『文化人類学』で新たな企画があり、編集長の田中先生と私が来ました。

上水流:今回、
『文化人類学』で新たな企画があり、編集長の田中先生と私が来ました。デザインも
変わります。新たな企画、研究室訪問等も始め、今回先生の訪問となりました。そもそも先生と人
類学とはどこで出会ったのですか。もともとシャーマニズムの研究をされていましたが。
崔:シャーマニズムからあったんですけれども、それは植民地研究へとなっちゃう。
上水流:そうなると植民地になっちゃうって、先生どういう?
崔:朝鮮でシャーマニズムを研究していた秋葉先生。泉靖一先生が秋葉先生韓国人の 2 人もの助手
やったね。
上水流:京城帝国大学で。
崔:で、協力して研究をずっとやった任晳宰先生が秋葉先生の弟子。その先生が私の大学の恩師の
先生なの。その先生が韓国で文化人類学という講義を最初に大学で正式に講義した時に、私がそこ
の一回目の受講生なの。
上水流:第一期生ですね。
崔:受講生というか、同じ学部の先生ですけれども所属学科が違ったんですよ。あの先生は教育心
理学科の先生で、私は 2 年生の時に文化人類学の講義を聞いて、それが 1961 年ですね。当時他の
大学では文化人類学っていうものは全くない。だから戦後の文化人類学の始まり。戦前は京城大に
秋葉先生中心であっても、戦後始まるのは、その先生が私の恩師からでありました、95 歳で 10 年
ほど前に亡くなったんですけれども、あの先生の講義を聞いて文化人類学に目をひらけたのです。
その先生がフィールド調査をした所が私の生まれ故郷の楊州、先生は仮面劇を調査したがそれは
秋葉先生が戦前任晳宰君として連れて行って調査したことをし続けて調査したのです。私がそこ出
身で民俗学、文化人類学に関心があるからという事で今度は私に案内しなさいと言われて私が案内
することとなりました。
上水流:恩師の先生を連れて?
崔:うん。1958 年に任晳宰先生は韓国文化人類学会を作り、月例会で先生から私に発表しなさいっ
て言われて。いやー、学生時代そうなるともう、もう飛んでいく気持ちになって、それで私の生ま
れ故郷のシャーマンの儀礼について発表しました。私が 3 年生…4 年生の時であったか。
上水流:そこから始まっているんですね、シャーマンの研究は。
崔:任晳宰先生とは別にもう一人の私の先生、任先生より世代が遅い李杜鉉先生です。先生は東大
の泉靖一先生と友人であり中根千枝先生とも親しい方です。それで私に東大に留学の話が出たの。
1965 年日韓国交の正常化後に、日本から文化人類学者が何人か来られました。私その時の日記を探
してみたらやっと分かったんだけど、蒲生先生、鈴木満男先生等。当時私は文化人類学会の総務幹
事をしましたので、研究会やら通知などの事務をやったんだから、ほぼもう私が参加しました。
上水流:先生はソウル大学の学部の時に会ってらした?で、学部を出た後にそのまま東京大学に留
学という話があったという?
崔:ずっと後になるんです。陸軍士官学校で教鞭をとり、文化広報部の常勤文化財専門委員を務め
ながら韓国国立民俗博物館の創立に関わる仕事、文化人類学、民俗学の非常勤をしていました。民
俗博物館に日本から訪ねて来られる学者と自然に会うようになりました。泉靖一先生と石田英一郎
先生には学会で講演していただきました。泉先生は戦前に知ってる人に会いたい探すわけ。私は言
葉が通じないから。あの先生とはブロークンイングリッシュで何とか単語で私と話をして、張籌根
先生が長く日本語で通訳してくれまして、
上水流:韓国に来られて探されたんですね。
崔:泉先生が韓国に来て一番関心持つのは、最初に秋葉先生が調査した地域。そこを探す訳よ。そ
れが私の生まれ故郷じゃないですか。私の任先生の仮面劇調査もそこじゃないですか。それで泉先
生が忙しい中でも 1 日私の案内でシャーマンの“クッ(굿)
”という儀礼を見せたのです。これも
先生がすぐ後、岩波から出る『世界』に私の事を書いてある。1972 年泉先生の 3 度目の訪韓の時
は最初から私が徹夜でクツを見せました。
1
上水流:泉先生のお相手を?
崔:うん。案内して帰ってすぐ亡くなりました。泉先生と仲良しの人があの、ドキュメンタリ映像
会社の社長の…えーと…。
崔:あの日本テレビで「素晴らしい世界旅行」というアフリカの方も沢山やったあの番組。それを
撮影に牛山純一氏、市岡康子氏の撮影チームがソウルで一か月間滞在しました。私が映像撮影にま
ぁ色々手伝ったりして関心が高まったのです。
上水流:商業学校でされたり、陸軍士官学校でされてる時も先生としては、そういうシャーマニズ
ムみたいなものはずっと関心があって追いかけてはいた?
崔:母がシャーマンを信じて、私は子どもの時から身についているのです。したがいまして他の人
が調査した報告書読むと物足りなさをつねに感じます。私はその中で育った人間だから。その私の
家庭事情を聞いた任晳宰先生が「母の信仰を研究するのが一番良い」と。それで私はシャーマニズ
ムを研究しました。
上水流:そうですよね。秋葉先生も韓国は 2 つにね、儒教文化とシャーマン文化の 2 つにならねば
ならない、という議論を最初されてたと思うんですけど。
崔:私、秋葉先生の本を日本語だから読めないんですけど、うちの先生が私に見せてくれたこの本
『朝鮮巫俗の研究』にはわが家の得意シャーマンの写真載っている訳よ。シャーマンたちはもう亡
くなった方ですがわが家の得意シャーマンに見せたら
「あ、
これ自分と一緒にやったシャーマンだ」
とか懐かしくしていました。しかし私は中学校に入ってからはわが家のシャーマニズムを迷信だと
思って恥ずかしく思っていました。母が私を連れてシャーマンのところへ行ってもお辞儀もしない
で、帰って怒られたりしたんですけれども。ソウル大学に入ってから先生から「あぁそれを研究し
たらどうですか」言われた時バッと私は変わった。
「あぁなるほど」
。それで、そこが今までシャー
マニズムを研究してきている訳です。
上水流:シャーマニズムの研究をずっと続けてこられて、特に韓国社会の理解をするうえではシャ
ーマニズムをきちっと理解しないと分からないという
崔:今の考え方だったらシャーマニズムを研究したがらなかったかもしれないけど、その時代にシ
ャーマニズムが韓国の民間の底流に影響をしていました。当時はキリスト教がまだそれほど盛んで
はなかったです。ソウルなど都会にはキリスト教会があっても、田舎には全くないし、シャーマニ
ズムが信仰されていました。
まぁそのシャーマニズムを研究する値はあったじゃないかって思って。
日本語の本が読めないからね平仮名と片仮名だけを覚えて漢字と助詞だけで読んだのです。
上水流:秋葉先生の本を?
崔:その本をもってシャーマンの所に行って見せながら話をしてインタビューをしたのです。そこ
に転機でありました。日本に留学する事で、あぁ、日本語で読めるようになりまして秋葉先生の博
士論文を韓国語で翻訳もしました。
上水流:先生、おっしゃった転機であったというのが日本に来る留学だったっていうんですけど、
その留学に来るきっかけというか。それもやっぱり…
崔:全く偶然。あれ、私はもう……。あの生き方が物凄く乱暴な生き方だと思う。で、もう文化人
類学はソウル大に、今は人類学科もあるんですけど、それはずっと後できた。以前は考古学科はあ
っても人類学はなかった。ただ師範大学(教育学部)に任晳宰先生と李杜鉉先生が中心に文化人類
学が研究、講義されていました。それが後に日本時代の、植民地時代の系統のものと言われました。
で、私がそこの末端にのって文化人類学会の総務幹事やっていました。当時の文化人類学とは民俗
学そのものようでありました。4、50人が集まるのが常でありました。任晳宰先生の会長は10
年間にもなり、新しく梁在淵先生を第二代会長として迎えました。梁先生は国文学者であり仮面劇
を研究した方です。梁先生は社交性があって、蒲生先生とか日本人の学者とも交流を測りました。
先生は文化弘報部に積極的に出入りしながら研究調査費を受けました。これが最初に韓国の全国民
2
俗調査でした。張籌根先生が調査項目などは日本の本から書き写して作りました。全羅南道からは
じめ全国に年度別に行われました。それが国書刊行会から日本語訳が出されました。その人の業績
は凄く大きい。
学会の会員から会長の接待を非難する声が出ました。当然私も含まれたでしょう。私があの会長
先生について歩いて完全にスポイルされたという噂がバァーっと流れてね。物凄く嫌な、その前ま
では凄く良く、上手く行っていると思ったら、大失敗になっちゃったの。あの先生も辞めて、その
時にね、いやー私はもう韓国逃げる事を考えた。私は最初ドイツ留学を準備していたが、結局急に
日本留学を決めました。泉先生がいらして、李杜鉉先生と夕食の時「日本でシャーマニズムだった
ら堀一郎先生」と話し合って「日本に行ったらどうですか?」
「行きますか?」と私はすぐ OK し
たのです。東大に後見人として中根千枝先生にした。それで日本に来て1年間は完全に中根千枝先
生の指導を受けました。
上水流:何という先生?ドイツに行かないとか言った
崔:日本行きは早く、確実ですからと単純に考えました。李杜鉉先生は東大出版部からの『朝鮮芸
能史』があります。
上水流:それで、そこで
崔:元々大学入る時は、有名な評論家になりたかったの。
上水流:そうですか、元々は。それで国文に!
崔:文学から。
上水流:そうですよね。
崔:大学、国文学に入ったのも評論家になる為に。心理学、美学、音楽などの知識が必要だと思い、
大学に入ってから見たら評論家になることを教える先生が一人もいない。国文学科では古典を教え
る先生ばっかりでね。それで面白くないから、その時に文化人類学や仮面劇の先生のところに近つ
いたのである。とうじ民俗学は正式な学問じゃない。在野のモノカタリですね。日本に来て民俗学
や文化人類学を本格的にならうこととなりました。
上水流:そうですか、中根先生の元で?
崔:そこで勉強しました。中根先生のクラスメートが・・・
上水流:クネヒト先生?(ペトロ・クネヒト先生)
崔:うん、クネヒトさん。彼と一緒。
上水流:あぁ!そこで!
崔:その時、教材がね、リニージに関する本。
上水流:モーリス・フリードマン?
崔:うん、フリードマン。それを中根千枝先生の講義には多くの学生が集まった。中根先生は英文
の論文のテストで人数を調節したようですね。
上水流:そうですか。
崔:東洋文化研究所では中根先生を中心に読書会ができました。末成(道男)さん、伊藤亜人さん
と、依田千栢子さん、東北大学の杉山さんなどが参加しました。私は巫俗集団について発表しまし
た。
上水流:杉山先生(杉山晃一先生?)
上水流:進学は?
崔:うん。それで成城で堀一郎先生のところで勉強する事になったが先生が病気で数回自宅で講義
を受けたことだけで先生はなくなられました。堀先生亡くなって代わりに一年間森岡清美先生、家
族社会学の講義をはじめ多くの先生の講義を受けました。野口武徳先生から沖縄の事日本に来たば
っかりで宮古島調査にも参加した。
上水流:宮古島行ってたんですか、そのまま。
崔:72年に来て、73年は早稲田大学の与論島調査にも参加しました。何にも分からないで行っ
3
て、言葉はできず言葉の力を改めて認識したのです。
田中:そりゃあもう、いっぱいありますけど。
上水流:宮古島ではよりいっそう。当時も考えれば復帰直後ですしねぇ
崔:私は言葉も知らないで。普通は言葉知らないという事はあまり経験しなかったんですけど。そ
の時私、日本に来た時の日記を見たら日本を物凄く蔑視したね。基本的には。やっぱり韓国人、一
般の人と同じように。浴衣着ることなど日本文化にも物凄く拒否感がありました。もう嫌。嫌な感
じでね。見るだけでも野蛮人のように。そりゃそう、浴衣というものは寝巻のようなもので、下駄
をはいてね、それで温泉を歩くとか、そういうもの、最初にそれを見て、どんなにびっくりするの、
これ。日本人は野蛮人だと。だから、そのままにして、今こんなに変わるんだから、あぁ本当にだ
いぶん変わります。
上水流:文化は後天的ですよね。それで、先生、ずっとその頃は、日本に来てからもシャーマンの
調査を続けられるじゃないですか、ずっと。その中で、先生が書いてた中で面白いなと思ったのは、
キリスト教に入信されますよね。キリスト教に入信してみたら、韓国で。キリスト教の世界にもま
さしくシャーマンの世界が広がっていてびっくりしたという風に。
崔:まず、
(おふたりの)宗教は?
上水流:まぁ仏教ですね?
田中:そうですね。
崔:仏教と言ってもどこまでが仏教信者か。
田中:そうですね。
崔:キリスト教は信者であるか無いかは洗礼という儀式があります。私はシャーマンを研究し始め
てからシャーマニズムは迷信というように距離を持ちながらクリスチャンになりました。それは長
い話があります。私は 1959 年ソウル大に入ってから李承晩大統領が独裁への反政府デモが頻繁に
起きていました。特にソウル大が中心にして、学生デモ起こして、結局青瓦台の、今は青瓦台の前
で3百何十人殺された有名な1960年4月19学生革命であった。その革命が起きた。李承晩が
倒れたことに一般農民は理解してくれなかった。李承晩の様な英雄をね、何で学生達が倒したか。
それでソウル大学が学生中心に啓蒙隊を作ったね。
上水流:啓蒙隊を。
崔:私はその啓蒙運動に参加して、結核末期と診断された、死の直前までいって。それで急に休学
させられた。
上水流:結核だから、そうですね。
崔:で、隔離されるべきですがそういう施設を知らず田舎に行き、精神病患者さんと一緒に隔離さ
れていました。本当に涙で、絶望を生活をしていた時にある若い伝道しが夜訪ねてきてお祈りして
くれました。私はそこでクリスチャンになりました。半年後田舎からソウルに戻り教会で 1960 年
クリスマスの日に韓景職牧師から洗礼を授けられました。それによって私の価値観は大きく変化し
ました。
上水流:ただ先生、そうなんですけど実際、やっぱりキリスト教が韓国で土着化していく中で、そ
ういうシャーマン的な要素も見られてという事?
崔:そうそう。一般的に韓国の大型キリスト教会では献金の後に病気治療の祈り、痛い所を。頭痛
い人は頭、胸が痛い人は(胸を)指して。激しい悪口たくさん言いながら、そのお祈りする。これ
がね、爆発的に人気があります。シャーマンのお祈りがむしろ教会の祈りより静かな信仰的である
と思うようになりました。教会ではマイクで大きい声、興奮する祈りには抵抗を感じましたね。私
は分かれたシャーマニズムを教会で再会したようでした。
上水流:そういう意味では病気治療っていう事で言うと、やっぱりシャーマンと似てたから?
崔:韓国のキリスト教ははシャーマニズムを意図的に入れました。日本のキリスト教会と対照的で
す。日本人の献金は 10 円玉投げるでしょ?
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上水流:はい、神社とかね。5 円玉。
崔:10 円玉投げて祈りで大事なこと健康と豊かさを願いますね。あれ神様怒るよ。10 円玉で。ま、
そういう献金の事に対するものと、シャーマンと病気治療と関係が深い。韓国のキリスト教会につ
いては秀村研二さんが研究しています。
上水流:はい、秀村先生
崔:それで私は彼にね、韓国のキリスト教の研究してみたらどうですかと。
上水流:薦めた事があったんですか!それはね、今は秀村先生キリスト教やってますのでね。
田中:やってますね。
崔:今でもやってるか。
上水流:はい、やってますよ。秀村先生の出発点には崔先生が。
崔:うん、まぁ。そう覚えてるか分からないけど。結局教会の中でシャーマンにずっと会う。こう
いう矛盾をね、常に。常に。日本のキリスト教会では全くない。本当に聖書勉強会教会と同じ。知
識は増えるかもしれないけど、そういう感情的なものは、もう無い。
上水流:こう…感情が昇華されていくような要素がね、なかなか。
崔:そういう信仰の怖さもあります。イスラム死後あの世があるという信仰は正しいながら怖いと
ころもあります。イスラムだっておなじだと思うよ。
上水流:あぁ…自爆テロとかね…
崔:皆さんなかなか体が死んだらもう終わりでしょ、と言う。しかし自分が死んでも世の中は存在
することは安心であり、嫌なことでもあります。この世で出来なかった仕事、あの世でまた続ける
と思うと安心します。それはキリスト教でもシャーマニズムでも同じです。
上水流:先生ずーっと 1980 年代ぐらいまではシャーマニズムの研究されていて、1990 年ぐらいか
らガラッと植民地の研究に先生のテーマが変わっていきますよね?私が出会った頃はもう植民地研
究をずっとされていたと思うんですけど。
崔:日本に呼ばれたのは来たのはシャーマニズムじゃなかったね。
上水流:中部大学に呼ばれた時ですか。王崧興先生?
崔:うん。
上水流:一旦、先生韓国に戻られて啓明大学校とかでずーっと教鞭を取られて、で、中部大学に呼
ばれる形で日本にまた来られた?
崔:日本留学の間はシャーマニズムの文化人類学に勉強しましたすけど、運が悪くってね。日本で
5 年間も一応留学してから韓国で就職したところが日本語教育学科であった。慶南大学という、馬
山にある。
上水流:あぁ、馬山の慶南大学
崔:大学時代のもう一人の恩師が総長をしていました。先生から日本で長く留学したので日本語で
も教えたらどうですかと。日本。日本では日本語勉強に熱心じゃなかったんだのに。
上水流:日本にいる時にですね。
崔:日本でも真面目じゃないのに、韓国行ったら日本語。そして先生がね、もう書類なんとかする
ものは後で良いから、
まず教授会に出ましょうと教授会で日本語教育学科の教員として発表された。
上水流:教授会で!?もう。手続きする前に。
崔:もう自分の弟子だから先生がね。
上水流:韓国らしい…。
崔:その時代はそうだった。それが 3 月 1 日から韓国は学期が始まるから、日本に行って片付けて
来いと言われて一週間で若干の荷物をもって完全に帰国しました。私は荷物というものはね、もう
貧乏暮らしだから。で、大体日本人が捨てた録音機とか言う所にモーターが入ってるから、モータ
ーを取り出して、それで扇風機を作ったものばかりでしたて。借り部屋はそれ伊藤亜人さんのお母
さんの紹介で可能でした。その時は韓国人が部屋を借りるのも難しい時代でした。
5
上水流:伊藤先生のお母さんが?
崔:そのアパート、トタン屋根でね。夏は暑いんので昼は会館など涼しい所で勉強しました。成城
大学院生たちと勉強会を作くりました。フォーテスの原著の祖先崇拝の本を注文して 1 年間読書し
ました。その読書会には色んな人が来てくれました。鄭大均さんもその時来て縁ができました。
韓国に帰国して日本語教育科に日本語を教えること、発音に自信がなかったです。それで NHK
のラジオニュースのテープを持って、暗記させる。スパルタ式教育をしたのであります。学生たち
から不満があったんですけど。後々ね、あれが評価されて啓明大学から呼ばれて、そこで 12 年間
勤めたのです。その間日本語科の教員としてシャーマニズムの研究を発表しても「何で日本研究者
がこういうものする?」っていう。また一番問題になるのはね、反日感情が強い同僚たちからもま
ぁ…差別されるわけよ。私も差別されるわけよ。考えてみて下さい。日本まで留学して帰った人間
が国学関係の教員たちからも相手にされないこと。ねぇ、蔑視するような言、平気で言われたので
すよ。それ一般人もそうでしょ。学生の中でも「先生は親日派」だとか。それで最初は怒ってね。
そんな人は皆出なさいと。成績出さないと。
(笑)そうしたんですけど、そこで悩んだの。いや、私
がこれ、日本が差別される、日本を悪く言う反日のその原因はどこにあるかと。考えました。そし
たら原因は植民地でしょ?植民地を研究しましょう。そしたら秋葉先生中心として植民を研究する
こととし始めましたね。
上水流:京城帝国大学ね。植民地と関わりのある。
崔:それで、そっちに。まぁまず読書会をして、それで(上水流は)前一緒には行ってない?行っ
た?巨文島は?
上水流:巨文島は先生、僕は行ってないですね。
崔:巨文島に行ったり?それも、離島には伝統文化が残ってるとおもって調査に行った巨文島は皮
肉な事は逆に日本の遊廓ばっかり。13 軒残っている日本村ではないか。私の植民地研究はそこから
始まった。
上水流:そうですか。その当時。
崔:えぇ。1968 年に調査に行った時植民地時代の「喜楽」遊廓で泊まったんですよ。芸者が何人か
…13 人か居たとかいう。私は植民地の研究を考えた時そこを思い出し 1988 年にね、
「あっ!あの
島。あれ何で日本の芸者がそんなに沢山いたか」と。行ってみたら日本村なのね。日本人の。で、
そこを集中的に調査しましょうという。李杜鉉先生と交流があった祖父江先生の誘いでトヨタ財団
に申請して研究助成金を受けました。
上水流:先生が付いてらした李杜鉉先生のつながり
崔:そう。全部そのネットワーク。
上水流:親日派と言われるので、じゃあその原因を探って植民地をやってみようと言う事で。
崔:逆にまぁ、挑戦した。
上水流:それが、直後が反日感情が強かったのが 1980 年代?
崔:82 年がピーク。日本人にはタクシーには乗せないという物凄く激しい時代がありましたよ。ま
ぁ辛い時代に逆にそれを研究したんだから。それで 1990 年に初めてその植民地、その調査報告書
を韓国の方で出して、それで総督府が出した『朝鮮の風水』という翻訳を出しました。それが契機
に、日本の植民地を研究が韓国でもタブー視されたのが、一挙に全部無くなっちゃった。それでも
う自由に。だから今、最近韓国の人が多く植民地のとか、何とか研究会をするの聞くと、そのせい
だねーと。彼らは意識しないかもしれないけど、
上水流:そういうところを切り開いてきたのですね。
崔:戦ったんだからね
上水流:かなり、だからそういう事をやる事で、先程も仰っていたように元々親日派と言われてた
のに一層だから先生、親日派というように。
崔:むしろ逆にそれを、まぁ利用したような感じで、それに乗っちゃったというか、それを克服し
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て。まぁいつの間にか恐らく客観的に見る時代が来るでしょうという。そういうものが、いつも早
すぎて苦労はしたですね。
上水流:先生の植民地に関する研究というのは、例えば日本人では必ずしもないんですけど、どう
してもそこでは「植民地支配の暴力」という事が結構中心になって、そういうテーマで議論が進ん
で行く事が多いと思うんですけど、先生の研究と言うのは寧ろそういう要素は、私自身は本を読ん
でるいとあまり感じない。寧ろどういう風に日本の文化が残ってきてるのかとか。
崔:そうね、文化変容。
上水流:そういう側面が強いのかなと。
崔:既に歴史学者達が抗日運動とか独立運動をして、日本の暴力に関する研究はもう山ほど出来て
る。だから、そういうの集めてしたら本が売れるしね、楽なんですよ。だから日本を悪く言いなが
ら、そういう生き方と言うものは韓国では今、何一番楽なの。
上水流:反日で何かするというのが。
崔:うん。そしたら誰も悪く言われない。その中でちょっと面白さを書くと、本が売れる。まぁそ
ういう事はもう、うちの先生の性格がそうだった。絶対そういう世間には乗らないという。
上水流:迎合するような事はしない。
崔:はい。二人の恩師も一切そういうものはしない。だから、それを私は見習ったというか。
上水流:私は丁度嶋先生の教えも受けてたので、やっぱり時々嶋先生が「崔先生のああいうスタン
スの植民地研究だから、ある意味日本でもきちんと受け入れられるし高い評価を得られるんじゃな
いか」って事を私に言った事があるんですね、何かの折に。そういう単に批判するとか反日的な事
を書くんではなくてっていうような事を嶋先生が昔、仰ってた事があって。
崔:嶋さんはよくうちに泊まって、大学にもしょっちゅう来て、啓明大学。その嶋さんのいる中で
末成さんもいる中でね、もう韓国のある人から物凄く反日的なもので私が非難されて困って、まぁ
私は顔を赤くしてるかもしれないね。そういうものも彼に見せるので恥ずかしい、恥ずかしいとい
う事を、それを覚えてるよ。
上水流:そうですか。先生がそういう風に感じた事を。
崔:今、彼がどう思うかを。あぁ彼は韓国で色々トラブル起こしてるんだなぁと判断するでしょと。
そういう風に私は感じた。だからその時はまぁ良い意味と悪い意味で大邱に私がいて日本で色んな
人間関係持ってる人が大体大邱に、うちに寄って。寄った人が相当多いじゃないですか。秀村さん
は完全にいつも鞄置いて一年間ね、行ったり来たりしたんですよ。
上水流:嶋先生も来られたり?
崔:嶋さんと、末成さんも結構長かった。だから彼のフィールド調査中、一緒に。うん、まぁそう
いう、
うちの家内とも話したんだけど結局私は戦争の時、
親族と一緒に避難生活をしたんですけど、
親族はね、お金が無いと思う。全く役に立たない。あれをね、私が経験・体験したのは貴重なもの
なの。だから親族に全く頼らない。その分、友達に助けられてきた、私が。だから色々苦労した時、
全部友人関係で。それは間違いなく。その後は教え子たちとの関係。これも本当に何とか財産と言
うか。そういう生き方をしたのが、戦争体験を通してね、色んな教訓を
上水流:学んだ?
崔:まだ 75 ではあんまりこういう話をするのは早過ぎかもしれない。
上水流:いえいえ。で、更に言うと先生、植民地研究から、最近は色んな所で書かれてますけど慰
安婦の研究へとね、発展を展開してきますよね。
崔:うん、慰安婦の本を前差しあげたでしょ?
田中:あります。
崔:戦争の本をいただいて、またそれいつか。一人じゃなく皆で書いてるから書評でも書くかなと
思ったんですけど、
。私が書いたのは朝鮮戦争の時に
田中:そうですね。
7
崔:
(上水流に)もし無かったら持っていってよ。あげたね?
上水流:貰ってます。
崔:だからそれは、その戦争体験の話で、うちの村に急に慰安婦じゃなくて売春婦がね、そんなに
たくさん長く住んだので、
上水流:アメリカ軍が来て。
崔:その 10 歳の子供が見たそのものですので、そこには、まぁあのコンドームで遊んだ話とか色
んなそういう。
田中:靴ひもにしたり。
崔:それで靴下の線も作ったりね。あれは知恵ですよ、戦争の。鉄棒を全部農機具に使ったり、ま
ぁその本当は詳しくもっと書きたかったんですけど。そういうものをね、韓国語でちょっと書いた
ものをそこに入れてたりして、そしたら出版社がタイトルは自分達に任せてくれって言って、そう
いうタイトルを付けて帯に何か「韓国はそんな異常とか言えないでしょ」とかいうのね。それでこ
れがまぁ。で、その時は広告沢山してある程度売れたんですけど、その後はもう完全ストップにな
った。
田中:そうですか。
崔:だからまぁ、で、慰安婦。で、丁度その時にソウルであのビルマで。
田中・上水流:そうですよね、日記の。
崔:日記が 2 年間。で、それ慰安所を管理した人の日記ですので貴重な資料なんです。それで、そ
れを持ってる人の所に行って、それで原文を見て。で、韓国で出てるんですけれども、それはもう
伏せというか匿名使って、沢山そうしてるからね、分析しにくいんですよ。名前とか分からないと
ね。だからそれ、原文を見て、それを細かく分析して。草思社に今原稿が行って、そろそろ出たら
また送ります。
崔:それで慰安所は結局その時に。で、最初は、それ同じ記事が韓国の朝鮮日報で、日本軍が強制
的に連れていったのは間違いないというもので朝鮮日報に。で、その同じ(記事は)
、毎日新聞と提
携してるので、日本の毎日新聞に出たのはほぼ売春婦の感じで紹介されてた。これ全く違う。
田中:一緒について行ったみたいなね。
崔:そこはミャンマーのアキャブ。インドとの戦争でもう日本軍がもう相当集中してる地域ではあ
っても、そこに慰安所がね、朝鮮人の慰安所が 35、6 箇所あった。だからビルマの慰安所もあるで
しょ。日本人の慰安所もあった。大体一か所にね、人数計算すると芸者みたいな売春婦が 15 人か
ら 20 人。一晩でね、今の、多い時は、天皇のなんの。記念日は休みじゃないですか。その日はね、
一晩で日本の円で 300 万円くらい収入がありました。
上水流:天長節とか。
崔:うん。あれ全体で、全体じゃなくて彼が自分のうちに送ったその手帳が見つかったりする人も
いるんですけど、横浜正金銀行のこと、あるんです。
上水流:横浜?はい、確かに
崔:そこにね、銀行を通して韓国に送ったのはね、大体今の円で 4000 倍をする。学者によって 5000
倍をするか。で、2000 倍してもね、ほぼ 5 千万くらいになるんですよ。円で、今のお金で。そし
たら 1 か所でそうなんですよ。どんなお金。お金がまわらないと売春婦がつかない。米軍キャンプ
にも売春婦がつくじゃないですか、韓国で。で、韓国軍にはね、つかないの。貧乏な中国軍隊には
売春婦がつかない。だからどんなに豊かな戦争であったか。日本が金持ってる軍隊だった。
上水流:だからついて行く。
崔:うん。まぁ、面白いじゃない?研究が、そういうもの、添っていくと。別に思想的なものじゃ
なくて。でも面白くて自然にこっちに。
上水流:植民地研究もそうですし、慰安婦の問題もそうですけど、お話を伺ったシャーマンもそう
だと思うんですけど。割と人がしないとか、シャーマンもそうですよね。これはまっとうな文化じ
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ゃないと言われてるもの。そういう所に、崔先生は向かって手を出して、で、研究してくる。まぁ
植民地研究もまさしく韓国はずっと空白だったと思いますので、文化人類学的にそこを切りこんで
いかれて。私なんか時々見てると先生もっとブレーキ踏んだ方が良いんじゃないかな?と思う時が
実はあるんですけど。
崔:そういう話は沢山聞いてますよ。
上水流:慰安婦問題がそうですよね。
崔:何でそういうものを、わざわざ問題作るかという。でも問題にしなかったら問題にならないで
しょ。楽しいから。別に、まぁこんな世と戦うのが良いじゃないかねと。そこに乗って言う人は皆
世俗的に見えちゃうの、私から見ると。
上水流:日本の植民地もね、親日派と言われ、日本を攻撃すれば儲かる中で、逆方向に行ってとい
うので。先生変わらないなと思って聞いてたんですけど。
崔:有名なナショナリストの趙東一さんは読書会も一緒にやったね。その人と何か国際シンポジウ
ムで一緒に演壇に座ったのにね、韓国文化を研究する人は「日本留学した人は資格なし!」という
ように。やぁこれどう弁明か、どう反論するか。そのままにして聞く人に任せるしかないと思った
んですけど、聞く人はむしろそっちに行くんだよ、ねぇ?ねぇ?いやーそういう人からそんなに攻
撃されたりすると、被差別とかも研究したんだけど、あの、何か直感があまり無かったんだけど、
そういう研究として物凄く差別を体験したんですね。だから恐らくそういう時に学歴というものも
必要なの。自分でね、名門の大学、皆出てるから言いますけれども、それが力になる。何で彼らに
差別される理由があるか。それで立ち直る力になるんですよ。これが無かったらね、もう潰れて潰
れて可哀想な存在になるかもしれない。ね?
上水流:成程、そこで自分を掬いあげていくような所が
崔:うん。
上水流:もう一つ、さっき最初の頃のお話の中で、きっかけが映像を録らされてたってお話があっ
たじゃないですか。自分の生まれた故郷に行ってシャーマンの研究する中で映像とか録ってて、そ
れがご自身の映像人類学に展開してきたってお話がありましたけど。
崔:映像は、その、前からも自分でその時に 8 ミリのものが、恐らく昔は 8 ミリの、3 分しかなら
ないコダックの。で、それ韓国で古い。今でもカメラは安いじゃない?問題はそのフィルム。フィ
ルムを、それをどこかで、アメリカに注文してそれを買って。それで自分なりに色々撮ったのがね、
1960 年代に撮ったものをね。それで東京のビジュアルフォークロアがそれ、再生してくれたの。そ
の時代には、あの韓国では民俗学者はカメラもあんまり持たない。で、うちの先生はカメラ。で、
その後、録音機の時代だった。で、それで終わったんだけど、私は映像が必要だった。特にシャー
マンの、やっぱり踊りとかはそれも。
田中:牛山純一さんですね。
崔:で、牛山純一さんが日本テレビで韓国のシャーマンを撮影すると。全体のものはうちの先生と
計画をして、で、私が案内するんだけど、シャーマンがやってるクッ、儀礼をやってる所が無いん
ですよ。私の生まれ故郷でシャーマンを呼んで、うちで、うちの母亡くなったんだから死後、死礼
祭、あの世に送る儀礼をやる事にした。
田中:昔ですね。
崔:会ったでしょ?
田中:えぇ、でも勿論ね。岡正雄さんとか。
崔:泉先生と牛山さん、李杜鉉先生が民族学博物館を作る時にも相当関与したと聞きました。
上水流:牛山さんと。
崔:で、李杜鉉先生が安東の民家を名古屋の野外博物館に民家入れたりした。
市岡康子さんグループが 2 ヵ所でシャーマンのクッを撮影しました。夜ですので照明、ライト点
けたり、当然許可貰わないと。それが名古屋にリトルランド?
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田中・上水流:リトルワールド。
崔:そこに偶然に行ってね、韓国のシャーマンというボタンを押すとね、うちの姉の泣き顔。
上水流:そうですか!見たかもしれない。
崔:姉連れて行ったら自分の顔が映るの。まぁそういうように日本にシャーマンを紹介したりそう
いう所で。で、彼女が来た時に私にフィルムを沢山くれたの。
上水流:彼女というのは?
崔:市岡さん。まぁそれでだいぶ作って、それ 3 分だから繋げて繋げて繋げて。それで 1 つね、長
い物を作ったり。その後はずっと日本に来て調査に行く度にそれで、自分なりに。それで撮り方簡
単な物。経験。撮り方とかいろんなものを教えてもらった。あぁ。それでその後私がかなり自分な
りに自信を持ってそれを撮って、調査に撮って歩く。その中から北村さんのビジュアルフォークロ
アで整理して編集してくれました。まぁそういう関係で映像に関心をもった。恐らくその後、今は
どうか分からないですけどその当時はもう映像使った人は少ない。映像を撮って、それを見ながら
ノートをする。
上水流:僕は先生のノート、見た事がないと思います。
崔:だからその韓国でノートを見たいと言うので、学会で私のノートを公開した事がある。
上水流:そうなんですか。皆に見せて、それでどんな風にフィールドワークしてるのかっていう?
崔:うん、フィールドワークするからという事で。まぁ大体録音して、昼録音したものを夜、ホテ
ルで全部ノートに書いて、それで寝て、まだ問題点あってインタビューまたやって。これを大体 40
時間し続けると、もう必ず病気なって帰る。そういうコース。
上水流:先生と一緒に北海道に。
崔:行ったね。
上水流:炭鉱に北朝鮮人労働者探して行った時も昼間インタビューとって、夜先生のノートを作っ
て、で、翌日また調査をする。
崔:それはもう忘れるからね。忘れない内にするつもりでやって。
田中:最近のね、慰安婦の本で一番やっぱり印象に残ったの 2 つあるんですけど、まぁ 1 つは日本
のやっぱり占領期と非常に似てると思うんですよね。御殿場、下関もそうなんですけど。やっぱり
あの米兵達がやって来て、日本の場合はもう自分達も同じ事やってるんですよね。慰安婦っていう
か売春の人達を集めなきゃだめだとか、
女達を隠さなきゃだめだっていうことをするわけですよね。
で、御殿場なんかはやはりもうどんどんどんどん売春婦の人達が入って来て、それで住民たちはや
っぱり非常にアンビバレントなんですね。一方で来ると部屋を貸せるからお金が入ると。でも一方
で子供達が正にコンドームで昼間から遊び始めたりしてね。やっぱりそれでまぁ非常に風紀が乱れ
るっていうような状況が続いてて。もうちょっとしたらまぁどっかに行ってしまう。
崔:先生、それ書いたね?ある部分ね。私もそこで凄く面白く読んだ。
田中:もう一つ僕が凄く印象に残ったのは中国軍ですよね。
中国の人民軍は何も女性にしなかった。
それ、やっぱりもっと…何て言うんでしょうね。強調して欲しいっていうか、その、中国兵がどう
だっていうよりは軍隊でも必ずしも性暴力に関わらない軍隊もあるんだっていうのが非常に私は何
か
崔:それ、どうしてか。ねぇ?
田中:それはやっぱちょっと大事だと思うんですよね。そうじゃないと僕ら皆兵隊は皆あの、ね、
当然だみたいに思われてるんだけど、やっぱ、そうじゃないんですよーみたいな事を言う必要があ
るとしたら、これはこの人の大事な事例かなーと思いましたね。
崔:それを私も関心持って、そしたら中国軍でもパルチザンだけが、パルチザンの部隊だけが。そ
れで映像を、満映から出た映像を見たら八路軍が、性暴行した者を、その現場で見付けて、銃殺す
る映像が残ってます。
田中:もしかしたら中国兵達は日本兵から、これはやっぱりやってはいけない事だって学んだんか
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もしれないですね。
崔:かもしれないね。
田中:中国の当時の政府っていうかね、政治家達がね。それ何か凄く印象的というかね
崔:それは…ホントに例外の例外ですので。
田中:そうでしょうね。
崔:中国軍は何で…。それともう一つは、そのゲリラ戦争。基本的には農民の中で食べ物を貰って
戦争するタイプなんだから、そこで恐らく問題が起こらないように注意したんじゃないかな。
田中:あと、まぁね、先生の村に入って来た中国兵達がどっちかっていうとロジスティックスって
いうか、何か配給されてたんでしたっけ?
崔:煙草。
田中:煙草でしたよね。本当のまぁ、ある意味で戦闘兵ではない訳ですよね。
崔:そうそうそう。普及。
田中:ある意味で普通の人なんかも一緒にね、着いてきたトコがちょっとあると思うんで。
その点、今、気が付かなかったんですけど。
田中:でもちょっとね、やっぱりあれが一番印象的だなと
崔:で、うちの村は最後には戦争。あの、中国軍隊が米軍に追われて 70 人ぐらいがその小さい所
で死んだぐらいですので、その中国軍隊がホントの戦闘部隊が無かった訳じゃないんですよ。で、
それでもそういうものは無かったんです。
その時に北朝鮮は人、
殺したり暴力していくんですけど、
そこでも中国軍はしなかったね。それと、その時私は 10 歳で、まぁ上 13~4 歳の場合には彼らと
ほぼ同じ歳ですね。15 才とか 14 才の軍人が。だからもう友達みたいで、まぁ遊んで喧嘩になって。
普通だったら軍隊が強いじゃない?軍隊が寧ろ泣いて。
ああいうものは子供の時、
凄く印象的でね。
最初、中国軍隊が来るというと、そんなに恐ろしいと思ったのにね。物凄く優しい軍隊。
田中:別に軍隊を褒めたり、正当化する気は全然ないけども、そういうね、なんか、事もあるとい
うのは、ある意味で希望と言えば希望
上水流:皆のイメージとは違うというね。
崔:私のこの本で、この中国の学生が聞いて「中国で翻訳したい」とか。賞もらうかもしれない。
上水流:先生が植民地研究をしてる時に、ある時先生が仰った、植民地研究の最終的な目的ってい
うのはやっぱり植民地支配の影響というものがですね、支配された側から無くなる、影響が無くな
っていく事が最終的な目標なんだって
崔:影響が?
上水流:無くなるという。見えなくなる。全てを過去の物にする事が植民地研究の目的なんだと先
生が仰った事がありまして。私はそれに凄く触発されている所があるんですけども。
崔:植民地、それは、あの、
(イギリス)アイルランドの有名な民族(詩人)
、イェーツという
上水流:詩人のね
崔:それでアイルランドでそんなに長く調査ではないんですけど、一ヶ月弱ずっと、そこにいたの
が、その、アイルランドはイギリスにまぁ 4 世紀以上植民地にされてます。戦争みたいもの含めて、
だからもうイギリスに対しては物凄い反英的。で、これは知られてる。古くからそれは、東大の総
長やった人、矢内原忠雄さんか、沢山書いてあるですね。アイルランド。日本植民地時代でもアイ
ルランド、だいぶ参考にしたみたい。で、朝鮮という朝鮮総督が出してる月刊雑誌『朝鮮』にね、
アイルランドの事、連続してずーっと紹介する。やっぱり近い所を支配する、その問題で、ですよ
ね。まぁイギリスがアフリカとかと違ってほぼ同じ民族、スコットランドと。だから私もそれずっ
と気になっていて、本当に色々植民地の事、調べたんですけど。それで、その本に書いたじゃない?
東アジア。だからそこで犠牲になった人間、ケースメントと言う人、殉死にしたんだけど。そこで
イェーツという人に、元々文学私が好きなんだから、イェーツの詩はある程度読んでるので、その
人の展示会、図書室とか色々見て。彼はね、物凄い民族主義なんですけど、彼はイギリス、植民地
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というもの頭から完全に抜け出さないと自分は偉い詩が出来ないと。書けないと。だから韓国人が
いつも日本と何かするときは最後は植民地。これ盾にして話す。こういうものはもう植民地から解
放されてないと。だからイェーツはそういう詩を書いた。だからそれ、どんなに偉いかという事で
すね。彼は思想的には何回も変わってるんですけど、最後はきちんとそれ一貫してますね。だから
私は在日にも日本の植民地からちょっと頭から離れて生きるのはどうであろうか。だから私、楽じ
ゃないですか。そういうものから完全に離れてるから。誰が(から)何と言われても。だからそれ
が本当のレボレーション、自由。自由だというものは思考の自由ね。韓国人はそこ、今、それは難
しいよ。それがある限りは、ねぇ…。学問やってる人がね、この前ソウルで講演した時にソウル大
の後輩の人がコメントしたのが、先生のこういう、私がアフリカの例とか色んな例を出して韓国も
ちょっと客観的にものを、特に世界文化遺産登録の問題を例にして広島のその醜い建物、記念、原
爆ドームをそういうものを補助すべきかしないか根本的なものを、
立派な朝鮮総督庁舎を壊したり、
そうするものが文化人として客観的にそういうものを学者が考えるべきじゃないかという意見に対
して、彼は、今韓国ではそういう議論をすべきではないと。だからそう言う意味は何ですかと。そ
れでもそんな死にそうになってもね、
私はもう興奮して反論して。
そういう人に植民地から学んだ、
一番大きい教訓と言えば。うん、そういう事。昼食べながら話しましょうか?
上水流:良いですか?もう 2 つぐらい聞いてみたい事があったんですけど。
崔:何?言って。
上水流:私から見ると本当に先生は常にチャレンジングな課題をやってきて、領域を広げてきて社
会的にも凄く注目される刺激的な事をされてきてるなぁと思ってるんですけど、なかなか僕、そう
いう研究者に出会う事がないなと思ってるんですけど、先生が今、日本と言うか韓国も含めてです
けど、人類学をやってる人達に何か伝えたいメッセージっていうのはないですか?それと、崔先生
はこれからね、まだまだ元気に研究されると思うんでどういう事研究されていきたいのかなってい
う。先生の御関心を最後に伺っておきたいなと。
田中:メッセージは 3 つに分けられると思うのですね。1 つは日本人の日本の研究者、もう 1 つは
韓国の人類学者達。もう 1 つは私やっぱり在日研究みたいな。そういうのどう思ってらっしゃるの
かなと。その辺をもし良ければ分けて。メッセージを。学会誌なので会員の人達に向けて
崔:そんな偉いこと言う人物じゃないよ。もう 1 つは?
上水流:これから先生がどんな研究をされていきたいのかっていう
この前大村さん、ノーベル賞をとった人、その人がとにかく人がやってないもの、まずやりたいと。
面白い物、まず人がやってないものを信用されなくってもまずやったものを繰り返すか、それを知
識をちょっと増やすような、そういうものは、彼はつまらない研究だ。だからちょっとラフでも良
いから。それを精査にするのは後でも良いんだからまず色んなアイディアを出す。日本人の学者も
色々アイディア持ってると思うんですけど、あんまり周りを気にする感じですね。日本人全体がそ
うじゃない?だからこれやって、どうでしょうか?だから神経を使うから新しいものに挑戦しない
じゃないかなと。そういうものえ、もっと積極的に。今、慰安婦の例にしてもついてこないんです
よ、その話を公にしようとしたら。皆、危ない話。何で危ないかね?そういう政治家であれば別で
すけど。この前朴裕河さん。朴裕河さん、今裁判かかってる。で、朴裕河さんはもう毎日今出てる
ね。朴裕河さんの本、読書会で一回読んだんですけど、ま、9 割が人の、日本の研究のサマリーな
んですね。だから、きちんとした自分の目で見て資料見て、それで自分の研究成果を出したら、こ
れで自分の意見ですと言えば、誰がその研究成果をね、検討しないと言えないじゃない?で、その
自分の意見、研究成果が無しで人のもの集めて自分の意見をだすから、今わーわー騒いで。だから
きちんとした、私はそんなにきちんとはしてないんですけど、もしきちんとした論文であれば危険
なテーマは無いと思うの。だからどんどんそういうものを客観的に社会に提示したりするのが学者
のね、役割だなと。それは思う。それは韓国人の学者も日本の学者も。特に在日の人たちは差別を
盾にしてるから、はなから日本の学者から批判が難しい。ねぇ、悪い事言ってもね。例えば鄭大均
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さんとか姜さんとか。姜さんは客観的にしようとしても他の人から見るともう後ろに在日という、
ねぇ?それを持っていると客観的な研究は、先程イェーツの話と同じようにそれを抜け…抜け…こ
れ表現どうすれば良いかね?超越する。その力が無いと。だから在日のもの、私は差別を逆に利用
するという話は民団の中で出てるんだ。だから差別がないと自分のグループがもう壊れると。寧ろ
差別があって結束ができるという。そういう世俗的な話ばっかりしては。ちょっともう少し勇気を
持ってね。在日という名前、別に使わなくても良いと思うんですよ。今、全部ここの近くの人も今
まで通名を使った人が韓国がイメージが良い時があったじゃない?ペさんの時、
上水流:ペ・ヨンジュンの時。
崔:その時皆韓国の人、この前民団のある人に会ったらね、あれ後悔してるんだって。今こんなに
悪くなる。だから時代に伏す(流されるの意味か)
、この世というものは大きいんですから個人より
変わらないと私はずっと思ったの。
でも私の人生から見るとね、
私の人生より社会がもっと変わる。
本当にどういう風に変わってるか、良くなったり悪くなったり。私は一貫してる。なんで社会に。
だから世俗を対象に我々は研究はするんですけど、その中で生きるのは賢明じゃないんじゃないか
ね。
上水流:そういうものがやっぱり在日。韓国の
崔:在日の。だから今そんな研究されてないですか。でも京都あたりは在日のグループ…
田中:あれは歴史系の人、多いんじゃないですか。人類学の人はそんなにはいないんじゃないです
かね。
崔:だからこれ民族の問題。今ヨーロッパでも問題になってるじゃないですか?でもサハリンでも
そんなに同じ村で日本人と朝鮮人、特別仲良いとは言えないですけども、もう本当に普通の生活で
生きた人間がね、終戦の時にすぐ敵意識を持ってね、それで一晩で 27 人殺す。こういう悲劇的な
事が起こる。だから今、日本の在日と日本人がこんなに居たとしても、いつの間にかそういう風に
ならないと言えないんですよ。だからこの民族主義というもの、だから多文化的・多民族的なもの、
良い意味で使ったりするんですけれどもホントにこれ、フランス見ても分かるでしょ?民族、多民
族。それが結局問題起こす。だから 1 つの民族を越えていく。人間というものは人間が寧ろ民族よ
りは自然にね、これルソーが言ってるようにホントに自然に戻らないといけない、人間が。それで
本当にお互いに日本人、韓国人でも、意識を 1 つの自然の人間にね、なっていく。それが私は基本
的には教育の方針ですね。今、留学生もいっぱいいるんですけど、そこに基本的には戻す。文化も
戻す。そこが理想ですけど実質はまぁ言葉だけでしょ。
上水流:そういう構築されてきたようなもののカテゴリーを超越して、研究もそうですよね。先程
ね、在日の歴史に、寧ろその植民地というようなね、問題にしてもそういう民族にのりかかってい
るような概念みたいなものを超越してやっていけるような教育だし研究もそういう方向でありたい
と。
崔:その思考は自然的には生まれないよ。やっぱり教育をしないと自然的には生まれない。だから
日本の国民の教科書でも、今韓国は国定教科書、問題になってる。国家を何故、まぁ日本語で日本
人らしいものを作って、日本人はどこ行ってもカテゴリーで分かるような文化を持ってる。で、そ
ういうものを何で作る必要あるか。
最初からもう自然な人間を作る。
じゃそれはどういう風に作る。
どうですか?ちょっとご意見を。
田中:京都は歴史関係って言いましたけど、まぁ松田さんの所にいるようなね、関係のまぁ社会学
関係の人が割と在日の研究されてる人は多いと思いますね。人類学は私とこなんかでも修士で出ち
ゃったり、博士でテーマ変えたりするような人がいるので。そんなにあの、一番最初に李仁子さん。
彼女は博士まで在日で。
崔:京都大でたね。
上水流:今、東北大学に。私なんかまさしく崔先生の教育を受けてたので、あの時に入った、まず
凄くナイーブな率直な感想としては、非常に韓国の問題についても批判的に議論出来る空間だった
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訳ですよね。崔先生の場というのはつまり客観的にどうなんだという話を基本的なスタンスとする
ので、先程差別というものを背景にしたりとか植民地主義というものを背景にして議論するという
のではなくてそういうものは超越した所で、という。割と韓国の問題でも自由に発言ができると。
例えば韓国の問題といったら「それはもう間違ってる」とか、
「反日的な発言をしなさい」とか、そ
ういう雰囲気は全く無かったので。そういう空間が非常にあったなぁというのは理解してますし、
まぁその分、多くの留学生も集まって中国の朝鮮族の人、中国の留学生から韓国の留学生から、日
本に留学生が集まって、割と皆一緒になって議論をしていくような場が出来てましたので。特にあ
る方向、
偏向性を持って議論しなさいというような事は無かった。
あれは本当に記憶に残っていて、
まぁそういう意味で言うと崔先生のやっぱり学問の形成というのはとにかくそういう親日派と名付
けられてきたり、そういう問題を乗り越えながらやってきてるという先生のそういう人生の中で生
まれてきた学問に対する考え方が、やっぱり教育の場にも現れていたのかなと、今お話を聞きなが
ら思いました。
崔:学者でもある研究者でもあるんですけど、やはり教育者の役割もやっぱり先生達が持つべきだ
ね。アメリカは研究者はリサーチはリサーチ中心になって。でもやっぱり人格とかそういうものを
どうしても、悪い人間もいるんですけれども、それも人格ですから。そういうもので。在日の話、
ちょっと付けくわえると。前、金在国が在日文学で博士とったんですが、在日文学 1 世の李恢成と
かの世代とまぁ…2 世にあたる。で、3 世になると、柳美里のような人になるともう本当に民族の
境界がない。ただ自分の周りに在日が多いからそれを素材にして書いてるだけであって、それが日
本人に共鳴を呼ぶわけ。そういうものをですね、我々日本人韓国人はそれなりにね、生きている環
境から色々な学問をやるのは、それは当たり前じゃない?で、それを越えて普遍的な人間を見付け
ていくから、もう 1 世のり・かいせいが見るとね、柳美里はもう民族を半分裏切った様にね、こう
いう風に見てる。だからそういう時代が変わる時間だけですべきじゃなくてやっぱりその知識人文
学人芸術の人がそういう認識をもって、どんどんおしていくべきじゃないでしょうかね。
田中・上水流:先生、ありがとうございました。
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