名大アゴラ 第4回 シリーズ「文化から考える」① 2016.7.23 「戦争する国の〈恋人たち〉― 銃後教育と文学 ―」 榊原千鶴(名古屋大学准教授・日本文学) 1. 2006年改定「教育基本法」、そして、道徳の教科化 ◆「教育基本法」第一章「教育の目的及び理念」第二条五(改正前の教育基本法にナシ) 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国 を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」 *「教育の目標」に、「豊かな情操や道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「愛 国心」などの徳目を明記。 ◆ 道徳の教科化、特別の授業に格上げ(小学校2018年度、中学校2019年度より) * 検定教科書あり、評価あり(数値ではなく文章) → 心、内面を評価。儀式、儀礼との結びつきによる内面の可視化。 →「伝統と文化」の内実は問われない? たとえば日清戦争勝利直後、国家意識の高揚に伴い、「武士道」が喧伝された。 参照:佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』(NHKブックス、2004年) → 古典文学は、「惚れさせる」べきものなのか? 参照:大津雄一「惚れさせない古典教育 ―教材としての『平家物語』「木曾最期」 「能登殿最期」の可能性―」(『日本文学』2016年1月号) 2.昭和10年代(1935~1944)にみる銃後教育と古典 (1) 若者が愛した『建礼門院右京大夫集』 u 詩人・大岡信(「文芸時評 上」朝日新聞・1979.5.26夕刊) 「第二次大戦中、古典文学に関心をもつ青年たちのあいだで冨山房文庫版の右京大夫集 が熱心に読まれたことを私は知っている。身近にもそういう人がいた。」 u 作家・文芸評論家・詩人・中村真一郎(『建礼門院右京大夫』筑摩書房、1972年) 「私がこの歌集に最初にふれたのは、あの不幸な戦争中であった。そして当時の若者た ちは争ってこの本を愛読していた。今日にして思えば、青年たちは自らを資盛になぞ らえ、少女たちは右京大夫の運命のなかに自分の未来を占っていたのだった」 u 作家・大原富枝(『建礼門院右京大夫』朝日文芸文庫、1996年) 「資盛の運命は第二次世界大戦に死を覚悟して出陣した学徒兵たちの心情に重なり合 い、彼女の歌集は彼等に愛されたと申します。右京の思いはこの戦争で愛する人を 戦死させたたくさんの女たちの思いと重なるものでもあるでしょう。 この汀夫のねむれる海の果て還らぬ息吹を求め手を触る (京都・松下トシエ) 恋いに恋いて心阿修羅となれる日は遺影も遺品も棄てなむと思う(仙台・堀歌子) 「朝日歌壇」にこの種の歌が絶えず載っているのを見ます。私自身、ある人の戦死を いまも胸に刻んで生きており、それがこの作品を書くモチーフともなっています。」 → 第二次世界大戦下、『建礼門院右京大夫集』は、戦線に向かう男性と、銃後にある 女性が、ともに自らを仮託することのできる古典だった。 -1- (2)『建礼門院右京大夫集』とは。 平清盛の娘で高倉天皇の中宮である平徳子(建礼門院)に仕え、右京大夫と呼ばれた 女性の私家集。栄華を極めた平家公達・平資盛との恋と別れ、資盛亡き後の追慕の情 を詠じている。日記的性格とともに、『平家物語』の縮図的面をもつ。右京大夫は、 生前、資盛が語った後世を弔ってほしいとの願いどおり、忌日には仏事を欠かすこと なく、結果として、資盛戦死後50年余の月日を過ごすことになる。晩年、藤原定家 が勅撰集を編むにあたり、彼女に入集を求め、歌に添える名を問うたとき、彼女は迷 うことなく、あの懐かしい平家時代の呼び名、「建礼門院右京大夫」をと応えた。 → 多くの男性にとって右京大夫は、かくあってほしいと願う望ましき女性像? → 戦時下の女性たちにとって、彼女たちの秘めた思いとは別に、望ましき模範として、 右京大夫の生き方が利用される可能性。「教育的機能」に注意。 → 女性は、無意識のうちに右京大夫の物語を生きてしまうことで、男にとって「信 じられる」女としての役割を果たし、結果として、男を戦場に送ることに与する。 u 加納実紀代『女たちの〈銃後〉増補新版』1章(インパクト出版会、1995年)。 「出征にあたって旗を振り、かいがいしく世話をしてくれた女たちの白い顔を思い起 こすことで、また送られた慰問品や慰問状にやさしい女の手を感じることで、戦場 にある兵士たちが、皇軍兵士として自らを奮い立たせたとすれば ―― 兵士たちの 銃剣の先の血に、女たちも無関係ではない。あの戦争における女の関わりを考える にあたっては、まずそのことを直視しなければならないだろう。」 (3) なぜ、『建礼門院右京大夫集』は愛読されたのか。 ① 昭和10年代(1935~1944)の読書傾向 1938年、文部省教学局「学生生徒生活調査」。「最近読みて感銘を受けたる書籍」の 第1位は校種を問わず火野葦平『麦と兵隊』、愛読する古典の代表は『万葉集』。 1939年1月~3月、日比谷図書館の閲覧実績で最も読まれた分野は文学・語学分野の 23.8%、2位の政治・経済・社会分野15.4%。時局に関わる文学、随筆や、「源氏物 語、枕草子、平家物語、徒然草、古今集或は芭蕉」が非常によく読まれている。 ② 本文(テキスト) 1939年、歌人の佐佐木信綱が、「冨山房百科文庫」の一冊として、校註と解説を備え た新書版の『建礼門院右京大夫集』を上梓。 「斯くの如き誠情は、これを、到底平安王朝の才女の間に求めて得ざるところなり。」 ③ 教科書 1933年発行『女子国文新読本』、1938年発行『国語 女子用』は同集の一部を採録。 ④ 新聞 1940年元旦「朝日新聞」(家庭欄)。研究者、歌人らを寄稿者とした「皇紀2600年 日本女性史」の連載(全15回)開始。取り上げたのは倭姫命、神功皇后、光明皇后、 右大将道綱母、紫式部、清少納言、建礼門院右京大夫、弁内侍、阿国、小野のお通、 宣長の母、麗女、和宮、矢島楫子、長谷川時雨。右京大夫の回の執筆は佐佐木信綱。 翌2月、「朝日新聞」川田順による「日本婦人の歌」で、再び同集を取り上げる。 -2- ◆ 松澤俊二『「よむ」ことの近代 和歌・短歌の政治学』(青弓社、2014年) 「学者としての信綱は現在あるべき「国民精神」という鋳型に見合うような過去の和歌 を見つけだし続け、またそれによって未来の「国民」のあり方を方向づけようとした。」 → その最も大がかり呼びかけは、佐佐木も川田も選定委員となった「愛国百人一首」。 ⑤ 小説 佐藤春夫:1936年執筆の『掬水譚』「建礼門院右京大夫」の章で、その半生を紹介。 1941年~42年、雑誌『日本女性』「ひとりすみれの物語」で、冨山房本 『建礼門院右京大夫集』をもととした現代語訳を連載。 舟橋聖一:1944年8月~45年1月、文芸雑誌『藝苑』で「小説 右京大夫」を連載。 (4)『藝苑』誌上にみる文学的営為 「小説 右京大夫」 ① 『藝苑』編集(1944年8月創刊号「編輯後記」) 「舟橋氏の「右京大夫」は、源平二氏の相剋の中に、亡き夫への至純な愛を護つて 一生を送つた建礼門院右京大夫の事蹟を主題とし、ここに新しい日本婦道を見よ うとした近来の力作である。」 ② 舟橋聖一「小説 右京大夫」(1944年8月一の巻) 「女が自分でおのれの好運を、思ふまゝに掴みとれないやうなこの現実が悪いのだ。 みんなに、真実がなさすぎるのだと、所詮は右京大夫もたゞ憂き世の侘しさを、 はかなまずにはをれなかった。」 *1941年12月8日、舟橋は、開戦を伝える東条英機の話を聞きながら、この戦争は 負けるに違いないからと熱海への疎開を決め、芸者を落籍したことで、「戦火をよ そに女と寝る」との非難を受けた。 → 隠れ蓑としての古典。同時期執筆『悉皆屋康吉』。 ◆出久根達郎「時代は謝ったか」(『悉皆屋康吉』「解説」、2008年、講談社文芸文庫) 「死語になろうとする商売が、更に時流に潰されかかっている。悉皆屋だけではな い。世の片隅で、細々と、しかし誠実に生きている人たちが、戦争という巨悪に 巻き込まれ、圧殺されようとしている。舟橋はおのがなりわいに引き換えて、考 えたであろう。筆一本で、この化け物に立ち向かえるか。」 ③ 藤田徳太郎(浦和高等学校教授)『藝苑』の代表的執筆者 佐佐木信綱に師事し、歌謡を専門とし、国学も研究しながら執筆活動を行う藤田に とって、古典の意義、古典を用いた教育の目的とは。 ◆ 『古典の精神と学究』「第十三章 古典教育」(旺文社、1942年) 「実に、古典こそは国家に対する確信と奉仕的精神とを涵養する上に最も有力な教 育の根元となるものである。古典に基づく教育は、古典の解釈といふことのみな らず、実は、古典を通じてわが国の道に導き入れるものでなければならない。 かくて、国体に対する絶対の信仰といふことが、古典教育の究局の到達点である。」 (5) 『藝苑』が描いたサイパン玉砕 サイパン戦での日本軍全滅の国民向け第一報は、1944年7月18日の大本営発表だが、 各紙の報道は約一ヶ月後の「タイムズ」掲載ロバート・シャーロッド従軍記者の記 -3- 事をもととする。シャーロッドが特筆したのは、在留邦人、なかでも崖から飛び降 りた女性たちの最期。朝日8/19「悠然、黒髪を櫛けづる」、毎日8/20「黒髪を梳く 最期飾る婦女子」、読売報知8/20「兵士自決の模範示す 婦女は黒髪梳つて死出の化 粧」等の小見出しを付け、黒髪を梳った後、従容として海に飛び込んむ姿を伝える。 ◆『藝苑』1944年9月1日発行の「編集後記」 「第二号の編輯を終つた日、サイパン同胞の壮烈な自決の様が、新聞紙上に報道され た。鬼神をして哭かしめる悲壮なその最後について、我々はただ黙つて合掌し、心 中かたく復仇を誓ふのみである。・・・・・中略・・・・ 前線も銃後もない戦場に於て、戦 力増強に邁進する読者諸姉の健闘を祈つてやまない。我々は神州不滅を確信し、大 和以て報国の誠をつくさう。」 ◆ 藤田徳太郎「日本女性の激情」『藝苑』1945年1月号 「サイパン島の婦人は、ほんたうによい手本を示しておいてくれた。名も知らず、い かなる人かもわからぬ、この大和撫子の行ひが、どのやうに、戦時生活をしてゐる、 われわれを奮ひ立たせ、強く励ましてくれたことであろう。もう今では、戦線も銃 後もない。」 *作為か偶然か? 『藝苑』は、「読売報知」を引用したサイパン全滅の囲み記事を、「小説 右京大夫」 (二の巻)掲載最終頁下段に挿入。(回覧)舟橋はここで、『平家物語』『建礼門院右 京大夫集』において「入水」による死が描かれる小宰相を登場させている。小宰相 は平通盛の愛人で、平家一門とともに西海に下り、戦死した通盛を追って身を投 げた。源平の戦い当時、女性が殺されることはほぼなかった戦場で、しかも懐妊の 身で、自死した小宰相は、源平時代の女性のなかでもとりわけ印象的な女性像。 → 生き残ることを放棄し、「入水による死」を選択したことで、小宰相とサイパンの 女性たちは重なる。海中から引き上げられた小宰相は、高貴な出で立ちのまま、息 絶えていた。古典が描く最期を通して遠くサイパンの女性たちに思いを馳せるとき、 現実のむごたらしさは不問に付される。 → 戦場での死は、あくまで観念と想像の世界に留まったまま、女性たち読者の前には 自死への道が開かれる。 3.〈銃後〉教育は、現実の戦線に何をもたらしたのか。 ◆ ジョン・ダワー(2015年8月7日放映:NHKスペシャル70年目の戦争と平和」 〈憎しみはこうして激化した~ 戦争とプロパガンダ ~〉 「サイパンで母親と赤ん坊が崖から身を投げた光景は、アメリカ国民にとって大きな衝 撃でした。こうした映像は、我々の敵、『日本人は狂信的なのだ』というイメージを アメリカ国民に植え付けました。この戦争に勝つためには、あらゆることをしなけれ ばならない。日本人には哀れみなど無用なのだと国民に思い込ませたのです。そのこ とが、その後の日本の都市を標的とした『爆撃』への支持にも繋がっていったのです。」 *本発表は、榊原千鶴「〈銃後〉女性教育にみる古典 ― 昭和10年代、『建礼門院右京大 夫集』はいかに読まれたか ―」(『日本文学』近刊)をもととしています。 -4-
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