隅でいいです。構わないでくださいよ

隅でいいです。構わないでくださいよ
まこ
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︻小説タイトル︼
隅でいいです。構わないでくださいよ
︻Nコード︼
N6714CQ
︻作者名︼
まこ
︻あらすじ︼
気づいたら周りは着物を着た人達ばかり。川の水を覗けば、そこ
には小さな子供が⋮え、私っ!?
流れ着いたのは綺羅びやかな町、吉原だった。あれ?でも見れば格
子の中にいるのは男の人のような︱。
まだ年端もいかない私をそんな不思議な場所で拾ってくれたのは﹃
天月妓楼﹄という妓楼のおやじさまだった。
連れて来られたのは男ばかりがいる廓。どうやら此処では、男が遊
1
女ならぬ遊男というものをしているらしい。そして私は野菊と言う
名前を与えられ、女と言うことを客には隠して下働きをすることに。
何故か花魁教育もされるが、私は男じゃない!!そんな女に対して
の手練手管なんて学びたく無いわ!!
しかし、私は16になった時に一緒に育ってきた美男仲間達を見て
気づく。ここが﹃夢見る男遊廓∼一夜を共に∼﹄の世界であること
を。自分の事を思い出せないのに何故かそのゲームをやっていた事
を思い出したのだ。。
野菊はその乙女ゲームにおいての悪役だった。男達に近づく主人公
の恋の邪魔をして、あげく殺そうともする手段を選ばない女。そん
な女だから最後には主人公達から地獄の制裁を受けるのだが⋮
そんなのいやぁぁぁあああ!私、邪魔しません。仲間のことは兄の
ような、戦友のような感じにしか思っていません!!陰からこっそ
り応援する所存です。
2
始まりは
﹃行くところがないなら、俺の所で働くか?﹄
そう言われて、私がおやじさまに拾われたのは一ヶ月前。
何故か目覚めて気づいたら、川原に寝そべり時代劇のように着物
を着た人達が周りにいてビックリした。
え、何、お祭り?
とは思ったが、髷の男の人が時折いたから何となく違う気はする。
そして皆私よりもうんと背が高い。というかこの違和感⋮私がち
っちゃい!!?
自分の手の平、足、お腹を見れば幼児そのもので着物もボロいの
を着ているみたい。鏡が無いので、取り合えず確かめようと川原の
水を覗けば、姿は思った通り。こんなワケのわからない状況で何も
出来ないチビッ子になっていようとは⋮。がっくり。
しかし、私はふと思う。
3
そういえば自分は誰だろう?と。
日本ということもわかるし、車があったことも、デカイビルがあ
ったことも覚えている。でも、自分が誰でどういう人間だったかは
分からない。
チビッ子になりガックリとしている心情からして私は成人しては
いたのだと思う。そして自分のことを﹃私﹄と言っていることから
して、きっと性別のほうは女だったのだと思う。まぁ、たまに男の
人でも言うことはあるが⋮。
この世界が自分がいた世界でないことは確かだった。そうでなけ
れば、この世界で私は軽い記憶喪失になっている、ちょっと思考の
痛い子になるだろう。
そんな感じで半ばフラフラとしていると、結構歩いたのか、目の
前にはキラキラしい世界がいつの間にか広がっていた。
女の人達がごった返している異様な町で、道の横にある建物には
格子がついており、中を見れば⋮ん?男?
とても綺麗な男の人達が美しい着物を着て中にいた。
あれ?可笑しいな、私の知っているああいうのは女の人がやって
いた気がするのに。
やはりまだまだ違和感が拭えない。
もう夜も本番になり、この町の光もいっそう強くなってくる。歩
き疲れて足が痛くなった私は、妓楼屋?女郎屋?︵なんと言うのか
は分からないが︶らしき建物の裏辺りでしゃがんで休む事にした。
すると急に心寂しくなり、泣きそうになる。体が子供だからか理
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性よりも本能が前に引き出されてしまい、目頭が熱くなってきた。
﹁ぅっ⋮ふぇ、﹂
ザクッ
﹁?お前さん、こんな所でどーした?﹂
泣き声が漏れそうになった時、突然声を掛けられた。ビックリし
て声がしたほうへと顔を向けると、50代くらいの白髪を生やした
厳格そうな見た目のおじさんが、眉間にシワを寄せて此方を見てい
る。
ちょっと怖い。
﹁迷子か?﹂
ビックリしたのと、おじさんが怖いのとで声が出ない私は首を横
に振るしか出来なかった。
﹁親はいんのか?﹂
尚も質問してくるおじさんに、またしても首を横に振る私。
﹁じゃあ⋮帰る所はどうだ?﹂
﹁な⋮ぃ﹂
3回目の問いでようやく声が出た。
しかし返事をしたのは良いが、この人は何がしたいのだろう?
するとおじさんはブツブツと聞こえない独り言を念仏のように唱
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え始めた。
﹃捨て子か?いや、親⋮ない⋮⋮でも⋮から﹄
なに言ってるのか分からない私は、キョトンとおじさんを見上げ
る。
そんな私を厳つい目でジーっと見つめると、ニッと笑顔を見せた。
﹁よし、器量は良いな﹂
﹁?﹂
﹁なぁ、お前さん。行くところがないなら、俺の所で働くか?﹂
そんな誘い文句に、行き場も、この世界の事も何もかもが分から
ない私には、差し伸ばしてくれた手をとる事以外の選択肢なんても
のを見つけられる筈が無かった。
6
始まりは 2
拾ってくれたおじさんが連れて来てくれたのは、私が背にしてい
た妓楼屋だった。
なんでも、私がいた場所はおじさんの部屋がある丁度壁一枚の裏
所だったそうで。普段は音もしないのに、珍しく人が留まっている
音がしたので覗いてみたら私がいたらしい。
妓楼屋の裏口から中に入って、奥の部屋まで手を引かれながら連
れてかれる。
途中﹃新入りですか?﹄﹃おー、また器量の良い奴を﹄、と妓楼
の綺麗格好いい男の人達におじさんが話掛けられるも、当の本人は
ガン無視でズンズンと廊下を歩いて行く。
着いたのはこぢんまりとした10畳位の和室。しかし普段からこ
こで過ごしているのか、部屋の中心にあるちゃぶ台には飲み掛けの
お茶や、吹かしたばかりだったのか先から煙が出ている煙管が陶器
の上に置いたままだった。
座布団を出されて、座るように促される。
おじさんは私と反対側の席へ座ると、吹かしたばかりの煙管を手
に取り、私のほうへと視線を向けた。
﹁お前、歳は?﹂
7
姿を確認しよ
歳は、と聞かれても⋮。自分が小さな子供だと言うことは分かる
が年齢は分からない。しかも自分の姿を見たのは、
うと川の水面に写ったあの時の一瞬だけだったから、あやふやだ。
﹁あー、言葉は分かるよな?﹂
﹁⋮は、い﹂
﹁なら上等だ。﹂
何か私の人生に過酷な背景でも想像したらしく、苦い顔をしなが
ら、質問に答えなかった事をスルーしてくれた。
﹁見たところ大体5歳位ってところか⋮それに女児か﹂
推定年齢5歳だそうです。
以外に小さかったんだな私。というか口が上手く廻らなくて上手
に喋れない。5歳ってこんなに呂律が廻らないもんだっけ?
﹁理解してもしなくても今は構わない。取り合えずは、お前をこの
天月妓楼で最初はまぁ、禿の位置で働かせる。嫌だろうが、今日か
ら男として生活してもらうからな﹂
﹁かむろ?﹂
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
﹁上の兄ィさん達の小性みたいなもんだ。遊男見習いとも言うがな。
お前はまだ小さい、他人から見ても男も女かも直ぐにはわからんだ
ろう。実際此処で働いてる奴らも女か男か分からん奴がウジャウジ
ャいるぞ﹂
﹁はぁ、﹂
﹁お前は器量も良い。﹂
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そう言って頭をガシガシと撫でられる。
見た目に反してこのおじさんは結構良い人だったらしい。
しかし、おじさんが結構良い人と分かったところで、一体此処が
どういう所なのかがまだ良く分かっていない。根本が謎だ。
兄ィさん達って、あの格子の中にいた人達の事だろうか?
子どもなりに姿勢をピシッと伸ばして聞いてみる。
﹁あの、﹂
﹁ん?﹂
﹁ここは、どーゆうところなんだすかっ?﹂
あ、噛んだ。
私の質問に、﹃あぁ、そこからか⋮﹄と煙管を吹かせながらチラ
リと上を仰ぐ。
カンカン、と陶器皿の上に灰を落とすとゆっくり説明をし始めた。
﹁ここはな⋮﹂
それからの説明を受けて分かったのは、この吉原モドキの世界は
男が遊女ならぬ遊男、をしているということ。それがこの世界では
当たり前だそう。
男が女を買う場所は無いのか?と聞いたらあるにはあるが1つし
か無いそうで、メジャーでは無いらしい。
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本当に可笑しな世界だ。
男妓楼の世界で女が働く事はまずない。禁止されている訳では無
いが、秩序が乱れに乱れるからだと真剣な面持ちでおじさんに説明
された。
じゃあ何で私を働かせようとしたのだろう?
そんな不思議な顔をしていた私を見て、
﹁おなごを男に化けさせるのも一興だろう?﹂
と意地の悪い笑いかたをして、ニッと妓楼の裏で会った時のよう
な笑顔を見せた。
﹁それに、色は売らせないから安心しな。色を売らなくとも良い稼
ぎが出来るよう、立派な芸者に育ててやるさ﹂
こうして私は、男妓楼の世界へと足を踏み入れたのだった。
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始まりは 日々1 ︵前書き︶
お茶引き↓道中に直しました。
11
始まりは 日々1 ﹁野菊ー、今日は清水花魁に付いてな﹂
﹁はい!﹂
あれから1ヶ月。
私は日々与えられた仕事をこなしている。
ぼうはち
ちなみに﹃野菊﹄という名前はあのおじさん、天月妓楼の忘八の
おやじさまに名付けてもらった。私が自分の名前も分からない事に
ビックリしていたが、それなら⋮と考えてくれたのだ。
何で野菊なのか?と質問したら﹁おれは菊が好きなんだ﹂という
ことで。
えぇ、なんの捻りもありゃしません。
兄ィさま達には私がおなごだということを、拾われた次の日にそ
れぞれの遊男達の仕事終わりを見計らって、紹介も兼ねてしてくれ
た。
年頃な娘なら未だしも、まだまだ小さな5歳児。秩序がどーのこ
ーのと騒ぐ対象ではない、無害な生き物と認定されたのか、私がこ
の妓楼で働くことに関して反対の声は特になく。
皆凛々しい声で﹃わかりました﹄と笑顔で言ってくれた。
おやじさまが最初に言っていた通り、私は禿として遊男見習い兼
小性として此処に置かせてもらっていた。
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私の仕事は1日一人ずつ遊男の兄ィさまに付いて、髪を解かした
り結わえたり、着物を着せたりと身の回りの世話をすることである。
身の回りの世話をしながら、遊男としての在り方について学ぶため
に一人前の花魁の下につくらしい。
いや、遊男になんてなる気は無いけどね。
私は芸者になるんだ男芸者に。いや、女だけれどもさ。
そんなこんなで今日は清水花魁につく日。
この人に会う前はいつもちょっと身構える。
﹁おはよーございます、きよみず兄ィさ⋮﹂
﹁あぁ、やっと来てくれたんだね?もう待ちくたびれたよ。でも野
菊は今日も今日とて可愛いね﹂
ほら高いたかーい、と両脇に手を差し込まれて言葉通り高く高く
上げられる。
この方、名は清水。格は花魁。歳は15にして一人前の花魁であ
る。若くない!?と思ったが此処では普通だそうで、大体15∼1
9歳の間で客に買われるようになり一人前になっていく。
これを聞いて改めて、自分の以前の世界の常識なんて有って無い
ようなもんだと思い知らされた。
清水花魁は花魁という称号を若くして持っているだけあって、と
ても器量が良い人である。芸も一流。
肌は雪のように白く、髪の毛は背中まである漆黒色をした長髪に
切れ長な瞳は黒真珠の輝き秘め、その黒から漏れ出す艶やかな色気
は女性を溺れさせる麻薬のよう。
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性格は基本穏やかで物腰が柔らかい為、その包み込むような雰囲
気も人気で売りの1つとなっている。
一言で言えば超イケメンである、と。
時は遡り。私が働き始め初日に、此れからお世話になる兄ィさま
方へ全員に顔見せをした日。
﹃きょうから、よろしくおねがいいたします﹄
おやじさまに此れだけは、と言われて習ったおじぎを、同じ禿を
する子や花魁格の男達を前に丁寧にしっかりとやり遂げた時。最初
に声を上げたのが私の目の前に座っていた清水兄ィさまだった。
わらし
﹃これは可愛い童子だね。おなごが女相手に商売をするのは大変だ
が、一人立ち出来るよう私達がしっかりと教育してあげるからね。
5歳だと此処では一番下になるから、皆を自分の兄さんと思って頼
ると良いよ﹄
そう言って。
緊張している私を、優しい瞳で解してくれたのを今でもずっと覚
えている。
﹃おぅ、頑張れよチビ助﹄
﹃厳しくいくから覚悟しとけな﹄
﹃おやじさま、野菊は今日誰に付くんです?﹄
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﹃誰にするかねぇ﹄
清水兄ィさまの言葉を羽切に次々と声を上げて話し掛けてくた他
の兄ィさまも、少々乱暴だが頭を撫でてくれたりと歓迎の洗礼をし
てくれた。
そんな私の心の救世主?的な清水兄ィさまは小さい子が大好きだ
そうで、お世話になる度に毎度﹃高い高いたかーい﹄攻撃を喰らう。
精神的に私は成人している為、この攻撃は恥ずかしいから正直言
って止めて欲しい。
でも内心、ちょっとこの浮遊感が楽しい感じもするし、ここは子
どもなりにキャッキャと騒いで喜んだほうが良いのかと身構えて毎
回悩む。
結果、
﹁うん、可愛い可愛い﹂
﹁⋮⋮﹂
いつも無言になる私。
頬を擦り擦りしてくる兄ィさまは、そんな私に構わずいつもこう
して構い倒してくる。
顔に似合わず活活としている人だ。
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﹁ああ!またきよみず兄ィさま高い高いしてる!野菊、早く降りろ
よ!!﹂
しゅうすい
そんな中兄ィさまの部屋に響いたのは、私と一緒の禿である秋水
の高らかな声。
彼は私より三つ歳上で、1年前から此処で遊男見習いの禿として
働いているという。つまりは私の禿の先輩になる。
容姿も整っており美少年で、肌は白く、後の髪や瞳は深い青色を
した不思議な出で立ちだった。
秋水に限らずこの世界では色んな色彩の髪色や瞳の色をした人達
が沢山いる。
赤や、黄、紫に銀、外人のような金髪もいた。此処が異様な世界
だとは薄々感じていたので、今更﹃え、それ地毛なんですか?え、
普通なんですか?え、おかし⋮﹄と質問攻めする事などはしない。
大人だから。あくまでも私は大人だから。
これ以上おやじさまを困らせるような発言はできまい。
ちなみに秋水は7歳から見習いとして禿をしている為、将来花魁
になるべくして育てられる金の卵となっている。
しかし秋水みたいに一桁の歳で入って来ず10歳∼入って来た子
達は、どんなに芸の才に恵まれ器量良しだったとしても、遊男の最
高格である花魁にはなれない。
小さな頃からの英才教育を受けていない者は花魁を望めないので
ある。なかなかシビアな作りだ。
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そんな将来有望な秋水は、口をへの字にして私を睨んでいる。
こらこら、美貌が台無しだぞ。
﹁きよみず兄さまも、今日は道中です!早く単衣から着替えますよ﹂
﹁あはは、秋水はしっかり者だ。悪かったね﹂
プンプンしている彼にニコリ、と笑顔を向けると私を床へと降ろし
てくれる。
清水兄ィさまは結われていない長い髪を手で梳きながら、再び私と
秋水に微笑み掛けると仕度の合図を鳴らす。
﹁じゃあ二人とも頼んだよ﹂
﹁﹁はい!﹂﹂
私の日々は始まったばかり。
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始まりは 日々2︵前書き︶
16歳になるのはまだちょっと後です。
しばらくはチビッ子時代が続きます。
18
始まりは 日々2
ところで、﹃道中﹄とは何か。
聞けば花魁は、この遊郭で最も格の高い遊男で滅多にお目に掛か
ひたたれしんぞう
れない為、客が引手茶屋を通して﹁呼び出し﹂をしなければならな
い。
呼び出された花魁が直垂新造や禿を従えて遊男屋と引手茶屋の間
を行き来することを道中と言う。
ジュニア
この直垂新造とは、花魁教育を受けているがまだ一人前ではない
遊男の事を指す。花魁Jrとでも言っておこうか。
とにもかくにも今日はその道中を清水花魁が行うのだが、これが
結構派手な物で、パレードか!ってくらいの騒ぎになる。
身なりを美しながらも凛々しく整えた花魁を中心に、着飾った直
垂新造が隣を歩き、前には二三人の禿を従えて、周りには誰にも手
出しされぬようボディーガード的なあんちゃん達が何十人も配置さ
れ、吉原モドキのこの町の道を練り歩くのだ。
しかもしょっちゅう行われる訳ではないので、見物人がごった返
す。
花魁も滅多にお目に掛かれる人では無いから余計だ。
ちなみに遊男の衣装だが、基本着流しを着用しただけのスタイル
である。
しただけ。とは言うものの、そこは遊男の着る物。それはそれは
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派手な模様や豪華な飾りが付いていたりする。
花魁の衣装との違いは、それにプラスして大きな羽織を着ている
か着ていないかという所だ。
見分けは一発でつく。
髪型はこれといった定着が無く、長髪なら紙紐や簪で纏めたり、
短髪なら色の付いた紐を髪に編み込むなどをして、皆一様に自分の
スタイルを作っている。
﹁野菊、ここまがってるぞ﹂
﹁あ、ほんとうだ﹂
﹁しょうがないやつだな﹂
清水花魁の仕度を終えた為、私は今、秋水と一緒に身なりを整え
ている途中。
まだまだ分からない事が多いので、彼に教わりながらも着々と着
物を着ていく。
秋水は余計な一言を言うのがたまにキズだが、根本的に面倒見が
良いため私は好きだ。ライク的な意味で。
その余計な一言も私への愛情の裏返しだと勝手に思っている⋮が。
いや、違ってたらごめん。
ひとつき
気づけば一月。男の前での着替えも男の裸を見るのも慣れてしま
っていた。着替えを手伝うと言うことは、つまりそう言うことで⋮
直接見えてしまうのである。色々。
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うぶ
最初は顔を真っ赤にしていた私に兄ィさま達は﹃初やね野菊﹄﹃
慣れるまでの辛抱だからな﹄と笑いながら言ったが、意識が5歳児
ではない私には全く笑えない問題だ。
しかし慣れとは凄いもので、毎日見ていれば顔を真っ赤にする事
は無くなり。
そんな私を見て、少し残念がる兄ィさま達にも呆れる位の精神力
になっていた。
着替えも、5歳児の体に恥ずかしがり隠すところなど何も無い。
と兄ィさま達の前で開き直りこなしていたが、女としての何かを色
々失ったような気がする。
﹁ほら、櫛をかしてみな。結わえてやろう﹂
着替え終われば清水兄ィさまに呼ばれ、贅沢ながらも肩辺りまで
ある御髪を整えてもらう。秋水も私の前に整えてもらっていた。
始めの頃は、色んな兄ィさま達に世話になる度そう言われて、戸
惑いながらもビクビクして受けていたが、
﹃これも、此れから野菊が将来下にやるかもしれないことだよ。兄
さん達の身なり手振りを、自分の体で覚える機会なんだ。喜んで受
けなさい﹄
ね?とある日、清水兄ィさまに言われた。
おやじさまも言っていたのを思い出す。﹃身の回りの世話をし、
されることで遊男としての在り方を学べ﹄と。
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いや、何度も言うけど目指すのは遊男じゃなくて芸者ね、男芸者
ね。女だけども。
﹁そういえば野菊、﹂
髪をいじっている清水兄さまが途中手を止めた。
﹁野菊は髪を切りたいと思うかい?﹂
うしろせ
私の後背にあった兄ィさまの顔が前に傾けられ、私の顔を真顔で
覗き込む。その彼の顔から質問の意図を読み取る事は出来ないが、
一応答える。
﹁きろうかな、とはおもっております﹂
此れから男になろうというのに、髪を伸ばすなど可笑しいと思う
から。
でも遊男の人達は男だから、とか関係なく髪を伸ばしている人は
多い。短髪の人と数を比べても、だいたい割合としては五分五分位
だろうか。
要は、似合ってりゃ良いじゃん?みたいな。
でも私の場合は性別が女であり、男と偽っている以上お客に下手
に勘づかれてはいけないのだ。疑われる要素を少しでも排除しなけ
れば。
﹁そう。それはいけないな﹂
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﹁⋮はい?﹂
聞き間違えでなければ、今否定の言葉を放たれた気がする。
思わず聞き返したが、兄ィさまは笑顔でまたもや口を開く。
﹁それはいけないな?﹂
﹁えっと、﹂
何故か同じ事を二度言われた。
戸惑う私にクスリと笑うと、手を止めて結わえ途中だった私の頭
を撫で始める。
取り合えず、良く笑う人だなぁと戸惑う脳内の奥のほうでぼんや
り思った。
﹁折角綺麗な黒い髪の毛なんだ。男でも伸ばしている奴は沢山いる
よ?伸ばしたらいい﹂
﹁でも、おなごだとわかりませんか?﹂
﹁お前女に見えないから大丈夫だぜ﹂
あれ、美少年の幻聴が。
﹁気にしなくても大丈夫だよ﹂
﹁でも、﹂
﹁兎に角伸ばしなさい﹂
﹁でも、おなご⋮﹂
﹁野菊。わかったね?﹂
今度は有無を言わせぬ感じで言われる。
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なっ、なんでこんなに脅迫されてる気分になるのだろうか。これ、
ただ髪の毛を伸ばすか伸ばさないかの話しだよね。
﹁返事は﹂
﹁は⋮はい!﹂
私が声を出したのと同時に、いつの間にかに結い終わっていたの
か、清水兄ィさまの手が私の頭から離れた。代わりに髪にくくりつ
けた鈴の音が耳元で聞こえる。
なび
そして兄ィさまが立ち上がると、先程私と秋水が手伝い着せた黒
の羽織が靡き、青の羽織紐が揺れ動く。中に見える着流しは黒い蝶
が舞う赤の布地で、黒髪黒眼の清水兄ィさまにピッタリだ。
うむ、今日も格好いい。
﹁よし、良い返事だね。じゃあ秋水と野菊の仕度も終えたことだし、
さっさと道中を終わらせに行こうか。二人ともいいかい?将来の為
に、花魁道中がどんな物かをしっかりと体で覚えるんだよ﹂
﹁はい!﹂
﹁はい⋮﹂
こうして今日も、芸者とはかけ離れた修行を積んでいくのであっ
た。
24
始まりは 日々3
此処へ来て半年。
取り合えず色々分かったことがある。
まずこの町の名前だが⋮あの﹃吉原﹄だった。時代背景は江戸時
代といった所だろう。私的には、自分のいた世界とは真逆なイメー
ジを持っていたので、どうせ名前も﹃原吉﹄とか適当にこんなんだ
と思っていた。
しかし見事に山は外れた。
普通だった。
益々この世界が分からなくなってくる。
男女の役割が逆だと思ったら、意外とそうではなく、権力者も家
の大黒柱も仕事も男が筆頭で。でも女も多い割合で働いている事も
事実。
ただ違うのは、女が夜遊びをすることは当たり前で、寧ろ出来な
い女の人は女ではない、という意識があると言うこと。
訳が分からん。
簡単に言えば﹃男は浮気するのがなんぼ﹄﹃健康的な男性﹄﹃女
遊びは男のステータス﹄と言う言葉はこの世界ではあり得なく、﹃
25
女は浮気するのがなんぼ﹄﹃健康的な女性﹄﹃男遊びは女のステー
タス﹄が普通なのがこの世界。
教えられても私は全く理解出来なかった。
だって根本的に違い過ぎるもの。
何故そんな意識なのかを兄ィさま達に聞いてみたが、当たり前の
事過ぎて逆に分からないと言われてしまった。
遊男を買うのに必要なお金は、基本旦那がいる人は旦那の稼ぎで。
自分で働いている人は自分の稼ぎで。家が金を持っている人はその
金で遊ぶのだという。
え、旦那それで良いの?
しかし、だからといって女性が横暴的な態度だと言うわけではな
い。
私が今まで見てきた御客は少なくとも皆お淑やかで、遊男達に甘
えるようにしなだれ掛かったり、静かに愛を囁いたりしていた。禿
は基本座敷には出られないので、ちょっと覗いた程度での感想だが
⋮何てことない普通の女性達だった。
今だに馴染めない世界だが、頑張っていこうと思う。
26
﹁野菊はちっせぇなぁ﹂
﹁らもん兄ィさまがでかいのです﹂
﹁お、言うようになったな﹂
正座をしながら三味線を持っている私の頭が、ガシガシっと撫で
られる。たまに思うが、この妓楼の皆は頭を撫でるのが好きなのだ
ろうか。
今日芸を教えてくれる目の前の兄ィさまを見る。
らもん
この人は羅紋花魁。歳は17と清水兄さまより2つ歳上。
ぼくろ
容姿については、健康的な白さをした肌と緑色の肩位に掛かる髪
に黒の瞳、少し垂れた優しげな目尻の右下には泣き黒子があり、普
通にしてても何処か色気がある。
袖口から覗く力強い腕は女性に男を感じさせ⋮花魁格だけあって
やはり美丈夫な人なのである。
普段の性格は少々荒いが、一夜の夢を見る相手に対しては例え一
夜でも心から至上の愛と熱情を捧げる為、清水花魁と並び負けず劣
らず人気がある人だ。
﹁やっぱり三味線は野菊にはデカいですよ﹂
﹁そうだなぁ、しょうがねぇか。よし!今日は三味線をどう弾くの
か、座敷で気をつける事項なんかを教えてやろう﹂
今現在、秋水と一緒に羅紋兄ィさまによる芸のレクチャーを受け
ている。少し前から芸事を習うようになり、今日は三味線だったの
だが⋮体のサイズに三味線の大きさが合わず。
無理に習得しようとしても、このまま教わって弾いて成長した時、
奏でる際に変な癖がついてしまうと言うことで実践は無しの方向に
27
なった。
くっ、やるせない!!
そう
私がまず習得しなければならない芸は全部で8つある。
古典、書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁、舞技である。
中々厳しい数の習得数だ。
一人立ちするまでの期間は少なくとも10年はあるので、その間
に立派な芸を身につけるのが私の最上だ。
頑張らなくては。
﹁おい野菊ー、いいか?﹂
﹁!、はい!﹂
﹁じゃあいくぞ。まず、この太い方から順に﹁一の糸﹂﹁二の糸﹂
﹁三の糸﹂と呼んでな⋮﹂
私はまず集中力を鍛えようと思う。
三味線講義が昼に始まり夕方に差し掛かろうとしている。
赤い日が畳を照らし出し、部屋の掛け軸は炎のようにゆらゆらと
赤色を写し出す。
﹁⋮お?もう夕時か。じゃあ今日はこれぐらいにしとくか﹂
﹁﹁ありがとうございました﹂﹂
28
一通りの三味線講義が終わり、秋水と二人でお辞儀をして礼をと
る。
﹁しゅうすいも、一緒にありがとうね﹂
秋水は本来なら、今日の三味線講義を受けなくても良いレベルだ。
それでも一緒に受けてくれたのは私が﹃しょうがない奴だから﹄だ
そう。
ちょっと意味は分からないが、心配してくれたと解釈しておこう。
けして私がダメダメだからとか、間抜けだからとか、兄ィさまに
迷惑を掛けそうな奴だからとか、そう言うわけではないと信じてい
る。
私に礼を言われた秋水は顔を背けながら
﹁まぁ気にするな。お前はしょうがない奴だからな﹂
と言ってくれる。
⋮取り合えず秋水の中で私はしょうがない奴だと言うことだけは
分かった。
秋水よ⋮。
この後はまだ此れからの仕事が夜に向けてある筈なので、おやじ
さまの所へと指示をもらいに行く。
﹁では、らもん兄ィさま。しつれいします﹂
﹁あ、待て待て。今日このまま野菊は俺につくことになってるから。
櫛とか用意しておいてくれ﹂
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おお、手間が省けた。
うじの
﹁俺は違うのですか?﹂
﹁秋水は多分、宇治野花魁のとこだろうな。まぁ頑張って行ってこ
い﹂
﹁そうですか、わかりました。では行ってまいります﹂
秋水が部屋の戸を開けて次の持ち場へと向かって行く。
私はこのまま羅紋兄ィさまのお手伝いの為、櫛や着物の用意に取
り掛かることに。
おびど
羅紋兄ィさまは装飾品を沢山付ける人なので用意するのは大変だ
が、これが以外と楽しい。
べっこう
メノウ
珊瑚や翡翠、琥珀や象牙、鼈甲を使った帯留めや、トンボ玉にガ
ラス、貝で出来た耳飾りに、瑪瑙を使った首飾り等他にも色々ある
が、このステキな飾り達を全部用意して羅紋兄ィさまと今日は何に
するかを一緒に決めるのが羅紋兄ィさまについた日の楽しみになっ
ている。
﹁今日はどれにするか﹂
﹁そうですねぇ﹂
羅紋兄ィさまの足の間に挟まれながら、これでもないあれでもな
い、と白い布の上に並べた装飾品を吟味していく。
帯留めはやはり翡翠だろうか。髪が緑だから絶対似合うと思う。
今日の羽織紐は橙色だから耳飾りは橙色のトンボ玉を使ったのを合
わせて統一感を出して、手首には象牙の腕輪を嵌めるのも良いかも。
30
これだけ装飾を付けたら装飾品に人間が負けてしまうと思うだろ
うが、羅紋兄ィさまは違う。
何故かとても似合ってしまうのだ。
そんなランラン気分が羅紋兄ィさまにも伝わったのだろう。背中
から抱き込まれている状態なので微かな笑いでも兄ィさまの笑いの
振動が身体に響いてくる。
﹁はは、楽しいか?﹂
﹁はい!﹂
﹁そうか。お前が来て半年経つが、慣れてきたみたいで良かったな﹂
くすぐ
ポンポンと頭を撫でられる。緑色の髪が私の頬に掛かり擽ったい。
もう本当に頭撫でるの好きだよな。
なぎかぜ
らんぎく
﹁凪風もな、﹃今日の夜は秋水と野菊の部屋で囲碁をするんです!﹄
って朝楽しそうに言ってたぞ。蘭菊も一緒らしいが⋮仲間がいるの
は良いもんだ、仲が良けりゃもっとな﹂
凪風と蘭菊は私と同じ禿の男の子である。
程である。
この天月妓楼には現在、私、秋水、凪風、蘭菊の全員合わせて4
人しか禿はいない。
ひたたれしんぞう
これでも多いほうで他の遊男屋には禿が一人、二人
直垂新造になり花魁となれるのは、この禿だけなので貴重な存在と
も言える。
それだからか自然と仲間意識が生まれた。最初の頃はお互いぎこ
ちなかったものの、今ではお互いの部屋へ遊びに行く程である。子
31
供の順応力は凄い。
今でも自分が一体誰なのか、誰だったのかが分からなくて不安に
なる夜もあるが、最近は忙がしい毎日と仲間達のお蔭で気にならな
くなって来ている。
それが良いことなのか悪いことなのかは誰にも判断出来ない事だ
が、少なくとも気持ちは軽くなっている。
﹁⋮っと、これで良いか﹂
﹁わぁ!とってもかっこいいです﹂
飾りを選び終え身に付けた羅紋兄ィさまに、思わず手を広げ感嘆
の声を上げる。
お似合いです!!
深緑の着流しに翡翠の帯留、紺の羽織を上に着て橙の羽織紐が色
を差す。頭は瑪瑙を使った簪で横の髪を括り上げ、そこから覗く耳
元には琥珀の短冊形をした耳飾りがぶら下がっている。
仕上げに、と目尻に赤い化粧を差した兄ィさま。
妓楼の最高位花魁の出来上がりである。
﹁おー、褒めるのが上手いなぁ。ほれ﹂
﹁わっ!﹂
﹁軽いなー野菊。高い高いたかーいだ﹂
﹁⋮⋮﹂
羅紋兄ィさま、貴方もか!!
32
始まりは 日々4
羅紋兄ィさまの攻撃から解放された私は夕飯を摂りに行く。
小さい子どもの禿である私は座敷には座れない。その為兄ィさま
達がお座敷に上がったら禿の仕事は1度休憩となる。
そして座敷がお開きとなったら、その日支度を手伝った禿や直垂
新造が兄ィさまを迎えに行き、着物を脱がせたり装飾品を箱に閉ま
ったりするのだ。
それを終えてから湯に入り就寝する。
しかし兄ィさま達が客と一夜を共にする場合は違ってくる。
朝まで起きて待つわけにはいかないのだ。
そう言う時は事前に兄ィさまから教えられるので、間違っても朝
まで待つことや、お楽しみ中にお邪魔してしまう事もない。
ただ客と兄ィさまが閨に入る前に、それ用の布団を別室に敷かな
くてはいけない仕事があるので、そのタイミングに注意しなくては
ならない。
早すぎても遅すぎてもいけない。
布団はフカフカの状態でセットしなくてはいけないので、早めに
敷いてしまうとぺしゃんこになってしまう。
それが後にグシャクシャになってしまう運命だったとしても、気
をつけなければいけないのだ。
33
遅すぎると丁度別室へと床入りする兄ィさまとお客と鉢合わせし
てしまう事がある為、絶対に遅すぎてはいけない。
早めに敷くより厄介な事になる。
しかし良いタイミングで布団をしこうとしても、その別室もまた
直前まで使用している時がある為、中々敷けないこともある。
私は一度それを体験した。
あれは2ヶ月程前。
清水花魁の下に付いた日だった。
﹃今日は閨の日だから、椿の間に布団を敷いておいてくれるかな?
多分今日はギリギリ迄空かないだろうから、空いたら直ぐに敷ける
ように準備しとくんだよ?野菊﹄
﹃はい!きよみず兄ィさま﹄
この布団敷きの仕事も週に一度のペースでやっていた為、4ヶ月
目に入ったその日はもう馴れたものだった。
今日もいつも通り素早くやろう。
そう意気込んでいた私は3時間後地獄を見ることになる。
<﹃あ、⋮清水さま⋮﹄>
<﹃なんだい?﹄>
34
せっぷん
<﹃接吻を⋮してくださいませ⋮っ、﹄>
<﹃ゆきの⋮﹄>
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私は今、清水兄ィさまとお客が文字通り﹃あはん∼うふん﹄して
いる椿の間の押し入れにいた。
息を殺して耳を塞いでいる。
一体何故こんな状況になったのか。
時間はほんの5分前に遡る。
座敷に行く前に清水兄ィさまが言っていた通りギリギリ迄椿の間
は空かなくて、あと約5分で予定の時刻になろうとしていた。
椿の間に客はいないのだが中々片付けが終わらないのだ。
やややややばいよ!どーすんのこれ!?
5分?5分でやれってか!!
いやいや、実質5分も無いんですけど!!?
脳内は5と言う数字ばかりになり、部屋の前で私がパニックにな
っていると戸が開く。
﹃野菊、片付けが終わったぞ!﹄
﹃!﹄
﹃ごめんな、上客だったから中々早く切り上げられなかったみたい
でな。急いでやったがこんな時間になっちまった。手伝ってやりて
35
ぇけど俺達まだ仕事が残ってるから手伝えねぇんだ、本当に悪い﹄
﹃いいえ!では急いでじゅんびします!!﹄
申し訳ない顔で言われてしまったが、兄ィさま達が悪い訳ではな
いのだ。
その心遣いに寧ろ感謝したい位である。
だが、あともう約3分。
布団を椿の間に急いで運ぶ。
布団は下にローラー的な部品が付いている籠ごと持ってきて廊下
に用意しておいたので、5歳児の身体でも特に無理なく運べた。
しかし敷き布団は合計で三枚重ねて敷かなければいけない。
高級遊男の花魁が使うのは三つ布団と言って三枚重ねの敷き布団
になるのだ。
一枚の厚さが約30センチ程なので、三枚で約90センチ程にな
る。
私の身長は大体110センチ。
﹃とぉりゃぁああ!﹄
気合いだ。
火事場の馬鹿力を出して挑んだ三枚重は1分位で完成し終了。自
己最高記録である。
そして押し入れから出した掛け布団と枕を定位置に置き、布団は
36
敷き終わる。
あと約1分。
ありあけあんどん
廊下にスタンバっといた有明行灯と言う足元を照らす程の照明具
を布団の横斜め上にセット。
よしこれで準備は大丈夫。
と思って見渡したら、ローラー付きの籠が勝手に転がり開けてい
た押し入れの中へと入ってしまっていた。
ああ、もう!
建てつけが悪いよおやじさま!!
ちょっとイライラしながら急いで押し入れに入り、籠を転がして
出ようとした時だった。
<﹃今日はここだよ。⋮あれ?戸が、﹄>
<﹃椿の間ね?早く入りましょ清水さま﹄>
清水兄ィさまとお客の声が、開け放した戸の近くから響いてくる。
⋮どうやら私は間に合わなかったらしい。
スーっと静かに自分が入っている押し入れの戸を閉める。
兎に角此処にいるしかない。
今出ていく勇気など私は持ち合わせていない。
そしてあの場面に戻るわけだ。
37
押し入れの中に入って戸一枚の壁を隔てても、聞こえてくる生々
しい声や音。
手で耳を塞ぐが
<﹃清水さま⋮﹄>
と私の耳栓を糸も簡単に破り、まるで意味が無い。
中身は大人だが正直これは辛い。
なんの羞恥拷問だろうか。
しかも押し入れの中はヒヤリとしていて、手足も冷たくなってき
た。
押し入れの一番奥へと転がり体を丸める。
<﹃あぁ⋮、しあわせですっ﹄>
私は地獄です。
⋮お願いだから早く朝になって。
一夜明け。
﹃どこだー!野菊ー!!﹄
﹃いたら返事してくれー!﹄
その声で私は目を覚ました。
どうやらいつの間にかに眠っていたようだ。チビッコの身体は本
38
能に正直で助かる。
でもやはり寝不足であることには違いない。鏡を見てみなければ
分からないが、隈が出来ている感じがする。
しかし今は何時頃だろう。
こんなに大声を上げて探している事からして、今は昼頃だろうか。
昼はお客もいない為遊男達の自由時間。
稽古をしたり食事を摂ったり寝ていたりと、比較的好きに過ごせ
る。
﹃野菊ー!﹄
これは秋水の声だ。
いけない、早く此処から出なくては。
きっともうこの部屋に清水兄ィさまと客はいないのだから。
と出ようとしたと同時に押し入れの戸が開く。
﹃のぎー⋮っ野菊!﹄
﹃⋮あ﹄
開けたのは清水兄ィさまだった。
その後ろには他の兄ィさま達の姿もある。
﹃いたのか!?﹄
﹃おやじさまー!野菊いました!﹄
﹃椿の間みたいですー!!﹄
兄ィさま達が次々と声を上げる。
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﹃もしかしてずっと此処にいたのかい?﹄
﹃⋮⋮は、ぃ﹄
清水兄ィさまに手を引かれて押し入れから出た途端、ぎゅっと抱
き締められるとそう聞かれた。
昨日の夜を思い出してしまうと少しビクッとしてしまう。
そんな私のビビリ具合に気づいた兄ィさまは苦笑する。
﹃こんなに手足も冷えて⋮野菊、なんで此処に?﹄
﹃⋮えっと、﹄
取り合えず事の詳細をたどたどしいながらも話す。
時折抱き締めながらも私の背中を擦って温めてくれたが、その間
の清水兄ィさまは苦愚しい表情で、眉も下がっていた。
﹃⋮で、はいったままで⋮いよー、と﹄
﹃⋮ごめん、ごめんよ野菊﹄
別に兄さまが悪いワケでは無いのに何故か謝られる。
どちらかと言えば、悪いのはきちんと布団を敷く任務を完全に遂
行出来なかった私で。
戸も開けっぱなしでいたから、仕上がりで言えば全然ダメダメで。
﹃あの、わたしがわるいのです。きよみず兄ィさまはあやまらない
でください﹄
﹃あぁもう!本当にすまなかった野菊。怖かったろう?あんな⋮あ
ぁ⋮﹄
40
全く聞いていないらしい。
暫く後にやって来たおやじさまに拳骨を受けたが﹃椿の間に直前
までいた客への対応も考えなきゃな、﹄と呟いた後、頭を優しく撫
でてくれた。
ちなみに昼になっても布団を片付けに現れないのを不審がった清
水兄ィさまと、部屋に全く戻らなかった私を秋水が皆に聞いて回っ
ていた事で、私がいない事に気づいたらしい。
あぁ、本当に騒ぎを引き起こして申し訳ない。
それから一週間程清水兄ィさまはベロンベロンに私に甘かった。
やましいことをした後みたいな態度で。
﹃ほら、羊羮だよ。あーんして﹄
﹃可愛いね野菊。あ、お饅頭あるよ?お口開けてごらん﹄
﹃今日は野菊と一緒に寝ようか﹄
﹃野菊、野菊⋮﹄
﹃兄ィさま﹄
﹃なんだい?﹄
﹃兄ィさまのことそんけいしています。なのでだいじょうぶです﹄
﹃⋮⋮﹄
一週間の甘々期間に、強制的に終止符を打った瞬間だった。
41
まぁ、あんなことは二度と御免だと言うことです。
﹁みそ汁のおかわりいるか?﹂
﹁なぎかぜみたいにイッパイ入らないから、いいよ﹂
羅紋兄ィさまの座敷が終わるまでの間、丁度食事処にいた凪風と
今は食事を摂っている最中。
お互いの兄ィさまの時間が被っていたようだ。
﹁夜は囲碁盤を僕が部屋に持ってくから、石は用意しといてね﹂
﹁らんちゃんはおそいかな?﹂
﹁うーん蘭菊か。どうだろう?まあ、待ってれば来るさ﹂
凪風の歳は8歳。
私より三つ上の禿である。
髪の色はキラキラの銀色で、瞳は灰色。少し垂れ目の健康的な肌
色をした囲碁好きな美少年だ。秋水と同じ歳だが、身長は凪風のほ
うが高い。
この天月妓楼に入って来たのは秋水より数日後だったらしい。
二人は﹃同期﹄ってやつである。
凪風はご飯を凄く沢山食べるのが印象的だ。でも太っている訳で
は無いので正直羨ましい。
食べた分が身長に反映されているって感じだ。
42
﹁まだ時間があるなぁ。野菊は何する?﹂
座敷がお開きになるまであと二時間ちょっと。
食べ終わった凪風が聞いてきた。
空いた時間は自由に過ごせるので、寝たりだとかお茶をしたりだ
とか遊んだりだとかでも良いのだが、私は基本芸を磨く時間に使っ
ている。
だって私は立派な男芸者を目指すのだから。
﹁なぎかぜがよかったら、いごやりたい﹂
﹁囲碁?良いよ。じゃあ僕の部屋に行こう﹂
また夜にはやるのだが、これも修得しなければならない芸の一つ。
凪風の教え方はとても上手なので、たまにこうやって相手をして
もらいながら教わっている。
我ながら時間を無駄にすることなく過ごせているかもしれない。
網模様の盤をじっと見つめて、目の前の少年に向き直る。
﹁でね、同一局面の反復は禁止なんだ﹂
﹁なんで?﹂
﹁これを繰り返しちゃうと永遠に対局が終わらないんだよ。勝負に
ならないでしょ?だから、﹂
﹁ふむふむ﹂
43
やはり凪風の教え方は理解しやすい。
この二時間、勝負をしながら囲碁でのタブーを教わっていた所な
のだが、とてもわかりやすく頭に入ってきた。
勝負と言っても最近始めたばかりの私が相手じゃ凪風の相手には
ならないが、それでも好きな物を教えるのが楽しいのか、喜んで教
えてくれる。
ありがたや∼ありがたや∼。
﹁そういえば、もう時間になるね﹂
﹁あ、そうだね。なぎかぜありがとう﹂
﹁どういたしまして。じゃあまた後でねー!﹂
部屋で別れた私達はそれぞれの場所へと向かって行った。
44
始まりは 日々5︵前書き︶
今回は色々な和歌にお世話になりました。
45
始まりは 日々5
うじの
本日は和歌の練習。
先生は宇治野兄ィさまです。
﹁和歌はね、客の心を掴む遊男の言葉の武器なんですよ﹂
優しく赦すように語りかけるこのお方。
宇治野兄ィさまは歳が20の、天月妓楼の花魁である。
紫色の首に掛かる位までの髪に黒い瞳、肌はこれまた白く綺麗な
人だ。
まだ座敷に上がる前なので、今は落ち着いた藍色の着流しを着て
過ごしている。
少々つり目でちょっとキツそうだが、そんな事は実際無く。
⋮いや、時折ズバっと思っていることを素直に言うときがあるか
ら、思う人によればキツいのかもしれない。
でも洗練された所作と客への丁寧な心遣い、そして宇治野兄ィさ
まが詠む歌は、客の心を離さない。良い男に極上の恋の歌を詠まれ
たらそれだけで骨抜きになるだろう。
﹁多く詠まれているのは恋歌でしょうか。この前詠んだ歌は覚えて
﹂
おもいつつ、ぬればやひとの⋮みえつらん、ゆめとしりせばさ
ますか?﹂
﹁
めざらましを
﹁訳は?﹂
﹁あ、あの人のことをおもいながらねたので、ゆめにあの人がでて
46
きたのでしょうか。
もしゆめだとわかっていたら、めをさまさなかったのにな⋮⋮﹂
﹁うん、正解です。ほら、飴をあげますよ﹂
答えられたら毎回飴をくれる宇治野兄ィさま。
大阪のオバチャンみたいな人だ。
飴ちゃんだ飴ちゃん。
しかし大坂のオバチャンとか変な事は覚えてるのに。
自分が分からないって一体何なんだ。謎過ぎる。
﹁じゃあ次は蘭菊、覚えている恋歌を詠んでみてください﹂
﹁うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼み初め
てき﹂
﹁訳は?﹂
﹁うたた寝した時の夢に、恋しい人を見てしまってからは、あなた
が私を想ってくれていると夢を頼りにし始めるようになってしまっ
た、です﹂
﹁正解。野菊の夢を使った歌に合わせたんですね?はい、飴をあげ
ますよ﹂
私の隣に座り、一緒に和歌を練習しているのは蘭菊。
蘭菊は七歳で私の二つ上の禿の子。
容姿は赤色の短髪に赤黒い瞳。健康的な肌色をしているが、浴衣
の袖から見える右腕には火傷の跡が少しある。
火傷の跡の詳細について聞いたことは無いが、別に死ぬほど知り
たいと思うワケでも無い為聞きはしない。
知りたいワケでは無いが傷の形が兎みたいで可愛いので、ちょっ
と見てしまう時もある。
天月妓楼に入って来たのは私よりも半年前だそうで、秋水と同じ
47
理由では無いが、こうして一緒に芸を習う事が多々ある。
のばかま
すそ
ここでちなみに私達禿の服装だが、仕事をする際は皆白い上衣に
はかま
黒の野袴を履いて動いている。
野袴とは、形状で言うと袴の裾を絞ったスタイルである。
ズボンに近くて動きやすいのが特徴だ。
今は時間では無いため、禿用の紺の浴衣を着用している。
はからずも禿の皆とはペアルックだ。
﹁お前はあと何覚えてる?﹂
﹁っえ?えーと、ちぎりきな⋮かたみにそでをしぼりつつ、すえの
まつやまなみこさじとは⋮﹂
﹁お前⋮よりによってなんつー歌を⋮﹂
﹁おやおや﹂
確か訳は、
私たちは固く約束しましたね。互いに涙に濡れた袖を、何度も絞
りながら、あの末の松山を、波が越すことのないように、どんな事
があっても心変わりなどしないと。なのに、あなたは何故・・。
ぶっちゃけて言えば
﹃おいぃ!ずっと好きだって言ってたじゃねーか何裏切ってんだよ
!?ああん?﹄
と言う、恋人に裏切られた歌である。
48
﹁お前馬鹿だよな﹂
﹁らんちゃんうるさい﹂
蘭菊はこうやってちょいちょい貶してくる。
一日一貶しだ。
⋮あらやだ、なんか一日一善みたい。
でも何だかんだで構ってくるのでツンデレだと私は思っている。
﹁ほらほら二人とも。今度はこの和歌集を見て、お互いに相手へ贈
りたい歌を詠んでみましょう。﹂
そう言って宇治野兄ィさまが百人一首等の和歌集を数冊手渡して
くる。
ちなみにこの世界の文字は予想通り、ミミズが這っているような
形だった。
達筆過ぎて読めやしない。
しかし言葉は分かるし喋れるので、教われば以外と直ぐに読める
ようになっていった。
もちろん書くのも同様に。
でもいまいち和歌については構成や言葉的な意味で理解が乏しい
為、一々教えてもらわないと何を言っているのかさっぱりである。
﹁歌を自分で作るのも大事ですが、先ずは状況に合った歌を贈る事
から練習しなくてはいけませんからね﹂
﹁なんでも良いんですか?﹂
49
﹁ええ、合っているなら何でもです﹂
ペラペラとページを捲って取り合えず見てみる。
和歌の隣には私の為に宇治野兄ィさまが訳を書いてくれているの
で、とても分かりやすい。
しかし沢山あるので直ぐに見つかると思ったのだが、中々見つか
らない。
そもそも蘭菊に合う歌って何だろう。
何にこの
すゑつむ花を
袖にふれ
このツンデレ人間にピッタリな歌は、この美しい言葉が並べられ
ている和歌集に果たしてあるのか。
﹁じゃあ俺からいきます﹂
﹁はい、じゃあ蘭菊からですね﹂
早!!
色ともなしに
私まだ見つかって無いんだけど!
﹁なつかしき
けむ﹂
﹁やくは?﹂
﹁しいて言えば、お前に触りたくなかった。って意味だ﹂
﹁こら蘭菊!⋮野菊、気にしなくてもいいですからね﹂
だって合ってれば良いって言ったじゃないですかー、と口をへの
字に曲げてそっぽを向く蘭菊。
詳しく訳すと﹃別に好きでもねーのに関わっちゃったよ。こんな
んだってわかってたら、触れなかったのにさ﹄らしい。
50
しかし私はそんな事では腹を立てない。
だって私は大人。大人だから!
そう、だから睨む事しかしない。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮っなんだよ﹂
フッ。
ちょっとは私の睨みで怖じ気づいたかツンデレめ。
しかしまぁ、こう言う仲間というか友達というか。
たとえ毎日馬鹿馬鹿言われて言い合いばかりだったとしても、私
はそれをとても楽しいと感じている。
生きて怒って笑って泣いて驚いて。
私の世界に色を塗ってくれた此処の人達。
蘭菊もその一人なワケで。
そんな風に考えていると、少しピッタリな和歌が目に入った。
﹁あけぬれば、くるるものとは、しりながら⋮なほうらめしき、あ
さぼらけかな﹂
﹁おや、良い歌ですね。蘭菊が羨ましいですよ﹂
私が歌を詠むと宇治野兄ィさまが優しく笑い、頭を擦り擦りと撫
でてくる。
嬉しい。嬉しいのだが、此処の兄ィさま達に撫でられ過ぎて頭が
ハゲないか正直心配だ。
蘭菊は意味が分からない様で眉間にシワを寄せていた。
51
﹁なんだ?﹂
﹁また、あしたあえるってわかってるけど、よるはなれるときはや
っぱりちょっとさびしいなって⋮、ことで﹂
この歌は夜明けの朝を歌っているが、私の場合は夜寝る時の自分
の心情にちょっとリンクしているので、この際夜明けの部分は別と
して詠んでみた。
﹁それ俺に詠んだのか﹂
﹁うん﹂
﹁お前やっぱり馬鹿だな﹂
そう言ってまた私を貶しても、ちょっぴり口角が上がっている蘭
菊を見る限り、やはりツンデレだ。と思う。
﹁宇治野ーいるか?﹂
﹁いますよ、入ってどうぞ﹂
突然の声に宇治野兄ィさまが答える。
入って来たのは羅紋兄ィさまと、続いて清水兄ィさまだった。
二人とも宇治野兄ィさまと同様に座敷用ではない着流しに身を包
んでいて、羅紋兄ィさまは朱、清水兄ィさまは若草色。
兄ィさま達はカラフルで見ていて飽きません。
そんな羅紋兄ィさまの手には何やら箱が握られている。
それになんか良い匂いがプンプン漂って⋮
52
ああ!あの箱の紋章は!!
﹁おやじさまが焼きまんじゅうくれたから、一緒に食おうや﹂
﹁てことでね。ひと休憩にどうかな﹂
おやじさまが一月に一回、皆に買ってきてくれる老舗の美味しい
焼きまんじゅう!!
あのモチモチの白い餅のような少し甘味のある饅頭に、甘辛い味
噌を塗りたくってちょっと焦げを効かせて焼いた私の大好きなお饅
頭。
﹁そうですね。今丁度野菊が蘭菊に可愛らしい和歌を詠んでくれま
したから、区切りを入れて少し休憩にしましょう﹂
皆で輪になって座り、饅頭の箱を真ん中に置く。
うん、良い香り。
皆で一斉に手を伸ばし竹串を掴む。
右隣の蘭菊と掴んだ竹串が被ったがブン捕った。
睨まれているが気にしない。
ふふふ。いただきまーす。
﹁ところで野菊は蘭菊に何を詠んだんだ?﹂
饅頭を頬張っていると、目の前に座っている羅紋兄ィさまに歌に
ついて質問された。
﹁うたですか?あけぬれば、くるるものとは、しりながら⋮なほう
53
らめしき、あさぼらけかな⋮とよみました﹂
何にこの
すゑつむ花を
袖に
﹁え、恋歌か!?⋮蘭菊には勿体ねぇな。蘭菊は野菊に何詠んだ?﹂
聞かれた事にちょっと渋い顔をする蘭菊。
色ともなしに
ああ⋮あの、アンチ野菊の歌か。
﹁な⋮なつかしき
ふれけむ⋮⋮です﹂
﹁⋮お前なぁ、馬鹿か﹂
羅紋兄ィさまが呆れていると、左隣から肩をトントンと軽く叩か
れる。
清水兄ィさまだ。
あれ、もうお饅頭食べ終わってる。
結構早食いなんだな清水兄ィさま。
﹁口直しに私が百人一首から歌を贈ってあげよう﹂
﹁くちなおし?﹂
﹁蘭菊の歌はけしからんからね。野菊にはもっと良い歌を﹂
命さへ
長くもがなと
私は奴がツンデレだと思っているため、あんなツンツンの歌は正
直屁でもないが。
惜しからざりし
いや、睨んじゃったけどもさ。
﹁では⋮
君がため
思ひけるかな﹂
54
﹁?﹂
﹁とても有名な歌なんだよ?﹂
まだ竹串を持って食べている私の両手を、竹串を真ん中にしてぎ
ゅっと両手で握られ、目線を合わせられる。
あ。ちょ、今清水兄ィさまの手に味噌が!!
﹁兄ィさま、みそが⋮﹂
﹁野菊ー?﹂
﹁はい!あの、み﹂
﹁意味は聞かないのかな?﹂
今の歌の事だろうか。
しかし兄ィさまの笑顔が威圧的過ぎてビビる。
﹁いみはなんですか?﹂
﹁簡単に言うとね、野菊とずっと一緒にいたいなって意味だよ﹂
﹂
⋮取り敢えず遊男は天然タラシが多い。
﹁じ、じゃあおみそを⋮
﹁野菊、ずっとだよ﹂
まぁ、タラさなければ商売にならないのだけれど。
﹁おい馬鹿野菊!﹂
﹁わっ、﹂
55
清水兄ィさまが両手を握り締め笑顔で見つめてくる中、蘭菊に名
前を呼ばれる。
かわや
さしも草
さしも知
何故か隣で座っていたのに立って私を見下ろして、腰に手をあて
て⋮なんか偉そうだな。
えやはいぶきの
燃ゆる思いを!⋮俺、ちょっと厠行って来ます!!﹂
﹁かくとだに
らじな
﹁はい、行ってらっしゃい。その前にほれ、飴をあげますよ﹂
いきなり和歌を詠んだと思えば。
宇治野兄ィさまから飴を受け取ると、ダダダっと効果音が付く勢
いで戸を開けて出て行った。
あれ、蘭菊の串に饅頭が1個残ってる。
⋮ぐふふ。
﹁モグモグ⋮いまのはなんでしょう﹂
﹁野菊は練習中ですからね。百人一首の冊子を見れば分かりますよ
?﹂
﹁らんちゃんはなんていってたのですか。モグモグ⋮﹂
﹁野菊は知らなくても大丈夫だよ。まぁ、いずれわかるようになる
と思うけど。百人一首の勉強は今日で終わりで良いんじゃないかな﹂
﹁はぁ⋮清水、そう言う訳にはいきませんよ﹂
﹁俺も終わりで良いと思うぜ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
モグモグ。
56
﹃君がため
惜しからざりし
思ひけるかな﹄
命さへ
長くもがなと
君に逢う為ならいつ死んでも良いと思っていたんだ、君に逢うまで
さしも知
は。でも君に出逢ってしまった今、君とずっとずっと長く一緒に生
さしも草
きていられたら良いのになと思うようになったんだよ。
ふじわらのよしたか
<藤原義孝>
百人一首より抜粋
えやはいぶきの
燃ゆる思いを﹄
﹃かくとだに
らじな
キミの事が好きで好きで仕方ない。そう伝えたいのに、伝える勇気
さえ今の私にはないんだ。
こんなに私が熱い想いを抱いているなんて、キミは全く知らないん
だろうなぁ。
57
ふじわらのさねかたあそん
<藤原実方朝臣>
百人一首より抜粋
58
しぼりつつ
始まりは 日々5︵後書き︶
﹁契りきな かたみに袖を
色ともなしに
すゑ
末の松山 波越さじとは﹂
朝ぼ
袖にふれ
なほ恨めしき
すゑつむ花を
知りながら
何にこの
<清原元輔>百人一首より抜粋
﹁なつかしき
けむ﹂
暮るるものとは
<光源氏>源氏物語より抜粋
﹁明けぬれば
らけかな﹂
<藤原道信>百人一首より抜粋
見えつらむ
夢と知りせば
さめざ
﹁うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼み初め
てき﹂
寝ぬればや人の
<小野小町>古今和歌集より抜粋
﹁思ひつつ
らましを﹂
<小野小町>古今和歌集より抜粋
歌人に感謝です。
59
始まりは 日々6
﹁野菊、背中洗ってくれ﹂
﹁はーいじゅうぎ兄ィさま﹂
兄ィさまの背中を古布でゴシゴシと洗っていく。
此処は天月妓楼の大衆浴場。
現在の時間は大体夜中の2時30分である。
﹁今度は野菊の頭を洗ってやろう﹂
﹁ぬわ!?﹂
ゴッシゴッシと滅茶苦茶強く洗われる。
痛っ、痛い!痛いよ!!
ハゲちゃう、ハゲちゃうって!!
この豪快に私の頭を洗う人。
髪は短髪の水色。瞳は蒼く肌は少し浅黒い。目尻には笑い皺があ
り、背はこの妓楼で一番高く180以上はあるかもしれない。
筋肉も程好く付いていて実に逞しいお方。
じゅうぎ
名前は十義、歳は32、遊男である。
32歳!?
有りなの!?
60
はや
と思うかもしれないが有りなのだ。
考えてみて欲しい。
女は若ければ花盛りと言って持て囃されるが、後半に差し掛かれ
ば﹃枯れた﹄とか﹃盛りは過ぎた﹄とか言われるのが普通で、もし
遊女だったら年増扱いでお払い箱だろう。
だが。
男の場合は違う。
歳をある程度とっても、﹃枯れた﹄ではなく﹃味が出てきた﹄や
﹃渋みが増した﹄等でまだまだイケるのだ。
実際客もそのダンディな遊男を指名することも多く、この世界で
の遊男の年季明けは35歳となっている。
花魁はその年季まで花魁であり続ける。
や
晴れて吉原を出れても、売られた為行くところも無く働く所が無
い人は、妓楼の遣り手になったり飯炊きになったりして遊男を引退
するのだ。
それ以外での引退は身請けをされるかである。
ちなみに遣り手とは遊男の指導・手配等をする男性のことである。
軽く言えばマネージャー的な。
だから一生をこの吉原で過ごす人はザラにいる。
﹁じゅっ兄ィさま、あの、イタっ!﹂
﹁なんだー?もっとデカイ声で喋ってくれー﹂
61
遊男の1日のスケジュールだが。
天月妓楼の通常の営業は大体現代で言えば16時から夜中の2時
まで。
床入りの場合は別で、客が帰るのは朝5時になる。
朝は遅く大体11時頃に起床。
朝って言うか、もう昼だと思う。
道中がある場合は昼からなので、主役の花魁と直垂新造、禿は早
めに起床し準備する。花魁は前日は絶対に床入りしない約束だ。
起床したら朝食兼昼食を取り、食べ終わったら一日一回の部屋掃
除をするのが決まり。
サボったらおやじさまに一発でバレるので毎日欠かさない。
バレるのだ。何故か。
それからは16時まで各自芸事を学んだり、部屋で好きに過ごす
等自由がある。
16時になったら夜見世と言って、花魁では無い普通の遊男達が
格子の中に座り並び始めて客を待つ。
ここで、外から客が良い男を品定めするのだ。
それから仕事が始まり、終わるのは夜中の2時となる。
﹁あたまが、はげてしまいますぅう!﹂
﹁おー?こりゃすまんな﹂
そして今の入浴タイムへと繋がる。
62
ああ、大丈夫かな頭皮。
毛穴から血とか出てないかな。
﹁十義兄ィさま、野菊は俺が洗うんで隣の蘭菊洗って貰えますか?
思いっきり﹂
﹁そうか?よし来た!﹂
﹁え、おい秋水!⋮十義兄ィさまっ俺大丈夫で⋮イっつ、いてぇ!﹂
天月の皆で仲良く洗いっ子。
ちなみに私は男に紛れ、真っ裸。
羞恥心は初日から一ヶ月で完全に麻痺した。
風呂は決まった時間にしか入れない為、皆と一緒に入らなければ
ならない。
床入りして風呂に入るのが朝になる遊男は別だが、それ以外では
夜中の2∼3時半の間で入るのが決まりになっている。
この時代、お湯はそうそう毎時間用意出来ないので。
最初は見ないように、周りを絶対に見ないようにして隅に隠れな
がら、火吹きの人が沸かしてくれた湯で体を流していたのだが
﹃チビ、そんな隅っこに居ねぇでこっち来な﹄
﹃そうだぞー。まだ小っせぇんだから気にすんな、な?﹄
めざと
小さい私を目敏く見つけた兄ィさま達に声を掛けられてしまった。
気にするなと言われても、中身は立派なレディの私。
63
無理な話だ。
それに私が気にしているのは自分の裸ではない。
こんな凹凸の無い幼児体型なんて、見た方も何も思わないのは分
かっている。
お腹なんてポンポコリンだ。
気にしているのは男の人の裸を直視する事で。
﹃ほーら、こっちに来い﹄
﹃うきゃっ﹄
よっ、と今だ動かない私が持ち上げられて移動させられたのは皆
が浸かっている湯船。
しかも意外と風呂の深さがあり、私は足がギリギリ着くか着かな
いかだった為兄ィさまの膝に乗せられた。
何が、とは言わないが直に触れている。
いやぁぁぁああ!!
誰この人!何この人!お節介だよ!
とは声に出さず。
衝撃で私は固まる。
﹃あはは、野菊?だっけか。俺は十義ってんだ、宜しくな﹄
あかのぎ
﹃俺は宇治野です、初めまして﹄
﹃俺は朱禾。﹄
﹃俺は⋮﹄﹃僕は⋮﹄
皆が湯の中で一気に紹介を始めてくれるが、正直最初の三人位の
64
名前しか覚えなかった。
薄情と言わないで欲しい。
私の顔がお湯のせいで真っ赤になっていたワケでは無いのを分か
って頂きたい。
見たくないものを見ない為に明後日の方向をジ︱︱︱、と見てい
た私は悪くない筈。
それからは毎回風呂へ入る度に誰かに捕まった。
石鹸
三回程走って逃げた事があるが、三回とも5秒もしない内にべチ
ャリ、と素っ転んで結局捕獲された。
とても痛かった。心身共に。
﹃ほれ。慣れろ慣れろ、な?﹄
﹃ぅ⋮﹄
諦めが肝心だぜ、と言う副音声が聞こえた気がする。
﹁しゅうすいありがとう﹂
﹁ハゲたら困るからな﹂
十義兄ィさまとチェンジして私の頭を洗ってくれる秋水。
は無い為お湯のみだが。
尊い犠牲になってくれた蘭菊にも感謝は忘れない。
ありがとう蘭菊。
65
﹁今日宇治野兄ィさまは閨の日か?羅紋兄ィさまはさっき凪風が着
替え手伝いに行ってたから違うと思うけど﹂
﹁うん、きょうかさまとみたい。きよみず兄ィさまも?﹂
﹁ああ、馴染みの雪野様とみたいだ﹂
私達の間では、客と一夜を共にすることを﹃閨の日﹄と呼んでい
る。
風呂の時間に見かけない遊男は大体閨の日なので、居ないと﹃あ
あ、今日は閨か﹄と分かるのだ。
禿仲間達とはこうやってお互いに今日付いた兄ィさまの事を話し
たり、客についてあーでもこーでもないと一丁前に議論したりする。
私は聞く方専門だが。
今更だけど、私達が付く兄ィさまは花魁のみである。
天月妓楼には現在三人の花魁がいて、
宇治野花魁、羅紋花魁、清水花魁の三人がそう。
あと一人歳が30の花魁がいたのだが、ついこの間身請けされて
花魁を引退していった。
とても格好良かったのを覚えている。
なんでもその客とは十年来の付き合いだったようで相思相愛。身
請けを出来るお金がやっと用意できた今年、一緒になる事が出来た
と言う。
こんなハッピーエンドもあるのだなと感動した。
この際女が男を養う部分は抜きにして。
66
﹁湯に浸かるか。お前は俺の膝な﹂
﹁うん﹂
頭を洗い終わった為湯に入る際、秋水にそう言われる。
浴槽で溺れそうな私を心配して毎回誰か膝に乗せてくれるのだが
﹁ちょっと待ちな。これはな、俺の仕事なんだよ。なーおチビ?﹂
﹁⋮⋮﹂
十義兄ィさまがいる時は必ずこの人の上に乗せられる。
それはあの最初の頃から変わっていない。
三回逃げて、三回共私を捕まえた人はこの十義兄ィさまだ。
猟師か!
ある時、十義兄ィさまが話してくれた事がある。
﹃俺にはな、野菊みたいに小ぃせえ妹がいたんだ。今はもうデカく
なってると思うけどな﹄
﹃?﹄
﹃もう顔も覚えていないが、お前見てたら何だかだんだんその妹と
被ってきてな﹄
﹃鬱陶しいと思うが、猫可愛がりさしてくれな﹄
67
﹁おーし、ほれ泳いでみろ﹂
十義兄ィさまの手が私の胸と足を支えて逆お姫様抱っこ状態とな
り、お湯の上をブラブラさせられる。
屈辱だ。
﹁野菊嫌がってますよ﹂
﹁そんな事ねぇよ秋水。おチビ楽しいもんなー?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なー?ははは、﹂
﹁お似合いだぜ野菊﹂
黙れ蘭菊。
﹁十義兄ィさま、﹂
﹁どーした?お前もやってほしいか﹂
﹁いえ、蘭菊もやって欲しいみたいです﹂
﹁よし来た!﹂
﹁え、おい秋水!⋮十義兄ィさまっ俺大丈夫で⋮ぉわ!!﹂
蘭菊が楽しそうで良かった。
似合ってるよとても。
﹁野菊こっちに来い﹂
﹁うん﹂
再び秋水の膝元へと帰還。
秋水は蘭菊をいじるのが好きらしく、二人でいる所を見る度しょ
68
っちゅう蘭菊が声を荒げている。
打てば響くような反応をする蘭菊を毎回面白そうに見ているのだ。
まぁ、蘭菊はツンデレだから。
しかし若干秋水にSっ気があるのは気のせいだろうか。
﹁おー!大きくなったなぁ蘭菊、ほれほれ﹂
凄く楽しそうな兄ィさま。
十義兄さまの笑顔を見て、またブラブラやってくれるのかなーと
心の隅の隅の隅っこで思う私は、十義兄ィさまがキライでない事は
確かで。
﹁チビ共、もっともっと大きくなれよー。なー?﹂
本当は大好きだ。
あ、ライク的な意味で。
69
ちなみに清水兄ィさまがいる時。
﹃おいで野菊﹄
﹃清水、これは俺の仕事だ。なー?野菊﹄
﹃ゎっ⋮⋮は、はい﹃十義さん﹄
﹃何だ?﹄
﹃おやじさまがさっき用事があるって言ってましたよ、早めに出た
ほうが良いです﹄
﹃え、そうなのか?分かった!﹄
急いで風呂から出る十義兄ィさま。
﹃きょうは、なんのようじなんでしょうか?﹄
﹃んー?なんだろうね﹄
70
毎回このやり取りである。
71
始まりは 日々6︵後書き︶
説明が多い回でした。
まだまだ床入りのルールやその他の説明を入れたかったのですが、
今回はここまでにしておきます。
72
始まりは 日々7
蒸し暑い日が続く夏真っ盛りの今日、7月31日は遊男達のお休
み、年に二回しかないお休みである。正月の1月1日元日と、7月
31日は遊男にとっての正月休みと夏休みとなっている。
そんな貴重な日、この天月妓楼の遊男達は昼間から何をしている
のかと言うと。
﹁それでな、俺はその時鏡を見ててな。そしたら後ろから⋮声がし
たんだよ⋮﹂
﹁﹁﹁⋮ゴクリ﹂﹂﹂
﹁⋮おま﹁兄ィさまたちー、やきまんじゅうですよー﹂
﹁﹁﹁﹁﹁﹁っぎゃあ゛あああああああ!!﹂﹂﹂﹂﹂﹂
私が戸を開けて部屋に入るとそこは真っ暗で、一つの蝋燭を囲ん
でいたらしい兄ィさま達が頭を抱えて震えていた。
え、何。
﹁の、野菊と凪風かよぉ!﹂
﹁ビビらせやがってー﹂
私はおやじさまに頼まれてこの饅頭をこの部屋まで届けに来たの
73
だ。
なのに何だこん畜生。お饅頭やらないぞ。
折角凪風と二人天月の食事処でお茶をしていたのに、
﹃すまん、羅紋の部屋にいるあの馬鹿共にこれを届けてやってくれ﹄
﹃?はい﹄
﹃じゃあ僕も一緒に行くよ﹄
丁度私達が目に入ったらしいおやじさまが、焼き饅頭の箱を手に
持って近づいて来るとそう言ってきた。
馬鹿共とは兄ィさま達の事を指しているらしく﹃いい具合に兄さ
ん達を脅かしてやるといい﹄と去り際に言われる。
脅かす?
何だかよく分からない。
自分達の分の焼き饅頭を食べたあと、私達の部屋は妓楼の二階に
ある為、兄ィさま達に饅頭を届けに階段を上っていく。その間にも
焼き饅頭の良い香りが箱から漂っていて、私の臭覚を刺激。
ああ良い匂い。
プププ。このまま兄ィさま達にあげないで、凪風と二人で食べて
しまうなんてのはどうだろうか。
﹁野菊﹂
﹁?﹂
﹁駄目だよ?﹂
私のニヤニヤ顔を目にした凪風が制止の言葉を掛けてきた。
え。わ、わかったの?私の企みがバレたの?エスパー‼
74
隣で階段を上っている凪風はそう言ったが、お饅頭の箱に手を掛
けると串を掴んで一本取り出した。
あれ。
﹁全部はね﹂
﹁!﹂
ワル
意外に悪だった。
そして二人で饅頭を美味しく戴き、戸を開けたらあの叫びだ。お
やじさまが﹃あの馬鹿共﹄と言っていた理由が分かった気がする。
日が射し込んでくる小さな格子窓の上からは布を掛けて覆い光を
遮断し、いかにもな雰囲気をかもちだしていた。怪談話か。
普段は女を惑わすプレイボーイな遊男達、それが今はどうだ。ち
いさな子どもが部屋に入って来ただけで、一部はまるでハムスター
のようにお互い身を重ねている。
命名﹃ハムちゃんズ﹄
﹁おー、ありがとうな二人共。此方に来な﹂
部屋の奥の方にいたらしい羅紋兄ィさまに呼ばれて入っていく。
あれ、と思い見渡して見ると宇治野兄ィさまに十義兄ィさま、清
水兄ィさまや秋水の姿が。こんな真っ昼間から誰も居ないと思って
いたらこんな所に集まっていたらしい。
そして羅紋兄ィさまに近づいて行くと、何やら兄ィさまの腕にし
75
がみ付いている小僧が。
﹁らんちゃん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁らんちゃ∼ん﹂
﹁⋮⋮﹂
本人の名誉の為にも、何も言わないでおく。
﹁お前等も怪談話聞くか?怖いぞ∼?﹂
﹁僕は野菊が聞くなら聞きます。⋮野菊どうする?﹂
﹁え、﹂
羅紋兄ィさまに誘われるが、どうしよう。
凪風も私が聞くなら聞くと言ってるからして、怪談物は別に大丈
夫そうだし。私は⋮怪談が怖いか怖く無いかは自分でも正直分から
ない。知識としては知っているが、まだ此処の世界で怖い体験をし
たことも無いし、以前の自分が怖がりだったのかは覚えてないし。
微妙な所。変な感じである。
知識はあるが、自分がそれに関して何を感じていたのかがさっぱ
り分からない。
此処で新しい自分を見つけてみるのも良いかもしれない。
﹁じゃあ、ききます。なぎかぜだいじょうぶ?﹂
﹁別に良いよ。蘭菊程怖がりじゃないから﹂
﹁⋮っおい!!﹂
蘭菊⋮。
76
﹁じゃあ怖がらないように俺の所に来ると良いですよ。凪風も此方
に来なさい。羅紋の近くは彼が脅かして来て心臓に悪いですからね﹂
﹁良いじゃねぇか宇治野ー。盛り上げ役が必要だろ?なぁ野菊﹂
﹁⋮⋮﹂
取り敢えず宇治野兄ィさまの所へダッシュ。
勢いよく来たわたしを優しく受け止めてくれた兄ィさまは、きっ
とお母さんみたいな人に違いない。お母さんのこと分からないけど。
﹁はい、じゃあ野菊は足の間に。凪風は清水と俺の間に座りなさい﹂
﹁いや、凪風は私の足の間に入れるかな。ほらおいで﹂
そしてあのハムちゃんズも一時解散し、各々が定位置に着くと私
が開けた戸が閉められる。結構な暗さになり、蝋燭の火が無かった
ら全く歩けない位だ。
暗くなっただけなのだが斜め左辺りから﹃うっ﹄と声がする。⋮
本人の名誉の為にも言わないでおこう。
﹁野菊、手を。﹂
﹁?﹂
﹁ほら、出してみて﹂
凪風を挟み込んだ右隣の清水兄ィさまに言われて、宇治野兄ィさ
まの腕下から手を出す。
﹁怪談話の間握っててあげるからね﹂
﹁お、ははい!﹂
﹁清水⋮﹂
77
手を握ってくれるらしい。どこまでも心配症な兄ィさまである。
宇治野兄ィさまも顔が見えないが呆れている様子だ。
﹁じゃあ俺からいくぞ⋮﹂
羅紋兄ィさまの声で怪談話はスタートした。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱⋮⋮
﹁︱で、堕ちたんだとさ。これで俺の怪談は終わりだぜ﹂
﹁うっ⋮ううう゛じのにィさ゛まぁ∼﹂
﹁よしよし、野菊﹂
結果。
私は怪談が苦手な超怖がりだった。私もハムちゃんズの仲間入り
じゃないか。
て言うかあれ、羅紋兄ィさまが半分以上悪い気がする。わざわざ
暗い中を歩き近くにやって来て脅かすのだ。他の人が話してれば
﹃そん時だよ、俺の肩に手が乗ってきてさ。男の声で﹄
78
ポンっ。
︵手が肩に︶
﹃お゛お゛お゛ー﹄
﹃うに゛ゃあ!!!!﹄
とこの調子である。宇治野兄ィさまや清水兄ィさまが羅紋兄ィさ
まに注意するも、本人には全く効いておらず。まるでデッカイがき
んちょだ。
隣にいる凪風は近くにいたにも関わらず笑っていて﹃あはは、野
菊大丈夫?﹄と心配されているのか、アホな怖がり野郎と思われて
いるのか良く分からない声を掛けられた。
どうやら羅紋兄ィさまの脅かしは、彼にとっては笑いの材料にし
かなっていないらしい。⋮その材料に私が加わっていないと思いた
い。
﹁ら、らもん゛に゛ィざまが!﹂
﹁うんうん﹂
﹁な゛ぁんかい゛ぼ!﹂
﹁ほれ、よしよし﹂
何だが私、日が経つに連れて感情が段々子ども寄りになって来て
る気がする。こんなにビャービャー泣くとかあり得ん!!いい大人
が。
﹁野菊、﹂
﹁う゛ーぎよびずにィさ゛ば﹂
﹁ほら、焼き饅頭だよ。あーんして﹂
﹁!﹂
79
宇治野兄ィさまに抱きついて背中を撫でてもらっていると、今だ
手を握っている清水兄ィさまにそう言われる。あれ、さっき一回手
を離した気がするんだけど気のせいか。
いや、それよりも!
や、焼き饅頭だと!!
﹁パクリ⋮⋮うっモグ、おふしぃでふね﹂
﹁だろう?羅紋の分も食べて良いからね﹂
目の前に差し出された芳しい好物を私が食べない訳がなく。涙や
恐怖の感情が一時的に引っ込んだ。来る前に凪風と盗み食いしたと
言うのに、私の焼き饅頭腹はまだまだ饅頭を恋しく求めていたよう
だ。
自分で言うのもあれだけど単純だな。
﹁フッ、ばばばば馬鹿野菊!怖がりだな、おお俺のも食べて良いぜ
っ﹂
そう言うお前も震えてる足が隠しきれていないけど。
﹁今日は寝られそう?野菊﹂
﹁だったら私が﹂
﹁同じ部屋で俺が付いてますから、大丈夫ですよ。ほら、もうそろ
そろ飯の時間だから行くぞ野菊﹂
羅紋兄ィさまの隣に座っていた秋水が宇治野兄ィさまの腕から私
を引っ張ると、そう言って戸に向かい歩き出す。
そうか、もうそんな時間になるのか。部屋が真っ暗だったから日
80
の感覚が分からなかったや。
今日の1日を振り返るが⋮天月の皆よ、この貴重な休みを怪談に
使って良かったのか。
本人達が楽しんでいるなら良いけども、なんかこう⋮もっと⋮⋮
うん。
﹁今日は一緒に寝てやるからな﹂
﹁え?﹂
﹁お前はしょうがない奴だから﹂
﹁⋮﹂
手を引く秋水が前を向きながらそう言う。
やはり今でも彼の中ではしょうがない奴らしい。いつになったら
そのカテゴリから抜け出せるのか誰か教えてください。
そしてその夜。宣言通り秋水は一緒のお布団で寝てくれました。
﹁すー⋮ぴー⋮﹂
ドゴッ
﹁っつ!⋮⋮⋮おい野菊﹂
﹁すぴー⋮⋮⋮スー⋮﹂
ドカッ
﹁⋮⋮⋮﹂
81
始まりは 日々7︵後書き︶
現実にあった吉原の遊女達の休みは正月1日と7月13日。13を
31にしました。色々反対です。
でも所々一緒な所があるので、遊女や吉原について詳しい人は﹃何
だこれ﹄と思うかもしれません。でも男なので︵笑
この世界感にお付き合い頂ければと思います。
82
始まりは 日々8︵前書き︶
誤字修正しました。
83
始まりは 日々8
これは天月妓楼で働き始めた初日の話。
﹁ふふ、やっと来てくれたんだね。私は清水だよ。言えるかな?﹂
﹁きよみず兄ィさま﹂
言えるに決まってる、私は5歳だぞ。そして中身は大人なんだ!!
そうは思っても口には出しませんよ大人ですもの。そしてこの人は
私の心の救世主なのだ。無礼は働きません。
﹁ようし、じゃあ今日は着物の脱ぎ着から覚えてもらうよ﹂
﹁はい﹂
天月に入った翌日、私は早速禿としての教えを請うため初日から
花魁の兄ィさまに付いていた。
なんと初日である今日は、あの心の救世主様。とても優しげな人
で、物腰も柔らかく、格好いいので大層人気なんだろうと教えても
らいながら思う。
最初に見た時正直女の人なのかと思ったが、紹介の時に聞いた声
でやっぱり男なのだと確信。おやじさまが言っていた﹃女か男か分
からない奴らがウジャウジャ﹄は本当だったみたい。
何だか色んな意味で恐ろしい世界だ。
﹁まずは着物を脱がせる事からね﹂
84
着物の枚数はそれほど無いのだがこれも禿の仕事。男の着替えを
手伝うなんぞ今の私には発狂ものだが、此処で生かしてもらってい
る以上我が儘は言えない。
しかしこの図。
小さい子供が青年の着物を、真正面から手を掛けて脱がしていく
不思議なこの図。
兄さまが私の手を導きながら脱がしを手伝ってくれるが、恥ずか
しい。恥ずかしいのだ。今私の顔は真っ赤だろうよ、肌も見てない
のに。
まずは藍色の羽織から丁寧に脱がしていく。
よし、まだ大丈夫まだ大丈夫。見えてないよー
次は黒の長着を、帯も一緒に。
大丈夫まだ、まだ見えませんよ。赤い長襦袢が肌を隠してるもの。
私はまだ乙女よ乙女。
そして最後の砦、長襦袢。を更に顔が真っ赤になりながらも脱が
そうと手に掛ける﹃!っごめん、ちょっと上向いてもらってていい
かな?﹄と聞こえたのと同時に目の前に現れたのは、腹の下部に横
に沿った三つの不自然な長いミミズ張れのようなもの。縫った後に
も見える。
なんだろうか。
﹁!やめっ!﹂
パシンッ
﹁わっ﹂
﹁⋮⋮あ﹂
85
気になってしまい、子供の本能なのかつい触ってしまった私の手
が振り払われる。
ちょっと手が赤くなりピリッと痛んだが気にはならない。
それよりも兄ィさまのほうが心配だった。
私の手を振り払ったのに遅れて気づいたのか、凄く暗い顔をして
顔をしかめている。
﹁っすまなかったね、痛かったよね。ごめんよ﹂
﹁わた、たわたしがわるいの⋮で﹂
それからのレッスンは妙にぎこちなかった。
なんだか触れてはいけない何かに触れてしまったような、そんな
感じがする。物理的にも精神的にも。
いや、感じがするのでは無く確実にそうだろう。絶対そうだ。
私は馬ぁ鹿か!!よく考えもしないで他人の傷的なものに軽く触
っちゃうとか馬ぁ鹿さ!!馬ぁ鹿だ!!
そんなギッチギチな雰囲気でも、時間は進むワケで。世の中の無
情など知らないとばかりに、時間は物事がスムーズにいこうがいか
まいが関係無く過ぎる物だ。
脱ぎ着は少しスムーズに出来るようになったが、ある意味重要な
物がスムーズにいかず。しかしどうにか終わりの時間までやり遂げ
る事が出来たが。
頃合になると部屋へおやじさまがやって来る。
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﹁野菊今日はどうだった。明日は違う兄ィさんに付くが、どうする
?最初だし暫く清水に付くか?別にお前は借金してるワケでも無い
から好きに選ばせてやるぞ﹂
正直に言えば、何か気まずいので明日から違う人が良いのかもな
とは思う。清水兄ィさまもやりにくいだろうし。ぶっちゃけ嫌われ
た気もする。
でも何故かこの人の暗い顔が頭から離れ無かった。あんな顔をさ
せてしまったまま、私はこの人から逃げるのか。
今はもう笑顔になっているが、正直その笑顔が本当に心から笑っ
ているのかさえも、あの表情を見てしまってからは分からない。
私はこの人の笑顔に救われたと言うのに。
私よ!このままで良いのか!!
﹁⋮が、っです﹂
﹁?﹂
﹁⋮きよみず兄ィさまが、いっいいです⋮﹂
﹁そうか。じゃあ後三日程清水の所で慣れるといい。今日はもう終
わりだから部屋に戻りな、秋水って奴に迎え来させるから案内さし
てもらえ。⋮⋮良かったなぁ清水﹂
おやじさまが戸を開けて出ていく。
また、元の状況に戻ってしまった。
清水兄ィさまを見れば、眉間に少しシワを寄せて笑っている。
な、何とも形容しがたい表情をする⋮
87
﹁無理しなくてもいいんだよ?私がちょっと怖いだろう?﹂
﹁え、﹂
なんて答えずらい事を!!
て言うか手を振り払ったぐらいで怖いと思われてるって感じる兄
ィさま。繊細過ぎだよ!
でも、ええい、何て言えばいい!此処で﹃いえ、気にもしてない
です﹄と嘘を言うのも違う気がする。
だって滅っ茶苦茶気にしてるもの。触っちゃったことを物凄く後
悔してるもの。そう言われて固まっている私の体が物語っているも
の。
﹁今からにでもおやじさまに⋮﹂
﹁あの!!﹂
おやじさまの所へ行こうとする清水兄ィさまを、取り敢えず声を
出して引き留める。嫌われてしまっているのかもしれないけれど、
素直に気持ちを出してみるしかない。
私は、私が最初に見た兄ィさまの
﹁兄ィさまのや、やさしいめがすきです!﹂
﹁?﹂
﹁わらったかおがすきです!﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁さわっちっ、さわっちゃってごめんなさい!﹂
﹁ねぇ、﹂
﹁わたしをきらいになっなってたらごめんなさい!いっしょに、い
っしょにいてもいいだっですか!!﹂
88
ちょっと噛んだけど気にしないで欲しい。必死だから。
﹁野菊、そんな必死にならずとも嫌ってなんかいないよ﹂
﹁はい!﹂
﹁はは、私と一緒にいてくれるの?﹂
﹁はい!!﹂
かつて無いほどにピシッと返事をする。
いや、かつての私がこんな返事をしたかどうかは分からないけど
も。
翌日になると、何故か会って突然高い高ーいをされた。
その翌日も。
私が不思議そうな顔で固まっていると、
﹁野菊みたいな子が好きなんだよ﹂
と。なるほど、小さい子ども好きなのか。女の人だったら良いお
母さんとかになりそうだな。
89
始まりは 2年の月日 1
此処へ来て2年になった。
私は1年程前から遊男達が住む所ではなく、今はおやじさまの元
で暮らしている。妓楼の主であるおやじさまの生活区域に。
私だけでなく、秋水、凪風、蘭菊も。
引込禿となったのだ。
引込禿とは将来が約束されたエリート、言わば花魁に確実になれ
る。普通の禿より。
7、8∼11引込禿、12∼14引込新造、15∼花魁となる。
直垂新造が花魁になれる可能性があるのは確かだが教養はそこそ
こなので、優秀な花魁になれる確率が低い。引込新造はなれるのが
確実なのだとか。
じゃあ直垂新造の意味は何なんだ!!あやふやじゃないか!!と
思うが、あくまでも可能性を﹁秘めて﹂いるため確実じゃないけど
もしかしたら⋮と言う子の集まりだと言う。器量が良くならないま
ま育てばそれまで、良くなれば花魁だと言う。⋮本人達にとっては
物凄く失礼な話だ。
引込は将来確実に美男になるであろう子が選ばれる。
確かに、器量が悪いのに禿から育てて順調に花魁になるのは、い
くら小さい禿からだったとしても美男である、と言う花魁の条件的
に不自然だから納得だが。
私はこれを聞いて唖然とした。
90
最初に教えられていたのとは全然違う。10歳より前に妓楼にい
た禿がなるとかでは無かったのかおやじさま!!
ただ身の回りの世話をして、芸事習って、直垂新造になって花魁
じゃ無いんじゃんか!!と。
いや、私は花魁になるんじゃなくて芸者なんだけど?
本当はもっと早く引込禿にしたかったらしいが、禿が私達四人し
か居なく、引込にしたら花魁に付ける禿がいなくなってしまう為伸
ばしていたと言う。
私が入ってから1年で新たに四人の禿が入って来た為、それを見
計らって実行したようだ。
と言うか禿って少ないんじゃ無かったのか。
それを言ったら、
﹁うちは花魁が三人もいるからな。普通は一つの所に一人位しか居
ないんだが。まぁ取り敢えずな、男衒がそこそこ良い禿を必死で見
つけてきたんだ﹂
このままでは秋水達が引込禿にならないまま12になってしまう
為、急いで禿を探していたらしい。この際その禿の器量が良いかは
別として。
後から知ったが、何気に天月妓楼は高級妓楼だったらしい。どう
りで花魁級がわんさか居るわけだ。
これで引込禿が花魁になったら将来はプラス3で6人になるもん
なぁ。
と言うか私、別に兄さま達の所に居ても良かったのだけど。彼処
で禿として居たかったのだけど。芸を売るだけの者として、引込禿
91
にまでならなくても兄ィさま達の所でそこそこ成長出来る筈だ。な
のに何故?疑問ばかりが出てくる。
おやじさまの元では、兄さまに教えてもらっていた時以上に厳し
く芸事を教えられる。箏なんか指がもげそうだもん。
引込は此処で12歳になるまで普通の禿以上におやじさまの英才
教育を受けてから、兄さま達の元へと再び帰り決まった花魁に付い
て、そこで初めて男の手練手管を仕込まれる。つまりはおやじさま
の元では、芸事・教養を完璧にすることが目的なのだ。
それからも引っ込新造となり妓楼の中で大切に育てられる。
そして気づく不審点。いや、最初から思っていた事だけど。
﹃わたしは、おとこげいしゃになるのではないのですか⋮?﹄
﹃まぁなぁ。でも最初にお前見てからよ、色を売らないおいらゴニ
ョゴニョ⋮⋮﹄
﹃?﹄
﹃いやまぁ、お前には最高の芸者になってもらおうってことでな!﹄
不安になり思いきって聞いてみたが、後半は何だか口を濁して来
たため何を言っているのか分からなかった。まぁなぁって何?物凄
く気になるんだけど。
普通だったら禿も座敷に出られるのだそうで、じゃあ何故私や秋
水達は出られなかったのか、と聞けば
﹁引込予定の奴を客の前に出すワケにはいかん﹂
だと。
92
私は色々最初から騙されていたらしい。
兄ィさま達は最初から知っていたようで
、清水兄ィさま達は﹃
あんなに離れるのは覚悟していたのに、やはり寂しいよ﹄と名残惜
しく心の内を明かしてくれた。
おやじさまの生活区域に入った為、私達は兄さま達のいる場所へ
は行けないし兄ィさま達も来ることは出来ない。妓楼の隣にただ移
動しただけなのだが、遊男が入ってくることは絶対に禁止である。
引込となったからには御客のいる妓楼の中へは入ってはいけない
と言われた。私が引込になれば兄ィさま達の所に戻るのは5年後。
12歳になってからなので長く会えない。
秋水達は歳が上なので私より早く戻れるのだが。ズルい。
私はその嘘つきオヤジ︵さま︶に与えられた一つの部屋で、外の
桜を見ながら一枚の折り畳まれた紙を握りしめていた。
﹃これを﹄
﹃?﹄
﹃あちらに行ったら読んでね﹄
そう言われて清水兄ィさまに渡された紙なのだが、1年経った今
も未だ開いて読んではいない。
兄ィさまの字を見たら軽くホームシックになりそうなので、箪笥
の中に眠らせたままにしていた。
でもやっぱり気になるので時折こうやって紙を持ちジーっと眺め
ている。
何が書いてあるんだろう。
93
﹁野菊、それ何だ?﹂
﹁わっ、らんちゃんか。ビックリしたなぁ﹂
紙を眺めていると、今日の稽古を終えたであろう蘭菊が部屋へと
戻って来る。箏をしていたので手が凝っていたのか、指をコキコキ
鳴らしながら近寄ってきた。
関節太くなるから止めときなさい、らんちゃん。
2年経ったが蘭菊達がどう変わったのかあまり分からない。近く
に居すぎて。
身長はそれぞれちょっと伸びたとは思うが、元々私が一番小さか
ったので見ても比べようがない。髪の毛は切っていない為秋水も凪
風も蘭菊も肩辺りまでは確実に伸びている。蘭菊は髪を一括りにし
ているため、なんか女の子みたい。本人に言ったら確実に怒るから
言わないけど。
﹁きよみず兄ィさまに貰った文?かな﹂
﹁文?なんで疑問系なんだよ﹂
﹁まだ開けてないから﹂
蘭菊は私のいる縁側へとやって来ると、隣に腰を降ろした。
今の皆は遊男の着物に慣れるため長着︵着流し︶を着用している。
勿論私も。
色は紺色で、またもや四人共ペアルック。なんか兄弟みたい。
﹁ちょっと貸してみろ﹂
﹁えっなんで﹂
腰掛け隣から覗いていた蘭菊が、何を思ったのか私の手から紙を
94
ブン捕る。何だ、いつかの焼き饅頭の恨みか!!
そして私からは中身が見えないようにして中身を見る無礼者。え、
所有者無視して何してんの!?
﹁チッ、変態め﹂
﹁?﹂
見終わったのか、そう吐き捨てると縁側とは逆方向の格子窓へと
向かう蘭菊。手紙を持って何をするつもりなんだろう。て言うかそ
の中身見たんだよね、見終わったなら返して欲しいのだけれども。
そう思っていると、いきなり格子から紙を持っている手を出した。
え、何何何。
その時強い風がビューと流れる。
﹁あ!﹂
﹁うわ、悪ぃ﹂
蘭菊の持っていた紙はその手を離れて、見事にその風に流されな
がら何処かへと落ちていった。
嘘でしょ!!私一度も読んでないのに!
蘭菊め!何してくれてんだぁあ!!
﹁何だよ。内容か?⋮元気でやれよ、って感じの文だったぜ﹂
そんな事を言いたいワケではないのだ私は。
全く、全く全くまったく!何て事を!!
﹁も、もっ、もぉぉおおお!らんちゃんのバぁカぁぁあ!!!!﹂
95
叫びながらも近くにまだあると信じて、私は駆け出した。
﹁うわ、今の声野菊か?﹂
﹁また蘭菊が何かしたんじゃない?それよりこれ捨てても大丈夫か
な。名前も無いし、練習用の紙?﹂
秋水と凪風は稽古を終えて部屋へと戻る途中、視界に入った中庭
の小さな池に白い紙がふよふよと浮かんでいるのを見つけた。
おやじさまはこの中庭が大好きな為、ゴミがあったり汚したりす
ふしの間も
あはでこの世を
すぐし
ると大変お怒りになる。それを分かっている二人は急いで紙を取り
みじかきあしの
除いたのだが。
﹃難波潟
てよとや﹄
見れば百人一首の歌の一つが書かれた紙。
文字は歪んでしまっているが、確かにそう書いてある。
何故こんな物が中庭の池に落ちているのか。
﹁いらないんじゃないか?もう読めないし使えもしないだろそれ﹂
﹁んーそうだね。じゃあ釜戸の火焼に燃やしてもらって処分しよう
か﹂
﹁そう言えば今日の飯何だろう。野菊が嫌いな数の子が出ると良い
な、おやじさまに食べるのが遅くて怒られるんだ﹂
96
﹁秋水は意地が悪いよね﹂
**********
﹁無いなぁ⋮ここも﹂
何処かな、何処かな、兄ィさまの紙。
ふしの間も
あはでこの世を
こんな事になるなら開いて読むんだった。
﹃おせわになりました!﹄
﹃うん。でもまた会えるからね﹄
﹃はい!あの、おげんきでっ﹄
﹃待って野菊、これを﹄
﹃?﹄
みじかきあしの
﹃あちらに行ったら読んでね﹄
﹃難波潟
てよとや﹄
すぐし
︵君のことが大好きだよ。だから君に会えない人生なんて私はまっ
ぴらなんだ。︶
97
みじかきあしの
ふしの間も
始まりは 2年の月日 1︵後書き︶
﹃難波潟
百人一首より
てよとや﹄
<伊勢>
あはでこの世を
すぐし
ぜげん
男衒=遊男になる子をスカウトしてくる人。現実にいたのは女衒。
98
始まりは 2年の月日 2
結局、清水兄ィさまからの手紙は見つからなかった。池のほうに
落ちていったのは確かなのだが、もしかしたら敷地の外へ出てしま
ったのかもしれない。
手に付いた土を払いながら部屋へとトボトボ戻ると、秋水と凪風
が既に稽古から帰り部屋の座蒲団に座っていた。
ちなみに、あのお馬鹿は澄ました顔でのうのうと茶を啜っている。
何様だ貴様!!
﹁お帰り野菊⋮どうしたの?手﹂
﹁遅かったな、あと少しで飯だぞ﹂
﹁⋮う、ん﹂
私に気づいた秋水達が声を掛けてくれたが、私の心は晴れていな
い為御座なりな返事になってしまった。凪風は私の手に付いている
土を見て不思議に思ったのか心配そうに聞いてくる。
そして元凶の奴は未だに茶をズルズルと啜っており此方を見向き
もしない。
そんなツンデレは可愛く無いんだぞ小僧。
﹁あの、凪風と秋水。かみ見なかった?﹂
﹁紙?﹂
﹁何のだ?﹂
頼みの綱⋮では無いけれど一応二人にも聞いてみる。飛んでたの
99
を見た、とか落ちているのを見た、とか少しで良いから情報が欲し
かった。
箪笥に入れて置いた私の大切な宝物。今回の事で学んだが、宝物
はいくら家族や友人でも渡しちゃいけないよ。格子窓からポイされ
ちゃうんだ。
﹁えっと、白いかみでねっきよみず兄ィさまから貰ったんだけどね、
池のほうにおちたみたいなんだ。まだなかみをいっかいも見て無い
の。らんちゃんは見たけど聞いてもテキトーだし﹂
ちょっと言いたい事がごちゃごちゃになったが、粗方伝わっては
いるだろう。
と言うか私、7歳になったのに皆みたいに上手く喋れないのは何
で。所々上手く言えるのにな。⋮大丈夫かな将来。
そんな私の言葉を聞くと凪風は顎に手を当てて唸り、秋水は斜め
上を見て唸り出す。
ど、どうしたんだ。
﹁その、ごめんな。多分それなら捨てた﹂
﹁あの紙がそうだったんだね﹂
何と‼最早この世に無かった。
聞けば池に落ちているのを見つけて、ゴミだと思った二人は釜戸
の火焼に放り込んだのだそう。
ショックだ。
二人が悪いワケでは無いし、当然の行動をしただけ。
でも、それでも胸から込み上げる熱いものは中々抑えきれそうに
なくて。
100
﹁なっなんて⋮かいて、あったのか分からない?﹂
﹁⋮びちょびちょだったから全然読めなかったよ﹂
﹁⋮ああ﹂
﹁そ、うかぁ。そっ⋮う﹂
﹁野菊?﹂
そうか。もう無いのか。
でも、兄ィさまとの別れはたったの5年だけ。たったの5年だか
ら、大丈夫。世の中には会いたくても会えない人達がいるのだから、
相手が生きてて、しかもいる場所はそう離れてはいない。
だから目が熱くなって、鼻がツーンとするのはなんとも情けない
話で。
﹁お前⋮﹂
﹁まだ、まだぁ、見てなくてっよんでねって兄ィさまがいって、で
もよまなくて、もう無くなっちゃって、よめなくて、だっだいすき
な、だいすきなぅぁっ⋮ぅ゛う゛﹂
﹁泣くな泣くな野菊。此方来い﹂
泣くなんて情けない。一体何が悲しいのだ。兄ィさまが死んだワ
ケでも無いのに。私は中身が大人なんだ、だから制御出来る筈なの
に何故こんなに感情を出してしまっているのか不思議。
でも今までもそうだった。
どんなに頑張ってここぞと言う時に抑えようとしても体は理解を
してくれない。
子どもはやっぱり大人になれなくて。
101
﹁こうしてやるからな、泣き止め﹂
いつまで経っても傍に行こうとしない私に飽きれ半分でそう言っ
たかと思うと、近くへ秋水が寄って来てぎゅうっと体を包まれた。
宇治野兄ィさまがいつかやってくれたように背中を撫でてくれる
秋水。手が温かい。
﹁う゛っぶ、ひぃ﹂
﹁あーあーよしよし﹂
兄ィさま達を見て育ったせいなのか、あやし方が同じだな、と泣
きながらも頭の隅でそう感じた。
﹁ぁっぅ゛﹂
﹁泣き虫野菊だなー﹂
﹁よーし。僕もよしよししてあげるよ﹂
﹁わぁ、ぅ゛っ⋮う?﹂
傍で見ていた凪風が私と秋水ごと抱き着いてきた。
﹁じ、じゃあ俺もだ!∼っ悪かったよ!そんなにお前が泣くって思
わなかったんだ﹂
こわっぱ
泣くって思わなきゃ何でもしていいのかこの小童め!!
と感じつつも私達に飛び付いてぎゅっとする蘭菊に、それ以上言
う気にはなれなかった。
いや、恨み怒ってるのはまた別だけど。許してませんからね私。
102
しかしなんだろうこの状況。
子どもが四人、夜の部屋で抱き固まっているこれ。真ん中にいる
私はさながらミノムシ。
﹁しゅ、秋水。なぎ﹂
﹁おい飯⋮お前ら何してんだ?﹂
その夜私は夢を見た。
黒髪の、優しい目をした人間の。
103
始まりは 2年の月日 2︵後書き︶
後日。
﹃ねぇ、らんちゃん。かみに何て書いてあったの﹄
﹃元気でやれよ。って感じの文だったって言ってるだろ﹄
﹃くわしく﹄
﹃⋮ごめん忘れた﹄
﹃もぉぉおおおおおぉぉお!!!!﹄
﹃お前もキレられろ﹄
﹃そっちこそ﹄
104
始まりは 2年の月日 3
書道とは、書くことで文字の美を表そうとする造形芸術である。
この文字の美的表現法を規格あるしつけのもとに学習しながら、
実用として生活を美化し、心を豊かにし、個性美を表現していくこ
とだ。そして、その学習過程において、人格を練磨し、情操を醇化
していく。よって、書道は基礎修得する事が∼⋮⋮。
と。
こんな事言われても、正直私はさっぱりです。
書道を教えて貰っていても、心が豊かになった覚えは無いし人格
を練磨された記憶も無い。
ただ書く度に手汗が出ることは確か。
しかし、そんな私の思いは関係なく今日も書道の稽古が始まる。
﹁今日は自分の好きな一文字選んで書いてみろ﹂
﹁﹁﹁﹁はい﹂﹂﹂﹂
今私達は広い一室の和室でおやじさまに指導されながら筆を取り、
文字の美を表現するため紙に向かい正座をしている。
おやじさまを前に左から秋水、私、凪風、蘭菊の順番。いつもこ
れが定位置だ。
前は左隣が蘭菊だったのだが、毎回おやじさまに気づかれずに茶
105
々を入れて来るので早々にチクってやった。
密告した次の日から蘭菊は強制的に一番端となっており、おやじ
さまに移動を言われた時の蘭菊は、
﹃お前は一番右だ﹄
﹃えっでも俺いつも﹄
﹃右だ﹄
﹃⋮⋮﹄
少しブー垂れながらも渋々と移動。
おやじさまが私の名前を出さなかったのには感謝だ。お陰で未だ
に何故自分が移動したのか、奴は分かっていないままである。
﹁僕は四の字かな﹂
﹁俺は三な﹂
﹁じゃあ俺は二﹂
﹁わたしは⋮どうしよう﹂
どうしようかなー。
﹁お前馬鹿じゃねーの!一だろうが﹂
﹁らんちゃんうるさい﹂
やかま
離れているのに喧しい奴だよ本当。
﹁お前ら馬鹿やってねぇでいい加減決めて書け。﹂
そう言われて筆を持ち紙に向かう。
私が書く文字は既に決まっている。その字は最近私が見つけた宝
物で、見る度に心がほっこりとするのだ。
106
いざ華麗に書かん!
ちなみに書道中は他人の文字を見てはいけない。感覚が左右され
てしまうからだそう。
だからこの時間はひたすら書く、書く、書く!!のである。
だが私の集中力はお粗末なので、時々右横の凪風の字をチラリと
見てしまう事が。
でも決まって、
﹁なぁに?野菊﹂
﹁う、うう、ん。違うよ、うん。ちがうちがう﹂
見る前にバレる。そしてバレる度に私の半紙へ上手い具合に筆先
の墨を飛ばしてシミを作るのだ。私の方を見てないのに、大変恐ろ
しい方だ。
凄く地味でチマい嫌がらせなのだが、あまりの手際の良さに毎回
関心してしまい、若干楽しみにしてる自分がいる。
しかし何故分かるんだろう。
やっぱり凪風はエスパーなんじゃ。
そんな私でも秋水の方は絶対に見ない。
しかし何故見ないのかは私の脳ミソに聞いてもよく分からない。
﹁よし、そこまで。今日の一番の出来だと思う物を出しな﹂
そうこうしている内に、終盤である各々書いた字の発表会の時間
107
となった。
まずは蘭菊から。皆の前に立ち、好きな文字を書いた紙を掲げる。
そこに書いてあるのは﹃菊﹄と言う字。
上の草冠が大きく書いてあって、なんか帽子⋮と言うか端と端が下
に下がってるから髪の毛みたい。真ん中の米が顔で。
でもなるほど、蘭菊は自分の名前か。私も自分の名前の﹃野﹄を
書けば良かったかな。
フフフ。でも自分の名前を書くとは可愛い奴め。
﹁らんちゃんそれ、﹂
﹁別にな、お前の名前とかじゃねーから!!おやじさまと同じで菊
が好きなんだ!﹂
いや誰も聞いてない。
次は秋水で、紙に書かれているのは﹃黒﹄。黒?黒が好きなの?
なんか秋水が書くと恐ろしい物を感じる。だってもう、バックに何
か背負っちゃってるもん。
好きな文字って言うより、自分に似合った字だと思うよ私。
でも半紙いっぱいに書かれているダイナミックな黒は、どこか綺
麗で凛々しく感じた。
﹁おー黒か。秋水はなんで黒にしたんだ?﹂
﹁何にも染まらない強く美しいものだからです﹂
なんか発言がエリートなんだけど。
108
続いては凪風、﹃小﹄と言う文字。凄く小さな字で書いてある。
小?小が好きって事はつまり⋮どういう事で?
小さい物が好きだからとかかな。
いや、そんな単純な物じゃ無いだろう。何かもっとこう、捻った
感じの理由で深い意味が⋮小を捻って捻って捻って⋮
﹁小か。で、なんで小なんだ?﹂
﹁小さい物が好きだからです﹂
凄く分かりやすかった。
﹁じゃあ次は野菊だな。見してみろ﹂
私の番になったので、皆の前に出て紙を持ち見せる。見よ、これ
が私の一番好きな文字だ!!
﹁﹃憲﹄?野菊、なんで憲にしたんだ?﹂
﹁て言うかお前漢字分かるのか﹂
エリートボーイの嫌味はこの際気にしない。
私の好きな文字は憲。
だって、良く見て欲しい。
﹁兄ィさまたちの字です﹂
109
﹃憲﹄
宇治野兄ィさまの﹃宀﹄、清水兄ィさまの﹃青の上﹄、羅紋兄ィ
さまの﹃四﹄が上から仲良く重なるようにして並んでいる字。
一番下には心があり、この文字を見る度に優しくしてくれた兄ィ
さま達を思い出す。大好きな人達。
だから私の一番好きな漢字。文字。
最後に書く心は上の三人を包み込むように書いた。
我ながら結構いい出来映えだと思う。
まぁ若干羅紋兄ィさまの部分に点が被っちゃったけど、大事なの
はハートだ、ハート。気持ちは100%籠ってます。
と言うことで今日はこの練習に書いた憲の文字達を枕の下に置い
て寝ようぞ。
﹁そうか。⋮野菊、それもう一枚書け﹂
﹁?﹂
途中思考がかけ離れながらも、理由を話したら何故かもう一枚要
求された。
取り敢えず書道の席に戻って、おやじさまの注文通り﹃憲﹄を書
く。
あ、また羅紋兄ィさまにシミが。
⋮いや待て。もしかしたらこれは羅紋兄ィさまの目の右下にある
泣き黒子を表してるんだ、とか言えばカッチョいいんじゃない?
110
別に失敗じゃ無いんだよ。
とかどーでも良い言い訳をぶつくさ考える。
たま
﹁こりゃ兄ィさん達は、堪ったもんじゃ⋮これはある意味一つの手
練手管かもしれねぇな。お前、結構素質あるだろうよ。古典と言い
和歌と言いなんでも、小さいながらお前は良くやってる。まさか書
道でこんなもん見せられるとは思っちゃいなかった﹂
﹁⋮⋮ぇ﹂
何だか分からないが褒められているのだろうか。
﹁まだ7歳か⋮。自分で育てといてなんだが、そうあまり急いで大
あいつ
人になって欲しくは無いもんだな娘子には。男として雇うとは言え
今頃親心が出てくるとはな、もうちっと彼奴等にお前の時間をくれ
てやるんだったよ﹂
﹁?﹂
そう言うと私の頬をペシペシと触ってくるおやじさま。
ちょ、ちょっとその墨の付いた手で止めて頂きたい!
111
始まりは 2年の月日 3︵後書き︶
﹃特別だぞ。本当は紙類を行き来させちゃならねぇんだからな。⋮
これ、野菊が好きな字なんだと。お前らの文字が入ってる﹄
﹃?⋮∼っ好きな文字っつってこんなもん書かれちゃあなぁ﹄
﹃いつも以上に会いたくなりますよね﹄
s
﹃⋮私はいつも以上におかしくなりそうだよ﹄
憲
112
始まりは 2年の月日 4
今日の稽古が終わり部屋へと戻る途中、おやじさまの家から見え
た夕方の空は不気味な赤黄色。夕立でもやって来るのだろうか。夜
にははたまた雷か。
重く湿った空気を肌に感じる。
そんな時私は秋水の元へと逐一向かう。向かうって言っても皆部
屋は同じだし、結局は自分の部屋に戻るだけなのだけど。
部屋に戻れば凪風と秋水が夕飯前の布団敷きをしていた。
﹁しゅーすいー﹂
﹁何だ﹂
﹁きょうはお布団にもぐろう﹂
﹁⋮﹂
﹁皆でいっしょに﹂
﹁⋮⋮︱︱﹂
あれは私が天月妓楼に入って2ヶ月後の真夜中の事だった。
雷が連日続いていた時期。
ゴロゴロ⋮
ピシャーン!
113
此処に来て初めての雷。
御風呂に入り終わり就寝の準備をしている私は、鳴り出した雷を
特に気にも止めず、布団を自分と秋水の部屋で敷いていた。
鼻唄を歌いながら、明日は誰に付くのかなーとか、いい加減御風
呂で捕まえるのやめてくれないかなーとか、十義兄ィさましつこい
なーとか段々頭の中で愚痴を展開しつつ手を動かす。
秋水も隣で一緒に敷いているのだが、さっきから布団を動かし擦
られる畳の音が聞こえない。
ん?と思い振り返り見てみると、
﹃⋮⋮﹄
﹃?﹄
何故か動いていない。
掛け布団を手にして畳に腰を降ろしたまま、ピクリともしない。
ど、どうしたんだろう。
なんか怒らせるようなことしちゃったのか私。
あ、あれかなぁ⋮鼻唄かな。鼻唄がいけなかったのかなぁ⋮聞く
こうちょく
に耐えない雑音だったのかなぁ。
そんな硬直するほど。
﹃はなうた?﹄
﹃⋮⋮﹄
﹃おーい﹄
とてもとても不自然だ。声を掛けているのに全く反応しない。
114
なんだか生きているのに死んでいるような感じ。顔を覗き込むが、
何処を見ているのか分からない。
能面?みたいな。
しかし雷の音が聞こえる度に瞳が揺らいでるのが分かる。という
ことは雷が怖いのだろうか。
でも雷の音が普通に怖いだとかだったら、手を耳に当てれば良い
のに、何故しないのだろう。
もっ、もしかしてビビり過ぎて手も動かせないのか!!
全く⋮しょうがない奴だ。
あ、今日は私がしょうがない奴じゃないや。グフ。
﹃しょうがないやつだ﹄
﹃⋮﹄
﹃おさえとくよ﹄
未だ掛け布団を持っている秋水の前で正座になり、彼の両耳に自
分の手の平をグッと当てて穴を塞ぐ。
迷惑では無かったのか、それともビビり過ぎてなのか、私の行動
に秋水が怒る事はなくちょっと安心した。
しかしこの秋水の目。目の前の私が見えていないようで、視界の
範疇には入っているのに存在が写っていないような気がする。
どう言うこっちゃ。
⋮視界⋮雷の光を見るのも駄目なのかな。
あ、じゃあ布団被れば良いのかもしれない。今から丁度寝るとこ
ろ何だし、視界遮って音もあまり聞こえなくなって一石三鳥だ!
115
﹃よーいーしょっ﹄
バフっ
と秋水と自分に、自身が持っていた掛け布団を被せる。
掛けた後も、もちろん手で耳を抑えるのは忘れない。これ一番重
要だから。
でも秋水はまだ動かない。こんなに周りで私がワサワサとやって
いるというのに。
取り敢えず下が敷き布団なので、今日はこのまま寝る事にしよう。
正座のままで。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ。ちょっと痺
れて⋮ぅ゛っしびっしっ⋮び︱︱
翌朝。
私達はお互いを抱き枕にしながら寝ていたらしく、まるでコアラ
が抱き合っている様な感じだった。
でも良かった。寝れたは寝れたらしい。
﹃お前何してんだ﹄
﹃かみなりっ、こわいんじゃと﹄
﹃⋮⋮﹄
116
起きた秋水に開口一番そう言われた。なんか寝込みを襲ったみた
いな風だからやめて欲しい。
雷が怖いんじゃないか、と言った私の発言に秋水の眉間にシワが
寄る。
﹃もう、いいからな。こう言うのはしなくて﹄
﹃⋮わかった﹄
機嫌を損ねてしまったらしい。
でも私が何をしていたのかは分かっていたみたい。
だが今日も雷は鳴る。
気を張っているのか知らないが、兄ィさま達と一緒にいる時に固
まる事は無いものの、部屋に戻った途端に膠着してしまう彼。
こう言うのはしなくて良いと前に言われたので、雷が鳴る今日も
布団を用意せずに固まる彼のことは、取り敢えずほっといて私は寝
に入る。
﹃⋮⋮﹄
﹃⋮⋮﹄
でも非常に気味が悪い。
いや、何が悪いと聞かれてもあれだけど。部屋の隅で座っている
秋水が座敷わらし的な感じで気味が悪い。
そしてチラリと布団から顔を出して見れば、またもやあの能面顔。
怖っ!!本当何があったのこの子!!
でも、ほっとけほっとけ。本人は構うなってんだから好きにさし
117
ときゃ良いんだ。機嫌も今朝損ねたばっかりだし、まだ小さいけど
男のプライドってやつ何じゃないですかね。折角の私の厚意を袖に
したくらいだから、関わら無いのが一番だよ。⋮一番さ⋮⋮⋮
﹃よーいーしょっ!﹄
バフっ
布団を二人被るようにしつつ、手で秋水の耳を押さえる。
﹃⋮⋮﹄
﹃おーい﹄
またもや私には気づいていない様子。
こんなに体に振動を与えていると言うのにさっぱりで。
でも気づいていないみたいだから、今こうやっても怒られる事が
無いのは確か。
結局は放っておくよりもこの方が自分の心情的に安心出来るので、
何の反応もしないのを良いことに秋水の視界と耳を防いで寝ること
にする。
寝ちゃうので一晩中は無理だけど。
今日は敷き布団が無いから痛い。
明日の朝畳の目の跡が沢山付いてるんだろうな。
118
痛い痛いなー。⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ゛っ、しびっ痺れ︱︱
翌朝。
今度は何故かTの字になっていた。横棒が私で縦棒が秋水。
一体何が起きたのか、私は布団から出て彼の頭の上の方に転がっ
ていた。
﹃お前⋮﹄
﹃はい!﹄
﹃もうすんなよ﹄
﹃はいぃ!﹄
だが結局は。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱⋮⋮
﹁まだ雷止みそうに無いね﹂
﹁ちょっ、らんちゃんもっとあっち行きなよ﹂
﹁俺はもう布団からはみ出てんだよ!!﹂
今日の夜は凪風と蘭菊も巻き込んで一つの布団に皆で潜っている。
119
なんだか楽しい。
ちなみに寝間着である藍色の単衣も皆お揃い。
うふ、四兄弟だ。
﹁野菊こっちだ﹂
﹁わ、ほっ﹂
蘭菊に怒鳴られながらも笑っていると布団の中で引っ張られ、秋
水?らしき者に抱き枕的な物にされる。
すると耳の近くで溜め息と共に笑い声が聞こえた。
﹁⋮この日が砂粒程度には楽しくなった﹂
﹁すなつぶ⋮﹂
凄く凄く僅かな程にって事か。
まぁあれだけ恐怖?してたものを1年や2年其処らで克服するの
は難しいから仕方ないさ。
あの時から、またもやお節介を焼く私に翌朝注意をしつつ拒否の
言葉を放っていた秋水だが、いつしかそんな事を言われなくなって
いた。多分諦めたんだろう。
わらし
でも、寝ている時に能面顔の童が部屋の隅にいるのを想像して欲
しい。
果たして寝れるだろうか。
﹁でも、お前寝相悪いんだよな﹂
すいません。
120
始まりは 2年の月日 4.5
私は秋水に抱き込まれながらも、1年前の兄ィさま達と別れる直
前の夜の事を思い出す。
似たような状況だったなぁ。
私や秋水達が移動してしまう最後の3日間。兄ィさま達の希望で
私は各々と一緒に夜は寝る事となっていた。
だが兄ィさま達には閨の日があるので各々の閨の仕事がない日に
お邪魔すると言う感じに。
一日目は宇治野兄ィさまで、座敷が御開きになった兄ィさまを迎
えに行き、一緒に湯浴みをした後部屋へとそのまま向かう。
部屋へと入ればそこにはいつもの風景が広がっていて。
格子窓が一つあり、奥には着物や飾りが入った黒の漆塗りの箪笥
が、隣には三味線が一つ横になり置かれている。化粧台は戸の隣に
あり上には紅指す筆が乗っている。
女優部屋か!!
﹁ほら、お布団出しますよ﹂
﹁はーい﹂
色んな物を目に焼き付けておいたあと、兄ィさまと押し入れを開
けて布団を一緒に敷く。最後に枕を二つ並べたら準備は完了。
121
﹁転がって転がってー﹂
﹁うきゃー!﹂
途中宇治野兄ィさまが面白がって敷布団に私を包み込んでコロコ
ロしたりと楽しそうに遊んでいた。﹃一度やってみたかったんです
よ﹄と満足気に話されたが、希望を叶えられて良かったです。
とても茶目っ気のある可愛い人だとしんみり思う。
私より数倍女性っぽいよ兄ィさま。色々負けました。
﹁はい、隣へどうぞ﹂
﹁はい!﹂
微笑みながら布団上自分の隣のスペースをポンポン叩き私をそこ
へと促してくれる。いそいそと隣へ入らせてもらえば宇治野兄ィさ
まからとても良い薫りがした。風呂上がりのあのなんとも言えない
薫りである。それに兄ィさまが布団に先に入っていたので、とても
温かかった。
眠る為に蝋燭の火を消すと一気に暗くなったが、窓から漏れる月
の光に照らされて、隣で寝てくれている宇治野兄ィさまの顔が良く
見える。
肘をついて頭を支えながら寝そべり、私のお腹をポンポンとしな
がら寝かしつけてくれるこのお方。
ほっ保母さん!!保母さんだよ!
て言うか私いくつだよ!お前大人だろうが!何ポンポンされてん
だ!!恥ずかしっ
と頭の中のもう一人の私がベシベシと脳ミソを叩くが気にしない。
へっ。
﹁野菊は兄ィさま達が好きですか?﹂
122
﹁すっすきです﹂
唐突に言われた言葉に瞬時に返事をする。
そりゃ好きに決まっている。この一年私にこれまでか!!って位
にお世話を焼いて面倒見てくれたのだ。お陰で芸事も段々出来るよ
うになってきたし感謝感激物です。
好きじゃ足りないくらいに、大好きなのだ。兄ィさま達が。
﹁俺も好きですよ。たまには思い出してくださいね﹂
ポンポンと一定のリズムで優しく叩いてくれる兄ィさまの声を聞
きながらうつらうつらとしてきた私。瞼が段々重くなってきて薄目
になってくる。まだ起きてたいので必死に寄り目をしたり目ん玉を
ギョロギョロ動かしたりしたが無意味で。きっとその時の私の顔は
化け物並に気持ち悪かっただろうな。
でも薄目でチラリと兄ィさまの顔を見れば、なんとも優しげな顔
をしていて。
やっぱり宇治野兄ィさまはお母さんのような人だと思う。本人に
は失礼な話かもしれないが。
瞼を完全に閉じた私に﹃おやすみなさい﹄という声を掛けてくれ
た兄ィさまの音が聞こえて、一日目のお泊まりの時間は過ぎて行っ
たのだった。
翌朝の私がいた位置は、言わなくても分かっていただけるとあり
がたい。てぃー。じ。
123
﹁野菊ここにおいで﹂
次の日は清水兄ィさま。
流れは昨日の宇治野兄ィさまと同じで、布団を敷き終わった早々
隣へと導かれる。あ、同じって言っても布団コロコロはやってない
けど。
兄ィさまの部屋は宇治野兄ィさまより、少し殺風景。箪笥や化粧
台に布を被せているせいだろうか、色味はあまり感じられない。
しかし導かれたのは良いのだが、今私がいるのは清水兄ィさまの
上、腹の上なのである。うつ伏せで顔が兄さまの鎖骨辺りに来てい
るこの状況はもう、赤ちゃんである。
おまけに背中を撫でられているものだからよりいっそうなんとも
言えない気分になる。
いや、嬉しいけどもさ。温かいよ?温かくて安心するけれども。
宇治野兄ィさまにも昨日ポンポンされていたけれども。
私は大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大人大
人⋮
﹁野菊⋮﹂
現実逃避ならぬ自己暗示を掛けていると、背中を撫でる手を止め
た兄ィさまに名前を呼ばれる。
もしやなんか感じ取ったのだろうか。パァワァ∼。
﹁はい﹂
﹁⋮いや、なんでもないよ。おやすみ﹂
何か用があったのでは、と思いながら顔をあげて清水兄ィさまの
124
顔を見上げると、兄ィさまの顔はしんみりと何処か暗い、あの初日
に会った時のような顔をしていて。いつもより口数が少ないし、何
かちょっと変な感じがしてならない。
お話が沢山出来るのかと思っていた私はちょっとだけ落ち込んで
しまった。
どうしたのかと気になったものの、おやすみと言われてしまって
は私が話出す事は出来ない。
きっとお仕事で疲れがたまってしまっているのだろう。そんな中
私と寝てくれているんだから、それだけでも有りがたい事なんだ。
落ち込むなんて自分勝手だぞ!!
初心を思い出せー思い出せ∼、謙虚だったあの頃を思い出すんだ
ぁ!!
あ。謙虚って言うかただのビビりだった事は思い出した。
まっまぁ、ともかく。
温かい胸板に流れる兄ィさまの黒髪を握りしめながら、私はウト
ウトと眠りに落ちていったのだった。
ちなみに翌朝の私はちゃんと兄ィさまの上にいた。
やれば出来るじゃんよ私!!
そして最終日は羅紋兄ィさま。
﹁清水達とは楽しく寝られたか?﹂
﹁⋮き⋮はい!﹂
125
羅紋兄ィさまとは、お互い敷布団に肘をつきアゴに手を当てなが
ら、格子窓の外に見える月を見ながらお話をしていた。
羅紋兄ィさまの部屋は色んな物が置いてある。客に貰ったんであ
ろうビードロや、提灯?みたいな物、ちゃぶ台に乗っている煙管に
扇子。羅紋兄ィさまらしい部屋だ。
へへっ、ガキんちょ部屋だガキんちょ部屋。
﹁き?なんだ?﹂
﹁なっなんでもありません﹂
清水兄ィさまが気になっていたので、口に出そうとしたが止めた。
人の事をベラベラと話すもんじゃないか、やっぱり。
﹁でも6年かー。なげーなぁ﹂
﹁はい﹂
6年は長い。6年で皆どう変わっていくのだろうか。兄さま達は
変わらず天月にいるのだろうか、歳をとった姿はどんなものなのか、
それに自分はどうなっているのだろうかと未知に溢れた想像が頭を
駆け巡る。
⋮あれ?⋮⋮⋮あっ!!
そこでハッとするが、そう言えば私は女。年頃になればあれがや
って来るアレが⋮⋮⋮⋮⋮⋮生理が。
私には血にまみれた未来が待っているのをすっかり忘れていた。
くそ!!そしたらどうにかしてこの時代の生理の対処の仕方を見
つけなければ!!
取り敢えず時期になったら周りの人に聞いて⋮⋮⋮
126
あ。男ばっかりだ。
﹁野菊はどうなってんだろうなー﹂
﹁ゎほっ﹂
﹁ほーらよっ﹂
男ばかりの事実にフリーズしていると、兄ィさまが上を向いて寝
転がりながら私を持ち上げて、高い高ーいをしてくる。ぶーらんぶ
ーらんだ。わー。
﹁チビだから記憶が心配だなぁ。俺等の事忘れねーでくれよ﹂
﹁わーすぅれっま、せん!﹂
わたし
子供の記憶力を舐めないで頂きたい!!
100%、いや1000%忘れない自信があります!!
その自信たっぷりな返事を聞いた兄ィさまは、笑いながら私を隣
へと降ろす。
﹁ならいーけどな﹂
﹁はぁい!!﹂
真夜中だと言うのにでっけーでっけー声で返事した私を注意するで
もなく、布団を首まで掛けてくれる羅紋兄ィさまは何処か楽しそう
だった。
翌朝、ぎゅうっと何かに包まれている感覚がして微睡みから目を
うっすら開けると、男の人の胸板が目の前にあった。あ、羅紋兄ィ
さまか。
127
でも、何故か黒い髪の毛が胸板に流れ落ちている。羅紋兄ィさま
?緑色じゃなかったっけか。
あ、もしかして朝方は髪色が変わるタイプ?
いやどんなタイプだよそれ。
﹁ぁ⋮起きたの?おはよう野菊﹂
﹁!?き、ちょっぃき、よみず兄ィさまっ﹂
あるはずの無い声が上から聞こえてビックリする。見れば気だる
げな表情をした清水兄ィさまが。
確か私は羅紋兄ィさまの所にいた筈。
なのに何で清水兄ィさまが目の前にいらっしゃるんだ。記憶が正
しければ清水兄ィさま、昨日は閨の日ではなかったか。
と言うか朝から黒の単衣が肌蹴て色気が駄々漏れだよ。格子窓か
ら照らされる朝日が兄ィさまにもろ当たってて目が眩しいよ。目が
潰れてしまうよ。
いや、しかし何でだ。
ハッ!も、もしかして私夢遊病?深夜徘徊?それで清水兄ィさま
の所まで来ちゃったのか?
なんて傍迷惑なんだ!!
寝相悪い奴が更に進化するととうとう歩いて移動するようになる
のか、恐ろしい。今度秋水に私を綱で縛りつけて貰えるようにお願
いしてみよう。
え。違うよ、マゾヒストじゃないよ。
﹁ごめんね。もうちょっとだけ寝ていて?﹂
﹁?﹂
﹁後少し⋮そしたら離してあげるから﹂
128
起きた私にそう言って再び抱き込むと、布団の中でダンゴ虫のよ
うに丸まってぎゅぎゅっとしてくる。
清水兄ィさまの良い匂いが身体全体を包み込む。
﹁いつか君が、﹂
﹁?﹂
くすぐ
布団に入っているので声がくぐもっているが、私の耳の側で話し
ているので良く聞こえる。ちょっと擽ったい、と思ったらコツン、
と私の額と兄ィさまの額がごっつんこされた。
暗い布団の中でもキラキラと輝く黒真珠のような瞳が見える。
﹁いつか君が大人になって、此処を出てもし誰かと契ってしまって
も﹂
﹁ち?﹂
契って?
﹁その前に一度だけで良いから、私とお刺身を食べてくれるかい?﹂
﹁お、おさしみ?﹂
﹁食べてくれる?﹂
﹁おさしみ、たべます!﹂
契るって結婚?今からそんなこと言うなんてやっぱり過保護な兄
ィさまだ。大体私より早く天月から出るのは兄ィさまなのに、それ
に兄ィさまの事だから身請けだってされるかもしれないのに。お刺
身だってあればいくらだって一緒に食べるのに。
と言うか。あ、暑い!
息が、息がぁぁあ!!
129
とは思いながらも、羅紋兄ィさまは一体どうしたんだろうとか、
いつからこんな状態だったんだろうとかは頭の隅に置いといて。
清水兄ィさまの腕の温もりに暫く包まれるのに専念したのだった。
兄ィさまがクスッと笑う声がする。
﹁じゃあ約束だよ﹂
﹁はい!﹂
﹁やっぱり無しは聞かないよ?﹂
﹁はい!﹂
﹁破ったら無理にでも食べさせるからね﹂
どんだけ刺身が食べたいんだ。
130
始まりは 2年の月日 4.5︵後書き︶
その数時間後。
﹃お前勝手に野菊連れていくなよ。大体どうやって﹄
﹃羅紋の頭の上にいたからね。簡単だったよ﹄
﹃⋮⋮⋮﹄
途中でお刺身の意味が分かった方は﹃おい清水!!?﹄となってい
るかもしれませんね。
現実にあった遊郭では﹃お刺身﹄はキスをあまり許さない遊女の唇
を表していたようです。高級な鮮度の高いお刺身に例えていました
から、とても特別な物だったようです。
﹃お刺身﹄=口づけ。
131
始まりは 2年の月日 5︵前書き︶
ちょっと汚ないお話かもしれません。
132
始まりは 2年の月日 5
今日は古典の日。
私達はおやじさまに習うのと共に、とんでもない話を学ばされて
いた。
﹁好きな奴のう○こ盗むとかありえねぇ!!﹂
﹁蘭菊静かにしろ﹂
蘭菊が叫んでおやじさまに注意されている。
初っぱなからコイツ何言ってんだと思うかもしれないが、私も今
そう叫びたい気持ちだ。
いつもの並びでいつものように教養をつけられている変わらない
日。いい天気の今日は格子窓から明るい日が射し、縁側にあった桜
の木は緑色へと変化をして青々しい薫りが漂う。
そんな爽やかな午後におやじさまから聞かされたのは、平安時代
に書かれたと言う話。
﹁おやじさま。別にこれじゃなくても良くないですか﹂
﹁うんうん﹂
秋水と凪風が飽きれたようにおやじさまへ静かに抗議する。
﹁いや、これはなぁ。ちょっとした教訓みたいなもんよ﹂
笑いながらも真剣な顔をしているおやじさま。
そんなおやじさまから教わったのは古典のこんな話。
133
******
平安時代の身分ある一人の男と女のお話。
ある一人の美しい男が恋しい感情に苦しまされていた。
思いを伝えてその恋しい女の人にこっぴどく振られたものの一向
に諦めきれずにいる。
男はどうにかしてこの苦しい思いから解放されたいと思い、ある
ことを思いついた。
﹃あ、う○こ見ればいいんじゃね?﹄
好きな人の汚い物を見れば、きっとこの恋する気持ちも覚めて、
恋に身を焦がすことも無いだろうと考えたのだ。
そしてある夜。
その女性のう○こが入っている箱を屋敷に忍び込み無理矢理下仕
えの少女から奪取。
家に帰り早速開けてみると
﹃なっなんていい薫りなんだ!!﹄
これはびっくり。
男が想像していたのは臭いあの汚物。幻滅するだろうと思ってい
たあの汚物だと思っていたのに、箱から漂うのはとてもよい薫りの
する物だった。
実は男の執着様を理解していた女性が、こうなる事を予想して箱
134
に香を焚き、中身をう○こに似た物にすり替えたのだ。
いくら嫌な男でも流石に自分のアレを見られるのは我慢出来ない
と思い行動した結果だった。
だがそのおかげで男は益々その女性が恋しくなり、結果また恋の
苦しみに頭を悩ませる事となる。
そしてその悩み苦しみが元となり病に伏せてしまい、あげく死ん
でしまったのであった。
こんなことになってしまうなんて、なんてつまらないことでしょ
う。男も女も、罪深い。
******
と言う話。
﹁つまりはな、こういうこともあるから、男は女に入れ込んではい
けないっていう話なんだが﹂
おやじさまが私達へ宥める様な視線を向けると、今まで立ってい
た腰を降ろして、チビッ子の私達の目線に合わせて話始めた。
そして、もう低い位置にある太陽を一度仰ぎ見ると、胡座をかい
た膝に肘をおき、頬杖を付きながら確認する様にもう一度私達を見
る。
何故か背中をぴしっとしてしまう私達。
な、なんだろう、これ。変な緊張感だな。
﹁お前達は遊男になる。商売相手は女だ、好きになっちまう事もあ
る。だがこの世界での恋ってのは地獄みてぇなもんだ。一人の女に
本気になったら、心を釘で痛めつけて麻痺させて商売しなくちゃな
らねぇ。俺はおかしくなっちまった奴等を何人も見てきたんだ﹂
135
﹁だがどんなに注意して言っても心まで縛る事は誰にも出来ねぇん
だ。そればっかりはどうしようもならねぇ﹂
﹁35になるまで解放することができん。まぁ相手が身請け話を持
ってくれば別の話だがな﹂
﹁誰も好きになるなとは言わない。好きになっちまうのはしょうが
ない。だが身を焦がし過ぎて死んじまうのは止してくれな、生きて
りゃいつかきっと良い事があるんだからよ﹂
一気にそう言うと、おやじさまは私達一人一人の頭を撫でた。
今更だが、此処はそう言う世界なんだったと改めて認識する。あ
まりにも天月の兄ィさま達が明る過ぎて忘れていた。
兄ィさま達も恋悩んだ事があるのだろうか。十義兄ィさまなんて
32歳だ、一度は恋をしていても可笑しくはないと思う。
そう思うと、心の奥がぎゅうっとなってしまうのは仕方ないだろ
う。
﹁俺ぜってー客に惚れねぇ!!﹂
おとなしく話を聞いていた蘭菊が、突然拳を握って力説する。
一体そのお前の自信はどこから来るんだ。
﹁蘭菊は一途っぽいよねきっと。危ない危ない﹂
﹁なっなんだよ凪風!お前は一体俺の何を知っているんだ!!﹂
やれやれ、と言う感じで手とクビをフルフルさせる凪風は明らか
に蘭菊を弄っていた。
136
蘭菊って本当に秋水と凪風のおもちゃだよな。
﹁まぁ野菊は女だがな。そういやな、お前にこれからの事について
話とかなきゃならん事があるんだが⋮、おいお前等、今日はもう終
わりだ。部屋に戻ってろ。野菊は残れ﹂
その声で皆が部屋に戻って行くと、座ったままの私の前におやじ
さまが方膝を立てて座った。
﹁野菊。お前よ、良かったら20で年季明けにして俺んとこで楼主
の勉強しねぇか﹂
﹁?﹂
﹁知ってるだろ?俺には子供がいねぇ、嫁さんはいるが。お前は俺
が無理に引き込んだ様なもんだ。﹂
何故かいきなりジョブチェンジを勧められた。
﹁見てたら女のお前がいても大丈夫そうだしよ。おいら⋮いや、最
高の芸者で5年の間稼げたら今までの食事代も着物代も全部完済出
来ると思うしな。元々借金してねぇんだから。それにいつか限界は
来る。⋮どうだ?﹂
﹁え、ぇっと⋮その﹂
﹁まぁ、まだまだ先の話だ。7歳のお前さんにこんな話するのもど
うかとは思うが、考えといてくれ。まぁ、天月の飯炊きとしてでも
良いんだがな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
おやじさまの考えている事が分からない。と言うか最初と言って
いる事が段々違って来ていて、どうにも不安になる。
137
言われて気づいたが、今私はただ飯喰らい同然の身だった。仕事
といっても主に兄ィさま達の手伝いで、本格的な事はやっていない。
そうか⋮5年稼いで⋮。
でも、楼主になると言うことは、皆を売る立場になると言うこと。
果たしてそれを私が出来るだろうか。
﹁できませーん!!﹂
﹁うるせーよ野菊﹂
いきなり叫んだ私に秋水がすかさず声を上げる。
すいません。
でもあれからずっと考えていたのだが、もうこの一言に尽きる。
﹁できませぇぇえん﹂
﹁うるせーよ野菊﹂
夜になり四人布団を並べて寝転がっている。私は一番奥の格子窓
側で、隣は凪風、その隣は秋水、そのまた隣は蘭菊となっている。
此処でも蘭菊は一番離れているが、別に嫌いな訳ではない。近い
と蘭ちゃんがうるさいだけなのだ。
今の私に言われたく無いと思うけどね。
138
そんな私に一番近い格子窓から見える月はとても綺麗で、今日は
満月。兎が餅つきしていないかと私はじーっと寝ながら眺めている。
おぉ、確かにあの月の模様は餅つきしているようにも見えなくは
ない⋮が、どうしよう。見てたらお腹が空いてきちゃったじゃんか。
月が団子に見えてきたよ、もはや兎の餅つきどころじゃありません
よこれ。
﹁なぁ、﹂
私が突如空腹に襲われていると、蘭菊が誰に話掛けているのだか
分からない声を出す。
やかま
一番離れているのに良く透る声だ。
流石喧しい代表。
﹁四人でさ、年季明けたら旅とかしよーぜ﹂
﹁旅?﹂
凪風が聞き返す。
今日の話に半ば影響されたのか、不安になったのか蘭菊が旅をし
ようと提案してきた。
旅かぁ、旅ねぇ。またいきなりだなぁ。
今日は﹃いきなり﹄な事が多すぎる。いきなりデーと名付けよう
か。
﹁吉原を出て世の中を見るんだ﹂
﹁みんなで?﹂
﹁皆でな﹂
139
始まりは 2年の月日 5︵後書き︶
おやじさま、本当は野菊を自分の子供にしても良かったのですが、
どうしてもそれは出来ない事だったんです。この世界にはまだまだ
未知の常識や決まりがあるので、それはまた後程。
ちなみにこの平安時代のお話は
﹃今昔物語集巻第三十﹁平定文、本院の侍従に仮借する語﹂﹄に実
際に載っています。
140
始まりは 2年の月日 6
寒い。物凄く寒い。
もう腕も背中も首も足先もありとあらゆる所が寒い。
おかしい、外はあんなに太陽がサンサンで蝉の鳴き声がミンミン
ミンミンミンミンミンミン蘭菊の様に喧しく鳴いていると言うのに。
﹁うわ!あっちぃな﹂
﹁はは、完璧熱出してるね﹂
朝御飯中、隣に座る蘭菊が私の額に手を当てるとそう叫んだ。向
かい合って前にいる凪風は私の顔を見て笑っている。
秋水は笑っている凪風を呆れながら見ると私に向かって口を開い
た。
﹁熱出してる奴は今日寝てろ。おやじさまに言っとくから﹂
﹁げほっげほっほっほっホ﹂
いやいや勘違いしないで欲しい。
これは咳ではなく高笑いなんだ。
熱いのはきっと外が暑いから私の体が熱くなっているだけで、寒
いのはきっとそれに伴い私の汗達が必死に冷まそうとしてくれてい
る結果で、ちょっと冷やしすぎかな∼?とは思うけれど、これも汗
ちゃん達が頑張ってくれてるからなんで。
⋮いやいや決してね、治すための薬が吐くほど苦いからだとか、
病人食的な物を食べさせられるからだとか、風呂に入らせてもらえ
ないからだとか、そんなんじゃ無いんだよ。うん。だから、
141
﹁おやじさまー、野菊熱出してるみたいなんで薬あります?﹂
﹁あー?熱か?ちょっと待ってな﹂
﹁ぐすりっなん、のまないよっ﹂
﹁はい、布団まで運ぶからね﹂
熱じゃなぁぁぁああ︱︱︱︱︱い!!
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱⋮⋮
凪風におぶられて運ばれ、私は今布団の中。
あの悪魔め、私を運びながらクスクス笑いやがって。あの薬の苦
さをしっているあのお方は、これから私に訪れる魔の時間を楽しみ
にしているに違いない。
あの苦さを体験したのは四人の中で私と秋水と凪風だ。蘭菊は風
邪を引いた事は無い。馬鹿だから。
﹁お前体よえーなぁ﹂
﹁ヴっるさい﹂
いいか良く聞け。
馬鹿が風邪を引かないってのはな、風邪を引いたことに気づかな
い程の馬鹿だからって意味なんだぞ。
バーカめ。
142
﹁それより稽古前に、野菊に薬飲ませなきゃだね﹂
﹁自分でのめるよ‼﹂
うわ、笑ってる。笑っていらっしゃる。薬の袋を手に持って楽し
んでらっしゃる。⋮この野郎め。
いいよ自分で飲めるよ⋮⋮⋮⋮やだなぁ秋水がすっごい怪しい顔
してる﹃こいつ絶対飲まないな﹄って顔してるよ。失礼な。私はそ
こまで子どもじゃないよ、寧ろ大人なんだぞ。
大体前に風邪引いた時ちょ∼っと拒否したぐらいじゃないか。
﹃野菊、薬⋮﹄
﹃おやじさま!!なんか、なんか変なにおいがしますよ!これ色が
なんかおかしいですよ!はなが、はながツーンて!!うっ、吐き気
がぁ︱︱﹄
﹃⋮⋮⋮﹄
みたいな事があったぐらいで。
﹁も、もう自分でのむから!!おねがいだから!けいこ行ってらっ
しゃい!!﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はぁ。本当に飲むのか?﹂
﹁うん!﹂
秋水の質問に、後一息だ!と本当に熱を出しているかよお前、っ
て言うくらい元気に答える。
流れが分かってきたのか、凪風はつまんなそ∼な顔をして秋水を
143
見ると溜め息をついた。
おい悪魔よ何だその溜め息は。
え、何の溜め息ですか?何がつまんないんですか?
﹁秋水は甘いよ﹂
﹁いやもう稽古の時間になるからな。野菊が自分でやるってんなら
やってもらおうぜ﹂
よっしゃぁぁあ!!勝ち取ったよ!
へへん。ざまーみろ凪風め。
あ、ほらほら、おやじさまの呼ぶ声が聞こえるよ?早く三人とも行
った方がいいよ。ほらほらほら。
⋮ちょ、だからそんな据わった目で見ないでよ痛いな。
﹁じゃ、いってらっしゃい﹂
私の素晴らしい笑顔付きで三人を見送る。
最後部屋を出るまで蘭菊なんかは不躾な視線を送って来ていたが、
知ったこっちゃありませんよ私は。
この薬は⋮⋮枕の下に隠します!!
えへ。
まぁ取り敢えず隠したら夕方まで寝ているとしよう。
144
寒気が半端無いし頭もボ∼っとするし、薬なんて飲まなくても布
団で寝ていれば十分だ。
子どもは風の子だもん!↑︵意味わからない︶
﹁ふぅ。おやすみなさーい﹂
そうして魔の時間を逃れた私に、平穏は訪れたのだった。
だが夕方。
﹁はぁっ、はぁっ﹂
あぁ苦しい。
凄く苦しい。
頭が物凄く痛い、喉に水が欲しい、でも寒いよ、寒くて手が動か
ない、苦しい、苦し⋮
﹁うっ、あっ、はぁはぁ⋮﹂
目を開けようとしても中々力が入らない。
頑張って薄目を開けても涙が邪魔をして歪んで何も見えない。耳
の穴はボウッと膜を張っているみたいだ。
聞こえていた蝉の鳴き声があまり聞こえない。
あぁ、こんなんなら、ちゃんと言うことを聞いて薬を飲むんだっ
145
た。あんなにしつこく言われたのに、飲みたくないばっかりに自分
で飲むなんて嘘付いて。
信じてくれた秋水よ、ごめん。
私は信じちゃあかん人間だったよ。すんません。
﹁はっあ、うぅっ﹂
﹃のぎ⋮ど⋮⋮!﹄
﹁はぁっあ、ふ、っ?﹂
誰かが布団の横に来た感じがする。
だが目がボヤけて、耳も聞こえ難くて誰なんだか分からない。
でも、その誰かが私の手をぎゅうっと握ってくれた感覚がして、
なんだか少し安心した。
握ってくれている方の指に力を入れたら、爪がガリッとその人の
手の皮膚を攻撃してしまった感触が。
うわ、ごめんなさい!!
﹃みずを⋮ぎくっ⋮くち⋮て!﹄
水?水って言ったのかな。
﹃くち⋮て!﹄
何?
あぁ、頭がクラクラするなぁ。
﹃ご⋮っ﹄
146
意識が完全に消えてしまう前に私が感じたのは、唇が柔らかい何
かに触れた感触と、冷たい液体が喉を通る心地の良い感覚だけだっ
た。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱
︱︱︱⋮⋮
体が温かくなっている。
あれ、私どうしたのかな。
﹁起きたか?﹂
﹁⋮⋮⋮秋水?﹂
楽になった体に意識が浮上し、目をゆっくりと開けると横になっ
ている私の隣に秋水がすわっていた。額の上には生暖かくなった手
拭いが置かれている。気持ちいい。
外を見れば、もう月が顔を出していて夜となっている。
秋水の奥を見れば、布団で寝ている蘭菊と凪風が。と言う事は夜
ご飯はもう食べたのね。
あ、何だかお腹が空いてきてしまった。
﹁お前、薬飲まなかっただろ﹂
﹁うっ。ごっごめんなさい﹂
﹁ったく。ずれた枕の下から薬が見えたからな。だと思ったぜ﹂
バレた。
147
そりゃそうか。枕の下だもんな。
頭がボーッとしてたから考えが甘くなっていた。普段の私だった
ら、そんなすぐにバレる所に隠さないのになぁ。
⋮いや、そうじゃなくて。
反省しろよ私。
﹁もうしません﹂
﹁次あったら、俺等がお前が飲むまで見てるからな﹂
﹁⋮はい﹂
逆らいません。
﹁あと夕方からな、交代交代で野菊を見てたんだ。今は俺の番だけ
ど、さっきまでは蘭菊が手拭い取り替えてたんだぜ﹂
﹁らんちゃん⋮﹂
﹁凪風もな。だから明日になったら礼ちゃんとしろよ﹂
﹁⋮っうん﹂
うぅっ二人とも!
あんなに散々悪魔とか馬鹿野郎とかこの野郎とか心の中で愚痴っ
てごめん。
天使だ天使。
いや違う、神様だったよ君らは。
⋮あー早く明日にならないかな。
早くこの温かい気持ちを神様達に伝えたいな。
﹁ありがとう、しゅうすい﹂
﹁お前はしょうがない奴だからな﹂
﹁はい!﹂
148
私はまだまだしょうがない奴です。
次の日。
﹁蘭菊、凪風っきのうは、あっありがとうございました!!あとく
すり、うそ付いてごめんなさい﹂
﹁あ?あー、まぁ別にな。と言うか薬飲めし﹂
﹁うん。どういたしまして﹂
まだ少しダルいものの、早めに起きて布団の上で正座して二人が
早く起きるのを待っていた私は、二人が起きた瞬間開口一番に感謝
の言葉を贈った。
こんな朝早くからデカイ声で話かけられ面倒だと思われてしまう
かもしれないが、﹃おはよう﹄より先に言いたかったのだ。
何となく。
﹁でもちょっと制裁を受けてもらおうかな﹂
﹁せいさいですか!そっそれは﹂
﹁はい、お仕置きねー﹂
﹁うにゅ゛っ﹂
にこやかに﹃制裁﹄宣言をした凪風に頬っぺたをつねられる。
痛たたたた、痛い痛い痛いよ痛いよ痛い。
149
取れる!!肉がっ肉がぁ!!
すんごい力入ってるよこれ。尋常じゃないってば。
いったぁあいよ︱︱!
﹁ごぉっへんなはぁいー︵ごめんなさい︶﹂
﹁⋮⋮まぁ此れくらいで良いっか。ね、蘭菊﹂
﹁はっはっは!野菊、変な顔だったぜー﹂
私が悪いからね。
今回は何されても何も言わないよ私はさ。
ふと、さっきまでつねっていた凪風の手が目に入る。
﹁凪風、ゆびにきずがある﹂
﹁?あぁ、これね。昨日箏の稽古だったから﹂
こんな時﹃消毒してあげるよ!﹄とか言えたら良いものの、乾い
て瘡蓋になった傷をどーするとか出来るわけがなく。
お礼には出来そうになかった。
﹁何かしようとか考えるなよな﹂
まだ布団の上にいる蘭菊が突然私に向かって言う。
な、何も言っていないのに。中々鋭い神様だな。
﹁野菊から何かしてもらっても、大半はきっと色々失敗に終わりそ
うだしね﹂
﹁まぁ、そう言ってやるな﹂
凪風と秋水も私の考えている事が丸わかりのようで。
150
⋮取り敢えず。
この際失礼な言葉は華麗に無視をして、私はもう一度この言葉を
贈ろうと思う。
﹁秋水、らんちゃん、凪風、あっありがとう!あのねっ⋮とっても
だいすきですっ﹂
プラスワン。昨日感じた温かい愛の言葉をのせて。
151
始まりは 2年の月日 6︵後書き︶
﹃お前いつ傷作ったんだよ﹄
﹃秋水⋮箏やった時だって﹄
﹃今頃作るもんか?﹄
﹃でもさ、いつもより結構厳しかったもんなーおやじさま﹄
﹃⋮おやじさまって、意外と野菊に弱いよね﹄
﹃⋮⋮⋮﹄
﹃⋮⋮⋮﹄
152
始まりは 2年の月日 7
﹁お前まだ一緒に入るのか?﹂
﹁なんで?﹂
現在脱衣場。
長着を脱いでいると、後から来た蘭菊にそう聞かれた。ので聞き
返してみたら蘭菊は黙ったままでいる。
しかし、そんな今更な質問してくれるな。
大体蘭菊はそんな事気にするような奴だっけ?
﹁蘭菊は気にしすぎだよ﹂
﹁そうだぞ。野菊は女じゃないだろ﹂
おい失礼だよ!!
とは思うものの。
⋮でも最近思考が男と女の間を行き来しているような気がするの
は確かで。
自分の事は女だと分かってはいるし、私は乙女よ!とか女なのに
⋮とか思う事はある。
だけど一方で﹃どーしたら私はイケメンになれるんだろう﹄とか
﹃あぁ女の人が恋しいよ。触りたーい﹄とか、若干男寄りな考えを
することが多々ある。
なのでぶっちゃけ女じゃない、とか云われて一応女の部分は反応
するが、そこまでショックではないのは確か。
うん。順調に遊男として、芸者としての意識が出来てきたって事
153
かな。
﹁今日は僕の膝に来ておきなね﹂
﹁ふへぇ∼い﹂
体を洗い終わり浴槽へ入ろうとする私に声が掛かった。
私はそこまで小さいのか?と此処二年膝に乗せ続けられていて思
ぬめ
う。流石にもう私も体が七歳だ。浴槽の下に足はちゃんと着くし、
溺れやしない。
ただ此処に来て最初が悪かったのだ。
浴槽に向かい歩いていたら、丁度浴槽の手前の床の滑りに足をと
られてしまい、
﹃ぶぉほっ!!ぷっ、はぷっ﹄
﹃野菊!!﹄
浴槽へドボン。
後ろにいた蘭菊が救い上げてくれたのだが、軽く溺れた私を見て、
それ以来天月にいた時と変わらず乗せられるようになってしまった。
もう7歳なのに。
しかも三歳しか変わらない奴に抱っこされているこの屈辱感。や
るせない。
もう慣れたから良いものの、私の中の何かが麻痺して来たのは気
のせいだろうか。自分でも何が麻痺して来たのかは具体的に分から
154
ないのだが、恐ろしい。
﹁あったかいねぇ﹂
﹁そうだねぇ﹂
﹁ろてんぶろとかだったら最高だね﹂
﹁じゃあ天井剥ぎ取ろうか﹂
それはおやじさまに怒られるよ。と二人で笑いながら天井を見る。
悪魔な時もある凪風だが、基本優しく、何だかんだ付き合ってく
れたりするので良き友人⋮いや、年齢考えるとお兄ちゃん?だ。
と言うか私以外、此処にいる皆は私にとってお兄ちゃんだろう。
﹁何、露天風呂?﹂
﹁俺も入りて∼﹂
一緒の浴槽で私達の会話を聞いていた秋水と蘭菊が反応した。
あ、蘭菊が髪の毛の水搾ってる。
こら、浴槽の外でやれ外で。
﹁俺五右衛門風呂だな﹂
﹁僕は木桶風呂も良いなぁ﹂
﹁だったら、蒸し風呂も良くねぇ?﹂
何故か秋水の五右衛門風呂発言を羽切に、風呂談義が始まった。
何か色々﹃蒸した風呂ってのは⋮﹄﹃釜なのに火傷しない⋮﹄﹃
ヒノキの香りがさ⋮﹄と話している。
良いなぁ、皆入ったことがあるって事かな。
﹁みんなそれ、入ったことあるの?﹂
﹁﹁﹁ない﹂﹂﹂
155
﹁でさー⋮﹂
﹁おぉ﹂
知識内での話でした。
︱ちなみに秋水の言っていた五右衛門風呂は、由来が結構残酷なも
の。
石川五右衛門は盗賊で最後は死刑になったのだが、その死刑の方
法が、水を張った大きな釜にに五右衛門とその五右衛門の幼い子供
を入れ、火をたいて次第に水を沸騰させるというものだったそうで。
五右衛門は、初めは、子供を上に掲げて熱くないようにしていた
のだが、最後には風呂の釜のあまりの熱さに、子供を下に敷いたと
いう。
こんな感じで、五右衛門の死刑に使用されたので五右衛門風呂と
呼ばれるようになったと言うのだが、実に後味の悪い話である。
そして実際水ではなく、油を使ったと言われているらしい。
まぁ、油の方が熱くなるしね。
遊男には色々な知識が必要なので、たまにこんな役に立つんだか
立たないんだかの話を聞かされる事が多々ある。
客を相手に退屈させない一つの手なんだとか言っていたけど、こ
んな胸糞悪い話誰が聞きたいんだよおやじさま。
あぁ、なんかこの話思い出したらお風呂から出たくなっちゃった。
うぅ、五右衛門め!!
子どもを下敷きにするんじゃないよ!!
﹁凪風、わたし先にでるね。だからおろ﹂
﹁そう?じゃあ僕も出るかな﹂
156
﹁い、いいよ。まだゆっくり話してなよ﹂
前から思っていたが人の意見に便乗すること多いな凪風。あと委
ねてくる事も。
委ねられる度、私は気が気で無いのだ。
﹃え、何を選んで言ったら凪風にとっても良いの?悪いの?え、
どうすれば。うーんんん﹄まるで何か相手の顔色を伺うゲームの選
択肢を迫られているような⋮⋮⋮?
あれ?
選択肢⋮ゲーム⋮?
⋮それは︱︱︱どういうゲームだったっけ?
そんなゲームあったっけ?
あれ?
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁どうしたんだ?野菊﹂
﹁っ、ううん。あ、いや何かのぼせちゃったのかもしれない﹂
ボーッと思考を巡らせていた私に秋水が心配したのか声をかけら
れてしまった。
いけない、いけない。
うん、きっとのぼせたから思考が変になってるのかもしれない。
それに、こんな事別に思い出さなきゃいけないってワケでも無い
んだから、深く考えなくても良いのかもしれない。
﹁俺等も出るか﹂
157
﹁結構浸かったなー﹂
とか思っていたら皆がいつの間にか風呂から出ている。
なんだなんだ、言い出しっぺは私なんだぞ!先に出るんじゃない
よ。
158
始まりは 2年の月日 7︵後書き︶
その後、脱衣場にて。
﹃ちなみに野菊は露天風呂以外では何がいいの?﹄
﹃うーん﹄
﹃やっぱ五右衛門だろ﹄
﹃いや、蒸し風呂だぜ﹄
﹃うーん⋮⋮あ!﹄
﹃こんよく風呂が良い!﹄
﹃﹃﹃は?﹄﹄﹄
︵だって女の人がいるんだもーん︶
五右衛門風呂については色々な説があるので、これもその内の一つ
と考えてください。
159
ある少年の独白︵前書き︶
短。
160
ある少年の独白
しの
﹃にーちゃん﹄
﹃志乃⋮﹄
君が今日僕の明日を奪い
﹃にーちゃん?﹄
﹃ごめんね﹄
君の明日が出来たとき
﹃よろしくおねがいいたします!﹄
﹃よろしくね﹄
なのに君が僕を好きだと
﹃あしたはだれなんだろうね∼﹄
﹃さぁ﹄
161
大好きだと吐かし
﹃ありがとう﹄
﹃どういたしまして﹄
笑顔を見せたとしたら
﹃イッパイたべられないからいいよ﹄
﹃少食?﹄
今日の僕はいつかの昨日のように
﹃やきまんじゅう!!﹄
﹃好きだねぇ﹄
君を大好きだと
﹃うっ、うぅ、わ゛ーんっ﹄
﹃よしよししてあげるよ﹄
心から思い
162
﹃あのねっ⋮とってもだいすきですっ﹄
愛せるだろうか。
163
始まりは 5年目 1
今、おやじさまの家に私以外の禿はいない。
私がこの世界に来て3年が経ち4年目に入った去年元日、秋水と
凪風は天月妓楼の花魁の元へと直垂を着用し引込新造として戻って
行った。
数え年なので、誕生日は関係なく元日が来るのと共に歳が加算さ
れる為去年の1月1日で二人は12歳となり、同時に禿でいる年齢
では無くなったのだ。
私が二人に会えるのはそれから3年後、秋水も凪風も15歳にな
り花魁となっている頃。
何だか寂しかった。
私よりも早く大人になる二人が。
﹃じゃあ、またな﹄
﹃うん。またね﹄
﹃野菊、風邪引いたらちゃんと薬飲んでね﹄
﹃のっ飲みます!!﹄
﹃本当だろーな﹄
それでもそんな会話をしつつ、最後は皆でぎゅーっと抱き合った。
ミノムシ再来。
﹃蘭菊、野菊をちゃんと見てろよ﹄
﹃めんどくせー﹄
164
蘭菊は二人よりも一つ下の為、後一年は私とおやじさまの元で暮
らしていたのだが、ついに5年目に入った昨日の元日で天月妓楼へ
と戻って行ったばかり。
﹃野菊、﹄
﹃なに?﹄
﹃い、一年、俺といて寂しく無かったか。⋮べっ別にな!気になっ
てたワケじゃねえけど!﹄
﹃うーん⋮﹄
﹃なっなんだよ﹄
﹃らんちゃん⋮どっちかと言うと喧しかった﹄
﹃おい!!﹄
﹃だからあまり寂しく無かったよ﹄
﹃⋮そ、そうか。あー、そうだろ﹄
昨日去り際に交わした会話は、いつも通り何も変わらず⋮いや、
蘭菊はちょっと大人しかったけれど。
そして前に皆でしたように抱き合おうとしたら﹃馬鹿じゃねーの
!!﹄と言われ逃げられてしまった。
⋮この野郎め。少しは惜しんだらどうだろうか。まぁね、ツンデ
レゆえだと思えば可愛いものなのかもしれないけどさ。うん、ショ
珊瑚朱色の直垂に高い位置で結った赤い
さんごしゅいろ
ックでは無いよ。全然ショックじゃないから、全然。
へっ。
でも似合ってたなぁ。
髪色が映えて、とても⋮。
165
﹁あーあ﹂
特に何の意味も無く、無駄に響いた声を出しながら4人で使って
いた部屋の天井を見上げる。
4年前まで狭く感じていた部屋が広くて広くて変な感じで。部屋
の端から端までコロコロと寝そべり転がっても注意する者は誰もい
やしない。
とても寂しい。
⋮いやいや⋮折角のお正月なのに、なんだこの私のへこみ具合は。
年が明けていくって言うことは着実に兄ィさまや、禿の皆に会える
時間が縮まって来てると言う事なんだぞ!
祝え祝え!!ハッピーニューイヤ∼。
﹁ふふ∼ん、あーけーまーしーて∼∼おーめーでーとう∼﹂
一人誰もいない空間にそう呟き、そしてまた意味も無く手を天井
に向けて伸ばしていると、私の上に突然大きな影が掛かった。
﹁新年の挨拶に来たぞ。今年も宜しくな﹂
﹁あ、十義兄ィさま﹂
﹁?どうした野菊﹂
廊下を歩いてきた十義兄ィさまが、縁側まで転がった私の所まで
来て見下ろしていたようだ。
上げていた手を降ろして上半身を起こす。
﹁あー大体分かるぞ。まぁ、蘭菊がとうとう行ったもんな﹂
﹁う⋮はい﹂
166
え、十義兄ィさま!?
何で此処に!!
とビックリするだろうが、彼は2年前からこうしてたまに此処へ
会いに来てくれている。
実は十義兄ィさま、年季が明けた年におやじさまの元で飯炊きと
して働き始めていたのだ。私はそれを大分前から、と言うかおやじ
さまの元へ行く日に十義兄ィさまから教えてもらっていたので、6
年経たなくとも会える事は分かっていた。
﹃野菊!﹄
﹃じゅうぎ兄ィさまも、お、おせわになりました!﹄
﹃なぁ野菊﹄
﹃?﹄
﹃あのな、俺、年季明けたらおやじさまんとこの飯炊きになるんだ﹄
﹃え、﹄
﹃だから後2年したら野菊に会いに行ってやるよ。待ってろな﹄
﹃ほっふ、ほんとうですか!?やったぁ!!﹄
家族の居場所は分からず、帰る所も宛もない為おやじさまの所で
働く事にしたのだと言う。
もう遊男ではない十義兄ィさまは外を歩けるし、恋愛だって自由。
たまにこうしておやじさまの家まで自分の休みの日に遊びに来てく
れる。
私が天月にいた頃肩まで伸びていた十義兄ィさまの水色の髪の毛
は、今首に掛かるか掛からない位に短くなっており、顔は少し目尻
のシワがあるものの溢れ出るダンディズムが漂っていて。
笑った顔は特に最高だ。
えぇ、お気に入りです。
167
﹁寂しいか﹂
﹁さ⋮寂しいです﹂
いつかのように私の頭を撫でながら聞いてくる十義兄ィさま。し
かし改めて人からそう聞かれると何だか恥ずかしい。
此処に来てから今まで、周りが騒がしく無いことはなくって。い
つも誰かがいた。今思えばそれは、とてもとても贅沢で幸せな事だ
ったのだと言える。
しかし、兄ィさま達と別れた時もだが、これが今生の別れではな
い。悲しむ必要など無いのだ。
それに後2年。今までの四年間を考えればそう長い時間ではない
し、皆それぞれ頑張っている。また再び会えた時に恥ずかしく無い
ように、これまで以上に一生懸命芸を磨いていくことだけを考えよ
う。
そうすればきっとあっという間だ。
﹁野菊ー!﹂
﹁お。おやじさまが呼んでるな﹂
﹁はい。じゃあ十義兄ィさま、良いお正月を。それと今年も宜しく
お願いします﹂
﹁稽古頑張れよ﹂
﹁はい!﹂
新しい1年は一人でのスタート。︵+37歳の飯炊き人︶
168
始まりは 5年目 1︵後書き︶
﹃ところで野菊。俺もう﹁兄ィさま﹂じゃないぞ﹄
﹃あっ、そうですね!ん∼十義兄さん。十義さん?とかで⋮﹄
﹃⋮うーん⋮。いや、やっぱ兄ィさまで﹄
﹃?﹄
﹃なーんか、こう。違和感がな﹄
野菊5歳
おやじさまの家で暮らし出す
この世界に来て天月で働き出す
何かごちゃごちゃと分からなくなって来たので時系列まとめて見ま
した。
1年目
1年後、野菊6歳
蘭菊が天月へ戻る
秋水と凪風が天月へ戻る
4年経ち5年目、野菊10歳
天月へ戻れる
3年経ち4年目、野菊9歳
6年経ち7年目、野菊12歳
169
始まりは 5年目 2
夕食の少し後。十義ィ兄さまがいつものようにおやじさまに断り、
私の与えられている部屋まで来ている。
私の差し出した座布団に座り、金平糖をカリカリ食べて茶を啜る
兄ィさまに私は言いたい。
兄ィさま。来てくれるのはとても嬉しいんですが、そんなにしょ
っちゅう来て大丈夫なのですか。
確か昨日の夜も来ていましたよね。
と。
何だか蘭菊がいなくなってからやけに此処へ来るようになったの
だが、きっと私が﹃さっ寂しいです﹄とか漏らしたから、心配して
来てくれているのだと思う。
くそぅ、なんて良い男なんだ。
⋮いや、私はそんな事を言いたいのではない。真に言いたいのは、
ひと
十義兄ィさま、そろそろ良い女見つけても良いのではないですか?
だ。
だって自由恋愛解禁してるんだよ!!
青い春見つけに行こうぜ!!︵37だけど︶
と声に出して言ってみたいが、女を惑わす手練手管をとっくの昔
に修得しこの世界で戦って来た色男に、10歳になったばかりの小
170
娘がそんな事を言えるだろうか。
はい、勇気はありません。
だから隣で茶を啜る兄さまに今視線で訴えている途中だ。
はぁぁ∼念力!!あぃやぁ∼ぁ∼
﹁そういやな、野菊﹂
﹁!、はい!﹂
ふいに私の方へと顔を向けて話し出した兄ィさま。
お!?通じたのか?通じたのか?
私スゲー!!
お、おやじさまに芸が増えました!って明日どや顔で報告しなき
ゃ!!
おなご
﹁天月によ、女子の手伝いが新しく入ったんだけどよ﹂
﹁おっぅ!そうなんですか!?﹂
おなご
聞き出したいのはそんな事では無かったのだが、それはじゃあ一
旦横に置いといて⋮⋮女子!!本当に女子!?私が求めてやまない
女子が天月にやって来ただと!?
お、おやじさま、取り敢えず私を早く天月へ早く帰してください。
﹁野菊、お前拾われただろ?その女子もおやじさまが拾ったらしい
んだが、もう12歳でデカくてな。野菊みたいに禿から育てて遊ん
⋮いや、育てるのは無理だしな。第一女だしよ﹂
もしもし、私は女です。
171
﹁だから裏方の仕事でもさせて、衣食住与えてやったらしいぜ。お
前が天月にいても心配するような事は何もなかったし、上手く皆が
やっていたから女がまた一人いても大丈夫だろうってなったんだと﹂
﹁そ、そうなんですか﹂
いや、寧ろ5歳児がいて何かあったほうがおかしいよ。おやじさ
ま、基準が間違っています!!
﹁と⋮おやじさまは思ってるらしいが、本当に何も無かったって事
は無いと思うがな、俺は﹂
私の瞳をじっと見て意味深な事を話す兄さま。
あれ、何か今の格好良かった。格好良かったよ!
﹁兄ィさま達全員、知っているんですよね?裏方って言っても会い
ますもんね?﹂
﹁あぁ、野菊がいたからか、あんまり反対の声は無かった。だがあ
くまでも裏。だからあまり遊男達の前には出ねぇ。主に洗濯とか言
ってたな、布団とか1日で洗う量半端ねぇから﹂
なるほど。
総合すると、私のおかげと言う事ですねつまりは。ふふ。
しかしおやじさま。最初に会った時の﹃秩序が乱れるからぁ!!﹄
って言う発言と危機感、どこに行ったんだろう。なんかおやじさま
が年々色々甘くなってきた気がする。歳かな。
しかもそれに伴うようにして最近では吉原の規制も緩くなってき
たみたいで。年に二回の遊男達の休みの日は、外に出て良いことに
なっており、もちろん見張り役はいるが以前よりは自由になった。
そして昼、客が誰もいない時間は吉原の町へ出て吉原内の甘味処
172
や装飾屋、書物が並ぶ店など、見て回っても良いことになっている。
自分の妓楼から出る時は、その妓楼の花手形を携帯し、戻って来た
際に﹃自分は此処の遊男だー﹄と言う事を見世の番頭に証明して帰
れるのだ。
ちなみに吉原の外に出られる所は大門の1ヶ所だけ。そこは女は
行き来出来るが、男はまず簡単に出ることは出来ないようになって
いるようだ。入るのには別に問題は無いのだが、出る際には身分を
証明出来る物を持っていないと帰らせて貰えず﹃何処かの遊男では
ないか?﹄と疑われ、少なくとも証明できるまで2日は帰して貰え
ない。
そして吉原の周りには壁があり、所々に屈強な見張り人もいる為
脱走も出来ない。
十義兄ィさまのように遊男も引退して、おやじさまの所で違う仕
事をしているとかなら身分を証明する物もそれ用にちゃんとあるの
で大丈夫なのだが⋮⋮。
だから十義兄ィさま。青い春、見つけに行こうよ。
﹁なるほど⋮そうなんですか﹂
﹁あぁ。まぁ⋮良かったな女の仲間が出来てよ。会えんのはまだ2
年先だが、楽しみだな﹂
﹁はい!﹂
﹁おお、可愛い顔で笑うもんだな野菊はよ∼、ほれ﹂
﹁うきょっ﹂
頬っぺたを両手でグリグリされる。痛ーいよ。
﹁どっどふはほはんでふへゃ︵どんな子なんですか︶﹂
﹁そーだなぁ⋮子猫って感じだな﹂
173
﹁ほ!ほぬほしゃんへふは!!︵おぉ!子猫ちゃんですか!!︶﹂
子猫ちゃん、カムヒーア!!
あ、そう言えば女⋮と言う事は生理の対処法を知っているのか!
!そーかそーか、そーだよ。まず天月に帰ったらそれを聞いてみよ
う。確かこの時代は生理って言わないんだっけ⋮じゃあ﹃初めまし
て!あの、尻から出た血どうしてます?﹄⋮いや、うん、ちょっと。
だが問題はそれ以前に血まみれにならなきゃ良いってことかな。
後2年、どうにかして女性ホルモン?を抑えなければ⋮。
き、筋肉ムキムキになってみようかなー。男になるんだし?それ
に秋水には前﹃女じゃないだろ﹄と言われた事があるから、多分素
質はあるんだよきっと。男になる。
⋮あれ、ちょっと話は変わるけど一つ気になる事が。
未だグリグリしている手を押さえつけ、聞いてみる事にしてみる。
﹁その子、お風呂とかどうしてるんですか?﹂
﹁あー、なんか大門の外のすぐ近くにある湯屋︵銭湯︶で入ってる
らしいぞ﹂
ええ!!そんな所あるの!?
知らないよ私!!
﹁今更ですけど、私もそこ行けないんでしょうか﹂
﹁無理だな﹂
﹁あ、そうですか﹂
174
﹁ほぃ、﹂
﹁うにゅっ﹂
痛ーい。
175
始まりは 5年目 3
今日もまた、何てことの無い時間が過ぎてゆく。
朝から目の前にいるおやじさまの顔面観察。
おー渋いね。おやじさま、ちょっと顔怖いけどその層の遊男やっ
ても良いんじゃないかな。
朝日に照らされた強面の顔が、今や神々しく光ってて、とてもあ
やかりたい気分ですよ、ええ。はい。
そしてそんなおやじさまの手には女物の紅色の着物。
﹁え?﹂
﹁だから、着てみろ﹂
﹁え、﹂
﹁世間様では今日は桃の節句だ。俺しか今この家にいねぇし、誰が
見るわけでもなし。着てみろ﹂
そう言われ、着物をずいっと差し出される。
いやいやいや突然どーしちゃったのよおやじさま。
こんなこと今までしなかったじゃないのよ。
一体何があったと言うのさ。
﹁いっいや、あの。私!男に﹂
﹁馬ぁ鹿野郎!!﹂
﹁ひっ﹂
﹁今日は桃の節句なんだ。祝わないでどーする!!﹂
176
拳を握って力説している今年で53となったこのオヤジ。
えー。なんかおやじさまが可愛いよ。でも意味が分からないよ。
大体急に着物をポン、と出されても女物の着付けなんて教わって
無いからわかんないもんね。
と言うかこの着物、一体何処から持ってきたんだろう。確かおや
じさまは奥さんはいても子供はいなかったはず。
わ、わざわざ買ってきたんじゃないよね、その立派なお着物。
唐紅色をベースに若菜色の柳線が流れ、淡黄の玉形と乙女色の花
弁がちりばめられているその着物は素人目から見てもお高い物だと
分かる物だ。
私を男として生活させ始めたのはおやじさまなのに、色々ちぐは
ぐだぞ。
﹁それ、あの、どうしたんですか?﹂
﹁あ?﹂
﹁き、着物⋮﹂
﹁あぁ、兄さん達の着物を仕立てる時にな、ついでに仕立てて貰っ
たんだ。綺麗なもんだろ?﹂
し、仕立てただとぉ!?
わざわざ作ったんですか!!?
ちなみにその費用は誰持ちなのかを是非とも教えて頂きたい。私
に請求して借金を作れと言うのか。
大体ね、そう言うのは子猫の愛理ちゃんに着さしてあげるべきで。
もう女捨ててる私よりも、女として生きている子を祝わなくちゃさ。
﹁愛理ちゃんに着せたら良いですよ﹂
177
﹁馬鹿言うな!女として一番輝く時に男を強制させるんだぞお前に。
せめてもの贈り物だ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮まぁ、愛理にも桜色の着物を
やったがな﹂
最後にボソっと呟いたオヤジ。
ちゃっかりしてるじゃん!!
﹁今さっきその着物着て仕事してたんだがな、兄さん達もそれ見て
楽しそうでな。いやぁ、娘子ってのはいーもんだな。客の女とはま
た違う癒しと言うかな﹂
誰だこのオヤジ。
最初の頃の威厳とか何処にいったんだろう。
しかしこう話ながらも着物を両手で広げていくおやじさま。
いやさぁ、歳なんだから手ぇちょっと休めた方が良いんじゃない
かな。
﹁取り敢えずこの話はいいからよ。よし、俺が着付けてやるから長
着脱ぎな。ついでに紅も差してやる。肌が白いから映えるだろうよ
⋮そうだなぁ、目尻に紅梅色を差してみるか﹂
﹁おやじさま!!今日の稽古が﹂
﹁今日は女心を知る稽古ってことだな﹂
うそつきおやじ
詐欺師は口が上手い。
そして話を聞かない。
︱︱︱︱︱︱︱︱
178
︱︱︱︱︱
︱︱⋮⋮
重い。
女の人の着物ってこんなに重いんだ。いや、秋水達が着ていた直
垂も重そうだったけど同じくらい?
長着に戻りたい。
全身鏡で自分の姿を見てみたい気もするが、生憎おやじさまの家
は顔が映るくらいの鏡しか無いため、一体自分がどんななのか部分
的にしか分からない。
目の前のおやじさまが真剣な顔をして私の顔に紅を指している姿
を見ると、どんなもんだと少し興味が湧いてしまう。
﹁おし、仕上げはこの髪結い紐で髪の下の方を結ぶか﹂
﹁わぁ。それ、可愛くて綺麗ですね﹂
おやじさまが手に持っているのは、赤い紐の先に金色に輝く鈴が
2つ付いた素敵な髪紐だった。
紅い着物には良く似合うと思う。私は別として。
﹁野菊、髪の毛伸びたなぁ﹂
﹁そうですねー﹂
最初は肩に付く位の長さだった髪の毛は、今や腰辺りまできてい
る。前髪はしょっちゅう切ってるし稽古の時は後ろを縛っているが、
後は基本放置。
﹁バッサリじゃなく、少し切るか?﹂
179
そう言われるが
﹁⋮いや、まだ良いです﹂
﹁そうか﹂
髪の毛を伸ばすのは清水兄ィさまとの約束。
別に律儀に守らなくても、少し位切ってもいいのだけれど、結局
は切らずにきている。
﹁ん、これで終わりだ。はは⋮⋮別嬪だな野菊は﹂
毛の先の方でチリン、と鈴が揺れた。
﹁少ねぇが、遊女だったらきっと見世から一生出させて貰えねぇく
れぇによ。それ考えると、遊男でお前は良かったのかもしれねーな﹂
なんか微妙な例えを言われたが、ようは此処に来て良かったと言
う事だろうか。
﹁おーい、おやじさまー﹂
すると突然男の低い声が響いて来た。
この声は⋮
﹁?なんだ十義か。お前も飽きねーなぁ﹂
十義兄ィさまが、今日も今日とて縁側から青い春を見つけずに此
処へとやって来たみたいだ。
⋮すんごく嬉しいが、すんごくやるせない。
180
﹁おっ!小っせーのにえらい美人だな。んで野菊どこいます?﹂
﹁あ?目の前にいるだろ﹂
﹁は?﹂
目の前には私しかいないのに、何処に目を向けているのか一向に
視線が合わない。
なんだなんだ、私は透明人間ですか。あぁ∼ん!?
それか⋮もしかして自分で気づいていないだけで私着付け中に死
んじゃったの?
じゃあ私が見えてるおやじさまは何だ!!
このオヤジ最初から幽霊だったのか。
いや、でもおやじさまは十義兄ィさまに見えてるみたいだし。れ、
霊の中でも一番強い力を持っているとか?いやいやいや⋮⋮
んなしょーもない事を思っていると、やっと十義兄ィさまと目が
合う。
﹁野菊か?﹂
﹁なっ私が見えるのですか!!﹂
﹁馬鹿かお前は﹂
おやじさまに馬鹿と言われたが気にしない。
気になるのは十義兄ィさまの目がこれでもか、と点になっている
事。本当に点だ﹃・﹄点。
何をそんなにビックリしているのだろうか。
大体女の着物を着て化粧をちょっとしたくらいで骨格が変わるわ
けではないし普通は分かると思うのだが。
それかおやじさまのメイク術が滅っ茶苦茶凄かったかだ。
181
﹁今日は桃の節句だからな。愛理と同じく綺麗な着物を着せてみた
んだ。似合うだろ?﹂
私の背後で膝立ちになっているおやじさまが、私の頭を撫でる。
ちょっ、ハゲるって言ってるじゃーん。
おやじさまの言葉を聞いた十義兄ィさまは、また何故か苦笑いに
なっており、眉尻が下がっている。
どうしたんだろう。
﹁成長ってのは、早いですねぇ。こんなん見せられたら、いつまで
もチビ扱い出来ねぇじゃないですか。愛理の着物姿を見た時と、こ
の気分の違いは何なんだろうな。なー?野菊﹂
﹁?⋮っひょっ﹂
私の前でしゃがんだと思ったら、十義兄ィさまの片腕に乗せられ
る。
たっ高いよ!!
十義兄ィさま天月で一番背が高いんだよ!
落ちない様に兄ィさまの首をぎゅっと掴む。
首締めてたらごめんなさい!!
﹁なんだかなぁ。出来ればこのまま、これ以上花が咲くのを止めた
い位の気持ちなんだ。俺はな﹂
そう言って今度は私を持ち上げたまま、グルグルとその場で廻り
出す。
﹁ぎゃぁぁあ!﹂
182
﹁ははっ。楽しいかー?﹂
﹁いに゛ゃぁあー!!﹂
﹁楽しいよなー﹂
うぇぇえ。
183
始まりは 5年目 3︵後書き︶
次の日。
﹃わ!その額のアザ、どうしたのですか!!﹄
﹃あ、あーこれな。ちょっとな﹄
﹃喧嘩ですか?﹄
﹃喧嘩っつうか⋮⋮あいつらにお前の事話すのは当分やめとくか﹄
﹃?﹄
﹃ったく。いい大人がよー﹄
184
始まりは 5年目 4
私、今日こそ言ってみようと思う。
相も変わらず私の座布団に座り、かりん糖をモシャモシャ食べて
いる十義兄ィさまに、今日こそは言ってみようと思うのだ。
勇気、勇気を出すのだ野菊、無邪気に聞いてみるんだ。不自然な
感じではなく﹃そう言えば髪切った?﹄みたいな、さりげない感じ
でいざ!!
パぁワァ∼。
﹁あの、十義兄ィさま﹂
﹁ん?﹂
﹁えっと、あの﹂
﹁なんだ?﹂
どうした私!!何を恐れる必要がある!!
て言うかもはやこれ自然では無いよ私!!
﹁あの、そう言えばなんですけど﹂
﹁?⋮⋮あ、そう言えばな﹂
﹁そう言⋮え、はい?﹂
﹁蘭菊が今日髪の毛切ってたぞ、バッサリ﹂
﹁えっ蘭ちゃん切ったんですか!?﹂
不自然な感じでは無い﹃髪切った﹄をいただきましたー。
185
て言うか蘭菊髪切っちゃったんだ。記憶では、長くて綺麗な赤い
髪を一つにしていた蘭菊の最後の姿しか思い出せないから、想像し
てみるも少し違和感がある。
出会った時は短かったと思うのだが、あまり思い出せない。
でもきっと似合ってると思う。と言うかどんな髪型でも似合うよ、
ハゲても似合うよ絶対。
良いなぁ羨ましい。やっぱりイケメンになりたいなぁ。
﹁ついでに清水もな。肩上ぐらいだが。でも腰まであったからなぁ、
バッサリいったもんだよ﹂
﹁ええ!?﹂
清水兄ィさまが切っただと?
あの人に関しては私、長い姿しか思い浮かばないから、想像がこ
れっぽっちも⋮⋮⋮⋮⋮あ⋮⋮ちょっと待てよ⋮⋮⋮。前髪があー
で、後ろがこーで、サイドがあぁだと、きっとこーんな感じで⋮⋮。
とかまぁ想像してみたけど、4年も経ってるんだから顔付きも多
少違ってるんだろうなー。
だって今20歳だよ20歳。羅紋兄ィさまは22歳だし、宇治野
兄ィさまは25だ。こう数字に表してみると時が過ぎるのは早いな
ぁ⋮としみじみ思う。会えない時間はこんなにも長く感じると言う
のに。
秋水と凪風もどうなっているのだろうか。度々十義兄ィさまが話
してくれるも、あくまでも﹃話﹄なので、想像でしか思い起こせな
い。
﹁何だか想像が出来ません﹂
﹁そうか?﹂
﹁そ、そうですよ。十義兄ィさまは見てるから良いですけども﹂
﹁まぁなぁ﹂
186
﹁何だか一日千秋の思いです﹂
﹁ここでそれ使うか?﹂
﹃一日千秋﹄とは、1日の間にも季節が幾度も廻り、1000回
も秋が訪れるかのように、時間が非常に長く感じられる様。と言う
ことである。今か今かと待ち望む様子とでも言っておこうか。
しかし、4年の期間で細かく計算してみると365×1000×
4で1460000。つまり約146万年会っていない気分だ、と
言うことになる。
しかおも
ほ
146万年⋮なんか、ちょっと⋮⋮。長すぎて良く分からないか
ら気持ちとしては微妙だ。
﹁えーと、じゃあ。
で。﹂
この頃に 千歳や行きも 過ぎぬると 吾や然念ふ 見まく欲れか
も
﹁おー、直球だな。もう千年経った気がするから早く会いに来い?
ひと
まぁ、会いに来いの部分は別として、気持ちとしちゃ近いよな﹂
﹁十義兄ィさまは良い女いないのですか?﹂
﹁?﹂
はい!
ここでブチ込みましたー!!
自然、自然だったよね?
あーもうこれだけなのに超勇気いったよ。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
187
﹁⋮うーん⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮でも、なんか。あれ。あれ?
色々考えて気になって聞いてみた後に、冷静に考えてみると⋮恋
は地獄の吉原の元遊男にこの手の質問タブーじゃね?
ばっ︱︱︱どっどどどどっどどどうしよう!!
お客に惹かれるも、その人には夫がいるとか!結ばれない運命だ
とか!もうこの世にいないとか⋮そんなんだったらどうしよう!!
馬鹿馬鹿馬鹿野郎!おたんこナスビ!!
気になる気持ちが強すぎて全然考えてなかった。
チラリ、と兄ィさまを見てみると何やら顎に手をあてて上を向い
ている。
あ、ああ!もしかしてやっぱり天の国!
ひと
すいませんすいませんすいませんすいませんごめんなさいすいま
せんすみませんすみま⋮
﹁すいませんでしたぁ!﹂
﹁なんだ?いきなり、⋮ははっ良い女ならいたぜ﹂
﹁!﹂
畳みに額を擦り付けて謝ってみたが、笑われて終わった。顔をあ
げて十義兄ィさまを見てみてると、穏やかな顔で笑っている。
そして視線を部屋の奥の格子窓へと向けると、ゆっくりと口を開
いた。
﹁一度だけな、部屋の格子窓から見ただけなんだが。売られたのが
13で20ん時かな?黒髪の綺麗な女でさ、藤色の着物を着ててよ。
188
まだ各々の妓楼が開かない昼間の時間なのに吉原の町を歩いてたん
だよ。一人でだぜ?だーれもいないのに﹂
﹁愛理ちゃんみたいに妓楼で働いてたんでしょうか?﹂
私の質問に、首を少し捻り喉を鳴らしながら笑い出す。
﹁いや。まぁ、多分あれは吉原内の出店の奴だったんじゃないかと
思うんだけどな﹂
﹁なるほど﹂
﹁で。そいつが丁度、俺の部屋から見える位置で歩いててよ。そし
たら女が、何か布?だったかな落としたもんで、気づいてねぇみて
ぇだから声掛けたんだ﹂
﹃おぉーい!落ちたぞー﹄
﹃!﹄
﹁ってな、でっけぇ声で。なんとなく﹂
﹁なんとなくですか﹂
﹁なんとなくな﹂
﹁そしたらよ、布を拾った瞬間その女が口の横に手ぇ当てて﹂
﹃あーりぃーがーとぉーうぅー!﹄
﹃!﹄
﹁ビックリしたぜ。でっけぇ声で返して来たもんだから。なんだコ
イツ!ってな。まぁ俺もだけどよ。⋮でもなぁ、遠目だったけど、
その時の笑った顔が凄ぇ可愛くてよ﹂
思い出している十義兄ィさまはとても嬉しそうな、でも寂しそう
189
な顔をしていて。
﹁ほら、客の女は遊男に何かを求めてくるのが当たり前だろ?此方
が何かをしてやってもそれはやって当然、当たり前の事なんだ。だ
から感謝なんぞあんまりされた事も言われた事も無いわけなんだが
な﹂
﹁そんなものなんですか﹂
﹁あぁ、そんなもんだぞ﹂
そうか、そう言えば私達は奉仕する側なんだ。お金を払って遊び
に来た女達の相手をする事が仕事。寧ろお金を掛けて遊びに来てく
れた事を感謝しなければならない立場。
﹁⋮まさか﹃落ちたぞー﹄なんて言っただけで、あんな笑顔で礼を
言われるとは思わなかったんだ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁なんか、なんだろうな⋮。どんな気持ちになったのかはあんまり
言い表せ無いんだよな﹂
﹁嬉しいとかではないのですか?﹂
﹁それとは違うんだ。なんつーか⋮﹂
すると手に持っていたかりん糖を、私の口元に持ってくる十義兄ィ
さま。た、食べろってか。
⋮パクリ。
うん、美味しい。
﹁モグモグ⋮。え、と⋮﹂
﹁後にも先にも、女を見て心の臓が泣きそうになったのはあの時だ
けだったんだ。これが恋だと言える程、恋をしたワケじゃないが、
190
女を優しく抱いても、女に対してあんな気持ちになったことは無か
った。今考えると、あれ、恋だったのかもなぁ﹂
そう話す十義兄ィさまの瞳は、切ない話の筈なのに、何処かキラ
キラとしていて。
ひと
﹁うん、それが俺の良い女だ﹂
後にも先にも貴女だけ。
191
始まりは 5年目 4︵後書き︶
﹃野菊も良い女だぞ?﹄
﹃男です﹄
﹃いや、良いおん﹄
﹃男です﹄
﹃良い﹃男です﹄
﹃⋮そうか﹄
﹃はい!﹄
192
*人物紹介*
︵小さい年齢順に紹介します︶
﹃座右の銘﹄とは常に自分の心に留めておいて、戒めや励ましとす
る言葉。
のぎく
野菊 *歳:転生時、推定年齢5歳。5年目で10歳
*髪:黒
*瞳:黒
*得意科目:書道
*嫌いな食べ物:数の子
*好きな食べ物:数の子以外︵特に焼き饅頭︶
*苦手な物:怖い話とか怪談
*座右の銘:私は大人・切磋琢磨
◎おやじさまに拾われて天月妓楼で働きだす。転生したらしいが以
前の自分を全く覚えていない。性別は多分女?だったらしい。﹃大
阪のおばちゃん﹄﹃飴ちゃん﹄とか結構どーでも良い事ばかり覚え
男芸者
ている。以前の世界の知識はあるが、それに対して自分がどう感じ
おやじさま
たかも分からないので現在自分を作成中。天月では立派な
を目指しているつもり。だが最近、似非紳士に騙されている気が
してならないらしい。
らんぎく
蘭菊 *歳:初登場7歳。5年目では12歳 *髪:赤色短髪
*瞳:赤黒い
*得意科目:和歌
*嫌いな食べ物:一応数の子︵⋮らしい。︶
*好きな食べ物:胡瓜の漬物
193
*苦手な物:野菊‼‼
*座右の銘:善は急げ・当たって砕けろ
◎7歳から天月妓楼で禿をしていて、野菊とは半年差。右腕に兎の
形をした火傷の跡があるが、詳細はまだ不明。言葉で馬鹿馬鹿言っ
やかま
てる割には何かと野菊を構ってる為、結構なツンデレだと野菊には
認識されている。喧しい代表。和歌が得意な理由は、宇治野の歌の
響きが好きだったから理解しようと必死に勉強したゆえ。
しゅうすい
秋水 *歳:初登場8歳。5年目では13歳
*髪:青
*瞳:青
*得意科目:舞技
*嫌いな食べ物:好き嫌い特に無し
*苦手な物:雷︵?︶
*座右の銘:名を取るよりも実を取れ
◎7歳から天月妓楼で働いている。禿としては四人の中で一番の年
長者。その為か下の面倒見が良い。しっかりしているが、蘭菊を笑
いながら弄ったり相手が馬鹿な事を言うと冷ややかに軽ーく制裁を
与える為、野菊は本能的に怒らせないようにしている。雷が苦手?
なのか、天気の悪いそんな日は顔が能面のように固まり部屋で動け
なくなる。最近は大丈夫になったみたいだが、雷自体が怖いのかは
不明。
なぎかぜ
凪風 *歳:初登場8歳。5年目では13歳
*髪:銀
*瞳:灰色
*得意科目:囲碁
*嫌いな食べ物:油揚げ
*好きな食べ物:特に無し
*苦手な物:?
194
*座右の銘:あだ花に身はならぬ・後悔先に立たず
◎秋水より数日遅れで天月妓楼に入った為、秋水とは同期。彼とは
何かと二人でタッグを組むことが多い︵主に蘭菊に対して︶。囲碁
が好きで得意な為か、頭が良く廻り、意外と策士タイプと言える。
ターゲットをジワジワ追い詰めるタイプとも言えよう。
トイレ
野菊に関しては何かと意見を委ねる事が多く、度々彼女を悩ませて
いる。更に、もし厠に野菊が1日行かないと言ったら、笑顔で﹃じ
ゃあ僕もね﹄と言い出す位。意外とチマいお仕置きをする。
きよみず
清水 *歳:初登場15歳。5年目では20歳
*髪:黒。腰までの長髪。だが現在は肩程
*瞳:黒
*身長:178
*得意科目:箏
*嫌いな食べ物:練り物
*好きな食べ物:○菊
えんぜんいっしょう しょうじ
*苦手な物:無垢な子ども︵あの子は別だよ︶
*座右の銘:嫣然一笑・小事は大事
えんま
◎天月妓楼の花魁。妓楼に入ったのは8歳。穏やかで物腰が柔らか
く人気があるが、天月では密かに﹃閻魔様﹄と皆に思われている。
腹の大分下の方に横に沿った3つの線のような傷跡がある。触られ
たり、それについて何か言われたりすると相手に対して何故か拒否
反応を起こしてしまう為、風呂では常に腰に布を巻きつけ目立たな
いようにしている。客と寝る時にどうしてるのかはまた後程。
らもん
羅紋 *歳:初登場17歳。5年目では22歳
*髪:緑。肩位だったが今は背中程
*瞳:黒。垂れ目で右下には泣き黒子
*身長:178
*得意科目:三味線
195
*嫌いな食べ物:茸
*好きな食べ物:甘い物
*苦手な物:茸以外に特に無し
*座右の銘:押して駄目なら押し倒せ
◎天月妓楼の花魁。妓楼に入ったのは7歳。同じく花魁の清水や宇
治野とは仲がとても良い。言葉遣いは少々荒いが兄貴肌の為、他の
遊男とも上下関係無く親しくしている。楽しいことが好きで、暑い
夏の時季になると皆を集めて怪談話大会を開く等、一部の者には傍
迷惑な行動を起こす。装飾品を沢山つけていて、両耳には耳飾りを
付ける為の穴を針で2つあけている。
うじの
宇治野 *歳:初登場20。5年目では25歳
*髪:紫。現在は肩程
*瞳:黒。ちょっとつり目
*身長:180
*得意科目:和歌
*嫌いな食べ物:好き嫌い無し
*苦手な物:無し
*座右の銘:仏の顔も三度まで
◎天月妓楼の花魁。妓楼に入ったのは8歳。花魁の中ではキャリア
トップで、本編ではまだ語られていないが、実質天月の頂点に君臨
している。
基本誰に対しても敬語。多分キレても敬語。
野菊からは﹃お母さんみたいな人﹄だと思われている。野菊達小さ
い禿が良いことしたり、稽古で良い出来を披露すると﹃飴ちゃん﹄
をあげる習性がある。たまに思った事をズバッと言うので、少々つ
り目のせいかキツく見えてしまう事あり。
じゅうぎ
十義 *歳:初登場32歳。5年目では37歳
*髪:水色。短髪↓ミディ↓短髪の繰返し
196
*瞳:蒼。目尻には笑い皺
*身長:185
*得意科目:舞技
*嫌いな食べ物:無し
*好きな食べ物:金平糖
*苦手な物:ある意味女
*座右の銘:一期一会・笑う門には福来たる
◎天月妓楼の遊男。入ったのは13歳。器量良しだが年齢が高かっ
た為、花魁の教育は受けられ無かった。なのでお金をそれほど持っ
ていない客にとっては、お金を花魁程払わなくても、とても良い男
の一夜を買えると言う事で引っ張りだこだったという。年季明け近
くになっても逞しい体つきに、大人の色気が増して35になるその
時まで客足は絶えなかった。遊男を辞めてからは、天月の飯炊きと
して働いている。人をからかうのが大層好きだが、自分がからかわ
れている時はその自覚無し。初恋は20歳。
妹がいたと最初の方で語っている。
おやじさま *歳:初登場48歳。5年目では53歳
*髪:灰色︵しらがじゃね?︶
*瞳:黒
*座右の銘:可愛い子には旅をさせよ
いき
◎天月の楼主︵忘八とも︶。野菊を拾った人。器量の良い野菊を見
て﹃色を売らない花魁も良いかもー﹄と粋なんだか馬鹿なんだかよ
く分からない考えをする人。彼女の名付け親になり、野菊が大きく
なるにつれて親心が出てきたのか最近では、20で年季明けを勧め
うそつきおやじ
たり、次の楼主にならないかとジョブチェンジを勧めたりと、度々
野菊を自分の領域に持っていきたがる。野菊からは﹃詐欺師﹄と認
識されているも本人は知らない。
本当は野菊を自分の子供にしても良いとは思っているのだが、出来
ない理由はこの世界の吉原の﹃ある﹄規則に引っ掛かる為。
197
妻がいる。子どもはいない。
198
*人物紹介*︵後書き︶
﹃切磋琢磨﹄
学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること。また、友
人どうしで励まし合い競い合って向上すること。
﹃善は急げ﹄
良いと思ったことは、ためらわずただちに実行するべきだというこ
と。
﹃名を取るよりも実を取れ﹄
実益を伴なわない、表面上の名声を得るより、実質的な利益を得る
方が良い。
﹃あだ花に身はならぬ﹄
見かけは立派でも、実質が伴ってない場合には、よい結果が得られ
ない、ということ。
﹃後悔先に立たず﹄
すでに終わったことを、いくら後で悔やんでも取り返しがつかない
ということ。
﹃小事は大事﹄
些細な事が大事を引き起こす例は少なくない。小事だといって、物
事をおろそかにしてはいけない。
﹃嫣然一笑﹄
にこやかに笑う。︵嫣然は艶やかに笑う様子。一笑は一度だけ笑う
199
こと︶
﹃押して駄目なら押し倒せ﹄
そのまんま。
﹃仏の顔も三度﹄
どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること。
﹃一期一会﹄
一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。
﹃笑う門には福来たる﹄
明るく朗らかにいれば幸せがやってくるという意味。
﹃可愛い子には旅をさせよ﹄
子が可愛いなら、親の元に置いて甘やかすことをせず、世の中の辛
さや苦しみを経験させたほうがよいということ。
200
始まりは 5年目 5
5度目の春を迎えている今日。
今の季節が何なのかが、お馬鹿にでも分かるように﹃今は超春な
んだぜ!!﹄と知らしめる感じで桜があちこちで満開となっている。
なんてのは十義兄ィさま情報で、外に出ていない私は実際に見て
いないからよく分からない。庭の桜の木だけだ。でもこれでも私は
十分。⋮十分ですよ。
そんな春爛漫だった今日の空は、もうお星様が瞬いている。
あーぁぁ、花見したいな。花見したいな。
いや、もう夜なんだけどさ。
大好きな焼き饅頭食べて、春菊の胡麻和えと一緒に塩気のあるお
にぎりを頬張り、阿月の茶屋の美味いお茶を飲んで、次はニシンの
煮付けに菜の花のお浸しでしょ∼、うーん春だねぇ。
うぉぉ、よだれが。
⋮なんか食べてばっかだな、花より団子じゃん。
いやでも皆そんなもんだよね。
と、そんな事を思いながら縁側に寝っ転がり、もう暗い空をもう
一度見上げる。膝を立て、単衣から剥き出しになった左足に当たる
夜風はとても涼しくて気持ちいい。
今日は稽古が休みだった。昨日も休み。
実は昨日から2日かけて、天月の客を夜桜の下でもてなす為、ボ
201
ディーガード兼見張り役を沢山つけて、妓楼の遊男達が客と吉原の
外で花見をしているのだ。
なのでこの2日間、天月妓楼内での営業は停止している。その為、
おやじさまは準備で忙しくお昼から妓楼で指示を出していた。
だから放置の私は自主練になるワケで。
十義兄ィさまも料理を作って運ばなければならないので駆り出さ
れている。
この花見も、最近、と言うか去年から行われるようになったのだ
が⋮。徐々に色んな事が有りになってきて、何だか困惑する。おや
じさまの緩みと共にやっぱり緩くなっているんだよきっと。
夜桜の花見は当然タダでは無く、客がお金を払わないと行えない
物。この2日間の前から妓楼のほうへ特定の遊男と花見がしたいと
申請しなければならない。しかも遊男がその夜桜でつける客は一人
だけなので早い者勝ちだ。
天月は高級妓楼。良い男の宝庫なので普通の遊男でも、其処らの
妓楼の男より数倍人気で。お金がちょっぴり高くとも、天月への客
による夜桜申請の率は高い。天月の全員に必ず一人は﹃夜桜を一緒
に見に行きたい﹄と言う客がいるのだ。素晴らしい。
他の妓楼では半分いるかいないかなので、その差は歴然。
そうすると、何となくこんな考えが頭を過る。
あれ。もしかして、おやじさまは皆を買う時に結構選り好みして
いるんじゃないの。中々良い男になりそうな子じゃないと買わない
んじゃないの。
なんて恐ろしいオヤジ!!
と思っていたのだが、どうやらそうでは無いらしく。
202
十義兄ィさまの話では、皆最初は器量がよろしく無い者も当然い
た。本当に遊男になって稼げるのか?と言う子が当然に。
だが。天月の楼主、おやじさまの教育を受けた花魁、遊男達に付
いて教わっていく内に、だんだんと何故か外も中身も良い男になっ
ていくのだと言う。
そりゃ各々個性はありますが。
あのおやっさん、イケメン製造機か!!と話を聞きながら思った
ものだ。
﹁むぅー行きたーいなーぁ﹂
まだ引込新造の秋水達はお留守番かなぁ。
ちなみに遊男達が桜のある所まで移動する時は歩きで、屈強なあ
んちゃん達がデッカくて長ーい布を棒につけた物を持ち、遊男達の
周りを自分達も歩きながら覆うらしい。一応逃亡防止とあまり他者
に遊男達を見させない為である。
花魁になると籠で運ばれる為、歩いては行かない。これも逃亡防
りく
止と見世物にしない為。結構厳重なので﹃そんな簡単に花魁が見れ
ると思うなよ﹄と言う事だろうか。
⋮お姫様か!!
きょうか
花魁の3人はきっと馴染みの雪野様とか橋架様、淕様とかが申請
してるんだろうな。と言うかおやじさまが漏らしてたし﹃えーと、
203
花魁組はいつもの客か⋮こっちは、﹄みたいな。
ちょっと思ったのだが、あのお客の人達に3人共いつか身請けさ
れたりするのかな。
だって花魁である人に、いつもより多く払ってでも一緒に花見に
行きたいだなんて。
一人の遊男を買うのに天月では1度で2両∼3両︵約25万円︶
掛かる。けして安くは無い数字で、他の妓楼では大体二分金∼1両
︵5万∼10万円程︶になる。一方花魁は桁違いで、10両∼30
両︵150万∼400万︶。バーン!と一気に跳ね上がる。とんで
もねぇ数字ですよ。
そして身請けの金額も馬鹿にならない。
身請けには遊男の身代金を全額払う必要があり、普通の遊男であ
れば40∼50両︵1千万円くらい︶、対して花魁の身代金は50
0∼600両︵7千5百万円くらい︶であり、非常に高い。
身請けとは、もはや金と愛の成せる業である。
雪野様達を馴染みと呼んでいるが﹃馴染み﹄とは、花魁である兄
ィさま達がその客と一夜を共にしても良いと認めた客の事である。
客が馴染みになるまでには、まず最初に三回花魁を買わなくては
いけない。つまり3日通わなくてはならない。床入り︵閨︶はまだ
出来なくて、飲んだり食べたりするだけである。
だがこの期間はとても重要。この間に花魁は客を見て、枕を共に
しても良い女なのか否なのかを吟味するのだ。
そして4回目の訪れの際、花魁がOKを出したら床入りが出来、
馴染みとなれる。しかしNOだったらそれまで。
このルールは普通の遊男には適用されない。こんな事をしなくて
も1日で床入りするのが常で、遊男側からの客への好き嫌いは関係
204
無い。
だから花魁は幾らか意見が尊重される身なのである。
馴染みは別名﹃花魁の妻﹄。
天月では公認の夫婦みたいな物になったと言う事。
好き同士、と言う事。
もしかして清水兄ィさま達、馴染みの方々に恋をしてたりするの
かな⋮。いや、うん、人間だもの。しててもおかしく無いよ絶対。
もしそうだとしたら、どうかその恋が叶うと良いのに。擬似の夫
婦なんかじゃなくて本物の夫婦に。なら秋水や凪風、蘭菊もいつか
はきっと⋮他の兄ィさま達も。
﹁むぅ∼ぁ∼﹂
くうぅぅ∼っ。
想像しただけで、ちょっぴり寂しいけれども。
部屋の縁側で仰向けになり、寝転びながら手足をバタバタさせる
私。
いやだな、ひっくり返ったダンゴ虫じゃないか。
﹁わ。綺麗﹂
ダンゴ虫な自分に嫌悪していると庭の桜の少し上に綺麗な三日月
が浮かんでいるのが見える。満月も好きだが、私は三日月が好きだ。
特に理由は無いが、しいて言えば目に優しいと言う所だろうか。こ
の世界の満月は目に眩しくて光り過ぎている。
だから三日月くらいが私に丁度良い。
205
ポトっ
﹁?﹂
三日月をジーっと見つめていると庭の方から何かが落ちた音がし
た。視線を向けてみると庭の塀の近くに、やはり何かが落ちている
のが見える。
ん?
﹁⋮見ぃ、えない﹂
遠目では分からないので庭専用の履き物を履いて見に行く事にす
る。
近づいてみれば、⋮うーん。暗くて色がハッキリしないがピンク
?白?赤?色の綺麗な花の束が1枚の紙と共に落ちていた。そして
塀に近づいているので外の音が少し聞こえる。なんか人がいる気配
が⋮。
な、何だろう。と耳を塀にくっ付けてみる。
タッタッタ
︷よィっせ!よィっせ!︸
︷よィっせ!よィっせ⋮ィっ⋮⋮⋮よ⋮ィ⋮︸
⋮え。今の何?
よィっせ!って何!!?
206
な、何か運んでるのかな。
いやいやそれよりも。
て言うかこれ⋮。と視線を再び自分の手にやれば落ちていた花と
不審な紙。
丁寧に紙は折り畳んであり、花の束に紐と一緒にくくりつけてあ
る。
どうすれば良いのこれ。
何か怪しいよ、危ないよ。綺麗だけどね!!と言うか誰が落とし
たのさ。︷よィっせ!︸の人?⋮やっやだやだやだ!
気持ち悪いよ!!
てか誰だよ!!
あぁでも⋮⋮きに、気になるなぁ。
怖いもの見たさってやつかなこれは。
ち、チラッと覗くだけ覗いてみようかね。うん、大丈夫。大丈夫。
指先で紙の端っこを摘まみ、カサ⋮とそっと紙を開いてみる。
﹁⋮!﹂
﹃本当は外の桜を見せてあげたかったよ。枝は折れないから、代わ
りに桜草を君に。 清水、羅紋、宇治野﹄
207
始まりは 5年目 5︵後書き︶
後日。
﹃野菊﹄
﹃十義兄ィさま。お花見はどうでしたか?﹄
﹃ん?うーん。良かったぞ﹄
﹃あの、花魁の兄ィさま達にお花をありがとう。とこっそり言って
おいて貰っても良いですか?﹄
﹃おぉぅ⋮マジでやったのか﹄
﹃?﹄
﹃いや。うん。文のやり取りは禁止だからな。隠しとけよ?ちゃん
と﹄
桜草:花言葉は﹃初恋﹄﹃淡い恋﹄﹃純潔﹄﹃希望﹄﹃無邪気﹄﹃
少年時代の希望﹄﹃長続きする愛情﹄﹃可愛い﹄﹃少女の愛﹄﹃貧
欲﹄
沢山あります。色にもよりますが。
208
始まりは 5年目 6︵前書き︶
ほぼ蛙。
もう蛙。
209
始まりは 5年目 6
最近、悩みがある。
﹁ゲコゲコ﹂
朝から蛙がゲコゲコ鳴いている。
﹁ゲーコゲーコゲコゲコ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ゲコっゲコゲコゲコゲコーゲコっ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲー!!!!﹂
うるさ!!
うるさっ!!
何、まだ良いメス見つかんないのお前。
と庭にいる蛙を半目で見る。
蛙が鳴く理由は求愛の為の鳴き声、他のオスヘの縄張り意識を高
める声だと言う。
今は繁殖期。
あの庭の石の上に1週間前からいる緑のアイツは、あそこでずー
っと鳴いている。そりゃ休まず鳴いてるって事は無いんだけど。
健気なんだか馬鹿なんだか知らないが、あの蛙はそこからずーっ
210
と動かない。
全く、鳴くだけで可愛子ちゃんが寄ってくると思ったら大間違い
だかんな、そこの蛙よ。ちょっとは自分から行動しなきゃだよ。
蛙の中でもイケメンって言うなら分かるけども。
﹁ゲコっ﹂
ゲコっじゃねーよ。
昼間の稽古の時間ならこの部屋にいるわけでは無いから声は聞こ
えないけど、朝起きた時や、夕方にここへ戻ると必ず鳴いているか
ら煩いもんで。
しかし⋮鳴き終わると言う事はつまり、相手が見つかりメスとチ
ョメチョメしてると言う事になり。なんだかどっちにしろ複雑な気
分になる、蛙相手に。
独り身の寂しい奴を見つめ、私は言う。
﹁早く良い相手が見つかるといーねぇ﹂
﹁ゲーコ﹂
分かるのか。
⋮いやいや。ちょっと待った、話が逸れた。
私の悩みは蛙が煩く鳴いている事ではない。それよりとても深刻
な物だ。だいたい緑の物体がギャースカ騒いでるのなんか一々気に
してたらこの日本で生きて行けまいよ。
蛙なんぞ目では無い。
211
私の悩み。
その私の悩みの種は育たない事を知らずに、きっとこれからも徐
々に。いや微量にかもしれないが大きくなっていく事だろう。
私が生きている限り。
朝、単衣から長着へと着替えている途中顔を下に向ければ、目に
入ったのは胸周りの肉。ほんのちょ∼∼っとだが筋肉ではない肉が
ひんぬー
付いているのは確かで。10歳だからまだ大丈夫∼と高を括ってい
た私は甘かった。金平糖より甘かった。
と言うか、発育ってもう始まってるんだ。
いや、でももしかしたらこれ以上育たなくて貧乳かもしれないし、
あんまり気にしなくても良いのかもしれない。
⋮とは思うものの、取り敢えず対策として一応考えていた案を本
日実行しようと思う。
﹁おやじさま、サラシを私にください!!﹂
﹁は?﹂
そして朝食時、いきなり﹃サラシぃ!!﹄とそう言った私に間抜
けな声をあげたおやじさま。
私の対策とは、そう。サラシを胸に巻き付ける事。
取り敢えず絞めて絞めて絞め上げれば、ちょっとは遅らせる事が
出来るだろう。
勘違いしないで欲しいのだが、別に胸が嫌いなワケでは無く、お
仕事の際に邪魔なだけなのだ。
212
﹁お、む。胸がですね、が、あの⋮いや。あの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あー。ちょっと待ってろ﹂
胸が⋮としか言っていないのだが、大体何なのかを察したおやじ
さまは朝食の席から立ち、暖簾の方へと消えていった。
⋮察しの良い男は素敵だ。良い男だよ本当。
暫くしておやじさまが戻ってきた。
手には白い布が握られている。⋮おぉ。
﹁これで良いか?﹂
﹁はっはい!ありがとうございます﹂
では早速。
グィ、
?
グィっ⋮グググっ⋮
﹁⋮あの、おやじさま﹂
﹁なんだ﹂
グィ︱
﹁あの、その、﹂
﹁なんだ﹂
213
﹁てっ手を!ですね。布から離して頂けたらと⋮﹂
何故かちぎれそうな位引っ張っているのに私の元へ来ないサラシ。
原因はこの厳ついオヤジの手がプルプル震えながら力強く掴んで
離さないせいだ。
⋮何してんのこの人。
なんか片手で目を覆って横向いてブツブツ言ってるし。
良いから早く布からその手を離して頂きたい。よこしなさい。
﹁おやじさま﹂
﹁⋮なんだ﹂
﹁︱︱あ!野世さんだ!!﹂
﹁なにっ!?﹂
隙あり!!
﹁?いねぇーじゃ⋮⋮あ﹂
﹁サラシありがとうございます!﹂
野世さんとはおやじさまの奥さん。
奥さんの事は知っているが、一度も見た事は無い。おやじさまの
家に住んでいると言っても、奥さんは遊男はもちろん禿の私の前に
も表れた事は無く、おやじさまも意図的に出さないようにしている
らしい。何でですか?と聞いたらあまりそう顔を出すのは良くない
んだって言われた。
いやいや。﹁秩序がぁ!!﹂とか言っていた頃のおやじさまが言
ったなら分かるけども。何でそこ今真面目なの。
けど、お陰で騙し打ちできました。
ありがとう、まだ見ぬ野世さん。
214
﹁⋮⋮⋮⋮毎日、稽古の時にも何時でも何処ででも着けるようにす
るんだぞ、風呂は別だが。慣れねぇとだからな﹂
してやられたおやじさまは、どこか意気消沈気味で。
⋮まさかだけどサラシすることに反対とかじゃないよね。
そうだとしたら、それはそれはオカシイ話ですよ。
﹁大丈夫です!﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
5年も芸を仕込み花魁として修行させて来たため、今更何かを引
くに引けなくなったおやじさまであった。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱
﹁ゲコゲコ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
まだ奴はいる。
﹁まだ見つからないのかい﹂
﹁ゲーコ﹂
そうか。
まぁ、婚活って大変そうだよね。
215
蛙の世界も厳しいもんがあるのか。
稽古が終わり風呂に入った後、縁側からこの蛙に話掛けるのが日
課になっている私。
とか笑顔で
蛙に話掛けても﹃ゲコゲコ﹄としか言わないのだが、何故か話せ
ているような気がしてならない。
とか言ったら凪風辺りには﹃その頭、大丈夫かな﹄
言って私の頭をゴンゴン叩きそうだな。
⋮うわぁ、想像の中の凪風がやけに楽しそうで怖い。
と、取り敢えずもう寝るかな。
おやすみチャッピー。
﹃ゲコ﹄
おおー。
チャッピーが誰の名前だか理解していらっしゃるのね。チャッピ
ー。
216
始まりは 5年目 6︵後書き︶
﹃俺はそろそろ限界だな﹄
﹃俺もそろそろ限界ですね﹄
﹃私はもう限界だから﹄
さて、何の話でしょうか。
﹃おい見ろよ。良い大人がだらしねーな﹄
﹃じゃあ大丈夫なんだ蘭菊は﹄
﹃いや。ちょっと待て、だってこいつ一番一緒にいただろ﹄
﹃あー﹄
﹃おい!何だよその顔﹄
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
初登場時の年齢で
野菊:幼稚園児
蘭菊:小一
秋水:小二
凪風:小三
清水:高一
羅紋:高三
宇治野:大学二年
十義:高校教師︵体育︶
おやじさま:野菊のパパ
で、たまーに家族パロとか御近所パロとか頭の中で妄想します。︵
217
しょーもない︶
218
始まりは 5年目 7
季節は廻り、もうすっかり庭の木の葉は黄色く茶色くなっている。
木の下には赤やオレンジ色の点々が沢山落ちていて綺麗だ。ずっ
と見ていたい気分。
でもそのまま放置するわけにはいかない。
ので、今年も私の手にはおやじさまから与えられた魔法のホウキ
が握られている。
ぷふふ⋮蹴散らします。
﹁っしゃぁ!﹂
﹁ゲコ﹂
あの蛙、チャッピーはまだこの庭にいる。
結局嫁はあれから見つからなかったらしく、この庭に住み着きだ
した。なんて図々しい奴。そして悲しい奴。
繁殖期も過ぎ、つまりお見合いパーチーの時期は過ぎた為︵チャ
ッピーは会ってもいないけど︶鳴きはしないが、哀愁漂うあの小さ
い背中には未だ﹃オレはまだいける。オレはまだいける﹄と言う声
が聞こえてきそうでもない。
﹁はねだ∼﹂
ホウキで葉っぱを蹴散らしながら空を何となく見上げれば、鳥の
羽根のような雲が浮かんでいる。
空の雲は一期一会。明日見る雲は今日と同じ姿をとることはない。
そう思うと、この一時一時が大事な出会いであると言えるのは笑い
219
事ではなく。
このチャッピーとの出会いも、私の人生にとって一つの大事な出
会いだったのだろうか。何かそう思うと名付けた時より余計に愛着
が湧いてくる。冬眠の時期に入ったら寂しくなるなぁ。
﹁んんー﹂
ホウキを下に置いて、グゥーっと手を上にあげて伸びをする。
﹁高い高ーい﹂
今の時季の空気はとても澄んでおり、空が高く高く見えて。自分
がちーっぽけな、ちゃっちぃ存在なのだと自然に感じさせられた。
⋮あ、赤トンボ。
﹁ニャー﹂
ん、ニャーぁ?猫ちゃんか。
どこだ?
此方へ来て5年、当然の様に聞いているようで今まで聞いた事の
無かった猫の鳴き声が聞こえた。
とっても可愛い声だ。
ガサ、
﹁ニャア﹂
﹁あらま﹂
220
ガサガサ⋮と草の影から出てきたのは小さな三毛猫。赤ちゃんが
少し大きくなったくらいの本当に小さな猫ちゃんだった。
薄汚れていて、本来なら白い部分のはずの毛並みが灰色と茶色を
混ぜたような色をしている。黒と黄土色のマーブル柄は少し控え目
で、この猫の性格を表しているよう。
いや⋮性格なんてまだ知らないけどね。
でも背中には鳥の翼の様な模様が2つあり、翼を今は仕舞っている
様な感じで面白い形をしている。
﹁おいでー猫ちゃん﹂
﹁ニャー﹂
長着の裾を抑えながらしゃがんで、招き猫みたいに手招きをする。
しかし寄ってくる気配は無い。
こんな時猫じゃらしとかあったら良かったのになぁ。おやじさま、
猫じゃらしが生えると直ぐに引っこ抜いちゃうから。もう。全くダ
メじゃないか。
ピョンっ
﹁ゲコゲコ﹂
﹁ニャア﹂
しゃがんだままブー垂れていると、いきなりチャッピーが私と仔
猫の間に飛んできた。おお、どーしたんだ。何を思って来たんだ君。
私に背中を向けて猫と対峙しているが、何かしようってのか。﹃
ゲーコゲコ﹄﹃ニャーアニャ﹄と鳴き声合戦が始まっているが、こ
れはもしや話し合いをしているのか?
交互に鳴いている姿はそうとしかとれない光景で。
221
なんだこれ。
私と蛙と仔猫。
異色ブレーメン?
﹁ニャーミー﹂
﹁ゲーコ﹂
﹁あーあーあー﹂
ちょっと混ざってみた。
⋮だって蚊帳の外は寂しいんだもん。
暫くすると話し合いが終わったのか、前の2匹が私の方を向いて
来た。
なにこれ、なんなのこれ。
もうこれ人の言葉とか喋れるんじゃないの!?
すると仔猫が前足を踏み出して私の所へ近づいて来た。
チリンチリン、
﹁これ?﹂
﹁ミー﹂
猫ちゃんが前足で触り鳴らしたのは、私の髪下に付いている小さ
な鈴。
桃の節句でおやじさまにもらった、赤い紐に小さな鈴が付いた髪
結い紐だ。
222
ちょっとお気に入りのため、たまに髪にくくりつけているのだが、
どうやら猫ちゃんもコレが気に入った様子で、猫じゃらしでじゃれ
るように鈴にパンチを喰らわしている。
かぁわいい。
﹁付けてあげようか﹂
﹁ミャァース!﹂
チリン。
おー、凄く気合いの入った返事ですこと。
またまた可愛らしい。
そっと首を絞めてしまわないように首に結びつける。
チリンチリン、と仔猫の首で揺れる2つの小さな鈴。赤色の紐が
どことなく上品な色合いを出していた。
?ん⋮この猫の姿⋮、どこかで見たような⋮。
思えばあの翼模様にも既視感がする。
今じゃない。
ずっと前に。
前?前ってこの世界ではないあの世界で?
﹃ほら、おいでー?﹄
途端に頭を過ったのは、何かに手を差し出す桜色髪の女の子の後
ろ姿。
知り合い⋮?
でも桜色髪の子の知り合いなんか私にはいない。この世界で自分
223
以外の女の子にだって会ってもいないのに。客は別だけどさ。いた
としてもまだ見ぬ愛理ちゃんぐらいだ。
それに前の世界での記憶では友達の事も親の事も、自分の事も思
い出せていないのに。
うぅ、何か気持ち悪い⋮。
あ、いや、猫じゃなくて自分がね。 ﹁ほーら、抱っこしてあげるよ∼﹂
取り敢えず気分転換にじゃれてみる。
やぁ∼しゃやしゃ。あぁ∼しゃあしゃ。︵ムツゴロ○さん的な︶
高い高ー⋮⋮⋮!
嘘!えっ、
﹁オス!?﹂
抱っこした瞬間、腹の下のすべてをさらけ出した猫ちゃんを見て
思わずビックリしてしまった。
三毛猫のオス!?
あの30000匹に一匹しかいないとされている三毛猫のオス!?
た、たたた大変だ。
こんな稀少種がなんでここに。
三毛猫のオスは滅多にいなくて、殆どがメスである。
その稀少ゆえ、今の江戸時代では相当な高値で売買されているの
だ。船乗りにも大変人気で﹃雄の三毛猫が乗った船は沈まない﹄と
も言われ、拝められているらしい。根拠も無いのに。
224
そして招き猫のモデルにもなっており、福の神様扱いである。
なむまんだ∼なむまんだ∼。
⋮待て待て。
この猫ちゃんどうしよう。軽ーい気持ちで首輪的な感じで赤い紐
付けちゃったけど、仔猫ちゃんにとったら凄く不味いよね。
外に出たときに目立って、直ぐ人間に気づかれてしまう。そして
雄だと分かったら売ろうと躍起になってしまうだろうよ⋮。
私でさえ、変な既視感を覚えてしまう不思議な猫ちゃんだから。
折角付けたけど⋮外すかなぁ。
﹁ニャニャニャ!﹂
﹁えー﹂
手を伸ばし赤い紐を取ろうとしたら、避けられた。
拒否か。拒否なのか。
でもね、付けてたら目立っちゃうんだよ。
売られて売られて流されて置物にされちゃうんだよ。
﹁ニャーン﹂
スリスリ。
そう目で訴えていたら、避けていた猫ちゃんが此方に近づき、私
のくるぶし辺りを頭でスリスリし出した。
⋮きゃっキャワうぃー!!
小っちゃい生き物が私の足にピットりとくっついて!!もう、も
う⋮
225
﹁おやじさま!!﹂
﹁おー、掃除終わったか?昼飯に﹂
﹁この猫ちゃんを飼いませんか!!?﹂
﹁は?﹂
交渉スタート。
226
始まりは 5年目 7︵後書き︶
﹃この子雄ですよ﹄
﹃よし!!鮭をやれ!!﹄
2秒で終了。
227
嘘つきおやじ︵さま︶の拾い物
俺が野菊を拾ったのは48の時。時期的にはまだ年が明けて間も
ない頃だった。
部屋で煙管を吸いながら一休みしている時、直ぐ外に人がいる気
配がし覗いてみると妓楼の裏で見つけたのは小さな童子。しゃがん
で俯いていたので、顔は直ぐには見えなかった。
﹃っふぇ﹄
あのおちびが泣きそうな声をあげていたのを今でも覚えている。
声を掛けると顔をあげたので、どれ⋮と観察してみるとかなりの
美童だった。
髪は肩程までの鴉の濡れ羽色、瞳は夜空の黒と星をそのまま映し
たように綺麗な輝きを放ち、長い睫毛がそれを守るように覆って這
えている。鼻筋がスッと通った目鼻立ちだ。中性的⋮と言った方が
しっくりくるだろう。
肌の色も余程白いのか、薄暗い中でもボゥ⋮と淡く光っていた。
白いと肌って光るんだな。48年生きてきて初めて見たぞこんな
やつ。清水も結構白いが、比べるとこの童子の方が白いだろうな。
とビックリしたものだ。
中性的、と言ってもプックリと膨れた白饅頭のような頬に、ぽて
っとした紅い唇。全体の雰囲気からするに女の童子だろうとは勘づ
いた。
まぁ、普通は下を確認しなきゃ分からんだろうが俺を舐めちゃい
228
けねぇよ。今まで何人の禿を見て、男を見て育てて来たと思ってん
だ。
ただ、年齢まではあやふやで、本人も歳がわからないと来た。し
かも名前も分からないだと。
一体どんな親に育てられたんだ?躾はこの童子を見る限りしっか
りとしていたようだが⋮。
とまぁ、兎に角謎だらけの奴だったんだ。
﹃吉原童養禁厳﹄
と言う決まりが、この吉原にはある。
吉原内で身寄りの無い子供を見つけても、養ってはいけない。と
言う物。
これが出来たのは約10年前。
ある妓楼の主が吉原内で小さな子供を拾って養ったのが始まりだ
った。
実はその子ども、違う妓楼で禿として働いていた子どもで、逃げ
出した先で拾ってくれたのがその妓楼の主だったのだ。
しかし運が悪かったのか、後にその子どもを拾い主の家で見掛け
た元の妓楼の所の男衒が﹃うちの禿だ﹄と元の妓楼の楼主に報告し
た事で一悶着起きることになる。
大層その子どもを可愛いがっていたので今更妓楼に返すことなど
出来ない拾い主と、その子どもをお金で買った妓楼の楼主の闘い。
じゃあ拾い主がお金を払えば良いだろうが、と言いたいところだ
229
がそうポンポン金は出ない。
中々決着がつかない事態に、ついには殺傷事にまで発展してしま
った。
手を出したのは金で買った楼主の方。被害者は子どもで、刀で斬
りつけられ傷も深く死んでしまった。
だが、斬り付けた楼主が罰を受ける事は無かった。
上は楼主を裏切り逃げ出した子どもが悪い、と見たのだ。おかし
いったらねぇ。殺したんだから何らかの罰は受けるべきだと、その
当時は話を聞いて思ったもんだ。
そしてもう2度とこんな面倒事が起きないように、吉原を仕切る
役処が出したのが吉原童養禁厳。
その年から役人がひと月に一度各々の妓楼に調査へ来るようにな
ったのだ。他の妓楼の子や未確認の子どもを養い隠していないかを。
仮に他の妓楼で働いてなどいない子だったとしても規則に反する。
見つかった時点で、子どもは吉原の外に放り出されて放置され、
隠していた奴は罰を与えられる。
理不尽だろうが、此処は吉原。普通じゃないのは当たり前。
なんで、この際働かせてみようと思った。野菊を禿として。
飯炊きには小さ過ぎてなれねーし、裏の仕事をさせようにもあま
りに小さ過ぎる。だから禿として働かせるのが妥当だろう。規則に
も引っ掛かってないし、身寄りのないチビをほっとくわけにもいか
ん。
しかもかなりの器量良しなもんだから、今のうちから仕込んどき
ゃ色を売らない花魁も有りだろう。それに実際一生色を売らずとも
稼いでいた花魁はいたから無理な事では無い。その分本人の力量に
230
かかってくるが⋮。
そう思うと何だか此れから先が楽しくなって、つい口角が上がり
笑ってしまった。
野菊には芸者と言ったが、俺は最初から花魁にする気満々だった。
すまん。
騙す形になってしまったが、この時は将来が楽しみになっちまっ
て。
﹃おやじさまー!﹄
﹃おー、なんだ﹄
だが、段々大きくなっていく内にまるで自分の子どもの様に思え
てきてしまったのは誤算だった。今まで数多くの禿のチビ達を育て
て来たから、そんな思いになってしまったのは自分でもビックリで。
名前を付けたせいか、5歳っつー小っちぇ小っちぇ頃から見てき
たせいか、妻との間に子どもが出来たら﹃野菊﹄と命名しようとし
ていた名前を付けたせいか。
何が原因なのかは分からない。
不思議な感じだった。
野菊が7歳になった頃﹃楼主にならないか?飯炊きでもいいが⋮﹄
と話を持ち掛けた事がある。7歳の子どもに何言ってんだとも思っ
たが、徐々に芸事の才能を開花していくチビに何となく焦りを覚え
てしまった上での発言だった。
それにどんなに中性的な美貌を持っていたとしても、いつかは限
界が来る。
しかし養ってはいけないから、今までの着物代も食事代ももろも
ろ野菊自身が稼がなくてはいけない。もう二年も経っているので、
もう少し大きくなってから飯炊きとして働かせても裏の仕事をさせ
231
ても金額が合わない。
働くのと同時に日々の食事や身の回りの全部の物を天月でまかな
っている為、その分の金を一々引いていたら何時まで経っても少し
ずつしか中々返金が出来ない。帳簿をいじってやりたいが、役人の
調査もあるため簡単にはいじれない。
だから5年、花魁として働かせて稼がせれば良いと思ったのだ。
飯炊きよりは数倍に稼げるしな。
それに規則には﹃子どもを養ってはいけない﹄とある。なら大人
になっちまえば養っても良いっつー事だろ。
挙げ足取りは得意だ。
それから3年経ち、チビが10歳になった年。いきなり野菊が﹃
サラシをください﹄と言って来た時には頭が痛くなった。
女の象徴である胸を潰す気なのだと直ぐに分かったが、どうも親
心が邪魔してサラシを渡す手がプルプルと震えてしまったのは不覚。
今更﹃男芸者は辞めて、半生働き詰めで構わないなら飯炊きに変
わるか?﹄なんて言うことは出来なかった。
何よりあと半生、俺が生きていられるかも分からない。
そしてその時点でもう5年経っている。野菊はやる気だし︵男芸
者をだが︶芸も、もう完璧に身に付いてしまっている。引くに引け
なくなってしまった現実に﹃あー帳簿いじっちまおうかなー﹄と思
ってしまったのは、此処だけの秘密だ。
そういや野菊を見つけた場所で新たに童子を見つけたのは記憶に
新しい。野菊程小さくなく女子で、もう12だった様だから裏の仕
232
事をさせることにした。野菊と言う女子がいても、それほど妓楼内
に乱れは無かったから大丈夫だろうと思っての判断だった。
しかし発見時、妙に身なりが良く旗本のお嬢様と言われてもおか
しくはない風貌をしていた事が少し引っ掛かる。本人は名前と年齢
しか覚えていないと言うからそれ以上の詮索は出来なかった。
でもまぁ実際良く働いているし、それほど心配する事も起きてい
ない。野菊も女一人きりより少しは心が安らぐだろう。
●●●●●●●●●●●●●
それから更に2年が過ぎた今日。
まもる
小さかった子どもは一つの階段を登る。
﹁葵色の直垂だ。どうだ?﹂
﹁はい、ピッタリです!﹂
﹁よし。あと⋮ちゃっぴぃと護、連れて行きてーなら連れてけ。同
じ部屋の蘭菊にはちゃんと話とけよ﹂
﹁ほっ本当ですか!!⋮チャッピー!護!!一緒に行って良いんだ
ってさ∼﹂
﹁ゲコ!﹂
﹁ニャ!!﹂
異色の2匹を抱えあげて嬉しそうにする野菊は、まだまだ子ども
で。少しほっとした自分に笑ってしまう。
しかし、蛙にはちゃっぴぃと言うわけわからん名前を付けている
のに、何故猫の方はまともな名前なのかは甚だ疑問だが、本人が良
いならまぁ構わない。
233
それにこの2匹が来てから天月の売り上げは以前も良かったが、
より更に上々。福の神かもしれないと思っている。
だからお守り、ではないが野菊に一応付けておきたい。別段何か
が起きる心配など無いだろうが、縁起物を身の近くに置いておくこ
とにするのは悪い事じゃ無いしな。
﹁あの、では、天月の方に行きますか?﹂
﹁まぁ生活場所が変わるだけだけどな。悩みが出来たらいつでも楼
主部屋に来い。⋮じゃあ行くか﹂
黒く長い髪は横で一つに結び前に流し、葵色の直垂を着て身なり
を整えている。首が細いから少々客にバレないかと心配だが、うち
の妓楼にはそんな奴等も沢山いるから気にはならないだろう。
瞳の方は大きいので、男らしく見えるよう目を少し細めて附せさ
せるように指導はしたが、⋮そしたら何か凄ぇ冷静沈着そうな美少
年になった。見た目だけ。
しかし美しくも、まだあどけなさを残す容貌は12歳と言う年頃
を上手く表していて。
この際開き直って、とことんやってやろうと思う。
﹁むふ∼。やっと皆に会えます。チャッピーも護も楽しみだねぇ﹂
﹁ニャーン﹂﹁ゲーコ﹂
⋮あ。行く前に⋮アイツ等が早々野菊に飛び付くのを防いどかな
きゃだな。
取り敢えず金棒でも用意しとくか。
234
始まりは 7年目の物語 1
今日は快晴。超良い天気。すんごくいい天気。
そんな中、天月妓楼内の広い一室の戸の前に、おやじさまと並ぶ
私。
﹁そんな緊張すんな野菊﹂
﹁⋮⋮﹂
ゴクリ⋮。今、この戸の向こうには、秋水達や兄ィさま達がいま
す。
﹁言い忘れていたが、明けましておめでとうだな﹂
﹁⋮明けましておめでとうございます﹂
⋮いや、あの。それに緊張しているのもあるけど、何よりも私が
今ビビってるのは、おやじさまの左手にある金棒のせいだよ。
何ですかそれ。そんな物騒なもんで元旦から何しようってのおやっ
さん。餅叩き?
﹁まぁ、会っちまえば緊張も解けるだろうよ﹂
私は今日、葵色の直垂を纏い天月へと戻る。
一応引込が戻ると言う事で、妓楼の一室で歓迎会ならぬ帰還迎会
を行うらしい。
大切で貴重な正月休みに、んな大袈裟なもんなぞやらなくても良
235
いよ良いよ、普通に挨拶回りでいいじゃない。と思うのだが、毎回
引込が戻る度に行う物だそうで、秋水や凪風、蘭菊も盛大にやられ
たらしい。
⋮そんな事聞かされたら拒否するわけにはいかないじゃないか。
とか思いながらも、それ以上に嬉しい気持ちがあるのも事実。⋮
うひょひょ。
﹁ニャンニャー︵僕がついてるさ︶﹂
﹁おおぅ。ありがとうよ∼護﹂
護が﹃僕がついてるさ﹄みたいなニュアンスの鳴き声をあげたの
で都合の良いように解釈をする。
腕の中に護を抱えあげ、肩にはチャッピーを乗せている私。
⋮いや、あの、ペットショップの店員でも、小学校の生き物係り
でもないよ。勘違いしないでね。
﹁ちゃんと挨拶するんだぞ﹂
﹁はっ、はい﹂
しかし。
⋮き、緊張してきた。
わ、分かるかなぁ。
はなぎ
たまじ
皆どんな感じになっているのだろう。と此処に来て皆の顔を一人
あたや
一人思い出していく。
えーと、えーと阿多夜兄ィさまと波渚兄ィさま、多摩時兄ィさま
に⋮朱の⋮⋮
あ⋮ん?あっ、いやちょっと待て。
その前に私の事をそもそも覚えているのかな、兄ィさま達。
2年前に文をくれた花魁の兄ィさま達はギリギリ覚えてくれてい
236
ると思うが⋮
﹃野菊?⋮あーそういやいたな。そんな奴﹄
﹃え、野菊⋮ですか?いましたっけ?﹄
﹃俺ぁ知りませんよ、引っ込みは3人だけでしょ?えっもう一人い
たんでしたっけ?﹄
とかこんな感じだったらどーしよう。有り得なくないよコレ。う
わぁ⋮。
と、あるかもしれない数分後の未来に恐怖する。
﹁野菊、ちゃっぴいと護は一旦此処に置いとけ﹂
﹁!!⋮うぅ﹂
ふたり
一人焦っていると、隣にいるおやじさまが二匹を指さして言う。
あ⋮そ、そうですよねー。
良く考えたら、挨拶するのに猫抱いて蛙を肩に乗せる奴なんか変
ですもんね。失礼ですもんね。
何だかんだずっと一緒だったから、感覚が鈍くなってしまってい
た。
﹁ニャー︵えー︶﹂
﹁ゲコ︵頑張れよ︶﹂
﹁じゃあ⋮待っててね﹂
ふたり
二匹をそっと廊下に置く。ちなみに鳴き声を私なりに解釈してい
るので、本当に話せているわけではない。あくまで妄想です。
えーと、チャッピーの近くには布で包んだ懐炉と、乾燥したらい
けないので一応底が少し深い小皿に水を張った物を用意しようと⋮
したのだが。護が丸まって廊下に横になると、その暖かそうな中心
237
に飛び込み、暖を取り出した様子。
ほわぁ、暖かそう。
じゃあ水だけで充分かな。
﹁じゃあ俺の後に続けな﹂
﹁はい﹂
チャッピーと護の事に気を取られ思考を中断してしまったが、忘
れられてたら⋮と再びそう思うと﹃私です!野菊です!﹄みたいな
顔をして入っていってしまう自分が、何だか恥ずかしくなってきて
しまう。と言うかしていなくても居たたまれない。
自分の精神へのダメージが、こ、怖いから下を見ながら部屋へと
入る事にしようかな。
うん。予防線張っとこう、予防線。
スッ︱︱︱
﹁お前等、騒ぐなよ。あと野菊が話すまで喋るな﹂
おやじさまが少し戸を開け、部屋の中にいる皆に向かってそう話
している。
いや、そんな。やめてくださいよ。なんか偉そうな奴になっちゃ
うじゃないか。
忘れられた上に、偉そうな奴カテゴリを加えられたら私っ耐えら
れないよ!!馬鹿野郎!
﹁入れ﹂
ぅぅ⋮と前を歩くおやじさまの足を見ながら、言葉通り足を踏み
出し入ると⋮あ、畳みの目に傷が。
238
あ、此処にはシミが。ん?そっちにもだ。
オイオイおやじさま、そろそろ変えた方が良いんじゃないですか
ねコレ。この畳み。
⋮お、ここもしかして置物とか置いてあったのかな。へこんでる
へこんでる。ひょ∼。
とか緊張を少しでも感じないように、色々どーでも良い事を考え
る。
﹁野菊、そこに座れ﹂
﹁はい⋮﹂
前を歩いていたおやじさまに言われ、指定の場所に直垂の裾を押
さえて正座をする。と同時におやじさまも隣に座ってくれた。
グッジョブ!!私の安定剤!︵いつからだよ︶
しかし正座をした私は、まだ皆の方を見れない。
と、取り敢えず挨拶をしなければ何も始まらないのは確か。
手を前に着いて下を向き、目を瞑りながら言葉を紡ぐ。
あぁ、神様。
﹁明けましておめでとうございます。天月の、み、皆様。兄ィさま、
新造、禿の皆様。今度は引っ込み新造として、この野菊、お世話に
なります。今日からまた宜しくお願い致します!﹂
﹃きょうから、よろしくおねがいいたします﹄
︱︱︱⋮こんな時にだが、何だか最初の頃を思い出す。
ワケの分からないまま流れに流された私は、そう言えばこうやっ
239
て皆の前に座って挨拶したんだっけ。
懐かしいなぁ。
まだまだ小さな私は、今よりずっと口が廻らなく、つたない挨拶
とお辞儀でガチガチに緊張していた。清水の舞台からなんて、とて
もじゃないけど飛び降りれない。
でも、そんな私に優しく声を掛けてくれた兄ィさまは。
わらし
﹃これは可愛い童子だね。おなごが女相手に商売をするのは大変だ
が、一人立ち出来るよう私達がしっかりと教育してあげるからね。
5歳だと此処では一番下になるから、皆を自分の兄さんと思って頼
ると良いよ﹄
そう笑ってくれて。
思い出しただけで、何だか安心する。
今言われたわけでも無いのになぁ。ふふ。
﹁野菊?﹂
すると目の前に座っている誰かに名前を呼ばれた。それと同時に
家出していた緊張さんが再び戻ってくる。
⋮だ、誰だろう。
確認するには顔を上げれば良いのだが、中々上を向けない。
ええい!ヘタれが‼顔上げんかいゴラァ!!
と、もう一人の私が脳味噌をブッ叩く。⋮ケっ畜生。
﹁ねぇ野菊、顔を見せてごらん?﹂
﹁へ、﹂
240
再び前の人に声を掛けられる。
︱あれ?
この話し方。
この話し方は⋮。
記憶にある声より少し声が低くて若干違うけれど、もしかしてこ
の人は、
﹁私だよ、分かるかい?﹂
その言葉を皮切りにゆっくりと顔を上げていく野菊。
﹁⋮!﹂
くろとび
そして次の瞬間瞳に映ったのは、黒鳶色の着流しを纏った妖艶の
如き黒髪の美男。
鎖骨辺り迄の柔らかそうな黒髪に、少し長い前髪から覗く瞳は相
変わらず黒真珠の様に黒く深く輝いており、流し目をされたら客は
ひとたまりも無いであろう程。
シュっとしている輪郭は無駄な肉が付いていないと言う事が一瞬
で分かる。
⋮女性を惑わさんばかりに妖しいほど艶かしく美しく、上品であ
るか否かは、もはや問題にはならない程の色男で⋮。
﹁きっ、﹂
パぁパパパパっ、パワーアップしてる!!
なんか色々レベルがUPしてる!!
え、あの方だよね。そうだよね。
241
唯でさえ凄かったのに⋮こんな、
﹁き、清水、兄ィさま⋮?﹂
﹁っそうだよ、そう﹂
とても嬉しそうな笑顔を見せてくれたのと同時に、兄ィさまの両
手がスローモーションを見ているかのようにゆっくりと私の方へ伸
びて来た。
がばっ
ドタン︱︱っ
﹁あぁ野菊、良かった!!﹂
すると勢い良く前から抱き着かれて、うしろへと倒れる。一瞬だ
った。スローモーションを見ているかのよう、ではなく見ていたの
か。そして今私の目には木造の天井しか見えていない。
﹁にっ兄ィさまっ﹂
﹁うん﹂
ぎゅうぅぅ∼っと息が出来ないくらいに、兄ィさまの両腕に抱き
巻きつかれている。首筋に息が当たって、少しくすぐったい。
だが⋮ぐ、ぐるじい⋮。でも、あ、なんか良い匂∼い⋮。とか場
違いな事を思う私だけれど、けっして私は変態ではない。
﹁⋮野菊﹂
兄ィさまの腕は6年前より逞しくなっていて。私が想像していた
昔の兄ィさまの手首は細かったのに、今では少し太く骨張っていて
242
﹃男性﹄の手になっていた。
最後に会ったのは兄ィさまが16歳の時。そりゃ変わるのも当然
である。
﹁おい清水!!ちょっと一回離れろ!俺が抱き着けねー﹂
﹁羅紋兄ィさま!!﹂
﹁よっしゃ!覚えてたか∼っ清水どけっての!!﹂
そう言って、清水兄ィさまの肩口から見えたのは緑髪短髪の美丈
夫。垂れ目の右下には泣き黒子があり、漏れだす色気は健在。少し
荒い喋りの兄貴肌な二枚目、この人は羅紋兄ィさまだ。声も清水兄
ィさま同様に少し低くなっており、髪もだいぶ短くなっていた為、
直ぐには分からなかったが特徴を一つ一つ見れば明らかで。
﹁野菊が苦しそうですから離してあげなさい。大丈夫ですか?野菊﹂
﹁うっ宇治野兄ィさま?わぁ⋮宇治野兄ィさま!﹂
﹁⋮清水。早く離しなさい﹂
清水兄ィさまの肩をむんずと掴む、紫色の髪をしたハンサムなお
方。
若干つり目でキツそうだけど、丁寧な言葉遣いに落ち着いた声色
をしたこの人は、宇治野兄ィさまだ。
背中迄の長い御髪は先を一つに結んで前に垂らしていて、短い髪
型しか見たことのなかった私は違和感を禁じ得ない。でも優しい雰
囲気に良く似合っているのでグッド。やっぱり格好いいです。
確か今のお歳は27。大人の色気が出ています。
﹁野菊!俺覚えてるか?﹂
﹁朱禾兄ィさま!!﹂
﹁おちび、でかくなったなぁ!!﹂
243
﹁染時兄ィさまっ﹂
﹁僕の事も覚えてるよね!﹂
﹁お前∼綺麗になっちまってよ∼っ﹂
﹁優座目兄さま、梨野兄さまに蟻目兄さま、皆、皆覚えています!﹂
ワラワラと周りに集まる久しぶりの兄ィさま達に、瞳の奥がジワ
ジワと洪水の予感を告げる。
ちょっ、早い!早いって私!
やめやめやめろ。
目ん玉ひん剥いて耐えろ私!!
出来る、出来るぞお前なら。
ポンポン。
﹁?﹂
そう歯を喰い縛って化け物並みの目ん玉になり頑張っていると、
大きな手で頭を撫で付けられる感覚がした。
その懐かしい感じと手の平の暖かい温もりが脳の奥まで伝わって、
自然と口角が上がる。
その暖かい手の正体は私を抱き締めている兄ィさま。
﹁凄く凄く君に会いたかったよ﹂
⋮コツン、
清水兄ィさまが頭を撫で微笑みながらそう言うと、今度は私のお
でこに自分のおでこをゴっつんこしてきた。私の黒瞳と兄ィさまの
黒瞳がピタリとかち合う。
244
﹁あ⋮﹂
うっ︱な、何してくれとんじゃい!!
こちとら必死で、必死で、
﹁あ⋮の゛ぅ﹂
﹁ん?﹂
必死でなぁ!!
﹁ろぐっね゛んん、あっ、あいだがっだんでずっ﹂
・・
﹁うん、私もだよ﹂
﹁おい。俺達も!だぞ清水﹂
﹁ゃっど、っやっどあえまじだぁ﹂
結局最後は清水兄ィさまの攻撃にヤられ。
顔がグッチャグチャになりながらも、目の前の兄ィさまにしがみ
つく私は完全に泣き虫な子ども。
全然大人なんかじゃない。
﹁ほらほら、野菊此方に来なさい﹂
﹁うじのにィざまぁー﹂
﹁⋮清水、いい加減手を離しなさい﹂
﹁⋮じゃあ直ぐに返してね﹂
全く⋮と言いながらも、12歳になり大きくなって重い筈の私の
体を、そうっと抱き上げて包み込んでくれる宇治野兄ィさま。
涙の跡を親指できゅっと拭ってくれる。
うぅ⋮ひっ久しぶりお母さん!!!!
245
背中をポンポンと叩いてくれる兄ィさまは、仕草が全然変わって
いなくて。それにも少しホロリとしたのは仕方がないと思います。
﹁ほら、野菊。お前の好きな焼きまんじゅうだぞ。笑え笑え、な?﹂
﹁らおふひーはは︵羅紋兄ィさま︶﹂
そんな私の頬をグーっと摘まんで、焼きまんじゅうをチラつかせ
てくる羅紋兄ィさま。
どうやら私は焼きまんじゅう一つでどうにかなる奴だと認識され
ているらしい。
⋮フッ。当たりですけども。
﹁ほら、此方向いてみな﹂
﹁あ゛い、﹂
ちゅ︱︱っ
﹁?﹂
﹁ん!よし、泣き止んだな﹂
頬っぺたに柔らかい物が触れたと思ったら、羅紋兄ィさまが満面
の笑みでそう言って頭をクシャクシャっと撫でる。わぁお!と、ち
ょっとビックリして涙が引っ込んだ。
ちゅ、ちゅーちゅータコかい⋮な?
﹁ねぇ⋮羅紋﹂
﹁何だ何だ⋮ってオイ!!清水!その金棒どっから持って来たんだ
よ!!﹂
﹁ん?あぁ。おやじさま、ありがとうございます﹂
﹁ヤっちゃって下さい清水兄ィさん!!﹂
﹁思いっきりでいいっすよ!!﹂
246
正月なのに、2月の豆まきの鬼退治並みの騒ぎが始まるのであっ
た。
247
始まりは 7年目の物語 1︵後書き︶
﹃待て!待て清水!!﹄
﹃何?遺言かな﹄
﹃あ⋮あの、宇治野兄ィさま、きっきき清水兄ィさまが!!﹄
﹃そうですねぇ⋮まぁ、あれは放って置くのが一番ですよ﹄
次回は同期組です︵*´∀`︶
248
始まりは 7年目の物語 2
﹁逃げないでよ﹂
﹁馬鹿言えっ、逃げるっつーの!!﹂
清水兄ィさまから逃げる羅紋兄ィさま。事の成り行きが気になる
が、私が今目で追っているのは兄ィさま達では無い。
﹁しゅーすいー!凪風ー?らんちゃ∼ん!﹂
﹃やれー!やれー!﹄とヤジが飛ぶ鬼退治騒動の中、私は目と声
で秋水達を探す。ずっと兄ィさま達に囲まれていたので引込の皆が
全然見えなかった。だから開けた今なら見つけられる筈。
本当は立って探しに行きたいのだが﹃俺の事が嫌いですか?﹄と
宇治野兄ィさまに眉尻を下げながら言われてしまい、結局それに敵
わず兄ィさまに背中を向けて抱かれたままになってしまっていた。
くっ⋮ズルい!ズルいぞあれは!!
あんな捨てられそうな顔をされたら行けまいだろうが!
花魁の手練手管の使いどころ間違っています!全く恐ろしい子っ。
﹁秋水ー⋮凪風⋮らんちゃー⋮ん﹂
広いと言っても一つの部屋。探そうと思えば直ぐに見つかる筈⋮
なのに、それらしき人物達が見つからない。あ、人がいすぎる空間
だから混同しちゃってるとか?
⋮うーん。いや、でもなぁ。あの3人の容姿で目立たない事は無
249
いと思うのだが⋮。
ベシンッ
﹁痛!!﹂
﹁あっ野菊、﹂
するといきなり後ろから頭をひっぱたかれた。ビックリして思わ
ず宇治野兄ィさまの腕から思いきり飛び出てしまう。
うぉ∼滅茶苦茶痛い、ヒリヒリするよ。⋮お願いだから頭に過度
な刺激を与えるのは止めて頂きたい。頭部が薄くなってきたらどう
してくれるんだ。全く⋮一体誰だ馬鹿野郎!!
私の背後にいたのは宇治野兄ィさま⋮だけども、兄ィさまがこん
な事しないのは確か。そしてこんな手厚い歓迎をするのは、兄ィさ
ま達以外だとあの奴等しかいない。
それは、
﹁もう!蘭ぎ⋮ぇ﹂
そこにいたのは、
﹁ぁ⋮だ、だ⋮れ⋮﹂
後ろを振り返り、攻撃してきた人物へと目を向けた私の瞳に入っ
て来たのは⋮。
青色のサラサラな髪は首元を撫で、青い瞳は切れ長ではあるがま
だ少し幼さを感じる大きさ。身長は兄ィさま達同様に、見上げなけ
れば顔が見えない程。右の耳たぶには、針で穴を開けたのか小さな
せいらん
翡翠の耳飾りが二つ輝いている。
青藍色の着流しを身に纏う、端正な顔をした美青年と呼ぶに値す
250
るこの男の子は⋮
﹁⋮いや、えっと、あれ?秋水?﹂
﹁久しぶりだな﹂
せ、成長期スゲェ!!
何、なな何なのっ?変わり過ぎじゃないの!?
3年会わない内になんでこうも変わるのさ!
﹁え。僕らの事3年で忘れちゃうの?頭大丈夫?﹂
からすば
首を傾げて私に向かい失礼な発言をする長髪の銀髪野郎。瞳は灰
色で背が秋水よりも更に高く、烏羽色の着流しを着たこちらの美男
子。羅紋兄ィさまのように少し垂れた目尻は優しそうな感じだ⋮が
しかし。
私を可笑しそうに、でも馬鹿にしているような視線を寄越して来
るのはあの悪魔。
﹁凪風?﹂
﹁お前、やっぱ馬鹿だよな﹂
えび
赤く燃えるような短髪に赤黒い瞳、葡萄色の着流しを纏う少年の
粋をまだ超えない整った容姿をしたこの無駄に綺麗で生意気な小僧
は、
﹁蘭ちゃんは全然変わってないね!!﹂
﹁でしょ?﹂
﹁はぁ!?背とか伸びただろーが!何か見つけろよ!﹂
え。いや、変わってないよ。
251
だって相変わらず喧しいもん。
﹁野菊も背がまぁ高くなったよな。蘭菊とそう変わんないだろ。⋮
蘭菊、お前野菊に散々チビっつってたけど、もしかしたら⋮﹂
﹁おい秋水!それ以上言ったら俺の拳が飛ん﹂
﹁蘭菊が一番チビになるかもね﹂
﹁凪風この野郎!!﹂
相変わらずの3人に私の口角が上がる。
﹁あ。野菊、お前今笑ったな⋮﹂
﹁え、うん﹂
﹁っ畜生今に見てろよ!!お前よりぜってーデカイ男になってやる
!﹂
左の握り拳を胸に当てて明後日の方向へ何かを誓う蘭菊に、成長
期の神様が微笑んでくれるのか否かは数年後のお楽しみである。
﹁私は背がデカく無くても心のデカイ男になるからいい﹂
﹁お前⋮男を上げたな﹂
目をハッとさせ、口を手で覆いながらそう言う秋水。
⋮ちょっとわざとらしい動作が癪に来るが、お褒めに預かり光栄
ですよ。はい。
﹁そう言えば野菊、明後日の花魁道中宜しくね﹂
﹁道中?﹂
腕を組んで私の目の前に立っている凪風が、唐突にそう話を切り
出した。
252
何でいきなり花魁道中?
﹁もしかして聞いてない?﹂
﹁俺達2人15歳になっただろ?遊男になる俺達の元服みたいなも
んでさ、突き出しをやるんだ。まぁ、だから隣を蘭菊と一緒に歩い
てくれ。宜しくな﹂
あ、なるほど。
男の子は15で成人だもんね。
そんでもって花魁デビューか。華々しい一日になりそうである。
引込新造が15歳になり、正式に遊男としてお客を取り始める日、
つまり遊男デビューを﹁突き出し﹂と言う。
引込新造は基本一人の花魁の元に付いているのだが、突き出しの
費用は兄遊男である花魁が御役と称し一切を負担し、その費用は二
百両から五百両する。コレばかりは天月のお金では賄わない。何故
だかはまだ知らないけど。
兄遊男は引込新造と一緒に2日間花魁道中をして馴染の茶屋へ新
しく花魁になる新造の披露に訪れ、馴染み客を伴い見世に戻り、取
り巻きの男芸者に対して定紋入りの羽織を与え、馴染客の茶屋へは
祝儀を出し、見世の親しい妓楼屋・茶屋にまで餅菓子を配るのが習
慣。
なので、引込新造を抱えることは一般の遊男では無理なのだ。
突き出しした引込新造の最初の馴染客となる者は、寝具一式を送
る定めになっており、それを用いて床入りすることになっている。
この寝具の費用は三枚重ねの敷蒲団、夜着一枚で五十両位かかる
そう。
253
基本的には兄遊男の超お得意様のお客が、此れから花魁になる新
造と最初にチョメチョメする相手役となるので、遊び慣れたぐらい
の年の人が多い。
当然、お金も暇もあり、最初のお客だから新造に作法も教えられ
るくらい遊び方も心得たお客でないと勤まらない。この時ばかりは
花魁の馴染みの客が新造と床入りしても浮気にはならないのだ。だ
って寧ろ此方からお願いしてるんだもんね。
でも、
﹁秋水、凪風﹂
﹁何?﹂
﹁どーしたんだよ、お前。浮かない顔して﹂
軽く説明しただけだが、床入り⋮つまり2人は色を売り出すと言
うことになる。
﹁ううん、何でもない。⋮道中の日は精一杯お供致しますとも!!
ね、蘭ちゃん﹂
﹁あ?⋮お、おう!﹂
﹁よし蘭菊、明後日から俺を兄ィさんと呼ぶんだな﹂
﹁誰が呼ぶかよバァーカ!!﹂
辛くは無いのか⋮と私が聞いた所で何が変わるのワケでは無い。
分かりきっている事を改めて確認する必要も無いのだから。
それに聞いても﹃辛くなんかねーよ﹄﹃辛く無いよ﹄と返される
に決まっている。そんな言葉を思いとは裏腹に本人に言わせたいワ
ケじゃ無いから聞きはしない。
﹁凪風兄ィさまー﹂
254
﹁あ、なんか良いねコレ﹂
﹁野菊!お前に屈辱心は無ぇーのか!!﹂
今はただ、隣にいて、笑って、騒いで、日常の幸せを共有してい
く事を一番に考えよう。彼等の未来を嘆く事はしない。
この気持ちはけして同情なんて物では無い、とは言い切れないが、
此れから花魁になっていく者への敬意が大半である。
彼等にとっても、同情なんて腹の足しにもならないだろうし、さ
れた所でこの運命から逃れられる事は出来無い。
光と闇が交差する吉原の花魁と言う名の高い場所で、屈せずに華
々しく咲き誇っていく彼等に尊敬の念を込めて。
﹁よっ、秋水花魁!凪風花魁!!超格好いいぜ!﹂
二人に向かい親指をグっと上に立てる。
﹁野菊、男みたいだよ﹂
﹁いいんですぅー。男になるんですぅー。⋮あ、そうだ。久しぶり
に皆で抱き合おうよ!﹂
﹁はぁ?んな子どもみてーな事⋮﹂
﹁蘭菊は仲間外れで良いみたいだね﹂
﹁じゃあ3人でするか﹂
﹁な、何だよお前ら。ふっ別に俺﹂
ぎゅっ
﹁これ暖かいよねぇ。あ、秋水と凪風、結構筋肉付いてる﹂
﹁お前胸が板だぞ。女じゃ無くなったのか遂に﹂
﹁⋮秋水がそう言う冗談をいつか客に言わないか僕心配だよ﹂
255
秋水を中心に抱き合う私達3人。
﹁べっ、別に俺﹂
﹁秋水本当に背が高くなったね。私の顔が完全に胸下だよ﹂
﹁凪風の方がデカイけどな﹂
﹁僕昔から皆より大きかったからねー﹂
ぎ、ぎゅうっ
﹁何だよ蘭菊﹂
﹁⋮うるせー﹂
﹁素直じゃないね﹂
﹁ぷふ。蘭ちゃん、照れ屋だもんね﹂
﹁悪かったな!!﹂
疎外感に耐えられなくなった蘭菊が、抱き合う私達3人に抱き着
いて来た。耳の上が少し赤くなっている彼に込み上げる笑いが隠せ
ない。ムフフ可愛い奴。
﹁道中、皆で頑張ろうね﹂
﹁ふん。当たり前だろ!﹂
訂正。ツンデレ蘭菊は変わった。
前よりも扱いやすくなりました。
﹁ゲコ﹂
﹁ニャー﹂
﹁何だよ今の鳴き声﹂
﹁蘭菊の鳴き声?﹂
﹁ちげーよ!!お前は俺を何だと思ってんだ!﹂
256
﹁あ、﹂
何だか実に聞き覚えのある声がし、足元を見てみるとチャッピー
と護がいた。いつまでも廊下で待たされてたから痺れを切らしたの
だろう。うぅ⋮すまなかった。怒ってる?怒ってるのかい?
秋水の身体から手を離して2匹の元にしゃがみこむ。
﹁チャッピー、護﹂
﹁わ、蛙?と猫?﹂
﹁蛙がチャッピーでね、猫が護って言うんだよ。2年前から一緒に
いるんだけど⋮﹂
2匹を腕に抱き合げて、不思議そうな顔をする3人に紹介をする。
⋮あ、ちょ、チャッピー!駄目、駄目だよ頭の上には乗らないで
くれぇ!
頭頂部にあまり刺激は⋮やめ⋮⋮⋮ほら肩においで。⋮よーいし
ょっと。うん、良い子だ。よーしよし。
﹁ねぇ、蘭ちゃん。チャッピーと護も一緒の部屋で暮らしても良い
?﹂
﹁は?⋮まぁ別に良いけどよ⋮猫は別として、蛙って普通冬眠すん
じゃねーの?﹂
﹁あー⋮。えっとね﹂
チャッピーは冬眠をしなかった。
寒い時期になりそうになると自ら私の部屋の中へ上がり、火鉢の
ある近くに座るこの蛙。私はそれを見て、取り敢えず水分は無いと
困るかなと思い、立派な大きさの壺をおやじさまに貸して貰って、
ある日水を張り部屋の中に置いておいた。すると体が乾いてきたの
か壺の水へと戻る姿を発見。どうやら役に立ったようで入ってー出
257
て。入ってー出て。入ってー出て。火鉢と壺を行き来するその繰り
返しだった。
⋮不便だよチャッピー。
なんか見てて面倒くさそうなので、火鉢の近くに壺を置いてやっ
た。そしたらピョンピョンと跳ね⋮嬉しそうだった。
そうしてとうとう冬眠に入らなかったチャッピーは2年目も冬眠
せず。
ちなみに生きた餌しか食べない蛙のチャッピーだが食事は私の知
らない所で秘密裏に摂っているらしく、一度も捕食姿を見たことが
ない。
⋮これ本当に蛙かな。蛙に似せた地球外生命体じゃないよね。
チャッピーの事は憎からず大好きだから宇宙人でも構わないが、
いつか捕食姿と冬眠を見せて欲しいと思う私は変な奴なのだろうか。
﹁何か変な奴だな﹂
﹁やっぱり私変?﹂
﹁ちげーよ蛙だよ蛙。お前は変な奴じゃ無くて馬鹿だ﹂
﹁凪風、秋水、ほら見てみてー﹂
﹁へぇ、可愛いね﹂
﹁俺この蛙好きだな。目が良いよな目が﹂
﹁無視すんな!!﹂
こう言う時はスルーするのが一番。
でも良かった、蘭菊が蛙嫌いでも猫嫌いでもなくて。寧ろ興味信
心て言う感じだったから更にありがたい。
最悪、嫌だと言われたら諦めるしか無かったので嬉しい限りであ
る。
258
﹁でも蘭菊が一緒の部屋なんて、野菊は可哀想だね﹂
﹁いや、逆に野菊と一緒の方が可哀想だろ。アイツの寝相酷いんだ
ぜ?哀れだな﹂
なんか失礼な事を言われている。
えい、うるさいぞ。
酷い寝相を意識して直せるもんならとっくに直してるわ。と言う
かそこまで哀れむ程の私の寝相って⋮。⋮⋮いやまぁ自分でも分か
ってるけどさ、流石にそう言われてしまうと常識を超えた酷さなの
かとショックを隠せない。
ゾク⋮
するといきなり背中に悪寒が走った。
そして同時に、目の端に映り込む黒い物体が。
ヒュッ
﹁蘭ちゃん!伏せ!!﹂
﹁あ?わ!おい!?﹂
ドゴンッ
ゴト⋮
蘭菊に向かい飛んできた物は、壁にぶち当たり下へと落ちる。い
かにも重そうな音を立てるこの黒い物体、
﹁あ、蘭菊ごめんね?怪我してないかな?﹂
﹁らんちゃん!大丈夫?﹂
259
﹁あ、ああ﹂
﹁野菊、もう蘭菊の上からどいても大丈夫だよ。あと、危ない事は
しちゃいけないよ?﹂
羅紋兄ィさまは一体どうしたのだろうか?見当たらない。彼を追
いかけていた筈の、どこからともなくやって来た清水兄ィさまに言
われて蘭菊の上からゆっくりと退く。
いやいやいや、滅茶苦茶危ない事をしていたのは清水兄ィさまだ
と思うよ!?あの私達の後ろの壁にぶつかって下に落ちている金棒
は、さっきまで兄ィさまが振り回していたものに100%違いない。
﹁でも本当にごめんね?﹂
しかし、言い返す勇気も度胸も無い為、おとなしく頷いておく。
平和、平和が一番です。
と言うか羅紋兄ィさまは何処に。
﹁俺、長生きしたい﹂
﹁うん。私もだよ蘭ちゃん﹂
260
始まりは 7年目の物語 3
帰還迎会という名の正月休みのどんちゃん騒ぎが夕方に終わり、
皆と部屋へ戻ろうとする私は、ふと重要なことを思い出す。
﹁愛理ちゃんはどこ!!﹂
﹁は?愛理?﹂
マイスウィートガール!!
﹁アイツなら飯炊きや番頭、男衒が暮らしてる三階にいるぜ。俺ら
の上の階だ﹂
﹁でも今は外の銭湯に行ってる時間だと思うよ。夜はあれだし⋮明
日の昼間にしたら?﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁野菊、明日僕も一緒に行っても良い?愛理の所﹂
﹁え、﹂
え。私は﹃尻から出た血、どうしてます?﹄と聞きに行きたいだ
けなんだけども、それを⋮いや、まぁ私自身男になる気満々なワケ
だから。近くでそれを聞かれるのはちょっとねぇ。
乙女心が今更反応するとかじゃ無いけど、やっぱ気持ちの良いも
んじゃ無いし、出来れば一人で行きたい。
﹁や、やっぱり今日の夜に行こうかな!凪風は明日行って来なよ﹂
﹁じゃあ僕も一緒に今日の夜に行くよ﹂
﹁凪風どうしたんだ?﹂
261
何だ何だ。
何故こんなにも一緒に行こうとするんだこやつは。一人で行かせ
てくれ一人で!連れションじゃ無いんだぞ!!
﹁えーじゃあ、やっぱり明日に﹂
﹁じゃあ僕も明日かな﹂
﹁⋮⋮﹂
ジト目で銀髪の悪魔を見る。
終始ニコニコしている奴にまるで﹃拒否させると思ってるの?﹄
と頭の後ろを黒い針でつつかれている気分になる。サタンめ。闇へ
返れぇ!!
﹁部屋の場所だって分からないでしょ?じゃあ明日昼間ね。野菊と
蘭菊の部屋に行くから﹂
﹁⋮はい﹂
じゃあまた後でね∼。と言い秋水と部屋へ戻って行く。私と蘭菊
は反対方向らしいので背を向け足を踏み出す。
⋮まぁ凪風が一緒に来てもコッソリ愛理ちゃんの耳元で質問すれ
ば良い話しだし。取り敢えずなるようになるだろう。
だけど本当に何であそこまで彼がしつこかったのかが気になる。
気にして聞いてみたところで奴が簡単に話すとも思えない。さっき
だって聞こうと思えば聞けた筈だけども、そうしなかったのはあの
雰囲気じゃまともに答えてくれることは無いと感じ取ったからだ。
全く、一人で会いに行けば良いものの⋮あの凪風の事だから恥ず
かしがって一人で行けない事は⋮⋮⋮⋮。
ピーン!
262
⋮ああ!!
女の子の部屋。
一人で行けない。
何故。
恥ずかしいから。
何故。
好きだから。
結論=恋
な、凪風は、もしかして愛理ちゃんに恋を!!?
﹁うひょひょ﹂
﹁おい野菊。気持ち悪いぞ﹂
ムフフ⋮ならば仕方ない。あんなにしつこかった理由も、ワケを
話したがらない雰囲気を作っていた事も納得だ。
グフフ⋮一緒に行ってやろうじゃないか!
ニョホホ⋮そんで私はピューって行ってピューって帰りますよ。
ウケケ。
﹁アホは部屋に入れねーぞ﹂
そう頭の中で展開している内に部屋へと着いたようだ。
﹁ニャー!︵喧しい!︶﹂
﹁ゲコゲコ︵喧しい︶﹂
﹁な、何だお前等。俺今スゲー貶された気が﹂
﹁気のせいだよ気のせい。よし!部屋に着いた事だし着替えと手拭
263
い持ってお風呂に行こう?チャッピーと護は部屋にいてね﹂
荷物はすでに箪笥に入っているみたいなので、中から単衣と手拭
いを出す。あ、布団も敷いておこうかな?お風呂上がりにするのも
面倒くさいし。蘭菊はどっち側が良いんだろう、押し入れ側かな?
⋮いやでも解放感溢れる格子窓側かもしれない。うーん⋮
﹁ちょっおまおおおお前一体いつまで一緒に風呂入る気だよ!!﹂
﹁?ずっとだけど﹂
﹁馬鹿じゃねーの!?﹂
﹁⋮よいしょっと。さて行こうかなー﹂
﹁おい!﹂
気にしなーい。気にしなーい。
大体今更何を気にしてんのさ、小さな頃から裸の付き合いを幾度
となくして来た仲だと言うのに。
それに兄ィさま達なんかきっと気にもしないぞ。だって女の人の
裸なんて見慣れてらっしゃいますからね。こんな女の色気のいの字
も無い身体を見たって、﹃あ、ただの性別が違う人間だー﹄位にし
か思うまい。
●●●●●●●●●●●●●●●●
ガラガラ⋮
スライド式の脱衣場の戸を開ける。
﹁お、来たか。俺達も此れから風呂に入る所なんだ﹂
264
入れば秋水や凪風、遊男の兄ィさま達と禿ちゃん達がワラワラと
脱衣場にいた。人数が多い妓楼での相変わらずな光景である。
秋水達とはタイミングが合ったようで、丁度長着を脱いで入る所
だったらしい。
﹁聞いてくれよ!コイツまだ一緒に風呂入る気だぜ!?﹂
私を押し退けて、秋水と凪風の方へ駆けて行き、私を指差しなが
ら叫ぶ小童。
まだ言うかこの野郎。
あ、ほら凪風なんか﹃やれやれ全く⋮﹄みたいに首を横に振りな
がら溜め息ついてるよ。完全に馬鹿にされてるよ蘭ちゃん。
﹁はぁ。蘭菊⋮だって、そしたら野菊はどこで入るの?遊男である
限りは外の銭湯には行けない。野菊の為だけに違う時間帯で湯を沸
かすワケにはいかないんだから仕方ないでしょ﹂
﹁そうだぞ蘭菊。大体な、野菊は女じゃない。男だ﹂
ええ、その通りでございます。
﹁サラシつけてんのかお前﹂
﹁うん、一応﹂
蘭菊に構わず黙々と着物を脱いで見えた私のサラシを見て秋水が
最初に反応した。
﹁キツくねーの?﹂
﹁全然﹂
﹁そうか⋮﹂
265
圧迫感は多少あるものの、キツいかキツくないかと言われれば其
ひんぬー
ほどキツくは無い。サラシのお陰か、はたまた元からなのか胸もあ
るか無いか程度だから、まだまだ貧乳ですよ。キツくないキツくな
い。キツくなりようが無い。
どうかこのまま無事に育たないことを祈るばかりである。
ガラ⋮
﹁あれ、今来たのか?お前等﹂
﹁今日も良いお風呂でしたよ﹂
﹁あ。羅紋兄ィさん﹂
﹁宇治野兄ィさんも早いですね﹂
風呂場の戸から出てきたのは羅紋兄ィさまと宇治野兄ィさま。う
ん、水も滴る良い男達だ。
と言うか羅紋兄ィさま⋮⋮⋮無事で良かったです。傷が全く無い
所を見ると、途中部屋からいなくなっていた理由は、攻撃されない
ように何処かに隠れていたって事かな。
⋮でも右脇腹の青紫の大きな痣は、何かを防ぎきれなかった事を
物語っていた。き⋮清水兄ィさま。
⋮あれ、ちょっと待った⋮ん⋮?今秋水と凪風﹃羅紋兄ィさん﹄
﹃宇治野兄ィさん﹄て言った?オイオイ、いつの間に呼び方変えた
んだ。
兄ィさん、兄ィさん、兄ィさん⋮いや待て。思えば禿の子以外で
﹃兄ィさま﹄呼びをしている人を見た事が無い。もしかして、小さ
い男の子が自分のお父さんやお母さんを﹃ぱぱ﹄﹃まま﹄と呼んで
いたのに、年齢が大きくなると﹃おやじ!﹄﹃おふくろー﹄とか呼
びだすあの現象が起きているのか。
266
﹁ひ、一つの成長だと言うの!?﹂
﹁どうした野菊﹂
目に手を当てて叫ぶ私を、秋水が変な目で見てくる。
やい、見るんじゃ無いよ。
勝手に成長しちゃってさ、全く!!↑︵理不尽。やっぱり馬鹿︶
良いもんね、私だって呼ぶもんね。
一つの成長過程を終わらせてみせる!
ガラガラ⋮
﹁はぁ、熱い⋮。あれ、野菊は今から入るの?﹂
﹁清水兄ィさん!﹂
﹁え⋮﹂
宇治野兄ィさま⋮兄ィさんの後から出てきたのは清水兄ィさm⋮
兄ィさんだった。⋮やはり水も滴る良い色男でございます。
只今絶賛成長中の私の兄ィさん呼び第1号は清水兄ィさん。
﹁ええと、野菊。何を誰に言われたのか分からないけれど⋮取り敢
えず風呂場には手拭いで前を隠して入ってくるんだよ?良いね?﹂
﹁え、でも私﹂
﹁私はまだ風呂に入ってるから、準備出来たら呼んでね。迎えに来
るよ﹂
﹁え、でも今出て﹂
﹁ほら、先に秋水達入っておいで。もう半刻も無いからね﹂
267
あの。
268
だよね﹄
始まりは 7年目の物語 3︵後書き︶
兄ィさま
浴槽にて。
﹃野菊。
﹃清水兄ィさんが良いです!﹄
﹃兄ィさま﹄
﹃兄ィさんです!﹄
﹃⋮野菊?⋮兄ィさま、でしょう?﹄
ヒヤリ。
﹃に、兄ィさ⋮ま、です﹄
﹃うん。そうだね﹄
お風呂に入っているのに、何故だか冷たいものが背中を通りました。
269
始まりは 7年目の物語 4
天月へ戻った次の日の今日。
今、私と凪風は愛理ちゃんの部屋の前にいる。
時間帯は多分朝の9時くらい。当たり前だが昨日の約束を忘れて
いなかった凪風は、昼間という約束だったのに何故かそれよりも早
くに私と蘭菊の部屋へと来て、私を叩き起こした。いや、叩き起こ
したと言うか何と言うか⋮。蘭菊の足元に転がって寝ていた私を、
蘭菊に気づかれないようになのか無言で廊下まで引き摺ったらしく、
凪風に声を掛けられ私が目覚めた場所は部屋の前の廊下だった。何
かビックリして声は出なかった。
⋮そんなに早く愛理ちゃんに会いたかったのか⋮。恋の協力は惜
しまないけれども、お願いだからあと1時間は寝かせて欲しい。だ
って遊男の皆が起きるのは普通10∼11時くらいの時間帯。9時
はまぁ早い時間と言う事になる。寝ぼけ眼の私の首根っこを掴み引
き摺りながら廊下を歩いていた彼は、もう完全に恋の病に掛かって
いるとみた。
﹁愛理、おはよう。起きてる?﹂
﹁はーい?﹂
凪風が声を部屋の主に掛けると、鈴のような可憐な声が部屋の中
から聞こえる。
な、なんて可愛い声なの!
そして声の後に、スッーと戸がゆっくりと開いた。
それと同時に部屋の主も現れる。
270
﹁わぁ⋮すんごく、可愛い⋮﹂
桜色の髪をした女の子が目の前にいた。
ウェーブがかった背中までの御髪は艶々していて、碧眼の瞳は猫
目でパッチリ。⋮十義兄ィさまが﹃仔猫みたい﹄と言っていた理由
が何となく分かった。うん、確かに仔猫ちゃんだよ。
肌は透き通るような白さで、頬はほのかに桃色を帯びている。唇
はあれ多分サーモンピンクかな、綺麗な血色をしている。
仕事柄、着ているのは黒の作務衣だけれど全然男っぽくは無くて、
袖から見える細い手首や衿から覗くか細い首元は寧ろ女の子の魅力
を最大限に引き立てている。それに戸を開けて、きょとん?として
いる彼女の表情はとても愛くるしい。
やだぁ!どうしよう、めちゃんこ可愛いよ!
ベリーベリースウィートハニー!!
﹁愛理、朝からゴメンね﹂
開け放した戸口からそっと彼女に優しく声を掛ける凪風。声を掛
けられた愛理ちゃんもそれに対し優しく可愛い笑顔を向けている。
これは⋮うん凪風、分かる。分かるよ。
こんなにくそ可愛い子が近くにいたらそりゃ惚れます。私なんか
見ただけでちょっと持って行かれそうになりました。凄いッス。
と言うかこんな子が男の巣窟にいても良いの?下手したら食べら
れちゃうよ本気で!一人しかいない事からするに、男の人と相部屋
で無い事は確かだと思うけれども、それでも超危険だと思う。寝起
きする場所だけは絶対隔離するべきだっておやじさま。
﹁凪風君?と、﹂
271
﹁私、あの、初めまして。のっ野菊と言います!﹂
﹁⋮ああ!遊男の皆が言ってた、女の子だけど花魁目指してる子よ
ね!!﹂
﹁いや、男芸者です!﹂
すかさず可愛い勘違いを訂正させて頂く。
﹁で、どうしたの?朝から⋮﹂
﹁いきなりでゴメンね愛理ちゃん。ええと、私がちょっと聞きたい
事があって⋮血がね、﹂
そう言うと愛理ちゃんの耳に口を寄せて、ヒソヒソ声で話を切り
出す私。チラリと奴が気になり横目で凪風を見れば、眉間にシワを
寄せて物凄く怪しげな視線を寄越してくる。別に悪い事をしてるワ
ケでは無いのに、何故そんな目で見てくるのか不思議でならない。
⋮あ。もしかして、何だ、私に嫉妬かコイツめ。同性の私にまで
嫉妬するとは凪風、相当好きなんだなこの子が。
﹁⋮で、教えて貰えないかなって思って⋮﹂
﹁なるほどね。そっかぁ⋮﹂
まぁ取り敢えず予定通り、ピューっと聞いてピューっと帰る事に
しよう。
﹁あのね、出来ない人はしょうがないんだけど、お尻の穴を意識し
て締めるの﹂
﹁ど、どんな感じに?﹂
﹁小を我慢するときみたいに腹の下部分に力を入れてみるといいわ。
血を中に溜めてといて、厠へ行く時に出す感じよ﹂
﹁なんか凄いねぇ﹂
272
そんなんで良いんだ。ちょっとビックリ。
﹁普通よ?でもどーしても駄目だったら褌に似たお馬を穿くと良い
わ。野菊ちゃん、頑張って!﹂
﹁あっありがとう愛理ちゃん!会えて本当に良かった﹂
﹁また何かあったら来てね。相談に乗るから﹂
お互いに両手を出し、固い握手をする私達。
あぁ、私今女の子に触れてるのね⋮幸せです。柔肌が、手に優し
くて癒される。しかもこんなプリチーな仔猫ちゃんの笑顔を直に向
けられて⋮今なら天国に行っても良いかも⋮。生理の処理の仕方も
分かった事だし、安心感で満たされていて凄く気分が良い。
いつまでもこうしていたい、けれども。離れるのは名残惜しいが
凪風の為に此処は早く撤退するに限る。友人の恋路を邪魔するわけ
にはいかないのだ。
チリン
﹁ニャーン﹂
﹁え、護!?いつのまに⋮﹂
﹁わぁ、可愛い猫ね。ほら、おいでー?﹂
﹁ヴニャア!!﹂
突然鈴の音と共に猫の鳴き声が聞こえたと思ったら、足元に護の
姿が見えた。いつのまに?鈴の音なんかさっきまで聞こえていなか
ったのに。いつから着いてきて来てたのお前。
普通なら護が歩く度に鈴が鳴り、少し離れていても音が聞こえて
分かる筈なんだけどな。
それに確か私の布団の上で丸まってチャッピーと寝てた筈なんだ
けど⋮まさか起きたら私がいなくて探していたのかな。
273
﹁ヴゥー﹂
﹁こら!護﹂
てか何威嚇してんの護。
照れ隠しなの、ツンデレなの?愛理ちゃんが可愛すぎてどーした
ら良いか分かんなくなっちゃった感じか。
って、いつまでも此処に留まっている場合ではない。早く撤退し
なければ。
﹁あの、朝から本当にゴメンね!じゃあ用事があるから私は退散致
します!!またねー﹂
﹁ニャン﹂
﹁え、野菊﹂
凪風には余計なお節介だと思われるのも嫌なので、一言も断らず
に急ぎ足でその場から離れる。護は結局愛理ちゃんの近くには行か
ずに駆け出した私の後ろを着いてきている様子。チリンチリン⋮と
音が後ろから聞こえてくるし、見なくても分かった。
な、なんかお散歩みたいで楽しいから、このまま部屋まで抱っこ
しないで行ってみようかな。ふふふ。
﹁護ー!かけっこだ∼﹂
﹁ミャー!﹂
取り敢えず、後は上手くやれよ坊主!
●●●●●●●●●●●●●
274
﹁客がお膳に箸をつけるまで、私達も箸をつけてはいけないんだよ。
あとは﹂
午後からは早速花魁の兄ィさまによる、客への接待、遊男の手練
手練についての指導になる。
新造は一人の花魁に付く筈なのに、私は見事にたらい回しらしい。
禿の頃となんら変わりが無いではないか。そりゃ色んな兄ィさまか
ら学ぶのは良いと思うけれども。素直に理由を教えてくれないおや
じさまに苛々がつのっていく今日この頃。でも大好きな気持ちは別
だけどね。
﹁良い?客に接吻をせがまれても、簡単にしてはいけないよ。言葉
巧みに躱して頬や口の横にするかでまぎらわしてね﹂
﹁どうしてですか?﹂
1日目の今日は清水兄ィさま。清水兄ィさまには秋水が付いてい
たのだが、彼が15歳を迎えるにあたり花魁付きは卒業するので、
指導を受けているのは私一人になる。蘭菊は宇治野兄ィさまに付い
ているので、また別だ。
﹁どうしてだと思う?﹂
この人の場合、其処にいるだけで女は堕ちるだろうし、客に囁く
だけで一晩100両は飛ぶ程だと思う。正直、そのようなお人の教
えを実践しても、本人程効果的じゃ無いんじゃね⋮とか思っている
人には思わせておく。兄ィさまが外見だけで花魁やってられてると
思うなよ!?
﹁接吻はね、本当に心を貴女に捧げても良いと言う証なんだよ。遊
男のね。まぁ手管の最後の手段とでも言うかな﹂
275
久しぶりに入った清水兄ィさまの部屋は、相変わらず殺風景で。
何か色物を少し足した方が良いと思うのだが⋮男の人ってそういう
部屋が好きなんだろうか。
羅紋兄ィさまの部屋は逆に派手だから一概には言えないけれど、
鏡ならまだしも箪笥や化粧台にまで白い布を掛けているのが不思議
でならない。もしかして極度の潔癖症とか?
﹁じゃあ、ここぞと言う場面で使うのですね﹂
しかし、ほうほう。
なら清水兄ィさまは雪野様に心を捧げていると言う事だろうか。
禿の頃、押し入れの戸ごしからだが雪野様の﹃接吻してください
ませ﹄と言う声が聞こえてたし、最終的には﹃幸せです﹄とか言っ
て雪野様は満足そうだったからきっと違いない。
このことはなるべく忘れたい出来事の一つなのだが、こう言うの
に限って中々忘れられない物なのである。
﹁まぁ、そう言う事かな。それでね、芸者も退いて客と二人になっ
た時、どれだけ相手の心を惹かせられるのかが勝負になるんだけど﹂
﹁どう惹かせるのですか?﹂
いや、ちょっと待たんかい。
私芸者になるんだよね。
私その途中で座敷を退く芸者の位置にいる人だよね。
あれ?
﹁恋の駆け引きかな﹂
﹁駆け引きですか﹂
276
とか毎回思っている私だが、薄々おやじさまが何を考えているの
かは勘づいている。今日まで惚けたフリをしていた私だが、本当は
引っ込みになった時点で色々怪しいとは思っていたのだ。あまり受
け入れたい事実では無いので﹃私は男芸者になる。私は男芸者にな
るんだよ﹄と自己暗示を掛けていたが、こんな指導を受ける事にな
ると、とうとうそんな暗示も役に立たなくなってくる。
そろそろ現実を見なければいけないようだ。
だからおやじさまも、いつまでも本当の事を隠していないで素直
に私に言って欲しい。言われたら言われたで、そりゃちょっと文句
が出るかもしれないけれど。
だがこんな事を考えていても事態が変わるワケではない。取り敢
えず今は兄ィさまの話に集中しよう。私の今後を助ける武器を身に
付けなければ。
﹁例えば⋮初歩的な駆け引きだと、最初は相手がしなだれ掛かって
きても怒らせない程度に避けて、なるべく優しく⋮少し距離を取る
んだ。そして相手がその態度に痺れを切らして来た頃に、やっと甘
くするとかかな﹂
﹁甘く?ですか﹂
今の手管をまとめて言っちゃえば、ようは﹃ツンデレ﹄になれと
言う事だろうか。凄く蘭菊が得意そうな技だなぁ⋮天性の才能だも
のアレ。
﹁甘くだよ。⋮野菊、私の隣に来てみて﹂
そう言われたので今いる清水兄ィさまの前から、指定された右隣
のスペースへと畳に手をついて立て膝で移動する。これも此処での
座敷の作法になる。近い場所への移動なら、わざわざ立つ事はせず
277
に、手と膝を使い畳を這うのだ。何か変な感じ。
﹁まずね⋮こうやって片手を相手の首の後ろに回して﹂
﹁あの⋮﹂
﹁少し肩を押して後ろへ倒すんだよ﹂
﹁に、兄ィさま﹂
グググ⋮と兄ィさまの手に肩を押されて後ろに倒される。
私はどうやら甘くする時の客の役をやらされているらしい。﹃甘
く?﹄の私の言葉に何の解釈をしたのか、いきなりの体験指導にビ
ックリするも既に遅し。
確かにこうすれば身に染みると思うがちょっと心臓に悪いぞこれ。
誰か助けてくれ。
﹁客の空いた手はそっと握りしめて⋮﹂
そう言うと私の右手にすかさず兄ィさまの左手の指が絡みつく。
指導しながらも、それが普段お客に向けている瞳なのか目がスッ
と細くなっており、若干本気で相手をされているのか危うく黒い瞳
の中にある渦に呑み込まれそうになる。
狙った獲物は逃がさないと言わんばかりの瞳で、狼の捕食対象に
でもなった気分だ。
﹁耳元にそっと唇を寄せてね、声は低く囁くように、﹂
﹁に、ふ⋮あはっはは、くっくすぐったいです兄ィさま﹂
だが兄ィさまのサラサラな黒い髪が私の頬や肩に滑り落ちてくる
せいか。それとも耳元で話されているからか、色々くすぐったい。
思わず顔を兄ィさまがいない反対側にそらして体を捻り笑ってしま
った。
278
﹁ふふ、笑ってる君も可愛い﹂
﹁ははっ⋮⋮はぁ﹂
兄ィさまも私につられたのか、笑い声が顔の横から聞こえて来た。
それと同時に更に体が近づいて来たので笑いの震動が直に伝わって
くる。
兄ィさまに握られている手は妙に汗ばんでいて、一度離そうとす
るも細く長い指が私の指に絡んでおり、簡単には解けない。そして
解こうと指を動かすほど拘束が強くなっているのは果たして私の気
のせいなのだろうか。
﹁清水兄ィさま、少し手を﹂
﹁叶うなら⋮君と千夜の夢に溺れてみたい﹂
此処でタラシが発動。
先程の教えの通り低く囁くようにそう耳元で言われる。
なるほど、此れが限界まで相手を焦らした後に﹃甘く﹄するって
言う事なのか。
﹁ねぇ野菊、私と意識の果ての極楽浄土を見たくはない?﹂
ご、極楽浄土って天国の事だよね。
すなわち天国に行きたいと言う事だろうか。
﹁え、と﹂
私と無理心中をしようと⋮?
と言う事は⋮え⋮死にたい?もしかして死にたいと思っているの
兄ィさま!この仕事に嫌気が差したとか、雪野様と一向に一緒にな
279
れないからいっそ死んでしまおうとかお考えなの!?まだ兄ィさま
は22なんだよ、生きてれば良いことあるっておやじさまも言って
いたし、早い、早すぎる。しかもこんな指導中にいきなりそんな台
詞をブッ込んで来るほどなんだから、これはそうとう追い詰められ
ていると言う事なのだろうか。
これはいかん!
﹁兄ィさま、まだ早いです!お気を確かに!!﹂
﹁まだってことは、いつかは良いの?﹂
﹁えーと⋮。い、良いと言いますか、自然にその時が来たら極楽浄
土を見ませんか﹂
ヨボヨボのおじいさんになるまで生きて、寿命が自然と尽きるそ
の時まで生きて欲しいです。
280
始まりは 7年目の物語 5
本日は秋水と凪風の晴れ舞台、花魁道中を行う日である。
﹁ここ曲がってるぞ﹂
﹁あ、本当だ。ありがとう秋水﹂
﹁しょうがない奴だよな、幾つんなっても﹂
私の直垂の結び目を秋水が丁寧に直してくれる。呆れた顔をしな
がら私の頭をガシガシと手でかく彼は、私をいつまでも﹃しょうが
ない奴﹄と言い、新造になり道中で隣を歩くようになった今になっ
てもその認識は一ミリも変わらなかったらしい。これでも結構しっ
かりしていると思うんだけどな自分。
道中に参加する者はいつもより三時間は早く起きて支度を始める。
今私がいる広い一室では、道中に必要な花魁と、花魁になる新造に、
まだ新造の者と禿の皆で一緒になってお着替え中である。
畳に広がる色鮮やかな着物や飾りに化粧道具は、窓から射し込む
朝日に照らされてよりいっそう鮮やかに輝いている。もっとも、そ
れが一番輝きを増す時は遊男達が身に纏う時だけれども。
﹁野菊兄ィさま、これで良いのでしょうか?﹂
﹁か、可愛い⋮うんうん、合ってるよ。小さいのにとっても立派だ
ね﹂
﹁兄ィさまも素敵ですよ!﹂
そう言ってくれるのは、滅茶苦茶かわゆい禿の男の子。
281
器量が良いとか悪いとかは無しにして、禿の子達は皆物すんごく
かわゆい。
﹁世辞だぞ野菊。良かったな﹂
﹁秋水五月蝿い﹂
秋水達が私と最初に会った時と同じ年齢だけれども、奴等を可愛
いと感じた事は一度も無い。︵ツンデレ蘭菊には反応しているが︶
﹁うぅ∼可愛いなーこいつめ∼っ﹂
﹁わぁ野菊兄ィさま!﹂
﹁楽しそうだなお前等∼。俺も混ぜてみな﹂
﹁わぁっ、!﹂
着替え前なのか単衣姿の羅紋兄ィさまが現れて、いきなり禿ちゃ
んを抱っこしている私ごと持ち上げだした。形としてはお姫様抱っ
こと言うやつで、たいへん力持ちなお方である。
そんな行動に似合わず兄ィさまからは朝露に濡れた深緑の草木の
香りがした。とても爽やかだ。外に出てはいない筈なのに何故そん
な香りがするのかは不思議だが、兄ィさまから何かアロマテラピー
的な物が出ているんだろうなー、とか思えば特に気にはならない。
体臭じゃなく、アロマねアロマ。
だが取り敢えず支度も続けたいし降ろしても欲しいので足をバタ
バタしていれば、﹃暴れるな暴れるな﹄と言い何が面白いのかニヤ
リと笑って急にグルグルとその場でまわりだした。
﹁ほれほれ∼﹂
﹁羅紋兄ィさまーもっともっとー!﹂
282
⋮ええい!やめんかい!!と大声で叫びたいところだけれど私の
腕の中にいる禿ちゃんはたいそう楽しそうな声を上げているので、
咄嗟にお口のチャックをしめる。
﹁む、⋮ムガぅふ!?﹂
痛っ、ちょっちょっと舌噛んじゃったじゃんよ!いってぇぇ!!
チャックするんじゃなかった、⋮と言うか﹃ムガぅふ﹄って何だ
私。
﹁あの羅紋兄ィさん、この瑪瑙の耳飾りを借りても良いですか?﹂
﹁ほーれ⋮ん?﹂
凪風の声が聞こえたと思ったら、羅紋兄ィさまの動きが止まった。
着替えを終えた凪風がグルグル周っている兄ィさまに話掛けたの
で、どうやら話す為に一時的にグルグルを止めたようだ。
うぅ゛∼気持ち゛悪い。吐くっ吐く!!舌も痛いよ。
降ろせぇ!!
﹁ああ、良いぜ。凪風に良く似合うだろうよ。あ、ちょっと待て。
今日は揃いで行こうぜ?俺も瑪瑙の耳飾り付ける﹂
﹁えぇー。兄ィさんと一緒ですか﹂
﹁何だ何だ、不満かコラ﹂
止まったら止まったで頭が急な停止についていけずまだまだ脳ミ
ソだけがグラグラと揺れに揺れている。禿ちゃんはやはり楽しかっ
たようで、目も揺々している私の視界から見ても笑顔がうーっすら
と分かった。
そうかそうか、楽しかったか。うん、君が楽しかったなら私はも
う何も言うまいよ⋮。
283
とりあえず私はベロにつける薬が欲しい。
﹁不満は無いですよ﹂
﹁だったら眉間のシワを伸ばせ馬鹿ちんが﹂
まだ話をしている二人。実を言えば凪風は羅紋兄ィさまの部屋付
き。
凪風にデコピンをお見舞いする兄ィさまとの仲は、その態度に似
合わず良好なようで、今も眉間にシワを寄せ嫌そうな顔をしている
が、こうして会話をするのが楽しいのか右の口角が少し上がってい
るのが見える。羅紋兄ィさまもそれが分かっているのか、本気で彼
を怒りはしない。悪魔にも可愛いところはあるらしい。⋮あ、可愛
いって言っちゃった。
﹁ねぇ﹂
と、いきなりこの空間に割って入るそんな声が聞こえた途端、私
の上に黒い影が落ちる。誰だ。
﹁ねぇ羅紋、早く着替えちゃいなよ。ほら⋮こっちにおいで﹂
﹁だ、大丈夫ですよ。あの、今羅紋兄ィさまに降ろして貰いますか
ら!﹂
声と影の正体は清水兄ィさまだった。
やはりまだ低い声の兄ィさまには慣れなくて、声だけ聞いても誰
だか判別出来ない現状なのである。何か⋮良く分からないけど凄く
ゴメンなさい兄ィさま。けして認識出来ないワケじゃ無いんです。
﹃え∼と、え∼と、うーん。あーこの声は⋮きよ⋮⋮いや、ええと﹄
みたいな感じであやふやになるだけなんです。すいません!すいま
284
せん!!
﹁野菊、嫌なの?﹂
﹁いっいえ!滅相も御座いません⋮が⋮﹂
他の禿や新造達の着替えを終えた清水兄ィさまは未だ単衣姿の羅
紋兄ィさまを促すべく私達を回収しようと、私と禿ちゃんをそのま
ま羅紋兄ィさまから抱き上げようとしてくれていた。
かものはいろ
が、清水兄ィさまの申し出は断る。
綺麗な鴨羽色の着物に着替えていると言うのに、私達を抱っこし
たら崩れてしまうじゃないか。
もうちょっと其処を気にしてくださいよ兄ィさま!
﹁野菊兄ィさま、聞いておいた方が⋮﹂
﹁お前にわざわざやらなくとも、普通に降ろせば良いだろうが。な
ー?﹂
羅紋兄ィさまは頬を膨らませながら清水兄ィさまにブーブー言う
と、溜め息をつきながら私と禿ちゃんを畳に降ろしてくれた。
にに、兄ィさま!今の表情メチャメチャ可愛いかったです!!ほ
っぺがプゥーって、ほっぺがプゥゥーって⋮⋮ワンモアプリーズぅ
!!
あー良いもの見ちゃったな∼。ふんふんふ∼ん。らんらんら∼ん。
ラン。
あ、そう言えば。
﹁清水兄ィさま、蘭ちゃんはどこですか?﹂
﹁蘭菊?﹂
285
朝起きた時以降、一度も見ていない気がする。視界の端にあの赤
がチラチラ見えていたのは確かなのだが⋮。
﹁蘭菊なら厠だよ。かれこれもう13回は行ってるかな﹂
あぁ、なるほど。緊張しているのか⋮
﹁お披露目だから見物人も凄いだろうしね、蘭菊の気持ちは分かる
よ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁禿や新造の動作一つ一つも主役である秋水や凪風の品を左右する
からね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁野菊?﹂
﹁ちょっと私も厠に行ってきます!!﹂
兄ィさまの言葉を遮りダッシュで厠へと私も向かい出す。⋮あぁ
∼畜生!結局私もか!!
清水兄ィさまの話を大人しく聞いていたら腹の中の筋肉が締まり
尿意が突然襲ってきた。
どうやら蘭菊の緊張の種が自分にも移ってしまったようである。
いやぁ!チビりたくない!!
﹁うわっ、あ⋮なんだ野菊か﹂
﹁そうそう私ですよ!早くそこ退いてー!!﹂
厠の前に立ちはだかる赤い小僧を恨めしく見詰めながらバシバシ
と相手の肩を叩く。眉を潜めるもそれに対し文句を言い返さない彼
はいつもより可笑しく、やはり厠から出た直ぐでもやっぱり緊張し
ているらしい。⋮まぁ厠で流せるのは物理的に言えば排泄物だけだ
286
からね。不安や緊張は流れませんからね。
﹁もしかして緊張してんのかお前﹂
﹁厠13回目の蘭ちゃんは私に何を言いたいのさ﹂
﹁っあの変態野郎!!﹂
地団駄を踏みながら頭から湯気が出そうな程に真っ赤になる蘭菊。
今は⋮とりあえず早く其処から退いて欲しいんだけど。
私の無言の睨みにやっと反応した彼は厠の入口から一歩離れて道
を開けた。
なんだ、やれば出来るじゃないか君。ふっ。
﹁ほら、早く言って来いよ。待っててやる。一人でいるより同じ立
ち位置の奴が一緒にいた方が安心するもんだろ﹂
﹁っ蘭ちゃん!⋮⋮⋮⋮⋮⋮安心したいのか﹂
﹁お前なぁ!!﹂
さも﹃俺がいてやる﹄的な事を言っているが、ようは自分の心も
安定させる為の口実に過ぎない事だというのを私は見抜いています
よ。
﹁ま、まぁ取り敢えず。野菊、深呼吸だ。深呼吸﹂
﹁すぅーはぁ∼∼﹂
便乗しますけどね。︵結局同じ︶
あ、そう言えば舌がもう痛くないや。やったね。
287
●●●●●●●●●●●●●●
昼間の太陽は高く、日射しは妙に優しい。まだまだ肌寒いこの季
節の空気の中、吉原の通りの両端には人がごった返している。
ゴミが人のようだ。
⋮あ、違う違う。
人がゴミ山のようだ。⋮いや、これも何か違うか。まぁ、言いた
い事は何となく伝わっているだろう。
いよいよ道中が始まるのだ。
﹁緊張する?﹂
道中のスタート地点は天月妓楼の前の道。私達はその地点で指定
された順番に並びスタンバイしている。並びは秋水のグループが前、
凪風のグループが後ろ。
花魁である兄ィさま達は、それぞれ自分の下に付いていた新造の
後ろにつく。私は秋水の隣、蘭菊は凪風の隣で歩いて、此れから花
魁になる者のお供をする。
隣で歩く新造は紅い番傘を持ち秋水達の上に差すのだが、これは﹃
花魁になる者﹄だと分かりやすいようにという目印だと聞いた。
﹁⋮正直まだちょっとします。また厠へ走りそうです﹂
﹁俺も正直緊張でやられそうです﹂
あおずみ
秋水の着物は黒地に大きな紅い菊の花が咲いた柄で、地面まで長
さのあるデカい羽織は青墨色。青髪青眼の彼にピッタリで、端を縁
取る金の刺繍が印象的だ。耳には爪楊枝位の長さの金の細い耳飾り
がぶら下がっていて良く似合っている。
顔も凛々しくて⋮うん、立派な花魁だ。
288
しかし平気そうな顔をしていた秋水も実は緊張Maxだったらし
い。⋮そりゃそうか。今日の主役なんだもん。此処にいる誰よりも
緊張している筈だ。
﹁そうかぁ。まぁ、そうだよね。⋮二人とも今までで楽しかった事
とか思い出してごらん?﹂
﹁楽しかった事ですか?﹂
﹁うん﹂
楽しかった事⋮。
﹁俺は野菊が風呂に落ちた時とか、野菊がおやじさまに数の子食べ
らんねーで怒られた時とか、野菊が怪談話で絶叫してた時とか、野
菊が⋮﹂
﹁⋮秋水、殴って良い?﹂
﹁野菊や凪風、蘭菊と一つの布団で皆一緒に寝た時とか。あれ、最
高に楽しかったぜ﹂
人を散々面白がった発言をしていると思えば、急にそう言って私
に向かい楽しそうな顔をする彼。ふいを突かれた私はついつられて
笑顔になる。
﹁私もね、秋水達と稽古してた時とか皆にお風呂で毎回膝に乗せて
貰ってた時とか、おやじ様の頭がいつ禿げるかを寝ながら皆で討論
した時とか、あと﹂
指折り数える私の頭の中には沢山の思い出が浮かび上がってきた。
秋水達3人だけの思い出ではない、兄ィさま達と過ごした始まりの
記憶からの色褪せない日常も走馬灯のように流れだす。
思えば悲しい事は少なかった。いつも傍には誰かがいたから。お
289
やじ様の家にいた最後の2年はチャッピーや護との出会いもあった
し、十義兄ィさまも定期的に遊びに来てくれていたのだ。
誰かと、皆といる時、最高に楽しかった事を私は覚えている。
﹁野菊、秋水。皆と、仲間と一緒なら何時だって何だって楽しかっ
たね。いるだけでも勇気だって湧くこともある。私達もついてるん
だ、怖い物なんか何も無いだろう?﹂
﹁はい!﹂
﹁兄ィさんは元気づけるのが上手いですよね﹂
清水兄ィさまはニコリと笑う。
﹁秋水ー!野菊ー!﹂
﹁凪風?﹂
後ろの方にいる凪風が大きな声で秋水と私を呼んでいる。
ていおうむらさき
振り返り見てみれば、可笑しそうな顔で蘭菊を指差している凪風
がいた。
しこん
凪風の着ている着物は帝王紫の布地に大柄の白い菊の花。羽織は
紫紺色で羽織紐は銀。耳元には瑪瑙の耳飾りが輝いている。胸まで
ある少し長い銀の髪は瑪瑙の飾り紐で下を束ねて結んで後ろに垂ら
している。
よっ、イケメン。
﹁道中終わったら部屋で蘭菊が腹芸見せてくれるらしいよー﹂
﹁腹⋮⋮ククッ、それいーな!﹂
﹁蘭ちゃん⋮﹂
蘭菊は自分から腹芸するぜ!ってキャラでは無いような気がする
290
んだけど。もしかして⋮と凪風の後ろにいる羅紋兄ィさまを見る。
﹁よーし、頑張れよ蘭菊﹂
﹁羅紋兄ィさんが変な事言うからじゃないですか!!﹂
ふ、やっぱりな。
ゆ
﹁さぁ天月の花魁道中!道明け行くのは秋水花魁、凪風花魁だ!!
者共、道を塞ぐなよ!!﹂
︱︱︱ワァアアー!!
キャー!
秋水様ー!!
凪風様ー!!
ああっ、清水様よ!?清水様ー!!
羅紋様もいるわ!羅紋様ぁー!
新造も可ぁ愛い∼!
おやじ様の白熱した掛け声に、見物人が見事な歓声を上げて始ま
った道中は、見事始まりから終わりまで完璧な仕上がりになった。
終始秋水は楽しそうな顔をしており、多分彼の頭の中は蘭菊の腹芸
の事で満たされていたのだと思う。⋮時々吹き出しそうになってた
し。
ムフ。蘭ちゃん、良い働きをしたなお主。
291
⋮ただ、気になった所と言えば。
秋水が最初に床入りする相手の雪野様と引手茶屋で会った時に見
せた表情だろうか。
292
始まりは 7年目の物語 6
2日目の道中を終えた夕前。
空は澄んだ青からやんわりと紅に変わろうという刻。
﹁いいですか?閨では基本、着物は脱ぎません﹂
チラ、と長い髪を背中へ流し、自分の着ている長着の襟を捲る無
駄に色っぽい宇治野兄ィさま。
いや、もはや兄ィさまでは無いぞ。姉ェさまと呼ばせて頂こうで
はないか!!
﹁俺もう知っています﹂
﹁でも野菊は知らないでしょう?﹂
﹁むうぅ。付き合わせてゴメンね蘭ちゃん﹂
あれだけの大きなイベントがあっても稽古をしないワケではなく、
夜のお座敷まで時間があるので、今現在も宇治野兄ィさまのお部屋
で部屋付きの蘭菊と一緒に兄ィさまから花魁のいろはを学んでいる
最中である。
﹁あの﹂
﹁何ですか?﹂
本日は閨での基本事項を教えて頂いている。
色は売らないぜ!とおやじ様から言われているのだが、何故今私
は学ばされているのだろうかと微かな疑問を感じながら宇治野兄ィ
293
さまの話を正座して聞いて頷いている。
しかし、閨と言えば。
﹁あの、秋水が⋮﹂
秋水と凪風は床技の最終チェック中。
本番前に花魁の兄ィさまからそれについての指導が入るのだ。客
が慣れているとはいえ、こちら側からの粗相は無いようにしたい為、
念には念をと言うことだ。
内容を聞いていてあまり気持ちの良いものでは無い。
だって、良く知る人に夜のチョメチョメについてを学ばされるん
ボーイズラブ
ですぜ。いたたまれないよ私。しかもギリギリだけど実践すること
もあるらしいから、はたから見ればまるでBLの世界ですよ。
まぁ、皆良い男だからそうだとしても萌え⋮ぐふふ。
﹁?秋水がどうかしたのですか?﹂
﹁元気が無くて⋮﹂
終始笑顔だった彼が唯一顔を崩したあの瞬間。
私はその表情の理由が分からないと言う程馬鹿ではない。この世
界にある程度いれば、その顔が示す思いは正確では無いにしろ大体
どんな物なのかは勘づくであろう。
あの表情は﹃恐怖﹄と﹃少しの好奇心﹄が入り交じった、なんと
も形容しがたい哀しい顔だった。
出来るならそんな顔をして欲しくは無かったのだが、本人も出来
るならそんな顔をしたくは無かったのだと思う。なんせ私みたいな
お子ちゃま︵秋水にとってはですよ︶が隣にいたのだから。弱い部
分を普段私や皆に一ミリたりとも見せたがらない彼だから、相当な
事だ。雷の時本人は1度も怖いなんて言った事はなかったし、能面
294
顔になるだけだったし。少なくとも弱い部分は見せない様にしてい
たと思う。
蘭菊も分かっている。
﹁凪風も同じだ。淕様に茶屋で会った時。⋮俺、元気づけられる言
葉掛けらんなかった﹂
﹁蘭ちゃんの役立たずめ﹂
﹁おま、﹂
﹁私も役立たずめ⋮⋮能無しめ⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
いくら芸を習って手管を学んだとしても、こんな時には全くの役
に立たないのが腹立たしい。
﹁二人とも、行って来なさい﹂
﹁え?﹂
二人して落ち込んでいると、格子の外の夕陽に顔を向けながら自
分の隣に置いてある三味線を撫でている宇治野兄ィさまが溜め息を
つく様にそう言った。
つり目の目尻はいつもより少し垂れていて、視線の先を追うも、
空の先の先を見つめていて、なんだか遠い何かに思いを馳せている
ように見えた。
﹁まだ閨の時間まで少しある筈です。二人の所に行ってあげなさい﹂
﹁稽古は、﹂
﹁稽古ならいつでも出来ますから。でもあの二人が子どもでいられ
る時間はあと少ししか無いんです。行ってあげなさい﹂
295
赦すように言われたその言葉に、私達は弾かれるかの様に立ち上
がった。
しかし私は忘れていた。
﹁野菊行くぞ!﹂
﹁うっうう⋮うう゛うん!﹂
﹁?﹂
ずっと正座でいて足が痺れていた事を。↑︵バカ︶
●●●●●●●●●●●●●●●●
﹁二人ともなにか用か?﹂
﹁ニャーン﹂
目的の部屋に着くと、夜に向けて艶やかな長着を着た秋水が、座
りながら膝に護を乗せて宇治野兄ィさまと同じく格子の外の夕陽を
眺めていた。青色をした頭が赤に照らされて紫に見える。なんかパ
レットみたい。
どうやら兄ィさまからの指導は終わっていたようで、秋水の部屋
には彼しかいなかった。
私達に気づき振り返り此方を見ている相も変わらず晴れない顔を
した秋水は、分かりやすい程に口がへの字になっている。こら秋水、
そんな顔をしているとブサ⋮⋮まぁ格好いいからそんな顔をしてい
てもサマになるだけなんだけど。はい。
いや⋮と言うか護、何であんた其処に。
296
﹁どーしたんだよお前等﹂
﹁あ、と⋮。えっと﹂
﹁その、なんだ。あれだあれ﹂
そう言えば、勢いで来たのは良いけれど何を話したら良いのかを
考えていなかった。蘭菊も同じだったのか身振り手振りしながら何
かを伝えようとしているも言葉が﹃あれ﹄しか出てきていない。間
抜けにしか見えない。私もだけど。
ちょっ、ちょっと待ってね。今考えるから。3分頂戴⋮⋮。⋮い
や、やっぱちょっと待ってね。やっぱもう1分追加で。
﹁ええとね、﹂
頑張れ、は違うと思うし。
﹁なんだよ﹂
眉間にシワを寄せている秋水さま。⋮すいません、すいません!
怒らないでください!
な、なんかやっぱり、この行動は本人にとって余計なお世話なの
かもしれない。
もしかしたらこう言う時は一人になりたい物なのかもしれない。
誰かに何を言われたって、所詮他人事に聞こえてしまうのかもしれ
ない。
そう思うと⋮⋮う∼ああ、もう!難しいよ人間。人間の馬鹿野郎
!!
﹁あの、﹂
297
でも本当に、ただ心配だったのだ。
前に思ったように同情とかの気持ちでは無い、友人・仲間として
当たり前の感情で。
︱︱きゅ、
﹁わぁっ、⋮え﹂
頭の中で色々考えていると、思いきり何かに抱き着かれる。
瞬間私の身体に伝わったのは、その何かの微かな震えだった。
﹁なぁ、俺は立派か?﹂
視界の隅に入ったのは青い髪で。
この震えている人は秋水なんだと数秒後認識した。
﹁立派だよ﹂
﹁誇れる人間か?﹂
﹁私は尊敬してるよ﹂
こんな秋水を見た事が無いから対処の仕方なんてよく分からない。
何かにすがるような声をしているが、秋水の問いにただ素直に答え
る事しか今の私には出来なかった。
﹁お前は男か?女か?﹂
﹁え、お、男だよ﹂
﹁そうか﹂
⋮今聞く必要あるのかそれ。
298
﹁お前は俺を嫌わないか?﹂
﹁寧ろ好きだよ﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当に本当﹂
彼の顔は私から全然見えない。見えるとしたら、抱き込まれてい
る左の肩端と着ている長着の黒柳色に賽の目柄が少し。あと、口を
パカパカ開けて此方を見ているアホ面をした蘭菊のみ。
だから私の視界からでは秋水がどんな表情をしているのかが全く
判断出来ない。
それでも。
﹁お、おい秋水、何してんだ﹂
﹁羨ましいのかお前﹂
﹁ちっげーし!!﹂
今再び彼の体から伝わった震えが、恐怖からくる震えでは無いと
言う事は確かだと感じる事は出来た。
スー⋮ガタっ
﹁あれ、二人とも稽古じゃなかったの?﹂
﹁凪風!﹂
秋水の次に突撃しようとしていたターゲットが、部屋の戸をタイ
ミング良く開けて現れる。見れば彼も立派な長着に身を包んでいた。
﹁おっ。よし、良いところに来たな凪風!俺が今からとっておきの
299
秘策を教えてやる﹂
﹁は?﹂
﹁いいか秋水、凪風!雪野様と淕様をじゃがいもだと思うんだ!﹂
いきなり何を言い出したかと思えば、冗談なのかふざけているの
か、典型的な緊張ほぐしの伝授だった。凪風なんかは若干呆れた目
をしている。
しかし冗談ではなく、それを本気でアドバイスしていると言うな
ら、私は口から出掛けた言葉を飲み込んで心の中で叫ぼうと思う。
︱︱︱︱馬鹿かお前!!
﹁俺はじゃがいもと交わるのか⋮﹂
﹁そ、あ⋮いやっ、違げー!!じゃがいもじゃなくてな﹂
﹁蘭ちゃん⋮言いたい事は分かるけどちょっと静かにしようか﹂
これ以上二人の心を乱さないでくれお馬鹿。
と思う所なのだが、会話の内容に反して非常に和むやり取りに感
じたのは、秋水の頬が上がっているせいなのか、それを見てる私の
口からププっと笑い声が漏れたせいなのか、はたまた凪風が蘭菊の
頬っぺたをグイグイ引っ張っているせいなのだろうか。
﹁僕そこまで緊張はして無いんだよね∼。これが﹂
﹁おひ!はらへぇ!︵おい!離せぇ!︶﹂
﹁あ、そうだ。野菊、﹂
何かに気づいたように蘭菊の頬からパッと手を離し、そう言いな
がら私にゆっくりと近づいてくる凪風はニコニコニコニコしていて
気味がわる⋮いやいや元気そうで何よりです。
300
﹁ぶひゅっ﹂
﹁野菊、ちょっと僕の目を見てみて﹂
突然両頬を思いきり手で挟まれて顔を凪風の方に固定された。な
んてけしからん奴だ。そんな事せずとも言われればちゃんと見るっ
ちゅーに!!
﹁はにゃひてくはさい︵離してください︶﹂
﹁ん?ちゃんと喋って﹂
じゃあ離せよゴルァアア゛!!!悪魔!ドSめぇえ!!
⋮ゴホン、ゴホン。失礼。
とりあえず。しょうがないので彼の瞳をじーっと見つめる。
﹁ぬぅ⋮⋮﹂
ジ︱︱︱︱︱︱︱。
⋮あ。
なんか変な感じがしてきた。
だんだんと凪風の顔じゃ無く見えてきて不思議な感じ。誰ですか
おたく。始めましてどーも。
﹁僕だよ僕﹂
すいませんでした。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
301
お互い無言。
しかし、こうじっくり見てみると凪風の瞳は綺麗だなー。灰色だ
が艶があり彼の髪のような銀色に輝いている。
いいなー。私もどうせなら赤とか青とか銀とかカラフルな色彩持
ってたらなぁ。羨ますぃ∼。
﹁お前等何してんだ?﹂
凪風に摘ままれていた自分の頬を手で抑えてスリスリしながら、
不思議そうに私達を見る蘭菊。
﹁野菊の瞳を見てるんだ﹂
はい、そうですね。
﹁瞳?⋮⋮⋮⋮!っまさかお前、﹂
﹁あー。ほらほら、蘭菊抱き締めてよ﹂
﹁オイお前誤魔化すな!∼離せコラ!﹂
私の顔から手を離し、隣に来ていた蘭菊を抱き締め始めた凪風。
ふぅ。ある種のお見合いタイムが終わりホッとする。
私の目の前で抱き合う彼等は、それはそれはもう仲良しさんで。
﹁そうだ秋水、おやじ様の所へ一緒に行く約束だったでしょ。だか
ら今呼びに来たんだけど﹂
﹁ああ、そうだったな⋮。じゃあまた明日だ二人とも。⋮ありがと
うな﹂
﹁僕も、ありがとう。また明日﹂
302
思い出したら早いか、二人はそう言うとあっという間に戸の外へ
と消えていった。
ありがとうと言われたが、稽古を中断して意気込んでやって来た
割にはたいして何も出来ていなかったような気がする。と言うか何
もしていない気がする。押し掛けただけな気がする。
気がする。
気がする⋮。
﹁なぁ、﹂
秋水の部屋に二人残されたこの空間に、蘭菊のまだ少し高く変声
期を迎えていない声が響く。
﹁何?﹂
﹁⋮あいつらは馬鹿だ。姿を重ねたとしても、所詮一時の夢を見て
いるに過ぎないのに。ここは女が夢を見る場所だ⋮男は夢を見たら
終わりなんだぞ。分かってるのかよ﹂
﹁蘭ちゃん、﹂
﹁⋮あ∼ヤメだヤメだ!ほら、お前今日俺と一緒に宇治野兄ィさん
の座敷だろ。支度するぞ﹂
蘭菊は口早にそう会話を終わらせると、私より3歩先の距離を保
ちながら自分達の部屋へと歩き出したのだった。
303
始まりは 7年目の物語 6︵後書き︶
あとがき。
﹃あれ?護は?﹄
﹃ニャーン!﹄
﹃こいつ忍者みてーだな﹄
﹃もう⋮。チャッピーは部屋にちゃんといるのかな∼﹄
﹃ミーニャーン︵部屋で寝てるよ︶﹄
﹃そっか、寝てるんだね﹄
﹃分かるのかよ﹄
兄ィさま達は頭撫で撫でが主ですが、同期組では抱き合うのが主
みたいですね。⋮外人か。
304
始まりは 7年目の物語 7
なんかオデコが冷たい。
シットリしてるような、いや、私のオデコがシットリしてるので
はなくて、シットリした何かがオデコに⋮
﹁おい起きろ!﹂
﹁ゲ∼コ﹂
ゲ∼コ?
あぁ、蛙か。
蛙、んー⋮蛙と言えば緑だよね。緑、緑緑⋮緑と言ったら羅紋兄
ィさまでしょ、そんで羅紋兄ィさまと言ったら泣き黒子。泣き黒子
は黒い、黒、黒∼⋮と言ったら清水兄ィさま。兄ィさまと言ったら
綺麗、綺麗と言ったら夕陽、夕陽と言ったら赤い。赤いと言ったら⋮
﹁らぁ⋮んちゃん⋮﹂
﹁なっ、﹂
蘭ちゃんと言ったら
﹁お、⋮﹂
﹁お?﹂
﹁お、ばか⋮﹂
﹁⋮何だとチビが!馬鹿はお前だ!早く起きろっつーの!!﹂
﹁ゲコ!﹂
ベシッ
305
オデコのシットリが無くなったと思ったら次に訪れたのは突然の
打撃だった。
⋮おいおい、なんだ誰だバカ野郎。痛いじゃないのさ。まだ頭じ
ゃなくて良かったよ、もう。
え?だって禿げるからさ。
﹁⋮あ⋮おはよう﹂
さすがの衝撃に微睡みからゆっくりと瞼を開き目を醒ますと、私
の顔を苛々しながら覗き込んでいる赤い坊主がいた。手にはチャッ
ピーを乗せているのが見える。チャッピーは私が起きたと確信した
のか、蘭菊の手からピョンと飛んで、未だ横たわったままの私のオ
デコの上に着地した。
もしかしてシットリの正体チャッピー?
ん?このシットリ感⋮。
あ、
﹁ゲコゲー︵俺だ︶﹂
あぁ、やっぱりね。そうだと思ったよ。うんうん。
それから顔を動かして窓の外を見てみれば、晴れ渡る空が良く見
えて、雀がチュンチュンと格子の向こう側で伸び伸びと飛んでいる
姿が目に映った。
とても爽や⋮⋮⋮⋮⋮あ⋮わ。え⋮⋮ウェェ。今雀が口に咥えて
たのもしかして虫?
ウェェ。爽やかな寝起きに見るもんじゃないよ。
まぁ、自然界のピラミッドからするに仕方のない光景だけどさ。
朝一で見たく無かったな。
306
﹁おはよう⋮じゃねーよ。早く部屋掃除しねーとおやじ様が来るだ
ろうが!!急げ馬鹿!﹂
﹁⋮え。⋮あっうわわ!ゴメン蘭ちゃん!!今布団も仕舞うからっ﹂
座敷の時以外で着る着流しに身を包んだ蘭菊が、布団の上で上半
身を起こした私の隣に腕を組んで立ちながら怒鳴る。
なんだ偉そうにこの野郎が!!と言いたいが、今の状況では完全
に私に否があるのでそんな事は言えない。素直に謝ります。ごめん
なさい蘭ちゃん。と言うか私も寝惚け頭で多分﹃蘭菊はお馬鹿﹄と
か別に言っちゃったような気がするのでお相子で。
﹁お前今日は羅紋兄ィさんの座敷だっけか?﹂
﹁うん﹂
窓の砂を布ではたきながら綺麗に掃除していく。話しながらだが、
比例して手が動いていないワケでは無いので良いのです。
﹁ゲコ︵おい、ちょっと︶﹂
⋮あ、チャッピーの水取り換えようかな。
﹁⋮何かほんとにお前たらい回しだよなー。その内秋水と凪風の座
敷にも出るんじゃねーの﹂
﹁どうかなぁ﹂
秋水達が花魁になって、あれから2ヶ月。
別段これといってそれからの二人の様子に変わった所は無い。た
だ一つ変わったとすれば大人っぽくなったかな?と全体の雰囲気で
307
感じるくらいで。
あと前以上に私や蘭菊をチビ扱い子供扱いする事が増えたとかか
な。
あんにゃろうどもめぇ、調子ノリやがってこん畜生。やんなっち
ゃうよね本当。
﹁あー、でも今月座敷に出るのは今日で終わりだよな野菊。やっぱ
ねぇか﹂
私や蘭菊、引込新造が座敷に出る回数は制限されている。
直垂新造や芸者は特に制限なく、座敷があれば出られるのだが、
引込の場合は違ってくる。
禿の頃と大体理由は同じで、花魁に確実になる予定の新造をそう
易々と客の前に出させるワケにはいかないから。だそう。しかし妓
楼の奥に引っ込めていても座敷での教養は座敷をある程度経験しな
ければ覚えないし、場慣れも非常に大切だからと言う事で引込でも
座敷に出る事になる。
そんなこんなで、私や蘭菊と言う引込新造が座敷に出るのは月に
3回。1、2週間に一回のペースだろうか。座敷では主に箏や三味
線を奏でたりしており、私にとっては普段から稽古で鍛えている成
果を発揮できる場となっている。もちろん兄ィさま達の客とのやり
取り、あしらい方⋮つまりは手管だが、を演奏しながらもきちんと
観察している。
チラチラと見てますよはい。チラチラとね。ムフ。
ちなみに引込は客とは話さない。仮に話し掛けられたとしても言
葉を返してはいけない。
お触りも厳禁。
あくまでも芸を見せるのみである。
308
﹁よし、終わりだな﹂
﹁ありがとうね﹂
﹁おぉ、感謝しろ感謝しろ。⋮あーあ。飯食ったら稽古かー﹂
ペチャクチャ喋りながらも掃除が終わる。
もう長着に着替えているので二人でご飯を食べに食堂へと向かう
事にする。
﹁羅紋兄ィさま、今日は何を教えてくれるんだろうな∼﹂
﹁なんか色々適当だけどなあの人﹂
﹁何言ってんだよ蘭菊。そこが兄ィさまの長所なんだぜ﹂
﹁おい。たまに男喋りになるのやめろ﹂
そうして午前中の時間は過ぎていった。
●●●●●●●●●●●●●
今更だけど﹃手練手管﹄の意味とは、思うままに人を操り騙す方
法や技術、及び、あの手この手で巧みに人をだます手段や方法の事
である。
﹁手練﹂は巧みな技、﹁手管﹂は人を自由に操る︵騙す︶手段。
ともに人をだます手段や技術のことを指す同義語であり、これを重
ねて強調した言葉がそれ。総じて人を巧みな技で思いのままに操る
ことを意味するのだ。
くぜつ
﹁口説って分かるか?﹂
309
午後は羅紋兄ィさまからの指導になる。
相も変わらず兄ィさま部屋の中は、色んな物で溢れている。溢れ
ていると言っても、ゴチャゴチャ散らかっていると言う意味ではけ
してない。
﹁それは確か⋮痴話喧嘩をするって事ですよね﹂
口説は痴話喧嘩の意味。
中々来なかった客に対して、﹃何で来てくれ無かったの?寂しか
ったんだけど﹄﹃俺の事嫌いになったのかな。⋮もう知らないよ。
フン﹄とかみたいな事をワザと言って、客に﹃あぁ、私の事が好き
なんだわ。拗ねちゃって⋮。やっぱり私にはこの人だけよね﹄とお
客の心をくすぐる技である。
しかし⋮それが万人に効くのかは定かでは無いけれども。
﹁なぁ野菊、清水と俺のどっちが好きだ?﹂
﹁え⋮﹂
いきなりどうした。
﹁あー。いや⋮やっぱいいや。どうせ清水の方だろ?﹂
﹁兄ィさま?⋮別にそんな事は⋮。と言いますか、お二人の事は比
べようも無いですよ﹂
﹁別に良いぜ、気ぃ使わなくても﹂
﹁い、いえ、気も何も⋮﹂
﹁はぁ⋮俺は野菊が一番好きなのにさ。⋮結局どっち付かずかよ。
あーあ﹂
凄くいじらしく顔を横に背けた羅紋兄ィさま。な、なんか突然で
310
良くわかんないけど可愛いんですけど⋮⋮⋮⋮あ。キュン。
え、きゅん?
ん⋮⋮⋮あ。もしかして。
﹁ってな感じだ﹂
﹁おおー!﹂
顎に手をあてて此方を見てドヤ顔をする羅紋兄ィさまは、そんな
仕草もキマっていて。⋮か、格好良いっす!!
私は両手を直ぐ様胸の前に構えて、例を見せてくれた兄ィさまに
パチパチと拍手をする。
いきなり始まったから何かと思ったが、こう実践してもらえると
やっぱり言葉で聞くより結構分かりやすいので、とても為になる。
でも予告はして欲しいです。色々ビビるので。
﹁そういやな、お前これ知ってるか?﹂
と言うと羅紋兄ィさまが化粧台の引き出しから何かを取り出した。
長方形で、紙が何枚も重なってまとめてある。⋮本?かな。
﹁いえ⋮何ですか?これ﹂
私に差し出されたのは、表紙に男女が並んでいるイラストが描い
てある一冊の本。何だろう⋮。
﹁これは﹃四十八手﹄って言う本なんだけどな。⋮つまりは春画だ﹂
﹁しゅ、春画ですか﹂
あぁ、つまりはエロ本ですね。⋮え、
311
﹁春画?﹂
﹁見るか?良い勉強になるぞ﹂
いやいやいや。何その羞恥プレイ。どうやったらあの流れで春画
を見ると言う行動に移ろうと思うんだ兄ィさまよ。エロ魔神と呼ぶ
ぞ今日から。大体男と女の営みを兄ィさまと一緒に見るとかどんな
拷問ですか。⋮絵だけどさ、絵だけどさ!?何か嫌だよ!物凄く嫌
だよ!!
誰か⋮誰かヘルプミー!!
ヒュッ︱︱︱︱ザシュッ
﹁きょっわ!?⋮⋮え、⋮簪が⋮﹂
﹁嘘だろ!?春画が!!⋮オイ!誰だこの野郎!!﹂
何か突然良く分からない事が起きた。
羅紋兄さまに見せられようとしていた春画が、何処からともなく
飛んで来た簪に勢い良く貫かれて、床へと落ちてしまったのだ。羅
紋兄ィさまは破れて貫かれたエロ本を見て嘆き悲しんで、春画を台
無しにした犯人に怒って叫んでいるが、ぶっちゃけ私自身はそんな
に見たい物と言う事でも無い為一ミリたりとも悲しみはしない。ど
っちかと言うと簪が尋常では無いスピードで飛んで来たと言う事に
私の関心は向かっている。
一体どうやったらあんな速さで簪を飛ばせられるんだろう。何か
忍者⋮忍者みたい。シャーッてさ、シュッてさ、スタイリッシュに
さ。⋮うぷぷぷ⋮カッチョいい。
312
﹁あのね、こう言うのは野菊にまだ見せるべきでは無いからやめて
くれないかな﹂
﹁え﹂
﹁やっぱお前かよ!﹂
戸の方から声がした為振り返ると、向こう側から姿を見せたのは
⋮何か凄んげぇおっかない顔をした清水兄ィさまだった。
こ⋮怖い、怖いです兄ィさま。
顔が整っているだけに迫力が⋮。み、見ないようにしよう。
だが兄ィさまはゆっくりと此方へ近づいて来ると、両手を差し出
し、
﹁野菊、羅紋の座敷が始まるまで私が色々教えてあげるから、こっ
ちにおいで﹂
﹁おっ、わ﹂
︱︱ヒョイ。
え、ちょっ⋮⋮⋮おい兄ィさま。
﹁に、兄ィさま降ろしてください!無理です重いですよ私!それに
恥ずかしいですこの年で!!﹂
﹁恥ずかしくない。恥ずかしくない、ね?﹂
いや、﹃ね?﹄って!!
笑いながら小首を傾げるなコノ野郎!可愛いだろうが!!
313
清水兄ィさまに横抱きに持ち上げられたので、何だかいたたまれ
なくなり、そうやって抗議を試みた。⋮が、兄ィさまの仕草に不覚
にもやられた。
何か私って⋮可愛い仕草に弱いのかな。女のも男のも。
﹁お前、自分に付いてる他の新造達には教え無くて良いのかよ﹂
﹁あの子達には普段から座敷に出てもらっているし昼の後一刻程は
必ず稽古をつけているから。それに私に一々指導されなくても、理
解して自主練習しているよ。皆優秀だからね。⋮⋮⋮さぁ、それじ
ゃあ失礼するよ﹂
﹁え、おい︱︱︱︱﹂
︱︱︱︱︱カタン
羅紋兄ィさまの声を無視して私を抱えたままの清水兄ィさまはス
タスタと戸の外へ向かい、そして部屋から出たのであった。
314
始まりは 7年目の物語 7︵後書き︶
清水の部屋まで向かう二人の会話。
﹃あの、自分で歩きますよ﹄
﹄
﹃嫌なの?⋮あ、そう言えば護がちゃっぴいを頭に乗せて私の部屋
に来ていてね
﹃護とチャッピーがですか?︵またフリーダムに活動してるなぁ、
あの2匹は⋮︶﹄
﹃お陰で大切な物を汚されないで助かったよ﹄
清水が何故羅紋の部屋まで来ていたのか。
⋮何ででしょうね︵笑
315
始まりは 7年目の物語 8
桜の木に蕾がチラホラとついてきている。
梅の花はつい昨日散ったばかり。
朝は相変わらず寒いけれど、昼になれば結構暖かくて。
冬眠している動物達は、あと少しで目を覚ます。
様々な変化がみられるそんな頃。
ムズムズ⋮
﹁むにゃむにゃ⋮⋮うぅーん⋮ん?﹂
朝方。なんだか良く分からないが、違和感がして目がパチリと覚
めた。
起きて上体を起こせば私は押入れ前の畳の上。布団から結構離れ
ている。⋮相変わらずだなオイ。
しかし違和感の正体は、畳の感触だったのか。⋮でも畳の上で朝
を迎えるのは日常茶飯事とも言えるので、違和感を感じるか?と言
われたら、それほどでも無い。
﹁んー⋮寝よう﹂
まだ時間は早い。
316
と布団に戻ろうと下を向いた時、自分の単衣の下が広がっている
のが見えた。いつもなら特に気にも止めないが、白の単衣に無い色
素を見つけてしまう。これは⋮
﹁⋮⋮⋮⋮あ、ああ!﹂
私の体にも変化が訪れたようです。
●●●●●●●●●●●●●●
﹁んー⋮﹂
どうもどうも。
ふんどし
生理が来ちゃいました野菊です。
﹁さてと⋮﹂
えーと、えーと何処かなー。
愛理ちゃんから貰ったもっこ褌は。
確か箪笥の一番下から2番目の引き出しに入れておいたような⋮。
チラリ。
﹁スー⋮スー⋮﹂
横目で斜め後ろにいる気持ち良さげな顔で寝ている蘭菊を見る。
よーし、目覚めるなよー。良い子だから寝んねしてるのよー。
317
なんとか奴に気づかれ無いよう慎重に行動しなくては。こんな醜
態、晒すわけにはいくまいて!!ガッテム。ガッテム。
ちなみに愛理ちゃんには、本当につい最近生理にと処理用の下着
を頂いた。
﹃愛理ちゃん!たのもー!!﹄
﹃ノギちゃん朝から元気ね﹄
十義兄ィさまづてで﹃愛理がな、用事があるから明日野菊に朝一
で部屋に来てほしいんだと﹄と食堂で聞かされた私は、次の日には
早速可愛こちゃんの部屋へと飛んで行ったのである。
生理について聞きに行った時の一件以来、愛理ちゃんは﹁女同士﹂
親しみを込めて私を﹃ノギちゃん﹄と呼んでくれている。嬉しいよ、
嬉しいんだけれども。あくまで理由が﹁女同士なんだから﹂と言う
愛理ちゃん。私は生理は仕方ないとして、自分は﹃男﹄になるのだ
とピンクの仔猫ちゃんに散々言っているのだが、全く伝わらないの
か﹃え、女の子でしょう?﹄と至極真っ当に何度も言われる。いや、
まぁそうなんだけどさ。ごもっともなんですが。
だが﹃ちゃん﹄はちょっと⋮⋮。と思った時、あ、蘭菊の事﹃蘭
ちゃん﹄って呼んでんじゃん自分。と思い出すと、⋮何か急にどー
でも良くなった。そこまで騒ぐ程の物でも無かったなと少し恥じる
程度に。
﹃十義兄ィさまが言ってたのって?﹄
﹃あ、これよこれ﹄
歳は私のほうが二つ下なので、愛理ちゃんはお姉さんみたいな感
318
じである。
精神年齢はきっと私のほうが上な筈なのに⋮。私って一体何。
﹃これ履いて、真ん中に布を詰めてみて﹄
﹃これは⋮﹄
笑顔で私に差し出されたのは⋮これ紐パン?
﹃これね、もっこ褌って言うのよ﹄
褌?いやいや、どう見ても紐パンだよ紐パン。両サイドを紐で縛
るあの紐パンが、今私の手に乗せられている。
﹃ノギちゃんから相談されたあとね、私は自分で制御出来るし⋮そ
れについてはあんまり分からないから、いつも行ってる銭湯で会う
女の人達に聞いてみたんだけど。女用にこう言うのがあるんですっ
て。布切れで簡単に作れるから今度教えてあげる。⋮どうしたの?﹄
﹃う、ううん。ありがとう!頑張って履いてみるよ紐パン!﹄
﹃紐ぱん?﹄
﹃い、いや、もっこ褌!!﹄
そうして手にいれた大事なモコちゃん︵もっこ褌の事です︶を、
箪笥の引き出しから出す為に、股に力を入れて引き締めながらゆっ
くりと歩きだ⋮
モソモソ⋮バッ
﹁?なんだ、野菊起きんの早ー⋮﹂
バチリ。
319
と血走った私の目と寝起きの蘭菊の目が合う。
3秒停止。
5秒停止。
8秒停止。
12秒経過。
﹁な、⋮⋮それどうしたんだ!?﹂
見るなぁああ!!
ちょっや、ややややべぇ、単衣の血の部分見られちまったよ!!
やいやいやい、見るんじゃねぇ小童!今すぐ目を反らし、そのま
ま回れ右をして押し入れの中に入りなさい。⋮しょうがないけど今
なら見逃してやる。こっ金平糖、金平糖あげるから!!
そんな感じで若干ビビっている私は、押し入れの戸に背中を張り
付けながらプルプルと震える。
﹁野菊⋮お前﹂
しかし希望に反して近づいて来る蘭菊は、壊れ物を扱うような手
つきで私の肩にそっと触れてきた。その動作に、どうしたのかと彼
の顔を見れば、眉間にシワを寄せているのに眉尻は下がっていて、
なんとも心配そうな悲しそうな怒りも入ったような表情をしている
のが覗ける。
320
何、何があった少年よ。
﹁お前⋮お前誰にヤられたんだ!﹂
﹁は?﹂
﹁もしかして妓楼内の奴か?﹂
﹁な、何が﹂
﹁どんな奴だった?覚えてるか!?﹂
﹁どんな奴⋮?﹂
﹁いや、思い出させちゃ辛いよな⋮﹂
﹁?﹂
﹁待ってろ!!まずは宇治野兄ィさんに秘密裏に話してくるからな
!おやじ様にはその直ぐ後に話すから!﹂
﹁ちょ、﹂
﹁大丈夫だ。直ぐに戻って来るから安心しろ﹂
駆けて行く蘭菊の姿を茫然と見送る。やけにその後ろ姿が格好い
い彼だが、一体蘭菊の頭の中で私はどういう事になっているのだろ
うか。
誰にやられた?と言っていたし⋮⋮私が誰かに斬りつけられたの
かと勘違いしているのだろうか。
本当にそうだったら大変だけれど、これは⋮
違う、違うぞ蘭ちゃん!!早まるな!
私のこれは生理。生理なんだよ。女の生理現象なんだよ!斬られ
ちゃいないのよおおお!!
﹁ニャーム﹂
﹁ゲーコ﹂
321
とか私と人間では無いチャッピーと護しかいない部屋で叫んでも、
2匹が同情心で鳴き応えてくれるだけである。
今直ぐにでも蘭菊を止めに行きたいが、状態が状態なのであまり
歩けない。
愛理ちゃんみたくお腹の中を引き締めてみようとするが、あまり
感覚が分からない為早々に諦める。確かな対処法は、一先ず早くモ
コちゃんを着用する事なので急いで箪笥の引き出しから引っ張り出
す。
﹁⋮と、よし!﹂
モコちゃんを履いたら血濡れの単衣は早々に脱いで、紺の長着に
着替える。何度もこうなった時のシミュレーションをしていたから
結構スムーズにいく。やっぱり備えって大事だよね。
蘭ちゃん、お願いだから大袈裟な騒ぎにしないでいてく﹁野菊!﹂
﹁は、早っ!﹂
早ぇえ!!
そりゃ直ぐに戻るって言ってたけど早くね?多分まだ3分も経っ
てない!
﹁宇治野兄ィさん連れてきたからな、安心しろ。⋮宇治野兄ィさん
早く!﹂
﹁だから蘭菊、野菊のそれは多分︱﹂
蘭菊が引き連れて来たのは、今日も麗しく、寝起きで若干気だる
げな美人さん⋮と言ったら男である兄ィさまに失礼なのだろうけど、
その言葉がピッタリ当てはまる宇治野兄ィさま。
322
そんな兄ィさまの腕を、半ば無理矢理引っ張って部屋に入ってく
る蘭菊のその姿は、﹃お母さん!早く!○○のオモチャ売り切れち
ゃうよ∼!⋮早く早く!!﹄と言う光景が浮かびそうな姿だった。
まぁ現実の問題とは相当かけ離れているけど。
﹁全く蘭菊は⋮。野菊大丈夫でした?女の人は大変ですからね﹂
﹁え、兄ィさま﹂
﹁はい、どうしました?﹂
自然な流れで話されたけど、コレ宇治野兄ィさま私が何でどうし
てしまったのか分かっている感じ?
悟ってる感じ?
理解している感じ?
じゃあ、それならばならばナラバ⋮⋮な、ならば私も自然に答え
てみよう。
﹁はい、備えておいたので大丈夫でした。単衣は汚れちゃったんで
すけど⋮﹂
﹁それなら後で洗濯に回しましょう。でも、もし人に洗われるのが
嫌でしたら、愛理にやり方を教わって自分で洗っても良いですから
ね﹂
﹁はい!﹂
やはり分かっていたようだ。何か⋮流石宇治野兄ィさま!と言う
感じである。と言うか、もう兄ィさまじゃなくて姉ェさまですよ。
今度呼んでみようかな﹃宇治野姉ェさま﹄って。
﹁⋮は?宇治野兄ィさん、﹂
﹁だから、野菊は暴漢に遭ったワケでは無いとさっきから言ってい
るでしょう?女性には誰にでも起こりうる現象です。お馬ですよ、
323
蘭菊﹂
ぼっ暴漢!?
蘭菊は私が暴漢に遭ったと思っていたの!?⋮つまりあの血は私
が男の人に⋮その⋮⋮⋮⋮⋮いあぁあああ!!そんな不名誉なこと
あってたまるか!!
﹁お馬⋮、⋮⋮あ﹂
﹁女性が赤子を授かれる身体になったと言う合図ですよ﹂
丁寧に蘭菊に赦している兄ィさまは、さながら母。そして意味を
理解した蘭菊は顔が林檎のように真っ赤になっている。自分の間違
いが相当恥ずかしかったのだろう。何せ私がそう言う目にあってい
たと勘違いしていたんだからね。
﹁兄ィさまは何故分かったのですか?﹂
﹁時にはそう言う状態のお客をとりますからね。でも満足させてあ
げないといけませんから、⋮昔は色々四苦八苦したものです﹂
﹁は、はぁ﹂
溜め息をつきながらそう話す兄ィさまは、次に私の頭を撫で始め
る。
﹁お腹痛くは無いですか?﹂
﹁うーん⋮少し痛いです﹂
﹁ではこうしてあげましょうね﹂
私を後ろに向けると、後方から兄ィさまの手が伸びてきて、お腹
の下辺りに手を当てられる。
おお、温かくてちょっと気持ち良いぞ。
324
﹁兄ィさま﹂
﹁皆さん、こうすると痛みが和らぐようで⋮。﹃この日﹄の客の時
には、いつもこう手をあてているんです。どうでしょう⋮効いてい
ますか?﹂
﹁温かくて気持ち良いです﹂
﹁なら良かった﹂
慣れていらっしゃるようで、手の置き方がプロってる。
⋮いや、そんなのにプロもクソも無いけど。
﹁蘭菊も、野菊がこう言う日の時はやってあげさない﹂
﹁っは!?無理です!!何言ってるんですか!﹂
﹁あはは、練習だと思ってやってみれば良いじゃないですか﹂
﹁なんでそう楽しそうなんですか⋮﹂
最後は蘭菊が弄られて、この静かな騒ぎは終わったのであった。
325
始まりは 7年目の物語 8︵後書き︶
﹃しかし⋮赤子が産めるんですよね野菊は。子供は何人位欲しいで
すか?﹄
﹃私は男です﹄
﹃男の子?女の子?﹄
﹃私は男です﹄
﹃ああ、男の子ですか﹄
﹃いや違いますってば﹄
326
始まりは 7年目の物語 9︵前書き︶
セリフのみですがR描写的なもの、ちょびっとだけあり。
書く必要あるか?ぐらいな物ですが、一応書いておきます。
327
始まりは 7年目の物語 9
桜の季節を迎えた吉原では、恒例になっているあのイベントがま
た始まる。
﹁凄いですね∼。今年も全員指名ありなんですね﹂
﹁まぁな、流石うちの奴等よ。鼻が高いぜ⋮ほらくっちゃべってね
ーで手ェ動かせ﹂
﹁はーい﹂
﹁お前それ阿倉兄ィさんの客名だぞ、此方だ此方﹂
﹁あ、本当﹂
﹁野菊、これはどっちかな?﹂
﹁えーとねぇ。お⋮これは此方だよ﹂
花見の時期到来。
私や蘭菊、他の新造達で書道が得意な者は今、おやじ様と一緒に
花名札を作っている。花見の客と遊男達の指定の席に置くただの飾
りつけみたいなもので、一つ一つ丁寧に仕上げていく。
広い畳の一室、花紙や色紙、墨汁に筆にカラフリーな紐や型紙が
散らばっていて⋮なんか小さい子供が保育所で遊んだ後みたいだ。
おやじ様を中心に作業を進めていく私達は、今日の夕方までの人生
をこれに費やす。
﹁普通の紙に客名だけ書けばよくないですか?﹂
﹁いーからサッサと手を動かせ馬鹿もん﹂
花とか別にいらなくね?とか思うのだけど、こう言うのが結構大
328
事なんだとおやじ様が言い張るので、ブーブー言いながらも手を動
かしていく。
確かにお客にとったら﹃わぁ∼!﹄と綺麗な飾りや色が付いた花
名札を見て感動するだろうが、チマチマと作業を進めていく私達に
とっては面倒と言う一言に尽きる。大体、手を動かせと言っている
本人は煙管片手に皆を眺めているだけだ。眺めているだけと言って
しまうとアレだが、札のデザインを考えたり、全客のリストを纏め
て、花見のセッティングを決めて指導するのは全部おやじ様一人で
受け持っている。
そんなお疲れ状態のおやじ様に失礼な事を言っているとは思うの
だけど、いざ目の前で横寝になり煙管をスパスパやられると、分か
っていても﹃このおやじ邪魔じゃああ!!﹄と叫びたくなってしま
う。
でもいなかったらいなかったで、分からない部分があった時にお
やじ様がいなかったら困るし。なんとも言えない。
﹁そういや、お前今日風呂じゃなくて清拭だろ?と言うか体調大丈
夫なのかよ。休んでてもいーんだぜ?﹂
﹁蘭ちゃん優しいね﹂
﹁いっちいち言うな!馬鹿じゃねーの馬鹿!!﹂
私が生理になり早1ヶ月。宇治野兄ィさまとおやじ様の提案で私
は生理の間、風呂には入らず水で濡らした手拭いで身体を拭いて洗
う事になった。ちなみにおやじ様に私の生理をソッコー報告したの
は宇治野兄ィさま。頼れる母である。
﹁そうだなぁ。野菊、あんま動いててもアレだからよ。おめぇ座敷
は今日ねーんだし、コレ終わったら部屋で休んでろ﹂
﹁え。でも、思うほど痛くはありませんし。大丈夫なんですけど﹂
﹁良いから休んどけ馬鹿野郎!!﹂
329
﹁なっ何なんですか!!﹂
男には未知の領域な為、心配で心配で堪らないオヤジなのであっ
た。
●●●●●●●●●●●●
﹁暇だよ暇ー﹂
﹁ニャー︵暇人か︶﹂
﹁ゲーコ︵暇人だな︶﹂
うるさいぞお前達。
作業も終わり、皆自分の仕事や稽古をしていく中、私は一人おや
じ様の言い付け通りにお部屋の座布団の上でジーっとしている。
かれこれ1時間経つが何もしなかったワケでは無い。三味線や箏
の練習をしたり、歌集を読んでみたりもした。だがあくまで自己練
習。集中力が苺の粒ほどにも無い私が練習を始めて30分経つ頃に
は、三味線の裏を太鼓に見立ててポンポコポンポコと軽快なリズム
を手で奏でていた。
歌集なんか13行目で眠くなった。読まなければ睡魔は襲って来
ないのに、読みだすと眠りの天使が頭に降臨してくるから不思議で
ある。
︵ぐーぎゅるるぅ∼︶
あ、そう言えば夕飯食べてない。
330
お腹が盛大な音を立てて﹃飯喰わせろ!﹄とばかりに部屋中に鳴
り響く。
︵ぐぎゅるぎゅるるるるぅー︶
しょうがない、食堂で何か食べてこよう。十義兄ィさまが今日は
飯炊きとしている筈だし、お話し相手にでもなって貰おうかな。
蘭菊には部屋から出んなよ、とか言われたけど⋮一応布団敷いて
適当に掛け布団被せて、中には野菊ダミーとして掛け布団丸めたヤ
ツを入れておこう。もし蘭菊が私のいない間に部屋に帰って来ちゃ
ったとしても﹃こいつ寝てんのか﹄的な感じで騙せればオーケーオ
ーケー。
﹁チャッピーと護は部屋で見張っててね!蘭菊が私の布団に触ろう
としたら威嚇だよ!﹂
﹁ニャ︵よし、爪でも磨くか︶﹂
﹁ゲコ︵まかせろ︶﹂
﹁おおう⋮頼もしい﹂
2匹の心良い返事を聞いたところで︵確実ではありません。あく
まで野菊の解釈です︶戸を開けて部屋から廊下へと出る。
﹁もう夜か⋮﹂
食堂へ向かう私が今歩いているこの廊下の窓から見える空は、夕
暮れも少し過ぎて、星がキラキラと輝き出しているのが伺える。空
一杯に星が瞬いていて、手を伸ばせば掴めそうな錯覚を起こせるほ
ど近くに輝きを感じた。
私が前にいた世界では、こんな空はあまり見れなかった気がする
331
な。星がもっと遠くて⋮。遠くて、遠い。それに、晴れているのに
何も見えない日とかもあった気がする。
﹁まだなんですか!﹂
﹁∼っごめんな∼梅木。酒癖が悪いんだが上客だったもんでなぁ。
もうちっと待てるか?﹂
﹁そんなぁ⋮﹂
うめぎ
ボーッと物思いに耽りながら1階へ降りると、そんな会話が近く
から聞こえた。
トラブルかな?禿の梅木の焦った声が妙に私の耳に残る。
﹁どうしたの?﹂
﹁野菊兄ィさま!﹂
何か気になったので、つい声を掛けてしまった。掛けてしまった
と言うか、散々暇だったのでそう言うのに首を突っ込みたいだけ。
ハッ!野次馬とでも呼ぶがいい。
﹁兄ィさまの閨の準備をしたいのに、部屋が片付け終わっていない
のです!﹂
﹁後どれくらいなの?﹂
﹁四半刻も足らなくて⋮月が見える頃には﹂
﹁つっ月もう見えてるよ!?﹂
なんと言う事か。もう5分どころか時間が文字通り無いではない
か。
私の言葉に目を潤々とさせて今にも泣き出しそうな梅木。あぁぁ、
泣かないで梅木ちゃん!!可愛い顔が台無しになっちゃうよ!⋮い
やいや、泣き顔も可愛いけどさ!!
332
﹁大丈夫大丈夫、私が手伝ってあげるから、ね。泣かないで。ほら
お布団持って来ちゃいな﹂
﹁兄ィさま⋮﹂
﹁梅木は悪く無いから。⋮⋮おやじ様め。対策考えるって言ったの
に、もう!﹂
﹁?﹂
﹁あ、いかんいかん。⋮梅木、ほら急いで!﹂
﹁はい!﹂
とててて⋮と走り出した梅木を見送り、私は部屋を開ける。
﹁?お、野菊か﹂
﹁もう掃除終わります?﹂
﹁ああ、これ下げたら終わりよ﹂
﹁なんだ野菊、梅木手伝ってやるのか?悪ぃーな本当に﹂
﹁時間無いですし、私暇ですし。それに客と鉢合わせたら大変です
から﹂
梅木をあんな出来事の二の舞に何かさせませんよ。※始まりは・
日々4参照
﹁兄ィさま、布団持って来ました!﹂
﹁わ、早いね﹂
1分も経ってないよ。何者だこの子。⋮あ、私が昔使っていたロ
ーラー付の箱使ってるや。成る程ね、便利だよねそれ。
﹁よし、終わりだ!⋮梅木ごめんな?閨の準備頼んだぞ﹂
333
﹁いいえ大丈夫です。はい!﹂
﹁じゃあ梅木、有明行灯を部屋の真ん中に持ってきて﹂
﹁はいっ﹂
とうに月は見えている。いつ部屋に客と遊男が来るか分かったも
んじゃないので、掃除が終わった早々に準備に取りかかる。
布団敷きは私がやったほうが早いので梅木の持ってきた布団を⋮
⋮⋮あれ、
﹁三枚敷き?﹂
﹁どうしたのですか?兄ィさま﹂
三枚敷きって花魁だけだよね。
あれ?
﹁兄ィさま、有明行灯は大丈夫です。掛け布団出しますね!﹂
﹁う、うん﹂
取り敢えず今は敷く事に専念しよう。掛け布団も出してあること
だし、ちょちょいとやっちゃえば⋮あ。
﹁あ、ちょっと待って!掛け布団は出してあるから大丈夫、﹂
﹁にっ兄ィさま!押し入れから出られません!!﹂
﹁ええ!?どうしたの!﹂
﹁袴の裾が何かに引っ掛かってて⋮﹂
なぁあんですと!?
いけないっ、このままじゃあ来てしまう。
私は急いで梅木のいる押し入れまで行き、原因を探る。すると、
どうやら床の板の木のササクレ的な物に裾が引っ掛かっているよう
334
だった。取り合えず引っ張ってみるが、全然取れない。押し入れの
中は暗いし手探りで取ってみようともするが、全然取れない。むし
ろササクレが大きくなるだけである。
あぁもう!ったくボロいよおやじ様!
と思うのと同時に嫌な予感が私の頭を過る。
この状況⋮まるで、
︽﹁今日は燈の間ですのね﹂︾
︽﹁?戸が開けっ放しだ﹂︾
︽﹁あら、新入りの禿ちゃんかしら?﹂︾
部屋の外からふいに客の声が聞こえた。客の言っている燈の間と
はこの部屋だ。
﹁⋮っ嘘!﹂
﹁の、野菊兄ィさま⋮﹂
マジかよ。
﹁梅木、静かにね﹂
梅木に向かって口の前に人差し指を立てながら、ス∼っと押し入
れの戸をそっと閉じる。
﹁野菊兄ィさま⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
押し入れの中にヒソリと佇む私と梅木。
⋮何この状況。何なのこの状況。
まるであれじゃない。禿の頃の悪夢と同じ状況じゃないの。
335
朝まで堪える感じ?マジかよ。
﹁兄ィさま⋮僕、⋮ごめんなさい﹂
﹁いいのいいの。梅木のせいじゃ無いから。おやじ様に後で文句た
っぷり言おうね﹂
そうヒソヒソ声で話す私だが、今の心境は心穏やかでは無い。
いずれ訪れるだろう、聴覚の拷問が私には恐ろしくて堪らないの
である。いや、私は別に良いのだけれど、小さな梅木に大人の﹃あ
はん、うふ∼ん﹄を聞かせるのは第三者から見ても居たたまれない。
大人の時間が始まらない内に⋮
︽﹁あ、⋮やぁ⋮﹂︾
︽﹁首?それとも頬がいい?﹂︾
おっぱじまっちまったよ!
︽﹁意地悪ですわ⋮清水様﹂︾
﹁清水兄ィさまかよ!!﹂
﹁の、野菊兄ィさま⋮﹂
何と言うデジャヴ。
何と言う偶然。
いや最早運命なのか。
何故人生で二度も同じ人の、しかも同じ状況で、閨の様子を聞く
事になるのだ。神よ。
﹁梅木、ちょっと耳を塞ぐからこっち来てみて﹂
﹁こう⋮ですか?﹂
336
﹁ふふ。抱っこしてあげるから、もうちょっとおいで﹂
﹁わわっ、﹂
このいたいけな少年にアレを聞かせてなるものか。
⋮というか、今簡単にササクレから裾取れた気がするんだけど。
簡単に梅木が私の方へ来れたんですけど。どういう事なの、アーメ
ン。
﹁兄ィさま、何だか母さんを思い出します﹂
﹁?﹂
ふみゅ、と私の無い胸に顔を押し付けて抱きついてくる梅木の姿
は⋮とてつもなく可愛い。⋮まぁ⋮押し入れの中だから見えないけ
ど。心の目で見てるんです。
﹁耳抑えてあげるからね。もう寝ちゃいなね﹂
﹁野菊、兄ィさま⋮⋮﹂
私も早く寝てしまおう。
今回は自分の耳を塞ぐ事は出来ないから、
︽﹁わっ⋮ぁたし、の⋮⋮ぁあ﹂︾
︽﹁ん⋮なに?﹂︾
︽﹁愛ぉ、し⋮⋮い、きよみっ⋮ぁ⋮さ、﹂︾
︽﹁⋮私は⋮⋮﹂︾
い゛やぁああ!
お願いだから眠らせてぇええ︱︱⋮
337
●●●●●●●●●●●●
そんなこんなで野菊にとっての悪夢の一夜が明け、次の日の朝。
﹃野菊ー!!﹄
﹃梅木ぃー!﹄
﹃いたら返事してくれー!﹄
﹃おぉーい﹄
何だかバタバタとうるさい。こちとら寝とるんじゃぞ。静かにし
ないかね、もう。やんなっちゃうわ。
あれ、と言うか私何してたんだっけ。と押し入れの中で梅木を抱
いたまま目を閉じ、まだ寝ている頭でフヨフヨしながら考えている
野菊。
﹁んぅ⋮﹂
確か⋮梅木の手伝いをしていて、布団敷いて、そんでもって梅木
が押し入れから出られなくなって⋮
﹃ニャーン﹄
ガリガリ、
ん?護?
なんだか自分のいる場所の少し先から、猫が爪とぎをするような
338
音が聞こえる。少し先って言うか、目の前?
ガタガタ︱︱スパンっ!
﹃︱っ野菊!!﹄
﹁⋮ん∼﹂
清水兄ィさまの声がすんげー近くで聞こえた気がする。⋮あぁ、
そう言えば昨日散々羞恥の聴覚処刑にあったばかりだったな。清水
兄ィさまとお客の声、ずっと聞こえてたもんなぁ。
と言うか私いつ寝たんだろう。あの頃と違って直ぐには寝付けな
かった気がする。少なくともあれから一時間は起きていたと思うし。
﹃梅木が中々離れないな⋮﹄
﹃おい、梅木お前起きてんだろ。離れろ﹄
﹃僕は寝ています﹄
﹃起きてんじゃねーか!﹄
少し自分の体が軽くなったような感じがする。
﹃あぁ、もう⋮君という子は⋮。これで2回目じゃないか⋮﹄
次には浮遊感がやって来た。
心なしか、何かに包まれて温かい感覚も。
﹃清水、そう落ち込むなって﹄
﹃でもまぁ、⋮御愁傷様としか言いようがありませんね﹄
﹃宇治野兄ィさん正直ですね﹄
﹃蘭菊はもっと正直になれば良いと思うんだよね﹄
﹃うるせぇよ!!﹄
339
眠いんだよ眠ってるんだよ私。⋮ここは起きて渇
うん。そう、うるさい。うるさいよ凄く。
誰だよ本当。
でも入れてやろうか?あぁん?
﹁う⋮⋮んぅ﹂
そうしてやっと、眠っていた目をゆっくりと開け出す野菊。
﹁え⋮⋮⋮﹂
﹁やぁ、おはよう﹂
瞼を開けた瞬間、眩しい朝陽に目を細めながらその視界に入った
のは、黒の優しげな瞳に、少し困ったように下がった悩ましげな眉
と、それでも綺麗な弧を描いた唇。艶やかな漆黒の髪が私の額に掛
かる程近い距離にいる、世の女達の心臓に滅茶苦茶悪いこのお方は⋮
﹁き、よみ⋮え?と、何で⋮⋮﹂
﹁私も野菊に聞きたいな。何で此処に?﹂
﹁︱すっすみません!!﹂
﹁あっ⋮﹂
どうやら温かい原因は清水兄ィさまだったようだ。私を自分の膝
の上で横抱きにして背中を支えてくれている。
ちょ、ちょちょちょ本当にすみません!と言うか昨日の閨の睦言
を聞いてしまっていた身では、なんか⋮恥ずかしくてくっついてい
られません!
と思い、急いで兄ィさまから離れる。
途端に兄ィさまの眉間にシワがよるが、⋮やっぱり怒っています
よね。ですよね。怒らないワケがありませんよね。
340
﹁あ、あの昔⋮兄ィさまの、⋮あの閨の日と全く同じ⋮と言うか、
それよりも酷い状態だったので、梅木の仕事を私が勝手に手伝いま
した﹂
﹁野菊兄ィさま!﹂
﹁あー⋮またあの客かよ﹂
﹁確か朱禾の客だろ?お前も変なのに好かれるよな。つーか取り敢
えず二人に謝っとけ﹂
﹁うぅ∼すまなかった!野菊に梅木、本当にごめんな﹂
﹁しっかし、おやじ様も強く出りゃいーのによー﹂
と言うか、改めて周りを見渡せば天月の遊男の兄ィさま達、羅紋
兄ィさまに宇治野兄ィさま、秋水に凪風、赤小僧までいるではない
か。梅木は宇治野兄ィさまに抱っこされながら此方を心配そうに見
ているし。
﹁いえ、あっ朱禾兄ィさまは悪く無いです。でも時間が全く、これ
っぽっちも無くて。最後の最後で梅木の袴の裾が押し入れの箚さく
れに引っ掛かってしまい、その途中で客と兄ィさまが来てしまいま
した。そして咄嗟に隠れてしまったのです﹂
﹁⋮でも野菊、また君にあんな⋮悪い事を﹂
額に手をあてて俯く清水兄ィさま。
私もビックリです。と言うかビックリを通り過ぎて悟りが開けそ
うだよ。
と言うか、悪い事?え、清水兄ィさま自分が悪い事したと思って
るの?お門違いなんだけど!確かに最悪な状況だったけど、それは
自分が手を出して招いた結果なので、言うなれば自分の仕事をまっ
とうしていた清水兄ィさまに非はない。全く無い。全然無い。ミジ
ンコ程も無い。
341
﹁いえいえいえいえ、私が悪いのです!!⋮素直に間に合わなかっ
たと白状して出ていくべきでした﹂
﹁いや、それで結局は客の気分を損なわなかったから、君の対応は
あながち間違いでは無いんだけど⋮。君に嫌われたらと思うと﹂
嫌う?何言ってんだこの人は。
と言うかこの流れ、あの甘々期間の前触れに酷似している。⋮あ
れはいかん。いかんぞ。人間として駄目になるんだアレは。
﹁あの、前に言った通り、兄ィさまの事を尊敬しています。だから
⋮﹂
以前のような甘やかし期間を発動させんでください。居たたまれ
ないから。
﹁違う、違うよ野菊﹂
﹁?﹂
﹁尊敬なんてしないで﹂
﹁でも遊男には﹂
﹁お願い、君には⋮﹂
﹁でっででも兄ィさまが好きなのです!尊敬でなければ、何と言え
ば良いのですか?﹂
﹁え、﹂
ぶっちゃけ、あれだけ閨の睦言を聞かされても兄ィさまを好いて
いる私は、遊男としてその行為を出来ている事を尊敬しているのも
あるし、兄ィさま自身の事を敬愛しているとも言える。
342
総合してみてもコレは﹃尊敬﹄以外のなにものでもないだろう。
兄ィさまを見てみると、口を抑えてあらぬ方向を見ているのが伺
える。
そしてそのままジーっとした後、私の方を向くと同時に口から手
を離して、私の瞳を見据える。
﹁いや、そうだね⋮今は、それで充分かな。私には﹂
﹁充分?﹂
﹁うん、充分だよ﹂
ちなみに蘭菊は見事私のダミー人形?に騙されていたようで、朝
私を起こす事になるまで、それが私では無いと全く気づかなかった
らしい。
梅木と同室の禿ちゃんは、いつも自分が先に寝てしまうので梅木
が一晩中居なかった事には蘭菊同様に気づかなかったみたいだ。
そうして朝一で瞬く間に広がった﹃野菊&梅木行方不明事件﹄は、
皆を二人へと導いた護の嗅覚パワーで事なきを得たのであった。
﹁護、あんた凄いね﹂
﹁ニャース︵ハッ!当然︶﹂
﹁チャッピーはどうしたの?﹂
﹁ニャニャ︵寝てる︶﹂
343
始まりは 7年目の物語 9︵後書き︶
一件落着?後。の燈の間にて。
﹃野菊、それはさ⋮清水兄ィさんだけか?﹄
﹃え⋮ううん。秋水の事もそう思ってるよ﹄
﹃そうかそうか。⋮みたいですよ兄ィさん﹄
﹃秋水、君は意地が悪いね。⋮全く誰に似たのかな﹄
﹃清水にだと思うぜ﹄
﹃右に同じです﹄
﹃野菊兄ィさまー﹄
﹃梅木∼﹄
﹃僕、また一緒に寝たいです!﹄
﹃きゃ、きゃわいい!!本当?私も寝たいなぁ。そうだ、今日お部
屋においで?﹄
﹃良いのですか?やったぁ∼!﹄
﹃梅木は狡いと思うんだよね﹄
﹃狡さでは清水も負けてねーと思うぜ﹄
﹃アレ位の積極性、蘭菊にもあったら良いと思うんだ﹄
﹃てめぇは一体何様なんだ﹄
﹃凪風、それぐらいにしてやれ。無理だから﹄
※読者様より、﹁朱禾の客﹂なのに、清水兄様と⋮なぜですかー!
浮気では??とありましたが、燈の間をギリギリまで使っていたの
は朱禾の客で合っています。
344
清水は違う座敷から燈の間へと移動したので。朱禾が使った後の部
屋を綺麗にして閨の準備をしていたのです
345
始まりは 7年目の物語 10
﹁今日は起請彫りについて教えますね﹂
﹁起請彫り?ですか﹂
今日も今日とて花魁の指南。
昼前の今は、空腹の為か妙に集中力がアップしている。
﹁手管の一つです。手管には色々ありますが﹃心中﹄と呼ばれてい
る技は知っていますか?﹂
﹁しっ、心中!?﹂
放爪、
ほうそう
断髪、入れ墨、切り指、貫肉とあります﹂
﹁正しくは﹃心中立﹄と言うのですが⋮。全部で6つありまして、
せいし
誓詞、
﹁心中﹂は本来﹁しんちゅう﹂と読み、﹁まことの心意、まごこ
ろ﹂を意味する言葉だが、それが転じて﹁他人に対して義理立てを
する﹂意味から、﹁心中立﹂︵しんじゅうだて︶とされ、特に男女
が愛情を守り通すこと、男女の相愛をいうようになったそうだ。
また、相愛の男女がその愛の変わらぬ証として、髪を切ったり、
あいたいじに
切指や爪を抜いたり、誓紙を交わす等、の行為もいうようになり、
そして、究極の形として相愛の男女の相対死を指すようになったと
も言う。
﹁昔は相対死をやってしまう遊男が多く、吉原内で問題になりまし
た﹂
﹁し⋮死んじゃうんですもんね⋮﹂
346
﹁本当、嘆かわしい事でしたよ﹂
﹃誓詞﹄は﹁起請文﹂ともいい、分かりやすく言えば﹃血の契約
書﹄みたいな感じだそうで。書いてあるのは浮気しねーから、裏切
らねーから、お前だけだから、な風の内容。そして約束の印として
自分の指の血を使って﹁血判﹂を用紙にブチュッと押すのである。
まるで闇の儀式みたいだ。
﹁放爪﹂は﹁爪印﹂ともいって、爪を抜き客に渡す事で誠意を見
せたのだと言う。⋮わかんねぇぜ。
断髪は、頭髪を切り女に贈り、他意の無いことを示す。
入れ墨は、﹁いれぼくろ﹂、﹁起請彫﹂ともいい、客の女の名を
彫る。たとえば﹁雪野﹂であれば﹁ゆきの命﹂と﹁命﹂の字を名の
下に付ける場合もあった。これは命の限り思うという意だそうで。
﹁橋架﹂であれば﹁きょう命﹂、﹁清水﹂であれば﹁きよ命﹂、
ときには名字の片字、名乗の片字を上腕に彫り込むと言う。針を束
にしてその箇所を刺し、兼ねて書いたとおりに墨を入れるのだが、
本気で入れる人は少ないらしく、殆ど筆で腕に名前を書いただけの
偽物を見せる人が多いらしい。
切り指﹁切り指﹂は、手の指先を切り落とすこと。
貫肉は、腕であれ腿であれ、刀の刃にかけて肉を貫くこと。⋮も
うワケが分からない。とにかく痛いよ。色々。
﹁試しにやってみます?俺と心中を﹂
﹁あ、⋮ええ!?﹂
347
笑いながら、しかもこんなライトに﹃心中やろうぜ!﹄な誘いを
受けたのは初めてだ。
しかも心中の内容が内容なだけに恐ろしい。
﹁あはは、指を切ったり髪を切ったり爪剥がしたりなんてしません
よ﹂
﹁じゃあ﹂
﹁筆で。お互いの名前を体に書いてみましょうか﹂
どうやら一番命を削らない入れ墨をやるようだ。良かった。爪を
剥がせ、なんて言われた日には発狂する自信がある。⋮私遊男に向
いてないのかな。いや、そもそもその行為自体があり得んのだ。
でも⋮そんなあり得ない行為をするからこそ、愛の証明になったの
だと思うけれど⋮。
バイオレンスだよ。
﹁それでは、と﹂
宇治野兄ィさまは筆と墨を引き出しから出すと、髪を一つに括っ
て墨をすりだす。背筋を伸ばし、とても綺麗なフォームで墨をすっ
ているが、目的が書道では無く、言ってしまえば落書きの為に使わ
れると思うと、なんとも言えない笑いが込み上げてくる。
無論、兄ィさまの前で盛大に笑いはしない。後で思い出し笑いを
して発散させようと思う。
﹁では汚れ無いように上は脱ぎましょう﹂
そして、いそいそと二人して着物に墨が付かないように着物を脱
いで上半身裸になる。
毎日男に混じってお風呂に入っているのだ。特に抵抗は無い。そ
348
れに胸にはサラシを巻いているため、見た目的に可笑しな事になっ
ているようには見えまい。︵充分おかしい︶
﹁野菊∼﹂
﹁?﹂
﹁えい、﹂
﹁にょわっ﹂
まだ墨の付いていないまっさらな筆で頬っぺたをなでられる。て
か﹃えい、﹄って!!可愛いんですけど!
お茶目なんだからもう。
﹁では。うじの命、と書きますね﹂
正座をした私の正面に座り、胡座をかく兄ィさま。普段礼儀正し
い彼が胡座をかく姿は意外に貴重で。内心私の心は踊っている。な
んて言うんだっけコレ。⋮ギャップ萌え?あれ、違うかな。
とにかく男らしい姿だ。⋮落書きするだけなのに。しかし⋮いや
はや、兄ィさまの裸体︵あ、上半身︶はいつもながら美しい。ムキ
ムキのマッチョでは無く細マッチョでもない、顔との均等をとれた
程よいマッチョ感。腹は割れすぎでは無いが6つに割れているのが
目で分かる。着物を着ていると普段は分からないので、閨でこれを
見れる馴染みの客はラッキーだろうな。
⋮あれ、でも閨の時着物は脱がないんだっけ?
それにしても筆が二の腕を這う感触がしてムズムズする。
しかもゆーっくり、ゆーっくりと書くものだから、
﹁ふっ、ひゃぁ⋮⋮あは﹂
﹁あ、くすぐったいですか?﹂
349
笑顔で楽しそうに伺ってくるこのお人は、それでも止める事は無
く、筆を墨に再びつけ直すとまた書き始める。とても楽しそうに書
いているのでそんなに楽しいのかと、私も早く宇治野兄ィさまの腕
に書きたくて仕方がない。ウズウズ。
﹁はい、出来ました﹂
﹁おおぅ。うじの命⋮。なんか兄ィさまの信者みたいですね私﹂
ファンみたい。
﹁では、次は野﹁失礼しま︱⋮何してるんですか宇治野兄ィさん、
野菊﹂
兄ィさまに促され私が筆を持とうとした瞬間、戸から入って来た
のは、
﹁あ、凪風﹂
﹁どうしました?﹂
﹁ええと⋮﹂
私と兄ィさまを交互に見る彼、凪風は額に手を当てて目を瞑ると、
次には踵を返して戸から部屋に一歩しか進ませていない足を廊下へ
と引っ込める。
﹁いえ、ちょっと野菊に用事があったんですが。⋮昼後にします﹂
何か良からぬ物を見たような感じで部屋の戸前から去って行く凪
風。
え、何。何でそんな感じ?
350
﹁あぁ、そう言えば昼ですね丁度。では、心中についてはここらへ
んにして、野菊は食べて来なさい。凪風も用事があるようですから﹂
﹁え⋮でも。⋮⋮はーい﹂
そう言われてしまったので着物を着直して前を整える。
ちぇっ。結局宇治野兄ィさまの腕に書けなかったじゃん。書いて
みたかったのに。ウズウズを返せバカ野郎。
●●●●●●●●●●●●●
最近、吉原内で殺傷事件が多発している。
昨日なんか、お向かいの妓楼で二人が刀で斬りつけられたらしい。
二人とも遊男で、その内の一人は花魁だそうで。
⋮物騒だ。外が温かくなると変質者が増えるって本当なんだな。
なんか、ほら、冬眠から目が覚めるみたいな。
﹁二人は大丈夫なんか?﹂
﹁ああ。一応護身術は覚えさせてたからな。手当てすりゃ治るさ⋮
⋮それよりお前んとこも気を付けろ﹂
﹁気を付けるなぁ⋮気を付けるったってよ⋮。大門はとじねーのか
?﹂
﹁どーだろうな。上が閉めないと言っている限り開いたまんまだろ
う。しかし⋮まさかこっちの方まで被害に遭うとはな﹂
向かいの妓楼﹃花宵妓楼﹄の忘八、花田様とうちのおやじ様は仲
が良い。幼い頃から忘八として教育されてきた二人は幼馴染みだと
351
も聞く。たまにこうしてお互いの見世の食堂で語り合う事があるの
だが、今回の内容はたいへん深刻なものである。
﹁日中なんだろう?男だったのか、やっぱり﹂
﹁うちの奴が言うにはな﹂
今は昼時で宇治野兄ィさまの命でご飯を食べに食堂へ来ている私。
今日も此処のご飯は美味しい。このお味噌汁に入ってる麩が好きな
んだよね。は?味噌汁じゃなくて麩かよ、と言われそうだが、味噌
汁が美味しいのは分かりきっている事。その中でも具材として一番
好きなのがお麩っていうだけ。桜と紅葉の季節にはカラフルなお麩
を入れてくれるから、それもご飯の時の楽しみの一つ。飯炊きの人
にさりげな∼く頼めばお麩を沢山入れてくれるから、嬉しい限りだ。
﹁傷口はもうパックリでな、赤い肉の下に骨がちょいと見えてよ。
手当てすりゃ治るとは言ったが、あんなグチョッてなった部分は見
てるだけで痛ぇよ﹂
そんな﹃お麩お麩∼﹄な私の前の席で繰り広げられるおやじ様達
の会話。食堂に私が来た時は確か向こうの方で話していた筈なのに、
さっき何故かわざわざ目の前の席に移動してきた。
あのですね、私は今ご飯を食べてるんですよお二方。美味しい美
味しい鰯の味噌煮を食べているんですよ。
なのにさっきからパックリだのグチョッだのと⋮。頭がいらん想
像するから止めて欲しい。鰯が食べれなくなる。
﹁野菊よぉ、お前花宵に手伝いに来ねーか?﹂
﹁え、﹂
いきなり話を振られたので、箸を止めて目の前の花田様をギョッ
352
と見る。
手伝い?何のよ。と言うかそもそも他の妓楼の奴が違う妓楼に入
っても良いのかい。いや、あかんでしょうが。
もしや⋮まさか、それ言う為にワザワザ席を此方に移動してきた
のか。
﹁江吉てめぇなに言ってんだ。許可するわけねーだろ俺が﹂
溜め息をつきながら﹃馬鹿じゃねーの﹄的な目で花田様を見るお
やじ様。
よし、次はもっとえげつない目で見てみようかおやじ様。いける、
まだいけるよー。もっと表情の引き出しを開けてみようか。
﹁座敷に出るワケじゃねーよ。ちょっと斬られた奴の世話を頼みて
ぇんだ。人手が足りなくてな﹂
﹁はぁ?新造とか禿に遣り手やら番頭やらにやらせりゃいーだろう
が﹂
﹁あいにくうちは龍沂んとこ程人が余ってねーんだよ。なぁ、引込
なら座敷には出ないだろ?夜は手、空いてるんだよな?﹂
﹁ふざけんな。うちの馬鹿な飯炊きそっちに寄越してやるから野菊
は諦めろ﹂
りゅうぎ
花田様が言った﹁龍沂﹂とは天月の忘八の名前。つまりはおやじ
様の名前である。
お顔に確かに合う名前で、龍の顔の様に凄みはあるとおもう。お
やじ様にその事を言ったことは無いが、言ったらきっとブっ飛ばさ
れるか思いの外誉め言葉と捉えてくれるかの2択だ。
﹁えー。いーじゃねーか。社会勉強させると思ってさぁ。女だって
のを気にしてんなら、別に女の格好で来てくれりゃ隠す必要も無く
353
なるからそれはそれでいーぜ?﹂
花田様には私が女であることを、おやじ様が既にバラしている。
よっぽど信頼をおける人物なんだろう。おやじ様の家で過ごしてい
た時期にも私の所へわざわざ来てくれたりしていた。
バラした理由だが、オヤジ曰く﹃味方は一人でも多いほうが良い。
まぁ、本当に信頼できる奴だけだがな。それで後々助かる事もある﹄
という事らしいが、いまいち良く分からん。
そもそも、違う妓楼の方に話す必要はあったのだろうか。
﹁ったく、聞かねーなぁ。⋮そんなに野菊に来てもらいてーなら、
こいつの屍を越えていきな﹂
﹁どうも、花田様﹂
そうおやじ様が言った後、いきなり声を掛けてきた人物に花田様
の顔色が青くなる。
﹁げっ、清水﹂
﹁お久しぶりですね﹂
ニコニコ顔で登場したのは清水兄ィさま。ちょ、いつからスタン
バってたんですか。
そして花田様はまるで野生の熊や狼にでも出会ってしまったよう
に固まっている。
おい、どうした花田。
﹁で、どういう要件ですか?あ、野菊はそれ下げてあっちに行って
おいで。あと凪風が呼んでいたよ、何か約束しているの?﹂
﹁外に行く約束をしています﹂
﹁⋮ダーメ﹂
354
﹁ひぁ、﹂
伸びてきた兄ィさまの手に頬っぺたをムニュと引っ張られながら
お叱りを受ける。
﹁⋮ひゃの、﹂
﹁駄目だよ、今は物騒なんだから﹂
﹁へも⋮あへから、やふほふひていはのです︵でも⋮前から、約束
していたのです︶﹂
以前から約束していた吉原内でのお買い物。3年前から規則も緩
くなり、吉原内を昼の間だけ出歩き出来る事になっていたのだが、
1度も私は出た事がない。もう出たくて出たくて仕方がない。我慢
できないので誰かとお買い物と言うものをしてみたくて、一番最初
に行き合った凪風に冗談ついでに話してみたら快くOKしてくれた
のだ。⋮なんか怖い。
彼は本を見たいと言っていたし、新しい碁の石も欲しいと言って
いた為、外に行くのには全く抵抗は無いらしかった。
いつもなら嫌味の一つや二つ言いそうなのにな。﹃え、一人で行
けないの?﹄とか﹃暇なんだね﹄とか心を抉るような言葉が飛びだ
して来るものだと、話しかけながらも若干構えていた私の鋼のハー
トは拍子抜けであった。
しかし、うーん。
やっぱり危ないかな。外をウロウロしちゃ。
﹁そんなに行きたいの?﹂
﹁行きたいっちゃ、行きたいのですが⋮。よく考えれば危ないです
よね今は﹂
355
﹁⋮じゃあ私と一緒に行くかい?﹂
心強いけれど、何か違うぞ。
﹁いや、お前も出るのは駄目だ﹂
﹁何故です?﹂
﹁それがな、斬られた奴等に共通するのがよ⋮﹂
﹁⋮あぁ。斬られた奴全員に共通すんのが﹃黒い髪﹄の奴ってとこ
なんだ。うちのヤられた二人も黒髪だったしよ。黒い髪の奴になん
か恨みでもあるんかねぇ?﹂
結局そんなこんなで外出は出来ず。凪風も午前中に用があったの
はその事だったようで﹃また今度にしよう﹄と私に言うつもりだっ
たらしい。
なんだし。
356
始まりは 7年目の物語 10︵後書き︶
その日のお風呂にて。
﹃野菊、その腕のなんだ﹄
﹃?今日は宇治野兄ィさまと心中して、⋮いでっ!イタタタ痛い!
痛いよ!?秋水ぃい!!﹄
ゴシゴシ、
﹃清水兄ィさんじゃないだけ感謝しろ馬鹿﹄
﹃は?イタっ⋮⋮いってぇええ!!ちょ、本当に﹄
ゴッシゴッシ、
﹃はぁ⋮兄ィさんやあいつらが閨の日で良かった﹄
﹃イタぁーいよー!!﹄
しかばね
風呂上がり、野菊の左上腕に墨の跡は全く残っていなかったとい
う。
ちなみに。
花田様は結局、清水の屍を超える事はできませんでした。
チャンチャン。
357
自分の幸せとは
死の先にあるものは何だろう。それは天国に行くことなのだろう
か。地獄に行くことなのだろうか。輪廻転生と言う言葉にあるとお
り、次の人生を謳歌するのだろうか。
何だろうか、とは言うものの少なくとも自分は地獄にいくのだと
いう確信はある。
のうのうと仲間を見殺しにしてきたのだから。
それが、仲間が自ら飛び込んだ道だと知っていても、俺には止め
る事が出来なかった。
そしてそれは十二年前の事。
﹃またですね⋮﹄
﹃あぁ、どーしたってなぁ⋮皆よぉ﹄
十二年前、相対死が吉原内で流行った。流行ったと言うと些か軽
口だが、とにかく遊男と客が次々と心中を図る事が多かった。もと
もと自殺者が多い世界だったが、客も一緒にと言うのはこの頃から
増えていた。
何が悲しくて自殺何か⋮とは思うが、自分も遊男であるため分か
らなくもない思いに悩みを覚える。
その日天月妓楼では一人の遊男が相対死をした。その前の月は二
人だった。共通するのは皆若いと言う所で、殆どが十代。かく言う
358
自分も十代だが自殺をしようとは思わない。絶対に。
死んだのは自分と同じ時期に入った者ばかり。丁度遊男として働
き始めて皆一年が経つ頃だったのだ。皆友と呼べる間柄で、仕事の
やなせ
悩みをお互いの部屋へ行って話したりもしていて。
先月に死んだ簗瀬もそうだった。客と相対死する二日前に俺の部
屋に訪ねてきた簗瀬は、聞いてくれとばかりに俺に詰め寄り、自分
の苦しい想いを吐露していた。
﹃アイツと死んで一緒になりてぇな⋮。あ、俺可笑しいよな。ハハ﹄
﹃それで、簗瀬は幸せになれますか?﹄
﹃幸せか。幸せねぇ⋮。かもしんねーなぁ﹄
危ない、と思った。
簗瀬の目は天を泳いでいて。
遠い空の上の果てを目指しているように見えて。
﹃おやじ様!!﹄
﹃オイ!どうしたっ、⋮⋮ぁぁ⋮⋮簗瀬ぇ!﹄
そしてその二日後。
簗瀬の閨で使った椿の間を片付けようとした禿が、変わり果てた
簗瀬と客の女の姿を見つけたのである。
死因は何らかの毒だろう、と言う事で見解は終わった。刃物で腹
を裂いた形跡も無く、何かで頭を叩いた感じでも無く、首を締めた
痕も無い。
ただ二人の横に置いてあった赤い杯が、相対死だと言う事を物語
っていた。どうやら毒を盃に入れ飲んだらしい。
359
赤い盃は契りの象徴。あの世で結ばれますように、と言う事だっ
たのだろう。
幸せ。
幸せとは何なのか。
果たして簗瀬は幸せになれたのだろうか。
彼が死んでしまった今となっては、答えを知る者も答える者も誰
もいない。
﹃死んでくれるなよ﹄
禿の頃、おやじ様にそう言われた事がある。たしか平安時代の⋮
女性の汚物を食べると言う、少々下品な話を聞かされた時だった。
﹃いいか。一人前の遊男になっても、死のうなんて考えてくれるな
よ、絶対にだ。生きてりゃ良い事もある。こんな廓の中で良い事な
んぞあるか!とか思うだろうが﹄
正座した自分の前で煙管を吹かしながら胡座をかくおやじ様は、
目線を下げながら話だす。
﹃だがこの世界での恋ってのは地獄だ。ただ一人の女に本気になっ
たら、心をムチ打って痛めつけて麻痺させてでも商売しなくちゃな
らん。俺はおかしくなっちまった奴等を何人も知ってんだ﹄
﹃おかしく⋮﹄
﹃あぁ。だがな⋮どんなに注意して言っても心まで縛る事は他人に
は出来ん。そればっかりはどうしようもならねぇ﹄
﹃35になるまで自由にする事が出来ない。誰も好きになるなとは
言わない。好きになっちまうのはしょうがないからな⋮。でもな、
360
身を焦がし過ぎて死んじまうのは止してくれ。生きてりゃいつかき
っと良い事があるんだぞ。お前等に仕事させる俺が言えた事じゃね
ーし、俺ァ金と引き換えにお前等の命を貰ったんだ。だがな、言う
なりゃ俺の子供だ﹄
﹃子供に先立たれて嬉しいと思う親は親じゃねぇ。少なくとも俺は
嬉しくねーぞ⋮⋮⋮え、お、おい、どうしたお前﹄
自分の目から涙が流れていると分かったのは、おやじ様が狼狽え
てからだった。
﹃っ、いえ、⋮﹄
﹃⋮泣きたいなら素直に泣けバカ野郎。此処はお前の家だ家。あ、
但し座敷で泣いたりすんじゃねーぞ、客がいるからな。それとな、
⋮えーっとな、﹄
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱⋮⋮
﹁今年も桜が綺麗ですねぇ﹂
目の前の少女を見る。
この少女⋮、少女は自分を男だと言うが自分にはおなごにしか見
えない。意識の問題だろう。なんせ道中で外に出た時には、見物人
にはもちろん皆男だと思っている為、ただの線が細い綺麗な男子に
しか見えないようで。
361
だが、桜に思いを馳せているこの子を女だと思わない外野の人間
を可笑しく思ってしまうのは仕方がないと思う。
この子がもう少し小さい時、自分に読んでくれた歌がある。
﹃桜花 今そ盛りと 人は云へど われはさぶしも 君としあらね
ば﹄
と言う歌。
桜の花が満開というけれど、君と一緒じゃないとさみしい。と言
う意である。
何故この歌を自分へ贈ろうと思ったのか聞いたら
﹃兄ィさまは、い、いや、ですか?﹄
﹃?﹄
﹃わたしは兄ィさまのこと、おかあ⋮⋮いえいえ。あ⋮えっと。ど
んなに、うつくしくて⋮みんながさくらきれいね、っていっても﹄
﹃うん?﹄
﹃兄ィさまやみんながいっしょじゃなきゃ、たのしくないし、きれ
いにみえないし、あと、﹄
﹃あと、⋮ただ、これからもずっと、いっしょにいたいのです﹄
巡る季節を共にありたいと言うこの歌は、恋の歌。
それを知ってか知らずか言葉にするこの子は、大きくなったらど
ういう歌を俺に贈ってくれるのだろう。
︽﹃生きていれば良い事がある﹄︾
362
自分を俺の子供と言ってくれたおやじ様。
一番の理解者でもある遊男の仲間達。特にあの二人。
そして、一緒にいたいと歌ってくれたこの子。
簗瀬、俺はまだそこへは行かないよ。
行くには、死ぬには、皆を殺さなきゃならない。
そんなのは嫌だから。
363
自分の幸せとは︵後書き︶
恋しさを詠む歌は一様に恋の歌だと先生に教わったので、これ恋の
歌じゃないですよ、と言う人もいるかもしれませんが、ここではそ
うしています。
恋の意味は男女の恋愛だけじゃないですからね。
解釈は人それぞれです。
364
始まりは 10年目の世界で
今日は天月妓楼のあの人に会いに行く日。
これで3回目になるけれど、馴染みにしてくれるかしら。
不安だわ。
﹁松代様ですね﹂
﹁ええ﹂
﹁百合の間になります。どうぞ﹂
妓楼の中へ入り番頭へ声を掛ければ、直ぐに案内してくれる。も
う3回目になるし、郭の規則上妓楼内で買える男は心に決めた一人
だけ。私が誰を買いに、会いに来たのかは、続けて会いに来ていた
ら一発で分かると言うもの。
大体、前回の時点で予約を入れているから、見世の者も把握して
るんでしょうけど。
﹁では。中にいらっしゃいますので﹂
﹁ありがとう﹂
暫く歩けば、百合の花が描かれた戸の部屋に到着。
そう、百合の間だ。
﹁昨日ぶりですわ﹂
365
﹁ふふ︱︱︱そうですね﹂
ひと
戸から部屋へと入る私に、綺麗な笑顔で応え向かえてくれたのは、
私が昼も夜も焦がれて会いたかった男。
﹁そこへ座るといいですよ﹂
﹁嫌だわ。貴方の隣が良いの⋮。それに敬語も⋮なんだか淋しいわ﹂
﹁⋮ふ、あはは。貴女は可愛い人だな﹂
顔の横の髪を片手でかき上げる目の前のお人。
長い御髪は女の私から見ても美しくて、見惚れてしまう。
細い首は女性的で。指は細く長く、綺麗である。視線の合わない
少し伏せめがちな瞳には、ふとした瞬間に見つめられると胸が一杯
になる。
﹁今日は箏がいい?それとも舞?﹂
﹁では⋮箏を﹂
この方の箏が大好き。
しなやかな指先で弾かれた弦から生み出される繊細な箏の音色は、
雅かつ強さもある。百合の間いっぱいに響く、箏と言う楽器から奏
でられる神の歌声はいつまでも聞いていられる程。
この時がいつまでも続けば良いのに⋮
﹁俺の芸だけで良かったのかな。新造の箏や舞も中々上手なんだよ
?﹂
そんな願いも虚しく、箏を奏で時が経てば演奏は終わってしまう。
366
﹁折角ですもの。いっときでも多く二人でいたいのよ、私は﹂
箏を奏で終えた後、そう言われたので素直に気持ちを吐露した。
本当は、最初に禿や新造が三味線や箏、舞等で座敷を温めて、遊男
はぶ
とお客である私がお酒を飲んだりお喋りをするのだが、敢えて私は
そこを省いてもらった。
そんなのが無くても、この方さえいてくれれば私は充分なのよ。
その私の言葉に愛しい人は優しく微笑んでくれたけれど、次の瞬
間には視線をずらして苦しそうな顔をする。
何故?
﹁ごめんね。前回も言ったけれど⋮俺は貴女と床入りすることは無
い。貴女の為だ、私にお金を掛けることは無いよ﹂
﹁それでも!﹂
﹁?﹂
﹁また来ますわ。知ってるのよ、貴方、誰の誘いの願いにも乗って
はいないのでしょう?﹂
﹁⋮えぇ、なので﹂
﹁なら、貴方に愛される一番最初の女になるのが、私の目標よ﹂
まだ彼が体を許した、愛した女性はいない。
ならば彼が抱いてくれるのをひたすら待てば良い。
ひと
﹁⋮貴女を抱いてあげる事が出来ないのが、とても苦しい﹂
﹁なら、﹂
﹁俺は、貴女が好きだよ。こんな可愛い女に思われて幸せなくらい
だ。だからせめて︱︱﹂
367
ドサッ︱︱⋮
言葉をそう切った後、私の右手にすかさず、隣にいた愛しい人の
左手の指が絡みつく。そして首の後ろを手で支えられながら、押し
倒された私。
近くにある瞳がスッと細くなり、その中の渦に呑み込まれそうに
なる。
至近距離で見つめ合う私達。
握られている手は妙に汗ばんでおり、恥ずかしい為、一度離そう
とするも細く長い指が私の指に絡んでいて、簡単には解けない。そ
して解こうと指を動かすほど拘束が強くなっているのは、果たして
私の願望なのであろうか。
︱︱ちゅ、
﹁こうしても⋮良いでしょうか﹂
﹁!!﹂
﹁大切な貴女に﹂
頬に感じた柔らかな感触。
耳元で話される言葉は誰の物?
これは夢?
床入りはしない、と言う彼から贈られた頬への口付けと囁きは私
へ向けられた物なの?
夢じゃないの?
﹁あ、あの、これが夢では無いと言う証拠をくださいな﹂
368
﹁?﹂
﹁名前を⋮私の名前を呼んでください﹂
﹁じゃあ、貴女も俺の名前を呼んでください。まだ1度も呼ばれた
事が無いからね﹂
3日間通ってはいるが、名前を呼んだのは1度も無くて。それに
気づいてか、この方も私の名前を敢えて呼んでいないようだった。
最初の日は緊張していたのか、呼ぼう呼ぼうと思っている内に時
間が過ぎ、気がついた時にはなんだかもう気恥ずかしくて、この方
の名を呼ぶに呼べなくなっていた。
折角この方がくれた機会。
今言わなくていつ言えば良いの。
﹁あ、﹂
﹁松代、ほら⋮﹂
﹁の、﹂
﹁うん﹂
﹁野菊、様︱︱︱﹂
私の愛しい野菊様。
まこと
郭の男に誠の言葉はあるのか。
そんな言葉が飛び交う吉原で。
私は想わずにはいられないのです。
369
始まりは 10年目の世界で 2
︽妓楼の一室。︾
︽私が呼ばれた部屋にいたのは⋮⋮だった。︾
﹃あんたなんか死んじゃえばいいのよ!!﹄
﹃きゃあっ﹄
︽罵声を浴びせられた。︾
︽そして首を掴まれ、格子窓に顔を押し付けられる。︾
︽誰かっ!︾
1●⋮⋮に助けを呼ぶ。
2●⋮⋮に助けを呼ぶ。
3●耐えて唇を噛み締める。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱⋮⋮
﹁ぅ⋮さんばーん﹂
﹁起きろ﹂
﹁う︱︱︱﹂
﹁おい、﹂
370
﹁ん∼⋮やっぱ﹂
﹁野菊!﹂
﹁うぁ!?﹂
大声で自分の名前を呼ばれ、眠りから目を覚ます。
弾かれたように飛び起きれば、青い髪の青年が目の前に。⋮あ、
秋水か。寝起きからサラッサラの綺麗な髪を見せつけてくれてあり
がとう。
しかしまだ成長するのかお宅は。骨張った手や腕は、もう青年と
言うか成年と言うか。
﹁んー⋮。こんちくしょー﹂
﹁寝ぼけてんな﹂
今年で18歳になった秋水。
深いブルーの瞳は、元服した時よりいっそう精鋭。その瞳が時折
笑う様に垂れる瞬間が御客いわく﹃たまらない!﹄んだそう。
髪型は全然変わらなくて、秋水は肩下以上伸ばす気は無いようだ。
小さい頃から一番変わって無いかもしれない。あ、髪型にかんして
ね。
身長は伸びているし肩幅も大分広い。
ちなみに色気度で言えば、清水兄ィさまや羅紋兄ィさまが色気駄
々漏れなら、秋水は隠れエロス。と言う感じだろうか。具体的に?
と言われても説明があまり得意では無いため、ご想像におまかせし
ます。
それにしても格子から入る太陽の光が私の顔に直撃して鬱陶しい。
⋮太陽の光が直撃⋮⋮⋮?
371
﹁あ!﹂
﹁外行く約束してんのに起きて来ねーと思ったらコレだかんなお前
は。もう昼飯だぞ。それに今日はお前が梅木に稽古つけるんだろ﹂
﹁⋮⋮頭がクラクラする。てか寒っ!﹂
﹁二日酔いだな﹂
両手をクロスして腕を必死に擦る。摩擦パァワぁ∼。
あなど
しかし、太陽が輝いていると言うのにこの寒さ。
江戸時代の冬の寒さは侮れない。
普段寝相が悪く、寝ているうちにあちこちへと散歩する私の体だ
が、寒い為か布団の中からはみ出す事はなく見事収まっていたらし
い。
⋮色んな意味で正直な体だ。
これだけ寒いと流石のチャッピーも冬眠するだろ。
﹁ゲーコ⋮クヮッ﹂
﹁⋮⋮﹂
と思うだろうが、奴はそんじゃ其処らの蛙じゃない。
かいろ
私の布団の隣にある座蒲団の上。そこには厚手の小さな毛布があ
る。その中には木炭を入れ周りを手拭いで包んだ懐炉が。
そしてその近くには緑色の小さな生命体。
⋮いや、地球外生命体が鎮座している。
﹁ゲーゲーゲーコ﹂
﹁あー⋮ちょっと静かにしてチャッピー。頭にキーンてくるから。
キーンて﹂
372
相変わらず元気ですよコイツは。
﹁うぅー⋮﹂
﹁大丈夫か?﹂
15歳になった私は、無事?に花魁となっていた。まぁ、私が生
物学上女だという時点で色々無事では無いけれど。
私の元服は、皆と同じように花魁道中を行った。やれ着物やら隣
は誰が歩くやらとゴタゴタしていたが、無事に道中を終えました。
だが、閨の部分は花田様の協力もあり、何故か閨を共にしていな
いのに、私は知らない女の人と閨を共にしたと言う事になっていた。
どういう事だ。
﹁変な奴だ。客の前で酒飲んでもシレッとしてるくせに、客がいな
くなった途端酔うとか﹂
﹁地味∼に気を張ってるんだよ﹂
色を売らない。
と言う噂を聞き付けた色々な客が、野菊の元へやって来る。どう
にかして色を売らせようと半ば挑戦的に訪れるのだ。
だが、断り続ければ諦め、飽きる物。
こんなこと続けてたら私⋮客付かなくね?と野菊が思っていたの
もつかの間。
彼女が禿の頃から今まで、必死に磨きあげてきた技。教養。その
どれもが一流で秀でていた。五歳と言う幼さ過ぎる歳から花魁とし
て学ばされていた野菊の技は、他の誰よりも美しく、賢く、また鮮
373
やかで。客の心を魅了していった。
器量も男の中では美しく、中性的で、今現在数ある花魁の中では
一番女性か男性かの区別がつかない者だとして有名になりつつある。
だがそれでも男、だと言う事実が吉原には流れているため、そんな
にも美しい男に愛を囁かれてみたい。と言う客が多々いるのだ。
色を売らない。⋮いや、売れない野菊は技と手管で客を惹き付け
るしかない。それを考えれば、この結果は楼主の龍沂からしてみた
ら出来て当たり前の事なのかもしれない。
また、色を売らない=誰のものにもなっていない。と言う客の解
釈により、野菊が繰り出す愛の囁きだけで﹃私だけなのね⋮﹄と言
う勘違いを普通の遊男や花魁にくらべて受けやすくなっている。
少ないとは言え、一生床入りをしなかった花魁はいる。
そして野菊のこの状態を目の当たりにした龍沂は、
﹃飲み食いの接待だけの座敷とか、出来ねーもんかねぇ﹄
色を売らずに稼ぐ事が出来るなら皆にそうさせたい。
だが、そうしたら料金を下げなければならない。床入りが出来な
くても、料金は下がるため客は変わらず入って来るだろうが、いか
んせん料金が低くなったから年季明け後も借金が残ってしまう。
それに今の野菊の状態は、本人の力も勿論あるだろうが、皆が色
を売っているからこそ。と言うのもある。異色の存在だからこそな
のだ。
だがしかし。
そこをどうにかして吉原の根本的な事から変えていけないのか?
374
というのが、最近もっぱら龍沂の頭の中を巡る悩みなのであった。
﹁風呂はちゃんと入ったんだろうな﹂
﹁皆の後にちゃーんと入りましたよ∼だ﹂
15歳の現在。私はいままで皆と一緒にお風呂に入っていたのだ
が、1年前くらいから別に入るようになっていた。
14を過ぎたら辺りから、胸に巻いているサラシが妙にキツくな
ってきたのは記憶に新しい。
そんな私の身体の成長にいち早く気づいたのは、なんと羅紋兄ィ
さま。
風呂に変わらず一緒に入っている私を見て、ある日一言、
﹃もう⋮駄目だろコレ﹄
﹃良く言ってくれました羅紋兄ィさん!﹄
何が駄目なんだ何が。
胸か。胸なのか?もげちまえバカ野郎!!
そして蘭菊も一緒になって騒いでいたのを覚えている。
ケっ。喧しい奴め。
そんなこんなであれよあれよと話は進み、おやじ様の指示で私は
皆の後、つまりは一番最後に入ることになった。
座敷が早く終わったとしても一番最後。
何がなんでも一番最後。残り湯を使うのだ。
375
別に体が洗えればそれで良いから不満は無いけれど、寝る時間が
少し皆より遅くなるのでちょっとしんどい。
﹁今日はもう時間無いから行けないな﹂
﹁⋮ごめん。えー⋮じゃ、じゃあ肩たたきを今しますので、それで
お許しください!﹂
﹁あと背中もな﹂
﹁了解であります!﹂
約束を果たす事が出来なかったので、罪滅ぼしにマッサージをか
って出る。
腕が鳴るぜ。
﹁そういえば松代様、昨日も来てたのか?﹂
﹁んー?⋮うん﹂
﹁今日は早瀬様だろ。床入りしないのに、よくやってるよお前﹂
畳に寝そべり、私に背中のツボをふみふみと押されながら話し出
す秋水は、私本人よりもその日に来る客の事を把握している。今日
の客は誰なのかをおやじ様に聞きに行こうとしていたのに、手間が
省けた。
こやつ⋮きっと高校生だったら生徒会長とかやってそうだ。
﹁なんだかさぁ。⋮私女の人が好きなのかな?﹂
﹁勘違いだ。目を覚ませ﹂
﹁えー﹂
お客の人達はとても可愛い。
声を掛ければ赤くなってワタワタするし、笑えば思い切り笑い返
376
してくれる。それにこんな私と一緒に過ごしたいと思ってくれてい
て、なんだか嬉しくなる。
と同時に申し訳なくなってくるのは仕方がない事。
自分が客からどう見えているのかはあまりよく分からないが、好
いてくれているし、少なくとも態度からしてみて抱き合う以上の事
を求めている事は明らかである。
だがそんな事は絶対に出来ない私。
なので出来ない代わりに私が出来る精一杯のおもてなしで満足し
て貰うしか無いのだ。
昨日松代様にも言ったが、誰とも床入りすることはこれからも無
い。そんな私を買い続けても気持ちに応える事は出来ないから、ど
の客にも毎回必ず言うのだ。
﹃駄目﹄だと。
芸で満足させる事は出来るが、そう言う意味では満足させる事は
出来ないと。
だが、皆口を揃えて﹃それでも﹄と言う。私が言えた事じゃない
が、健気過ぎて泣けてくる。いや、もうマジでごめんなさい。本当
にごめんなさい。
だからそんな彼女達にせめてもの思いで、私も全力で応えている
が、少しの罪悪感が今の遊男として、花魁としての私を作っている
のは過言ではない。
その代わり、口から出た言葉に偽りは無い。
377
⋮あ⋮⋮や、ちょっと嘘ついた。
ちょっとオーバーに言う時があります。すみません。
だが客である女性は皆可愛いと思うし大切だとも思う。男として
閨を共にする事が出来ないのが本当に申し訳無い。
﹁そういや、凪風が新しい懐炉お前にやるって言ってたぞ﹂
﹁今月入って10個目だよ。どんだけくれるのさ﹂
﹁ちゃっぴぃの為にでもあるんだろうな﹂
﹁なんか妙に仲良くて妬けるよ﹂
それでも花魁として、あと5年。
皆と頑張っていきたいと思います。
そう言えば、何か夢を見てたような。
なんだった?
378
始まりは 10年目の世界で 2︵後書き︶
あとがき。
﹃はい、これ懐炉ね。僕と型違いのやつ﹄
﹃あ、ありがとう﹄
﹃ちゃんと温かくしてる?﹄
﹃少なくともチャッピーは生きてるよ﹄
﹃良かった﹄
﹃野菊は?﹄
﹃?﹄
﹃ちゃんと温かい?﹄
﹃うん。温かい﹄
379
始まりは 10年目の世界で 3
﹁きゃ、﹂
﹁あ、いや、ごめんな﹂
ガタッ
﹁わ!ご、ごごごめん!!お邪魔しましたぁ!﹂
﹁あ、待て。⋮おい野菊!﹂
布団部屋の戸を勢いよく閉める。
﹁さーて。梅木は用意出来てるかな∼﹂
シャットアウト。閉店ガラガラ。
はい、何も見てませーん。
梅木との約束もあるし、さっさと部屋に戻ろうっと。
﹁⋮⋮﹂
⋮とか思いながらも、今さっき見た光景を頭の中で思い出しなが
ら、自分の部屋に戻る為廊下を一人歩く。
﹁うーん⋮間が悪かった。でもこの前も似たような⋮﹂
私、実は最近⋮
380
﹁ラブシーン⋮?﹂
最近⋮妙に人のらぁぶシーンに遭遇するのです。
繰り返そう。らぁぶシーンです。
はい、リピートアフターミー?
ラブシーン。
﹁しかし次はあの組合せかー⋮﹂
今のがいい例だ。布団部屋に敷き布団の交換をしようとやって来
た私だけれど。戸を開けた瞬間にまみえたのは目当ての布団ではな
く、布団の上に重なるようにして倒れる愛理ちゃんと蘭菊。愛理ち
ゃんを押し倒していた蘭菊は今や私よりも背がデカイ。だから端か
ら見たら彼女を襲っている様にしか見えなくて。
どういうこっちゃ。
でも愛理ちゃんの顔に恐怖の色は無かったし、どちらかと言えば
照れた顔をしていた様な気がする。そりゃ滅茶苦茶嫌がっていたら
小僧をぶっ飛ばしてたけど、明らかにそんなんじゃ無かったから。
逃げました。ぶっちゃけ親しい人のそう言うシーンて気まずいじゃ
ん。私なんか清水兄ィさまの閨を2度も戸ごしで見て⋮いや、聞い
ちゃってるけどさ。
あ、清水兄ィさまと言えば。
そうそう。この前は清水兄ィさまと愛理ちゃんで、私が生理で汚
れたモコちゃんを裏で洗っていたら、
﹃あの⋮ありがとうございます﹄
﹃いや、気にしなくても良いよ。それよりどうしてこんな所に?﹄
381
﹃ええと⋮、きゃっ﹄
﹃危ない!﹄
ダンッ
﹃な、何?今の⋮﹄
背にしている部屋の中から何か物音がしたので気になり戸を開け
て入ってみた。
すると視界に入って来たのは愛理ちゃんを抱き締める清水兄ィさ
ま。
愛理ちゃんもまた清水兄ィさまの背中に手を回していて、端から
見たらそりゃもう⋮
戸を開けた私に気づいた兄ィさまが私を見てニコリと笑う。あら、
機嫌が大変よろしいではないか。
﹃どうしたの?﹄
﹃兄ィさま⋮⋮もうちょっと静かにやりましょう﹄
﹃え、﹄
﹃で⋮では、⋮お邪魔しました!!﹄
﹃え?⋮⋮あ。野菊!﹄
てか凪風ピンチじゃん。奴は愛理ちゃんに恋してるのに、これじ
ゃお馬鹿な蘭ちゃんや百戦錬磨の兄ィさま達に取られちゃうよ。
この3年奴に動きは全く無く、何も憂いはありませんよ?みたい
な感じでフッツーに過ごしている。
まぁ、遊男だし?しかも花魁だし?恋しても一般的には報われな
い職業だけれども。やはりこんな中じゃ恋なんて積極的に出来ない
のかもな。
382
だが何故だ。
何故私だけ愛理ちゃんとのラブイベント的なものが無いのだ。不
公平だぞ。
いや別に話したりはしてるけどね。
﹃ノギちゃんはどうしてもその道極めるの?﹄
﹃極めるっていうか⋮。極めなきゃいけないというか。まぁ、女の
子好きだし。愛理ちゃんとか大好きだし﹄
﹃ええっ!?﹄
﹃ええ!?﹄
﹃ふっ、あははは。ノギちゃんならお嫁さんに来てもいいわ﹄
﹃逆じゃない?﹄
でもこの会話は約3ヶ月前。
そしてその3ヶ月前を境に、愛理ちゃんはなんと︱︱︱記憶喪失
になった。
ある日、洗い終えた大量の手拭いを持ちながら歩いていたのが悪
かったのか、階段を登っている途中、かなり高い場所で段を踏み外
し落ちた愛理ちゃん。↑︵床や階段に散らばっていた大量の手拭い
を見たおやじ様の推理︶
ドダダダッ⋮と言う大きな音に皆が駆けつけた。私もその時駆け
つけた一人、と言うか第一発見者で階段から自分の部屋はそう離れ
てはいないので直ぐに行けたのだ。一番最初に愛理ちゃんを見つけ
た私は、足から血を流している愛理ちゃんを抱き起こし、意識があ
るのかを頬をパチパチと叩いて確かめた。
不安で、心配でちょっと泣きそうになってしまったのは秘密だ。
383
﹃愛理ちゃん!愛理ちゃーん!﹄
﹃野菊!今のは⋮﹄
﹃な、なぎがぜぇぇ、でぬ゛ぐい持っでぎでぇえ!﹄
いや、結果泣きました。
私の後には凪風が駆けつけてくれたので、足の血を拭く手拭いを
頼む。
凪風の後からも妓楼の皆が来てくれたので、怪我をして意識の無
い愛理ちゃんを部屋まで兄ィさまと運び、布団を敷いてその上に休
ませた。取り合えず息はしていたため良かったが、彼女は中々目を
覚ましてくれなかった。
そして翌日。
やっと目を覚ました彼女が起きた時には記憶喪失⋮になっていて、
﹃え、誰?﹄
﹃の、野菊です。愛理ちゃん?﹄
﹃野菊!?﹄
私の名前を聞いて何故かビックリしていたが、謎だ。
それからは、記憶が無くなってしまった愛理ちゃんの為に皆であ
れこれ教えたり、一から皆自己紹介をしていった。
覚えにムラがあるようで、花魁の皆の名前は一発で覚えたみたい
なのだが、他の遊男の名前や、一緒に裏の仕事をする人達の名前は
未だ少しあやふやな様で。
⋮しょうがない。だってインパクトあるもんね花魁の皆。
384
愛理ちゃんに気をかけている皆や私だが、私だけ何故か圧倒的に
接触するのが少ない。
しかも決まって、なんだか花魁の誰かといい感じのシーンに遭遇
するのだ。
このままじゃいけない。と、頑張って会いに行った事があるが、
﹃愛理ちゃん⋮野菊だけど﹄
﹃⋮⋮⋮﹄
部屋の中にいる気配はするのに、返事が帰って来ない。とても淋
しい気持ちになった。
以前だったら﹃なーに?ノギちゃん﹄と鈴の鳴る声で、笑顔でこ
の戸を開けてくれたのに。
淋しすぎる。
﹁はぁ⋮⋮﹂
ああ、嫌な事を思い出してしまった。
落ち込んでいても事態が変わるワケではないと分かっているけれ
ど。改めて思い返すと、悲しいものである。
⋮あー。やめやめ。
気分変えて早く梅木の所へ行かなきゃ。
●●●●●●●●●●●●●●
外出の際に気を付けなければならないのは見世の花手形を忘れず
に持つ事と、派手な長着︵着流し︶は着ない事。そして大門には近
385
づかない事。大門に近づくと、おっかない屈強な門番に睨まれるの
だ。女ならいざ知らず、男が近寄ると途端に腰の刀に手をかけだす
始末。脅しだと分かっていても、心臓にクるものがある。マジ止め
ていただきたい。
吉原の町には色んなお店がある。花街だからと言って、妓楼ばか
りがあるワケではない。妓楼を出て辺りを見渡せば、大門へと繋が
る一直線の道なりのサイドに妓楼と妓楼に挟まれた店が何軒もあり。
お菓子屋はあるし本屋もあるし、甘味処や茶屋もある。着物屋は一
軒しかないが、軽い浴衣や単が欲しい時にはうってつけの店だ。
ちなみに私の好きなあの老舗の美味い焼きまんじゅうは、吉原に
は無い。あれはおやじ様が吉原の外で買ってきてくれているため、
ゲットは非常に難しい。難しいと言うか最早不可能。老舗じゃなく
ても良いから、せめて焼きまんじゅうを買い食いしたかった。
﹁野菊兄ィさん、これはどうでしょう﹂
﹁梅木は?﹂
﹁簪や結紐ですかね﹂
﹁あーなるほど。髪長いからねー﹂
只今梅木とお出かけ中。
梅木は大きくなった。
しかも今現在、ただ一人の引込新造である。
外人のようなウェーブがかった金の髪に碧の瞳、目鼻立ちはハッ
キリとしていて非常に綺麗なお姿。小さい頃は天使のような可愛さ
で、背中にピヨピヨと羽根が生えてそうだった。なのに今は私の背
を越えようとしている。否、許すまじ。
386
﹁はぁ∼。寒いね﹂
﹁息が真っ白ですもんね﹂
息を吐くと、出たのは直ぐに消えちゃう白い雲。
冬の空は灰色。もうすぐ雪でも降るのだろうか。
鳥が鳴く声を暫く聞いていない。皆暖かい所へ避難しているのだ
ろう。
冷たい風が頬を掠めると、全身の毛穴がキュッと引き締まる感じ
がした。
首に巻いた赤の襟巻きを口元に持っていきながら、もう一度息を
吐く。⋮あ、ちょっと口回りが暖かい。
隣の梅木も私の真似をする。梅木の襟巻きは梅色で、私の赤より
少し薄い感じ。
この襟巻きはおやじ様が皆に支給してくれたもの。一人二枚ずつ
ストックがある。
今更だが、この世界の妓楼はいたれにつくせりだとチョビッとだ
け思う。私のいた世界の江戸時代の遊女がいた妓楼はもっと過酷な
イメージがあった。
というか、ここ10年で大分緩和されている吉原内。
﹁あ!﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁あそこに宇治野兄ィさんがいますよ!﹂
そんな緩∼い町で見つけたのは天月の母、宇治野花魁。兄ィさま
も何かを見に外へ出ていたのだろうか。
楽しそうに兄ィさまを指差し発見した梅木は、思いきり手を振り
387
だす。
﹁宇治野兄ィさーん!﹂
大きな声で呼ばれたのに気づいた兄ィさまは、キョロキョロと辺
りを見渡すと私達に視線を止めて手を振り返してくれる。
そしてこちらに歩いて来るのが見えた。
﹁偶然ですね。二人でお出掛けですか?﹂
﹁宇治野兄ィさまは、珍しいですね﹂
﹁あぁ、花を買いに来ていました﹂
花を買いに来ていたと言う割りに、その手には何も無く、手ぶら
である。これから買うのだろうか?いや、でも過去形で言ってるし⋮
﹁毎年この時期に友人へ白い花を贈っているんです。毎年と言いま
しても、吉原内を出歩ける様になってからですが﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁ここには季節ごとに花売りが来るので助かりますよ﹂
遊男には月一でお給料日なるものがある。大体次の月の始め頃な
のだが⋮。お給料と言うか、お小遣いに近い。てかもうお小遣いと
呼ぼう。
遊男のお小遣いは自分の稼ぎの内の、約0.01%。つまりは1
0000分の1。
普通の遊男は月に約750万稼いでいるが約0.01%だから、
計算すると750円になる。花魁も変わらず0.01%で、月の稼
ぎが8000万くらいだとすると小遣いは8000円になる。
0.01%とは言え、好きに出来るお金がある事は遊男にとって
388
幸せな事である。我慢して1年くらい貯めれば普通で9000円貯
まるんだ。テンション上がるね。吉原内を出歩けるとなっても、皆
あまりお金を使わないでウィンドウショッピングをしているので、
貯まる一方なのである。
それにこれは高級妓楼だから出来る事。おやじ様が、皆が年季明
けでここを出ても少しは生活の足しになるようにと出してくれてい
るのだ。
﹁良いのありました?﹂
﹁花売りさんに聞いたら明後日に水仙を売りに来るそうなので、明
後日にしようかと﹂
﹁あ、白い花って言ってましたもんね﹂
たまに買っても宇治野兄ィさまみたいに花だけだったりする。
お金の有り難みを、ある意味誰よりも知っている遊男達だからこ
そなのかもしれない。
かく言う私も何かあるかな∼と町に繰り出して来たが、特に何か
を買うつもりなんて無い。
ただこうやって誰かと一緒に、あれでも無いこれでも無いと、話
しながらお買い物モドキをしたいだけなのである。まだ小遣いを貰
っていない梅木もたぶんそう。私がお金を使わないのを分かってい
ながらこんな約束をする。
﹁はい。⋮ですから俺はもう妓楼に帰ります。野菊達はどうします
?﹂
﹁うーん。思いの外、寒いのでもう戻ったほうが良いかもと﹂
﹁ですよね。野菊兄ィさん、さっきから腕擦って寒そうですし﹂
389
﹁では一緒に天月へ戻りましょうか﹂
その誘いに返事をして、3人並んで天月の帰路へとつく。
うん、今日の外出も楽しかった。
390
始まりは 10年目の世界で 3︵後書き︶
あとがき。
野菊、梅木、宇治野と梅木を真ん中に、3人並んで手を繋ぎ歩く
帰り道。
﹃なんだか親子みたい﹄
﹃僕と野菊兄ィさんが夫婦で、宇治野兄ィさんが姑ですね﹄
﹃待ってください。それおかしいです﹄
﹃この場合、野菊が俺のお嫁さんで、梅木がその子供ですよ﹄
﹃いや宇治野兄ィさま。それおかしいです﹄
﹃宇治野兄ィさまが私達2人のお母さんで、梅木と私が兄弟です﹄
﹃﹃あー⋮﹄﹄
自分の立ち位置はさておき、相手の立ち位置にお互いちょっと納
得してしまう2人であった。
391
間話﹁言い訳をさせてください﹂︵前書き︶
清水が愛理とイチャコラ︵野菊いわく︶していた日の、野菊が座
敷を終えての風呂タイム時に起きた出来事。
*短いです。
392
間話﹁言い訳をさせてください﹂
﹃では、またね﹄
﹃はい野菊様。でも私、⋮私次こそは、絶っっ対に野菊様に床入り
さなえ
させてみせますわ!﹄
﹃早苗⋮︵すいませんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ
んなさ⋮︶﹄
座敷は今日もいつも通りに終わり、夜はとうに更けている刻。
﹁疲れたなぁ﹂
自室に戻っている私は、敷いた布団の上でゴロンと横になってい
た。
だが長着も羽織も着たままなので若干寝心地が悪い。
あぁでも眠い。
しかし、このまま眠りにつくのはおやじ様的にアウトなので、一
日の身体の汚れを落とす作業を必ずしなくてはならない。
そう、常に清潔でなければ!ね。
﹁臭うのはイヤだ⋮﹂
さて、風呂にでも入ろうかな。
●●●●●●●●●●
393
﹁ふぃ∼。⋮寒っ﹂
寒い廊下をひたすら手を擦りながら歩き向かう。こんなに寒いの
に、ちょっと冷めちゃった残り湯の私。
⋮大分前の発言は撤回する。
後の入浴に若干の不満ありました。
︱︱パシッ
﹁ちょっと待って﹂
﹁え?﹂
脱衣所がある右の角を曲がろうとしたら、パシッ⋮と手首を掴ま
れ風呂に行こうとするのを誰かに止められる。
いきなり誰?⋮どうしたのかと相手の顔を覗き見れば、困った様
な笑みで私の顔を見つめる清水兄ィさまがいた。
何故に困り顔?
﹁わ、兄ィさま!﹂
﹁久しぶりに一緒に入る?﹂
﹁えっでも、兄ィさまは今出たばかりでは⋮﹂
兄ィさまの髪は水で濡れている。それに私の前から来たと言う事
は、今さっきまで入っていた筈なのに。
﹁嫌?﹂
﹁とっとんでもない!!﹂
394
﹁じゃあ脱いだらちゃんと手拭いで前は隠して入っておいでね﹂
﹁は、はい﹂
それにけして暖かいとは言えないお湯に兄ィさまを浸からせるの
は、なんだかいただけない。
そうは言っても、兄ィさまは我先にと来た道を戻って脱衣所に行
っちゃったし。
﹁⋮⋮⋮うーん﹂
●●●●●●●●●●
︱︱⋮ポチャーン
﹁兄ィさま、私ちゃんと遊男としてやれているでしょうか﹂
兄ィさまに後ろから抱き抱えられながらお湯に浸かっている。⋮
何も言わないで欲しい。
﹁花魁として不十分じゃないでしょうか﹂
結局一緒に入る事にした私。うぅ、兄ィさまには一生勝てない気
がする。
だが久しぶりに一緒に入り、話も2人きりでしたので、仕事の悩
みをこれでもかと兄ィさまにブツける。女と言うことがいつかバレ
ないか毎日ヒヤヒヤだし、体格も大きくはない私が果たして、女の
人に男としての力強さを示せているだろうか等。上げれば悩みは本
395
当に尽きない。
﹁⋮私としてはね、あまり上手になられても嫌なんだけど﹂
﹁嫌ですか!?﹂
﹁うん。イーヤ﹂
﹁嫌ですか﹂
﹁⋮⋮なんてね﹂
冗談だよと笑いながら私の頭を撫で付ける兄ィさま。
︱︱トクン⋮
チラと後ろ目で見えたその相変わらずの優しい笑顔に、いつもよ
り何故かチョットだけ心が跳ねたのは、何故、なのか。
﹁あ、あ∼、だっ大好きです。兄ィさま﹂
そして何故か気恥ずかしくなりクルリと後ろを振り返り、同期の
皆とするように、ぎゅうっと兄ィさまを抱き締める。状況的には、
兄ィさまに抱きつくってのが正しい表現かも。
というか、気恥ずかしくなったのに抱き付くっておかしいぜ私。
何故、だ。
﹁野菊。⋮男はね、我慢強さが必要なんだよ﹂
﹁忍耐力を鍛えると言う事ですね﹂
﹁私は、結構我慢強い方だと思うんだ﹂
﹁?﹂
﹁そう思わない?﹂
396
﹁そっそうですね!我慢強いです﹂
397
間話﹁言い訳をさせてください﹂︵後書き︶
あとがき。
﹃野菊、今日の愛理との事なんだけど⋮﹄
﹃今日の?⋮あ、愛理ちゃんと﹄
﹃助けただけだからね﹄
﹃⋮抱擁を﹄
﹃階段から落ちた時のせいで、足首がまだ良くないらしくて。立ち
上がった瞬間に転びそうになってね﹄
﹃ふふ、へ∼。そうなんですか∼ふふ﹄
﹃⋮信じてくれないなら、野菊の体に直接教えてあげようか﹄
﹃え⋮︵殴られる!?︶﹄
﹃あぁ、そんなに怯えなくても大丈夫。ちょっと疲れるかもしれな
いけど﹄
﹃疲れる⋮︵殴り合いだ!!︶﹄
さて。タイトルは、誰の言葉でしょうか。
398
繰り返すトキの中で
自分が生涯を終える時、必ず思い出す。
今が何回目かは分からないが、自分が同じ世界で同じ時を繰り返
していると。
とき
そしてその時空の中で、遊男の皆が1人の少女に心惹かれていく
と言う事も、そしてまた違うもう1人の少女が迎える悲惨な結末も
全部。
走馬灯を見ていて思うのは、ある1人の少女の事だった。
全く⋮何故あんな馬鹿な事をしたのか。
今回の人生でのあの子は、途中までは真っ当な子だったのに、ま
た過ちを犯していた。
どうしてだろうか。
次は幸せに生きてはくれないだろうか。
そう思いながら今俺は目を閉じて生を終える。
◇◆◇
自分が生涯を終える時、必ず思い出す。
今が何回目かは分からないが、自分が同じ世界で同じ時を繰り返
しているという事を。
399
今回もあの子はやってしまった。
でも、今冷静に思えば自分達があの子にしてしまった事も酷いも
んだったと他人事の様に思う。
妹のように可愛がっていたあの子との約束を忘れて、自分が惹か
れている桃色髪の少女と同じ時に約束をしてしまい、あの子を放り
っぱなしにした事。
桃の節句では、少女には綺麗な着物を着せたのに、あの子にはい
つも通りの黒の作務衣を着せていた事。
あれだけあの子を可愛がっていたのに、皆それを忘れたように少
女にのめり込んでいた。
少女⋮彼女が階段から落ちた時には﹃誰かに押された気がして⋮。
黒い髪が見えたんですけど、もしかしたら⋮あの子⋮﹄と言う彼女
の言葉だけで、裏で洗濯をしていたあの子を疑い、謝らせた。本人
は否定をしていたというのに。
それに、あの子と一緒に洗濯をしていた少年も﹃ずっと洗ってい
た。あり得ない﹄と証言もしていたのに。
信じきれずに。
あの子が他の花魁から貰い大事にしていた簪が壊れた時だってそ
うだ。
まだ二人の仲がそれほど拗れていない時、彼女が少し我が儘を言
って、あの子の大事にしている簪を借りたという時。
⋮早い話、借りて直ぐに壊した。彼女が。
経緯は分からないが、嘆く持ち主に最終的に﹃わざとでは無い﹄
400
と言う彼女に謝罪は無く。そんな彼女に文句は言わず、あの子が黙
って裏手で泣いていたのを俺は知っている。
なのにも関わらず、彼女が大切にしていた櫛をあの子が⋮経緯は
こちらも不明だが壊してしまった時﹃櫛を貸したらあの子に壊され
た﹄と泣きながら言う彼女の言葉を信じて、あの子を怒鳴りつけた。
⋮いや、怒鳴りつけたのは違う奴だが。
﹃でも、私貸してなんて言ってない。なんか渡されて⋮櫛には最初
からヒビが入って、﹄
﹃いいから謝れ!!﹄
﹃私っ﹄
﹃言い訳すんな!﹄
彼女があの子の物を壊した時には皆何も言わなかったのに、あの
子が彼女の物を壊したという時には容赦が無かった。
たかが櫛なのに。
大人げない。
それに彼女に来てほしいと言われ、向かった部屋。
着いて直ぐに部屋の中から少し声がしたので、なんだ?と気にな
り戸に耳をあてて声をきいてみると、
﹃私のここに、こうやって手をあててみて?﹄
﹃な⋮なんで﹄
﹃いいから、やってみてよ﹄
﹃⋮⋮﹄
彼女とあの子の声がした。
401
何をしているのかは分からないが、取り合えず彼女が部屋の中に
いるのは確か。
呼ばれたのだから、自分が中に入っても何ら問題は無いはず。
そう思い部屋の戸を開けた途端、
﹃嫌ぁ!苦しい!!﹄
﹃⋮え!?﹄
﹃っおい、何してんだ!離せ!!﹄
彼女の首に手を掛けたあの子が、彼女の首を絞めていた。
彼女があの子の手を掴んで離そうとするが、びくともしないのか
硬直状態であった。
対するあの子は動揺していた。
首絞めている本人が動揺している姿は、不思議なものである。
すると次には、俺が視界に入って我に返ったのか、自分の首を振
りだした。
﹃わっ私、首絞めて無い!手を離してよっ、嫌!なんでこんな事す
るの!?﹄
﹃あ、苦しっ⋮い!﹄
﹃お前は何言ってんだ!早く手を離せっつってんだよ!!﹄
後にこの出来事はおやじ様に報告をした。
今までの彼女への仕打ちもあり、あの子は遊男からの仕置きを受
けることになった。
だが、あの子は終始言い続けていた。
402
﹃私、彼女に部屋に呼ばれてそこに行ってみたら﹃首に手をあてて
みて?﹄って急に言われたから手をあててたんですっ、なんでか分
かんなかったけど、不思議に思って手をあてた瞬間に渚左さんが入
ってきて、そしたら彼女が悲鳴をあげたんですっ﹄
﹃お前さん、作り話はもうやめねぇか﹄
﹃違うんですっ、彼女が﹄
﹃可哀想だが⋮しょうがない。仕置き始めろ﹄
﹃嫌!おやじ様ぁーー﹄
今思うに、あの子の言っていた事は本当の事だったのかもしれな
い。
俺が聞いた、部屋に入る前の中での会話。確かに﹃手をあててみ
て?﹄と彼女の声であの子に言っていた。
それに開ける前に言い合いをしていた様子は無かったし、辻褄は
合う。
その後から、あの子は取り憑かれたように彼女を襲うようになっ
た。
刃物で刺そうともし、﹃こんな人、死ねばいい!!﹄と狂ったよ
うに叫ぶ。
﹃嘘つき女っ、﹄
今なら思う。
確かめて、あの子の話を聞いてあげれば良かったと。
本当は⋮真実は違ったのかもしれない。
403
だが彼女に惚れていたあの頃の自分では、正当な判断が出来なか
った。
惚れた欲目で、彼女の言う事こそが真実だと。それが正しいと。
彼女と自分が結ばれた人生は、たぶん覚えている分だと12回か
13回くらい。
数えきれない程人生を繰り返しているから定かでは無い。
彼女と生涯を共にする上で、あの子の行動や彼女の行動を疑問に
思った事は無いが、もう死ぬと言う直前で毎回繰り返されていた人
生を思い出す。そして人生を何度も重ねるにつれ、何かがおかしい
事に気づく。
考えてみれば、必ずあの子に不利が働くような動きを彼女はする。
まるであの子が非道に行くように仕向けるかのように。
何度廻ってもその繰り返しだ。
でも何のために?
あの子は妓楼の皆に愛されていた。少なくとも彼女がやって来る
までは。
彼女が来てから何時もおかしくなるのだ。これが正しい道、とで
も言うように。
何故なんだろう。
きっと彼女がいなければ、あの子は普通に生きられたのではない
だろうか。
404
女の遊郭に売られる事もなく、仕置きを受ける事も無い。
彼女に惹かれていた自分が何を言っているんだとは思うが⋮。
心根は優しい子だ。
どうか神がいるなら、お願いだ。次に俺がまた生まれ変わる時、
記憶をそのまま残してあの子の元へおいてほしい。その代償に人間
でなくても構わない。今度は絶対に真実を見極めたいんだ。声が届
かなくてもいい。
傍にいたい、形を変えてでも。
あの子が道を間違えないように。彼女があの子を変えてしまわな
いように。
でも死の瞬間、何故いつもあの子を俺は一番に思い出すのだろう。
俺は、本当は︱︱︱︱⋮
405
繰り返すトキの中で︵後書き︶
あとがき。
﹃あれ、チャッピー何処行った?﹄
﹃あいつなら凪風んとこじゃね?﹄
﹃ニャーン︵いや、腹の下︶﹄
﹃ゲーコ︵相変わらず温かいぜ︶﹄
﹃心配したなぁ、もう∼。ちっちゃいんだから﹄
﹃ゲコ︵すまん︶﹄
406
始まる 物語
﹃あんたが悪いんじゃない!﹄
﹃な、なんで⋮﹄
﹃あんたが⋮あんたが居なければ、皆とずっと一緒だったのに!!﹄
狂ったように私の体を両手で揺すってくる彼女は、なおも続ける。
﹃止めてっ、﹄
﹃なんで皆の心、持ってっちゃうのよ!私が、私が一番一緒にいた
のに!!﹄
﹃そんなの﹄
﹃あぁ、そんなの私が悪いんでしょう?﹄
﹃あんたには私の気持ち⋮分かんないでしょうね﹄
沈んだ声で静かに呟く。
﹃私、もうすぐ女の遊郭に売られちゃうのよ﹄
﹃あんたに、散々意地悪したものね﹄
﹃私は此処に置いとけ無いんだって。あんたにいつ危害を加えられ
るか分からないから﹄
﹃でも此処にいた分のお金は払わなきゃいけないから、罰としても、
売るのが一番良かったんでしょ﹄
407
﹃でもこんな私ちゃんと売れるのかな。仕置きで髪も切られてぐち
ゃぐちゃで体にも傷があるのに﹄
﹃とにかく、もうあんたと会うことは無いから。皆ともね﹄
そう言い終わると後ろを振り返り歩き出す。
彼女が歩いた後の畳に、丸い小さなシミが点々とある。これは何?
問わなくても分かるその跡に、⋮⋮の良心が少しだけ痛んだ。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱⋮⋮
月が輝く宵。
雲は輝きを邪魔する事なく流れていく。
妓楼の遊男達は寝静まり、丑三つ時の肌寒い中。
﹁⋮今の﹂
ふと目が覚めてしまい、布団からゆっくりと起き上がる。
私、今しがたもの凄くリアルな夢を見ていた感じがする。いつも
は夢を見たと分かっていても、内容までは覚えていなかったが、今
回は違う。
本当に最初から最後まではっきりと覚えている。
気味が悪いな。
﹁何だろう⋮﹂
女の人が長々とベラベラ喋っていた。
女の遊郭?って、遊女がいる所だよね。遊男じゃなくて。
408
売られるって⋮売られる、だよね。
人の顔は見えなかった。
女の人と言うことは分かったけれど。
変な夢。
⋮まぁいいか。
まだ起きるには早すぎるから、もう1度寝ようっと。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱⋮
︽選択してください︾
1●渚左のもとへ
2●宇治野のもとへ
3●浅護のもとへ
4●羅紋のもとへ
5●清水のもとへ
6●秋水のもとへ
7●凪風のもとへ
8●蘭菊のもとへ
﹃無難に⋮1番かなぁ﹄
今日買った乙女ゲームをプレイする私。ゲーム名は﹃夢見る男遊
廓∼一夜を共に∼﹄と言う。
別段人気だから買ったとかそんなんじゃない。
409
普通に興味本意でたまたま目に止まったものを手に取っただけだ
⋮なんてね。たまたま目に止まったってのはちょっと嘘。着物とい
うか、和風な感じが好きだったから選んだんだ。
いざやってみると、これが中々面白い。
恋には障害が付き物。
主人公のライバルは必ずいる。
このゲームでのその役割は﹃野菊﹄と言う女の子。
今はその子と画面で対峙中。
◇◆◇
野菊﹃皆の周り、ウロチョロしないで﹄
◆︱そんな事を言われても⋮
野菊﹃私、あんたみたいな女が一番嫌い。皆に良い顔して馬鹿みた
い。八方美人とか良く言われない?﹄
◆︱い、言われるかもしれない。でも私
◇◆◇
確かに﹃野菊﹄の言う事にも一理ある。
この主人公・デフォルト名は﹃愛理﹄。愛理は相手を決めたのに
も関わらず、毎回の選択肢で違う人とのイベント起こす。なんで1
を選んだのに、2の奴の元へ行くのだ。難かしすぎるよコレ。
410
人生って難しいのよって?
知ってるわそんなもん。
なに、乙女ゲームってもっと単純じゃないの?
好感度アップするように試行錯誤して選択肢をこなしていくんじ
ゃないの?
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱⋮⋮⋮⋮
バッ︱︱
勢い良く布団から起き上がる。
﹁⋮⋮っはぁ、はぁ⋮﹂
部屋の中は格子から漏れる陽の光で明るい。
しかし、まだまだ肌寒い朝。
息継ぎをする度に白い息が出る。
寒いというのに相当寝苦しかったのか、汗が身体中を湿らせてい
てベタベタしている。気持ち悪い。
しかし汗を拭う事もせず暫くぼーっとしたあと、今がどのくらい
の時間なのかを格子の影の位置と陽の位置で計る。
﹁⋮⋮ふぅ︱⋮﹂
うん。大体朝の8時ってところかな。
411
取り合えず布団から出てお部屋の掃除をする。
おやじ様にガミガミ言われないように、チリの一つも見逃さない。
全く小姑には敵わない。
クソ寒い朝だが、掃除をしているうちに穏やかな気持ちになるの
は毎回不思議でたまらない。もしかして、1日の始まりを有意義な
気持ちで過ごせるようにと言う、おやじ様の策略なのであろうか。
﹁おーい。飯食いに行こうぜ﹂
﹁戸を開ける時は声をかけてよ非常識野郎﹂
蘭菊が部屋の戸をいきなり開けて入って来た。
コイツ、礼儀を知らないのか。
﹁うるせー。馬∼鹿﹂
﹁⋮⋮﹂
︽﹃お前が好きだ﹄︾
︽﹃私も⋮蘭菊さんが好き﹄︾
﹁野菊?﹂
﹁⋮⋮﹂
さて今日は何を食べようか。
時期的には魚が美味しいから魚にしようかな。
食堂ではA定食B定食みたいな感じで選択できる。しかも日替わ
りメニューなので全然飽きない。
﹁魚が食べたいね﹂
412
﹁はぁ?﹂
食堂へ続く廊下を歩きながら、何を食べようかと考える。
﹁あれ、二人とも今から?﹂
﹁凪風もか?﹂
﹁うん。どうせだから一緒に行こう﹂
厠の方から出てきた凪風が私達二人に声を掛けて来た。
どうやら奴は食事の前に出すものを出していたらしい。私も出し
ておこうかな。確か1日の始まりに出すと健康的に良いんだよね。
︽﹃君を︱︱愛してる﹄︾
︽﹃凪風さん⋮﹄︾
﹁野菊?﹂
﹁⋮⋮﹂
いや、やっぱりいいや。
今は食べる事を先決しよう。大体、出すぞ!と意気込んで出るも
んでも無いしね。あは。
部屋を出て3分程で食堂に着く。
食堂にはわらわらと人が溢れていて、変に活気づいている。テー
ブルから見える調理場も、いつもより話声が沢山聞こえる。なんだ
か皆元気いっぱいだ。
﹁野菊、おはよう﹂
﹁おせーぞ!雑煮無くなっちまう﹂
﹁羅紋が食べ過ぎなければいい話です﹂
413
清水兄ィさま、羅紋兄ィさま、宇治野兄ィさまが椅子に座り揃っ
て雑煮を食している。羅紋兄ィさまの口からは餅がビヨーンと伸び
ているのが見えた。
雑煮⋮雑煮?
ああ、そうか。今日は元旦でお正月だ。
すっかり忘れていた。
どうりで魚が食べたいと言った私に蘭菊が﹃はぁ?﹄と言うはず
だ。今日のメニューには魚なんて無いし、それに今日は仕事が無い
から食事は選べない。出された正月料理を食べるだけだ。
﹁兄ィさま達。明けましておめでとうございます﹂
﹁明けましておめでとう。今年もよろしくね。それと、後で部屋に
おいで。お年玉をあげるよ﹂
︽﹃朝も昼も夜も君と一緒にいたいよ﹄︾
︽﹃清水さん、私は︱⋮﹄︾
﹁いーや。清水よりデカイお年玉やるから俺んとこに来な﹂
︽﹃お前になら、裏切られても構わねぇよ﹄︾
︽﹃そんな悲しい事言わないでください。なら、私だって羅紋さん
になら⋮﹄︾
﹁全く⋮何で競ってるんですか。そう言うのは気持ちが大事なんで
すよ﹂
︽﹃俺から離れるなんて許しません、絶対に。約束したでしょう﹄︾
︽﹃︱︱っ宇治野さん﹄︾
414
あぁ⋮残念だ。魚を食べたい気分だったのに畜生。
﹁野菊、どうかした?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁反応がねぇな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですか?⋮まだ眠たいのでしょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
︱︱コトン。
突然私の目の前に、雑煮が入った器が置かれる。
おお、餅の上にある人参の形がお花になってる。可愛いな。
魚は食べられないけど、雑煮は雑煮で美味しそうだからまぁいっ
か。
﹁やっと来たか野菊。お前の分よそっておいて貰ったぞ。本当しょ
うがない奴だ﹂
︽﹃いづれ死ぬなら今死にたい。お前に愛されたままの俺で﹄︾
︽﹃冗談でも死ぬなんて言わないでください!秋水さんは︱⋮﹄︾
この雑煮は秋水が置いてくれたみたい。
うん、ありがとう。紳士だね。
ありがとう。
あり、がとう。
あ⋮りが︱⋮
415
﹁⋮⋮﹂
﹁野菊、食べないのか?﹂
食べたいよ。
食べたいよ?
﹁野菊!!﹂
﹁っ、!﹂
あぁ、もう駄目かも。
駄目駄目駄目駄目ダメ。
思いきりサケバセテクダサイ。
﹁⋮⋮うっそぉおおぉお︱︱!!﹂
年が明けたのと同時に見た夢は。
初夢よりも早くに見たその夢は。
私の今までの10年を嘲笑うかのように︱︱⋮
16歳にして、やっとこの世界が乙女ゲームの世界だと気づいた
野菊であった。
416
始まる 物語2
バタンきゅー。
﹁野菊!?﹂
﹁おい、どうした﹂
﹁いや⋮なんか﹃嘘ー﹄とかいきなり叫んだとおもったら、⋮倒れ
た﹂
﹁取り敢えず運ぶぞ﹂
﹁野菊ー!!﹂
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱⋮⋮
頭が痛い。
景色が暗い。
﹁ゲコゲコ﹂
﹁あれ﹂
﹁ミャー﹂
頭痛と動物?達の鳴き声で目が覚める。
ここは動物園か何かなのだろうか。というのは冗談で。
気がつけば私は布団の上にいた。
思い起こせば、この世界で始めて目が覚めた時もこんな感じだっ
たような気がする。あの時との違いを挙げるとすれば、目覚めたの
417
は川原ではなく暖かい布団の上だと言う事とこの世界を知っていて
尚且つ私は家なき子ではないという事だ。
右横を見ればチャッピーと護が心配そうに私を見ているし。︵多
分︶
そういえばコレ、誰かが寝かせてくれたのかな。
叫んだ後の記憶が無いから、なるほど⋮気絶したのか私。と今更
な事を考える。
﹁はぁ⋮⋮﹂
格子の外はもう暗くて星が見えている。
ついでに部屋の中も暗い。寒い。
私は布団からは起き上がらず、天井を仰ぎ見ながら気絶した原因
である事柄を思い出して溜め息をつく。
それは﹁夢見る男遊郭∼一夜を共に∼﹂と言うゲーム。
登場人物は主人公である愛理と、攻略対象である花魁の8人であ
る。
愛理の正体はある城主の子で、ワケあって城から抜け出してきた
お姫様という設定。まぁワケとは言っても大したワケではない。三
十も年上のオッサンと結婚させられそうになり、それが嫌で世間知
らずなお姫様は城を飛び出したという、ありきたりな設定だ。
そして逃げだした先で拾われたのが天月となる。花魁の皆との恋
がそこで始まるのだ。
花魁の皆にはそれぞれ心の傷がある。
それを主人公が徐々に癒し、ハッピーエンドまでうまくこぎつけ
られるかどうかの恋の駆け引きゲーム。ちなみに、ハッピーエンド
418
の条件は﹃キス﹄。
遊男の誠の愛の証であるキスをされれば見事クリア。妓楼から出
られる展開にも漕ぎ着け、最終的には吉原の外で仲良く夫婦だ。
花魁には、それぞれ出生の秘密がある。
ほぼ共通するのは男の浮気で出来た不義の子であると言うこと。
この世界では、女の浮気は仕方が無いと思われている為、子ども
が出来てしまったりしても認知?をされるが、男が浮気をして子ど
もを作ってしまった場合は違う。
世間一般的に、体裁が物凄く悪い。半端なく悪い。
だから男の浮気で産まれてきた子供は、浮気相手の女がひっそり
と養う。
相手によっては、子供を殺せと言う人もいるから物騒だ。
そしてこの天月の花魁のほとんどは何かしらの地位を持った家の
生まれで。
これがまた凄い。まるで謀られたように父親が高い身分の者が集
まっているのだ。
まず清水は征夷大将軍の御子。
つまり上様だ。上様。
宇治野、彼は有名な歌舞伎一家の頭の子ども。
羅紋は江戸の大名の子。
秋水は征夷大将軍の御子。
清水とは実は腹違いの兄弟である。
蘭菊は旗本の家の子。
419
凪風は普通の家の生まれ。
﹁はぁ⋮﹂
本日2回目の深い溜め息をつく。
全く何で気づかなかったんだろう。
心の中で何回か引っ掛かった事はあれど、別段気にしない精神を
貫いていたせいなのか。
愛理ちゃんの姿を見てもいないのに頭の中で思い浮かべられたり
と、無意識の内に思い出していたのに全スルーしていた私。こんな
16になるまでのほほんと過ごしていた自分がマジ恥ずかしい。
別に誰に見られていたワケでもないけど地味に恥ずかしい。
そう言えば、これは何て言うのだろう。
転生?転生したって事なのか?
そもそも転生って何。どういう意味だっけ。︵※死後に別の存在
として生まれ変わることを言います︶
ゲームの世界にとかあり得るものなんですか?
ファンタジーだよファンタジー。
とにかく変な気分だ。
というか清水兄ィさまと秋水が兄弟⋮。
思い返せば兄弟っぽい要素はあったような気もしなくもない。母
が違うから異母兄弟と言うべきか。似てる所はちょいちょいあった
かもしれない。
いや分かんないけど。
ゲームだと気づいた事で皆の人生の裏を知ってしまった今、これ
420
までと同じように接する事が出来るだろうか。
しかも私は嫌な役の野菊。
皆が心惹かれていく愛理に、可愛く言えば意地悪と言う立派な犯
罪に手を染めていく嫉妬狂いの女の子だ。
しかし野菊は本当なら5歳ではなく設定では10歳で妓楼で拾わ
れて裏方として働いているはずで。
愛理ちゃんも本当なら18で妓楼へと来るはずなのに。
少々のズレが生じている。 あ、そう言えば蘭菊が愛理ちゃんと一緒に倒れていたあの布団部
屋。
あれは蘭菊ルートへ入っている時にある1場面。
あの場面。実は布団に倒れる二人を偶然見てしまった野菊が愛理
へ嫉妬をぶつけて言い合いになるという事態が起きるのだが⋮。
⋮私は言い合いをしてはいない。
してはいない。
してはいない。が。
あ、そう言えば清水兄ィさまと愛理ちゃんが抱き合っていたあの
物置小屋。
あれは清水ルートへ入っている時にある1場面。
偶然物音に気づいた野菊が戸をコッソリと開けてしまい、抱き合
う二人を見て愛理への憎悪を増幅させてしまったと言う場面だ。
⋮しかし私は嫉妬をしていない。
していない。
いない。が。 421
私、知らない間にゲーム通りの行動をしてる⋮ではないけれど話
に沿っちゃってるんじゃなかろうか。
あ、そう言えば愛理ちゃんが階段から落ちたあの場面。状況は違
うが、野菊が階段から愛理を突き落とすシーンがゲームにはあった。
だが実際私は落としてはいないし、なにより一番最初に愛理ちゃん
の所へ駆けつけた第一発見者だ。
そう、第一発見者。
だから⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
﹁ゲコ﹂
﹁ニャー﹂
ま、待って。待った待った。私滅茶苦茶危なくね?
おやじ様の推理が無かったら、私100%ではないけれど疑われ
ててもおかしくなかったよね私。あの状況。
その有り得なくは無かった事態に私の心臓は今バクバクとすごい
速さで動いている。目眩も心なしかしている気がする。
しかし、ハタとここでまた気づいた事がある。
花魁は確か⋮そう、8人だったはず。二人足りないのだ。渚左と
浅護。この二人。この世界があのゲームの世界なら絶対にいるはず
なのだが、私がここへ来て10年経っている今でも影ひとつ見たこ
とがない。
﹁ニャン﹂
﹁ゲーコ﹂
考える事が多い。
422
それにゲームの内容やそのゲームをプレイしていたと言う事を思
い出したが、相変わらず自分がどんな人間だったかは思い出せてな
いし。
謎である。
﹁はぁぁ⋮⋮⋮﹂
本日3回目の深い溜め息をつく野菊であった。
●●●●●●●●●●●●● ﹁野菊、もう大丈夫なのか?﹂
﹁な、なんとか﹂
別段どこが悪いワケでも無いので、私は皆が宴会騒ぎをしている
胡蝶蘭の間まで来てみた。
一度ゆっくりと心の整理をしたいところだったが、ずっと布団で
寝ていても疲れる。でもだからと言って一人部屋の中で起きて考え
に浸っていても疲れる。そして皆の顔を見てもゲームのことを考え
てしまう、かもしれない。
けれど確かめたかった。これが本当にあのゲームの世界なのかを。
ほんとう
今、私がいるこの世界は人に会って話せて相手に触れられる、全部
が本物だから。これが今の、私の現実なのだと感じたかった。
そんな事を思いつつ顔をひょっこりと見せた私に、戸の近くにい
た朱禾兄ィさまが声をかけてくれる。
423
そめじ
﹁あいつら出来上がってるから、俺と染時の間に座っときな﹂
﹁じゃあお酒継ぎますね!⋮染時兄ィさまどうぞどうぞ﹂
﹁おぉ悪い。いつも花魁連中に取られてるからなぁ∼。元旦の休み
に感謝様様だ﹂
﹁あはは﹂
皆を見てみれば、あぁ⋮酒に呑まれている。
日頃﹃酒は飲んでも呑まれるな﹄をモットーにしている遊男達だ
が、仕事中でもなく休みというこの日はそんな事は気にせず飲むに
飲んでいたらしい。
皆鬱憤やストレスが溜まっていたのかな。
阿倉兄ィさまが浴びるように酒を飲んでいるのが見える。
﹁俺ァ、俺ァー海賊王になぁーる﹂
﹁よっ海賊王﹂
﹁海賊王ー!!﹂
ワッショイ!
ワッショイ!
﹁海賊王ってなんだ⋮⋮盗賊か﹂
﹁さ、さぁ﹂
﹁呑まれて妄言吐いてるだけだろありゃ﹂
あそこだけ空間が違っている。
それを薄い目で見ている私達3人はさながら傍観者。
﹁お、やっと起きたな野菊﹂
﹁羅紋兄ィさま﹂
424
そうして3人でまったりしていると、半酔いらしい羅紋兄ィさま
が現れた。
休みの今日は派手な着物ではない遊男が多い中、兄ィさまは緑の
布地に金の蝶の模様と朱の牡丹の花が描かれた派っ手な長着を着て
いる。
まぁ似合ってるけども。
﹁皆なぁ心配して一人一人お前の事見てたんだぞ﹂
﹁えっそうなんですか!?﹂
起きた時に誰もいなかったから全然気づかなかった。
そんな口を開けて固まる私を見て羅紋兄ィさまはしてやったり顔
をする。
﹁もうちょいしたら清水が見る番だったんだけどな。⋮はっはっは
!ざまぁみろ﹂
腰に手をあて馬鹿笑いをしている大人げない大人を見る。
羅紋兄ィさまの設定はこうだ。
江戸の大名と浮気相手との間に産まれた羅紋。
普通なら浮気とはいえ大名の子なので、大名の子として大事に育
てられるが、浮気をしたのが男の方ということで大名の子として育
てられず。相手の女が育てる事に。
だが男遊びをする女に羅紋というコブは邪魔だったのか、ろくに
子どもの世話をせず虐待紛いの扱いをした挙げ句、息子を男遊びの
金と引き替えに遊郭へ売った羅紋の母。
実の母から受けた傷や行いは精神的に深い。
425
思うのだが⋮当主とは血が繋がっていないのに、大名である男の
方が浮気して出来た子どもは認知せず、妻の浮気で出来た子どもを
認知するのは大変おかしな事だと思う。
この矛盾に誰も気づかないのだろうか?
気味が悪くて仕方がない。
それに今でも私はこの世界の常識が分からない。
いや⋮違うな。
分かるけど理解出来ないと言うのが正しいかも。
﹁はっはっは﹂
﹁⋮⋮﹂
しかし、見る限り羅紋兄ィさまからそんな憂いさは感じられない。
見せないようにしているのかなんなのか、羅紋兄ィさまの元気っ
ぷりはゲーム中ではあまり見られなかったような気がする。
どちらかと言えば元気な中にも陰りがあり、宇治野とは確か険悪
な仲で。
ちなみに宇治野兄ィさまの天月へ来る経緯は羅紋と同じだが、彼
の心の傷の場合は家族の問題というより、天月へ入ってからのほう
にある。
花魁の中では一番年上ということもあり色々な遊男たちを見てき
ている彼は、その流れの中で自殺をしていった仲間たちの異変を前
もって感じていながらもあえて何も言わず傍観をしてきたことを悔
いていた。
だが羅紋はそんな宇治野に対し嫌悪を感じており、馬が合わない
のか会えば言い合いをするという仲だった。
だが、今の兄ィさま達は皆仲良しだし。
426
あー⋮もう。なんなんだろう。
と思わず首を振り天井を仰ぎ見る。
﹁そんな事言ってると清水兄ィさんにドつかれますよ﹂
﹁凪風⋮お前なぁ。そう言う事言うと本当にドつかれるからやめて
くれ﹂
徳利を持った凪風がこちらへとやって来た。
左手に持っているのは﹃鬼婿﹄という字がデカデカとかかれた酒。
いや、婿って⋮。
鬼嫁じゃないんかい。
﹁野菊はお酒飲む?﹂
﹁うーん⋮。起きたばっかりだし、まだいいや﹂
﹁そう。じゃ、僕に注いでね﹂
そう言うと私の目の前に座り込み杯を突き出してくる。
⋮このクソ銀髪め。
﹁分かった。溢れるくらいね﹂
﹁やめて﹂
でもよかった私。
普通に話せてるよね。
凪風は普通の家の生まれ。
四人家族だったが、生活が苦しくなり妓楼へ売られた。
そして彼にはワケがあり、血の繋がらない妹がいて。
その妹が両親から扱き使われ無いか、捨てられないかが彼の唯一
427
の心残りだった。
しの
妹、彼女の名前は志乃。
だがその正体は⋮
﹁凪風⋮あのさ﹂
﹁何﹂
妹とは3歳差の凪風。
もう会わないであろうと思われていた妹だが、偶然にも兄妹が再
会する日が来る。
場所は天月妓楼。
彼が13の時に妹が偶然にもおやじ様に拾われてやって来るのだ。
名前を変えて。
﹁私︱︱﹂
名前を聞かれても名乗らなかった志乃に、おやじ様がつけた名は。
その人は、
﹃︱︱⋮兄ちゃん﹄
﹃野菊﹄である。
428
始まる 物語2︵後書き︶
あとがき。
﹃何?﹄
﹃い、いいえ何でも無いです﹄
﹃ふーん﹄
誰か勇気と元気を100倍くらいください。
429
始まる 物語3
夜はまだまだ長い。
隣りでは依然として凪風が酒をグビクビと飲んでいる。
意外と酒豪なのか顔色が全然変わらない。
ザルだ。ザル様だ。
そして私は何故か皆が体勢を崩して過ごしているというのに正座
になりながら徳利を持ち、空っぽになった凪風の盃に酒をとぷとぷ
と入れるという動作を黙々とこなしている。
﹁⋮⋮﹂
﹁ゴク⋮⋮ふぅ。鬼婿もう1本開けようかな﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮ああ。
未だに勇気も元気もやってこない。
別に無理して﹁私のお兄ちゃんだよね﹂とか一々本人に確認して
言わなくてもいいんだけどさ。
ゲームの中の凪風は、5年経ってしまっていても野菊が志乃だと
いう事を一発で見抜いているのだ。
つまりどういう事かと言えば、1年も経たない内に志乃もとい野
菊に再会した凪風は当然私の事を知っているはず。
でも今まで彼がそんな素振りを見せた事は無い。
1度もだ。
430
私も私で、本来なら1年足らずで自分の兄である凪風を忘れるな
んて事は無かったはず。当の凪風は何も言って来ないし。
記憶喪失だと思われてしまっているのだろうか。
まぁ⋮ある意味私記憶喪失だけど。
ゲームでの野菊の過去は、凪風ルートでは次のように回想されて
いる。
◇◆◇
家族内での志乃の扱いは酷な物だった。
始まりは凪風が5歳の時。
貧しい家の手伝いの為、河原近くで薪拾いをしていた彼が見つけ
たのは自分よりもうんと小さな子ども。土だらけで傷だらけのその
小さな子どもは息を小刻みにしながら倒れていた。
﹃⋮ねぇ、ねぇ﹄
﹃⋮ハァ⋮ハ﹄
﹃苦しいの?﹄
コクリ
心配になり声をかけてみれば僅かながらも首を縦にふり、反応を
返してきた。
その時小さな彼が直ぐに思った事は、
︱助けなきゃ。
431
その言葉だけだった。
薪を地面に置いて、変わりに自分よりも小さな子どもをおんぶす
る。
幸い自分の家の近くだったので直ぐに家には着いた。
帰れば母親が居て、びっくりしたように彼を見た。
﹃どうしたんだい!?﹄
﹃倒れてたから、つれてきた。くるしいって﹄
﹃連れてきたって⋮。と、取り敢えずそこに寝かせてやりな﹄
それからは母親の看病もあり、子どもの容態は日に日に回復して
いった。
そして元気になった彼女に帰る家は?と聞くがどうやら無いらし
く、凪風の家でそのまま暮らす事となり母も父も快く彼女を受け入
れた。
取り敢えず生活する上で呼ぶことになるだろう名前を本人に聞け
ば﹁おまえ﹂と応えた。
この応えから察するに、どうやら彼女は名前を付けられてはいな
かったようだった。それならばと凪風が彼女に付けた名が﹃志乃﹄。
彼女が何故あそこで倒れ、傷だらけだったのかはこの時代想像に
容易い。
早い話捨てられたのだ。
親に。
だから今度はこの家で幸せになれればいい。
彼女を見て、凪風はそう思った。
432
そう、思ったのだ。
﹃おまえ、魚が釣れるまで返って来ちゃいけないからね。⋮最低で
も3匹釣ってきな。あぁ、あとついでに着物は川でちゃんと洗濯し
とくんだよ。忘れたら10日は飯無いからね﹄
﹃あい!﹄
﹃え、母さ﹄
﹃凪風はそこの庭の畑で野菜を取って来なね﹄
﹃⋮⋮﹄
だが。
願う幸せは長くは続かなかった。
﹃あれ、志乃はまだ?﹄
﹃いつまでかかるんだ⋮ったく﹄
﹃アンタ、かりかりしないでおくれ。もういいさ。待ってたらキリ
無いから飯にするよ﹄
﹃⋮僕、みてくるから﹄
﹃あ、待ちなっ︱︱凪風!!﹄
あれから一年経つか経たないかの内に、志乃の家庭内での扱いは
下働きに近い形になっていた。
前よりも生活が苦しくなってきたせいでもあるのだろう。
もともと3人でも生活がやっとだった家。そこへ1人増えてしま
えば、やっとの生活はさらに苦しくなる。
433
最初は余裕もあり優しい顔をしていた凪風の両親だが、時が経つ
につれ生活の余裕も無くなり。自分達の言うことをなんでも聞く志
乃の事をいつからか小間使いのように見て扱うようになったのだ。
いそうろう
そう。両親達の志乃への認識は最早﹃タダ飯喰らいの居候﹄だっ
た。
﹃志乃⋮﹄
両親の声を振り切り、走って志乃がいる河原へと急ぐ。
﹃志乃⋮っ﹄
人間の思考なんて、所詮そんな物。
綺麗な人間なんて一握り。
この両親はその一握りの綺麗な人間では無かったと言う話。
﹃志乃、さかな釣りやめて帰ろう﹄
﹃あ、にぃちゃ⋮。ううん⋮ごはんない﹄
﹃大丈夫。僕がさかな持ってるから。あ、どうしたのかは聞かない
でね。⋮ひみつだよ?﹄
そんな生活が2年。
あれから時は経ち最終的に凪風は生活のために妓楼へと売られ、
金にならない志乃は両親の所へ残ったのだった。
434
◇◆◇
と、これが凪風ルートで語られる大まかな志乃の話。
自分の話なのだが私にそんな記憶は無いから少し他人事に思う。
なんせこの世界での記憶の始まりはよくわからない河原と、フラフ
ラと歩きさ迷ったゴツゴツした土の道や周りに生えた草。そして初
めて言葉を交わした厳ついおやじ様だ。
﹁野菊、何ボーッとしてるの。僕の話し聞いてる?﹂
﹁︱︱っえ?⋮あ、うん、聞いてる聞いてる﹂
﹁鬼婿開けるから持って来て﹂
オイまだ飲むのかよコイツ。
と呆れたような尊敬のような視線を彼に向ける。周りの皆も飲み
に飲んでいるから変では無いけれども。それにしたって飲み過ぎだ。
凪風は普段からそんなに飲むタイプでは無いはずなんだけど。
うむむ。やはり元旦というお祭りムードのせいなのだろうか。テ
ンションあげあげみたいな。
そう考えながらも結局は鬼婿を取りに、正座にしていた足を伸ば
し立ち上がろうとした。
のだが、
フッ︱︱︱⋮⋮ポフン。
﹁えっ﹂
﹁スー⋮スゥー⋮﹂
435
立ち上がる前に膝を軽く重みがある物が落ちてきた。
ゆっくりと視線を下にやる。
﹁凪風?なーぎーかーぜー﹂
﹁ん⋮ぅ⋮スー⋮﹂
膝の上にはキラキラと光る銀髪を生やした頭が乗っている。
凪風の頭だ。
そして聞き間違えでなければ寝息のようなものが聞こえている。
え、寝てるの?
ていうか潰れた⋮のか?
﹁し、しつれい﹂
﹁⋮﹂
本当に眠っているのかを確かめようと、あっちへ向いている凪風
の体と顔を手を使い上へ向かせる。
﹁なんだコイツ潰れたのか﹂
﹁朱禾兄ィさま﹂
﹁膝枕なんかして貰いやがって﹂
﹁うーん。やっぱり潰れたんですかねコレ﹂
﹁まぁ、こんだけ鬼婿飲みゃな﹂
朱禾兄ィさまが凪風の前に置いてある酒瓶を見て笑う。ザルだザ
ルだと思っていたが⋮凪風は酔いが後から来るタイプだったようだ。
綺麗な灰色の瞳はキッチリ閉じており、胸は上下に動いている。
436
どうやら完全に寝ているらしい。
⋮いやでも凪風の事だから嘘寝かもしれない。
そう思って頬っぺをペチペチと叩いてみる。
﹁凪風のバーカバーカハーゲハーゲ﹂
﹁う⋮⋮んん⋮。⋮⋮﹂
一瞬眉根を寄せたものの起きる気配は無く。
本当に寝てしまったようだ。
﹁おろろ、なんだぁ凪風潰れてんのかぁ﹂
﹁羅紋兄ィさま、顔凄く赤いですね﹂
﹁酒はなー旨いんだぞー﹂
﹁飲み過ぎです﹂
ひとつ隣りで飲んでいた兄ィさまが私と朱禾兄ィさまの後ろへや
って来て、顔を赤くしながら膝の上を覗いてくる。
近い近い。
酒臭いわ。
鼻に手を当て、同時に凪風から手を離すと入れ替わるように羅紋
兄ィさまの手が凪風の頬へと伸びる。
およよ。私と同じく悪戯でもするのだろうか。
ペチ、
﹁幸せそーうな顔しやがって。こんにゃろー﹂
クスリと笑みを浮かべる兄ィさま。
ペチペチと頬を叩くのは私と同じだが、妙に優しい感じだった。
悪戯とは違うような。慈しむような感じだろうか。
437
私も再び下に顔を向ける。
じっと膝の上の彼を見つめた。
綺麗なサラサラした髪の間から見える閉じた瞼は心なしか穏やか
で。白い肌の下からほんのり酒のせいで火照った血色の良い頬がな
んとも可愛らしくて。両端が少し上がっている、今は静かに結ばれ
ている口はとても綺麗で。
時折私の腹の方へすり寄るようにモゾモゾとくっついてくる仕草
がくすぐったくて。
﹁確かに⋮可愛いですね﹂
﹁可愛いとは言ってねーぞ﹂
おでこを撫でてみました。
438
始まる 物語3︵後書き︶
あとがき。
﹃あ、そういえば蘭ちゃんとかどこにいるんですか?﹄
﹃蘭菊は酒飲み過ぎて吐いてな。隣りの部屋で秋水と宇治野に介抱
されてるぜ﹄
﹃俺さっき見てきたけど、まだ吐いてたぞ﹄
﹃清水兄さんは着物の上にに吐かれてたから、多分今は早めに風呂
入ってんな﹄
﹃だから野菊の看病出来なくてよアイツ。はっはっは!ざまぁみろ﹄
うわぁ。
439
始まる 物語4
ある神は、かの女に問う。
﹃いつまで続けるの﹄
そう問われた向かいの女は答える。
﹁ずっとよ﹂
そして女は笑った。
神は問う。
﹃シアワセですか﹄
女は言う。
﹁幸せよ﹂
そして女は笑う。
440
神は、また、問う。
﹃いつまで続けるの﹄
女は静かに答える。
﹁あの人が、私に振り向くまでよ﹂
﹃まだ足りないのですか﹄
﹁足りないわ﹂
そう答えた女の顔に、笑は無い。
トキ
﹃ああ⋮時空を変えてしまった私がいけなかった。情けなど⋮。
誰か、誰か願っておくれ︱︱︱﹄
﹃トキを進めたいと﹄
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
441
静まり返った大広間。
あちらこちらに酔いつぶれた男たちの姿がある。
チュン、チュン
遠い所から雀の鳴き声が聞こえる。
もう朝か。
そんなことをボーッと頭の隅で思いながらも、いつの間にか寝て
いた野菊は目を覚ます。
﹁⋮⋮﹂
どんちゃん騒ぎの中、凪風を膝に乗せたままの所までしか記憶が
無い為、どうやらそのまま眠ってしまったようだ。
というか⋮
﹁は、はーなーせぇ⋮﹂
何かに締め付けられるこの感覚。
起き上がりたいのに、あいにく誰かの抱き枕になっているらしい
様で動けない。寝っ転がっている為、凪風が膝にいる気配も感触も
ないし。
442
誰だこれ。
相手の胸板が顔に当たっているので、上を向かないと誰だか確認
できない。ので、そそくさと覗き見ることにした。
誰ですかー誰ですかー。
おたくは誰で⋮⋮⋮⋮あ、なんだ。
﹁羅紋にぃーさまー﹂
﹁⋮⋮﹂
羅紋兄ィさまだった。
声を掛けても全然起きない。
相当深く寝ているのか、私がチョイチョイと体を動かしてもビク
ともしない。耳に当たっている胸からは、トク、トク、トクと非常
に穏やかな心臓の音がする。
うーむ。
﹁にーさまー﹂
﹁ぅー⋮⋮﹂
夏だったらアレだが、冬の寒い朝なので人肌がとても温かい。
無理に起こすのもな⋮。
今のところ兄ィさまが起きる気配は全く無いし、他の誰かが起き
だしたらその時に声を掛ければいいのかもしれない。
とか気にかけてそうに言いながらも、実はぬくぬくで温かい事に
気づいた私の脳みそと身体が、このままゆっくりしていたいとダラ
ダラ警報を鳴らした為であるが故なのだが。
まぁそもそも自分もちゃっかり兄ィさまの背中に腕を回していた
443
為、人のことは言えやしませんよ。はい。
┃┃きゅ、
﹁?﹂
ジーッとしていると、左手の違和感に気づく。
羅紋兄ィさまの背中に回している左手が、温度のある物体に包ま
れている感じ。物体っていうか、手?
え、誰の。
右側を下にして横になっていたので、右腕が羅紋兄ィさまと自分
の胸の前にある。
気になるので、その腕を畳につかせ顔をちょこっと上げて兄ィさ
まの後ろ側を見ることにした。
そうして見えたのは、
﹁あ。ふふ、兄ィさま⋮﹂
目を閉じ寝ていながらも、握られている手の先にいたのは清水兄
ィさま。スヤスヤと寝ているが若干不機嫌顔だ。しかも口が少∼し
開いていて、ちょこっと可愛らしい。いつも大人な兄ィさまだから
こんな姿を見ると変な母性が生まれてしまう。あ、でも綺麗であり
ますよ。
しかし何がどーなってこんな状況になったのか不明である。てか
ホント凪風どこ行った。
﹁野菊⋮﹂
﹁!え、はっはい﹂
444
寝ながら清水兄ィさまが喋り出した。
﹁駄目﹂
何が。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁にーさま﹂
﹁スー⋮﹂
とりあえず何が駄目でどんな夢を見ているのかが気になるが、兄
ィさまの寝言なんて初めて聞いたからすごく新鮮なのと、人の寝言
を聞いてしまったという謎のドキドキ感でいっぱいだ。
しかし手がポカポカと温かい。
安心する温度だ。宇治野兄ィさまがお母さんだとするなら、清水
兄ィさまはお父さんだろうか。
・・・いやでも年齢的にお父さんは無いか。清水兄ィさま26歳
だし私と10歳しか違わないし。それをいえば宇治野兄ィさまだっ
てあまり歳に違いは無いけれども。
まぁとにかく、
﹁大好きですよ﹂
﹁・・・ん・・﹂
◆◇◆◇◆◇◆◇
445
小さな彼の世界には、母がいた。
村の人も隣のお爺さんやお婆さんだっていたけれども、彼の世界
の中心には常に母がいた。
優しくも強い、世界の光が。
﹁晩飯は焼き魚だからね。残さず食べるのよ?﹂
﹁うん!﹂
﹁あはは、良い返事﹂
香ばしい匂いが漂よう小さな木造の平屋の中。
夕方に交わされる母子のそんな会話は、平和そのもの。
﹁いただきます﹂
﹁はい、召し上がれ﹂
だがそこに父はいない。
今は仕事に行っているから、という意味では無く、文字通り彼に
は生まれた時から父がいないのだ。
母に聞いてもうまい具合にはぐらかすので、正確には分かっては
いないのだが、
﹃んんーとね。金持ちのボンボンだった﹄
と、ある日彼が父についてしつこく聞いていたらポロッとそんな
言葉を零したので、金持ちだという事だけは分かっていた。
446
それともう一つ。
﹃しっかし・・・母さんには全っ然似なかったのねぇ。顔とか恐ろ
しく綺麗であの人にそっくりだわ﹄
﹃あの人って、だれ?﹄
﹃んー﹄
﹃だぁれ?﹄
﹃しいて言うなら・・﹄
﹃なら?﹄
﹃バカで馬鹿でなのに腹黒でそれはもう内臓の色は隅から隅まで真
っ黒で閻魔大王か!ってくらい怖くて憎たらしくて身体の半分・・
いや全部が嫌味で出来ているような男﹄
﹃私の大好きな人よ﹄
気のせいでなければ、最初から最後までほぼ悪口しか言っていな
かった様に思う。
﹃好きなの?﹄
﹃まぁね﹄
だけれど急に笑顔になったと思ったら﹁大好きな人﹂と言い出し
たので彼には訳が分からなくなった。
とりあえず何故そんな人が好きなのだろうとは思ったが、母の言
うその人が自分の﹁父﹂なのだと、言われなくとも何となく彼には
分かった。
447
﹁おれ、その大きいさかながいい﹂
﹁俺、じゃないでしょ?私、って言うの﹂
﹁・・・わたしは、大きいさかながいい﹂
﹁その調子その調子﹂
それにやたらと一人称を﹁私﹂にさせたがる母。
彼にしてみれば﹁おれ﹂の方が言いやすく、また自分が住んでい
る村の男衆も自身の事を﹁俺﹂と言っているので、それが当たり前
だと認識している。
﹁おれ、じゃダメなの?﹂
﹁あの最低閻魔野郎に更に似ちゃうから駄目よ。せめて喋り方は自
分に似せたいじゃない?﹂
﹁・・・﹂
小さな彼の世界は、とても平和に満ちていた。
優しくて元気な母がいて、住んでいる村の人との仲も良好。
争いなんかは無いし、食べ物だって自然が豊かなその土地では溢
れるほど・・と言う訳ではないけれど沢山ある。
﹁おれでも良いとおもうんだけど﹂
﹁駄目駄目ダメだめ。いやぁ、ここだけの話ね?母さん、男の人の
﹃私﹄って萌えるのよ∼﹂
﹁もえ?﹂
﹁そう。萌えです﹂
﹁でもかあさん、とうさんのこと好きだったんでしょ?とうさんに
448
似ているならいいんじゃないの?﹂
﹁うぅ∼。それは・・・﹂
﹁それは?﹂
﹁だって会いたくなっちゃうじゃないの﹂
だが自分は今平和で幸せだけれども、果たして母にとっての今が
幸せなのかはまだ小さな彼には分からなかった。
小さくなくとも理解するにはあまりに難しい事柄である。
﹁会えないの?﹂
﹁んー。まぁねぇ・・・﹂
溜め息をするように言葉を吐く母。
しかし次には、
﹁夢で会えれば十分よ﹂
と、人差し指と中指だけを立てると笑顔でこちらを向いた。
﹁・・・﹂
﹁な、何よその顔は﹂
父さんが好きなら一緒にいれば良いのにと思うし、なら何故一緒
にいないのかとも不思議に思う。
﹁ねぇねぇ。ずーっと母さんと一緒にいてくれる?﹂
﹁うん、いるよ﹂
﹁馬鹿ちん。さっさと嫁作って巣立ておバカ﹂
449
父さんの穴を埋める事は出来ないが、これからは自分が母を今よ
り幸せにしていければ良い。
彼はそう思っていた。
・・・・・・・・・・
﹁きよ、きよ﹂
﹁・・・?﹂
それは満月の夜だった。
母と共に眠りについて数刻ほどした頃。体を揺すられ起きれば、
黒い布と何かの文様が入った小刀を手に持ち、まるでかくれんぼを
する時のように腰をかがめた母が隣にいた。
﹁いい?これを被って静かに裏手から出なさい。音は絶対に立てな
いで。見つかっちゃ駄目よ﹂
﹁?﹂
﹁これは貴方の父さんの刀。肌身離さず持ちなさいね﹂
﹁どうしたの?﹂
黒い布に包まれた刀を母から手に持たせられ、押し付けられた。
450
いきなりの事に疑問の言葉が口をつく。
﹁母さんが一緒だと見つかっちゃうかもしれないから、小さい貴方
だけで行きなさい。できる?﹂
﹁できる・・・って?﹂
﹁村の外に出て、遠く遠くへ行くのよ﹂
﹁なんで?﹂
﹁きよの父さんのおうちの人がね、きよの事を探しているみたいな
の。だから、逃げて﹂
﹁なんで?﹂
ーーーガサっ
途端、家の近くの草が風ではない何かに揺すられた音がする。
同時に母の顔色が変わった。
険しくも悲しそうな、そんな形容し難い表情だった。
﹁きよ早くっ﹂
﹁な、﹂
﹁母さんの一生のお願いよ﹂
﹁でも﹂
﹁行きなさい清水!早く!﹂
その母の必死な形相に、頭よりも先に体が反応して動き出す。
母の声はそこまで大きくも無い筈なのに、彼の鼓膜に妙に響いたの
は何故だろう。
﹃行きなさい﹄ではなく、
﹃生きなさい﹄と聞こえたのは何故だろう。
451
﹁あぁでも、本当はずっと一緒にいたかったかも﹂
裏手からひっそりと出た彼、もとい清水の耳に、気のせいかもし
れないが誰かがそう呟いた声が聞こえた気がした。
・・・・・・・・・
薄暗い夜更け。
﹁上様には悪いが、争いの火種になる。それで⋮子どもは始末した
か?﹂
﹁それなんですが﹂
小さな平屋の周りに、複数の男たちが集まり何かを話している。
見た感じ男達は百姓の身なりではなく、どこか整っていた。どち
らかといえばお武家様のような格好とも言える。
大柄の男が物騒な言葉を吐いた。 ︵⋮かあさん︶
今、清水の姿は先ほど向かっていた方向にはない。
母がやはり心配になった彼は、家の近くに戻ってきていたのだ。
心配、というか自分が不安になった為でもある。
452
そこはまだまだ子ども。
当然といえば当然な事であろう。
だがそんな子どもでも、母が必死になりながら言っていた﹃見つ
かっちゃ駄目よ﹄という約束は、無意識に守っていた。
清水の体を覆うほどの草木が彼を上手に隠している。
そしてその草木の間から覗く彼の瞳は、男達の姿を真っ直ぐに捉
えていた。
﹁⋮女がいつまでも口を割らないので﹂
﹁万が一言いふらされても困りますし﹂
と髷を結った男が言うと、大きい何かずっしりとしたような物を
担いでいる者が一人、袋のような大きめの巾着を持った者が一人家
から出てきた。
清水は夜空を見る。
今はちょうど月に雲がかかっているため、男たちの姿が暗く、何
を持っているのかそれが何なのかがよく見えない。
何だろう。
と清水は目を凝らしよく見る。
﹁だから、どうしたんだと聞いてるんだ﹂
イライラしながら再び男は聞く。
すると相手は袋のような物を地面に放り投げた。
それと同時に雲が月から離れ、男の顔を照らし出す。
453
﹁殺しました﹂
頬に血を付けながらも、誇らしげに言うその姿は、異様で不気味
で、
﹁首です﹂
その言葉に、問いかけていたほうの男は、信じられないというよ
うな顔をした。
や
﹁何をしてくれたのだ貴様は!!﹂
﹁は、何を⋮とは﹂
﹁子どものほうだけだ!女を殺るなど上様に知れたら只じゃ済まん
ぞ!!﹂
﹁だっだから埋めるんですよ﹂
﹁土に﹂
その言葉を聞いて、いそいそと男たちは動き出す。
﹁┃┃┃⋮﹂
だが、それとは反対に清水の脳は動くのを止めていた。
考える頭など、思考など、今の彼には欲しくはなかった。
目を閉じるのも止めていた。
⋮止めていた?
いや、違う。
目を閉じたいのに閉じれない。 454
見たくは無いのに見てしまう。
もう二度とは会えない母を。
母の最期の姿を。
﹁しかし上様は何故こんな女と子など﹂
﹁そうだ、子のほうはどうする。始末してないだろう﹂
﹁聞いた話じゃ、子は上様と同じ黒髪らしい。面も似てるんだろう
さ。きっと﹂
﹁なら簡単に見つかるか。⋮あ、待てよ。村の連中に匿ってもらっ
てるんじゃないのか?﹂
﹁もういい手を動かせ。村の連中に気づかれるだろう﹂
ドスっ
パラパラ⋮
亡骸を入れた地面の穴が塞がれていく。
塞がった地面の所は少し盛り上がっているため、男達は草や枝を
かぶせて不自然な場所を隠した。
﹁よし、今日はもう引き上げる。村の連中も眠ってはいるが気づか
れても迷惑なだけだ。さっきも村の入り口で男が水を汲んで運んで
いたしな﹂
﹁こんな夜更けにご苦労なこった﹂
﹁それに喜八。村人が子を匿う事は絶対に無い。女も子どもに誰か
に匿ってもらえ等と言ってはいないだろう﹂
大柄の男に喜八と呼ばれた男は首をかしげる。
455
﹁何故分かるんだ﹂
﹁そういう女だ。子を匿えばその匿った奴も我々は殺さなければな
らん。どこまでも⋮馬鹿な女だ﹂
﹁は、はぁ⋮﹂
女を知っているかのようなその口ぶりに、喜八は少し戸惑った。
そんな様子に、話していた男は鼻で笑うと村の外のほうを見なが
ら口を開く。
﹁とにかく。子どもの足じゃそう遠くに行ってはいないだろう。明
日にでも見つかる﹂
﹁行くぞ﹂
そう会話を終わらせると、もう用は無いとばかりに男たちは家か
ら離れていった。
その数刻後。
﹁か、あ⋮さ﹂
小さな呟きは、空気に消え。
体力も精神力も尽きた清水は、満月の光に照らされながらその場
で気を失った。
・・・・・・・・・・
456
﹁おい起きろ清水﹂
誰かに名前を呼ばれる。
それに温かな無機質な物が、自身を包んでいる感覚にも違和感を
覚える。
﹁⋮?﹂
なんだろう?
と思い目を覚ませば、そこはあの母が埋められた家の外ではなく
立派な部屋で、ボロボロではない立派な布団と白い単衣が自分を包
んでいた。朝陽が部屋の窓から漏れている。
ここは何処だ、と上半身を素早く起こして辺りを見回した。
そして目の前には、
﹁気分はどうだ﹂
灰色混じりの髪をした、強面の男が笑顔で座っていた。
﹁お前なかなか村から出てこないから焦ったぞ﹂
﹁⋮﹂
灰色混じりの髪の男が眉根を寄せながらそう言う。
清水は気安く自分の名前を呼んだ男に、少しの恐怖を感じた。
この男は何者なのか。
自分をどうしようと言うのか。
457
母は、
﹁清水。聞いてるか?﹂
この男も自分を殺そうとするのだろうか。
だが、どうせ生きていたところで、もうこの世には生きる意味が
無い。
母がいないのだから。
生きていても死んでいるのと同じだろう。
男は聞いても答えない清水に悲しそうな顔をすると、胡座をかい
ていた足を動かし正座になった。
﹁今は辛いと思うが聞いてくれ﹂
﹁⋮なに﹂
何もかもが鬱陶しいとでも言うような顔を男に向ける。 だが男はそんな態度をさして気にするわけでもなく話を続けた。
﹁俺は昔、お前の母さんと城下で知り合ってな。⋮理由は言えんが、
お前は今日付けで俺に買われる事になった﹂
﹁なに?﹂
母と知り合い?
買われる?
﹁金は随分前から貸していたんだが、とうとう約束の時期なってな。
ここは妓楼だ。男が女を抱く遊郭。遊男として働いてもらう事にな
ったんだ、清水。正式にはまだ禿だが﹂
458
そう言い切ると男は目を閉じながら息をついた。対して清水の目
はパチリと開いており、瞬きを繰り返している。信じられないとい
う様に。
この男は凄く可笑しなことを言っている。
遊郭?
それはお金に困った人間が人間を売りつける、最低最悪な場所だ。
そして売られた人間は否応無く浅ましく女を抱く。抱き続ける。そ
ういう所だ。だからそんな所で自分が働くなど可笑しい。
だって⋮誰とこの男が約束をして、誰に売られたんだというんだ。
自分はもう独りである。お金に困れはすれど、自身を売りつけた
覚えは無い。
母に⋮母に売られたというのか、自分は。
﹁⋮﹂ ふと、布団の横に母から預かった刀が置いてあるのが目に入る。
﹁清水⋮﹂
﹁そんな⋮ことを、するっ、くらいなら!﹂
清水は刀を手に取る。
﹁!!やめろっ﹂
ぐっ
男が止めようと手を伸ばしたが一足遅かったのか。
次の瞬間、清水が着ている白い単衣が真っ赤な血にまみれ、彼の
刀を持つ手にも血が被っていた。血は腹から出ており、刀もまた腹
に刺さっている。
459
切腹だった。
﹁かあ、さんに、あえるんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁し、んで、しまえば、いいんだ﹂
血は傷口から少しずつ出ている。
だが止めようとした男の手は、ゆっくりと下がっていった。けし
て間に合わなかったわけではない。
その手の動き、その表情、清水が自分自身を刺す瞬間に男は分かっ
てしまったのだ。
男は静かに、優しく笑う。
﹁お前、生きたいんだろう﹂
﹁な⋮んで﹂
確かに血は清水から出ているものだ。自分の腹を刺したのだから。
それに刺したからといってすぐに死ねるものでもない。時間は多少
かかる。
だが清水のそれは死んでしまうほどの出血量ではなかった。刺し
た場所も急所は外れている。到底死に至ることは出来ない。
浅かったのだ。傷が。
刀を持つ手も小刻みに震えているのがわかる。
﹁生きたいんだろう?﹂
違う、違う、違う。
彼は頭の中で連呼する。
460
﹁おれはっ﹂
ぐぐっ
また刀を腹に刺す。
その清水の行動に目を瞑りながら、男は彼の頭へと手を伸ばす。
今度は止めにも入らなかった。
小さな頭を撫で付ける手は顔に似合わずゆったりとしている。
﹁お前の心は、生きたいんだよ﹂
ぐぐぐっ
だがそんな言葉など聞こえないとでも言うように腹から刀を離し、
再び命を絶とうと、これが最後だとばかりに三回目の切腹をする。 しかし、
﹁だからお前のその小っせぇ手は、それ以上進まない﹂
﹁ちがうっ﹂
刀を握り締めたままの清水の瞳から、涙の粒が溢れだす。頬を濡
らす雫は血まみれの手に落ち、手の赤をそっと洗い流していく。
同時に男の手が、刀を握り震える彼の手を包んだ。 ﹁いいか。それを﹃自分が弱いから﹄﹃覚悟が無いから﹄﹃勇気が
無いから﹄とか言う思考で片付けるのは止めろよ﹂
﹁ちが⋮っぅ﹂
﹁死ぬ事にな、勇気を持つな。覚悟を持つな。ましてや自分で自分
を殺ることにはな﹂
461
﹁俺はお前の母さんに頼まれたんだ。生かせて守って欲しいと。ど
んな形であろうともだ。⋮お前の母さんは、最期に何て言ってた﹂
母さん││
母さんは、
﹃見つかっちゃ駄目よ﹄
﹃生きなさい﹄
﹃清水﹄
﹁母さんは⋮﹂
﹁まぁ、とりあえず刀を置け。傷も塞がなきゃならんから大人しく
しとけよ。││おーい!羅紋!治療箱持ってきてくれ!﹂
そう言うと大きな声で誰かを呼びつける。
そしてすぐにバタバタと足音がし、その誰かが部屋へとやって来
た。
﹁はーい持って⋮ってウワ!なんすかその血!﹂
現れたのは、緑髪の綺麗な少年だった。
﹁⋮お馬だ﹂
﹁おっお馬!?いやいや馬鹿にしてるんですか!?嘘だろ絶対!﹂
﹁もううるせーから朝飯に戻れ﹂
﹁呼びつけといて何様だこのオヤジ﹂
そうして文句を言いながらも、羅紋と呼ばれた少年は部屋から数
462
刻も経たないうちに出て行った。
男は完全に少年が出て行ったのを確認すると、清水の単衣を脱が
し治療を始める。
﹁そういやぁ、まだ俺名乗ってなかったな﹂
﹁べつに﹂
﹁この妓楼の楼主、龍沂だ。よろしくな﹂
463
始まる 物語4︵後書き︶
あとがき。
﹃いいか?お前がこの先生きていくには、この妓楼内にいたほうが
いい。安全だ﹄
﹃?﹄
﹃なぁ清水。﹃上様﹄が誰なのか何なのか分かるか?﹄
﹃⋮﹄
﹃とにかくな、偉い奴なんだよ。そいつは﹄
﹃そいつがお前の父親だ﹄
464
始まる 物語5
兄ィさまの過去の話に関しては、清水ルートでゲーム中ハッピー
エンドに近づくと、
﹃すまなかった清水。あの人を死なせてしまったこの身分を許して
欲しい﹄
﹃上様⋮何故﹄
﹃せめてもの償いがしたい。なぁ清水。妓楼から出て、外で暮らし
てみないか﹄
﹃いえ⋮私には離れたくない人がおります﹄
﹃ある姫との縁談が来ているのだが⋮受けてはくれないか?﹄
﹃だから私には!﹄
﹃末山城の愛理二姫とだ﹄
﹃愛理?⋮まさか﹄
﹃俺は愛する人と結ばれる事が出来なかった。だからせめて、お前
は愛する人と幸せになっておくれ﹄
という感じで父ちゃんである上様が後半に出張ってくる。
なんやかんやで数年後に部下の失態に気づいた上様が、おやじ様
経由で天月まで来て清水に謝罪をするのだ。
それからあれよあれよと話が進み、妓楼から脱出、外野でハッピ
ーエンドという流れになる。愛理が実はどこぞの姫だとは前に回想
したが、こういう場面でその設定が有効活用されるのだ。ヒロイン
補正?⋮最強。
465
しかし⋮日本語とは便利なもんで、﹁なんやかんや﹂や﹁あれよ
あれよ﹂で話が進められるのだから楽なもんです。
﹁ん⋮⋮﹂
﹁兄ィさま﹂
頭の中でボーっとそんな事を考えていると、再び清水兄ィさまが
身じろいだ。
お、起こしちゃったかな。
と気になり兄ィさまをチラリと覗き見る。
﹃切腹﹄
頭に浮かんだその言葉に、私の視線は兄ィさまの腹に止まった。
そう言えば下腹の三本の蚯蚓腫れのような横線⋮。
ゲームの中の兄ィさまは腹の傷を人生の汚点だと話している。生
きたいと思いながら切腹をしてしまった事。三度も切って死ななか
った事。自分の決意の弱さと浅はかさが傷として残っているそれが、
兄ィさまが兄ィさま自身を許せなかったのだと。
だが、それに加えて母が死んだときの事も思い出してしまい、苦
しいというのも傷を嫌う理由にある。
なんて⋮なんて自分に厳しいんだ。
私なんて自分に甘すぎてサトウキビが頭から収穫できそうなのに。
とんだ甘ちゃんだったよ私は。
でも私だったらどうしていたのだろうか。
466
死んでしまいたいと思ったのだろうか。
それとも⋮清水兄ィさまの様に生きたいと願ったのだろうか。 今この世界に私の母親はいないし、前の記憶もほぼ無いから母親
なんて分からない。
だけどもし天月の皆が死んじゃったら?目の前で自分は助ける事
も何も出来ずに殺されちゃったら?
そんなの考えただけで背中が冷えて嫌な気分になってくる。
鬱になる。
﹁野菊?お前起きてんのか?﹂
﹁あ、蘭ちゃん﹂
ジーッと清水兄ィさまを見ていると、ちょっと遠くから蘭菊の声
が聞こえてきた。
兄ィさまから視線を外して声の主を目で探してみれば、朱禾兄ィ
さまと宇治野兄ィさまが寝ている間から顔を出した奴が見える。
え、いつから起きてたの。
全然気配感じなかった。 しかし、改めて部屋を見渡すとカオス状態で皆が屍のように転が
っている。それに朱禾兄ィさまや他の遊男たちの腹がチラホラ着物
から見えていて、とても寒々しい。風邪引いちゃうよ。
てか見ていて私のほうが寒くなってくるよもう。せめて冬場は腹
巻をしようよ腹巻。私なんてサラシの延長で腰まで布巻いてるんだ
ぞ。
467
見習わんかい。
﹁おい⋮﹂
心の中でえらそうに発言していると、再び声をかけられる。
あ、蘭ちゃんのこと少し忘れていた。ゴメンよ。
眠たそうにこちらを見てくる蘭菊は、目をこすりながらあくびを
欠いている。
てか、あれ?あれれ?
あいつ昨日ゲロってた奴じゃん。
ゲロゲロ小僧じゃん。
ゲロッピーじゃん。
﹁げろげろぴーぴー﹂
﹁なっ、お前喧嘩売ってんのか!﹂
そう言うと力こぶを握り締め、プルプルと震えながらメッチャ蘭
菊が睨んできた。
相変わらずこの手のおちょくりに弱いなぁ。もうちょっと落ち着
けばすっごい格好良いのになぁ。でもそこが蘭ちゃんの良い所でも
あるのだから面白いもんで。
笑いながらおちょくり続ける自分に、意地が悪いなとは思いつつ
楽しくなってくる。
本当ゴメン蘭ちゃん。
楽しくてごめんなさい。
﹁ぴーぴー﹂
468
﹁うるせー!お前に酒を八升飲まされた俺の気持ちが分かるか!﹂
﹁はっ八升!?﹂
八升!?
お酒を!?
﹁八升だ!﹂
﹁はっしわっ私死んじゃう!蘭ちゃん凄!スッゲー!カッコイイ!
!﹂
﹁ど、どーってことねーよ﹂
いや、どーってことあるから吐いたんだろうが。
頬を指でぽりぽりかきながら、ちょっと照れたように笑う蘭菊は
⋮ちょっと可愛い。
くっ、男のクセに生意気な。
でもそれだけ飲まされたのなら、ゲロってしまうのも頷ける話で
ある。
私だったら吐いてちょっと寝ただけじゃ全然お酒抜けないと思う。
こやつ本当に大丈夫なのかな。
ある意味酒豪?
﹁もう吐き気無いの?﹂
﹁全快だっつーの﹂
﹁大丈夫?頭とか﹂
﹁お前のその言葉、どういう意味で言ってんのか考え物だな﹂
失礼な。 頭がクラクラとかして痛くないのかと心配しているんだぞ。べつ
469
に頭が馬鹿になっているんじゃないのかという意味では無いからね。
こいつは私をどういう奴だと認識しているんだ。こんちくしょー
が。
私は唇を鼻に付くくらいムゥと突き出して蘭菊をじろりと睨む。
﹁⋮っ﹂
⋮ちょ⋮おい、いま笑ったか?
そんなにブサイクだったか?えぇ?
私の不快を知れ貴様。
あ、でも不快に関してはお互い様か。
﹁普通に心配してるだけですー!﹂
﹁てかお前、その体制辛くねーか?﹂
蘭菊が私のほうを指差して言う。
思えば私は未だに羅紋兄ィさまの腕の中だった。蘭菊の言うとお
り確かにそんな状態で頭を持ち上げて話してるから、正直首が痛い。
もの凄く痛い。
と言うかその前に一つ言いたい。
⋮これだけギャーギャー二人で話しているのに誰も起きないなん
て、どういうこと?
ちょっとちょっと。
今もし不審者とかが進入して来たらどーするの。⋮え?私と蘭菊
で片付けろって?んな無茶な。
とかそう大抵おこりもしない出来事にアホみたいにビビる私。
チキンとでも何とでも呼ぶがいいさ。
470
でも取り敢えずまずは、身動きが取れない状態を何とかしたい。
猫の手でも良いから借りたいのです。
未だに私を遠くから眺めているだけの蘭菊の手でも良いけど。
﹁蘭ちゃん、ちょっと羅紋兄ィさまの腕上げてもらっていい?﹂
﹁それもう起こしちまえよ。股に一発食らわせて﹂
﹁んー。でも起こさずに済めばそれに越した事ないしなぁ﹂
吃驚するほど羅紋兄ィさまの腕はなかなか退かない。
蘭菊の言うとおり足で男の急所を蹴りつければ、そりゃ起きてく
れるだろうが⋮。
そんな酷い事私には出来ない。
出来ませーん。
﹁ていうかこんな寒いのに皆腹出して寝たりして風邪引いちゃうよ。
掛け布団掛けたいから、蘭ちゃん手伝ってください﹂
﹁風邪引かせときゃいーんだよ﹂
﹁ハッ。馬鹿ちんが。お前こそ風邪引いちまえ﹂
﹁なんだとコラァ!!﹂
全く喧しいな。
人の体を労われない奴は碌な目にあわないんだぞ小僧。
﹁⋮たく、ほらよ﹂
だが散々ほっとけと言っていた蘭菊は、仕方ない、というような
感じでこちらへ来て羅紋兄ィさまの腕を上げてくれた。
しかし寝相の悪い私が抜け出せなかったほどのそれは、男の蘭菊
471
でも少しキツイようで。
小僧の腕が再びプルプルしている。メッチャ力んでるよ。
蘭菊頑張れ!
お前なら出来る!!
と応援する私の上で、顔が若干赤くなりながらも必死で引っ張っ
てくれている蘭菊は言われなくても頑張っていた。
﹁重!なんでそんな筋肉質ってわけでもねーのにこんな重いんだよ﹂
﹁だよね﹂
﹁重いっつーか力入ってんじゃ⋮﹂
なんて二人してゴチャゴチャ言いながらも、どうにか蘭菊が持ち
上げて出来た隙間から体をすり抜けさせて私は脱出に成功した。
そしてやっと自由になった上半身を起こす。
うぉ∼⋮首が痛い。
ゴッキゴキ鳴りますぜ。
あ、羅紋兄ィさまは⋮起きてないよね。うん。大丈夫。
確認してそっと兄ィさまから離れると、掛け布団を取るために部
屋の押入れを蘭菊と開ける。中には八枚ほどの掛け布団が入ってお
り、反対側の押入れにも同じ枚数が入っているため全部で十六枚と
なるが人数分は⋮。
んん∼。足りるか?
とりあえず皆に一枚一枚⋮じゃ足りなくなるので、数人に一枚と
いう感じで掛けていく。
これならば全員に掛けられるだろう。
472
染時兄ィさまと阿倉兄ィさまに、朱禾兄ィさまと宇治野兄ィさま。
と順にペアで布団を掛けていく。掛けた瞬間、皆無意識で布団に縋
るから見ていて面白い。ううん可愛いです。
さて次は⋮あ。
あらまぁ。
視界に入ってきたのは銀髪と青髪。
言わずもがなアノ二人である。
﹁凪風ったらこんな所に。およ、秋水もいる。仲良く並んで寝転ぶ
とは⋮﹂
﹁あー、そいつら昨日妙に意気投合してたからな﹂
﹁それはいつもの事じゃないの蘭ちゃん﹂
﹁そうだな﹂
順番に周っていくと凪風と秋水が仲良く寝ている姿を発見した。
なんかちょっと興奮する。いや、変態とか言わないでよね。そうい
う意味じゃないから本当。
あと別に悪用したいわけではないが、カメラがあったら是非とも
写真を撮りたかったです。
とかそんな思考に浸っていると、遠くにいる新造や禿ちゃん達に
掛け終わったらしい蘭菊が、私の持っている掛け布団を指差してく
る。
﹁おい、清水兄ィさんと羅紋兄ィさんにも早く掛け⋮いや俺が﹂
﹁はい掛けまーす﹂
私は最後の一枚を凪風と秋水から少し離れた所で寝ている二人に
掛ける。
473
あらららお二方の寝顔が綺麗ですこと。
でも羅紋兄ィさま、左の頬っぺたに畳の跡付いてるよ。清水兄ィ
さまは⋮流石だ。うつ伏せになってはいるものの、顔が横を向いて
おりギリッギリ耳までしか畳に付いていない為、顔にはノーダメー
ジ。
ある意味隙が無さすぎるな。
相変わらず無駄な感想を頭の中で繰り広げた野菊は布団を掛け一
呼吸した後、清水の傍にそっと近づく。
兄ィさまの顔をじっくりと見れば、笑ってもいなく怒ってもいな
く悲しんでもいない。無表情で目を閉じている。て⋮いやいやいや、
そりゃそうだろう。寝ているんだから。
と自分の馬鹿な実況に突っこむ。
そう言えば大人になると夢を見なくなるって言うけど本当かな。
でももし見れるなら兄ィさまにはとっておき面白い夢を見てもらい
たい。笑いすぎて兄ィさまが涙目になるところとか凄く見てみたい。
野菊は清水に笑いかける。
﹁清水兄ィさま、私は兄ィさまに出会えて幸せです。あ、もちろん
皆にもです。へへへ。兄ィ様は⋮﹂
ほんの少しでも、幸せを感じてくれていますか。
474
始まる 物語5︵後書き︶
あとがき。
﹃⋮うん﹄
﹃え!?﹄
﹃⋮スゥ⋮スゥ﹄
﹃ちょっね、ねぇ蘭ちゃん。今清水兄ィさま返事したよね?ね?﹄
﹃知るか馬ァ鹿!!﹄
﹃おっ大きい声出さないでよ馬ァ鹿!!⋮あ、そうだ﹄
そんな蘭菊の態度にちょっぴりプンスカしながらも、押入れの戸
を閉めに行くために離れた野菊。 ﹃⋮スゥ⋮⋮﹄
﹃⋮今日から狸って呼んでやる﹄
475
始まる 物語6
ところで今までスルーをしていたが、私は一つ重大な問題を全く
深く考えていなかった。
私﹃野菊﹄は話の中で悪役、悪者、人格破綻者である。大変不本
意だが。
今の自分はそうでないにしろ、前に思ったとおりゲーム通りの行
動こそしていないが、そのような状況になりかけてしまう事が少々
?あった。
ということは私が遊郭に売られてしまう事態や仕置きをされてし
まう何かが起きる可能性が完全に無いとは言いきれない。
ぶっちゃけ怖い。
お化け屋敷の中に住んでいる感覚に近い。
いつ何が出てくる︵ラブいイベントと自分の破滅イベント︶か分
からない。本当に恐ろしいことである。
﹁兄ィさん、次は?﹂
﹁え?あ、ああゴメン。次はね﹂
正月休み明けの三日目。
私は仕事までの間の時間に梅木に稽古をつけている。
禿を卒業した梅木は、今や私と秋水の下に付いている。
しかし何故秋水だけではなく私の下にも付いているのか。
それはおやじ様の粋な様でアホらしい考えがあったからである。
476
もちろん最初は秋水だけでも良かったらしいのだが、私がある日
﹃きっと女の本音からすると∼﹄と梅木に食事中何やら客の女性の
ことを話していたのを見かけ、急にピンとひらめいたらしいのだ。
︵もし遊男としての秋水と女心が分かる野菊の二人に手管を仕込ま
れたならば⋮それ最強だよな︶
なにが最強なんだ何が。
そして結局迷いもせず、最終的にそのような考えに至ったおやじ
様は早速二人に頼んだ。ということである。
だが真面目な話、女と言っても長年男をやり続けている私に女心
が完全に理解できているのかは怪しい。
以前の記憶も無ければ、この世界で恋すらしていないのだから。
﹁座敷の最後で使う手管なんだけど﹂
私がこの世界のことを知って四日目になるが、これと言って変わ
ったことは無いし、これからの皆の展開を予測するのも難しい。
色々今の私たち⋮というか皆の関係に若干ズレがあるからゲーム
の話通りにいくかは微妙だし。
今のところ何をどーしたらいいのかは正直分からない。
だって知らずに生きてきたもんだから。
知らずにここまで来ちゃったもんだから。
遊男になっちゃったもんだから。
今更全く皆と関わらないというのは無理な話だろう。
﹁お客が帰る時、ん∼⋮別れ際?が大事なんだなぁコレが﹂
477
﹁何をするのですか﹂
﹁例えば相手の女の人の頭を撫でながら﹃もう行ってしまうの?﹄
とか言ったり、ぎゅ∼っと抱きしめて頬に接吻したり﹃まだまだ別
れたくない﹄という仕草をくど過ぎない程度でやるんだよ﹂
﹁ゲコ﹂ そう言って腕を胸の前で交差し、抱きしめる仕草をしながら梅木
のほうを向き説明することに集中する。
あぁしかし、この私が誰かに指導する日が来るとは⋮。感慨深い
ものがある。
一日一善。
三歩進んで二歩下がる。
苦は楽の種。
思う念力岩をも通す。
石の上にも三年。
けして楽ばかりじゃなかった日々。
最初なんか字は読めないし、和歌の歌の意味もわかんなかったし。
書道の半紙は毎回シミが付着するし筝の弦をブチッたこともあるし、
皆より古典の呑みこみは遅かったし寝坊はするしやっぱり寝坊はす
るし。
最初の頃は失敗続きで駄目なお饅頭野郎だったけれど、それも我
慢強く続けて何年もすればまぁまぁ美味しい焼き饅頭になれた感じ
はする。
継続は力なり。
﹁そうするとどうなるのですか?﹂
﹁自分︵私︶の事が別れたくないくらい好きなのね、この人は⋮と
478
少なくとも思うはず。まぁ本当に遊びなれた人にはあまり向かない
手だけど﹂
﹁女性とはなるほど、そういうものなのですね﹂
﹁ゲコ﹂
私の向かいに正座をしながら腕を組んで首を捻る梅木はなかなか
可愛らしい。
引っ込み禿を卒業した彼は、花魁に付いて女性への手練手管を学
ぶ。ちなみに芸事はおやじ様の下で完全に仕込まれているから、そ
っちのほうは教えなくても構わないのだ。
﹁帰り際だからこそ、だからね。覚えておくと良いかも﹂
﹁はい!﹂
﹁ゲコ﹂
⋮なんか横でチャッピーがちょいちょい入ってきて面白いんだけ
ど。
あんた何、手管覚えてるのか。
よし、繁殖期になったら良いメスが捕まえられるように色々レク
チャーしようではないか。
﹁ちゃっぴぃも覚えているのですかね﹂
﹁ふふ、かもね﹂
﹁じゃあ僕ももっと頑張らないとですね﹂
今私が教えているのは遊男の手練手管の内の一つ。いわば心理作
戦とでも言っておこう。
私の座敷や秋水の座敷に何回か出てはいるが、やはりまだまだ
分からない事が本人的、梅木には多い。
479
そりゃそうだ。目で見ているだけでは、実際どんな物かなんて全
然分からない。私だって実践するようになってから大体理解したよ
うな感じだし。
でも兄ィさま達はある程度実践を私相手にしてくれていたのでと
ても分かりやすかった。
あれは凄くタメになった覚えがある。ありがたやー。
あ、そうだ。
﹁梅木、ちょっとそのままでいてね﹂
﹁?はい﹂
そう言われた梅木はその場でジッとする。
それを見た私は着物の裾を押さえて膝立ちになり、梅木を正面か
ら抱きしめた。
苦しいほどキツくではやり過ぎなので駄目だ。
ちょっと力を一瞬込めるくらいが多分良い。
﹁⋮ずーっとこのまま一緒にいれたら良いのに﹂
﹁に、兄ィさん⋮﹂
ちょっとビクリとした梅木から振動が直に伝わる。そりゃ驚くよ
ね、急にこんな事されたら。
でも梅ちゃん申し訳ない。
私からされても正直迷惑かもしれないが、こういうのはやってお
いて損は無いと思うんだ。
自分の経験上。
﹁と、こんな感じです。ゴメンねいきなり抱きついちゃって﹂
﹁い、いいえ。なんとなく分かりました﹂
480
﹁なら良かった﹂
背中をポンポンと叩いてから腕を解いて少し離れる。
﹁でも今言ったことは嘘じゃないからね。叶うなら皆とこのまま家
族みたいにいれたら良いなって﹂
そう私が言うと、梅木の瞳がキラキラと輝きだした。
﹁僕も野菊兄ィさんとずっといれたら良いと常々思っています﹂
今度はお互いにぎゅっと抱き合う。
ああ、なんて可愛いの君は。
弟が自分にいたらこんな感じなのかな。本当に可愛い、かわい⋮
⋮?おぉ⋮あら⋮あらら、ちょっと成長したか?腕の筋肉私より付
いてんじゃん。あれ、ていうか背中ちょっと広くない?12歳だよ
ね君。なんでこんなにいっちょ前なの。なんかちょっと男じゃない
のよ男。どういうことなの。
ススー⋮
おとこ
男に、身体が漢になってきている梅木に若干嫉妬していると部屋
の戸が開く音がする。
誰だ。
﹁野菊ー⋮おい、何してんだお前ら﹂
気づいてそちらを見れば秋水が部屋の戸を開けたままポカンとし
ていた。
そんなマヌケ面も様になっていてイケメンはどこまでもイケメン
481
なんだと地味に実感する今日この頃。
その成分私に分けてください。
少しでいいから。オーラでも良いから。
というかいい加減声を外から掛けてから開けて欲しい。
蘭菊といい秋水といい皆全くもう⋮。
常識と言う物を学ばんかね。
とりあえず梅木から再び離れて秋水の用件を聞くことにする。
﹁何か用事?﹂
﹁あぁ。稽古中悪いがおやじ様が新しい着物仕立てるとか言うから
一応呼んで来いってな﹂
﹁梅木?私?﹂
﹁梅木だ﹂
新しい着物か。
そう言えばこの時期は仕立てラッシュだった気がする。
まだ1月なわけであるが、5・6月の温かい時期に向けて今から
仕立ててしまうのだ。こんな早く仕立てなくても⋮と思うのだが、
おやじ様がやると言うのだから仕方が無い。
﹁そっか、じゃあ行ってらっしゃい﹂
﹁兄ィさんではまたお願いします﹂
﹁うんまたね﹂
二人して手を振り合い、そうして梅木が部屋から出て行く。
梅木だけ。
秋水は梅木の背中を見送るばかりだ。
482
あれ、秋水は行かないの?
なんかずっと立ってるけど。
どこにおやじ様がいるのか伝えて無いじゃん。もしや以心伝心?
心の中で会話とか出来ちゃうの?
とくだらない事を考えていると、秋水が溜め息をつきだした。 ⋮なんで溜め息よ。
幸せ逃げるぞエリートボーイ。
﹁ところで今日は何やったんだ?﹂
﹁客の帰り際についてをちょっと﹂
﹁それであぁなったのか﹂
どうやら梅木との抱擁が気になっていたらしい。
﹁野菊はこの後用事とかあるか?﹂
﹁ちょっと⋮まぁ﹂
﹁なんだそうか。どうせなら荷物持ちさせようと⋮チッ﹂
﹁今舌打ちした?舌打ちしたよね?﹂
﹁それはそうと⋮﹂
﹁あ、逸らした﹂
﹁あんまり男に無闇に抱きついたりするな。男だって単純だからな。
もしやと思うかもしれないぞ﹂
何を真剣に話し出すかと思えばなんだ、そんなことか。
そらホモい世界があることだって私も知っている。いくら私でも
誰彼構わず抱きついたりなどはしないさ。同期や親しい兄ィさま達
以外には。
﹁梅木はまだ良いが⋮﹂
483
﹁まぁまぁ大丈夫だって。というか秋水のほうこそ天月の誰かに惚
れられちゃったりするんじゃないの∼﹂
﹁あるわけないだろ馬鹿かお前﹂
﹁馬鹿はお前だ﹂
﹁なんて言った﹂
﹁すいません﹂
秋水に頭をガシっと片手で掴まれてしまった私はすぐに謝罪する。
もはや恐怖政治。
﹁明日は?﹂
﹁何が?﹂
﹁用事だ用事﹂
﹁あぁ、明日は無いかも⋮﹂
﹁なら明日吉原の簪屋に行くからお前一緒に来い﹂
話がまとまりそうだと感じたのか、秋水は開いたままの戸に手を
かけだす。
﹁お!もしかして梅木のやつでしょ?﹂
﹁当たりだ。また昔みたいに寝坊すんなよ﹂
そう少し笑って言うと、後ろ手に手を振りながら部屋から去って
行く。
何だあの後ろ姿。 爽やか青年じゃん。
エリートが爽やかになるとかもう完敗なんだけど。
﹁ふぅ⋮﹂
484
それはさておき。
やっと一人になれた部屋で私は再び考える。自分のことについて。
﹃野菊﹄が出てくるのは愛理ちゃんがおやじ様に拾われ天月に来
てすぐの事だ。裏方の仕事の先輩として最初は優しかった野菊が癪
変するのは愛理が誰かの高感度をある程度上げた時。
つまりは花魁の誰かと良い感じになる少し手前辺りである。
野菊が頑なまでに皆が愛理に惹かれるのを嫌がる理由は、親から
受けたこれまでの扱いに理由がある。
2歳で本当の親に捨てられ、そしてまた凪風の家に拾われるも結
局はまた捨てられ。そんな捨てられ続きの人生が完全に彼女のトラ
ウマになっていたのだ。
愛理が誰かと結ばれてしまうというのが、せっかくまた新しく出
来た家族を取られてしまう・自分はいらなくなって捨てられる、と
言う考えに至ってしまう。
⋮もうちっとこう、プラス思考になれないものか。
新しい家族が出来るんだという思考になれないものかね。
まぁそこはゲームを作った人が悪いんだけどさ。野菊を捨てられ
続きの人生にしやがってコノ野郎。
だが更に厄介なのが、愛理⋮プレイヤーが選択したルートの人物
を野菊が好きになっているという事。プレイヤーが蘭菊を選べば蘭
菊を好きになっているし、宇治野を選べば野菊も宇治野を好きにな
っている。
485
どれを選んでも野菊は恋敵になってしまっているので、この運命
はどのルートにいっても免れない。
﹁⋮⋮﹂
﹁ゲーコ﹂
今の状況はどうだろう。
別段決定的な何かがあったわけではない。
そして私自身に何かあったわけではないが、愛理ちゃんと花魁の
皆の間で何か起るのは間違いない。
実際起こっていたし。
第一この世界がゲーム通りにいくかが分からない。
もしかしたらパラレルワールド的な世界かもしれないし。
私が愛理ちゃんを嫌いになって殺そうとする事は無いと思うし、
そもそも恋敵になんてならないだろうし。
考えが落ち着いたら愛理ちゃんのところに行って話でもしてみよ
う。
記憶が無くなったばかりの頃は避けられていたみたいだけど、私
もいつまでもウジウジしてはいられない。
︽コンコン︾
﹁はい?﹂
部屋の戸がノックされる。
誰だろう。
さっき出て行ったけど秋水かな。だとしたら急激な成長を遂げて
486
いるではないか。開ける前にちゃんと戸を叩くなど。
﹁あの、野菊⋮さん。お話がしたいんですけど、お時間ありますか
?﹂
聞こえてきたのは愛理の声だった。
野菊の目は文字どうり点になる。
﹁っ⋮え?あ、ちょ、ちょっと待ってね﹂
﹁ゲコゲコゲコ!﹂
ピョンピョン⋮。
とチャッピーがいきなり凄い鳴き出したと思ったら窓から出て行
ってしまった。
﹁い゛やぁぁあ!ちゃぁっぴぃぃぃぃい!!一人にしないでぇぇ!﹂
ていうか、ちょ、今冬!今冬だよチャッピー!
あんた死んじゃうって!!
てか何てバッド?ジャスト?タイミングなの!!
心の準備もしないうちに本番がやってきてしまった野菊であった。
487
始まる 物語7
﹁ええと⋮じゃあ、ここにどうぞ﹂
とりあえず部屋へ冷静に招き入れた私は、座布団を取り出して敷
き愛理ちゃんに座ってもらう。
こんな時にだが、部屋を掃除しておいて良かった。おやじ様が毎
日習慣づけて掃除しろと口酸っぱく言ってくれていたおかげである。
ありがとうオヤジ。
さて。緊張しない方法として、自分の視線をわざと相手に合わせ
るということを羅紋兄ィさまから教わったことがあるので目線を合
わせようと愛理ちゃんの目を見つめてみるが、とうの愛理ちゃんは
畳のシミを見つめていた。
は、恥ずかしい。
見ないでくださいそこは。
田楽のタレ落とした所だから。汚いから!!
と心の中で叫びつつ、まだ話すことが定まっていなかった私はど
う切り出したらいいのか分からず色々と話しかけてみることにする。
当たって砕けてみよう。
男は度胸だ。
488
握り拳を胸に掲げる。
﹁急にどうしたの?私後で行こうと思ってたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁記憶があの⋮アレしちゃったあとから、心配になって声かけてみ
ようかとも思ったんだけど。緊張しちゃって全然声かけられなくて。
ゴメンね。階段から落ちてから痛みとか体とか調子は変わりない?﹂
もう内心必死で心臓に汗をかきながら話を続ける。
久しぶりに話せた嬉しさと未だ何の反応も無い愛理ちゃんに戸惑
いながらも、わざわざ訪ねて来てくれたという事実に一種の安心感
を持つ。
だって本当に避けられてしまっていたものだから。
やっと遭遇したと思えば花魁の誰かとのイチャイチャシーンだし、
部屋に会いに行っても警戒されているような感じで出て来てはくれ
なかったし。
でもまぁ、そりゃそうだろう。
記憶を失って私のことがわからない愛理ちゃんからしてみれば、
その行動は単なるストーカーにしか思えない。
冷静に考えてみればなんて失礼なことをしていたんだ私。
自分の過去の行動に悔いながら次はなにを言おうかと捻っている
と、愛理ちゃんの丸くて大きくて子猫のような瞳が畳のシミから私
の瞳へと移っていた。
あっ愛理ちゃんが私を見たぁ!
コレいける!
いける気がする!!
489
﹁でね、愛理ちゃん﹂
﹁あの、女、ですよね﹂
﹁え?うん。⋮⋮うん?﹂
﹁誰か好きな人とかいますか?天月の皆の中でとか﹂
誰かとは誰だ。好きってどういう好き?結婚したいとかの好き?
やっと反応をして返してくれたと思ったら予想外の言葉が来たも
のだから、先ほど以上に私は戸惑う。というか、そうか。まずはそ
こからだったよね。女って説明していないし。こんな胸にサラシを
巻いた着流し姿で客を相手にしている奴なんて、むしろ男だとも思
うよねそりゃ。でも男に見えていたのならそれは遊男として幸いな
ことである。
しかし好きな人⋮か。
いきなりな質問をしてくれる。
冗談かなとも思ったが、愛理ちゃんの瞳はすごく真剣で 。
これは真面目な答えを聞きたいのだなと思った。
こんな恋バナをするという事態。五分前の私には全然予想は出来
なかっただろう。まず第一愛理ちゃんがやってくるという予想もで
きなかったし。
気を取り直して質問に答える。
﹁皆のことは好きだよ。それは兄弟とか、親子みたいな感じで。家
族みたいに大切に思ってる。夫婦になりたいとかの好き⋮は無いか
な﹂
﹁なら今度こそ、私の邪魔はしませんか?﹂
じゃ、邪魔?
490
﹁誰も好きでは無いってことですもんね?﹂
﹁そ⋮ういうことですね﹂
愛理ちゃんに視線を合わせていた目を横にそらしながら、尋問み
たいになってきた今の状況に私は心の中で首をかしげる。はて。
一体全体この状況を誰かに説明して欲しい。
大体、今度こそって⋮前に私何か愛理ちゃんの邪魔しちゃったの
!?
なんてことを!
覚えの無い事実に頭が冷める。
﹁私好きなんです。ある人のことが﹂
﹁あれ、そうなの?﹂
﹁誰とは言えないんですけど、花魁の人で﹂
﹁ほへぇ∼。⋮え!?﹂
予期せぬ事態。恋愛相談が始まったと思ったら⋮なんというか、
これまたえらいことをカミングアウトしてくれた。私の質問に一切
触れないで直球ストレートで来たよ。スルースキル半端ないよこの
子。
だが考えようによれば、相手がわかれば私も色々対処できると言
う事。私がずっと心配していた仕置をされ女遊郭に売られる事態と
かを免れられるチャンスだと思う。
まぁ起こらないかもしれないが、用心しておくことに無駄は無い。
愛理ちゃんは続ける。
﹁ちょっとでもその人が女性に構っているのを見ると嫌な気持ちに
491
なるんです﹂
﹁乙女心は複雑だよね﹂
﹁違うんです﹂
﹁?﹂
﹁野菊さんと話しているのを見ているのが駄目で﹂
そう言って悲しげな顔をすると愛理ちゃんは目を伏せた。⋮ん?
これは││││ようするに、だ。
こうしてわざわざ私の所まで来て好きな人のことを話し、その好
きな人と私が話しているのが駄目だということはつまり⋮。
﹁ええっとー誰?かな。それが分かれば協力も出来ると思うんだけ
ど﹂
﹁言えません。だから花魁の人たちから少し距離を取ってくれるだ
けでも良いんです﹂
﹁えぇー⋮﹂
いや、良くない良くない。
なんか以前と性格が百八十度変わっているぞ愛理ちゃん。もとも
とハッキリとモノを言うタイプだったが、これはハッキリと言うよ
り何と言うか、我が儘?可愛く言えば駄々っ子だ。
しかし困った。
そんなことを承諾してしまったら、生活に確実に支障が出る。こ
こは言わば大きなシェアハウスだ。人間関係というものが常に存在
する場所。
そう簡単には距離を置くことは出来ない。
愛理ちゃんの恋は実に応援したいのだが⋮。
492
﹁で、でもね愛理ちゃん。私も誰か分からないまま皆と距離を置く
ことはできないからさ。それで思うんだけど、そういうのは私がい
てもいなくても変わらないんじゃないかな。やっぱり当人同士の交
流と乙女の頑張りがあってこそというか、うん。それに愛理ちゃん
可愛いから、その人ももしかしたら﹂
﹁放り投げるんですか?﹂
﹁放り投げるってわけじゃ﹂
﹁それは、私からしてみれば邪魔しているのと同じだと思います﹂
﹁えぇー⋮﹂
こぶしを正座している膝の上で握りながらそう力説される。
だがそんなことを言われても私にはどうしようもできないから仕
方が無い。誰を好きなのかを聞いても答えてくれないんじゃ⋮と対
処のしようも無い私は途方にくれる。
嫉妬をしちゃうからといって皆を無視するわけにはいかないし。
﹁でもね⋮うーん。私がどうこう出来ることでは無いと思うからな
ぁ﹂
﹃私ができることなんて無いわよ﹄
え、今の⋮何。
一瞬私の頭の中であるゲームの場面と台詞が浮かんできた。
どういうことだろう、この感じ。
これは既視感?
あの四日前の夢を見たときのようなこの感じ。なぜだか嫌な予感
がする。
頭を左右に振って、先ほどの情景を振り払い前を向く。
そんなことをしても忘れないし無駄だけど、その無駄さえ私には
493
救いになっていた。
気を取り直して愛理ちゃんにもう一度話しかけてみる。
﹁あ、あのね、協力はしたいんだけど、やっぱり自分で頑張って相
手とそういう状況にどうにかこぎつけるのが一番だと﹂
﹃それ嫌味なの?あんたとアノ人のお膳立てなんて嫌よ。自分でど
うにかしたら?﹄
そう。そうして次には緑色の綺麗で美しい彼女の瞳からー⋮。
あぁダメだ。
何でこの場面が思い起こされてしまうのだろう。嫌だ嫌だ。お願
いだから次の展開は当らないでほしい。
頼むから神様。
﹁ううっ、⋮グスン﹂
﹁嘘﹂
唖然とする私の中で再びあの言葉が繰り替えされる。
そう。そうして次には緑色の綺麗で美しい彼女の瞳、愛理の瞳か
らは涙が零れおちるのだ。
と。
この台詞・場面は、愛理が相手と吉原内デートをする前日、自分
の手持ちの着物を全部誰かに︵野菊に︶ズタズタに裂かれてしまっ
た時の一場面。
相手や周りに心配させたくない愛理が、女の着物を唯一持ってい
る野菊に頼み込んでいるという状況。そしてそれを拒んでいる野菊、
という図だ。
494
しかし疑問がある。
なぜその場面でもないのに、今自分が言った言葉と愛理が泣くタ
イミングがほぼ被っているのだ。
おかしい。
絶対におかしい。
そんな奇妙な出来事に、ぎゅうっと握っている私の手の指先が冷
たくなってくる。
﹁もういいです!﹂
﹁え、ちょ、待って!﹂
いきなり泣きながら部屋から走って廊下へ飛び出した愛理ちゃん
に、私は片手を伸ばしたまま固まる。
このまま行けば、次に愛理に待っているのは自分が選択したルー
トの人物か、他の花魁たちの誰かである。そしてその誰かが廊下を
歩いていて偶然泣きながら歩いていた愛理を見つけて優しく語りか
けるのだ。ちなみにそこでポロリと野菊の行いを暴露するという、
そんな感じで結構仕組まれた様に物語は流れていくのだが。
﹁⋮⋮﹂
⋮というかこんなのんきに状況分析している場合じゃないよ私。
別に暴露されるようなやましいことはしていないし着物を破いた
わけでも、意地悪で何かを言ったつもりは無い。が。
私が実質泣かせたようなものだもん!
このままじゃ色々アカン!!
495
と私が立ち上がり愛理ちゃんを追いかけるべく足を踏み出した途
端、廊下のほうから﹃ドン﹄と誰かと誰かがぶつかったような音が
聞こえた。
﹁あれ愛理。どうかしたのですか﹂
﹁⋮っうじ﹂
声からするに、宇治野兄ィさまと愛理ちゃんが衝突したらしい。
あぁどうしよう。
もし愛理ちゃんが私のことを言わなくても状況的に私に否がある
から。どうしよう!
と嘆く野菊。
だが、次の瞬間﹃ピョコッ﹄と誰にも気づかれず愛理の着物の中
に飛び込んでいった緑の生命体がいた。
﹁うっ⋮ふ⋮あはっあははは、ちょ、やめっひゃぁ!﹂
﹁ゲーコ﹂
﹁?ちゃっぴぃ?ですか﹂
﹁え、チャッピー?チャッピーいるんですかそこに!﹂
﹁ニャーン︵いるいる︶﹂
気になり戸の近くまで行き覗き見ると、愛理ちゃんが思い切り爆
笑している姿が見えた。なんじゃありゃ。
目の前で起きている予想とは違う展開に驚いていると、スリ⋮と
護が私の足に擦り寄って来る。
今更だけどお前今までどこにいたのだ。
﹁てっきり泣いていると思ったのですが、気のせいだったみたいで
496
すね。良かった﹂
﹁⋮⋮﹂
そんな会話が聞こえたかと思い護から視線を外すと、チャッピー
がいつの間にか私の目の前に来てちょこんとお座りをしているのを
発見する。
どうやら状況から察するに、チャッピーが愛理ちゃんの着物に入
り込み擽って笑わせた。というところだろうか。
﹁ゲコ︵安心しろアホ娘︶﹂ ﹁やだチャッピー﹂
こんなにたくましい蛙は見たことない。でもアホ娘は余計だよ。
ちなみに何度も説明はしているが、このチャッピーや護の言葉は
あくまでも私の解釈である。でもそういう感じに聞こえているので
あながち間違っているとも思えない。
不思議と。
しばらくすると宇治野兄ィさまがこちらにやって来る。
あさひ
﹁あ⋮野菊。さっき丁度、朝陽に呼ばれて行ったらお饅頭をくれた
んですよ一緒に食べませんか?﹂
笑顔でお饅頭を持ちながらそう言う兄ィさまに私は固まった。な
ぜなら愛理ちゃんを目で追えば彼女は思い切り嫌そうな顔をして私
のほうを見てくるのだ。
え、も、もしかして愛理ちゃんの好きな人って宇治野兄ィさま?
だからこの廊下にも兄ィさま通りかかったの?
497
マジで?
﹁き、今日は遠慮しておきます﹂
﹁珍しいですね﹂
﹁最近食べすぎかなぁ?と思いまして﹂
﹁そうですか?﹂
首をかしげる宇治野兄ィさまに一応言ってみる。
﹁愛理ちゃんがさっきお腹空いたと言っていましたよ。愛理ちゃん
と食べてはどうですか﹂
﹁そうですねぇ。⋮それならそうしましょうか。残念ですが⋮では
また誘いますから今度は野菊も一緒に食べましょうね。じゃあ愛理、
部屋に行きますよ﹂
﹁はい﹂
お膳立てとはまた違うが、そうして二人の背中を私は見送ったの
だった。
野菊の受難の日々が幕を開ける。
498
始まる 物語7︵後書き︶
あとがき。
その日の風呂にて。
﹃野菊が痩せようとしているみたいですよ﹄
﹃確かに最近野菊の胸がお⋮﹄
ゲシッ
﹃胸が、どうしたって?ん?﹄
﹃清水兄ィさん容赦ねぇな﹄ ﹃羅紋兄ィさんも学習しないよな﹄
﹃蘭菊。一応言っておくけど君も普段あんなんだよ﹄
﹃いってぇな!!いや、この前抱いて寝てた時に⋮﹄
﹃君も狸か﹄
ゲシィッ!
499
始まる 受難の日々1
日が徐々に沈み、仕事までの時間が刻一刻と迫っている。
私は愛理ちゃんと宇治野兄ィさまを見送った後、護とチャッピー
を両脇に鎮座させながら一人考えていた。
頭に浮かんだあの場面と事に至るまでの経緯を。
さっきのアレは何だったのだろうか。
愛理ちゃんの恋の邪魔をしようとしたから?いやでも邪魔をして
いるつもりはないし、そもそも邪魔なんてしたくもないし。
そんな趣味悪くないし。
有り得なくは無いけど、もしかして愛理ちゃんが︵主人公が︶野
菊が邪魔をしていると認識すれば、ゲーム通りの展開になっちゃう
とか?
でもこの世界で本当にゲームの通りにいくのか。
色々ズレているし私が遊男になっている時点でそのような展開に
至るまでには無理があると思う。
﹃野菊さんと話しているのを見ているのも駄目で⋮﹄
おなご
しかし、話しているだけで駄目⋮か。
くぅっ。女子の世界はなんて厳しいのだろう。
500
乙女心は可愛いと思うけれど私本人からしてみれば無茶振り以外
の何者でも無いわい、という感じだ。
さっきも話しながら思ったが、誰かも分からないんじゃ対策の仕
様が無い。あの状況を見れば宇治野兄ィさまっぽいかな、とは思う
が確実ではない。
本人から聞いたわけではないので、憶測だけで判断するのは大変
よろしくない。
でもじゃあコレで私がいつもの通りに花魁の皆に接したとしよう。
さてどうなるか。
﹁⋮⋮⋮うー⋮﹂
まぁどうであれ素直に皆から距離を置くことは当然できないので、
しばらくはいつも通りにいってみた方が良いかもしれない。
それで何かゲームの通りに私﹃野菊﹄が悪者の立場になってしま
うようなことが起きたら考えてみよう。
﹁野菊ちょっといいか﹂
﹁おやじ様?﹂
廊下からの声に反応する。
おやじ様の声だ。
﹁ええとあの、どうぞ﹂
﹁おー悪いな、仕事前に﹂
こんな時間になんの用だろう。
501
仕事ももうすぐ始まるし、と思いながらも戸を開けておやじ様を
部屋へと導く。
ズカズカと上がってきたのはいいが、何だ。
部屋の掃除の抜き打ちチェックか!!
﹁?﹂
とか構える私の視線はジーっとおやじ様の手元へいく。何故か着
物でも巾着でも手拭いでもなく、赤と青のただの布切れをその手に
持っていたのだ。一体何に使うのだろうか、そんな布切れ。ちょっ
と気になるぞ。
巾着でも作れと言うのか。
﹁どうするかねぇ∼﹂
﹁⋮何がですか﹂
布を持ちながら顎に手を当て、質問にもなりきれていない質問を
してくる。
いや、そもそも私に向けた質問なのか。
自問自答している気がする。 というか今日訪問者多くない?
﹁んん⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
布切れを私の襟元に交互に被せてしばらく思案しているオヤジ。
もう何してんの。
502
すんごい真剣な瞳で眉間に皺寄せているけど。
この行動にそんな唸るほどの何かがあるの?
ひたすら無言でそんな事をされている私の頭の上には﹁?﹂がた
くさんついている。
﹁あ、﹂
そういえば。
話は変わるが、いまや私の背はおやじ様を越える一歩手前。それ
ゆえか私の目線はおやじ様の頭にいく。
おやじ様がいつ禿るか昔皆と予想し合っていたけど、あれ私の勝
ちだな。
まだ全然あるよ毛。
﹁よし!﹂
﹁?﹂
﹁じゃあ座敷頑張れよ﹂
唸っていたおやじ様はいきなり納得したような声を上げると、直
ぐにそのまま部屋から去っていった。
は?
﹁え、何?ちょっと、おやじ様︱?今の何ですかー!?﹂
意味が分からないままに私の声は空気中へと消える。
私の頭の上には更に大量の﹁?﹂マークが出現。
目をパチクリとさせ、その後数秒動きを止めたままチラリと視線
503
を横に向け外を見てみれば、吉原の町中の灯りが点々と点き始めて
いた。
どうやらもうすぐ夜見世の時間になるらしい。
そろそろ私も着替えて準備をしなければならないようだ。おやじ
様に気をとられている場合では無い。
というか時間って過ぎるの早いなぁ。
一日二十四時間だけど、たまに三十時間になったりしないのかな
ーとか中学生みたいなことを考える事がある。
休日限定でだけど。
まぁそもそも無理だけど。休日年に二日しか無いし。
﹁⋮ふぅ﹂
さて、と立ち上がり箪笥から今日着る着物を取り出すことにする。
昨日は濃緑地の金蝶を着たから、今回は青色のまた色が落ち着いた
ものでいくとしようか。
着物って洋服みたいに何十種類も形があるわけではないけど、柄
や色に関しては和服特有の洋服では到底出せない魅力があるから見
ても着ても楽しい。
⋮あ、でも。
そういえば赤とかは滅多に着た事が無いな。と、さっきのおやじ
様が持っていた赤い布切れを思い出してみる。
赤い色を最後に着たのはおやじ様が﹃桃の節句だ!﹄と言って無
理やり女物の着物を着せられたあの時の一度きり。それからも毎年
着させられそうになったが、丁重に毎回断らせてもらっている。
花魁道中の時も、黒地に金の花の刺繍が入った長着に葵色の羽織
504
を着たりと色味は明るくない。
客の好みに合わせて着物を着る時もあるが、やはり明るい色は着
ていない。
﹁ニャーン﹂
﹁もう来る?﹂
護が仕事前に鳴くときは誰かがここへ向かっているという合図。
たぶん今は番頭さん辺りが客の訪れを知らせに来てくれようとして
いるのだろう。
は、早く着替えなければ。
いそいそと着替えを急ぐ。
私など、花魁たちは基本夜見世︵格子の中に座り、外から客が自
分を選んでくれるのを待つ︶には出ず、自分の部屋で客の訪れを待
つ。事前に誰が来るのかは妓楼側で分かっているのでその客のため
の準備をしておくのだが、馴染み以外の客の場合にはそのようなこ
とはしない。
花魁が閨をともにし、夜を過ごしても良いと判断された馴染み客
だけが丁重にもてなされる。花魁に馴染みにしてもらうには三度花
魁の下へ通わなくてはいけなく、かつ花魁にその間気に入られなけ
れば門前払い。
私の場合は閨を共に出来ないので論外なのだが、閨抜きでもお話
や芸事を見せるだけ、という条件で馴染みにしている客たちがいる。
そんな遊男としては有り得ない条件を呑んでくれている客の皆に
は、感謝しかありません。
大事にしよう。うん。
505
ここで一つ今更な遊男事情。
遊男を買えるのは一日何人までという決まりは無いが、閨の場合
は相手をして良いのは一日一人まで。一日何人もの相手はしない。
それは、妊娠の関係があるからである。
ある意味赤子の種を外部にばら撒くようなものなので、こちらで
の責任が持てない。避妊という手もあるにはあるが確実ではない。
女性である客が赤子を産むのは自由だが、その赤子が捨てられてし
まう可能性が大きく、更に客である女性の命も時に危なくなるので、
むやみやたらにすることは出来ないのだ。
だから遊男は閨の相手がいない日もある。
﹁野菊花魁、春日様です﹂
﹁どうぞ﹂
私の馴染みの一人である春日ノ冬様。
三ヶ月程前から定期的に私の元へ訪れてくれている。
﹁この間ぶりね。お待ちになって?﹂
﹁首を長くしていたよ。天まで届きそうだ﹂
赤紫の長い御髪は妙に色っぽくて、気の強そうなつり目の碧瞳は
本人の性格をそのまま表しているよう。
私のことは噂を聞いて興味本位で買ってみたと言ってくれたのだ
が、興味本位で花魁を買うなど並みの人間で無いことは確か。
506
﹁あら、今日は藍色の着物なの﹂
﹁冬の色だからね﹂
﹁ふふ、もう。口が上手ね﹂
座布団の上へ促し座っていただく。
﹁梅木、筝。雪桜で﹂
﹁はい﹂
今日は梅木が座敷で筝や舞を披露してくれるので私的にはウキウ
キしている。月に三回しか引込みは座敷に出てはいけなく、更に秋
水の座敷と交代交代で出てもらっているものだから、実際には一月
に一、二回しか座敷での梅木を見ることが出来ないのだ。
えぇはい、授業参観的な気分ですよ。
やっぱりウチの子が一番よね。とか言っちゃいたいですよ。
私の指示に梅木が頷き、筝を奏で始める。
﹁ねぇ野菊様、松代とは仲良くしていらっしゃるの?﹂
﹁松代と?﹂
音楽が始まると、それをBGMにして私や客は会話を楽しみだす。
﹁話を聞けばね﹃野菊様と今度花見の約束をしたのよ∼。あぁ楽し
みだわ!﹄とおっしゃっていたわ。本当?﹂
﹁あぁ、春に行う夜桜のことか。ずいぶん先だけれど松代が一番最
初に俺との夜桜を希望していたみたいなんだ。まだ一月だけどもう
申請が始まっていたのかってびっくりしたよ。冬は誰を希望した?﹂
507
﹁∼っ野菊様、それは意地悪です!﹂
﹁そうかな﹂
﹁⋮松代には牽制をかけておこうかしら﹂
松代様は私の馴染みの一人。
松代様と冬様二人の話を聞いている限り、どうやら二人は知り合
いらしく。というか幼馴染?時々お互いの家に遊びに行くというの
だが、その際に話すことは専ら男についてだそう。
なんとも居た堪れない場である。
この二人が友人ということでなので、二人に関してはあまり下手
なことは言えない。
﹃冬、好きだよ﹄と言った日には、松代様が数日後﹃冬が好きな
のですか!?﹄と息をまいて私の元へやってくる。﹃松代が好きだ﹄
と言えば、数日後には冬が﹃松代が好き!?この前は⋮﹄という感
じで来て非情に大変な事になる。
遊郭とは実に三角関係⋮いや四角、五角関係が多発する非日常な
場であると改めて体感した出来事だった。
一つ成長しましたよ私。
﹁野菊様、女の嫉妬を舐めたらいけませんよ?﹂
﹁そう?﹂
﹁えぇ、そうですとも。恋敵を陥れるなんて恋する女の十八番なの
よ。たちの悪い女限定だけど﹂
﹁男を落とすのではなく?﹂
﹁女は不思議よね。男に自分の心の刃を向けたりしないの。真っ先
に邪魔になりそうな周りの女に刃がいくわ﹂
﹁君も?﹂
508
﹁私は、そうね。松代に対抗意識はあるわ。でも奴とは正々堂々と
勝負なのよ。それが私の刃の使い方。だから今回の夜桜の件に関し
ては私が出遅れたのが悪かったわ。まさかもう申請していたなんて
⋮。負けてられない!﹂
﹁君は⋮﹂
拳を握りながら明日の空を見つめる冬様の瞳はキラキラと輝いて
いる。
何もう超可愛いんだけど何この生き物。
と心の中で悶えながらも冬様の頬に意識が向かう。こんな時はあ
れだ。あれ。
私は隣に座る冬様の肩を抱き寄せる。
﹁やっぱり良い女だね﹂
ちゅ、
﹁あら、まぁあっ﹂
頬に接吻をされた冬様は、両頬に手を当ててコレでもかというく
らい目をまん丸にして叫んだ。
509
始まる 受難の日々2
﹁じゃあ野菊、風呂ゆっくりな。俺らは隣の脱衣所使って着替えて
るからよ。いつでも風呂から上がって脱衣所使って大丈夫だからな﹂
﹁はーい﹂
・
・
・
・
││チャプーン⋮
一人しかいない浴室に、水の滴る音が響く。
﹁はぁ。気持ちいー﹂
仕事が終わり、深夜も深夜。
この時間、広い風呂場を貸切状態で堪能するのが私の仕事後の楽
ぬる
しみとなっている。なんたって一人しかいないもんね。
お湯は若干⋮微温いけど。残り湯だけど。
﹁⋮疲れたな⋮﹂
独り言を呟きブクブク⋮と顔半分を湯に沈め、目を閉じた。
今日の一日を湯に浸かりながら振り返ってみる。
510
﹃女の嫉妬をなめたらいけませんよ?﹄
冬様の言った言葉が頭から不思議と離れない。
昼間に愛理ちゃんとの事があったせいなのだろうか。
女の嫉妬と言ったって愛理ちゃんが私に何かをするなんてあまり
想像できない。廊下での出来事も、嫌そうな顔を私に向けただけで
実害は無いし。
﹁⋮あーもう﹂
あぁぁ∼⋮。
でも本当なんであの時ゲームの通りの展開になっちゃったんだろ
う。
﹁あ、野菊さん﹂
一人頭を抱えモヤモヤしていると、ガラガラ⋮とお風呂場の戸が
開き可愛らしい声が風呂中に響いた。
﹁へ││⋮!?あっあい、﹂
けしてこれは返事では無い。
アイアイサー。とか言うつもりでもない。
私はびっくりして思わず二度見した。
﹁愛理ちゃん?あれ、外の銭湯⋮﹂
511
彼女は確か吉原を出て直ぐにある銭湯で入浴をしていたはず。
何故ここに?
﹁私、今日はこっちのお風呂なんです﹂
﹁そ、そうなんだ﹂ 頬に手を当てながら、ニッコリ笑顔で答えてくれる。
﹁じゃあ早く入ったほうが良いよ。寒いから﹂
﹁はい﹂
﹁うん、寒いから﹂
クソッ。なんだか気まずい。
思わず同じことを二回も言ってしまったではないか。
意識しているのは私だけだと思うけど、泣かれてしまった身とし
ては微妙な罪悪感がチクチクと胸に刺さっているのだ。
ガラスのハートかっての。
﹃あの私、今日はこのお風呂で﹄
﹃あぁそう。ならこっち来て入ったら。滑りやすいから手、貸して
あげる﹄
ふと、脳裏をある場面が過ぎる。
これはゲームの中にて、外のいつも野菊と愛理が使用している銭
湯が修理のため使えなく、仕方なく妓楼の風呂に入らなければいけ
なくなったという時の二人の会話。
512
予想できるだろうが、ここでまた野菊は犯罪に限りなく近い悪さ
をしてしまうのだ。
それは、
﹁あの、悪いんですけど⋮手を貸してもらっても良いですか?﹂
浴槽の近くまで愛理ちゃんが歩いてやってくる。
浴槽に入るのを手伝う、ということだろうか。どうやらまだ足首
が不安定らしく滑らないか心配らしい。
愛理ちゃんが私に向かって手を伸ばしてきた。
﹁え?あ⋮﹂
そう言われて立ち上がり手を差し出そうとするが、私の手は途中
でピタリと止まる。
手を、貸す?
もしここで手を貸したら、どうなるのか。
私の記憶じゃ野菊が手を貸した後愛理は、
﹃バシャンッ﹄
﹃う、わ⋮っぷっつだ、れか⋮っぷ、﹄
﹃簡単に信じて馬鹿みたい。苦しいの?﹄
野菊に手を掴まれたまま湯船へ押し込まれ溺れさせられてしまう。
これは凪風ルートでの場面なのだが⋮でも今、何故、どうして。
513
後にこれはタイミング良く現れた凪風にその場を見られ、野菊は
軽い仕置きを受ける流れになっていく。そして数日間主人公は凪風
に体調を気遣われたりとラブラブゲージを挙げていくのだ。
﹁⋮⋮﹂
というか⋮私色々なルートの場面を知っているみたいだけど、全
ルートを攻略してたの?どんだけやり込んでたんだ私。
と以前の自分に軽く突っ込む。
﹁野菊さん?﹂
ピクリとも動かない私に怪訝そうな顔をして伺ってくる。
今私が愛理ちゃんの手を取ったとしよう。 果たして何が起きるのか。
昼間に起きた様なことが起きるんじゃ?でも⋮。
﹁⋮っ﹂
私の体は頭ではまだ何も理解できていないはずなのに、愛理ちゃ
んの差し出してくる手を拒んでいる。
湯に浸かっていたはずなのに体が冷えてくるのは気のせいか。
﹁野菊さん!﹂
﹁う、ん﹂
でも一か八か、賭けてみようか。
手を貸したとして、私の意志に反して愛理ちゃんを溺れさせてし
514
まうようなことが起きるのか。
それに足首が不安定な女の子を無視する事など出来ないし。
止まっていた手を再び動かし、愛理ちゃんの手をしっかりと握る。
間違いが起こらないように。
ゆっくりと。
﹁ありがとう⋮え、わっ!﹂
﹁!?﹂
だが愛理ちゃんがこちらへ入ってこようとした途端、足を直前で
滑らせたのか、スローモーションのように浴槽側へ倒れてくるのが
分かる。
はぁ!?
慎重モードに入った意味無!!
﹁冗談じゃ、ないっ﹂
だが、そうはなるものかと私は腕と足に目一杯チカラを入れて愛
理ちゃんを反対側へ押し手を離れさせた。
中々指が離れなかったが思い切り振り払う。
﹁えっ!?﹂
愛理ちゃんの見開き顔が驚きに染まる。
よし。これで大丈夫。
と自分の中で頷くも、自分に起きた出来事に気づいたのはもう顔
515
が天を向いた時。
ぬめ
なんと湯船下の床の滑りに自分の足のコントロールを取られたの
だ。
や!ちょっ、こ、転ぶぅぅう!!
ツルッ
ゴツン
バッシャーンッ!!
﹁い、うぶっ⋮﹂
ガラッ⋮
﹁今の音なんだ!?すっげー音したぞ!!﹂
この声は羅紋兄ィさま?
というか、い、意識が遠のいて⋮。
﹁おい誰か来てくれ!!﹂
バタバタ
﹁愛理?お前何か俺に用事があったんじゃ⋮﹂
﹁今はそんな場合じゃねーぞ!﹂
516
﹁野菊!しっかりしろこのバカ!!﹂
すごく体を揺すられている。
頭も何か痛い。
ていうか馬鹿は余計だ馬鹿は。
私の意識はそれきりフェードアウトしていった。
517
始まる 受難の日々3
一方。
野菊が気絶という名の眠りに入っている中、周りの男たちは気が
気ではなく狼狽の色を隠せなかった。
﹁今の音なんだ!?すっげー音したぞ!﹂
元あった脱衣所とは別に、野菊の風呂に入る時間が少しでも早く
なるようにと仕切りを新たに作り、浴場の戸が無い反対側の脱衣所
で湯上り後着替えながらもゆっくりとしていた天月の遊男たち。
ある者は褌のまま床に寝転び、ある者は隠し持って来た酒を飲ん
で一服していたりと、早く部屋へ上がれば良いものの各々ダラダラ
としていた。
いくら屋内とはいえ空気が冷え冷えと身に染みる頃だというのに
褌一丁で誰もが平然と歩けるのは、体温36度前後の生き物たちが
密集して熱気がモワモワと空気中を支配しているせいであろう。
⋮これを客が見たら百年の恋も覚める。
だが途中、浴場から﹃ゴン!﹄﹃バッシャーン!!﹄という普通
では鳴りそうに無い音が脱衣場にまで響き聞こえてきたではないか。
其々好き勝手をしていた者たちはそのでかく響いた音に気をとら
れ動きが一時停止をする。
瞬きをパチパチと繰り返す朱禾が持っていたお猪口からは酒が少
し零れていた。
﹃お、おい、何だ今の音﹄
﹃⋮見てみるか?﹄
518
﹃野菊入ってるんだぞ馬鹿か!﹄
居てもたってもいられないもどかしさを感じながらも、男たちは
その場から動けない。
何故なら今、野菊が入っている浴場の戸を開けるのには皆少し抵
抗がある。最近⋮というかここ二年近く彼女とは一緒に入っていな
い為、今更だが﹃裸を見る﹄という事に戸惑いがあったのだ。
散々年頃になる手前まで見ていたというのに、ことさら見慣れな
くなるとどうしたら良いのか分からなくなるのである。
本当に今更であるが。
﹃でもなぁ⋮﹄
だがやはり心配だ⋮と仕切りの反対側へ行き、気詰まりを覚えな
がらも羅紋達がガラリと戸を開けて声をかけてみれば。
﹃⋮なんだありゃ﹄
空間に違和感がある。
彼らが目にしたのは長方形の木の浴槽に張ってある湯から﹃足だ
け﹄を出し上半身が沈んでいる誰かと、何故か手拭いを胸の前で握
り締めた裸の愛理だった。
?何故愛理が?
と戸に手をかけていた羅紋の脳内が疑問で一瞬埋まる。
確か吉原の外の銭湯を使っていたはず。こんな所で何をしている
のだ?と不思議に思うのは仕方がない。
しかし今はそんな事に気をとられている場合では無い。
519
この浴場に入っていたのは、今の状況を見れば愛理を除けばあと
一人だけ。野菊だったはず。ということはつまり、あの足だけ出た
奇怪なアレは⋮アレという事になる。
﹁⋮っ﹂
﹁痛っつ!えっ、おい清水!﹂
戸を開けている羅紋の後ろから顔を覗かせていた清水が、目を見
開きその血相を変える。途端、目の前にいる羅紋の肩を掴み後ろへ
押しのけ浴槽へかけ寄っていった。
﹁野菊っ﹂
誰よりも早く、速く、それはもう激しい嵐のように空気を揺れさ
せて。
まだ状況が良く飲み込めていない他の者からしたら何事だと思う。
またその速さに斜め横にいた凪風は驚き、それよりも少し手前に
いた蘭菊はビクリとした。
﹁兄ィさん⋮?﹂
清水は風呂上りに着ていた上質な紺の単衣が濡れるのも構わず、
ザブザブと湯船の中まで入って行き、溺れ沈んでいる彼女を横抱き
にして湯から引き上げるべく腕を突っ込む。
横には未だ裸の愛理が恥ずかしそうに立っていたが、気になど留
めてはいなかった。
﹁︱︱っほら野菊、しっかりするんだ﹂
520
ザバァッと水音を勢いよく立てる。
しかしその勢いとは裏腹に、壊れやすい硝子細工を持ち上げるよ
う大切にそっとその両腕に抱けば、必然的に腕の中にいる彼女、野
菊の顔が清水の目に入った。
﹁目を、開けてごらん?野菊﹂
まるで抱いた赤子を揺するように体を動かす。
呟きのような囁くような曖昧な独り言とも捉えられるその声には、
驚愕と当惑の調子がこもり、尚且つ、凪いだ海のような静けさが纏
っていた。
長く豊かな睫毛のある瞼は閉じ、陶器のような白い頬は当然、い
つもは一つに纏めている黒髪は濡れ水は滴り、流れるように頬へ張
り付いていた。
だがその黒髪とは別に頬に流れる色。
それを捉えた瞬間大きく見開かれた瞳は、スっと彼女の額へと向
けられる。
赤い液体が、縦に一筋。
ぞくりと心に慄然とするものを感じ、軽く鋭い戦きが足の先まで
伝うのが清水には分かった。
温かい者を抱いているはずなのに彼の体はヒヤリとする。美しい
花が手折られるかの様に彼女の手足はダランと重力に従い下がり、
薄く開いた紅の唇からは唾液ではない水が流れ落ちていた。微かに
息を認めるが、それでも野菊が無事であるという確かなものは無い。
清水は濡れた白い肢体を更にぎゅっと確かめるように抱き締めた。
521
﹁凪風、大量の手拭い持って来い!﹂
﹁はいっ﹂
後を追いかけて来た羅紋が清水の肩越しからそれを見て唖然とし、
悲鳴にも似た声で叫ぶ。
野菊の頭から血が流れ落ちていたのだ。ポツリポツリとそれは浴
場の床、清水の腕に滴っていき止まることを知らない。
これはうかうかしていられない。
その声に急ぎ洗濯場まで走る凪風に続いて、清水は足早に皆がい
る脱衣所へと野菊を運び、木の床へとそっと横たわらせた。
屋内とはいえまだ冷える。
誰かがクシャミをするのが聞こえた。
﹁清水兄ィさん、とりあえず冷えるし体を拭い⋮⋮⋮ってお前ら見
るな!散れぃ!﹂
野菊が着るはずだった単衣と手拭いをカゴから取り出し持ってき
た朱禾が近くに座り、ハタと気づいて声を出す。
今更だが野菊は真っ裸。いつもはサラシをして胸あたりを潰して
いるが、そんなものが今付いているわけも無く。野次馬のよう⋮と
は心配している皆には失礼だが周りには男たちが群がっている。裸
の娘の周りに、だ。
非・常識的なこの光景。
良からぬ事を考える輩がこんな時に限っていないとは思いたいが、
彼女のこの姿を見ている限りちょっと無理そうである。大人になっ⋮
﹁フゴっ﹂
﹁良からぬ事を考えたらどうなるか⋮分かるよね﹂
522
向かい合っている清水に何かを察知され顔面を拳で殴られる朱禾。
飛び上がる程に痛かったが、野菊の体感した痛さには到底及ばない
かと半ば冷静に拳を受けた鼻をさすさすと擦る。幸い鼻血なんても
のも出てはいない。
そして殴った当人は軽く拭いた野菊の体を藍色の単衣を被せて見
えなくする。頭から流れる血は一枚の手拭いで流れるのを抑えた。
﹁野菊大丈夫か!﹂
次にここへ来たのは楼主の龍沂だった。
﹁この馬鹿っ何度風呂で溺れれば気が済むんだお前は!しっかりし
ろ馬鹿!﹂
﹁おやじ様、どうして﹂
﹁蘭菊と宇治野に呼ばれてな﹂
﹁すいませんっ、遅くなりました。大丈夫ですか﹂
﹁羅紋兄ィさん!包帯と手拭いです﹂
凪風が両手にいっぱいの大量の手拭いと、懐に包帯の束を入れて
帰ってくる。
﹁ありがとうな。うし、手当始めるぞ⋮清水﹂
そんな凪風の頭をポンポンと撫で、彼からそれを受け取ると朱禾
に場所を移動してもらう。そして空いたそこには自分が座り、向か
いに手拭いで傷を抑えている清水の手を見て羅紋がそっとその上か
ら手を置いた。
﹁大丈夫だ﹂
523
﹁⋮あぁ﹂
友人の言葉にそう頷きながら、もう片方の手を野菊の白い頬に置
く。戸惑うような曖昧な笑みを浮かべながらも、顔に暗鬱な陰影が
かすめているのは隠しようがない。
﹁でも羅紋、怖くて堪らないんだ。またこの子を失う⋮か⋮⋮⋮⋮
と⋮⋮⋮?﹂
﹁兄ィさん?どうかしたんですか?﹂
まだほんのり赤みのある頬を撫でる清水の手がピタリと止まった。
瞳は彼女の方を向いたまま、まるで彼だけの時が止まったような
感じで動かない。つい先程まで感情が読み取れていたその顔には、
形容の出来ない妙な表情が浮かんでいた。
羅紋の斜め後ろにいた朱禾がその様子に不思議そうな顔をする。
羅紋はすでに治療に入っており会話には混じっていない。
﹁愛理、何があったんだ?﹂
﹁おやじ様⋮﹂
浴室の中から脱衣所の様子を覗き見ていた愛理に龍沂が気づき声
をかける。
﹁そういえば何で愛理がこの風呂使ってたんですか﹂
不思議に思っていた蘭菊が血で濡れた手拭いを桶水に浸けながら
聞く。どうやら疑問に思っていたのは羅紋だけではなかったようだ。
﹁今日銭湯が使えねぇからこっちだったんだコイツは。設備点検?
524
だったか?一日休みなんだとよ⋮。それで話を戻すが、ここで何が
あったんだ﹂
﹁それが⋮野菊さんがいきなり立ち上がったと思ったら、床の滑り
に足をとられたみたいで後ろに⋮そのまま﹂
﹁はぁ⋮﹂
龍沂の何年分かのため息が冷たい空気中に吐き出される。
﹁つーかお前早く単衣に着替えたほうがいいぞ。ここ男連中しかい
ねーんだから裸でいられちゃ、﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
いつまでも裸のままでいられても困るのでそう愛理に話を掛けた
蘭菊だが、当の相手からは反応が帰ってこない。
怪訝に思い彼女の顔を見れば、その視線はある一点に向けられて
いた。
﹁清水兄ィさん具合でも?﹂
﹁いや、大丈夫。でも何か⋮﹂
未だ意識が戻らない野菊の顔を見つめて、清水は顔を横に傾ける。
今度は不思議そうな表情をして。
﹁どうしました?﹂
グルグルと包帯を巻く羅紋の隣で野菊の傷の具合を見ていた宇治
野は、清水がいる反対側へ行き、近くに寄り彼の肩に手をかけた。
﹁野菊なら大丈夫ですよ。血は結構出ていましたが幸い針で縫うよ
525
うな傷ではありませんでした。偶然血が沢山出てしまう所に傷を付
けてしまったようです。ただ頭を強く打った様なので⋮﹂
﹁ちょっと待て宇治野!まさか愛理みたいに記憶飛ぶとか無いよな
?無いよな!?﹂
﹁落ち着いてください。俺だって心配なのですから﹂
手当をしながら話を聞いていた羅紋が手を止めて宇治野に詰め寄
った。
その様子を見つめている愛理に、龍沂は彼女を見て言う。
﹁蘭菊の言う通りだ。男の目があるから裸でいられちゃ困る。野菊
も宇治野があぁ言ってるんなら大丈夫だろう。今日はもう休め﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁愛理?﹂
龍沂にそう言われた愛理は、それに返事をすることはなく手拭い
で体を隠しながら向こう側にある脱衣所の方へと消えて行く。
﹁あれ、愛理って部屋に戻りました?﹂
﹁ん?なんだ、用事でもあったのか?﹂
それと同時に遊男の一人が愛理を探して龍沂の元へやってきた。
キョロキョロと辺りを見回して探している。
﹁いや用があるからと言うもんで、脱衣所近くで待ってたんですよ。
したら野菊があんなになってしまってたんで吃驚しましたわ﹂
﹁そうか。あいつなら今、ほれ。あっちの脱衣に向かったぞ。まぁ
526
後にしときな﹂
﹁そうですねぇ﹂
その遊男が脱衣所に向かい歩く愛理の後ろ姿を見て頷く。
﹁⋮⋮﹂
またそんな彼女の姿を、銀髪の青年が遠くから見つめていた。
527
始まる 受難の日々 4
最近はこんなことばかり。
一体何度倒れれば気が済むのだろう。
﹁ん、﹂
この前とのデジャブを感じながら目が覚める。
一番最初に目に入ったのは木造の天井。仰向けで寝ている私の場
所から見える陽の光の位置を確認し、窓のありかを計算すれば、こ
こは私の部屋だ。そしてこの覚めるような太陽光は夕日では無く朝
陽。真冬の陽が静かに部屋の中へ降り注いでいる。
⋮朝か。
仰向け状態、寝っ転がったまま額を右手で抑えこみ冷えた肌を温
める。
﹁はぁ∼﹂とため息を吐けばいつものように白い息は出ず。え?と
思えば若干部屋が温かい事に気がついた。
耳を澄ませばパチ⋮パチ⋮と音が何やら聞こえて来たので、目を
そちらに向けて見ると火鉢が私の寝ている布団の右隣に置いてある
ではないか。
なるほど、温かい原因はこれだったのね。
誰が置いてくれたのかな。
というか誰が寝かせてくれたのかな。
││ズキッ
痛ったい!!
528
頭がズキズキとして痛い!
頭の痛みに眉毛がぴくぴくと動くのと同時に、脈がドクドクとう
っているのが耳の奥に聞こえる。
そういえば私頭を打ったんだっけ?
打ちどころが悪いとかないよね。
血管切れたとかないよね。
頭に包帯みたいな物が巻きついている感覚がするけれど、こんな
ものを巻かなきゃならん程の傷でも作ったのか、おい。
冗談じゃないぞ。
このまま仕事なんて出来るかって。
と、危惧の念が伴わざるを得ない。
﹁大丈夫か?﹂
﹁?﹂
﹁気がついたな。良かった﹂
痛みと不安感に目を瞑り唸っていると、左横から声がした。心配
するような声が。
私以外の人間がこの部屋にいたのかと驚きビクリとし、そのお陰
で瞑っていた目を再び開く羽目になった。
誰だろう⋮と眉間にシワを寄せながら恐る恐る顔を反対側へグル
リと倒して視線を向ければ、
﹁心配したんだ﹂
はんてん
﹁⋮秋水?どうしたの﹂
秋水が単衣の上に袢纏を羽織った姿で、横にちょこんと鎮座して
いた。
529
首には手拭いを巻いている。
﹁どうしたって⋮聞いたんだよ蘭菊に。お前が頭に怪我したって。
相変わらずしょうがないやつだな、本当。いい加減お転婆も程々に
してくれ。安心して仕事も出来ないぞこっちは﹂
﹁蘭ちゃんが⋮﹂
蘭菊はすぐに人に喋るからな。
生理の時もそうだったけど。
﹃この馬鹿!﹄
そういえば私が気失う直前、私のこと﹁馬鹿﹂って言っていた奴
がいたな。
気のせいでなければ蘭菊の声だったような気がしなくもない。ハ
ラワタがちぎれるほどに悔しくて腹立たしい。あの野郎。
⋮ま、まぁ心配してくれていたのかもしれないけど。
﹁髪の毛、濡れてる﹂
﹁さっき風呂に入ったばかりだからだ﹂
あぁそうか。
昨日秋水は閨だったのね。
どうりでちょっと気怠い雰囲気をしていると思った。
黒に近い青い綺麗な髪が水気でしっとりとしている。
あ、水に濡れているから黒く見えるのか。じゃあ、風呂に入って
出たばかりということは今の時間は大体朝5、6時位。⋮?蘭菊お
前いつ教えたの。5時に客が帰るのに、お前5時にわざわざ起きて
話したのか。
530
﹁はは⋮﹂
どんだけ話したかったのだ、と少々苦笑いで乾いた声を出してし
まうのは仕方がない。
﹁チャッピーと護は?﹂
﹁チャッピーならそこで寝てる。護は分からない。猫は基本自由だ
からな﹂
指で指された方を見れば、火鉢の裏側にある座布団の上に布を被
さりながら温々としている蛙の姿があった。
もはやアイツは人間だと思う。
しかし護はやっぱり何処かへお出かけしていたか。
大体予想はついていたけど、多分他の花魁のところに入り浸って
いるのだと思う。
﹁お前、昨日の約束覚えているか?﹂
﹁昨日は⋮⋮あ、今日簪屋に行く約束、﹂
﹁今日は行かなくても良い。また今度行こう。急ぎじゃないからな﹂
﹁今度⋮か﹂
包帯に巻かれた頭を撫でながら安心させるような笑顔で言われる。
ちょっと申し訳ない。
秋水との約束は今も昔もほぼ守れていた事が少ない。大抵私が悪
いのだけどね。
寝坊したり、具合が悪かったり、出かけている場合ではない急用
ができてしまったり、他⋮etc。
531
今回はこんなワケだけれど、一緒に買い物か⋮。
﹃花魁の人と距離を│││﹄
私は心に気の滅入る魔物か虫かを飼っているような気分になる。
このまま皆と変わらずにいてよろしいものか⋮なんて。
私はあの時、風呂で愛理ちゃんの手を取った。あのままではゲー
ムの展開通りになるかも分からないし、何よりもう一度確かめたか
った。状況が似ているからと言って必ずしもその展開通りになるな
んて、そんなこと、ないと思ったから。
でも違った。
あともう少し自分の判断が甘かったらゲーム通りになっていたか
もしれない。
愛理ちゃんが湯船へ倒れそうになったとき、私は頭が真っ白にな
りそうだった。
反射神経良くて助かったよ私。
だがこれである程度分かった事がある。
このまま愛理ちゃんに関わっていれば、ほぼ80%か90%の確
率で私が意図せずして彼女を傷つけてしまう可能性がある。それは
精神面だったり身体面だったり。
何より花魁の皆と関わることで愛理ちゃんの不況を買うことにな
るのなら、その反動がどこかしらで出てくるかもしれない。
⋮そもそも一日の間に色々あり過ぎだと思う。
こういう事態は﹃あれから一週間∼﹄みたいなナレーションで始
532
まり事が起きるのが常で、起承転結もクソもない。
痼に触れられたように、楽しむことの決してない沈んだ気分がグ
ルグルと腹の中で回る感じがする。
﹁でも秋水、今日行ってきちゃいなよ。私のお金も渡すから、私か
らの分の簪⋮いや、それは自分で行くことにする。あ、ほら、行け
る時に行かないとさ﹂
﹁だから今度にしようって言ってるんだ。お前が行ける時に﹂
渋い顔をされる。
なんだか聞き分けのないお子様みたいに思われている感が否めな
い。
﹁だって﹂
﹁そんなに俺と行くのが嫌なのか?﹂
ワントーン低く沈んだ声で言いながら首を傾げてきた。
くぅぅ、そんな顔をしないで欲しい。
そんな今にも捨てられそうな、目の端を垂らして、秋水にしては
珍しい請うようなそんな、そんな。
﹁いっ嫌じゃない!嫌じゃない!全然嫌じゃない!何馬鹿言ってん
の馬っ鹿だなぁハハハハ﹂
寝ていた上半身を素早く起こして、秋水へ向かい大げさに両手を
ブンブンと振るう。
冬なのにヒヤリ汗が顔にふいてしまった。
﹁ハハハ、﹂
533
いや本当、今更そう簡単には皆からすぐに離れられない。
こうして遠ざけようにも、遠ざけられた本人が嫌な思いをしてし
まう。
た、多分。
こうさりげなく、さりげな∼く遠ざけることは出来ないものか。
それかこの際交友関係を広げてみるとか。
普段は花魁の皆とか兄ィさま達といることが多いから、飯炊きの
皆や新造の子達、花魁ではない遊男たちと沢山話したり過ごしてみ
るのも良いのかもしれない。それが多ければ多いほど花魁の皆との
時間はきっと減るし、約束事も他の皆との予定が入ればすることは
少ないだろう。
ため息をもう一度吐く。
晴れぬ気持ちが息と共に出て行ってくれれば幸いだが、残念なこ
とに変化は一ミリも無い。
﹁なら﹂
﹁うん、行くよ。傷が良くなったら行こう。こんな包帯巻いて街の
中なんぞ歩きたくないしね﹂
﹁あぁ。約束だ﹂
﹁うわ!でもどうしよう、今日私このまま座敷に出なくちゃいけな
いよね?お客に失礼じゃない?変でしょ包帯頭に巻いた花魁なんて。
取れないかな﹂
﹁大丈夫だ。そんなもん巻いていても様になってるから、客もいつ
もと違うお前が見られて嬉しいだろ﹂
﹁えーなにそれ。分かんない﹂
これで約束は最後にしよう。
534
◆◇◆◇◆◇◆◇
﹁頭はどうだ。やっぱり痛いか?まぁ痛いよな﹂
﹁たまにズキリとするくらいで、なんとも。傷はどんな感じですか
?﹂
﹁浅く切ったみてぇだから針で縫うほどじゃねぇぞ。でも出血が多
かったな。切ったところが悪かった。それに強く頭打ったのか、髪
の毛で見えねぇだろうが地肌見ると痣が酷い﹂
秋水が部屋から去った後。
一時間程でおやじ様が私の様子を見に部屋へとやってきた。
﹁おやじ様、すいませんでした。いくら不注意とは言えこんな傷を
作って⋮。仕事に支障が出るようなことを﹂
﹁まぁなぁ⋮基本休みは取れねぇ仕事だ。お前が作りたくて作った
傷じゃねぇ事は分かってる。昔っから危なっかしいからな﹂
﹁あ、アハハ﹂
おやじ様は今私の傷の具合を見てくれている。
聞けば傷は幸いそれ程でもなかった様で安心した。不幸中の幸い、
悪運強し、だな。
それなら包帯を取って仕事をしても良さそうだ。そこの部分が瘡
蓋になってくれるのであれば、あとは自分の治癒力に任せるしかな
い。
535
﹁いいか、本当に頭が痛くて無理そうだったら直ぐに座敷の新造に
言え。下がらせてやる。馴染みではない客が来たら相手はしなくて
もいい。花魁はそうしても良い権利があるからな。馴染みの場合は
そうはいかんが﹂
﹁おやじ様ありがとうございます。でも良いんです。私は皆より我
が儘を聞いてもらっていますから。仕事を休めない他の遊男達に顔
向け出来ません﹂
ただでさえも、閨が出来ないポンコツな遊男の私。しかもそんな
奴が花魁。
いくら芸事が出来、何十の手管を取得していようとも埋められな
いものがある。そんな私を花魁にしたおやじ様もどうかとは思うが、
それを受け入れた私も私だ。
﹁でもなぁ﹂
おやじ様は困ったような顔をする。
引き結ぶ口の横のシワが少し増えた。
﹁凪風です。入ります﹂
﹁清水です。おやじ様、野菊失礼します﹂
おやじ様との会話がちょうど途切れた瞬間、空間を裂くように戸
を開けて二人が現れる。
あらま、世にも珍しい組み合わせだ。
この二人が並ぶなんてあまりなかったような気がする。
どっちかと言うとやっぱり秋水・清水兄ィさま、凪風・羅紋兄ィ
さまのコンビかな。見かける率としては。
しかし二人して一体どうしたというのか。
536
⋮あ、お見舞いか。
清水兄ィさまは火鉢の隣に、凪風はおやじ様側に座り込む。
途中眠るチャッピーに気づいた兄ィさまがクスリと笑う姿が見え
た。
﹁なんか珍しい組み合わせですね﹂
﹁ちょうど廊下で出くわしたんだよ。向かう場所は同じだったみた
いだから一緒に、ね﹂
﹁あのさぁ野菊、何で転んだの?﹂
単刀直入に聞くけど的な感じで凪風に質問をされる。
聞いてどうするんだそれを。
おやじ様の隣に座ったそんな彼はジーッと私を見てくる。
労わる気は無いのかちょっとは。
﹁?愛理ちゃんの手を取って⋮ほら、足がまだ不安定だったみたい
でさ。手を貸してたんだけど、やっぱり倒れ込んできちゃって﹂
﹁で?﹂
いや、で?って。目が据わっているよ怖い。見舞いする人って普
通病人労わるよね。職質?職質何ですか?
見舞いでは無いということですか。
﹁めいっぱいそれを押し返したら、今度は自分が転んじゃったよ。
あっはっは﹂
﹁全く馬鹿だ││あ⋮ん?﹂
﹁そう⋮﹂
537
何かを納得した凪風の隣で話を聞いていたおやじ様が首をかしげ
る。
﹁│││おやじ様。生意気を言うようで悪いですが﹂
﹁ん?どうした清水﹂
﹁愛理をあまり遊男に近づけさせないでください。ただでさえ裏方
がこの階に来る事や遊男との馴れ合いには危ないものがあります。
それにあの子は女です﹂
﹁あの兄ィさま。ちなみに私は、﹂
﹁何かを勘違いされて困るのは誰でしょうか﹂
ちなみに私は一応女です。
なんて言う冗談も隙もなくそう言い切る。
彼女を遊男に近づけさせるな?
まさか兄ィさまがこんな事を言うなんて予想外だ。愛理ちゃんと
の関係は少なからず悪いものでは無かったと記憶しているが、違っ
たのか。
言いたいことはうっすらと理解出来るけれども、一体兄ィさまの
中で何があったのだろう。
今の話の中で愛理ちゃんが私や皆に何かをしたなんて特に何も言
ってはいないのに。
﹁では、これで私は失礼します。⋮野菊﹂
﹁はい﹂
﹁座敷ではしっかりね。また来るよ﹂
え、また来るのですか。
538
固まる私に手を小さく振りながら退室していく。
この部屋に来てまだ10分も経っていない。
もしやそれを言うためだけにわざわざここまで来たというのか。
部屋に残っているおやじ様はそんな兄ィさまを見て小さくため息
を吐いた。
﹁あぁ言われてもなぁ﹂
﹁僕もそうした方が良いと考えています﹂
﹁えぇぇ!!?﹂
ギュンと首を思い切り彼の方に向けて大口を開けてしまった。
今日一番の吃驚だよ。
愛理ちゃんの事好きじゃなかったのかよお前。
それか他の遊男達に取られるのが嫌だから来て欲しくないとか?
それならまぁわからなくも無い気はするけど。
﹁もともと女が働いてはいけないと言う理由はありませんが、ほと
んどの妓楼が女を雇わない理由は分かっていますよね、おやじ様も﹂
﹁そりゃな﹂
﹁彼女も年頃です。少し気をつけた方が良いかと﹂
事の成り行きをオロオロと見守る私の手は、意味も無く宙をさ迷
う。
そもそも愛理ちゃんが皆との関わりを断つということが出来るの
か。
もう彼女は誰かに恋をしてしまっているし、どんな形にせよ皆と
関わってしまうだろう。
539
私が体感したゲームの強制力的な無理やりな何かが起きると考え
てもおかしくはない。
この小さな妓楼という世界の中にいる限り。
﹃あはは、ノギちゃんは││﹄
きっと昔の、記憶を無くす前の彼女だったならこんな事を言われ
てしまう事にはならなかったかもしれない。なんて思うのは、昔の
彼女が恋しくなったせいだからなのだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆
﹁まぁ野菊様!その頭はどうしたのですか!?﹂
﹁ちょっと⋮転んでしまって﹂
今日のお客様は松代様。
部屋へ案内された彼女は私を見て開口一番にそう叫ぶ。
﹁そんな、ちょっと、まぁ!﹂
﹁あはは⋮ごめんね﹂
﹁横に!横になってくださいまし!﹂
﹁え﹂
540
膝の上をポンポンとされながら言われる。
いや﹃ポンポン﹄ではちょっと表現は甘い。
ベッシベッシ!と手のひらが赤くなりそうな勢いで自分の膝を叩
いている。
鬼気迫るような。
﹁それはえっと⋮﹂
﹁膝枕、ですわ﹂
ベッシベッシ!
はい。大体予想はついておりました。
未だ真剣にバシバシと膝を叩いている松代様。
﹁そ、それはできないよ松代﹂
﹁好きなお方に膝枕をするのは、女子の夢なのです。たまには私に
貴方様の身を預けて欲しいですわ。我が儘を聞いてくださいまし﹂
地味に焦る私が首を振り断れば、我が儘とは言えない我が儘を言
われる。
この人ホントに欲があまり無い人だなぁと常々思う。
最初の頃は﹃閨をさせてみせる!﹄と息をまいていたというのに、
⋮いやそれは今も変わらないが。
要求が至ってシンプルなのだ。
え、これで良いの?みたいなやつばかり。
﹁松代は、それでいいの?⋮俺が言える事ではないのだけれど﹂
﹁うふふ。以前は他の妓楼に通っていたのですが、何故かあまり私
541
の気性には合わなくて。やりすぎというくらい私に愛を囁いたり尽
くしてはくれるのですがどうも⋮嬉しいのには変わりないのですが﹂
﹁野菊様は、何と言うかあまり、好意を全面的に出すことは無いで
しょう?閨こそはありませんが、ふとした瞬間に心に一歩入って一
粒の愛を伝えてくださる。芸も見事で、義務では無く私との時間を
楽しんでくださっていることが少し分かります。吉原に来る女は大
抵の者がこれは恋のごっこ遊びだと自覚しています。しかしながら
⋮ごっこ遊びだとは分かっているのですが、この野菊様との微妙な
線のやりとりが楽しくて仕方ないのです﹂
綺麗な笑顔が咲く。
そんな言葉は私にはもったいなくて、眩しかった。
恋のごっこ遊びだと彼女に言わせてしまった自分が不甲斐なくて。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そんな自分に意気消沈した日の夜。
﹁わぁっ、たったかい高いぃ!!﹂
542
お願いです神様。
こんな場面愛理ちゃんに見られませんように。
だって見られたらお終いな気がするのです。
お願いだから私なんかに構わないでください本当。
⋮後生ですから。
﹁背は伸びても相変わらず軽いね。ちゃんと食べている?﹂
あははー軽いなーと笑いながら腕の上に私を乗せて部屋の中を歩
く清水兄ィさま。力持ちだ。
仕事を終えた私の部屋へと訪れた彼は、昼にした﹃また来るよ﹄
という宣言どうり、早速いらっしゃった。
明日とか明後日とかだと思っていたのに。
﹃夜遅くに失礼。座敷は大丈夫だった?﹄
﹃え﹄
そんなナチュラルな感じで戸を開けた兄ィさま。
吃驚して座布団から座ったまま動かない私の近くに来たと思えば、
やすやすと体を両手で持ち上げられ何かペットのように連れられた。
猫の扱いに近い。
もっと言えば私の護の扱いに似ている。
よーし、ほらほらおいで∼⋮よいしょっと。みたいな。
﹁廊下に出るのですか?寒いですよ!?私、﹂
﹁くっついていれば暖かいよ。ほら星が綺麗だ﹂
持ち上げられたまま部屋を出てニ階廊下にある濡れ縁まで来る。
543
濡れ縁とはベランダのようなバルコニーのような場所で、まぁ胸
下くらいまである柵が有り、床が半分外に出ている感じの場所だ。
雨ざらしになっているからこのような名前になっている。
もう夜見世が終わった吉原の街は明るくなく、そんな場所で空を
見上げれば満天の星空が瞬いていてキレ⋮いやそんな説明がしたい
のでは無く、
﹁ん、⋮と﹂
﹁お、落ちてしまいますって兄ィさま!怖!あぶっ危なっ﹂
油断していれば予告なしにその柵の縁の上に乗せられた。柵は揺
れていないのに、船に乗っているようにユラユラと体が揺れる。
それに木がミシッといった音が聞こえたような気がするんだけど。
全然軽くないよ私。
ていうか、いい眺めかもしれないがここはニ階。
手すりもないのに何故こんなところに座らせるんだ。
不安定でしょうがないじゃないか。
安定のために掴める物と言ったら目の前の兄ィさまか、自分が腰
をかけている木の板にしがみつくしか出来ない。
そもそも手はガッチリと掴んでくれているから心配は無いのだけ
れど。
私と兄ィさまの身長差は、多分十五センチ位。
柵に座れば丁度兄ィさまの顔が私の顔と同じ高さになる。
下を向けば自分の腕が目に入った。
いつかのように手は握られたまま、離してはくれない。
というか離された寧ろ終わるぞ。
544
腰に回された左手は、私が落ちないように支えてくれている。
﹁ええと﹂
﹁大丈夫。離さないから﹂
あ、の。そうじゃなくて⋮。
なんか気恥づかしいのですが。
そう俯いていると頬に兄ィさまの手が添えられて、クィと前を向
かされる。
促されるように仕方無く前を見れば、近い距離には相手の顔があ
り覗き込むように瞳を見つめられていた。
﹁う、わ⋮﹂
間の悪いような心持ちと、体中にこみ上げてくるくすぐったい思
いに首が竦む。
いっいかん、いかん。と私も気を取り直し負けずに見つめれば、
星の光が兄ィさまの瞳の丸い夜空に映っているのが見えた。光瞬く
黒の輝きは、誰にも汚されない雄々しさが見え隠れしている。
するとそれに引き寄せられるように、もっと近くにと無意識に顔
が前に出てしまう。
そうすれば視界の上にチラついたお互いの黒い前髪がサラリと当
たりそうで当たらなくて、その感触にくすぐったくなった。
肩を揺らした私に目を細めた兄ィさまは、視線を左に反らすと、
新月のような淡くもの静かな笑みを見せる。
﹁このまま一緒に足抜けでもしてしまおうか﹂
﹁は、えぇ!?﹂
545
そしてそっと顔を横にずらし、耳元で内緒話でもするようにそう
言われた。
一瞬何を言っているのかわからなかったが、その意味を理解した
途端、私は素っ頓狂な声を上げ金魚のように口をパクパクと動かし
ていた。
﹁それは、じょ、冗談ですよね﹂
﹁ちょっとは怖く無くなった?﹂
やや?怖がらせないためのホラを吹いただと?
この花魁様は全く⋮。
冗談にしてはタチの悪い。足抜けとは遊男がこの遊郭、吉原から
脱走するということ。
なんともない事のように言うから恐ろしい。
仕返しとばかりに兄ィさまの肩をバンバンと叩く。
﹁もう兄ィさま!﹂
﹁まぁまぁ。本気でこんな事言わないから安心して。逃げ続けるだ
けの人生なんて野菊には似合わない﹂
そう言って頬から手を離し、私の両脇の下に手を当てると、
﹁だっから高いですってぇぇ!!﹂
﹁ふふ、高いたかーい﹂
なんか笑顔で高い高いをされた。
546
◆◇◆◇◆◇◆◇
ギシ⋮
歩く足に踏まれた木の軋む音が廊下に響く。
﹁貴方は何か知っているんですか﹂
清水の部屋の前で立っていた凪風は、今しがたこの夜更けに部屋
へ帰ってきたその男を見て怪しむような視線を向けた。
対する清水は凪風が何の事を言っているのか分からない様で目を
パチクリとしている。
﹁吃驚したな。何か知りたいことでもあるのかい?﹂
﹁じゃあ質問を変えます。愛理を近づけないようにおやじ様に言っ
た理由はなんですか﹂
﹁それは⋮昼間に言った通りの理由だけど。けれど別に愛理が嫌い
なわけではないからね。気をつけた方が良いんじゃないのかと思っ
ただけだよ﹂
547
﹁あぁでも、野菊が怪我をして、浴槽の隣でただ立っていた彼女を
一瞬見て初めてこう思ったんだ﹂
﹃ ﹄
そう心の奥で。
自分だけれど、自分ではないような声が。
﹁なんてね﹂
それだけ言うと清水は自分の部屋へ入っていく。
部屋へ入る瞬間、横目で凪風を見て何かを思案し少し彼が気にか
かるようだったが、もう夜も遅いため茶に誘う事はしなかった。
そして廊下に一人残された凪風は、もう古くなった木の床を見つ
めて静かに佇んでいた。
表情は穏やかなのに彼の右の握り拳には力がこもり、只々力が入
いま
るばかりだった。
むかし
﹁だから前世も来世も、僕は貴方に敵わないんだ﹂
548
始まる 受難の日々 5
二月に入り、寒さのピークも過ぎようとする頃。
おそよう
ございます。だろ﹂
﹁十義兄ィさま、おはようございます!﹂
﹁お前らの場合は
﹁あっはっは、言えてるな。野菊さん、おそようございますー﹂
﹁利吉さんまでそういうこと言う!﹂
起床し食堂へと向かえば、朝餉の良い香りが漂っている。
飯炊きの人たちが遊男たちのために毎朝早くから仕込みをして、
美味しいご飯を提供してくれているのだ。十義兄ィさまが調理場に
立つ姿も何年もすれば見慣れたもので、一日の始まりにこうして食
堂で会う事が楽しみになっている。 未だに呼び方は﹃兄ィさま﹄だけど、そのほうが良いと言ってく
れているので躊躇わず呼ばせていただいています。
﹁朝飯は魚でお願いします﹂
﹁あいよ!﹂
ご飯のお供が今日は魚か山菜なので、私は魚を選択し空いている
場所に座って出来上がるまで待つ事にする。
食堂を見渡せば私以外には三人ほどしかいなく、まだ起きている
人は少ないようだった。
⋮まぁ、それを狙ったのだけれど。
549
﹁あの兄ィさま、お一人ですか?﹂
﹁うん?一緒に食べる?﹂
﹁はい!﹂
座りながら広い畳の上で足を伸ばしてブラブラしていたら、禿の
子に声を掛けられた。後ろから声を掛けられたので、振り向いて一
緒に食べようと誘えば元気な返事が返ってくる。
一人でのご飯は寂しいとちょうど思っていたので嬉しい。
﹁となり、失礼いたします﹂
﹁はいどうぞ。あ、ほらほら、足痺れちゃうから伸ばしな?﹂
正座で座り出したので、自分の伸ばしている足をブランと見せな
がらそう促す。
﹁兄ィさまは山菜ですか?おさかなですか?﹂
﹁私は魚だよ。睦月は山菜でしょう?﹂
﹁えへへ、お野菜大好きなので﹂
この子は梅木より三年あとに入って来た男の子。名前は睦月。一
月に産まれたからこの名だと言う。
引込み禿では無いが、毎日一生懸命芸事を習い励んでいると他の
兄ィさま達からは聞いていた。
朱禾兄ィさまの下についており、良く一緒にいる姿を見かける事
がある。
既に他の花魁の下には違う禿や新造が沢山いる為、花魁の次に稼
550
ぎが良い者が基本は禿を受け持つ事になっており、花魁では無いが
次に稼ぎの良い朱禾兄ィさまにつくのが良いという事になったのだ。
お分かりだろうが、もちろんあの蘭菊の下にも禿や新造がついて
いる。時間になれば其々に指導して一人前になるまで面倒を見るの
が基本。
禿や新造が成長する過程において、大量のお金が必要になるのだ
が、それを負担するのは妓楼では無く兄遊男なのである。
日々の食費や支給されている単衣などは関係無いのだが、稽古で
使用する三味線や箏、筆などは兄遊男から与える事になっており、
新造が一人前の遊男になる際の費用も着物から何まで全部兄遊男が
出す。
なので、禿や新造をこさえるという事は、並の遊男には出来ない
ことなのだ。
ちなみにおやじ様が﹃着物を仕立てる﹄と言い出す時は、それは
おやじ様がしたいからしているとの事なのでその分の費用は妓楼側
で出していると言う。
私の時は花魁の兄ィさま三人が出してくれていたようなので、三
分割だったらしい。
昔よりも禿や新造の数が増えているのか、こんなに妓楼に人がい
るのは初期の頃以来だとおやじ様が言っていた。
確かに私が入った頃は禿も私を含め四人しかいなく、その四人が
引込みになる前に他の禿を見つけるのに苦労していたからな。
他の妓楼も禿は一人二人と聞いていた。
それなのに今はどこの妓楼も禿が五人以上は必ずいるという。
551
世の中は一体どうなっているのだろう。
ゲームではそんな妓楼や吉原の事情なんて詳しくやっていなかっ
たからよくわからない。
そして三月になれば私の下には梅木以外の新造、禿が付く。
新しくまた入ってくるのだ。
それまでは他の花魁の者の下の面倒を手伝う事になっていて、こ
の睦月にもついこの間書道を教えたばかり。
上の花魁と一緒に教えるのでは無く、自分の部屋へと呼び指導す
る。やっていたことは私が小さい頃していたものと同じだ。だが違
うのは、引込みではないので座敷には出てもらうし、客とは必要と
あらば話すという点。
ぶっちゃけ引込みより色々先にデビューさせられるので、この子
達には心の準備も暇も無い。
﹁おぅい、出来たぞー野菊。取りに来い﹂
﹁わー﹂
﹁睦月は山菜ほらよ﹂
﹁いただきます!﹂
渡し口から受け取り、早速正座をして行儀良く食べる私。胡座を
かいても良いのだけれど昔ちょっと注意されたのでやめている。
睦月はいつも通りに正座で食べ始めていた。元から行儀が良い子
だけど立派だと思う。
私なんてどう楽に出来るかしか考えていない。
﹁えっらいなぁ﹂
﹁兄ィさん﹂
552
感心しながら煮干の出汁が効いた味噌汁をズズ⋮と味わっている
と、声を掛けられトントンと肩を叩かれた。
﹁野菊兄ィさん、おはようございます﹂
﹁あら、梅木おはよう﹂
お膳を両手で持った梅木にニコリと眩しい笑顔で朝の挨拶をされ
る。
笑顔もそうだが金の髪もキラキラと眩しい。
﹁隣良いですか?僕も今から飯なんです﹂
﹁構わないよ全然。梅木は魚?﹂
﹁えぇ。兄ィさんと一緒ですね﹂
彼のクルクル金髪だった髪は、年が経つにつれ落ち着いて来て緩
いウェーブになってきた。
﹁梅木さん!おはようございます!﹂
﹁はは、元気だなぁ。睦月おはよう﹂
小さなお口をこれでもかと開けてすごくハキハキと挨拶をしだす
おチビちゃん。ほくほく顔で、こちらも瞳のほうがキラキラと眩し
い。
睦月はどうやら梅木に憧れているらしく、いつか梅木のような新
造になるのだと目標を立てているらしい。
今現在引込みが梅木だけなのもあり、特別感漂う引込み新造の彼
に憧れているようだ。もちろんそれだけで憧れているのではなく、
厳しい稽古もこなすし梅木の落ち着いて華のある煌びやかな舞はお
やじ様のお墨付き。
553
人柄も、接していて分かるが優しく真面目で良い子だ。
⋮今更だけど、こんないい子が私︵と秋水︶の下に付いているな
んて逆に申し訳ないくらい。
そんな良い子の梅木は、お膳を私ら二人の前に置くと睦月の頭を
ポンポンと撫でる。撫でられた方は嬉しいのか目がウルウルし頬が
赤く高揚していた。
もう可愛。
﹁ふふ、睦月照れてる。しかし梅木はいつも朝早いよね﹂
﹁まだ仕事と言う仕事はしていないのでしょうがないです。それよ
り野菊兄ィさんがこの時間に起きていることが不思議です。眠くは
無いのですか﹂
﹁ちょこっと眠い﹂
﹁毎日朝餉を一緒に食べれる事は嬉しいのですが、体は大切にして
くださいね。ただでさえも兄ィさんはいきなり倒れる事がおお⋮﹂
﹁う、梅木ぃ∼!﹂
箸を茶碗の上に置いて、向かいにいる梅木に抱きつき頬をスリス
リする。
﹁そんなにしっかりしちゃって、もうっもうっ﹂
﹁兄ィさん。頬っぺが痛いよ﹂
本当に私の︵と秋水︶下に付いていて申し訳ない位良い男だよ!!
良いんですか神様!?
﹁寧ろ兄ィさんが良いのです﹂
﹁お?﹂
554
﹁良い男なんて、僕はまだまだですけどね﹂
﹁口に⋮﹂
﹁はい。今思い切り出していました﹂
神様。
お早い回答をありがとうございます。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから30分後。
﹁ふぅー。食べた食べた﹂
﹁結構お腹にたまりますよね﹂
﹁うん﹂
山菜だった睦月は早く食べ終わり、部屋に戻っていった。戻ると
言ってもきっと直ぐに朱禾兄ィさまの所へ向かうだろうが。
私と梅木は今しがたご馳走さまである。けしてペースが遅いわけ
では無く、山菜と魚の量の違いが半端ないだけだ。
完璧ベジタリアンか肉食派に分かれる献立だったよ。
お膳を片付ける前に一服しようと思い、食堂にあるセルフのお茶
を二人分入れる。自分がやりますよ、と梅木に言われたがここは兄
として振舞わせてもらった。
温かい緑茶が身体に沁みて良い感じ。
555
﹁最近は禿や新造たちといることが多いですね﹂
﹁みんな可愛くてね∼﹂
お茶の香りとホカホカさに目を瞑りまったりとしながら世間話を
し始める。
世間話と言っても規模は狭いけれど。
正式名称を付けるなら妓楼内燐話とかだろうか。
﹁あの、踏み込んだ事を聞くようで悪いのですが﹂
﹁うん?﹂
コホン、と喉を鳴らして彼は言う。
﹁兄ィさんたちと喧嘩でもしたのですか?﹂
・・・。
﹁喧嘩?いや喧嘩なんてしてないよ。ただ、禿や新造達ともたまに
は交流を深めないと﹂
﹁でももう一ヶ月位経ちますよ﹂
﹁何が﹂
﹁花魁の兄ィさん達と野菊兄ィさんがあまり一緒にいるのを見ない
のが、です﹂
556
﹁飯だってワザと時間をずらしていません?﹂
な、中々手厳しい子だこと。
そんな事まで分かるのか。
あれから一ヶ月。梅木の言う通り、私は皆との飯の時間をずらし
ている。
とは言っても皆バラバラなので、そこは上手く調整しないといけ
ない。
食堂に行って花魁の誰かがいようものなら部屋に回れ右をするか、
食堂にそのまま入り直ぐさま他の遊男の所へ行くか、一人で食べる
かである。
声をかけられてやむ無く一緒に食事をすることがあるが、その場
合はご飯をマッハで口へと掻き込み早く食べ終わらせる。無言で隣
に座って来る事もあるので、その場合はもう寛然している。
やりすぎも良くない。だが部屋に帰った場合も油断出来なく、飯
を誘いに誰かが訪ねて来る事があったので、
﹁お腹空いてないんだ﹂
﹁い、今お馬で調子が﹂
﹁食べてきちゃったよ﹂
とたまに女の事情を持ち出してまで理由をつけて断ることがある。
非常に情けない。
そうして皆といるのを防いでいるけれど⋮。
やはり露骨すぎるだろうか。
﹁でもこの間は珍しく一緒に秋水と私と稽古したでしょう?﹂
557
﹁それはそうですが﹂
﹁いつも一緒にいるわけではないから。前が一緒に居過ぎただけだ
と思う﹂
そんな私の答えに納得しているのかしていないのか⋮まぁ後者だ
ろう。
眉間に皺を寄せながら﹃そうですか﹄と彼は頷く。
﹁そのかわり愛理さんを良く見るようになったので、なんだかこう﹂
﹁こう?﹂
胸を抑えて苦しげな顔をしだす梅木。
どうした梅木!!
﹁こう、父と母が分かれてしまう前兆を感じた息子の気分になって
しまって⋮﹂
どんな気分だよそれ。
分かる事は分かるけれども。
たった四歳しか離れていないよ私たち。
梅木の発言に遠い目をする野菊であった。
558
始まる 受難の日々 6
﹁お待ちどうさまです!﹂
桜色の髪がヒラヒラと踊る。
﹁お∼ありがとうよ﹂
﹁女子がいるとやっぱり違うよなー﹂
食器を片付けに行こうと梅木と共に立ち上がれば、調理場の方か
らそんな会話が聞こえてきた。
横にいる梅木の表情がまたもや険しくなる。
﹁何ですかあれは。兄ィさんだって女だしー?﹂
﹁そこなんだ﹂
唇を突き出しブーブーふてくされている弟子をたしなめる。
彼のこんな態度は滅多に無いので貴重。
目に焼き付けておかなければ。
﹁ニ階を立ち入り禁止にした意味はあるのですか﹂
﹁んー。でもおやじ様も妥協した方かな?本人にやる気が漲ってち
ゃ押し返せないと思うし。向上心溢れる人の邪魔は出来ないよ﹂
﹁別に、分からなくもないですが⋮﹂
おやじ様に清水兄ィさまが主張したことは守られた。
愛理ちゃんだけでなく、下働き全員はニ階には立ち入り禁止。遊
男とはあまり関わらないようにしたのである。
559
│││しかし、だ。
立ち入り禁止令が出た一週間後、愛理ちゃんが食堂で働き始めて
いた。
詳細は不明だが、他の遊男からの情報によると、色んな仕事をし
て役に立ちたいと言う愛理の熱意におやじ様が負けて飯炊きの仕事
につかせたらしい。
主に食器洗いだそうだが⋮おやじ様って意外と女子に弱いのかな。
二階を出入り禁止にしたことで安心し、食堂で働いたとしても遊
男と深く関わる事が無いとは言えないという事実に気づかなかった
のか。
そもそも食堂と言わず立ち入り禁止で区切れない一階全体で、し
ようと思えば交流出来てしまう時点であまり意味は無い。
凪風が助言したらしいが、奥で皿洗いをするか飯渡す位なんだか
ら心配はねーよ。と言い切られた様で。
まぁ別にそれ事態は構わないのだけれど、ちょっと困った事が。
食堂にいるという事は、少なくとも一日一回は自分が利用する場
にいるということ。
つまり一日一回は会うということ。
避けられないじゃん。
となれば、食堂で一緒に花魁の皆と食べることは言語道断。
避けていても飯ぐらいは一緒でも良いだろうと考えていたけれど、
愛理ちゃんが食堂に居る。
見られる。
560
終わる。
私の人生が。
﹁ゴメン。私のお膳一緒に下げて貰っても良い?﹂
﹁はい。⋮わぁ、兄ィさんてキレイに食べきりますね。ご飯粒も無
いし﹂
そう言ってまじまじとお椀を見る梅木に自分の空のお膳を渡して
頼む。
愛理ちゃんがいない時間帯は大体わかっている。
遊男にしては早い時間に彼女がいない事は、三日早起きして大分
前に確信した。なので早起きをして愛理ちゃんがいない時間帯に食
堂へ行きご飯を食べるようにしている。
しかしやむを得ない時が少々あるため、その場合は食堂に花魁が
いようが愛理ちゃんがいようが開き直って食べている。
﹃諦め﹄に近い。
﹁ごちそうさまでした﹂
﹁はい、ありがとう。梅木くんはこれからお稽古?﹂
﹁大好きな野菊兄ィさんに一日ピッタリとくっついて教えてもらい
ます﹂
では。
とそんな会話が戸の近くでお膳を渡しに行った梅木を待っている
私の耳に届いた。
な、なっ何言ってるの梅木!
下手な事言わんで良いよ!
超嬉しいけどね!!
561
そう叫びそうな唇を横に引き結びポーカーフェイスを保つ私だが、
内心ビビっている。
﹁兄ィさん行きましょう﹂
﹁う、うん﹂
どこか清々しい顔で帰って来た息子に、逞しさと恐ろしさを母は
感じました。
﹁あ﹂
だが。
﹁?⋮ぅあ゛っ!﹂
さぁ行こう。
というところで、
﹁なんだよその顔と奇声は﹂
﹁蘭ちゃんこそ何その顔。お腹でも痛いの﹂
なるべく会いたく無い人物に会ってしまった。ちくしょう。いつ
もいつもタイミングが良いんだか悪いんだか。
機嫌の悪そうな顔をした蘭菊と鉢合わせてしまう。
﹁というか。寒くないのソレ﹂
﹁別に﹂
このアホみたいに寒い朝に羽織も着ないでうろつくなんて、風邪
562
でも引きたいのかコイツは。起きてから着替えもしなかったのか、
白の単衣のまんまだし。見ているこっちが寒くなってくるんですけ
ど。
それとは逆に赤い頭はボッサボサで炎みたいだ。
﹁もう飯食ったのか?﹂
﹁うん﹂
そう答えると彼は腕を組み、私と梅木の行く手を阻むようにして
食堂の戸に寄りかかる。
﹁⋮えっと﹂
いやあの、邪魔なんだけど。
というか早くない?いつもは後一時間位しないと起きてこないじ
ゃん。それに昨日は確か閨だったから、朝風呂に入っていたはずだ
し。まだ二時間三時間しか寝ていない筈。
よく見れば隈がうっすらと出来ている気も⋮。
大体、この時間に私が食堂にいるのだって皆の今までの様子を見
て計算して、今日のこの時間は誰もいない!と確信して食べに来た
のに。
そりゃ突然予想外に現れることだってあったけれども。
でも蘭菊が来てしまうなんて⋮。
もう一回言うけど、こいつ閨だったし。
﹁よし。⋮じゃあもう一回食え!﹂
﹁あい゛やぁぁぁあ﹂
563
何が、良し!なわけ馬鹿なのコイツ。
前から腕をガッと掴まれ、再び食堂へ入らせようと中へ引っ張ら
れる。悲鳴を上げた私に視線が注目した。
お願い見ないで!
大きな声を上げて本当にすみませんでした!!
見ないでください!
足の裏の筋肉を駆使して床に踏ん張る。
綱引きか。
﹁ええい離せチビ!﹂
﹁お前より背はデカい!﹂
﹁あっち行ってアホ、ハゲ、ガキ!もうぅぅっ﹂
見られてる、絶対見られているよ。
こんなぎゃースカ騒いでいたら嫌でも目に入っちゃうって。手を
引っ張っても引っ張っても⋮お?ちょっと動くぞ?いけるかもコレ。
蘭菊に掴まれた腕は別段痛くはない。
微妙な力加減で引っ張られているようだ。
さすが花魁。
相手への配慮がパーフェクト。
使いどころは違うと思うけど。
﹁離してください﹂
﹁嫌だ﹂
﹁え、何頬っぺた膨らませてるの。可愛くないんだけど﹂
誰このデッカイ子供。
564
﹁梅木ぃ︱﹂
﹁すいません。僕は蘭菊兄ィさんの味方なんです﹂
根返りやがった。
私側から奴側へと移動する梅木にガンを飛ばす。
どこぞのヤンキーかって位に、渾身の力を瞳に宿す。パァワァ∼。
ガシャンッ
パリン!
﹁きゃあ!痛いっ﹂
﹁どうした!?﹂
攻防戦を続けていると、調理場から愛理ちゃんの悲鳴が聞こえて
きた。
ついでに食器が割れるような音も。
﹁な、なんかお椀が割れていたみたいです。吃驚して落としてしま
いました。ごめんなさいっ﹂
﹁ありゃりゃ、手の平から血が出ちまってんな﹂
あ。
そうそう、あとコレ。
私が花魁の誰かと楽しく会話していたり仲良くしていると、最近
は決まって愛理ちゃんが怪我をする。
565
一体どうなっているのかは定かで無いが、悪役の私が仲良くして
いるということがいけないとでも言うように皆の注意がそちらに削
がれるのだ。
ただの偶然かとも思ったが、何回もそんなことが続けば私だって
色々考える。
そして考えに考えた結果そうとしか思えないのでちょっと怖くな
った。二階で不覚にも仲良くしてしまった時は何にも起こらなかっ
たけれど。
﹁またアイツ怪我したのか?お前よりドジだぜありゃ﹂
﹁私はちゃんとしてるんですー。ドジではないんですー。分かった
ならそこどいて私を通して愛理ちゃんの怪我でもどうにかしてやれ
馬鹿﹂
そう早口で捲くし立てて腕をブンっと振るうと、簡単に手が離れ
た。
﹁はぁ?何で俺が⋮﹂
﹁蘭ちゃんは優しいもん﹂
﹁⋮何で俺が﹂
ケッ。と文句を言いドスドスと足音を立てながらも、調理場へ向
かって行く蘭菊は紳士だ。
私は常に花魁組を愛理ちゃんの元へ送り込む事は忘れない。
そうすれば愛理ちゃんの恋を邪魔しているのではなく応援してい
ることにもなるし、愛理ちゃんにとっても好きな人が自分を気に掛
けてくれて嬉しい気分になると思う。
566
⋮とか言ってもその好きな人が誰なのかは全然わからないけど。
でもまぁ何はともあれ私が危うくなる可能性は確実に減るだろう。
愛理ちゃんの身の危険性も減る。
﹁蘭ちゃんは、優しいもん﹂
だが。
ぶっちゃけ皆の気持ちも考えないで、自分の保身を第一に考えて
いる私はつくづく嫌な奴だ。ゲームの中の野菊も嫌な奴だけど、私
も私で嫌な奴だと思う。自分の為になるならば周りがどう思おうが、
どうなろうが構わない、というような行動はきっとゲームの野菊と
そう変わらない。
﹁大丈夫か?思ったよりバッサリ切れてんじゃねーの﹂
﹁だ、大丈夫ですよ!﹂
﹁十義さんたちは仕事しててください。俺が見ますよ﹂
﹁えっえと、あの﹂
それになんだか蘭菊は愛理ちゃんと仲が良いみたいだ。
愛理ちゃんをイジって茶化している姿を一階の階段下で一週間前
に見たことがある。
﹁ねぇ兄ィさん﹂
﹁?﹂
蘭菊が渡し口から洗い場にいる愛理ちゃんに話しかけている姿を、
梅木は見る。
そして静かに息を吐きながら言った。
567
﹁兄ィさんはこれで良いのですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁兄ィさん?﹂
﹁││⋮自分でも分からないや﹂
おどけたように笑う私に心配そうな顔をしだした。
彼の言おうとしている事は分かる。
事情なんてこれっぽっちも話してはいないのに、こうも物事に対
しての察しが良いと、どうしていいのか戸惑う。察していると言っ
ても、愛理ちゃんとくっつけようとしている事とかではないと思う。
きっと、花魁の皆を避けている事に﹃良いのですか?﹄と聞いて
いるのだろう。
やはり避けていることはバレバレだったみたい。
いたたまれなくなり後頭部を利き手でガシガシと掻く。
﹁あの、ちょっと中庭に行ってくるね﹂
﹁分かりました﹂
﹁四半刻したら部屋に来て貰って良いかな﹂
﹁はい﹂
稽古の時間を取り付けて、中庭に続く長い廊下をそそくさと歩く。
ちょっと早歩きなのは気のせい。
私の急な話に動じることもなく普通に返してきた逞しい彼に、申
し訳ない気持ちと感謝の気持ちを感じる。
梅木はゲームにはいないキャラクターだ。
568
だからこうして私も安心して接している。
いざこざには巻き込みたくは無いが、今身近で一緒にいて安心す
るのは彼とか普通の遊男の兄ィさま達くらい。
兄としては大変情けない話だけれど。
遊男以外だったら十義兄ィさまとかだろうか。
﹁う∼さむっ﹂
凍えるような硬い空気が詰まる廊下を、息を吐いて両手を擦りな
がら進む。
アレやコレやと気が休まらない日々。
ちょっとしんどいというのが現状だ。
569
始まる 受難の日々 7
﹁最近、可愛い子に避けられているのだけど。どうしたものかと思
ってね﹂
﹁奇遇だな。俺も逃げられてる﹂
廊下の角。
右へ曲がればあと少しで中庭、という所で私の足はピタリと止ま
った。
良く知っている声が聞こえる。
﹁あ⋮﹂
壁に手をついて角から覗き見れば、縁側に腰を掛けて座る清水兄
ィさまと羅紋兄ィさまがいた。
こんな寒い中、何故縁側でまったりとしているのか。いや、来た
私も私だけど。
斜め後ろから拝見できる兄ィさま二人の横顔は憂い顔。誰がそん
な顔をさせているのだろう。
馴染みのいつものお姉さま方かな。
⋮ふ。
罪作りな女性たちだ。
﹁宇治野がとうとう三味線の弦をブチってしまっていたし﹂
﹁⋮すげぇな。あれ新品なんだぜ﹂
570
どうやら橋架さまもつれなくなってきたらしい。マンネリ化でも
してきたのかな。
停滞期みたいな感じ?
というか三味線の弦をブチるって何。
相当だなオイ。
﹁本当、どうしたものかな⋮﹂
中庭を眺めていた兄ィさまの視線が下に下がり、暗い影を落とす。
どうやら相当深刻な問題のようだ。
確かに馴染みにツンケンされてしまえば、もっと言えば来てくれ
なくなったら困る。まぁ花魁だから馴染みが一人というわけでも、
客がいなくなるというわけでも無いのだけれど。
だがもしそれが、好きな人だったならば。
そりゃ心にキますよね。
﹁アイツみてぇに沈黙しておくしか無ぇだろ。嫌がられても俺自身
嫌だしよ。まぁ、沈黙の域を超えるとあぁなるのが目に見えてるか
ら程々にするけどな。⋮だけどマジすげー﹂
何かに感心しながら、腰の横に置いてある白いお団子を一つ摘ん
で目の前に掲げる羅紋兄ィさま。
美味しそうだなあの団子。
﹁これでつれねぇかな﹂
﹁あの子を何だと思っているの﹂
団子で馴染みの気をつろうというのか。
571
花魁の意地はどこへ行った。
額を片手で抑え、清水兄ィさまが苦笑いをして呆れている様子が
伺える。
﹁分からなくも無い考えだけど﹂
あ、分からなくも無いんだ。
カタ⋮
﹁?あれ│﹂
清水兄ィさまには聞こえた様で、不思議そうな声を上げたあとに
こちらに振り向いてしまった。
心がズッコケたのと同時に体まで一緒に反応してしまった私は、
隠れている廊下の角の壁に激突した。
おでこが痛い。
ヒリヒリする額をさすりながら、兄ィさまから見えないように直
ぐさまサッと引っ込む。
そしてソロリ⋮と様子を伺うために中庭が見えるギリギリのとこ
ろまで覗き込む。
﹁⋮﹂
﹁清水?どうしたんだ﹂
コソコソと覗き見れば、数秒間兄ィさまの動きが止まっているの
が見えた。
私から三十度位ズレた所を見ながら固まっているようだけど。
572
どうしたのだろう。
﹁あぁ⋮。いや、﹂
隣からの声にそう答える。
そして目線を天井にやり数秒後。清水兄ィさまは膝に手を掛けて
縁側から立ち上がり、両手を上に掲げて伸びをしだした。
﹁羅紋。団子は置いて、もう食堂へ行こうか﹂
﹁嫌だ。団子は持っていく﹂
団子が乗っているお盆を自分の膝の上へと移動させる。
そらそうだよ。だってまだ丸くて白くてもちもちなお団子は、遠
目から見ても十個以上は残っているもの。
私だったら死んでも離さない。
焼きまんじゅうだったなら尚更だ。
﹁│││⋮置いていきなさい愚か者が﹂
地を這うような低い低い声がこの空間に響く。
顔が正面から見えないので分からないのだが、結構怖かったのだ
ろう。清水兄ィさまの団子放置宣言の威圧に、羅紋兄ィさまが若干
ビビっているのが見て取れた。
団子を持って行きたいというだけで愚か者のレッテルを貼られた
羅紋兄ィさまの心情や、これいかに。
﹁そ、んなに置いていきたいのか﹂
﹁一生のお願い、とでも言っておく﹂
﹁団子にそこまで命を⋮﹂
573
いや命は掛けてないと思うけど。 ﹁さぁさぁ行くよ﹂
﹁え、ちょ、おい﹂
手をパンパンと叩く清水兄ィさまに手を掴まれ引かれ⋮ううん、
引き摺られながら、私側では無いあっちの反対方向へと姿を消して
いく羅紋兄ィさま。
そうしてこの場に残されたのは、あのまだ食べて欲しいと訴える
お団子ちゃんと捕食者である私だけ。
ならば。
と、誰もいなくなった縁側に忍び足で近寄る。
お盆が置いてあるところまで行き、その場でしゃがんでまじまじ
と団子を見つめた。
近くで見たら、尚美味そうに感じてきてしまう。
いやいや、手を伸ばせば届く距離に私はいるのだ。周りには誰も
いない。食べてもよろしいのではないか。
キョロキョロと最後に周りを確認する。
﹁うっふっふ。いただきまうす﹂
カプリ。
うん、美味しい。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
あとがき。
574
野菊がいる所より、少し先の廊下の角から二つの頭が出ている。
色は黒と緑。
目線は、モグモグ⋮と自分たちが置いてきた団子にむしゃぶり付
いている少女に向けられていた。
﹃まぁでも。こんな楽しみ方もアリかな﹄
﹃⋮なるほどな﹄
もっちゃもっちゃ⋮と美味しそうに頬張る姿を見て、隠れている
二人は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
﹃ふふ、本当はこっちが飛びつきたいくらいなんだけどね。しょう
がない﹄
﹃あ∼あ。しばらく振り回されてみるかねぇー﹄
さぁ、手のひらの上で転がされているのは、果たしてどちらでし
ょう。
﹃あ、寝だしたぞ﹄
﹃お腹がいっぱいになったのかな﹄
575
りゅうびんおもて
始まる 受難の日々 8
私の自室。
畳は少し赤みの強い龍髭表縁付き畳。太陽の光に当てて出された
赤みは、其処らの畳の色と違ってくる。なんにせよ手間隙のかかる
高級畳だと言うことには変わりない。
部屋の広さは十畳程。
外を見渡せる柵が赤い格子窓は、戸を開ければ直ぐ目の前に見え
る。
夜になれば一番役に立つ少し高さのある点灯は、昼間は部屋の隅。
自分の着物をしまう花蝶彫りの高級箪笥は、あまり目立たせたくは
無いのでこちらも部屋の隅。自身の三味線や箏など大きい物は押し
入れに保管している。
テーブルなんてものは無く、読み書きの際に使う脚付きの四角い
台が申し訳程度にあるだけ。客への手紙を書く際に使う紙や筆、墨
は木箱に入れてその台の下に置いている。
そして家具の中でも一番のお気に入りである漆塗の黒い化粧台は、
窓からの太陽光を考えて逆光にならないよう格子窓の横に置いてあ
る。鏡付きのそれは化粧をする際には欠かせない。
﹁化粧に、何か秘密でもあるのでしょうか﹂
そんなお気に入りの化粧台の前に座っている緑黄の長着に身を包
んだ梅木は、この部屋の主である私へ唐突に質問をしてきた。
﹁秘密?﹂
彼はまじまじと絵の具のパレットのように並ぶ化粧道具を観察す
576
る。
﹁座敷だと兄ィさんが男に見えるのです。昼間は完全に女子としか
見えないのですが﹂
﹁あれま。最後のそれはちょっと問題だ﹂
未だ化粧道具を見つめる好奇心旺盛な弟子に、あらあら⋮と微笑
ましい気持ちになった。
チャッピー専用の壷に水を入れている私は横を向く。
青色の暖とりである火鉢は、パチパチと火の粉を噴いていた。
﹁男らしく見えるように、工夫は色々してるよ﹂
﹁た、例えばどんな感じでしょうか!﹂
化粧道具を見ていた彼は、私の言葉を聞いてサッと素早くこちら
に振り向いた。声が歌うように弾みだし、瞳が心なしか輝いて見え
る。
そこまで興味深々に聞かれてしまえば、ウズウズと話したくなっ
てしまうのは仕方が無い事だと思います。
壷の隣に置いてある座布団の上にて。
仰向けで寝こけているチャッピーの白い腹をプヨプヨと触りなが
ら、何から話そうかと思案する。
﹁ゲッ﹂
あ、ゴメン。強く押しすぎた。
﹁喉仏があるよう見せるために、首の真ん中に黒・茶・白を上手く
577
使って薄く影を作るのと、首が少しでも太く見えるように多少首の
両端を明るくしたりね﹂
﹁なるほど﹂
﹁顔に関しては少しまゆを太くするくらい。あと手は一番性別や年
齢が出やすいから、一番気が抜けない場所かな。常に力を入れて角
ばった状態でいないといけないから﹂
常に男としていないといけないわけだが、どう頑張っても所詮女
の体は女。どう見せなければならないのかは、兄ィさまたちを散々
観察して考えた。
首は皆やはり若干女性よりも太く、腕や手も骨張っている。
そして何よりも女の体は柔らかく、対して男は硬いというのが特
徴。
なので筋肉もつけなければと筋トレもした。
腹筋背筋上腕二頭筋。
休むな怯むな私の体!
と成長期十三歳、十四歳の年は日々肉体を精進し励んだ。兄ィさ
ま達のようなパーフェクトボディを手にいれる事が第一。目指すは
六つに割れた素晴らしき腹、美しい肉体。
人間最高。
と意気込んだのはいいものの。
﹃おっかしいなぁ⋮﹄
結局ムキムキにはならず。
まぁ硬くなったかな?程度で、マッスル期間は約二年で終わりを
迎えた。
果たしてダイエットと筋トレをやるならばどっちのほうが結果的
578
にマシなのだろうか⋮と挫折した直後本気で悩んだ事は記憶に懐か
しい。
ぶっちゃけ最終的にどっちも変わらないし、ダイエットも筋トレ
も同じもんだと気づいたのは大分後。
だがやらないより良かったと今では思う。
前にお客から﹃私、腕が逞しい人って素敵だと思うの﹄と腕をペ
タペタと触られ、その際﹃︵やばい︶﹄と焦り渾身の力を腕の筋肉
に入れてどうにかその場を凌ごうとした事がある。
もしこの裏を覗かれ暴かれていたら、張りぼても甚だしい奴だと
失笑されてしまうだろうな、などと一抹の不安と立ち直れない自分
を潜かに想像しながら唾を飲み込んでいたのは苦い思い出。
﹃あら⋮﹄
しかし、筋トレのおかげなのだろうか。
相当それは硬くなったらしく﹃少し細いですけど、硬い筋肉で素
敵だわ?﹄と思いの外褒められ難を逃れる、という幸福が舞い降り
て来たのは日々の私の行いのお陰だったのか。
備えあれば憂い無し。
とはまさにこういう事。
﹁普段はのんきにしているのに、やはり努力の賜物ですね﹂
﹁最初のはどういうことなの。褒められてるのか貶されているのか
分かんないんだけど﹂
頷きながら感心している彼に、至極真面目な顔で返す。
最近梅木が秋水に見えてしまうは気のせいなのか。言動が似てき
ている感じが否めない。私も共に教えているというのに何故なんだ。
579
私に似なさい良い子だから。
﹁でも梅木はそこまでしなくても十分男の子だからね。目尻に線を
引くとかで良いと思うよ﹂
そう言って化粧台の近くに行き、漆の小箱から筆を取る。目元を
弄りたいので、極小サイズの小筆をチョイス。
この世界の江戸時代には化粧の種類がたくさんある。色もそう。
どう作られているのかは甚だ疑問だが、ファンデーションのような
肌色の粉や、紫・緑・黄土色など色々と顔に彩りを与えられる物が
多い。まるで絵の具のようだ。
これだけ元の世界と人種も何もかも違えば、そんな点が発展して
いてもおかしくは無いなと頷ける。
膝立ちをして目の前に来た私を見て、梅木が嬉しそうな顔をしだ
した。
﹁やっていただけるのですか﹂
﹁お風呂ではちゃんと落としてね﹂
手を梅木の顔にかざせば、それが合図だと言うかのように自然と
瞼を閉じてくれる。
そんなちょっとした事に、心が何となくほっこりした。
まだ雄々しくない幼さの残る顔。
これが男に向ける言葉かどうかは個々の感じかた次第だが、花開
く頃が待ち遠しい、と染々思う。
艶やかな金の髪に碧い瞳、赤みのある白い肌を持つ彼は本当にお
580
人形さんみたいで。女の子だったならフランス人形みたいだなんて
称賛出来たのにな、などと些か本人的には失礼な事を考えてしまう。
﹁はい、目を開けても大丈夫﹂
﹁わぁ。引くだけで、意外とらしくなる物なんですね∼﹂
﹁だから化粧は﹃化ける﹄って文字が付いてるんだろうね﹂
梅木は化粧台に備わっている鏡に自分の顔を映すと、感心の声を
上げた。
施した私自身も満足の出来であると自負する。
⋮目尻にライン引いただけだけど。
小筆を小箱に置いた途端、何だか無性に手が寂しくなる。言うな
れば、口寂しい、と似たようなものだろうか。
手で何かを触っていたい気分。
掴める物でも何でも良い。
⋮あ、そういえば。
﹁チャッピーちゃーん﹂
ちょうどいい。
チャッピーのプヨプヨなあの素晴らしい腹があるではないか。柔
らかい弾力で指を跳ね返されるその腹。
ぷよんぷよん、プヨンプヨン。
あの感触を思い出すと堪らなく恋しくなり、手を伸ばせば掴める
距離にある座布団を自分の近くへズズ⋮と引っ張り寄せた。
スヤスヤと瞼を閉じて未だ眠る奴のピチピチボディ。
581
プニ⋮プニィ。
うむ。
やはり気持ちいい。
﹁その羽織は清水兄ィさんのですか﹂
﹁え?あぁ、うん﹂
ふぅ、とその気持ち良さに和んでまったりしていると、鏡に顔を
向けていた梅木が、ある場所を小さく指差し問うて来た。
梅木の視線を追えば目に入るそれ。
実は縁側で団子を食べた後、少し寝こけてしまった私。
外の空気に晒されているというのに、よく眠れたものだと自分で
も感心する。
時間はさしてそれほど経っていなかったものの、勢い良く起き上
がった時には既に身体を包み込むように被さっていた誰かの羽織。
誰かの⋮と考えるより前に誰のかが分かってしまうのは、その人
物が良く愛用して着ていた物だったから。
梅木が見て直ぐに分かるくらい。
﹁返しに行かなくてはですね﹂
﹁ゲコォッ﹂
またしてもチャッピーの腹を強く押しすぎてしまったようだ。
ごめんチャッピー。
﹁⋮そうだよね。返さなきゃ﹂
582
聞こうとする者の耳にしか届かない、消え入りそうな声でポツリ
と呟いた。
化粧台の横に皺にならないよう畳んで置いておいた、その唐紅色
の羽織。そっと手に取り持ち上げて眺めれば、微かに兄ィさまの香
りが届く。それと同時に隙間風のような寂しさが胸を通り抜けたの
は、きっと私の気のせい。
このゲームにはバッドエンドとノーマルエンド、ハッピーエンド
が存在する。
とりあえず野菊はバッドエンドだろうが普通エンドだろうが最悪
の事態を迎える事には変わりない。ハッピーエンドでは罰を与えら
れるし、バッドエンドでも罰を与えられる。
ノーマルエンドでも。
ではバッドエンドで野菊が罰を受けたというのに、何故主人公が
幸せになれないのか。
それは、ラブゲージが程々にしか上がっておらず中途半端で、か
つその後の選択をミスると相手の花魁が客に身請けされてしまった
りする事態が起きるからである。
また相手によっては、バッドエンドで吉原に大きな火事が起き、
そこで主人公を助けて死んでしまうという⋮何とも予兆不可能な理
由でエンディングを迎えてしまう事が。
このことから、野菊はただの話を盛り上げる為に作られたキャラ、
﹃当て馬﹄だと言うことが良く分かる。
ちなみに誰がどのバッドエンド、普通エンドなのかは分かってい
る。
583
何で全ての枝分かれルートを理解してしまっているのかは今更突
っ込まないで欲しい。
⋮きっと性根からのオタクだったんだ。
﹁そういえば私⋮﹂
﹁?﹂
﹁皆の事、どう思ってたんだろう﹂
不思議な事がまた一つ。
元旦に見たあの夢で、私は確か﹁和風が好きだから﹂という理由
であのゲームを買ったと回想していた。
だが野菊や主人公の行動に関心を持っていたようだけど肝心の攻
略対象の皆については何一つ、こうだった、ああだった等感じた事
を思い出していない。
普通、ゲームを楽しんでやり込んでいた位ならちょっとでも覚え
ていておかしくはない筈。
内容やゲームの進みは分かるのに、その時の自分の想いが分から
ぬとは何事か。
﹃このキャラ超好き!﹄と言えるキャラが一人はいても良いのに。
﹁どうかしたのですか?﹂
その今更な事実に、顔色は驚きも恐れも見せず私はただただ無表
情になった。
愛理ちゃんにはもう好きな人がいる。それは変えようもないこの
世界での事実だ。
ノーマルエンドならまだ良い。相手が年季明け後、夫婦になろう
584
という話に其々なっていくからだ。そしてハッピーエンドなら尚良
い。自分の実の父親達からの身請け話があり、ついには妓楼から年
季を明ける前に出られ、また愛理の実家共に公認の中になれるから
だ。
しかしバッドエンドならば、その相手は死ぬか身請けかどちらか。
だから私はどうにかノーマルエンドかハッピーエンドになって欲
しいのだ。その好きな人と。
ゲームの通りにいかなくても、せめて皆が身請けや死に至る事が
無いように。
身請けは別に、皆が好きな人と一緒になるのなら構わない。
でもそうではないのなら。
愛理ちゃんの好きな人が、愛理ちゃんを好きにならずにバッドエ
ンドのようになってしまったら。
眉間に胸騒ぎめいた黒い影が漂う。
今皆がどんな感じに愛理ちゃんとの距離を縮めているのかは分か
りかねている。蘭菊はだいたい良さそうだけど、他はすっかりで。
彼女が現れれば姿を消すという事を繰り返しているから、詳しく
分からないのは当たり前なのだけれども。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
﹁護ーどこ行ったー﹂
梅木を秋水へバトンタッチした後、私は無くし物ならぬ、無くし
猫を探していた。
昨日から全く奴の姿を拝んでいないのだ。
585
猫は気まぐれだとは言うけど、ちと飼い主的には寂しい。寧ろ護
に飼い主だと思われているのかさえ危うい。
ただの近くにいる、良く構ってくる人間だとか思われていたらど
うしよう。
もう出会って約六年。
今まで積み上げてきた信頼関係は幻の偶像だったのかと落胆した
くはない。
廊下をひたすら歩きながら護の名前を呼ぶ。
一階はさっき見たし︵食堂以外︶、男衆に聞いても特定の場所で
見たという情報は得られなかった。
特定の場所では見ない⋮。
すなわち見掛けるには見掛けるが、留まってはいないため、具体
的に何処にいるのかは分からないということ。
全く⋮。
﹁はいはい。お呼びですか?﹂
﹁ん?﹂
凪風の部屋前にさしかかった所で、私の声に返事をする者がいた。
﹁にゃー﹂
﹁⋮護使って腹話術するの止めれ﹂
何が﹃にゃん﹄だ。
可愛くないんだよ馬鹿者。
部屋戸を半分開け、護を持ち上げ前足を動かして遊ぶ青年に溜め
息が零れる。
586
﹁さて、居場所分かったから良しとするかな﹂
若干冷めた視線を相手にぶつけながら、来た道を戻ろうと回れ右
をして足を踏み出す。
﹁え、ちょっと待ってよ﹂
﹁不審者とは喋らないようにしてるんです﹂
﹁うわぁ﹂
物凄くわざとらしい不快感全開の声を上げる凪風。
何かイラッとしました。
﹁あぁもう⋮話したくないなら、これだけは言わせて﹂
﹁人間万事塞翁が馬、だよ野菊﹂
さっきまでおチャラけていた彼が、真面目な面持ちでそう言う。
人間万事塞翁が馬。
意味は、一時の幸・不幸は、それを原因として、すぐに逆の立場
に変わりうるのであって、軽率に一喜一憂すべきではないというこ
と。
幸不幸は予期し得ない。
何が禍福に転じるか分からない。
昔々、中国の城近くで暮らしていた翁の大事な馬が逃げ出した。
不幸だ。
しかし、帰って来ないと思ったら一頭の馬を連れてその馬が戻っ
587
て来たので大層喜んだ。幸福がやってきた。
だが自分の息子がその馬に乗って、落馬して大怪我をした。再び
不幸だ。
その怪我のせいで息子は戦争に行けなくなったのだが、近所の若
者はみんなその戦争に行って誰一人戻らなかった。
しかし怪我をした息子は戦争に行かなかったので唯一無事だった。
⋮幸福だ。
こんなことでは、何が災いで、何が幸いするかは解らないものよ。
という故事成語。
人間万事塞翁が馬である。
﹁?どう⋮﹂
﹁野菊が良かれと思っている事が、幸福に繋がるとは限らない。そ
のまた逆も積りだけどさ﹂
私から視線をそらし、護の両前足の肉球をフミフミしながら続け
る。
﹁君が思う以上に、妓楼の皆は野菊を信頼してる。下働きなんかよ
りもずっとだ﹂
﹁それは、﹂
﹁もし、何かあったなら頼ってみても良いんじゃない﹂
﹁どう?﹂というような目つきで此方を伺う彼。
何かを見透いているその物言いに、私は少し戸惑う。
なんでそんな事を言うのだろう、と。
﹁じゃあ護、野菊が迎えに来たみたいだから戻って良いよ﹂
588
﹁ニャア﹂
護がトテトテと襖を越え私のいる廊下へと来る。
一体、彼の言わんとしている事は何なのか。
私は護を抱き抱えて、逃げるように部屋を後にする。
隠し事がバレた時の子どものように。
589
始まる 受難の日々 8︵後書き︶
あとがき。
廊下にて。
﹃⋮護、私飼い主だよね。いや、友達だよね﹄
﹃ニー⋮︵⋮⋮⋮︶﹄
﹃⋮と、友達だよね﹄
﹃ニャ︵お前は僕の恋人だ︶﹄
﹃うっそ!やだもう護ったら∼!﹄
そんなキャッキャと野菊が立ち止まり話している場所の、横にあ
る部屋の中では。
﹃あいつまた猫と喋ってんぞ﹄
﹃蘭菊⋮何故あんなに楽しそうなんでしょうか。何故猫には話して
俺には話してくれないのでしょうか﹄
﹃にっ兄ィさん、俺もですからどうか次は弦を無駄にしないでくだ
さい!﹄
590
始まる 受難の日々 9
﹁番頭さんっ、花手形!﹂
﹁お、おぅ?はいよ﹂
﹁ありがとうございます!ちょっと出掛けて来ますねー﹂
慌ただしく妓楼の入口を抜けて出ていく遊男を見て、番頭と言わ
れる者達は首を傾げていた。
﹁あんなに急いでどうしたんだ?野菊花魁は﹂
﹁さぁな。猫抱いたまま行ったから散歩かね﹂
***********
遠く遠く、遠くへ行きたい。
そんな事を言っても、日本中の広さと吉原の広さじゃたかがしれ
ている。更に言えば世界中か。
走って遠くを目指したところで壁という終わりは直ぐに見えるし、
この町から唯一出られる大門を見ようと思えば屋根に登ればいいく
らいで。
妓楼から出てある程度走ったところで足を止める。別段誰が追っ
て来るわけでもなく、物質的なものから逃げていたわけでは無いか
ら止まったところで困ることは何もない。
とにかく文字通り﹁一人﹂になりたかっただけ。町に出たところ
で実質人間は歩いているし、一人になれたわけではないが、天月の
自分の部屋にいるよりか一人の気分がするのは間違いない。
591
腕の中にいる護は、この際数には入れないでおく。
﹁ニャ﹂
別に疚しい事をしているわけじゃない。
なのに何でこんなにも焦らなくてはいけないのか。凪風が何を知
って、分かって、あんな言葉を私に向けたのかは甚だ疑問だが、そ
れを解決解明すべく道はただ一つ。
本人に言葉の意図を直接聞くしかない。
もし私の行動の意味を完全に理解しての発言では無いとしても、
どういう意図で発言したのかは聞いておいたほうが良いかもしれな
い。
違う方向で私が何かやらかしちゃったのかもしれないし。
しかし、知っていたとしたら、何故分かるのだろうか。私の行動
を見て?
んな馬鹿な。そこまで察し能力優れていたら最早魔法が使えるレ
ベルだよ。
それか、私と同じ様にゲームをやっていた人が転生しただけだっ
たりして。だけ、とは軽く言うがそれは結構とんでもない事だと思
う。
まぁ、そもそもそういう意味じゃないのかもだけど。
⋮そうは思っても、指の若干の震えが今も続いているのは予感め
いた何かを感じているからなのだろうか。あの口振りは、確実に私
の今の行動を把握しているような感じを匂わせていた。
彼の口から下働きという言葉があったが、あれは︱︱︱⋮
﹁野菊?よぉ、久しぶりー﹂
592
護の頭を撫で撫でしながら天月から大分離れた道の横で突っ立っ
ていると、誰かにそう声を掛けられる。
﹁っぁあ!桜さん久しぶりですね。散歩ですか?﹂
﹁そんなところだ。お前は猫ちゃん連れて散歩か﹂
振り返れば茶色の髪と瞳が爽やかな印象を受ける若い男の人が、
猫の護を指差しニコリと笑った。天然パーマの髪質もあってか、晴
れた日の空の下で見るとキラキラと淡く光っているように見える。
﹁そんなところです。花田様は元気ですか?﹂
﹁あーもうピンピンしてる。当分くたばらねぇぞアレ﹂
この桜さんという男の人は花田様の妓楼で働いている遊男である。
他の妓楼で働いている遊男の知り合いは結構多く、コミュニティが
結構盛ん。それもこれも吉原内を出歩いて良いとなった五年前の、
役人達の懐の深さのお蔭である。こんな自由がなければ、私や皆は
同じ境遇である籠の中の鳥たちには半生会えなかったのかもしれな
いのだから。
こうして昼間や夕前に吉原内を歩いていれば必然的に違う妓楼の
遊男と会うことが多く、お互いに一歩踏み出そうと思えば友人にも
なれる環境と化している。
﹁つーか⋮相変わらず細くね?﹂
﹁ちょ、触らないでいただきたい﹂
腕に伸びてきた手をペシリと右手で払い落とす。
593
﹁つれねーなぁ﹂
そこまで強く叩いてはいないというのに、手の甲を痛い痛いとさ
すり出す桜さん。わざとだとは思うが、心の中でごめんなさいと謝
っておくことにする。ごめんなさい。
﹁じゃ、俺は散歩するので﹂
﹁俺だって散歩だし?どこに行こうが自由だし?吉原の中だけだけ
ど﹂
離れようとする私に向かい、桜さんはムゥと口を尖らせ地面の砂
を蹴る。
汚なっ!砂が下駄と足の裏に入ったんだけど!
﹁浮世絵師が今日妓楼に来てんだけどさ、⋮描かれたく無いわけよ
俺﹂
﹁もったいないですね。あ、じゃあ今は外に逃げているワケですか﹂
桜さんは何も無かったように喋り出す。
ちょっおいおいお前なんでだ。と文句を言いたいところだが、チ
マチマと小言を言うのも最早面倒くさいので、グッと唾を飲み込み
私は普通に言葉を返した。
﹁どこがだし。お前だって嫌じゃね?あんなブッサイクに描かれん
の﹂
﹁⋮⋮﹂
遊男の絵は売れる。
現代、元の世界で言えばアイドルのグッズと同じ感じで考えても
らうと分かりやすい。流行だってそれで左右されるのだ。男の人に
594
とっては遊男の浮世絵は半ばファッション誌代わりのようなもので、
着物の着こなし方や髪型等を参考にしたりしているらしい。だけれ
ど地位の高い者や極端に貧しい者はあまり見ないという。
遊男、花魁の絵姿は浮世絵師が直接吉原の妓楼に訪れて描かせて
もらうスタンス。そして約三両で妓楼に浮世絵師がモデル代を支払
う形になる。⋮搾れる所からはとことん金を搾るのだ。
絵師だけでなく彫師・刷師もいて、浮世絵版画は三位一体の作品
だとも言える。
木製版画なので何枚も複製が出来、写真集⋮ブロマイド的な物を
いくつも作れるのだ。絵暦と言って、この時代のカレンダーみたい
な物も作るので遊男ファングッズと言っても過言ではない。
素晴らしきかな江戸の世。
﹁俺の格好良さがあんなんで伝わるワケないじゃん。なんであんな
に目ェ細く描くんだよ。糸じゃねーか﹂
いくらゲームの世界で文化や発展力が違うからと言っても、画力
はさして私の知る世界の江戸時代の絵と変わらないみたいだった。
本当に、﹁ザ・日本の絵﹂だもん。
﹁いやでも、あれはあれで味があると思います﹂
﹁物は言い様だな﹂
宇治野兄ィさまの浮世絵を見たことあるけど、もうちょっと鼻高
くて良いんじゃない?と思う程に本人との差が出ていた。そんな事
言っても、それはそれで味があるから私は結構好きだけど。
そう好意的な意見を述べれば面白く無いと言わんばかりの顔で桜
さんが鼻を鳴らす。
595
﹁野菊ー!﹂
と、のんびり会話をしている私の耳に知った声が聞こえて来る。
だんだん近づいてくるその声の主に私は振り向かず、桜さんを盾
にしながら別れの挨拶をすることにする。
ジリジリと後ずさる私に首を傾げる桜さんは、声のする方向へ視
線をやり、また私を見る。
﹁っうわ⋮そ、それじゃ桜さん﹂
﹁今の蘭菊か?てか走ってこっちに来てる⋮﹂
﹁のぉぉおー!﹂
桜さんが言い終わらない内にダッシュで声の反対方向へと走る。
何で蘭菊が追い掛けてくるんだ。
何か私に用事でもあるのか。
後にしてくれ後に!
﹁おーい野菊ー﹂
﹁え、何でついて来るんですかっ﹂
桜さんが逃げる私の後を追うように迫り、片手を上げ涼しげな顔
でそう呼ぶ。こっちは必死になって走り逃げているのに、なんか笑
顔で追いかけてくるから微妙に怖い。
それに走りが得意なのか、あっという間に隣に並んできた。
﹁匿ってやろうかと﹂
﹁いえ結構です﹂
596
走りながら手を前に出して拒否の意を示す。
が、何を思ったのかその手を桜さんはガシッと掴むと、私よりも
勢いのある速度で蘭菊から逃げる方向に引っ張っていかれた。
﹁さっ桜さん、足が﹂
﹁ニャミッ﹂
足が縺れるかと思った。
その衝撃で抱え込んでいた護は腕から離れ地面に着地する。
﹁走れ走れ﹂
桜さんの背中に声を掛けるが、それがどーしたとでも言うように
無視される。
首をひねり顔を後ろに向ければ、徐々に蘭菊から遠ざかっている
のが分かった。相手の方はそれほどスピードが無いせいなのか。
護は私に付いて来ず、蘭菊の方へと走って行った。
ちょ、どこ行くのアンタ!
﹁ほら、こっちだ﹂
﹁っうわぉ!﹂
真っ直ぐ走っていたのにいきなり左に曲がったと思えば、細い路
地裏のような場所にある木箱の後ろに突っ込み押し込まれた。
少し暗いその場所は、普段道を通っていても横目で気にして見る
くらいで踏み入れたことは無い。
大人しくしてる様にと口に人差し指を立てる桜さんは、逃げる事
に私よりも集中している。というか楽しんでいる。
隠れんぼの様なものだと思われているのか。⋮癪だ。
597
しばらくそうしていると蘭菊の声が近くに聞こえてくるが、それ
は一瞬の事で直ぐに遠退いていった。
﹁⋮よし。行ったな﹂
木箱からチラリと本道を確認する桜さんは、私のほうを見て頷く。
声がヒソヒソ声なのはまだ気が抜けないからなのかなんなのか。私
もヒソヒソ声で静かに応答する。
﹁行きましたね。というか何でついて来たんですか﹂
二人して地べたに座り膝を抱えて体育座りになる。着物が汚れよ
うがお構い無しだ。
というか護よ、落としてゴメン。
﹁お前は何で逃げてるんだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
華麗に私の質問をスルーするこの人は、とにかく人の話を聞かな
い。いつでも自分のペースである。優しくて話しも面白いから嫌で
は無いが。
今だって心配そうな顔で私の顔色を伺ってきて、人生相談所が始
まるのが分かる。
﹁嫌な事でもされたのか?喧嘩か?﹂
﹁違う⋮様な。嫌な事がおきるのを防ぐ、みたいな?別に喧嘩でも
無いんですけど、少し距離を置いているというか﹂
そうシドロモドロに説明する私へ顔を向けている桜さんの顔には、
598
しかめっ面とは違う難しい表情が浮かんでいた。首をやや傾け顎に
手を当てている。
﹁うぅーん。それは⋮相手が可哀想だな﹂
﹁⋮⋮﹂
歯切れの悪い口調は、慎重に言葉を選んでいるかのようにゆっく
りと音を鳴らす。
﹁何にもしてないのに、友人に避けられたら悲しいだろ普通。落ち
込むぜ俺だったら。お前、そんなに守りに入る奴だったか?﹂
﹁?﹂
﹁昔⋮つってもお前と知り合って2年しか経ってねーけど。相手の
懐に飛び込んで行くくらいの勢いで初めは俺に話し掛けて来てくれ
たじゃねぇの﹂
﹁野菊が変わらなきゃなんねー位、酷い事でも起きるのか?友人を
離してまで﹂
﹁不幸だぜ、皆﹂
﹁いつものお前が好きだぞ。俺は﹂
はにかむ笑顔でそう言われる。
いつもの私ってなんだろう。
いつもの私は、どうしてたんだろう。
﹃人間万事塞翁が馬だよ。野菊﹄
あぁ何が正解で何が駄目なのか。
599
至急誰か答えを教えてください。
600
始まる 受難の日々 10
あの後桜さんは無言でずっと隣に居てくれたが、何だかんだ言っ
て結局は浮世絵師に絵姿を描いてもらわなきゃマズいからと仕方な
く妓楼に戻って行った。
私はというと、相も変わらず木箱の裏でジメジメと一人座り腐っ
ている。両腕で抱え込んだ足は固く閉じ、首をうずめ若干半目にな
りながら下唇を出している姿は端から見れば親に叱られて剥れてい
るチビッ子と大差は無い。しかしチビッ子では無い分可愛いげの欠
片も無いと思う。
まさに大人気ない大人。
﹁あぁ、いた。野菊﹂
﹁へ?﹂
途端、頭上からそんな声がした。
いきなりだったので、蘭菊から逃げているというのにも関わらず
反射的に声がした方へ顔を向けてしまう。隠れている意味は全く無
し。
﹁どうしたの﹂
返事をしたのと同時に自分の失態に気づき、口を開けたまま微妙
な苦い顔をしていれば、目線の先には清水兄ィさまが木箱に肘をつ
いて右手を頬杖にし、上から地べたに座る私を眺めている姿があっ
た。縁側で見かけた時と同じ鈍色の長着を着ていたが、髪は一つ結
びと言う名のポニーテールスタイルになっていた。外国人は上手い
言葉を考えたもんだ。確かに馬の尻尾にほど良く近い形をしている
601
もの。
顔は下を覗くように前に傾けている為、首筋にはハラリと絹糸の
ようにサラサラした毛先がいたずらにかかっていた。
縛ってない時よりラフさを感じるのは何でだろう。
いやいやいや、それよりも何で兄ィさまが此処に居るのだろうか。
﹁こんな所にいたら悪い人に連れて行かれてしまうよ。そろそろ戻
っておいで﹂
左手で﹃おいでおいで﹄と私に手招きをしている姿は、小さい子
を誘拐しようとする悪い人に見えなくもない。しかし兄ィさまは本
物の悪い人では無いし、寧ろその優しい語り口調に少し安堵する。
とりあえず何で私がいる場所が分かったのか、何の用事で私を探
していたのかとかがとても気になるが。蘭菊も私を探していたけど、
それも関係しているのだろうか。
﹁そうだ。今愛理からちょっと逃げていて。私を匿ってくれる?﹂
﹁に、逃げ⋮?﹂
話しながら木箱の後ろ側、はやく言えば私の隣まで歩いて来ると、
そこにちょこんと膝を抱えて座りだす清水兄ィさま。
え、座るの!?此処に!?よ、汚れるよ尻が。
そんな平然と座る姿に、着物が汚れたらいけないと思い私は袖か
ら青い手拭いを取り出したのだが、その手は兄ィさまの手で押さえ
られ首を振られた。
要らないならしょうがないのでイソイソと袖に手拭いを戻す事に
する。ついでに隣との距離を図ろうと、座ったままの形から腰を少
し上げゆっくりと足を横に動かし離れた。
602
というか愛理ちゃんから逃げているってどういう⋮。話が見えな
い。
気になる。
もの凄く気になる。
疑問が顔に出ていたのか、そんな私を見てクスリと咳をする様に
兄ィさまが笑った。
﹁羽織を着ていないから、どうしたのかと言われてね。野菊に貸し
たと言ったら自分のを貸すと言い出したんだ﹂
﹁あ、あれですか﹂
﹁生憎着るものには困って無いんだけど、何故か聞かなくて。立ち
入り禁止なのに野菊の部屋に行く勢いだったから私が先に見つけよ
うと、ね﹂
﹁それは、普通に借りれば良いんじゃ﹂
﹁君のほうが何倍も大事だから。何か言われてしまっては堪ったも
んじゃ無い﹂
違う違う違う。
人の話を聞かない人ばかりで困る。
﹁っあの⋮兄ィさま、私なんか気にしないで下さい。自分酷いんで
すよ、皆の事無視して、避けて、嘘ついて、思いやりのおの字も無
いし自分の事ばっかりで、﹂
少し熱くなった首筋にひんやりした手を当て、視線を兄ィさまか
ら反らし拙い言葉で必死に伝える。そんな事を言って貰える程の存
603
在ではないし、いい加減放っておいて欲しい。馬鹿馬鹿しい。
これで構って欲しくはないという私の意思が伝われば万々歳なの
だが。
そう思って目の端で相手の反応を確認してみるけれど、⋮おい。
ずっと微笑んでいるのは何故だ。
少しは顔色を変えてくれても良いじゃないか。
﹁だから!んっ、むぐ⋮﹂
その様子に意地になり尚も必死で話そうとする私の口に、兄ィさ
まが手をかざす。
﹁酷いかどうかは私が決める事。君じゃない﹂
咎めるような声でそう言われた。
真剣な瞳は微笑んでいたさっきとは打って変わり、纏う空気が鋭
くなる。その様子に少しビクリとしてしまい、話題を変えようと目
をキョロキョロさせて何か案を見つけ出そうと思考を巡らせる私だ
けれど、兄ィさまを茶化す度胸も冗談を言う馬鹿な勇気も無い為そ
のまま無言になった。さ迷わせていた視線も口元にある兄ィさまの
大きな手に自然と止まる。
だって顔を見るより断然気が楽だから。
じぃっと口元にある手を見る私に、兄ィさまは小さな声で﹃こっ
ちを向いて﹄と言う。
そう⋮言われたら見ないワケにもいかないので、そろりと目線を
兄ィさまの顔に合わせるが、目は生憎見れない。ギリギリ見れて口
までだろう。それよりも上を見てしまったら絆されそうで怖かった。
604
目線を合わせ無い事が不満なのか、ふぅ⋮と息を吐く音が相手か
ら聞こえる。聞こえる、とか言う以前に現在進行形で私は兄ィさま
の口元を見てるいから、確実にため息を吐いた事が分かった。
﹁優しくしたい人間は自分で決めるし、気にかけたいというのも私
の自由だろう﹂
瞳を閉じ髪を一房持ち上げられ、ソッとそれに口付けされる。ま
るで大事なものに触れるかのような流れる仕草にポケーっとする私
だが、それも数秒で立ち直り兄ィさまとの距離を置く為に横へズサ
サ⋮と後ずさるようにして避ける。
物憂げな表情が一変にして、片眉を吊り上げ不貞腐れ顔になった。
﹁なっ流されませんよ!﹂
﹁はぁ⋮⋮酷い子だ。人の話は聞くものだよ﹂
やれやれ⋮とでも言うように、いかにも芝居じみたわざとらしい
口調で肩を落とす。
それに人の話を聞かない奴だと認識された。地味に悔しい。
そらお互い様じゃ!
﹁清水さーん!どこですかー?﹂
胡散臭い目を兄ィさまに向けていると、愛理ちゃんの声が微かに
風に乗り遠くから聞こえてきた。
今更だが、本当に追いかけられていたんだなと納得する。
﹁野菊!﹂
蘭菊の声も再び耳に届く。愛理ちゃんの声が聞こえてきた方向と
605
同じ。
なんだなんだ、今日はなんだ。
皆何かしら逃げているな今日は。
てかアイツいつまで私の事探してんの。
もうしょうがないな、いい加減出て行ってあげようかな。用件を
聞くだけ聞いて直ぐ様帰ればいい話だし。
﹁野菊、手を貸して﹂
﹁貸す?﹂
覚悟を決めて身を乗り出した私に、そう言って兄ィさまが手を差
し出してくる。
﹁私の手の上に手を乗せて﹂
﹁?はい﹂
言われるままに私よりも広い掌にそれを乗せれば、すらりとした
長い指が動きを封じ込めるように私の手をまるごと包み込む
。
どういうこっちゃ。
﹁一緒に妓楼まで二人に見つからないように戻ろうか﹂
目蓋をシパシパと瞬かせ野菊は隣の男を仰ぎ見る。
言葉のニュアンス的につまりは、戻ろうか=逃げようぜ。という
事だろうか。
﹁でもどうせ妓楼で会いますし、今ここで二人出て行くのでは無く
時間をずらしてお互い相手の所に出て行ったほうが後々⋮﹂
﹁でもどうせ妓楼で結局会うのだから、今会わなくても良いよね﹂
606
﹁あ、はい﹂
即答で肯定する。
意思の弱い奴と思うだろうが、この時の兄ィさまの顔はおっかな
かったのだ。口角が上がって笑いながら言っているように見えたの
に、目は全く笑っていなく真顔ならぬ真眼。そんなに今会うのが嫌
なのかね。
愛理ちゃんが探していたのは私で、清水兄ィさまが探していたの
も私で、今愛理ちゃんが探しているのは清水兄ィさまで、えーと、
えぇと。
つまりどんな状況?
﹁さぁ行こうか。⋮そうだそうだ、離れたら死ぬと思ってね﹂
﹁マジですか!?﹂
私的に愛理ちゃんにこの状態を見られたらと思うと死ぬのと同然
だよねコレ、と妙に自分の中で納得。
とりあえず気合いを入れて逃げ妓楼まで帰ろうと思う。
607
始まる 受難の日々 10︵後書き︶
あとがき。
その後、慎重に見世の間や看板を盾に潜りながら進む二人。
﹃にっ兄ィさまチョイ待ち。駄目です駄目です﹄
﹃え、﹄
てくてく。
﹃あっいる、いますあそこにヤバい﹄
﹃あぁ本当だ﹄
数分後。
﹃ストッ⋮違う違う止まってください!﹄
﹃うん﹄
またまた数分後。
﹃良いですか?ヒッヒッフーですよ兄ィさま。ヒッヒッフーです﹄
﹃野菊、何かが違うよ﹄
提案した自分より逃げる事に関して案外ノリノリになっている野菊
に、未だ繋いでいる大きさの違う手を見ながら微笑む清水だった。
608
始まる 受難の日々 11
部屋に籠る私は、別に引きこもりのニートでもコミュ障な人見知
りでも無い。
﹁寒いねーチャッピー。火鉢の近くは暖かい?﹂
﹁ゲー︵寝るから話かけるな︶﹂
﹁なんか超冷たい﹂
冬眠をしない代わりにかなり眠気があるのか、寒い時期になると
火鉢の近くでグータラしだすこの蛙。そんなニート蛙にも邪険にさ
れる私は一体なんなのか。とりあえず生き物には違いない。
あのあと慎重に兄ィさまと妓楼に帰ってきたが、直ぐ様入口で繋
いでいた手を離し﹁すいませんでした﹂と言って私は自室へと向か
った。
そんな私に怒る素振りも見せず、ただただ笑顔で﹁いいよ﹂と頷
き見送ってくれた兄ィさまには頭が上がらない。しかしそうやって
直ぐに逃げてしまった私だけれど、すっかり忘れていた事がある。
あの兄ィさまの唐紅の羽織を本人に返さなければいけないという事
だ。
あぁ本当、今日はなんて日なんだ⋮どうせならあの羽織を持って
外に出るんだったよ。
﹁⋮行こう、かな﹂
意を決して化粧台の横にたたんで置いてあるそれを手に取り、清
水兄ィさまの部屋に行こうと重い腰をあげ立ち上がる。護も再び探
609
さなければいけないし、このままずーっと呑気にゆっくりとしても
いられない。本音を言えば一人ゴロゴロしていたいけれど。
部屋着用の茶色い羽織を着て、先程閉めたばかりの襖へと再び手
を掛ける。
﹁ニャア﹂
と同時に自室の戸の向こう側から猫の声が聞こえた。
この声は護?
﹁野菊、いるかー?﹂
ら、蘭菊じゃない!
石のように固まった私の姿勢は、戸を開けようと前屈みになり襖
に手を掛けたまま。
ダラダラと嫌な汗がこめかみに流れる。
だから何で追ってくるのじゃコヤツは!
﹁いる、けども⋮﹂
蛇のようなしつこさに、あぁもういいや⋮と半ば投げやりな気分
になったので返事をする。諦めろ馬鹿者、という天からの御告げが
聞こえた気がしたのですアーメン。
﹁なんだ居んじゃん﹂
声を返せば蘭菊から疲れ呆れながらもホッとしたようなそんな明
るい返事が返ってきた。
ところで、ゲームの中の蘭菊についてだが。
610
ゲーム設定での蘭菊の生い立ちは皆と少し違う。違うと言っても
彼の場合、大名の子であるという事は変わり無い。皆と違う部分と
は、蘭菊の場合は不実の子と言われていても、父親がしっかりと認
知していたという所。母親をド田舎へ追いやる事も無く、同じ敷地
の離れで暮らしていたのだ。他の花魁たちと比べても父親からの扱
いは一番マシだったと言える。
しかしそんな彼に、最悪の転機が7歳の時に訪れる。
父親の正妻の遣いである女房に、目障りだからと妓楼へ売られて
しまうのだ。もちろん女房の独断ではなく、正妻の命令でやったと
いうことが後々語られる。
一度吉原に入ってしまえば売られた者が出ることは愚か、売られ
た者を外者が探すことも難しい。父親や母親が探した所で、蘭菊が
見つかっても既にどうこう出来る状況ではなかった。
そして問題はゲームで主人公が癒さなければならない蘭菊の心の
傷。
要は自分を売った女房に幼いながらも恋心を抱いていた蘭菊。小
さいけれど立派だったその初恋は、売られた時を境に彼の心を蝕ん
だ。女は見掛けじゃ信用出来ない、裏切る、汚い、好きになっては
いけない物、だと認識してしまうようになった幼い彼。親から売ら
れる事はあっても、恋をした人に売られるなんて事は早々ない。恋
に破れるよりたちが悪い。
プレイヤー
そうして女性に対し皮肉になった彼を主人公の愛理が癒し、凝り
固まったガチガチのハートを溶かしていくのだ。
でも女性、不信?蘭菊が。
ま、まぁ女性不信だったのなら昔から私にツンツンしてたワケに
611
納得はいく。
でもゲームの内容を思い出してからずっと思っていたけど、⋮⋮
別に不信になってなくね?
だって宇治野兄ィさまのお得意様の橋架様を見て、
﹃あの人美人だよな。それにひきかえお前はなんだキノコか﹄
﹃月とスッポ︱いや野菊か﹄
なんて事を言っていたり。
他の兄ィさま達に来たお客を見ても、
﹃俺はお前と逆の感じのあぁいう美人が好きなだけだ。ん、あ?ち
⋮ちょ、待てよ、今のは言葉のアヤで別にお前が美人だなんて言っ
てねーからな!お前と逆のっつーのはあれだな、こう出る所が出て
引き締まる所が﹄
﹃⋮⋮で?︵冷めた目をした野菊︶﹄
と別段女性を苦手とした所は見受けられなかった。
それはつまり蘭菊がゲームどおりのキャラクターになってはいな
いという事。
全くコイツに至ってはもう何が何だか私自身分からない。愛理ち
ゃんとそれなりに上手くやっているのは分かるけれど。
﹁チャッピー寒がりだから、あまり戸は開けられないからね﹂
そう言って襖を少し開け蘭菊に顔を見せる。途端、目一杯の笑顔
が私を出迎えた。
﹁お前の屏風出来たみたいだぞ!﹂
﹁えっ、嘘!﹂
612
﹁ほら此方来い!おやじ様の部屋に届いて置いてあるんだ﹂
開けた襖の外から右手を掴まれ、今朝食堂で引っ張られたように
廊下へと引き摺られた。
﹁で、でもこれ﹂
しかし兄ィさまの羽織を届ける任務が私にはある。
握り締めている羽織を見ながら、蘭菊は何を思ったのか私の手か
ら清水兄ィさまの羽織を片手で勢いよくブン取った。その一連の動
作に唖然として口を開けていると羽織を手に入れた彼も一時停止し
ており異様な空気が流れる。
そして弾かれた様に蘭菊が私のほうを向くが、それは一瞬の事で
直ぐにそっぽを向き口を尖らせて嫌そうな顔をしながら私に言葉を
放った。
﹁んなもん俺が届けてやる﹂
************
屏風とは、小さい襖のような物を何枚も横に並べくっ付けた言わ
ば手軽な仕切りのような物で、一枚一枚の板を屈折させて初めて自
立し物になる。屏風には絵師による様々な芸術が描かれており、華
や動物、風景に人物や日常的な光景美があったりする。
屏風は部屋を飾るのに欠かせない物。昔はそうでも無かったのだ
が、ある年から座敷に屏風を置くと言う習慣がついた。普通の遊男
ならば妓楼で扱う何枚かの屏風をその時その時でつかう部屋に借り
て置くのが一般的なのだが、部屋持ちの花魁なら尚のこと屏風を持
613
っていなければいけない。部屋持ちとしての一種のステータスだと
言えよう。
一階に降り蘭菊に連れられたのは楼主部屋。別名おやじ様のサボ
り部屋とも言う。
蘭菊が戸の外から声を掛ければ、声を掛けられた人物は至極ドス
の効いた返事をし部屋の中へと入るよう促す言葉を私たちに掛けた。
そして促されるままに中へと入った私たちを迎えたのは。
﹁花が綺麗ですね﹂
﹁四季を描いたんだそうだ﹂
おやじ様が茶を飲みながらそう説明してくれた。
右から春夏秋冬の花が順番に描かれているのがわかる。基本屏風絵
は右から左に流し見るため、描き方としては道理の通った作品だ。
﹁あと二つ作って貰ったんだが、どうだ?﹂
﹁二つも!?﹂
﹁大きさの違うやつなんだが、四曲と二曲がある。菊の花が主体だ﹂
兄ィさまたちも自分の物はもっている。蘭菊たちにも二ヶ月程前
に注文していたものが届いていた。皆オーダーメイドなので自分の
希望の柄や色が一つの屏風になっているとあって、届いた日にはそ
れはもう狂喜乱舞ものだった。︵過剰だったのは蘭菊だけ︶
そんな様子に指をくわえて羨ましがっていた私だが、自分だって
ちゃんと注文はしていた。ただ頼んだのが皆より遅かったのだ。
ちょいと嫉妬心を覗かせていた私に苦笑する皆が、ここぞとばか
りに屏風を私に見せびらかせて来たのを覚えている。でもあれは見
せびらかせているのでは無く、たんに﹁こんな立派なものが届くん
だぜ。もうちょっとの辛抱だ、お前男だろ?﹂と勇気づけてくれて
614
いたのかもしれない。
しかし、これで私にも屏風という武器が手に入ったわけだが。
﹁やっぱ凄ぇよな∼。六曲の普通にデカいやつも良いけど二曲の趣
も好きなんだよな俺﹂
﹁おいオメェのじゃねーからな蘭菊﹂
私よりも興奮気味な隣の馬鹿ならぬ蘭菊は、目をキラキラと輝か
せて屏風に魅入っている。これ私よりも感動してるよね。私の立場
は一体⋮。
でも他人が喜んで見ているのを見ると、こちらの気分も自然と上
がってくる。げんに私の顔はその蘭菊の喜びようと屏風の素晴らし
さに口角が上がるのを抑えきれていない。女友達同士で﹁これ超可
愛くない!?﹂と可愛いらしいキーホルダーを指差してキャッキャ
と騒ぐ感覚に近いなと思えば、それもそれで可笑しな話だと一人笑
いの渦に呑み込まれ腹を抱えてしまう。
﹁ぷふ、あっはっはっは!蘭ちゃん興奮し過ぎっ﹂
﹁だってスゲーじゃん!﹂
﹁はっははははもうやめてお腹痛いー﹂
腹を抱えながら蘭菊を指差し笑うと、心外だとでも言うように真
剣な顔をする。そして覚めやまらぬ感動を伝えようと両手を握り締
め、凄いんだ、と此方を振り返り必死になって伝えてくる蘭菊に腹
が捩れた。
なにこの子可愛いんだけど。
﹁⋮お前ら大丈夫か頭﹂
615
馬鹿丸出しの光景におやじ様が微妙な顔つきで伺ってくる。
﹁もうすぐ夜見世の時間になる。お前野菊の部屋にこれを持ってい
ってやってくれ。今手伝い何人か寄越すから待ってろ﹂
﹁それで俺呼んだんですか。⋮人使いが荒いオヤジだな﹂
荒い荒い、と部屋を出ていったおやじ様に文句を言う彼だが、そ
の後には何故か心底安心したという声で笑い掛けられた。朝の不機
嫌さはどこへやら。当の私も笑いながら、だよねー、なんて言って
普段道理話が出来ている。そこでハッとこの状況に目を見開き口元
に手を当てて、視線を蘭菊から遠ざけた。
ちょっとちょっと何を呑気に会話しちゃってるの自分!ここ一階
だしもし万が一彼女にこんな所見られて聴かれていたらどうすんの!
口が動かない分瞬きを通常の三倍くらい多くパチパチしていれば、
少ししか距離が空いてない所にいる蘭菊が畳を踏み歩いて近づいて
くる音がする。
﹁ああ、やっぱな。やっぱりいつものお前が良い﹂
そう笑顔で言って首元に顔を埋めてくると、口元を抑えたままの
私に構うことなく、らしくない行動で背中に腕を回されぎゅっと抱
き締められた。
笑顔というか安心したような顔に近い気がした。
﹁そう、かな﹂
﹁言っとくけどな、お前に避けられると気分が悪くなる。なんでお
前なんかに気分を損なわれなきゃいけないんだっつーの﹂
宇治野兄ィさまの教育の賜物なのかなんなのか、背中をポンポン
616
と叩く仕草は母そのもの。
ツンデレの癖に生意気な。しかしツンデレらしくツンな発言をし
ている限り蘭菊の調子は絶好調だと勝手に推測する。
﹁べ、別にね、皆が嫌いなワケじゃない。寧ろ大好きだし、これは
えっと⋮そう!修行みたいな﹂
﹁修行?﹂
思わず口から出てしまった言い訳に、私はピンとくる。そうだ、
この手の上手い言い訳があったじゃないか。花魁で女の身であるが
故の悩みが。
今から私が言おうとしていることはあながち間違いでは無いのだ
が、今回のゲームの運命云々はあまりそれとは関係無いので嘘をつ
くにも等しい。
急に面を上げ明るくなった私に怪しげな顔を見せながらも、蘭菊
はその真意を問おうと首を傾げ私の言葉を繰り返した。
﹁うん、自分を鍛える。皆と一緒にいるとどうしても男には敵わな
いって、こう⋮れ、劣等感が生まれるから、だから自分なりに⋮そ
のもう少し皆と離れて﹂
﹁なんだそーいう事かよ∼﹂
﹁え⋮﹂
最後まで説明しきって無いのに結構簡単に納得される。思わず﹃
え?﹄と声が漏れてしまった。自分で言うのもなんだけど、些か味
気ない。
しかし納得してくれたのならそれで良いか、グッジョブ!と心の
中で親指を立てる。
﹁蘭ちゃん宇治野兄ィさまに似てるね。直ぐに抱き締めて背中撫で
617
てくれるとことか秋水もそうだけど蘭ちゃんも﹂
安心した私はつい調子にのってベラベラと喋りだす。しかしそれ
が悪かったのか蘭菊の動きが止まった。
﹁は?⋮うぁ!?いつまでくっついてんだよクソ!﹂
﹁くそ?クソ!?蘭ちゃんがくっついて来たんじゃん!!﹂
汚い物にでも触れたように手をペッぺと払う彼に、先程とは違い
イラッと感が増す。この野郎⋮と腹が立ったので私の方からしたの
では無いと端的に言えば、ばつが悪い顔をしてそっぽを向き口笛を
ぴゅーぴゅーと吹き出した。
かごめかごめを吹かないで欲しい。妙に上手いし。蛇でも呼び寄
せそうだ。
﹁おーし待たせたな。コイツらと運べ﹂
しかし彼の吹く口笛でやって来たのは蛇ではなく、ついさっき手
伝いを呼びに部屋の外へと行っていたおやじ様だった。
勢い良く襖を開けたおやじ様の後ろにはワラワラと人の気配が幾
つもする。
﹁兄ィさま!ぼくたちは力もちですのでぞんぶんにこきつかってく
ださい!﹂
気になって覗いて見れば、弾かれたように小さい人間が突飛して
きた。
618
﹁兄ィさま!﹂
﹁兄ィさまおれもです!﹂
﹁ちからもちなのです!﹂
ピョコピョコと小さな禿ちゃん達四人が子ガモのようにおやじ様
の後を付いてやって来た。
なんの集団だこれは。
おやじ様がなんか保母さんに見えてきたぞ。その更に後ろにいる
下働きの男たちはその保母見習いみたいに見えた。なんだか無性に
眼科へ行きたい。
禿の皆は私と蘭菊の前に並ぶとそれぞれ片手を上げだし、いかに
己が力持ちであるのかということを主張してくれる。
しかし改めて四人を良く見てみれば、共通する点がひとつ。皆、
ある人物の部屋付きだという所だ。
﹁こらこら、飴を食べながら喋ったら喉につかえますよ﹂
そうして眉を潜める私の前にいるおやじ様の、更に後ろからやっ
て来たのは脳裏にたった今浮かべた人。四人の禿の頭へ順番に手を
置き嗜めながらも優しく微笑む方は、
﹁宇治野兄ィさんですか?ありがとうございます!兄ィさんで良か
った∼﹂
宇治野兄ィさまその人だった。
蘭菊は喜んでいるようだが、羅紋兄ィさま含め私は最近全くめっ
きりこれっぽっちも宇治野兄ィさまとお話していないので非常に気
まずい。
619
蘭菊の後ろにいた私に気づいた兄ィさまは、彼に軽く挨拶をする
と此方に笑顔を見せてくれた。なので私も軽く微笑んでお辞儀する
が、直視するのも躊躇いがあるため直ぐ様禿ちゃん達だけに視線を
固定する。
﹁良いね∼飴貰ったの?美味しい?﹂
﹁野菊、久しぶりですね﹂
禿ちゃん達が舐めている飴について話し掛けたら、違う方向から
私が話掛けられた。
﹁はははい、お久しぶりです﹂
身の縮む思いでカラクリ人形のように会釈をする。しかし目線は
相変わらずチビッ子たちに向けたまま。
﹁うじの兄ィさまにいただいたのです!﹂
﹁おいしいのです!﹂
﹁あまいのです!﹂
ぎこちない私の様子とは裏腹に、ピヨピヨと可愛らしいピヨコた
ちが我先にと飴の美味さを前のめりになってまで伝えてくる。マジ
超可愛い。
ほくほく顔で高揚しピンク色になっている頬には、飴の形らしき
曲線がポコンと突き出ているのが見える。⋮これはピヨコではなく、
もしやハムスターか。
先ほどまでガチガチに固まっていた顔が嘘のように緩む口元を抑
えきれない私は、他人から見れば変質者かと思われる程にだらしな
く変態的な顔をしているだろう。しかしこればかりは仕方がない。
私は昔から可愛らしき物や者たちに弱いのだ。
620
しかもお気づきだろうか。
この子たちの喋り方が完全に宇治野兄ィさまの敬語喋りと同じに
なっている事を。
いや、年上の先輩に敬語を使うのは普通なのだが、その敬語の雰
囲気というかなんというか。例えるならば、ある所にあまり似てい
ない兄弟がいたとして全然声とか見た目も被る所がないのにふとし
た瞬間に見せる仕草が似ていて﹁あ﹂と思い直し良く良く兄弟を見
てみれば﹁なんだやっぱ兄弟だな﹂と納得できる雰囲気を纏ってい
たという事実に気づいた時の感じ。
⋮う?いやちょっと待てよ、考えといて何だが分かりにくいな。
しかもちょっと違う気もしてきた。だから結局何が言いたいの私。
﹁屏風は重いですからね。慎重に持ち上げましょう﹂
兄ィさまが着物の袖を捲り裾を少し開いて持ち上げる準備をしだ
す。
それに習い下働きの男達も気合いを入れて腕捲りをした。
﹁宇治野花魁、俺達は六曲のほうを二枚重ねで持つんで、四曲のほ
うをお願いします﹂
﹁分かりました。そうしましたら蘭菊は二曲の方をお願いしますね。
鈴と鷹と時雨、泉も一緒に運んでください﹂
﹁申し訳ねぇです花魁。下働きが立ち入り禁止じゃなきゃあ俺達男
衆だけで運んだんですけどねぇ﹂
鈴と鷹、時雨と泉とは禿ちゃんのそれぞれの名前。
呼ばれた当人達は待ってました!とばかりに蘭菊の元へ駆け寄り
お手伝いを始め出す。意外にも蘭菊は下の子の扱いが上手なので楽
しく作業をやっている様子が見てとれる。扱いが、というより奴が
621
ガキんちょと同じレベルだと思ったほうが納得いく。
﹁私はどちらを持ちましょうか?﹂
﹁なら此方をお願いします﹂
屏風の持ち主である私が手持ち無沙汰なのもどうかと思うので、
仕切る宇治野兄ィさまに聞いてみれば指で示されたのは四曲の屏風
のほう。ワォ、と脳内で外人のようなアクションをしながら宇治野
兄ィさまの近くへと歩いて行く。
﹁そんなに俺の事が嫌いですか﹂
﹁え?﹂と間抜けな声を出した瞬間自分の体が宙に浮いたかと思
えば、背中と膝裏に手が回り宇治野兄ィさまにお姫様抱っこをされ
た。そして結構な早さでおやじ様の部屋から持ち出される。顔に似
合わず逞しい兄ィさまの、舌を噛みそうな程に揺れる腕の中で思い
きり戸惑いながら私は手を胸の上で握り締める。
なになにこれどーしたって言うの。私なんで担がれてんの。
口を真一文字に結び下から宇治野兄ィさまの顔を伺い見れば、そ
の視線は真っ直ぐに前を向いていて私の視線には気づいて無いよう
だった。
階段を前に一度足を止めたかと思えば、次には見えない糸に引っ
張られるように階段を上がっていく。
放たれた矢のように駆け上がる様子は、本当に私を担いでいるの
かと突っ込みたくなる程だった。
622
********
久しぶりに入った宇治野兄ィさまの部屋は相変わらず綺麗に整理
整頓されており、清潔さに溢れていた。しかもお仕事前なのでそれ
仕様になっている。
新しく取り入れた宇治の花の屏風をバックに赤い六畳程の敷物を
畳の上に敷き、箏や三味線は屏風の斜め後ろに置いて、暖をとる為
の火鉢は部屋の中央へ鉄箱に入った木炭と一緒に置かれていた。
この火鉢に木炭を入れる役目は新造にあるので、基本冬場は火鉢
に一番近い所に鎮座するのが決まり。まぁ雑用係のようなものだろ
う。しかし逆に言えば兄ィさまと客を差し置いてヌクヌクと暖まれ
る非常に良い特等席とも。
そんな新造でも兄ィさまに指示された芸を披露する時の為に自分
の道具は予め部屋の襖前横に置くこととなっている。なので今この
部屋の襖近くには、宇治野兄ィさまに付いている新造の物らしき三
味線や扇子が慎ましやかに置かれていた。
私の体は未だ兄ィさまの腕にあり、そのまま畳の上に座られる。
胡座を掻いた兄ィさまの足の間に座る形になったが、今から一体ど
うすれば良いのか誰でも良いので私にお教え願いたい。
丸い格子窓からからは紅い夕陽を背にカラスが羽ばたいている姿
が見える。可愛い七つの子があるからよ∼なんて確かカラスの歌に
あったけど、あのカラスも子沢山で今から家族が待っているお山の
巣に帰るのかな、ご苦労さん、とか特に取り留めの無いエールを心
の中で送る。
一方の私は今日一日逃げ追われ隠れ連れられ、抱え拉致され。
今はこうして宇治野兄ィさまの足の間にいるわけだが、未だ相手
方は何も話してくれない。お腹の前に手を回され、前後に兄ィさま
623
の体ごとユラユラ揺らされているこの状態は何なのか。揺りかごの
如く眠気を誘う。
キメの細かい長い指が時折気づいたかのように私の脇腹の肉をぷ
よんと摘まむ。大変失礼な行為をされている気がしなくも無いのだ
が、それを指摘できる空気でも無い為ひたすら擽ったさに耐える。
﹁ぷ⋮く⋮っ⋮﹂
声を出したら負けだと思う。
しかし漏れた声がいけなかったのか、ユラユラ揺れていた体がピ
タリと止まった。
﹁俺は元来、欲に対しては従順です﹂
やば。と、引き結んだ口から声を出さないよう耐えていれば、思
い出したように兄ィさまが話し出した。
﹁そう言う意味では女性を抱くと言うことに昔から抵抗は無かった
ですし﹂
チクリと蠏に刺されたような視線を感じて斜め後ろに顔を向けれ
ば兄ィさまの瞳と見事にかち合う。視線と視線の間で小さな星が弾
け飛んだ気がした。
黒だ黒だと思っていた兄ィさまの瞳は近くでよく見たら少し紫が
かっていて、あぁなんだ髪の毛の色とお揃いだったんだなと意識の
隅で考える。
﹁したい事は我慢せずにしているつもりです。遊男の時以外は﹂
腹を撫で摘まんでいた手は私の肩にまで上がりそのまま掴まれる。
624
右肩は兄ィさまの方へ顔を向かせるように後ろへ押されたので、足
の間でクルリと回り真正面で向かい合った。
﹁だからですね﹂
それでも少し下を見る私に、首を傾げて覗き込むように瞳を合わ
せられる。
向けられる甘え強請るような目つきは、物乞いのように哀願的に
感じる。すがり誘う声で続けられる言葉は今まで見てきた宇治野兄
ィさまとはどこか違って新鮮、というより戸惑いに近い不安を私に
与えた。
﹁好きな物に触れられないのは、己の欲に反する事で、﹂
撫でるように頬には手が添えられ、
﹁それはそれは実に悩ましい衝動で﹂
長い時間をかけて口の中の飴玉を溶かすようにゆっくりゆっくり、
それは耳元に落ちてくる。
﹁溜めてしまえばもう、手がつけられないんですよね﹂
サラリと絹糸のような紫髪が私の首もとをくすぐる。
吐息が首に掛かる程の距離感に、閨に入る前の兄ィさまはこんな
感じなのだろうか、と思わず一人想像してしまう。
不躾な後輩でごめんなさい。
何だか声が妙に色っぽいのでつい。
﹁分かってもらえますか﹂
625
﹁それは、何と無く⋮分かるような?﹂
問い質す調子にひどく差し迫った雰囲気がある。
つまり、兄ィさまは案外我が儘な性格だという事だろうか。した
い事はする、と言い切っている事からして言葉だけ受けとれば傍若
無人っぷりが半端無いと見える。だけど普段の兄ィさまから見るに
そんな事は無いような⋮。いつも皆を見守っていて、笑顔で、時折
厳しくて、飴ちゃんくれて、
﹁でしたら野菊﹂
﹁はい?﹂
﹁俺と一日一回は話してくださいね?﹂
﹁は、え?﹂
﹁そうしなければ﹂
﹁し、しなければ?﹂
ニコリと笑う。
﹁泣きます。もの凄く﹂
その言葉と同時に兄ィさまの瞳がきらきら⋮いや、ウルウルと輝
きだし、次の瞬間には涙がこぼれ出した。
﹁え!?ウソウソ嘘やめてください兄ィさま冗談で、﹂
﹁な、きます、からね﹂
﹁やめてぇ!兄ィさまともあろうお方がそんな手段使わないでぇー
!﹂
626
まさかの泣き落としをされました。
627
始まる 受難の日々 11︵後書き︶
あとがき。
﹃野菊の様子がおかしいのは分かるんだが、如何せん宇治野があぁ
だからな。いやしかし、皆お膳立て協力ありがとよ!﹄
﹃おやじ様、俺はそんな話聞いてないんすけど。⋮無性に腹立つ﹄
﹃あんなんでも機会与えてやらねぇと宇治野がな﹄
﹃あの⋮宇治野兄ィさんてそんなに⋮やっぱ、﹄
﹃アイツの鬱憤が溜まると面倒なんだよ。そりゃもうお前が知って
の通り、物を壊しちまうほど融通が利かなくなる﹄
﹃そんな兄ィさんを野菊に会わせて大丈夫なんですか﹄
﹃あ⋮⋮⋮。すまん野菊﹄
﹃ゴラァっおやじ!﹄
628
数ある最期、ある一つの象︵かたち︶
少女が鎖に繋がれ横たわるのは鉄格子の奥、敷物も布団も何も無
い部屋。それでも何があるのかと聞かれたらならば、申し訳程度に
厠と呼べる穴が床に開いているという点だけだろう。暗く冷たい空
気が張り詰めるその場所には楽も幸も感じず、ただただ不が蔓延し
ており、この空間に触れるだけで気が滅入る程に闇が満ちている。
冷えた木の床には小さなシミがいくつも見えた。濃いものから薄
いものまで、少し湿り気を帯びたものが。しかしシミだけで無く部
屋全体が苔かキノコでも生えてきそうな湿気に包まれており、それ
はジメリと少女の肌に纏わり付いてくる。
膿臭い
何日、何十日と風呂に入らず汚れた身体をまともに拭いていない
人間がいるこの場所は、体臭とはまた違う酸っぱい臭い、
匂いが充満していた。
ただ一人長くそこにいるのは少女のみだが、少女は臭いなど気に
も止めていない。何故ならば嗅覚が反応していないのである。あた
り前の臭いに身体は何の異常も訴えてはいない。もっともそれは最
近になっての事だが。
そんな何もかもが腐敗した場所にいても、少女の瞳には曇りそう
で曇らない輝きが宿っていた。まるでうたた寝を繰り返すように。
*********
妓楼内で罪を犯した者が仕置きを受けるその場所は折檻部屋と言
い、日に三度折檻が行われる。仕置きの手順は様々だが、この少女
629
に至っては髪や身体を切られるだけでは無く、柱や木に縛りつけら
れ打擲、数日間食事は無し、また鞭で叩かれ熱湯を浴びせられ、傷
口を焼く様な痛みを味あわせる事など、気の遠くなるような折檻を
遂行されていた。男たちの日頃の鬱憤ばらしの対象になってしまっ
た事も運の尽きと言えるだろう。
その三度しか滅多に人が訪れない場所に、ザッザと人が地面に足
を擦らせながら歩く音がした。もちろん横たわる少女が出した音で
はない。
近づく音は鉄格子の前で止まる。
﹁良かったね。もうすぐ此処から出られるよ﹂
暗い中唯一の光である松明の光を背に、鉄格子へ影を落とす男が
一人、視線の先にいる少女に向かって口を開いた。
微笑む、という仕草が不釣り合いなこの場所で、男は静かに微笑
みを見せる。実に不釣り合い、実に不自然、実に道徳観を混雑させ
る笑みであった。
﹁だからどうしたの。私は折れない﹂
だがそんなことはまるで気にも止めず、返事を律儀にする。
横たわりながらも淡々と相手へ返す言葉は強く美しくも見えるが、
それは逆に相手にとったら馬鹿にされているようにも思えてしまう。
話の意味を理解していれば。
﹁ああ、そう﹂
少女の言葉に先程まで微笑んでいた彼の口角は下がり、同時に眉
630
間のシワが深く刻まれる。相手を怒らせたという自覚は少女に無か
ったが、機嫌を損なった顔を見せられれば自分の放った言葉がいか
に挑戦的なものだったのかと気づく。
少女にとって今の言葉は自分に言い聞かせたようなものなので、
けして果敢に挑むような姿勢を見せて聞かせたかったワケではない。
しかしそれを相手に言ったところで状況は何も変わらないという事
を、少女は嫌というほど分かっていた。分からされていた。
﹁反省とか、彼女への謝罪も土下座も何も無いワケ?﹂
﹁義理が無いもの﹂
﹁頭さ、イッてるんでしょ?叩けば治るかな?ねぇ⋮﹂
頬を引き攣らせ拳を握る男の瞳には狂気が見えた。
しかしそんな事を言われても少女には謝る義理が見当たらない。
確かに自分が彼女にしたことは人としてしてはいけない事だった。
ましてや人を殺そうとするなど、とち狂っていたと言われても仕方
のない事。だけれど人として最低な事をしていたのは彼女も同じだ
った筈だ。何をあんなに必死になって私を陥れたのかは理解出来な
いが、少なくとも自分が彼女にとって邪魔な存在だと疎まれていた
事は間違いではないと思う。
﹁煙、の臭い?﹂
ふと、鼻につんとした焦げた臭いを感じた。
上がやけに騒がしい。
﹃おい火事だ!!吉原全体に火が回る前に大門まで逃げろ!﹄
﹃水じゃ消えねぇ!早くしろっ﹄
631
鉄格子の前にいる男も何やら異常を察知したのか顔を先ほど以上
に顰めさせた。
そして何かを考える様に顎に手を当てると、少女に背を向け歩き
だす。
﹁待ってお兄ちゃ、﹂
﹁今更兄なんて呼ばないで。じゃあね、愛理が心配だ﹂
咄嗟に少女が上げた声も虚しく、兄、と呼ばれた男は後ろ髪を引
かれる様子も無く、愛する者を探しに外へと走っていってしまった。
ひと
少女を陥れた、愛しい愛しい女の元へ。
************
このまま火事になり助けも来ないとしたならば、私は誰にも気づ
かれず独り朽ちて逝くのか。と妙に冷静な考えを持つ自分がいる事
に、野菊は不思議と違和感を感じ無かった。
だがどうせ死ぬのなら、せめてあの人に会いたかった、と思わず
にはいられない。野菊はぼんやりとその会いたいと言う彼を脳裏に
浮かべた。
何故か自分を最後まで見捨てずに色々と構ってくれたあの人。ま
ぁ皆よりは、だけど。と一人愚痴る。
叶いもしない夢物語を聞かされたことは何回もあった。
﹃いつか遠くへ行って、誰も他にいない田舎で暮らして君と二人で
死んでいくのも悪くないかな。ね?﹄
632
鉄格子を挟んだ向こう側で、何が可笑しいのか微笑みをたえなが
ら野菊を見てそう話していた。そんな時はいつだって膝を折り曲げ
しゃがんで、座る野菊とわざわざ目線を合わせてくるのだ。
彼女としたら心底居心地がいいものでは無かったけれど。何処ま
でが冗談で何処までが本気なのかが中々分からなくて、こんな鎖で
繋がれている状況にもかかわらず、その事について悩んだ回数は数
知れない。
助けて欲しい、なんて自分があの人に言った事は無い。
言ったところで何も出来ない事は分かりきっているし、もし助け
られたとしてもあの人を結局巻き込んでしまう。
いつだって野菊がやらかした事には触れないで世間話ばっかりし
ていた。この人、私と話すなんて馬鹿じゃないだろうかと野菊自信
が思った事は何回もあるが、それでもやはり、この牢屋のような折
檻部屋にいるという事を忘れさせてくれるような一時だったという
のは変えようのない事実だった。
﹁けほっ、﹂
喉が空気を通したがらなく、彼女の意識はだんだん遠くなってく
る。
煙が津波のように部屋へと押し寄せて来ていたのだ。息が上手く
出来ない彼女の呼吸は速くなる。
吉原で火事になるとはなんて運が悪い。大きな壁で囲われたでか
い牢屋の様なこの町は、火の手が上がってしまえばたちまち建物か
ら建物へと炎が移り、出口が大門しか無い為そこを目指して逃げな
ければ全焼にも近くなるこの場所で息耐え死んでしまう。
もっとも、大門近くで火事が起きてしまえば逃げるのは皆無に等
しい。
633
そしてついさっき煙がこの部屋に漏れて来たかと思えば、数秒後
にはたちまちあたり一面が火の海と化した。不自然な程に火のまわ
りが早い。こんなに直ぐに広がるものなのだろうか。
真っ黒い油煙をあげる毒々しいほどの赤い炎は地獄への入口かと
錯覚させる。墨汁のようにどす黒い煙が目に染みて痛く、野菊は目
蓋を閉じた。
遂に自分の最期がやって来るのか。
﹃おいで。君が目一杯息をするのに、この世は少し穢れ過ぎていた
みたいだ﹄
野菊は目を閉じている為気づいてはいないが、一人の人間がその
炎の入口から現れていた。
その者は鉄格子の鍵を容易く解錠すると、彼女の元へとゆっくり
近づく。
﹃いつも最後の最期で甦る記憶に⋮報いられなくて情けなくてやり
きれなかったよ﹄
誰かの声がする。
目が中々開けられなくてもどかしい。木が崩れる音も相まってか
余計に誰の声かも分からない。
でも身体の感覚だけはまだあるので、その誰かに身体を起こされ
支えられた事は分かった。
634
﹃もしまた出会えるのなら、こんな自分を愛してくれなくても良い
から、だから﹄
熱くて息苦しいの筈なのに、火とは違う暖かい温もりにつつまれ
ている感覚がする。安心する温もりだ。
けして良い人生では無かったけれど、最後にこんな、少しだけれ
ど穏やかな気持ちになれたのなら、まぁ悪くは無かったかなとは思
える。
﹃もう一度﹄
あぁでも、この温もりがあの人だったなら、尚も悪くは無いと思
えたかな。抱き締めて、思いきりぎゅっとされて、
愛してるよ
なんて言われたのなら。
想像しただけで涙が溢れてくる。
閉じた筈の目蓋からは抑えきれない涙の粒がポツリと頬をつたい
流れ落ちた。同時にみっともない泣き声が出てしまいそうで怖く、
震える唇と歯を食いしばって耐えた。
あぁ、悔しい悔しい悔しい。
何でこんな事になってしまったのだろう。
私は一体なぜ此処で生きていたのだろう。いっそのこと誰にも出
会わず、ずっとずっと一人のままで、恋も愛も何もかも知らずに生
きていれば良かったのに。そうしたら何も失わないで、傷付かない
で済んだというのに。せめて彼の人を愛するだけで自分が満足出来
たのなら、同じように愛をくれることを願う心が無かったのなら、
楽だったのかもしれない。けれど愚かな事に、私は恋をする事しか
635
出来なかった。彼に恋しか出来なかった。恋をする事を教えてくれ
たあの人は、この想いの無くし方を教えてはくれないのだろうか。
もしあの世に地獄があるのならば、私は喜んでそこへ行きたい。
痛みや恐怖、果ての無い苦しみだけを与えられていたい。幸せな一
時なんて欲しくは無い。知りたくも無い。
でも⋮それでも。
と記憶の中の彼に向けて、今まで言えなかった事を呟く。
﹁や、さしい、目が、好きで﹂
﹁わらった、顔が、好き、だったん⋮です﹂
誰が自分を支えているのかなんて、もう気には止めていなかった。
動く気配が全く無いのと、もうこの場所から逃げる事が出来ないの
は分かっている。
鎖に繋がれた足は、炎を浴びせられ熱を持った鉄の輪に焼かれて
いる。痛さに悲鳴をする場面だとは思うが、悲鳴を上げている力も
暇も最早野菊にとっては無駄に等しい。
口に出す言葉が粗末な悲鳴で終わるなんて絶対に嫌だった。それ
は野菊が折檻部屋でいつも思っていた事。
﹁わたしをっごほっ⋮きらい、にならないで﹂
﹃うん﹄
﹁ずっとずっと、っく、ふ、一緒にいてもい⋮い﹂
﹃うん﹄
不思議と声が返って来る感覚に、薄らと目を開け前を見る。
636
しかし睫毛に錘を乗せたかのように重い目蓋は、隙間程にしか開
かない。
だが息もまともに出来ないのに、思わず野菊は息を飲んでしまっ
た。
﹁う、そ⋮⋮だぁ﹂
これは幻覚だろうか。
わたしを抱き締めて微笑むあの人の姿が間近に見えるではないか。
額からは血を流していて、あちこちに火傷の痕があり痛々しい姿を
している。
でもこんな所にあの人が居る筈は無いから、これは火事の渦中で
見る、私が無意識に想像した傷を負っているあの人の、正真正銘幻
だと思う。
けれどこの際、幻覚でも何でもいい。
私のほんの気持ちを最期に伝えたいと思った。
ああ神様ありがとう。
幻だけれど私のお願いを最後に叶えてくれて。
﹁わた⋮あ、たがね、﹂
ゴォオ⋮と炎が音を立て飲み込むように押し寄せてくる。じりじ
りと肌をあぶられるような熱気を感じた。
赤い炎が天井も床も空気さえまきこみ、この世にある全てを焼き
尽くさんばかりの勢いで渦を巻く。
幻
と共に。
途切れるように呟いた野菊の言葉は最後まで紡がれることなく、
炎の中に燃えた。野菊を抱き締めていた
637
*************
例えばこれが夢だとして、現実だとして、この想いの先に貴方が
いてくれているのなら。
叶う事の無い夢物語の続きを聞きに私は貴方にもう一度会いたい。
だから、きっと今度こそ、その時は。
638
始まる 受難の日々 12
三月一日。
月初めの今日は明日二日に妓楼へ売られて来る禿達の為に色々と
準備をする。
﹃売られて来る﹄とは淡々に言うけれど、その禿達を私達だけは
悲観しちゃいけない。
家族のように心温かく迎えてあげるのだ。
﹁これは⋮こっちかなー﹂
新造ならとにかく、禿の世話を全面的に見るのは初めてなので些
か緊張で腹が絞まるが、ナヨナヨした弱音を吐いている時間は無い
のでさっさと作業をする。
準備。と言っても何を用意するのか疑問に思うだろうが、そう難
しいものではない。私の稼いだお金の中から座敷用の野袴をまずは
一着用意する。そして普段仕事をする際に着る小さい子用の野袴を
総箪笥︵妓楼側から支給する作業着や着物が入っているタンス︶か
ら三着出して、布団も布団部屋から出し禿が入る予定の部屋へと持
ち運ぶ。ちなみに箏や三味線、扇等は新造になってから自分の物を
持つのでまだ要らない。当分は借り物で済ます。
﹁兄ィさんこの布団はどうしますか﹂
﹁梅木ありがとう。あー⋮それは睦月の部屋に持って行って﹂
たま
﹁俺も行く!兄ィさんこれは?﹂
﹁弥生も助かる。それは珠ちゃんの部屋の箪笥に仕舞ってきてもら
ってもいい?﹂
639
地にも空にも春先の穏やかな光が降りてきて、まだ本格的な暖か
さは無いものの、電気の無いこの室内を太陽の光りが明るく照らし
てくれている。
有り難い光だけれど、色んな物を準備のために出し入れしている
せいか、埃が舞うのが余計に目立って見えていた。またその埃のせ
いでゲホゲホと咳が出てしまい、酷い時には﹃ぶぇっくしょん!﹄
とオヤジのようなくしゃみを出してしまう。
周りの皆に残念な目で見られるのが辛い。
いつも毎朝掃除をしているのに何でなの、ハウスダスト。
そんな埃まみれの中、新造達は頑張って私の手伝いをしてくれて
いた。皆稽古の時よりも生き生きとしているが、そんなに稽古が嫌
なのだろうか。
⋮でもそうだよね。稽古より皆とこうしている方が楽しいよねそ
りゃ。
稽古は自分を輝かせるための、いわば﹃試練﹄で、好き者は四六
時中励んでいる。私は好きでも嫌いでも無く、ただただ男芸者にな
るために他の皆に負けてなるものかと頑張っていただけだけれども。
まぁ結局は花魁になったわけだけれども。
﹁では行ってきます﹂
﹁うん、ありがとうね﹂
新造の二人が荷物を持ち部屋から出ていく。
別にこんな準備半日もあれば一人で出来るのだが、梅木をはじめ
他の新造の子達も手伝ってくれると言うのでお言葉に甘え手を貸し
ていただいていた。
それに一緒にやっていると楽しいし。
たまぶさ
﹁野菊、座敷用の小さい野袴が届いたぞ。これ珠房の部屋に持って
640
いって大丈夫か?﹂
﹁あ、ありがとう秋水。じゃあこの座布団も一緒に⋮﹂
﹁分かった。⋮そこに木箱やら何やらゴロゴロあるが、お前転ぶな
よ﹂
じゃ、と座布団と野袴を担いで部屋を出ていった秋水。彼も昼飯
の後に手伝いをしてくれている。
﹁野菊おはようございます﹂
﹁おはようございます兄ィさま﹂
部屋の前を通った宇治野兄ィさまに挨拶をされたのですかさず返
す。相変わらず良い笑顔だ。
﹁おはよう野菊﹂
﹁おはようございます清水兄ィさま﹂
﹁おー、はよー野菊﹂
﹁おはようございます羅紋兄ィさま﹂
﹁おはよう野菊﹂
﹁凪風おはよう﹂
兄ィさま達にも新たに禿や新造が付くので、皆は皆で忙しい。午
前中からバタバタと妓楼の中は騒がしかった。
次々と部屋の前を通られる度に自分へ掛けられる声へと返事をし
ていくが⋮。
あれだけ散々私も皆に言われたのだ。
641
自分の態度を考え直そうと、そりゃ色々考える。そう、考え抜い
たその結果。
﹃普通に戻る﹄
という考えに至った。
普通に戻ると言っても愛理ちゃんの事があるため、もちろん以前
よりは接触を少なくするけれども。
案外アッサリこいつ戻るんだな、なんて思わないでいただきたい。
痛く悩まされ居たたまれない気持ちの中、ドロドロの沼で溺れ足掻
くようにして必死に考え抜いたのだ。
誰かがこの問題に答えをくれるというなら、ぜひその誰かに今す
ぐすがりたい気持ちだけれど、そんな者は当然いない。
凪風あたりは怪しいが⋮。
とまぁ近況を語るならばそんなところだろう。それ以外に日常で
変わった事などは何もない。
いやでも、何も無くはないか。
だって⋮
﹁置いてきたぞ。もう運ぶ物は無いのか?﹂
﹁ありがとう秋水、早いね﹂
布団を置いて戻って来た秋水が、襖に片腕を寄りかからせて立っ
ている。
早っ。
エリートは伊達じゃない。
642
﹁ん?誰のだコレ﹂
早い仕事に心の底から感心する。
すると足下に何かあるのか、彼はその場でしゃがみ込んだ。
﹁どうしたの?﹂
﹁本だな。見覚えあるか?﹂
彼が片手に持ちヒラヒラとさせている物。
目を細めて良く見てみれば、それは小さくて茶色い冊子だった。
私はあんな手のひら程の冊子に何を書いた事も無いし、何かの教材
として持っていた記憶も無いので、自分の物では無いというのは確
かだと分かる。
﹁ちっさいな⋮﹂
秋水が私の方へやって来る。
廊下にずっと落ちていたのか、歩きながら手で冊子の埃をパラパ
ラとおとしていた。
﹁私のじゃないよ。名前とか書いてない?﹂
﹁あぁちょっとまて。裏に⋮梅木⋮、梅木のだな。これ﹂
手に持つ冊子の裏表紙を見せてくれる。
そしてその冊子の表紙には縦に﹃日々綴り﹄と書いてあり、要す
るにコレは梅木の日記だということが分かった。
きっと懐にでも入れていたのだろうが、手伝いの最中に何かの拍
子で落ちてしまったのだと考えられる。
643
﹁日記かぁ。秋水は書いてる?﹂
﹁一応書いてる﹂
﹁うっそー。⋮あぁでも性格的に秋水はちゃんと日記つけてそう﹂
﹁お前も書いてみたらいーだろ﹂
﹁三日坊主になるのが目にみえているからダメ絶対﹂
まず私には日記を書くなんて事を考えた覚えがない。毎日書けな
い自信はほぼ100%に近いし稽古ならまだしも、きっと長続きな
んてしない気がする。
これはもう性格の問題だと思う。
簡単に日記を書く組、書かない組にイメージで分けるとするなら
ば、書く組には宇治野兄ィさま・清水兄ィさま・秋水・凪風・朱禾
兄ィさまで、書かない組には羅紋兄ィさま・蘭菊・私・十義兄ィさ
ま辺り。
かたまり
なんか書かない組スゲェなメンバー。
荒さの塊だよ。
﹁戻って来たら返してあげなきゃね。棚の上に置いておこう﹂
﹁いや、折角だから見てみるか。中身﹂
﹁は?﹂
ペラペラと軽くページを捲る、久々に意地の悪い顔を出した秋水。
そんな彼に人道に反する行動を勧められる。
うわぁ⋮コイツ最低だ。
腹痛を起こした時のようにくしゃくしゃと大袈裟に顔を歪ませて
軽蔑した視線を投げつけていると、なんだ、とでも言いたげに鼻を
スンと鳴らされる。
うざっ。
644
﹁可愛い俺たちの弟子の本音を見たくはないのか﹂
﹁全く無いですね﹂
私の冷酷無情な顔を見てもその言い様。
エリート様はとんだクズ野郎だった。
お客さん見てくださいよ、これがコイツの正体ですよ。騙されち
ゃアカンのですよ。いくら顔が良くても駄目ですよ。
﹁とにかく、これは私が預かるからね﹂
秋水の手から日記を取り上げた。
取ろうと日記を掴んだら秋水が抵抗してなかなか離さなかったの
だけれど、諦めると見せ掛け手の力を緩めた私に彼が油断した瞬間
一気に引っ張ってやった。
戦は油断が命取り。
﹁変な所で真面目だなお前﹂
﹁そっちこそ何なの。反抗期なの。不良になるの。やだよ、お母さ
んは認めません﹂
﹁誰だお前﹂
反抗期で不良の道へと進もうとする息子をどうにかして思い止ま
らせる母親です。
冗談半分でそうツッコめば、つまらなそうに眉尻を下げて、あか
らさまにガッカリな態度をとられた。
いやいや、こっちが貴方にガッカリだよ。
人の日記を見ようだなんて非常識にも程がある。
見られたく無い黒歴史とも言える文章や、自分の中に秘めておき
たい秘密などがもしも書かれていたらどうする。
645
しかもそれを良く知る人物に見られていたのだと梅木が分かって
しまえば最後、本人は悶え苦しんでしまう可能性が大だ。
だって少なくとも自分がやられたらそうなる自信があるもの。
﹁夫婦漫才?﹂
開けっ放しの襖から、そんな声が聞こえてくる。
目を合わせ二人してそちらを振り向けば、布団を持ち部屋の前の
廊下を通りがかる清水兄ィさまがいた。
聞き間違えでなければ、今しがた大変不名誉なコンビ名で呼ばれ
た気がする。
﹁やめてください兄ィさん﹂
その声に直ぐ反応し、秋水がイヤイヤと手を横に振りながら問題
発言者に近づいていく。
なんだよ、私だって嫌だよ。
なんで告白もしていないのに、フラれたみたいな感じになってん
の。 ﹁ちょい待ち!﹂
彼の後を追い襖まで近づいて行き、私は不貞腐れた表情をしなが
ら腰に手を当て、ふんぞり返って兄ィさまの前に立った。
若干一名の視線が横から刺さる。
﹁夫婦でも無いですし漫才でさえも無いです兄ィさま﹂
﹁そう?﹂
646
クスクス、と喉を鳴らして笑われる。
くそう。真剣に言ったつもりなのに、流しそうめん並みに水へ流
されている感じが否めない。今の私は箸でキャッチもされずベチャ
りとバケツに落ちたツルツルの白いそうめんの気分だ。
よくも俺を落としやがったな人間!覚えてろよ!
きっと彼等はこんな負の気分を味わっているに違いない。
﹁お、なんだなんだ楽しそうじゃねーか。俺も混ざって良いか﹂
﹁言っておくけど羅紋は毎回一番準備が遅いんだよ。自覚ある?﹂
あれ、思考がだんだんズレてきていないか。
と我に返っていれば、今度は羅紋兄ィさまが巾着袋を振り回しな
がら廊下をスキップしてやって来た。
三人で話している私たちに兄ィさまが羨ましげにそう話し掛けて
くれば、それを一刀両断する言葉が横から投げられる。
そう。笑っていた顔を瞬時に真顔へ切り替えた清水兄ィさまの視
線はブリザード。
﹁君の手伝いをいつも誰がやっていると思ってるの﹂
腕を組み羅紋兄ィさまと向かい合えば溜め息を吐く。親みたい。
﹁野菊とか凪風だな﹂
﹁本当にやめて欲しいんだけど﹂
心底嫌だ、とあとに付け加えれば眉間にシワを寄せて更に目を細
めた。
ほぼ
毎回羅紋兄ィさまの徹夜?に付き合わされる私と凪風の苦労を汲
み取ってくれているのか、楽観的で後回し大魔王な自分の同期に説
教じみた話をしてくれる。
647
マジありがとうございます。
﹁清水さん、その布団私も運びますよ!﹂
心の中で合掌していると、元気で可愛らしい女子の声が廊下に響
く。まるで指揮者の合図で歌を終えたかのように、私たちはその声
に反応し会話の音を止めた。
後ろを振り向けば、視界に優しい桜色が見える。
そう、何も変わった事が無いわけではない。
﹁おはよう愛理。これは私が自分で持って行くよ。出来れば凪風か
羅紋の方をお願い出来るかな?﹂
﹁は、はい﹂
﹁愛理ちゃんおはよう。さ、じゃあ私はさっさと梅木の所に行って
くるねー。大好きな大好きな梅木ところにいち早く私野菊は行って
きまーす!秋水は手伝いありがとう、あとは梅木たちと一緒にやる
から愛理ちゃんと凪風を手伝っておいでよ。さらば諸君!﹂
﹁はあ?﹂
捲し立てるように言う私に、口を半開きにして瞬きを繰り返す秋
水。その顔を指差し笑ってやりたいところだが、そんな様子には構
わずささっと秋水が持っていた冊子を取り、くたびれているが良く
磨かれている古い廊下を踏みしめ私は歩き出した。
清水兄ィさまに声を掛けて来たのは愛理ちゃん。
え、ここ二階で下働きは立入禁止じゃなかったっけ?と思うだろ
うが、そんなものは数日前に改正された。
私の屏風を部屋に運ぶ時もそうだったが、二階でやらなければな
648
らない下働きの仕事を遊男がいなければ出来ないという状況はかな
りキツイ。下働きの人も﹃立入禁止じゃなけりゃ⋮﹄なんて漏らし
ていたが、本当にその通りだからだ。
おやじ様も思い直す所があったのか﹃清水達の言いたい事も分か
るが仕事が回らねーとなぁ﹄と時折食堂でぶつくさ語っており、そ
れをたまたま聞いていた私が、あぁきっと直ぐにでも立入禁止令が
解かれるんだろうな⋮と半分冗談で思ったのはかれこれ一週間も前
の事。
それから三日も経てば、予想通りおやじ様が﹃立入禁止令を解く
事にした﹄と理由も交えながら皆に言った。
ならば私はどうするか。
花魁仲間には前の方が良いだのなんだのと言われた上、宇治野兄
ィさまには先月中旬泣き落としを喰らった。いくら自分の身が可愛
く、それと同時に皆を︵愛理ちゃんも含め︶救いたいと思っていて
も、そこまでされては気が揺らいでしまう。
そこで私は考えた。
救いたいと思うのなら、自分がもう周りからどう思われようと⋮
嫌われようとも構わないという精神で愛理ちゃんや皆を全力でハッ
ピーエンドにすれば良いのではないかと。
愛理ちゃんの好きな人は相変わらず分からないけれど、本人が花
魁の誰かだと言っているので手当たり次第けしかければ良いだけだ。
﹁待って野菊。私も布団を置きたいから一緒に行こう﹂
掛けられる声に首だけを後ろに向ければ、穏やかな微笑みをたえ
ながら清水兄ィさまが駆け足であとを追って来る姿が見えた。
ああ爽やか⋮じゃなくて、ええいっ来たな兄ィさま!
649
そしてもしや⋮と思い更にその後ろを仰ぎ見れば愛理ちゃんの表
情がいつかのようにまた険しくなっていた。
面倒くさいよ!面倒くさいよもう!
誰なの、一体貴女は誰が好きなのぉー!!
こういう時は、
﹁あ、でも梅木たちもう直ぐ部屋に戻って来るかもしれないですね。
やっぱり私は部屋で待つことにします。では清水兄ィさま、転ばな
いように気をつけて下さいね﹂
今度は体ごと後ろへ振り返り、冊子を持っていないほうの手をピ
シッと上げてそう言い切る。
誤魔化しがバレないようおちゃらけた感じでそう言えば、不自然
とは感じなかったのか兄ィさまが可笑しそうに頬を上げた。
﹁ふふ、言うね。でも野菊ほどではないから大丈夫だよ﹂
おまけに貶された。酷いよ兄ィさま。
しかしその様子を見て私はひとまず安堵する。ゲームの通りにい
くかもしれないとはいえ、こうしてまた普通に会話が出来て内心私
も嬉しいのだ。
ではまた、とお互い背を向けて私は自分の部屋に、兄ィさまは禿
の部屋へと足を進めた。
しかし、なんであんなに睨まれたのだろうか。
宇治野兄ィさまと話しても睨まれ、清水兄ィさまを上手く避けて
も睨まれ、皆と交流が出来るようにけしかけても睨まれ。
もしや花魁の中の誰か、ではなく、花魁の皆が好きなのかな。い
650
やいやいや流石にそんなこと⋮。
部屋へと戻れば当然、離れてから一、二分も経っていない戸の前
にはまだ秋水や羅紋兄ィさま・愛理ちゃんがいた。
戻って来た私を見て羅紋兄ィさまが不思議そうな顔をする。元々
目尻が垂れている人だけれど、眉頭を上げたため更に垂れ目となっ
ていた。
﹁なんだ?忘れもんか?﹂
﹁いえ、部屋で梅木たちを待ちながら準備を進めようかと。新造の
皆が手伝ってくれたので早く終わりそうですしね。それよか秋水も
愛理ちゃんも兄ィさま達か凪風か、あのお馬鹿を手伝ってあげて﹂
﹁そうだな。行くか愛理﹂
﹁はい秋水さん﹂
秋水と愛理ちゃんが揃って部屋をあとにしようとする。それを見
て、廊下のど真ん中にいた私は邪魔になるまいと横へずれた。
しかしすれ違う瞬間、愛理ちゃんが私の腕を掴んでくる。
え、何!?
﹁野菊さん。これが終わったら少し話せません?﹂
﹁え⋮﹂
﹁ニャア、ニャー!ニ゛ャー﹂
彼女にそう話掛けられたかと思えば、部屋の隅でチャッピーとゴ
ロゴロしていた護が急に騒ぎ始める。異常な声に何事かと振り返れ
ば襖でガリガリと爪研ぎをやりだしていた。
なにしてんの!?
襖がボロボロになるでしょうが!
651
﹁こら護!﹂
﹁ニー﹂
﹁ちょっとごめんね愛理ちゃん。あ、ちょ、待ちなさいっての﹂
話を掛けてくれた愛理ちゃんから離れそう叱ると、次にはそこら
辺に積んである着物や道具をグシャリと倒され踏み潰される。しか
もそれだけでは足りないのか、火鉢の横に置いてある木炭を前足で
ばら蒔きだしている。
折角綺麗に用意したのになんてこと。
こんなことをされては、また一からやり直しではないか。ある程
度終わったとはいえ、ちゃんと一人一人の道具や物を分けて置いて
おいたのに苦労が水の泡だ。襖も傷がついてしまっているので、お
やじ様に言って交換してもらわなければいけないし。
仕事も当然あるので、綺麗にしなくては。
﹁あ∼もう!︱︱︱よしっ、捕まえた﹂
しばらくすると護は暴れ疲れたのか私の手に大人しく捕まる。や
りきったぜ、と言うように腕の中で大きく欠伸をする猫に私は怒り
を通り越して呆れを感じた。
一体何を考えているのよアンタは。
﹁愛理ちゃん本当にごめんね。やる事が増えちゃったからまた今度
で良い?﹂
﹁⋮はい﹂
さっきの会話の返事をすれば、眉間にシワを寄せたものの首を縦
にふり了承してくれた。申し訳ない。
でも内心、良い口実が出来てホッとしている自分がいる。何か起
きてしまったらと不安で堪らなくて、愛理ちゃんと二人きりになる
652
のはなるべく避けたかったのだ。
なのでいつもならこんな悪い事をした護を思いきり叱りつけるの
だろうけど、感謝も感じてしまっているのであまり怒れない自分が
いる。
﹁やっぱり手伝うぞ野菊。これ大変だろ?﹂
﹁いいのいいの、秋水達は別のところ手伝ってきて﹂
﹁でも﹂
﹁良いから良いから、ね﹂
愛理ちゃんと秋水の背中を押して部屋から遠ざける。私としては
早くここから立ち去っていただきたい気持ちでいっぱいだった。
************
﹁はぁ⋮﹂
﹁野菊、お前オレ達に隠し事があるんじゃねぇのか﹂
﹁え﹂
完全に二人が去れば、残されたのは羅紋兄ィさまと私と部屋の哀
れな残骸たち。
そんな状態に口から幸せを逃がしていると、羅紋兄ィさまが私の
頭に手を置いて首を傾げる。兄ィさまの緑髪の間から覗く長い珊瑚
の耳飾りがカチャリと揺れた。
﹁ありませんよありません﹂
﹁どうもなぁ⋮お前の中の何かが吹っ切れたってーのは分かるんだ
けどよ。顔色も明るいしな。朝飯も落ち着いて食ってるし﹂
653
﹁⋮そんなに分かりやすいのですか?﹂
顔を両手で隠して、指の隙間から羅紋兄ィさまを覗き見る。そこ
まで見られているというのも、ある意味悩ましい事だな。
羅紋兄ィさまは周りを見ていないようで良く周りを見ている。私
が皆と一緒にお風呂へ入っていけないとなったのも、羅紋兄ィさま
が私の女の部分の成長に気づいたからだし。
朱禾兄ィさまに何があったのか知らないが、仕事が終わった後の
羅紋兄ィさまの部屋で朱禾兄ィさまのやけ酒なるものに付き合って
いる姿を一年前に見たことがある。朱禾兄ィさまが羅紋兄ィさまに
泣きついて背中を擦られていたあの夜の事は、まだ誰にも話した事
がない。
良く見ている、というか面倒見が良いのだろう。
﹁何かあったら言うんだぞ﹂
﹁はい!﹂
﹁おぉ返事だけは良いな、返事だけは﹂
654
始まる 受難の日々 13︵前書き︶
誤字訂正しました。
655
始まる 受難の日々 13
ちびちゃんは可愛い。
もうそれはずっと撫で撫でしていたいくらいに可愛い。
変態だなんだと思われても良いから一日中愛でていたい。
オロオロしながら手をギュっと握りしめ、一生懸命に私へ挨拶を
しようと口を金魚のようにパクパクとして立っている目の前の八歳
の男の子は、私が買った真新しい黒の野袴に身を包んでいる。とり
あえず何かよくわからん優越感に満たされた。
﹁さっきも、挨拶しましゅっし⋮たが、﹂
﹁うんうん。ゆっくりで良いよ﹂
そんなに怯えなくても良いんだよ。となるべく怖がらせないよう
に、膝を折りしゃがんで目線を合わせ笑う。
準備も昨日の内にきちんと終わり、禿が今日妓楼へとやって来る
日になった。人数は合計九人。やはり年々禿の数が増えている気が
したのは気のせいでは無かったようだ。
私は一人、凪風は一人、羅紋兄ィさまには二人、清水兄ィさまに
は三人、蘭菊は一人、朱禾兄ィさまには一人、と禿が新たに付く。
秋水にはまだまだ新造にならない歳の禿がいるため、今回は0人。
宇治野兄ィさまは、年季を明けるまでの年数があと僅かなので新し
く禿を付けることは無いらしい。
こんな不謹慎な事を言うのもどうかとは思うが、ちょっと寂しい
気がする。
656
⋮あ、だめだめだめ。
気持ちを切り替えていかなきゃ。
首を横に振り意識をちびちゃんに再び戻してニッコリと笑う。
いずみ
﹁和泉です、よろしくおねがいいたします!﹂
﹁はい。宜しくお願いします﹂
語尾を強めに発音し言い切れば、逞しさ100%とはいかないも
のの、それなりに覚悟を決めたような勇ましい顔をのぞかせてくれ
た。
あぁ、やだわ。大きくならないでおくれチビちゃん。
しかしそんな甘っちょろい事を考えている場合ではない。ちゃん
と此処での生活に慣れて貰って、いずれは遊男として働いてもらう
事になるのだから気合いを入れていかなければ。他の皆に付いてい
る禿に少しは教えた事はあるけれど、一から教えると言う事はお初
なので手探り状態。前にそんな不安を漏らしていたら、睦月あたり
に﹃大丈夫ですよ。お上手です﹄と背中を撫でられながら大変心強
いお言葉をいただいた。
しかしだ。まだ小さい禿ちゃんに気を使わせ励まされているその
時点で駄目駄目だぞお前。
頬を力士のように叩いて気合いを入れ直す。
﹁じゃあ今日は私の着替えをね、⋮あっ﹂
﹁はい?﹂
仕事内容の説明をしようとしたが、そもそもの話、自分が女だと
657
いう話をし忘れている事に今更ながら気づく。和泉ちゃんは何かお
やじ様から言われてはいないのだろうか。お前の兄ィさんは、男だ
けど、男だけど、女なんだよ、とそれとなく伝えてくれてはいない
のだろうか。
目の前にちょこんと正座した禿を凝視する。
私の視線に少し居たたまれ無いのか、口を引き結んで瞳を泳がせ
始めた。う、なんかごめん。
そう言う事についてはおやじ様に何にも言われて無かったので、
聞いておけば良かったと数時間前の自分を叱咤したい。
考えていてもキリがないので、意を決して話を切り出す。
﹁その前に、私の事なんだけど﹂
﹁ぁっはい﹂
﹁﹃女﹄だって、聞いてる?おやじ様に﹂
﹁それは、あの、しょっそうですね。きいてましゅっ⋮す﹂
頬を赤くして目を瞑る和泉ちゃん。
大丈夫かな。どうせ付くなら私みたいな得たいの知れない似非花
魁よりも、ちゃんとした男の花魁のほうが良かったのでは無いのか
なと心配になる。
なんだか本当、心配事の連続だな。と自分自身に呆れた。
﹁嫌じゃない?私で大丈夫?今更こんな事を言っても変えられるワ
ケじゃ無いんだけどさ﹂
そこまで言って、ふと昔を思い出す。
確か清水兄ィさまにもこんな事を言われた覚えがあった。初対面
で私が兄ィさまに対し、不覚にもビクついてしまったあの時。
今なら清水兄ィさまの気持ちも分からなくは無いと思える。なん
658
でこの人はこんな事を言うのだろうかと不思議だったが、今にして
思えば、初対面の子供に自分がビビられているのだと感じられれば
誰だって臆してしまうだろう。
慎重になる気持ちも分かるというものだ。
私の言葉に閉じていた目蓋を開き潤ませた瞳を上げると、次には
真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
﹁ずっと、ついてゆきます﹂
それを聞いた三秒後には盛大に抱きついていた。
**************
﹁ニャー、ニャー﹂
﹁ゲーコ﹂
﹁あはは、くすぐったいっです﹂
護、チャッピーと戯れる和泉ちゃんについつい笑みが零れた。
﹁ふぅ﹂
笑いながら箪笥前に座る。
目当ては、その横に置いてある黒い小箱。それの蓋をあければ、
赤黒に染まっている布が姿を見せた。
重いものではないので片手でその布を持てば、格子窓の外へと私
は目を向ける。
659
﹁いい天気だし⋮﹂
さて、この隙に血塗れのもこちゃんを洗いに行くことにしようか
な。
最近まで続いていた生理もようやく終わったし、今日みたいに良
く晴れた日には洗濯物が良く乾く。暫くはチャッピーと護が和泉ち
ゃんの相手をしてくれる事だろうし、最初から根を詰めても皆息苦
しいもの。ちょっとぐらい遊び心があったほうが仕事も楽しいと言
うもの。
でも、だからと言って甘やかすわけでは無いし、精神のガス抜き
と考えれば妥当。
もっこ褌を片手に立ち上がる。
蛙&猫と戯れている和泉ちゃんはそれに気がつくと、ペタペタと
足音を鳴らしながら、私がいる箪笥の近くまで歩みを進めてきた。
そして私の所にたどり着くと、彼はそのまま横に立ち、下を向い
てもじもじと両手を合わせ指を曲げたり伸ばしたりし始める。
﹁?﹂
かと思えば、ふいに顔を上げて褌を持っている右腕の袖を引っ張
ってきた。
チョイ、なんて控え目な効果音が目に見えて聞こえそうである。
くそう、あざとかわいい。
ならばよし。
この路線で育てていくか。
﹁ちょっと洗濯物を出してくるから、チャッピー達と一緒にいてね﹂
660
新たな目標を胸に、私は小さな和泉ちゃんの頭をくしゃりと撫で
まわすと、襖を開けて廊下に出る。
﹁は、はい﹂
﹁よし!ちゃちゃっと終わらせてくるから﹂
ギリギリまで顔を部屋に向けて見せて、最後にそっと襖を閉じた。
なんだかちょっとくすぐったい。捨てら
顔が隠れるまで和泉ちゃんにジィーッとこちらをつぶらな瞳で見
られていたのだけれど、
れた仔犬のよう⋮ではなく、餌を取りに行く親鳥を見る雛鳥のよう
な瞳だったなアレ。
廊下は相変わらず薄暗いけれど、最近まで感じていた肌寒さは無
くなっていた。春は近い。と言うかもう春も春だろう。桜はまだ咲
いてはいないが陽気は暖かく、ついつい欠伸が出てしまう。
鼻の奥がツンとする感覚に耐えながら、褌を持っていないほうの
手で涙が出た目を擦り拭いた。
一階に降り妓楼裏の外に出れば、そこには古い井戸がある。少し
ほうって置けば直ぐに傘屋根へ蜘蛛の巣が張られてしまうのだが、
毎日此処を使う下働きの皆さんのお陰で綺麗に保たれている。そし
てその近くには表面に凸凹がある洗濯板と木の板でできた桶が置い
てあるのだが、私はいつもそれを使い洗濯をしていた。
﹁米∼じる∼は素敵ステッキー、木、き∼び団子ごりららーめん⋮﹂
誰の特にもならない歌を歌い、今日もいつものように井戸の水を
桶に汲んで、米のとぎ汁を足しゴシゴシと念入りに洗濯作業を開始
する。
661
﹁らーめんののり∼りすスパイダー、︱︱っいで!﹂
開始早々、あかぎれ気味の指先が痛む。
今の時代、ハンドクリームなんて物が無いのでカサつくと厄介だ。
どんなに顔がよくても手足が荒れていたり、爪に垢がたまっていて
は興ざめする、と妓楼でも教えられ言われている事から、しもやけ
やアカギレなんてものはとんでもなく不格好な様であると言えるの
だ。
なのでこのような洗濯をしたあとは椿油を水で薄めて手に塗り込
んでいる。
気をつけなきゃ。
あぁしかし洗っていると袖が落ちてきてしまい仕方がない。紐で
括ればいい話なのだけれど、正直面倒臭くてやっていられないのが
本音だ。
単衣は濡れたってどうせ客の前で堂々と着るものでも無いし、寧
ろ下着みたいなもんなので気にする分だけ無駄である。
だが一方で、立派なお着物は、それはもう洗濯が大変で一度全部
解いて反物の形に戻し、水洗い、そしてまた縫うと言う非常に面倒
臭い代物。でもまぁ着物はスーツみたいな物なので、直に肌に触れ
ない仕組みになっている事から肌汚れはあまり付かない。直接肌に
付く部分はそれなりにこまめに洗えるようになっているので、良く
考えられていると思う。
あ⋮くそう、上げた袖がまた下がってきた。
﹁のぎちゃん⋮﹂
段々と捲っていた袖がおりてきたので再び捲っていると、小さく
662
て弱々しい声を耳が拾った。
私は洗濯板から視線を離して顔を上げ、首をまわし辺りを確認す
る。
だがやはり気のせいだったのか、人気は見当たらない。
じゃあやっぱり空耳だったのかな。
それか幽霊?
ちょ⋮まてよ。気にしない気にしない。
と現象追求するのをやめて再び褌を洗濯板にかける為に桶へ手を
突っ込む。
あぁ冷た気持ちいい。
﹁ごめんね﹂
いやいやいや、また聞こえてるし。今度ははっきりと聞こえちゃ
ったし。
今の声は方向的に納屋のほうから聞こえた気がする。近くとも遠
くとも言えない距離、十歩程歩いた先にある、扉を開ける度にギシ
ギシというようになった歳を重ねたおばちゃん納屋。因みに十義兄
ィさまは千代子と読んでいる。なぜだかは知らない。
洗濯を中断し水で濡れた手を着物で拭いながら、先程から気にし
ている声の正体を知ろうと納屋に近づく。本当に幽霊だったらどう
しよう。ら、羅紋兄ィさまのせいだからね、羅紋兄ィさまが昔あん
なに私を怖がらせなければ平気だったんだからね。
胸の中で誰へでもなく言い訳をしてゆっくりと歩き続ける。抜き
足、差し足、忍び足。両腕を横に広げてバランスをとりながらリズ
ムにのり地面を踏みしめる。
すると私が今使っていた桶と同じ物が納屋の後ろ側に半分出てい
るのが見えた。もしかして私と同じく誰かが洗濯をしているのだろ
663
うか。
あはは、そうかそうか。やっぱり人間しかいないよね。
胸をホッと撫で下ろし、納屋の裏手にまわる。
裏には大量の箒が壁へ掛けて置いてあり、歩みを止めずにその先
へ進んで行くと人影を見つけた。
﹁あっ⋮﹂
春が良く似合う髪色。
桃色、とも言えるし桜色とも言える。
お花のような女の子。
木箱の上、椅子代わりにもなる腰掛けと化していたそこには愛理
ちゃんがスヤスヤと寝ていた。
664
始まる 受難の日々 14
寝入っているのかな?
こんなに良いお天気で洗濯日和の今日だから、きっと沢山洗って
疲れたのだろう。洗濯物は回りに手拭いが二枚程しか無かったけれ
ど、これで最後だったのかな。
﹁ノギちゃん⋮﹂
花の蕾を連想させるお口から、なんと私の名前が出てきた。
﹁ごめんね﹂
思わず前屈みになる。な、なにがなんだ。
何の夢を見ているのかがとても気になるけれど、私はそこではな
く、彼女の口から﹃ノギちゃん﹄という言葉が出てきた事に衝撃を
受けていた。
だってノギちゃん、だよノギちゃん。
記憶を失ってしまい暫く呼ばれ無かったあの呼び名は、今の愛理
ちゃんと仲良くならない限り一生呼ばれないと思っていたのに。
彼女は⋮まぁ寝言だろうが、確かに前のあだ名で私を呼んでくれ
たのだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁愛理、ちゃん?﹂
665
その後に続く謝罪の意図は全く読めないけれど、もし今話を掛け
たら私を思い出して、今度はその目蓋を開いて、澄んだあの美しい
碧の瞳に私を映して名前を呼んでくれるだろうか。
淡い期待が胸に宿る。
そよ風に彼女の髪が揺らめいた。
﹁愛理ちゃ、っんむ﹂
﹁しー⋮﹂
愛理ちゃんに再び声を掛けようと身を乗りだし名を呼ぼうとすれ
ば、突然誰かに後ろから手で口を抑えられた。
予想だにしない事に、口から心臓が出そうになる。しかし口は塞
がれているので、この表現が合っているのかは甚だ疑問ではある。
下目で見えるこの手は完璧に男の手。
それにこの香り。
確か彼には好むお香があり、部屋では良く焚いていた記憶がある。
護もその香りが好きなせいなのか、度々彼に抱っこをされては待っ
てましたとばかりに匂いを嗅いでいたものだ。
身じろぎをすれば、口を抑える手とは違う手がお腹にまわる。
﹁ん゛んんん?︵なぎかぜ?︶﹂
﹁しー⋮。あれだけ気をつけていたかと思えば⋮、なんで二人きり
になってるわけ?気をつけなよ﹂
透きとおる銀の糸がサラリと頬に流れ落ちる。むず痒い感覚に身
体を揺らし目を細めれば、更に拘束がキツくなり身動きがとれなく
なった。
うなり声に近い発声で本人かを問えば、首もとに顔を近づけられ
666
た気配と共に、潜めた低い音でそっとそう咎められる。否、咎めら
れるのは私では無いだろう。お前だ。
愛理ちゃんは目の前で安らかに眠りへと落ちている。いつまで眠
っているのかが分からないのと同時に、いつ起きるのかも予想がつ
かない。
折角のチャンスを凪風に邪魔された感が拭えないのだが、そんな
ことを言っている場合では無い。
彼女から距離をとろうと少しずつ後ろへ足を引く。しかし凪風が
どうしても後ろへ行こうとしないので、私は後ろ背に彼へ地味に衝
突するばかり。ジャリジャリと草履に砂が擦られる音がする。
﹁移動したい?﹂
﹁ん!ん!︵したいっ、したい!︶﹂
てかさせろ。
そう必死に言えば少しずつだが、納屋の表の方までまわってくれ
る。くれる、なんてまるで恩人に対する言い方だけれど、私は全く
彼に感謝等していない。寧ろ今にでも足を踏んづけて、チャンスを
逃した報いを受けさせたい程である。
﹁んーんふんっ︵もう離せ!︶﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
しかし一向に離してはくれなくて困る。
もう愛理ちゃんから離れたのだから、解放して欲しい。
和泉ちゃんのいる自室にも早く帰りたい。
﹁⋮﹂
﹁⋮﹂
667
後ろに視線をやり、お互い無言で睨み合う。
腕も振り回したいというのに、見事に長い腕にホールドされて敵
わない。こういう時、たいそう自分が女であるという事と筋力不足
で体格も宜しく無いという事を嫌でも思い知らされてしまう。
そして毎度ながら嫌悪感に陥る自分がもっと嫌いだ。
﹁こらこら、あまり苛めてはいけないよ﹂
無言の攻防戦を続けていると、言葉の割には楽しそうな声が私達
の動きを止めた。妓楼側へ振り向けば声の主が欠伸をしながらこち
らへ歩いて向かっている姿を認める。
視線を下におろしその人の足元に目をやれば、彼の足は裸足だっ
た。
天下の花魁が外で裸足。
な、なんてことなの。とカルチャーショックを受ける。
﹁清水兄ィさん、なんでここに⋮﹂
凪風が疑問を声に出した。
そう、今此処へ忍びよろしくやって来たのは清水兄ィさま。
しかし登場が唐突だな。
本当、たまにこの人は忍者か何かにでもなれるのではなかろうか、
と思う事がある。気配消すの上手すぎだよ。サスケだよ。
そんな神出鬼没を極める兄ィさまは、欠伸を隠していた手を口か
ら胸元へ移し両腕を組むと怠そうに答えた。
﹁あぁ、良く見えるんだ。あそこは﹂
668
含みのある視線を後ろにやり、自分がいた場所を暗に教える。
﹁橋、ですか?﹂
私は斜め横を指さして首を傾げる。
妓楼の外廊下には川も無いと言うのに、井戸や納屋がある裏手の
離れた所、邪魔にならないその位置に、赤色の小さな橋が外廊下に
繋がるようにしてそこにあった。
オブジェのような物だと言っても過言ではないだろう。飾りに限
りなく近い物だ。
それにその近くには桜の木が植えてあり、桜が花を咲かせる頃に
はその赤い橋に乗って花見をする事も一興で、実に情緒がある。
そのような所にいたと言うことは、まだ蕾も開かない、蕾事態も
まだ少ない桜の木を楽しんでいたのだろうか。
﹁でも楽しそうだね。何をしているのかな﹂
私達二人を見て目を細める。
﹁僕は愛理が嫌いで仕方がないんです。だから野菊を彼女に近づけ
たくは無い﹂
﹁ん、ん!?﹂
凪風から放たれた衝撃の言葉に、私はブルブルと震えた。
あの、言っている事がワケわからないのだけど。
﹁そう。でも私は前に言った通り彼女が嫌いではないから﹂
669
その﹃彼女﹄とは誰を指すのか。
﹁いつまでも甘い考えを持っているから駄目なんですよ﹂
﹁甘いなんて心外だな。女性には優しくするというのが私達だろう。
それにね、そんな事をしていても⋮心からの笑顔が見れないのなら、
何の意味も無いだろう?﹂
﹁⋮何を言って﹂
兄ィさまの言葉に凪風の手が私の口から一瞬離れる。
それを良いことに、私は今聞かなくても良い事を口に出してしま
う。
自分や二人を落ち着かせるのなら他にももっと話はあったはずで、
今日は良い天気ですね、とか、裸足で痛くは無いのですか、とか、
今の話はどういう意味なのですか、とか色々と、それはもう。
﹁あの、あの﹂
﹁ん?﹂
﹁私と秋水は夫婦に、その⋮見えるのでしょうか﹂
しん、と辺りが静まりかえる。
自分で言って、何言ってんだ、と思った。
話の腰を折る、と言うのはまさにこんな感じなのだろうなとは理
解しているが。
﹁清水兄ィさまには、私は、どう見えているのでしょうか﹂
動揺して、尚も話を続ける。
670
﹁私、あの、あの﹂
この話を野菊が切り出した理由として近いものは、現実逃避にも
似たものである。
そしてそれは無意識下に野菊が気にしていたと言っても良い出来
事。普段ならば気にしない、あれは彼女にとってなんて事の無い会
話だった。
しかし今、自分だけが理解のできない、わけの分からない状況に
なってしまい野菊は頭の中が空回りに超が付いて真っ白になってい
た。
真っ白とは言い過ぎだが、うっすらと今のこの状態が少し可笑し
いなと思える程には。
凪風が愛理を嫌いだとか、自分を近づけたくは無いだとか、彼の
言動にはいつも謎が多くて頭が痛くなっていた。謎の言葉を投げ掛
ける癖に、オブラートに包むように肝心な事は必要は無いとばかり
に教えてくれないからしまりが悪くてどうしようもなかった。
けれどもしっかり聞かなかった自分も悪いという事は、野菊もと
っくの昔にわかっている。
でも今はそんな事では無く、自分の口から出てきた内容は凪風に
するはずの質問でも追求でも無い、清水が自分へ言った昨日の言葉
に対する質問。それほど今重要では無い事を何故この期に及んです
るのか。
﹁私、えっと⋮待ってくださいね、ちょっとなんか﹂
額を押さえて、視線をさ迷わせる。
様子のおかしな彼女に、男二人は目を少し丸めた。
671
何度も言うが、野菊の頭の中はほぼ真っ白。霧の中をさ迷うよう
な混乱にある。
そして何度も言うが、それを彼女は無意識に気にしていたのだ。
通常は意識されていない心の領域において、自覚もあまりなしに胸
へつっかえていた事。
それは要約すれば、かなり気にしていたともいえる。
正常な思考回路だったならば、きっと野菊はこんな質問をしては
いなかっただろう。しかし空回りの思考回路に支配されてしまって
いる彼女は、今は自分が清水にどう見られているのかが気になると
言う。夫婦と言われたのならば、自分は彼にどう見られているのか。
秋水との仲も含めてである。
そしてその言葉の中には、到底そのような物事に対する察知能力
に優れた者にしか分からない事も含まれていた。
それは質問をした野菊自体にもまだまだ分からないモノ。
清水兄ィさまは私がした急な問い掛けに瞬きをする。
そんな兄ィさまが口を開くより先に、凪風が私の腕を引っ張り井
戸の方へと促した。
﹁そんな事を聞いて野菊はどうしたいわけ。⋮ほら洗濯途中なんで
しょ、早くしたら﹂
﹁へ、あ⋮っうん!清水兄ィさま、変な事を聞いてごめんなさい﹂
そう声を掛けられると僅かばかりに我へ返り、おかしな言葉を兄
ィさまに向かい口走ってしまった事を謝る。
凪風に腕を引かれる分だけ距離が開いて行った。
﹁野菊﹂
﹁はっ、はい﹂
672
呼ばれて後ろを振り向けば、困ったような、眉根を寄せて罰の悪
い顔をした清水がいた。しかしそれでいて目元がほんのり赤くなっ
ている事に、野菊は気づかない。
﹁早く大人になりなさい﹂
頭上で雀が鳴いた。
673
始まる 受難の日々 15
﹁凪風!﹂
洗濯場所を通り越し、凪風はそのまま私の腕を引っ張って先へ先
へと行く。つい先程までは洗濯途中だからなんやらと言う理由で連
れてきたくせにそこを通り過ぎたら意味が無いだろうと、既に妓楼
の中へ入ってしまった時に私は気づいた。
え、お互い様じゃん。と言われても文句は言えないが。
﹁凪風!﹂
彼の動きを止める為に名前を呼び、自らの足を床に張り付けて踏
ん張りこれ以上は進まない、と言葉にせず訴える。
腕も自分のほうへなるべく引っ込ませて、相手を此方へ振り向か
せるようにした。
﹁凪風⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
それなのに、凪風は動きを止めたは良いものの一向に此方へ振り
向いてくれない。上を見るでも下を見るでもなく前を見据えており、
私の声かけに応えずひたすら沈黙状態。
しかし私から切り出さなければ話が進まないと思うので、とりあ
えず思考をぐるりと巡らせてみる。
私の今の心境を例えるならば、繊細な硝子の橋を10㎝のヒール
でどう渡るか⋮という心持ちである。
674
渡り方を誤ればパリンと硝子が粉砕しかねない。
﹁ごめん。私そこまで頭が良いわけじゃないから、良く分からなく
って⋮。さっきのは?﹂
言葉を慎重に選び一応聞いてはみるが反応は無い。
無視か。無視なのか。
﹁なんで愛理ちゃんに﹂
﹁別になんでもない﹂
愛理ちゃんの名前を出せば、話したくは無いとばかりに素っ気な
い態度をとられる。
だが聞くとしたならきっと今だ。
以前凪風にゲームでのわたしを知っていそうな言葉を投げ掛けら
れたが、もしかしたらという気持ちが沸いてくる。
﹁あの⋮じゃあ、ゲームって知ってる?﹂
ストレートに聞いてみた。
﹁えっとこう、テレビにも繋げると言うか、小さいデーエスでも多
分出来ると思うんだけど、⋮あ、でも﹃夢みる男花魁﹄を知ってる
としたら、こんな質問必要ないもんね。いつから知って⋮﹂
﹁は?﹂
自分が予想していた質問では無かったのか、間の抜けた声を出し
たと思えば凪風がやっとこさ此方へ振り向く。見れば眉と眉の間が
いつもより離れていた。とんだ間抜け顔である。
というか一気に話過ぎた私が悪い。
675
﹁げぇむって、何?﹂
﹁えっと﹂
﹁よく分からないけど、時々おかしな事を言うよね、野菊って﹂
まるで変な物でも見るように首を傾げた。
﹁おっお互い様じゃんか!﹂
え、私がおかしいの?可笑しいのか!?
彼の言いぐさに何かムッときたので、叫ぶ勢いでそう言い返す。
私には間違いなく﹃ちょっと頭大丈夫?﹄という副音声が聞こえ
た。
絶対聞こえた。
﹁じゃあなんで﹂
﹁僕はずっと後悔している事があるんだ﹂
ゲームを知らないのでは、なら、じゃあ何で。
疑問は募るばかりで言葉が口をつけば、今度の返事はさっきより
もずっと素直に返ってきた。
全くもってその意味は分からないけども。
﹁後悔って、何を?﹂
﹁じゃあ僕も聞くけど、野菊は何で僕等や愛理を避けているの?﹂
﹁⋮⋮﹂
今度は私が無言になる。
﹁ほら、お互い様でしょ﹂
676
そんな私を見て、ニヤリと意地の悪い顔をのぞかせた。
く、腹が立つ。
﹁最悪。それは揚げ足とりって言うんだよ﹂
﹁どうとでも言えば良いね﹂
﹁結局何も解決してないし﹂
追求する事が必ずしも物事を解決し、円満へ導くというものでは
ない。触らぬ神に祟りなしとも言うように、かかわり合いさえしな
ければ余計な災いをこうむる事は無いのよ⋮と暗に言われているの
か?なんだか解せぬ。
凪風はそれ以上何も言わなかったが、彼が何かを知っていると言
う事は確かだと思っている。
そりゃ色々聞きたい事はある。寧ろ今聞かないと、とさえも思い、
今日彼が発言した事や、これまでの言動なども含めて全てだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
それでも無理矢理聞いて圧しきらないのは、彼が心底話したくな
さそうだからである。ずっと私から視線をそらしているし、見方の
問題もあるかもしれないけれど少し泣きそうな顔をしている。
前にも思っていた事だが、ここは言わば大きなシェアハウス。人
間関係と言うものが無数に蔓延り糸を巡らせてぐちゃぐちゃに絡み
合う場所。
未だに自分が志乃と言う事も言い出せてはいないし、相手も相手
で聞いてはこない。
677
﹁野菊も禿相手に途中で抜けたんだよね﹂
気まずい空間を押しきるように、凪風が私に話を掛けてくる。
そしてそこでやっと目が合った。
﹁凪風も?﹂
思うより穏やかな瞳だった。垂れ目なせいなのもあるのだろうけ
ど、柔和でゆるやかに笑っているような、そんな目。
眉を垂れ下げて泣きそうな顔をしていたから、てっきり憂いを含
んだ瞳か、死んだ魚の目をしているのかと思っていたのだけれど。
想像していたよりも和やかな目つきに少し安堵する。
﹁早く戻らないとね﹂
﹁そうだね。しかしなぁ、死んだ魚の目ぇしてると思ったのになぁ﹂
﹁それなんの話﹂
そう話しながら腕を掴んでいた手は離され、そのかわりに手を繋
ぎ背中を押された。
そのまま私と凪風は誰もいない廊下を再び歩きだす。
﹁あのすいません。何で手を繋ぐの﹂
隣の彼の背が高い為、顔を真上に向けて質問する。もう少し離れ
てくれれば見やすいのに。
言葉を交わすのは良しとしても、こうくっつかれてはいただけな
い。指をおもいきり伸ばして離そうとしているのに、ググっと力を
入れて握られるので全く離れない。それにちょっと痛い。数刻前と
同じ状況になっている事に、溜め息をついた。
手を繋がなくとも私は逃げないし、そもそも一人で部屋には帰れ
678
るのに。
あぁ、でも本当に背が高いな。
昔から高かったけど、多分清水兄ィさまと宇治野兄ィさま位あるん
じゃないかな。
﹁後悔したくないから﹂
またもや私の方を見ず、前を向いたまま答えた。
いや、だから何をだ。
しかし会話はそのまま強制終了され、私は部屋へと戻されたので
あった。
﹃兄ィさま、おかえりなさい!﹄
﹃ただいま。遅くなってごめんね﹄
﹃せんたく物が早くかわくと良いですね﹄
﹃うぇっ、やば﹄
大事なもこちゃんをすっかり忘れていた。
679
始まる 受難の日々 16
﹁まぁ可愛らしい童だこと。お名前は?﹂
﹁いず、みです﹂
﹁いずみちゃんね?名前まで可愛らしいわ∼﹂
あっという間に仕事の時間。
正座をして私の三歩後ろに佇む和泉に、松代様が両手を胸の前で
組ませて感嘆している。
いやいや、そんな無邪気にはしゃぐ君も可愛いよセニョリータ。
日頃滅多に私の座敷に禿は来ない為、松代様は和泉に興味津々で
ある。他の妓楼へも通っていたと言っていたが、そこでもあまり見
掛けなかったのだろう。
一日目、初っ端から座敷へ出させられている和泉だが、本来はこ
れが普通である。引込ならば奥で大事に客へも見せず育てるのだが、
普通の禿であればこうして座敷にポンと見せ物宜しく出されてしま
う。
でもだからと言ってお茶を入れさせるワケでも酒を注がせるワケ
でも無いし、襖を開けさせたり火鉢に墨を入れたり何なりと仕事を
させるワケでは無い。入って約一週間が経つまでは常に私の後ろへ
居させ、座敷を見せる。ただただ見せるのだ。お客が遊男と二人で
いたいと言えば部屋へ下がらせれば良いので、まぁ教育実習のよう
なものである。
私が昔やっていた閨の布団敷きだが、残念なことに私自身使う事
が無い。なので他の花魁や兄ィさまの手伝いにまわってもらうこと
680
にしている。
﹁いずみちゃんの字はどう書くの?﹂
母性本能をただ今絶賛くすぐられ中の彼女はしきりに和泉を構い
倒し、頭をポフポフと撫でて可愛がっている。
目をパチパチとさせて照れている和泉に、良いね、と言えば更に
顔が赤くなってこれまた面白かった。松代様がこのちびちゃんを腐
るほど構いたい気持ち、今世界で私が一番分かると思う。
﹁和紙の和に、泉で、あわせて和泉だよ﹂
﹁うふ、雅な字なのねぇ﹂
手のひらに指先で文字の形をなぞり書きながら、松代様は楽しそ
うに和泉を見た。
この時間、本当に癒されるなぁ。
でもこんな事をおやじ様が聞いたら﹃お前が客に癒されてどうす
るんだ馬鹿野郎!﹄とか言われそうだけど。まぁその通りなんだけ
ど。
今日も今日でなんだかんだ色々あったし、頭がちょっと痛いのも
あってか余計この状況に癒しを感じてしまっているみたいだ。考え
事のしすぎだろうか。愛理ちゃんの寝言が気になるのもあり、それ
も中々頭から離れない。あのまま凪風の邪魔が入らなかったら、何
かが変わっていたのだろうか。
清水兄ィさまの言葉も勿論気にはなっている。凪風の嫌い発言に
動揺も何もなく普通に応答していたし、二人が以前その事について
話していたという事も謎だ。
681
﹃そう。でも私は前に言った通り彼女が嫌いではないから﹄
彼女って⋮。話の流れからするに愛理ちゃんの事で良いのだろう
か。
なんか私、ゲームの記憶を思い出さなかったほうが良かったのか
な。記憶に振り回されている自分は心底滑稽だと思うし、楽しくと
もなんともない。悲惨、と言う一言につきる。
﹁佐久穂ちゃんも、こう見ると随分大人なのね﹂
﹁佐久穂は良い新造だよ。もう子供扱いできるのも時間の問題かな﹂
佐久穂とは、今日の座敷にあがってくれている新造の子の事だ。
直垂姿はしゃんとしており、美形というよりは、どこか少し可愛さ
の残る顔をしている。
亜麻色の髪の毛は艶やかで、頭の形に沿うようにサラサラしてい
る綺麗な短髪はついつい触ってみたくなる程に柔らかそう。良いな。
私の髪のキューティクルは最近はがれ気味なので是非見習いたい。
何もしなくてもキラキラしていたあの頃が懐かしい、なんて今年十
六になったばかりの人間が言うことじゃないけれど、天使の輪が頭
頂部で光っているのを見ているとかなり羨ましくなり唇を噛んでし
まうのは仕方がないよね。
ね。
羅紋兄ィさまの下についている彼だが、今夜は私の座敷へ出張し
てくれている。前回来てくれたのは五日前でつい最近来てくれてい
たばかり。
けっこうお世話になっています。
﹁そんな事はないです。お恥ずかしい﹂
682
私と松代様の会話に、お酒後の茶に使う茶葉を用意してくれてい
る佐久穂がそう言ってニコリと笑った。礼儀正しいのに何処か愛嬌
のある素敵な新造ちゃんである。
≪﹃お高く止まりやがって!こっちは金払ってんだ!口吸い位良い
だろう!﹄≫
≪﹃お客さん落ち着いてくださいっ、困ります!﹄≫
﹁?﹂
そう和んでいると、突然男の野太い怒号が上の階にある私の部屋
にまで響いてきた。
なんと傍迷惑な。
﹁あら?何だか下が騒がしくありませんこと?﹂
松代様は口に手を添え、訝しげながら首を傾けた。
佐久穂はその声にビクリと体を跳ねさせたが、何も無いというよ
うにして、直ぐにお茶の支度に戻る。
﹁さぁ、どうしたのだろうね。それよりもまだお酒はどう?﹂
﹁今日も美味しいわ!新造の舞や、芸者の箏もより一層楽しみたい
気分ですわね﹂
﹁良かった﹂
話題を逸らし酒をすすめる。
妓楼に男性の客がたま∼にチラとやって来るのは、珍しいが珍し
683
くも無い事。
基本、しかるべきお金を払えば誰でも遊男を買えるのでこう言う
事は有り得なくないのである。ただし男の場合はちゃんと身分を証
明できる物を持っていなければダメだ。大門で半ば強引に職質に遇
うし、良いことは一つもない。
あまり女性には話題にしてほしく無いのだが、松代様はどうして
も気になるのか、耳を静かに澄ませる仕草をする。よしなさいと彼
女のちっちゃな耳に手を当てて蓋をしてみるが、あらあら良いじゃ
ないですかと興奮しながら言われた。
ちょ、この子は全くもう。
それに何で興奮気味なのよ。
﹁男性もこのような場所にくるのねぇ。遊びは女がやるものだと思
っていたものだから、そのような殿方がいると知って吃驚してしま
ったのを覚えているわ﹂
﹁それはそれは﹂
﹁男性が男性を買うだなんて、私達からしてみれば目から鱗ですも
の﹂
﹁でしょうね﹂
﹁でもちょっと萌えますわ﹂
﹁え﹂
﹁うふふ﹂
松代様の奇妙な萌え発言は聞かなかった事にして、お酒をお猪口
に注ぐ。
なるほど、興奮気味の理由はこれだったのか。
≪ギシッギシッガタガタ≫
684
注いでいれば、先程まで聞こえていた怒号はどうしたのか、今度
は何やら走り回る音が部屋の床を伝い聞こえてきた。不規則なリズ
ムで駆け回る音は次第に近づいてくる。
それに伴い、再び喧嘩騒ぎの声が私と松代様の耳へ届いた。
≪﹃お客さん!これ以上暴れ回れば仕置きを受けますよ!﹄≫
≪﹃うるさい!どこだ!どこに隠しやがった!宇治野花魁を出せ!
!﹄≫
何があったのかは定かでは無いが、客らしき男の言葉を聞く限り
宇治野兄ィさまを探しているようだった。
なるほど、兄ィさまの客だったのね。
探している、という事はきっと兄ィさまに付いていた新造が上手
く彼を逃がしたのだろう。
遊男はどんな事をされても客に手をあげてはいけない。刃物を持
ち出された場合は保身のため別だが。
花魁ならば、馴染みの者ならいざ知らず、そうでない一般客の座
敷の場合、部屋には必ず新造と男芸者が数人いる。客と花魁をけし
て二人にはさせない。
花魁に馴染みにしてもらうのは、三日間通い、その末で花魁がこ
の客を馴染みにして良いと判断したらである。その過程において、
客は花魁と話す事はおろか、触れる事さえも許されはしない。時折
それに逆上をしてしまう客がいるのだが、そこは新造の出番。男芸
者にその場を一時任せ、速やかに花魁を座敷から出し楼主部屋まで
下がらせる。
レッテル
そのあとは男衆に客を抑えてもらい、おやじ様から客に﹃出禁﹄
の称号を貼られるのを待つだけだ。
685
﹁宇治野花魁様は大丈夫なのかしら?男とはいえ、恋に盲目過ぎる
のも程々にしませんと⋮憐れなものですわね﹂
﹁そうだね。恋におちると理性や常識を失ってしまうとは言うけれ
ど⋮﹂
しかし妓楼内を走り回るとは何事か。ちょいと荒れすぎだぞ。
なんだか、恋は盲目、なんて可愛い言葉では言い切れない執着心
がありそうだ。
こんな事は普通無い筈。客が部屋から出て暴れ回るようなものな
ら、とっくに捕まえられていても可笑しくは無いというのに。
男衆は何をしているんだ!宇治野兄ィさまの一大事だぞ!と心の
中で叫んでは見るが当然皆に聞こえるわけも無いしテレパス能力を
持っている超能力者でも無いので無駄である。もどかしくてついつ
い着物の裾を掴んでしまった。
けれど松代様には何か伝わったようで﹁大丈夫ですわ、さぁさぁ
厠へ﹂と言われる。違うっ違うよ!確かに裾掴んだから何か我慢し
ているみたいに見えたのかもしれないけど違うよ!
﹁ここにもいないのか!﹂
声と共に襖が音を立てて凄まじく開かれる。
何事かと思い、私と松代様は瞬時に振り返り見た。
﹁なっ﹂
﹁やだ野菊様!﹂
松代様が私の後ろへ隠れだす。
羽織をくしゃくしゃに掴まれ、背中にぴとりとくっ付かれた。
686
一方、襖を声も掛けずに乱暴に開けた常識の無い無礼者は、息を
荒くして此方を見ている。血走っている目はそのまま目玉が飛び出
て来そうで気持ちが悪い。
声からするに、宇治野兄ィさまを追いかけていたのはこの人だろ
うか。流れ的にも。
﹁おぉ⋮美しいな﹂
﹁?﹂
男はブツブツと何かを呟いている。
しかし久しぶりに丁髷姿の男性を見た。だと言うのにそれが茶色
に白髪混じりで脂っぽい肌をしたおっさんというのには少しガッカ
リである。
どうせなら凛々しい人の丁髷姿が見たかった。
ここに来てから丁髷姿の人はあまり見たことがなく、髷、という
概念さえも忘れていた気がする。最後に髷を見たのは天月に来る前、
あの河原で起きた時以来だし。
おのこ
﹁いやしかし⋮お前のよう男子も悪くは無い。それにその容姿、黒
髪の女と見紛うばかりの美貌は、もしや野菊花魁か﹂
とか呑気に考えていれば、私達が動かないのを良いことに男は一
歩踏み出しゆっくりと近づいて来た。ジリジリと近付いて来る様は
豚のような見た目をしているくせに蛇のよう。
ちょっとちょっと此方来ないでよ。あとそれ以上汗かかないでく
れないかな、変な菌を含んだ滴が畳に落ちたらどうしてくれるの。
畳張り替えてくれんの、どうなの。もう絶対その畳使えなくなった
わ。それに納豆臭い足で踏まれた時点で汚されたと思うからお願い
弁償して。
687
でもお願いです此方に来ないでください。
とりあえず私は何が言いたいのかと言いますと。
﹁気持ち悪っ﹂
男衆!カモン!
なんて心の中で叫んでみたけれど、やっぱり駄目でした。
688
始まる 受難の日々 17
こんにち
ふださし
ながはまへえたにのすけ
宇治野が今日、客を迎えたのは椿の間。そして客として天月へ出
向いたのは札差を職とする・長浜兵衛谷之允という男。
札差とは蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売
却を代行して手数料を得ることを業とした商人の事であり、また取
次業の他にその蔵米を担保にして金融業を行い巨富を畜え、腐る程
の金を持つ大金持ち人間であるとされていた。
簡単に言えば札差とは旗本、御家人相手のサラ金業者である。
﹁花魁、今日もまた美しいなぁ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
しかし宇治野は三日目となる座敷においても、この人間を馴染み
にする気などは毛ほどもなかった。
男であるから、という理由ではない。
同性であれ良い客ならば喜んで⋮とお世辞にも心からはあまり思
えないけれど、嫌悪するほどではない。
神が自分たち遊男を自由にする条件として男と寝ろと言うならば
両手を挙げて襲っていくだろうとも思う。⋮結局素面では嫌だとい
うことにはなるが。
しかしこの長浜という男は座敷での礼儀はおろか、触れてはいけ
ない花魁の手を握り、あまつさえ新造にも手出しをしようとする始
末。
本来ならば出禁の域に達するのだが、この男に至っては今回に限
り下手に追いやる事が出来なかった。そうというのも、彼には悪い
689
噂がある。
この吉原、一度入れば身分は関係無く、無礼をすれば手打ちにさ
れ、妓楼にはまたとなく入れない。ともすれば、いくらこの国で一
番偉かろうとも、足を踏み入れてしまえば忽ち綺麗な花に溺れる蝶
にしかなり得ないのである。
くに
しかし、いつの時代も﹃金﹄が存在する。
その﹃金﹄があればある程、この吉原では優遇される。
いくら出禁にされたとしても、この長浜は有り余る金を使い大門
をこじ開け、何度でも吉原へ入ってくる。
そしてこの男の一番タチの悪い所は、自分好みの遊男を見つけた
ら最後、大金を叩いて身請けをし、使えなくなるまで買い殺すとい
う少々⋮どころではない変態であるという点だった。
そんな長浜が今度目につけた遊男は天月妓楼の宇治野花魁。吉原
で一番お高いと称される天月の遊男は、それこそいくら金を持って
いると言われる長浜でさえ手がつけられなかった。
いや、手はつけられたが、天月の遊男を一時の間買うよりも身請
けをしたかったのだ。しかし身請けの金額は城を買うよりも高い。
意味は少々違うが、正に傾城と言われるだけのことはある。
宇治野を指名した理由としては、単純に彼の好みに合っていたか
らだ。女のようで女では無い。この男の性癖は女のような男が好物
だと言う事だ。
女が夜遊び当然の世界では、長浜の癖はたいそう狂っているもの
とされている。そもそも男が夜の町に繰り出す事自体が可笑しな事
であり、常識から外れていた。しかも求めるものが異性ではなく同
性。
﹁宇治野花魁よ。そろそろ心を許してはくれぬのか?﹂
690
﹁⋮﹂
﹁そういけずにならなくとも良かろうに﹂
﹁⋮⋮﹂
宇治野は先程から声を掛けられているのにもかかわらず、その瞳
は相も変わらず男に向くことは無く真っ直ぐに前を見据えたままで
あった。
沈黙を守る宇治野の行為は、花魁の姿勢そのもの。
心を許さぬ相手には容易に言葉を返さない。
そしてその代わりにその場を切り盛りするのが新造や男芸者の役
目である。酒を注ぎ、芸を見せ、客にせめてもの奉仕をするのだ。
﹁花魁、私はなぁ﹂
しかし客の男の様子がおかしい。
新造がその様子にしっかりと気づき、宇治野へそっと耳打ちする。
話している小声は、この場がしんとしていれば客に気づかれてしま
うだろうが、幸い男芸者が奏でる三味線の音によって守られている
為、内容が漏れる恐れはほぼ無い。
﹃花魁、お逃げください。頃合いです﹄
その言葉にゆっくりと瞼を閉じた宇治野は、再び目を開き長浜を
見つめる。
実はこの座敷、ある目的があって仕組まれたものである。天月だ
けの問題では無く、吉原全体で仕組まれたと言っても良いだろう。
﹁私はなぁ﹂
691
宇治野は、自分は人を見た目で判断する人間では無い。と今まで
思っていたのだが、今回ばかりはそうとも言い切れそうにないと思
った。
腹はだらしない程に出て
長浜の脂ぎった額には、先程手拭いで拭いたとは思えない程の汗。
目玉は蛙のようにギョロリとしている。
おり、日々の生活習慣、特に食生活が大分豪快であろう事が想像出
来た。自己管理能力が低いことも要因だろう。
そして大概見た目がだらしない人間は性格もだらしない。自己中
心的な人物が多いのもこの分類の人間である。
第一、この男に至っては噂が歩いて出回っている事もあり、そう
した先入観がまず含まれてしまっているので、見た目で判断がどう
のこうのと言う話ではなかった。
﹁私はなぁ、私はなぁ、この座敷に財産を賭けているのだよ。金金
金金金金金金の固まりを三日間渡し続けているのだ﹂
長浜が虚ろな目で宇治野を見つめ返す。
新造は静かに襖の前に座り、後ろ手に戸へ手を掛けた。
﹁花魁は厠の為、一度お座敷を下がらせていただきます﹂
﹁か、厠だと?﹂
﹁何か?花魁も人の子です。当然でしょう﹂
厠で座敷を抜け出す花魁など、長浜は聞いた事がない。それは最
もで、本来ならば厠に行きたい等そんな痴態を見せて遊男が座敷を
下がるなんてあり得ないのだ。
﹁馬鹿にしているのか!?﹂
﹁⋮長浜様、失礼いたします﹂
692
宇治野は早々に羽織と裾をおさえて立ち上がると、長浜を一拍程
見つめてから部屋を後にした。
﹁っぇあ?あ、ああ﹂
それまで口を開かなかった花魁が口を開いて初めて喋ったので、
長浜は不意を突かれてつい返事をしてしまう。
しかしその後。
花魁は厠へ向かって暫く経つというのに、一向に部屋へと戻って
来る気配が無かった。
そしてそれを怪しんだ長浜が行動に起こした故の結果がこれに繋
がる。
***************
﹁気持ち悪っ﹂
この好色爺が!
と心の中であくたくをつくのは良いが、ついたからと言って状況
は何も変わらない。気持ち悪さも変わらない。寧ろより一層吐きそ
うな程の嫌悪感が襲ってくる。
もしやこの人、噂で聞いていた例の﹁長浜変態之助﹂?
﹁和泉、佐久穂﹂
693
気持ち悪がっているのは私だけではない。この場にいる全員が奴
を生理的に受け付けていない事は、周りを一々見渡さなくても確か。
体を震わせている松代様を背中に庇い、臨時で座敷に上がってく
れている新造の佐久穂と和泉ちゃんに手を振り、後ろへ下がるよう
指示する。
﹁はて。何の御用でしょうか﹂
﹁私は長浜兵衛谷之允だ。その羽織、そなたはやはり野菊花魁では
ないか。道理で高級な香りがするわけだなぁ。私の食指も動く﹂
ニタリ、と舌舐めずりをして男が此方に近寄ってくる。
やはりこいつはあの長浜だったか。
長浜という男は女性のような男子には滅法目がなく、そのくせ遊
男の扱いは随分粗末なものだと聞いていた。そんな奴が宇治野兄ィ
さまを買っていただなんて⋮。
奴の見た目を比喩するのなら、あれはガマ。ガマガエルだ。しか
し一体何を詰め込んだらあんな体になるというのか。わがままボデ
ィにも程がある。
言っちゃ悪いが、人間じゃないうちのチャッピーの方が何百倍も
かっこいいよ。
﹁これは規則違反ですよ﹂
﹁お前は金を払わずとも私に話を掛けてくれるのか。あぁ、そうか
そうか、やはり最初から野菊花魁にするべきだったんだ。長府の奴
め。良いように私をタブらかしおって﹂
長浜は笑みを浮かべながらハァハァと息を荒くする。
694
き、きもおぉぉおぉおいっ!
腐るっ、目が腐る!
気持ち悪いんですけど!!
話掛けるって言っても、これどこからどう見てもうざがって追い
払っているようにしか見えないよね。
日本語が通じないよコイツ!
長く正視することに耐えられなくて、亀のように手足を縮めこめ
たい気持ちになる。もしも私に甲羅があったのなら、直ぐに首も引
っ込めてこの不審者から逃げていただろう。
今だけ亀になりたい。
因みに希望が叶うならゾウ亀。
﹁野菊花魁よ、その玉のような肌に触れさせておくれ﹂
ジリ、とまた男は寄ってくる。
というかちょっと!
この人の事を誰か追いかけてたんじゃないの!?
さっきまで明らかに誰かと逃走劇繰り広げていたようなやり取り
していたよね?
何で誰も奴の背後にいないんだ!!
﹁⋮仰る意味が良く分かりませんが﹂
と心の内で大声を上げながらも、とぼけたフリをして後ろへ少し
下がった。松代様も私の動きに合わせてくれる。
しかし男はその様子に余裕の笑みを浮かべると、懐に手をやりチ
ラリと銀に光る刃を私に見せつけた。
それは短刀だった。
695
﹁⋮⋮﹂
なんだかもう、私は言葉を出す気にもなれない。
⋮何で今ここで出すのだろう。
こう言っては不謹慎だけど、出しどき結構あったよね。別にこの
場面じゃ無くても良かったよね。この人マジ何しに来たんだろう。
しかしだからと言って降参するつもりは無いし、松代様もいるわ
けだから、要求に応え客としてわざと相手にすることも戸惑われる。
﹁野菊様?﹂
松代様は後ろに隠れながらも、男の持つ刀をバッチリ見てしまっ
たようで、ビクリと体を震えさせたのが背中ごしに伝わってきた。
ごめんね松代様。怖いよね。
﹁大丈夫だよ松代﹂
私の護身刀は、今座っている畳の下にある。
縁から三番目の目を剥がせば、切れ味の良い刀が鞘に収まったま
ま姿を表す。護身術程度には刀の扱い方をおやじ様から習っていた
ので、扱い方を知らないワケでは無い。しかし本当に害をなそうと
する人物から刃物を向けられた事が無いので、多少なりとも不安が
ある。練習は所詮練習だ。
私は男に不審に思われないようゆっくりと畳の目に手を這わせた。
一つめ、二つめ、となぞっていく。
私だって本当は震えたい程この状況が怖い。
696
﹁ならば、此方へ来て俺と話をしますか?﹂
とりあえず口先だけは宥めに入ってみた。
時間稼ぎにもならないとは思うが。
﹁私はな、そんなものでは満足出来ないのだよ。交わしたいのは口
ではなく、綺麗な男子の体だ﹂
男は意気揚々と言い放つ。
ダメだコイツ。
特にクサい臭いはしないというのに、私は腐敗臭でも嗅いでしま
ったかのようにヒクついた表情をしてしまった。
﹁さぁほれ、早く﹂
畳みの三つめの目に指が当たる。
私はけして知らなかったワケでは無い。
噂で聞いていただけだが、この男が行ってきた吉原︵仲間たち︶
への仕打ちを。
ある者は男として不能にされ、ある者は奴に買われ命を落とした。
それに安い遊男であれば、お構いなしに針や毒物を使い心中紛いの
こともさせていたと聞く。長浜の周りの者は皆奴がおかしいとは思
いながらも、誰も彼を止めようとはしなかった。それは罪である。
それはこの吉原で生きている人間や妓楼の楼主たちも同じ事。もち
ろん私もだ。誰か一人でもこの事に声をあげていたのなら、もしか
したら違った結果になっていたのかもしれないのに。
どれだけ皆が無念で残酷だったか。
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こんな奴が何故外で大手をふって歩いているのか。
何故みんなはこの男より下の人間であるのか。
けれども、そんな﹃何故﹄なんて。
此処で生きていれば誰に聞かされなくとも、おのずと理由を分か
ってしまっていた自分が大嫌いになる。
目を掴む指先に力が入った。
長浜を見る。
﹁貴方は、本当に⋮﹂
一度地獄を見た方が良いと思う。
カタリ、
﹁貴方が野菊を買おうだなんて何千何億年も早いな。高望みにも程
がある﹂
しかし突如、その声と共に男の首に刃が突き立てられた。
﹁なにっ﹂
ゆらりと不安定だった空間が、場面を切り裂かれるように一瞬で
ピンと緊張の糸を張りつめる。
いきなりの事に、刀を手にしようとした私も相手も目を丸くし唖
然としていれば、その後ろからは更に黒い袴を着た人たちが声を高
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らかにしてやってきた。
﹁お縄をちょうだいする!﹂
﹁そこへ額をつけろ!﹂
服装からするに、彼らはこの吉原の警察とも言える方々。三郎兵
衛会所の人達だ。吉原の大門を入るとすぐ左手にあるのは﹁三郎兵
衛会所﹂という吉原独自の警察署であり、そこは各見世から派遣さ
れた男が遊男の脱走を監視する場所となっていた。岡引の詰め所も
目の前に構えてある。
吉原で起きる様々な事件等は、主にこの男達を中心として解決に
まわっていた。
と言うことは、これは何かの事件なのか。
﹁その次は誰を狙うつもりだった?まさか端屋の遊女では無いだろ
うね﹂
その声は清水兄ィさま。
話していくにつれ不機嫌で重々しい唸り声になっていくその様は、
まるで閻魔大王が罪人に地獄行きを言いつけているようなものであ
った。
それになんと男の首に刃物を押し当てているのはその兄ィさま本
人である。鋭い切れ長の瞳が、背後から長浜を強く射貫いていた。
何故兄ィさまがそんな事をしていらっしゃるのか。
おいてけぼりな状況はまだ続く。
﹁長浜。貴様はもうこの吉原には入る事は出来ない。ついでに言え
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ば、貴様の家はもう無いも同然になっている。残念だったな﹂
ぽかーんとしていれば、また新たな人物が部屋へと入ってきた。
服装は三郎たちよりも立派なもので、頭には笠を被り、黒い羽織の
背にはデカデカと﹃奉﹄と書いてある。
﹁なっなんだお前らは!?どういう事だ!!﹂
それを見た長浜は急に狼狽え始めた。
﹁貴様の大好きな金はもう無いと言う事だ。分かれ、下衆が。この
天月に手を出した事がそもそもの間違いだったな。吉原の頂点とも
言える者が集まり、尚且つ吉原の要と言っても過言では無い楼主の
大見世で暴れ回るとは⋮﹂
﹁離せ!私はまだっ﹂
﹁好きに騒げば良い。⋮清水殿、ありがとう。後はこちらでお縄に
しよう﹂
長浜の周りを皆が囲んでいる。
刀で拘束していた兄ィさまもその様子を見て、男の首から刀を引
いた。
﹁お父様、清水様、お見事ですわ﹂
すると雪野様が手を叩き、ひょこりと襖から顔を覗かせた。
お、お父様?
﹁少しやり過ぎな感じもするけどな﹂
﹁でもあの男には丁度良いくらいでしょう﹂
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続いて羅紋兄ィさまと宇治野兄ィさまが部屋へと入って来る。
﹁宇治野花魁、羅紋花魁、清水殿、協力感謝する﹂
お父様と呼ばれた男の人は、その三人に向かってお辞儀をする。
なんだこれは。
私の預かり知らないところで何が起きているというのか。きっと
後ろにいる松代様や和泉と佐久穂の方がわけわからん状態だろうが。
﹁いやいや、どう使ってくれても構わねぇぞ。いつもこの妓楼に金
を落としてくれている事だしな﹂
娘が。
と笑いをこらえながら後からやって来たのはおやじ様だった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6714cq/
隅でいいです。構わないでくださいよ
2016年8月23日20時36分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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