あり 11 寿命と子ども 年 間、 長 谷 寺 が 関 は な く な る で し ょ う。 例 え 体はそれほど特別なことで ませんでした。まあ普通、そ 際に確かめてみたことはあり そうなのかと思うだけで、実 どないためです。また、 年 帳には、年齢の記載がほとん これより前の江戸時代の過去 ばこの 歳 以 上。 5 人 に ひ せんが。 わ っ た 葬 式 の 記 録 を 見 て も、 んなことを確かめる人はいま 2割が と り と い う 計 算 に な り ま す。 幸い寺には、檀家さんの過 去帳という、寿命を知るには 代のグラフが安定しないの は、データが少ないせいです。 世紀までは、過去帳に年 齢 の 記 載 が あ る も の は 稀 で、 格好のデータがあります。ひ 確実に記載されるようになる ち な み に、 冒 頭 で 紹 介 し た 刀 自 は、 今 年 め で た く 百 寿 のは、 80.0 70.0 60.0 50.0 40.0 30.0 1868 20.0 10.0 0.0 とむら 世紀にな ってからで とつこれをもとにして、寿命 まれる前ですから、刀自は顔 をお迎えです。 ☆兄ちゃんの百回忌 が増えるので、グラフは安定 も、百回忌のお兄さんの法事 こ れ か ら の お 年 寄 り に は、 左のグラフは、過去帳に記 い 幼 く し て 逝 っ た 兄 弟 姉 妹 は、 載された死亡年齢の平均値を の延びとやらを確かめてみる し か し 一 方 で、 い ま は 子 ど も が 死 な な く な り ま し た。 ことにしましょう。 数年前、とある檀家さんの 法事で、百回忌の子どもの供 の席に座って、菩提を弔うこ も に 次 の ふ た つ で す。 短 期 日本人の平均寿命の長さ は、 よ く 話 題 に な り ま す。 歳を 平均寿命の変遷 など知りません。それにして 養をしました。男の子ですか きっといません。 す。このあたりから、データ します。 さて、その安定したグラフ によると、だいたい 歳くら とができる。まさにそれが今 間のうちに寿命が一気に延 グラフ化したものです。縦軸 ら、 戒 名 は「 ○ ○ 童 子 」。 参 列 し て い た 代 半 ば の 刀 自 という時代です。 の言 葉 に 驚 き ま し た 。 昔はどうだったか。かつてけ 「あ た し の 兄 ち ゃ ん や 」 は、 歳まで生きるなんて稀 う ふ つ う 百 回 忌 の 法 事 に は、 有のことだったし、もしそう 供養される人物を見知って いうお年寄りがいたにして び た こ と と、 子 ど も が 死 な いを上下しています。 も、とても元気ではいられな なくなったこと。 が年齢、 横軸が西暦。 年(明 いる人は、参列してはいませ かったでしょう。 じ ん。顔も、多くの人は名前さ ☆平均寿命 と え知らない人を供養するの これから先はどうか。例え ば、平成生まれの子どもたち そ う い え ば、 男 性 が 治 元 年 ) を 起 点 に し た の は、 が、 百 回 忌 の 法 事 で す 。 て亡くしたお兄さんの供養 超えたという報告があった いまはそういう特殊な時 代というわけですが、そうい そう思いこんでいました から、百回忌の仏さんの妹さ ができるか。これもなかなか の は、 少 し 前 の こ と で し た。 歳になった時に、幼くし 1800 グラフが右肩上がりになる のは、 年、敗戦あたりから んが参列し、いまもお元気と ありえない話です。 歳 で、 男 女 の 平 均 90.0 歳 く ら い で、 年ですから、約 敗戦は 年前です。わずか 年で、日 えます。 寿命の延びは戦後のこととい の平均寿命は です。この頃までは、日本人 40 ところで、戦前までの 歳 という寿命は、生物としての ☆動物の寿命 は驚異的なことです。 生きになったわけです。これ 本人はそれまでの2倍近く長 70 う 時 代 に な っ た 要 因 は、 お いう 現 実 に 驚 い た わ け で す 。 女性は 40 2016(平成 28)年 8月1日 で は 世 界 一 な の だ そ う で す。 が 20 1946 95 号 たしかにこれからの時代 は、 歳 ま で 生 き る こ と 自 70 40 80 90 19 10 90 86 90 90 1945 90 もちろんこのお兄さんが 亡 く な っ た の は、 刀 自 が 生 1868 1874 1880 1886 1892 1898 1904 1910 1916 1922 1928 1934 1940 1946 1952 1958 1964 1970 1976 1982 1988 1994 2000 2006 2012 -1- -2- 妥当 な も の ら し い で す 。 ヒ ト の 寿 命 と し て は、 極 め て のでしょうか。 は、 ど ん な 意 味 を も っ て い る 動物の持っている時間=寿命 ☆子どもたち なったわけです。 中でも、極めて特殊な存在に ればならないヒトは、動物の たとえば、冒頭の話で紹介 した刀自のお兄さんは、 年 られてからのことです。 りのために、檀家制度が整え なくともうちの寺では、もう 年) こ れ が 昭 和( 元 年 が に入って減りはじめ、戦後に いたい決まっているのだそう あ る 生 物 学 者 に よ る と、 動 物 が 一 生 に 刻 む 心 拍 数 は、 だ 実 は そ れ は、 子 育 て が 終 わ っ て、 次 世 代 へ バ ト ン タ ッ 渡していません。 激減し、いまはほぼ皆無。少 年以上も、子どもに引導を 死亡率は4割。死者の半数近 チ す る、 い わ ば 生 物 と し て の ところで、平均寿命が 歳 ( 明 治 年 ) に 亡 く な っ て い ということは、誰もが 歳ま ます。この 年代の子どもの で す。 ど の 動 物 も 同 じ で、 約 でしか生きられないという意 ☆子どもの死 役目を終えるまでの時間とい くが子どもです。 25.0% 18 30.0% しかもわずか 年前まで。 子 ど も た ち だ っ た わ け で す。 は、おとなではなく、むしろ は知ってはいても、こうやっ 江戸時代は、死ぬ子どもが 多かったということは漠然と 味ではむろんありません。還 35.0% 億 回。 生 き 物 の 寿 命 は、 心 1926 うことらしいです。 自 然 界 で は 生 き 残 れ ま せ ん。 多くいました。 しています。 40.0% 億回というこ 歳をとり、動きが鈍くなると、 中でも、子どもの死の多さ が、全体としての平均寿命を 45.0% 拍数にすれば 10 暦を過ぎても生きる人だって 1670 1690 1710 1730 1750 1770 1790 1810 1830 1850 1870 1890 1910 1930 1950 1970 1990 数値に多少のばらつきはあ るものの、 世紀後半あたり 1911 0.0% います。同じ意味で、平均寿 他の動物の餌食になりやすく 引き下げていたことは想像に 5.0% これを超えれば、身体は衰 え、 病 気 に な り や す く な り ま た だ、 心 拍 数 が 同 じ だ か ら と い っ て、 寿 命 も 同 じ と い う な り ま す。 た と え 生 き 残 っ た 難 く あ り ま せ ん。 こ の こ と す。縦軸が割合。横軸が西暦。 10.0% て数値にしてみれば、多いど わ け で は あ り ま せ ん。 な ぜ な と し て も、 得 ら れ る 食 料 の 量 も、実際の数値で確かめてみ 減 り、 ま す ま す 生 き ら れ な く ち の 子 ど も( 戒 名 に「 童 子 」 年 な ん で す。 だ と す れ ば、 い た 親 の た め で は な い で し ょ 15.0% 命まで生きられなかった人も ( 年 代 ) か ら、 子 ど も の 占 ら、 心 臓 を 打 つ 早 さ が 動 物 に には限りがありますから、大 ましょう。 なります。 う。子育てどころか、産卵す ちなみに過去帳のデータ は、江戸時代以降のものしか 20.0% す。そうなると、弱肉強食の 1910 ころではありません。死ぬの よ っ て 異 な る た め で す。 遅 い 切な次世代の取り分を減らさ 歳を過ぎる 44 める率は、ほぼ3~4割を示 動 物 の 寿 命 は 長 く、 逆 に 早 い な い た め に、 自 身 の 取 り 分 は 年。 実 際 に 寿 命 か ら い っ て も、 ヒ ト は 動 ると死んでしまう生き物だっ 15 期や後期より低いはずはあ うが、江戸初期の死亡率が中 割り出すべきではないでしょ このグラフから安易に江戸 時代の子どもの平均死亡率を となの3倍以上です。 す。子どもの死は、なんとお ひとりだったといわれていま になれるのは、3人か4人に 生まれても、ちゃんとおとな そ れ こ そ 普 通 の こ と で し た。 さかのぼると、子どもの死は け れ ど、 も っ と ず っ と 昔、 たとえば縄文時代あたりまで 100 えじき 概 し て、 大 型 の 動 物 ほ ど 心 臓 は 遅 く 打 つ の で、 長 生 き で 動物 は 短 い 。 年、 ネ ズ ミ は せ す。 ゾ ウ は 下のグラフは、うちの過去 帳に記載されている霊数のう は 物から次第に遠ざかっている 戸時代前期。キリシタン取締 られるようになったのは、江 ありません。寺で過去帳が作 こと に な り ま す 。 そういう意味でも、親と子 ☆寿命の意味 どもの両方の世話をしなけ では、心拍数 億回という、 子どもの死亡率 とに な り ま す 。 40 40 と、ヒトの老化が始まります。 親鳥が巣に餌を運ぶのは雛 「 童 女 」 と あ る も の ) の 割 合 鳥のためで、その親鳥の年老 を、 年ごとに示したもので 動物としてのヒトの寿命は 40 い ぜ い 2 ~ 3 年。 そ し て ヒ ト 70 ています。 10 40 1760 50.0% 15 15 40 -3- ともあれ、少なくとも当地 で子どもに戒名を付けて懇ろ いたようです。時代が下って、 とですが、これには、江戸時 袋に納めて山野に捨てられて が死んだ場合、葬式は行わず、 こ れ が 一般 化 す る の は もう 少 し 時 代が 下 が っ て か らの こ たとえ天皇の家でも、子ども 間もない子のことを意味しま に水子は、かつては生まれて 「水子」という位号も見ら れるようになります。ちなみ はありませんでした。その死 担うべき子どもを、大切な存 背景があります。家の次代を 式をしたりということはな うですが、戒名を付けたり葬 引きの子も水子と呼ばれたよ すいし ことといえるのではないかと 亡率の高さゆえに、子どもの 在と考える時代が、ようやく かったようです。うちの過去 世紀にかけての数値であ かも知れません。 に葬ることが一般的になった 代を通じて、継承されるべき した。江戸時代には堕胎や間 少 な か ら ず あ り、 中 に は 7 割 思います。 やって来たわけです。 帳で初めて「水子」の戒名が ろに弔いました。 る、 3 割 か ら 4 割 が 下 限 と 考 のは、過去帳記載の子どもの 江戸時代になっても、子ども 家 が 成 立し て き た と い う時 代 世紀後半か えられるのではないかと思い 割合が「下限」と考えた3割 の死で家族が喪に服すること り ま せ ん か ら、 ま す。 細 か い 数 値 は 示 し ま せ に達する、 世紀半ば以降の を 超 え た 年 も あ り ま す。 幕 末 「 生 老 病 死 」 と い う 言 葉 が 死は、いまほど重大なことと あ り ま す。「 生 ま れ、 老 い、 は考えられていなかったとい ☆新しい位号 とです。 3割から4割を「下限」と 病を得、死ぬ」という、人生 し た の は、 子 ど も の 場 合 は、 における四つの苦しみを表わ しょうろうびょうし に 近 い 嘉 永 2 年( 年 ) の こ えます。 子 ど もへ の 関 心 の 高 ま りは また、新しい位号を生みまし とです 。 地方によっては、8歳にな るまでは、当時の戸籍に当た た。明治期になると、それま 世紀初頭のこ す仏教の言葉で、これにもう る宗門改帳に記載さえされま し く はっく からです。なぜなら、江戸時 「四苦八苦」。 で 童 子・ 童 女 に 限 ら れ て い よ う に な っ た の は、 水 子 の 「生 いまのように、水子が、 まれなかった命」を意味する 代 に、 子 ど も の 死 を 誰 も が 懇 を捨てることが珍しくない時 え ま し た。 生 き て い る 子 ど も た捨子を育てるシステムも整 止 令 を 出 し、 一 方 で、 拾 わ れ し た。 幕 府 や 藩 は 捨 子 の 禁 の外にあります。しかしそれ だということは、普段は意識 至ることも、あって当然なの 病」を経ずに、直接「死」に いがちですが、「生」から「老・ や「病」の次に来るものと思 話を長谷寺の過去帳に限れ ば、早いものでは、 世紀後 なります。 初めて、寺に届け出たことに なになれるだろうと判断して せいでしょう。ちゃんとおと 人になれる保証などなかった してさえ認識されていなかっ いかにも時系列的に並んだ この言葉通り、 「死」は「老」 たわけです。生まれても、大 明 治 に なっ て 教 育 制 度 が整 い、 学齢に達した子どもが「児 います。 歳 ま での 子 ど も に 付 け られ て どちらも5歳か、せいぜい7 たのは、 年のことで、水子 に長谷寺の水子地蔵が作られ たりからのようです。ちなみ るかは、判然とはしませんが、 ものが本格化する、 年代あ と「孩」をどう使い分けてい 潮に、抗いきれなくなったた 孩女などが加わります。「嬰」 水子を特殊な性格を持つ死者 子( 児 )・ 嬰 女、 孩 子( 児 ) ・ 「祟り」なるものが喧伝され、 がいにょ として扱う「水子供養」なる けんでん ろに葬ったとは考えにくいで も仕方のないことで、いまは 半頃から、子どものための葬 童」と呼ばれるようになると、 めらしいです。 たた す。 葬 式 を し な け れ ば 、 寺 の 事故や自殺でない限り、子ど 儀が行われるようになりま そ れ より も 年 少 者 = 幼 児に は がいじ 記 録 に は 残 り ま せ ん。 で す か もはめったに死ななくなりま す。童子や童女という位号を えい に ょ ら、 グ ラ フ の 示 す 初 期 の 率 の した。 もつ、子どもの戒名がつけら 「 童 」 と い う 文 字 が そ ぐ わ な い と 感じ る よ う に な っ たせ い さて、江戸時代後半頃から、 子どもの死に際しても、戒名 ☆子どもの供養のいま あらが 供養を求める時代と世間の風 1970 じ 低 さ は、 子 ど も の 死 亡 率 の 低 ☆子どもの扱い れ、おとなと同じように、懇 17 みずこ さ で は な く、 葬 式 率 の 低 さ を 平 安 時 代 の 記 録 に よ る と、 1981 ねんご 示して い る わ け で す 。 えい せんでした。ひとりの人間と た子どもの戒名の位号に、嬰 20 1849 代は捨子が少なくない時代で 現れるのは、 死んでも葬式などしないこと 四 つ 加 え た ら、 お 馴 染 み の ら ん が、 5 割 を 超 え て い る 年 も 18 も少なくなかったように思う 18 19 -4- で先祖の戒名の読みたてをし り の 大 き な 法 要 が あ り、 こ こ 例 え ば、 当 地 で は 秋 に「 大 法 会 」 と 呼 ば れ る、 名 前 の 通 いえ な い よ う な 気 が し ま す 。 と 考 え る と、 ど う も そ う と も もは大切に供養されているか ま し た。 し か し そ の 後、 子 ど 作って供養をするようになり を 付 け て 懇 ろ に 葬 り、 位 牌 を ▽ △ いさせてあげて下さい。 けれど子どもは、ご先祖さ んのうちの誰かの、孫や子で はなさそうです。 ば、 必 ず し も そ う い う わ け で で も、 子 孫 た ち に と っ て み れ ました。産み増やさせる目的 おばでもあります。これまで 戦時中には「産めよ増やせ 通り、ご先祖さんのお仲間で、 よ」というスローガンがあり あり、兄弟姉妹であり、おじ は、兵士にして戦場に行かせ あるものは同じでしょう。 たちの相次ぐ発言も、底流に になります。女性たちに「子 今の政治の動きが、とても気 すが、その命を狙っている昨 るためでした。 どもを産め」と 迫るおじさん て 供 養 し ま す。 実 は こ の 読 み 人間の寿命と、子どもの死 について考えてみました。 た て の「 先 祖 」 か ら、 子 ど も け を、 永 代 供 養 で 寺 に 預 け る る 位 牌 か ら、 子 ど も の 位 牌 だ ま た 最 近、 ま だ ご く わ ず か で す が、 仏 壇 で ま つ ら れ て い 祖と は い え な く な り ま す 。 る な ら、 た し か に 子 ど も は 先 いない存在だけを先祖と考え がいなければ自分が生まれて う か。 自 分 に 繋 が る、 そ の 人 底にあるせいではないでしょ はいえないという考え方が根 ん。 こ れ は 、 子 ど も は 先 祖 と 側面もあります。 低下につながっているという をもてない未来が、出生率の 得 ま せ ん。 未 来 に 希 望 を 繫 げ 基盤の弱いものにならざるを み、 高 齢 化 社 会 は 今 後 一 層、 で 出 生 率の低下も同時に進 ンスで呼ばれています。一方 と、 い さ さ か 否 定 的 な ニ ュ ア い立てるような時代には、断 会 で は な く、「 高 齢 化 社 会 」 うに、子どもたちを戦場に追 な伸びで現出 寿命の驚異的 ことほ し た 社 会 は、 寿 ぐ べ き 長 寿 社 じてしたくはありません。 これから生まれ る子どもた ちに、どんな未来を渡せるの 家 も 現 わ れ 始 め ま し た。 こ れ 子どもの数が減り、家庭内 での子どもの地位は上がりま を省く家が珍しくありませ も や は り、 子 ど も を 先 祖 と は し た。 子 ど も を 大 切 に す る、 ないわけです。むろん、希望 江戸時代以来の 街道沿いの 借地が寺に返還されて、早い もので、もう 年以上になり ます。土を盛り、石垣を築い て、ようやく境内の一部とし て馴染んできました。 この新しい境内 地をどう利 用すべきか、ずっと考え、様 子を見てきましたが、場所が ◆ 鐘 楼 前 小径 しょうろうまえ こ み ち か。少なくとも、かつてのよ 考え な い 立 場 で し ょ う 。 望ましい時代が来たといえま しゅっしょう 親にとっては大切な子ども 10 場所だけに、新しいお堂を建 てるということにはなりそう もありません。 か、駐 広々としているせい かた 車場として利用する方が、本 堂前の空間よりもむしろ多 く、お参りの人の動きが変わ りました。 そういうことならと、ここ から鐘楼の脇を通って、本堂 こしら に 向 か う 通 路 を 拵 え ま し た。 こ れ に と も な い、 境 内 東 側、 観音堂の正面付近への車の進 入は、ご遠慮願うことにしま した。 車は、墓地に通じる西参道 から駐車場にお入りくださ い。本堂正面の参道から車で お入りの場合は、左折して駐 車場にお廻り下さい。歩きに くい方をお連れの場合は、お 手数ですが、本堂前で降りて もらって、車は駐車場に移動 して下さい。 並んだ木製の椅子は、車止め代わりです。
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