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「哲学・思想の基礎」(石田)配付資料 4(倫理的な正しさとは何か 4)
4.倫理的な正しさとは何か
その 4:まとめと補足
これまで扱ってきた正義の立場は、サンデルの言葉を借りて表現すれば、正義とは平等な原初状態
において人びとが行うはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であるか、選択の自由を尊重
すること、つまり自由市場で人びとが行う現実の選択(リバタリアンの見解)であるか、それとも美徳
を涵養すること、共通善(common good)について判断すること、という三つの立場に要約される (サンデ
ル『これからの「正義」の話をしよう』334-335 頁参照; Cf. P.260)。そこで最後に、ムルホールとスウィフトの
『リベラル・コミュニタリアン論争』によって、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリア
ニズムの間の関係、並びに『政治的リベラリズム』における後期ロールズの政治的リベラリズムの思
想について述べたい。
4.1 リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム
(1)ロールズとノージックの立場の相違点と共通点
サンデルはロールズとノージックの立場の相違点と共通点を次のように論じている。実践的な観点
からは、ロールズとノージックの立場は明瞭に対立している。福祉国家リベラルなロールズと、リバ
タリアン保守主義者のノージックは、少なくとも分配の正義の争点に関しては、非常に明瞭な選択肢
において立場を異にしている。とはいえ、哲学的な観点からは、二人には多くの共通点がある。二人
とも、功利主義にはっきりと異議を唱え、それが人格間の区分を否定していることを根拠にして拒否
している。その代わりに、二人とも、権利を基礎とする倫理学を提示し、それによって個人の自由が
より完全に確保されるとしている。ノージックによる権利の説明は、ロックに多くを負うとはいえ、
二人とも、各人をたんなる手段ではなく、目的として扱うべきであるとのカントの準則に訴え、それ
を具体化する正義の原理を求めている (サンデル『リベラリズムと正義の限界』75-76 頁; p.66-67)。
二人の理論家とも、ロールズのいう「人びとの多元性と独自性」や、ノージックのいう「われわれ
が別々の存在であるという事実」を強調する。このような中心的な道徳的事実によって、功利主義が
否定され、個人主義的で、権利を基礎とする倫理学が肯定されている。とはいえ、ロールズは、社会
的・経済的不平等がもっとも恵まれない者の便益になる限り認める、正義の理論に到達するのに対し、
ノージックは、再分配政策をまったく排除し、自発的な交換や移転だけから成立する正義を主張する
(サンデル『リベラリズムと正義の限界』77 頁; p.67)。
リバタリアンの哲学はいろいろな側面をもっている。経済政策については自由放任主義を好む保守
主義者はリバタリアンと意見が一致するが、学校での礼拝、妊娠中絶、ポルノ規制などの文化的問題
についてはリバタリアンと意見を異にすることが多い。リバタリアニズムが、最小国家が望ましいと
しながらも、国家の力であらゆるものを市場に委ねようとすることが正義だと考える限り、リバタリ
アニズムは市場原理主義、新自由主義的な経済政策の基盤となる。一方、リベラリズムの立場を取る、
福祉国家支持者の多くは、ゲイの権利、性と生殖に関する女性の決定権、言論の自由、政教分離とい
った問題についてはリバタリアン的な見解と重なる(サンデル『これからの「正義」の話をしよう―いまを生
き延びるための哲学―』81-82 頁参照; Cf.p.61)。
ムルホールとスウィフトはノージックとロールズに関して次のように述べている。ロールズの理論
に対するノージックの異議申し立ての本質は、ロールズの理論の再配分の側面が財産と自己所有とい
う個人の権利に対する侵害を含んでいるということである。ノージックの見解では、ロールズおよび
再配分的福祉国家(redistributive welfare state)を支持するすべての人びとは、個人を十分真剣に受け止め
ていない。というのも、そうした人は、ある個人たちのものである才能を、そのような才能を欠いて
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いる別の個人たちのもつ目的に対する手段として利用することを含む、強制労働と類似した課税シス
テムを構想する用意があるからである。ノージックのリバタリアニズムは、したがって、個人の自由
に対して、
ロールズが承認するよりももっと大きな尊重を要求することを含んでおり、第一義的には、
リベラルなパッケージの福祉国家的要素に対応する、ロールズの理論の配分的で準平等主義的な側面
に対する拒絶として提出されているのである(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』x
頁; p.x.)。
(2)リベラル・リバタリアン・コミュニタリアンの相互関係
次に、リベラル、リバタリアン、コミュニタリアンの相互の関係を考えよう。ムルホールとスウィ
フトによれば、ある意味ではリバタリアンの批判とコミュニタリアンの批判は、異なった方向から由
来していると同時に、現代のリベラルな理論がもつ異なった要素に関心を向けている。リバタリアン
たちにとっては、ローズの理論の配分的側面は個人とその自由を十分真剣に受け止めていないのに対
して、コミュニタリアンたちにとっては、ロールズが個人の自由に与えている重要性は、彼が個人を
その共同体よりも優先するという誤りを犯していることを露呈している(ムルホール・スウィフト『リベラ
ル・コミュニタリアン論争』x 頁; p.xi)。
しかしながら、ムルホールとスウィフトによれば、これら三者の間の関係は限定を必要とする。第
一に、多くの点でノージックのリバタリアニズムはリベラリズムの拒絶というよりもむしろリベラリ
ズムの一つの変種(version)として最もよく理解される。ロックがその最善の実例である古典的なリベ
ラリズムの本質が自己所有に関する主張である限り、その場合にはノージックこそが真のリベラルで
あり、ロールズは修正主義者であると論じるのがもっともであるかもしれない。第二に、ロールズの
リベラリズムの配分的側面を、個人と共同体の関係についての主張という観点から述べることも可能
である。ところがその場合には、ロールズは、人びとの才能をある意味で共同の財産(common property)
とみなしている点でコミュニタリアンになるのである。こうしてロールズは、配分をめぐる問題に関
してはコミュニタリアンとして、しかし共同体との関係における個人の自由をめぐる問題に関しては
リベラルとして最もよく理解されるのである(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』x-xi
頁; p.xi.)。
さらに補足して言えば、コミュニタリアン的批判は、リベラリズムの平等に関係する側面ないし配
分的側面によりも、リベラリズムの自由に関係する側面に関心をもってきた。実質的な政治的争点と
いう観点からいえば、このことが意味するのは次のことである。すなわち、配分的リベラルとリバタ
リアンとの論争が福祉国家の正当化可能性と福祉国家を賄うための課税の正当化可能性とを中心とし
ているのに対して、リベラルとコミュニタリアンとの論争はむしろ、個人がメンバーである共同体な
いし社会の価値やコミットメントと衝突する場合でさえ、個人が自分自身の人生を選択し、自分自身
を自由に表現するという、個人の権利の重要性に関心を向けているということである(ムルホール・スウ
ィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』xi 頁; p.xi-xii.)。
4.2 後期ロールズの政治的リベラリズムの思想
ロールズの正義論は後期において、
政治的リベラリズムへと拡張された。ロールズは、
『正義の理論』
(1971 年;1999 年改訂)と『政治的リベラリズム』(1993 年;1996 年改訂)では立場を変えたと言われる(転
向)。前期ロールズの「公正としての正義」から後期ロールズの政治的なものへの移行をどのように考
えるか(一方を認めて、他方を認めないか)が問題となる(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリ
アン論争』210 頁参照; Cf. p.171.)。なお以下で、後期ロールズの思想として『万民の法』(1999 年)も取り
上げる。ムルホールとスウィフトによれば、いくつかの重要な点でロールズの立場はコミュニタリア
ン的批判を免れているばかりか、さらに別の点では彼自身がコミュニタリアンとみなされうる。そう
-2-
すると、リベラリズムとコミュニタリアニズムという二つの見解は、決して相互に排他的なわけでは
ないことになる(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』235 頁参照; Cf. p.191.)。
ロールズによれば、
『正義論』の目的は、社会契約の伝統的な教説を一般化し、よりいっそう抽象化
することであった。彼は、
「公正としての正義」という構想の主要な特徴を明らかにし、その構想を、
功利主義に優り、それに取って代わる体系的な説明として展開しようとした。その構想をロールズは、
民主的社会の諸制度のための最も適切な基盤を構成するものと考えた。しかし、ロールズによれば、
『政治的リベラリズム』の目的は、
『正義論』の目的とはまったく異なっている。社会契約の伝統はこ
れまで道徳哲学の一部と見なされ、道徳哲学と政治哲学は区別されてこなかった。
『正義論』では正義
の道徳的教説が、正義の政治的構想と区別されていない。また包括的な哲学的教説と道徳的教説およ
び政治的なものの領域に限定された諸構想との対比もなされていない。『政治的リベラリズム』では、
これらの区別やそれに関連した観念が基本となっている(Rawls, Political Liberalism, p.xv)。ムルホールとス
ウィフトによれば、ロールズは『政治的リベラリズム』において、
「政治的リベラリズム」を一つの一
般的構想とみなす。後期ロールズにとって、
「公正としての正義」はリベラルな政治的構想の一例にす
ぎない(Rawls, Political Liberalis, p.226; ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』210 頁; p.171)。
(1)理性にかなった多元性の事実と公共的理性
ロールズは、政治的であるような正義の構想を探求している。ムルホールとスウィフトによれば、
その理由は、彼が、多様な、相互に衝突するさまざまな包括的な見解を是認する、社会の全メンバー
に対して、公共的に正当化しうるような何かを欲しているからである。ロールズにとって、現代の民
主的社会が、両立不可能ではあるが多様な道理に適った包括的な宗教的、哲学的、道徳的教説を含む
であろうことは避けられない(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』217 頁; p.177.)。ロ
ールズはこのことについて次のように述べている。現代の民主的社会は、単に包括的な宗教的、哲学
的、および道徳的な諸教説の多元論によって特徴づけられるだけでなく、両立不可能な、しかし道理
に適った包括的教説(incompatible yet reasonable comprehensive doctrines)の多元論によって特徴づけら
れている。これらの教説のどれか一つが市民たちによって一般的に肯定されるわけではない。政治的
リベラリズムは、政治的諸目的のために、複数の、道理に適ってはいるが、両立不可能な包括的な諸
教説が立憲民主的な体制の自由な諸制度の枠組みの内部で、人間理性を行使した通常の結果である、
ということを前提とする。それゆえ、政治的リベラリズムは、或る道理に適った包括的教説が民主的
体制の不可欠の諸要素を拒否しない、ということも前提とする。もちろん、或る社会は、それゆえ、
非理性的で非合理的な、それどころか常軌を逸した(mad)、包括的な諸教説を含むかもしれない。そう
いった場合に問題は、それら諸教説が社会の統一や正義を掘り崩さない、というようにそれらの教説
を含むことである(Rawls, Political Liberalism, p.xvi-xvii)。
ムルホールとスウィフトは、このことはロールズにとって、「道理に適った多元性の事実」(fact of
reasonable pluralism)である、と述べている。それが道理にかなった多元性であるのは、以下の意味に
おいてである。日常の道徳的、政治的な生活のなかで、推論と判断の能力を良心的かつ正確に行使す
る人びとでさえも、そのような包括的な問題については、合意を獲得することを妨げるような、除去
できない諸々の障害に直面する。これらの障害は、ロールズが「判断の重荷」(burdens of judgement)
と呼ぶものである。それらは以下のような諸要素を含んでいる。すなわち、問題となっている事例に
関係する証拠が複雑かつ衝突すること。与えられたどの証拠に置かれた強調点も論争可能であること。
われわれの抱く概念が曖昧であり、扱いにくいものになりやすいこと。そしてわれわれの判断が、わ
れわれの個人的な道徳的経験の歩み全体によって、はっきり評価できないほどに、しかし決定的に、
かつ相異なるかたちで影響を受けていることである。これら不一致の源泉(自己利益や非合理性、身勝
手さのようなものではなく)は、関係するすべての当事者たちが完全に道理に適っていることと両立す
る。それゆえ、人間の推論と判断が自由な制度(すなわち、これらの判断の重荷を、強制によって、さ
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もなければ強制ほど直接的ではないその他の形態の不当な影響力の行使によって克服するのを禁じる
ような)の枠組みの内部で行使される場合には、道理に適った包括的教説の多元性を支持することは、
避けることのできない結果なのである(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』217 頁; p.177.)。
道理に適った多元性というこの事実を所与とすると、単一の包括的教説を前提とするいかなる構想
も他の諸々の構想と必然的に衝突し、それらの別の見解にそれぞれきわめて道理に適ったかたちでコ
ミットする市民たちが合意する可能性を排除してしまう。しかし、このときムルホールとスウィフト
は公共的な政治文化に暗黙のうちに含まれる事柄に注目する。公共的な政治文化に暗黙のうちに含ま
れる直観的観念を探求するという方法は意味をなす。それというのも、市民たち自身がいだく特定の
包括的な見解がいかなるものであろうとも、それらの理念はすべての市民によって暗黙のうちに共有
されており、すべての市民に利用できるとみなされうるからである(ムルホール・スウィフト『リベラル・
コミュニタリアン論争』218 頁参照; Cf. p.178.)。これに関してロールズは次のように述べている。
公正としての正義は、道理に適った多元性の事実を所与として、政治的正義の問いにおける公共的
な正当化の基盤を解明することを目指す。正当化は他者に向けられるので、それは何が共通して支持
されるのか、あるいは支持されうるのかということから生じる。それゆえ、われわれは公共的な政治
文化のうちに暗黙のうちに共有されている諸々の根本的な観念から出発する。それらの観念から、判
断における自由で道理に適った合意を獲得することができるような、一つの政治的構想を展開させる
ことを希望して。この合意は、道理に適った包括的な教説の重なり合う合意(overlapping consensus)の
支持を獲得するという理由で安定している。これらの条件は、正義の道理に適った政治的構想にとっ
て十分である(Rawls, Political Liberalism, p.100-101.)。
ロールズは社会の構想を、自由で平等な市民たちの公正な協働(cooperation)の企図(scheme)、つまり
原初状態によってモデル化された一つの構想―ちょうど共有された根本的な観念といったもの―とみ
なしている。かくして、それはロールズにとって道理に適った多元性の事実にもかかわらず、つまり
相互に衝突し、共約不可能な諸々の包括的教説にもかかわらず、社会の成員すべてに対して正当化で
きるものである。原初状態にいる人びとが善に関する自分たちの特定の包括的構想を知るのを否定す
ることで、ロールズは、正義について考える場合、それら包括的構想に訴えるのは不適切であるとい
う考えを表明している。ここでロールズに特徴的なこととして指摘すべきは、これらの理由の排除と、
公共的に正当化されうる正義の構成への願望とが結びついていることである。そのような正義の構想
はロールズにいう「公共的理性」(public reason)にのみ訴えることで正当化され、その私的かつ非政治
的な生活においてきわめて相異なる諸々の道徳的、宗教的、哲学的信念にコミットする市民たちに受
け入れられるものである(ムルホール・スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』218-219 頁; p.178.)。
(2)公共的理性の観念
公共的理性の観念は、ロールズによれば、秩序だった立憲民主制社会の構想に属するものである。
こうした理性の形式と内容―つまり、この理性が市民たちにどのような仕方で理解され、市民たちの
政治的関係をどのように解釈するかということ―は、民主制の観念の一部をなす。それというのも、
民主制の基本的な特徴の一つには、道理に適った多元性の事実(fact of reasonable pluralism)が存在する
からである。すなわち、宗教的であったり、哲学的であったり、道徳的であったりする、互いに相容
れない道理に適った包括的教説の多元性は、自由な諸制度という民主制の文化がもたらす当然の結果
なのである(ロールズ『万民の法』193 頁; p.131.)。
公共的理性の観念にとって中心的なことは、包括的教説が公共的理性と民主的政治形態の不可欠の
要素と両立不可能であるような場合を除けば、公共的理性の観念は、いかなる包括的教説―それが宗
教的なものであれ、非宗教的なものであれ―も批判しないし、攻撃もしないということである。立憲
民主的な政府とその市民たちとの関係、ならびに市民たち相互の関係を決定する基本的な道徳的・政
治的な諸価値を、公共的理性の観念はその最も深いレベルで特定する。だから、政治において全体的
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真理を体現しようという熱意は、民主的な市民たる地位になじむような、公共的理性の観念とは両立
しないのである(ロールズ『万民の法』194-195 頁; p.132-133)。
公共的理性は次の三つの意味で公共的である。
〔第一に〕自由で平等な市民たちの理性として、それ
は公共的なものの理性である。
〔第二に〕この理性が主題とするのは、根本的な政治的正義の問題にか
かわる公共的な善(public good)である。そして、その場合の政治的な正義の問題とは次の二種類、すな
わち憲法の不可欠の事項と基本的正義の問題である〔注での補足:憲法の不可欠の事項とは次のよう
な問題にかかわっている。つまり、憲法が最高裁判所やそれに類した機関により解釈されるというこ
とを想定する場合、たとえば、どんな政治的権利や自由を成文憲法に盛り込むのが道理に適っている
かといった問題である。基本的正義の問題は、社会の基本構造にかかわり、それゆえ、基本的な経済
的・社会的正義や、憲法ではカバーされないその他の事柄に関係する〕。〔第三に〕この理性の性質と
内容が公共的である。というのも、当然に互恵性(reciprocity)の基準を満たしていると考えられる、道
理に適った政治的正義の構想群を用いた公共的推論〔=理由づけ〕というかたちで、この理性は表現
されるからである(ロールズ『万民の法』195-196 頁; p.133)。
公共的理性は熟議民主主義にも関係する。熟議民主主義(deliberative democracy)というものの決定的
な考え方は、熟議(deliberation)という観念それ自体である。市民は熟議を行うとき、公共的な政治的問
題にかんする自分たちの見解を交換し、それを支持する理由について討議を行う。市民たちはあらか
じめ、
他の市民たちとの討議を通じ、
自分たちの政治的意見が修正されるかもしれないと考えている。
それゆえに、こうした意見は単に、市民たちが目下有するところの私的ないしは非政治的利害から導
かれる固定的な結論などではない。
公共的理性は、まさにこの点で決定的な役割を果たすことになる。
それというのも、それにより、憲法の不可欠の事項と基本的正義の問題にかんする、こうした市民た
ちの推論〔=理由づけ〕が特徴づけられるからである(ロールズ『万民の法』202-203 頁; p.138-139)。
熟議民主主義には三つの不可欠の要素がある。第一の要素は、公共的理性の観念である。第二の要
素は、熟議的な立法機関をとりまく環境を特定するような、立憲民主的諸制度の枠組みである。第三
の要素は、総じて公共的理性に従い、自己の政治的行動において公共的理性の理想(ideal)を実現させ
ようとする、市民たちが有する知識と欲求である。こうした不可欠の要素から即座にもたらされるの
が、選挙資金の公的助成、ならびに根本的な問題や公共政策の問題の数々を整然と、かつ真面目に討
議するための、公共的機会の提供である。公共的熟議は、民主制の基本的特徴として承認され、金銭
の呪縛から解き放たれた上で、実行されなければならない(ロールズ『万民の法』203 頁; p.139)。
公共的理性の内容は、正義にかんする一群の政治的構想により与えられるのであり、ただ一つの構
想だけがそれを規定するわけではない。数多くのリベラリズムとこれに関連する数多くの見解が存在
しており、したがって一群の道理に適った政治的構想により特定される、数多くの形態の公共的理性
が存在するのである。構成としての正義にしても、その利点が何であるにせよ、これらの公共的理性
のなかの一つにすぎない。こうした様々な形の公共的理性を制限している特徴が、自由で平等な市民
たちのあいだに適用されると見なされる、互恵性の基準なのである(ロールズ『万民の法』205 頁; p.140-141.)。
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