潜在成長率を高める成長戦略を -生産性革命の実現に向けて- 株式会社日本総合研究所 副理事長 湯元健治 1.低迷が長期化する経済成長率と潜在成長率の下方屈折 アベノミクスでは、経済成長率の目標として、「実質2%以上、名目3%以上」の高 成長実現を目指している。これと平仄を合わせる形で日銀は2%の消費者物価目標 を設定しているが、これら数値目標の実現へのハードルは相当高い。 そもそも、バブル崩壊後の日本の経済成長率は、1991 年度以降 2015 年度まで の 25 年間の平均で、実質 0.8%、名目 0.4%に止まっており、低成長が常態化して きた。コア消費者物価も同期間の平均で 0.3%とほぼゼロで、94 年度から 2013 年 度までの 19 年間(消費税率が引き上げられた 97 年度を除く)は物価がマイナスとな るデフレ状態が長期化してきた。アベノミクスの3年間(2013~2015 年度)は名目成 長率が 1.8%とやや高まったが(※)、実質では 0.6%と過去 25 年間の平均を下回る。 コア CPI も 0.5%(除く消費税影響)に止まるなど過去と大きな変化は見られない。 過去3年半で4度に亘る異次元緩和の実施や5度に亘る総額 23.6 兆円もの財政 支出拡大にもかかわらず、成長率が上向かないのは何故か。その答えは、日本の 潜在成長率が大きく下方屈折しているためだ。わが国の潜在成長率は、1980 年代 の平均で 4.1%もあったが、90 年代には 2.2%に鈍化、2000 年代にはリーマン・ショ ック前の平均で 0.9%、リーマン・ショック後には 0.5%以下に低下している。この背景 には、①少子高齢化、労働力人口の減少、②設備投資の長期停滞による資本ストッ クの伸び悩み(デフレの影響)、③イノベーションの停滞による TFP(全要素生産性)の 低迷がある。一般的には、労働力人口減少の影響が大きいと言われるが、90 年代 平均と 2000 年代(リーマン後)の平均のマイナス寄与度はともに▲0.3%と変わらな い。最も大きい要因は資本ストックで、その成長寄与度は 80 年代の+1.7%、90 年代 の+1.3%から 2000 年代(リーマン後)には▲0.1%とマイナスに転じている。少子高齢 化、人口減少は国内マーケットの縮小予想から企業の期待成長率を低下させ、これ が設備投資の停滞を招き、潜在成長率の低下をもたらしたと言えよう。 ※名目成長率が高まったのは、①2014 年度の消費税率引き上げの影響(これを除くと3年間の平均は 1.3%)と、②原油価格の大幅低下に伴う GDP デフレーターの上昇であり、いずれも一過性の要因によ るもの。異次元緩和の実施でもマネーサプライは大きく増えず、期待インフレ率は 0.4%に止まって いる。 湯元健治の視点【潜在成長率を高める成長戦略を-生産性革命の実現に向けて】 p. 1 潜在成長率の寄与度分解 (%) 資本 労働 4 TFP 潜在成長率 3 2 1 0 ▲1 1980年代 1990年代 2000~07年 2008~13年 (資料)内閣府、日本銀行、厚生労働省などをもとに日本総研作成 本来、金融政策や財政政策で期待成長率や潜在成長率を引き上げることは不 可能である。アベノミクスの成長戦略は、資本、労働、生産性の各面から低下 した潜在成長率を大幅に引き上げるために設計されており、成長戦略のスピー ディな実行こそが唯一成長率を高める本道だ。 2.アベノミクスの成長戦略をどう評価するか 以上のような観点から、アベノミクスが打ち出した成長戦略をどう評価すべ きだろうか。過去3年半で打ち出された主要な成長戦略としては、①法人実効 税率の引下げ、②コーポーレート・カバナンス強化、③女性の活躍推進、外国 人労働者の活用、④岩盤規制改革・国家戦略特区、⑤労働市場改革、⑥TPP など経済連携協定締結などがある。以下、潜在成長率の引き上げの観点から評 価を試みよう。 第1に、法人実効税率が 29%台まで引き下げられたことは、素直に評価できる。 ただし、OECD 諸国の平均が 25%であることを勘案すると、29%の先をどうするの か、明言していない点は十分とは言えない。これは、これまでの税率引き下げが法 人税の課税ベース拡大とセットの税収中立で行われてきたことと関係がある。この やり方では、ここまでが限界であり、これ以上の引下げを目指すならば、税率の高い 地方法人課税の引下げと住民税や地方消費税の引き上げとのセットの改革が必要 湯元健治の視点【潜在成長率を高める成長戦略を-生産性革命の実現に向けて】 p. 2 になる。しかし、これは政治的には大きな困難を伴うため、事実上、法人実効税率の 引き上げは壁に突き当たっており、このままでは国内企業の設備投資や外資系企 業の対内投資を呼び込むことは困難だ。 第2に、日本版ステュワード・シップ・コードやコーポレート・ガバナンス・コードの導 入などのコーポレート・ガバナンス強化策は、経営者の意識に一定のインパクトを与 えたことは間違いない。10%以上の ROE(自己資本利益率)目標の設定、自社株買 いの増加、配当増加、社外取締役の設置など株主を意識した経営行動が増えてき たからだ。ただし、社外取締役の人数を1人から2人に増やしただけで、従来と発想 の異なる大胆な経営に転換できるかは未知数だ。ROE の引き上げには、外部負債 の積極的取り入れ、すなわち、ソフトバンクのようなレバレッジ経営への転換が必要 だが、大多数の日本企業はキャッシュフローをため込むリスク回避型経営から脱却 できていない。 第3に、女性の活躍推進、外国人労働者の活用などは、労働力の面から潜在成長 率を引き上げることが期待される政策だが、その効果を過大視することは禁物だ。 安倍政権は、当初女性の管理職比率を欧米並みの 30%に引き上げる数値目標を 設定し、企業努力を促した。確かに、女性管理職の割合は近年高まっており、この 面での経営者の意識改革は進み始めている。しかし、本来やるべき改革の本丸は 女性が働きながら子育てができる環境を作ることである。長時間労働やサービス残 業が当たり前の日本企業の男性の働き方を是正しない限り、むしろ少子化が進んで しまいかねない。安倍政権は問題の本質にようやく気づき、働き方改革を前面に打 ち出しており、この点は、正しい方向への軌道修正として評価できる。 他方、外国人労働者の本格的活用には慎重姿勢を崩していない。対応策は、ポイ ント制の優遇措置強化や技能実習制度の拡充など小手先に止まっており、介護、建 設、小売、サービスなど労働力不足分野への限定的な単純労働者受け入れを視野 に入れた入管法の抜本改革に踏み出せていない。移民まで一足飛びではない現実 的な改革が求められる。 第4は、岩盤規制改革、その突破口としての国家戦略特区だ。農業分野では、企 業の農地売買自由化や株式会社形態での農業参入規制の緩和までは踏み込めて いないが、①農協改革、②農業生産法人の要件緩和、③コメの減反廃止、④農地中 間管理機構の創設、⑤農業委員会制度の改革を実施しており、その結果、若手新 規就農者数の増加や 2,000 社以上の企業の農業参入、農産物・食料品輸出額2年 連続過去最高更新等、相応の成果を上げている。中山間農業改革特区を標榜する 兵庫県養父市では、耕作放棄地を活用する形で 11 社(うち9社が市外企業)が新規 参入している。 また、エネルギー分野では、60 年振りの電力システム改革(広域運営機関の創設、 小売自由化、発送電分離)を実施し、既存企業の地域・業種を越えた連携や 300 社 湯元健治の視点【潜在成長率を高める成長戦略を-生産性革命の実現に向けて】 p. 3 近い異業種企業の小売分野への参入が増加している。国家戦略特区も当初の6地 域から 12 地域に増加し、トータルで 125 の事業が認定されるなど具体的プロジェク トが進みつつある。こうした好事例はまだ一部の分野に限られるが、①地域指定の 増加、②さらなる規制緩和項目の追加、③新しいコンセプトの特区創設などを進め、 企業の新規参入を促すことで、内外企業の投資拡大をテコに地方創生を推進する 原動力となることが期待される。 第5は、労働市場改革だ。安倍政権は当初、金銭解雇制度の導入、ホワイトカラ ー・エグゼンプション(労働時間規制適用免除制度)の導入を労働市場改革の目玉に 掲げていたが、国会審議が難航し法案成立に至っていない。わずかに、国家戦略特 区に指定された福岡市で雇用条件の明確化を図るための「雇用労働センター」が設 置されたに過ぎす、労働市場改革の歩みは遅い。しかし、筆者はこれらの規制緩和 は労働市場改革の本丸ではないと考える。日本の労働市場の本質的問題点は、雇 用の流動性が低いという通説にあるのではなく、諸外国対比でみた正社員の異常な 働き方、正規・非正規の二重構造にあると見る。これを改革しようという働き方改革 と同一労働・同一賃金の導入こそが正しい改革である。こうした改革は、ともすれば 格差是正の観点から語られることが多いが、真の格差是正とは、労働者のエンプロ イアビリティー(職業能力)向上を政府が万人に等しくサポートする積極的労働市場 政策の実施によって初めて可能になる。 第6は、TPP など経済連携協定の締結加速だ。確かに、TPP が大筋合意したこと は一定の成果として評価できるが、米国が民主、共和両党ともに大統領候補が反対 するなど、スムースに批准できるかは予断を許さない。日本にとって、TPP 以上にメ リットが大きいとみられる日中韓 FTA、RCEP(東アジア包括経済連携)は交渉が難航 し、妥結の目途が立っていない。日本の貿易 FTA 比率は、現行 22%を 2018 年度 までに 70%に引き上げる数値目標を設定しているが、EU も含めて交渉中のすべて の FTA が妥結しなければ達成できない目標であり、絶望的といえる。他国の状況を 見ると、米国が 40%、EU30%(域内含めると 74%)、韓国が 63%と大きく水を開けら れており、日中、日韓関係の悪化がマイナスに作用している。経済連携協定の締結 は、人口減少下でも経済成長を可能とするという意味で、潜在成長率の引き上げに 大きく貢献する課題であり、外交も含めて本腰を入れた取り組みが不可欠だ。 3.第4次産業革命実現の鍵 以上を要するに、アベノミクスの成長戦略の取り組みは、一定の進捗や成果が見 られる分野もあるが、全般的にはなお途上にあり、現時点で潜在成長率の目立った 引き上げには結び付いていない。相応の時間がかかることは覚悟しておかなければ ならない。労働力の活用や大胆な規制改革、グローバル戦略は確かに重要だが、 湯元健治の視点【潜在成長率を高める成長戦略を-生産性革命の実現に向けて】 p. 4 少子高齢化、人口減少下で持続的な成長を実現する最大の鍵は、生産性の飛躍的 上昇を実現することだ。 安倍政権は、潜在成長率の引き上げを目指して、「第4次産業革命」を標榜してい る。推進の司令塔として「第4次産業革命官民会議」を設置、同会議の下に、「人口 知能技術戦略会議」、「第4次産業革命人材育成推進会議」、「ロボット革命実現会 議」など様々な会議体を設置しているが、それだけでは、スピード感、具体性に欠け る。成長戦略 2016 の中では、IoT(Internet of Things)、ビッグデータ、人口知能(AI)、 ロボット分野で 2020 年までに 30 兆円の付加価値を創造するとの目標を設定してい るが、これら分野の潜在力は本来この程度ではあるまい。これら4分野は、個別分 野にとどまらず相互に密接に連関している。あらゆるモノをインターネットに接続する ことで、大量のビッグデータが手に入り、そのデータをベースに AI を使って解析する ことで、潜在的なニーズ、需要のありかを探り当てることができる。人口知能をロボッ トに搭載すれば、より的確な判断が可能となる。ソフトバンクは、いち早くこれら分野 の将来性に目をつけ、すでに AI を搭載した人間の感情を理解する人型ロボット Pepper を開発したほか、ビッグデータの本丸ともいえる遺伝子解析ビジネスにも乗 り出している。3.3 兆円もの巨額資金を投入して英国の半導体設計会社 ARM 買収 に踏み切ったのも、10 年後の IoT の世界で覇権を握るためだ。 いずれにしても、先を見据えた民間企業はすでに独自に動き出している。ドローン の活用はコマツや ALSOK が独自サービスを提供し始めている他、自動車各社は 2020 年を目途に自動走行技術の開発を目指している。スマート工場では米国の 「Industrial Internet」やドイツの「Industry 4.0」が先行していると言われているが、 FA(Factory Automation)やロボット化で世界最先端を行く日本も技術的に劣ってい る訳では決してない。スマート農業では、農機メーカーが自動走行トラクターを開発 したり、農産物の生育状況を監視・管理し最適化するシステムを開発するベンチャー 企業が現れている。日本企業の技術力は欧米諸国に決して引けを取っている訳で はない。高齢化が進む日本にとって潜在的に有望な市場は、IoT やビッグデータ、AI、 ロボットをフル活用した健康・医療サービスだ。個々人の様々な健康・日常生活・身 体情報、診療・薬剤情報、介護関連データを匿名化した上で、個別企業が自由に活 用できるスキームを構築することによって、新しいサービスが次々と生まれるはずだ。 こうした中で、政府がやるべきは、基礎研究への投資、新しい技術に適合する規 制・制度の設計・構築、官民が連携した実証実験の場作り、国際標準獲得のための イニシアティブ発揮、民間の研究開発投資に対する後押しやインセンディブ付け、高 等教育、職業訓練システムにおける数理・情報教育の強化などトップレベル情報人 材の育成である。第4次産業革命が実現するか否かは、まさに官民による戦略的連 携の成否にかかっているといえよう。 (2016.8.9) 湯元健治の視点【潜在成長率を高める成長戦略を-生産性革命の実現に向けて】 p. 5
© Copyright 2025 ExpyDoc