Nara Women's University Digital Information Repository Title 飛鳥宮の廃絶:飛鳥京跡III期遺構を中心に Author(s) 鈴木, 一義 Citation 鈴木一義:都城制研究(6) 都城の廃絶とその後, pp.13-30 Issue Date 2012-03 Description URL http://hdl.handle.net/10935/3509 Textversion publisher This document is downloaded at: 2016-08-17T17:32:13Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 飛鳥宮の廃絶 一飛鳥京跡 E期遺構を中心に− 鈴木一議(奈良県立橿原考古学研究所) はじめに 飛鳥京跡 ( 1 )は、奈良県高市郡明日香村岡・飛鳥に所在する 7世紀の宮殿遺跡である。発 4年 ( 1 9 5 9)に予備調査がおこなわれたのに引き続き( 2)、現在に至るまで、 掘調査は、昭和 3 1 7 0次に及ぶ。長年の調査、研究の成果から、飛鳥京跡の上層遺構は、内郭と外郭、エビ ノコ郭によって構成されていることが明らかとなっている。また、これらの下層には、さ らに 2時期の遺構( I・I期遺構)が存在することも明らかとなり、同所に 3時期の宮殿 遺構が重複して存在すると認識されるに至っている(3 。 ) 今回は、飛鳥京跡の宮殿遺構でも、その内容が最も明らかとなっている上層遺構の血期 遺構を中心に、主要施設の廃絶状況に加え、廃絶以後の状況について確認したい(4 ) ( 図 1。 ) 旧 −wmmuf 外郭 SB 田 !1 3 門 出町制耳 ・ − ー ー ー 」 一 調7 4 0 2 亙~-’a梅田0 S A 回3 5 ・泊殴1 0 一 一 5 6 7 却1 図 1 飛鳥京跡川期遺構( S = l / 5 0 0 0 ) QU 1i 1.内郭諸施設の廃絶状況 これまでの発掘調査によって、宮殿中枢である内郭の主要施設の構造が明らかとなって )。ここでは、その いる。近年、その調査成果が、正式な調査報告書として刊行された( 5 報告書をもとに、主要施設の廃絶状況について確認する(図 2) ( 6)。なお、 E期遺構の内 郭の地区区分については、報告書(7)による。 A V電 −1 6 3 ! 泡 i = ト lll 舛郭 内郭北区画 吋~I - − − ー ・ 『. .L p ー内郭南区田 ! エピノコ郭 凱富加t 富田恨E ど ご1 民問日 一 一 制 . s 観E 咽 図 2 飛鳥京跡川期遺構の地区区分と呼称、 C S = l / 5 0 0 0 ) ①内郭南区画中央区 S B 8 0 1 0 内郭の南門にあたる。東西 5問、南北 2聞の東西棟で、総柱の掘立柱建物である。 解体時の柱の処理は、各柱穴から柱痕跡が検出されていることから(8)、切り取りと考えら D 8 0 2 1、雨落を兼ねる石敷 S X 8 0 2 2とともに、砂利によっ れる。解体後、付属する雨落溝 S て埋められた後、黄褐色の山土層で整地される(9 )。その供給源は、 S B 8 0 1 0造営時の基壇状 の高まりと考えられる ( 1 0 。 ) S B 7 9 1 0 内郭南区画中央区の中心的な建物である。東西 7問、南北 4聞の東西棟と考えら れる四面庇の掘立柱建物である。解体時の柱の処理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出され ていることから、抜き取られている。解体後、黄褐色の山土層で整地される。その供給源 は 、 S B 7 9 1 0に伴う基壇状の高まりと考えられる ( 1 1 。 ) 吋14 A吐 ②内郭北区画中央区 S B 0 3 0 1 内郭北区画中央区の中心的な建物である。東西 8問、南北 4聞の東西棟で、南北 に庇を持つ掘立柱建物である。解体時の柱の処理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されて おり、 f抜き取られている。解体後は、付属する雨落溝 S D 8 5 4 1などとともに、黄褐色の山土 層で整地される。その供給源は、 S B 0 3 0 1に伴う基壇状の高まりと考えられ、木製地覆の痕 跡と考えられる遺構も検出されている ( 1 2 。 ) S B 0 5 0 1 内郭北区画中央区の中心的な建物である。 S B 0 3 0 1と同様、東西 8問、南北 4聞の 東西棟と考えられる、南北に庇を持つ掘立柱建物である。解体時の柱の処理については、 各柱穴で柱抜き取り穴が検出されており、抜き取られている。施設解体後は、これまで、み てきた主要建物とは異なり、黄褐色の山土層で整地された痕跡や、平面構造が類似する S B 0 3 0 1にある木製地覆痕跡は確認されていない。よって、 S B 0 5 0 1には、黄褐色の山土を用 。 ) いた基壇状の高まりは当初より存在していなかったと考えられる (13 B 0 5 0 1に付属する雨落溝 S D 0 5 1 0・S D 0 5 11などでは、埋土として黄褐色の山土 しかし、 S 層が確認されているため、黄褐色の山土が解体後の整地に意図的に用いられた可能性が考 えられる。 ③一本柱列 S A 8 0 2 0)、東( S A 6 1 0 1 )、北 C S A 5 9 0 1 ) の一本柱列 内郭の区画施設であり、これまで南 C が検出されている。 S A 8 0 2 0 内郭南辺の区画施設で、東西方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処理は、柱抜 き取り穴と柱痕跡とが検出されていることから、抜き取られたものと切り取られたものの B 8 0 1 0同様、砂利によって埋められた後、黄褐色の山土層で整地 両者がある。解体後は、 S される。また、その供給源は、基壇状の高まり、もしくは化粧土と想定される ( 1 4 。 ) S A 6 1 0 1 内郭東辺の区画施設で、南北方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処理は、柱根 が残存するもの、柱痕跡が空洞化するものがあることから、切り取られている ( 1 5)。解体 A 8 0 2 0と同様、黄褐色の山土層で整地される。その供給源は、基壇状の高まり、も 後は、 S しくは化粧土が想定される ( 1 6 。 ) S A 5 9 0 1 内郭北辺の区画施設で、東西方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処理は、柱根 が残存するものがあることから、切り取られている。建物解体後の整地の状況は不明であ 。 ) る (17 ここまで、内郭における主要施設の解体、廃絶状況について確認したが、各施設によっ て、解体時の柱の処理に違いがあることがわかる。内郭南門である S B 0 8 0 1と内郭の区画施 設となる各一本柱列( S A 8 0 2 0、S A 6 1 0 1、S A 5 9 0 1 ) については、そのほとんどが柱の抜き取 B 7 9 1 0、 りではなく、切り取りであるのに対して、主要な施設である内郭南区画中央区の S B 0 3 0 1、S B 0 5 0 1については、いずれも柱が抜き取られている。このよ 内郭北区画中央区の S うな、施設ごとの柱の処理の違いについては、改めて検討したい -1 5- ( 1 8 。 ) また、各施設は、解体後に黄褐色の山土で整地され、廃絶をむかえる。この黄褐色の山 土による整地の時期は、建物解体時の柱抜き取り穴に同様の山土が含まれることから、解 体→整地と一連の工程であると考えられる。また、これら黄褐色の山土は、各施設に伴う 基壇状の高まりや、化粧土に用いられたものが供給源として考えられ、施設の解体後、そ れらをならすことによって、整地したものと理解できる。 一方、内郭北区画中央区の S B 0 5 0 1では、黄褐色の山土による整地層は確認されていな い。このことは、先述したとおり、平面形が類似する S B 0 3 0 1との下部構造の違いとして理 解できる。しかし、 S B 0 5 0 1に付属する雨落溝 S D 0 5 1 0・S D 0 5 11などは、黄褐色の山土層に よって埋め戻されているため、黄褐色の山土が跡地整地に意図的に用いられている可能性 が考えられる。この点は、今回検討できていない他の内郭諸施設の状況も確認する必要が ある。 なお、これら内郭主要施設の廃絶に関わる遺構や土層から出土した土器をみると、内郭 B 0 5 0 1周辺では、 S B 0 5 0 1の南側柱の柱抜き取り穴から土師器杯 Cが(図 北区画中央区の S 3、 ) S B 0 5 0 1南西の艦幡(旗竿)遺構 S X 0 5 0 4の柱抜き取り穴から須恵器杯 B蓋・杯 Bが出 A 6 1 0 1周辺では、 S A 6 1 0 1西の雨落 土している(図 4)。内郭の区画施設である東一本柱列 S D 6 1 0 2から土師器杯 A ・杯 Cが出土している(図 5)。これらは、その特徴から飛鳥 N 溝S ∼Vに位置づけることができる。 内郭主要施設の廃絶時期は、出土土器から飛鳥 N∼Vの時期であることがわかる。よっ て、報告書でも指摘されているとおり ( l g)、内郭主要施設の廃絶はほぼ同時、あるいはそ れほど大きな時間差はないと位置づけることができる。 kゴ ムそ 。 戸二L「一二~44 20cm 」~5 図 3 掘立柱建物 S B 0 5 0 1出土土器( S = l / 4 ) 。 20cm 図 4 瞳幡(旗竿)遺構 S X 0 5 0 4出土土器( S = l / 4 ) 。 20cm 図 6 外郭東一本柱列 S A 7 4 0 5柱抜き取り穴出土土器( S = l / 4 ) 噌1よ ρhv 2.外郭諸施設の廃絶状況 内郭周囲を取り囲む外郭は、これまで発掘調査がおこなわれているものの、いまだに不 明な点が多い。これらの調査成果について、それぞれ概報が刊行されているが、最近、外 郭北部域の調査成果については、正式な調査報告書が刊行された( 2 0)。ここでは、概報と 報告書をもとに、いくつかの施設の廃絶状況について確認する。 S A ?4 0 5( 2 1 l 外郭東辺の区画施設で、南北方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処理は、 各柱穴で柱抜き取り穴が検出されていることから、抜き取られている。解体後の状況は不 明である。 S B 9 2 0 1( 2 2 l 外郭北部域の建物である。東西 4問、南北 5聞の南北棟で、東西に庇をもっ 掘立柱建物である。解体時の柱の処理は、抜き取り穴と柱痕跡が検出されているものがあ ることから、抜き取られたものと切り取られたものの両者がある。なお、内郭諸施設で見 3 。 ) られる黄褐色の山土による整地は確認されていないほか、解体後の遺構が確認できる( 2 S B 0 8 0 3(24) 外郭北部域の建物である。東西 5間以上、南北 1間以上の東西棟で、南に庇 をもっ掘立柱建物である。解体時の柱の処理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されている ことから、抜き取られている。解体後は、黄褐色の山土と考えられる黄褐色粘質土で整地 B 0 8 0 3に施された化粧土と考えられる。なお、 S B 0 8 0 3では、木製 される。その供給源は、 S 地覆等の痕跡は検出されていない。 S D 0 3 1 5(25) 外郭北部域の基幹水路で、南北方向の石組溝である。埋土の状況から、管理 されず放置された後、人為的に埋め戻される。埋め戻し後は、砂利敷きは0 3 1 4によって覆 われ整地される。 S D 0 9 0 1(26) 外郭北部域の基幹水路で、東西方向の石組溝である。埋土の状況から、人為 的に埋め戻される。埋め戻し後の状況は不明である。 ここまで、外郭における諸施設の解体、廃絶状況について確認した。建物については、 解体時の柱の処理が抜き取りで、基本的に共通していることがわかる。基幹排水路につい ては、最終的に人為的に埋め戻される点に共通性が認められる。施設の解体後について S B 0 8 0 3では、黄褐色の山土と考えられる層で整地される状況が確認できる。基幹排水路の 廃絶後について S D 0 3 1 5では、砂利敷き S X 0 3 1 4で整地される状況が確認できる。 なお、これら外郭諸施設の廃絶に関わる遺構や土層から出土した土器をみると、 S A 7 4 0 5 では、柱抜き取り穴から須恵器杯 Bが(図 6、 ) S B 9 2 0 1では、柱抜き取り穴から須恵器杯 B蓋、杯 Bなどが(図 7、 ) S B 0 8 0 3では、解体後の整地層から須恵器杯 B蓋、杯 Bが出土 している( 2 7 ) ( 図 8)。基幹排水路 S D 0 3 1 5• S D 0 9 0 1では、人為的な埋め戻し土を含む溝埋 8 ) ( 図 9・1 0)。これらは、その特徴から飛鳥 N∼V 土から、多量に土器が出土している(2 に位置付けることができるが、 S D 0 3 1 5・S D 0 9 0 1出土土器は、飛鳥 N∼ Vでも、飛鳥 Vに近 いものと位置付けることができる(2 9 。 ) I 円 42i ここで取り上げた外郭諸施設の廃絶時期は、出土土器から飛鳥 N∼Vの時期にあるが、 建物施設と基幹排水路の廃絶時期には、若干の差がある可能性がある。なお、林部均は、 l lの時期に廃絶す 外郭の石組溝のなかに、建物施設より廃絶時期が遅れ、平城宮土器 I ・i るものがあることをすでに指摘している(30 。 ) ミヨ\」 。 20cm 図 6 外郭東一本柱列 S A 7 4 0 5柱抜き取り穴出土土器( S = 1 / 4 ) 。 20cm 図 7 掘立柱建物 S B 9 2 0 1柱抜き取り穴出土土器( S = l / 4 ) 。 20cm 図 8 掘立柱建物 S B 0 8 0 3解体後整地層出土土器( S = l / 4 ) 1Bム 00 、〆子三ゴ−当、 雲 寺 ー − . . . . . . . . . ~三三重聾 / ’− − − = ヨ ー /「一一一一 ニ L ¥ 一 一 一 二 、 4 又二二工工ユ 3 ~~_;;;/ 可百二Z L~~J' 、一一-~ --~==::~弓〈よ 。 ~’ 20cm 図 9 石組溝 S D 0 3 1 5最上層出土土器( S = l / 4 ) で ミ ヨJ イ / l − − − − = = ー : ; ? ' ーー}ミ、 6 ミ 斗 二 − ; ? . − 〔 : L一 一_ / ) \てと以-~ご「一三戸/, 1 9 」l~. . ミヨ二~30 1ー 」 一 三 ノ \ Lー ノ 。 20cm 図1 0 石組溝 S D 0 9 0 1上層出土土器( S = l / 4 ) 3. エビノコ郭諸施設の廃絶状況 内郭の南東に位置するエビノコ郭は、これまでの発掘調査によって、その主要な施設の 構造が明らかとなっている。その調査成果について、それぞれ概報が刊行されている。こ -19- こでは、概報をもとに、主要な施設の廃絶状況について確認する。 S B 74 0 2(31) エビノコ郭の西門にあたる。東西 2問、南北 5聞の南北棟で、総柱の掘立柱 建物である。解体時の柱の処理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されていることから、抜 き取られている。解体後の状況は不明であるが、柱抜き取り穴の埋土が、黄色の山土であ ることが確認されている。 S B 7 7 0 1( 3 2 l エビノコ郭の中心的な建物である。東西 9問、南北 5聞の東西棟で、四面庇 の掘立柱建物である。解体時の柱の処理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されていること から、すべて抜き取られている。解体後は、黄褐色の山土層で整地される(33)。なお、一 部の柱抜き取り穴では、埋土の主体が黄褐色の山土であることが確認されている。その供 給源は、木製地覆の痕跡と考えられる遺構が検出されていることなどから、 S B 7 7 0 1に伴う 基壇状の高まりである可能性が考えられる。 S A 8 9 3 5(34) エビノコ郭南辺の区画施設で、東西方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処 理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されていることから、抜き取られている。解体後の状 況は、柱抜き取り穴の埋土の主体が、黄褐色の山土と考えられること、第 1 2 0次調査で検 出された遺構が、黄色粘土で覆われる状況が確認されていることなどから、その供給源は 不明であるが、黄褐色の山土で整地された可能性が考えられる。 S A 9 7 0 1(35) エビノコ郭北辺の区画施設で、東西方向の掘立柱塀である。解体時の柱の処 理は、各柱穴で柱抜き取り穴が検出されていることから、抜き取られている。解体後は、 付属する雨落溝 S D 9 7 0 2・S D 9 7 0 3などとともに、黄褐色の山土と考えられる黄褐色砂質土で A 9 7 0 1では、柱堀方を覆う化粧土が確認されていることから、化粧土をその 整地される。 S 供給源と想定できる。 ここまで、エビノコ郭における主要施設の解体、廃絶状況について確認した。各施設と も解体時の柱の処理が抜き取りで共通していることがわかる。また、各施設の解体後は、 黄褐色の山土と考えられる層で整地され、廃絶をむかえたと考えられる。この黄褐色の山 土と考えられる層による整地の時期は、建物解体時の柱抜き取り穴に黄褐色の山土を含む ものがあることから、解体→整地と一連の工程であると考えられる。また、これら黄褐色 の山土と考えられる層は、各施設に伴う基壇状の高まりや化粧土に用いられたものが供給 源として想定でき、施設の解体後、それらをならすことによって、整地をおこなったもの と理解できる。 なお、これらエビノコ郭主要施設の廃絶時期については、林部均が出土土器から飛鳥 N の時期と位置付けている(3 6)。しかし、その根拠としている資料には若干問題がある。 まず、林部が S B 7 7 0 1廃絶に伴う跡地整地土出土土器とする資料は(3 7)、概報をみる限り ( 3 8 、 ) S B 7 7 0 1の柱穴掘削前の整地である「下位整地土」と柱据え付け後の化粧土である「上 位整地土」に伴うものと理解でき、跡地整地土ではなく造営に伴う整地土出土土器と考え -20- られる(3 9)。しかし、現状で与えられている情報は、概報の記述と「下位整地土」と「上 位整地土」の関係を示す模式図のみであり(40)、土層と土器出土状況の関係を詳細に検討 する術はない。エビノコ郭南の S B 7 2 0 1の柱抜き取り穴出土土器は(4 1)、現状で S B 7 2 0 1と エビノコ郭との直接的な関係性が不明であるため(42)、エビノコ郭の廃絶時期を示す資料 A 8 9 3 5廃絶後の堆積層出土土器とする資料は(4 3)、概報 とするには問題がある。最後に、 S をみる限り、第 1 1 7次調査区における「遺跡廃絶後間もない頃の堆積土」出土の土器であ り (4 4 、 ) S A 8 9 3 5が検出されている第 1 2 0次調査区(45)との土層の関係は不明であり、直接 S A 8 9 3 5廃絶後の資料とするには問題がある。 ここまでみてきた通り、これまでエビノコ郭の廃絶時期の根拠となっていた資料につい ては、様々な問題があることがわかった。現状で、エビノコ郭の各主要施設に直接伴う出 土遺物は公表されていないので、これらの公表を待って、エビノコ郭の廃絶時期を再度検 6 。 ) 討する必要がある(4 4.I l期遺構廃絶後の状況 飛鳥京跡は、宮殿中枢部の内郭や外郭、エビノコ郭を含め、廃絶後は耕地化される。こ のことは、各調査区の土層の状況でも確認されているように、宮殿廃絶時の整地層上に、 中・近世の堆積層があり、素掘溝が掘られる遺構面が数面存在することを根拠としている。 ここでは、内郭・外郭・エビノコ郭の廃絶後、耕地化に至る状況について、遺構・遺物か ら確認したい。 ①内郭 内郭部分では、主要施設廃絶後から耕地化前の遺構が、第 2 7・1 5 3次調査で検出されて いる。 1 v ← 叩S A . - ~ー相白血S 問害 ︽ m 1U 図1 1 掘立柱建物 S B 7 1 2 1・掘立柱塀 S A 7 1 2 2平面図( S = 1 / 4 0 0 ) 414 ノ ηω 第2 7次調査区は、内郭南区画西区にあたる。調査区の東側で、総柱の南北棟である掘立 柱建物 S B 7 1 2 1と掘立柱塀 S A 7 1 2 2が検出されている。 S A 7 1 2 2は 、 S B 7 1 2 1の中通りの柱筋と 軸がほぼ合い、その北妻に取りつくことから、一連の建物であると考えられる(図 11)。 報告書では、 S B7 1 2 1• S A7 1 22とも、宮殿にかかわる遺構との埋土の違い、 E期遺構の掘立 柱塀 S A 7 1 1 5との重複関係から、廃絶後の遺構と位置づけられている(4 7)。また、その性格 8 。 ) について、宅地であった可能性を示唆するものとしている(4 このような、南北棟の建物に塀が取り付く構造は、各地の郡庁でも、 7世紀末から 8世 9)、可能性として官街的な性格が考えられる。 紀初頭の初期郡庁にみられるものであり(4 しかし、南北棟が総柱建物であること、柱掘方が貧弱であること、 S B 7 1 2 1の軸が若干振れ ることなど、構造的な問題もある。 第 1 5 3次調査区は、内郭北区画中央区にあたる。調査区の西側で、嚢埋納遺構 S X 0 4 1 3 が検出されている(図 1 2 。 )S B 0 3 0 1の西に位置する掘立柱建物 S B 0 4 0 1との重複関係、検出 面が宮殿遺構検出面より上位にあることから、廃絶後の遺構と位置づけることができる。 0世紀前半に位置づけることができる( 5 0 ) ( 図 1 3 。 ) その時期は、埋納されている餐から 1 5 0 c 調 図1 2 聾埋納遺構 S X 0 4 1 3( S = l / 2 0 ) -2 2- 20 叩 図1 3 護埋納遺構 S X 0 4 1 3出土土器( S = l / 8 ) 5 5次調査で出土している。第 1 5 5次調査 内郭主要施設廃絶後の状況を示す遺物は、第 1 は、内郭北区画中央区にあたる。調査区北東端で集中して土器が出土しており、出土層位 は、宮殿廃絶時の整地層直上の堆積層である( 5 1)。その種類には、土師器、黒色土器 A類 、 黒色土器 B類があり(図 1 4 、 ) 9世紀後半∼ 1 0世紀半ばのものが主体であると位置づける ことができる( 5 2 。 ) 内郭廃絶後の土地利用は、 S B 7 1 2 1• S A 7 1 2 2の存在から、廃絶直後に部分的に利用された 可能性があるものの、奈良時代から平安時代でも 9世紀後半までの遺構・遺物が希薄であ り、明確でない。確実に土地利用が再開されるのは、堆積層の形成や遺構・遺物が確認で きる 9世紀後半以降とすることができる。 建 委 司 パC ヤ一言7 え 、工二士竺ず憎 アて二子F\ ト \ 一 」 − − − − − ' ’ 叩 図1 4 1 5 5次調査堆積層出土土器( S = l / 8 ) -2 3- 叩 。 2 ②外郭 外郭部分では、施設廃絶後から耕地化前の遺構が、第 1 2 9・1 3い 1 5 2次調査で検出され ている。 第 1 2 9・1 3 0次調査区は、外郭北部域でも内郭よりに位置する。先述した S B 9 2 0 1廃絶後 の堆積層上面で、調査区中央部を東西に横断する掘立柱塀 S A 9 2 0 4が検出されている( 53) ( 図 1 5)。その時期は、 S B 9 2 0 1の廃絶時期と同様、飛鳥 I V∼Vとされるが( 5 4)、堆積層を 挟んで S A 9 2 0 4が構築されているので、 S B 9 2 0 1廃絶後から若干の時間差を考えたい。なお、 S A 9 2 0 4の性格について林部均は、宮殿跡地への北側からの立ち入りを遮断する役割を想定 5 。 ) している( 5 図1 5 掘立柱塀 S A 9 2 0 4( S = 1 / 4 0 0 ) 5 2次調査区は、外郭北部域に位置する。先述した S D 0 3 1 5廃絶後、それを覆う形で、 第 1 調査区全面に広がる砂利敷き S X 0 3 1 4が検出されている( 5 6)。その時期は、出土土器から S D 0 3 1 5の廃絶時期と同様、飛鳥 I V∼Vと位置づけられ(57 、 ) S D 0 3 1 5廃絶直後に整地のため に敷かれたと考えられる。 A 9 2 0 4のように、 外郭諸施設の廃絶後の土地利用には、場所ごとによる違いがみられる。 S X 0 3 1 4のように、 外郭施設の解体後、若干の時間差をおいて構築される遺構がある一方、 S 基幹排水路の廃絶直後の状況に構築されるものもある。しかし、それ以後の奈良時代から 平安時代の遺構・遺物は希薄であり、土地利用の本格的な再開は、中世以降の耕地化とす A告 の , 山 ることができる。 ③エビノコ郭 1次調 エビノコ郭部分では、エビノコ郭廃絶後から耕地化前の遺構は明確でない。第 6 査では、瓦器出現段階以前に耕地化していた可能性が指摘されており( 5 8)、土地利用の本 格的な再開は、平安時代以降の耕地化とすることができる。 おわりに ここまで、飛鳥京跡の E期遺構の内郭・外郭・エビノコ郭の各主要施設を中心に、その 廃絶状況と廃絶以後の状況について確認してきた。それについてまとめると、各主要施設 は、その解体に伴って、基本的に柱は抜き取られている。そのなかで、内郭の区画施設の 柱は基本的に切り取られており、主要な建物との聞に解体方法の違いがある。 内郭・エビノコ郭の主要施設および外郭 S B 0 8 0 3解体後は、いずれも跡地整地される。こ の整地に用いられるのは基本的に黄褐色の山土で、その供給源は各施設に伴う基壇状の高 B 0 5 0 1での状況から、意図的に持ち込まれて まり、もしくは化粧土と考えられるが、内郭 S B 0 8 0 3を除き黄褐色の山土による いる可能性もある。今回取り上げた外郭の諸施設では、 S X 0 3 1 4のように砂利敷きによって整地されるところがある。 整地はみられない。だが、 S 各主要施設の廃絶時期は、エビノコ郭を除いて、施設解体や跡地整地に伴って出土する 土器が飛鳥 N∼Vの時期であることから、 7世紀末、つまり、藤原宮の造営期を含む藤原 宮期とすることができる。よって、これら皿期遺構を天武・持統の飛鳥浄御原宮とするな らば、その廃絶の契機は藤原京への遷都と位置づけられよう。 各主要施設の廃絶後でも、その直後と考えられる遺構は、内郭・外郭で確認できるが、 A 7 1 2 2 その数は少なく、明確な位置づけは難しい。そのなかで、内郭廃絶後の施設である S とS B 7 1 2 1のように、可能性として官街的な施設が存在することは注目される。このことは、 内郭の廃絶後、土地利用の再開が 9世紀後半以降であり、その間の明確な遺構・遺物が確 認できず、積極的な土地利用はなかったと考えざるを得ないことと関連する。内郭廃絶後 のこの状況に対して林部均は、他の宮殿との比較を通して、宮殿跡地を空閑地として保持 していたと指摘する( 5 9)。推測になるが、 S A 7 1 2 2• S B 7 1 2 1をその管理施設として評価でき 0 。 ) ないだろうか( 6 以上、飛鳥宮は、藤原宮への遷都に伴い廃絶をむかえ、その後宮殿の故地が保持される ものの、本格的に土地利用が再開される 9世紀後半以降に、現在見られる水田の広がる景 観が徐々に形成されたと考えられる。その際、藤原京や平城京域は条里水田が施工される のに対し、飛鳥は地形に合わせた形で水田が営まれる点は注目される。 付記 本稿は、研究会当日に盛り込むことができなかった内容を加えた上で、当日の各報 告を踏まえ大幅に改稿したものである。 戸町 U nノU 注 ( 1 ) 飛鳥京跡は、飛鳥に所在する複数の宮殿跡に対する便宜的な呼称であるが、ここでい う飛鳥京跡の範囲を、宮殿中枢の内郭およびその周辺に展開する外郭、内郭南東の エビノコ郭周辺とし、飛鳥宮と呼称したい。 ( 2 ) 奈良国立文化財研究所『平城宮第一次・伝飛鳥板蓋宮跡発掘調査報告』奈良国立文化 財研究所学報第 1 0冊 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 1 9 6 1年 。 ( 3 ) 林部均「飛鳥京跡の発掘調査の歴史」(林部均編『飛鳥京跡 I I I−内郭中枢の調査一』 奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 2冊 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 0 8年)。 ( 4 ) ここで取り扱う飛鳥京跡直期遺構は、内郭と外郭の段階である I I I-A期とそれらにエ ビノコ郭が加わる I I I-B期の 2期に細分し、 I I I-A期を斉明・天智の後飛鳥岡本宮、 I I I-B期を天武・持統の飛鳥浄御原宮とする説が有力である(林部 板蓋宮跡の年代と宮名」(『古代宮都形成過程の研究』 青木書店 均「伝承飛鳥 2 0 0 1年)(初出 1 9 9 8年)、小津毅「伝承板蓋宮跡の発掘と飛鳥の諸宮J (『日本古代宮都構造の研究』 青木書店 2 0 0 3年)(初出 1 9 8 8年)。 ( 5 ) 林部均編『飛鳥京跡 I I I−内郭中枢の調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 2冊奈良県立橿原考古学研究所 2 0 0 8年 。 ( 6 ) なお、飛鳥京跡の E期遺構の地区区分および、呼称については、林部編前掲注( 5 )文献 に従った。 ( 7 ) 林部編前掲注( 5 )文献。 ( 8 ) 柱痕跡は、一部柱痕が残存するもの、柱部分が空洞化しているものがあると報告され ている(林部均「宮殿遺構 J (林部均編『飛鳥京跡 I I I−内郭中枢の調査一』奈良県立 橿原考古学研究所調査報告第 1 0 2冊 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 0 8年))。 ( 9 ) 林部前掲注( 8)文献。 ( 1 0)林部前掲注( 8 )文献。 ( 1 1 ) S B 7 9 1 0では、後述する S B 0 3 0 1で、検出されている木製地覆等の痕跡は検出されてい ない(林部前掲注( 8 )文献)。 ( 1 2)林部前掲注(8 )文献。 ( 1 3)林部前掲注( 8 )文献。 ( 1 4)林部前掲注( 8 )文献。 ( 1 5)網干善教「東一本柱列遺構一昭和三十六、三十九、四十年度調査の総括− J (末永雅 雄編『飛鳥京跡ー』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第 2 6冊 奈良県教育委員会 1 9 7 1年)、林部前掲注(8 )文献。 ( 1 6)林部前掲注( 8 )文献。 ( 1 7)奈良国立文化財研究所前掲注( 2 )文献、網干善教「北一本柱列遺構一昭和三十四、三 十八、三十九、四十年度調査の総括− J (末永雅雄編『飛鳥京跡ー』奈良県史跡名勝 0ム ρ0 天然記念物調査報告第 2 6冊 1 9 7 1年)。なお、 S A 5 9 0 1に関して 奈良県教育委員会 は、初期の調査であるため、不明な点が多い。 ( 1 8)小津毅は、解体時の柱の処理の違いについて、柱の径の大きさと柱の腐朽の進行度と の関係としている(小津前掲注(4 )文献)。この点は、筆者なりに改めて検討したい。 ( 1 9)林部前掲注( 8 )文献。 ( 2 0)東影悠編『飛鳥京跡 N−外郭北部域の調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 8冊奈良県立橿原考古学研究所 2 0 1 1年 。 ( 2 1 ) 中井一夫「第 4 7次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『飛鳥京跡 昭和 4 9年度発 掘調査概報』 1 9 7 5年)。なお、研究会当日は、外郭に対する検 奈良県教育委員会 討結果を含めることができず、第 4 7次調査で検出されている外郭東一本柱列につい て口頭で紹介したが、その廃絶時期の認識に誤りがあった。ここで訂正したい。第 4 7次調査の事実関係については、研究会当日林部均氏に御教示いただいた。記して 感謝申し上げたい。 ( 2 2)林部均「飛鳥京跡第 1 2 9次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概 報 1 9 9 2年度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 3年)、清水昭博「飛 鳥京跡第 1 3 1次調査 J(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 5年 1 9 9 6年 ) 。 ( 2 3)清水前掲注( 2 2)文献。この点については、後述する。 ( 2 4)東影悠「第 1 5 8次・第 1 6 1次調査J (東影悠編『飛鳥京跡 N一外郭北部域の調査一』 奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 8冊 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 1 1年 ) 。 ( 2 5)松井一晃「第 1 5 2次調査」(東影悠編『飛鳥京跡 N−外郭北部域の調査一』奈良県立 0 8冊 奈良県立橿原考古学研究所 橿原考古学研究所調査報告第 1 2 0日年)。 ( 2 6 ) S D 0 9 0 1の幅は、上端で 2 .7mであり、飛鳥京跡の調査で検出されている石組溝の中 で最大の幅をもっ(東影悠「第 1 6 4次調査 J (東影悠編『飛鳥京跡 N− 外郭北部域の 調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 8冊 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 1 1年 ) ) 。 ( 2 7)なお、これらの土器は、 S B 0 8 0 3の南側に隣接する石組溝 S D 0 7 0 1と砂利敷きは0 7 3 9 を覆う遺構廃絶後の整地土に伴うものである(東影悠「第 1 5 8次調査」(東影悠編『飛 − 鳥京跡 N 外郭北部域の調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 8冊 県立橿原考古学研究所 奈良 2 0日年))。 ( 2 8)鈴木一議「第 1 5 2次調査」((東影悠編『飛鳥京跡 N−外郭北部域の調査一』奈良県立 0 8冊 橿原考古学研究所調査報告第 1 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 1 1年)、東影 悠・佐藤麻子「第 1 6 4次調査」((東影悠編『飛鳥京跡 N一外郭北部域の調査一』奈良 0 8冊 県立橿原考古学研究所調査報告第 1 奈良県立橿原考古学研究所 ( 2 9)鈴木前掲注( 2 8)文献、東影・佐藤前掲注( 2 8)文献。 -27- 2 0日年)。 ( 3 0)林部均「古代宮都の廃絶」(『古代宮都形成過程の研究』 青木書店 2 0 0 1年)(初出 1 9 9 9年)。これらの廃絶状況については、今回検討できなかった。今後の課題とした い 。 ( 3 1 ) 田坂正昭・伊藤勇輔「第 2 3・4 5次発掘調査 J(奈良県立橿原考古学研究所編『飛鳥京 跡 昭和 4 9年度発掘調査概報』 奈良県教育委員会 1 9 7 5年)、今尾文昭「飛鳥京 4次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 跡第 7 1分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 8 0年度』(第 1 9 8 2年)。 ( 3 2)松田真一「第 6 1次調査の概要J(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 1 9 7 7年度』 1 9 7 8年)、菅谷文則「まとめ」(奈良県立橿原考古 奈良県教育委員会 学研究所編『奈良県遺跡調査概報 1 9 7 7年度』 奈良県教育委員会 1 9 7 8年)。 ( 3 3)菅谷前掲注( 3 2)文献。 ( 3 4)亀田博「飛鳥京跡第 1 1 6次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概 報 1 9 9 0年度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 1年)、亀田博「飛鳥 2 0次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 京跡第 1 ( 第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 2年)、清水昭博「飛鳥京跡第 1 3 3次 調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 1年度』 1 9 9 5年度』(第 2分冊) 1 9 9 6年 ) 。 ( 3 5)西村匡広「飛鳥京跡第 1 3 6次調査 J (奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査 概報 1 9 9 7年度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 8年)。 ( 3 6)林部前掲注( 3 0)文献。 ( 3 7)林部前掲注( 3 0)文献。林部前掲注(4 )文献でいう資料 1 8にあたる。なお、この土器の )文献)。 出土土層については、小津毅も同様の見解をとっている(小津前掲注( 4 ( 3 8)松田前掲注( 3 2)文献、菅谷前掲注( 3 2)文献。 ( 3 9)なお、概報中において、造営に伴う下位・上位整地と廃絶後の整地を明確に分けて認 識していることが読み取れる(菅谷前掲注( 3 2)文献)。 ( 4 0)松田前掲注( 3 2)文献。 ( 4 1)林部前掲注(4 )文献でいう資料 1 9にあたる。 ( 4 2)なお、林部前掲注(4 )文献中で、林部自身も S B 7 2 0 1の性格に問題がある点について指 摘している。 ( 4 3)林部前掲注(4 )文献でいう資料 2 0にあたる。 ( 4 4)亀田博「第 1 1 7次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 年度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 2年)。 ( 4 5)亀田博「第 1 2 0次調査」(奈良県立橿原考古学研究所編『奈良県遺跡調査概報 年度』(第 2分冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1 9 9 1 1 9 9 1 1 9 9 2年)。 ( 4 6)研究会当日は、エビノコ郭に対する検討結果を含めることができず、林部前掲注(3 0 ) -28- 文献の見解を口頭で紹介するに止まった。本稿を成すにあたって、エビノコ郭の状況 を検討した結果、このように考えるにいたった。 ( 4 7)遺構の時期について、松井一晃「飛鳥宮廃絶遺構の遺構」(林部均編『飛鳥京跡 I I I 内郭中枢の調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 2冊 学研究所 奈良県立橿原考古 2 0 0 8年)では不明としているが、岡崎晋明・林部均「第 2 7次調査」(林 部均編『飛鳥京跡 I I I−内郭中枢の調査一』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 1 0 2 冊 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 0 8年)では、飛鳥時代の遺構としている。 ( 4 8)松井前掲注(4 7)文献。 ( 4 9)山中敏史「郡街の構造と機能」(『古代地方官街遺跡の研究』 塙書房 1 9 9 4年)(初 9 8 4年)における、郡庁分類の郡庁 I類のロの字長舎連結型にあたると考えられ 出1 る 。 ( 5 0 ) 松井一晃「宮殿廃絶以降」(林部 均編『飛鳥京跡 E一内郭中枢の調査一』奈良県立 0 2冊 橿原考古学研究所調査報告第 1 奈良県立橿原考古学研究所 2 0 0 8年)。 ( 5 1)松井前掲注( 5 0)文献では、出土層位について、「…宮殿廃絶時の山土を主体とする整 地層直上に堆積する平安時代の堆積層からの出土である。 Jとするが、林部前掲注( 8 ) 文献で、 1 5 5次調査区では、宮殿廃絶時の整地土である黄褐色の山土 CV層)は存在 しなかったとしており、両者の見解に矛盾が生じている。いずれにしても、ここでは 廃絶後の堆積層出土土器の例として取り上げることとする。 ( 5 2)松井前掲注( 5 0)文献。 ( 5 3)林部前掲注( 2 2)文献。 ( 5 4)林部前掲注( 2 2)文献、清水前掲注( 2 2)文献。 ( 5 5)林部前掲注( 3 0)文献。 ( 5 6)松井前掲注( 2 5 )文献。 ( 5 7)鈴木前掲注( 2 8)文献。 ( 5 8)松田前掲注( 3 2)文献。 ( 5 9)林部前掲注( 3 0)文献。なお、同様の状況はエビノコ郭でもみられ、それに対して菅谷 文則は、広場としての利用とのちの造営計画の存在を想定している(菅谷前掲注( 3 2 ) 文献)。 ( 6 0)研究会当日の舘野報告では、飛鳥宮を含め、各宮殿の跡地は維持されるという指摘が あった。また、林部報告では、藤原宮廃絶後の奈良時代中頃に、藤原宮大極殿南門部 A7 1 22• S B7 1 2 1を 分に建てられた建物群を、宮殿跡地の管理施設とみている。今回 S 飛鳥宮廃絶後の管理施設としたが、その当否はともかく、何らかの管理施設の存在を 考慮すべきであろう。 u ノ nω 同 ハ 図版出典 図 1∼ 5・1 2∼1 4:林部編注( 5 )文献より転載、一部改変。 図 6 :中井注( 2 1 )文献より転載、一部改変。 図 7 :林部注(4 )文献より転載、一部改変。 図 8∼ 1 0:東影編注( 2 0)文献より転載、一部改変。 図 1 1:林部編注( 5 )文献より転載、一部改変。 5:清水注( 2 2)文献より転載、一部改変。 図1 円 AU ハ U
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