WIJC160724わたしの教会を建てる - ワシントン インターナショナル 日本

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2016 年7月24日 聖書:マタイ16章16-26節 タイトル:私の教会を建てる
序 論
●私の米国でのミニストリーは、今から約25年ほど前に、NJのプリンストンで始まった。NYに近
いNJ北部には、ご存知のように日本人が沢山いるが、そこから約1時間ほど南にくだったプリンス
トンの近くには、当時、今より少ない1000人以下の日本人人口と言われた。
●「何でこんなに日本人の少ない所で日本人教会を始めるのか?」と地域の新聞社の記者が取材に来た。
●でも利点もあった。日本人人口が少ないので、今もそうであるが、「日本人教会は一つしかない」と
言うことで、日本人教会を探す人はみな私たちの教会に来られた。
●そんなこともあって、1991 年秋に、家内と私の二人を含めて4人で始めたのであるが、1年目が終
わるころは12人、5年後には30名ほどの礼拝出席者となっていた。
●その頃、大変お世話になり、また多くの交わりをさせて頂いたのが、NYマンハッタンにある「日米
合同教会」の当時の牧師岩淵先生であった。
●数年後、先生はシアトルに移られたが、NYの地を去られることが分かった頃、先輩牧師として、何
よりも、米国伝道の先輩として、尊敬する岩淵先生に質問したことがあった。「先生が、私たち後輩
牧師に対して残したいことは何か? 忠言したいことは何か?」と。
●先生は迷わずに「教会観を確立すること」と答えられた。「教会とは何か」と言うことを教会内に確
立することだと言われたのである。
●それは、正に、私たちの教会も含めて、当時 80 年代から 90 年代初期にかけて東海岸に次から次へ
と建ち始めた日本語教会への挑戦的問いかけでもあった。
●どういう「意識」「理解」「目的」「動機」をもって、それらの教会は始められ、運営されているの
か? 何を目指しているのかを、「私たちは聖書から答えなければならない」、そう感じた。
●私たちは、今日、この問題、「教会とは何か?」という問題をご一緒にマタイ 16 章から考えたい。
●私たちは、この 2 週間、礼拝で、「人々、また、あなたがたは、私を誰だと言うか?」と言うイエス
様の質問を中心に、マタイ 16 章後半部に記されているイエス様と弟子たちの会話からメッセージを
頂いて来た。
●今日の聖書箇所も同じく、マタイ 16 章16-26節であるが、鍵の節は18節である。整理すると、
(1)イエス様は「私を誰と言うか?」という、私たちの人生における最重要と言える質問をされた。
(2)それに対して、ペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えた。
(3)それに対してイエス様は、「その答えは、神様が与えられたとしか言いようのない名答だ‼」と最
大級のお褒めの言葉を与えられた。
(4)そして、更に続けてイエス様は言われた。「私は、この岩(ペテロの信仰告白)の上に、私の教会を
建てる」と。
(5)このお言葉が今日のメッセージのカギである。
本 論
Ⅰ.この18節のイエス様の御言葉が示していることは、「福音」と「教会」との関係である。
A.「福音」と「教会」に関する、多くの人々の一般的な「理解」と「イメージ」は何か?
1.「福音」とは、イエス様の十字架の功績によって、罪のために分断されていた「個人」と神
様との関係が回復され、その関係が基礎となって、一人一人が、「神の子」として成長して
いくことがクリスチャン生涯である。と言うイメージと理解である。
2.また、「教会」とは、その成長を見守り、助けるための「母体」として、或いは「家族」と
して、その成長を支える補助的な存在というイメージが強い。
3.即ち、福音の目的は、あえて言うなら、「個人」的な回心と信仰によって、罪人から神の子
とされた「個人」が、更に、ご聖霊のお働きの中で、「個人」的に成長して、神に似る者と
なって行き、永遠に神と共に天国に住むことである。
4. そのような中、教会とは、「個人」の救いと完成を果たすための補助、手段、媒体である。
5.このような「個人」を中心とした理解が、多くの人々の「福音と教会」に関するイメージと
理解ではないか?! そして、それは決して間違ってはいない。
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6.確かに、救いは、基本的に「集団的に」起こるものではない。神様との「個人的」関係の目
覚めと回復である。
(1)それゆえ、「教会」という群れ、環境の中に生まれ、育っても(牧師の子、役員の子、ク
リスチャン・ホームに生まれても)、神様に対する個人的な悔い改めと信仰なくしてクリ
スチャンになることはない。教会の群れに加わっていることによるのではない。
(2)それは、ビリーグラハムも言うように、「ガレージで生まれても、車にならない」のと
同様である。
B.しかし、同時に、「福音」の目的を「個人」の救いと完成の中にだけ見ることは誤りである。そのこと
は、今日のカギの聖句である、イエス様の御言葉からも明らかになる。
1.ペテロは、「私を誰と言うか?」と言うイエス様の質問に、「あなたこそ生ける神の子キリ
ストです」と答えた。それは、まさに「福音」とは何かの信仰告白であった。
2.それゆえ、イエス様は最高に喜ばれたのである。そして、「私は、その岩、その信仰告白の
上に、私の教会を建てる」と言われたのである。
3.このイエス様の宣言の中に私たちは何を見るか?
(1)「この岩」、即ち、イエス様を「生ける神の子、キリスト(救い主)です」と個人的に信
じ受け入れる信仰は、クリスチャン生涯の「土台」である。
(2)すなわち、「個人」が、そのような信仰に入ることは、「目的」ではなく、目的を果た
すための「土台」なのである。
(3)しかし、興味深いことは、ここからである。普通なら、その後に、「目的」として、そ
のようにして始まった「個人的」信仰の、「個人的」完成が来るはずである。
(4)しかし、イエス様は、そのような福音信仰を「土台」にして、複数の信者の群れである
「教会」を建てることが、最終目的であると言われたのである。
(5)イエス様の十字架の目的は、個人の救いを土台にして「教会」を建てることであった。
4.まとめるなら、福音の目的は、主の教会を建てることであり、個人の救いと完成ではない。
C.このことの重要性・真理性は、次の聖書からも明らかである。
1.まず、今日のマタイ16章18節:
(1)そもそも何でここで、突然「教会」が出てくるのかと言う人々、聖書学者も大勢いる。
(2)文脈と言うか、前後を見ても、唐突、突然の感がぬぐえない。
(3)確かに、「教会」と言う言葉は、4つの福音書の中に2回しか出てこない。いずれもマ
タイで、ここと、18章17節の2回である。
(4)だから聖書を神の言葉と信じない学者たちは、ここに出て来る「教会に関するイエス様
の言葉」は、後世の人々が「教会の大切さ」を教えるために加筆したのだと言う。
(5)しかし、聖書を神の言葉と信じる私たちには、人間的には意外に思われる言葉が、しか
もイエス様の言葉としてそこにあると言うこと自体が、その「重要性」を意味している。
(6)即ち、イエス様は、ここで、福音信仰の目的は、単に個人の祝福ではなく、群れとして
の「教会」が建ちあげられることだと、文脈を超えて、わざわざ強調されたのである。
2.更に、他の新約聖書も、イエス様が十字架に掛かられた目的に関して、個人の救いより、
「教会のため」であったことを強調している。そのいくつかをご紹介したい。
(1)使徒の働き20章28節:
(2)エペソ5章25節:
(3)そして、ヨハネの黙示録の締めくくりの数章は、福音の最終的結論として、花嫁なる教
会が花婿なるキリストと婚宴を挙げるクライマックスを描いている。それは、決して、
キリストと個人個人のクリスチャンとの婚宴ではない。
(4)「教会」と「キリスト」の婚宴である。これが福音の最終的、究極的目的である。
Ⅱ.しかし、現実には、私たちは「教会」をどのように扱っているか?
A,多くのクリスチャンたちが、福音信仰の目的として、「教会」よりも、「個人」を第一としている。
1.多くのクリスチャンたちが、それが、たとい霊的なものであっても、「群れ」としての「教
会」よりも「個人」の祝福と完成を主目的としている。
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2.そのような傾向は、聖書からと言うより、周囲の時代的、文化的な影響を受けている。
(1)過去に起こった全体主義的な国家の過ちを繰り返すことの恐れから。
(2)会社のために個人生活を犠牲にして来た日本社会への反省から、「教会」よりまず
「個人」となる傾向が強い。
(3)この傾向は、現代の「個人主義謳歌」の時代的文化から大いに影響を受けている。
B.教会理解に関しての他方の過ちは:
1.牧師、信徒に関わらず、自分の属する「教会」を、間違った意味で重要視して、自分の教会
を活発にし、大きくすることが、福音の目的だと思い込んでいる人々がいる。その特徴は:
(1)他の教会、周囲の教会への愛(祈り)と尊敬が欠如し、むしろ、批判する。
(2)しかし、私たちには、この世界に、たった一つの教会、イエス様を主任牧師とする普遍
的教会があるのみで、どんな地方教会名も、各教団名も、永遠には存在しない。
(3)昨日、Centerville, VA にあるKCPC(韓国中央長老教会)の方と、教会に日本語書籍の
ライブラリーを作るために会った。私がお礼を言うと、その方は言った。「みんな同じ
教会なんだから当然だ」と。国籍・人種を超え、教会・教派を超えての言葉である。
2.それと反対に、「私は、主の普遍的教会に属するので、地上のどの教会にも属さない」と言
って、色々な教会を転々し、どの地方教会にも責任を負わないことも、また間違いである。
(1)神様は、ご計画の中に、私たちを一人一人、それぞれの「地方教会」に属し、責任をも
ったクリスチャン生活をするように導いておられる。
●責任をもった牧師に祈られ、み言葉をもって養われ、導かれるために
●また、教会家族に囲まれ、励まされ、慰められると共に、神様の御業を、皆で協力し
て進めるために。
(2)それは、丁度、初代教会の時代に、ある人々はローマの教会に、ある人々はコリントの
教会に、ある人々はエペソの教会に、・・・とそれぞれ属していたようにである。
Ⅲ.しかし、ここで大切なことは、その教会を建てるために、その教会の「部分」「建築資材」となる私たち
が、どのようにあるべきかである。
A,そのことこそが、「私を誰だと言うか?」と言うイエス様の質問から始まった、このマタイ16章後半
のイエス様と弟子たちの会話の結論的テーマである。
1.それは、特に、21節から始まり、26節まで続いている。
2.この部分のイエス様と弟子たち、ペテロとの会話は、明らかに、そのすぐ前の、ペテロの信
仰告白とイエス様の教会建設宣言と関係している。
3.これらは皆、一連の関連した会話なのである。即ち、
(1)ペテロの「福音的信仰告白」とイエス様の「教会建設宣言」(16節~20節)
●ペテロ:あなたこそ生ける神の子キリストです
●イエス様:私はこの信仰の岩の上に教会を建てる
そして、21節に「その時から」とある。明らかに前の部分を受けている。
(2)イエス様の受難の預言の始まりとペテロの拒否行動(21節~23節)
●これらの対話の後から、イエス様は意図的に、弟子たちに、ご自身の「受難」、「受
難のキリスト」としてのご自分について語り始められた。
●すると、それを、人情的視点から、ペテロがイエス様をいさめ始めた。
●そのペテロをイエス様が叱られた。
24節の「それから」と言う接続詞をもって尚このテーマが続いていることを示す。そして、
(3)イエス様は、クリスチャン生涯の条件と価値観が何であるべきかを述べておられる(24
-26節)
●即ち、それが、「私を誰だと言うか?」と言う質問で始まったこの一連の会話の締め
くくり、結論的部分となる。
4.この会話をもう一度復習すると:(この辺から先週とダブルが・・・)
(1)まず、クリスチャンになるための基本信仰、信仰の土台が提示された:「あなたこそ生
ける神の子キリスト」である。
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●クリスチャン信仰は、「イエス様」をどのように受け入れるか」で決まる。▶神とし
て、▶今も生きておられるお方として、▶神の選ばれた救い主キリストとして
(2)イエス様は、このペテロの信仰告白の明快さ、正しさをほめた。
(3)それがゆえに「時が来た」と信じ、人々が、そして弟子達さえもおそらくこれまで見落
としていた「キリストのもう一つの面」、「受難のキリスト」について語り始められた。
(4)すると、ペテロは、イエス様を人間的に思う心から、「あなたに、そのようなことはあ
ってはならない」とイエス様をいさめ始めた。
(5)それを聞いたイエス様は、意外にも「ありがとう。私のことを心配してくれて・・・」
と言わなかった。むしろペテロに向かって、「サタンよ。退け。あなたは私の邪魔をす
るものだ。神のことを思わず、人のことを思っている」と強く叱責した。
(6)そして、24-26節の言葉に続くのである。「誰でも私についてきたいと思うなら」
と言う言葉で始まるこの部分には、クリスチャンとなった者の持つべき、覚悟、価値観、
等々が記されている。
(7)言い換えるなら、それは、救われた者として、その救いの目的であるキリストの教会を
共に建てうるための、イエス様の同労者としての条件、要件でもあった。
(8)それが、コロサイ1章24節でパウロが言っていることでもある。「・・・・」。
B.最後に、先週の復習となるが、クリスチャンに、イエス様についていきたいと願い、イエス様と共にその体で
ある「教会」を建てるために、イエス様が、チャレンジしておられることを箇条書きのように整理したい。
1.第一のチャレンジ:「人情愛」(人の思い)を「神様の御心」よりも優先しないことである。
(1)イエス様のことば「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)。
(2)ペテロは純粋にイエス様のことを思って、「そんなことが貴方のような立派な方に起こ
ってはなりません。」と言ったのである。
(3)確かに、人情、夫婦愛、親子の愛、兄弟愛は、神様から頂いた大切なものである。
(4)しかし、その点でイエス様は、私たちを試されるのである。私たちは、単に悪いものを
捨てる、捧げるのではない。良いものを神様にささげるのである。
(5)沢山の聖徒たちがこの点を試みられた。アブラハムは、イサクをいけにえとして捧げる
ように言われた。父なる神様は、独り子イエス様を私たちのために死に渡された。
2.第二は、価値観の変換におけるチャレンジである。
●マタイ 16 章 25-26 節をみたい。
●ある著名な説教家が、その説教の中で「クリスチャンになったことの一番大きな変化
は、価値観の変化である」と言われた。
●26節には「全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょ
う」とあります。これがイエス様の価値観である。
●ここで言う「まことのいのち」とは何か? 「まことのいのちでない命」の存在を前
提としている。それは、この世のいのちであり、まことのいのちとは永遠の命である。
●この世の価値観は、「この世のいのち」を一番大切にする。それは、この肉体のいの
ちであり、この世で手に入れることのできる物、金、地位、名誉、豊かな生活、等々
●しかし、イエス様は、これは間違いであると言う。「この世のいのち」よりもっと大
切なもの、「まことのいのち」があると言う。
●星野富弘の詩「命より大切なもの」:「命がいちばんだと思っていたころ生きるのが
苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」。
●私たちは、この世のいのち(生活、人間的な愛、物、地位、名誉、楽しみ、快楽)を得
るために、まことのいのち、霊的ないのちを犠牲にしたり、後回しにしてはならない。
●1956 年エクアドルで惨殺された 5 人の宣教師の一人、ジム・エリオットはこう言っ
た。 "He is no fool who gives what he cannot keep, to gain what he cannot lose."
結 論
●「教会」と言う言葉に心しつつ、マタイ16章18節、コロサイ1章24節をもう一度読んで締めく
くりたい。