ダウンロード

如 意 谷 遺 跡
進入路調査概報
1982埜 書7月
如意谷遺跡進入路 調 査 団
箕 面 市 教 育 委 員 会
如 意 谷 追 跡
進入路調査概報
1982生 卜 7)日
如意谷遺跡進 入路 調 査 団
箕 面 市 教 育 委 員 会
文
序
古 文 化 調 査 会 は 、近 年 、箕 面 市 如 意 谷 地 籍 内 で 、遺 跡 の 発 掘
調 査 を前 後
2回 行 って きた。 一 つ は 昭 和 52年 夏 の こ とで ある。
住 宅 ・ 都 市 整 備 公 団 関西 支社 の 委 託 を う け、 如 意 谷 第
設 工 事 用 の 進 入 道 路 予 定 地 の 調 査 で あ る。 次 で 昭 和
2団 地 建
55年 夏 に
は、 箕 面 市 立 小 学 校 建 設 用 地 肉 で の 調 査 で あ り、箕 面 市 土 地 開
発 公 社 の 要 請 に よ った 。 調 査 の 成 果 に つ い て は、 別 に 公 刊 され
て い る概 報 もし くは報 告 書 に 譲 るが 、 水 田下 か ら、 鎌 倉 ∼ 室 町
時 代 にか けて の 建 物 遺 構 な どが 検 出 され 、 そ こが 中世 の 遺 跡 で
あ る こ とが 判 明 した。 しか も遺 構 な どは 調 査 地 の 東 方 水 田下 に
及 ぶ こ と も確 認 され るな ど、 遺 跡 が 東 側 に ひ ろが り所 在 す る可
能 性 が 推 測 され る こ とに な った 。
と ころで 、今 回 調 査 を試 み た 地 区 は 、 は か らず も前 記 の 地 帯
に あ た る。 しか も調 査 地 の 大 半 は、 宝 珠 院 の 境 内寺 地 に含 まれ
る と ころ で も あ った 。 した が って 調 査 に あ た って は 、 中世 寺 院
跡 の 遺 構 な ど を も想 定 しなが ら、 慎 重 に 事 を進 め た 。 結 果 に つ
い て は 後 述 した とお りで あ る 。 そ れ に して も、 開 発 地 に対 して、
本 調 査 の よ うな 事 前 調 査 を 実 施 で きた こ とは 、文 化 財 保 護 の 観
点 か ら して 、 極 めて 意 義 あ る こ とで あ っ た 。
な お 調 査 に あ た って は、 終 始 協 力 い た だ き 、 あ るい は 努 力 し
て くれ た 箕 面 市 教 育 委 員 会 の 関 係 者 な ら び に指 導 委 員 、調 査 員、
学 生 諸 君 に 、 深 甚 の 謝 意 を表 す る次 第 で あ る。
昭和
57年 7月
古文化調査会代表
如意谷遺跡造入略調査団
島越憲二郎
団長
口
一一
例
本書 は 、住 宅・ 都 市整 備 公 団関西支社 の 如 意谷第 2団 地 進 入路
発掘 調 査 の概 報 で あ る。
―
調 査 は、 住 宅・ 都 市 整 備 公 団 関 西 支 社 の 委 託 を受 け た 吉 文 化 調
査 会 (代 表
和
57年
4月
鳥 越 憲 二 郎 博 士 )が 、 進 入 路 調 査 団 を組 織 し、 昭
14日
か ら同年 7月
20日
に か けて 調 査 業 務 を行
った。
3: 本 書 の 執筆 は 1・ Iを 島 田竜雄 、 Ⅲ を福 田薫 が担 当 した。
本書 の作 成 に あた って は、遺 物 の整理 と実測 を福 田薫・ 橋本 郁
也・ 上 田桂子 が進 め 、整 図・ 写 真 撮映 は福 田薫 が 行 った 。
。
。
調査 にあた っては、佐藤義明・ 松島仁 模田茂 園田克 也・ 足
立友成 。香林浩 道・ 鎌 口端典 ,新 田哲 也諸君 の協力 を得 た。
I
調査地 の歴史環境
I
調 査 の経 過
Ⅲ
調 査 の概 要 とま とめ
"― ‐
―Ⅲ
……………………
………
第
第
第
第
第
第
1
2
3
4
5
6
7
1ト
レ ンチ
第
2ト
レンチ
第
3ト
レ ンチ
第
4ト
レンテ
第
5ト
レンチ
第
6ト
レ ンテ
遺
物
図
4
‐
‐
い
‐
‐
Ⅲ
い
‐
中
…
…
…Ⅲ
…
……
…
―い
…
……
…
……
…
…‐
… 7
……
…Ⅲ
―‐
第
ま とめ
図
第
次
目
文
本
版
次
目
調査位置図
(本
図
トレンチ位置 図
図
トレ ン チ 土 層 図
図
出土 遺 物
図
出土遺物
菌
調査状況写真
区
出土 遺 物 写 真
文挿 図)
(本
文挿 図)
調査 地 の歴史環境
調査地の、住宅・ 都市整備公団関西支社如意谷第 2団 地 の建設 工事用道路敷
地は、箕面市如意谷 378番 の 2に 所在 している。 もと真言宗宝珠院の境内寺
地の一部 であった。
この宝珠院 は、往昔 この地方 で栄 え、伽藍坊舎 を数多 く構 えて 、 ひろく諸人
の尊崇 を集 めた「 摩尼 山如意輪寺」 の塔頭寺院であった (同 院『 縁 適 )。 今
に地元住民 の篤 い信仰 に支 え られている「 如意輪観世音菩薩」 は、寺記 にい う
大寺 の本尊 である。室町時代初期 の造像 であるが、ま こと優美 な作風 で、往時
が偲 ばれ る優品 である。
こ うした尊像 を祀 る如意輪寺 には、次 のよ うな開創説話が伝 え られている。
す なわち、平安時代 のは じめの弘仁 3年 、済世利民 をめざして諸国遊行 の弘法
大師が、一老翁 (役 の行者)の 教 えに導 びかれて 当地 に来 り、教 えに したが っ
て三 ッ石 山に至 っに。そ こで如意輪観音菩薩 の示現 を得、仏法興隆のため山頂
に一宇 を建てたのが同寺 のはじま りであった とい う。次 で陽成天皇元慶 4年 に
は、三宝 (仏・ 法 。僧 )興 隆 の資 として荘園が施入 されたか ら、以来寺運 も進
んで坊舎数十 に及 ぶほどに栄 えた。 しか し応仁年間に至 り、兇徒 の戦火 で仏閣
僧舎 は灰儘 に帰 し、難 を免かれた宝珠院 に、古利 の法灯 が伝 え られて今 に至 っ
た、 とい う。
以上のよ うな所伝 で注 目 されることは、寺院草創 にあたって関与 した一老翁
が、実 は役 の小角 (行 者)で あった と説 かれていることである。修験道 の開祖
と仰 がれ、畿 内 を中心 にして広 く各地 に足跡 を伝 えている役行者 が開基 した と
いわれる著名寺院の一つに、箕面寺 (滝 安寺)が ある。箕面寺開創説話 の詳細
は さてお き、奇 しくも、如意輪寺 の創建 にあた って役行者 が登場 し、その教示
が根元 をな していることは極 めて興味深 かい。 さらにいえば、箕面寺 の信仰 の
-1-
中心 は弁財天信仰 で はあるが、 ほか に如意 輪観音 を もあわせて祀 り信仰 を集 め
てい るので ある。
このよ うに、両寺 の車創伝承 に役行者 が主役 を演 じ、 信仰 の 中心 をなす仏尊
が如 意輪観世音 であ ることは、 往昔 の両寺 が、 同一 の宗教世界 で 結 ばれ て いた
ことを想 定 で きるの で ある。実際 の ところ、両寺 は尾 根 一 筋 を中 には さんで 隣
りあ って もいるので あ る。
さて、か つ ては 同色 に彩 られ ていた とみ られ る両寺 の 開基 につ いて は、伝 え
られ る開祖 が よ り吉 い箕面寺 か らは じまっ花であろ う。 その ことは、箕面寺 に
安置 され る尊像 が鎌 倉期 の造作 あるに対 して、一 方 は前記 もしたよ うに室 町初
期 ころで あった事 か らも推測 で きることで ある。 これ らの事情 か ら推 して、如
意輪寺草創 に与 か った人 は、寺伝 にい う弘法大師 は ともか くとして、お そ らく
箕面寺 々僧 か 、 その系統 を引 く人 び とであ った に違 いなか ろ う。 そ こか ら、前
記 したよ うな寺伝縁起 が もた らされ たので ある。
この寺記 で注 目 され る もう一 つの事柄 は、宝珠 院秘蔵 の大聖歓喜天像 であ る。
所伝 によると尊像 は諸所 を変転 したの ち、当 院 に迎 え られた とい うが、果 た し
て ど うで あろ うか 。 それは さてお き、真言 密教 と歓喜天 はそ もそ も一 体 であ り、
密教世界 の護法神 として あ らわれ るのが歓 喜天 で ある。 したが って 、 このよ う
な天尊 を秘蔵 して い る宝 珠 院 は、如意輪信仰 を核 とす る密教世界 に位置 し、そ
の世界 を守護 し擁護す る使 命 を もって 設 け られ たのである。 い うなれ ば、聖・
俗両界 の接点、門戸 に位置 してい るので ある。 こ うした典型 としてみ られ るの
が、俗 に「 聖天 サン」 で知 られる箕面 の西江寺 である。 この寺 もまた、聖地箕
面山 ひいては箕面寺 とい う密教世界 に通ず る門戸 の地「 平尾 (箕 面 の旧称)」
に設 け られている。
以上のよ うな聖域 を擁す る萱野地方の歴史は、 い うまで もな く上古 の時代 に
さかのぼるのである。 た とえば、如意谷第 1団 地の用地内か らは、昭和 41年
1月 1日 、 3世 紀末 の大形銅鐸 l口 が 出土 している。弥生時代 のむか し、 これ
を宝器 として尊重 した共同体 =集 落 が、 この地域 にあった ことは確かであろう。
-2-
また、調査地の北背 l町 の至近地 には、原始の巨岩崇拝に発す る大宮神社がか
つて鎮座 していた。延長 5年
(927)の 延喜式「 神名帳」に載せる「 為那都
比吉神社三座Jの う〕C座 であ'っ たと考 えている。社記では「 比売神」 と述べ
てあり、そのためか江戸時代の吉文書では「 大婦天玉社」 とみえている。 しか
し、地域の詳 しい歴史環境については、すでに完結 している『箕面市史』、去
る 3月 に刊行 された『 如意谷遺跡』 に譲つ たい。
-3-
調
査
の
契
機
箕面市教育委員会 は、昭和 52年 10月 1日 施行 の「 環境保全条例」 に基 き、
市域 にお ける開発地 での埋蔵文化財等 の有無 を知 るべ く、事前調査 を行 ってい
る。文化財保護行政 の一環 で、現行 では、開発面積 1000グ を下限 としてお り、
一律 に実施 している。
そこで、今回調査地 にあって も、上記 の事項 に該当 し、加 えて次記 のよ うな
従前 の経緯 か らして、事前調査 の必要が生 じた。す なわち、昭和 52年 の 春夏
両度 にわたって行 った道 路敷予定地 での発掘調査、その結果 を踏 まえて実施 し
た、昭和 55年 夏 の箕面市立 小学校建設地内での発掘調査 によって、調査地 が
鎌倉期か ら室町時代 に及 ぶ中世遺跡地 であることが判明 した。 しか もこの遺跡
は、 さらに調査地の東狽I一 帯 の広範囲 に及 ぶ ことも推測 され ることになった。
今回の道 路予定地 は、まさにこの地 域 に含 まれている。
そ こで、公 団関西支社 と箕面市教育委員会 のあいだで、調査の実施 について
協議 が行 われた。その うえで、すでに前記 した調査 を担 当 し、 この地域 に対す
る状況 に精通 している古文化調 査会 (代 表
文学博士鳥越憲三郎)に 、調査業
務 を委託 しだ。委託 をうけた古文化調査会 では、次記 の調査会 を編成 し、調査
業務 を行 うことにした。
調
団
長
鳥越憲二郎
査
団
の 構 成
文学博士 。大阪府文化財保護審議会委員
古文化調査会代表
指導委 員
調 査 員
瀬川芳 則
同志社大学講師・ 考古学協会員
島 田竜 雄
箕面市文化財保護専門委員
福 田
箕面市教育委員会社会教育課職員
薫
-4-
事 務 局
坂 上 潔 司 箕面市教育委員会社会教育課社会教育係長
角 山公 朗
〃
″
職 員
調査は、先年 の両三度にわたった調査結果を踏まえ、また、調査地が寺域で
もあったか ら、中世寺院跡の遺構 などを想定 しながら計画 し、昭和 57年 4月
中に行 った。
-5-
・′
オ
甲口閾
第 1図
調 査 区位 置 図
』%52年 度調査区
I ΦI
度調査 区
は劾55年 度調査区
:1:::157年
調 査 の 概 要 とま とめ
如 意谷地区 では、昭和 52年 と同 55年 の 2度 にわた り、発掘調査 が行 われ、
鎌倉・ 室町時代 の遺跡 のあることがわかっ議:今 回の調査地 は、その東側 に位
置 している宝珠院 の境内地を対象 に して、そこに、遺跡の有無 を確認す るため
に行 った ものである。調査対象地 の南側 は平坦地 、北側 は北摂 山地へ と続 く傾
斜面 である。調査は、対象地 をほぼ 2分 す るかたちで南側 3か 所、北側 3か 脈
計 6か 所 の トレンチを設定 し、手掘 りで行 っに。各 トレンチの調査概要 は下記
の如 くである。
第 1ト レンチ
(南 北 2物 X東 西 7物 )
堆積土 は、基本的 には上層 か ら黒色腐植土層、黄茶褐色礫混砂質土層、茶褐
色粘 土質土層、暗茶褐色礫混粘土質土層 とい う 4層 か らなっているが、かな り
の攪乱 を うけていることが判明 した。表土 か ら地山までは約 1.3%厚 であっ協
検出 した遺物は、第 3層 の茶褐色粘土質土層か ら土師質皿 。須恵質土器片、第
4層 の暗茶褐色礫混粘 土質層 か らは須恵質鉢 。瓦器椀片 などであるが、すべ て
小片 のみである。 なお遺構 は全 く検出 されなか った。
第 2ト レンチ
(南 北 2%× 東西 10%)
堆積土 は、上層 か ら黒色腐植土層 。茶褐色粘質土層 である。その下部第 3層
では、西側 が灰褐色礫混粘質土層、東側 は青灰色砂質土層か らなってい る。遺
構 は、第 2層 の下面 を切 りこんだ状態 で 巾約 1.7切 、深 さ約 0,25物 をはか る
溝状遺構 を検出 した。溝内 は径 5 cm∼ 2 0cm程 度 の中小礫 が ぎっしり詰 め込 ま
れてお り、暗渠 の役割 を果 たしたか と考 えている。遺物 としては、溝 内か ら近
世 の染付 け磁器片若干 と瓦片 を入手 した。 ほか に第 2層 の茶褐色粘質土層 か ら
土師質皿、瓦器椀片、羽釜形土器 の鍔部が出上 しに。
-7-
□ El□
第 5
第 4ト レンチ
調査 区西限
第 6ト レンチ
第 2ト レンチ
│
│
第 1ト
日
第 2図
トレンチ位 置 図
-8-
レンチ
第 3ト レンデ
第 3ト レンチ
(南 北 3.5%× 東西 2吻 )
堆 積土 は、上層 か ら黒色腐 植 土層、 責茶褐色礫混砂質土層 か らな り、第 3層
の南側 は茶褐 色 砂質 土 層、北側 は灰茶褐色粘 土質 土 層 お よび茶褐色粘 質土層 と
な って い る。遺物 は、 第 3層 北側 の灰茶褐色粘 質土層 か ら布 目瓦 、茶褐色粘質
土層 か らは須恵器片 、瓦器椀片、土 師質皿片 な どが 出上 した。
第 4ト レンチ
(南 北 3知 X東 西 2物 )
堆 積土 は、上層 か ら暗茶色腐植 上層 、茶褐色礫混砂質土層、責褐色砂質土層、
淡黄褐色砂質土層、淡茶褐色粘質土層、茶褐色粘質土層 の 6層 か らな り、地 山
まで 2.5%を はか る。 その ほ とん どが盛土で あ り、北側 上部 に所在 し て い る
「 大宮寺池」築造 にあた っての 残土 を盛上 した もの と考 えられ る。遺物 は第
3
層 中 か ら磁器片 、第 4層 か ら導 瓦 、土師質皿、瓦器 、黒色土器片 が少量 出土 し
た。
第 5ト レンチ
(南 北 2解 ×東西 2物 )
堆 積土 は上か ら茶黒 色腐 植 土層、黄灰茶色砂礫土層 となってい る。地 山面 は、
北西 か ら南東方 向 へ 向 けて急激 に傾斜 してい る。遺物・ 遺構 ともに皆無である。
第 6ト レンチ
(南 北 2η ×東西 3%)
堆 積土層 は上か ら暗茶色腐植土層 、茶黒色砂質土層 と続 くが、 その下層 の第
3層 は盛上 で 、ゴヒか ら南 へ 傾斜 して堆積 してお り、 これは第 4ト レン チで判 明
した盛土 に連 らな る もの であろ う。
︼
退
物
出土 した遺物 は少量 の小片 のみで あったが 、実測可能 な もの 30点 を撰んだ。
1∼ 8は 磁 器 である。 いず れ も近世 か ら現代 に近 い もの と認 め られ る。 1は
第 1ト レンチ 出上の皿 で ある。体部 は内湾気味 に立 上が ったあ と稜 を もち、や
や角度 を急 にして 口縁部 へ続 く。 日縁部 は尖 って終 わ る。内外面 に黄灰色 の釉
が薄 く施 されてお り、体部 の 内面 には灰黒色 の釉 が帯状 に施 されてい る。焼成
は甘 く、陶器 との 区別 が 不明瞭 で ある。 2∼ 5は 第 2ト レンチ 出上 で ある。 2
-9-
は鉢 とみ られ る。 体部 は斜 め上方 にほぼ垂 直 に立 上が り、 口縁部 で外反す る。
内外面 に黄灰 色釉 が施 されて い る。 3は 椀 で あるが、肥厚す る底部 に細 い高台
が付 いて いる。体部 の外面下半部 は施釉 が ない。 内面見込 に車花 の文様 が描 か
れてい る。 4は 小椀 か と考 え られ る。体部 は内湾気 味 に立 上が った あ と、 日縁
部 で外反す る。 5は 伊万 里焼 の染付椀。肥厚 す る底部 か ら内湾気 味 に立 上が る
体部 で 、 口縁部 は尖 ってお わ る。断面 三 角形 の比 較 的 しっか りした高台 を もっ
てい る。体部外面 には淡青緑 色 の網 目文様 を染付 けて い る。 6は 第 3ト レンチ
出上 の椀。低 く細 い高台 を有 す る。外面下半部 のみ施釉 な し。 7は 第 4ト レン
チ出上 の小椀。体部 は 内湾気 味 に立 上が り、 口縁 部 で外反す る。底部 は欠 けて
い るが、高台付 で あった とみ られ る。外面 に青 色 の車花文様 が 染付 け られ てい
る。 8は 第 6ト レンチ 出上 の椀 で 、内湾気 味 に立 上が る体部器壁 の厚 さは、比
較 的均 ― に仕 上が って いる。細長 い三 角形 状 の高台 を もち、外面 には群青色 の
染付文様 が あ る。 9∼
21は 土 師質 の皿 で ある。 9∼ 11は 第
1ト レンチ出五
9は 平 らな底部 か らほぼ直状 に斜 め上方 に立 上が る体部 で ある。端部 は丸 く収
め られ るが、体部外面 に指頭圧 痕が認 め られ る。 10。
11は 比較 的ゆ るや か
な立 上が りの体部 で 、 日縁部 はやや 尖 り気 味 の仕 上が りで ある。 12∼
第 2ト レンチの 出土。
14は
12は 、や や 丸 味 を もつ体部 か ら、斜 め上方 にゆるやか
な立 上が りを示す 。体 部外面 には指頭圧痕 が顕著 に残 ってい る。
13は 大 回に、
体部 はやや 内湾気 味 に立 上が る。器厚 は割合薄手仕 上げで あ る。
14は 平 たい
底部 か ら、外反気 味 に立 上が り、端部 も平 た く仕 上が る。外面 に指頭圧痕 を残
して い る。
15は 第
は丸 く収 め られ る。
3ト レンチの 出土。 口縁部外面 は 2段 の横撫調整 で 、端部
16∼ 20は 第 4ト
レンチ 出土。
16は 丸 味 を帯 びる底部
か ら肉湾気 味 に立 上が り、角度 を変 えて斜 め上方 へ直 にのびる体部 を もって い
る。
17は 平 たい底部 か ら、 ゆ るやか に斜 め上方 へ立 上が る体部 で 、端部 はや
や尖 り気 味 の仕 上げで ある。
に指頭圧痕 がみ られ る。
18は 短
く外 上方 に立 上が る体部 で、内外面 とも
19の 体 部 は屈 曲 しなが ら斜 め上方 に立 上が る。底部
は比 較 的平 た く、端 部 は肥厚 して丸 く収 めて ある。 20は 内湾 して立 上が る体
-10-
部 で、 日縁部外面 は軽 い ヨコナデ調整 、端部 は尖 って いる。 21は 第 6ト レン
チの 出上 で 、 ゆるや か に立 上が る体部 は途 中 で急角度 に変 わ る。外面 に指頭圧
痕 が 認 め られ る。 22は 第 1ト レンチ 出上 の須 恵質鉢。体部 は斜 め上方 へ直線
的 に立 上が り、日縁部 で上下 に拡張す る。全体 に明灰色 を呈す るが、 日縁部外
面 は灰黒 色 であ る。 23は 第 3ト レンチ出上 の瓦 器椀 で あ る。不定形 な貼 り付
高台 か ら内湾気 味 に立 上が る体部 で、暗文 は小片 の ため不 明で あ る。 24∼
26
は第 2ト レンチ 出土。 24は 椀 で 、肥厚気味 の底部 には細 く低 い高台 が 付 いて
い る。全面 に茶褐色 の釉 が施 されて い るが、高台 の接 地面 の釉 は 削 り取 られて
い る。 25は 鉢 もしくは壺 とみ られ る。高台 は低 く削 り出 され、 体部下半 の一
部 に施釉 が あ り、 上半部 は欠失 してい る。
26は 鉢。体部 はやや 内湾気味 に立
上が り、 口縁部 で肥厚 され上下 に拡張 させてい る。 国縁部外面 に 1条 の沈線 が
施 されて い る。体部 内面 には カキメがあ り、悟鉢 を小型 化 した形 を呈す る。胎
土 は精良 で 、色調 は淡茶 色。 27は 第 6ト レンチ 出上 の播鉢。斜 め上方 へ直線
状 に立 上が る体部 に続 く口縁部 は厚味 に直 立 して いる。 日縁 の 内外面 は ヨコ ナ
デ調整 のため段 を もち、内面 には カキメが顕著 にみ られ、焼成 は信楽焼 で あろ
う。 28は 第 3ト レンチか ら出土 した須恵器 で 、 カメの胴部 とみ られ る。 29
は第 6ト レンチか らの瓦 片 で 、内面 に縄 目が 残 って いる。 30は 第 4ト レンチ
の 出上 で 、簿 瓦 と考 えられ る。焼成 は良好、明灰 色 を呈 し、厚 さ約 3.3 cmほ ど
で ある。
ま
と
め
今 回調査 の契機 と、 調 査概 要 は既述 の如 くである。 そ こで判 明 した ことは、
調 査 範囲内 において は遺構 な らびに良好 な遺物包合層 が 検出 されなか った こと
で ある。 それはまた、去 る昭和
52年
と 55年 の 両度 にわた った調査 で確認 し
た遺跡 課争今 回の調査地 に及 んで はいない とい う ことを意 味す る。 しか し、 出
上遺物 の 中 には小量 で あ るが 興味深 い ものが得 られた。第 4ト レンチ 出上 の黒
色土器・ 瓦器・ 鴬 瓦 が それ で ある。平安時代 の もの と考 え られ る黒色土器 は細
-11-
片 ではあるが、如意谷地区 では初出の もので、前 2回 の調査 時 に もなか っ花。
箕面市域 で も、今 の ところ瀬川 4丁 目第 1地 点か ら小量 が 出上 しているのみで
あ落:第 4ト レンチ周辺 の地形 は傾斜面であ り、 自然地形 であると判断 したも
だが調査 によって、 この傾斜地形 とい うものは、人為的 な盛土 によって 出来 た
地形 で あることがわか った。 この盛土 中か ら、前記 した平安時代 の遺物が得 ら
れたのである。何時、誰 が、 どこか ら盛土 を移動 させたのであろ うか。考 えら
れ るのは、調査地 の北側 に接 している大宮寺池 の築造 である。池 の東北 には、
寛平 4年
(892)の
開基 と伝 える大宮寺薬師堂 が所在 している。 そ cに は、
10世 紀 を降 らない薬師如来像 が安置 されて もお り、往時は、大宮寺池 をも含
む地域 が寺域 であった とみてよかろ う。 しか し後年 に及 んで大宮寺池が設 けら
れるに際 して、掘削 された残土 をもって南側 に堆積 したのが、第 4ト レンチの
地域 であった と考 え られ る。 こ うして地形 の変化 が行 われたのであろ う。 して
みると、盛土 中か ら得 られた遺物 とい うものは、大宮寺 との関連 を考 える上で
重要 な資料 とい うことがで きよ う。一方、他 の トレンチ出上 の遺物 の大半 は、
江戸時代か ら後世 の ものである。そ こか ら、現在 み られ る宝珠 院の建立 時期 は、
そのころに比定 で きるのではなか ろうか。それにして も今回の調査地 では遺構
が検出 されなか った。 しか し、如意谷遺跡 の東限の問題、盛土中か ら入手 した
遺物 の問題探求 な ど、新 たな知見 と課題 が得 られた意義 ある調査ではあった。
1
2
註 註
「 如 意 谷遺 跡 」
1981年 3∼
1982・ 3如 意 谷遺跡 調 査 団
4月
.箕 面市遺跡調査会による調査、日下報告書作成中
-12-
114,000m―
109,500
111,000m一
第 4ト レンチ
1111500m―
三
愚
暮
名
薙
異
茶褐色粘 質 土層
112,000m一
茶褐色粘質 土 層
ト レ ンチ 土 層 図
第 3図
淡責 褐色砂質 土 層
淡茶褐色粘 質 土 層
茶褐色礫 混砂 質 土 層
黄 褐色砂質 土層
暗茶色腐植 上 層
:i塗
7.茶 褐色粘質 上層
8.茶 褐色砂 質 土層
4.灰
第
第 6ト レンテ
5
116,500m―
1.黒 色腐植 土層
2.黄 茶褐色礫 混砂 質 土層
3.青 灰色粘 質 土層
第 2ト レンチ
壁
第 1ト レンチ
0
3m
1.暗 茶色腐植 土層
2.茶 黒色砂 質 土層
3.茶 褐色粘 質 土層
4.淡 灰 褐色粘質 土層
5.黄 灰色粘 質 土層
6,灰 褐色粘 質 土層
1.茶 黒色腐植 土層
2.黄 灰茶色砂礫 土層
3.灰 茶色砂礫 土層
1.黒 色腐植 土層
2.茶 褐色粘 質 土層
3.青 灰色砂質 土層
4.暗 茶褐色砂礫 土層
5,茶 褐色砂礫 土層
6.茶 掘色礫混粘 質 土層
7.淡 茶色砂質 土層
8,地 山
暗茶 ta」 色礫混粘 質 土層
5. 淡 黄褐 色粘質 土層
6. 黄褐色粘 土混砂質 土層
4.
1. 黒色腐植 土層
2. 責茶褐 色TA・ 混砂質 土層
3. 茶褐色粘 質 土層
一
壁 ユ
′
6
Iヽ
【
二
そ
::I ::;''「 7
18
21
o
第 4図
出土遺 物
15cm
`
\⊆1型 :ζ ジち
5
0
第 5図
出土遺 物
10
20cm
第 6図 調 査 状 況
第 2ト レンチ南壁土層
第 5ト レンテ 西 壁 土 層
第 7図 出 土 遺 物
昭和 57年 7月
1日 印刷
昭和 57年 7月 15日 発行
如意谷遺跡進入路調査概報
疑痔
如意谷遺跡進 入路調査 団
箕 面 市 教 育 委 員 会
印刷
大信美術印刷株式会 社