ちょっとだけ feedback 生成文法(初級) 具体例を通して学ぶ考え方と方法論の基本 奥 聡 *とても有意義な質問やコメントをたくさんいただきました。少しだけ feedback をします ので参考にしてください。(時間的な理由と私の能力の問題から、全ての質問や感想にはコ メントできませんが、ご了承ください) Day 02 ・Q2-1:ルーマニア語では、Wh 句が全て文頭に現れるのに対して、英語では1つだけとい う違いは、やはりパラメータの違いから来ているのでしょうか? 最近のミニマリストプログ ラムではあまりパラメータを用いないで現象を説明しようとしていると思うのですが、パラ メータを用いないでこの違いを説明することは可能なのでしょうか? (大谷修樹) *A2-1:パラメータという考え方を用いて説明されている(た)言語間の体系的な相違を パラメータを用いずにより良い説明をするというのはとてもチャレンジングな課題ですね。 ある種のパラメータのようなもの(つまり、個々の I 言語の文法における可変部分を説明す る仕組み)はある程度必要なのではないかと考えていますが、それが恣意的に増えてしまう ことに対する反省もあり、慎重に考えなければならないというのが現在の一般的な態度では ないかと思います。 ・Q2-2:日本語の Wh の解釈(意味表示)はどのようになりますか。(平野尚美) *A2-2:例えば、英語の Who did Taro meet?と日本語の「太郎は誰に会いましたか?」が 表す「意味概念」は同一であると考えられますね。すると、どちらの言語の意味表示も基本 的には同じになるはずです。一方、日本語には英語のような wh 移動は義務的ではないので、 英語の who が文頭で果たしている機能は、日本語の「誰」がその位置に移動しているが発 音はされない、というのがひとつの有力な考え方になるでしょう。もう1つの考え方は、日 本語の「誰」や「何」は、意味的な機能としては、移動しない元位置で変項として解釈され るもので、英語において移動先の who が果たしている役割(つまり wh 疑問文の作用域を 指定する機能)は、「か?」や「の?」など文末に現れる疑問文のマーカーであるという考え 方もあります。これに関して、興味深いことは、日本語の「誰」や「何」は文中で適切な「要 素」と一緒に使われなければならない、ということです。 「か」なしで、 「太郎は花子が誰に あった_知らない」は非文ですね。つまり、「誰 … か?」のセットで初めて、英語の who と同じ意味機能を果たすわけです。また、 「か」が「誰」と隣接している場合は、英語の someone 1 と同じ意味機能になります。「花子は誰かに会いました」 ・Q2-3:生成文法の言語観における「新しい句や文を無限に生み出す仕組み」とは、何を 以って「無限」と言えるのでしょうか? *A2-3:例えば、A さんがパソコンのデータベースに「日本語の全ての文を入れた」と主 張したとしましょう。膨大な数の文の集合ですが、有限ですね。そこで、そのデータベース の中から、1つ文を選んで(例えば、 「太郎は背が高い」を選んで)、その文に「と思う」と いう述語を併合すると、「太郎は背が高いと思う」という新しい文が1つ増えたことになり ます。つまり、A さんが「全て」と主張していた日本語文の集合は、全てではなかったわけ です。そして、すでにある文に新しい要素を併合して新しい文を作るという操作は、いくら でも繰り返すことができますね。「併合の繰り返しの回数は6回まで」というような制限は ありません。無限に繰り返すことができる、ということは、文の数を無限に増やすことがで きる、ということです。つまり、再帰的併合という仕組みがあれば、原理的に無限の数の文 を作ることができるわけです。この仕組みは、実際の人間の言語の創造性を保証してくれる 統語的な仕組みであると考えることができるわけです。 ・Q2-4:Ross の様々な制約を後に Chomsky が subjacency としてまとめたわけですが、そ の考えは minimalist program でも引き継がれているのでしょうか? (杉浦航) *A2-4:Minimalist Program の基本的な方針は、できるだけ必要最小限の道具立てで言語 現象を演繹的に説明しようとするものです。したがって、それまで subjacency のような「原 理」として規定されていなものを、できるだけなくして、その効果を言語表現を生成する基 本的な仕組みに還元できないかと考えるわけです。Subjacency のような局所性制約の一部 は、特定の単位(phase と呼ばれる)ごとに解釈部門に構造が送られるという派生の根本的 な仕組みに還元できるのではないかというのが現在の中心的な考え方だと思います。 ・Q2-5: 「移動」の局所制約が構造依存的であるという考え方についてですが、もし抱合語 に分類されるような言語を対象とした場合、どういう構造を跳び越えるかというときの構造 の捉え方はどのように考えれば良いのでしょうか? (百間みのり) *A2-5:とても興味深い質問です。抱合言語に複合名詞句からの抜き出しという現象がそ もそも想定できるのかがまず問題となりますね。Handbook Day01 の最後に紹介した文献 の中の Baker の本を見ると、そのようなタイプの言語について少し説明があると思います。 ・Q2-6:テキストなどでは「若手作家を」というように格助詞を含んだ形に NP というラ ベルが付与されていました。日本語文法では「若手作家」を名詞句とし、名詞句に格助詞が くっつくというような捉え方をすることが多いと思いますが、生成文法では「N ヲ」のよう な構成素を NP と呼ぶことが一般的なのでしょうか。(中俣尚己) *A2-6:興味深いポイントですね。日本語の格助詞がついた構成素と格助詞が付いていな い構成素が文法的に同じ種類の品詞(統語範疇)であるかどうかは、慎重に検討しなければ 2 ならない課題だと思います。この問題は、日本語の格助詞がどのようなメカニズムに名詞句 に付与されるのかという問題とも密接に関係しているでしょう。つまり、例えば、「若手作 家」とは別に「を」が辞書内で、独立の形態素として存在し、その2つが統語部門で併合す ると考えるのか、または「若手作家」が動詞と併合した結果として、動詞から格助詞のマー カーが与えられると考えるのか、など。 ・Q2-7:一般に、ある要素 X は自分自身に併合することはないと思うのですが、その理由 は、そのような併合は外的併合の定義にも内的併合の定義にも合わないからと考えてもよろ しいでしょうか。(福田稔) *A2-7:とても興味深い質問ですね。併合(内的・外的に関わらず)は、頭の中にある言 語材料を利用して、2つのものを1つにする操作ですから、原理的には自分自身への併合も 妨げないと考えることもできるかもしれません。その場合は、事実としては自分自身への併 合ができないということであれば、何か別の原理でそれが妨げられるという考え方になるで しょう。もう1つの可能性は、X は1つの要素なので、それを「2つのもの」と認識するこ とがそもそもできないので、X1つだけでは併合の対象にならないという考え方です。その 場合は、通常の内的併合の場合との区別を慎重に検討する必要があると思います。 ・Q2-8:移動に関して、実際に間に挟まる単語の数により制約を設けているような仮説は あるのでしょうか? *A2-8:real time の言語処理(parsing)の研究では、そのような制約が関係してくる現象 があってもおかしくないと思います。 ・Q2-9: 「非文が生じる文もよく見ている内に問題なく感じられるようになっていく」とあ りましたが、それは例えば、不適切に抜き出された要素を、時間をかけることによって元位 置で解釈できるようになるということなのでしょうか。また、そうだとすると解釈に労力が かかるか否かで正文と非文を区別するのでしょうか。(森本雄樹) *A2-9:興味深いポイントですね。局所性の制約に関しては、上記のような特徴を持った ものもあるようで(ロスの制約もその1つかもしれない)、それは基本手に parsing (real time の文処理)の問題かもしれません。一方で、いくら時間をかけてみても、一向に不自然 さがなくならない非文もあるようで、それらは本当の意味での文法上の局所性の問題かもし れません。古典的な例としては、subjacency の違反は前者の例、ECP の違反は後者の例、 と考える人もいるようです。 3
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