YMN000902

Cg
ま ぢ かく ほ
一O
この序章は、現存平家物語の脾しい異本群の中にこれ
Ⅱ心も詞も及ばれれ
侍へ承はるこそ
W- ハ波
羅の入道前大政大臣早朝臣清盛公と 申しし人の
目 Ⅱ
あらう。
、
B7
の部分へ 勤 しての
しかし、増補系諸本においては、つぎに
すな は ち
@のり・ さ @
よ
a3
牽 げるや う な 異 同 がある。
とになってゐる。一、二字の小異同はいま問題にするに及ばないで
く︶しかも、普通、その本文には問題になるやう な 相 違鮎 がないこ
がない。︵勿論若一の 敏 巻本や、 小秘事として載せな い節付木は除
1
百
平家物語序章の文法と解程
﹂以下
A
@自
﹁
皆とりどりにこそありしかども﹂こ
﹁そ
:心
・も詞も及ぼれね﹂
平家物語の祇園精舎の序章の﹁遠く異朝をとぶらへぼ
はつぎのや う に三段に構成されてゐる。
遠く異朝をとぶら へば
しらざりしかば
近く本朝をうかが ふ に
4 久しからずして、亡じにし者どもなり。
5
ども
ai
3 是等は皆 菖主 先皇の政にもしたがはず::民間の愁 ふる所を
2秦の趙高、漢の王 芽 、梁の朱弄、唐の禄 出 、
ひュ
B
6承平の将門、天慶の純度、康和の義 親、平治の信頼
7 おご れる心もにけき事も皆とり。にこそありしか
ⅡⅠ目ロ
@c
0
本
く
)
本
。
の
が
の
原
に
陸
印
昔
の
村本における長門本の参考 は江戸時代以来の事と思は れるが、
の衛所の長門本の本文を注意したのほ、 恐らく 櫻痴が初 めてで
節
0本文の異同は一つの重要な問題鮎の考察のいとぐちになる。
し、これを問題としてとり上げた人は、まだな いのでな
いまとり上げた本文の相違鮎に営 熱気付いにこともあっ
ぅか 。
たであ
からつか。 櫻痴 以外にも、平家物語の異本の本文を比校 した人
問
韻
ほ
な
は
、
ら
か
ぅ
ら
AB
[
︶
、
の文脈ととら
延慶 本 の﹁ 遂 ,
亡 :﹂のや う な短かい一句を
どこにかかるであらうか。
2
::
の部分が
工 ::
AB
ココ
これは
A
︵
コ
34
ェ 、 B7 の﹁:: 皆とり。にこ
に 二つの問題 貼がある。すなは ち
B8
さらに、
c
︵
の最
そありしかども﹂の﹁ども﹂は
ても大文の 解澤 には疑問の鎗地 がな いやうに見える。しかし、そこ
ココ ﹁
ABC の三段の構成は 、 後に述べ るやう に完全にではないが、一
﹂ @@i[
唯 ある程度は整酉 された対句形式になってをり 、意味の上から考へ
必要である。
後の部分をこれに開運させて、いま 一度その意味を検討することが
旬を切り、 濁立の丈に直して
に補充して、
コ
はち 、平家物語の中心人物清 盛の序章への出し方であ
こ
.
る
す
ね
ギ
る
延
(
め
「
ど
な
ョ
王
見ゆ
道
慶
るう
レ。
く
の
補
、
付
天
。
詐
注
日
ム
り
せ
が
@
へ
を
に
延
く
年
に
ど
一
さ
" 拮
推
明
は
し
な
"
か
の
木 個 や
央平
異 本 年
を
B5
●・・・
6.
、.8
..7
實際は
B8
を 畝 いてゐるため
コ
A4 に 勤 して・長門木や延慶本 のや ぅ に コ
B8 を補充
め や う に対句の形式になってゐるが、
に 幾分不整で、
。
補充して 解澤
の不整の封 句
しないと内容上完全な封何 にならないことと開運があ る
AB
すは は ち ﹁滅んだ﹂といふ述語を
読者が、もし少し注意して 請 むならば本文を、
a ︶十 a
形式を
ズ十
b ︶十 a
B
[ 8a に 、
ぢ十
のやうに
するであらう。
B8
: 一
に補充して、本筋の主近 関係をはつき
は挿入句である。挿入句に拘泥 せず
-、そして延慶 本 の加筆の中の
滅 ⋮﹂といふ一句を
﹁遂 :
りとらへるならば、シンタツクス構造は極めて簡明な ものになる。
の述
B8
語があるためは つきりして
ゐ
C の 部 分 にはつ づか
とりどりにこそありしかども﹂が挿入句とすれば 、 ﹁ども﹂は
では、
ほの中の﹁滅んだ﹂といふ述語に直接かかり、
ない。長門木、延慶本
るが、他の諸本ではそれが少しぼめみて来る。
原文が [
B8 を 敏 くために、 不注意の卒請の場合でなく ても、ここ
0% 脈が暖味な二義性を帯びた やう なものになって 来 ることは否定
できない。
逆接の﹁ども﹂は順接の場合 程、前件、後件の結びつ きが緊密で
B
における至近関係がはつきりして シン タックス 構
さぅ すれば、
、
ス ケールが
︶
c 以下へ 文
脈七 つづくやつになって
とりどりであったけれども、
清盛に 比べると、
造ほこ乙で切れることになる。したがって、問題の ﹁ども﹂がどこ
﹁おどれる心も
にかかるかといふことは、一義的に間車に決定きれてしま ふ 。
きて、長門木や延慶木は、将門以下の叛逆者が
異なる、はるかに小さい
と解程 される 徐地 がある。これは誤りとはい ひ切れな い。原文では
たけき事も、皆 とりどり﹂であったことだけでなく、それらが滅ん
でしまうたとはっきり・述語として表現してゐるそ
。のために、この
さう い ふ文脈上の意味もよみとれるのである。
﹁::とりどりにこそあり
しかども﹂
がどこにかかるかといふことはおの づから決定される であらう。
無用のものでないなら、 ぱ、すでに述べた やう に、この 間 題の ﹁ども﹂
﹁滅んだ﹂といふ 述巨 旧の加筆が
部分の文章の論理的主述窩係は、他の諸本に比較して、著しく明瞭
になったやうに思はれる。決して、無用の加筆ではない。いはんや
[
B7
︶
文意を曲解して、文脈の展開を傍へそらしたもの ではない。
後にも述べるやうに、
いま一つ残されてゐる
鮎問
は題
つぎのものである。
2、Cの最後の部分C
、
はにも、
A4、B8に柏宮す年
。滅んだ﹂
鵬ここで
セ刀
結してゐる。作者は
ふべ
いきことをひ
い
終ってゐるっ
やに
,見える。
A語
、B、Cと述語の閲係を見る
凹町口の部分の主
逐と
語直諾は
すれば
Aは滅んだ、
Bはとりてであったけれども
Cは
、心も言葉も
及ばない
むならば、
こ
、Bも
A十a十a、B十b十︵
a︶、
C十c十︵
a︶A
︵は滅んだ
もだ
、、
その有様 は心も詞
とりどりであったけれども滅C
ん
すぎる桂然
宮なのである。
といふ意味であるこ営
と黙
は
このやうに
BC
相営重大なことであ
に﹁滅んだ﹂といふ述語を臥 、さ
、文脈 のはたらき
が 弱くなってゐることは、考へ様によっては、
C
にも﹁滅んだ﹂といふ述語をくり 返せば、
る。しかし、必ずしもさ ぅ であるとは限らない。
A にも B にも、また
文脈ははつきりするがくどくなる。作者はそれを避け るとともに、
B も滅んだ、そして
C
も滅んだ
一方では、くり返す必要を認めなかつたのであらう。
日常語では
A も滅んだ、
口語では、
ばノⅠある。
といふ形にして、同じ述語を文末にくり返すことはし
これは、日本語の丈構造ではやむを得ないことであり、
た・
だ B の部分に
覗 寛に訴へる文章の舌口薬 種 、その貼が目立たないとい へよう。
の文脈は、この最後の形式である。
Cも
そして、口語でも述語のくり返しを避ければ
C も滅んだ
B も、そして
A も B もそして
A は滅んだ、
ABC
などい ふ 形に受へられる。
問題の
﹁皆 とり。にこそありしかども﹂の挿入があり、 C の最後は﹁心も
乾 にも同様の
そのために
詞も及ばれね﹂といつて、舌口外の意味にたよってゐる。
A、
B、
CのAだけに﹁滅んだ﹂といふ述語B
が
、
C
あり、
[︵
っ,
か
。長門
何故このや
うな大切な述語が省略さめ
れ
るて
のであら
C
不注意の卒 請 では正しい文脈をとらへることが出来ないのである。
に﹁滅んだ﹂といふ述語を補なったならば、
Cは
るが、
本、延慶
本はB8に﹁滅んだ﹂とい
近語
ふを加筆しぬ
て
B8
コ
にはそれをしてゐない。結局、現存平家物す
語べ
のて
諸、
本問
は題
のこの
遮諸を趺いてゐる。
一一一一
。
清韓
一四
さぅ でなくて、むしろ清 盛の滅び
の ﹁おどれる 心 ﹂﹁たけき 事 ﹂は、それ自膿 として物語られる
のであらうか。それを語るのは、
述語を考 へるのは 営然 でなか 。
t0ぅか
古文解 樺 の一つの手段、重要な基礎作業として、一つの長い文を
を 語るのが目的ではなからりか。
にそれぞれ﹁滅んだ﹂と ぃふ述語を補充 す
で﹁滅んだ﹂といふ述語を省略したのは、強ひて
心も詞も及ばれ
c の部分の清韓に
ぬ
罰 する
心﹂﹁たけき
事﹂に批
﹁おごれる
判を加へずにただそれを遮 べてゐる であらうか。
か 。 清 盛の滅びること度外 視 して、
か 。 清 盛を英雄的人物として肯定し、讃美誠敬してゐるであらう
か。これらは叛逆者の兇悪なる行動精神 に封する非難ではなからり
﹁おごれる 心 ﹂﹁たけき 事 ﹂はその まま肯定されてゐるであらう
、句をそれぞれ 猫立の文にな ほし、句と句 との
通常に短 く逗 切って
兵 髄 的な 接績開係、それぞれの句の主 述関係などを論理的には つき
BC
Ⅰノ
:コ
・
ノ
がある。
りさせる ことが必要な場 ムロ
いまの 場合、
BC
それぞれ の旬のかくきれた主述 関係があらはになって来る。
結局、
への詞章の展開がすでに和漢の先例はとりどりで
返して ぃ ふ必要がなかつたのである。
B から C
といふ言葉は 、 決して、 清 盛を超人的な偉大な人物として讃美する
序章 A
コ
あるが 叛道者はみな滅んだことをい ひ 、 清 盛の滅びを豫告 して
清 盛も滅んだ
といふことをいふのであらうか、
き進めてはつきり二者 澤一 的に考へ る 必要がある。
いはないのであらうか。論理を突
一%c の部分、そして祇園精舎の序章の全 胆 は
が、 決して肯定的なものではない。
清 盛の行動 やその人物に 封 する驚歎である
ものではない。これは、
冒頭以来すでに、﹁諸行無常﹂、﹁盛者必衰﹂、﹁・・:遂
遂に
に
る。
序章は
﹁滅び﹂のことをいつてゐる。
{
く
亡び ぬ﹂、﹁::亡じにし者どもなり﹂と幾度も同じ意味のことを
り 返して
文脈展開士、強ひて﹁滅んだ﹂といふ難語を補なふ必要はな い位
の程度に なってゐる。
祇園精舎の序章は、ここで切れず、﹁真先祀を尋ねれば:二以下
につづくが " それほ恐らく語りものとしての章段の分割であるだら
が
﹁おごれる 人 ﹂﹁たけき 者 ﹂﹁おどれる 心 ﹂﹁たけき 事 ﹂が
くり返さ ね 、 清 盛の舌口語に絶する有様は﹁お ビ れる 心 ﹂﹁たけき 事 ﹂
う。不自然であり、本来あった匡介 とは思はれない。
さらに
であるこ とが明らかである。
物
祇園精舎の序章は、内容上、一階ここで切れる筈である。
語の主題 は 、 清 盛の悪行に 封 する 底報 であり、作品全 賠は
口
實
質
ら
コ
0 CC
切
の
つ
て
0章段名 にひかれて、軍なる平家の全盛を叙べたものとするならば
序章そのものの意味をも誤解することになる。導入部 において、に
とひ、平家の全盛を叙べてゐても、それは平家の滅亡を物語る中心
部への文字通り導入をなすものに過ぎない。
ト。㏄の 串
平家物語全膿の構成をいかに分析してとらへるかに ついてほ 、わ
たくしは、茅屋頼俊平家物語の組織国語 と国文字
によって考へたいと思ふ。
内海私蔵、山田孝雄もめ、それ以前に多く認められ てゐた 諸説に
勤 して茅屋は批判を加へてゐる。
であり 正 鴻を得てゐると思ふ。
のや
ぅ
ふ
があって @0
、それは全盛自彊のためでなく、没落、
て 全盛を叙べてゐるに過ぎない。
意味に 封 する最も大きな誤解は 、 C Ⅱの
とし
調も及ばれ れ
0人間的偉大さ、超人的英雄のもつてゐるすさまじさ 、 強
滅 亡の
に平家物語の冒頭部に平家の全盛を物語るやう にぅけと とつ
見解
放
それ
る叙述
提
つて、 それ
下
ゲ
末
尾
し
である。
な因果観によって重層的に時間を逐って構成されてゐ ると
か
序章の
﹁二代 后﹂であら f.
。@
したが
的
て
る導入部 であ
へ
な
序章は一階 C の末尾で切って考へてよい
琵琶
しかし、﹁二代后﹂以前の部分を﹁禿髪﹂の内容や ﹁官臭螢花 ﹂
に
平家物語の實質的登 端は
4bo
LC コに
め
上
と
曲
節
で
で
の
末
尾
以前の部分は大きく見て、平家物語の中心部分に封す
序章
語 "
のは
つて一億切れるのである。
0
字
章
0
むも
する驚異だけを 誼 みとって、叛逆者としての宿禰 に封 する
清席
の惨めな滅びのあはれさに、より多くウェートがかか っ て
に封
に気付かない態度である。
、そ
文脈は論理的には尻切れトンボのやうであるが、その 金肥
こと
背後に
章の
ふ べき大切なものである。
い感慨がこめられて ぬ るのである。
兄矢なふならば、平家物語 全韓の作品の意味をとら
大きな誤解 は 必至となって来るであらう。
一五
語の作者と 誼者、語り手と聴き手との間には文章の表面に
へる場
l
Ⅱノ
] Ⅱり
ー
ABC の末尾の修辞 Ⅱ
円ノ
その強く盛んであった清盛も遂に滅んでしまったのだ
現のふ
深
とい
れを
も、
家物
と
手者
調て
ど 、章段 名は 諸本により異同がある。︶に入るべき部分
﹁其先祀を尋ぬれ ば ::﹂以下は﹁忠盛 昇殿﹂︵または 殿上間 討な
平家
表序る弾さ、
の
め糾烈を
像 い
合
残
平にこ
い
@
家
あらはれない了解事項が最初あったが、そのやう な祀倉的環境が現
諸註稗書などでどんな に扱 ほれて
代 では失はれてゐるため、誤解の起ることが多いのである。
平家物語序章の問題の箇所が、
佃 常 観を基調
フ。
るか、少しばかり 具肥 的に實例について検討して見よ ,
諸註澤 書は大理において、序章の意味を要約して、
して平家の滅亡を物語るための前提となってゐると解 稚 して ゐ
日本古典 文掌大系平家物語上おおの要約の
八が諸行無常盛者必衰の道理に抗しえなかつた例とし -﹂、最近
の平清盛の運 ム叩
ほど @ 語に絶したものなかつた。
ニ 0例外を除いて、大 把 序章の大立 思を誤解し
どをその代表例とすることができる。
後に述べるが、一、
ぬ るものはあまりないともいへよう。
しかしながら、これは表面上の事であり、この序章を,つける平家
語の中心的部分は、序章そのものを正しくぅ けとめて、 このや,っ
て ゐない
冒頭に提示された主題に即して物語が展開されてゐるかどうかと
ふ 問題に 勤 しては、多くの註程書 はそれ 程 関心をもつ
、むしろ序章の主題と本文の叙事との間にはなにかギ ヤップ が あ
るやう に考へてゐる やぅ である。
一、
ノ
恐らく序章を書いた原作者が考へた程には、現在の平豪物語論
。
は、無常と平家の滅びといふ主題が本文の叙事と結び つけて考へ
れてゐないのではなからぅか
そのや う な平家物語享受理解の態度と閲係 があるので あらうか
諸註澤書の序章 ABC の部分の口語詳は 、お ぎ なりと しか思へな
逐 語辞的のものが多い。
すなは ち 、 Bc に滅んだといふ述語を補充して、序章 の意味を
けで、 原
つきりさせたものは、後に牽げるや う に、ほとんどない のである
古典の口語 詳 において、原文を逐語的に課して示すだ
には、
の部
B分
c
にはつき
にない句は鉄分に一つもつけないといふ方針も考へられる。しか
平家物語の序章のこの部分の口語詳
︵
[︵
C は 心 も 及ば
ABC の部分 を 口語 詳
﹁滅んだ﹂といふ述語を補充しておくべきではないかと田畑@か。
あまりに神経質にすぎる やぅ であるが、
て、
A は滅んだ、 B はとり。であったけれども、
しかし
め や う な文脈のつづかないものを示して、それだけで すませて ゐ
ならば、わたくしには我慢がならないのである。
それは口語詫の拙さ、不手際としてすむかも知れない。
で
8
"
い
は
。
文
し
り
@%
る
て
物
な
い
し
このや う な拙劣な口 語諾 なしてゐると、それだけですまずに、序章
の意味、さらに作品全髄の意味をとら へそこれることになる。
山田孝雄以来いろいろの説が出されてゐるが、
後にも述べる やう に平家物語 全龍の構成をいかに分析すべきかに
ついて、内海弥蔵、
正鴻を得た見解が少 いや う に思ふ。
平家物語の序章に提示してある主題を素直にぅけ 入れ、平家の滅
亡を物語る作品とし て讃 めば、 全儂の構成は極めてたやすくはつき
りとらへられる。
このや う な前提を 曄現 し、あるいは無規して平家物語を檀めば、
その金肥の意味は極 めてぼんやりしたとらへ難いものになる。
多くの論者が、平豪物語の全購の意味のとらへ方に失敗してゐる
のは、序章とそれをうげ とめる本文との関係を正しく結びつけて理
解してゐないからで はなから ぅか 。
Po4N
︶00
べ
お印
解程 するも
管見に入ったいく らかの 証澤 書の類についていふと ︵
B に 勤 して 長
平家物語
間木、延慶本のや ぅ に ﹁滅んだ﹂といふ述語を補充して
のはつぎの詔書であ 60
話詳
平家 物語要解改訂版
纂 平家物語 評程
藍田良平現代
徳
市日貞次新
稲村
他に
富倉徳次郎、小原平平家物語梗概平家物語講座︶0%ト
がある。
の文脈の展開を比較的こまかく考察した論者に、山路
ヮ に 思はれ
BC に封 していづれも﹁滅んだ﹂の睦語 を補なふもの 、これは、
つぎのただ一木しか見なかった。
柴田隆最も分り易き平家物語の解 樺 おお
ABc
概して諸説 澤書は 、序章の文脈の展開に無闘心のや,
序章
で、それをとり上げて見よう。
トの印の申
平四郎、佐々木八郎らがある。しかし、私案と異なっ た 貼もあるの
山路平四郎、雄略﹁天皇御製 歌﹂について国文 寧 研究
い,
≦己然
は、萬葉集善一冒頭の歌についての論であるが、たま たま 傍譚 とし
て平家物語の序章のこの B7 の部分をとり上げてゐる。
文法的に 、 ﹁とりどりなりしかども﹂の﹁しか﹂と
條件彩 は、どこに係るのかと吟味したところで、到底解決はつ
と 妻戸
つ
くまい。これは文法的にはど う あろうとも、 實 際には 切れてい
るのだ。平家琵琶の聴衆は 、 ﹁とりどりなりしかども﹂
ね、偏に風の 前 の 塵
て来て、琵琶をかき鳴らす、その哀切な音調を聞きなが ら、前
に 詰り聞かせられた、﹁猛き者も遂には滅び
に同じ﹂という文句を反すうして、なるほど﹁とりどり なりし
一ゼ
清盛 の柴車
かども八一様に滅んでしまったわい V という気持にさ せられ
る 。そこで一投入れて、﹁間近くほ﹂と起すから、
それとの対比から、いよいよはつきり聴衆の脳裏に浮かん
Bc
一八
の部分のシンタックスの論理的関係が、暖床 で、文脈
の特別の詞章を考へなければ絶勤に解決できないもの でもないや ぅ
である。
序章の
の力の弱いや う に感じられるのは、外面的のものであり 、これはこ
のである。要すこ
る乙
にで
、の﹁しか﹂とい
、文脈の展開が見られることはすでに述 べた通りであ
で来ようというf0
%
れとして一
80
う己然候件の係り結は、暗示のうちで解決されている。
山路のこのやう な指摘はたしかに正しい。
約 だけから来たものではなく、原作者行 長の手になる和漢 混 浩文の
自由上の制
文脈展開の幾分異常の貼があるのは、琵琶法師の語る立
などのプロソディクのものを重規する鮎から考へても、平家物語の
封句武 断層 的叙述による 褐特 のもの、修辞的、文 胆 的の ものである。
までが一つの段落となってゐる。
BC
における﹁滅んだ﹂といふ池語の省略 は、 語りも
B の叛逆者の滅びと対比して、
C
の 清 盛 の楽車 が
万 としては誤り
早になる。
り
Ⅰ
と C との間に大きな文脈の輪換があり、序章の主顕 そのもの
が、敬 ひ様のない支離滅裂の矛盾分裂をもつてゐる文士
AB
Ⅱー
ノコ
としてだけ暗示してゐない。もし山路の考へのや ぅ であるならば、
序章は、平家の滅びを述べ てぬ るので、決して 清盛 の柴車を楽車
であらう。
浮かび上るといつ てめるのは、序章の意味のとらへ
なほ 、山路が 、
の特有の詞章としてだけでは解決することが出来ない。
結局、序章
れる。
目で 請む文章として最初からこのや う な構造をもつ てめたと考へら
詞章に封 しても、そのやう な面からの検討が必要である。琵琶の伴
上代歌謡、特に人麻呂の長歌のあるものが、構成や文脈の展開に
濁特のものがあるのほ、人麿の技巧もさることながら、語誌された
といふ事實によることも多いであらう。
それらには現代の散文の論理と異なったものがある。
この序章は小秘事である。平曲については全然無知識であるが、
江戸時代の節村本によれば、中音で初まり、初重が重ねられ、問題
のAの部分も初重、Bから位 口説といふ特別に大切にされてゐる部
BC
分 となってつづけられ、c の﹁::申しし人﹂以下が下ゲ となつ
て、冒頭から
しかし、一方から考へれば、この問題の部分は、語りものとして
佐々木八郎は平家物語
AB
ココ
[[
一刀 こ 述べ
た やうに、
おまにおいて、
序章の論理を検討し
く づれてゐる。
B の終りの万で形が -
コ
﹁滅んだ﹂でなくてはな
︵
コAコ、 B が対句形式が完
らば、 B の結尾は 、
全に整へられるな一
[
そ ありけれども﹂ではなくて、
[
,
どりにこ
ふことをとり上げて
猛き人も遂には滅び ね﹂
したがって、﹁平家的語口の最初の部分は、全盛時代の清 盛
豪薔と 勇猛心とについて詰りつづけられるわけで ある。
の
このや う な佐々木の解樺は序章の意味を矛盾、分裂したものに、
にそれぞれ﹁滅んだ﹂といふ述語が含意されてゐ
ると見る万
わざ /1 してしま ふ。しかし、それよりはひしろ私案 のやりに、
BC
AB は
原文では不完全である。しかし、封旬が不整
が 、 妥営 であり、明快であると思ふ。
対句形式
であるといふことは、中途で作者の意圓が憂 つたから 生じた結果で
あらうか。
[
8としてそこへ﹁滅んだ﹂といふ述語を補充して対句を 整 へて 謹 ん
う。
つもりであったと思
の最大 的代表人物であったと断定する-
逐詩的の諾だけでは
で行きたい。
ここの序章の文章は、
嘗然 、私案の
Bはとりどりであった 、 C は言葉も 心も及ばない
となる。これでは筋が通らなくてナンセンスである。
A は 亡んだ、
まったわけである。つまり作者は初め ﹁諸行無常﹂﹁盛者必衰﹂
一九
A は亡んだ、 Bも亡んだ、そして C は こんな特別 0 人物であっ
といふ意味である。佐々木の解程では
A は亡んだ、 Bも亡んだ、そして C も亡んだ
やう に
なったものと私は考える。
同まって、そのような心理のままにこのような表現に
る意圃が一@
その前提として 清盛の ﹁著れる事 ﹂と ﹁猛き心 ﹂を語ろ うとす
びね ﹂の代表的な人物として清 盛 る取 り扱お う としたのだが、
の哲理に照らして﹁ 奔 れる者久しかも 子 ﹂﹁猛き人も遂には 減
の ﹁著れる事 ﹂と﹁猛き 心 ﹂とに重心 @ かかるようになって し
とに 意 識 の 重煕が 置かれ、さらにその意識が時移して﹁ 清盛 ﹂
ところ が、 筆を進めて書いてゆく う に ち 、﹁著れる﹂と﹁猛き﹂
とり出 して﹁著れる者久しからず﹂
作者が 筆を執って 書 kJ
ぅ とした富和は 、::最後に﹁滑席﹂を
,ないとい
﹁と
は 和漢の先例を封比させて一膳掛布,
の形式になってゐるが、
ぬる。これだけ細かい考察をこの部分に加へたものを他に知らな
て
い
昂
一二
O
の中に占めてゐる位置はそれ 程重要なものでなくなり序章は邱 覗さ
ね、あるいは 無覗 されるであらう。極端な場合には、
原平家物語に
はこのや う な序章が存在せず、作品の主題、構成、性格 が現存平家
い ふことになり筋が通らない。
出 にして、救は ぅ としても 救ひ 切れるものでない。
このやうな論理文脈の不整は、作者の意圓の中途での愛化などを
と
諸行無常、盛者必衰、平家滅亡といふ序章冒頭の主題は 、執筆の
物語と大きく異なる鮎があったといふ やう な臆測を立 てるのであ
である。
に BC
にそれぞれ﹁滅んだ﹂といふ述語を補充 し、平
佐々木八郎は、平家物語を六部から構成されてゐると
やう な見解によっては解決されないやう に思はれる。
結局、序章 Bc における﹁滅んだ﹂といふ述語の省略は 佐々木の
のもの意味を解律するために苦しい解程 なしてゐる。
けに直接結びつけて、作品全膿 との 窩連 を見なかった ため、序章 そ
は平家の全盛を叙べてゐるとしてゐる。序章の末尾を この第一部 だ
し、第一部
0% 報 といふ主題によって平家滅亡を断層的に叙事展 聞 して ぬ るの
さきに引用した参星額俊の論文が示すやつに、平家物妾 旧は、悪行
へられる 桂平家物語は構想力の散 漫 な弱い作品ではない と 思ふ。
家滅亡を物語る作品といふ前提の下に本文を讃んで行 けば、普通考
私案のや う
意味を誤解するからではなからりか。
このや う な序章そのものの存在を邨 覗し 、無規するの は 、序章の
に思ふ。
@
ハv0
そしてさ
以下にあらはれて来るのであらうか。佐々木はいづれを 考へて ゐ
かはっきりしないところもある。
一% 、大切な主題が、冒頭の柏 営 意匠をこらした文章、
大して長い文章でもないこの序章の途中でそのやう に簡革 に愛 づ
しま ふ であらうか。
序章冒頭の部分に、無常と因果底報の二つの立場の矛 盾分裂があ
ネ
@
Ⅳ
ト。
とか、その他いろいろ論があるが、果してさぅ であら,ハン
序章の冒頭から ABC まで、序章は全肥としてなにを いはぅとし
ぬるであらうか。序章の意味をいかに鮮麗するかとい ふことは 作
全 腫の意味の う けとめ方に無闇 係 ではない。序章は序章 としてそ
だけで 解樺 すべきでなく、 営然 それを本文がいかにぅ け てゐる か
い ふことが問題になる。
序章そのものが、矛盾分裂を含んで ぬるし、また序章 と 本文との
びつき、 照底閾係は、平家物語においては、それ 程緊 密 に行はれ
ゐないといふ見解も示されてゐる。その場合には序章 の平家物語
しかし、これには實澄的根接がないや う
中で一時消えたのであらうか。あるい ほ 一時消えて、 ま た 、第二
理
部 途
る
ぅ
て
て
占口
れ
と
て 結
序章冒頭から ABC の末尾 に至る部分の解 樺は 。原文を離れて主
観的窓意的な諭はいかや う にも嶌されるが、原文に即して、忠賞 に
たやうに、中心人物清盛 ないかに登場
意味をとらへ、文脈の展開を辿る時は、私案以外のものでは断じて
あり得ないと思ふ。
そして、これは冒頭に述べ
させるかといふ重要な問題に結びつく。
ある江澤書を見たら、つぎのやうな見解が述べてあった。すなは
ココ
ち和漢の叛逆者を多く列撃し てその滅びをいつてゐる AB の部分は
諸行無常をい ふためには適切 であるが、 清盛 といふ無類のわがまま
しかしこのやうな見解は意外に多いや
ものを登場させるための導入部としては疑問であるといふのであ
る 。これは一例にすぎない。
ぅ である。
このや う な考へを、もし極端 に進めるならば、平家物語を無常観
を基調にした平家滅亡の物語と見ずに、少くとも平家物語の中の 一
部分は、 清盛 のわがままを えがいた物語として、清盛の人間性に非
常 な興味をもつて 誼 むことに なるであらう。勿論、平家物語の一部
分 にはさういふところもある。しかし、作品を部分的に讃 むといふ
ことと、作品の全儂の意味をとらへることとは、ある場合には全然
別の事であるといつてもよからぅ。そして、どちらが作品の埋格を
ツ
ハカ
ノ。
とらへるのにより重要であら.
平家物語は、 清盛 といふ無類のわがままものの物語であらうか。
さぅ ではなくて、そのやうなわがままものの滅びの物 語 である。
ABc
の文脈展開が分らなくなってしま
ふ 。これ
平家物語を清 盛といふわがままもの、特異の一人物を書いた物語
とすると、序章の
以前の部分に﹁諸行無常﹂、 ﹁盛者必衰﹂
までを、バラバラに切ってしま ふやう
な請
に和漢の叛逆者を多く列拳し てゐるかが 分
ABC
AB
ABC
ふ。
では何故、序章冒頭、
がいはれてゐるか、
らなくなってしま
序章の冒頭から
み万をしてはならない。それは切らずに一つづきに請むべきもので
ある。
、 AB
和漢の叛逆者の滅亡、そして最後に C清盛 の滅びである。
無常、盛者必衰、おごれる人たけき者の久しからずし て 滅びるこ
と
いろいろ見解の分れるところであるが、
山 逼迫
5
トの
㏄の目口
Ⅰ0町の目
平家物語の全趨の意味の う けとり 万、作品の性格 の 解 程につい プL
は、
平家物語の主題
清 盛の悪行底部物語
天理大宰 牽報豹
平家物語の基本的構造と清盛の人間像
一一一
平家物語の無常 槻と 現質肯定
・
て
天理大孝 孝報 ㏄
などにおいて述べたりう に、平家物語は 、
といふ やう な作者の心を大きく打つた根元的な感慨
ら、
人生は無常である
な
といふイデーをよみとり、これらを基調にしてつく
ト
る
る。
そして、人生は無常といふ買埋に疑念を抱かしめ
この世に絶対的なゆるぎない権勢をう ち立てたかに
螢華の人があっても、結局、それは一時的のものに
いことの澄明として、平家の滅亡を語ってゐる。
しかも、 清盛 の楽車 が、政治的道義的に支持肯定
悪行、すなは ち 、王法、 佛沃 に 封する破壊的暴行に
きを 夫 なひ、その悲惨な死が決して非業ではないこ
も 罪業の礁 軸 であることを語ってゐる。
平家滅亡の顛末を語る平家物語のあらゆる具肥的
口 Ⅱ
ヒ
あり、
め
記紀、萬葉集などに は、上代人特有の自然 観、宗教的態度が見ら
やうな根本的な中軸によって動因を興へられてゐる
けり
あのや う に強大であった平家も結局滅んで
の
まうた
ぅ
Ⅱ
九
@口
れ
た
そ
の の
で 細
あ
目
あ
一一一一
れる。上代文畢の理解の篇には、その鮎が補強調されすぎるやぅで
ある。平家物語の場合には、逆に作品の中の佛教的のものがそのま
まにとらへられず、歪曲され姻親される否定的面が強く、それと対
立する人間肯定的の幾分近代的の半面が重規されるやぅ である。
さきに華げた菖稿の第二において、すでにとり上げたのであるが
において、
永積宏明 は、平家物語における1宿盛 ︵日本文畢の理想像︶日本文
田子ト
。
雙Ⅱ 圭
平家のほろびを代表する人物であり、したがつて平氏の悪
行を集中的に表現するように設足 された清盛が、それにもかか
わらず、巨大な英雄的人物として設定きれた秘密、
あるいは
作者の個人的な構想力をこえて、か へって、 たえがたい業
苦 にたえ、ついに初志をまげようともしない強裂 な人物像とし
て造型せられること
の原動力を、康平家物語以前に世間にすでに行はれためた琵琶法師
の語りの中の清感懐に求め、これを愛車斯 の計曾集圃の中に自然的
に形成せられたものと考へる。
永積の考へによれば、涼平家物語が行長といふ知識階級出身の 一
個人作者の創作としても、作品はこのやうな民衆的な語りに媒介せ
られて形成されたものであるから、その本文はもとよ り、冒頭の序
清盛 はさいしよから偉大であるとともに憎むべき、
はしめる恐れがある。奮稿 にもすでに述べたやうに平家物語の序章
叛逆的行動に封する批判、その悪行底報の滅びの方を脛親し、見失
さへも、その半面の、しかも作品の主題にとってより重要な清盛 の
た力の持ちぬしであるとともに、その反逆的行動のゆ えにほろ
または本文において清 盛を古代叙事詩的な英雄的百在 と見、清盛 の
章 においてすら
びなければならぬ人物として、つまり二つの矛盾を一身にに な
人間的な偉大さが讃美穂歌せられてゐると解樺する のは作品の忠賈
常 凡 をこえ
つだものとして登場する
な請み方ではない。
平家物語の中心人物清盛 がどんな出し万で、作品の中へ最初に登
ことになる。
場きせられてゐるか、そして、序章と本文との間にはどんな照焦が
ぬる
べ 6
部分と、
の最後の清盛の滅びを いふ C、この二つの中間にはさまれて
C
にあらはれる 清盛は
、
AB
の叛逆 者たちとまる
において。作者は何故和漢の叛逆者の例を多く列聖して ゐ
るのであらうか。
︵
AB
[
ココ
ABC
序章の
っかの解答が出て来るであらうか。
コココ
ABc
に先行の部分冒頭の無常盛者必衰を遮
薦 きれてゐるかを問題にする場合、柏互に矛盾対立するやうないく
永積の説は二者 澤 一の極端なものでなく、序章や本文の理解の下
偉大であると
に 二面性を認めて めるのであるが、なほ清 盛の人間像 の矛盾を強調
し 過ぎてゐる やぅ である。
清 盛の人物像には二面性がある。しかし、それは、﹁
そ の反逆的行動
ともに憎むべき﹂ではなく、﹁偉大ではあるけれども憎むべき﹂で
あり、﹁官札をこえた力の持ちぬしであるとともに、
のゆえに滅びなければならぬ﹂ではなく、﹁常礼をこ,
えた力の持ち
C
AB
の清盛 だけが﹁心も言葉も及ばない﹂ 強
の叛逆者は皆はかなく滅されてしまうた
で関係のない、その偉大きを讃美せらるべき英雄とし て登場して来
ぬしであるにもかかはらず、その反逆の故に滅びなけれぼ ならなか
か 。また
るのであら
常 、盛者必衰の部分も
c
の部分は不要である。恐らく・冒頭の無
とスムースに結びつかないで あらう。
もし、 さう なら。 ぽ 、 AB
ココ
太さ、その柴車が物語られて ぬ るのであらうか。
ことを述べて ぬ るのに、
@r,
つた ﹂人物である。細部的表現にあまりに拘泥するや,
っであるが、
二面性は﹁:・ともに:・﹂といふ対等の開係 でなく、 ﹁:・・であ
るけれども、::であるにかかはらず﹂といふゥェ一
に 軽重の相違がある。
梢 控へ 目 の永積の発言
この序章なり、平家物語で清盛の ﹁偉大﹂﹁常用をこ えた力の持
ちぬし ﹂であることを強調することは勿論、
一一一一一
最近の平家物語論には、この鮎に閲する誤解が多いの で、念を入
二四
講明きれてゐることを認めずにはをられないであらう 。これ以外の
清 盛の人間像のもつ二面 性は、 ﹁:・
と
ともに﹂といふ同時的の軍純 な樹立であるならぱ、二両性に矛盾が
解澤 はあり得ないのである。
清 盛も叛逆者的な共通貼ももつてゐるが、その強大さにおいて類
認められるが、﹁:もあるにかかはらず﹂の作者の立 場 がより高い
れて検討を加へる必要が認められる。
を絶することに作者は驚異を感じて ぬるのであらうか。作者は清盛
次元の複ムロ的場合には、矛盾は解消するのである。
平家物語の中心人物である清盛が 、作品の中へ最初に どんな形で
物語の中心人物 ゴ窯0のは、平仲、 祀人、英雄な
どの意味であ った︶として祀讃し誼敵してぬるのであらうか。ある
登場させられてゐるかといふことが、はたして正しく理解されてゐ
を英雄︵詩 、劇
いは恩報 によ つて滅びる憐れむべき叛逆者の一典型としてとしてゐ
るであらうか。
の
序章の書き方は、渥美かをるが、平家物語の基礎的研究
にい ふや,フ
にある意味において順序が逆である。
それは、結局、清 盛 のことを述べるのであるが、
︶の
先ず﹁諸行無常﹂の鐘を鳴らして開幕し、次第に見世 的にしぼ
よ いよ最後ににの 清 盛の登場になるのである。したが つて、情感 は
封旬 があり、
のである。いきなり序章は平家滅亡の事を述べず、
つていく
る。
封
営然 滅びる人間として 讃者に提示されてゐる。すでに 述べた やう に
諸 行無常以下の
め
0% 台にあることが、預言され、また、過去の事實と して
び
へてゐない 解
におい
Aて
B和漢の叛逆者の先例を多く列牽 して、 い
か
盛
コ
@
よ
@@
Ⅰ@
ら C への文脈の漸 層的 展開のつながりを注意するなら じ
佛
が叛逆者の中の最大な兇悪者として、しかもその強大 な擢
する破壊的 暴牽を敢へてした悪行者としての批判はそ れを
あ
現代の平家物語論にはこの貼に閾して疑問を抱かしめ るものがあ
るのであらうか。叛逆者であるにもかかはらず、 清盛の人間的の偉
太さに作者は墨倒されて ぬ るのである か、叛逆者の中の最大、最強
のものであるにもかかはらぶ
9、それが ほかなく滅んだことを語るも
のであらうか。作者は清盛の人間のどの面に最も重 難をおいてえが
いて め るのであらうか。
肩癖のもつ二面性をある程度認識したかも知れない。しか
てゐ
し
る。作者の無常観、清盛 に封する叛逆者的な取扱 ひ 、王法
法
中ではその一方だけに極めて大、さくウェートがかかつ
は
る
示
コ
勢口 C
oN
解といふべき るが、作品全肥を支配してゐない。それらは作者の展望の中に一 %
澤があるが、それは、作品讃
のみ
忠
方賢
でな
なく誤
、
入ってゐるが、作者が積極的にそれらのものを肯定し支持してゐる
であらう。
とは考へられない。反射にそれを否定するのが作者の立場である。
6
永積
宏明は、中世文事の成立岩波請座日
尊本
史
文 中世
このや う な作者の主 麗的な主題意識、作品成立の状況などと考慮
、
い
つい
とて
短は
くも
ちお目において、序章は原平家物語にお
現り
在か
の、
序章 に入れなければ
きなり
清盛のことをひ
い
出したものでなかつたら
葉
A は亡んだ、 B はとりどりであったけれども、
C は @ロ
@ :心も
なへ
長ら
いれ
も、
の
の詞章は琵琶法師の語りによって彫琢複
が雑
加
、
になったのではないだらりかといふ臆測し
をか
立し
てそ
てゐる。 及ばない
といふ やうな文章は非論理的な 辻 棲 め ムロはない表現になってしま
の場合には
清、
盛
ないかなる人物として提出したであ
ふ 。このや う な 舌 たらずの妙な原文の表現が、なんのさ
清 盛の滅んだことを直接いはないのは、
こ め やう な
なく、スムースに ぅけとられてゐたのは、平家物語は平家滅亡の 物
あ滅
っ亡
たの
思
と物語で
わたくしは、平家物語は、最初から平家
ってゐるし、序章の詞行
章
長は
の、
原平家物語以の
来と
の思
もって 語 であり 清盛の死が悪行産報の故であり、決して非業 ではないこと
を前提として知って ぬ たからである。
ぬる。
c の部分で、
は皇
古代的
菖貴族であ慈
る
回や
兼實などの側に立っ。
そ室
れや大寺 場面や前提が文脈として大きくはたらいてゐるためで ある。
王法、
佛沃に
院によって保たれ
たて
植
威
ゐや秩序によっ
清て
盛、
を
平家物語はつぎのや う にして 讃むべきである。すなはち 序章 B8
対する反抗者、そしてその悪行の店報と
を得た敗滅者 uはの部分に﹁滅んだ﹂といふ述語を補充し 、平家切妻 山は平家の滅
衆的
それを教化的な手段とする。人間中心、
現世
賓俗
主的
義な
の民亡 さ叙 べたと作品であるといふ前提に立つて、作品全膿を忠賞 に作
者、
のウエート 見 に即して 讃 まねばならない。 きぅ するならば、おの つから、作品
語りに媒介せられた封
そ立
れ
すと
る半面もある
後が
0% 格は決定されて来るや う に思ふ。
は非常に大きいとはいへない。
込品
まの
れ中
てに
ゐとりたとへば 、陳平家物語のもつてゐる枠数助教識的態度 の 濃淡に 封
民衆的、世俗的なものもある程度まで作
二五
平家物語論
つ。
する見解には 封立 があるや ぅ であるが、その結論は、決 してそれを
、無覗 しょうとする
ゼロに近いや う に見る極端なものとはならないであら,
ある傾向の佛教的のものを 脛硯し
では、序章冒頭から ABc の末尾までの文脈の展開が 正しくスムー
スに解程出来ないの である。
清盛が 登場し
最初、諸行無常、盛者必衰をい ひ出し、和漢の叛逆者の滅びを 列
畢した後で、大した理由もなく、突然文脈が愛って、
その偉大さを驚歎するだけで、もしその悪行鵬報 による惨めな滅び
を考慮に入れないと するならば、 AB と Cとの間に救ひやりのない
甚しい文脈の断絶が 生ずることになる。
このやう な解程は、私案に比べて著しく妥営 性を快く。
結局、序章の佛散 的無常観を基調とする 清盛の滅びは、平家物語
る佛教的致誠的態度 を排除し、古代英雄叙事詩的のものと見る論者
には、なくもがなの邪魔物である。これを誤解し、あるいは脛覗 、
無硯し、さらに康平豪物語には序章はなかったであらりと ぃふ臆測
を立てる一つの動機 ともなるのである。
中
さきに畢げた別稿 の中の最後のもの平家物語の無常と現 實 肯定
において、それらに ついて批判を加へた。
平家物語は 一00 パーセント古代英雄叙事詩的のものでない。
世的第二次的のもの である。そして涼平家物語以前の民衆的世俗的
二木
な語りにおいてすら件数的哀感が基盤に存在したであ ろ う。