WIJC170101(MD-VA)成長の年となるように

2017
2017年 1 月1日 聖書:ルカの
聖書:ルカの福音書
ルカの福音書2
福音書2章-節 タイトル:成長の年に The Year of Growth
序 論
●「改めて、おめでとうございます!」
●私たちは、今年の
●私たちは、今年の 4 月で結婚して
月で結婚して 43 年になるが、こどもができたときに、
年になるが、こどもができたときに、子育てのことで、
こどもができたときに、子育てのことで、家内と
子育てのことで、家内と
二人で言い合ったこと
二人で言い合ったことがあった。それは
言い合ったことがあった。それは「こどもをなるべく
があった。それは「こどもをなるべく”NO”と言わないで育てよう」であった。
●ネガティブではなく、ポジティブな姿勢で
ネガティブではなく、ポジティブな姿勢での「子育て構想」のつもりであった。しかし、その後
の「子育て構想」のつもりであった。しかし、その後の私
、その後の私
たちの親としての実際経験は、
たちの親としての実際経験は、それが、考えたり、
それが、考えたり、言うほどに簡単なことでは
考えたり、言うほどに簡単なことではないことを証明した。
言うほどに簡単なことではないことを証明した。
●そんな子育ての中で、大切なこととしてしばしば言われることは、
そんな子育ての中で、大切なこととしてしばしば言われることは、一杯「ほめる」こと。注意したり、
「こごと」を言うより、とにかく「ほめる」ことを多くすること、である。私は賛成である。
「こごと」を言うより、とにかく「ほめる」ことを多くすること、である。私は賛成である。
●それは、小さい子供だけではない。
●それは、小さい子供だけではない。大人でも、
、小さい子供だけではない。大人でも、更には、
大人でも、更には、クリスチャンでも皆同じである。
更には、クリスチャンでも皆同じである。皆「ほめら
クリスチャンでも皆同じである。皆「ほめら
れる」ことで、生活に、人生に
れる」ことで、生活に、人生に大きな力を得て
生活に、人生に大きな力を得て生きることができるのである
大きな力を得て生きることができるのである。
生きることができるのである。(褒めちぎる教習所)
褒めちぎる教習所)
●私も、クリスチャンになって、まだ 2 年ほどのときに、牧師から「ほめられた」経験を忘れることが
年ほどのときに、牧師から「ほめられた」経験を忘れることが
できない。それで、「僕でも、クリス
できない。それで、「僕でも、クリスチャンとして、やって生けるかも?!」と励まされた。
それで、「僕でも、クリスチャンとして、やって生けるかも?!」と励まされた。
●当時、私たちの教会
当時、私たちの教会では、
私たちの教会では、毎年
では、毎年2回春と秋に、特別伝道集会があり、毎回数名が
毎年2回春と秋に、特別伝道集会があり、毎回数名が、集会で、
2回春と秋に、特別伝道集会があり、毎回数名が、集会で、『証し
、集会で、『証し
者』として、ゲスト・スピーカーの説教の前に、自分がどのようにしてイエス様を信じるようになっ
たのか、イエス様を信じて何が変わったのか、などを会衆の前で話した。
●そのとき、私もその一人として証ししたの
●そのとき、私もその一人として証ししたのであった。実はその1年前にも証ししていた。それを覚え
として証ししたのであった。実はその1年前にも証ししていた。それを覚え
ていた牧師が、終わってから
ていた牧師が、終わってから私の所に来てこう言った。
終わってから私の所に来てこう言った。「分かりやすくて、良かったよ」と。そして
私の所に来てこう言った。「分かりやすくて、良かったよ」と。そして
更に続いて言った。「この前の証しと比べたら、随分『成長』したと思うよ。私はいつも思うんだ。
更に続いて言った。「この前の証しと比べたら、随分『成長』したと思うよ。私はいつも思うんだ。
人間の素晴らしさは『成長できること
人間の素晴らしさは『成長できること』だと思う。『成長』を見ることほどうれしいことはない」と。
できること』だと思う。『成長』を見ることほどうれしいことはない」と。
●皆様も同感だと思う。これはこどもの成長を見ても思うことであり、それが親としての喜びである。
皆様も同感だと思う。これはこどもの成長を見ても思うことであり、それが親としての喜びである。
●それは、神さまも、同じである。神さまは、私たちの霊の父として、
●それは、神さまも、同じである。神さまは、私たちの霊の父として、私たち神のこども
霊の父として、私たち神のこどもたちの『成
私たち神のこどもたちの『成
長』を楽しみにしておられるのである。
●私たちは、
私たちは、つい一週間前、昨年の 12 月 25 日に、イエス様の誕生を祝う
日に、イエス様の誕生を祝う「クリスマス」
イエス様の誕生を祝う「クリスマス」を越えた
「クリスマス」を越えたと
を越えたと
ころである。今
ころである。今は、
。今は、一般の暦では、勿論、元旦で
は、一般の暦では、勿論、元旦であり、新年であるが、
一般の暦では、勿論、元旦であり、新年であるが、キリスト教の暦では、
あり、新年であるが、キリスト教の暦では、1
キリスト教の暦では、1 月 6
日にもたれる
日にもたれる「顕現節」と呼ばれ
もたれる「顕現節」と呼ばれる祝日に向かっているところである。
「顕現節」と呼ばれる祝日に向かっているところである。
●「顕現節」は、東方の博士たちの来訪を記念する日とも言われるが、歴史的にはもっと広い意味で祝
われて来た。
●この期間は、簡単に言うと、赤ん坊として生まれたイエス様が、やがて、人々の前に現れるまで、人
●この期間は、簡単に言うと、赤ん坊として生まれたイエス様が、やがて、人々の前に現れるまで、人
間として、着々と「
間として、着々と「成長」
成長」して行かれる姿を思い巡らす時節である。
●今日は、元旦
●今日は、元旦礼拝のメッセージとして、この「成長」と言うことに心を向けたい。
●具体的には、この
的には、この 2017 という年が、・・・
1.皆様が、人
皆様が、人間として、クリスチャンとして、「
、人間として、クリスチャンとして、「個人」において、成長する年であるように、
」において、成長する年であるように、
2.また、私たち WIJC が「教会」
教会」として成長する年であるように、と言う
として成長する年であるように、と言う願いからである。
●このテーマのための聖書のテキストは、
●このテーマのための聖書のテキストは、先ほども申し上げたが、今の時期にふさわしくふ、イエス様
の成長ついて
の成長ついて触れている箇所、ルカ 2 章 41 節~52 節を選んだ。
●そこには、12
●そこには、12 才にまで成長されたイエス様が、その後もどのように成長していかれたのかが短く記
されている。特に
されている。特に 52 節を見るとその成長ぶりが明確に記されている。「・・・・」。
●イエス様も初めから完成されていた神様としてではなく、人間として「成長」していかれたのである。
●勿論、既に申しあげたように、今日学ぼうとしていることは、皆様の職業や学業の世界における成長
についてではない。
●むしろ、それらの根本であり、中心である、人間としての成長、クリスチャンとしての成長、そして、
教会の成長につながることをご一
教会の成長につながることをご一緒に学びたい。
●今申し上げたことを心に留めながら、今日の聖書箇所をま
所をまず読みたい。ルカ 2 章 41—52 節
本 論
1
Ⅰ.イエス様の「成長」は、神さまを人生と生活の中心に置くことによる成長であった。
A. このことをお話しする前に、今日の聖書箇所の背景にあるイスラエルの慣習について少しお話ししておき
たい。
1.イスラエルでは、
エルでは、成人
は、成人男子は、少なくとも年一回、「
なくとも年一回、「過ぎ越しの祭り」のときに、エル
り」のときに、エルサレ
ムに宮もうですることが義務づけられていた。
(1)これに
(1)これに加えて、イエス様の時
えて、イエス様の時代には、女性も参加することが奨励されていたようである。
(2)また、イス
(2)また、イスラエルでは、子どもは、13
エルでは、子どもは、13 才になると成人とみなされた。
・イエス様は、その時、
・イエス様は、その時、12
その時、12 才であったとあるが、
・多くの場合、父親は、息子が 13 才で正式メンバーになる前に、準備として、1
として、1 年前
の 12 才のときに宮もうでに同伴することが多かったと言われる。
・恐らくイエス様の場合もそうであったのであろう。
2.イエス様の家族の住んでいたナザレから神
から神殿のあるエルサレムまでは、いくつもの山や谷を
通る 150 キロの距離で、恐らく 4-5 日かかった旅であった。
であった。
3.村
3.村から、皆で群れをなして、旅をしたのであるが、男性グループと女性グループに分かれて
旅をした。
(1)子供はどちらに
(1)子供はどちらに入るのも自由であった。
(2)女性グループが先発、男性グループが後発で、昼間は別行動。その日の夕方、野営地で
初めて合
めて合流した。
(3)こ
(3)このことが理由・原因で、マリヤもヨセフも「一日路」行くまで、即ち、夕方まで、イ
エス様が、それ
エス様が、それぞれ相手のグループにいると思い込んで、確認できなかったのである。
できなかったのである。
B. さて、ここからが本論であるが、聖書は、イエス様の成長の記録の中で、神様を中心にして生きておられた
イエス様の姿が、如何に大切であるかを強く描いている。43、46節を見ると次のことが分かる:
1.イエス様は、神様の宮にいることを愛した。
(1)それは、今で言うなら、「教会
(1)それは、今で言うなら、「教会へ行くこと」「教会にいること」を愛する人に匹敵する。
(2)聖書は、そのような
(2)聖書は、そのような心と姿勢をもつこと
と姿勢をもつことの大切さと
もつことの大切さと美しさを次のように強調している。
●詩篇27:4「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私の
めている。私の命の日の
限り主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、その為に」
●詩篇 84:1-4「万軍の主。あなたのお住まいは、何と慕わしいことでしょ
う。・・・・なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。・・・・」
●更に、同 122 篇 6、9節でも、「エルサレム(その中心は神殿であった)
であった)の平和のため
に祈れ。お前を愛する人々が栄えるように・・・私たちの神、主の家のために、私は、
の家のために、私は、
お前の繁栄を求めよう。
(3)イエス様自
(3)イエス様自身もここでそのことを自らの
もここでそのことを自らの口で言われた。「どうして、私をお探しになっ
たのですか。私が必ず自分の父の家
自分の父の家にいることを、ご
父の家にいることを、ご存知なかったのですか
なかったのですか」
すか」(49)と。
(4)「神
(4)「神殿」、或いは、「教会」の本質は何か? それは「
それは「神様の臨在」である。それをイ
である。それをイ
エス様は愛され、慕われたのである。教会、神の
われたのである。教会、神の宮の本質は:
●建物でもないし、●設備でもないし、●プログラムでもない。
(5)神の臨在を慕い求める人生、それは、神さまを畏れ、崇める(ho
める(honor)人生である。
or)人生である。
●そして聖書は、そのような人生こそが、「
●そして聖書は、そのような人生こそが、「知恵」を産みだす人生だと言う。
●「主を畏れることは知恵の初め聖なる方を知ることは悟りである」(
りである」(箴言 9 章 10 節)
●今の時代は、「知識」が溢れている時代である。しかし、同時に、問題は、その知識
に圧倒され、当惑し、支配され、反って迷わされている時代でもある。
●その知識をどのように扱うべきかを教え、指導するのが、「知恵」である。
●その知恵を与えるのが聖書であり、神を畏れ、神の宮、教会を中心とする人生である。
(6)神の
(6)神の臨在の場所である「教会」を愛した人としての「証人」:「デパート王」と言われ
たビジネスマン、時の大統領に請われて郵政大臣?をも務めたジョン・ワナメーカー。
彼は大統領との約束で、遠くに出張していても、
していても、可能な限り教会に戻って礼拝を守る。
2
2.第二に、イエス様が熱心に、謙虚に、聖書・神様・信
に、聖書・神様・信仰のことを求めた姿がそこにある
めた姿がそこにある。
姿がそこにある。
(1)46
(1)46 節:「・・・・」。
節:「・・・・」。
(2)イエス様が、
(2)イエス様が、両親なくしてこの二日半の間、どこでどのようにしていたかは分からない。
(3)しかし、
(3)しかし、両親が彼を発見したとき、彼のしていたことは、
●お祭りの屋台・お店で買い物していたり、ゲームで遊んでいたのではなかった。
●ただ、
●ただ、ウロウロして両親を探していたのでもなかった。また、逆に悲壮な顔して、誰
かに助けを求めていたのでもなかった。
●あり得ない、考えられないと言うほどに、それらのどれでもなかった。
●あり得ない、考えられないと言うほどに、それらのどれでもなかった。むしろ、
●イエス様は、「宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしておら
れ」たのであった。
(4)ここに、私たちが見るのは:
(4)ここに、私たちが見るのは:
●イエス様が、家
●イエス様が、家族を忘れて、親に心配をかけるなどの、非常識とも言えるほどの、熱心
さをもって、聖書のこと、信
さをもって、聖書のこと、信仰のことを知ろうとしている姿である。
●それらを知りたいと言う「
りたいと言う「渇望」がイエス様を支配していた。
していた。
●今私たちに、否、いつでも私たちに、一番欠けているものは何か? それはみ言葉、聖
書のこと、神様のこと、信仰のことを
のことを知ろうとする心の渇きの欠如である。
●もっと言うなら、み言葉を中心に、人生を築こうとすることへの渇きの欠如である。
●ルカの福音書 10 章最後の部分の物語を思い出して頂きたい。お客の接待に忙しく、ス
トレスでイライラしていたマルタ
していたマルタが、イエス様の
マルタが、イエス様のひざ元で座り込んで、イエス様から聖
書のお話しを聞こうとしていた妹のマリヤについて文句を言ったときのことを。
●イエス様は言われた。「マルタよ。マルタよ。あなたは多くのことに
●イエス様は言われた。「マルタよ。マルタよ。あなたは多くのことに心を用いて思い煩
っています。しかし、無くてはならないものは多くない。否一つだけである」と。
●もっともっと聖書を
●もっともっと聖書を読み、聖書に聴く人になりたい。
●ここで、イエス様の姿を聖書はどのように描写しているか? イエス様は、「教師たち
の真ん中に座って、話しを聞いたり、質問したりしておられ」た。
●イエス様は、神の子として、神童として、天才少年として、学者たちをうならせるよう
な、「講義」「講演」「演説」をしていたのではなかった。
●むしろ、人間として、もっと知りたいという謙虚で熱心な学徒の姿であった。
の姿であった。
(5)私たちもそうありたい。
(5)私たちもそうありたい。
●パウロは言う。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉による」(
による」(ロ
ーマ 10:
10:17)と。
●かつて、この教会で信仰を持ち、今は日本にいる一人の婦人は、初め礼拝に来なかった。
むしろ、聖書の学び会に来られた。それも、人数が少ないときにより喜ばれた。理由は
質問が自由にできるからであった。
●質問があるということは、関心があるからであり、また普段も考え、勉強しているから
である。
●皆様には、礼拝に来て頂きたい。そこでしか、学べないことがあるからである。しかし、
礼拝で神様のことばを
で神様のことばを学ぶだけでは十分ではない。
●信仰の成長のためには、個人的に、少人数で、質疑応答の可能な「聖書の学び会」が必
要である。
Ⅱ.次に、イエス様の成長は、バランスの取れた成長であった。
A. 52節を見て頂きたい。
1.「・・・・」。
2.そこには、私たちが必要とする人生の二組の「バランス」が記されている。
(1)「イエスさは、ますます知恵も進み、背丈も大きくなり」:そこには、「知恵」の成長
と「背丈」の成長、即ち、人格的・霊的・信仰的な成長と肉体的な成長
(2)「神と人とに愛された」とあるように、私たちの信仰面と社会面の成長である。
3
B.このバランスの取れたイエス様の姿勢は、イエス様が聖書の教えの中で何が一番大切かと尋ねられたとき
のお答えの中にも見られた。イエス様の御答え:
1.一番大切な戒めは、神様を人生の全部をもって愛すること
2.第二もこれと同様である。それは隣人を愛することである。
3.イエス様は、更に言われた。「神を愛する」ことと「人を愛する」こと、と言うこの「両
方」が、「律法の中心」であると言われた。
4.言い換えるなら、「神を愛する」ことと「人を愛する」こととは「一つ」である。即ち、
(1)人を愛することに結果しない、神への愛はない。同時に、
(2)神様への愛がないとき、人への愛は、しばしば、所詮、「自己中心な愛」の「延長」でし
かない。と言うことである。
C.私たちは、もう一つのバランスについてもクリスチャンとして、心を用いるべきである。それは、「信仰と肉
体」の健康のバランスである。私たちはともするとどちらかに偏り易い。
1.クリスチャンとして陥り易い誤り:心さえ健康であれば、肉体は所詮、地上のもの、どうで
もよいと、肉体を奴隷のように酷使する姿勢。
(1)的場姉:「先生はそういう(医者の進言を聞かない)牧師じゃないですよね?!」
(2)Ⅰコリント 3 章 16 節「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿って
いることを知らないのですか。」
2.クリスチャンでない方々の陥り易い誤り:見えない心より、実際の体の健康や容姿がもっと
大事だと思う。何だかんだ言っても、肉体の命があっての「ものだね」、人生とする姿勢。
(1)でも、重度の障害者である星野富弘氏は言う:「命が一番大切だと思っていたとき、生
きるのが辛かった。命より大切なものがあると知ったとき、生きるのが嬉しかった」。
(2)イエス様も言われた。「体を殺せても、魂を殺せない人たちを恐れてはなりません」(マ
タイ 10 章 28 節) 魂の大切さを言っている。
3.ある人は、ついつい体の健康をなおざりにする。一方、ある人は、体のことばかりに時間と
エネルギーと資材を使う。バランスを取りたい。
Ⅲ.最後に短く、イエス様の成長は、地道で、謙虚な、積み重ね結果であった。
A. 50-51節を見て頂きたい。
1.特に 51 節「それからイエスは一緒に下って行かれ、ナザレに帰って両親に仕えられた。」
3.「今年は、成長するゾーッ」と言うと、今までとは違う、何か特別なことをしなければなら
ない。今年中に何か特別な結果を産みださなければならないと気負ったり、焦ったりする。
4.しかし、ここにあるイエス様の姿には、そのようなものは一つもなかった。
B. ここに見るイエス様は、当時12才でありながら、やがて30才で、救い主として、人々の前に出る日を、一
つの目標として成長して行かれるイエス様であった。しかし、そのためにイエス様がされたことは、
1.エルサレムで経験した興奮とはほど遠い、余り夢や希望の持てないナザレの村に戻られた。
2.しかも、50節に「しかし両親には、イエスの話された言葉の意味が分からなかった」とあ
るように、色々なことを理解してはもらえなかった両親と一緒に生活するためであった。
3.そこで、イエス様がなさったことは、両親に仕えることであった。それは恐らく:
(1)早く亡くなったと言われる父親ヨセフの代わりとなって、長男として家計を支えること
であった。勿論、父親が生きていたときも仕事を大いに手伝ったことも意味した。
(2)それと関連して、6 人ほどいたと思われる弟妹の面倒を見た。
(3)そして、それをその後 18 年間にもわたって続けられたのである。
(4)しかも、イエス様は、他にすることが無かったから、そうしていたのではない。救い主
として皆の前に現れると言う重要な使命と人生の目的をもっておられたのである。
4.即ちイエス様にとって、成長するとは必ずしも特別な新しいことをすることではなかった。
むしろ次のことを真にするべきだと確信するまで、今やっていることを自分のことを分かっ
てもらえない無理解な人々の間であっても、忍耐と謙虚さをもってやり続けることであった。
結
論
: 2017年が成長の年であるようにと祈りつつ!
4