まえがき ー 昨年度および本年度の二年間、 「其角年譜作成」 を研究課題

其角年譜試稿︵こ
まえがき
今
準
書は、其角を含めた蕉門俳入六名の年譜集であるが、その中の ﹁宝井其角年譜﹂は、その後の情報の収集はもちろんのこ
る。ときあたかもこの要求に応えるかのように石川真弘氏編﹃蕉門俳人年譜集﹄︵昭和五十七年一月刊︶が発刊された。本
の後の斯界の研究の進展、とくに新資料の出現等により、これもまた全面的改訂の必要が要求せられる情況に経ち至ってい
た。従って、この補訂によって個人の作業とは別箇の﹁其角年譜﹂の一応の完成を見たという過去の経緯がある。しかしそ
ゆるガリ版刷りで作成、斯界の研究者の方々に送り、多くの方々からの補訂により、この作業はかなりの進展を見るに至っ
昭和三十六年二月、 ﹃其角年譜草稿﹄と題して、文字どおりの草稿を、現在岐阜大教授の鈴木勝忠氏の協力を得て、いわ
たとも一方ではいえるものである。
にその許可を得た。この課題は私にとっての長年の念願であり、またこの完成のための作業に今日までの歳月を費やしてき
昨年度および本年度の二年間、 ﹁其角年譜作成﹂を研究課題として、人文科学研究所の重点個人研究を申請、幸運のこと
一
と、﹁氏の研究による新事実の追加等、まさに現段階における最も詳細にしてかつ完備されたものと言ってよいものである。
一23
泉
従って其角年譜作成の作業はその後の二年間に出現した新資料の補足で事足りる。
この意味では﹁其角年譜作成﹂は屋上に屋を架す作業ということになるにもかかわらず、あえてこの課題を表面に掲げた
のは、実はその裏面にもう一つの目的があった。其角資料の集成である。勝峯晋風の﹃其角全集﹄発刊以降、すでに四十年
余の歳月が経っているが、その後、これの改訂増補版が出ていない。従って、いわばこの改訂増補の作業の一端として、年
譜の順序に従っての其角の作品および書簡等の資料集成ということである。其角資料集成のためには、其角の編著の定本整
定が第一の作業となろう。しかし、いまはしばらくこれをおき、年譜順に従っての其角編著を除いてのその他の資料の集成
であるq以下はこの二年間の作業のうちの最初の部分である。
例 言
一 本編は年譜篇・同注および資料篇・参考篇とする。他日、これに本文篇を加えて、其角全集としたい。本文篇に掲載予
定の書目は、﹃みなし栗﹄、﹃新山家﹂、﹃続みなし栗﹂、﹃いつを昔﹄、﹁花摘﹂、﹃雑談集﹄、﹃萩の露﹄、﹁句兄弟﹂、﹁枯尾華﹄、
﹁末若葉﹄、﹃三上吟﹄、﹃焦尾琴﹂、﹃類柑子﹄、﹃五元集﹂および﹃轟集﹄、﹃誰か家﹄である。
二 年譜篇にある項目のうち、○印を付したものは、文献およびその他の事実の裏付けによって、その事項が事実と確定さ
れるもの、△は推定、×印はその年次またはそれ以前と考えられるものである。またこれらのうち、補足説明を必要とす
ると思われるものには、適宜、注を加えた。なお、其角以外の者の書簡で、其角の消息に関連して、其角の作品が載る場
合にかぎり、年譜篇に、その作品を記載した。
三 資料篇は俳譜撰集の場合は刊本が現存するときは刊本に従うことを原則とした。しかし、これが事情によりでき得なか
った場合にのみ写本に従った。刊本・写本を問わず底本としたものの所在名︵文庫名等︶を明記した。なお、同じく種々
一24一
の事情で刊本・写本ともに未見のもの、およびすでに十分な校訂が行われているもので、活字復刻本がある場合はこれに
従った。これらは、その凡例に従って、左に述べる翻刻原則に基いて底本に近い形に戻して記載した。この場合は、翻刻
書・誌名等を明記した。作品の作者名は其角・キ角・晋子等、すべて、原典記載どおりに記したが、最初のところにのみ
記し、以下同じ場合は記載を省略した。
翻刻は次のような原則に従った。
1 ふりがな・送りがな・濁点・句読点は、すべて底本のままとした。
2 明らかに、誤字・誤用と認められる文字の場合も底本のままにし、改めることをしなかった。ただ、誤植ではない
ことを示すために︵ママ﹀と傍注した。
3 変体がなはすべて現行の字体に改め、連字体の﹁より﹂﹁さま﹂﹁こと﹂等も現行の慣用に従って﹁より﹂ ﹁さま﹂
﹁こと﹂等とした。
4 片かなもすべて現行の字体としたQ漢文の送りがな等に見られる合字・略体の﹁トモ﹂ ﹁シテ﹂ ﹁コト﹂等も現行
に従って、 ﹁トモ﹂﹁シテ﹂﹁コト﹂等に改めた。変体がなの﹁ハ﹂ ﹁ミ﹂等は、平がなの意識で書かれてあるので、
﹁は﹂ ﹁み﹂等とした。
5 漢字は、異体字・略体字・動用字・旧漢字等、すぺて常用漢字あるいは現行の漢字に改めた。
例 蔦・雁・﹁1雁 庫−窟 全1同 豚−脈 雍ー桃 躰−体 穐−秋 姻−煙 弥−珍 灸
ー壁皿 涼ー涼 貞1顔 寄−歌 佗−陀 探−寝 馳−蛇 昼−画 坐−坐 雷ー宵 需
−紙 ー魔・磨 鶴−鶴 埜−夢 朽−朽
6 ただし、つぎのような漢字は改めることをしなかったQ
一25
例蕎︵庵︶礒︵磯︶迩︵逃︶泪︵涙︶喰︵吟︶奨︵裳︶笹︵篶︶
7 かな・漢字のおどり字は原典と同じ形で記載したが、漢字の﹁ヒ﹂の場合のみ﹁々﹂に改めた。ただし、 ﹁々﹂と
改め得ない場合の﹁ヒ﹂はそのままとした。
年 譜
寛文元年︵一六六一︶辛丑−四月二十五日改元− 一歳
〇七月十七日 江戸に生まる。注一。
幼名、源蔵あるいは源助、一説に八十八、又は平助。注二。
○父は竹下氏、東順と号す。この時三十九歳。母榎本氏、三十一歳。注三。
母霊夢
人目には過ると見えてうろくつの数しら波の宝まふくる
七夜暁
住吉の松を秋風吹からに声うちそふる沖津白波
︵淡々編﹃其角十七回﹂所載﹁自筆年譜﹂参考篇一︶
寛文九年︵一六六九︶己酉 九歳
〇九月二十二日暁 父東順霊夢
言のはをせとにも門にも植置ていつれやくにはたちつてとかな︵同右︶
寛文十年︵一六七〇︶°庚戌 十歳
一26一
○この年大円寺に入学。 ︵同右︶
延宝元年︵一六七三︶癸丑1五月二十一日改元ー 十三歳
延宝二年︵ニハ七四︶甲寅 十四歳
○入学肇満三毎父が医家であ・た関係であろうか・堀江町におい℃﹃本草轡﹂の舞を試む・︵同右︶
△芭蕉門に入る。注四。
延宝三年︵一六七五︶乙卯︵四月閏∀ 十五歳
○内経の素本、易経の素本の筆写をする。また﹃伊勢物語﹂を筆写、これに表紙をつけ、本多下野守に献じ、褒美頂戴。
注五。
延宝四年︵一六七六︶丙辰 十六歳
○円覚寺大顛和尚について学ぶ。注六。
延宝五年︵=ハ七七︶丁巳 十七歳
△独吟歌仙一巻、この年試作か。螺舎と号す。注七。
延宝六年︵一六七八︶戊午 十八歳
△﹃田舎の句合﹂の稿成るか。注八。
しいがもと
延宝七年︵=ハ七九︶己未 十九歳
〇十二月下旬東下した椎本才麿の撰集﹃坂東太郎﹄成る。其角の号で発句三入集。注九。資料篇一。
延宝八年︵一六八〇︶庚申︵八月閏︶ 二十歳
〇四月 ﹃桃青門弟独吟二十歌仙﹄刊行。杉風・ト尺・岩翁・嵐雪・嵐蘭らとともに其角の独吟歌仙一巻︵前述︶入集。
一27一
号螺舎。資料篇二。
〇八月 ﹁田舎の句合﹂刊行。其角の発句五十を左右二十五番に分わせ、芭蕉の判詞を得て出版。注一〇。資料篇三。
天和元年︵一六八一︶辛酉ー九月二十九日改元ー 二十一歳
夏〇六月中旬 東下中の言水︵池西氏、このとき三十二歳︶、撰集﹃東日記﹂を上梓。其角もこれに協力。発句二八を送
る。また全巻の板下を認む︵種彦書入れ刊本﹃東日記﹄︶。資料篇四。
△芭蕉・言水・高山某︵廉塒力︶とともに宗対州公松波老人を訪ね、閑談あり︵﹁類柑子﹂︶。注一一。
秋〇七月 ﹃次韻﹄刊行。京在住の信徳︵伊藤氏、芭蕉より十一歳年長︶の﹃七百五十韻﹂︵正月刊︶に呼応して、芭蕉・
才丸︵才磨︶揚水とともに其角も参加、二百五十韻を次いで、合わせて千句としたもの。余興としてこの他に四句。板
下其角と覚ゆ。資料篇五。
〇九月序 清風編﹃おくれ双六﹄発句一入集。資料篇六。
とり
○この秋、木因宛芭蕉書簡に﹁尚ヒ短尺武枚其角へあつらへ、明朝取に可レ被レ遣候﹂とある。 ︵校本芭蕉全集書簡篇︶
注一 其角没後の最も近い時期に出た其角の略歴記載書の一つと思われる﹃元禄宝永珍話﹄ ︵国書刊行会本による︶には﹁寛文元年辛丑
年七月十七日生る﹂とある。また淡々の﹃其角十七回﹄ ︵参考編一参照︶に﹁其角書捨置レシヲ墓シテ愛二出ス﹂として、其角自筆
の略年譜が載るが︵以下、これを﹁自筆年譜﹂と略称︶、これには﹁寛文丑﹂とあって、その下に割注して﹁馬ならばいかほどはねん
うしのとしさてもはねたり寛文元年﹂とあって、そのあと、本文に載せた霊夢の歌二首が載る。この二書から見ても、 ﹁七月十七日
出生﹂に疑義は生じないと思われるし、また諸書の説くところもこれを踏襲している。出生地については﹃晋子一伝録﹄ ︵腿尺斉五
世豊山編、天保二年刊、以下﹃一伝録﹄と略称︶・﹃俳譜み\な草﹄︵永機編、明治十四年刊、以下﹃み\な草﹄と略称︶には﹁堀江
町﹂とある。前者はその典拠として、後出の百葦譜Lの其角+四歳の項の﹁於堀江町﹂云々と、其角の発句︵五元鯵の前書冨
居﹂︵﹃近世奇跡考﹄﹃風俗文選犬注解﹄﹃同通釈﹄﹃俳家奇人談﹄等この説を踏襲、かなりの流布を見る︶を念頭に入れての説明と思
王の氏子として﹂とある﹁我等迄天下祭や土くるま﹂を載せている。これは﹃元禄宝永珍話﹄の﹁其角幼年の時、神田於玉ケ池に住
一28一
われる。お玉ケ池が出生地であれば、﹁山王の氏子﹂とはなれないということであろう。しかしこのことがただちに堀江町出生とは
結びつかない。従って、出生地未詳、幼時、神田お玉ケ池に住せしことあり、とする方が現在のところ正しいといえよう。なお、
に載る躬恒の歌。
﹁自筆年譜﹂に載る歌﹁馬ならば﹂云々はト養の狂歌︵穎原﹃蕉門の入々﹄による︶。また霊夢の﹁住吉の﹂云々の歌は﹃拾遺集﹄
て﹁一に源蔵ト云、又其瓜庵ノ説也﹂と源蔵説を一説として挙げ、これが二伝録﹄に踏襲される。また﹃み︾な草﹄では、 ﹁文政
注二 ﹃元禄宝永珍話﹄には﹁幼名を源助と云﹂とあり、﹃近世奇跡考﹄︵山東京伝著、文化元年序︶にはこれと同じ記載のあと、割注し
はじめ梓行成れるものに幼名源助又は源蔵と書せり。いかなる故にや﹂として、 ﹁幼名、八十八平助と称す﹂と新説を掲げている。
ただ、 ﹃み\な草﹄は明治十四年の刊、あまりにも時代が後に過ぎる。しかもその典拠を載せず、草庵伝承の形で記してあるので、
注三 芭蕉の﹁東順伝﹂︵﹃句兄弟﹄所載︶によれば﹁老人東順は榎氏にして、その祖父、江州堅田の農夫、竹氏と称ス、榎氏といふもの
これは﹃近世奇跡考﹄の一説と同様に扱うことはできないことを付記しておく。
て、大乗妙典のうてなに隠る。若かりし時、医を学んで常の産とし、本多何某のかうより俸銭を得て、⋮されども世路をいとひて、
は、晋子が母かたによるものならし。ことし七十歳ふたとせの秋の月を、病る枕のうへに詠めて、⋮終にさらしなの句をかたみとし
⋮業を捨ツ。既に六十年のはじめなり﹂とある。また﹃元禄宝永珍話﹄では﹁榎本は母方の姓と云、本姓は竹下、父を東順と云、江
二十八日没す、年七十二﹂とある。其角が宝井氏を称したことは、 ﹃本朝文選﹄︵作者列伝︶、 ﹃類柑子﹄践、﹃五元集﹄序、﹃其蓮﹄
州堅田人、始医を以て某侯に仕へ、辞して後隠者となる。曽和歌連歌俳譜をたしなむ、由良八郎左衛門正春を師とす、元禄六年八月
序などで明らかであるが、﹃水精宮﹄︵享保十一年刊︶には﹁角榎木氏後瑞夢ニョリ宝井ト改﹂、また﹃星月夜﹄︵元文四年序︶等、の
ちに宝井氏を称したことも明らか。ただ、榎・榎木・榎本・榎下とその前の姓がいろいろに表記されている。﹁榎﹂﹁榎木﹂は漢文流
︵元禄十三年刊︶、﹃近世奇跡考﹄、後者に﹃寛文頃俳譜名誉人﹄︵﹃連歌俳譜研究﹄一七所収︶・﹃斎非時﹄︵宝永五年刊、其角一周忌追
の表記およびこれに類するものとして特殊表記とするとしても、﹁榎本﹂﹁榎下﹂の二様がある。前者の表記に﹃俳譜師手鑑後篇﹄
善集︶・﹃蕉門諸生全伝﹄がある。これらは﹁エノモト﹂と読み、文字にこだわりなく書かれたからであろう。芭蕉の﹃東順伝﹄によ
れば、父東順も母方の姓を名告っていたようにもとれ、これから見ると、東順が養子のゆえとも考えられるが、 ﹃元禄宝永珍話﹄の
記載ではそうはとれない。また両書の記載から、堅田の出身、医をもって本多侯に仕えていたこと、六十歳のはじめ辞し、その後風
件は﹃類柑子﹄ ﹁猿引﹂の章に載る。東順は文芸の上での号と考えられるが、本名は不明。其角出生時の父母の年齢はともに没年時
流の生活ということが知られる。辞職後の風流生活については其角の作品集から十分の裏付けが得られる。また由良正春を師とする
の年齢からの逆算。なお、﹃萩の露﹄の記載から、其角が長男、またさらに下に一男、一女のいたことが知られる。
一29
注四 ﹃元禄宝永珍話﹄では﹁十四歳之時桃青齢せが門に入て﹂とする。また﹃五元集﹄序文に﹁延宝のはじめ桃青門に入し﹂とあり、
これらが典拠となってのものであろう。 ﹃近世奇跡考﹄は﹁十四五歳﹂、﹃一伝録﹄は﹁十四歳の頃也﹂、﹃み︾な草﹄は﹁今年︵延宝
二年︶秋の初翁の門に入り﹂とある。
﹃み\な草﹄とも本多下野守としているが、これは伊奈本多で、膳所本多とは無関係の家柄である︵﹃寛政重修諸家譜﹄、﹃藩翰譜﹄、
注五 ﹁自筆年譜﹂による。﹃内経﹄は、仏教典をいうから、経典の何かを写したものであろう。素本は注釈や句読点、訓点なしの白文の
意であろう。本多下野守は忠平。寛文五年奥州白川十万石を父能登守忠義より継承。其角の父東順の本多家への仕官を﹃一伝録﹄、
﹃続藩翰譜﹄︶。其角は晩年本多下総守康命︵やすのぶ︶と交渉が生じるが、これは膳所本多。東順の仕官も膳所本多と考える方が自
然。従って﹁自筆年譜﹂の記載どおり、 ﹁本多下野守︵貞享二年大和郡山に移り、元禄八年没︶﹂とすれば、このとき膳所本多とは
ママ ママ 無関係の大名から褒美を貰ったことになる。なお、其角の句・文に見るかぎり本多下野守との交渉は、これかぎりである。
注六 ﹁自筆年譜﹂には﹁草刈三越講籏、服部平助講述、円覚寺太韻和尚詩学、易伝受﹂とある。草刈三越は、易医、羽州の人。江戸に
開業。延宝六年刊﹃医教正意﹄等の著で、学医として聞える︵古典俳文学大系、﹃享保俳譜集﹄注︶。服部平助、﹃元禄宝永珍話﹄﹃近
世奇跡考﹄二伝録﹄﹃み\な草﹄、服部寛斎とするが、寛斎は享保六年没、五十五歳︵﹃大漢和辞典﹄︶、このとき十一歳、従って平助
は寛斎と別人と考えられる。平助、未詳。大顛はこの年円覚寺住職。大顛については南信一氏の詳細な考証がある︵﹃連歌俳譜研究﹄
第四十一号、 ﹁大顛和尚小考﹂︶。これによると、寛永六年︵一六二九︶、美濃国に生まる。甘業院︵武蔵、久喜町久喜本︶の紬雲和
市︶の住持となる。寛文六年︵一六六六︶、三十八歳、﹃四六文章図﹄︵漢詩作法書︶を著す。このあと浄因寺︵伊豆、内浦三津︶住
尚︵幻住派︶について修学、曲雲門下二十四人中の第一人者と称せられる。万治二年︵一六五九︶、三十一歳、法雲寺︵常糎咽高岡
持︵八世︶となる。寛文一〇年︵一六七〇︶、四十二歳、四月七日、長勝寺︵常陸、潮来︶の住持、同五月十七日、国清寺︵伊豆、韮
山、熱き徐︶の住持︵四十四世︶、延宝四年︵一六七六︶、四十八歳、二月十五日、円覚寺︵鎌倉︶の住持︵百六十四世︶。この年其
角、大顛和尚より詩を学び、易を伝授される︵其角﹃略譜﹄︶。天和元年ごろ、芭蕉の本卦を見る︵其角﹃枯尾花﹄︶。天和三年︵一六
八三︶、五十四歳、其角の﹃みなしぐり﹄に、幻旺の名で四句入集。この前後か、任終えて浄因寺に帰る。貞享二年︵=ハ八五︶、五
十七歳、正月四日、浄因寺にて示寂。なお、其角の﹃新山家﹄その他で大簸とあるのは大顛の誤り。また示寂を貞享二年正月三日と
するのも四日が正しい ︵位牌・墓碑、正月四日とある︶、また﹁開山より百六十三世﹂と円覚寺住持を記すのも百六十四世の誤り
ほしいまま
︵﹃円覚寺史﹄︶。また﹃新山家﹄に﹁十三にして業徳の名、あめが下に檀に﹂とあるのは三十の誤りか、とある。﹃自筆年譜﹄では
さらに、次項に芭蕉入門とある。なお、 ﹃元禄宝永珍話﹄では﹁医師の名を順哲と云﹂とあり、これは﹃近世奇跡考﹄では、 ﹁其瓜
庵説ナリ﹂と割注があって、同じ記載がある。
一30一
注七 ﹁自筆年譜﹂には﹁桃青廿歌仙﹂とのみあるが、これは﹃桃青門弟独吟廿歌仙﹄中の其角の独吟歌仙をさすものと思われる。出版
注八 ﹁自筆年譜﹂には﹁発句合 杉風五十句合作 秋洪水﹂とある。 ﹃発句合﹄とあるのは、 ﹃田舎句合﹄および﹃常盤屋句合﹄をさ
は延宝八年初夏、螺舎の名で入集。其角の記憶違いとの説もあるが、この年に作が成り、二十歌仙にまとまるまでに時間を要し、出
版が遅れたものとも考えられる。
すものであろう。前者は其角の発句五十句を、﹁ねりまの農夫﹂﹁かさいの野人﹂の名の下に二句ずつ二十五番の発句合の形にして、
芭蕉の判詞を加えて延宝八年に刊行したもの。後者は杉風の作品を同じ形で同時に出版したもの。﹁秋洪水﹂とあるのは、 ﹃徳川実
紀﹄を見ると江戸洪水の記事はないので、これは堀江町近辺だけの小洪水か。 ﹃み\な草﹄では翌年のこととし、 ﹁同︵延宝︶七己
未秋洪水﹂としている。しかし﹃徳川実紀﹄には七年秋江戸洪水の記事なく、 ﹃武江年表﹄には﹁夏大雨大川筋其外出水﹂とある。
其角の記憶違いとも考えられる。 ﹃発句合﹄の件も同様である。しかし、これも作品のみ、杉風とともにこの年に成り、芭蕉の判詞
注九 其角の号で作品が載る最初の集である。其角の号の由来は﹃元禄宝永珍話﹄に﹁晋其角と称せしは晋二其角一とあるにもとづけり﹂
一31一
が遅れる等の事情により二年後の刊行となったものとも考えられる。
とあり、諸書これに従っている。 ﹃易経﹄の﹁晋﹂の上九の説明にある﹁晋其角﹂からのものという説である。容赦なく進むの意で
ある。従って、遠慮なく思ったとおりを歌って行こう、思いのままに、の意となろうか。
注一〇 ﹃田舎の句合﹄の嵐雪の序文に﹁螺子﹂と其角を呼ぶ記載があり、これは螺舎の号の尊称あるいは愛称とも考えられる。 ﹃元禄
宝永珍話﹄等の﹁初め螺舎或は螺子﹂とある記載は、これを二つの号ととってしっまたものなのではないか。また、嵐雪序文中に一
方では其角と書いているので、螺舎は庵号・屋号に類する別号で、螺舎其角であったとも考えられる。なお、本書名を﹃田舎の句合﹄
資 料 篇
とはかり思ふて暮けり暮
の詩さこそ盧同も雪の日は
其 角
注一一 言水、天和二年三月京移住︵﹃元禄名家句集﹄︶。また河野松波は、 ﹃寛文比誹譜名誉人﹄に﹁幽僻﹂。
としたのは、 ﹁古典俳文学大系﹂等一般に、この名で知られているからである。
な雁坂
、 東
り鹿太
茶虫些
む薙穿こ後大切汗小目灸退穿鈍5今暁猫又春月 門桃
朝
・離・嚴の蜘・屈,斎朝のの騨花,糖歪蜷
鮮
ののにり宮の 檮曹フ以和のの別羽鳶の医す
の
の下にとって
歌仙﹄
モト
たうつけを
か摺のの・かの競にと葦は1鷲素
すと美子か
竺花潔誓干耳、心尚ン;かの・鵡
?J,午
妹
や
摘
に衣様おじts 集つ牲i幽
、り
見か成そ・れ月んしへまにとたも ケ大栖
え 男ひにるをか瘤;て見ものあか きの
ん
論亀見、冥え瓢鰭螺
一32_
︵洒竹文庫︶
もそしりふや哉り瘤し日亮かはりに隣…有
人 参
かてろよ給浪る 盾ノ殺てりひきたたの子舎
葉
坊をすた号仏をきら
なか秋友はらつな
某去とり。鶴迄れくありの鼠らいき
︵序文︶
﹃田舎の句合﹄
︵竹冷文庫︶
竹雲散ら菓い牛勅今露ま喰荒淋浦足田う
ふたす遠くきく大江の千里は百首の詠を詩の題にならひ近所の其角は俳譜に詩をのへたりあ\千里同腹申なる事を知ルしるといへは
ふつ㌧かに語路の巷のまかり曲れるをもつて田舎とは名付たる成へし循以是に翁の判を獲たり判詞荘周か腹中を呑て希逸か弁も口に
溜北の春の霞を思ひ葛西の海の月の前再江東の雲を見ると螺子此語にはすんて農夫と野人とを左右に別ち詩の体五十句をつ\る章の
桃翁栩々斎にゐまして為に俳譜無尽経をとく東披か風情杜子かしやれ山谷か気色より初て其体幽になとらか也ねりまの山の花のもと
三
一33一
我是をしるに似たりしらすして愛に筆をとる又是しらさるなり
延宝八歳次庚申仲秋日
嵐亭
︵本文︶
田舎之句合
第一番
左持 ねりまの農夫
右 かさいの野人
霞消て冨士をはたかに雪肥たり
ハナ
菜摘近し白魚を吉野川に放いて見う
ヤセ
蠣
た
り 青 か つ し
農夫
野 人
ふ 夕 は へ 也
治助謹序
一34一
先左の句は巻頭の一句と見えて豊にして長高し未た初春の体霞もやらてありーと見えたる不二のけしき雪肥たりと云所奇也古
人春−雪痩タリなと\作れる便多きにや右の句菜摘と云より吉野川に白魚をねかひたる一興尤妙也山の姿川の流見所多し
第二番
左勝 農 夫
春の水やかろく能書の手を走らす
右 野 人
に右梅左
岩間をとちし苔の下水さらくと流出る波の文義之か石すり懐素か自叙帖の筆のわしれるかことし右の句論するにたらす
カブ
引かへつ蕪をはたのに春の駒
クワイソ ジジロテウ
つ
蠕
い
か
は
か
第三ヒ
宿 の
青 柳
椴言持
かはほり鶯よりも猶興有よはーと見えて又つよし左は唐絵右は大和絵墨絵にしやれて色絵にうるはし法印も筆を捨予も又筆を
左右の姿詞此句に止り侍る彼山谷か煙雨二青カツシガ已二黄ニナンヌト作れる梅の詩に似たり其体つよくして優有又柳につたふ
なけうつ
第四ヒ
左 農夫
右勝 野人
帰雁米つきも古里やおもふ
越路にかへる雁かねに米つき古郷をしたふ哀深からぬにはあらされとも寒食の自身番珍しこの日は火の沙汰を忌といへは批言の
今案スルニ寒食の家には自身番
う
送 る に 白 雲 や
野 人
成 へし よふご 鳥
ふ
を め
一35一
批をも忌へき也
第五ヒ
左持 農夫
右 野 人
徳利狂人いたはしや花ゆへに社
春
農 人
徳利をいたいて花にたはふる、狂人深切也又目黒か原の遠のさくら尤やさし上野谷中のさくらを見つくしたる体言葉の外にあら
桜狩けふは目黒のしるへせよ
て
はれたり両句幽玄差別なし
第六ヒ
俗 に
鳶 に
乗右い左
勝ふ
よせておもひ出られ候にや猶批判成かたし且右の句の鳶にのって無窮の空々たるに道遙せん事楽猶窮なかるへしや
プキゥ セゥヨウ
リジチン コクワク
喚子鳥予先年吟先生にま見えて此事を尋侍れは伝受の事俳階にせん事無用の由又うふめ李時珍が説に姑獲鳥とかけり鳥と云字に
第七ξ
左 農夫
デン
今日にかはる浄瑠璃殿の青簾
右勝 野人
青簾よく云叶侍れとも夏羽織重からすかろからす中庸の中を用いて然るへきよし兼才寺の入道前の関白とやらんのせりふにもか
カロ
何と夏羽織縮緬は重し紗は軽し
、れたり冊以夏羽をり勝と定め侍る
の 早
農 夫
ら め
野 人
千年をわらふとかや
苗穂に出る秋社あ
一36
第八ヒ
右 ㍉ 野 人
ソ ヨヤ
左勝 農夫
鉦カンく驚破郭公草の戸に
草の庵の夜の念仏先殊勝家隆のうそとはほと\きす声も絶にし垣根より忍ひねに鳴きりーす哉と読る心にや誰まことより此う
ほとΣきす家隆のうそや養
麦 葎
左持
そを用ひんかされとも鐘の音のはるかに聞ゆるを時鳥に心付たるありさま猶可ナランや
第九ヒ
壁 の
摺 鉢
右
メ イ レ イチソ
キ
ン
心もをのつから也左は虚也右は実花実いつれをかとらん
壁に生る麦は朝菌の晦朔をしらす冥霊大−椿を論するに似たり又摺鉢の早苗に秋おもふ事かの二葉ふくたに荻の上風とよみ給ふ
第十之
左 農夫
藻のはなのいさきよきに小ゑひの飛ちかふけしき涼しくしほらし右の句は川越の遠の田中の夕闇に何ぞときけは亀そ鳴なると聞
藻の花や海老こす袖にさ\れ浪
右勝 野人
何を音にすぼん鳴らん五月雨闇
チン ビ
一37一
え侍る小えひも捨へきにはあらねと予は亀に乗てあそはむ
第十一ヒ
む か
い ー は
農夫
左持
し匂ふ花さへ実さへ 陳皮さへ
野人
火 に夕 顔白しだ
農夫
屋ありける今の茶屋
野人
き常夏の巻を見 て思ふ
鰭う
第十ニヒ
石の
芝物
し
干れし榿の色をあらそふも又おかしくこそ侍らめ
グイダイ
枝に霜をけとよまれたる常盤木の緑青々とうるはしく仕立られたるに右又かやりの煙の中に朗々見つるゆふかほの白く咲て軒に
ホノ
蚊 遣
右
の右枕左
涼勝に
ハンエイ
やるさへ涼し
石の枕古歌明也並木の茶屋の繁栄もそのひとつやの名残とや且芝肴のとりませ彼巻の鮎石ふし御前にて調しさせ給ふ折ふし思ひ
第十三ヒ
右 野人
左勝 農 夫
袖の露も羽二重気にはゐぬもの也
羽二重の袖の露は貴人の心に秋至らすと作れる詩の心を思ひよせられたるにや右また骸骨の荻の声をかりたるさもあるへき事な
ガイ
夢と成し骸骨踊る荻の声
から左の感浅からす覚え侍る
第十四ミ
右 野人
左持 農 夫
月のさそふ詩の舟か山市か川武か
公任卿歌の舟に乗て秀歌よみ玉ふよしこれは是山一丸川武の舟はたを敲ていかなる秀歌うたふにや右はまた真木の板戸もさΣす
タトイ
さΣで柴の戸泥坊にとかはなし月
ねにけりなと\読る月に忘れたる柴の戸のしりさし答なし難なし
第十五ヒ
左持 農 夫
右 野人
カン コク
眺メ送る函谷やけふ縢馬迎
霧汐煙行徳かけて須磨の浦
クワン
函谷関の駿馬行徳の汐焼眺望いつれも珍重なるへし
一38一
第十六こ
分限者に成たくは。秋の夕昏をも捨よ
左勝 農 夫
右 野 人
秋の心法師は俗の寝覚かな
無常を観することなかれ一銭を得たらんときは神のことく如レ君せよと侃て右の句閉ロス
クワソ
先左の句珍重法師のね覚俗にかへらん事尤さもあるへきや両句弁しかたきに侃て大福山金徳寺の和尚にま見えて問フ答テ仮にも
第十七ヒ
左 農夫
右勝 野 人
の葉に雨をきかんは誠に冷しく淋しき体尤感心多し是孟ー叔異か雨の題にて権声和レ月落二芭蕉一と作れる気色に似たり右勝たるへ
にや強て心を別たん時は等類の難とも云かたく侍れと甘露の一滴には我も前後を忘れたる成へし
シイ
一39一
ホユ
砧の町妻吼る犬あはれなり
芋をうへて雨を聞風のやとり哉
ニ
左の句里の砧といはんはふるしとて砧の町と云つま恋る鹿は不レ珍とて妻吼る犬に云しは猶作の中に作有て柳作過たるにや又芋
シクイ エン シテニツ し
農夫
鼠葡萄かつらの甘露有
はみかんの吉野かな
野 人
ス
第十八ヒ
月 日
紀路
山 栗リ勝
鼠をりすと作意してふたう葛の甘露とつ︾けり右の句は信章子か句に茶の花や利休が目にはよしの山と作れるに柳佛の似かよふ
行右の左
第十九之
左 農夫
時雨痩松私の物干にと書り
右勝 野 人
和歌三体に秋冬の歌は細くからひてと云り痩松の霧もさひしく蝸牛のうつせ貝もさひたりされともかれか角の上にあらそはんと
クハ ギウ
凧となりぬ蝸牛の空セ貝
きは右いさΣかまさりなんや
第廿ヒ
左持 のうふ
金蔵のおのれとうなる也霜の声
右 や人
鐡山のかねくら己・とうなりかよふ衛の鳴声に露の夢もおとろくへしとや両句目さむる心地し垂・然たり
嚇千鳥幾夜あしかの夢おとろく
第廿一ヒ
左持 農 夫
右 野人
佗に絶て一燧の散茶気味ふかし
ロ切の一句手つから罐子をならし茶袋を洗ふ鹿茶淡飯の楽はいかなる佗助にや又火燵のうた﹂ねの夢は列子日陽−気壮 則ハ夢,
火燵のうた\ねや夢に真桑を枕にす ニ サ多ナル
ソ タンパン
溺回テ大火。熾ゼ慰又継7槻,寝貼身”蛇云々是を以これを思ふに燧辺のあたNか成に瓜を夢見ん事さもありつへし
一40一
第廿ニヒ
左持 農夫
雪おもしろ軒の掛菜にみそさΣい 右 野 人
、
左の句はおかしき所に風情を求めて風情あり適山家のけしきを見るに此鳥必軒近く驕て雪の折ふしなとは一入人家をはなれす山
雪にとへはかれも蘇鉄の女なり
里の淋しさ誠におもひ合せたり右も又雪中のそてつの詠余情かきりなく雪と雪とのあらそひいつれも白し
第廿三ヒ
左勝 農 夫
スン カウ
詩人ゆるせ松江の河豚といはんに
右 野 人
カタチ
金沢のあそひたのしいかなけふの薄ク暮に網をあけて状松江のかとんを得たりむかしは櫨今はふく古風は騙魚を愛して河豚をし
鯖にこりす鰹にこりす雪の鰻
らす又右の鰻数奇さばにあてられ鰹にえひての上暫ク用捨有へし
第廿四ヒ
左勝 農 夫
題山家之糠味噌
閑居の糠みそ浮世にくはる納豆はなと
寄貧家之冬夜
右 野人
葉しやうかの森の木からし吹あれて枯々なる蓼の林にかくれぬかみそ壼に入て乾坤を忘れたる隠士世間寺無用房ヲ笑ふ成へし右
カシ
夢猶さむし隣家に蛤を炊く音
の句貧家にして冬夜をわふるの体寒苦をふせくにたらす尤哀深きといへとも隣家の蛤より当前のぬかみそを愛せんにはしかし
一41_
第廿五ヒ
農夫
野 人
前 の 日 か け を か つ ら と し
の哀世につくも髪さへ漱捨つ
ス ス ギ
を葛とせん事一句云かたし流る∼年のあはれ誠に是を歎美すへし
栩々斎主桃青漫採毫判
其角
一42一
蹟神
な世欝題寺靴∴禦
暴年雛左
︵古典俳文学大系︶
草り月 公ん寺そ り髄り摘
流 町
四
ヨ
氷蚊住 麓墨浮彼 餅鶯野う東
日
五
一N尽豚」を興葉ハ来・に心さ召の日ののす
沫エの松かむ草之新一深・夢雪
A9.め捨豆居山田錦葉せ種紅け豆韓多中清
・世納
)
董犬蔵汁て寺山哉売髄葉り腐川寺人水
キジ ハギ
鷺
の足雄脛長く継添て 桃青
適旬勝二荘−多勇見 其角
挨拶を愛ては仕たい花なれと
又かさねての春もあるべく
皿印伯嵐・酒窺季天継騰・酒−鈴青肇繊二信魯呈十齢仁媚・
表題
﹃次韻﹄
菰す砧河力雪夜木・聞月道酒踊茶春蕗;死独
一43一
は寛春露様武灯凧佗微・夢禅
血・ 衛 白 乳 心 女 古
慈 粟 灯 し
先
・更睡・のなのaシけ恨
いけ・零語胤ら守・ん郭・て
んてるり宴きは忘vるミむるけ也リスてんりり月公きに
揚才
角青丸水青角水丸角青丸水青角水丸角青丸水青角水丸
一44一
花脱畢月笑夕恋向師プ郎雨天別
幣 朝 哀 亦 民多 雨 絢 安ア 漁# キ秋 桂 獄誉
藩;讐識1ゴ1擁1籍1重寡壕警幾
ス
鳥也くぬ終蓼て道くるひまな暁冬をクるル餐台記に裡けむと
ヲ
角青丸水青角水丸角青丸水青角水丸角青丸水青角水丸
一45一
渾。兎 ス女ねと雨夕お月春
f,子薄 と若あ犬舞夜卑羊笹こ
ふてりふ 月もNく室tルくて戸るにてるきや也てり
桃揚才其
青角丸青水丸角水青角丸青水丸角水青角丸青水丸角
一46一
禅Jwa 1、風煤棄小物月夜愛富ミ棒疹雲
や 納
曽ソ゜荒 朝写
絵
露矧嵐摩・つ吉
小しい ニ屋た・㌦か㌦に秋の食,と捨詞力屋き勇Z原別咲言
袖いののヲの軍の
僧呂゜
刻#長たた・に祭き泣え落夕e’c比り羅・生ま弦)Zっなけの
ムしるくに入麟誓ルてクよ髪てつは吹畔宴ルす引てふり山
ヲ
青角丸青水丸角水青角丸青水丸角水青角丸青水丸角水
一47一
桃淋花蜆筑:河3酒細忍凧所花
夕月青天;3ほ真を木参山箕ミ楼雷サ
のしの江地骨豪の殿ひの帯の
木顔・に評の隔むの㍉とに概彦かをわに今盆・・
に重・秋屋㌔…∵・罵実警・茸ひ1朝鳴
讐蒙蘇1熱吃lll謡lll三1卸
寝げ豆の
灯gの止・っ泉一つたの過lt。らを比るは
ミる俵僧る弾夢に尊めイ留す水て波る唇書しりルん掃3春也風
ク
ノレ
青角丸青水丸角水青角丸青水丸角水青角丸青水丸角水
一48一
竹蠕柔よ霜津秋麦9心配草生9夢
茂 団餐 寺
道 夏
勅まあ狭言泥我枕
待れふ
ト檀頭た生の
フ原のだ鯛 jのかて折・俗・水
れた連・泣冴粥豊 e月・せ蕪参・山小枕ねひ消無なね・
てるは し ク ユ配手す 夜に し房;り老船とて鍋り し量 きてむ
読
人
不
水丸角青水丸角水知角丸青水丸角水青角丸青水丸角水
一49一
籾内骨Y7髪音嬉楽雪哀世葉泪
詠 如 千 打
米 痩 卒 枯 恋 樽 蘇
鮎
ぞき旅琴つりるて犬スにをしぶるはクて買3哉りと木はよ
其桃揚才
青水丸青角丸水角青水丸青角丸水角青水丸水青角丸青
一50一
麻古釜露月何俗雷1風頭后筆
1蓑1三ll耀1業ll誠膿1鯵驚
子てるは君りると比端るる蠣や国にりるひ音様るんて月
角青水丸青角丸水角青水丸青角丸水角青水丸青角丸水角
一51_
卜宴恋面秋今迷も衰大飛・石f,昼き
くH・ ・・.青・のれす線暮け綬つ寒や、く。舞けな。す月
と神台ギ衣斐に戸ばかをて塚むてるきるりシゾ柳りしS露に
水角青水丸青角丸水角青水丸青角丸水角青水丸青角丸1水
・−
T2一
山風鰯宮夜む扇佗松哀い笹
㌦㍉駄㌔法・艶うさ㌔足懸栗茸外ト余㌔㌦蛇
㌶還・凝淫・1垂鯖垂醗の
は忘・け㌦か・嚇めかれ・成1・ばて・け殊㌦の
るレ露るしりけてんくてりくて待ルがら入てりにクル煩ぎ
ワ
ヒ
丸水角青水丸青角丸水角青水丸青角丸水角青水丸青角丸
一53一
六
﹃其角十七回﹄
参考篇
隠らしり
日
る 犬
A盧也て蘭露
角
青
丸
角
︵竹冷文庫︶
隻
ひ ク
星姫も
そ 水
岩
彦の栖を深く立のぞき
ウハへ
気を奪れし人のぬけから
立け
をあ
ブキ
日に
人目には過ると見えてうろくつの
七月十七日 母霊夢
一54一
に
狐は て酷醸に入ル
﹃おくれ双六﹄
:,,:花を置
1咲枝
虫 露橋や待ッとは宇治の
四朝 愛ミ
数しら波の宝まふくる
七夜暁
)
フ・興酔てを ト
のの
青
姜灘漿
トル
ヒ音
ド厳
ク
血 を 踏 風 太 刀 をヲ折
古沓 とつて野辺に枕ス
行
くれ 花に夜着かる芝莚
ヤ マ 彫 無
[ル【贅ボ
余
裡・顔用
夜 附イ
寛文丑 編鷲紡麗櫛ゆ臆凱郊勲筋つしのとし
一
住吉の松を秋風吹からに
声うちそふる沖津白波
九月廿二日暁 東順霊夢
寛文九酉
言のはをせとにも門にも植置て
いつれやくにはたちつてとかな
十歳入学 大円寺
修治主治 発明
十四歳 於堀江町 本草綱目写
十五歳 内経 素本 易経 素本写
蒲生五郎兵衛需にて伊勢物語書之 右表紙出来 本多下野守殿へ献之 右の褒美として刀 申請候
十六歳 草刈三越講鑓 服部平助講述 円覚寺太贔和尚詩学 易伝受
十七 桃青廿歌仙
十八延宝午 発句合 杉風五+句合作 秋 洪水
辛酉
廿延宝申 次韻 信徳七百五+句に対
みなし栗 於芝金地院前
於京 羅集
朝鮮来聴
新山家 木賀の記
壬戌 冬
丙寅
貞享甲子
続みなしぐり 撰之
天和亥
丁卯
元禄元
上京季吟亭講歌書
四月八日
妙務尼卒五+七歳
元禄三庚午
花つみ 二巻一夏百句 撰之
十一月廿
二
日
宗隆尼卒 於堅田葬八+四
一55一
四瀞
雑談集 二巻 撰之
轟
七甲戌 句兄弟 三巻 撰之 上京
六醗八月廿九日東礫士認の覆之
九丙子 庭竃牛も雑煮をすはりけり
十月十二日 芭蕉卒五+二 枯尾花 撰之 粟津義仲寺 葬之
十丁丑 うらわかば 二巻 撰之
寛文 延宝九 天和四 貞享五
十一戊寅 十二月
虚栗 轟集
続みなし栗
花坤個 上下非人入句 雑談隼肺
新山家
旬兄弟 上中下
枯尾華
わかは合 末若葉 上下
元禄十三 十月
三上吟 祓の事
三上吟
元禄十卯 六月
焦尾琴
右 其角翁書捨置レシヲ華シテ愛二出ス此外類柑子一集上中下アリ年紀ニモレタルヲ以テ記之
︵古典俳文学大系︶
淡々 撰
_56一