番号 城 名 所在地 立地と構造 歴 史 1 岡城 竹田市大字竹田 大野川支流

番号
城
1
岡城
名
所在地
竹田市大字竹田
立地と構造
歴
史
大野川支流の稲葉川と白滝川に挟まれた標高 325 志賀氏の本格的な直入郡進出は、直入郷代官職と検断職
mの丘陵上に曲輪を展開。大友氏の有力家臣である の職を得た応安 2 年(1369)以降と考えられ、志賀氏
志賀氏(北志賀氏)の居城とされる。志賀氏時代は、 による岡城の築城も、その頃と考えられている。その後、
現在の廟所跡を中心とし、下原門跡が大手門とされ 豊臣秀吉の命により、文禄 3 年(1594)に入部した中
ていた。その後、中川氏の入部により、本丸、二の 川秀成によって、志賀氏時代の城の西側への拡張がなさ
丸、三の丸、廟所、西の丸、家老屋敷等の曲輪が造 れた。入部時に建設された西側の武家屋敷を寛文 4 年
られ、大手門、下原門、近戸門といった櫓門を配す (1664)には3代藩主久清の隠居所を中心とした再整
る近世城郭へと変革がなされた。
備がなされた。江戸時代を通じ、岡城は中川氏の居城で
あったが、明治7年に城の建物はとり壊された。
2
津賀牟礼城
竹田市大字入田
緒方川と十角川が合流する標高 349mの独立丘陵 津賀牟礼城は、大友氏の有力家臣であった入田氏の居城
の尾根上に曲輪が造られている。尾根上に切岸や堀 として知られる。入田氏は、天文 19 年(1550)
「二階
切を施して区分され、最も南側に位置する曲輪に 崩れの変」で失脚し、所領没収のうえ、追伐される。天
は、尾根の北面、西面に縦に幾筋状にも近接して施 正 14 年(1586)の島津氏の豊後侵入(豊薩戦争)時に、
された畝状竪堀をみることができるなど、高度な技 大友方の戸次氏が津賀牟礼城を守備し、降伏・開城した
術の導入が見られる。城域は約 7,500 ㎡と県下最大 とされている。
級の大きさを誇る。
3
緩木城
竹田市大字九重野
祖母傾山系の北端部、標高 1,046mの緩木山頂部に 豊後国志によると、入田氏の城とされる。天文 19 年
立地。非常に急峻な山頂であることから、全方向に (1550)
「二階崩れの変」の後、入田郷を追われた入田
見通しがきく。山頂部を主郭とし、東側へ伸びてい 氏は、復領は叶うが、本領であった入田郷には入れなか
く尾根を平場形成し、曲輪としている。堀切や竪堀 った。このため入田氏は、九重野及び緩木に拠点を構え、
等の遮断施設はみられない。
4
高城
竹田市大字九重野
詰城としての緩木城などを築いた。
緩木山より派生する標高 778mの尾根上に立地す 天正 14 年(1586)入田氏の導きによって、豊後侵攻を
る。両側に岩盤が剥き出しになっている尾根を利用 果たした島津氏は大友方の佐田氏を攻め、高城、緩木城
し、主郭を最も高い位置に設け、南東へ延びる尾根 は島津氏の軍門に下った。
上を城域とし、堀切が配されている。
5
南山城
竹田市大字久住町白 稲葉川上流の標高 608mの尾根上に築城されてい
丹
南志賀氏の居城として知られ、築城には志賀義天によ
る。中央部は、旧状を大きく失っているが、全体の る康応年中(1389~1390)と志賀重利による元徳 2 年
縄張りは復元可能である。
平場形成から 5 つの区域 (1330)との説があるが、康応年中の築城が有力であ
割が考えられ、それぞれに、
「勢溜」
、
「おねまこと」
、 ると考えられている。天正 14 年(1586)島津氏侵攻に
「本丸」、「辻の久保」等の地名が残っている。
6
相ヶ鶴城
竹田市大字久住町白 稲葉ダム北壁沿いの丘陵先端標高 495mに立地。北 南山城の出城として知られている。南山城落城と同時
丹
か延びる尾根筋先端に段状の曲輪を丘陵南先端ま に、その役目を終え、天正 15 年(1587)には破却され
で形成している。
7
三船城
より落城する。
ている。
竹田市大字久住町仏 芹川の支流である七里田川によって形成された丘 朽網氏の支城とされている。天正 14 年(1586)山野城
原
陵先端標高 535mに立地。城は、段状に形成された 開城とともに、役目を失った。天正 16 年(1588)には
平場によって構成されている。主郭と思われる平場 斉藤道暦が朽網郷を領有し、三ツ船城を普請し居城とし
は、約 100m四方の正方形に形成されている。
8
山野城
たが、
その支配は 2~3 年間であったと伝えられている。
竹田市大字久住町仏 九重連山の黒岳から派生する標高 750mの尾根上 建久 7 年(1196)以降、古庄重吉(能)の築城にはじ
原
に立地。丘陵の両側は河川による浸食が深く急峻な まるとされている。その後、永禄・天正期の朽網鑑康(宗
断崖となっており、自然の要害を巧みに利用した城 暦)の時、南郡 7 家の加勢を受けて、構えを拡大してい
である。北東から南東に延びる尾根筋は全長 800 るようである。さらに、島津軍の備えとして、鑑康は大
mに及び、この尾根筋を利用して曲輪形成され、堀 手口を固め、河内口、牧ノ尾口をよく掘り切り、空堀に
切や竪堀が見ることができる。
9
田北城
竹田市大字直入町下 標高 430mの東西に延びる丘陵の先端に立地。周囲
田北
乱杭、逆茂木を設けるなどの改修を実施している。
麓との比高差がないことから館城と考えられことか
は崖で、丘陵の基部を堀切で遮断している。この堀 らも、田北氏の館ともいわれている。城に関する記録、
切と崖で固められた区域の南側に主郭が位置し、北 史料をみることができない。
側は土塁を駆使して、東西に長く幅のない段状の曲
輪を配している。
10
法螺貝城
竹田市大字直入町下 芹川ダムを望む標高 408mの丘陵先端に立地する。 文献、記録がなく不明。
田北
幅の狭い 2 つの曲輪で構成され、ともに周囲に土塁
が巡っている。
11
松牟礼城
竹田市大字直入町下 大分川の支流である城後川と阿蘇野川に挟まれた 田北氏の本城と考えられている。天正 14 年(1586)島
田北
標高 659mの山岳頂上部に立地する。主郭は最も高 津氏によって攻められ、田北統周の開城による落城とさ
い位置にあり、幅が狭く長い曲輪を段状に形成し、 れているが、難攻な城であったことが知られている。
その南側に形成される曲輪との間に竪堀を設けて
いる。その他、横堀や畝状竪堀が見られる。
12
騎群城
竹田市大字飛田川、大 岡城の西側約 3.5 ㎞に位置する標高約 380mの独立 康暦元年(1379)の「志賀親家申状」に騎群城の存在
字会々
丘陵上に立地。南東から北西へ長く延びた丘陵頂上 が窺えることから、康暦元年以前には築城されていたこ
部に曲輪が展開する。曲輪は、平場を中心とする 3 とが理解される。その後、岡城を本城とした志賀親次の
つから構成され、その周囲には土塁が巡り、曲輪の 支城とされていたようである。さらに、西南戦争時には
境や尾根の先端部分には堀切もみられる。
13
戸次城
竹田市大字片ヶ瀬
岡城の南側、片ヶ瀬に立地するが、現状では遺構等 片ヶ瀬戸次氏の居城とされている。天正 14 年(1586)、
は確認できない。
14
小松尾城
竹田市大字神原
薩軍の陣地とされ、官軍と交戦した激戦地である。
島津氏が岡城を攻めた際、拠点としたとされている。
神原川と波木合川に挟まれた丘陵状に立地する。岩 津賀牟礼城の支城であるとされる。天文 19 年(1550)
山のため、明確な遺構等は確認されていない。
の「二階崩れの変」後、入田氏が立て篭もったとされる。
15
菅迫城
竹田市大字川床
詳細は不明である。
岡城の支城とされている。
16
笹原目城
竹田市大字久保
稲葉川北岸に立地するが、詳細は不明である。
岡城の支城とされる。天正 14 年(1586)の島津氏侵攻
の際は、志賀氏の重臣阿南惟秀が守備をし、計略により
島津軍を撃退したとされている。
17
駄原城
竹田市大字戸上、荻町 滝水川北岸の丘陵に立地する。現状では遺構等が確 岡城の支城とされる。天正 14 年(1586)の島津氏侵攻
南河内
認されておらず、詳細は不明である。
の際は、城代として志賀氏の家臣朝倉一玄が守備をし、
島津軍を撃退している。
18
下原城
竹田市荻町新藤
長さ 20mほどの土塁が残されている。本来は土塁 文禄 2 年(1593)の大友氏豊後除国以後に築かれた城
と堀を持った大規模な城郭であったと思われる。
郭である。城を築いた人物は、豊臣秀吉より葎原に領地
をもらった大友氏旧臣宗像掃部鎮続だと推定される。
19
鬼ヶ城
竹田市大字竹田
岡城から西へ延びる丘陵の先端部に位置する。近世 岡城の支城で、天正 14 年(1586)の島津氏侵攻の折、
以降武家屋敷が配され、中世の状況は不明である。 志賀氏が立て篭もったとされる。