古 川 五 巳

古 川 五 巳
ピアノを始めるきっかけになった曲や、ベー
ナットのベッヒシュタイン・グランドピアノ、
しょくだい
トーヴェンのピアノ・ソナタを作品順に勉強し
片隅に壊れた燭台がついた古い黒の縦型ピアノ
たど
作品90のソナタに辿り着いた時に感じた音楽、
があります。ベッヒシュタインのピアノに向か
そして、演奏会やレコード、CD、DVDなどで
おうとすると、奥の縦型ピアノを指差し
弾き、聴き、視た心に残る曲というのは数限り
「どうぞ」
、そして「Es-durの音階を弾いて
なくあります。その中から1曲を選ぶことは選
ください」
。
ばなかった他の曲への裏切りのようにも感じま
…えっ!ハノンの39番? 指慣らしかな… 遠
す。
くドイツに来て初めて弾く曲が音階なのか、と
そこで私はあえて次のことを書かせていただ
きます。
少しがっかりしながら気楽に弾き始めました。
ユニゾンの音階を20回ほど往復すると、
「10度でどうぞ」
(H)
【Es-durの音階】
私にとって忘れられないことです。
今から数十年前、ドイツ・ミュンヘンに留学
…おや?… 左手がES、右手が10度上のG
です。なんとか弾きました。
「3度でどうぞ」
(H)
しました。師事する予定の先生は、マリア・ラ
右手が1オクターブ下に移動し指が接近し弾き
ンデス‐ヒンデミット女史、作曲家パウル・ヒ
にくくなります。つまずきました。
ンデミットの弟ルドルフ(チェリスト)の奥さ
「続けて!」
(H)
まで、当時すでに65歳を過ぎ、ミュンヘン音大
先生は紅茶とクッキーを片手に手紙を書きな
の特任教授をされていました。
最初のレッスンでご自宅に伺いました。玄関
でのご挨拶の後すぐに、
がら言います。
「6度で!」
(H)
左手がG、右手がESです。頭が混乱し、弾き
「今日は何を弾きますか?」
(H)
始めの指づかいもはっきりせず、当然うまく弾
「バッハ《平均律》
、ベートーヴェンのOp.81-a
けるわけもありませんでした。
《告別》ソナタ、ショパン・・・・」
(F)
「止まらないで!続けて!」
(H)
つたな
音大の受験曲を拙いドイツ語で気負いながら
声も大きくなり、男のような低いだみ声で私
しった
伝えました。
レッスン室に入るとそこには素敵なウォール
を叱咤します。うまくいきません。
…僕は音階も弾けないのか… ♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・
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いきしょうちん
かといって意気消沈という気分ではありませ
ん。一言でいえば「原状回復したい」といった
になって考え、気付いたことは次のようなこと
でした。
気分でしょうか。
40分も音階を弾いたあと、先生はベッヒシュ
〈注〉
タインに向かい、ある和音の連続
を弾き、
私に同じように弾くよう言われました。そして
…… Es-durの音階、リストのピアノ・コン
チェルト第1番Es-durからの和音は、すべて
《告別》ソナタEs-durの演奏のために用意され
私はそれを何回か弾いているうちに、
たことだったのではないだろうか。これは、ピ
…何か覚えがある、そうだ、これはF・リスト
アノ・テクニックの基本である「音階」と【和
のピアノ・コンチェルト第1番の冒頭だ…
音】を、演奏する曲と同じ調性で演奏前に周到
(リストのピアノ・コンチェルト第1番の冒頭、
に準備し、加えて初対面の私から音楽を引き出
すための一つの方法として、ヒンデミット先生
B♭7 和音+B♭のオクターブ音です)
が考えていたことに違いない ……
レッスン開始から1時間近くになり、ようやく
その後、ヒンデミット先生のもとで数年にわ
「ベートーヴェンを弾いてください」
(H)
ベッヒシュタインのピアノのほうへ手招きされ
たり勉強を続けましたが、レッスンを重ねるご
ました。
とに、先生の音楽に対してのこのような考え方
ずいしょ
[
(H)・・・ヒンデミット女史、
(F)・・・古川五巳]
が随所に感じられ、それらは今までの私の音
ふ
この頃には、体が熱くなり汗も噴き出してい
ます(冷汗!)
。それより何より、心に持って
楽人生に大きな力となったことは言うまでもあ
りません。
いた気負いや自信などはすっかり消え去り、素
当時のヒンデミット先生の年齢が見えてきた
直な真っ白な気持ちです。
このような状態で《告別》ソナタを弾きました。
私ですが、あの時の【Es-durの音階】を忘れな
その演奏は私のありのままだったと思います。
いよういつも思い出し、自分を見つめなおして
弾き終わった後、ヒンデミット先生から様々
います。
な注意を受け、レッスンは《告別》ソナタだけ
(ふるかわ いづみ ピアニスト・昭和音楽大学教授)
で終わりました。
そして、レッスンの時には全く気付かず、後
〈注〉
Konzert I .
F. Liszt
♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・
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