第 66 回 西日本国語国文学会 鹿児島大会 要旨

《第 66 回
西日本国語国文学会
鹿児島大会
要旨》
○公開講演
玉里文庫の諸相 ―蔵書構成と歴史―
丹羽謙治(鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系)
玉里文庫は、明治4年(1871)に島津家宗家から分家した玉里島津家に伝来した蔵書で、
現存数は 18,900 冊にのぼる。現在も明治期当時の箱に入れられた形で保管されている。同
家の初代は島津家を束ねて幕末維新期の政局を主導した島津久光(1817~1887)である。
玉里文庫の蔵本は久光が自身筆写したり、
家臣に命じて写させたりした書籍を中心として、
久光収集にかかる刊本、写本から構成されるが、その他にも二代目忠済やその妻田鶴子の蔵
書、島津斉彬(久光兄)の蔵本や、藩主のお手元にあった書籍―『薩藩名勝志』
『三国名勝図
会』を初めとする名所図会類―などが流れ込んでいる。以上のような旧所蔵者と書物との関
係を紹介しながら、文庫の構成の複雑な様相について述べる。続いて、玉里文庫が鹿児島大
学に購入されるまでの歴史を概観し、近代における文庫の利用および管理の状況、目録の作
成といった問題について紹介したい。また、実録本『誠忠武鑑』の裏打ち紙として使われて
いた「重富島津家奥日記」
、幕末期に薩摩藩に招かれた故実家の栗原信充関連の資料について
その由来についても触れたい。
昭和 41 年(1966)の『玉里文庫目録』により、蔵書の全貌は明らかとなっており、蔵本
についての研究や紹介が蓄積されているが、平成 27 年(2015)に島津家より鹿児島県歴史
資料センター黎明館に寄贈された玉里島津家資料と合わせることで、さらなる研究の深まり
が期待できるだろう。
有島父子と農業
石田忠彦(鹿児島大学名誉教授、かごしま近代文学館アドバイザー)
近代文学の研究が、ある時期から、作家についての研究があまりなされなくなった。その
理由の一つは、作家還元型の作品評価への批判からである。それに代って、いわゆるポスト・
モダンの批評として一括される分析方法が流行した。そこでは、文学作品を、所有者なしに
放り出された言語の集積、つまりテキストとして把握する傾向が一般的で、テキストは分析
者の所有に帰すことになる。この方法は、立場によって微妙な違いはあるものの、文学作品
は享受者の存在をまって始めて成立するものであるが、その享受者を分析者に限定したきら
いがある。
作家還元型の作品評価が、問題点を抱えていたことは否定できないとしても、そのことが
いきなり、作家は研究の対象から除外するということになるのかどうか。文学研究には、人
間が面白いという、原初的な興味関心がありはしないか。
ところで、有島武郎の父に武記(明治以後・武)という人物がいる。文学史には、現ニセ
コに有島農場を経営し、それを相続した武郎が小作人に解放したという記述で登場する。こ
の武は、農場経営を始めるにあたって、湯地定基に相談している。湯地とは根室県令などを
歴任し、北海道での馬鈴薯栽培を成功させた人で、その妹静子は乃木希典の妻である。
ここでは、有島武郎・武・湯地定基の三者の「農地」に対する考え方の差異を紹介し、小
説「カインの末裔」の享受についての考えを述べてみたい。
○研究発表
近世中期における老荘思想流行の一隅 ―後藤梨春・西村遠里を端緒として―
吉田宰(九州大学大学院生)
近世中期の思想界・文芸界における老荘思想の流行については、つとに中野三敏による詳
細な研究が備わり(
「近世中期に於ける老荘思想の流行―談義本研究(一)―」
、
『戯作研究』
所収、中央公論社、1981 年)
、今日、定説となっている。
ここで、その論考中に掲げられた、近世中期に刊行された老荘関係の書物一覧を改めて一
見すると、そこには本草学や天文学、医学といった、いわゆる自然科学の分野にも携わって
いた人物が散見するという、興味深い事実が看取できる。しかし、そうした人物の側から老
荘思想流行との関連を考察した論考はいまだない。
そこで本発表では、
「相対化」という視点を軸にして、近世中期における老荘思想の流行と
自然科学の分野との関連を探り、中野説を再検討することを目的とする。またその糸口とし
て、ともに近世中期に活動した、本草学者の後藤梨春、ならびに天文暦学者の西村遠里を取
り扱う。そして、梨春には本草学や名物学などの実証的な知識に基づいて、
「名」
(名称)と
「物」
(実物)との結びつきの是非を相対的に捉える思考態度が、また遠里には現実的な世界
認識に基づいて、
栄華や名誉などの物事の大小を相対的に捉える思考態度が見られることを、
それぞれ老荘思想との関連の上で指摘する。
こうして、自然科学の分野における実証的・現実的認識から生じた相対観が、思弁的に物
事を相対化して捉える老荘思想と共鳴したことを明らかにし、近世中期における老荘思想の
流行に自然科学的知識が与った可能性を論じる。
『新編水滸画伝』の出版経緯と諸本
村上義明(九州大学大学院生)
『新編水滸画伝』は、9 編 91 冊の翻訳小説である。本作品は馬琴が初編を執筆したが、書
肆からの訴訟沙汰に巻き込まれたことをきっかけに続編を書き継がなかったものである。こ
の後、英平吉がその版木を手に入れ、馬琴へ続編の執筆を打診したものの断られ、蘭山へ 2
編以降の執筆依頼がなされた。英平吉亡きあと、河内屋茂兵衛が版木を手にし、以降 9 編ま
で刊行したという複雑な経緯をもつ。本書は近代に至っても続々と翻刻され、その息の長さ
が知られる。
本研究発表では、
『新編水滸画伝』九編が刊行されるまでの経緯を、作者(馬琴と蘭山)と
書肆に焦点をあてて整理する。
とくに蘭山の嗣編の背景については、これまで全く触れられることがなかった。蘭山の小
説が次々に刊行され、書肆との関わりのなかから必然的に依頼されたものであったことを述
べる。加えて現時点で調査の及んだ範囲で、全国の所蔵機関に存する『新編水滸画伝』がど
の時点で刊行されたものかについても報告する。
蘭山の編訳による 2~9 編の『新編水滸画伝』が続々と刊行されるなか、馬琴による蘭山
訳への批判がその日記、書簡等に記されるようになる。これらの評価が近代以降の蘭山への
低評価につながっている旨を指摘し、これが江戸時代の蘭山への評価全体を代表するもので
はないことにも言及する。
詩歌から観る佐久間象山の活躍
有浦英毅(長崎大学大学院生)
佐久間象山(1811~1864)は幕末の開明的思想家の一人として知られている。幕末から明
治にかけて活躍した有名人の殆んどがその影響を受けた。吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬など
は門下生であった。
時代は欧米列強の帝国主義がアジアへ進出していたときである。
アヘン戦争(1840~1842)
における中国の敗北は、日本の知識人を恐怖に陥れ、危機意識と国防意識の高まりが、幕府
のみならず有力諸藩にも大いに広まっていった。
そのような時期に、
儒学のなかでも正統派とされた朱子学の熱心な信奉者であった象山が、
幕府老中になった藩主真田幸貫の命で海防掛を担当することになる。欧米列強から国を守る
には、技術的にすぐれている西洋の科学技術を取り入れて自分のものにし、国を強くする以
外に方策はないと強く思うに至った。
そこで象山は、持ち前の才能で驚異的な勉学とものづくりの実践を行い、幕末の日本の近
代化に貢献している。儒学者、蘭学者、砲術家として堅いイメージに思われがちだが、実は
象山は多趣味、多芸の人で詩人としての才能も高かった。
都門に駕を税きて未だ周歳ならざるに好事の小書姓名を伝う
咲うに堪えたり撰人の籠絡すること広きを
燕石と連城とを分たず
これは天保 10(1839)年、藩から2度目の江戸遊学を許された翌年に、
「江戸名家一覧」
に象山の名前が載ったことを喜んで、恩師鎌原桐山に贈った七言絶句である。
このようにいくつかの詩歌を通じて象山の活躍を見ていきたい。
漢語「宣伝」の語史 ―近代日中間の語彙交流を中心に―
陳偉(九州大学大学院生)
本発表は、日中語彙交流の視点から、日本語における「宣伝」意味の成立・定着、及び 20
世紀以降における中国語への逆輸入について考察するものである。
結論としては、次の4点にまとめられる。①「宣伝」は 1860 年代ごろ、
〔Preach・Proclaim・
Propagate〕の訳語に選ばれ、
「キリスト教を宣教する意味」として、
『英華字典』や『漢訳
聖書』に用いられた。直ちに日本に伝わり、
『英和辞書』や『和訳聖書』に訳語として取り入
れられた。②日本語に取り入れられた「宣伝」は、20 世紀初頭に「キリスト教を宣教する意
味」から「政治では主義・主張を説得する意味、商業では商品を売り込む意味」つまり
〔 Propaganda〕の訳語として成立し、定着していった。③日本語で成立・定着した
〔propaganda―宣伝〕は、再び中国語にもたらされた。
「宣伝」は、典型的な逆輸入された
漢語の一例として挙げられる。④20 世紀以降、
「事実より以上に大げさに言いふらす意味」
が生み出され、日常語として定着していった。
甑島里方言の形容詞連用形にみられる異分析
平塚雄亮(志學館大学)
甑島里方言には、形容詞の連用形に2つの形がある。1つは語根に接尾辞-u がついたもの
で、もう1つは語根に接尾辞 -koo がついたものである。以下、前者の例を(1)に、後者
の例を(2)に示す。
(1)uresi-u→uresjuu(うれしい)
、obu-u→obuu(重い)
、ita-u→itoo(痛い)
(2)uresi-koo→urekkoo、obu-u→obukoo、ita-koo→itakoo
一見すると(2)の urekkoo は複雑な形をしているようにみえるが、規則的な派生をしてい
るということを示す。本発表では(2)の -koo が通時的には異分析により生じた形式であ
ることを中心に述べる。
接尾辞 -koo が成立したのは、
形容詞のいわゆるカ語尾をとった終止連体形
(obu-ka など)
を、
丸ごと語根であるかのようにとらえるという異分析が起こったためであると考えられる。
つまり、たとえば obu-ka という終止連体形を丸ごと語根ととらえ、
(1)の接尾辞 -u を接
続させれば、obuka-u→obukoo となる。この際 /au/ の音連続が /oo/ となるのは、この方
言の一般的な規則にしたがうものであり、この現象に特異なものではない。これを共時的に
とらえれば、もはや ka と u の間に形態素境界を認める必要はない。そのため obu-koo と分
析し、-koo を接尾辞として認定するのが妥当であるという結論を得る。
『在明の別』の人物造型 ―「愛敬」を中心に―
小松明日佳(九州大学大学院生)
『在明の別』は平安の末期に成立した3巻からなる物語であり、巻1と巻2、3とで世代
交代が行われる。巻1の中心人物である右大将は、当代随一の貴公子であるが、
『今とりかへ
ばや』の女中納言のように、実は男装をした姫君である。この右大将は妊娠している女性を
自らの妻とすることで跡継ぎを得る。この人物が成長し、左大臣となり、巻2、3の中心人
物となる。左大臣は自らの出生に秘密があることを知らない。
巻2、3の中心人物である左大臣は、様々な女性と関係を持つ。そうした女性のうち、中
務宮の北の方に対しては、その「愛敬づきたるさま」
(巻2)に惹かれたとされている。
「愛
敬」とは人物のようすから醸し出される魅力を表す語である。たとえば、紫の上は「あぢき
なく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき
人の御さまなり。
」
(
『源氏物語』野分)といったように描かれている。本作品中で「愛敬」が
使われる人物としては、前述の北の方の他に、左大臣の正妻である右大臣の大君や、妹の中
宮などが存在しており、こうした人物に左大臣は好意的な印象を持っている。
「愛敬」という
語は人物造型に大きく関わっているが、この語の使用によってもたらされる人物造型とはど
のようなものであろうか。本発表では、本作品以前における「愛敬」の使われ方を踏まえな
がら、その語が使われる意図を考えてみたい。
『袖のみかさ』について
天野聡一(九州産業大学)
近世の擬古物語には未だに広く知られていない作品が多い。本発表では、その中の一つで
ある『袖のみかさ』という物語を取り上げる。
『袖のみかさ』は現在のところ実践女子大学が所蔵する写本一冊しか確認されていない。
当該本に序跋は無いが、印記から黒川真頼の旧蔵書であること、書き入れから幕末の国学者
朝田由豆伎の自筆本であることがうかがえる。
内容は、ある帝に仕えた女官の物語である。帝からの寵愛が一際深かった「新内侍のすけ」
は皇子を産み、続けて皇女を産むが、皇女は生後まもなく死去。新内侍のすけも病に伏し、
そのまま帰らぬ人となる。唯一残った幼い皇子も続いて世を去ってしまい、帝は悲しみにう
ちひしがれる。このように本作には、類い希な寵愛を受けた女性とその死、そして最愛の女
性を失った帝の深い歎きが描かれている。こうした内容から察せられる通り、本作は『源氏
物語』桐壺巻の内容・表現を模倣して作られた作品である。
ただし、本作には『源氏物語』には無い独自の内容も存する。その内容を検討した結果、
本作の登場人物が実在の人物に基づいて造型されていることが分かった。すなわち、本作の
帝は光格天皇、新内侍のすけは掌侍東坊城和子に基づく。和子は光格との間に二子を儲けた
が、子どもたちとともに早世した人物である。
『袖のみかさ』は、和子が辿った悲劇的な人生
を『源氏物語』の桐壺更衣と重ね合わせながら描いた物語だったのである。
霊魂の国家管理と夏目漱石の「趣味の遺伝」
村瀬士朗(鹿児島国際大学)
夏目漱石の「趣味の遺伝」
(
『帝国文学』明治 39(1906)年 1 月)は、これまで、前半に
語られる戦闘場面に焦点を当てて、戦争小説ないし反戦小説として読まれるか、戦死した親
友の果たされざる恋に隠された先祖との因縁を究明する後半の語り手の行動に焦点を当てて、
恋愛、あるいは遺伝をテーマとした作品として読まれるかの二方向で論じられてきた。それ
ぞれの論は、以上の論点に関する限り、優れた成果を上げてきたということが出来るが、前
半と後半のモチーフ、テーマがどのように関わるのか、
「趣味の遺伝」というテクストがトー
タルとしてどのような問題を提起しているのかという点については、未だ十分な解明がなさ
れてきたとは言い難い。
前半に語られた親友「浩さん」の戦死に対する語り手の「無念」は、彼の死の交換可能性
に向けられている。この戦場における兵士の交換可能性の問題は、近代の国民国家における
国家と個人の関係の問題に通じているが、問題は、その「無念」が、
「浩さん」とその先祖の
つながりを発見しようとする、
「趣味の遺伝」理論の究明という後半の語り手の行動の動機と
どうつながっているかということにある。
本発表では、特に戦死者の慰霊をめぐる主体の変化に注目し、日露戦争を契機とする国民
意識の形成のプロセス、徴兵令の導入による国民皆兵の原則とのつながりから、以上の問題
について考察したいと考えている。