教育と蓮田ー新市指定文化財記念展示ー 作法、清潔、清掃など生活上の細かい点まで、子どもた て お り、同 時 期 所在地 ( 江戸期村名 ) 師匠の身分 師匠名 ーはじめにー 屋に入門していたことがわかっています。また、同時期の ちへの愛情を持って指導したと言われます。寺子屋で築 のロンドンの 川島村 1790 1866 年 子から大人へと成長する過程には、いろいろな学びがありま 蓮田市域の井沼村でも、男子に限れば約 80%が寺子屋に かれた、師匠と弟子 ( 生徒 ) との関係は一生続き、師匠は 20 %、パ リ の 通っていました。 慕われ尊敬されたようです。その証拠に師匠が亡くなっ した す。現代では、様々な教育の場が設けられており、私達は将 ぼ 来進む道を自分達で選ぶことができますが、過去にはどのよ 寺子屋はまず、江戸や京都などの大都市で増え始め、18 うな教育の場があったのでしょうか。 世紀頃から農村や漁村にも広がっていきました。 『日本教 かに超えていま こう てい ふで こ 今回の展示では、新たに蓮田市指定文化財となった「筆子 づか 気持ちを表しました。墓碑では弟子たちのことを「孝弟」、 ひっ てい 2 10%未満をはる ひ た時には、弟子たちが師匠のために墓碑を建てて敬愛の 1 か 3 えい し た。嘉 永 6 年 4 育史資料』( 明治 23 ∼ 25 年 (1890 1892) 文部省刊 ) によ 「筆弟」、「筆子」などという言葉で表しているため、こう (1853) に黒船で ると江戸時代の終わりには全国に 16,560 軒の寺子屋が した墓碑を「筆子塚 ( 筆子塔 )」と呼びます。蓮田市域に 来航したアメリ 5 ともに、これらの石碑が建てられた江戸時代から昭和20年代 あったとされています。埼玉県では昭和 40 年代に行った までの時代を中心に、日本全体の庶民教育の歴史や、蓮田に 調査の結果、県内に 828 軒の寺子屋と 1,120 名の師匠の存 もこのような墓碑が4基確認されています。 新指定文化財紹介 筆子塚 ( 筆子搭 ) 6 カのペリーは『ペ ルリ提督日本遠 7 なんこうふでづか ひ はどのような教育があったかを見ていきたいと思います。 在が確認されました。資料がなくなっている所も多数ある ことを考えると実際には 1,000 軒を超える寺子屋があった 【庶民教育の歴史と寺子屋の普及】 武 士 生沢金斎 江ケ崎村 1792 1863 年 僧 侶 南江 駒崎村 (1863 1870 年 ) 農 民 岩崎誠次郎 井沼村 (1815 年以前) 僧 侶 紋貽 井沼村 (1823 年以前) 僧 侶 玉温 井沼村 (1840 1864 年) 農 民 栗原清五郎 根金村 1839 1893 年 農 民 内村兼吉 閏戸村 1810 1888 年 備 考 慶応 2 年 (1866) 建立 顕彰碑 元治元年 (1864) 建立 筆塚あり 筆子塚 栗原清五郎の弟子。年末年始・節 句に金銭で謝礼 おしろい花が咲くと、 学習をはじめ、閉じると課業終了 文化 12 年 (1815) 建立 天満宮あり くろ ふね ふで こ けんしょう ひ 塚 ( 筆子塔 )」 ・ 「顕彰碑」と称される5つの石碑を紹介すると 生没年( ) は開業時期 【南江筆塚碑 元治元年(1864)】 征 記』の 中 で、 南江(慶学)は、本山修験の寺院である南学院の第12代の僧侶で、 絵画を中心に多くの門人(教え子)を養成した寺子屋の先生です。 日本で本が安く 8 不 明 都野茂重郎 上平野村 1805 1854 年 僧 侶 天 禅 文政 6 年 (1823) 建立 天満宮あり 盆・暮・節句に謝礼 教科書は師匠が書き与えた 師弟間は親しかった 栗原清五郎の弟子 学制頒布後閉塾 9 暮・節句に謝礼 時々座禅をくませた ①庶民教育の始まり と思われます。 文久 3 年 (1863) 、70 歳で亡くなりましたが、教え子達が師の死 を悼んで遺筆を埋めて碑を建 大量に売られて 子どもを含めた庶民教育の場は、江戸時代に盛んになっ ③寺子屋の教育 立しました。碑は遺徳を称え、 いることに驚き、 「教育は同帝国至る所に普及して居り」と、 とう ざん 功績を世に知らせる顕彰碑形 式となっており、碑文による 教育が行き渡っている様子を評価しています。これはたく と南江は、年若い時から書や さんの庶民が寺子屋で学んでいたためと思われます。 絵画をよくし、この郷土地域 一帯に「風流の盟主」と称え ⑤蓮田の寺子屋 た寺子屋が有名です。当時は士農工商の身分制度があり、 はん こう てら こ や 教育の場も、武士は藩校、武士以外の人々は寺子屋と区別 寺子屋に入門することを「登山」 、 げ ざん やめることを「下山」、現在の「新 はつ とう ざん されていました。 入学」は「初登山」と言いました。 「寺子屋」の名は、鎌倉・室町時代に寺院で読み・書き・ 寺子屋に入ると最初は「いろは」 そろばん 算を教えたことから生まれたといわれています。鎌倉時代に法 の手本を見ながら書き写す「習 律が整備されると、地方武士達にも土地の証文等を読み内容 字」を通して、文字を読むこと を理解する必要が出てきました。このため武士達は自分達の を覚えました(写真 1) 。内容は 信仰する寺院の僧侶に教えを請いました。これに加えて戦国 次第に高度になっていきますが、 時代には、 力を持った庶民も読書きの必要性を感じ始めました。 寺子屋で広く使われた教科書に、 てい きん おう らい 写真 1「初登山御手本」より じん ごう き 『庭訓往来 )』 (習字・手紙)、 『塵劫記』( 算数 ) などがあります。 め、人々に仏教などを信仰させようとしました。そのため、 『庭訓往来』の「往来」とは手紙のやり取りのことで、11 だん か 庶民は寺院の檀家 ( 一定の寺に墓地を持ちその寺を援助す 世紀後半に実際にやり取りした手紙を習字の手本としたこ る家 ) となって仏教を信仰していることを証明してもらい、 とから、 一般に教科書類を「往来」と呼ぶようになりました。 同時に子どもたちの教育を寺院にお願いするようになりま 全 国 で は 7,000 種 した。その結果、僧侶以外でも読み・書きのできる人、また、 類ぐらいの「往来」 それを教える人が出てきました。こうして、寺子屋のような があったと言われ 庶民のための私設の教育機関ができていったと考えられます。 ま す が、こ れ ほ ど ②寺子屋の普及 種 類 が 多 い の は、 師匠が子どもたち 江戸時代に入り、平和な世が続き産業が一段と発展する ちょう ぼ の教育内容に合わ と、お金の計算、帳簿の記入、名前や住所を書くことが庶 写真 2『庭訓往来』 民にも必要となってきました。社会全体がこのように変化 してきたために、子どもを寺子屋で学ばせようとする親が せて自分で教科書 を作ったことに加え、 『商売往来』、 『農業往来』( 産業 )、 『東 し しょう 増えていきました。寺子屋の先生は師匠と呼ばれました。 海道往来』、 『川越往来』( 地理 ) など様々な分野の教科書 師匠へのお礼は様々で、お金のほか、米や野菜、半紙など が作られたことが理由です。 られ、その門人(教え子)は 五百余人もあったと記されて います。撰文 ( 注 ) は、加倉 村(さいたま市)のお寺の住 職です。なお、南学院は代々 埼玉県では、江戸時代の初め (17 世紀初め )、寺子屋の の僧侶が寺子屋を開いていた と伝えられ、南江の後も江ケ 崎学校が開設するまで引き継 がれています。 特に江戸時代の終わり頃には農民出身の師匠が急速に増え 師匠は僧侶が多かったのですが、18 世紀中頃から武士、 村役人、農民など様々な身分の人が師匠となっていきます。 ました。これは寺子屋で学んだ人々が師匠となる例が増え 写真 3 南江筆塚碑 を渡していた例もあり、特にお金持ちでなくとも子どもを たからだと考えられます。 しょうれい どう 【生澤金斎翁之碑 慶応 2 年(1866)】 「生澤金斎」は名は信直、金斎と号して、奥州磐井郡長坂村(岩 手県一関市)の出身です。川島村に移り住んだ理由は不明ですが、 この地の関根氏に託して寺子 屋を始めています。碑文には、 井沼村 ( 現在の蓮田市井沼 ) にあった寺子屋「松齢堂」 の師匠、栗原清五郎もそのような農民出身の師匠であった ようです。当時の井沼は貧富の差が少ない村でした。安政 3 年 (1856) から明治 6 年 (1873) において、井沼村の寺小 通う児童は数百人もあったとい う われ、倦むことなく(飽きて疲 れることなく)人に教え、 財貨・ 権勢を顧みない優れた人格者 屋へ通うべき年齢の男子 31 人のうち、26 人が松齢堂で学 んでおり、他の地域の寺子屋に比べて高い割合です。地域 であったと記されています。 金斎は 77 歳で亡くなりま したが、碑の撰文と書は黒浜 村 出 身 の 門 人(教 え 子)で、 雅山と号していた大野雙湖で の人々にとって 気軽に入門できる寺子屋だったのでしょ す。雙湖は師匠金斎の手伝い を し た 後、篠 津 村(白 岡 市) で嘉永5年 (1852) より明治5 が 281 人と圧倒的に多く、女子は 24 人 ( 約 8%) でした。初 年(1872)まで、寺子屋を開 いていました。 てん ぽう ぶんきゅう う。松齢堂では天保 11 年 (1840) ∼文久4年 (1864) の 25 年間に、延べ 305 人の生徒が通っていました。そのうち男子 登山の年令は男女とも 9 歳頃 ( 数え年 ) が一番多く、男子は 3 ∼ 6 年、女子は 3 年くらい通う人が多かったようです。 写真 4 生澤金斎翁之碑 松齢堂の他にも蓮田市域には 8 軒の寺子屋があったこと ( 注)撰文;石碑などに彫り込む文章を作ること がわかっています ( 表 1 )。そのうち、駒崎の寺子屋師匠 岩 しき じ いくさわきんさいさいおうのひ 江戸時代になると、徳川幕府はキリスト教を禁止するた 表 1 市内寺子屋一覧 りつ ④世界一の識字率 ー江戸時代の日本ー 崎誠次郎と根金の内村兼吉は共に栗原清五郎の弟子でし 寺子屋の師匠は現代と同じように、教科書を使って読み・ 識字率とは「字を読んだり書いたりできる人の割合」 た。また、「南江筆塚碑」に記された南江が師匠であった 書き・算を教える一方で、子どもたちの生活指導やしつけ です。19 世紀中頃の江戸の寺子屋生徒数から考えると、 南学堂は、場所や師匠の経歴などがはっきりしていて、使 にも力を入れました。生活時間、学習習慣、通学途上の注意、 識字率は江戸では 70 ∼ 80%ぐらいになります。当時の日 われた教科書類も保存されており、当時の貴重な資料を伝 本では国全体でも男性 40 ∼ 51%、女性 15 ∼ 21%に達し えてくれています。 ひがし 寺子屋で学ばせることができたようです。現在の滋賀県東 お う み 近江市は、「近江商人の村」という特殊な地域ではありま む したが、江戸時代末 (19 世紀後半 ) には村民の 91%が寺子 だ づか 無駄遣いの禁止、火の用心、友達づきあい、来客に対する しゅう げん じ けい ふく じ 4月に閏戸学校が秀源寺に、同年6月には蓮田学校が慶福寺 【学校教育の始まり】 きざ 少ない予算の中で、教員の確保が第一優先であったことがう 石碑に名前を刻まれた人々の ①学制公布ー小学校開設へー に、黒浜学校が真浄寺に開校されました。同じ頃、寺子 かがわれます。 みならず、多くの人々により 明治元年 (1868)、徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生し 屋南学堂より引き続き江ヶ崎学校が設立されました。さ 義 務教育の制度が定められて 20 年経った明治 25 年 蓮田の教育は支えられて来た ました。新政府は日本を世界の大国に負けないような近代国 らに明治9年 (1876)4月には上平野学校が平源寺に設立さ (1892) でも、全国の就学率は 50%に達しませんでした。こ のです。 家にしようと考えました。このため、欧米の近代文明を学ん れています。 れは、人々にとって授業料の負担がかなり重かったためと ③家族で参加した学校行事 考えられます。特に埼玉県では約 38%と全国平均を 10% 明治33 年 (1900) に学校教 以上下回っていました。このため、蓮田市域でも、貧富の 育は無償となり、埼玉県でも 差に応じて授業料の等級制を取り入れるなど、なるべく家 就学率は 90%を超えました。 4/6 入学式 4/7 始業式(1学期) 7/31 終業式(1学期) 8/1 ∼ 31 夏季休業 9/1 始業式(2学期) 11/ 中旬 運動会 12/24 終業式(2学期) 12/25∼ 1/ 7 冬季休業 1/ 8 始業式(3学期) 2/ 中旬 学芸会 3/ 末 修学旅行 終業式(3学期) ・証書授与式 3/29 3/30・31 学年末休業 4/1 ∼ 5 春季休業 庭の負担が少なくなるよう工夫をしていました。 しかし、経済的な理由で中 表 2 昭和初期の小学校年間予定表 また、明治 23 年 (1890) には大洪水で市域も大きな被害 途退学したり連続欠席したりする児童も少なくありませんでし を受けました。この影響で地方税未納者が多く出て、学校 た。大正時代に入ると蓮田市域の各村でも学校財政安定化に しん じょう じ けん しょう ひ 新指定文化財紹介 顕彰碑 で取り入れるとともに、日本人全体を教育してレベルアップさ せることを目指しました。こうして、明治5年 (1872) に学制 が公布され、小学校の設置が計画されました。寺子屋も小 学校も庶民のための初等教育機関という点では同じですが、 寺子屋が私設の教育機関で、その目的は日常生活に必要な 教育をすることであったのに対し、小学校は公立の教育機関 であり、近代的な国を作るために国民を育成するという目的 を持っていました。また、「どの家にも学校にいかない子ども しんどうちく は 【進藤竹坡顕彰碑 明治 24 年(1891)】 進藤竹坡は、 龍野藩(兵庫県たつの市)出身で、明治初期に上京し、 その後蓮田小学校で教鞭をとっていました。蓮田小学校赴任時 に埼玉県 5 級訓導補から 4 等訓導に昇進し、高等学科 教 員 免 許 を 取 得 し ま し た。 明 治 19 年(1886)か ら は たい は 伊草小学校(場所不明)に赴 力を入れ、少しずつ効果が現れてき をめぐる財政はさらに苦しくなりました。黒浜村では大破し 任 し ま し た が、明 治 24 年 (1891)3 月 13 日、病 気 の ため 40 才で亡くなりました。 蓮田小学校の関係者や竹坡が じんじょう た尋常小学校の新築費用を調達できませんでした。そこで、 ました。しかし同時に国全体で戦争 明治 26 年 (1893) の黒浜村議会では、建築資材として黒浜官 の色が濃くなっていき、昭和に入る 経営していた漢学塾の門弟 が、竹坡の若くしての死を悼 み、顕彰碑を建立しました。 有林の立木の払い下げを願い出ることが決議されました。さ と物資の不足や教育内容の変更など らに、払い下げ代金または不足する資材は、村で一定以上の 学校教育にも様々な制約が出てきま を取り入れました。全国を 53,760 の小学区に分け、それぞ 撰文と書は、漢学者・教育者 てん がく である中島撫山で、篆額 ( 注 ) 収入がある者が特別に負担することや、新築に必要な人夫 した。そのような情勢の中でも子ど れに小学校を1校設置する計画でした。さらに 210 の小学区 は、陸奥宗光の書です。 は、村人に賦役として課すことなどが話し合われました。こ が一人もいないようにする」と宣言され、小学校は義務教育 となりました。 明治政府は計画を実行するために文部省を設置、学区制 も達への教育は地域の人々に大事に 写真 6 進藤竹坡顕彰碑 を1中学区として全国に 256 の中学校を、32 の中学区を1大 ふ えき みの だ され、学校行事にも家族で参加する うした村民の努力により、黒浜尋常小学校は再建され、後 学区として全国に8の大学を設けることとしました。文部省 【箕田三郎顕彰碑 昭和 2 年(1927)】 箕田三郎は、南埼玉郡荒井新田(白岡市)の出身で、雅号は湖洲 はまず、小学校の開設から始めました。これは急速に進め といい、東京で学業に励んだ後、駒崎村で子弟を集めて塾を経営し ていました。明治期には、風 今回指定の顕彰碑は、蓮田の教育に貢献した人々の功績 る昭和初期の日記などから学校行事を拾い一覧にしたものが られ、 3 ∼ 4 年の間に 26,000 ほどの小学校が設置されました。 渡 野 学 校(さいたま 市) 、大 針 学 校(伊 奈 町)、星 久 院で を後世に残そうと、教え子や地域の人が建てたものです。 表 2 です。入学式・運動会・学芸会など主な行事は今と変わ 中学校については、学区制によって設置する企画は実行され ず大学も学制公布後5年経った明治 10 年 (1877) に、東京大 教 鞭 を と り、明 治 11 年 学が1校開設されただけでした。 計画された数には達しませんでしたが、短期間にこれだけ 教育界を退き、村会議員とし て功績を残した後は村長とな の数の小学校を開設できたのは、各府県がただちに小学区 を編成したことや、そこに小学校1校を設置することを目標 と書はそれぞれ教え子の当時 の平野村村長、塚本百之助ら 地に存在した寺子屋の果たした役割も大きかったようです。 の も ので す。篆 額 は、第 22 のでたえる 代埼玉県知事である野手耐の 書です。 寺子屋は多くの小学校に転換され、師匠も多数、教員に任 命されるなど、近代教育への橋渡しの役割を果たしました。 や しま けい きゅう 江ヶ崎 南学堂の師匠、矢嶋慶久も明治 6 年 (1873) に現さい 【関口平太郎顕彰碑 ( 芥川龍之介撰文碑 大正6年 (1917】] 関口平太郎(廣庵)は、明治 17 年(1884)埼玉縣南埼玉郡平野 村根金(蓮田市根金)に生まれ、蓮田市域の学校教育を支えたひと りです。平太郎は、幼い頃に足が不自由になったため、東京で按摩 業を営んでいました。(近所に住んでいた芥川龍之介が平太郎の治療 を受けたことにより、2 人は知り合いになったといわれ、親交は龍之 り、村の窮状を救ったといわ れています。顕彰碑は教え子 たちが建立したもので、撰文 に学制実施にあたった地域住民の努力もさることながら、各 には高等科も併設されることとなりました。 新指定文化財紹介 顕彰碑 (1878)には上平野 学 校に赴 任し、初 代 校 長 を 務 め まし た。明治 29 年(1896)には へいせつ 介が 35 歳で亡くなるまで続きました。 ) 現在と異なり、当時の教育費は市町村の予算の約 4 割、土木費の 写真7 箕田三郎顕彰碑 ( 注 ) 篆額 : 石碑の上部に横書きされた、表題に当たる文字。その下 に縦書きに本文が刻まれている。 たま市の田島小学校の教員に任命されています。( 写真 5) 写真 9 日記帳 家庭が多かったようです。市内に残 りません。日光修学旅行の記録もありました。今回の展示では、 昭和16 年 (1941) の日記から小学校の運動会当日の朝の様子を 紹介しています。 「待ちに待った運動会」という記述があり、 戦時中でもお寿司を作り家族で出かける用意をしています。学 校行事が家庭の一大イベントであったことがうかがわれます。 ーおわりにー 10 倍強を占めていました。平太郎は、 明治 38 年(1905)に東北地方が大 飢饉に見舞われた時、子どもたちに 蓮田市域の9つの寺子屋には多くの子供たちが通い、日常生 学 用 品 を 贈 り、さ ら に 大 正 5 年 進められた明治時代、学校の運営には教育費や災害等多くの (1916)には平野村(蓮田市)の就 学奨励金に 100 円、岩槻町(さいた 活に必要な知識を身に付けました。また、小学校の開設が 困難が伴いましたが、それを支えてきたのは地域の人々でした。 ま市)の子供達には 50 円を贈りま した。大正 6 年(1917) 、村の人た ちはその行為に対して、根金神社の 今回ご紹介した筆子塚 ( 筆子搭 ) や顕彰碑の碑文からは師 匠と教え子の信頼関係や、教育を支えた人への感謝の気持 蓮田市域は第 11 番中学区に属し、151 ∼ 169 番の小学区が ②地域が支えた学校教育 境内に顕彰 ( 隠れた善行や功績など を広く知らせる ) 碑を建て、後の人々 ちが伝わってきます。現在においても、地域の人々が様々な 決 められました。市域で 最も早く小 学 校が設置されたの 新政府にとって、予算として今までほとんどなかった教育 に功績を伝えることにしました。そし 形で教育を支えています。専門的な知識や技能を生かした小 て、かねてから平太郎と知り合いだっ た、文豪の芥川龍之介にお願いして 中学校のゲストティーチャー、登校時の通学班の付き添い、 ねんしゅつ は明治5年 (1872) 費を捻出するのは大変でした。市町村でも当初小学校維持 に開校された根金 のために、授業料の他、学区の住民から税金と同じように学 学校と言われてい 資を徴収していました。埼玉県では金や穀物を蓄積してその ますが、実態は不 利子を各校に配布する制度を取り入れましたが、それでも費 明です。その 後、 用が足りず、蓮田市域でも学区内の有志から寄付を募ってい 明 治 6 年 (1873) 写真 5 「辞令 」 ました。学校経費はその 70 ∼ 85%ほどが教員給料でした。 写真8 関口平太郎顕彰碑 ( 芥川龍之介撰文碑) 碑文を書いてもらいました。 「正直の 頭に神宿るとはかう云う人」と平太郎に最大級の賛辞を贈っています。 この撰文碑は芥川龍之介による自撰自筆 ( 注 ) によるものと言われ、 自撰自筆は他にはないといわれています。また、勤儉(勤勉で倹約 すること)奉公という纂額は高木正年が書いたものです。なお、碑文 拓本は常設展示展示解説に掲載されています。 (注)自撰自筆:自ら文章を考え、自ら書くこと 下校時のパトロール等は新しい支援形態として定着していま す。さらには、生涯学習でともに学ぶという動きも教育を支え る新しい形といえます。これからも蓮田の教育は多くの人々 に支えられていくことでしょう。 参考文献: 『埼玉県教育史第一巻』、 『埼玉県教育史 金石文集(下)』、 『蓮田市史通 史編Ⅰ』、蓮田市史通史編Ⅱ』、 『日本庶民教育史』、文部科学省ホームページ
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