明治大学教養論集通巻 507 号 ( 2 0 1 5・ 3 )p p .127-155 変転する水晶 一一ツェラン,シュティフター,キーファ』一一 関口裕昭 l 詩人クラウス・ヂームス ウィーン南部に広がるヴェルベデーレ庭園。花々が咲き乱れ,南国的色彩 に溢れたこのフランス様式の庭園は,雛壇状になっていて,壇と壇の聞には 小さな滝があしらわれている。その上方には均整の取れた白亜のヴェルベデー レ上官が,ウィーン市全体を見下ろしている。この建物はオーストリア・ギャ ラリーとして公開されており,クリムトの『接吻』やシーレの『母と二人の 子ども』などの名品の前には観客の足が絶えることはない。雛壇をはるか下っ たところの下宮はバロック美術館として公開されているが,訪れる人はまば らである。このすぐ裏にある閑静な集合住宅の一角に,半世紀以上も前から ひとりの詩人がつましい生、活安送っている。 クラウス・デームス。 1 9 2 7年生まれの詩人,美術史家。ベルヴェデーレ の学芸員として 3 0年あまり勤務するかたわら,ホフマンスタールやル一ド ルフ・ボルヒャルトの伝統を引き継ぐ詩を書き続け,これまで十六冊の詩集 を出している。しかし今日,老哲学者のようなこの詩人を知る人はウィーン でもひと撮りにすぎまい。 デームスは,音楽・美術・文学が混然一体としたウィーンの文化伝統を一 身に凝縮したような存在である。父オットー・デームスは, ピザンチン美術 の金細工がウィーン美術に与えた影響を解明したことで美術史家として一家 1 2 8 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7 号 ( 2 0日・ 3 ) をなした。彼は長らくウィーン大学教授を務めたが,第二次世界大戦中はユ ダヤ人の美術作品を保護したという理由でナチスににらまれた。母はヴァイ オリンを弾いた。一歳年下の弟イェルク・デームスはスコダ,グルダと並ん 0歳を超えた現 で「ウィーンの三羽ガラス Jと称された名ピアニストで. 8 在も世界中を飛び回って演奏活動を行っている O 日本にも根強いファンや教 え子が多くいて,毎年のように来日している。私も何度か彼の演奏を聴く機 会があったが,タッチのiE確さは少々怪しくなっていたものの,波打つよう いにしえ な独特のテンポの演奏は古のウィーン精神を訪併とさせ,深い印象を残し た。彼は 4 0台を越えるピアノとともに,広壮な城館に住み,自らの CDの レーベルも有するという。 クラウス・デームスはパウル・ツェランのもっとも親しい友人であった。 ブルーダ ツェランは年少のデームスを「兄弟」や「クロイスヒェン」などと親しみを 込めて呼んだ。後に彼の妻となったナニ(旧姓マイアー)もツェランを兄の ように慕い. 3人(奏ジゼルを含めると 4人)の聞に交わされた往復書簡は 3 8 0通にのぼり,これまで刊行された十数巻のツェランの往復書簡集のなか でも最大級である。 9 4 8年 6月,インゲボルク・バッハマンの紹介により,ウィー デームスは 1 ンでツェランと知り合った。雑誌『プラーン』に掲載されたツェランの詩の 完成度の高さに驚博したデームスは,それらを暗記するまで繰り返し読み, 是が非でもこの若い詩人に会いたいと思った。ツェランはそのわずか 1カ月 後にパリに旅立つが,文通は続けられ,まもなくデームスが奨学金を得てパ リに 1年間留学することになった。デームスがウィーンに戻る頃,入れ違い にナニがノ fリにやってきた。ナニはバッハマンとは高校の同級生で,ウィー ン大学に入学してさらに親交が深まったので,クラウスとナニが隠れたメッ センジャーとしてツェランとバッハマンの恋をとりもった。この恋が不幸に も破綻し,ツェランがジゼルと結婚してからは,ウィーンとパリの聞を二組 の夫婦は何度も往復して,交流を深めていった。ジゼルは書簡のなかでデー 変転する水晶 1 2 9 ムス夫妻を「本当の友人Jと呼んでいる。しかし 1 9 6 0年に頂点に議した剰 窃疑惑「ゴル事件」により,この友情にも不協和音が生じ始めた。デームス はツェランの擁護に奔走し,バッハマン,カシュニッツとともに「抗議文書」 ぞ公表するが,ツェランはこれに満足しなかった。さらに 6 2年 6月 1 7日に デームスは書簡で「パウル,僕はあなたがパラノイアではないかというおそ ろしい,でも確聞とした疑いをいだいています J Ilと書くと,ツェランは激 怒して一方的に友情を断ってしまったのである。深刻な精神的危機に陥って いたツェランは,ヘルマン・レンツ,ロルフ・シュレーアス,ギュンター・ グラスなど多くのドイツの友人とも関係ぞ断っていったので,デームスだけ が特別だったわけではない。しかし 6 8年 1 1月,デームスからの手紙にツェ ランは返事を書き,友情は奇跡的に復活した。いちど壊れたツェランとの友 情が復活した例はほかにな L 。 、 6 9年 3月デームスは久しぶりにパリに旧友 9 7 0年 4月のツェランの死ま を尋ね,その変わり果てた姿に驚くものの, 1 で親密な交友と文通は続けられた。 さて私はウィーンでデームスと何度か会い,ツェランとの交友について, また彼の日本体験や芸術全般について親しく語り合う機会があった。その一 部を以下に抄録することにしたい九 ( 8は関口, D はデームス) S あなたは 4 9年 1 0月,奨学金を得てパリにやってき,約 1年間過ごし ました。ツェランとはどのように会っていましたか。 D ほとんど l日おきに会っていました。ツェランは夕刻,あるいは夜, 私を散歩に誘い,パリじゅうを案内してくれたのです。いつも何時間も 歩き続けました。すばらしいガイドの彼を過して私はパリの町をすみず みまで知ることができました。そのころ彼は極めて貧しく,私からお金 を借りることが多かったのですが,いつもきちんと返してくれました。 S イヴァン・ゴルとの出会いと確執に叢った経緯はどうだったので、すか。 1 3 0 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7 号 ( 2 0日・ 3 ) D 私がパリに移ってから,ツェランは私を伴ってしばしば病床のイヴァ ン・ゴルを訪ねました。死期の迫った彼は孤独で,ますます威厳を失っ ていきました。衰弱したゴルを見かねて私たちは輸血を申し出ましたが, ツェランの血液型が合わず(彼の血液型は分からなかったのです), 0 型の私が輸血をしました。クレールともよく会いました。しかし彼女は 亡き夫のフランス語詩集をドイツ語に翻訳せよなど,次第に無理な要求 蝶が生じていったのです。 をするようになり,車L S 最近,ツェランがエルンスト・ユンガーに宛てた手紙がフランクフル ター・アルゲマイネ紙に公開され,話題を呼びました。あなたがツェラ ンに先立つて彼に手紙を送ったわけですが,なぜそうしたのでしょうか。 知り合いだったのですか。 D ユンガーと商識はありませんでした。出版界に大きな影響力があると 考えたので,彼を選んだにすぎません。当時ツェランは詩集の出版を望 みながら,なかなかチャンスが巡ってこなかったのです。ツェランとは 関係ありませんが,ゴットフリート・ベンにも手紙を出したことがあり ます。返事はありませんでした。ユンガーからもなかったです。当時は そんなことはよくなされていたのです。 S ハイデガーの著作を勧めたのもあなただったのですか。 D それはどうでしょうか。ツェランは内容だけでなく,言語的現象に関 心を持って,それこそ推理小説のようにハイデガーを読んでいました。 「トートナウベルク」という詩について,これはハイデガーを試す「試 験」として書いたのだが,彼はそのことに気付かなかった,と述べてい ました。ツェランの死後,ハイデガーと何度か手紙を交換し,ツェラン の自筆による「前もって働きかけることをやめよ」を献呈しました。 S 1 9 5 2年 7月にはツェランはジゼルを伴ってあなた方に会いに来まし たね。 D ナニの故郷のミルシュタット湖畔で,私たちはすばらしい日々を過ご 変転する水晶 1 3 1 しました。ツェランは都会っ子で自然とはなじみがない方だったので, 毎日山野をめぐり歩いたのです。このとき見た風景はのちに「夜に歪め られて」に反映されました。詩に登場するカラスを私たちは氷河の上に 見たのです。グロッケン通りの山聞の道安パスで走っていたときのこと です,ジゼルが私の隣でした。彼女は詩人としてツェランはどんな存在 なのか,才能はあるのかと私に尋ねました。私は彼がへルダーリンにも 匹敵する真の天才であると断言すると,とても安心した様子でした。こ のとき,私たち 4人は,お Eいに結婚しようと約束し合ったのです。そ して実際そうなりました。 S 5 5年のロンドンでの出会いについてはなにか覚えていますか。 D あのときはジゼルも来る予定だったのですが,エリックの出産を間近 に控えており,大事を取って来なかったのです。ツェランとナニと私は ロンドンのいろいろな美術館をめぐりました。夕刻,彼はホテルで詩集 「闘から闘へ Jを朗読してくれました。蝋燭の光の下で,詩集を丸ごと 全部。忘れ難い経験でした。 S ウィーンのあなたの住居にもツェランは来ましたね。 D 5 7年と 5 9年の 6月です。エリックの誕生日のお祝いをしたので覚え ています。最初彼はホテルの予約を取っていたのですが,ウィーン風の 私の住居が気に行って,ここに拍めてほしいと寄ったのです。 S 6 2年 3月,彼との関係がいったん断絶するときのことで何か覚えて いませんか。 D 彼はロンシャン通りの部屋でソファにず、っと横たわってうなっていま した。こんなことがありました。 5階か 6階の部屋から彼は階下を行き 交う自動車を見ていたのですが,それが自分に向かつて突進してくる錯 覚に襲われたのです。彼の迫害妄想は深刻な段階にまで達していました。 彼はそのとき私さえも,友人としてではなく敵として見ていました。 S そのあとしばらく友情が断絶し, 6 8年に復活しました。久しぶりに 1 3 2 明治大学教養論集通巻 5 0 7号 ( 2 0 1 5・ 3 ) 彼に会った時の印象はどうでしたか。 D 若さ,明るさ,快活さなどがすべて消え去って,まるで別人のようで した。ウルム通りの彼の家に行くと,新しく書いた詩を見せてくれまし た。原稿の東には「公表しないこと」あるいは「けっして公表しないこ と」と書かれていました。そのすべてが公表されてしまいましたが,私 にはどれも詩には見えなかったのです。 S ツェランの死後も,ジゼルとは交流を続けましたか。 D しばらく交流は続いたのですが,私がツェランの後期の作品,つまり 病気になってから審かれた作品を評価していないことなどもあって,激 しい論争になり,それがきっかけで疎遠になってしまいました。 ツェランの話に一段落ついて,私たちは文学や音楽について取りとめもな く話し始めた。一番最近彼に会った昨年 ( 2 0 1 4年)の 9月には,長らく病 いに伏せっていた妻のナニさんがつい 2週間前に亡くなったと聞いて私ば言 葉失った。私は心からお悔やみを述べた。気落ちした彼に,息子のヤーコプ さんが毎週励ましに来てくれるという。 息子ヤーコプ・デームス 0 9 5 9 ) は版画家・画家で, 日本でも個展を開 いたことがあるという。デームスは息子の版画集を見せてくれたが,繊細で 徽密なその作風はある版商家をすぐに思い出させた九デームスはそうした 私の心をお見通しのように領きながら, 1 その通りです。彼はジゼルの下で 版画を学び始めたのです」。抽象的なジゼルの版画とは違ってヤーコプは徹 底して等実的に描くが,繊細な精神は間違いなく受け継がれている。私はヤー コプが描いた精撤きわまる石の版画をじっと見つめた。翌日,私はウィーン 市内にあるヤーコプ・デームスのアトリエを訪ねた。 アトリエはさながら博物館であった。熊やカワセミの剥製,珍しい鉱石や 化石のコレクション,拾ってきた木の実などがずらりと陳列されている。ジャ ン・パウルなどドイツ古典文学の膨大な蔵書もある。彼は小さいときから両 変転する水晶 1 3 3 親に連れられてよく自然史博物館へ行き,飽きもせず一日中鉱石を眺めてい たという。そしてひとつの石をもって来て,その削り取られた断面を私に見 せた。「ここに幾何学的な模様があるでしょう, これがなぜ現れるのが 5歳 のときから気になっていたのです。そして 1 6歳のときにパリに行ってジゼ ルの銅版画『息の結晶』を見て,あっこれだ,と思いました。私が長年抱い ていた秘密がまさにそこに描かれていました。私は版画家になる決心をして, ジゼルのもとで技法を学び始めました」。私が日本で行ったジゼルの展覧会 のカタログを進呈すると, I 彼女は私の第二の母です」といってジゼルの写 真にキスをした。ヤーコプは援にかかっていた制作中の 1枚の円形の絵を指 さして, I あれはこのカタログにもあるジゼルの「年の終わり』に触発され て描いたものです」といった。なるほど両者は大きさこそ異なるものの,構 図はそっくりであった。それは雲に包まれた地球を宇宙空聞から眺めた映像 のように見えた。 ヤーコプ・デームスはダイヤモンド・ドライポイント法の技術をあみだし た世界的にも名の知れた版画家であり,日本でもその作品が再び紹介される ことを期待したし、。幼いときに会ったツェランの記憶はもうなかったが,バッ ハマンのことはよく覚えている,亡くなる直前によく両親のもとに来たので 自分も大好きなってたくさんラブレターを書いた,それは今でもバッハマン の意向にあるはずですよ,と言って快活に笑った。 2 画家シュティフター ヤーコプ・デームスと別れて私が向かったのは,ウィーン北部のヌスドル ファ一通りにあるシューベルトの生家であった。市の中心からはかなり離れ ているためであろうか,訪問者は数えるほどしかいな L、。シューベルトの家 は貧しく,多くの兄弟とともに長屋のような住まいに住んでいた。二階は博 物館になっていて,彼がいつも身に着けていた丸メガネや自筆楽譜〈コピー) 1 3 4 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7 号 ( 2 0日・ 3 ) や肖像画,愛用のピアノなどが展示されている。「あなたは日本から来たの でしょう J , と人の良さそうな丸顔の大男が笑顔で近づいてきて,あれこれ と熱心に説明してくれるが,ウィーン枇りがきっすぎて聞きとるのにー苦労 した。しかし私に強烈な印象を残したのは,シューベルトの遺品ではなく, その隣の二室を使って展示されていたシュティフターの絵画であった。複製 も含めて,さほど多くはない彼の絵画作品が一堂に会している見事なコレク ションであった。思いがけない発見に私は,一枚一枚をじっくりと鑑賞する ことにし f 。 こ 9世紀オーストリアを アーダルベルト・シュティフター(1805-1868)0 1 代表する写実主義の作家であり, 日本でも多くの愛読者をもっている。生ま れはボヘミアのオーバープラーンという現在はチェコの小都市である。故郷 2歳のとき父を失 の町と豊かな自然,特に森を愛し,小説に描き続けた。 1 い,修道院の付属小学校に通った後,ウィーン大学で法学を学んだ。ゲーテ とジャン・パウルに影響接受けて創作を始め, 1"コンドル」の成功で作家生 晩夏」のほか,連作短 活に入った。教養小説の傑作に数えられる長編小説 I ,とりわけ「水晶」は珠玉の作品として有名である。彼 篇集『石さまざま J の小説ではとりたてて重大な事件が起こるというのでもなく, 日常茶飯の事 柄や自然が細かく描写され,ゆったりとした時聞が流れている。そこには彼 が創作の信条とした「穏やかな法則」が支配している。『石さまざま』の序 言で彼は次のように書いている。 風のそよぎ,小川の流れ,穀物の成長,海の波だち,大地に芽吹く緑, 品う。壮麗に押し寄 空の輝き,且々のきらめき,これらを私は偉大だと j せる雷雨,家々を引き裂く電光,荒波をかき立てる嵐,火の粉を噴き上 げる山,国々を埋め尽くす地震を,私は先に述べた現象よりの偉大であ るとは思わない。いや,むしろ小さな現象だと考える。なぜなら,それ らもはるかに高い諸法則による作用にすぎないからである。それらは, 変転する水品 1 3 5 個々の場所で起こる,ある一面的な原因の結果にすぎない。貧しい女の 鍋のなかの牛乳を沸騰させ,あふれさせる力は,火を吐く山のなかで溶 岩を押し上げ,山の斜面に流す力にもなるのである。(中略〉外部の自 然においてそうであるように,内的な自然,人間の本生についても同じ である。ある人の全生涯が,正義,質素,克己,分別,自分の領域にお ける活動,美への驚嘆,明るい落ち着きに満ちた死に方に結びつくとき, 私はこれらを偉大だと思う。心情の激しい動き,おそろしく襲来する怒 り,復讐への執念,突き倒し,草新し,破壊し,激昂のあまり自分の命 をも投げ出すような燃え上がる精神そ,私は偉大だとは思わない。いや, むしろ小さいものだとみなす。なぜなら,これらは嵐や火山や地震と同 じく,個々の一面的な力の所産にすぎないからである。われわれは人類 の導きとなる穏やかな法則を見つけることにつとめたい九 シュティフターは自然科学にも深い興味ぞ示し,大学では法学を専攻する かたわら,物理などの講義も聴講した。天文学や生物学にも造詣が深く, 1 8 4 2年 7月 8日の皆既日食は,字宮の神秘,自然の摂理を彼に深く印象づ けた。彼はまた絵画を得意とし,その腕前は玄人はだしである。じっさ L , 、 小説家になる前は画家になることを本気で考え,作家として成功を収めてか らも死ぬまで絵筆そ手放さなかった。生存中にも何度かサロンに出展し,高 い評価を受けている。 ウィーンの学生時代から始めていた絵画は, 1 8 3 6年のザルツカンマーグー トへの旅行を機に自然への観察眼が深まり,いっそうの進歩を遂げたという。 それまでのロマン主義の影響の強かった哲学的・宗教的自然観から,自に見 える現実を細密に描写する「ピーダーマイヤー写実主義Jへと移行していっ たのである。画家として誰を範に仰いだのかは不明な点が多いが,画家ヨー ハン・フィッシュバッハとは親しく交わり,その作品を模写したりしている。 薄く引き伸ばした明るい彩色は, .フィッシュバッハからの影響と恩われる。 1 3 6 明治大学教養論集通巻5 0 7 号 ( 2 0 1 5・ 3 ) 1 8 4 0年以降はしばしば雲をテーマに絵を捕き,驚くべき手腕で,刻々と変 化する色と形のある瞬間をとらえている九 晩年のシュティフターは不幸に見舞われた。肝臓がんにかかって痛みに耐 えきれず,自ら剃万で喉をかき切って,その翠日に死んだ。埋葬の日にはは げしい雪が降り,棺も墓地全体も白一色に染まったという。なお, リンツ市 の教会で行われた葬儀で合唱指揮を務めたのは,まだ無名だったブルックナー であった。 私は絵画を一枚一枚食い入るように見つめた。どれも思ったよりスケール が小さく,ささやかな,名もなきものへの作家の愛着ぶりがしのばれた。私 の眼を釘づけにしたのは,すでに日本でも紹介されている湖畔の小屋や廃壇 ぞ描いた風景商ではなく,雲や石奇書いた晩年の作品群であった。たとえば 「動き J( 18 5 8 6 2年)という題の川床に残された一つの大きな石だけを描い た作品である。小さなひびや模様の一つ一つまで細かに写し取っている。色 彩と陰揚が最かで,まるで石が生き物であるかのように見える。題名と合わ せて,この石がどこからやってき,どのような運命をたどったのか,その来 歴があまねく表現されているように私には思えた。同時に私は,先ほど商集 で見たヤーコプ・デームスの石の作品との驚くべき類似を見逃すことができ なかった。 別の「石の習作J( 18 6 6年 3月〕は未完成で,まだ色が強られていない。 しかし,実に帝国 L、波打つような線がびっしり描き込まれている。このうねり r を見て,私はシュティフターの創作の秘密. 穏やかな法則」の一部を垣間 見たような気がした。線そのものに生命が与えられていて,今にも動き出す かのような錯覚に私は囚われた。シュティフターは妻にあててこう書いてい る。「今日の午前中は石の習作を描こうと,きのう決めました。もうお前に も書いたように,石を私の部屋に持って,それを描いているのです。(…〉 神様のおかげでうまくいきました。この石はお前にも気に入ることでしょう。 これは大きなアルプスの絵に入ります J( 18 6 6年 3月 9日戸。 変転する水晶 1 3 7 一方,何枚かの「雲の習作Jも忘れ難い印象会残した。描かれているのは 空に浮かぶ雲だけである。しかし色の違いや濃淡,刻々と変容する形によっ て驚くほど豊かな世界が繰り広げられている。暗い重たい雲が,ひときわ明 るい黄色のうすい翠の前に立ちはだかっている作品では,おそらく皆既日食 を思い出したのであろう。あるいは雲のすき聞から,満月が姿を見せている ものもある。これも商面の下半分は未完成であるが,淘立つようなその筆の 跡はすでに印象派を先取りしているようにも,抽象画のさきがけのようにも 私には見えた。 石と雲と月…。これらを素朴な風景聞として片づけてしまう向きもあろう。 しかしそれは大地と天,いや地球と宇宙をあらわしているのではないか。小 さなものを描き(書き〉ながら,シュティフターは実は壮大な世界に対峠し ているのだと気づいた私は,暗い小さな部屋にいながら,望遠鏡を通して広 い宇宙を見つめているような気がして,いい知れぬ感動にとらわれた。 シュティフターに私が注目するのは,ツェランとキーファーを結ぶ見えな い糸がそこにあると考えるからであるが,問題の核心に近づく前にやや迂回 して,キーファーの大学時代から書かねばならない。 3 法学生キーファーとラ・トゥーレットの修道院 1 9 4 5年 , ドイツのほぼ最南端のドナウエッシンゲンに生まれたキーファー は,地元の名門であるフライブルク大学に入学し,法律を専攻した。早くか ら芸術に関心を寄せていた彼は,法律の専門家になるのが目的ではなく,憲 法の政治的側面を学ぼうとしたのだった。彼は,現在でも設誉褒庭がかまび すしい憲法学者カール・シュミットに興味を持ち,その著作を熱心に読んだ。 シュミットはファシストではなかったにもかかわらず,ナチの党利党略に飲 み込まれ,戦後は執筆の自由も禁じられてしまったが,法理論と宗教的伝統 の統一をめざしたその思想がキーファーを魅了したのだという。しかし芸術 1 3 8 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7号 ( 2 0 1 5・ 3 ) がキーファーの念頭を去ることはなかった。 1 9 6 6年の末,キーファーは,ル・コルビュグュエが設計したドミニコ会 の修道院を見るために,南フランスのラ・トゥーレットに向かった。法律に おける精神的側面に関心をもっていた彼は,建築においてもっとも明瞭に精 神の構造が現れると信じていたのであろう。 9 5 9 ラ・トゥーレットの修道院はル・コルビュジエによって設計され. 1 年に完成した。 1 9 5 2年 , ドミニコ会のクーチェリ神父が彼に設計を依頼し てから,完成までに足かけ 7年を要したことになる。ドミニコ会の教育法に 共感したキーファーは,すべてを吸収するためには修道院の生活も体験すべ きだと考え. 3週間ラ・トゥーレット修道院の独房で暮らし,さまざまな儀 式にも参加した。日本の禅寺で修行を積むのと似ている。このような場所に いると,神についてのみならず,自分自身についての反省を強いられると述 べている。マイケル・オーピングとの対話でキーファーはいう。 「ラ・トゥーレットは私にとって刺激な建築でした。非常に単純な物質が, 近代的な物質が,精神的な空間を作り出すのに用いられていたからです。偉 大な宗教と偉大な建築は,砂のように,時間の断片なのです。ル・コルヴィ ジュエは砂を精神的な空聞を構築するために使っていますの和私、はコンクリ一 トに精神性を発見したのです Jlη} 多木浩二はこのコンクリ一ト体験を,キーファーが後年好んで用いた砂の 象徴に結びつけてとらえている。さらにラ・トゥーレットのコンクリートの 階段に注目してこう述べている。「階段は上昇と下降の運動を象徴する。上 昇し下降することは「精神的な旅」というキ一フア一がカパラから借りてき 8 l 酌 ) た思想想、的イメ一ジでで、ある J ラ.トウ一レツトの体験は,彼の中でくすぶっていた芸術家になる夢を覚 醒させずにはおかなかった。まもなく彼は法学の勉強をやめ,最初はフライ ブルクではベーター・ドレーアーのもとで,カールスルーエに移ってからは 0年には学業を ホルスト・アンデスのもとで芸術を本格的に学び始めた。 7 変転する水品 1 3 9 終え,翌 71~年からホルンバッハの学校の跡地に住んで制作に励んだ。 1971 年からはデュッセルドルフのヨーゼフ・ボイスの指導を受けながら,世界各 地を旅行して経験を広めた。ボイスはキーファーにとって「偉大なる教師」 となると同時に,乗り越えねばならない大きな躍にもなった。ボイスとの窺 9 7 3年まで続いた。 月の関係は 1 フライブルクで学んだキーファーの念頭を去らなかったもう一人の思想家 がいる。 2 0世紀ヨーロッパを代表する思想家マルティン・ハイデガーであ 9 3 3年にはナチス る。彼もまた一時的にではあれナチスの思想に共感し, 1 に入党して,そのシンパシーに溢れた有名な講潰「ドイツ大学の自日主強J を行った。キーファーが彼の著作を熱心に読んでいたことは,さまざまなイ ンタヴューの発言からも窺える。さらにハイデガーが亡くなった 1 9 7 6年に は , r マルティン・ハイデガー」というタイトルの「書物」を制作した。表 紙には彼の肖像写真が貼り付けられていて,頁をめくると,地下室と思しき 暗い部麗の写真の上に脳みそが給具で描かれている。そして買が進むにつれ て脳は少しずつ黒い染みで覆われてゆく。多木浩二が彼のアトリエを訪問し たとき,キーファーはハイデガーの頭に惨んだ轟のようなものをさして, 「黒いミルクだよ」と言ったそうである九このエピソードは,キーファーが ツェランを意識しつつ,この書物を作ったことを裏づけている。ハイデガー とツェランが歴史的な出会いを果たしたのもフライブルクであゥた。それは キーファーがフライブルクを去ったわずか 1年後のことであった。 もしキーファーが 1 9 6 6年,ラ・トゥーレット詣でをしなかったら,いや それが 1 ,2 年先のことであったら,キーファーは 2 0世紀を代表する詩人と 哲学者の出会いを目撃していたことだろう。 1 9 6 7年 7月 2 4日,ツェランは フライブルク大学の講堂で,刊行されたばかりの詩集「恩の転回 Jから詩を , 2 0 0人を越える聴衆の大半は学生であった 朗読した。会場を埋め尽くした 1 が,なかにはかなり遠方から駆けつけた熱心な聴衆もいた。その最前列には ハイデガーの姿が見られた。翌日二人は自動車でトートナウブルクのハイデ 1 4 0 明治大学教養論集通巻 5 0 7 号 ( 2 0 1 5・ 3 ) ガーの山荘に向かい,そこでふたりだけで徹底的な会話を行った。ツェラン はハイデガーの過去を問いただそうとしたが,老哲学者は謝罪の言葉を回避 し,沈黙を貫いた,というのがこれまでの研究では定説となっている 10)。 しかし山荘の対談では文学のことも話題にのぼり,エミリー・ディキンス ンやシヰティフターの「高い森」のフランス語訳について話されたことが明 らかになっている 11)。事実,ツェランが山荘での対話を詩にした「トートナ ウベルク」の限定版をハイテーガーに送ったとき, この『高い森」の仏訳も同 封したのだった。ハイデガーはこれに対するお礼を述べている。「このよう な思いがけない贈り物に,私はどう感謝を申し上げたらよいのでしょうか。 「トートナウベルク」が語り,思索が細やかなものへの歩みを試みた場所と 風景を名づけている詩人の言葉,励ましであると同時に警告でもあり,また さまざまな気分をもたらしたシュヴァルツヴアルトでの一日の思い出を保存 した詩人の言葉です。(…〉それからシュティフターのフランス語の訳書に 対しても御礼長申し上げねばなりません。それは翻訳がここでは不可能であ り,当時流布していた観念でテクストが選ばれた理由です」ヘ なぜツェランはこの本をハイデガーに贈ったのであろうか。森林で暮らす ふたりの姉妹の悲劇を静かな筆致で綴ったシュティフターの中編小説は, トー トナウベルクを取り巻く黒い森の自然を想起させ,その克明な自然描写にふ たりが抜目したというのであろうか。もしかするとハイデガーにとってはそ うであったのかもしれな L、。彼は「アーダルベルト・シュティフターの「氷 の物語.J1J( 19 6 4 ) というエッセイを書いている。これはラジオ・チューリヒ から放送された原稿がもとになっており,書物の形での刊行は『思索の経験 か ら . J 1( 19 7 2 ) であったので,おそらくツェランはこれを読んでいなかった。 彼の蔵書にもこれは見当たらない。にもかかわらず,私にはツェランの朗読 とその後に行われたハイデガーとの対話,そしてこのエッセイと『高い森』 を貫く見えない糸があるのではないかと考えている。 ツェランはフライブルクの朗読会を, I 息の結晶/覆すことのできない/ 変転する水晶 1 4 1 あなたの証。」という詩句で締めくくった。一方,ハイデガーはエッセイ 「氷の物語』において「し、かなる点において,この『氷の物語』は心の奥底 にまで働きを及ぼすに違いない」と書き,さらに「詩人の言葉のどのように はたらきを及ぼすのか」と問 L、かける。両者の言葉は,結晶と氷というかな り近いテーマを共有しながら,本質的にはまったく別の方向をめざしている のである。 4 ツェランの「帰郷」とシュティフターの「水晶」 詩集『言葉の格子」に収められたツェランの詩「帰郷」をまず読むことに しよう。 帰郷 Heimkehr 降る雪, しんしんと, しんしんと S c h n e e f a l l,d i c h t e rundd i c h t e r, 鳩の色をして,昨日のように t a u b e n f a r b e n,w i eg e s t e r n, 降る雪,まるであなたがいまにも S c h n e n n f a l l,a l ss c h l i e f s tdu 眠ってしまうかのように。 auchj e t z tn o c h . 彼方まで横たわった白。 W e i t h i ng e l a g e r t e sW e i β . 向こうへ,果てしなく D r u b e r h i n,e n d l o s, 失践した者のそりの跡が続いている。 D i eS c h l it t e n s p u rd e sV e r l o r n e n . その下に,隠された D a r u n t e r,geborgen, 目を痛くしたものが s t 凶p ts i c hempor , うずたかく積み重なる wasdenaugens oweht u t, 丘から丘へと HugelumHugel, 1 4 2 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7号 ( 2 0 1 5・ 3 ) 自にも見えず。 u n s i c h t b a r . どの丘の上にも Aufjedem, 今日という故郷に連れ戻され h e i m g e h o l ti ns e i nH e u t e, ひとりの沈黙へと滑り落ちた私一一 e i ni n sStummee n t g l i t t e n e sI c h : 木でできた,一本の杭。 h o l z e r n,e i nP f l o c k . あそこに一一ひとつの感情が Dor t :e i nG e f u h l, 氷の風によって吹き寄せられて vomE i s w i n dh e r u b e r g e w e h t, 鳩の,雪の d a se i nt a u b e n -,s e i ns c h n e e - 色をした旗を固定する。 f a r b e n e sFahnentuchf e s t m a c h. t13l しんしんと降りしきる雪,見わたす限り真っ白な雪原。そのなかを, 1 連 れ戻されJるかのように,ひとり「私Jが故郷へ帰って来たのであろう。静 謹な,詩情豊かな詩であるが,きわめて難解であり,読者はこの白い詩的風 景の前に件んだまま,容易にその奥に踏み入ることができない。 白は,ツェランの多くの詩では死のメタファーとなる。したがってこの詩 においても, 1 あなた」はすでに雪の下で死んだ存在であり,連なる丘 ( 1 正 また丘J ) は彼らが眠る「慕丘Jであるのだろうへそうであるなら, 1 旗J が固定された「杭」は,無名のままに死んでいった死者たちの存在を知らせ る慕標の代わりとなる。そして「帰郷」とは,空間的な運動を指すだけでな く,過去 ( 1昨日 J ) から現在 ( 1 今日 J ) への時間的な回帰をも同時にあらわ している。間断なく降りしきる雪は,過去と現在を結ぶ永続性を暗示する。 ツェランの詩論「子午線Jにおいて詩作そのものを「一種の帰郷である J (Gwm,2 01)とみなしていたことも忘れてはならない。 詩集「言葉の格子』でこの詩の次に,同じ見聞きのページに印刷されてい る「下では」も内容的に深い関連がある。その第一連,第二速はともに「故 変転する水晶 1 4 3 郷へと戻されて ( H e i m g e f u h r t )Jではじまっている。おそらく「下に Jと いうのは,死者の眼っている地下の世界,冥界を暗示するのではないか。第 三連の「そして私の過剰な語りが/あなたの沈黙という衣のなかの/小さな 結晶に積み重なっていく J(GWI ,1 5 7 ) というのは,死者を追悼する雷葉が 少しずつ結晶化されていく,すなわち詩として結実していく過程を表わして いるのだと思われる。つまり密接なつながりをもっ 2篇の詩は,詩論として の詩として読むことができるのである。 これまで「帰郷」の解読に取り組んできた研究者一一ヴェルナー,ゼン グベオルシュナー 16)一ーらの解釈を検討しつつ,私なりの雷諜で要約すれ ば以上のようになる。 しかしツェランの詩は多層的である。詩論的な意味は今述べたようなこと であるにしても,詩は具体的な形象とイメージから構成されているのであり, その生成過程を考えあわせるのなら,ツェランはもっと個人的な経験かある いは別のテクストからこの詩告発想したのではないか。 そこで 2篇の詩を,シュティフターの短編「水晶」の本歌取りとして読む という,新しい試みを以下に披露したい。そのための下準備として,まずこ の物語の梗概を述べることにする。 舞台となるのはオーストリアの山あいの小さな村クシャイトとミルスドル フである。山によって隅てられた両村の住民はかねてより敵対関係にあった。 クシャイトの靴屋ゼパスチャンはミルスドルフの染物屋の娘に恋をし,妻に 迎え,やがてふたりの子どもコンラートとザンナが生まれた。クリスマスの 夕べ,母はふたりの子をプレゼントを持たせてミルスドルフに住む祖父母の もとに向かわせる。愉しい再会を果たしたのち,祖母は孫たちを暗くならな いうちに帰宅の途につかせる。帰り道,魚、に激しい雷が降り始め, 1 " く びJ と呼ばれる峠で目印となる遭難柱が雪に埋もれて見つけることができず,ふ たりは道に迷ってしまう。雪は激しさを増し,あたりはどんどん暗くなって ゆく。絶望のどん底にあって,ふたりは行く手を遮る氷の援の中を降りてゆ 1 4 4 明治大学教養論集通巻 5 0 7号 ( 2 0 1 5・ 3 ) く。そこは洞穴のようになっていて,雪は入ってこず,色とりどりの石が神 秘的に輝く幻想的な世界が広がっていた。子どもたちは祖母からもらった濃 いコーヒーを飲んで眠気を吹き飛ばし,歌をうたい励ましながら一夜を明か す。翌朝,二つの村から檎でやって来た捜索隊に発見されたふたりは,奇蹟 的に無傷のままに父と母のもとに帰ることができた。反目し合っていたクシャ イトとミルスドルフの村の住民も子どもの無事を手と手を取り合って喜び, これまでの不和を反省した。これは「穏やかな法則」を旨としたシュティフ ターの代表作であるだけでなく, 1 9世紀ドイツ文学のもっとも優れた散文 のひとつに数えられている。 さて 5速からなるツェランの詩を, I 水晶」の内容と対照させてみること にしよう。 第 1連。「降る雪, しんしんと, しんしんと ( S c h n e e f a l l,d i c h t e rund d i c h t e r ) J はふたりの子ども,コンラートとザンナが,父の待つクシャイト への帰路で道遇した,激しさを増してゆく雪の道を暗示しているように思わ れる。「水晶J には「降る雪はますます激しくなって ( ward i eS c h n e e f a l l 19 6 )と s od i c h tgeworden),すぐそばの樹以外は何も見えなくなった J ( いうような表現が繰り返し見られる。「まるでお前が今にも眠ってしまうか のように ( a l ss c h l i e f s tduauchj e t z tn o c h )Jからは,コンラートの次の 言葉が思い出される。「ザンナ,眠ってはいけない ( Sanna,dumuβtn i c h t s c h l a f e n )。お父さんが言ったように,山で眠ってしまうと凍え死んでしま 2 0 9 )。 うからねJ( ちなみに「降る雪,しんしんと 深く ( d i c h tの比較級) Jに , しんしんと」という表現の「しんしんと= I 詩人 ( D i c h t e r ) J という言葉を読み取り,ツェ ランとへルダーリンとの出会いが暗示されていると読む解釈もあるが,これ は牽強付会の一例といわねばならな l, 1 九たしかにへルダーリンはツェラン が尊敬し,愛読した詩人ではあるが,シュティフターのテクストに比べれば, 、 共通する要素はこれ以外にほとんど見られな L 変転する水品 1 4 5 第 2連。「水晶 Jにおいて,ふたりの子どもは,見渡すかぎり白一色の雪原 のなかを,歩いて行くさまが印象的に描かれている。「しかしふたりのまわ u b e r a l ld a sW e i β〕…」。 りには目も肱むような白しかなかった,一面の白 ( W e i t h i ng e l a g e r t e sWeiβ)J という詩句はこれに 「彼方まで横たわった白 ( 失跡、したもののそりの跡」からは, I 水品」の終わりに ぴったり対応する o I 近い部分で,子どもたちの捜索に赴く大人たちが出した援を思い起こす。 「赤い遭難柱の近く,林道の始まる所に来ると,一代のそりが待っていた。 2 2 2 )。ま 靴師があらゆる事態を考えて,そこで待たしておいたのである J( た捜索隊が自分たちのものでない「足跡 ( S p u r e n )J( 2 21)を発見し,子ど もたちを発見する手がかりにする場面もある。 第 3速も故郷への道が,はるかな厳しい道のりであることを暗示している wasdenAugens oweht u t ) J とは,おそらく次 が , I目を痛くしたもの ( の表現とつながっている o I目が痛いわ (Mirtund i eAugenweh)J ザン ナが言った。「雪奇見てはいけないよ」と少年は答えた。「察の方を見るんだ。 2 01 )0 I 雪の丘J( 2 0 8 ) ぼくの眼もさっきから痛い。でもなんともないよ J( という表現も「水晶」に見られる。 P t l o c k ) J とは, 第 4連の中心となる「杭 ( I 水晶」において,二つの村 U n g l u c k s s a u l e )J の聞の峠に建てられ,道しるべとなっていた「災難柱 C ( 17 5 ) に対応するのではないか。ひとりのパン屋がこのあたりで死んでいる のが発見され,この死者と祈りの文句のある絵が木の柱に取り付けられたの である。その意味では,災難柱は道標であるだけでなく嘉標でもある。もち ろんツェランの詩において「杭」は「私」と同格と読めるので,抵抗のシン ボルとなり,厳密にいえば意味は少し異なってくるが,この「災難柱」のイ メージを転換させたのではな L、かと私は考えている。 ahnentuchは「旗」と「布」の融合形である。 最終連。「旗J と訳した F これも「水晶」のなかに「彼は妹のために,母が彼の肩にかけてくれた布切 れ ( Tuch) をかけなおしてやり,額の上で廟のようにしてあげた J ( 19 6 ) 1 4 6 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7号 ( 2 0 1 5・ 3 ) や r Tザンナ J少年は叫んだ。クシャイトから人が来るよ,あの旗 ( F a h n e ) を僕は知っている,あれは赤い旗だ(…)J( 2 1 8 ) といった箇所に見られる。 「布切れ ( T u c h ) J はツェランにとってきわめて重要な詩的形象である。 トランスニストリアの強制収容所に父とともに連行された母から,あるとき ツェランのもとに奇跡的に一枚の手紙が届けられた。そこには「一枚の布が, せめて小さな布切れ ( T u c h ) があればJ と書かれてあった。おそらくは母 は,寒さや暴力から身を守るものが欲しかったのだろう。ツェランは結局, 母にこの布を届けることはできなかったが,その代わりに言葉で編んだ「布= 織物J ,すなわち詩を捧げるのである。ある意味で彼の書いた詩は,すべて 母に宛てられた「布切れ」なのであった。 こうしてみると両者のテクスト聞には,もはや偶然ではすまされない密接 な対応関係があることが分かる。多くの研究者たちがこれを見過ごしてきた のは,詩と小説というジャンル,また二人が生きた時代の相違もさることな がら,ツェランという前衛的な現代詩人とシュティフターという穏やかな写 実主義の作家という,イメージの隔たりにもあったと思われる。 ツェランの詩集「言葉の格子Jでは「帰郷」と次の詩「下で」が左右見聞 きに印刷されており,内容的にも深くつながっていることは,後者に「帰郷 させられて」という表現が二度繰り返されていることからも確認できる。こ の「下では ( U n t e n ) J というタイトルは, ~水晶J でもふたりの子どもが激 しい雪と氷の壁に行く手を遮られて,先へ進むことができず,氷の「下へ ( u n t e n ) J進む道を探し,実際に,氷の中に下っていくことにも符合する。 氷の屋根に固まれた桐窟のなかで,ふたりは色とりどりに輝く鉱物の神秘的 な光を見,その氷の石に保護されて奇蹟的に一命を取りとめるのである。 「水晶 ( B e r g k r i s t a l )J(直訳すると「山水晶 J ) というタイトルはこの洞窟で 見た神秘的な拡石から取られている。ツェランの「下では」の最終連はこう なっている。「そして私の過剰な語りが/あなたの沈黙の衣装のなかの/小 クりスタ,レ さな結品に積み重なってゆく J 。 変転する水晶 1 4 7 「結晶」はここで詩として形作られてゆく言葉の生成過程を暗示している。 故郷を失ったツェランにとって「帰郷」とは,言葉を通してそれを取りもど す過程,詩作そのものであったのであろう。 もちろん,シュティフターのテクストにはない要素もツェランの詩には多 く盛り込まれている。例えば「下には」の第 2速における「費(立方体) J は,結品から派生したイメージであり,マラルメの「散子一榔」などとも関 連して詩論的な意味があるのかもしれない。また,シュティフターの「水品」 との最大の相違は,そこに登場するふたりの子供がツェランの詩には現れな 私Jと「あなた Jとあるにもかかわらず,雪の風景に い,それどころか, I は人の姿がまったく認められないことである。その背景には,ツェランにお いて,人間という有機物が雪や石,砂と言った無機物に変容していることが あげられる。 ツェランとシュティフターのテクストが呼応しているのは,伝記的にも裏 づけることができる。ツェランの関心をシュティフターに向けさせたのは, 9 5 5年 3月 2 6日,デームスはツェ ほかならぬクラウス・デームスであった。 1 ランに宛てて次のように書く。 「私は最近,夜ベッドで寝入る前にシュティフターをよく読んでいます。 以前は「晩夏」であったのですが,そのあと初めて『曾祖父の遺稿』の最終 稿を読みました。シュティフターの絶筆とな勺たものです。告白しますが, 晩年のシュティフターがいま初めて好きになりました。なんとすばらしいこ とでしょう~曾祖父の遺稿」が最高の作品です。それは習作稿に比べて拡 張されており,まったく別の文体を備えています。『晩夏」のような間違い のない網の明断さと徹密さです。残念ながらそれは,全集を除いては,入手 できないのですがJ(PCjNKD,1 7 4 )。 これに対し同年 4月 1 0日ツェランは書く。「今日はイースターの日曜日で, 僕が座っている机の上には君たちのシュティフターがあります。僕はある故 郷のようなもの ( e i nH e i m a t l i c h e s ),なじみふかいもののなかに自分を読 1 4 8 明治大学教養論集通巻 5 0 7号 ( 2 0日・ 3 ) み返し,読み入ります。目はそこから生き物が,自分自身の盗を涙の中に映 ,1 7 5 )。 そうとして歩み出てくるのを見つめます J(PCjNKD 「君たちのシュティフター」がどの書物をさすのかは明らかではな L、。デー ムスはのちに『曾祖父の遺稿J( 1940年版)を,次のような言葉を添えてツェ ランに贈った。「親愛なるパウル,この土地の純粋なるものがあなたへ向か おうとします,あなたを私たちに呼び戻すために / 1955年 1 1月J (PCj NKD, 560)。ということは,ツェランが手にしていたのは別のシュティフター の本だったに違いな L、。私はこれが,彼の蔵書にもあり,書き込みをしなが ら熱心に読んでいた『石さまざま』則ではなかったかと推測している。ツェ ランはそこに収められた「水品」を含めた短編を読み, I 故郷のようなもの J へと思いをはせたのではないだろうか。 ツェランが地質学に並々ならぬ関心を示し,多くの専門書を購入して,そ 9 5 5年春以降であるがベその の勉強の成巣が詩作に反映され始めるのは 1 きっかけになったひとつがシュティフターであったと思われる。またデーム ス自身も多くの詩を書き,それをその都度ツェランに送って意見を乞うてい たが,多くは自然の風景を題材にした彼の詩にも地質学やさまざまな石の名 称が出てくる。これらがツェランの関心を徐々に地質学に向かわせていった のであろう。 5 キーファーとシュティフター キーファーはシュティフターについて次のように述べている。 石自体が燃えている。そうロマン主義者たちは述べました。生命を持 つもの生命をもたない無機物との閣の違いをロマン主義者は取り除きま した。少なくともシュティフターはそうです。彼は樹木や石といった対 象を,まるで生き物であるかのように描きました。そして人聞のさまざ 変転する水晶 1 4 9 ま関係が,まるで死んでいるかのように,石であるかのように。彼は生 物と無生物のたやすい移行を描いたのです。彼は生物を無生物として, 無生物を生物として説明します。彼の関心はそこにあり,けっして多く の人々が思っているようなビーダーマイヤーの作家とは違います。彼は もっと深い所へ述しています。 これを受けてクラウス・デルムッツが「こうした感覚はあなたの絵画にも 現れます。砂,灰,石が生きたものとして」と言うと,キーファーはさらに こう続ける。 その通りです。生きているものだけが生きているというのは,せまい 考え方です。ひとつの石も生きている。そのことを私はとりわけシュティ フターから学びました。このような理由から,シュティフターはどーダー マイヤーの退周な作家であり,読むに値しないという多くの意見とは裏 D i n g ) に価値 腹に私を魅了してきたのです。シュティフターはもの ( を与えました。物質のなかに精神を発見する私も彼と同意見です。この 限りでは,シュティフターは哲学的な意味におけるロマン主義者であり, ピーダーマイヤーの作家ではないのです叫。 短い評言のなかにシュティフターの本質が見事に凝縮されている。「もの」 はシュティフターの,特に後期作品の鍵概念のひとつであり,ハイデガーも 先のシュティフター論において「シュティフターは森の氷結を短的に『もの (Ding)J と呼ぶ」と指摘して,論の中心においていた。「もの」は人間存在 が「神聖なる秩序Jのなかに埋め込まれている,というしるしなのである 2九 「神聖なる秩序」とは自然といってもいいので,われわれの文脈では人間と 自然,生物と無生物をつなぐのが「もの」であると言いかえることができる だろう。 1 5 0 明治大学教議論集通巻5 0 7 号 ( 2 0 1 5・ 3 ) キーファーは 1 9 9 1年に「水晶 ( B e r g k r i s t a l l )Jと題する作品(ガラスを 7 0x2 4 0cm) を制作した。これがシュティ はめ込んだ鉄の枠のなかに鉛, 1 フターの作品名にちなむことは,もはや論を侠たない。画面は黒い鉛に覆わ れた部分をベースに,その上の白く着色された部分とが]互角にせめぎ合って いる。「黒いミルク」というオクシモロンのテーマがここでも変奏されてい る。四角い鉛の板(あるいはガラス〉が重ねているのであろう,さまざまな 直線が重なり,交差し,水晶の結品の稜線をかたちづくっているようである。 細かく観察すると,小さな赤茶色の爽雑物がいくつか混じっている。さびた 鉄とも,植物の葉や嘉のように見えるがはっきりと判別できない。後の章で もふれるように,黒,白,赤は錬金術の基本的な三色でもあるので,それを 意識していたのかもしれない。鉛は温度によって変化しやすい物質であり, それが錬金術の工程を経て透明なガラスに浄化されて L、く過程を描いたもの と考えてよいだろう。 シュティフターに関わる作品は私の知る限りこの一点、のみであるが,葛藤 から浄化と融和に向かいつつあるキーファーの心境を反映した重要な作品で あると,思う。 このように水品をめぐって,シュティフターを起点にしてツェランとキー ファーの方へ力強い補助線(稜線)を引くことができるのである。シュティ フターにとって水晶とは,人聞と自然を結びつける象徴であり,それは彼の キリスト教信何の中心にある堅固な「もの」であった。洞窟の中で子供たち が見つけ,畏れつつ見上げる神秘の光には,まぎれもなくキリストの十字架 が暗訴されている。一方,ツェランの「水晶/結品」にはキリスト教の片鱗 をうかがわせるものはなにもない。無機質なもの,かつて生物であったかも しれない灰(雷〕が凝集したものである。しかしツェランはそれらの残骸を, 言葉として結晶化させてよみがえらせようとする。 造形作家キーファーにとっての水晶を二人の詩人と比較することは難しい ので,再び彼の師であったボイスに登場してもらうことにしよう。ボイスは 変転する水晶 1 5 1 植物と鉱物を対照的なものとして自作に取り入れたが,前者は柔らかいもの, 流動的なものであり,後者,特に水晶は独自の法則性そ持った硬直性,無機 質性の象徴であり,かつ合理的思考と結びつくものであった。ボイスの方法 論告そのままキーファーに当てはめるわけにはいかないが,キーファーもま たしばしば植物を作品に取り入れていることからも,大枠ではこのように考 えられるのではなかろうか。 6 r 厳密な結晶」 さて最後に再びツェランの詩に戻ってこの章を締めくくることにしたい。 次にあげるのは詩集「誰でもない者の蓄積」の第 Vツィクルスに収められた 「コントレスカルプ広場」という詩の最後の部分である。 「クラカウぞ越えて/お前はやって来た,アンハルター/駅では/お前 の眼差しに煙が流れ込んできた/それはもう昨日のものだった。/桐の 木の下に/ナイフが並んでいた,ふたたび,/隔たりによって鋭くなっ て。… /C …)/自動/シャッターだったのだ/お前は。 J(GW1,2 8 3 ) ツェランは 1 9 3 8年 1 1月,ひとり故郷のチェルノヴィッツをあとにしてク ラカウ,ベルリンを経由して,医学を学ぶためにフランスのトウールに向かっ た。列車での途中,彼は目の当たりにした一筋の煙から,自分たちを待ち受 1月 9日,ツェランはおそらくはベルリ けている不吉な運命を感じ取る。 1 ン付近の旅先から,故郷の幼なじみエーディト・ジルパーマンに宛てて次の ように書く。 I~ 、ま僕はドイツの白樺の森を通り抜けている。この風景をど んなに心待ちしていたか分かるだろう,エーディト。でも頭上の梢の上に濃 い煙のヴェールがかかっているのを見ると, もしかするとシナゴーグが,い やもしかすると人間も燃えているのではないか,と自問して恐ろしくなるの 1 5 2 明治大学教養論集通巻 5 0 7号 ( 2 0日・ 3 ) だ」印)。この日の夜から翌日にかけて, 1 水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人襲撃 事件が起こったが,ツェランはこの事実をまだ知ることができなかったはず である。彼はその明敏な感性で,目に流れ込んでくる煙から,この直後に起 こる悲劇を予見していたのであろう。 ところで「コントレスカルプ広場」はパリのカルチェ・ラタンにある小さ な円形の広場で,中央には桐の木が植えられている。レストランやカフェが 軒を連ね,ラ・ショプはツェランの行きつけの屈であった。彼は待ち合わせ に使ったり,食事をとづたり,またラム酒を飲みながら深夜まで友人と語り o n t r e s c a r pとは字義どおりには「城壁の外Jという意 合った。しかし LaC 味である。ツェランは 1962f f9月 29日,スイスのニヨンに立ち寄り,堅牢 な城壁に囲まれた旧市街の外援を散策しながら,日噴利用している広場を思 い出し,この詩のスケッチを書いた。「城壁の外」には,市民社会からはじ かれていたユターヤ人の疎外感が反映しているのかもしれない。あるいは城壁 をゲットーの壁と取るなら,ユダヤ人共同体からも離れていた二重の疎外感 を読み取ることもできる。そしてショシャナ・フェルマンも正しく指摘して いるように,ショアーについては「外側から真実を語ること,証言すること は,実は不可能である」。なぜなら, 1 真実」を体験したものは誰ひとり生還 できなかったからである。したがって生還したツェランが,いかに労働収容 所などで辛酸をなめ,生死の聞をさまよったにせよ,所詮は安全な外側から 見ていたにすぎないともいえる。 S e 1 b s t a u s 1 o s e r )J とは,文字どおりには「自己」の 「自動シャッター C 「開放者J ,つまり逃亡者ということになる。自動シャ vターを用いれば,撮 影する瞬間の被写体をカメラから直接見る必要はな L、。つまり「お前」は決 定的な瞬間において視線をそらし,いやその場から逃げ去ったことになる。 ツェランもまた故郷を抜け出して来たひとりだった ( 1クラクフを越えて/ )。ちなみにクラクフはアウシュヴィッツに近いポーラン お前はやって来た J ドの古都であり,現在でも観光客はアウシュヴィッツに行くには必ずこの町 変転する水品 1 5 3 を通らねばならないのである。さらにツェランは収容所において,絶滅収容 所に送られるかそうでな L、かという「選別」を巧みにくぐりぬけながら,生 き延びたのであった。そして詩は次の 3行で閉じられる。 けれどもお前が向かわねばならないところには ひとつのあの厳密な 結晶。 「お前が向かわねばならないところ Jとはどこか。伝記的な事実からいえ ば,ツェランが実際に列車で向かったベルリンであり, 待ち受けていた 1 結晶」とはそこで . 1水晶の夜」になる。しかしまた別の理解も可能である。 「お前」が向かうべきなのは,詩作が行われる場所でもあり,それは犠牲者 たちの苦しみ,傷が永遠の現在としてそのつど口を聞く時間でもある。「結 晶」とはすでに「下には」でも見たように,詩作そのものの隠喰であり,詩 を書くとはそのような場所と時間に自らを置き,視線をそらすことなく対象 を結晶させることであった。あるいはこの結晶は,ガス室で多くの同胞の命 を奪った猛毒チクロン Bの結晶をも暗示しているのかもしれない。もしそ うなら,この結品のある場所とは,死そのものともいえるだろう。ツェラン の詩はつねにそのような場所と時聞に回帰し,結晶してゆくのである。 { i ; 主 》 1 ) C e l a n,Paul /Demus ,KlausundN a n i :B r i e f w e c h s e . lH r s g .vonJoachim r a n k f u r ta .M.2 0 0 9,S .4 3 5 . 以下,同書からの引用は略号 PC/KNDの Seng,F あとに頁数のみ記す。 2 ) インタヴューは 2 0 0 7年 1 2月 8日に行われたものをもとにして, 2 0 1 3年 8月 3 , 日 2 0 1 4年 9月 1 5日の会話を若干補足した。 3 ) Demus,J a k o b .TheComleteG r a p h i cWork1 9 8 3 ・ ・2 0 0 5 .Amsterdam2 0 0 5 . それぞれの作品について,ヤーコプ自身の説明,思い出などが綴られているが, 1 5 4 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻5 0 7号 ( 2 0 1 5・3 ) どれも文学的テクストしでもすぐれている(英語)。ツェランはヤーコプが I歳 6 0年 6月 9日),お祝いの詩を書いた。 の誕生日を迎えたとき(19 4 ) S t i f t e r,A d a l b e rt :Bcrgkristal 1unda n d e r eE r z a h l u n g c n .F r a n k f u r ta .M. .1 0 1 2 .以下同脅からの引用はページ数のみ本文中に記す。 1 9 8 0,S 5 ) Vgl .H auptner,B r i g i t t e :A d a l b e r tS t i f t e r .GedenkraumeW i e n .K a t a l o g e . Wieno .J .S .1 2 f . .5 8 . 6 ) a . a . O .,S 7 ) 多木浩二『表象の多面体 キーファー,ジャコメッリ,アヴェドン,コールハー ス . 1 (青土社, 2 0 0 9年) 2 7頁。訳文を少し変えた。 8 ) 前掲書, 3 2真。 9 ) 多木浩二『シジフォスの笑いアンセルム・キーファーの芸術.1 (岩波書j 苫 , 1 9 9 7年) 1 5 1頁参照。 1 0 ) ハイデガーとツェランの出会いの詳細と詩「トートナウベルク」の解釈につい ては,拙著『評伝パウル・ツェラン.1 (慶藤義塾大学出版会, 2 0 0 7年)の 3 7 5 3 9 3頁参照。 1 1 ) Vg . Ge l l 1haus ,A x e l :恥..s e i te i nGesprachw i rs i n d . .. { .P a u lC e l a nb e i MartinH巴i d e g g e ri nT o d t n a u b e r g .Spuren6 0 .Marbacha .N .2 0 0 1,S .2 . a d r i e n :P a u lC e l a nundM a r t i nH e i d e g g e r .VomS i n n 1 2 ) F r a n c e L a n o r d,H r e i b u r g . iBr ./ B e r l i n / W i e n e i n e sG e s p r a c h s .U b e r s e t z tvonJ u r g e nG e d i n a t,F 2 0 0 7,S . 2 1 5 . a u l :Gesammc 1t cWerkei nf u n fB a n d e n .H r s g .vonBedaAl 1emann 1 3 ) C e l a n,P undS t e f a nR e i c h e r tu .a .F r a n k f u r ta .M.1 9 8 3,B d .1 ,S .1 5 6 .以下,同書から の引用は,略号 G Wのあとに巻数をローマ数字で,頁数をアラビア数字で本文 中に示す。 1 4 ) Vgl .Werner ,U te :Textgraber .P a u lC e l a n sg e o l o g i s c h eL y r i k .Munchen 1 9 9 8,S .8 0 f f . 1 5 ) V以 g 1 .Seng ,J o a c h i m :AufdenK 王 r 陀巴l お s 抗 t i ぬ onb e iP a u lC e l a namB e i ぬ s が pi e ld e rG e d i 旬 c h t b 昌n deb i s) ) S p r a c h g i 比 t t 匂e r “ { < . p o s i H e i d e l b 巴r g1 9 9 8,S .2 0 1 2 0 4 . 1 6 ) Vgl . Ols c h n e r ,L e o n a r d : 1m Abgrund Z e i. t Paul Celans P o e t i k s p l i t t e r . , S . 4 7 5 3 . G o t t i n g e n2 0 0 7 1 7 ) Vg . 1B e e s e,H e n r i e t t c :Nachdichtunga l sErinnerung,Darmstadt1 9 7 6,S . 1 9 7 . 1 8 ) S t i f t e r, Adalbe: tGesammelteWerkei ns i e b e nB a n d e n .B d .3 , Bunt 巴S t e i n e . E r z a h l u n g e n .L e i p z i g1 9 4 2 . 1 9 ) 詩集『言葉の格子」の大きなテーマの一つは地質学である。最初に書かれた詩「確 信」は 1 9 5 5年 3月 2 4日から書き始められた。また死ぬまで手もとにおいて詩作の 変転する水晶 1 5 5 際に参照した地質学のハンド、ブック『地球の歴史 ( D i eE n t w i c k l u n g s g e s c h i c h t e 9 5 5年頃に購入している。 d e rE r d e ) J( L e i p z i g1 9 5 5 )も1 2 0 ) K i e f e r,A n s e l m :D ieKunstg e h tknappn i c h tu n t e r . AnselmK i e f 巴r1 m GesprachmitKlausD e r m u t z .B e r l i n2 0 1 0,S . 1 4 3 f . ) Vg. I Rosenbrock, T h e o :E r l a u t e r u n g e n zu A d a l b e r tS t i f t e r s> > D a s 21 H e i d e d o l f < <und> > B e r g k r i s t a l k1 9 6 2 .S . 4 8 . d i t h :BegegnungmitP a u lC e l a n .ErinnerungundI n t e r p r e t a 2 2 ) Silbermann,E t i o n .Aachen1 9 9 3,S . 6 0 . (せきぐち・ひろあき 情報コミュニケーション学部教授)
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