05-2 斎戒 (2)

早朝七時、会議室から出ていく特殊犯の面々は、ぎらついた目付きの四課とは対照的に皆一様に眠たげな表情を浮かべ、
何の進展もないまま怠惰に長引きそうな麻薬捜査へ意欲のかけらも見せず、首を振りながら無言で廊下を歩いていく。肩
をコキコキ鳴らしながらエレベーターへ近付いていく木村へ、倉沢が近付いてきた。ふたりで箱へ乗り込む。
﹁昨夜に引き続き、今朝も眠ってしまった。やばい。何も聞いていない﹂
木村は思わず吹き出した。自分も朝倉もそうだが、倉沢も麻薬がらみには実に淡泊だった。
﹁かわいそうだから、起こしませんでしたよ﹂
﹁熟睡してたか﹂
﹁たまに、いびきも﹂
しまった、と倉沢は笑った。
﹁晩飯をおごるから内緒にしておいてくれ﹂
﹁もうばれていると思いますけど﹂と、木村も笑った。
﹁でも、晩飯は喜んでおごられます﹂
少し顔を引き締めて、言った。
﹁昨夜朝倉から連絡があって、山梨へ向かったようです﹂
﹁そうか﹂と、倉沢は言った。
﹁記憶を辿りに行ったのだろう﹂
木村は倉沢を見た。
﹁そのことで話がしたい。今夜六時に一階で﹂
﹁今日午後俺は外事課の行確へ﹂
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木村は目を見開いて倉沢を見ていたが、そこへお通しが運ばれてきて、話はしばし中断した。目の前へ並んでいく宝石
﹁死んだのさ。胃癌だった﹂
﹁え？﹂
﹁俺は、向こうの世界を出てきた﹂
倉沢の頬にここ最近血色が戻って来たと木村は思っていた。それを見透かすように、倉沢は言った。
﹁その頭の回転の速いところも。俺の目に狂いはなかった。きみを特殊犯へ誘って正解だった﹂
その言葉に、倉沢は微笑んだ。
﹁課長の、いえ、刑事部長の若い頃を思い出したんですね﹂
木村は笑いながら倉沢へ言った。
の優勝経験は数知れない。
遠山には、警視庁の誇る﹁苦み走ったいい男﹂の代名詞を欲しいままにしたという噂があった。実際、ミスター警視庁
﹁若い頃の遠山を見ているようだ﹂
目を細めて、嬉しそうに木村を眺める。
﹁きみは警察官にしておくにはもったいない﹂
いた。
備え考えうる限り上等なスーツに着替えてきた木村は、内心ほっとした。そんな木村を見遣り、倉沢は至極満足そうに頷
たまにはいいだろう、と倉沢が予約したのは、中央区の一角に奇跡的な広さを誇る老舗の懐石料理店だった。万が一に
﹁パワハラだ﹂と、木村は笑顔になった。地下へ降りる倉沢へ軽く手を上げ、一階でエレベーターを出て行った。
倉沢は木村を見てニヤッと笑った。
﹁大丈夫だ。上がらせる﹂
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箱のような和の美の数々をしばらく眺め、仲居が出ていったのを確認し、倉沢は続けた。
﹁向こうでの俺は、きみたちを死なせた事件から三年後の世界を生きていた。はっきり自覚したのはほんとうに最近だよ。
春ぐらいから胃の調子が悪くなり、夏前にはスキルスが見つかった。すでに手遅れだった﹂
木村は倉沢の話に聞き入っていた。
﹁遠山は必死に俺を説得し医者へ行かせようとしていた。あいつには申し訳なかったと思っている﹂
﹁向こうの世界の部長は、こちらでのことはご存じないのですか﹂
﹁最終的に俺と、俺がこっちでかかっている心療内科の医師の話を聞いて、並行世界の存在は少しは信じたようだった。
遠山は向こうでその医師の治療を受けていたのだが﹂
桐島達也という精神科医だ、と木村へ言った。
﹁桐島は俺が命を終えるひと月前に、向こうの世界を去った。その直前に法医学の勝又も他界している﹂
﹁ピンピンしている勝又先生を見ているので、何だか不思議な気持ちです﹂
木村はそう言い、ビールを一口飲んだ。
﹁勝又先生と桐島さんは、向こうの世界のことを？﹂
﹁まだ本人たちと直接話はしていないが、たぶん自覚していると思う。俺は、二つの異世界に同時に生きる者は、いず
れどちらかの世と訣別しなければならなかったのではないかと思う﹂
﹁部長は自覚していない、と？﹂
﹁そうだ。遠山は、俺と一緒にこちらの世界へ来たいと言っていたが。こっちで毎日俺は遠山を見ているが、向こうの
世界のことには、まるで気付いていない﹂
それでいいんだ、と倉沢は言った。
﹁ひとりぐらいまともなのが残ってくれなければ、警視庁は終わりだ﹂
﹁俺は勝又先生を見るたびに、胸を切り開いてもらったことを思い出します。今度言ってみようかな﹂と、木村は笑った。
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﹁身体が分離しそうな錯覚を覚えていたのだが、それがすっかりなくなった﹂
倉沢も、癌は向こうへ置いてきた、と笑う。
﹁向こうの世界を出てからというもの、身体の調子がいいんだ﹂
﹁食いながら話しましょう。胃の具合は、もういいんですよね？﹂と笑う。
箸をとる。
﹁今度はヘマしませんよ。大丈夫﹂
木村は倉沢へ笑顔を見せた。
﹁こっちでは死なせない。絶対に﹂
﹁管理官！やめてくださいよ、管理官のせいではありません﹂
倉沢は頭を下げ、木村は思わず腰を浮かした。
﹁きみに会えてほんとうによかった。そして、申し訳なかった﹂
木村は苦々しげに言った。唇の端にニヒルな笑みが浮かぶ。
﹁俺としたことが、不覚でした﹂
﹁きみを殺害したのは、剣持の雇った殺し屋だ。そいつは後に東京湾に浮いた﹂
倉沢は一度目を伏せ、ビールへ手を伸ばしてコップを呷った。
﹁そうだ。上高地で俺と遠山は剣持と高岡警視監を確保、逮捕した。きみを﹂
﹁俺たちが追っていた黒幕です﹂
﹁剣持を覚えているか﹂
いた﹂
された。次に気が付いた時には、あなたと、朝倉たちと鑑識の連中と、あの名前の判らない二人が死んでいる俺を囲んで
﹁俺を殺ったのは見たことのない男でした。気配を感じて目を開けると、そいつが俺の寝室に立っていて、一瞬で眠ら
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﹁それはよかった﹂
豆腐を一口食べて、うまい！と木村は目を丸くした。
﹁ただの冷奴と思いきや﹂
﹁ここは隠れ家的存在なんだ。接待でよく使ったよ。遠山と最後に食事をしたのもここだった﹂
﹁何だか、ほんとうに不思議です。すべてが存在している。自分が違う次元にいるだけで。こんなことがあるなんて﹂
﹁ほんとうだな﹂
倉沢は小魚の佃煮へ箸をつけながら言った。
﹁きみの現場検証にいた名前の判らなかった二人だが、俺は向こうの世界を出た直後に思い出した。渋谷署時代からの
同僚で、俺のあとに特殊犯管理官になった真鍋信一と、強行犯四係だったきみの相棒、佐伯和之だ﹂
直樹、そんなことのためにお前を抱くのだけはしたくないお前、その熟女好きはなんとかならんのか木村の脳裡に突然若い男の清廉な顔と、人懐こい丸顔がフラッシュバックした。
佐伯とただ一度だけ喧嘩した、あの夜の記憶。長身の自分より十五センチも背の低い、おおらかで優しかった元上司。
天涯孤独だった俺の父親代わりをしてくれた真鍋。俺の葬式で泣き崩れていた真鍋。
目の奥がじんと熱くなる。
﹁きみが殺害されたあと、佐伯は自宅を狙われた。ガス爆発で、意識不明の重体に陥った。焔の中へ飛び込んで佐伯を
助け出したのは真鍋だ。その日は前田の息子の通夜だった。恋人の死を知って、自殺したんだ﹂
木村は新宿のクリニックと、前田前刑事部長の顔を交互に思い出していた。
食いながらする話ではないな、と倉沢は言った。木村は促す。
﹁大丈夫です。仕事柄そんなのは慣れています。続けてください﹂
倉沢はひとつ頷いて続けた。
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遠山が俺を引きずり出したよ、あいつも涙で顔がぐしゃぐしゃだった、と倉沢は言った。朝倉の口から血が噴き出した。そこで俺は諦めたんだ﹂
ジを始めたんだよ。狂っていた。燃えるように熱い朝倉の身体が急速に冷えていくのに耐えられなかった。胸郭を押すと
﹁夥しい出血量だった。弾丸は頭蓋を粉砕し、目を見開いたまま朝倉は明らかに絶命していた。それでも俺は心臓マッサー
拳銃自殺しようとしている、誰かの背中をこめかみに当てる朝倉だった。俺が必死で叫ぶのも聞かず、あいつは俺の目の前で自分の頭をぶち抜いた﹂
けつけて機捜が扉をぶち破り、物凄い煙と炎の奥に見えたのは、床に転がってて怯える前副首相と警視監、その前で拳銃
﹁上高地の剣持の別荘へ辿り着いた時、その奥で倉庫の屋根が突然吹っ飛んで火柱が上がるのを見た。死に物狂いで駆
れるような気がした。
木村は、山梨へ向かう、という誠吾のメールを思い出した。朝倉と二階堂は再生したんだ、そう思うと、少しだけ救わ
捜査会議に出して俺はなるべくそばにいるようにしたが、結局朝倉も死んでしまったんだ﹂
﹁一週間後、人工呼吸器を止めた朝倉は抜け殻になった。痛々しいほど痩せて、目にはまるで生気がなかった。無理に
病院へ運ばれた時にはすでに心肺停止状態だった、と倉沢は呻いた。
た。あいつはそのまま十メートル以上も吹き飛んで、頭から地面へ叩きつけられた﹂
へ割り込んだ。二階堂が追い越しをかけようとしたときベンツは急ブレーキをかけて、二階堂のバイクはまともに激突し
た前田を二階堂が追い、その後ろに俺と朝倉がいた。そこへ、剣持の雇ったチンピラのベンツが煽ってきて、二階堂の前
﹁前田は行確中の剣持の息子を拉致し、それを追っていた時に二階堂の事故は起きた。東関東を茨城方面へ激走してい
激しく雨の降りしきる夜。
﹁真鍋の葬式から六日が過ぎた晩だった﹂
木村は目を閉じた。一呼吸し、倉沢は続けた。
﹁佐伯は奇跡的に回復した。今は地元の栃木県警にいる。真鍋は事件の十日後、意識の回復が見られないまま亡くなった﹂
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﹁後ろを振り返ると二階堂の幻姿が見えた。ああ、迎えに来たのだなと思った﹂
どす黒い血と脳漿で汚れた誠吾の頬を撫で、血だらけの唇にそっと口付けする龍介の姿。やがて顔を離し、繊細な手で、
誠吾の瞼を閉じてやる。龍介の目から溢れた涙が、誠吾の唇を濡らしていく。
﹁俺には朝倉を止められなかった。あいつは、あいつのやり方で現世と訣別し、すぐに二階堂を追って行った。引き留
められなかったのかと、周りは言いたい放題俺と遠山を責めた。現職警察官が拳銃を持ち出しての自殺、黒幕は元副首相
と公安部長だ。世間も当然騒いだし、俺たちは連日記者会見で絞られまくった﹂
木村は倉沢を見つめていたが、視線を落とした。やるせない表情が浮かぶ。
﹁史上最悪の幕引きだったんですね﹂
﹁朝倉も派手にやってくれたものだ﹂
倉沢は遠い笑みを浮かべた。
﹁だが、あいつには、ああするしかなかったんだ。今になってそう思う。俺はあの事件のことで病んだが、死ぬ度胸は
なかったし、死んでまで誰かを追うということを考えたことがなかった。だが、彼らは違った。天命の呪いを背負ったと
しか思えない。朝倉と二階堂もそうだが、彼らの父親も、互いに互いを想いあっていたんだ﹂
木村が目を上げる。
﹁二階堂の父修哉は、朝倉の父賢吾と共に山梨県警にいた。誠吾が龍介に魅せられたように、賢吾も修哉に心を奪われた。
結果、二階堂修哉は死に、朝倉賢吾はその後を追った。新宿の事件で不当な圧力がかかったことを覚えているか？遠山
と俺、そして真鍋は、山梨県警で起こった事件を高岡から直接知らされ、それをネタに捜査員から手を引かせるよう言わ
れた。高岡は知らなかったようだが、俺は朝倉の死後、山梨県警の藤堂から真相を聞いた。何らかの形で賢吾と修哉のこ
とを知った朝倉の妻が、賢吾の持っていた拳銃で死のうとしたんだ。揉み合っているうちに拳銃は弾丸を放ち、修哉に命
中した﹂
﹁なんてこったよ・・・・﹂と、木村は呟いた。
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﹁とりあえず、食いましょう﹂と木村は言い、倉沢は賛成した。斎戒への道のりは長い。
そこへ、再び料理が運ばれてきた。色とりどりの盆に二人は目を奪われ、同時に顔を見合わせて笑った。
常に別離に怯え続けなければならない。そんな人生があるか﹂
﹁純粋に想い合っているだけなんだ。それなのに、生まれ変わるたびに呪禍を背負う。受戒し、帰天するまで、彼らは
あの二人には幸せになってほしい、と倉沢は言った。
﹁そう思う﹂
﹁朝倉たちは、その起源を探しに山梨へ？﹂
真実に気付いた。そして、自害した﹂
﹁二階堂は父親の殺害現場を目撃していた。すべての真相を知っていて、それでも朝倉を愛した。朝倉は二階堂の死後
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