2016 2016年 12月11日 11日 聖書:ヨハネ福音書 聖書:ヨハネ福音書 1 章 1-12 節 タイトル:「 タイトル:「来られた救い主の誕生(2) 来られた救い主の誕生(2):人として来られた救い主 (2):人として来られた救い主」 :人として来られた救い主」 序 論 ●今更、教会で言うまでもないことであるが、「クリスマス」は、 今更、教会で言うまでもないことであるが、「クリスマス」は、イエス様の誕生を記念する日 「クリスマス」は、イエス様の誕生を記念する日に、そ イエス様の誕生を記念する日に、そ の誕生に感謝し、祝う日である。 ●12 月 25 日は、その誕生を記念する日であって、決して、イエス様が実際に生まれた日と言う意味 ではない。 ●「アドベント・シーズン」、日本語では「待降節」と アドベント・シーズン」、日本語では「待降節」と言うが ・シーズン」、日本語では「待降節」と言うが、 言うが、それは、キリスト教の暦では、クリス それは、キリスト教の暦では、クリス マス前の4つの日曜日を含んだ マス前の4つの日曜日を含んだ 4 週間を言う。 ●それは、イエス様の誕生記念 ●それは、イエス様の誕生記念日 れは、イエス様の誕生記念日を迎えるための心の準備の期間である。 を迎えるための心の準備の期間である。 ●今年、アドベント・シーズンは、11 今年、アドベント・シーズンは、11 月 27 日の日曜日から始まった。と言うことで、今日は第三ア ドベント・サンデーとなる。 ●しかし、私たちは、第二アドベント・サンデーである先週の日曜日から、クリスマス・メッセージを ●しかし、私たちは、第二アドベント・サンデーである先週の日曜日から、クリスマス・メッセージを 始めた。そして、「来られた救い主」と言うテーマで、「ことば」として来られた救い主、「光」と して来られた救い主についてご一緒に考えた。 ●今日は、その続きとして、「人なって来られた」、即ち、「人間」として来られた救い主について学 び、そこからメッセージを頂きたい。 び、そこからメッセージを頂きたい。 本 論 Ⅰ. 第一に学びたいことは、「ことばが人となる」とは、何を意義についてである。 A. まず、「ことば」とは、何かについて、先週学んだことを思い出していただきたい。 1.ここで用いられている 1.ここで用いられている日本語で ここで用いられている日本語で「 日本語で「ことば」 ことば」と訳されている語 と訳されている語は「ギリシャ語 「ギリシャ語」原語で 原語では、 「ロゴス」 「ロゴス」である。 2.イエス様について、「ロゴス」と言う語を用いて、ここでヨハネは何が言いたかったのか? (1)「ロゴス」 (1)「ロゴス」は 「ロゴス」は、ギリシャ文化に親しんでいる人たちにとっては、この世界・宇宙を創造 ギリシャ文化に親しんでいる人たちにとっては、この世界・宇宙を創造 し、支配している「原理」「秩序」を意味し、哲学的には「神」を意味する し、支配している「原理」「秩序」を意味し、哲学的には「神」を意味する語 、哲学的には「神」を意味する語であった。 (2)更に、ユダヤ人の文化、もっと具体的には、旧約聖書 (2)更に、ユダヤ人の文化、もっと具体的には、旧約聖書の 更に、ユダヤ人の文化、もっと具体的には、旧約聖書の文化に生きて来た人々にも、神 様の「ことば」は、神さまご自身を意味していた。 (3)即ち、ここで、ヨハネが言いたかったことは、イエス様は、「ロゴス」「ことば」なる (3)即ち、ここで、ヨハネが言いたかったことは、イエス様は、「ロゴス」「ことば」なる 神、即ち、永遠の昔から存在し、この宇宙を創造し、原理をもって支配し、その秩序を 保っておられる神であると言うメッセージである。 (4)それが、ヨハネ (4)それが、ヨハネ 1 章 1-3 節の宣言である。 B. その「ことば」なる神様が人間になったというのである。 1.日本人の文化、宗教から 1.日本人の文化、宗教から言うと、「神が人になる」と言うよりは、「人が神になる」と言う 日本人の文化、宗教から言うと、「神が人になる」と言うよりは、「人が神になる」と言う ことにより親しみを覚えるのではないだろうか? (1)「先祖崇拝」は、その一つの良い例である。 (1)「先祖崇拝」は、その一つの良い例である。 (2)「人が死んだら、神さま (2)「人が死んだら、神さまや 「人が死んだら、神さまや仏さまになる」と言う信仰である。 (3)或いは、生きている間に何か偉大なこと、偉業を成し遂げたなら、その人は (3)或いは、生きている間に何か偉大なこと、偉業を成し遂げたなら、その人は「 或いは、生きている間に何か偉大なこと、偉業を成し遂げたなら、その人は「学問の 神」「商売の神 」「商売の神」 商売の神」と崇められ、死んだなら、まつられ、その人の と崇められ、死んだなら、まつられ、その人の石 その人の石像や銅像が作られて、 人々がそれを 人々がそれを拝む それを拝むと言う具合である 拝むと言う具合である。 と言う具合である。 2.しかし、ここで、聖書は、その逆に、「神が人になった」と言う 2.しかし、ここで、聖書は、その逆に、「神が人になった」と言うのである しかし、ここで、聖書は、その逆に、「神が人になった」と言うのである。 のである。 (1)「神が人になる」 (1)「神が人になる」と言うイメージやアイデアは、決して珍しくないかもしれない。 「神が人になる」と言うイメージやアイデアは、決して珍しくないかもしれない。 ●ギリシャ神話でも、色々な国 ●ギリシャ神話でも、色々な国や部族 色々な国や部族の神話でも、神さまが人間の姿を や部族の神話でも、神さまが人間の姿を取って、地上に の神話でも、神さまが人間の姿を取って、地上に 降りて来ると言う話はよく聞く 降りて来ると言う話はよく聞く。 話はよく聞く。 ●しかし、それらは、簡単に言うと、みな、いわゆる、神さまの変装である。人間に変 装して現れただけである。本当に人間になったというのではない。 (2)しかし、聖書が「ことばは、人となった」と言う時、神は本当に人間になったのである (2)しかし、聖書が「ことばは、人となった」と言う時、神は本当に人間になったのである。 しかし、聖書が「ことばは、人となった」と言う時、神は本当に人間になったのである。 1 ●イエス様は、人間に変装した神ではない。言い換えるなら、イエス様は、人間の振り をした神ではない。 ●イエス様は、2 イエス様は、2000 年前に、ナザレの村に住むマリヤの胎から、あのベツレヘムの馬 小屋で生まれた時、私たちと全く同じ人間として生まれて来たのである。 Ⅱ.第二に学びたいことは、「ことば、即ち、神が人となる」ことの実際的意味についてである。 A. それは、決して、神でなくなることではない。 1.御子なる神様は、マリヤの胎から生まれ、イエスと名付けられて、完全に人となったのであ に人となったのであ るが、その時でも、 るが、その時でも、イエス様は、 も、イエス様は、どこまでも完全な神であられた。 2.14 2.14 節をもう一度見て頂きたい。ヨハネは、「ことばは人となっ」たと言った て頂きたい。ヨハネは、「ことばは人となっ」たと言った直ぐ後で、こ のように言う。 のように言う。「・・・・」と 「・・・・」と。 (1) ここで、「 ここで、「栄光」と言う言葉が 2 度繰り返されていることに されていることに注意して頂きたい。 意して頂きたい。 (2)特に、2 に、2 回目は、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と明言する。 (3)即ち、 (3)即ち、人間イエス様の 即ち、人間イエス様の中に、「シェキナー」と呼ばれる「 ばれる「神の栄光」を見たのである。 たのである。 (4)旧約聖書においては、「 (4)旧約聖書においては、「シ 旧約聖書においては、「シェキナーの栄光」は神様にだけ属するものである。 (5)即ち、イエス様は、地上に人間としておられたときも、神としての (5)即ち、イエス様は、地上に人間としておられたときも、神としての栄光は、決して失っ てはおられなかった。人間イエス様は、同時に、神であられたのである。 3.だからこそ、イエス様は地上におられたときも私たち人間を救うことができたのである。 (1)イエス様が人々を教えたとき、 (1)イエス様が人々を教えたとき、普通の祭司や律法学者たちが教えるのとは、全く違って いたことに人々は驚いた。それは、イエス様が、神として、神の権威を持って教えられ たからであった。( たからであった。(マタイ7章 29 節) (2)イエス様は (2)イエス様は人々の イエス様は人々の罪の赦しを宣言した。それは神にしかできないことであった。( しを宣言した。それは神にしかできないことであった。(マルコ 2 章 1-12 節) しかし、イエス様はそれを神としてなさったのである。 (3)イエス様は「私が (3)イエス様は「私が道であり、真理であり、命である」( である」(ヨハネ 14 章 6 節)と言われた。 言われた。 ●英語で言うと、I am the way, the truth and the life である。 ●この the と言う定冠詞は、英語にも、原語のギリシャ語にも付いているが、それは 「唯一・絶対」と言う意味がある。 ●“a”なら、それは、沢山のものの中の一つ、 の一つ、相対的真理に過ぎないことになる。 ●即ち、これもまた、イエス様が、私だけが、唯一の、道であり、真理であり、いのち であると言って、ご自分が絶対的唯一の神であることの宣言であった。 (4) (4)そもそも、 そもそも、イエス様が十字架に掛けられることになった罪名は、ご自 は、ご自分をただの預言者 とか、宗教学者や教師ではなく、どこまでも「神」と宣言したことであった。 ●ローマ人総督には何ら死罪に当たる罪は見つからなかった。 ●しかし、ユダヤ人にはそうでなかった。彼らがイエス様に見たものは「冒涜罪」であ った。それは、死に値する最も恐ろしい罪であった。 ●「人間」であるとしか見えない目の前にいるイエス様が、ご自 の前にいるイエス様が、ご自分を神とするのは、 を神とするのは、彼 らに取って冒涜罪以外 冒涜罪以外何物でもなかった。 でもなかった。マタイ った。マタイ 26 章 63-66 節参照 (5)このように、イエス様は、 (5)このように、イエス様は、どこまでも、駆け引きなく、神さまであられた。 B.しかし、それでありながら、イエス様は、また完全な人間、私たちと全く同じ人間となられたとは、具体的に、 実際的にはどういう意味か? 1.まず、英語で言うと少し evasive 回避的な答えになるが、このことは、人間の理性では完 全には理解できない、 できない、説明できないことである。 (1)人間 (1)人間理 人間理性に、イエスと言うお方が 100%人間、100 人間、100%神などあり得ないからである。 ないからである。 (2)この (2)この点を理性的に納得できる範囲で説明しようと沢山の異端的神学が生まれて来た。 ●あるものは、 あるものは、前述のように、イエス様は、神様だったが、人間のように のように、イエス様は、神様だったが、人間のように見せかけ、振 りをして、人間に変装して来られたお りをして、人間に変装して来られたお方である( である(将来の AI ロボット見たい?!)と言う。 2 ●或いは、その逆で、イエス様は、所詮人間であったが、その言動において、 において、まれに見 る偉大な人物であったために、当時の人々、また、 であったために、当時の人々、また、その また、その後の人々が、彼を、神として 崇め祀った( った(まつった) まつった)のである、などと。 (3)しかし、たとい、それが、私たち人間にはあり (3)しかし、たとい、それが、私たち人間にはあり得ない、理 ない、理性的に理 的に理解できないことであ っても、( っても、(だからユダヤ人はイエス様を冒涜罪で処刑したのであるが したのであるが) のであるが)、 (4)それが、神様が私たちを救うためになさった (4)それが、神様が私たちを救うためになさった唯一の救いの 一の救いの道であり、神様がくださった 唯一の救い主イエス・キリストであった。 (5)私たちがする 私たちがするべきことは、 きことは、それを信 は、それを信じ、受け入れることである。ヨハネの第一の手紙 4 章 15 節、5 節、5 章 5 節 2.御子なる神が人間になられたと言うことは、私たち人間の持つすべての弱さを担われたとい うことである: うことである: (1)それは、 (1)それは、どんな姿であろうか? このことを味わうために、イザヤ 53 章の最初の部分 (特に、2 に、2-3 節)をみたい。 (2)この章は、やがて救い主が (2)この章は、やがて救い主がどのようなお方として、歴史に登場するかを、イザヤが預言 したものとして最も有名なものである。 (3) (3)そこに描かれているイエス様の御姿は、決して、いわゆる、かっこよい、イケメン的、 やり手で有能、かつ、英雄的、そして、みんなに好かれている人気者の姿ではない。 (4) (4)何が善で、何か悪で、何があるべき姿で、何があるべきでないかが、全く混乱している。 基準がない。真実を、真理を照らすものがない。 (5) (5)イエス様は、貧しさを知っておられた。病も、孤独も、裏切られることも、仲間はずれ にされることも、理解されないことも、誤解されることも、中傷・誹謗されることも、 人間が体験するすべてを知っておられた。 (6)それは、単に頭の知識として知っているのではなく、体 っているのではなく、体験して知っていて下さると言う 意味である。 (7) それが、イエス様が、私たちと同じ人間になられたことの実際的意味である。 (8) そこに大切なことが隠されている。それは、イエス様も同じことを経験して来られたの で、私たちに対して、裁くのではなく、憐みと同情をもって接してくださることである。 (9)次の聖書を見たい。ヘブル 2 章 17- 17-18 節、4 節、4 章 15- 15-16 節 (10)これが、 (10)これが、正に今日のテキストヨハネ 1 章 16-17 節で「恵み」の与え主として描かれ ている救い主イエス様の御姿である。 (11)私たちも、大 (11)私たちも、大胆にイエス様の にイエス様の愛と恵みの懐に飛び込み、赦し、慰め、励まし、希望と 力を頂きたい。 3.更に、もう一言、イエス様が人となられたことの実際的意味に触れたい。 (1)それは、イエス様が人としての (1)それは、イエス様が人としての弱さを持ちながら、罪を犯さなかった事実にある。 ●ヘブル 4 章 15 節を見て頂きたい。「 て頂きたい。「罪は犯されませんでしたが、すべてのこと私た ちと同じように、試みに会われたのです」 ●イエス様が救い主となるためには、同じことを経験して同情できるだけでは十分では なかった。同情するだけなら、私たち人間でもできる。 ●でもそれでは、「同じ穴のむじな」であり、「 な」であり、「同病相哀れむ」のレベルであって、 れむ」のレベルであって、真 の救いにはならない。ましてや、イエス様は の救いにはならない。ましてや、イエス様は十字架にかかる必要もない。 ●イエス様が救い主になるための大切なポイントは、弱さを私たちと同じように持ちつ つも、「罪は犯されなかった」と言うことにある。 ●弱さの中でも、イエス様が罪を犯されなかったからこそ、イエス様は、救い主として、 人の罪を身代わりに背負うことができたのである。 (2)もう一つは、私たちと (2)もう一つは、私たちと同じように人としての肉体と心をもっていたので、イエス様は、 人の罪の刑罰としての死を自ら、私たちの代わりに受けることができたのである。 けることができたのである。 ●それは、ヘブル2章 14 節に書かれている。「・・・・」。 3 (3) (3)イエス様は、私たちの イエス様は、私たちの罪の報酬である死を亡ぼし、始 し、始末するために、私たちの身代わり に自ら死なれたのである に自ら死なれたのである。 なれたのである。 (4) (4)死ぬためには、私たちと同じように、肉体をもって生まれて来なければならなかった。 (5)肉体と心を持つ、私たちと つ、私たちと同じ人間になってこそ、私たちの 人間になってこそ、私たちの受けるべき心の呵責、肉体 の苦しみと言う しみと言う罪の刑罰を身代わりに背負うことができるのである。 (6)このゆえに、イエス様は私たちと同じ人間になって生まれて来られたのである。 結 論 ●He is the Reason for the Season.と言う表現があります。 ●このクリスマス・シーズンが、特にクリスチャンとして、月 ャンとして、月並みな言い方ではあるが、一 ではあるが、一般の人々の ように、単にパーティーと言うイベントや ーと言うイベントやプレゼント交換と言う習慣で終わってしまうことがないよ わってしまうことがないよ うに祈る。 ●このシーズンが、もう一 このシーズンが、もう一度、クリスマスのお祝いをする中心的「理由」、「御子なる神様が人間とな って来て下さった」と言う さった」と言う事実の意義と意味を深く味わうときであるようにと、 く味わうときであるようにと、切に願い、祈りつつ、 メッセージを閉じたい。 4
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