ダウンロード

﹁︱︱︱︱︱︱
交野市文化財調査概要
平成
7年 度
交野市埋蔵文化財発掘調査概要
1996. 3
交野市教育委員会
1
二
日
一
例
本書 は交野市教育委員会 が、平成 7年 度国庫補助事業 と して計画・ 実施 した交野市内におけ
る埋蔵文化財発掘調査の概要報告書で あ る。
2
発掘調査は交野市教育委員会 が調査主体 となって実施 した。 尚、鍋塚古墳 の調査にあた って
は奈 良大学学長
3
水野正好氏、立命館大学教授
和 田晴吾氏の指導並びに教示を得た。
調査の実施、本書の作成及 び遺物整理にあた っては、大場 一 、代永崇、坂下麻子、星野美絵、
新庄正典諸氏の協力を得た。
4
本書で使用 した レベル高 はす べ て海抜絶対高で、方位 は磁北方位 で ある。
次
例
言
第 1章
埋蔵文化財発掘調 査 の状 況
1
第 2章
発掘調査報告
1
第 1節
…………………
鍋塚古墳 (南 山遺跡 )… … … …………………………………… Ⅲ
1
第 2節
神宮寺遺跡
5
第 3節
挿
5
第 4節
東倉治遺跡
6
第 5節
私部城遺跡
6
図
第 1図
鍋塚古墳調査地位置図
1
第 2図
鍋塚古墳調査実測図
2
第 3図
第 1ト レンチ葺石実測図
3
第 4図
第 3ト レンチ葺石実測図
4
第 5図
第 7ト レンチ葺石実測図
4
第 6図
神宮寺遺跡調査地位置図
5
第 7図
神宮寺遺跡掘削位置図
5
第 8図
森遺跡調 査地位 置 図
5
第 9図
森遺跡掘 削位 置 図
5
第10図
東倉治遺跡 調査地位 置 図
6
第11図
東倉治遺跡掘 削位 置 図
6
第12図
私部城遺跡 調査地位 置 図
6
第13図
私部城遺跡掘 削位 置 図
6
版
1
図版 2
図版 3
図版 4
図版 5
図版 6
図版
鍋塚古墳の立地場所
鍋塚古墳 (後 円部 より前方部側を望む)
第 1ト レンチ
(く
びれ部側 )
第 1ト レンチ (前 方部側)
第 3ト レンチ
第 4ト レンチ
報告書抄録(1)、
(2)
上
早
第 1
交 野市教育委員会 で は平成
埋蔵文化財発掘調査 の状況
7年 7月 24日 か ら平成 7年 12月 21日 に至 る間、 5件 の補助事業 に係
る発掘調査 を実施 した。 今年度 、調査 の対象 とな った遺跡 は神 宮 寺遺跡 、森遺跡 、東倉治遺跡 、
南 山遺跡 、私部城遺跡 の計 5ケ 所 で あ る。
第 2章
第 1節
発掘調査報告
鍋塚 古墳 (南 山遺跡 )調 査区 寺1524-1、
1522、 1523、
1525、
1507-3
は じめ に
鍋 塚 古墳 は、交 野市 と奈 良県生駒 市 の境 で標 高 200m以 上 の高所 に所 在 してい る。 また 、 当古
墳 は南 山遺跡 の範 囲 内 にふ くまれ て い る。
当遺跡 は昭和 34年 の大 雨 の際、崩れ 出た 土
砂 の中か ら多数 の弥生式上器 (畿 内第 5様 式 )
が 出上 した ことによ り偶 然 に発見 され た もの
で あ る。市 内を一 望 で き る立地場所や 出土遺
翌
沢
物 か ら当遺跡 は監視 や の ろ しをあげ る 目的 を
持 った 通信基地 と して位 置 づ け られ て い る。
今 回調査 の対象 とな った古 墳 は、 この 南 山遺
艤
跡 の西側 の尾根上 に位 置 し、以前 か ら鍋塚 と
して知 られ てはいた。 しか しなが ら、 当古墳
の形 状が著 しく変化 して いた ことや 、関連す
る遺 物 が 出土 してい ない ことか ら、竜王 山山
麓 に群 集す る横穴式 古墳 の一 つ と考 え られ て
いた 。
調査 の経過
調査予定地 の中央 に まず 第 1ト レンチを設
定 した。高地性集落 に伴 う遺構 が検 出され ると
の予想 に反 して、古墳 に伴 う葺石を確認 し、 こ
れ まで 円墳 と考 え られ て い る鍋塚 が前 方後 円
墳 (方 墳の可能性 もある)で あ ることを確認 した。
-1-
第 1図
鍋塚古墳調査地位置図
. ,
〓〓 々コ
式
!
イトペ
①∼③は各 トレンチ番号を表す
■
葺石 部分
第 2図
鍋塚古墳調査実測図
この結果、調査 は古墳 の範囲確認を 目的 と した調査方法 となり、墳 丘の前方部を中心 に (後 円
部 は調査区外 )さ らに第 9ト レンチまでの 8本 の トレンチを追加設定 した。
調査の結果
調査の結果、第 1, 3, 7ト レンチで葺石を確認 できた。 この結果 に基づいて計測 した墳形の
概ねの規模 は次のとお りである。全長は65m、 後 円部径34.2m、 前方部の長さは30.8m、 前方部
の先端で28.Om、 くびれ部で幅16m前 後 で あ ろうと推察され る。次 に墳形 を立面形でみ ると、後
円部頂上の標高が205.5mで 、基底部を200.8mと す ると後円部 の高さは4.7mと なる。 また前方
部の くびれ部で 203.lm、 前方部の先端 で 202.3mを 測 り、後円部の頂上部 とくびれ部 の比高差
が 2,4m、 前方部先端 との差が 3.2mと なっている。
現況か らの判断では断定す ることはできないが、当古墳の墳形は最古級の墳形であるバ チ形や
柄鏡形 とはならず、それ よりやや時期が下が った くびれ幅が広 く前方部が先端 に向か って扇形 に
開 く形 となっている様相 を呈 している。
次に第 1か ら第 9ト レンチの内で葺石の存在す る トレンチについて述べ る。
第 1ト レンチ
古墳前方部東側の くびれ部付近に 4辺 がそれぞれ 9.5m、 10,Om、 9.Om、 13.Omの 不整形の
-2-
トレ ンチ を設定 した。
調 査 の結果 、表 土か ら基底部 まで は1,4mで 、
層位 につ いては基 本的 に上位 よ り表 土層 、黄燈
色 の砂 質 土層 、黄褐 色の砂質 土 層 か ら形 成 され
て いた 。表 土層 以外 か らは墳 丘 か ら崇1落 した葺
石 を多量 に検 出 した。葺石 は基底部 に30∼ 40cm
の基 石 を置 き、その上部 に20∼ 30cIBの 石 を中心
に大小 の石 が混在 した形 で 葺 ぶ かれ て いた 。基
底部 か ら約
lmま で は葺石 の保存 状態 は 良好 で
あ るが、それ以上 の高所 に なると象J落 が めだ つ
状態 で あ る。葺石 が象1落 した部 分 か ら推 測す る
限 りで は この トレンチ部 分 の墳形 は地 山を削 り
だ して整 えて い ることが窺 え る。現存す る斜面
びれ部 と推 定 され る位 置 を境 に して後 円部 と前
方部 とで は葺 石 に変化 がみ られ る。す なわ ち前
方部側 で はやや丸み を帯びた石 を使用 して い る
のに対 して、後 円部側 では前者 に比較 して角 ば っ
た大型 の石 を使用 して い る。
第 3ト レンチ
調 査 区北端 の くびれ部付近 に4,0×
4.Omの ほ
ぼ二等 辺 三 角形 の トレンチ (調 査 区 の境 界 にほ
ば添 った形 で )を 設定 した。 この部 分 は古 墳 の
西側斜面 で 第 1ト レンチ とは反対 の位 置 に なる。
古墳 の西側 は比較 的 なだ らか な東側斜面 と異 な
り急傾斜地 とな ってい る。 このた め土砂 の流 出
が激 しくこの トレンチ部 分 か ら先端部 にかけて
の墳 形 は大 き く挟 られ た状態 で葺 石 も全 て崩れ
落 ち、地 山が象1き 出 しとな ってい る。
調 査 の結果 、基石 の位 置 まで確 認す る ことは
出来 なか ったが、第 1ト レンチ と同様基 底部 は
200,8mぐ らい に位 置す る と考 え られ る。 基 底
部 が不 明のため斜面長 は明 らかで は な いが 、傾
斜角 は24度 で あ る。葺石 の葺 き方 につ い ては調
-3-
図屎 駅 憚 W ホ 八△ と 搬 図 ∞賦
,
長 は 2.6mで 、傾斜 角 は33度 で あ る。 また 、 く
査面積 の関係 か ら正 確 には 確認 で きなか った
が 、葺石 の大 きさにつ い ては、第 1ト レンチ
の後 円部側 でみ られ た 角 ば った大型 の石 は全
く使用 され てい ないのが東側部 分 と比 較 して
大 きな特徴 といえ る。
第 7ト レンチ
前方部 の葺石 の配列 方 向を確 認す るため に
第 1ト レンチ か ら8.2m封 ヒ側 に0.5×
7.5mの
トレンチを東西方 向 に設定 した。調査 の結果 、
底部 の標 高 は 第 1ト レンチ と同様 200.8mで
基 底部 か ら トレ ンチ最 上 部 まで高 さは 1.8m
を測 る。葺石 の形態 につ いては 、第 1ト レン
チ の前方部側 とほぼ 同様 の保存状態 で特 に変
化 はみ られ なか った 。
ま と め
今 回の鍋塚 古墳 の調 査 で は、調査 区域が限
られ ていたため、古墳 の全 容 を把握す るには
第 4図
第 3ト レンチ葺石 実測図
至 らなか ったが 、 い くつ か の点 が 明 らか とな った 。
まず 、古墳 の規模 につ いては 隣接す る森古 墳群 の中で最 古 、
かつ 最大規模 を有す る森 1号 古墳 につ ぐ大 きさで全長約 65mを
測 る前方 後 円墳 で あ ると推定 され る。 また築造 年代 につ いては 、
古墳 の立地 、堅穴式石室 の採用並 び に墳丘 に埴 輪 が 存在 しな い
ことか ら前期 古墳 の中で も古 い 時期 の古墳 と推定 され 、 当古墳
の被葬者 と しては、河 内 と大 和 を結ぶ交通 の要所 で あ った 交 野
地方 の豪族 とされ る「 肩野物部 氏」 の一族 の一 人 と推定 され る。
最後 になるが、葺 石 につ い て簡単 に記 す。葺石 につ いては 、
残存 状態 が比 較 的 良好 で 、作業 手順 を推察す ることがで き るの
が 特徴 であ る。 使用 した石 につ い ては、ほ とん ど全 てが花 開岩
で成 人男子が 1人 で 運搬 可能 な石 で あ る。 これ らの石 の大部 分
は、付近 の山中 よ り運 びだ した石 とみ られ る。 また、 これ らの
石 には人工加工 の痕跡 は 認 め られ なか った 。
第 5図
-4-
第 7 トレンチ葺 石実測 図
1:40
第 2節
調査区 神官寺2丁 目181、
神宮寺遺跡
調 査 区 の中央 よ り東側 の部 分 に1.0×
182
1.Omの トレンチ を設定 し地表 下 1.2mま で 掘 削す る。調
査 の結果 、層位 は、地表面 よ り盛 上 、 旧耕作土層 、そ して花 開岩 の風化 した砂層 にて形成 され て
いた 。遺物 、遺構 は確認 で き なか った 。
第 6図
第
神宮寺遺跡調査地位置図
3節
森遺 跡
調査区
1:2500
第 7図
神宮寺遺跡掘削位置図
1:250
森 南 3丁 目76-1
同調 査 区 は、昭和 30年 に弥 生 式 上 器 が 出上 した大 門酒 造 の北 側 の畑 地 内 に位 置す る。 調査 は
1.OXl.Omの
トレンチ を 2ケ 所 設定 し、第 1ト レンチ は地表下 0,9mま で 、第 2ト レンチ は地表
下 0.8mま で掘 削 した。調 査 の結 果 、層位 は基本 的 に地 表面 よ り盛 上 、 旧耕 作層 、そ して灰 色 の
左腎
粒 の粗 い砂層 にて形成 され ていた。遺物 、遺構 は確認 され なか った 。
/く
第 8図
森遺跡調査地位置 図
1
第 9図
-5-
森遺跡掘削位置図
1:500
第 4節
東倉治遺跡
調査区 東倉治4丁 目2235-2、
調査 区 の中央 か ら東北 よ りに1,0×
10、
22362、
10
1.Omの トレンチ を設定 し、地表 下 1.3mま で掘 削 した 。 調
査 の結果 、層位 は第 1層 が現在 の表 土 層 で、その下 層 は以前宅地造成 された際 の盛上で あ り、 ト
レンチ の両端 で40clnの 比高差 がみ られた 。第 3層 は黄 色 の砂 層 で、 第 4層 が 白色の地 山 とな って
いた 。遺物 。遺構 は確認 で き なか った 。
第 10図
東倉治遺跡調査地位置図
第 5節
私部城遺跡
調査 区 の中央 に2,0×
1:2500
1:2500
第 11図
東倉治遺跡掘削位置図
1:250
調査区 私部5丁 目1767-1
1.Omの トレンチを設定 し、地表 下 50cmま で掘 削 した。調査 の結果 、地 表
下 45cmま でが 近年 に な って搬入 され た盛上で、そ の下 層 に旧耕作土層 が堆積 していた。 このた め
左T
遺物・ 遺構 は全 く確 認 で きなか った 。
市
第 12図
私部城遺跡調査地位置 図
1
第 13図
-6-
私部城遺跡掘削位置図
1:250
Ⅶ
国
至│♂ 藤
軍
進
ド
孝
r… 1.・
,T… Ⅲ B4-
“
図版
図版
2
1
鍋塚古墳の立地場所
鍋塚古墳 (後 円部 よ り前方部側 を望 む)
図版
3
図版 4
第 1ト レンチ
(く
びれ部側 )
第 1ト レンチ (前 方部側 )
5
第 3ト レンチ
図版 6
第 7ト レンチ
図版
報
込、 り が な
圭ロ
副
書
告
書
抄
(1)
へいせい7ね んどかたのしまいぞうぶんかざいはっくつちょうさがいよう
名
平成 7年 度交野市埋蔵文化財発掘調査概要
名
交野市文化財調査概要
巻
録
次
シ リー ズ 名
シ リー ズ番 号
編 著 者 名
奥野和夫
編 集 機 関
交野市教育委員会
所
地
在
〒
発行年 月 日
ふ りが な
576
大 阪府 交 野市 私部 1丁 目 1番 1号
a(o720)92-0121
1996年 3月
西暦
コ
ふ り が な
ー
ヒ糸
引
単
ド
調 査 面 積
東 経
調 査 期 間
所 収遺 跡 名
所
地
みなみやま い せき
かた
南 山遺 跡
交 野 市 寺
在
市 町 村 遺跡番 号
34度
の
し
てら
46う チ
42分
20秒
02た 少
34握 圭
しんぐう じ い せき
かた の し じんぐう し
神宮寺遺跡
交野市神官寺
もり
い
せき
かた の
森
遺
跡
交野市森南
し もりみはみ
135握 圭
1995。
27230
27230
その他の遺跡
縄 文 、弥 生
南 山遺 跡
(通 信施設 )
鴎
縄鬼 弥
生、
古墳、中世
集
森
遺
落
中継所建設
42ぢ 訃
13秒
07秒
34】 霊
135度
46う 訃
41分
1995. 7.24
162.40
宅地開発
396.53
宅地 開発
7.26
34モ 少
主 な 遺 構
主 な 遺 物
前方後 円 (方 )墳
弥生式上器 (後期)
特
記
事
項
ハニ ワ等古墳に関連する
遺物 は出土 しなか った。
地 跡
布 落
散 集
神宮寺遺跡
防災行政無線
1995, 7.25
27230
主 な 時 代
別
2,114.00
135度
47分
30売 少
種
8. 2
本Vll.17
^ヤ
所 収遺 跡 名
調 査 原 因
ポ
跡
弥生、
古墳、中
跡
生 産 遺 跡
世
報
書
告
ふ り が な
へいせい7ね んどかたのしまいぞうぶんかさいはっくつちょうきがいよう
圭
名
平成 7年 度交野市 埋蔵文化財発掘調査概要
名
交野市文化財調査概要
副
書
巻
録
抄
(2)
次
シ リー ズ 名
シ リーズ番号
編 著 者 名
奥野和夫
編 集 機 関
交野市教育委員会
所
在
地
〒
576
大 阪府 交 野 市 私部 1丁 目 1番 1号
奮 (0720)92-0121
発 行 年 月 日 西暦 1996年 3月
ふ りが な
ふ り が な
コ
ー
ヒ漁
』
単
ド
調査面 積
東 経
調 査 原 因
調 査 期 間
地
所 収遺 跡 名
所
υがしくら じ ヤヽせき
かた の しつ拶しくら じ
東倉治遺跡
交野市東倉治
在
ポ
市 町 村 1遺 跡 番 号
34】 圭
27230
47分
42う チ
36希 少
12秒
4
3
交野市私部
27230
私部城遺跡
し きき ベ
7
4
かた の
2
・
度 分 秒
ヽせき
きさ べ じょうヤ
135】圭
1995. 9, 8
105.96
宅地 開発
12.21
79.025
宅地 開発
135】霊
41分
1995。
05希 少
所 収 遺跡 名
主 な時 代
別
種
東倉治遺跡
散
布
地
弥生 、古墳
私部城遺跡
城
館
跡
弥 生 、 中世
主 な 遺 構
主 な 遺 物
特
記
事
項
平 成 7年 度
発
行
日
編 集 。発行
交野市 埋 蔵 文化 財発掘 調査 概 要
1996年 3月 28日
交 野市教 育委員 会
大 阪府 交 野市私 部 1丁 目 1番 1号
印
刷
所
株 式 会社 き ようせ ιⅢ関西支社