頃お弟子さんがお怒りだろうな。
﹁今更ですがごめんなさい。もしかしたら今後もあんな風に姉のこ
とを聞きに来る人が
取材なんかにくるかもしれないです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁姉は有名人でもなんでもないのに。でも、一条家はその世界では
有名だからかな。
それでもし久我家に迷惑がかかったら。私、何時でも別居とかしま
す。⋮⋮寂しいけど﹂
姉は犯罪者ではないけれどそれを人に話すのは嫌で、とても複雑な
気持ちになる。
こんなことになったのは私が外へ街へ出ようとしたからかな。家に
居ればよかったのかな。
この世界には色んな人が居ることくらい私でも分かっているけれど。
﹁俺もあの手の連中にはよく絡まれた。お前も聞いた事があるだろ
う、長男三男が死んだのは
母親に捨てられた腹いせに溺愛されている兄弟を俺が殺したんじゃ
ないかとかな﹂
﹁聞いたことはあります、でもそれは本当じゃない。勝手なことば
っかり!﹂
﹁言わせておけばいい。ほっとけばそんな言葉を吐いたことすら忘
れる単純な連中だ﹂
﹁でも。それじゃ綺斗様が﹂
﹁そんなものに構う時間は俺には無い。与えられた時間は有限だ。
一分でも惜しい。
288
だからもっとしっかりしろ。あんなもの俺が居なくても一人でも突
っぱねるくらいに﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁お前を一人で外へ出せない俺も頭がどうかしているがな﹂
289
そのごじゅういち
﹁わあ。素敵。先生に言えば見せてもらえたのかな﹂
綺斗に家まで送ってもらい自室に篭もるとさっそく買ってきた本を
めくる。その方面で活躍する
有名な先生たちの選りすぐり作品集。ちょっと古いけれどどれも美
しくてうっとり。
何れはファッション誌だけじゃなくてこういう歴史のある専門誌に
綺斗の作品も載るのだろう。
その時のモデルが私だったらどうしようなんて杞憂かな。プロのモ
デルさんになるだろうけど。
コンビニで買ってきたカップアイスを食べながら今度はファッショ
ン誌をペラペラとめくる。
綺斗の紹介が若手カリスマデザイナーとかイケメン先生とか、
大げさな飾り文句にちょっと笑ってしまうけれどこれも立派な作品
の宣伝で馬鹿にはできない。
実際これで若い女性の知名度は抜群に高いのだから。
最近は作品もだけどそれ以上に綺斗自身の人気が出てきている気が
しないでもない。
﹁⋮⋮﹂
あの人は忙しい。一分だって無駄にできないくらいなんだから他に
女の人なんて居ない
と思うけどもし居たらどうしよう。どう挨拶したら良いんだろう。
こんにちは本妻です。かな?
290
二十歳を前にしてそんなドラマみたいな修羅場は嫌なんだけど。た
だ彼と歳が近くて、
変な人が寄ってこないような普通の美人さんだったら押し負けてし
まいそうで怖い。
﹁あら、律佳さん今日は一人なの?﹂
﹁はい﹂
アイスを食べ終えてゴミを捨てに出てリビングを通ったら義母が優
雅に寛いでいる。
今日は何処へも行かずにずっと家にいて、花の手入れも家政婦さん
に任せきり。
もしかしたら今日は調子が良くないのかもしれない。となれば要注
意日だ。
﹁そう。今ね、アルバムを眺めていたの。良かったら貴方も見る?﹂
よく見ると義母の膝に古いアルバム。彼女の側に座って一緒に見せ
てもらう。若い頃の夫婦と
その子どもたち二人の一見すると大変ほのぼのとする家族写真集。
学校のイベントから
ピアノの発表会の様子、家族旅行先でのとても楽しげな風景。ずっ
と謎だったピアノは長男が
子どもの頃から嗜んでいたものらしい。だけどどのシーンにも綺斗
らしき子どもの姿はない。
流石に一枚くらいはあるだろうと思ったのに、期待したのに。
義母から写真の説明を聞きながら必至に探したけど何処にも。
﹁綺斗様の写真は﹂
﹁あるはず無いでしょう?せっかく旅行に誘ってあげても忙しいと
291
言って断るような子よ?
大事な学校のイベントもないがしろにしてね。私に何の相談もなく
勝手に弟子入りなんかして。
倖人や淳希には話をしていたみたいであの子たちが見守ってやれと
言うから、
仕方なく黙ってみてあげていたけど﹂
﹁でもそれが今ではちゃんと形になっているわけですし﹂
﹁そうらしいけど、私にはよくわからないわ。私にはあの子の心が
さっぱりわからない。
まるで他人のような感じすらする。あの子も私を母親だと思ってな
いんじゃないかしら﹂
﹁お義母様﹂
﹁ヘンよね。でも、今のあの子には貴方が居るのだから大丈夫でし
ょう﹂
﹁⋮⋮私は何も﹂
ろくに買い物も一人で出来ないし。モデルをしても失敗ばっかりす
るのに。
﹁ほら見て、これは倖人がヴァイオリンを習い始めた頃の写真。可
愛いでしょう﹂
﹁はい﹂
﹁可愛さで言えば淳希のほうが愛らしい顔をしているけど﹂
もう無理なんだと諦めてからは義母の前ではとにかく何でも取り繕
って笑うことにしている。
自分の本音をぶつけても意味はないし、綺斗もそれを望んではいな
いだろう。
何を言われたってどうされたって無視をする。構っている時間すら
勿体無いのだから。
292
頃合いをみはからって義母から離れる。彼女は一人でも思い出に耽
って幸せの中にいる。
幸せな思い出があることは一時の救いになる。けど、根本的な解決
にはならない。
その後、綺斗からは何の連絡もなく時間だけが過ぎて時刻はもう十
一時を過ぎた。
﹁なんだ。まだ起きてたのか﹂
﹁お帰りなさい綺斗様﹂
夕飯は当然別々。何時もならとっくに布団を敷いて寝ている時間帯
ではあるけれど、
我慢して眠らないで自室でずっと待って、彼の帰ってくる音を聞き
つけて足早に玄関へ。
私の顔を見て少し驚いた顔をするものの疲れもあってかさっさと自
室へ戻っていく綺斗。
もちろんその後を追いかけて。
﹁私、これからは綺斗様の記録係りもすることにしました﹂
﹁そんなに暇ならバイトをもっと増やしてもいいぞ﹂
﹁目指せアルバム一冊分﹂
﹁寝る﹂
私の話を聞く気はさらさら無いので一切振り向く事無くパジャマに
着替えてベッドに入り
こちらに背を向けて眠る体勢にはいる綺斗。こうして明日の朝はゆ
っくりと起きてくるのだろう。
293
今このタイミングで布団に潜り込んだら絶対怒られるので静かに退
散。
﹁夕方には綺斗様帰ってくるかもって思って。西浦先生に貰ったパ
ンツはいてみたんです。
でも思った以上に食い込みが凄くてお尻が痛くて。全然隠れてなく
てスケスケで恥ずかしい。
また改めて挑戦してみます。それでは、ゆっくり休んでください綺
斗様﹂
する前にちゃんと一声かける。
﹁⋮⋮おい﹂
﹁はい﹂
﹁何故そんな事をした﹂
﹁今日買った雑誌に下着はちょっとエッチなくらいが彼氏受け良い
って書いてたから﹂
﹁⋮⋮。そうか。お前明日覚えてろよ﹂
﹁え?何をですか?記録係りの事ですか?大丈夫ですよ一人で地道
にやります﹂
﹁さっさと出ていけ﹂
﹁はい。お休みなさい﹂
終始こっちを向いてくれなかったけれど、そんな怒っている訳じゃ
ないっぽいから良いか。
楽観視して彼の部屋を出る。歩くたびにお尻がすれて痛い。慣れた
ら普通になるのだろうか。
こんな下着をつけたくらいで綺斗が喜ぶとは本気では思ってないし
反応も何時も通りだったけど。
自分に知識がなさ過ぎてとりあえず目の前にあった恋愛指南という
294
コラムに乗ってみた。
脱ぐのが面倒なので違和感はあるもののそのまま布団に入って就寝。
295
そのごじゅうに
﹁今日は作品の最終チェックやイベント会場の下見で恐らく家には
帰れない。
だからお前は待っていなくていい。さっさと寝ていろ﹂
﹁はい﹂
翌朝、お疲れの綺斗様を起こしに行こうと部屋に近づいたらすでに
起きている音がして。
戸をノックしたら返事があったので中に入る。起きているどころか
もう出かける準備中だ。
きちんと眠れたのだろうか、まだ早い時間なのに。過密スケジュー
ルで倒れたりしない?
イベントは確か明後日だったと思ったけれど、明日には大々的なリ
ハーサルがあるらしい。
その為の最終チェックを今日行う。家に帰ってこないくらい忙しい。
﹁それで。何で勝手に人の顔を撮りやがった﹂
﹁記念すべき一枚目﹂
そんな旦那さまを不意打ちで一枚。どんな些細なことでもいいから
記録していこうと決めた。
嫌がられても気にしない。暇だな、と毒づかれたって笑って頷く。
﹁こんな至近距離でフラッシュたきやがって﹂
﹁違うんです。勝手にそう設定になっちゃってて。故意じゃ﹂
﹁当たり前だ﹂
﹁ごめんなさい。以後気をつけます﹂
296
すっかりポケットのデジカメを出し忘れ自分も慌ててボタンを押し
たのできちんと撮れているか
不安だけど、ちょっとくらいの失敗もまた味があっていい。という
ことにしておく。これなら朝ごはんを
一緒に食べられるだろうか。お腹も空いているからすぐにでも食べ
に行きたい。
﹁そこに座れ﹂
﹁朝ごはんは﹂
﹁座れ﹂
でも唐突にベッドに座れと言われて渋々座る。先程まで綺斗が寝て
いたベッドは温かい。
もし許されるなら布団の中に潜り込んで二度寝なんて出来たら気持
ちよさそう。なんて妄想を
していると綺斗が私の手からデジカメを奪い、ぽかんと彼を見てい
る私を一枚撮る。
もしかして私の事も撮ってくれるの?二人で一緒のアルバム制作な
んて夫婦っぽい。
﹁あ、⋮⋮綺斗様?綺斗様!?﹂
なんて甘いことを考えてたら綺斗に押し倒されて、スカートを大胆
に捲りあげた。
慌ててスカートを戻そうとするけど彼の手に阻まれて出来ない。な
おかつ、足を閉じられない
ように股の間に綺斗が入ってきているのでゆるいM字という恥ずか
しい姿。
スカートの下は昨日面倒がって履き替えずにそのまま寝てしまった
297
レースでスケスケのTバック。
昨日は違和感があったが一夜明けてみると案外なれるもので今も普
通に着用していた。
﹁何だこれは。殆どはいてないようなもんだな﹂
﹁ですよね﹂
﹁記念に撮っとくか﹂
﹁何の記念ですか!?そんなの恥ずかしいから嫌です、絶対やめて
くださいね﹂
﹁お前はアルバムを一冊作りたいんだろ?だったらこういうのがあ
ってもいいんじゃないか﹂
﹁何処がいいんですか?誰にも見せられないし何年後かに懐かしむ
事も出来ないです﹂
こんなの撮ったってただのほぼ見えている下半身の写真であって何
も思い出にはならない。
アルバムってそんな変なものを写して保管するものじゃないはず。
抵抗する私の手をねじ伏せ
デジカメを構える旦那様。私は真面目な顔で抗議する。涙目になっ
たっていいくらいだ。
﹁アルバムを他人に見せても仕方ない。そうだ、旅先でお前を抱く
度に撮ってやろうか?﹂
﹁そんなの絶対要らないです絶対やめてください﹂
﹁こんなイヤラシイ下着付けておいて遠慮することもないだろ﹂
綺斗がレースを掴みギュッと上に引き上げると布に中が刺激されて
一瞬ビクンと反応してしまう。
﹁綺斗様が良かったらそれでいいだけで別に残しておきたいわけじ
298
ゃ﹂
﹁色んな痴態を見せるお前を画像に残して後で見ても面白そうだ﹂
﹁面白くないですから﹂
﹁ガキの癖に調子に乗ったお前が悪い。罰として時間ギリギリまで
ココを弄らせろ﹂
﹁綺斗様⋮⋮あん⋮あ﹂
強く引っ張られたかと思ったら今度は指先で布を優しくなぞるだけ。
上下に行き来して徐々に
気持ちのよい場所に当たる布地が湿っていくのが分かる。それでも
十分に強い刺激ではあるけれど。
やっぱり直に触れて欲しい願望が出てきて。言いづらいから綺斗を
ジッと見つめてしまう。
﹁お前ももう何度か俺に抱かれてセックスがわかってきたろ。どう
してほしいか言え﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうした。言えないのか?子どもが欲しいんだろう?だったらナ
ニが欲しいか言えるはずだ﹂
﹁は⋮⋮恥ずかしいから言えないです﹂
﹁お前、首まで真っ赤だ。⋮⋮言えないなら、今日はお預けだな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁このままレース越しに指で弄ってほしいか。布の合間から舌を入
れてほしいか。どっちがいい﹂
﹁舌がいい﹂
綺斗の唇がまず私の唇を奪い、ネトっとした舌が絡んで。それに満
足したら次は下半身に移動する。
じんわりと生温かいものが薄っぺらい布のサイドから徐々に中へ中
へと侵入してくる。
299
私は自分で足を広げておけと命じられるままに広げながら恥ずかし
いのに目をそらせず見ていた。
恥ずかしい場所を布を外さずに少しずらしてそこへ舌が侵入しネッ
トリと舐められていくさまを。
﹁こんなはしたない格好で外にでるなよ⋮⋮あと、⋮⋮不用意に俺
の前にも出てくるな﹂
﹁あぁ⋮⋮ああ⋮ごめんなさい⋮⋮っ⋮気をつけます⋮⋮ぁん⋮気
持ち⋮いいぃ﹂
服は着ているのに下半身だけ顕になってセクシーな下着をつけてい
るせいか、何時も以上に変な
気分で最後は腰を必死に浮かせてイク。まだそこはビクビクしてい
るけれど綺斗の体は離れた。
ここで写真を撮られてしまうのかもと力が入らないなりに身構えた
がそれはなくて。
﹁最後までシテほしいか?だったら旅行まで我慢するんだな﹂
﹁⋮⋮綺斗様は大丈夫ですか?﹂
﹁口を開けろ﹂
﹁普通にしたほうが﹂
﹁いいんだ。お互いに我慢したほうがあとの楽しみも増えるだろう﹂
﹁はい﹂
綺斗もあまり余裕がなかったようであっという間に果てた。愛撫の
下手な私の手や
舌でもそれがわかるくらいだから、よほどだろう。でも愛撫だけじ
ゃお互いに物足りなくて
もっと欲しいものは分かっているのに。
身支度を整えて綺斗は出かける。朝食も外で食べるから要らないと
300
言われた。
玄関までついていって、そこでも一枚。
﹁これだけ撮ってもらえれば俺が何時死んでも遺影には困らないな﹂
﹁やめてください。⋮⋮そんな事を言うのは﹂
﹁この家の息子たちは運が悪い。俺も、何時その運命に飲まれるか
分からない﹂
﹁綺斗様﹂
﹁行ってくる﹂
﹁⋮⋮お気をつけて﹂
今、誰よりも貴方の身を心配してるんです。かわれるなら代わりた
いくらい。
でもそれは出来ないから。見ているしかできないから。
悔しいけれどこうして見送ることしかできない。
301
そのごじゅうさん
調子に乗ったつもりはなかったんだけど、いや、やっぱり乗ってた
かな。
女としての色気も何もない癖にこんな隠す所の少ない透けた下着を
つけてそれで綺斗の機嫌を
取ろうなんて馬鹿な事を考えたりして。
どうしてあの人に少しでも好かれようとか優しくされたいとか思い
始めてるんだろう。
相手の態度も最初よりは変わってきているし、買われた嫁でも粗末
にはされてない。
そんな曖昧な関係のせいなんだろうか、やっぱり報われたいなんて
思い始めているのは。
﹁⋮⋮それでまた裏切られたらどうするんだろう、私﹂
布地が濡れて気持ち悪くなったので新しいのにはき替え洗面台にて
こっそりと手洗い。
マジマジと見てもやっぱり下着の意味がない。
しかもこれをくれたのが綺斗の師匠様。あの本に載っていた美しい
作品を生み出した大先生。
あっという間に洗い終えてふと鏡に映った自分の顔を見つめる。別
段変わりない何時もの私。
だけど何でだろう?体が熱い気がする。風邪?でも寒気とか頭痛、
関節痛なんかはない。
まずこれは痛みじゃない、むず痒いような何か物足りないような。
302
こんな気持は初めて。
理由があるのなら、恥ずかしいから考えないようにしてたけど綺斗
に舌で撫でられたせい?
﹁今日は帰ってこないんだよね﹂
何時もなら指で強弱を付けて弄られたり吸い付かれたりしてその時
点でいっぱいイってしまって、
最後はやっと馴染んできた彼自身が入ってくる。最初は受け入れる
ので必死になっていたけど
今では気持ちが高ぶってくるとギュッと彼に抱きついて自分からも
自然と腰を動かして。
それは子どもが欲しいからじゃなくて綺斗が欲しいからだって自覚
もしてる。
ああ、早くイベントが終わって新婚旅行に行きたいな。
﹁違う。違う!家のこともするしバイトもある日なんだから落ち着
け私。大丈夫。大丈夫﹂
変なこと想像しちゃ駄目だ。これからすることが沢山あるのに。
﹁色即是空⋮⋮空即是色﹂
必死に心を落ち着かせて下着を部屋に干して少し遅めの朝食を頂く。
もしかしたら空腹だった
のがよくなかったかもしれない、目一杯食べて気を落ち着かせれば
いい。
すでに義両親は終えており一人でのんびりと食べて何時ものお掃除
に加わる。
303
何時も以上に動き回って、気づいたらモヤっとした気持ちなんてす
っかりなくなっていた。
気分良くお昼からはアルバイト。お店まではタクシーで移動。バイ
トの身分で贅沢だけど、
もし歩きで行ったなんてバレたらバイトも禁止されそうで怖い。
忙しいからその辺を確認まではされないだろうけど。
﹁りっちゃんにお客さんが来てるよ﹂
﹁え?お客さんですか?﹂
お店に到着し着替えを済ませマスターに声をかける。
お客さんと言われても思い当たるフシはない。これから仕事だとい
うのにマスターが
今は人も少ないから少しだけなら話してもいいよと言ってくれた。
でも誰?
智早ならもう知っているからそう言ってくれるはずだろうし。
﹁お父さんにお話を聞きに行ったら快く話してくださったの﹂
﹁⋮⋮﹂
はあい、と笑顔を作り軽く手をふって私を呼ぶのはあの短大の先生
だ。なんでここが分かったの?
という私の疑問をあっさりと答えてくれる。家の恥部を晒すような
ことをあの人がするなんて。
私が綺斗と結婚し久我家からの安定した経済基盤を手に入れて完全
に気持ちが緩んでいる証拠か。
座ったら?と言われたが仕事がありますからと側に立ったまま。
304
﹁お姉さんの心中。貴方は複雑な気持ちだったでしょうね、愛憎入
り混じった。
傷の癒える間もなく歳の離れた男に嫁がせるなんて、貴方のお父様
も鬼畜ねえ﹂
﹁⋮⋮﹂
どうやら姉と私と愁一さんとの事も父親から聞いているらしい。
﹁でもそれは家を存続させるための最後の手段。やらなければ自分
たちも同じく死んでいた。
とても辛くて苦しい選択だったと仰っていてね、若い貴方に酷いこ
とをしたと悔いていたわ。
遺された娘の為に出来ることがあればなんでもするとも涙ながらに
語っていたわね﹂
﹁そうですか﹂
どうせそれらしい誘い文句とお金の匂いをちらつかせて父に取り入
り、
父もこの人に良いように踊らされて情報をペラペラ喋ったのが事実
なんだろう。
辛くて苦しい?娘のためになんでもする?
そんなの誰が信じるの?貴方だって嘘だってわかってるでしょう?
﹁私達には多少の縁もあるわけだし。同じ女として貴方には前を向
いて歩いて貰いたい。
名前は出さないから私の取材にこたえてほしい。愛憎と心中をテー
マにした小説。
タイトルも決めている。椿とともに心中したから﹂
﹁夫の言葉を忘れていませんか?私は取材にはお答えしません﹂
﹁あの束縛と支配がちらついている旦那様ね。確かにとても男らし
305
くて容姿も綺麗な人だけど。
忠誠を誓うほどの相手なのかしら?支配欲というのは別に愛情でな
くてもわくものよ?﹂
愛情でなくても。その言葉には少し胸が痛い。けど。
﹁私は夫の他に信じるものはありません。何があろうとも、それは
覆りません。
父が何を言ったかは存じ上げませんがこれ以上の会話は不愉快です
のでお帰りください。
もしまだ続けられるというのなら警察、あるいは弁護士を通じて厳
重に抗議させていただきます﹂
﹁あら。脅し方は旦那様の真似?可愛いこと﹂
綺斗が居なくても突っぱねなきゃいけないのに。やっぱり一九歳の
小娘じゃ駄目なのかな。
相手は屈するどころか面白いものを見たと言わんばかりにニコっと
笑ってコーヒーを一口飲む。
﹁警察にも弁護士にも強いツテがある。彼女の言葉は真摯に受け止
めるべきですよ﹂
﹁智早様﹂
そんな私の隣に立ったのは智早。加勢してくれているのだろうけど、
パッと見た感じは
何時もの穏やかな表情。口調も荒ぶる事無く静かに落ち着いている。
﹁家を敵に回すと貴方程度の人間はかなり苦労するでしょうね。僕
は別に構いませんが﹂
﹁一条家のお坊ちゃまがいらっしゃるなんて﹂
306
﹁ここは喫茶店ですからね。それで、どうしてほしいですか?﹂
﹁分かりました引っ込みます。一条家を敵に回すのは割に合わない
ですから﹂
﹁それが懸命でしょう。また彼女に近づけば後は無いと思ってくだ
さい﹂
﹁まあ、怖い﹂
﹁ええ。そうなんです。僕のような人間は一度怒らせると怖いんで
す。
忘れられては困るのでもう一度言っておきます。
貴方はもう後が無いのだから、今後の言動には十分気をつけてくだ
さい﹂
﹁⋮⋮失礼します﹂
だと私は見えていたのだが、彼女は初めて青ざめた顔をして逃げる
ようにお店を出ていった。
残ったのは飲みかけのコーヒーと、ぽかんとしてる私と特に表情を
かえずいつもの席につく智早。
メニューを眺めて今日は違うものに挑戦したいと言われて慌てて注
文を取った。
﹁すみません智早様。本当に申し訳ありませんっ﹂
﹁よくわからない他人にあっさり喋ってしまうなんて、君のお父さ
んは注意したほうがいいね﹂
﹁言っておきますので。どうか、あの、久我家には何もしないでく
ださいっ﹂
﹁君の幸せは邪魔しないよ。ただ、一条家にとって良くない行動は
謹んでもらいたいだけ﹂
﹁はいっ﹂
﹁⋮⋮信じるのは夫のみ、か。沁みるなあ﹂
﹁え?﹂
307
﹁注文お願いします﹂
﹁はいっ﹂
308
そのごじゅうよん
智早のお陰であの人はもう来ないと思う。たとえ来ても私の返事は
同じだ。
父はまさか一条家の人間と私が客と店員としてたまに顔を合わせる
ことを知らない。
これ以上調子に乗って一条家を本気で怒らせないようにきちんと話
をしなければ。
あと、今更ながら信じるのは夫のみとか調子のいいことを言ってし
まって死ぬほど恥ずかしい。
﹁おつかれ様です。どうぞお乗りください﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お時間通りに終わっていただいて良かったです。さ、どうぞ奥様﹂
﹁あ。はい﹂
帰りもタクシーを使おうと携帯を手に裏口から出たらよく知ってい
る人が待っていて、
その場に固まる。忙しいから放置してくれると思っていたのにちゃ
んと終る時間に合わせて
お弟子さんを迎えにこさせているなんて。私はあの旦那様を甘く見
ていたかもしれない。
まるで義母のお抱え運転手のように彼女は私のためにドアを開け乗
るときちんとしめてくれた。
﹁ただ家に運ぶために来たわけじゃありません。貴方を会場へお連
309
れするためです﹂
別にそれは好意でやってくれているわけじゃないのはその素直な表
情と話し方でよく分かる。
お弟子さんとの距離感で悩んでもどうしようもないし、謝っても余
計に不愉快にさせそうで。
そこはもう触れないようにして見ないように気づかないふりをして
いるけれど。
﹁イベントは明日からじゃ﹂
﹁そのイベントのスポンサーが奥様に是非会いたいと仰って﹂
﹁私にですか﹂
スポンサーが私に会いたい?綺斗の妻だから?これでも一応新婚に
なるわけだし。
まさかこんな展開が来るとは思って無くて内心焦る。とりあえず笑
っておけばいいだろうか?
お化粧直しもしないといけないし、服装も着物じゃないけどいいん
だろうか?
スポンサーになるくらいだからお金持ちなのだろうし。社長とか?
﹁その方の一声で貴方もモデルとして参加しないかという話になっ
て﹂
﹁困ります﹂
﹁いいえ。困るのは貴方ではなくて先生です﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
イベントは選りすぐりの先生たちの作品展示とプロのモデルさんに
よるランウェイショー。
その合間には先生たちへの取材などもあったりして忙しい。
310
私は何を言われても引っ込んでうずくまって居ればやりすごせるけ
ど、綺斗は矢面に立つ。
﹁流石に先生も困っている様子でした。でも相手はスポンサーです
から無碍にも出来ません﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁先生を助ける気があるのなら調子が悪くなったということにして
もいいですか?
奥様はバイトの疲れもあってか体調不良を起こし車の中で休んでい
ると先生に説明します。
さすがにそんな状態で人前に連れてこいとは言わないでしょう﹂
﹁それで綺斗様がスムーズにお仕事が出来るのならそうしてくださ
い﹂
人を騙したり嘘をつくのは嫌いだけど、綺斗が困るなんてよほどの
ことだしド素人である私が
そんなプレッシャーに勝てるはずもない。
仕事の邪魔だけはするなと綺斗からも何度も言われている。ここは
彼女の案にのろう。
コンビニの駐車場に車をとめて室井さんが綺斗に電話をかける。
﹁⋮⋮とりあえず、ホテルに貴方を連れてこいだそうです﹂
﹁⋮⋮﹂
上手く行けば家に帰れるはずだったけれど、そう簡単にはいかなか
ったらしい。
彼女は軽い舌打ちをして渋々車を走らせる。私は黙ったままイベン
ト会場の側にあるホテルへ。
到着してみると小奇麗だけど高級感はなく、いたってシンプル。
そこに関係者やスタッフさんたちが詰め黙々と設営など準備をして
311
イベントに備えるらしい。
綺斗も恐らくは今夜はここで一泊するのだろう。
﹁ここに居てください。もし確認の電話がかかってきてもそれらし
くしてくださいね﹂
﹁はい﹂
﹁先生の未来のためです。貴方に妻の自覚があるのなら上手く回避
してください﹂
﹁はい。大丈夫です﹂
駐車場の隅に車をとめて、室井さんは念入りに言うとホテル内へ去
っていく。
私はもし電話がきたらさも何処か悪いように演じないと携帯を握り
しめて待機。
それから十分ほど経過して。
﹁お医者様は大丈夫だって言ってたけど。もしまだ調子が悪いのな
ら病院へ行きましょう﹂
﹁だ、⋮⋮大丈夫、です﹂
﹁本当に?嘘は駄目だからね。まだ若いのに倒れるなんて、心配だ
わ﹂
﹁倒れたわけじゃ﹂
﹁明日一緒に人間ドッグへ行って徹底的に看てもらいましょう!﹂
﹁ちょっと寝たら大丈夫だと思います﹂
﹁その油断が命取りなの。駄目よ、若くして死んでしまったら駄目﹂
﹁は、はい﹂
凄い勢いで走ってきたお姉さんに車から引っ張り出されてホテルの
ベッドに寝かされて
312
彼女が呼んできたお医者さまに体中を看てもらって疲労でしょうと
言われて。それでもまだ
泣きそうな顔で私の顔を覗き込み手を握る女性。
心配して頂いて恐縮ですが、何方様でしょうか?聞きたいのに相手
の勢いがすごすぎて。
﹁緑里さん。そこまでしなくても大丈夫ですよ﹂
﹁綺斗君。そうは言うけど、倒れたのよ?心配になるじゃない﹂
﹁若い女はよく貧血を起こして倒れたりするじゃないですか﹂
﹁何その冷たい言い方﹂
﹁あ。あの。私はもう大丈夫ですのでお仕事に戻ってもらって﹂
﹁りっちゃん。命は一つしか無い。後で後悔してもやり直せない。
大事にしなくちゃ駄目よ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
手をぎゅっと握って力強く言うと女性は部屋を出て行く。
ここまでのドタバタで名乗った覚えはないし、相手が誰かも結局は
わからなかったけれど。
綺斗は残っているから彼が教えてくれるだろうか。
﹁お前。何処も悪くないんだろ﹂
﹁えっ⋮⋮いえ、あの、体がだるくて頭も痛くて﹂
ベッドに寝ている私の側に座り、頭を撫でてくれるはずもなく頬を
ギュッと抓まれた。
﹁呼ばれた理由は室井から聞いているだろう。それでビビって仮病
か?ガキめ。
俺の妻になってどれほど経った?そんなふざけた事がよく出来たな
313
?恥を知れ﹂
﹁ごめんなさい﹂
﹁それも彼女の前で仮病なんて。本当にお前はどうしようもない女
だ﹂
﹁あの人はどういう﹂
﹁倖人の恋人だった人だ。このイベントのスポンサーの一人で俺を
推してくれた人でもある。
お前にとても会いたがっていたから呼んだのになんてことをしてく
れたのか。これ以上あの人に
無駄な心配をかけるわけにもいかない。
説明して謝ってくるからお前はこの部屋から出るな。話が終わった
らまた室井にでも送らせる﹂
人前で失敗するのが怖くて室井さんの案に乗ったのは事実。それに、
今はどんな言い訳も彼は
聞いてくれないだろう。あの女性の事はわかったけど、ちょっとシ
ョック。
綺斗がビジネス関係抜きで女性に優しい気遣いを見せるなんて初め
てだ。兄の恋人だったなら、
将来は義姉になっていたであろう人だから普通の女性とは違うのだ
ろうけど。
﹁⋮⋮﹂
だめだ。泣きそう。
﹁泣くなよ。俺がなぐさめてやるからさ﹂
﹁⋮⋮ぼく、迷子?﹂
ベッドに座りニコっと笑って顔を覗き込んでくる小学生くらいの男
314
の子。
足があるし幽霊ではない。人間がそんな急に発生する訳ないから普
通に考えて
この部屋に最初から居てここにお泊りする少年なのだろうけど。
あの女性の子ども?もしかして、倖人との子ども?
パニックでそれどころじゃないけど、冷静になるとそれはとてもデ
リケートな問題な気がする。
﹁俺は弥央。この部屋でママと一泊するんだぜ!﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁律佳って可愛い顔してるよな。仲良くしよう!﹂
﹁え。あ。う、うん。⋮⋮はい﹂
何だろうこのマセたかんじ。ナンパ?じゃないよね?子どもだし。
手を差し出されたので自分も出したらギュッと握られてブンブン振
り回された。
見た目通りの元気いっぱいの男の子。
315
そのごじゅうご
いつの間にかベッドに潜り込み私の隣に座っている弥央が色々と教
えてくれた。
やはりあの熱心に私を介抱してくれた女性が母親で、彼女がここ数
日イベントの為に忙しくして
いるから構ってほしくて風邪をひいたと嘘をついて学校をズル休み
してついてきたこと。
父親は普段から仕事が忙しくて今は外国に出ており、日本に帰って
くるのは来月だということ。
倖人の子どもでは無かったらしい。
もしそうだったらあの義母が強引に奪っていそうだから、良かった
のかな。
﹁律佳も寂しかったんだろ?だから病気だって綺斗のとこ来たんだ
ろ?﹂
﹁違う。私が居ても綺斗様の邪魔しかしないから、大人しくしてよ
うって思って﹂
仮病は良くなかったけど、でもそういう理由があれば外へ出ていか
なくてもいいはずだった。
家に帰っていつもの様に部屋でじっとしてればいいだけ。どうせ綺
斗は帰ってこないのだし。
まさかこんな大事になるんて思っても見ない。綺斗の立場が悪くな
ってなければいいけど。
﹁どうして?何で律佳が邪魔になるんだよ?﹂
﹁私が側に居たって何も出来ないから﹂
316
﹁ママは何時も俺が元気で側にいるだけで幸せだって言うよ﹂
﹁それはほら。自分の子どもだから﹂
﹁綺斗は律佳が心配じゃないのかな?聞いてきてやる﹂
﹁い、いいよ!いいから。⋮⋮今はもう、大人しくここで待ってる
の﹂
全てが収まったら室井さんが来て私を家に送り届ける。彼女も何か
言われるだろうか。
いや、でも私が言わなければ何もわからないだろうし敢えて突き出
す気もない。
かばう訳じゃないけど、私はあの人に反論もしないで安易に乗りか
かったのだから。
﹁俺あの綺斗って奴好きじゃないんだよな﹂
﹁そう?どうして?﹂
﹁前にさ。暇だったからあいつの尻にライダーキックしたらめちゃ
くちゃ怒られた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子どものすることなんだし多めに見て遊んでくれたらいいのに﹂
﹁それは、君が悪いでしょ。人を蹴っちゃ駄目だよ﹂
﹁そうなの?他の大人連中は遊んでくれるけど﹂
﹁お父さんがあの有名な会社の社長さんだからね⋮⋮﹂
綺斗に蹴りをいれるなんて恐ろしい事を平気でするなんてなんて勇
気。いや、わかってない?
彼の言動は金持ちのお坊ちゃまそのもの。両親から愛情深く育てら
れて、若干わがまま。
毎回それに付き合わされる社員さんとか大変なんだろうな。明るく
て根は良い子そうだけど。
綺斗とは家庭環境も性格も対極かもしれない。
317
﹁こら弥央!何やってるの!﹂
﹁ママ﹂
暫く他愛もない会話をしていたら彼女が戻ってきた。綺斗に事情を
聞いているはず。
私が逃げたくて仮病を使ったこと。
﹁ごめんなさいねりっちゃん。この子ったら可愛い女の子を見ると
何時もこうなの﹂
﹁この度は私が至らないせいでご迷惑をおかけしました。全ては私
の責任で﹂
﹁え?ああ。そんなことはいいのよ。私はただ、りっちゃんに会い
たかっただけなんだから。
私の我儘を綺斗君に押し付けたのがいけなかった。彼も真面目だか
らね﹂
﹁⋮⋮﹂
怒ってなくてよかった、けど綺斗に余計な手間を掛けさせたのは消
せない。
﹁モデルの話も冗談で軽く言っただけで強制したつもりじゃなかっ
たんだけどね。
イベントの準備にはなんら支障はないから、気にしないでゆっくり
していって﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁そっかそっか。倖人が生きていたらこんな可愛い妹が出来てたの
か。
私は久我家の人間じゃないけど、出来る限り貴方の味方でいるから
ね。
318
あの家は大変だと思うけど、一人で抱え込まないで辛いことがあっ
たら相談して﹂
﹁⋮⋮緑里さん﹂
彼女のような義姉がいたらもう少し落ち着いて生活が出来たろうか。
いや、その前に倖人が生きていたら綺斗と結婚はしなかったかもし
れない。
﹁綺斗君は悪い子じゃないけど、夫としては全然駄目ね。
彼なりに貴方を可愛がってるつもりなんだろうけど。ちょっとイラ
っとするわ﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁綺斗君とは倖人よりも付き合いが長いの。何せ彼は私の祖母の家
で育ったからね。
ガキ大将とその部下って感じでずっと遊んでたし。あ。もちろんボ
スは私﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからもし何か文句があるなら私が代わりに言ってあげるから﹂
﹁ありがとうございます。頼もしいです﹂
安心してね、と笑いながら握りこぶしを作る緑里。それだけなのに
とてつもない説得力。
綺斗が彼女に気を使っているように見えたのはスポンサーだとか兄
の元恋人だからとかよりも
昔のボスだったからだろうか。ペコペコしている綺斗とか?昔のそ
の辺を見てみたい気もする。
﹁いいよ俺が律佳を幸せにるから﹂
﹁あらあら。君は風邪じゃなかったのかな?何時までりっちゃんに
抱きついてるの﹂
319
﹁律佳が寂しがってるから。俺が慰めてやってた﹂
﹁ほんと可愛い子にすぐベッタリしちゃって。今ならレストランに
モデルさんたちも居るから
ご飯食べに行く?りっちゃんもどう?﹂
﹁行く!﹂
﹁私は休んでます﹂
﹁ほんとこういう所は旦那にそっくり。ごめんね、じゃあゆっくり
休んで﹂
﹁はい﹂
弥央はママに手を引かれ嬉しそうに部屋を出て行く。振り返って何
度も手をふってくれた。
レストランで食事。もうそんな時間なのか。でも今は不思議とお腹
がすいていない。
綺斗がくるかあるいは室井さんがくるかしてこの部屋から出ること
を許可されるまでは。
布団に潜り込みギュッと身を縮めその時を待った。
﹁調子はどうだ﹂
﹁⋮⋮良いです﹂
﹁帰るぞ。用意しろ﹂
どれほどうずくまっていたのか分からないけど、綺斗が部屋に入っ
てくる。
さっきほど怒っている様子はないけど淡々とした言い方なのは疲れ
てるんだろうな。
﹁自分で帰ります。綺斗様は休んでください﹂
﹁お前いい加減に﹂
320
﹁何したってどうせ邪魔しかしないんだから私なんかほっといてく
ださい!﹂
﹁ふざけるなクソガキ!お前が調子を崩したと聞いて俺がどれだけ
心配したと思ってるんだ!﹂
﹁それはごめんなさいっ!﹂
﹁いちいち叫ぶな煩い!﹂
﹁それはそっちもです!﹂
綺斗は一瞬黙ったがすぐに手を伸ばしベッドに座ったままの私を乱
暴に抱き寄せる。
﹁お前は俺の目の届く所に居なければいけないんだ。勝手な行動は
許さない。
何があってもまずは俺に報告をするんだ。病院でも何でもすぐに連
れて行ってやる。
いいか、俺がこんなにも他人のお前なんかを心配してやったことを
忘れるなよ﹂
﹁私だって綺斗様を心配してます。そんなに急いで何処へ向かおう
としているんですか?﹂
﹁何もわからないくせに、生意気な事を言うな﹂
﹁それは綺斗様が教えてくれないから。でも、貴方の側に居て感じ
てはいます。貴方のこと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でもそんなに急いだら置いていかれる。綺斗様と一緒に歩こうな
んて思ってないけど。
せめて、三歩後ろくらいには居たい。だけど、このままじゃ貴方が
遠くなりそうで怖い﹂
何時か、近い将来。私が手を伸ばしても触れられなくなる気がする。
それが怖い。
321
﹁ここに居るだろ﹂
﹁私も居ます﹂
ぎゅっと抱き寄せられたので自分からも彼に抱きつきかえす。温か
いぬくもりと彼の香り。
今ではすっかりそれに馴染んで安らぎさえ感じている。怒っていて
も、不機嫌でも変わりなく。
暫くはじっと抱きしめあっていたけれど、珍しくそっと私の髪を綺
斗が撫でた。
﹁お前の髪は美しくて好きだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もう少し長く伸ばしてくれ、もっと撫でていたい﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮、⋮⋮俺の律佳﹂
ボソっと聞こえた言葉を聞き返すのが恥ずかしくて聞こえないふり
をする。
一人で帰ろうと思っていたのに。もっとずっとこうしていたい。
綺斗に抱きしめてもらって髪をなでて欲しい。
﹁おい!綺斗!俺の律佳にさわんじゃねー!﹂
﹁⋮⋮あ?﹂
﹁あ、綺斗様!顔が!顔が怖いですっ﹂
だけどご飯を終えて戻ってきた弥央の登場でそんな空気が終わって
しまい。
﹁だから律佳は俺の女になってんの!離れてくんないかな⋮⋮っい
322
てててて!おい!
子ども相手に大人の握力はずるいだろ!!離せ!律佳助けて!ママ
!ママ!﹂
﹁煩い出て行けクソガキ﹂
少年は抵抗していたが鬼の形相の綺斗につまみ出された。
323
そのごじゅうろく
﹁お前のバイト先にも出てきたのか。よほど暇なんだな﹂
﹁でももう大丈夫です。その場に智早様も来ていて、きちんとお断
りしましたから﹂
﹁それはちょうどよかった。どれだけ偉そうにしても一条家に睨ま
れてはな﹂
綺斗に臆せず真っ向から絡んでいく弥央はモデルさんたちと食後の
お茶をしに強制的に退室。
二人にしてくれた緑里さんには後でお礼を言わないといけない。た
だ一緒にしていたら子どもにも
全く容赦ない綺斗と延々と子どもの喧嘩しそうだったのもあるだろ
うけど。
ベッドから出て帰る準備をしながら今のうちに話しておこうと今日
の出来事を彼に報告する。
﹁宜しければ父に話をして頂けませんか?娘の私だけでは聞いても
らえないかもしれないので﹂
﹁そうだな、これ以上面倒が増えては困る。一度キツく言ってやる
か﹂
﹁よろしくお願いします﹂
今回はなんとか収まったが父が情報を流してしまう限りまた何時違
う人が来るか分からない。
柊家にとっても一条家にとってもこの件はすでに過去のこと。久我
家には全く関係がないことだし、
たとえどんな形であれ他人に掘り返されて良いことなんて無いもな
324
いのだから。
﹁いっそ支援も打ち切って無一文で放り出してやろうか。あの男に
は何の価値もない﹂
﹁それは﹂
﹁あんな親でも親か?﹂
﹁いえ。あの父のことですからお金に困ったらそれこそ何をするか
わかりません。
今回のことで味をしめてある事ない事ゴシップ誌なんかに売りつけ
るに決まってます﹂
事件のことは殆ど父が話しをすすめていた。私が知らない事も父な
ら知っているかもしれない。
それをネタにして一条家に取り入る可能性もあるけど、そこまで人
間が終わっているとは思いたくない。
だけどやっと立ち直りかけた所なのに久我家からの支援を切られた
ら家を手放して買ったマンションも
優雅な生活とやらも消えてしまう。今更普通以下の生活なんてあの
人は考えられないだろうし。
そこまで追い詰められたら何をするか。姉が死んだ時に私を無理心
中で殺そうとしたくらいだから。
﹁なるほど。保身のために娘を売るような親はどうしたって変わら
ないか﹂
﹁久我家にとって邪魔にしかなりません。⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁お前はもう久我の人間だ。そう気に病むな﹂
﹁はい﹂
帰る準備を終えて綺斗に近づく。緑里さんにこの部屋の鍵を渡す必
要があるから
325
その時に御礼をして、弥央にも声をかけておこう。
﹁ここのレストランで飯にするか。それほど美味くはないが今の時
間なら空いている。
お前も腹が減ったろう?﹂
﹁今は空いてなくて。家に帰ってからにします﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?あの。本当なんです、気を使ってとかじゃなくて空いて
ないんです﹂
何時になく優しいお誘いだったけれど、正直今は何も欲しくない。
素直に返事をしたつもり。
でも綺斗がその場に固まってこちらを凝視している。逆らったから
気に障ったろうか。
﹁お前⋮⋮お前っ﹂
﹁食べます!食べますから怒らないでっ﹂
すごい勢いで近づいてきたら殴られるのかと思って身構える。
﹁やっぱり調子が悪いのか?俺には嘘をつくな。何処が悪いんだ?
頭か?腹か?﹂
﹁え?え?﹂
真面目な顔で私を抱きしめて顔を覗き込んでくる。何処も、悪くな
いですが。
綺斗の行動が冗談じゃないのはその怖いくらいの真顔で伝わる。
﹁食欲と睡眠しか脳が発達してないお前が食欲がないなんてあり得
ないだろ﹂
326
﹁え。⋮⋮えー⋮⋮?﹂
﹁腹痛ではないなら頭だな。頭を打ったんだな?誰かに殴られたの
か?それとも自分でか?﹂
﹁綺斗様?待ってください、私だって落ち込んだ気分で食欲が落ち
ることありますからね?﹂
﹁そんなものあるわけ無いだろ﹂
﹁あ、あるから!今まさにそうだから﹂
だからそんな真面目な顔で心配しないでください。自分が辛くなる
じゃないですか。
綺斗に心配されるのは嬉しいはずなのに今全然嬉しい気分じゃない。
むしろ辛い。
﹁だったらまっすぐ帰るか。俺が家まで送っていってやる﹂
﹁あ。や。やっぱり食べる﹂
﹁何だいきなり﹂
﹁綺斗様とご飯が食べたい﹂
そうだ、今日はここで帰ったら後は暫く別々なんだ。明日こそ忙し
くて連絡も取れないだろうし。
だったら食欲がなくてももう少しだけ一緒に居たい。少し前までは
この人と一日中一緒に居ても
しょうがないって思ってたのに。何故か離れる時間が惜しくなって
しまってる。何もしないのに。
部屋を出ると二階にあるというレストランへ移動。
モデルさんたちがお茶しているのは別のお店だからそう煩くもない
と言っていた。
﹁お前何してる﹂
﹁俺はかの西浦清露の代理のものですぞ﹂
327
﹁何が代理だ。自分で着付けもできないくせに﹂
お店に入ると彼の言った通り人は殆ど居なくて席も選び放題。どう
せなら窓際の
イベント会場がよく見える席がいいと私が率先して座ったらさも自
然に隣りに座る男性。
何故か居る宗親に綺斗の顔がまた鬼のように怖くなる。
﹁着物のモデルですよモデル。ほら、俺これでも結構売れっ子のモ
デルだから﹂
﹁モデルさんってヌードもするんですね﹂
﹁あれは完全に俺の趣味﹂
﹁⋮⋮あ。そう、なんですね。はい﹂
どんな趣味なんですかとは聞けず、ただ少しだけ距離を置いて座り
直した。
彼と会話するよりも先にメニューを広げる。目新しいものは無くて
数も少なく定番の洋食
しかないけれど。その写真はどれも魅力的でどんどんお腹がすいて
きた。
﹁先生、すみません。よろしいですか﹂
﹁ああ。先に注文しておけ。俺はお前と一緒でいい﹂
﹁わかりました﹂
そこへ室井さんが近づいてきて綺斗を連れて出ていく。当然仕事の
ことなのだろうけど。
何となく彼女と目を合わせ辛くてメニューを見てごまかした。
宗親も何故か当たり前のように私の隣でメニューを考えている。
328
﹁スケジュールの変更は以上です。微調整は必要ですが今日中にな
んとか出来ます﹂
﹁分かった﹂
﹁先生にはまだ仕事があります、奥様は私がお送りしますからどう
ぞお部屋で休憩を﹂
﹁いや、いい。お前に任せてまた要らん入れ知恵をされては困るか
らな﹂
﹁え﹂
﹁律佳に余計な事をさせたのはお前だ。あの女は馬鹿だが人を騙す
ような事はしない﹂
﹁先生違います、あれはただ﹂
﹁お前は有能だが卑怯だ。処遇は今は保留にするが期待するな﹂
329
そのごじゅうなな
﹁だから言ったろ。どうなっても知らないぞって﹂
﹁菅谷さんが話したんですか?それともあの人が﹂
﹁あの奥さんは何もしてないだろ。俺も先生にお前を突き出すよう
な事はしてない。
ただ仕事の合間の息抜きに先生と世間話くらいはしたかもしれない
けど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁イベント前で先生もピリピリしてる。無事に成功させられたら少
しは気持ちが変わるかも。
ただし奥さんへの態度は変えたほうがいいだろうけどな﹂
五分。十分。もしかしてすぐ戻るかも?とメニュー片手に待ってい
たけれど、
室井さんと席を立ったきり中々戻ってこないので我慢できず注文を
する。
彼は同じものでいいと言ったので素直に同じものを注文しておいた。
料理を待っている間、
ひっきりなしに隣りに座っている宗親が喋りかけてくるのを半分聞
いて半分笑顔でかわしつつ
窓からの景色を眺める。
イベントは見学に行きたいけれど、私が顔を出すと面倒なことにな
りはしないだろうか。
スタッフさんたちへのご挨拶とか何かしらの手土産とか、それはい
いとして。紹介だのなんだので
330
忙しい綺斗の手を止めさせてしまうのでは?しかも久我家の妻とし
ての完璧な行動が必要になるだろう。
下手なことはしないだろうけど、かといって上手く出来る自信もな
い。
綺斗からは来いとも来るなとも言われていない。どっちでも良いっ
て意味なんだろうか。それとも。
﹁注文は済ませたか﹂
﹁はい﹂
綺斗が戻ってきて席に着く。落ち着いているから問題が起きたとか
ではないようで安心。
﹁でさ。えびちゃんの元クラスメイトとかで可愛い子を何人か﹂
﹁彼女居るんですよね﹂
﹁居るけどほら、これはお友達と言うか﹂
﹁お前の尊敬する兄さんに電話するのと一番恐れている母親に電話
するのどっちがいい﹂
﹁⋮⋮二人きりのほうがいいですよね、俺、あっち行ってまーす﹂
携帯片手にその脅し文句は宗親に大ダメージだったようであっとい
う間に違う席へ移動。
彼の軽さからしてお硬い真面目な家庭環境なんてやっぱり想像がつ
かないけれど。別に、
愛され満たされても聖人になるわけじゃないし、何も与えられなく
ても悪魔になる訳でもない。
それは他人に対して疎かった私が実家という狭い世界を出てから感
じたこと。
﹁一度親に報告しておくか。あれも鬱陶しい﹂
331
綺斗から見た私はどう映ってるんだろう。
そんな事気にしたってどうしようもないけど、やっぱり側にいる者
としては気になるというか。
そばに居ていいって言ってもらってそれで安心していたのに。
﹁⋮⋮﹂
ちらりと綺斗を見たら相手もこっちを見ていて目が合う。
慌ててそらしたけどバレてるよね絶対。
﹁言いたいことがあるのならさっさと言え﹂
﹁明日、ちょっとだけでいいから会場を見に行ってもいいですか?﹂
﹁なんなら俺と一緒にトークショーでも出るか?スポンサーにも挨
拶して﹂
﹁い、いえっこっそりバレないように行きます。気配消すのとか得
意なんですっ﹂
﹁来たときと帰る際にはきちんと俺に連絡しろ。いいな﹂
﹁はい。⋮⋮写真も撮りたいな﹂
久我先生として活躍する綺斗の写真も沢山撮りたい。着物に対して
真っ直ぐで真剣な所。
なので大勢の女子に囲まれている所はほしくない。
そんな会話をしていたらお店の人がようやく料理を運んで来てテー
ブルに並べていく。
﹁お待たせいたしました。オムライス、ビーフシチュー、ナポリタ
ンスパゲッティ、カレーです﹂
﹁わーい﹂
﹁おい、幾ら二人でも四品も食えないぞ﹂
332
﹁これでワンセットです﹂
﹁は!?﹂
﹁綺斗様一緒でいいって言うから。お腹すいてるんだなって思って﹂
﹁ば、馬鹿か!?お前は!﹂
﹁いい匂いする﹂
いったん厨房へ帰った店員さんが戻ってきてもうワンセット綺斗の
前にセッティング。
彼は凄く驚いた顔をして料理と私を交互に見たけれど、私は気にせ
ず手を合わせてから
ナイフとフォークを持って遅めの夕食をいただく。
綺斗の言葉もあって味はそれほど期待して居なかったけれど中々美
味しい。
お値段の割にサイズが小さい気がするけど、それは品が良い?のだ
ろうし。
﹁通りで遅いと思った。何でシチューとカレーを頼むんだ。一つで
いいだろう⋮⋮﹂
﹁どっちがいいかなって悩んでたら宗親さんが両方食べればいいっ
てアドバイスをくれて﹂
﹁あの野郎﹂
﹁綺斗様もイッパイ食べて明日に備えてくださいね﹂
﹁こんなに食いきれるか。あの馬鹿野郎にくれてやる﹂
宗親のテーブルに料理を幾つか置いて綺斗が戻ってくる。結局彼が
きちんと最後まで食べたのは
オムライスとサラダだけだった。食後のお茶も頂いて、まったりと
部屋で休憩なんてする間もなく帰る。
一緒に戻っても家に入るのが私だけなのが少しさみしい。明日には
帰ってくるのに。
333
車はあっという間に久我家の駐車場に入って後は私が降りて家に入
るだけなのに、まだ車から出て
いけない。綺斗も出て行けとは言わない。けど沈黙のままじゃ何も
進まない。
何か言わなければと考えて。
﹁綺斗様。今日は本当に﹂
﹁室井に何を言われたか知らないが今後は大人しくして妙な気を起
こすなよ﹂
﹁⋮⋮﹂
お礼とお詫びを言おうとしたら綺斗に途中で止められる。
室井さんとのやりとりを何で知ってるんだろう?
私は話してないし、たぶん彼女も話してないと思ってたのに。もし
かして話をしてた?
﹁何を考えてお前にあんな勝手なことをさせたのか知らんが、あい
つはもう気にするな。
最初からお前専用の運転手を雇うのが手っ取り早かったな。すぐ用
意してやる﹂
﹁室井さんはただ綺斗様に一流の職人としてずっと頑張ってほしい
だけ⋮⋮だと、思います﹂
﹁そんなものは余計なお世話だ。全く、勝手なことはするなと言っ
たのに﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それだけお前と俺は形だけの夫婦に見えているんだろうな﹂
﹁綺斗様﹂
﹁あのクソ王子にも言われた。もっとお前に気を使って身近な人間
にも注意してやれと。
334
緑里さんにも気遣いが足りていないと言われた﹂
﹁私は別に不満は無いです。綺斗様の好きにしてください。
そんなお客さんみたいに扱われたほうがプレッシャーですし﹂
今の私も微妙な立場かもしれないけど、人の目を気にして奥様らし
く飾り立てられて
思ってもないのに可愛がったふりをされても嬉しくない。そんな風
にされたらこっちも旦那様に
愛されている妻を演じないといけない。私は綺斗に嫌われてなかっ
たらいい。
側に居ても良いならそれで。全てが報われる必要はない。
﹁そんないじらしいことを言うな。⋮⋮その首を締めてやりたくな
る﹂
私の言葉に綺斗が珍しく機嫌良さそうにして私の頬を優しく撫でる。
とっても物騒なこと言いながら。その時私の脳裏には師匠様の言葉
が浮かんでいた。
﹁じゃあやっぱりうんと可愛がって欲しいです﹂
﹁おい﹂
﹁もうすごい気遣って欲しいですお客様待遇でいいですVIPでい
いです﹂
﹁何がVIPだふざけるな縄で締めるぞ。もちろん、首じゃなくて
裸体をだ。吊し上げてやる﹂
﹁あのっ⋮⋮す、すいませんごめんなさいっ﹂
﹁真に受けるな冗談だ。さっさと降りろ﹂
﹁はい。お気をつけて﹂
335
そのごじゅうはち
綺斗が居ない家で迎えた朝。イベントのプログラムは把握している
からショーの雰囲気や
綺斗の様子をこっそりとうかがったらすぐ退散する予定。家政婦さ
んに頼むか一人でも着付けは
出来るけれど、その場面似合った着物選びが出来ない。
なんとなくで選んでもしも不釣り合いな格好をして彼に恥をかかせ
たら後が怖い。
よって今回は無難に選んだそれなりのお値段のする洋服。それでも
本来は場所や季節に合わせた
アイテムで全身コーディネートしないと不味いのだろうけど、とっ
さには浮かんでこなくてこの前買って
きた雑誌から選んだモデルさんの真似をした。
﹁きちんとした服買って置いてよかった。でも、これで合ってるん
だろうか﹂
本来は着物デザイナーの妻らしく着物のほうが良いんだろうけど。
ここは今後の課題として。
姿見の前で何度もチェックをしてからカバンに財布と携帯とデジカ
メをいれて。
﹁あら、律佳さん。おでかけ?﹂
﹁はい。あの、今日は綺斗様も参加されるイベントがあって。お義
母様もどうですか?
他の先生の着物も沢山見られるしパンフレットも頂いてきているの
336
で﹂
﹁今日はあまり気分が良くないの。気をつけていってらっしゃい﹂
﹁⋮⋮はい。行ってきます﹂
綺斗のように何も言わずに出かけるわけにはいかないから義母に声
をかけてから家を出る。
誘ってもどうせ来ないんだろうなとは思っていたけれど。案の定な
結果。
この人はそんなものだと諦めてそういうものだと割り切ったものの、
こういう時はやっぱり
実の母親なんだからとか、もう少し距離が縮まればなんて余計な事
を考えてしまう。
外には事前に電話で呼んでおいたタクシー。綺斗には事前に連絡済
だから気楽に乗れる。
私の仮病がなければ室井さんが迎えに来てくれていたのかもしれな
い。
彼女は今日も忙しく働いているのだろうな。
あくまでそっと様子をうかがいたいだけだから綺斗にも彼女にも声
をかける気はない。
もうすぐ会場に到着します、適当に見て帰ります。とメールで綺斗
に報告はするけれど。
﹁一人でいらしてたんですね﹂
﹁あ。ど。どうも。お疲れ様です﹂
会場近くでタクシーを降りてゾロゾロと会場へ向かっていく人の波
に乗って入り口まで来た。
337
入場自体は無料だからそのまますんなり中へ入っていける、はずだ
ったのだけど。人の波から少し
外れたスタッフさんの休憩所や機材などが置かれている所にぼんや
りと座っている女性を発見して、
まさかとは思ったけれど見つめていたら相手も私に気づいたようで
見つめ返し、近づいてきた。
﹁疲れるほどのことはしていません。先生に外で雑用をしていろと
言われたので﹂
﹁雑用、ですか﹂
さっきまで彼女の居た場所にはゴミの入った大きな袋が幾つか置い
てあって。手には軍手。
ずっと外でゴミ拾いをしていたのだろうか。
てっきり建物の中で綺斗の手伝いをしているとばかり思っていたけ
れど。
﹁貴方を唆した私への罰なんでしょう﹂
﹁罰﹂
﹁勘違いしないで欲しいのは悪意があったわけじゃないということ
です。お忙しい先生の邪魔を
排除したかっただけで。でもそれは他人から見ると意地悪に映って
しまうみたいで残念です。
先生にも印象が悪く映ってしまったようで﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんとか弟子として残って一端のデザイナーとして先生に認めら
れたいと思っていたんですが
無理でしょうね。先生は一度決めると中々覆してはくれないから﹂
彼女はそう言うと軽くため息をして視線をそらす。本当に心から残
338
念がっている様子。
明確な言葉はなかったがそれはつまり、綺斗に弟子を辞めさせられ
たということなんだろうか?
ただ私に仮病の案を出しただけで?
﹁私は貴方のように仕事を支えることは出来ません。けど。側にい
ていいと言ってくれました。
まだそれ以上の何が出来るわけでもないですが、少なくとも邪魔扱
いはされてないはずです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからお互いに出来ることをして綺斗様を支えていけたらそれで
良いじゃないですか。
私、今からでも綺斗様に話をして﹂
﹁いいえ。今は大変忙しい時なので邪魔しないでください。それに、
奥様がどうしたって私の処遇は
変わらないでしょうからお気になさらないでください。ただ、最後
にひとつだけ。
奥様はお若いですが、今と変わらずに何十年先も先生を支えていく
自信はお有りですか?﹂
﹁夫婦で居られる限り支えたいです﹂
あの人がもう要らないと言うまでは。何処まで出来るかわからない
し失敗も多いだろうけど。
私達の話している後ろではひっきりなしに会場へ入っていく人の列
が出来ている。
女性が多いのはやはり着物がテーマだからだろう、あとは参加して
いるデザイナーのファン。
来る途中ちらっと前に私が買った女性誌を持っている人も居た。綺
斗の作品が載っているもの。
339
﹁先生の機嫌を取らないと実家にお金が入らないですしね﹂
﹁違います﹂
﹁愛情ですか﹂
﹁⋮⋮わかりません、けど﹂
﹁そこは曖昧な返事をされるんですね。少し残念です﹂
﹁⋮⋮﹂
これは愛情、なのかな。断定していいのかな。綺斗は嫌いじゃない、
好き。だけど。
それは私にとって心地よい居場所を提供してくれるから、かもしれ
ないし。
人生最初で最後だと思った愛情を使い果たして燃え尽きた後で、そ
の感情が行方不明。
あるいは私が勝手に断定して綺斗に否定されるのが怖いだけかもし
れない。
﹁断定して貰ったほうがまだ心の整理がついたんですけど、やっぱ
り相性悪いですね私達﹂
﹁でも考えていることは同じなんですよね?﹂
﹁だからかもしれない。最後に少しでもお話ができてよかったです、
奥様﹂
﹁⋮⋮室井さん﹂
少しだけ口角を上げて彼女は戻っていく。またゴミを集める作業へ
行くのだろう。
そしてこれが彼女を見る最後になるかもしれない。そしてその原因
が自分。
邪魔したくないという気持ちは同じなのに。何でこんなことになっ
たんだろう?
340
複雑な気持ちになって暫くぼんやりしていたけれど、後ろから聞こ
えるアナウンスや
楽しそうなお客さんの声に肝心のイベントに何も触れられていない
事を思い出し
慌てて会場に入った。
﹁俺の律佳っ﹂
﹁うわ。びっくりした。弥央君?﹂
さっそく展示されている着物をうっとり眺めていたら何かが後ろか
ら抱きついてきて。
振り返ると満面の笑みで見つめてくる弥央の顔。
﹁よく来たな!ここは俺が案内してやるから!﹂
﹁し、静かに。私はすぐ帰るから。大きな声出さないでね﹂
﹁あれ。えびちゃん。その子は息子⋮⋮じゃ、ないよね流石に﹂
そしてモデルで参加しているはずなのに何故か会場をフラフラ歩い
ている宗親。
﹁何だこのチャラチャラした奴!お前!俺の律佳にさわんなよ!あ
っちいけ!﹂
﹁えーどっちかっていうとお前のがチャラいって。ガキのくせにー﹂
﹁⋮⋮ああ、どうしよう今一番会っちゃいけない二人に出会ってし
まった﹂
私を挟んで喧嘩しだした。目立つ容姿の宗親。声がやたら大きい御
曹司の弥央。
隠密行動したいのに、なぜ速攻で見つかってしまったのか。逃げ出
341
したいけれど
子どもの力とは思えないくらいがっしりと腰に抱きつかれて動けな
い。
﹁えびちゃんガキが趣味なの?でも旦那さんはふつーにオッサンだ
よね?﹂
﹁あんな怖い顔したオッサンなんか要らないよな!俺が面倒見てや
るからな!﹂
﹁あ、あのね。あの、ふたりとも落ち着いてあちらを御覧ください﹂
凄い怖い顔した人がいるから。あの顔は見覚えがある。
﹁え?﹂
﹁なに?﹂
お怒り爆発の綺斗様。流石に鋏は突き立てないけれど。
﹁オッサンが何だって?あぁ?﹂
﹁兄上さん⋮⋮いたのぉ﹂
﹁ママ⋮⋮ママーーー!﹂
二人はその顔を見るや脱兎の如く逃げさった。
342
そのごじゅうきゅう
睨まれた二人の姿はもう人混みに消えてまったく分からない。
とても怖い顔をしてご登場したものだから私も巻き込まれて怒られ
るかと思ったけれど。
私を見るなりこっちへ来いと手を引かれて、やってきたのは会場裏
手の出演者用の控室。
狭いけれど専用の部屋が用意されていてここなら静かに二人で会話
が出来そうだ。
それはいいけど、こんなことになるなら何か差し入れを持ってくる
べきだったよね。
適当に座ればいいと言われて隅っこにあったパイプ椅子を引っ張っ
てきて座る。
遠目でみたら帰るつもりで綺斗に会うとは思ってなかったから何も
ない。
何かあるのなら今からでも走って買いに行こうかとかどうしようか
マゴマゴしていると
綺斗がほしければ好きなものを飲めと差し入れらしい飲み物たちを
指差した。
﹁あ。あの。綺斗様の展示してある作品見てきました。雑誌でも宣
伝してたんですね、
ファンっぽい女の人たちが雑誌持って探してました﹂
﹁そうか﹂
言われて無視するのも何だし、正直チョット喉も乾いていたのでオ
レンジジュースを手にする。
343
差し入れられてすぐなようでまだひんやり。
﹁それと。室井さんを入り口でみました。⋮⋮辞めるんですか?﹂
﹁俺のもとに居てもあいつは今以上には育たない。別の工房か呉服
屋で仕切り直した方がいい﹂
﹁私の、せいですよね﹂
﹁そうだな。お前が俺に嫁いできてからだ。あいつが妙な事になっ
たのは﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女はただ綺斗の邪魔を排除してスムーズに仕事にかかってもらお
うとしただけだ。
そう一貫して主張していた。それが人から見ると意地悪をしている
ように見えるだけと。
私が綺斗に近い年齢で落ち着いていて彼をちゃんと支えられたら良
かったんだろうか。
あるいは嫁というもの自体が要らないもの扱いだったのかもしれな
い。
どっちにしろ私が来たことで彼女は去る。
綺斗に一番近くに居る女のくせに何もできないけれどそれが許され
ている私を
彼女はずっと見ていたんだろうか。もしかしたら弟子じゃなくて、
女としてとか。
﹁あいつは余計なことを考えず仕事に一途だと思っていた。やはり
女を側に置くのは厄介だな﹂
﹁綺斗様﹂
綺斗はどう思うのだろう。側に置いていたからには優秀な弟子だっ
344
たはずなのに。
﹁気にするな。俺の嫁を勝手に邪魔だと判断したあいつが悪い。
そういう勝手な干渉が一番邪魔だ﹂
﹁でも実際役にはたってないです﹂
﹁お前に役立ってもらおうなんて思ってない。モデルをさせるくら
いだ。他にはお前に強いてないだろ﹂
﹁一人で外行けない。ちょっとでも男の人みたら怒る。ほっぺたひ
っぱる。⋮⋮くびしめる﹂
﹁最後のほうがよく聞こえないんだが、俺に意見するならもっと大
きい声で言えよ?﹂
﹁何でもないです﹂
ほら。そうやってちょっとでも反論とか意見とか言おうものなら怖
い顔して脅す。
実際に攻撃されるわけじゃないし、ほっぺだって本気の力ではこな
い。最近じゃ首も締められない。
けど、怖い顔で睨まれたらやっぱり怖いのは怖いのです。
﹁あのクソ王子といい室井といい。今後は嘘でも何でもいいからお
しどり夫婦を演じるか﹂
﹁え?﹂
﹁お前だって俺にVIP待遇されたいんだろ?優しくしてほしいん
だろ?俺達が仲良し年の差夫婦を
演じていれば邪魔だの気遣えてないだのと勝手な干渉も面倒も減る
かもしれない﹂
﹁な、仲良し年の差夫婦⋮⋮﹂
分かりやすい表現かもしれないけど、それを真顔の綺斗から言われ
ると違和感が。
345
確かに人前で仲良しをアピールしていれば私は妻としての立場を確
立できるかも。
過剰なくらい仲良く見せてたらお弟子さんからも少しは待遇が違っ
たろうか?
今でも仲が悪いとか冷めた感じは出ていないと思うけれど、
積極的に一緒にパーティに出たりこういうイベントに妻として顔を
だすとかもない。
ボロが出たら困るから露出は最小限にしてきた。
﹁⋮⋮どれ﹂
﹁え?な、なんですか?﹂
どんな感じなのか想像していると綺斗が立ち上がり私のすぐ目の前
に来た。
何をするんだろう?じっと真面目な顔で見つめられてドキドキする
ような不安なような。
身動きできずに静かに見つめ返していたら彼の手が私の頬に優しく
触れる。
﹁怖い顔をして悪かった。お前が心配だったんだ、許してくれるか
?﹂
﹁⋮⋮へぇっ!?﹂
いきなりニッコリ笑って何言ってるんですか?
﹁驚いた顔も可愛いんだな律佳は。そんなお前の為にまた着物をデ
ザインしたい。
完成したら着て見せてくれ、まずは俺にだけ見せてお前の美しさを
確かめさせて欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
346
﹁なあ、律佳﹂
﹁⋮⋮、は、はい﹂
どうしよう凄いゾワゾワする。こんなの綺斗じゃない。優しいのは
望む所なのに。
たしかに優しい言葉を穏やかな顔で言っているけれど。
それが本音じゃないということをよく分かっているのでその温度差
で震えが来る。
﹁⋮⋮やっぱりやめだ。気持ち悪い﹂
﹁そうしてください。無理は体に良くないです﹂
﹁ああ﹂
どうやら相手も違和感が拭いきれなかったようですぐに何時もの厳
しい表情に戻る。
﹁もうすぐトークショーですよね﹂
﹁一緒に来るか﹂
﹁遠慮しておきます。こんな格好だし﹂
﹁そうか。好きに見ていけばいい。帰る際にはメールをしろ﹂
﹁はい﹂
再び椅子に座り、時計を見て軽くため息をする綺斗。大勢の人の前
で話をするのに
そこまで緊張する人じゃないから、このため息はキャラを作るのが
面倒だなってものかも。
女性受けする容姿に合わせた紳士な久我先生。イベントに合わせた
和服も決まっている。
﹁今日の工程が全て終わってもすぐには帰れないからまた帰れない
347
かもしれない。
明日も片付けや反省会打ち上げもあるだろうからかなり遅い。新婚
旅行はそれからだ﹂
﹁あの、もう少し日にちを遅らせたほうがいいんじゃ﹂
﹁それだとまた仕事を入れるかもしれない。依頼を待ってもらって
いる人もいるからな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁俺も少しは休みたい。今ここで倒れるわけにはいかないしな﹂
﹁ご飯はしっかり食べてくださいね﹂
﹁お前と居ると飯だけはやたら食うようになったからな。そこは心
配するな﹂
﹁私としては綺斗様は食が細いです。もっともっとガッついてほし
いです﹂
﹁俺を太らせる気か。⋮⋮そろそろ準備をする、お前は見学なりな
んなりしていけ﹂
﹁隅っこで応援してます!﹂
会場へ戻るとさっきよりも更に人が増えたような気がする。
それもトークショーが行われるイベント会場に集中して。これじゃ
遠目で見るにしても
ゴマ粒かもしれない。綺斗と話もしたことだしもう敢えて遠くから
見なくてもいいか。
応援してますとか言ったけれど、これじゃきっとわからないだろう。
それよりも
何か食べ物とか売ってないかな。そっちが気になってパンフレット
片手に移動開始した。
私が片っ端から美味しいものを食べている間。トーク中に綺斗が私
の話をしていたらしい
けれど、当然聞いてなくて。静かに、けれど何時迄もネチネチと怒
348
られた。
349
そのごじゅうきゅう︵後書き︶
ここでまた一区切り。
350
⃝そのろくじゅう
﹁緑里さんが今度お前とゆっくり食事をしたいそうだ。でもあの人
もかなり忙しい
身の上で何時誘いの連絡がくるかわからないからな、気にせずほっ
とけばいい﹂
﹁わかりました。弥央君にもまた会いたいですしね﹂
﹁言い寄られて良い気になったか?あんなガキにまで色目を﹂
﹁違います!綺斗様とのやり取りが面白いからに決まってるじゃな
いですか﹂
﹁⋮⋮お前、本当に生意気になってきたな﹂
疲れた顔をして帰ってきた綺斗を出迎えて、一緒に食事して、その
まま部屋で休憩。
立て込んでいた仕事やイベントが一段落した綺斗からようやく当日
の段取りを聞いて
メモをしてカレンダーに印をつける。
好きで結婚したわけじゃない相手との新婚旅行をこんなに楽しみに
するとは思わなかった。
といっても甘い蜜月旅行というより自由気ままな温泉旅行みたいな
もので、
地元の美味しいものとか温泉が一番の目当てではあるけれど。
相手も休暇を取って私の相手をするというよりはゆっくり一人で居
たいのだろうし。
﹁このカバンに一緒に荷物入れてもいいですか?私の物はそんなに
ないですから﹂
351
﹁行くのは明後日だ。用意するなら明日でもいいだろ﹂
﹁何だかソワソワして﹂
﹁ガキめ﹂
許可を得てから綺斗の部屋の押し入れを開けて目についた大きいカ
バンを引っ張り出す。
そこに彼の荷物と自分のをいれてもまだスペースに空きができるだ
ろうから、マスター夫婦への
お土産と気に入った饅頭やせんべいなんかを目一杯突っ込んでしま
おう。
想像しながらニヤニヤしていたら机に迎っていた綺斗に馬鹿らしい、
と一蹴された。
﹁あの、明日なんですけど。私出かけてきてもいいですか﹂
ひとまずカバンを置いといて、ニヤけ顔をしまい綺斗に恐る恐る声
をかける。
﹁何処へ行くんだ﹂
﹁覚えてますか?智早様と一緒に私の姉の部屋に行った日。その時
に私が姉の秘密の箱
からペンダントを取りましたよね。あれを姉のお墓にいれてあげよ
うと思います﹂
その話はその時にしたから彼も覚えているはず。
﹁⋮⋮﹂
﹁それで終わりにしようって。片付けてから旅行したほうが良いっ
て思って﹂
352
﹁それなら十分もあれば終るな。明日午前中に連れて行ってやる﹂
姉が何者からも隠すように置いてあった箱。その中に唯一いれられ
ていたペンダント。
何か意味があるのだろうけど今となっては分からない。
智早は身に覚えがないと言っていたからもしかしたら愁一さんがあ
げたのかもしれない。
とにかく、姉の大事なものには違いない。それをお墓にいれてあげ
てそれで最後の供養。
ずっと足が遠のいていた姉のもとへ行く。
﹁家のことで何度も面倒をかけてしまって申し訳ありません﹂
﹁それもこれで最後だと思えば構わない﹂
今の私はひとりではない。はずだから。
﹁そうだ。綺斗様。写真いっぱいとったんです。後でパソコンで見
てもいいですか﹂
﹁お前は馬鹿みたいに俺の顔ばっかり撮りやがって。全部消してや
るからかせ﹂
﹁嫌です。私は記録係なんですから﹂
﹁だったらお前自身の写真も撮れ。お前も同じように時を刻んでい
くんだ﹂
﹁私が二十歳になったら一緒にお酒を飲んで一枚撮りましょう﹂
﹁断る。そんなクソどうでもいい事一人でやれ﹂
﹁⋮⋮絶対撮ります﹂
その後、デジカメの写真を消すか消さないかで綺斗と小競り合いを
して。
何枚か削除されながらもデータをクリーンにした所で旅行に備える。
353
準備はほぼ整った。
後は明日、ペンダントをカロートへ置いてきたらいいだけだ。
自分の部屋に戻り無くさないように仕舞っておいたペンダントをも
う一度確認して。
その日を終える。
﹁綺麗にはしてもらってるんだ﹂
翌日、朝起きて急ぎ目に準備を終えたら綺斗の車で姉のもとへ。
久我家の兄弟が眠っている場所とはまた違う、静かで少し寂れた場
所。
本来ならば子どもよりも両親が先に入るはずのお墓。追いかけるよ
うに母はいるけれど。
姉は一条家の人間になってここに来るはずじゃなかった。でもこう
して彼女はこのまま柊家から
出ていくことは無い。柊美鶴として死んでしまったのだから。それ
も他人からしたら面白いネタとして
小説という物語にされて皆に晒されそうになるような死に方。
﹁俺は先に車に戻る。好きに恨み辛みを吐き出せ﹂
﹁綺斗様﹂
﹁言った所で何も変わりはしないがな﹂
もしかして私に気を使ってくれたのだろうか、それとも単に興味な
くて暇になったのか。
綺斗はお墓に軽く手を合わせたら自分の車へ戻っていった。
残った私もそんな悠長に長居する気もない。カロートを開けて姉の
354
ペンダントを入れよう。
﹁なんだろこれ﹂
中には遺骨の包まれた麻袋だけがあるはずだったのに、明らかにそ
れじゃない違う
小さな包が入っている。ペンダントをひとまず置いてそれをそっと
手にとって確認する。
遺骨じゃないならなんだろう。誰がいれたのだろう?母は無理だろ
うし。となると父?
包を開くとそれは可愛らしい薄ピンク色の小さな日記帳。誰のもの
か名前は書いてないけれど、
こんな場所に隠すように置いてあるなんて、考えられるのは姉か母
のものだけど。
﹁何でこんな破られてるの?﹂
妙に軽いと思ったらページの所々が破り取られていて内容がよくわ
からない。
かろうじて残っていて読めるのはなんてこと無い日記部分のように
思う。
そこまで長文での日記ではなく、三行四行ほどの淡々としているも
のだから。
今日は何を買ったとか、映画を友人と見た、とか。そういう。内容
からしてやはり姉のものだ。
﹁律佳、ごめん。⋮⋮ごめんって?﹂
日付はまだ死んだ日じゃない。けど、私への謝罪が残っているペー
355
ジを発見する。
姉がその日に何をしたのだろう。それも一回じゃなくて何度か出て
くるから気になる。
でも肝心な部分が無くて何も分からずじまい。
ペンダントを置いてくる代わりにその日記帳を手にして綺斗のまつ
車へと戻った。
﹁気が済んだか﹂
﹁それがまったく﹂
﹁は?﹂
﹁ごめんなさい、父の元へ行っていただいてもいいですか﹂
﹁何だ。姉に愚痴ったら今度は父親か﹂
﹁お願いします﹂
356
そのろくじゅういち
すぐに終るはずだったお墓のつぎは私の実家。予定外の行動だけど
綺斗は運んでくれる。
その間の車内でさんざん迷ったけれど、結局姉の日記のことは綺斗
には言えなかった。
まだこれの存在する意味を理解できていない。
ちゃんとわかったらその時に話そう。なんて、何故か言い訳がまし
く考えて。
何もわかっていないのにどうしても明るい方に考えられないのは恐
らくあの父親が関わって
いると思っているからだろうか。あの人が関わって良いことなんて
あったろうか。
どうかせっかく落ち着いてきた私の今の生活を壊すものでないこと
を願って。
﹁どうした。家についたぞ﹂
﹁すみません。綺斗様はどうしますか﹂
﹁お前の父親が居るんだろう。釘を差してやると言ったからな﹂
﹁そうでしたね﹂
そうだ。父にもうこれ以上余計なことを他人に漏らさないように綺
斗に言ってもらうんだ。
この日記の存在とそれを同時にしても大丈夫だろうか?私にとって
怖いことにならない?
自分が何かをしたわけじゃないのに、知らないのにどうしてこんな
にも恐れてるんだろう。
357
﹁先に行け。お前はお前で父親に話したいことがあるんだろ﹂
﹁良いんですか﹂
﹁五分したら行く﹂
﹁⋮⋮はい﹂
私の気持ちを察したのかは分からないが綺斗より先に車を降りて家
に入った。
引越し作業真っ只中であれこれと業者に指示をする為今日は家に父
はいる。
今まで家のことをしてくれていた家政婦さんは皆さんもう居ない。
大きな荷物を運んでいく業者のお兄さんたちを尻目に父の姿を探し
て歩く。
﹁それはもっと大事に運んでくれ。ああ、もっと丁寧に!﹂
﹁お父さん﹂
﹁ん?どうした律佳。今日来るなんて聞いてなかったが。引っ越し
の手伝いなら要らないぞ﹂
﹁そうじゃないです。少し話がしたくて、少しだけでいいのでお願
いします﹂
﹁わかった。じゃあ、後は頼みますよ﹂
自分の物と好きで集めていたコレクションは新居であるマンション
へ持っていく。
その傍らで母親が嫁入り道具やとても気に入っていた品々がゴミと
して運ばれていく。
私や姉の部屋のものももうじき運ばれて行くのだろう。ゴミとして。
金目のものはまた別の業者が値踏みして売られるのかもしれないけ
ど。父からしたら
例え妻でも娘でも死んでしまえば最初から存在しないも一緒なのか
358
もしれない。
リビングにはいりソファに座って、私はポケットからあの日記を取
り出した。
﹁これ﹂
﹁どうしたんだ律佳。久我家に嫁いだお前が実家の墓荒らしをする
なんて﹂
日記を見せると父は一瞬だけ表情をかえたがすぐにまた笑顔に戻り
茶化して言った。
﹁お姉ちゃんの小物入れに入っていたペンダントを供えてあげよう
とおもって
カロートを開けたらこれが入ってました。これは、お姉ちゃんの日
記⋮ですよね?﹂
﹁小物入れ。ああ。あの婆さんがお前に買ってやったやつか。婆さ
んはお前にだけあれを
与えようとしたが美鶴が拗ねて欲しがったんだ。何でも優先的に与
えてきた美鶴があんな
箱を欲しがるなんて珍しいから覚えてるよ﹂
﹁この日記を墓にいれたのはお父さん?﹂
﹁そうだ。念のために残しておいたほうが後々使えるかもしれない
と思ったからな﹂
﹁⋮⋮使うって?﹂
どういう意味なのか。私はじっと父の反応を伺っている。
﹁それよりそのお供え物にするペンダントはお前が持っていたほう
がいいんじゃないか﹂
﹁あれはお姉ちゃんの大事なものだから﹂
359
﹁そうじゃない。あれはな、本来お前のものなんだ律佳﹂
﹁え?でも私あんなペンダント持ってない﹂
﹁愁一君がお前に買ったんだ。それを渡す前に、美鶴が奪ったらし
い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁日記にはお前への愛憎が淡々と書いてあってね、親として中々切
ないものだったよ。
あれを読み物にしたらそれなりに売れそうなくらいに﹂
﹁お姉ちゃんがそんな事するわけない﹂
姉からしたら出来の良くない妹だったけど、それで見下したり意地
悪だったわけじゃない。
過剰に優しかった訳でもないけど困ったときは助けてくれて幼いこ
ろは買い物も遊びに行くの
もだっていつも一緒。歳を重ねて友達や恋人を優先させて適度な距
離になるのは何処の家
でも一緒のはずだ。少なくとも私はそう思ってきた。
﹁お前の恋人を奪ったんだからペンダントくらいはまあ許してやり
なさい﹂
﹁理由は?それも日記には書いてあったはずですよね?﹂
﹁あなたは私の胸の中で炎のように輝く。椿の花言葉らしいが中々
情熱的だな。
今となっては複雑だろうが﹂
﹁え?﹂
﹁美鶴も少し我儘な所があったからな。人のものが欲しかったんだ
ろ﹂
﹁そんな人じゃ﹂
でも、それならごめんなさいと日記の所々で謝っていた意味が分か
360
る。
私のものを奪ったのは愁一さんだけじゃなかったってこと?
私と同じ箱を欲しがって、私が彼から貰うはずだったペンダントを
盗んだの?
でもどうやって?知らない所で彼と会ったって事になるはず。
そこで何があったのか、凄く知りたいのに。でもそれを握っている
のが父だけなんて。
﹁律佳。死んだ人間のことを考えても何もならないと何時も言って
るだろう?俺達は生きてる。
生きている限りは自分のやりたいことをやりきらないと勿体無い﹂
﹁生きていくためにも教えてほしいんです、この日記はどういう意
味が﹂
切り取られた部分には何が書かれていたの?彼女の私への愛憎と、
心中へ進んでしまう
までの心の変化とかそういう大事な所があったんじゃないの?愁一
さんへの気持ちとか。
確かに、それを今更知ってどうなるわけでもない。何も変わりはし
ないけど。
﹁お前が気にすることじゃない。まあ、これは我が家に希望をもた
らした切り札で、
今は保険のようなものだからな。こちらに渡してもらうよ﹂
﹁まさかこれで一条家の人を脅したわけじゃないですよね?﹂
﹁お前は何を言うんだ?そんな安いドラマじゃないんだ。まず脅し
たら犯罪だろう?﹂
﹁或いは、どこかの嫁に困っていそうな旧家に口添えをお願いした
とかか?﹂
﹁綺斗様﹂
361
ノックもなく、そっと部屋に入ってきた綺斗。もうとっくに五分は
過ぎていたけれど。
話に熱中しすぎて彼が待っていることを私はすっかり忘れていた。
﹁こ、これはこれは⋮⋮ようこそ。綺斗様もご一緒でしたか﹂
父は顔色を変えて表情も一気にこわばる。娘だけと完全に気が緩ん
でいたみたいだ。
綺斗は静かに私の隣に座る。来客をもてなそうにも家政婦さんは居
ないし引っ越し中で何もない。
だが相手もここに長居をする気はないだろう、それは私にはなんと
なく分かる。
﹁生前散々道具として利用して死んでも骨の髄までしゃぶり尽くす
その神経は大したものだ。
下手くそな経営者なんぞより詐欺師にしでもなったほうがいいんじ
ゃないか﹂
﹁酷い言われようじゃないですか。私は弱者なんだ。大事に育てて
きた娘を失い悲嘆に暮れ、
自分ではどうにもできなくて、屑と呼ばれるのを承知で不甲斐なく
助けを求めただけです。
もしあの時、何もしなければ私も律佳と心中してたんですよ?私達
親子に死ねばよかったと?﹂
﹁笑わせるな。これだけ生に固執しているんだそう簡単には死ぬも
のか﹂
﹁それはどうでしょうね。弱い人間ほど追い詰められたら何をする
か分かりませんよ﹂
﹁ああ、そうだな。いっそそうしてもらえたらこちらとしてもさっ
さと始末が出来て有り難い﹂
362
﹁律佳を嫁がせた相手がこんな冷血で非道な人間とは﹂
﹁その口が非道とは何かの冗談か?この女も頭のネジが数本飛んで
いるが、さすが親だな﹂
﹁⋮⋮﹂
363
そのろくじゅうに
これからという所で突然綺斗からお前は先に戻っていろと言われて
車の鍵を渡される。
強い口調で言われて反論出来る空気でもなくて、仕方なく一人部屋
を出た。
姉の遺品について父親にちゃんと話を聞きたかったのに、それに綺
斗と二人きりにして
喧嘩にならないだろうか。流石に大人だからつかみ合いにはならな
いと思うけれど。
﹁⋮⋮こっそり聞いてようかな。駄目だ⋮⋮やめとこう﹂
凄く気になるけれど何か分かれば教えてくれるだろうし。立ち聞き
なんて行儀が悪い。
ドアを閉めたはいいがどうするか廊下でしばし考えたけれど、結局
は大人しく車に戻る。
その間も業者さんが部屋を行き来して家からは物がどんどんなくな
っていった。
﹁あんたの素行について、一条家から苦情がきている。もう十分金
は貰っているはずだ。
欲にかられて余計になことをしていると自分の首を絞めることにな
るぞ﹂
﹁あの短大の先生には私も上手くしてやられたんですよ。ああいう
女を武器にするような奴は
ろくでもない。私も酒も入ってつい調子に乗ってしまって。申し訳
ありません気をつけます﹂
364
﹁忠告はした。後はそちらで仲良くていればいい。失礼する﹂
﹁まあまあ、綺斗様。先程はつい感情的になってしまい大変お見苦
しい所をお見せしました。
律佳も居たもので。あの子はもう久我の人間ですからコレを見せる
と心が揺らぐかと思い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁美鶴が律佳への気持ちを綴った最後のページです。一条家には隠
していました﹂
﹁なぜそれを俺に見せる﹂
﹁貴方が私をどう言うが美鶴と律佳の父親です。娘の大事な遺品は
売ったりしませんよ。
ただこの日記の存在を律佳が知ってしまいましてね、娘にせがまれ
たら断れないかもしれない。
けれど内容はあの子には少々辛い⋮⋮貴方様との生活にも支障をき
たすでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様を信頼してこれを差し上げます。これを読み、律佳に伝え
るか否かは夫である貴方様が
お決めになると良い。他にも美鶴に翻弄されながらも律佳を愛した
男の事も書いてありますし﹂
﹁そうやって一条家とも取引をしたか?どうせまだ大事な部分を隠
しているんだろう﹂
﹁貴方様に必要なのは律佳とあの男の縁を完全に断ち切る事ではな
いですか?﹂
綺斗と父の二人だけになって話しはじめあっという間に五分経過し、
もう十分になろうか
という所で玄関から綺斗が一人出てきた。不愉快そうな顔をしてい
るのはなんとなく察する。
365
けど、無事に戻ってきてくれた事にちょっと安心。彼は無言で運転
席に座ると車を走らせた。
﹁綺斗様﹂
﹁日記のことを何故俺に言わなかった﹂
﹁ごめんなさい。突然出てきて、あれが本当に姉のものかどういう
品物なのか何も分からなくて﹂
﹁あれは美鶴の私物であり、日記の重要な部分は一条家の前で焼却
して無いそうだ﹂
﹁やっぱり一条家の人に売ったんですね。⋮⋮最低すぎる﹂
﹁本人はあくまで一条家に立ち会ってもらってお互いの遺恨を無く
すための儀式だと言っていた﹂
今更そんな事を言われても嘘にしか聞こえないのは綺斗も一緒だろ
う。目当てがお金じゃないなら
綺斗の言うように久我家への口利きをお願いしたのかもしれない。
一条家からの強い推薦があれば
姉の死があろうとも心中の部分は隠しているわけだし受け入れられ
やすいのかも。
話と違うと義母の漏らした言葉にも納得が行くから嫌になる。根拠
はない想像でしかないけれど、
父があの日記を利用して自分に有利にしたのは間違いない。
﹁⋮⋮ごめんなさい綺斗様﹂
こんな酷い親の監視下にあったら人生も嫌になる。私は姉という盾
にここでも守られていたんだ。
でも、だったら余計に智早という優しい理想的な旦那様の元へ逃げ
たら良かったのに。
一条家の庇護があれば怖くないだろうに。満たされているのに人の
366
ものが欲しくなるって。
私のものだから欲しかったのか愁一さんが欲しかったのか。あの日
記が読めなくて残念。
穴だらけの日記を持っていても仕方ないだろうと言われて父に返し
た。恐らくはお墓に戻される。
﹁どうせ俺達よりも先に死ぬ、と言いたいところだが。あの男はふ
てぶてしく長生きしそうだな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まっすぐ家にも工房にも行く気にもならん。少しドライブする、
付き合え﹂
﹁綺斗様﹂
﹁いいから。黙って座っていろ。何も言うな﹂
戻ってきた綺斗は終始イラついていて暫くはこちらから話をするこ
ともためらわれた。
あんな話をした後だからいい気分なわけもないよね。
実家の恥ずべき所を全て聞かせてしまった訳だから、私もじっと黙
って俯いていた。
﹁綺斗様。何時でも言ってください、何時でも離婚します﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁父は久我家に害しかもたらしません。私が居たら永遠に付きまと
います﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様にはもっともっと先へ進んで欲しいです。私なんかに時間
を無駄にしてほしくない﹂
今までも失敗をしたり邪魔をしてしまったがこれは次元が違う。
私達親子は久我家全体を悪くする。邪魔にしかならないなんて、
367
そんな室井さんが心配してた事が現実になりそうだから。
面白みのないドライブが延々と続いていたが我慢出来ず私から切り
出す。
﹁お前は何時も勝手だな。悲劇の主人公にでもなったつもりか?﹂
﹁でも﹂
﹁ここまできてあんな屑の為にお前を手放す訳が無いだろ﹂
﹁綺斗様﹂
﹁そばにいろと言ったはずだ。俺を好きでなくても構わない他の誰
を愛していても⋮⋮だ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁嫁いで日が経ったが。どうだ⋮⋮今は、少しは、⋮⋮かわったか
?﹂
最初こそいつもの様に強い口調なのに最後はちょっとだけ弱気な声
で聞いてきた。
﹁はい﹂
﹁そうか﹂
﹁最初の私ならここまで他人のことを考えなかったろうなって思い
ます。ずっと人任せにしてきて、
その人が死んじゃって。どうしていいか分からない抜け殻だったか
ら。綺斗様に引っ張ってもらい
今やっと自分で考えて歩いてる気がする﹂
でもまだしっかり自分が確立されてなくて人に影響されすぎてる所
もあるんだろうけど。
そんな柄でもないことを言ったせいか、なんとなく恥ずかしくて外
の景色をぼんやりと眺めた。
車で通るくらいしか来たことがないけれど意外に面白そうなお店が
368
並んでいる。
事実が分からなくて残念だったけれど彼に別れを否定してもらって
安心したせいなのか
今凄く小腹がすいて視線がつい喫茶店など甘味処を探している。
さっきまでの真面目さが薄れていくのってたぶん図太い神経ってい
うんだろう。
﹁⋮⋮よちよち歩きのガキか﹂
﹁そうですね。ご飯も食べさせてもらって。可愛がってもらって。
躾はちょっと痛いけど﹂
﹁甘えるな。⋮⋮いや、甘えているのは俺もか。いい歳をしてガキ
のお前に甘えてる﹂
﹁そうですか?﹂
﹁俺は、⋮⋮俺はお前が好﹂
﹁ああ!﹂
﹁何だいきなり叫ぶな馬鹿!﹂
﹁こんな所に新しく和菓子屋さんが出来てますよ行きませんか?喫
茶店もあるそうですし!﹂
﹁⋮⋮お前、後で覚えておけよ﹂
﹁え。なんでそんなキレてます?あ。そうだ、俺はお前がなんです
か?﹂
﹁このクソアマぁがあぁああっ﹂
﹁まって運転!運転!顔が怖い!﹂
369
そのろくじゅうさん
新婚旅行当日の早朝。
﹁はい。出来ました﹂
﹁ありがとうございます。ど、どうでしょうか。その。変じゃない
ですか?﹂
﹁お似合いですよ。綺斗様もお喜びになるでしょう﹂
﹁⋮⋮だと、良いんですけど﹂
出発までに間に合わせなければいけないから何時も以上に早く起き
た。
というよりも緊張と興奮のせいでなかなか寝付けなくて結局ほとん
ど眠れていない。
でも今はまだ眠くもない、むしろ怖いくらい元気。
立派にとは言えなくても様になるほどには伸びた髪を無理を言って
トメさんに結ってもらう。
我儘で朝早くから付き合ってもらったからお饅頭だけでなく名産物
も何か買ってくる予定。
お礼を言って自室を出る。自分の大まかな荷物は綺斗のカバンには
いっているし、
細かなものは自前の小さなカバンで事足りる。どちらにしろ荷物は
少ない。
目下の問題は格好をつけて着物を着てしまったがゆえのトイレとマ
ナーと着崩れ。
何故ここまで気合を入れる必要があったのだろう。今更だけど、若
干の後悔。
370
﹁⋮⋮、朝から何をしているかと思えば﹂
﹁おはようございます。時間まだ少しありますし、お義父様たちに
ご挨拶して来ましょう﹂
﹁そうだな。流石に黙って行ったら後で文句を言われそうだ﹂
準備を終えて部屋から出てきた綺斗と合流して義両親に笑顔で見送
られての出発。
思えば結婚式をあげてからかなり時間の開いた新婚旅行。だけど、
式のすぐに行っていたら
こんな期待したり、興奮して眠れないなんて事はなかったろう。
自分の身なりを考えたりもしなかった。
本日の工程はタクシーで駅まで行きそこから電車に乗り換え、降り
たら駅前に迎えの車
が来ているそうなのでそれに乗って綺斗が用意してくれた旅館に宿
泊。
時間的にはそこまでかからずに行けるようだけど山へ入っていく道
はあまり宜しくないらしい。
﹁駅の中のパン屋さんで朝食を買って行きましょう﹂
﹁ほう。てっきり朝っぱらから駅弁を買えと言うのかと思った﹂
﹁お昼の豪華ランチを前にしてお弁当食べちゃったら勿体無いじゃ
ないですか﹂
タクシーをおりて駅に到着。行ってみれば分かると旅館などの詳し
い説明はないけれど
綺斗が選んだ場所なのだし素敵な所に違いない。最初の海外も魅力
的だったけれど、
時間も労力も倍以上かかるだろうしそれは気が向いた時に連れて行
371
ってもらえば良い。
私達の時間は始まったばかりなんだから。
﹁いいのか?昼は薬膳料理を予約したんだが﹂
﹁え⋮⋮じゃ、じゃあお弁当買います。牛たっぷり弁当と牛スタミ
ナ弁当と鳥丼と﹂
﹁嘘だ。弁当を買い漁ろうとするな店員が変な目で見てるだろ。パ
ン屋へ行くぞ﹂
﹁綺斗様。これだけは嘘ついたら私絶対絶対許さないですからね﹂
﹁わかったから睨むな。食い物の恨みは凄まじいな⋮⋮﹂
電車の時間に合わせ早く家を出たから朝食は電車内。買ったパンは
私が持つ。
こちらの準備は出来たけどまだ少し出発までには時間がある。
電車が来るのをホームで待つ間、切符の番号を見ては脳内で席順を
確認してニヤニヤ。
ベンチに座ってみたものの周りをキョロキョロ。綺斗に大人しくし
ろと強めに注意された。
﹁あんぱん美味しい﹂
﹁せっかくそんな大人びた格好をしても結局お前はガキなんだな﹂
﹁すみません﹂
席についてすぐお腹がすいたので買ってきたパンを食べる。温かい
コーヒーとともに。
﹁そんなに楽しみか﹂
﹁はい﹂
﹁そうか﹂
﹁綺斗様?⋮⋮あ。だ、大丈夫ですよ?邪魔しないようにしますか
372
ら﹂
げんなりしている綺斗。コーヒーしか口にしてない。子ども子ども
と言われきて、
まだ強くは反論できないけど少しはかわった事をアピールしたかっ
たのに。
こんな時くらいはと背伸びして格好も変えたのに。
やっぱり自分には落ち着いた大人の女を演じるのはまだ先になりそ
うだ。
﹁俺も楽しみだ。旅行が趣味の知り合いに聞いた中で一番評判の良
かった所だからな﹂
﹁へえ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?何処か悪いんですか?﹂
楽しみっていう割には表情がちょっと暗い気もする。心配になって
顔を覗き込んだら
手に持っていた食べかけのパンを取られて食べられた。食事をして
お腹がいっぱいになったら
今度は眠気が襲ってくる。到着まで二時間あるけれどその間綺斗と
弾んだ会話なんてできない。
セットしてもらった髪が崩れるのが嫌で我慢していたけれど、気づ
いたら意識が飛んでいて。
﹁みだりに口と足を開いて寝るな﹂
﹁ごめんなさい﹂
次に目醒めた時には綺斗の隣りに座っていて肩をだいてもらってい
た。彼にもたれていたためか
373
髪は少し乱れただけですんだ。足も閉じてる。車内には次の駅で降
りるアナウンスが流れている
けれど、もう少しだけこうしていたくて彼にくっついたままギリギ
リまで目を閉じていた。
﹁あの運転手は何者だ⋮⋮まだ頭の中で声がする﹂
﹁凄い勢いで延々と喋ってましたね。私途中から聞き取れなくてと
りあえず頷いてました﹂
﹁俺は最初からそうだ﹂
電車を降りて駅を出ると一見すると何処にでもいそうな普通のおじ
さんが出迎えてくれて
その人の運転する車に乗って山を登っていくくねくね道を進んでい
った。
本来なら気分が悪くなりそうだけどおじさんの途切れることのない
会話についていくので
必死であっという間に旅館到着。これが狙いなのかただお喋りが好
きなのかは不明。
私たちは狐につままれたような何とも言えない気分でフロントで受
付。
﹁和室の素敵な部屋は家もそうですけど、こういう場所は庭の景色
が別格で素晴らしいですね﹂
﹁そうだな﹂
中居さんの案内でやってきた部屋は二部屋続きの広い和室。それも
座椅子や机、照明、
何気ない小物に至るまで純和風で統一されて美しく、身が引き締ま
る。
戸をあけると直結している庭が自然にあふれ綺麗なのはもちろんの
374
こと見晴らせる山の自然も存分に
満喫出来る。しかも内風呂だけでなく露天風呂もついていて聞いた
らどちらも温泉とのこと。
温泉街を歩くということは出来ないがお土産は買えるし美味しいも
のと温泉を独占できるなんて最高だ。
﹁四季が感じられて最高だろうな。手入れは大変そうだけど﹂
荷物を置いて机に置いてあったお茶を用意して淹れる。その本来の
目的はお試しに置いてある
茶菓子を食べることでもあるけれど。綺斗は部屋に入るなり静かに
庭を眺め私に背を向けたまま。
﹁⋮⋮﹂
﹁栗とか柿とかもいいですよねぇ。綺斗様、お茶がはいりました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様。⋮⋮やっぱり何処か悪いんですか?無理しないでくださ
い、病院へ行きますか?﹂
声をかけてもずっと黙っているなんて今まで無かったから、コレは
本当に調子が悪い?
今のところ倒れるとか膝をつくとか何か苦しい声なんかは聞こえて
こないけれど。
慌てて立ち上がり彼の元へ。
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様?綺斗さ﹂
近づいて腕をそっと揺さぶったら引き寄せられて、強引にキスされ
た。
375
ぎゅうっと私を強く抱きしめて私の呼吸を止める勢いの強いものを。
あまりに苦しくて彼の胸を叩いて抗議したらすぐに離れてくれたけ
れど。
﹁⋮⋮、そこに座ってくれ﹂
﹁え。え。あの。布団敷きませんか?﹂
﹁いいから。座れ﹂
﹁はい﹂
綺斗様も実はこういう場所でテンションが上ってすっかりその気、
などではないらしい。
何時になく真面目な顔で言われて急いで指示された座椅子に座る。
なんだろう?
こんな場所で怖い顔をして、なにをするつもり?さっきまであんな
に楽しかったのに、
突然不安になってきて綺斗をじっと見つめていたら彼は自分のカバ
ンから封筒を取り出し
私の前へ置いた。
376
そのろくじゅうよん
目の前には無地の何処にでもありそうな茶封筒。中身は手紙?それ
とも事務的な書類?
見た感じ殆ど厚みはないから手紙のほうが有力だろうか。
流石にこの流れで離婚届なんて入ってないよね?どれくらいの厚み
かなんて知らないけど。
それにしたってどうして今この封筒を出したのだろう?そもそもこ
れは誰からのもの?
まさか綺斗が私に向けた手紙なんてそんなベタな演出をするとも思
えない。
文句があるならその場で口にする人だ。
綺斗の意図が全く読めなくて答えを求め彼を見るが庭を見つめたま
ま、私に背を向ける。
﹁綺斗様。あの。これは、なんでしょうか。手紙ですか?﹂
﹁少し違う﹂
﹁じゃあ﹂
何ですか、コレ。綺斗の朝からの態度をみるにあまり喜ばしいもの
じゃない気がする。
﹁柊美鶴の日記の一部だ。それも、お前への気持ちが書かれた最後
のページ。らしい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前の父親が俺に渡してきた。それをやるから好きにしろとな﹂
﹁全て焼却したんじゃなかったんですね﹂
377
﹁搾り取った日記の残りカスさえ隠してとっておくような男だ、ど
うせまだ何か隠してる。
俺たちに直接関係はなさそうだが、そこまでして生き残って何が楽
しいのやら﹂
﹁⋮⋮﹂
失ったと思ったページの残り。この封筒の中に姉の私への気持ちが。
だけど、父からの言葉を聞いて明るい話じゃないことは分かってい
る。
もとより恋人を奪われているのだからこちらとしても気持ちは複雑
だ。
最初は知ることを望んでいたくせにいざ目の前にすると尻込みする。
﹁お前の愛した男の事も書いてあるそうだ﹂
﹁愁一さんの。綺斗様はこれを﹂
﹁女の日記なんて興味ない。お前は読みたいだろう、読めばいい﹂
依然として振り返らず背を向けたまま綺斗は言う。私は、どうした
らいいのか。
自分がずっと知りたかった事がここに書いてあるのかもしれない。
少なくとも姉が私をどう思っていたのかは分かるだろう。愁一さん
とのこともある程度は。
チラチラと綺斗の様子を伺いながら緊張しつつもそっと封筒を手に
して中身を取り出す。
あの日記から綺麗に切り取った紙が一枚出てきて、そっとそれを開
く。
﹁⋮⋮お姉ちゃん﹂
記されていたのは残っていた部分の日記と同じように淡々と三行ほ
378
どで終る日々の出来事。
そこに織り込まれている私への懺悔と愁一さんへの想いと、自分と
いう存在への不満。
どんなに容姿や頭脳が優れていると評されても両親に目をかけられ
可愛がられても、
行く先々で大勢の人を魅了しても。家柄も容姿も性格もこれ以上無
いという男性と婚約しても。
愛情深く優しい祖母に可愛がられる妹が羨ましくて。純粋に愁一さ
んに恋をしてしまった。
その迫り方は詳しくは書いてないけれどかなり強引だったようだ。
何度か失敗したと書いてある。
彼は正攻法ではなびかなかった。だけど結局、姉と愁一さんは関係
を一度持つことになる。
そんな間にも私とは交際していたのだから彼はどんな思いでいたの
だろう?
﹁⋮⋮﹂
酷い裏切り行為を知ってしまったというのに私はまるで物語でも読
んでいるような気分。
私自身がもう既に別の男性を受け入れてしまったというのもあるけ
れど、共に死のうと思うのなら
その関係は遊びではなく、とても強いのだろうと想像はしていた。
けど、日記を読んでみて二人の
関係が惹かれ合い愛し合ってではなくて姉からの強引から始まって
いるのは意外だった。
﹁⋮⋮、綺斗様。これどうしましょうか﹂
﹁お前に任せる﹂
379
﹁じゃあ。これも焼いちゃいましょうか。一緒に全部消してしまい
ましょう﹂
最後のページを読み終えて私は立ち上がり庭へ出る。
ライターの類は持っていないからいったんロビーに戻り旅館のマッ
チを貰って戻ってきて。
火をつけた。その様子を綺斗は後ろでじっと見ているだけだった。
﹁なんだ﹂
完全に灰になったカスをわからないように庭の片隅にうめて綺斗の
隣に座る。
﹁父が何で貴方にあんなものを渡したんだろうなって思って﹂
﹁お前も同じ穴の狢といいたかったんじゃないか。或いはそうさせ
たかったか﹂
﹁え?﹂
﹁たとえ相手に非がなくても自分だけが割りを食うような事にはさ
せない。事件が起きて、
醜聞を嫌う一条家を巻き込み自分たちの都合のいいように事実を歪
めた共犯者にした。
美鶴もお前もいい道具だったろう。あの男から日記を受け取った俺
がお前に見せずに捨てて
しまえばそんな卑怯な連中と同じ。後で俺が何を糾弾しようともあ
の男には効かない﹂
﹁そんな言いがかりをしてまで綺斗様を貶めるなんて。捨ててもら
っていいものなのに﹂
﹁あの男もそうするだろうと思っていただろうな﹂
﹁⋮⋮何故、渡してくれたんですか﹂
380
確かに姉の心は知りたかった。愁一さんのことも分かるならなおさ
ら。
けど私は警察でもないし父もあれ以上は何も言うはずもないだろう
と諦めていたから、
だったら最初から何も無かったことにしてくれてよかったのに。そ
れで区切りをつけたのに。
二人はもう居ないのだから。私は久我家に嫁いでいるのだから。
父に後で脅されると思ったのだろうか。弱みになるようなことは無
い方がいいけれど。
﹁俺はあいつらとは違う﹂
﹁すみません、また余計な気を使わせてしまって﹂
﹁今更だ﹂
綺斗はそう言って怒ることもなく、かるく口角を上げるのみ。
﹁結局、誰も姉の心を理解できてなかったんですね。
両親は最初から道具としか見ていなかったし、あんな仲良さそうに
していた智早様でも。
完璧な姉に全部持っていかれたと拗ねて諦めて側に居ながら彼女を
きちんと見なかった私も。
あの日記は理想の女ともてはやされた姉とは思えないくらい寂しい
言葉ばかりだった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いつも完璧で居なければいけなくて、無理もしてたんでしょうね。
だけど父親と同じように
強欲で身勝手な姉です。私には無いものを全て持っていたのに。
満たされて無いのは自分だけだなんてそんな訳ないのに、勝手に思
い詰めていって﹂
﹁それぞれ抱える闇はある。美鶴はもうそれ以上鬱屈したものを抱
381
えていられなかったんだろう﹂
﹁そうですね。こんなどうしようもない事に愁一さんを巻き込んで
しまって。私に出会わなければ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あなたは私の胸の中で炎のように輝く。すごい決め台詞ですよね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あのペンダントをちゃんと私が受け取っていたらどうなってたん
だろう。
うまくいかないものですね。私、また少し、⋮⋮泣いちゃいそうで
す﹂
もう終わった事なのだからここは落ち着いて笑って見せたいのに涙
が出る。
新婚旅行に来てなんで過去を思い泣くのか。だけど、これは悲しい
から泣くんじゃない、
悔しいからでもない腹が立つからでもない。なに?何でこんなに涙
がでるんだろう。
﹁泣きたければ泣け。生きているお前に出来る事なんてそんなもん
だ﹂
﹁⋮⋮っ⋮⋮綺斗⋮⋮さま﹂
﹁美鶴に強引に心中へ引き込まれたんだろう?男は直前までお前を
想ってたんだろう?
最初から裏切られていた訳ではなくてよかったな。それならちゃん
と愛した男として
お前の中で残るだろう。それでこの先も生きていけるならそれでい
いじゃないか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なにも俺が殺してやらなくてもいいんだ﹂
﹁綺斗様。どうしたんですか?何時もなら馬鹿らしいとか感傷に浸
382
りやがってとか﹂
﹁別に。ただ、俺はお前より先に死ぬだろうから。そういう支えは
あってもいい﹂
どうしてそんな事をいうの?
ふと師匠様の言葉を思い出す。気をつけて綺斗を見ていないといけ
ないと。
あの時は意味がよくわからなかった。彼は何時も時間に追われてい
る、
誰に何を言われているわけでもないのに。一分だって無駄にはでき
ないと。
まるで生き急いでいるように。
もしかしてそれって。
﹁い、いやです!綺斗様!﹂
﹁おいっ⋮っ﹂
私は勢い良く綺斗に抱きつきそのまま押し倒した。
自分が思っていたよりも勢いが付きすぎて思いっきりタックルした
ともいう。
﹁綺斗様死んじゃダメです!綺斗様が死ぬなら私も死ぬ!私も一緒
に死ぬ!﹂
﹁っ⋮⋮ぐっ⋮⋮お、⋮⋮お、お前ぇ⋮⋮っ﹂
﹁綺斗様が居ない世界なんか考えたくもない!これからもずっと一
緒に生きるんです!
夫婦で美味しいものいっぱい食べて赤ちゃん産んで家族で美味しい
ものいっぱい食べる!﹂
383
﹁とりあえず飯から離れろ﹂
﹁離れない!綺斗様が一緒じゃないと離れない!﹂
﹁よしわかった。だいぶ混乱しているようだから貴様が冷静になる
ようにその飯の詰まった
頭にそれなりに強い刺激を与えてやる﹂
﹁すいません離れます﹂
384
そのろくじゅうご
姉と私の恋人の顛末を残されていた日記からなんとなく察して、全
てを灰にして。
自分でも理由の分からない涙を流した後。それで全てが終わったは
ずなのに、
せっかく朝早くからセットしてもらった髪を振り乱し着付けてもら
った着物は乱れさせ
旦那様である綺斗に乗りかかり叫ぶという奇行を行ったのは良くな
かった。不味かった。
叫ぶだけ叫んで綺斗に怒られてその場に正座し、すっかりぬるくな
ったお茶を一口。
綺斗は自分でお茶をいれなおし、まだちょっと文句を言って怒って
いた。
﹁何なんだいきなり。⋮⋮とうとう頭がイカレたか﹂
楽しみな新婚旅行が気まずい沈黙に包まれる。本来なら自然の音で
心がなごむのだろうけど
それに気を向けることなどできず。だけどこのまま永遠に貝になっ
て黙っていても何も進まない。
まだ暫く滞在する予定だけど来てすぐ帰るなんて嫌。こんな腹の探
り合いみたいなのはもっと嫌。
﹁綺斗様は何時も急いでいて。忙しくしていて。デザイナーのお仕
事に人生をかけているんだって
最初は思ってました。でも、宗親さんからお義母様との関係を聞き
385
ました。
理由もなく嫌われていても親の言うままに戻ってきて当主になろう
なんて思うのは何故です?﹂
﹁⋮⋮﹂
私みたいに一人じゃ何も出来ない無知な人間でもないし。不器用で
もない。
ちゃんと独立して生活がなりたっているわけで、親に頭が上がらな
いという人でもない。
あと、散々無視されても二人も息子を喪った親を心配して戻るなん
て優しい人でもないと思う。
﹁西浦先生が綺斗様をちゃんと見ててあげてほしいって仰ったんで
す。私でないとダメだって。
どういうことか分からなかったんですけど、綺斗様がいきなり私を
気遣ったりしてくれるから。
先に死ぬとか言うから。もしかして、デザイナーの仕事をやりきっ
たら綺斗様は死ぬんじゃ
ないかってとっさに思っちゃって。そうしたら、あの家は直系の後
継者が居なくなる訳ですし﹂
後継者を熱望している親を困らせてやるには十分、なんて子どもじ
みた意地悪すぎる考えか。
勢いに任せて言ってしまった後で綺斗はそんな事をしないだろうと
後悔した。
言い訳ではないけど、ここですぐに自分の考えを述べたら少しは後
悔も薄まるかもしれない。
ただ綺斗はずっと黙ったままで怒りもしないし否定も肯定もなにも
しないけれども。
386
少しの間をおいて、綺斗が私を見る。
﹁お前は俺が不幸な生い立ちだと思っているか?﹂
﹁少なくとも幸せではないと思います﹂
﹁確かに幸せな生い立ちではないな。人に話せば大体が俺に同情す
るだろう﹂
﹁はい﹂
生まれてすぐ母親に理由もなく嫌われて疎まれて家を追い出された
なんて。
それでも兄弟が亡くなったら仕方がないから来いと言われて女を勝
手にあてがわれて。
いくらなんでもこれを幸せというくくりにはいれられないと思う。
﹁俺はそこまで不幸だとは思ってない。師匠が居てずっと支えてく
れた兄弟が居たからな。
両親とかいう名ばかりの連中とずっと一緒に暮らす方が吐き気がす
る。物心ついて親という存在の
説明を聞いた時は流石に死ねばいいと思ったが。すぐ修行に入った
からな、どうでも良くなった﹂
﹁倖人様と淳希様が居たから。あ。あと、西浦先生﹂
﹁むしろあの二人の方が面倒だったんじゃないか﹂
﹁⋮⋮かも、それないですね﹂
綺斗の弟子入りなどで義母を説得したのは兄弟だったっけ。環境は
良くないけれど
理解してくれる人と尊敬できる人との出会いがあったから不幸では
ない。
着物デザイナーという目指すものが明確にあったのも大きいだろう
し。
387
姉の後ろに隠れて恋人に連れ去って貰うことを夢見ていただけの私
とは違う。
﹁俺が人生を急いでいるのは倖人の分も淳希の分も約束を果たすと
決めたからだ。
三人分の約束を果たすのは中々時間が足りなくてな。ずっと余裕が
なくて苛々して、
お前も散々怖い思いをしただろう﹂
﹁約束﹂
思っていた以上に強く生きる綺斗に落ち込んでしまった私を優しく
抱き寄せ膝に座らせると
まるで子どもに言い聞かせるように優しく言う。
﹁そんな大層なもんでもないが、倖人は一日でも長く生きること。
淳希は兄の代わりに久我家の
当主になること。俺はデザイナーとして大成すること﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁淳希が当主になれば倖人はもうこれ以上余計な重圧もストレスも
受けずにすむ。
倖人には一日でも長く生きて欲しい、それだけで十分だ。俺がデザ
イナーとして大成したら
モデル志望だった淳希を専属にして仕事をさせてやれる﹂
﹁淳希様はモデルになりたかったんですね。⋮⋮もしかして宗親さ
ん﹂
﹁ガキの頃の話なのに、案外三人とも覚えていてな。集まってよく
将来を話し合った﹂
そう言って綺斗は苦笑する。過去を懐かしんでいるのだろうか。
兄弟の話は今まで殆どしてもらえなかったのに。してもらっても投
388
げやりな感じで。
それなのにこんな表情を見せてくれるなんて。どんな心の変化があ
ったんだろう。
案外もっと早く本音でぶつかっていったら良かったのかもしれない?
﹁綺斗様は三人分の人生を歩もうとしているんですね﹂
でもこれで綺斗の事がわかった。
﹁歩むなんて大層なもんでもないそこまで器用でもない。何処まで
出来るか分からない﹂
﹁⋮⋮﹂
当主になるのは親の言うままにではなく、弟のするはずだった役割
を引き受けたから。
﹁安易に死のうなんて思ってない。お前に出会うまでは一度だって
思ったことはない﹂
﹁⋮⋮﹂
一日でも長く生きる、それが兄のした約束なら綺斗は死ぬ気なんて
ない。
私の姉は私の持っていたものを全て欲しがったのに、大事なものを
奪っていったのに。
彼は逆に兄弟の思い残した事を代わりに引き受けて全部やろうとし
ているのだから。
これは支えてくれた兄弟への優しさ、それとも生きる意味、彼なり
の弔い?
389
﹁俺が先に死ぬのは当たり前だろう?幾つ差があると思ってるんだ﹂
﹁そ、そうですね。そうです。⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁死にたいなら何時でも一緒に死んでやる。お前と同じ瞬間に死ね
るならそれも悪くない﹂
優しく抱きしめて耳元で優しく囁く綺斗。
﹁綺斗様の居ない世界なんて嫌だから一日でも長く生きてください。
それと当主になるよりも
デザイナーの仕事を優先しましょう。淳希様もそうおっしゃる筈で
す。専属モデルは私がします﹂
﹁ろくな表情も出来ないくせに﹂
﹁努力します。夫婦なんだから、私もやります。少しくらいしか役
に立たなくても﹂
﹁そうか。⋮⋮、ありがとう、律佳﹂
﹁⋮⋮は、はいっ﹂
後ろから抱きしめられて正面からは顔は見えないけれど、そんな嬉
しそうな声で感謝の
言葉なんて言われると恥ずかしい。ドキドキする。
私が言う事やる事は何時も彼を怒らせ苛つかせているのに。だけど
こうして心の中を
話してくれたってことは私はちゃんと彼の心に居るんだ。嬉しい。
﹁お前が⋮⋮、好きだ﹂
﹁綺斗様﹂
﹁⋮⋮たとえお前の心に別の男が居たとしても﹂
﹁あ⋮⋮綺斗様⋮﹂
﹁俺は、⋮⋮俺はな﹂
﹁綺斗様⋮⋮っ!じんわり苦しい!首!⋮首っ首から手離してっ﹂
390
﹁ああ。悪い﹂
綺斗が優しい甘いセリフを言いだしたら、彼の手ががじわじわと私
の首に近づくと思ったら
逃げなきゃ駄目だ。本気の死ぬほどじゃないけど地味に苦しい。
﹁綺斗様のその怖い行動は何処から来るんですか?﹂
﹁俺にもよくわからない。試しにもっと俺に甘えてみろ。ねだって
みろ、ほらほら﹂
﹁犬じゃないんです。普通に甘えるんで普⋮⋮普通に⋮っ⋮ぁあん
っ⋮⋮いき⋮なりっ﹂
﹁着物を着たままのお前はそれなりに色気があって悪くない﹂
391
そのろくじゅうろく
仕事柄なのか洋服はそうでもないが着物の扱いは特に丁寧にしろと
何度も注意されてきた。
だけど、今はそんなものお構いなしに乱暴に肌蹴させられて足が殆
ど見えて胸元も大きく開いて。
まだ夜でもないから布団も敷かれていないからそのまま畳に倒れ込
む。
これじゃまるで乱暴されてるみたい。そんなんじゃないのに、今は
もうそんな関係じゃないのに。
今まさに気持ちを伝えあったはず、なんだけど。なんだろうこの少
しだけズレてる感じは。
﹁綺斗様待って着物がっ﹂
﹁替えはあるんだろう﹂
﹁でもしわに﹂
﹁俺の作品じゃないからいい﹂
﹁ええっ﹂
そういう問題ですか?こちらは散々大事にしろと教育を受けたのも
あってなんとか着物を
脱ぎ安全な場所へ置きたいけれど。綺斗に組み敷かれてキスされて
手が足が絡め取られ
身動きが取れない。髪なんてもう寝起きのボサボサ。これは自分が
叫んだせいもある。
どうしたものかと深いキスから首筋に吸い付かれながらあれこれ視
線を巡らせていると。
392
﹁こんな強引なセックスは嫌か﹂
﹁強引っていうか。その。背中痛いし着物脱ぎたいですし﹂
気が漫ろなのが相手にもわかったのか体を少し離し見つめてきた。
さっきまでは機嫌が
良さそうだったのに今はどことなく寂しそうに見える。何でそんな
顔をするんだろう。
その真意を聞きたいけれど、聞いたら怒るだろうか。それとも今な
らすんなり教えてくれる?
﹁⋮⋮、昼飯もまだだ。風呂も行きたいだろう﹂
﹁綺斗様﹂
﹁こういう時はどう表現したらいいのか師匠に聞いておけばよかっ
たな﹂
﹁好きって言ってくれただけで嬉しいです﹂
﹁それだけなら、いいんだが﹂
それよりも先に完全に綺斗は身を起こし寝転がっていた私もそっと
起こしてくれた。
昼飯は電話一本で仲居さんが持ってきてくれる、或いは部屋の露天
風呂でもいい。
お前の好きにしたらいいと彼は軽いため息をしてまたひとりで庭を
見つめてしまった。
私は着物を脱ぎ、髪の毛を整えて。その隣りに座る。
﹁綺斗様も浴衣着ませんか﹂
﹁風呂に入ったらな﹂
﹁じゃあ一緒にお風呂ですね。で、その後にご飯﹂
﹁お前先に行ってこい﹂
﹁新婚旅行ですよ。一緒に入りましょう﹂
393
﹁⋮⋮﹂
﹁嫌ならいいです。綺斗様が入るタイミングで入ってやる﹂
﹁馬鹿か﹂
それから暫くの無言の間があり、粘り負けしたのか渋々彼は立ち上
がり風呂へ向かう。
部屋には内風呂と露天とあって内風呂を選んだ。私も追いかけて一
緒に服を脱ぐ。
広いヒノキのお風呂は香りがいい。広さ自体は久我家のとそれほど
変わらない気もするけれど
やはり旅先だと気分が違う。まずは座って体を洗う彼の後ろにくっ
ついて手を伸ばし
無防備な彼自身を握る。
﹁綺斗様頑張って。ほらほらファイト!頑張れ!負けないで!﹂
いきなり手を伸ばされてビクっと体を震わせた綺斗だが、突っぱね
たりはしない。
それをいいことに今度は上下に優しく扱く。こうすると男性は元気
になるそうなので、
すぐには無理でも徐々にその気に戻ってくれるはずだ。
﹁意味の分からない掛け声をするな萎えるだろ﹂
﹁⋮⋮仏説摩訶般若波羅蜜多﹂
﹁やめろ!﹂
﹁じゃあ⋮⋮じゃあ、⋮お、大きくなってくださいワン。ワンワン
?ワン﹂
﹁辛くなるからもう何も言うな頼むから黙ってくれ﹂
元気になるかなと思ったのにどれも失敗だったようで疲れた声を出
394
し、ぐったり項垂れる綺斗の
後ろ姿を見つつ必死に手を上下に動かす。そういう気分になってく
れたのに止めてしまった
理由はわからないけど今はそれよりも続きをしたくて、その気にな
って欲しい一心で動かす。
﹁何が駄目でした?やっぱり、子どもっぽかったですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子どもつくらないと嫁失格だけど、それでも⋮⋮続きがしたいん
です﹂
﹁⋮⋮俺はお前の旦那だからな﹂
﹁はい。旦那様です﹂
﹁お前が喪った愛しい男を想って泣いてもすぐに抱こうとするよう
な、旦那だ﹂
﹁あれは﹂
﹁そうなるだろうと分かっていてお前に見せたんだ。気にするな﹂
﹁じゃあ﹂
何でそんな私でも分かるくらいに落ち込んでますか?日記の一部を
見せる前に強引に抱き寄せて
キスしたのは何故?いい雰囲気でやや強引だけど抱こうとしたのを
止めてしまったのはどうして?
やっぱり気にしてたからじゃないですか?
愁一さんを私の心に残していると。私が愛している男と。
﹁何故こんな情けないことを言ってるんだろうな俺は。初めてお前
を見た時は使用人の補充だと
思ったし本気で夫婦になろうなんて考えもしなかった。それがお前
の気持ちが気になるなんて﹂
﹁私の気持ち。⋮⋮、愁一さんは姉と死にました。最後にどんなや
395
り取りがあったのか、
あれが彼の本意なのか今はもうわかりません。だけど、結局は私を
置いて死んでしまったんです。
でも私は生きています。死ぬ予定も今のところはないです。この前、
父が言っていました。
生きているのだから自分のやりたいことをやりきらないと勿体無い
って﹂
室井さんが言ったように、人から見れば私は馬鹿でお尻が軽いのか
もしれない。
けど、父や姉のように自分の欲しいもののためなら手段を選ばない
までは行かずとも
今はもう誰に何を言われたって気にしないし、誰かに取られるのも
嫌だと思っている。
身も心も、久我綺斗の妻になりたい。と。
﹁⋮⋮﹂
こんな私の気持ちを彼はどう思うだろう。でも、好きだと言ってく
れた。
﹁私は久我律佳として生きたい。綺斗様。⋮⋮この辺とかも触った
ら気持ちいですか?﹂
﹁お前は本当に色気も何もないな。下手なくせにずっと握ってるし
扱いてくるし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もういい。感傷的な事を言った俺が馬鹿だった。わかったからそ
こに座って自分で股を開け﹂
呆れられながらも素直に側に座って足を開き自分でソコを手で開い
396
て見せる。
そこまでに恥じらいとかためらいはなく、あっという間の出来事。
自分でももう少し時間をかけたほうがいいとは思ったけれど体が勝
手に動いた。
﹁⋮⋮だって開けって言うから﹂
﹁もう少し躊躇え。面白みがないだろ﹂
﹁い、いやーんばかーん⋮⋮とか﹂
﹁お前幾つだ?濡れてるみたいだしもう前戯ナシで挿れるぞ﹂
﹁あ。あの、少しでいいから⋮⋮な、舐めて欲しいです﹂
面倒そうな顔をしながらも綺斗の顔が私の開かれた恥部に近づいて
生温かいものが這う。
特別気持ちのいい場所でなくても触れられている見られているとい
うだけでゾクゾクして、
待ちに待った場所に到達するとひときわ大きくビクンと体が震え、
思わず体制を崩すがすぐに﹁閉じるな﹂と命じられたので手で足を
押さえて必死に開き続けた。
﹁風呂は声が響くな﹂
﹁⋮あ⋮﹂
﹁最後にしたのは何時だった?⋮⋮ああ、あの時は舐めただけだっ
たな。
せっかくの新婚旅行なんだ好きなだけ喘がせてやる﹂
﹁⋮⋮綺斗様も﹂
﹁じゃあもっと頑張って俺に腰をぶつけてこい﹂
397
そのろくじゅうなな
﹁⋮⋮﹂
﹁何だ。不満そうな顔をして。腹に出したのが気に入らないのか?﹂
正面からぎゅっと抱きしめあって果てる。でも、今回も中ではなく
外に放たれた熱いもの。
気持ちを確認しあって夫婦としての新しい一歩を踏み出したのだか
ら子どもだって前向きに
考えてくれていると思ったのに。
さり気なく足を絡ませてかにばさみするように綺斗を捕まえていた
のにあっさり逃げられた。
﹁もう二十歳だと思ってもらって結構ですからね﹂
﹁偉そうに言うな。ガキはガキだ﹂
疲れているのもあって寝転んだまま抗議していたら綺斗は傍にあっ
た風呂桶を手に取り
既にいっぱいにたまっているお風呂からお湯をひとすくいして、白
濁した液体が散らばった
私のお腹に一気に流し込んだ。
﹁あちちちちっち!﹂
﹁そんな沸騰したお湯じゃないんだ大げさな﹂
﹁ぎゃくたいされた﹂
確かに焼けるほどじゃないけど、それなりに熱いんです。お腹は綺
麗になったけど。
398
私は勢い良く飛び起きた。綺斗はそんな私を無視して体を洗って風
呂に入ってしまう。
それものんびりはしないですぐに出て行った。もちろん私もそれに
続く。
﹁メールも電話も今のところなしか﹂
少し遅れて私も浴衣に着替え髪を乾かして風呂場から出ると綺斗は
携帯のチェック中。
もしここで工房から連絡があったらその内容によっては私を置いて
帰ってしまう。
常に忙しい先生だから。そして、これからも夢のために綺斗は進み
続けるのだろうし。
﹁⋮⋮﹂
﹁飯の連絡はしておいた、少々遅れてしまったがすぐに準備してく
れるそうだ﹂
じっと見つめている私に気づいてそう言うと携帯をしまい座椅子に
座りお茶を飲む。
﹁綺斗様。私、やっぱり赤ちゃん欲しいです﹂
﹁何故だ?あの母親が脅してくるからか?﹂
私はその反対側に座った。確かに義母のプレッシャーは日々強まる
ばかり。
新婚旅行で絶対に結果を残せと何度となく言われてきた。
それが私を久我家へ受け入れた一番の理由。一条家のお墨付きの娘
として。
399
だけど。
﹁ほ、ほら、今頑張らないと子どもが私の年齢の時にお父さんが﹂
﹁何か悪いことでもあるか?もし爺でみっともないと思うならさっ
さと家を出て親は死んだとでも
言えばいいんだ、なんでガキに合わせなければいけない?馬鹿らし
いふざけるな﹂
﹁そんなに怒るってことは少しは気にしてるんですね﹂
﹁そんなわけないだろ﹂
ふてくされた顔をしてお茶をもう一口。これは絶対気にしてる。
﹁すみません。みっともないとかじゃなくて。私が欲しいんです。
綺斗様は忙しいから。
私もお手伝いしたいけど何もかもってわけにはいかないし⋮⋮置い
てかれたくない﹂
何の特技も魅力もない自分が綺斗のそばに居るには、子どもの存在
はやっぱり大きい。
或いは目的のためにお互いの距離が離れてしまってもちゃんと夫婦
だと感じている為にも。
綺斗には子どもが子どもを生むなと言われるけれど。でもあの頃よ
り少しは成長したはず。
あの義母だって子どもを産めば少しは心境も変わって綺斗への感情
も強まるかもしれない。
﹁確かに完璧な避妊をしているわけじゃないが、もし今妊娠しても
奪われるだけだぞ﹂
﹁子どもが居ればあのお義母様だって気がかわりますよ、それで一
緒に育てていくうちに﹂
400
﹁お前はあの母親を甘く見ている﹂
﹁え?﹂
﹁男なら自分たちで次期当主として育て上げる。女ならば監視下に
置き何れ婿養子をとる。
言葉の通りお前は不要になるんだ。どんな理由を付けてでも家から
追い出すだろう、
都合よく育てるのに邪魔だからな。
産んでも産まなくてもお前があの家にずっと居られる保証はないと
いうことだ﹂
子どもさえ産んでしまえば久我家での立場は保証されると父から聞
いていたのに。
父も騙されていたのか、それとも最初から知っていて私を騙してい
たのだろうか。
どっちにしたって追い出されるなんて。
義母が私を家族だから頑張っていこうって言っていたのはその気に
させるための嘘?
もちろんそれらを全て真に受けたわけじゃなくて、道具だとは最初
から思っていたし
上手く行かなければ新しい道具がやってくるのかもと薄々は感じて
いたけれど。
﹁私は結局どうしたって綺斗様と子どもと一緒には居られないんで
すね⋮⋮?﹂
こんな時私の助けになるのは夫である綺斗だけだけど、彼は弟の約
束を全うするために
久我家の当主になるのだから家からは出ていかないはず。つまり助
けは何処にもない。
401
それを分かっていたからずっと妊娠は避けて、でももし妊娠したら
その時は放り出される?
私が一人で家族とか子どもとか勝手にのぼせ上がっただけってこと
ですか。
﹁もし俺の嫁に来たのが美鶴だったらそんな横暴も見て見ぬふりを
しただろうな﹂
﹁綺斗様﹂
﹁泣きそうな顔をするな。お前を放り出すようなことはしない、手
放すはずないだろ。
淳希が久我家を大きくしたいとか資産を増やしたいとか夢を語って
いれば少しくらいは
それを叶えてやろうとも思ったが、あれは底抜けの馬鹿だからな。
俺はただ当主になることだけを叶えてやればいい、後のことなんて
知ったことか﹂
﹁じゃあ﹂
﹁それよりもあんな息苦しい家よりもっといい部屋を探さないか﹂
﹁部屋?じゃあ、工房ですか?﹂
﹁あれは職場だからな、別の部屋を借りよう﹂
﹁だけどお義父様たちが何ていうか﹂
義父から家督を継ぐために家に必ず居ろとは言われてない。でもわ
ざわざ綺斗を呼び寄せて
家に住まわせているのだから離れるのも渋りそうなきもする。ほと
んど家族の会話なんてしないし、
休日も関係なく綺斗は忙しくしているし。義父も年内には引退する
と言いながら忙しない。
体調も良くないらしいけれどそうは感じさせない。
綺斗とのふたり暮らしは新婚夫婦っぽくてとても魅力的ではあるけ
れど。
402
﹁もとより関心の薄い俺たちだ。やることだけやってれば何も言わ
ないだろう﹂
﹁そんな、うちの父ではないんですから。もしかしたら綺斗様を心
配して﹂
﹁お前が来た日は俺がずっと借りていた部屋からあの家に移ってき
た日だった。
母親は俺の顔を見て笑顔で朝の挨拶をかわし、父親は俺に客が来る
と要件だけ伝えてきた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今日から一緒に暮らす息子の話を一切聞く気もない連中が心配を
すると思うか?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
話の途中で仲居さんの声がして、返事をしたら昼食の配膳が始まる。
美味しそうな料理が次々に机に並べられていき、説明もしてもらう
けれど。
何もなかったら素直に大喜びして写真もいっぱい撮ったはずなのに。
﹁嫌ならもういい。大人しく飯を食え﹂
﹁嫌じゃないです。⋮⋮綺斗様、子どもは諦められないです﹂
﹁何でだ﹂
食欲があまり出なくて、でもせっかく準備してもらったご馳走に手
を付けないのも悪い。
綺斗は淡々と食事を始める。聞いている側がこんなにもショックを
受けているのに、
彼はどうしてこんな冷静でいられるのだろう。やはり、慣れとか?
最初から諦めてるから?
403
﹁お義母様と争う事になっても、綺斗様にもちゃんと家族があるっ
て感じて欲しい﹂
﹁寒いホームドラマだな。今は忙しいんだ。身内同士の余計な小競
り合いは避けろ﹂
﹁だ⋮⋮だって⋮⋮だってぇえ﹂
﹁泣くんじゃない勘違いされるだろうが﹂
追加でお酒を持ってきた仲居さんが居辛そうに苦笑い。
笑ってごまかし再び二人きりに戻る。
﹁帰るのが嫌になります。綺斗様、よく家に帰ろうって思いました
ね。
いくら兄弟のためとはいえ、あの家で暮らそうって⋮⋮すごい決断
だと思います﹂
﹁俺だって少しは期待してた所もあったんだ。息子として迎い入れ
てくれるのかと。
でもそうじゃなかった。結局大事な息子たちの代わりの道具でしか
無い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だったら連中の死に間際にその耳元で、テメーの残したかった家
名も財産も俺が
全部処分してやったと言ってやろうと思ってな。最高に面白いだろ
う?﹂
﹁綺斗様らしい﹂
404
そのろくじゅうはち
新婚旅行は何の障害もなく平和にまったりと過ぎていった。
ここにいれば部屋の掃除をしなくてもいいし、ただ温泉につかって
美味しいものを食べて。
甘いものも豊富にあってついつい食べ過ぎるくらい。腹ごなしに旅
館の裏手にある
ちょっとした散歩コースを歩いて山の自然に触れて、ふく風が心地
よくって。
科学的な光も不快な匂いも疲れる人混みも何もない。
普段なら仕事で夜遅くまで家に居ない綺斗が手を伸ばしたらすぐ触
れる距離にずっと居る。
部屋からそのまま出ていけるちょっとしたお庭で何やら考え事をし
ている旦那さま。
﹁⋮⋮男の尻を撫でるのが好きなのか?﹂
﹁違います。ただ手を伸ばしたらちょうどあったから﹂
嬉しくて手を伸ばしたらそこはお尻付近だったみたいです。不愉快
そうな顔をされた。
﹁今新しいデザインを考えてるんだ。邪魔するな﹂
﹁ごめんなさい﹂
でも完全には切り離せないよね、こんな素敵な場所なら創作活動を
するのにもってこいだから。
この温度差は一緒にいる限り永遠に感じるのだろう。もちろん一日
405
中かまってほしい訳じゃないし、
邪魔したくないのはずっと変わらない。ただ何時か彼が壊れてしま
わないか心配でもあるけれど。
﹁いや、いい。ここに居ろ。もう帰るんだな。これなら一週間くら
い休めばよかった﹂
﹁はい﹂
﹁お前は退屈じゃなかったか﹂
﹁贅沢な時間が過ごせました。案外綺斗様とずっと一緒でも楽しい
ものですね﹂
﹁あはは。そうだな。俺もそう思う。お前とずっと顔をつき合わせ
ても飽きないもんだ﹂
﹁喧嘩はしますけど﹂
﹁お前の食い意地とすぐヘバる癖に絡んでくる性欲にはついて行け
ない﹂
ずっと一緒にいるといっても常にくっついてもないし喋っているわ
けじゃない。
何か行動する時は声をかけて一緒に行動したりしなかったりとゆる
いものだった。
けど常にお互いの姿が確認できてその気になれば触れられる距離に
は居た。
﹁子ども諦めてないですからね﹂
﹁子どもが欲しいからでしか俺に抱かれたくないのか。それは寂し
いな﹂
﹁根っこには綺斗様とちゃんとした家庭を築きたいのがあるんです﹂
私は姉と恋人のことで先へ進む事が出来ず、彼は兄弟のために三倍
の速さで歩いていた。
406
最初から見ている方向も歩く速度も何もかもが違っていた私達。
それでも一緒にいることを決めた。家のためだけじゃない。自分の
意志で。
でもまだお互いに未熟で。ちゃんと夫婦で歩けるようになるのはま
だ先だろうけど。
﹁頑張れば何れ出来る﹂
﹁はい﹂
﹁お前は自分の子どもを手放すな﹂
﹁当然です﹂
子どもを産んでも産まなくても、私が久我家に居続けるにはこのま
までは駄目。
義母への諦めだけでなく争う覚悟もしなければいけない。私は子ど
もを奪われたりしないし、
家を追い出されるのもなんとかして回避したい。あの家に帰れば表
向きは笑顔の義両親との
静かな駆け引きが始まると思うと気が重たい。私は気持ちを引き締
める。
﹁いざとなれば三人で家を出ればいい﹂
﹁いいんですかそれで﹂
﹁お前もデザイナーを優先しろと言ったろ。なんとかなる﹂
確かにデザイナーとしての知名度は上がっている。
次に繋がりそうな一条家のお仕事も受けているし、緑里さんという
後援者も居る。
ただ、それはせっかく兄弟の為に家に戻った行為を無にするわけで。
それ以上に、久我家から完全に綺斗が切り離されてしまうというこ
とになる。
407
もとより綺斗は自分から切り離して考えていそうだけど。
﹁後はもう綺斗様に任せておけばいいのに。綺斗様しか居ないのに。
何が駄目なんだろう﹂
﹁それより土産はいいのか。お前、昨日の夜リストを作ってたろ﹂
﹁あ。そうだった。それで綺斗様の所に来たんです!﹂
﹁何だ?俺に何か用か﹂
﹁西浦先生と宗親さんと菅谷さんのお土産なんですけど﹂
﹁宗親は要らないだろう﹂
﹁でも楽しみにしてるって﹂
﹁喋ったのか?⋮⋮お前、べらべらと情報を漏らすな﹂
﹁でも宗親さん言ってないことも知ってたりするから﹂
何処から情報を得ているのか分からないけれど、もしかして警察に
お務めの身内から?
いや、それは良くない。だめなやつだ。怖いからこれ以上深く考え
ないほうがいい。
気を取り直し、お土産をリストをみながら購入し惜しみながらも旅
館を出る時間が来た。
﹁何だ。忘れ物か?﹂
カバンに荷物を詰めて。自己流でまとめた髪を鏡で再チェックして。
先に帰る準備を終えた綺斗の元へ行き、彼をジッと見つめる。
﹁貴方が言ってくれた事。私、信じてますから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私を離さないでくれるって。子どもと三人で暮らしてもいいって﹂
408
﹁女というのは何故こうも感傷的なのか。同じことを何度も言わな
くてもいい。
一度言えば分かるだろ。いいから、さっさと帰るぞ﹂
﹁はい﹂
呆れたような面倒そうな顔をしてさっさと部屋を出る。綺斗に続き
私も廊下へ。
色々とあったけれど楽しかった新婚旅行。写真もたくさんとった。
後でパソコンで確認して消せと言われるものが沢山有るような気も
するけど。
手続きを終えて迎えのあの印象的な運転手さんの車を待っている間。
﹁律佳。もし、俺がお前を残して女と心中したらどうする﹂
﹁死んで追いかけてあの世で貴方を奪い返す。とかでしょうか﹂
﹁たいした自信だ﹂
私の返事に満足しているのか若干ニヤっとした顔をした。
﹁所で綺斗様が一緒に死にたくなるような女性ってどんなですか?
それちゃんと女性ですか?﹂
﹁いくらお前が好きでも腹は立つんだ。わかってるか?喧嘩なら買
うぞ。拳骨でいいか﹂
﹁純粋に質問しただけなのに﹂
﹁何が純粋だ。いいか、家に帰ったら馬鹿な事はしないで大人しく
して連中に弱みを見せるな。
たとえ痛い所を突かれても平然としてみせろ﹂
﹁⋮⋮あまり自信がありません﹂
﹁無くてもやらなければいけない時は来る﹂
﹁そう、ですね﹂
409
﹁金のためとは言え嫌な家に来たろう?この家に嫁ぐとなると家政
婦になるより厳しいんだ﹂
それは最初の日に言われた言葉。今でも覚えている。確かにその通
り、厳しい。
表立って争っている訳じゃないけれどそれは蜜月の今だからで。
﹁そうですね。でも。旦那様は私の味方ですから﹂
410
そのろくじゅうはち︵後書き︶
ひとくぎり
411
⃝そのろくじゅうきゅう
綺斗と二人だけの静かな旅行。向かい合って話したら案外気持ちは
通じるもので。
彼の置かれている環境も、兄弟への強い思いも、私への気持ちも教
えてくれた。
今度こそ過去を灰にして夫婦として再出発し、何れは子どもを授か
りハッピーエンド。
のはずだったのに、私はまた分からなくなっている。家ってなんだ
ろう。家族って?
中身があろうがなかろうが、
誰にでも当然のようにあるものだと今まで深く考えた事はなかった。
或いは今は亡き恋人とのドラマのような理想の家族像を妄想したく
らいで。
﹁⋮⋮ぅん﹂
長いようであっという間だった電車の旅を終えたら今度はタクシー
に乗る。
義両親が待っている家へ帰るために。そこが今の私の帰るべき場所
であり、家族。
だけどどうしてだろう?こんなにも帰りたくないと思ってしまうの
は。
綺斗からきっぱりと使い捨ての道具だと言われたから?でも、そん
なのは最初から想像は
ついたはずだ。今がそれなりに幸せでつい自分が嫁いできた理由を
412
忘れそうになるけれど。
私は良家のお嬢様ではない。最初からソレ以外の期待などされてい
ないというのに。
﹁どうした﹂
隣の綺斗に体を寄せてその手をぎゅっと握る。
﹁⋮⋮気分が悪いです。これは、妊娠したかも﹂
﹁乗り物酔いだ。家に帰ったらゆっくり休め﹂
﹁綺斗様は?﹂
﹁俺は少し休憩したら工房へ向かう。室井が居ない分を菅谷に押し
付けてきたからな﹂
﹁無理をしないでくださいね﹂
やっぱりな返事。この調子なら家につくのはお昼だからそんな気は
していたけれど、
せめて今日くらいは家でゆっくりと休んだら良いのに。彼は忙しく
する。そして、これからも。
職人としてはそうでないといけないのだけど。あと二つやるべき目
標もある。
私もついて行って手伝いたいが室井さんの穴を埋めるなんてできな
いし、調子もよくない。
﹁お前こそ。そんな調子でどうする﹂
﹁すみません﹂
﹁⋮⋮いいから、目を閉じてろ﹂
何で若さだけが取り柄の私が不調になって、年上の綺斗が元気なん
だろうか。
413
彼に身を委ねている間に車は家の前に到着し、荷物を彼が全部持っ
てくれて。
私は家政婦さんに説明をして布団を敷いてもらった。
綺斗に行ってらっしゃいといいたかったのに布団に入ったらそのま
ま寝てしまう。
﹁気分が悪いそうだけど、大丈夫?﹂
目が冷めたのは夕方。あまりの寝顔の酷さに顔を洗いに部屋を出て。
戻ってきた廊下で義母が私の部屋の前に居たのを見てしまう。
逃げようなんて一瞬考えたが、すぐに無駄なあがきだと気づいて彼
女の元へ。
﹁はい。もうすっかり﹂
﹁綺斗は貴方を置いて仕事へ行ったんでしょう?今日くらい家に居
たら良いのに﹂
﹁酔っただけですから。綺斗様も忙しいですし、仕方ないです﹂
﹁酔っただけ⋮⋮?でも、まあ。いいわ。試してみて﹂
酔っただけと聞いて一瞬嫌そうな顔をしたけれど、何か小さな箱を
私に渡す。
﹁え⋮⋮に、妊娠検査薬?﹂
﹁今までも何度か行為を試しているそうだし。もしかしたらと思っ
て﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
流石にこの新婚旅行での話じゃないだろうけど、いつの間にこんな
ものを買ってたの?
414
もしかして私がここに来た日から?なんて用意がいいのだろうか。
いや、ちょっと怖いです。
﹁念のためよ。試してみて、もし駄目なら言わなくていいから﹂
﹁はい﹂
﹁貴方は何もかもが初めてになるでしょう?だから、何か普段と違
うことがあったら
すぐに私に言ってちょうだいね。自分の判断では動かないで。いい
わね?わかった?﹂
﹁は、はいっ﹂
そう言って自分の部屋へか去っていく義母。私も検査薬を持って自
室へ戻る。
頂いてしまったからにはやらなければいけないだろう。やり方を読
みながら軽いため息。
今後もこんな風に検査薬を手に出来た出来てないの話をするのかと
思うと
分かっていても憂鬱になる。精神的にも疲れてくる。
いっそ義母とも話しをしてみようか。案外道が開けるかもしれない。
閉ざされる可能性もあるけど。
子を産みたいのと後継者が欲しいのとお互いの利害は一致している
はずなのに。
母親を切り離すなんてしなくたってちゃんと久我家の後継者になる。
はずなのに。義母からしても
子どもが子どもを生むと思っているのだろうか。私が未熟であると
いうだけじゃない気もする。
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﹁妊娠検査薬?﹂
夜遅く、布団に包まって眠っていた私の部屋にノックもなく入って
くる綺斗。
びっくりして起き上がろうとしたが彼がそのままで良いと言うので、
お言葉に甘えて上半身だけ起こして座る。
部屋の電気は豆球のみだったが改めて明るく付け直すことはしなか
った。
﹁お義母様が﹂
机の上の箱を手にして綺斗が当然のように質問する。
﹁で。結果は?﹂
﹁駄目でした﹂
多分してないだろうなと思いつつ、もしかしたら?という期待もこ
めてチェックしたが
結局妊娠はしておらず。義母の言うままに何も報告しないで夕飯を
一緒に食べた。
それで察してくれたようで彼女は何も言わず食事を終えたらさっさ
と自室へと戻る。
義父も居たのだが彼は何も知らないようでこちらも食事を終えたら
書斎へ。
機嫌がいい時はどちらかが何かしら喋りかけてくるが普段はほとん
ど会話のない夕食。
﹁そうか﹂
﹁この調子で何度もチェックするんでしょうね﹂
﹁俺が嫌いなくせに俺の子どもを欲しがるなんて。そこまでして後
416
継者が欲しいか。
嫁いできて家が断絶したなんて公家の姫様のプライドが許さないん
だろうな﹂
私は祖母以外の家族に大事にされた記憶は殆ど無い。けど、もし授
かったら大事にする。
綺斗だって同じのはずだ。あまり子どもには積極的ではないけれど。
﹁でももしかしたらお義父様は﹂
﹁考えがあるならとっくにやっている。いいか、お前は頼れるのは
俺だけなんだ﹂
綺斗は私を抱き寄せ頬をそっと撫で、その視線は私の返事を待って
いる。
﹁⋮⋮はい。綺斗様﹂
私の返事に気を良くしたのか少しだけ微笑み、軽いキスをした。
﹁俺だけを見ていればいい。俺以外の言葉は全て雑音と思え﹂
﹁綺斗様お疲れですよね。このまま一緒に寝ましょう﹂
﹁そうだな。だが俺は自分の部屋で寝る﹂
﹁ええ。どうしてですか?﹂
﹁あの気色悪いエビやら虫やらが睨んでくる﹂
﹁可愛いのに﹂
﹁これ以上は増やすなよ﹂
そう言うとさっさと部屋を出ていった。綺斗が来たのは私を心配し
てくれたのだと思う。
もちろん、表立ってそんな事は言わないけれど。彼の最初の予定に
417
は存在しなかった
私という存在が今ではちゃんと認識されているみたいで、優しさが
素直に嬉しい。
家族してますね、なんて言ったら馬鹿らしいと怒られそうだけど。
﹁明日はお土産の整理と写真チェックしよう﹂
418
そのななじゅう
新婚旅行を終えたら何時もと変わりない日常が戻ってきた。でも、
それは少し質が違う。
﹁ここは再会を祝してシャンパン、と言いたい所だけど。お茶にし
ておきましょうか﹂
﹁すみません。あと少しなんですけど﹂
﹁今まで飲んだことがないんでしょう?だったら初めての一口を他
人が勝手に奪ったりしたら
あの旦那様が嫉妬して怒りそうだから、ここは大人しくお茶で乾杯﹂
﹁そ、そうでしょうか。⋮⋮乾杯﹂
新婚旅行のお土産を渡したいからというのは口実でただ話がしたく
て連絡を取ったのは私から。
相手もちょうど連絡しようとしていたらしくだったら今日にも会い
ましょうとトントン拍子に話は
進んで本日の夕食は緑里さんと共に。
当然彼女の仕事が終わってから会うということで家ではなく外で食
事することになった。
綺斗に言ったら仕事が忙しいので参加はせず私を迎えにだけ来ると
言っていた。
夕方彼女と合流し、案内してもらったのは高層ビルの最上階にある
おしゃれなレストラン。
お酒も飲めるようだけど私に気遣ってお茶。
﹁それで。私に何か相談したいことがあるんじゃないの?愚痴でも
419
いいけど﹂
﹁あ、あの。相談と言うかその﹂
﹁綺斗とは上手く行ってるみたいだから、とすればあの母親ね﹂
﹁⋮⋮﹂
ただ一緒に食事しましょうって話だったのにすっかり見抜かれてい
てドキっとする。
緑里さんは倖人の恋人だった人なのだから当然あの義母とも関わり
はある。
長男ともすればそれはもう期待は重かったろうし、その交際相手と
なればなおさら。
そして、想像通りの良い関係ではなさそうなのは彼女の苦々しい表
情を見れば分かる。
﹁前にも話したかな。自分の息子を神様の使いか何かと思ってそう
なくらい干渉してきて。
嫁ぐ女は良家の出でないと駄目と言わんばかりに私を冷ややかな目
で監視してた﹂
﹁⋮⋮﹂
私も良家の人間ではないけれど最初は凄く歓迎されて怖いくらいの
笑顔で気遣ってくれたのは
綺斗が愛する長男ではないからだろうか。それともあの人の期待が
持てそうな何か良さそうな
雰囲気でもだしてたんだろうか。あんなどん底の私をみていて。
﹁中々別れないから気に病んじゃったのか真面目な顔で今までの交
際経験とかしまいには
処女かとか聞かれた時はもうドン引きしたし。処女じゃないと嫌と
か今時⋮⋮ねえ?﹂
420
﹁え。えっと。⋮⋮わ、私は綺斗様との子どもが欲しいんです。け
ど、綺斗様が言うには産んだら
お義母様は私から子どもを奪って自分で久我家の後継者として育て
るつもりだと﹂
﹁あの人ならそれくらいやりかねないわね﹂
﹁産まなければそれはそれで使い物にならないと放り出されると﹂
﹁どっちに進んでも戦争は避けられないってことか。それはキツい
わ﹂
そんな話をしていると頼んだコース料理が運ばれてくる。彼女は話
を聞いてくれているからか
一切それに手をだしていない。私も話を聞いてもらっているのだか
らと何も手にしないで我慢。
﹁だから私一度お義母様とちゃんと向かい合って話をしようと思っ
てるんです﹂
﹁貴方結構ガツンと行くわね﹂
﹁このままずっと怯えながら怖がりながら検査薬毎回持ってこられ
ても困るから⋮⋮﹂
﹁検査薬⋮⋮それは気持ち悪い﹂
また一定の時間があいたら渡されるんだろうな検査薬。お茶を一口
飲んで軽いため息。
私の言葉に過去の義母とのやりとりを思い出したのか、彼女は一際
苦い嫌な顔をする。
﹁綺斗様が家を出る事は今のところないし、私もそれでいいと思っ
ているんです。
ただこれ以上何かあったら。妊娠した時も怖いなって﹂
﹁あんな家に義理立てして一緒に住んでる必要ある?綺斗にはりっ
421
ちゃんを養っていける
くらいしっかりした仕事もあるんだし。りっちゃんが追い詰められ
て可哀想って思わないの?
そんなに当主っていうものになりたいのかしら?まあ、男ってそう
いう地位とかすきだものね﹂
﹁違います。綺斗様は兄弟のぶんも生きようとしてるだけで﹂
私の存在は彼の予定にはなかったものだから今更大幅な修正もし辛
いのだろうし。
今はまだ監視されているだけではっきりと排除されている訳でもな
い。
﹁倖人は弟やその大事な人を犠牲にしてまでやってほしいなんて思
う男じゃないのに。
あの三兄弟はあの両親から生まれたとは思えないくらい根のいい奴
らだから。
だから余計にがんじがらめになっているのかもしれない﹂
﹁⋮⋮﹂
確かにあの両親から生まれた子どもたちは三人とも親に内面は似て
いない。
顔を思い浮かべてみるとそれぞれがちゃんと親に似ているけれど。
﹁だけどいきなり突撃して大丈夫?あの母親はかなり曲者よ?父親
も参戦してくるかも。
なのに綺斗は偉そうなだけで頼れないかもしれないよ?﹂
﹁もとより期待しちゃいけないと思ってます。綺斗様にはお仕事を
優先してもらいたいので。
でも、やっぱりやめたほうがいいでしょうか。私のような者が偉そ
うに話をしようなんて﹂
422
﹁でも当事者は貴方だものね。他人が代弁したって仕方ない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もしあの家に総攻撃されたら家にいらっしゃい。うちのホテルの
社員にしてあげるから﹂
﹁ありがとうございます緑里さん﹂
﹁ほらほら食べて。あったかいうちに食べなきゃ﹂
﹁はい。頂きます﹂
彼女の言葉にやっとナイフとフォークを手に夕食タイム。
少しだけ冷めてしまったスープを飲み新鮮なサラダを食べて、メイ
ンはもちろんお肉で。
暗い話をした後は関係のない話に飛んだ。美味しいケーキのお店情
報や焼肉バイキング
と思ったら私に似合いそうな可愛い靴が置いてあるお店とか、そん
な何気ない話し。
﹁こんばんは。楽しそうでなによりです﹂
﹁あら、綺斗。もう来ちゃったんだ﹂
食事を終えて今度は食後の紅茶を飲みながら話をしていたら綺斗が
やってきた。
慌てて時計を見るともう結構遅い時間。
﹁予定時間より一時間も遅刻してしまいました。そろそろ律佳を返
して頂いても?﹂
﹁せっかく今恋バナで盛り上がってたんだし、もう少しりっちゃん
と話したいなぁ。泊まってく?﹂
﹁緑里さんも早く帰らないと子どもが寂しがるんじゃないですか﹂
﹁あいつはさっさと寝ちゃってると思うけどね。旦那様が来ちゃっ
423
たら返すしか無いか。
また話をしましょうねりっちゃん﹂
﹁はい。ありがとうございました﹂
深くお礼をして、お代を払おうとしたけれど結局受け取ってはもら
えず綺斗と店を出た。
彼の運転する車に乗って家へ帰る。さっきまで散々笑って楽しかっ
たのに、
今は少し寂しい。彼が隣りにいるのだからそんな顔はしてはいけな
いけれど。
﹁あの人と話すのは疲れたろ﹂
﹁いえ。楽しかったです﹂
﹁そうか。恋バナって言ってたな。どういう話だ﹂
﹁気になります?﹂
﹁なるから聞いてるんだ﹂
﹁恋バナっていうのは恋の話です。恋愛の﹂
﹁馬鹿か。それくらい分かる﹂
﹁⋮⋮ですよね。よくある学生時代の思い出話しですよ﹂
﹁学生時代⋮⋮のか﹂
﹁後は綺斗様の子どもの頃の話を沢山聞きました﹂
﹁何を勝手なことを⋮⋮、くそっ。あの人は何時もそうなんだ﹂
ブツブツと文句を言っている綺斗だがそこは聞こえないふりをして。
でもちょっと笑いつつ。
あっという間に家に到着。緑里さんに話を聞いてもらっておきなが
らまだ結論は出ない。
今日は流石にもう遅いし話しをしに行こうなんて思わないけれど。
家に入ると電気はついていても流石にお出迎えはなく、綺斗は部屋
へ戻り私も自分の部屋へ。
424
﹁⋮⋮お義父様?﹂
綺斗を誘い一緒に風呂に行こうと部屋を出たら廊下で膝をついてい
る後ろ姿が目に入る。
こんな時間に誰だろうと恐る恐る近づいたらそれは義父で。慌てて
かけよって声をかけた。
﹁律佳さんか。⋮⋮ああ、なんでもないんだ﹂
﹁顔色が良くないです。何処かお悪いんですか?お薬?それとも救
急車を﹂
﹁私の部屋に薬がある、すまないが取ってきてくれないだろうか﹂
﹁はいっ﹂
薬の置いてある場所を聞き、義父に肩を貸してリビングのソファに
座らせたら急いで向かう。
綺斗に声をかけるよりもまずはそっちを優先させるべきだと焦って
いたから。
初めて義父の部屋に入り棚を漁って指定された薬とグラスに水をそ
そいで持っていく。
﹁ありがとう。これで暫く落ち着いていれば収まる﹂
﹁良かったです﹂
﹁こんな私を心配してくれるなんて、君は優しいんだな﹂
﹁苦しんでいる人が居たら当然です﹂
﹁君が苦しむと分かっていても見て見ぬふりをする私でもか﹂
﹁⋮⋮﹂
425
426
そのななじゅういち
義父も会社から帰宅した所だったようで部屋着でなくスーツのまま。
それらを自分で緩め、辛そうに深い呼吸を何度もしてなんとか薬を
口に含み
水で押し流す。本当にそれで大丈夫なのだろうかと不安になるけれ
ど、
本人がそういうのだから信じるしか無い。
年齢的に何があってもおかしくはないし体の調子もあまり良くない
事は聞いていた。
ただそれを感じさせないくらい忙しなく動いていたから。ここまで
と思わなかった。
﹁君には何かと不便な思いをさせているだろうが、
それも私が死ねば綺斗がいいようにしてくれるだろうから。それま
で我慢してくれ﹂
そんな事を言われても、私は言葉に詰まる。
義父は義母と違い干渉もそれほどしないし攻撃的ではない代わりに
興味もないようで
積極的に関わることもなく、忙しそうだからとこちらも上辺だのや
り取りで過ごしてきた。
それが調子を崩したせいなのか今は別人のように弱気になっている。
目を閉じて小さな声で何を言っているのかと耳を澄ませたら綺斗の
こと。主に謝罪。
息子が後継者となった後は真面目に継ぐ気がない事もちゃんと分か
っているのに。
427
﹁お義父様の仰った通り綺斗様は悪い人ではなかったです。
職人ですから厳しい所もありますけど気遣ってもくれるようになり
ましたし﹂
﹁そうか。⋮⋮それは、よかったよ﹂
どれほどか経過して、少しずつ相手の息が整ってくる。こんな状態
のまま離れる事もできず
ただ義父の額の汗をふいて様子を見守っていた。顔色も戻ってひと
まずは安心していい。
様子をうかがいつつ、どうしようか迷ったけれど私は口を開く。
もしかしたらこんな風に静かに会話をするチャンスは今しかないの
かもと思ったから。
﹁綺斗様のことをちゃんと息子として意識しているんですよね?
それなのに声をかけてあげないのはお義母様を気にしているんです
か﹂
﹁そうだ。彼女も若くはないし心もかなり弱っている。刺激したく
ない﹂
﹁どうして綺斗様を嫌うんでしょう。自分の子どもなのに﹂
そんな事を義父に言っても仕方ないだろうけど。言葉がぽろりと溢
れた。
﹁あの子が私に似ているからだよ﹂
﹁え。そ、それだけ?だって子どもなんだから当たり前じゃないで
すか﹂
確かに写真で見る限り兄弟の中で一番父親に似ていると思うけれど。
428
でもそれだけで?
赤ん坊を手放すくらいだから何か理由があると思ったのに。
﹁彼女も実家の為に好きでもない男と結婚することになった身の上
でね。
この世界ではよく聞く話しだから彼女も悲壮感なんてなくて割り切
ったものだった。それでも
彼女なりに私を夫として愛そうとしてくれていたのは分かっていた
し、努力もしていた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だが私は彼女を大事にこそしても愛する事ができずに、最後は裏
切った﹂
﹁裏切った?﹂
﹁囲っていた女と逃げてこの家を捨てようとした。結局女は待ち合
わせ場所に来なかったがね。
未遂とは言え身ごもっていた妻を置いていったのは事実。彼女は私
を糾弾しなかったがそれから
一度も歯車は合うことはない。当然の結果だ。彼女はきちんと夫婦
になろうとしたのに﹂
﹁その子どもって﹂
﹁綺斗だ﹂
そんな酷いタイミング。もし、それが綺斗でなくても疎まれたろう
か。
﹁⋮⋮﹂
﹁幸せだった頃に生まれた倖人は生まれつき病弱で健康に生まれて
くれた綺斗は見るのも
嫌だと他所へやり。このままでは久我家が絶えてしまうかもしれな
いから子どもを作らせろと
429
事務的に迫られて生まれた淳希は無条件に溺愛して。
だが、結局愛情を注いだものはどちらも先に死んでしまった。彼女
は可哀想な人なんだ﹂
﹁⋮⋮だとしても、私は子どもを手放したりしません。まだ、妊娠
してないですが。
たとえ生まれても子どもは綺斗様と二人で育てていきます。そう、
お義母様にも言うつもりです﹂
﹁君はまだ子どもだと思っていたが強いんだな。そして、綺斗を愛
してくれている⋮⋮有り難い﹂
﹁お義父様。まだ時間はあるはずです。お義母様と綺斗様ときちん
とお話をしましょう﹂
﹁彼女も綺斗も一生私を許すことはない。憎まれ続ける。それでい
いんだ。﹂
﹁お義父様﹂
後はもう部屋で休むといってゆっくりと立ち上がり義父は去ってい
った。
それをぼんやりと見つめて、その場に座り込んだ。
﹁まだ起きてたのか﹂
﹁綺斗様お風呂入りませんか﹂
﹁風呂はもう面倒だな、シャワーでも軽く浴びるか﹂
﹁はい﹂
気づいたら私の足は本来行くはずだった綺斗の部屋へ向かっていて。
まだ起きていて風呂にも入っていないのを確認し彼の手を引いて一
緒に風呂場へ。
﹁何だいきなり。気持ち悪い﹂
430
﹁良いじゃないですか新婚夫婦っぽくって﹂
﹁はあ?﹂
脱衣所に入るなり私が彼の服を脱がせていく。不思議そうな顔をし
ながらも拒んだりはしない。
丁寧に上着を脱がせて、ズボンのベルトを外してチャックをおろし
て。
﹁お義父様、調子がかなり悪いみたいです。さっきも辛そうにお薬
を飲んでました﹂
﹁そうらしいな。秘書がたまに俺に言いに来る﹂
﹁⋮⋮話を聞いたんです。お義母様がどうして綺斗様を嫌うのか﹂
﹁真剣な顔で何を言うかと思ったらそんな老い先短い連中の昔話し
か。暇な奴だなお前は﹂
﹁ですが﹂
﹁仕事がたまっているんだ。そんなどうでもいい話をお前としてい
る時間はない﹂
﹁すみません。⋮⋮そう、ですよね。お仕事に障りますよね﹂
言うか言わないか迷ったがやっぱり後で何かあったときのためにと
伝えたけれど。
彼にとって両親の昔の話なんて取るに足らない話なんだ。たとえ自
分に関わる事でも。
服を全て脱がせ、自分も脱いで風呂へ。時間のせいかお湯は抜かれ
ていて空っぽ。
シャワーを浴びるだけでいいから私が先頭に立って体を洗う。
髪が伸びたぶんシャンプーにも時間がかかってしまうから、先にや
れと何時も言われる。
﹁そうだ。その、さっき言っていたお前の学生時代の恋バナ⋮⋮だ
431
が﹂
﹁何ですか嘘っぽい咳払いなんかして﹂
その後ろでやけに静かだなと思っていたら唐突に切り出してきた恋
バナ。
﹁煩い。それでどうなんだ﹂
私を後ろから抱きしめて若干すねたような口調で問いかけてくる綺
斗。
どうなんだって、何ですか?何を言えば。恋バナの説明はしたら怒
られたしな。
﹁恋バナですからやっぱり初キスとか。初デートとか。あと何処ま
でいったかとか﹂
﹁ど、どこまで?﹂
﹁声裏返ってます綺斗様。あと、抱きしめる力強すぎて痛いです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ん。そ⋮⋮そんな強く胸を揉まれたら潰れる﹂
﹁それで?何処までいったんだ﹂
﹁えぇ⋮⋮知りたいですか?結構、生々しいですけど⋮⋮﹂
﹁お前。壁に手をつけ。俺に尻を突き出して見せろ﹂
﹁はいっ?えっあっ⋮⋮ええぇ?﹂
何で怒ってるっぽい口調なのにお尻を突き出すんだろう、まさかお
尻叩かれる?
でもそんな怒られるような事をした覚えはないけど。でもやらない
ともっと怒るので
言われるままに壁に手をついて彼にお尻を突き出して見せる。
432
﹁それで。何処までいったんだ?その生々しい話しを聞かせてもら
おうか﹂
﹁あ⋮っ⋮⋮あの⋮そんな⋮⋮﹂
﹁良いから早く喋れ﹂
綺斗が後ろからピッタリとくっついてそのまま後ろから中に挿入、
ではなく
私の感じてしまう突起場所をソレで擦るだけ。最初はそれでも十分
気持ちよかったのに。
中でイク事を知ってしまった後だと物足りない。こすられて感じる
度に切なくなってくる。
﹁⋮⋮喋ったら挿れてくれます?﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃ。じゃあ。えっと。初恋はクラスの先生で一緒にお昼寝をし
て﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様。⋮⋮あ⋮あんっ⋮⋮やだ⋮ちゃんと⋮⋮中でイキたいで
すっ﹂
喋っている時くらいは腰の動きを緩めてほしいのに。徐々に早まる
腰。
本格的に動くのは中に入ってきてからがいいのに、ソコを擦られて
イクよりも
ちゃんとイキたいのに。我慢しようと踏ん張ってみても結局二度ほ
ど果てて。
﹁お前のせいで俺の予定は一から組み直しだ。どうしてくれる⋮⋮
こんな、⋮⋮こんな事っ﹂
﹁ぁあ⋮⋮っご、ごめんなさい⋮⋮ぁん⋮綺斗さま⋮でも、おっき
433
くなった﹂
﹁煩い。もう恋バナなんていい。正面向いて一回やって出るぞ﹂
やっと開放されて正面を向くころにはしっかりその気になっている
お互いの下半身。
綺斗に抱きついて彼の首に手を回したら足を片方持ってもらいゆっ
くり中へ。
﹁綺斗様。⋮ぁん﹂
﹁⋮⋮何が初恋だ。何が昼寝だ、⋮⋮くそっ﹂
ゆっくりと付け根まで入ってきたら綺斗は何やらブツブツと文句を
言いながらも腰が動く。
私は必死に倒れないように彼にしがみついて。家のお風呂だからあ
まり大声を出して
皆さんに響いたら恥ずかしいので必死に堪える。
義母なら喜びそうだなぁなんて思ってすぐに考えないようにした。
﹁綺斗様。もしかして緑里さんが初恋とかですか?﹂
﹁はあ?何だいきなり﹂
一回だけ、と綺斗が言った通り二人が果てたのを確認したら外に出
されたものを洗い流し
さっさと脱衣所へ戻ってくる。私は冷静になってからふと思って。
タオルで体を拭いている
綺斗に問いかける。彼は私が初恋だとかって言われたけれど、やっ
ぱり違ったんだ。
﹁だってあんなに怒るから。⋮⋮付き合いも長いですしね﹂
434
﹁怒る?別に何も怒ってないが﹂
﹁だってずっと怒ってたじゃないですか。何が初恋だ!とかって﹂
﹁あれは別に。⋮⋮⋮おい、律佳。テメエ﹂
﹁な、なんですかいきなり﹂
壁を向いていた綺斗がすごい勢いで振り返って私に近づく。
﹁さっきの恋バナってまさか緑里さんの話じゃないだろうな﹂
﹁そうですよ?私に恋バナなんてそんなの殆ど無いって知ってるで
しょう?
ずっと女子校だし。初恋って言われたら、愁一さんだけど。そこは
⋮⋮
緑里さんわかってるから。ご自分の話をしてくれて﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁昔の事ですし、お互いに初恋は大事にとっておきましょう。ね!﹂
﹁⋮⋮律佳﹂
﹁はい﹂
﹁今夜は眠れると思うなよ﹂
﹁はい?﹂
﹁そうだな、十回くらいやればもしかしたら妊娠できるかもしれな
いな﹂
﹁じゅ⋮⋮?﹂
﹁俺をナメた罰だ。もう見るのも嫌だってくらいたっぷり見せてや
るから﹂
﹁な、なにを⋮⋮いえ!分かってます!今もう見えてますからわか
ってます!﹂
435
そのななじゅうに
耳元で綺斗の色っぽい吐息が聞こえて私のお尻の割れ目から硬く熱
いものが
ゆっくりと抜けていく。それでやっと大人の激しい運動から開放さ
れたという安堵感と、
気が遠くなるくらいの強い刺激を与えてくれる熱が離れていく寂し
さと。
若干の眠気のせいかもう何が何かよくわからないごちゃごちゃした
複雑な感覚。
正面からだと声を我慢し辛いかもと思ってベッドにうつ伏せになっ
ている所へ上から
容赦なく突かれて、それでも必死に堪えつつも最後は声を出して果
てた。
一緒にシャワーを浴びて、ちょっとした昔話をして。何が気に食わ
なかったのか
旦那様は不機嫌で見るからにお怒りだけれど、以前ほど鋭く尖って
はいなくて。
どっちかというとただ拗ねてるような感じだからこちらもまだ余裕
がある。
﹁ぁああ⋮⋮も⋮⋮もぉ⋮⋮む⋮むり⋮⋮ぃい﹂
のは気持ちだけで、私の体はもう限界。涙目。
﹁おい。まだあと九回だぞ﹂
436
﹁ごめんなさいもうごめんなさい⋮⋮本当にごめんなさいぃいいっ﹂
うつ伏せから慌てて起き上がり枕を立てにするように抱え込み綺斗
に懇願する。
彼は多少息は荒いがまだ元気そうに見える。何でそんなに体力ある
んですか。
昼間はずっと仕事してたはずですよね、さっきまで作業してました
よね?
﹁拝むな﹂
﹁南無南無南無南無っ﹂
﹁唱えるな﹂
﹁もう寝ましょ。ね?えっと。あの、分割で支払いますから。それ
でお願いします﹂
﹁⋮⋮、もういい。俺も馬鹿らしい嫉妬をした。体を拭いたら寝る﹂
﹁嫉妬⋮⋮?﹂
私の問いかけに返事はなく、淡々と体を拭かれたらパジャマを着せ
られて寝かされて
その隣に綺斗が寝て。唯一の明かりだったルームランプも消えた。
カーテンをしめているから本当に真っ暗な部屋の中。疲れもあって
すぐにウトウトとして。
でもなんだかすぐに眠るのが勿体無い気がして綺斗の胸にギュッと
抱きつく。
﹁鬱陶しい﹂
﹁さっきまでいっぱいくっついてたじゃないですか﹂
﹁寝ろ﹂
でもそっけなく綺斗は振りほどき壁を向いてしまう。
437
﹁はい﹂
けど、気にせずその大きな背中に身を寄せて目を閉じた。たくさん
綺斗に抱かれて眠るの
だから少しはいい夢を見られるかと思ったけれど、その前に義父の
話を聞いたせいなのか
綺斗が自分の知らない女性と何処かへ行ってしまう夢を見てしまう。
大事だと思った人に置いていかれるのは、そんなのはもう愁一さん
だけでいいのに。
﹁なんだ。朝から俺を睨みつけるとはいい度胸してるな﹂
﹁綺斗様。⋮⋮お義父様に⋮⋮似ている﹂
﹁はあ?﹂
そんな不機嫌な朝を迎え中々ベッドから出ていけない私を他所に仕
事へ向かうため
さっさと起きて身支度をする綺斗。その姿をじっと見つめていたら
どうも睨んでいるように
見えたらしい。何時もなら私の存在など無視して出ていくのに振り
返って声をかける。
﹁⋮⋮大事にしてもらうのは嬉しいですけど﹂
そこに愛情がないのはなんて悲しいことか。
何となくだけど若い頃の義母の気持ちがわかった気がするといった
ら生意気だろうか。
これからを共に生きていく彼と私をつなぐもの。子どもはまだ当分
無理そうだから、他に。
438
﹁何を訳のわからん事をブツブツと。腹が減って脳が働いてないん
だろ。さっさと飯を食ってこい﹂
﹁綺斗様。私、ジムに通いたいです。体を基本から鍛えなおして綺
麗な体になりたいんです﹂
﹁お前が?⋮⋮体を?⋮⋮鍛えっ⋮直すって?⋮⋮っ⋮あはははっ﹂
﹁わ、笑わないでください!そりゃ、そりゃ十回もえっち出来ない
貧弱ですけどもっ﹂
﹁馬鹿。十回もやってたまるか。それで、綺麗な体になってどうす
るつもりだ?﹂
﹁もちろん。自信を持って綺斗様の作品のモデルをするんです﹂
法律上の夫婦であり、新進気鋭の着物デザイナーと即席の素人モデ
ル。
何時その席をプロに取って代わられてもおかしくはないけれど、体
を鍛えていけば
知識を学んでいけば安心できるだろうか?メイクさんに筋はいいと
言われている。
あれはただのお世辞の可能性も高いけど。
姉の美貌を今ほど羨んだ事はない。美しいからと言って綺斗に好か
れるかは別だが
作品のモデルとしての有用さがある。
﹁お前のやる気は買ってやる。だが、そんな無理して体を作る必要
はない﹂
﹁でも﹂
﹁そんなことをする時間があるならもっとまともな料理が作れるよ
うになれ。
この前のあのボウルいっぱいの炒飯はもはや嫌がらせの域だ﹂
﹁味は美味しかったです﹂
439
﹁とにかく。ジムなんてものは許可しない。お前は今のまま、平凡
でいい﹂
﹁でもそれじゃ綺斗様の作品を生かせないかも﹂
今は雰囲気でなんとなってもやっぱりプロとは違うからイメージと
違うと不評になったり
何であんなの使うんだとか言われてそうだし。それでせっかく勢い
が出てきたのに
影を落とさないだろうか。それで遠ざかったりしない?
﹁⋮⋮生かすも何も、お前に着せたいものを作ってるんだ﹂
﹁綺斗様?﹂
﹁いいから。用意をして飯を食ってこい﹂
言われるままに部屋を出て身なりを整えて朝食を食べに向かう。そ
の間に綺斗は
工房へ行ってしまったようだけど、それはいつもの事だから。
義母は調子が悪いといって部屋で朝食、義父も何時もと同じように
挨拶はしてくれた
ものの忙しそうにコーヒーだけでさっさと出ていってしまって私一
人の朝ごはん。
﹁一人だとついつい食べちゃうなぁ﹂
モデルとして鍛えるとか言っておいて結局もりもり食べてそこまで
の運動もしない。
たぶん、綺斗が居て見ていたらさぞかし鼻で笑われただろうな。
今日の家の掃除はしっかりと念入りにやろう。昼からは久しぶりに
アルバイトがある。
440
﹁りっちゃん、お土産ありがとう。嫁さんも大喜びしてたよ﹂
﹁気に入ってもらって良かったです﹂
お土産を持ってお店に行くとふたりとも大喜びで。奥さんなんて久
我先生も一緒に
選んでくださったの?なんて大感激。とても言えない。彼は饅頭な
んてどれも一緒だ
なんていって私に全て任せてお土産屋さんに一歩も入ってないなん
て。
﹁娘みたいに思ってたりっちゃんが久我先生の奥さんになったなん
て、失礼だとは思うけど
最初は実感なかったんだ。けど、そうだよな。お嫁さんに行っちゃ
ったんだなあ﹂
﹁あはは。私全然奥さんって感じじゃないですしね﹂
﹁今はちゃんと久我律佳って感じが出てるよ。たまに先生も顔を出
してくれるしね﹂
﹁そうですか?あまり自信がなくて﹂
﹁先生もりっちゃんが可愛いもんだから一条さんが来たら特にすご
い顔で睨んでるし﹂
﹁睨む?﹂
﹁そうだ、また展示会するんだろう?嫁さんが絶対行くって大はり
きりだ﹂
﹁どうぞ宜しくお願いします。良かったら小物など見て、気に入っ
たら買っていってください﹂
﹁はいはい奥様﹂
﹁マスターっ﹂
441
そのななじゅうさん
﹁あ﹂
何気なしに見たカレンダー。色んなことがあったせいですっかり忘
れてしまっていた。
気づけばとっくに誕生日が来ていて、いつの間にか二十歳。なんて
あっけない。
誕生日といっても柊家に居た頃はパーティなんて開いたって私のた
めじゃなくて、
ただ人を呼び娘を宣伝する儀式でしかなくて、そこまで楽しいと思
ったことはなかった。
ケーキやプレゼントは素直に喜んだけれど。
特に昨日の自分との違いは分からない、ただお酒を飲んでも怒られ
ないと言うだけ。
﹁⋮⋮綺斗様、あの﹂
﹁今日も夜遅い。先に寝てろ﹂
早足に旦那様の元へ向かうが彼は忙しなく、こちらを見ることもな
く去ってしまった。
プレゼントをせがむ訳じゃなくてただ知ってほしかっただけだけど、
ここ数日は展示会と更にオーダーも積んでいて工房へ行ったきり夜
中まで戻らないか
あるいはそのまま泊りがけになる日が殆ど。この調子では今月中は
まともな会話も難しい。
442
﹁今日もあの子はこんな朝早くから仕事に出ていったのね﹂
﹁お義母様﹂
玄関で見送ってそのままぼんやりしていたら声をかけてきた義母。
ずっと調子が悪いと言って顔を見ることがなかったけれど、今日は
良かったのか
珍しく部屋から出てきたらしい。
﹁何処までも父親にそっくり。やっぱり全て無駄なんだわ。あの子
に期待しても無駄﹂
でもそれだけ言うと踵を返し去っていく。自室ではなく自身が唯一
手をかけている庭へ。
このままじゃいけないと思って私も彼女を追いかける。
話したいと思いながらも部屋にひきこもってしまうほど調子が良く
ないようだから、
ずっと何も言えないでいたけれど今なら少しは話しができそうだか
ら。
﹁待ってくださいお義母様。そんな事はありません。聞いてくださ
い、綺斗様は﹂
﹁こちらがどれだけ心配しても相手は馬鹿にしているの。理解なん
かする気もない﹂
﹁⋮⋮﹂
義母はこちらを見ず綺麗に咲いている花壇の花を眺めながら言った。
その言葉の矛先は関わりの薄い息子のことではなくて、過去に裏切
られた夫のこと
なのだろうと思うけど。それに関しては義父が悪いと思うから何も
反論はできない。
443
﹁夜、ベッドに入ると何時も思うの。もし朝になっても目がさめな
かったらどうしようって。
私はもう長くはないのはわかってる、でも死ぬのは絶対あの人より
も後がいい。
弱っていくあの人に、最後の最後でいい気味だと笑ってやる為にも﹂
﹁恨みでお父様より長く生きながらえるよりも今ハッキリ吐き出し
てしまったほうが﹂
﹁お互いに安らかな死なんて望んではいないわ﹂
﹁お義母様﹂
死ぬ間際まで恨まれ続ける。確かに義父もそんな言い方をしていた
けれど。
相手を恨み続けてその人よりも一日でも長く生きて看取る際には恨
みを吐き出すなんて。
華奢な義母の言葉とは思えない強い恨み。それと似たようなことを
綺斗も言っていた。
ずっと一緒に住んでいなくてもそういう所はやはり親子なのだろう
か。
﹁貴方を嫁に選んだのはね、若い頃の私と同じだと思ったのもある
のよ。
いっそあの人も女と死んでくれたらよかったのに。そのほうがまだ
踏ん切りがつくのに﹂
﹁そう強く思うほどお義父様を愛してらしたんですね﹂
﹁どうして男は裏切るくせに平気で甘いセリフを言ったり気遣った
り優しくするのかしら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴方の恋人もそうでしょう。優しい甘いセリフを言って、その気
にさせて。大事にして。
444
だけど平気で裏切る。あの人が一緒に逃げようとしたのは私の親友
だった﹂
﹁そうだったんですか﹂
﹁貴方の恋人も魔が差したのかしら、貴方に向けては何も残っては
いなかったんでしょう?﹂
﹁一度姉と関係を持ったそうですから。そうかもしれません﹂
結局あの日記からだって分かることは姉の無い物ねだりの淡々とし
た感情だけで
愁一さんの気持ちを紐解くことはできなかった。ただ、強引にしろ
姉と関係をもってしまったのは
事実なのだから彼が私に何も残してくれなかったのはその罪悪感な
のだろうと思っている。
それはもう過去のことでそんな曖昧な決着でもいい。それよりも義
母がマイナスばかりの私を
久我の嫁に選んだのが自分と共通するものを持っていたからだとし
て、それは私の境遇を理解し
哀れんでのこと?それともこんな風に誰にも言えなかった気持ちを
吐露したいと思っていたから?
﹁案外迫られて逃げようとして殺されたのかもしれないわね﹂
﹁まさか﹂
﹁貴方はまだ知らないだろうけど、女は追い詰められると怖いのよ﹂
それは義母を側で見ていればよくわかること。狂気と平常の間を行
ったり来たりして。
体が弱っても子どもを喪っても夫への恨みで一日を乗り切る、その
強さ。気迫。
姉の日記は愁一さんを奪ってからも幸せな文面であふれることはな
445
く淡々としたままだった。
奪ったからといってそれで愛される訳でも、幸せになるとも限らな
いということだろうか。
だけど姉はそこまで狂ってはいないと思いたい。返事は曖昧にして
苦笑いして返した。
それに今は。
﹁綺斗様は優しい言葉もその気にさせるような言葉もありません。
忙しいから何時もピリピリ。
迷惑になるならと離れようとするともっと怒るんです。側にいろっ
て。だから私はここに居る﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私は影から姉を見てきて、甘いセリフで優しく気遣われる事が幸
せだと思ってました。
なのに不思議ですね、ぜんぜん違う人なのに。私は今、それなりに
幸せですから﹂
私はここにいる。これからも、居る。つもり。
﹁あの子を愛しているの﹂
﹁⋮⋮、綺斗様と最後まで夫婦として添い遂げたいです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子どもも何れは欲しいです。久我家の跡取りとして私達が育てて
いきます﹂
﹁⋮⋮そう﹂
﹁お義母様の仰った通り私では知識不足ですから。その際にはたく
さん教えてください﹂
綺斗も忙しい日々が続いているしそう簡単には中に出してもらえな
446
いだろうけど。
まだ私には時間がある。チャンスもある。はずだから。
義母にも恨みで生きるよりももっと違う生き方をしてもらいたい。
﹁貴方は裏切られても私とは違う物を見ているのね﹂
﹁綺斗様も、お義父様とは違うものを見ています。あの人は違うん
です﹂
﹁そうね。⋮⋮、あの子を宜しくお願いします律佳さん﹂
﹁はい﹂
義母はそう言うと庭の奥へと去っていった。流石にそこまで追いか
けるわけにはいかないと
私は部屋に戻る。言いたいことは言ったつもり、それでまたプレッ
シャーをかけられたり
子どもは貴方には任せておけないという流れになるのならもっと強
く主張するつもりでいる。
けど、今後はそんな事にはならない気がしている。何の確証もない
けれど。
﹁何だお前起きてたのか﹂
そんな会話をした日の夜遅く。綺斗は帰ってきていなくて自分の部
屋で寝ていたら
廊下からガタガタと人が歩いているにしては変な音がして、眠い目
をこすって廊下に出た。
部屋に入ってしまって一瞬しか見えなかったけれど、
女性?のようなスラッとした足のようなものとそれを抱きかかえて
いる綺斗が見えた。
447
まさかお仕事で知り合ったモデルさんを連れてきた、とか?それ以
上のことをなさる?
義母にあれだけ夫婦について偉そうに語っておいてやっぱり義父と
同じでしたなんて結果は辛い。
まだ眠いけれどそんな場合じゃない、急いで彼の部屋に入る。
﹁綺斗様待ってください早まらないでくださいっ﹂
ノックもなしに戸を開けたら女性を床に寝かせている綺斗。これは
もう完全なアウトじゃないか。
義母へどう言い訳するかよりも自分がショックでその叫びの後は言
葉に詰まる。
﹁は?いいから手伝え思いの外重いんだこれは﹂
だが綺斗は淡々として、その女性だと思ったものをスタンドに立た
せる。
よく見たらそれは女性型のマネキン。
﹁⋮⋮﹂
﹁何だ今度はだんまりか?元から変なやつだが今日はまた⋮⋮、ま
さかお前
母親に子どものことで追い詰められて妙なクスリに手出したんじゃ
ないだろうな?﹂
﹁ごめんなさい綺斗様。寝ぼけてて、マネキンが女性に見えてそれ
で﹂
﹁部屋に女を連れ込んだように見えたとでも言うのか。俺にそんな
暇あるか﹂
﹁そうでしたよね、お仕事忙しいのに。軽はずみな事を言って、本
当にすみません﹂
448
寝起きだったのと昼間あれだけ義母相手に熱弁しただけに焦ったの
が大きい。
けどそんなの言い訳だ。綺斗はただでさえ忙しいのに邪魔をしてし
まうなんて、
一気に気が抜けてその場にしゃがみ込む。
﹁工房にこもりきりよりはここでも作業したほうがいいだろうと思
って持ってきた﹂
﹁そうだったんですね、ごめんなさい。
でも、ここでもお仕事をしようって思ってもらえてちょっと嬉しい
です﹂
ここは彼の実家のはずなのに何の思い出もなくて、ただ親に呼ばれ
たから居るだけの広い
スペースでしか無くて。ずっと両親とも家とも線を引いて割り切っ
て工房と行き来してきた。
有名になり忙しくなるにつれて工房に居るほうが長くなったかもし
れない。
イベントが近づけばホテルに移動するのも、街に近いのと集中した
いかららしいけれど。
この家が彼にとってやはり居心地が悪いのだろうと密かに思ってい
る。
過去の話を聞いて彼がそうなっても仕方ないと理解はしているし
仕事が捗るのならそれを優先して欲しい。
けど、旦那様が夜中まで戻らずひとり残されるのはちょっとだけ寂
しい。
﹁嬉しい?⋮⋮いいからもう寝かせてくれ﹂
449
﹁はい。ゆっくり休んでください、お休みなさい﹂
﹁ここまで来たならベッドで寝ても、まあ、構わないが﹂
私に対しては少しずつ家族として意識してくれて新しい家に移動し
ようとも言ってくれた。
だからこそ、我儘かもしれないけど少しでいいからこの家にも近づ
いて来て欲しい。
せめて朝はゆっくりできるほどには。
﹁じゃあ寝ます。綺斗様が眠りやすいように隅で﹂
﹁引っ込んだってお前の寝相ではすぐ俺を蹴り飛ばすだろうが﹂
﹁そんなことしません。たぶん﹂
450
そのななじゅうよん
久我家に来た時は義両親が恐れ多くてとにかく嫌われないようにし
ていたけれど。
こうして過去の踏み込んだ話を聞いて自分の意見を述べても叱られ
る事はなかったし
嫌われるとかもなく、普段通りの日常が戻ってきただけだった。
彼らはこれからも夫婦であることを諦めながらも表向きは何も問題
なんてないように
時には笑ったりして離れず一緒に暮らしていくのだろう。久我家の
体面とか、
自身のプライド、あるいは積もり積もった恨みを晴らす日のために。
裏切った義父が一番悪いけれど、孤独の中で心身ともに弱っていく
彼を見たら
責め続けるのも可哀想な気持ちになってしまうのは私が当事者じゃ
ないからか。
義母もそれで関係のない綺斗を嫌うのはあまりにも可哀想で。
だけどもし、私が義母と同じ立場になったとしたら?
彼女と同じように夫婦であることを諦める日が来てしまうのだろう
か。
なんて考えた所で先のことは誰にもわからない。人の心だって、分
からない。
451
﹁後はこっちでやるから、君はお仕事頑張って﹂
﹁ありがとうございます﹂
深いことをずっと考えても頭が痛くなるだけ。今日もアルバイトに
精を出す。
ご注文は何時もと同じコーヒーとお気に入りのパンケーキ。
だけど、何時も以上に緊張しながら配膳をして引っ込む。
﹁なあなあ、りっちゃん。ずーっと気になっとったんだがあの兄ち
ゃんたちはどういう人ら?
えらい凛々しい顔立ちをしとるが歌舞伎役者とか俳優かね?﹂
カウンターに座っていたオジサンたちに手招きされて近づくとやっ
ぱりな質問。
皆さんの視線は一番奥の席に陣取っている男性二名に向けられてい
る。片方は穏やかそう
にしているがもう片方は不愉快そうな顔。私が引っ込んだらもう会
話が無くてだんまり大会。
何時もなら人の少ない静かな時間帯に来るはずの智早が人の多い時
間にご来店。
仕事で時間が調整できずバイト終わりにしか来ない綺斗が今日は時
間内にご来店。
この最悪な偶然が重なって鉢合わせて、でも他の席は常連が埋めて
おり狭い店内は
ほぼ満員。どうせなら一緒に座ろうと智早に言われて綺斗は渋々座
った。
﹁あ、そっか。田野さんは知らないんだったか。片方は着物のデザ
イナーをしてる
452
久我先生。りっちゃんの旦那様﹂
﹁あんな男前と結婚したんだねえ。りっちゃんやるじゃないか﹂
﹁もう片方は一条さん。うちの密かな常連さんでりっちゃんのファ
ンだよ﹂
一瞬戸惑った私の代わりにマスターがこたえてくれた。若干引っか
かる表現だけど。
それを聞いた常連さんがニヤニヤとした視線を私に向けるけれど笑
ってごまかす。
私と智早は既に妹と姉の元婚約者からお店のお客さんと店員になっ
ているから
彼に一緒にいようと誘われたことなんてすっかり過去の話。
きっと彼もそうだろう、と勝手に思っている。
﹁何だりっちゃんあんないい男二人と三角関係かー?罪な女だねえ﹂
﹁そ、そんなんじゃないんです。冷やかさないでください⋮⋮ち、
違いますから﹂
気にすることないはずなのにちょっと焦って変な言い訳しながら奥
へと引っ込んだ。
そんな事よりも、綺斗が智早に喧嘩をふっかけたりしないだろうか。
一条家からのお仕事も頂いているからそんな自分に不利になること
はないだろうけど。
あの顔はかなり怒りを我慢している顔だ。何に対しての怒りかは分
からないけど。
﹁⋮⋮﹂
﹁まあまあ、そう怖い顔をしなくてもいいじゃないか久我君。
りっちゃん目当てに時間を合わせて来てる訳じゃないんだから。今
日は偶然で﹂
453
﹁そうですか﹂
﹁りっちゃんには振られてしまったけどこうして寛げるお店を知る
ことが出来てよかった﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁最近君たちと会うことがなかったからね、こうして話が出来るう
ちに聞いておこう。
りっちゃんとは仲良くしてる?倖人が君は愛情表現が苦手だと言っ
てたのを思い出してさ﹂
﹁普通です﹂
﹁悪くないのなら良いんだろうね。りっちゃんも嬉しそうに働いて
いるし、羨ましい限りだ﹂
﹁そうですか﹂
﹁そうそう。母がまた今度友達に紹介したいから会えないかって﹂
﹁ありがとうございます。ですが、今は展示会の準備が忙しいので
すぐには難しいです。
改めて連絡をいただければスケジュールの確認をしますので﹂
﹁それでいいよ。君が多忙なことはよく知ってる。りっちゃんも忙
しいみたいだね﹂
﹁⋮⋮ええ、まあ﹂
どうしよう大丈夫かな、でもまだ何も声が聞こえてこないから大丈
夫ってことかな?
台所で配達用のサンドイッチを作る奥さんのお手伝いをしながらハ
ラハラが止まらない。
出来ることならあの席に走っていって綺斗と帰りたい。
もう何も無いわけだし、あんな険悪になる必要は何処にもないのに。
あの怖い空気。
﹁ねえりっちゃん。久我先生ってどう?優しい?﹂
﹁優しい所もあります。でも、やっぱり職人さんなので厳しい所も
454
多いです﹂
﹁なるほど。でもそんな仕事に自分に厳しい所が魅力的だったりす
るのよね。わかるわ﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
彼は全てに厳しい。けど、最近はちょっとだけ甘くなったのは私だ
け知っている。
思えば綺斗のことは結婚してから少しずつ知っていった。何時もピ
リピリして忙しそうな
彼に聞いて良いのか悪いのかも探り探り。実家には戻れないから毎
日が綱渡り。
こんな結婚は本来失敗というかそもそも上手く行く理由もない。誰
からも期待されず。
本人たちでさえ他人事のような関係。
義母と違うのは私の立ち位置は最初から非常に弱かったということ。
﹁じゃあ配達行ってくるから。りっちゃん後よろしくね﹂
﹁はい。気をつけて﹂
﹁帰ってくるまでは絶対先生には居てもらってね?﹂
﹁たぶん、大丈夫⋮⋮です﹂
奥さんはサンドイッチを持って足早に裏手から出ていった。
残った私は台所の片付けをしてカウンターからこっそり二人の様子
を伺う。
多少の違いはあれども同じ旧家の次期当主同士だし仲良く談笑して
てくれたら
嬉しいななんて期待を持ちつつ。
﹁りっちゃん。あちらのお客さんたちにお水をいれてあげてくれる
かい?﹂
455
﹁はいっ﹂
ちょうど良いタイミングでマスターに言われて、お水を継ぎ足しに
いざ二人の側へ。
﹁ああ、ありがとう。ちょうど水がほしいと思っていたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁久我君もコーヒー以外に何か頼めばいいのに。いや、むしろ頼む
べきだ。
ここのパンケーキは絶品だよ?奥さんとマスターで若干ふんわり感
が違ってどっちもいい﹂
﹁そうですか。律佳。あと五分でバイトは終わる、すぐに出られる
準備をしろ﹂
智早は相変わらず優しい笑顔を崩さずに私の作業を手伝ってくれた。
姉の日記の話も、一条家と私の父親との取引の話は彼は知らないだ
ろうし
私も教えるつもりもない。そんな事で彼を落ち込ませるよりは、
彼の心の傷を癒やす相手が現れてくれることを願うほうが良いと思
ったから。
﹁あ。もうそんな時間だったんだ﹂
﹁本当だ。早いねりっちゃん。もしかして終わったら撮影?それと
もデート?﹂
﹁撮影は明日なんですけどね。準備があるので。あ、綺斗様、コー
ヒー如何ですか?﹂
﹁要らない﹂
二人は談笑どころか会話が成り立ってなくてやっぱりなと思ったけ
ど。
456
嫌だと思っても喧嘩はしてないからそこはやっぱり大人なのだろう
か。
いや、でも大人ならもう少しその辺をオブラートに隠すとかビジネ
スなどで
他の人にするようにして欲しいです綺斗様。
あっという間に時間が来て、言われた通りにすぐにすぐに出ていけ
るように
マスターに挨拶をして着替えを済ませて裏から出る。綺斗はすでに
外に居た。
智早はまだお店に居るらしいが、たぶんろくな挨拶もしてないだろ
う。
けど、また何かと彼とは会うことになるだろうからそれでも良いの
だろうけど。
﹁何なんだあの男馴れ馴れしい、何がりっちゃんだ。お前ももう少
し﹂
﹁あ。奥さんだ﹂
﹁久我先生!待って!久我先生ーーーー!﹂
﹁追いかけてきた﹂
﹁聞こえないふりをして車に乗れ。急発進するから気をつけろ﹂
﹁え﹂
戸惑った私の手を強引に引っ張り車にのせると凄い勢いで車は発進。
﹁あのヒョウ柄ババアは何度俺と握手したら気が済むんだ﹂
﹁今日はストライプでした﹂
﹁そんな事はどうでもいい。今回の撮影でお前が素人なりにも俺の
作品のモデルとして
どれほど意識が向上されたのかしっかり確認してやるからな﹂
457
﹁昨日は腹筋四回出来ましたよ!今日は五回に挑戦です!﹂
﹁お前のその能天気な発言は何時になったら向上するんだろうな﹂
﹁どうしたってすぐにマネキンみたいな体は無理です﹂
﹁お前にそんなものは求めてないから安心しろ﹂
458
そのななじゅうよん︵後書き︶
ラスト付近
459
そのななじゅうご
若干慌ただしくお店を出て綺斗が仕事でよく使うホテルに到着。
夜からは制作スタッフが集結して最終的な打ち合わせがあるらしい。
モデルさんなども強制ではないけれど一部は参加すると聞いている。
何時もの流れならお気をつけてと綺斗を見送り先に寝ている。
それで翌日少しでもモデルらしく見えるように工夫されプロに写真
を撮ってもらうだけ。
やはり先生の嫁という建前があるからかこんな素人でも皆さん言い
方が若干優しい。
今回のお仕事もその何時もと同じ流れになるはずだった。
でもそれではいつまでも成長できないと自分から参加したいと申し
出た。
普段着にするほどじゃないにしろ着物は元から好きだったけれど。
まさか自分の人生をかけてじっくり付き合っていくことになるとは
思ってなかった。
強いられて無理矢理にするわけじゃないし着せて貰えることは嬉し
くもあるけれど。
でも、嬉しいだけじゃダメ。
﹁綺斗様。サンドイッチ貰ってきたんですけど食べませんか。奥さ
んの美味しいんですよ﹂
﹁腹減ってるのはお前だろ。お前が食え﹂
﹁私は大丈夫です。綺斗様店きてからずっと怖い顔してコーヒーか
460
水しか飲んでなかったから﹂
お店を出る際に余ったのをちょっと頂いてきた。本来は綺麗なお皿
に盛りつけてあげるべき
だけどそんなものは持ってきてないので、丁寧にラップに包まった
のを机に向かっている
綺斗に渡した。お茶は部屋にある備え付けのものを作って置く。
﹁煩い﹂
本来はルームサービスの方がいいのだろうけど、時間がかかるなら
要らないと断られそうだし
それならすぐに一口でもいいから食べてほしい。
気に入ってくれたらまた来店してくれた時に注文してくれるかもし
れない。
自分と違い、綺斗はどこでもあまり食べない。食事の時間すら仕事
にまわしている人だから。
綺斗は静かにラップをはがし一口食べて、
美味しいとは言わなかったが不満な顔もしていないから良かったの
だろう。
私は邪魔しないように持ってきた荷物を整理して明日に備え、それ
も終わってしまうと
作品が掲載される雑誌を手に取る今までの女性ファッション誌とは
違って和装を中心にした
全体的に落ち着いたもので、なんとなく読者の年齢層も今までに比
べて上かもしれない。
撮影だけでなくライターさんと対談もするらしい。綺斗のページが
461
多いのは良いこと。
でもまた彼の嫌うプライベートに踏み込んでくるような相手でなけ
ればいいけど。
﹁綺斗様、もし私の事聞かれたらどう言ってもらっても結構ですか
ら﹂
﹁何だいきなり﹂
綺斗から少し離れたソファに座っていたけれど、立ち上がり少しだ
け彼に近づく。
すぐ側には行きづらくて少しだけ声のトーンが落ちて。
自分でも今更こんな話題出す必要ないって思ってる、余計なことを
言って彼を怒らせるのは
嫌だって怖がってるのは分かってはいるけれど。
﹁ライターの方と対談なさるんでしょう?この前のあの先生みたい
な人だったら。
そうでなくても仕事でなくプライベートばっかり探るような人だっ
たらって思って。
私達からしたらもう終わったことでも興味本位の人はやっぱり多い
し⋮⋮﹂
﹁そういえば最近大人しいなその手の連中。釘もさされたし飽きた
んじゃないか。
それに今回の対談相手はあんな暇なゴシップ記者じゃない。
少しくらいはお前の話も触れられるだろうがそこは適当に返してお
く﹂
﹁ほんと、何て言ってもらっても﹂
﹁そういえばお前何時二十歳になるんだ?来月か?﹂
﹁え?あ、も、もう二十歳なりました﹂
﹁そうか﹂
462
﹁はい。もう飲み会とか誘ってもらっても大丈夫ですよ!何が飲め
るかは分からないけど﹂
﹁無理に飲まなくていい﹂
せっかくだから相手に知っては欲しいけれど、忙しそうにしている
しそんなピリピリした中で
敢えて自分から強くアピールするのも恥ずかしい気がして言うタイ
ミングを逃していた二十歳。
プレゼントなんて今更期待はしてない、有名なお店で美味しいケー
キでも買って食べるくらい。
お酒の席に堂々と座れるし来いと言われたら行くけれど、未知の世
界でちょっと緊張はある。
ソファに戻り雑誌をめくりながら静かな時間が流れて。
﹁起きろ。打ち合わせに行くんだろう﹂
﹁⋮⋮ぁあ⋮⋮しょ⋮うでした⋮いきますっ﹂
どうもそのまま眠っていたみたいで綺斗に肩を揺らされて目を覚ま
す。
時計を見たらもう夜八時すぎ。急いで準備をして打ち合わせ会場へ
移動する。
ホテルから歩いても行ける距離にある撮影事務所。有名な会社らし
く建物が大きくて広い。
打ち合わせ会場へ行く途中に見る色んな機材にポスターやよく見る
モデルさん。
﹁あら、今回は奥様もご参加なわけですか﹂
﹁あ。ど、どうも。お久しぶりです梨華さん﹂
﹁名前、まだ覚えててくれたんだ。どうもありがとう﹂
463
そう簡単には忘れられないモデルさんも打ち合わせに参加するのか
会場に居た。
綺斗が選んだ?それとも彼女を贔屓にするスポンサーは多いらしい
からそれで?
肝心の綺斗は部屋に入るなり何やら仕事上偉そうな人たちと話をし
ている。
﹁いえ﹂
﹁久我先生は人気も知名度もあるんだから、今更もう経費削減なん
てしなくてもいいのに﹂
それって私みたいな素人モデルなんて使うこと無いのにって意味で
すよね。
わかってます、プロからしたらこんなのが混じってたら嫌ですよね。
わかってますとも。
﹁そうですね。本当に、お仕事が増えて有難いです﹂
﹁⋮⋮あらま、いつの間にやら一端の奥様気取り﹂
﹁私は妻で﹂
﹁なーにやってんの?同じ仕事をする仲間でしょ?そんな隅っこ追
い詰めて怖い顔
しちゃっていじめっ子じゃあるまいし、もっと楽しんで行こう。ね、
リンコちゃん﹂
﹁何時になったら覚えてくれるの?私は梨華﹂
﹁似たようなもんだって﹂
宗親の登場ですっかりやる気のない表情になった彼女はモデルのグ
ループに戻る。
私はそのまま隅っこに席をとり静かに始まった打ち合わせに参加。
綺斗はいつだって仕事に真剣。その顔には強い自信があって、凛と
464
している。
だから私ももっとちゃんと与えられた仕事に向き合いたい。
綺斗が求めるものに少しでも近づけていきたい。
近くに座っていた宗親がやけに大人しいと思ったらぐっすりと寝て
いた。
﹁宗親さん、もう打ち合わせ終わりましたよ。寝ちゃ意味ないじゃ
ないですか﹂
﹁⋮⋮めんごめんご﹂
打ち合わせが終わり皆さん食事会へと移動する中、私は寝ている宗
親を起こす。
綺斗も参加するのだろうか、夕食はまだだけどそんな話はされてな
い。
もしお酒を飲むにしても私はもう飲めるから参加は出来るけれど。
﹁お久しぶりです久我先生。相変わらずお仕事お忙しそうですね﹂
﹁おかげさまで﹂
それを聞こうと彼の元へ近づいたらあのモデルさんがそばに居て足
が止まる。
﹁この後の食事会には行かれますよね?良かったらご一緒してもい
いですか?
ほら、久しぶりだし色々とお話したいこととか、あるなーって思っ
て⋮⋮﹂
﹁いや。まだ仕事が残ってるから先に帰る﹂
﹁だったら﹂
﹁おい律佳。帰るぞ。そこのアホはほっとけ﹂
﹁はい﹂
465
でもすぐこちらに来てくれて、一緒に部屋を出た。
﹁俺も乗せて﹂
宗親も何故かついてきて一緒に車に乗り、途中で降りる。
ずっと部屋に泊めてくれと言われたけど綺斗に強引に降ろされた。
﹁良かったんですか綺斗様。皆さん食事会移動してましたけど﹂
﹁それにかこつけて飲むだけだ。モデルなんか呼んで、今日は静か
に飯が食いたい﹂
﹁じゃあ私の初お酒もまた今度ですね﹂
﹁お前みたいなガキはウィスキーボンボンでも食ってろ﹂
﹁美味しいですよね。あれも好きです﹂
﹁お前が嫌いな食い物なんてあるのか?﹂
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
﹁いい。我ながら馬鹿なことを聞いた﹂
ホテルに戻ってくる頃にはもう夜遅く。途中の店で食べるのも提案
したが
綺斗が面倒だと言って結局ルームサービス。
いつぞやのように何度も往復で頼むなんてことはしないで一度で終
わらせる。
﹁⋮⋮綺斗様?﹂
﹁何だ﹂
﹁い、いえ。⋮⋮どうしたんですか急に﹂
食後も何かとパソコンに向かっている綺斗。なので先に風呂に入っ
466
て、
だいぶ長くなった髪を乾かして部屋の鏡の前でお肌の手入れをして
いたら
後ろからギュッと抱きしめられた。怒って押さえつけるとかではな
く優しく。
何かやらかして実は怒らせてて後ろから首締められるのかと焦った
のは内緒。
﹁お前、打ち合わせ中ずっと必死にメモを取ってたな﹂
﹁は、はい。物覚えがそこまで良くないから出来るだけ書いておこ
うとおもって﹂
﹁お前はモデルだろう。それも最近始めた素人に毛の生えたレベル
の。
そんな制作の事までメモることはない。自分の仕事に必要な場所だ
け覚えておけ。
それでも分からなければ素直に聞けばいい、誰かしら答える﹂
﹁はい﹂
あんな隅に居たのにしっかりみられてたんだ。こっちは彼を見てい
たけれど。
気づいてないと思っていたからちょっとびっくり。
﹁だがその姿勢は良い。たとえ馬鹿でもそれを自覚し努力を惜しま
ない人間は好感が持てる﹂
﹁綺斗様がプロでなく私を選んで着せてくれてるんです、がっかり
させたくなくて﹂
﹁そうだ。お前は俺の要求に答えようと必死だ。俺の為に努力をす
る﹂
頭にキスされて優しく撫でられて、こんな優しい事をされると逆に
467
怖くなるのは何故だろう。
でも褒めてくれるのは嬉しい。これは綺斗なりの褒め方なんだろう。
前に褒めてくれって言った時も優しい言葉を一瞬だけかけてくれた
っけ。
﹁が、頑張りますっ﹂
﹁⋮⋮、お前はたまに可愛くなる﹂
﹁そう、ですか。え、たまに??﹂
﹁ああ。たまに。⋮⋮無性に可愛くなるから、困るな﹂
何時もはそんなこと言わないのに、しないのに。からかっているの
?とにかく、
耳元でそんな吐息混じりに言うのはやめてください、心臓がドキド
キしてしまうから。
どう返事をしていいものかと視線を泳がせて体が熱くなってきて。
﹁綺斗様﹂
﹁風呂に行ってくる。先に寝てていい﹂
﹁あ、あの﹂
﹁ん?ああ、今のは別にセックスに誘ってるわけじゃない。
俺なりに素直にお前に感じた気持ちを言ってみただけだ。たまには
いいだろ﹂
﹁あ、そ、そうなんですね。わかりましたっ﹂
﹁何だその返事は?まあいい、寝ろ。明日は早い﹂
﹁はいっ﹂
狼狽する私におまけとばかりに軽く耳を甘噛して風呂へ去っていく
綺斗。
その気がないのにあんな不意打ちをされたら誰だって意識してしま
うだろうに。
468
でもそれで明日寝不足とか嫌だ。私は急いでベッドに潜り込み目を
閉じる。
先生に選んでもらったモデルとしてしっかりと撮影に挑まなければ
いけない。
何もかも用意してもらい少々の失敗も許してもらって終了する流れ
じゃなくて、
素人なりにちゃんと意識を持って動けるってことを周囲の人に見て
もらわないと。
義両親、旦那様、そして自分自身のこれからのために。
他人に自分をちょっとでも強く見せようと思うなんて。弱いと思わ
れたくないなんて。
自分がこの結婚でどれだけかわったのか今更ながら驚いた。
469
そのななじゅうご︵後書き︶
その1
470
そのななじゅうご の 弐︵前書き︶
その2
471
そのななじゅうご の 弐
あんな事を言いながらももしかしたら?とちょっと思ったけれど。
夜は何事もなく、
静かにそれぞれの広々としたベッドで終了。
翌日はスタジオだけでなく季節の花々が綺麗だと有名な神社の境内
でも撮影は行われる。
その話を聞いた時から興味があってタイミングを見計らいせっかく
だから少し早めに行って
お参りをしようと綺斗に提案したらすんなりと許可が降りた。
朝食を抜くという選択肢はないので急いで食べてホテルを出る。
神社はもっとひっそりとしているのかと思ったら観光バスも可能な
ほど駐車場が広く整備され、
敷地内の花を見る散歩コースの案内看板もあった。
綺斗にマナーを教わりお参りを済ませたら社務所があいていたので
吸い込まれるように移動。
﹁やっぱり健康は大事。あ。でも仕事も大事。うーん学業は違うし
な。商売繁盛?﹂
これひとつで何にでも効くものってないんだろうか。色々ありすぎ
てどれかに絞るのは難しい。
もしお守りに確実な即効性があるのなら綺斗に山ほど持たせて御札
を体に張り巡らせるのに。
時間を確認しながら悩みに悩んでまず先に綺斗、続いて義両親にお
守りと御札を選んだ。
綺斗はお守りの類に興味なさげで少し離れた場所で縁起物の干支の
472
焼き物を眺めていた。
皆さんのお守りを選んだら最後は自分に。
﹁もういいか﹂
﹁子宝には何が効くんでしょう?家内安全?夫婦円満?安産祈願⋮
⋮は、違うし﹂
﹁お前は厄除けでも持ってろ。子宝なんて結局はセックスしかない
んだ﹂
﹁⋮⋮じゃあセックスに効くお守りないですか﹂
﹁知るか。そんな下世話な事を神様に頼むな﹂
全員の分を買い終えたら撮影の許可を出してくれた神主さんにご挨
拶をして
機材、衣裳部屋に控室として貸してもらえる部屋へ移動。
借りられる時間もスペースも決まっているし天候にも気をつけない
といけない。
少しでもスムーズに終わるように足を引っ張らないようにしないと。
しばらくしてスタッフさんやこちらでの撮影担当のモデルさんが到
着する。
綺斗はそこからはもう久我先生としてスタッフさんと遠い場所へ行
ってしまう。
﹁聞きましたよー。久我先生と朝デートなんて、ほんと仲良し夫婦
ですね﹂
﹁えっそ、そうですか?デートって言ってもお参りをしただけです
けど﹂
﹁十分デートですよ。羨ましいなあ。私もそういう人欲しい﹂
その瞬間が少し寂しく感じるけれど自分もぼんやりしている暇はな
い。
473
何時ものメイクさんに呼ばれて準備開始。他にも3名ほどモデルさ
んが居たが
あの人は居なかったのでちょっと安心。そういえば宗親の姿もない。
昨日の打ち合わせで熟睡して流れを聞いてなかったなんて事ないよ
ね?
﹁あの、久我律佳さんですよね﹂
準備を終えたモデルさんから次々と撮影場所である散歩コースへ移
動していき。
私も急いでその後に続いて歩いていたら知らない女の子声をかけら
れた。
見た感じ女子高生か大学生くらい?お参りに来た人だろうか。
﹁え?⋮⋮は、はい。そうですが﹂
﹁やっぱり!本物だっすごいっあのっファンなんです!サインお願
いしてもいいですか!﹂
﹁さ、さいん?﹂
その手には以前自分がモデルをした綺斗の作品のパンフレット。
邪魔ばかりする自分が嫌になって撮影から逃げ出して後から撮りな
おした時のものだ。
﹁はい!お願いします!私、久我先生と律佳さんのファンなんです﹂
﹁それはありがとうございます﹂
了承した覚えはなくても勢いでボールペンを渡されたのでサインす
る。
といってもそんなものしたことがないから普通に名前を書いて渡し
たら大喜びで、
474
友達に自慢してくると興奮気味に言って女の子は去っていった。
綺斗のファンなら分かるけど私のファンってなんだろう?私はただ
着てるだけなのに。
﹁おっ律佳ちゃん今日は特にいい表情してるねー何か良いことあっ
た?﹂
﹁そ、そうですか?﹂
﹁照れてる顔もまた可愛いよ!もう一枚撮っちゃおうかー!﹂
﹁はい﹂
お世辞でも褒められると嬉しいものでちょっとニコっと笑ってみた
り。
﹁あ、あの。久我先生?そんな睨んで、何か気に入らない箇所でも﹂
﹁いいえ。ただ着物のチェックをしているだけです、気にしないで
ください﹂
お参りの効果だろうか?或いは気持ちの持ちよう?何時もより緊張
もせず失敗もなくて、
今日の撮影は順調にいけそう。滞りなく最初の撮影を終え次の作品
のため控室に戻る。
﹁後は俺がやる﹂
スタッフさんたちが慌ただしく動き回る中、最後の微調整をするた
めデザインした先生
自らが私の後ろに立った。厳しい表情でこちらを見るのでちょっと
緊張するけれど大丈夫。
今日は何もミスをしていない。きちんと大きな姿見の前で調整して
もらえばいい。
475
﹁あれ。西浦先生に貰ったのは私の部屋に﹂
綺斗による着物チェック、メイクの確認、そしてかんざしがイメー
ジと違ったのか
最初のはいったん外されて赤い椿が繊細に揺れるつまみ細工にかえ
られた。
﹁これは俺が作った。形も全く違うだろうそれくらいは覚えておけ。
先生のあの作品には程遠いが、今のお前にはこれで上等だ﹂
﹁⋮⋮はい。綺麗ですね。初めてみました、新作ですか?﹂
﹁そうだ﹂
確かに色味も形も近いけれどでも違う。こちらのほうが装飾が落ち
着いていて丸みがある。
姉のイメージが強くて、死を連想させて。椿を散々呪いのアイテム
だと言っておきながら。
自分は今、旦那様に付けてもらって幸せを感じている。
椿への一方的なネガティブさが消えていったのはもうかなり前から
だったけれど。
﹁素敵です。あ、そうだ。さっき綺斗様のファンっていう女の子が
居たんですけど、
何故か私にサインしてほしいって言われたのでしてしまいました。
私のサインなんて何の価値もないのに﹂
﹁何に価値を見出すかは人それぞれだ。お前がエビやらクソムシに
金をつぎ込むように﹂
﹁なるほど﹂
﹁準備は整った。行ってこい。ああ、少し褒められたからってだら
しなくニヤニヤするな﹂
476
﹁すみません。私は姉と違ってチヤホヤされるのに慣れてないんで
す﹂
﹁だったらじきに慣れる。サインを求められるくらいお前の認知度
も高まっているなら。
柊美鶴の妹ではなく、モデルの久我律佳として人気が出てくるんじ
ゃないか﹂
綺斗の言葉にハっとする。
彼の言うとおり自分は少し前までは肩書でしか存在を認識してもら
えなかった。
でもそれで面倒も被らないのだから良いとも思っていた。寂しさを
抱えてた癖に。
そこまで過去の話ではないのに、まるでだいぶ昔の出来事のような
気分。
今はもう盾がなくても自分の力で前へ進むぐらいなら出来る。その
勇気もある。
それで目立って姉のような派手で愛される女王様になりたいわけじ
ゃない。
私は平凡でもいい、過去を乗り越えて生きていくだけ。
﹁それで綺斗様の作品の宣伝になるのなら﹂
﹁⋮⋮行け﹂
﹁はい﹂
ちょっと大人っぽい飾りをつけてもらったというだけで綺斗にガキ
だと言われていた自分が
少しだけ大人に扱ってもらえた気がして嬉しい。二十歳になったと
話したのは、関係ないか。
そんな単純な事を考えているからお前はいつまでもガキなんだとま
477
た怒られそうだけど。
再び撮影現場に戻ると最初がちゃんと出来たからか自信がついた二
度目の撮影は
さらにスムーズに進んで。カメラマンからの指示も何時もならゆる
い単純なものだが、
いつの間にか複雑になっていた。あとやたら皆に褒められて逆にち
ょっと怖い。
﹁お疲れ様です久我先生。ここでの撮影は全部終了しましたんで、
これからスタジオへ移動しますけど途中で飯にしませんかって話に
なってるんですが
先生どうします?よかったら奥さんも一緒にどっか皆で﹂
﹁すみません。少し気になる箇所があって工房へ戻る用事が出来た
ので。
妻と先に出させてもらいます﹂
﹁仕事熱心ですねー。それじゃ昼休憩も挟むんで続きは十三時から
ってことで﹂
﹁わかりました﹂
撮影を終えて控室へ向かう廊下を歩いていたら綺斗とスタッフさん
の声がした。
お昼、という単語が聞こえてきて時計を確認したらお腹が鳴った。
皆とは別行動をするらしい
けれど、まず着物じゃご飯は食べづらい。はやく着替えて綺斗と昼
食にしたい所だ。
478
そのななじゅうご の 三
﹁着替えなくてよかったのか﹂
﹁はい。もう少しだけこのかんざしを付けていたいです﹂
どれほど着物に慣れ親しもうとご飯を食べる時だけはゆったりした
格好をしたい。
あと、こぼすなとか汚すなとかマナーを守れ等々綺斗の目が厳しい
のもある。
スタッフさんたちと別行動で工房へ行くと言われた時はその前にご
飯を食べるのだと
思って脱ぐ気満々だったけれど、そうではないようなので。
だったらもう少しだけ着ていたい付けていたいとその姿のまま工房
へ戻ってきた。
綺斗がデザインした着物と繊細な細工で出来た椿のかんざし。
彼が作業場に入りあれこれしている側で姿見で何度も見てうっとり
してしまう。
﹁ほしいならやる。どうせ売り物にする気はないんだ﹂
﹁え。こんな素敵な作品なのに?でも雑誌に載ったら問い合わせ来
ますよ?﹂
﹁構わない﹂
﹁勿体無いですね﹂
でも、それはつまり世界で一つ私だけのものということになるのか。
もう一度鏡で見て、内心それが嬉しかったりして。少し微笑む。
479
﹁そういえばお前モデル事務所の奴にしつこく何か言われてなかっ
たか﹂
﹁え?⋮⋮ああ!あれですか。モデル契約しないかって﹂
﹁やはりそういう話か﹂
﹁私には磨けば光る素質があるとか、今度は着物じゃない私がみた
いとか⋮⋮。
もちろんそういうお話はお受け出来ませんってお断りしました﹂
あの調子のいいカメラマンが声をかけたのだろうか、唐突に出てき
たモデル事務所の
マネージャーが私を褒めて褒めて気持ち悪いくらい持ち上げてきて
しつこく勧誘してきた。
最初は軽く遠慮する感じで逃げ切ろうと思ったけれど、
それがいけなかったのか中々分かってもらえないようなので最後は
キツめにお断りした。
﹁俺に隠れてこそこそと何をしているかと思えば。抜け目のない連
中だ﹂
﹁着物じゃないって。綺斗様の作品の宣伝じゃなきゃ意味がないの
に﹂
なんでも着こなすような有名なモデルを目指している訳じゃなくて、
あくまで自分は彼のマネキン。もちろん少しでも見栄えがよくなる
ように体を鍛えたり
宣伝をするという意識は高く持ちたいけれど。全ては綺斗の作品の
為なのだから関係
ない所で目立っても仕方がない。
﹁女はああいう華やかな世界に憧れがあるんじゃないのか﹂
﹁華やかな世界は姉の背中ごしに散々見てきました。中心に居るの
480
がどれくらい楽しいのかも
居続けるためにはどれくらい自分を削って努力するのかも。憧れを
持ったことはありますけど
今は同じ努力をするのなら自分の家族のためにしたいと思ってます
から﹂
﹁家族?お前はその家族に金で売られたんだろう?まだ何かするつ
もりか?﹂
﹁私の言う家族は私と綺斗様と未来の子どもの事を言ってます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今はもう、お義父様やお義母様ともそこまで争わずに行ける気が
してますし﹂
義両親の間ではまだ火種がくすぶっているけれど、それが大火にな
ることはないと思う。
何かあれば強引にでも自分が割って入ってそれで距離を取ってもら
えばいい。
代わりに実の父親とは未だに連絡を取っていない。
自身にとって不都合があれば向こうから泣きついてくるだろうけど、
助ける義理はない。
﹁お前と話すと疲れる﹂
﹁あ。す、すみませんお仕事なのに気が利かなくて。二階で待って
ますから!﹂
﹁行かなくていい、そこの椅子に座ってろ﹂
すっかり普通に会話してしまったけれど綺斗は仕事でここに戻って
きた。
邪魔をするなとずっと言われてきたのに、珍しく何も言われなかっ
たから調子にのった。
けれど二階には行かなくてもいいようなので指示された通りに簡素
481
な椅子に座って待つ。
綺斗はあれこれと生地を確認したりメモをとったり忙しい。
一度集中すると私の存在なんて無くなってしまう。そこはずっとか
わらない。
﹁⋮⋮家族とか言わないほうが良かったかな﹂
始まりは最悪でもお互いの気持ちは確認しあったし義両親の事も知
った。
それで完璧とは言わないけれど自分はもう立派に家族のつもりでい
る。
でも相手からはそんな話題はない。もとより敢えて口にする人では
ないし、
子どもの事で意見の違いは浮き出ていたけれど。
勢いに乗って家族という言葉をだしてみたがやはり彼からの返事は
なかった。
勝手にそんな括りに入れるなと思っているのだろうか。怒っている
顔じゃないけれど。
それで謝るのも変だし、なにより自分が悲しい気分になってしまう
からいいたくない。
﹁チラチラ見るな鬱陶しい﹂
﹁か、かっこいいなって思って﹂
﹁ふざけてるのか?﹂
気になって綺斗を見ていたら視線に気づいていたようで睨まれてビ
クっとする。
ここはもう適当な嘘はつかないで素直に話してしまおう。
482
﹁綺斗様に家族認定されてないのかと思ったら心配になってきただ
けです﹂
﹁家族だの努力だの恥ずかしくないか﹂
﹁いえ別に。綺斗様しか居ないですし﹂
大勢の前で言えっていわれたら恥ずかしいかもしれないけれど。
私の返事に綺斗は不満そうな顔をしつつも作業を止めてこちらに近
づく。
﹁お前は家族。以上﹂
﹁そんな投げやりに言わなくても良いじゃないですか﹂
家族と思ってくれているのならそんな乱暴に指を差して言わなくて
も。
不満げな顔をした私を見てまた不機嫌な顔になって。
﹁お前も知ってるだろ俺に家庭なんてものを教えてくれる人間が居
なかったんだっ﹂
﹁私だって酷かったですから、これから一緒に﹂
﹁お前がわざとらしく家族家族煩いからだろ。お前との子どもなら
拒みはしない、
だがまだ本格的にするのは先でいいんだ俺はまだお前と二人でいい
んだ、
そんな事よりも俺はお前に⋮⋮⋮⋮お前、に⋮⋮だな⋮⋮﹂
怒り出したと思ったら今度はちょっと頬を赤らめて狼狽えた顔をし
て目が泳いでいる。
そんな一度に色んな表情をする綺斗を見るのは初めてじゃないだろ
うか。
怒鳴られての恐怖よりもデジカメを持ってなかったことをちょっと
483
だけ後悔しつつ。
私は椅子に座ったまま目の前に立っている綺斗をじっと見つめ返す。
﹁私が何か﹂
彼は私に何を求めているのか、それが一番気になる。
﹁⋮⋮お前に、⋮⋮愛されたい、だけだ﹂
先程までの勢いは一気に無くなり、消え去るような声でボソっと言
った。
でもたぶん私が聞いた言葉で合っているはずだ。
﹁⋮⋮﹂
まさかの言葉に私はどう返事をしたら良いのか分からなくて。何も
しないわけにはいかないから
とりあえず頷いて視線をそらした。愛なんて言葉、普段の綺斗から
したら一蹴するだろうに。
好きだとお互いに伝え合ってそれで済んだ気でいたけれど、綺斗が
望んでいるのはそれよりも
さらに踏み込んだ深い感情。
﹁ほらみろこんな空気になるんだ。だから嫌なんだ﹂
私が綺斗に家族をアピールしながらも愛という言葉を出せなかった
のはやっぱり自分が
その言葉に臆病になっていたのかもしれない。恐怖とか、不安とか、
あの人を思い出して。
或いは綺斗からその言葉をもっと早く聞いていたら違ったかも。
484
﹁ごめんなさい。でも、嬉しいです。私を必要としてくれて。
家族って思ってるのは自分だけかなって自信なくなってたところも
あったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁綺斗様の愛情を感じられて嬉しいです。あ、今まで何も感じてな
かった訳ではなくて﹂
私の言葉に綺斗は返事をしないで代わりにその手を私の首にかけた。
こうして彼に締め付けられるのは何度めだろうか。この先もきっと
されるのだろうけど、
力加減されているからまったく苦しくはないし、慣れてしまったの
か特に動じない。
﹁お前は俺の妻であり俺だけのマネキンなんだ。だからお前が他人
に色目を使われるのも
他人の作った物を身につけるのも許されない。ここに来たのはあれ
以上お前が持ち上げられ
て変な気を起こさないようにしたかっただけだ。あの世界は誘惑が
多いからな﹂
﹁そんな事は﹂
﹁お前は一度俺から離れようとした。何時か誘惑に負けて俺を裏切
るかもしれない。
俺の手を振りほどいて、俺の行けない場所へ。それはお前一人とは
限らない。
ならいっそ殺してしまおうかとさえ思ってしまう、これがお前の言
う俺の愛情だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なあ、律佳。こんなものは愛じゃないと思うだろう?分かってい
るんだ俺も。だから
485
何時か俺を好きだと言った同じ唇から拒絶する言葉が出てきたらと
不安になって。
そんな弱い自分なんて考えたくもないのにお前は踏み込んできて、
俺を壊していく。
どうだ、俺の気持ちが知りたかったんだろう?⋮⋮満足したか?怖
いか?嫌か?﹂
怒りでも悲しみでもない綺斗の昏い瞳が私を逃すまいとじっと見つ
めていた。
怖いと思うよりも何故か過去の話をしてくれた時の義母の顔が浮か
んできた。
やはり綺斗は容姿こそ義父に似ていてもその中身は義母に近い人な
んだと思う。
表現は控えめでも一度抱いた愛情は深く、それ故に狂気とは紙一重
で。
そんな自分自身を誰よりも理解しながらも止めることが出来ない。
最初は彼もそんな事は考えなかったはずだ。彼には成すべき仕事が
あったのだから。
そして、私と同じように誰かからの愛も家族も何も無いゼロから始
まった人だから。
それが様々な不安を抱えながらも必死に私の愛を乞う。
締め付ける力が少しずつ強まる中で、私はそっと首にある彼の手に
触れる。
苦しくて引き離すわけじゃなくて、本当に触るだけの。
﹁貴方が私と一緒に死ぬと言ってくれた時から覚悟は出来ています。
邪魔になるのならどうぞ殺してください。それまではマネキンとし
て使ってください﹂
486
﹁⋮⋮﹂
﹁でも私は貴方との心中は望まない。綺斗様には生きて欲しいです﹂
﹁⋮⋮。俺もお前に生きて欲しい。お前の唇は生きていなければ意
味がない﹂
綺斗から軽いキスをされてそれと同時に首にあった手が離れて、
今度は私をギュッと抱きしめてもちろん私も抱きしめ返した。
彼は家族になりたくないわけじゃなくて、どうしたらいいかわから
ないだけ。
﹁これからも私を愛してください綺斗様﹂
﹁お前は、⋮⋮どう、なんだ。無理そうか⋮⋮﹂
私がまだ、過去の愛を引きずっていると思っているだけ。
﹁たとえ一生エビを見られなくなろうとも綺斗様の顔は見続けるく
らい愛してます﹂
﹁例えがいまいちよく分からん﹂
﹁これでも最上級の言葉を述べたつもりなんです、けど﹂
﹁⋮⋮。いや、一瞬納得しかけたがやっぱり分からん﹂
﹁お腹空いてますしね、ここはお互いに落ち着くためにも昼食にし
ましょう。ね﹂
﹁そうだな。それは賛成だ﹂
もう一度確認するようにキスをしてから食事に行く準備をする。
私は前から置いてあった洋服に着替えて。何を食べるか頭のなかで
総選挙中。
もちろん昼からも綺斗は忙しいし、私も出番が終わったわけじゃな
いからまだ気は
抜けないけれど。大丈夫、今回もきっと上手くいく。
487
﹁終わったら打ち上げとかですかね﹂
﹁もう打ち上げの話か?⋮⋮そうだな、あるだろうな。適当に抜け
て帰るぞ﹂
﹁それからホテルで二人で打ち上げしましょう!初アルコールです
!﹂
﹁お前にぶっかけて飲んだら美味そうだな。よし。もう一泊でルー
ムサービスにしよう﹂
﹁は、はつあるこーる⋮⋮???﹂
﹁お前の初めては全部俺が貰ってやる﹂
︱︱旧家へ嫁ぐ私を待っていたのは、年上旦那様の歪な支配。
そして、
共に死ぬよりも深く激しい、愛。
488
そのななじゅうご の 三︵後書き︶
おまけ書いたら終わり
489
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n3507dn/
椿心中
2016年11月21日04時29分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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