最 後 の 転 居

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最 後
の
転
居
安塚診療所 竹
内
一
郎
川を渡って小高い所に、
我が家の墓地があった。
墓は日当たりがいい。なお且つ最近は小雪続き
春日山の支城・三国街道の抑えの直峰城址を直前
である。春のお彼岸には堂々と全容を見せている
に見る所であったが、老松の根に先祖代々の墓は
が、高すぎて掃除をするのが大変である。
傾き自宅敷地内に移転を決めた。
墓までの土手には雪割草、黄連、スミレ、いち
40年前の話である。まだ原型をとどめる3個の
げ、春欄なども咲き、ヤブコウジの実の赤が鮮や
頭蓋骨と、四肢骨や肋骨等が沢山あった。父と2
かである。緑の木陰から道祖神も迎えてくれる。
人でしっかり背負った。お墓の跡には地蔵さまを
敷地内の迂回路にも道祖神が立ちこの木立を抜け
建てた。
ると、我家の観音堂があり自宅と池を含む庭が一
豪雪地の事、春のお彼岸にいつも雪の下にいる
望できる。
のは嫌だと父と意見が一致し、
高いお墓を造った。
贅沢な転居先である。
灰になっても窮屈なのはいやだとこれも意見が一
死が訪れると人は元素の世界に戻り、あらゆる
致してお墓の下段に、こじんまりした石室を作っ
物質に組み込まれる(現代的転生か)が灰は集め
た。昔からの古いお墓の石は新しいお墓に組み込
られて墓に入れられるのでここが元素密度が高く
んだ。石工たちは見たことの無い材質で出所を盛
なり、先祖代々の DNA も濃密である。
んに議論していた。
「私はここにいません」と歌われているがやは
先祖は奈良の西の竹内という集落から出た・・・
り私はここにいる。魂だけが自由に宇宙遊泳を楽
と言い伝えられており、奈良旅行の折り先祖の
しみ時々お墓に休息に戻る。
命日と盆とお彼岸に、
ルーツを訪ねた。難波の港から奈良の都への当時
仏壇に出かけるお勤めをすればあとは自由の身で
の一級国道・竹内街道は竹内峠を越え細々と林の
ある。御先祖様たちと日向ぼっこをしながら何を
中を曲がり下りはすすきの原の小道となり、静か
語るのだろうか、楽しみである。とにかく次の居
なたたずまいの集落に続いていた。
住先となり、終の棲家となるはずのお墓だが、か
その後石室の入り口は塞がれ、誰からも邪魔さ
といってあまり早く逝きたくもない。まだシャバ
れない静かな世界となった。この時長男、嫁、孫
に未練がある。
はご先祖さん達に対面し絶句していた。
あれこれ考えて、遺言を書き昨年生前葬を済ま
新しい墓は自宅より高い場所にあり仏壇の真裏
せた。死への不安が無くなり気が楽になった。皆
の位置にある。墓という字は土の上に人を置き蓋
様もう暫くどうぞよろしく。
をして日が当たり草が良く育つところに作るとこ
(上越医師会報 平成28年7月号より)
の字は下から書いていくんだと幼い時に教えられた。
新潟県医師会報 H28.9 № 798