特集 : 岩手文化考 絵を眺めるのが何よりも好きだった少年期。 歳 の 頃 に は 日 本 画 を 独 習 し、 の 後、 土 沢 高 等 小 学 校 に 入 学。 県東和賀郡十二ヶ村(現・花巻 ち並ぶ宿場町として栄えた岩手 地であり、街道沿いに旅籠が建 郎の反対によって、進学を諦め 主席で卒業するも、祖父の長次 多数残している。高等小学校を も熱中した鉄五郎は、自刻印を 同時に粉本の模写や落款作りに 伝えられる。翌年実母が死去し 気で大人しい子どもであったと 好み、武者絵に見入るような内 7歳の時、鉄五郎は土沢尋常 小学校に入学。この頃から絵を 税者だった。 は再び進学を強く志すように 長 次 郎 が 亡 く な っ た。 鉄 五 郎 1 9 0 2( 明 治 ) 年 、 進 学の障壁となっていた祖父の を始めた。 郎は自宅で勉強を続け、 なかったと言われている。鉄五 35 16 頃には、水彩画の教本で水彩画 《目白風景》 9.0 x 14.2 cm /水彩 紙/ 1905(明治 38)年頃/萬鉄五郎記念美術館蔵 釜石から花巻へ海産物を、花 巻から釜石へ米を運ぶ際の中継 市東和町土沢) 。小高い山に囲 た。長次郎は一人息子の千代吉 を失ってから、初孫の鉄五郎と まれた盆地の中にあるこの地 ) で、父・八十次郎と母・ナカの 長 男 と し て 1 8 8 5( 明 治 たことで、ますます萬家本家の 何 度 か の 編 入 を 繰 り 返 す。 私 彼の従弟にあたる昌一郎を手元 家族と親しむようになった。そ 立早稲田中学校に編入した彼 から離すことを嫌い、貴重品や な る。 翌 年 3 月 に 上 京 し、 本 は 欠 席 が 多 か っ た が、 絵 画 へ 年、萬鉄五郎は生まれた。萬家 郷区(現・文京区)に下宿。同 の 関 心 が 強 く、 淡 翠 会 と い う は、農海産物間屋を営む大地主 月末には私立神田中学校3年 絵画同好会に加入して写生会 学用品を買い与え、進学を許さ へ の 編 入 が 認 め ら れ る。 翌 月 で、同地方では指折りの多額納 には昌一郎も鉄五郎を追って に 参 加 し た り、 水 彩 画 の 展 覧 歳の 上京して同じ中学の2年に入 会に出品したりした。 《心象風景》 32.0 x 23.0 cm /油彩 板/ 1912(大正元)年頃 萬鉄五郎記念美術館蔵 14 る が、 廃 校 が 決 ま り、 そ の 後 073 《太陽と道》 24.0 x 33.0 cm /油彩 板/ 1912(大正元)年頃 萬鉄五郎記念美術館蔵 《太陽と道》 10.1 x 13.7 cm /木版 紙/ 1912(大正元)年頃 萬鉄五郎記念美術館蔵 18
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