wijc161023それでは誰が救われることができるでしょう

2016
2016年 10 月23日
23日 聖書:マタイによる福音書19
聖書:マタイによる福音書19章
マタイによる福音書19章16-26節
16-26節
タイトル:「
タイトル:「それでは誰が救われることができるのでしょう? 永遠の命を求めて!
永遠の命を求めて!」
序 論
●今日の聖書箇所に登場する人物とイエス様との
今日の聖書箇所に登場する人物とイエス様との邂逅、出会いとその会話は、
に登場する人物とイエス様との邂逅、出会いとその会話は、新約聖書の
邂逅、出会いとその会話は、新約聖書の 3 つの共観福
音書、即ち、マタイ、マルコ、ルカの福音書のどれにも記されている。
音書、即ち、マタイ、マルコ、ルカの福音書のどれにも記されている。
●そのことは、ある意味で、この出来事の教えていることの大切さを示しているとも言える。さて、こ
●そのことは、ある意味で、この出来事の教えていることの大切さを示しているとも言える。さて、こ
の出来事を記述するに当たり、
の出来事を記述するに当たり、
●マタイの福音書 19 章 16-
16-26 節では:
では:
1.この人物を「一人の人
1.この人物を「一人の人」
「一人の人」(16)と呼び
(16)と呼び、
と呼び、
2.また、この人物を「青年」
2.また、この人物を「青年」(20
また、この人物を「青年」(20、
(20、22)と呼び、まだ「若かった」こと、
22)と呼び、まだ「若かった」こと、
3.更には、「この人は多くの財産を持っていた」と記す。
3.更には、「この人は多くの財産を持っていた」と記す。
●マルコの福音書 10 章 17-
17-27 節でも、同様に:
1.この人物を「
2.「この人は多くの財産を持っていた」(22)
1.この人物を「一人の人」(17)
一人の人」(17)と呼び
(17)と呼び
2.「この人は多くの財産を持っていた」(22)と記す。
(22)と記す。
●ルカの福音書
ルカの福音書 18 章18-27
18-27 節では:
では:
1.この人物は「役人」(18)
1.この人物は「役人」(18)だったと記す。
(18)だったと記す。
(1)この役人と言うことの具体的な内容は定かではないが、
(1)この役人と言うことの具体的な内容は定かではないが、
(2)「サンヒ
(2)「サンヒドリン」
「サンヒドリン」(
ドリン」(当時のユダヤの国家最高議会
当時のユダヤの国家最高議会)
ユダヤの国家最高議会)のメンバーを意味していたかもしれない。
のメンバーを意味していたかもしれない。
(3)或いは、もう少しローカルの議会
(3)或いは、もう少しローカルの議会組織
或いは、もう少しローカルの議会組織であった
組織であったかもしれない。
であったかもしれない。
(4)いずれにせよ、ユダヤの国における公的議会というのは、宗教的、かつ政治的リーダーたち
(4)いずれにせよ、ユダヤの国における公的議会というのは、宗教的、かつ政治的リーダーたち
の集まりを意味していた。
(5)特に、それがもし上述の「サンヒドリン」であるとするなら、社会的、教育的、品格・人格
(5)特に、それがもし上述の「サンヒドリン」であるとするなら、社会的、教育的、品格・人格
的にも、あらゆる意味においても、エリートたちの群団/
的にも、あらゆる意味においても、エリートたちの群団/集団であった。
集団であった。
2.そして、
2.そして、ルカもまた他の福音書と同様に、
ルカもまた他の福音書と同様に、彼が
他の福音書と同様に、彼が「
彼が「大変な金持ちだった」(23)
大変な金持ちだった」(23)と記す。
(23)と記す。
●それゆえ、この出来事は、しばしば「若き富める・金持ちの
●それゆえ、この出来事は、しばしば「若き富める・金持ちの役人」の物
・金持ちの役人」の物語と呼ばれ、ハインリッヒ・
役人」の物語と呼ばれ、ハインリッヒ・
ホフマンと言う画家による有名な聖画にもなっている。
●さて、この金持ちの青年役人(
●さて、この金持ちの青年役人(今で言うなら、国会議員か、高級官僚か)
今で言うなら、国会議員か、高級官僚か)が、ある日イエス様のところ
に来てこう言った。「先生、永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょう?」と。
に来てこう言った。「先生、永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょう?」と。
●今日は、この彼の質問の後に続く、イエス様と彼との会話、問答からメッセージを頂きたい。
●今日は、この彼の質問の後に続く、イエス様と彼との会話、問答からメッセージを頂きたい。
本 論
Ⅰ. まず最初に聖書が言っていることは、人々が究極的に求めているものは「永遠の命」であると言う事実である。
A. その典型が、この富める青年役人であった。
その典型が、この富める青年役人であった。
1.彼
1.彼は言った。「先生、
は言った。「先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょう?」。
を得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょう?」。
2.この彼の質問は、様々な点で人々を驚かせるものであった。
2.この彼の質問は、様々な点で人々を驚かせるものであった。
(1)それは、
(1)それは、彼が、人々の目からも見ても、自分自身の目で見ても、彼ほど
それは、彼が、人々の目からも見ても、自分自身の目で見ても、彼ほどパーフェクトの
彼が、人々の目からも見ても、自分自身の目で見ても、彼ほどパーフェクトの
人、人生で必要な何もかもを持っている人はいないと言える人物だったからである。
(2)いつも言うが、一頃、日本で流行った言い方で、「三高」と言うのがあった。結婚する
(2)いつも言うが、一頃、日本で流行った言い方で、「三高」と言うのがあった。結婚する
男性の持ってて欲しい条件のことである。三つのことが「高い」人が理想の人と言われ
男性の持ってて欲しい条件のことである。三つのことが「高い」人が理想の人と言われ
た。その理想とは:①背が高い、②学
た。その理想とは:①背が高い、②学歴が高い、③収入が高いである。
:①背が高い、②学歴が高い、③収入が高いである。
(3)同様に、この若き富める役人は、当時の人々が理想とするものをみな
(3)同様に、この若き富める役人は、当時の人々が理想とするものをみな持っていた。
同様に、この若き富める役人は、当時の人々が理想とするものをみな持っていた。
●富、●地
●富、●地位、●名誉、●品格・人格、●評判・尊敬、更に、恐らく、●有能さも
3.しかし、彼は、それでもなお
3.しかし、彼は、それでもなお心に、心底からの満足を持つことができなかった。即ち、「私
の人生、これで良し」と言ううなずき、確信を持つことができなかったのである
を持つことができなかったのである。
のである。
4.彼の内にあったその
彼の内にあったそのような
そのような満たされない心の渇きは強かったし、
かったし、彼はそれを
し、彼はそれをごまかさなかっ
た。だからこそ彼は、イエス様のところに来たのである。それはもう一つの驚きであった。
た。だからこそ彼は、イエス様のところに来たのである。それはもう一つの驚きであった。
(1)な
(1)なぜなら、彼は、身分の高い人、それに引き換え、イエス様は、ごく最近、人々の間で
ポピュラーになったに過ぎない人物であり、
1
(2)イエス様は、
(2)イエス様は、ソーシャル・ステータスから言うなら、彼よりはるかに低い人物であった。
(3)そのイエス様のところに、社会のリーダーとも目される彼が、
(3)そのイエス様のところに、社会のリーダーとも目される彼が、頭を下げるようにして、
恥を覚悟してイエス様のところに、人生の質問に
してイエス様のところに、人生の質問に来たのである。
、人生の質問に来たのである。
(4)これらの驚きは、
(4)これらの驚きは、この
これらの驚きは、この世的にす
的にすべてが揃っていても、なお満たされない彼のうちにある
心の渇きが、如何に強いものであったかの
いものであったかの証拠であった。
5.この
.この地上の何をもっても満たされない心がある。それが「永遠の命」
がある。それが「永遠の命」への希求であった。人
求であった。人
が最後に、究極的に必要とするものは、この世が与える何ものでもない。永遠の命である。
6.そして、それは
6.そして、それは永遠の
そして、それは永遠の存在、永遠の命の源である神様だけが与えることができるものである。
B. この「永遠の命」への希求は、彼だけのものではなかった。全人類が、人種、時代と文化、あらゆるものを
超えて、普遍的に持っているものである。
1.その最たる
1.その最たる証拠の一つは、現存する世界最古の文学と呼ばれる「
学と呼ばれる「ギルガメシュ叙事詩」であ
る。そこには、悲観的な形ではあるが、何もかもを
ではあるが、何もかもを手に入れた王が、友人の死に直面した
とき、自分の人生に本当に必要なものに目覚め、「
め、「永遠の命」
永遠の命」を求める姿が描かれている。
2.秦の始皇帝も、同様に、大国の最高
も、同様に、大国の最高権威者、「皇帝」となり、何もかもを
」となり、何もかもを手にした晩年に、
家来に全国を廻って「不老長寿」の薬を手に入れるように命じたと言われる。
3.かつて、ビリー・グラハムがメッセージで語っていたことだったと思うが、ロシアが、まだ
ソ連として、神も、永遠も信じない無神論共産国であった頃の
共産国であった頃の一人の大統領の葬儀で棺の
上に、永遠を象徴する月桂樹の花輪が置いてあったという。これもまた、
てあったという。これもまた、思想・主義を超
えて、人間がどこかに自らと愛する者の永遠の命を
の永遠の命を求めていることの
求めていることの現れであると言える。
4.ここで、もう一言、「永遠の命」について付け加えたい。
えたい。
(1)「永遠の命」とは、必ずしも「
(1)「永遠の命」とは、必ずしも「長い命」「死なない命」のことだけではない。
(2)それは、
(2)それは、私たち人間が自分の力で手に入れることのできる、この地上の、この世の、暫
時的、一時的な、愛、喜び、満足と対比して、永遠に無くならない喜び、愛、希望、満
足である。
(3)それは
(3)それは正にイエス様があのサマリヤの井戸のほとりで出会った女性に言ったことである。
●彼女は、結婚と
は、結婚と離婚を繰り返し、5
し、5 人の男性を夫としながらも、結局、満足できず、
今や、夫ならない男性と同棲していた。
●その彼女にイエス様
にイエス様は言われた。「この水を飲む者は誰でも(
は誰でも(どんな有能な人も、金持
ちも、人格的に素晴らしい人も)
らしい人も)また渇きます。・・・しかし、
きます。・・・しかし、私が与える水を飲む
者は、だれでも、決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉
となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(
がわき出ます」(ヨハネ 4 章 13-
13-14 節)。
C.それでは、聖書は、私たち人間と「永遠の命」との関係についてどのように語っているのか?
1.聖書は、まず、人
1.聖書は、まず、人間が、みなそのように「永遠」を求める理由は、そもそも、
は、そもそも、神さまが人
さまが人間
を永遠に生きる存在、永遠を慕う存在として造られたからであると言う。
られたからであると言う。
(1)伝道の書 3 章11節は言う。
11節は言う。「
は言う。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」
えられた」と。
(2)だからこそ、
(2)だからこそ、私たちは、物質的なもの、一時的・刹那的なものでは、一時的に
的なものでは、一時的には
一時的には満足で
きても、決して永続的に
して永続的には
永続的には満足できないのである。
(3)即ち、
(3)即ち、神様は、私たち人間を永遠を思い、永遠に生きる存在として造られたのである。
2.しかし、私たちが罪を犯したときから、す
したときから、すべては変わった。私たちは、
たちは、最早、永遠に生きる
ことができなくなった。
ことができなくなった。「
できなくなった。「死ぬ」存在となったのである。
(1)アダムとエバが、罪を犯したとき、
たとき、その結果、その罰として、神さまは、二人が「いの
ちの木」から取って食べ、永遠に生きることがないように、エ
、永遠に生きることがないように、エデンの園から追放した。
(2)即ち、
(2)即ち、創世記 3 章 22 節は、以下のように神の言葉を記す。「
を記す。「・・・今、彼が、手を伸
ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」。
(3)更に
(3)更に続けて、
更に続けて、聖書は同章
続けて、聖書は同章 24 節で「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を
守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
(4)これが、今の
(4)これが、今の私たち人間が経験している不幸な姿である。即ち、
である。即ち、
2
●かつては、神様のように永遠に生きることの
様のように永遠に生きることの祝福と豊かさと栄光を満喫していた。
●しかし、自分で犯した罪のゆえに、今
ゆえに、今や、永遠のいのちを失い、それについて来るす
べての祝福を受けることができなくなったのである。
3.愛なる神様は、
様は、この悲しい状態から私たちを救うために、御子イエス様を私たちに与えられ、
えられ、
私たち人間に、この永遠の命を奪回されたの
されたのである。即ち、
たのである。即ち、
(1)私たちの住むこの地上に、ご自分の御子を人間として送られ、
(2)更には、
(2)更には、御子の命を十字架で、私たちのために与えられたのである。
(3)即ち、その
(3)即ち、その死によって、私たちの罪の刑を身代わりに受け、私たちに永遠の命を与える
道を開かれたのである。
(4)それが、しばしば聖書の
(4)それが、しばしば聖書の中の聖書と言われる有名な聖句、ヨハネ 3 章 16 節の言ってい
ることである。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。そ
れは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
★私たちに今必要なことは、その永遠のいのちの唯一の保持者である神様に、それを求めることである。
様に、それを求めることである。
★ここに出て来る若き富める役人はそれをした。即ち、イエス様に向かって尋ねた。「先生。永遠のい
のちをえるためには、どんな良いことをしたら良いでしょうか?」と。
★しかし、残念なことは、彼はそれを得ることができないまま、そこを去ったと記されている(
ったと記されている(彼が、
ニコデモのように、後に、再びイエス様の所に戻り、——それがイエス様の生前であれ、死後であれ
———彼の求めていた永遠のいのちを自分のものとすることができたことを願う。
★今日、最後に皆様と共にしたいことは、なぜ、彼がそれを得ることができなかったのか、どうすれば
、彼がそれを得ることができなかったのか、どうすれば
良かったのかを確かめ、考えることである。
Ⅱ.この「富める若き役人」は、どこが間違っていたのか?
A. 彼の間違いは、まず、永遠の命を、自分が良き行いを実践することによって得られると思ったことである。
1.彼は言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いでしょう
か?」と。
2.「どんな良いことをしたら」と言う彼の
2.「どんな良いことをしたら」と言う彼の言
と言う彼の言葉こそが彼のそのような考えを明らかにしていた。
3.その質問に
3.その質問に対するイエス様の最終的答えは、後にイエス様が言われたように、「それは人に
はできない」(
はできない」(マタイ 19 章26節)
章26節)であっ
であった。
4.先週もローマ書 3 章 19-
19-20 節で学んだように、人
節で学んだように、人間の良き行いによって、人間の罪が洗
われ、赦され、義とされ、永遠の命をもたらすことは、不可能なことである。
なことである。
5.しかし、興味深いことに、ここでイエス様は、いきなり、この青年に
いことに、ここでイエス様は、いきなり、この青年にNO、それは不可能だ
とは言われなかった。むしろ、徐々に、彼自身が、NOの答えへと自ら導かれるようにと
問答を進められた。
6.そこで、イエス様は聞かれた。「戒めは守っていますか?」と。「どの
っていますか?」と。「どの戒めですか?」と更
に尋ねる青年にイエス様はモーセの「十戒」の後半、人間関係における戒め、いわゆる
、いわゆる道
徳的戒めをリストアップされた。即ち●
された。即ち●殺してはならない ●姦淫してはならない ●盗
んではならない ●偽証してはらない ●父母を敬え、●
え、●あなたの隣人を愛しなさい、と。
しなさい、と。
7.彼は
.彼は「そのようなことは皆守っています」といとも
っています」といとも簡単に、得々と答えた
、得々と答えた。
答えた。
8.しかし、
8.しかし、彼は本当にそれらの
しかし、彼は本当にそれらの戒めを守っていたのだろうか?
ていたのだろうか? 果たして人間は神の戒めを自
分の力で守れるのだろうか?
(1)それらに対する聖書の答えは、既に触れたようにNOである。
(2)先週も引用したが、聖書(
したが、聖書(イザヤ 64 章 6 節)は言う。「私たちの義は、みな不潔な着物
のようです
のようです」と
です」と。
」と。
(3)仮に、表面的には守れても、その心の中は汚れ、戒めは破られているというのである。
られているというのである。
(4)だから、イエス様は、その最後に、「あなたの
(4)だから、イエス様は、その最後に、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさ
い」と言う隣人愛の戒めを持って来られた。なぜなら、その隣人愛こそが、それら人間
関係の道徳的な戒めの言う
めの言う表面的な行為の奥にある真意・深意であるからである。
3
(5)即ち、
(5)即ち、隣人愛が守られていなければ、それらの
られていなければ、それらの戒めを守っていることには
っていることにはならないと言
う意味である。
う意味である。
(6)
(6)イエス様は、このことを
イエス様は、このことをこの青年に自分で
このことをこの青年に自分で気が付いて欲しかったのである。即ち
いて欲しかったのである。即ち、「そ
即ち、「そ
のような戒めは皆守って来ました」という代わりに、「守れませんでした」「私は、罪
人です」と言って欲しかったのである。
●一体、世界の誰が、自分の力で、この神の律法を守れたと言えるだろうか?!
●先週も指摘したように、世界の4大聖人の一人である孔子さえも、「不義(悪いことが
何か)
何か)を知りながら、それを改めることができない。義(正しいことが何か)
しいことが何か)を知りなが
ら、それをすることができない。これが私の悩みである」と告白した。
●イエス様と出会う前、バリバリのパリサイ人、律法主義者
律法主義者であったパウロも、同じよ
うに、表面的には聖人ぶっていても中味は、律法が守れないで悩んでいたことが、ロ
ーマ人への手紙7章の終わりに記されている。
(7)しかし、
(7)しかし、この青年は、
しかし、この青年は、傲慢にも、それを認めなかった。ここに
めなかった。ここに彼の
ここに彼の間違いがあった。
B.二番目の間違いは、彼が、イエス様に救いを求める代わりに、むしろ、イエス様からから去ったことであった。
1.イエス様は
1.イエス様はこの青年に「自分の
イエス様はこの青年に「自分の全財産(
財産(ルカ18章22節、
ルカ18章22節、マルコ10章21節)
章21節)を売りはら
い、貧しい人たちに施すようにと言われた。
(1)それは、
(1)それは、普通の人には、通常、殊更に言われないことであった。
(2)あのザアカイの場
カイの場合でさえ、彼は自分の財産の「半分」を貧しい人に捧げたのであり、
しかも、それはイエス様の方から救いの条件として言われたことではなかった。ザアカ
イの方から、救いの喜びの結果として自発的に言ったこと、したことであった。
(3)では、なぜイエス様はそのようなことを彼に言われたのか? それは、このことを通し
て、隠された彼の心の姿を彼自身に自覚してほしいと願われたからである。
(4)即ち、イエス様は、
●彼が、このことを通して、それができない自分の罪深さを知り、認め、「私は罪人で
す。私を救ってください」と言って、
●「律法を守る」ことに頼らないで、「イエス様を信頼する」ことによる義、救いを求
めて欲しかったのである。
2.しかし、彼がしたことはその
2.しかし、彼がしたことはその正反対であった。
(1)第一に、
一に、彼は、自分の罪深さを認めなかった。
めなかった。「そんなこと無理だ」と思ったであろう
が、それを自分の罪深さの事実とは結びつけず、ましてや、それを告白もしなかった。
(2)第二に、彼は
に、彼は「そんなことは
彼は「そんなことは自分には
「そんなことは自分には無理だ」と思うと、自分を見つめて
うと、自分を見つめて失望・絶望し、
イエス様に頼ろうともせず、イエス様の下を去ったのである。
ったのである。
結 論
●彼は何をするべきだったのか? それについて
それについて考え、学び、今日のメッセージの結
え、学び、今日のメッセージの結論としたい。
●第一に、自分の罪深さを認め、それを
め、それを告白することであった。
することであった。 聖書は言う。「自分の背きの罪を隠
す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(
ける」(箴言 28 章 13 節)
●第二に、自分の
に、自分の力で正しいことを行おうとするこ
しいことを行おうとすること
行おうとすることの偽善と失敗を認め、放棄すること。
イエス様は言われた。「人にはそれ、即ち自分で自分を救うことはできない」と。
●第三に、そんな自分を救い、永遠の命を
三に、そんな自分を救い、永遠の命を与えてくださる神様の全能を信じること。
▶即ち、神様だけが、私を救うことができる、永遠の命を
を救うことができる、永遠の命を与えることができると信じることである
ることである。
である。
▶イエス様は言われる。「人にはそれできない。しかし、神には何でもできないことはない」と。
▶それは、①どんな罪人をも愛することができる神の全能 ②御子をさえ私たち罪人のために十字架
に犠牲にする神の全能の愛 ③どんな罪人をも愛の人へと導き、成長させることができる神の全能
を信じることである。
ることである。
●この青年のように、地上的にすべてが揃ってもなお満たされない。これが私たちの人間の正直な現状
である。今私たちに必要なことは、それを認め、悔い改め、放棄し、イエス様に救いを求める
し、イエス様に救いを求める正直さと
勇気である。あなたは如何ですか? 今も、自分の力で生きようとしていないか?
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