労働時間メモリアル 1866年 国際労働者協会(第1インターナショナル)が「8時間労働」を宣言 ●May Day 1886年5月1日 ボストンでストライキ 8時間労働日の遵守、1日あた りの厳格上限が骨格 ● 1917年ロシア革命 8時間労働制の公布 ● ILO第1号条約 1919年(工業48時間) 夏場のパリに残る仏人は1 ● 1929年ナチスが2週間の欧州周遊旅行 割程度 ●バカンス法(1936年、人民戦線内閣:週40時間、2週間の有給休暇) ●オランダモデル(男女が家事労働に責任をもつ共働きモデル。年間1,350時間近くに短縮) 「時間外労働は例外」 ILO勧告116号(1962年) オランダの賃金格差は100:95 日本は100:50 労働時間短縮勧告 ○恒常的例外-床屋、病院、ホテル、レストラン、会社の お抱え運転手など「本質的に断続的な作業」。ついで 電気、ガス、水道など「公共の利益に必要な例外的 な場合」 また、「技術的に一般の操業時間内にできない 作業」(始業前の準備作業、保守要員の作業、ボイラー係、油差し、出勤簿の整理係) ○一時的、臨時的例外-事故の発生、機械設備に関し緊急の措置を要する場合、 不可抗力の場合、異常な 繁忙期、停電や災害で作業不能の場合、国の緊急の場合。 ○定期的な例外-年度末の決算、棚卸し、観光業など季節的な業務。 1 米国の勤務形態 標準化はできない いずれも企業のイニシアティブによる 米国の「ワーク・ライフ・バランス」の対応 大企業の「働きすぎによるストレス、燃え尽き、士気の低下、 子育て困難」 に直面し、労働時間の多様化、分散化、個 人化をはかり、生産性の向上、人材の確保をはかり、結果 としての労働と生活の「ひづみ」を調整しようとしている 。 「会社人間が会社をつぶす」(朝日) ①フレックスタイム(11時~14時に勤務を変更) ②裁量労働(8時間以上、残業手当なし) ③圧縮労働週(10時間×4日のように) ④短縮勤務(育児、介護のため) ⑤ジョブシェアリング(一つの仕事を2人で) ⑥テレワーク(情報通信で在宅勤務) 労働時間の突然の延長は産業革命とともにはじまった! 19世紀の初めのイギリス-「1日12時間、週70時間の労働を強いられた」 〔動力、機械の導入〕→機械は疲れない ●工場法(1833年)で制限が始まる。 9歳未満の雇用 生産量を飛躍的に増やした を禁止、9歳~13歳、 18歳未満の工場労働を朝5時 半から夜8時半の範囲に制限 熟練を不要とした→安価な労働力として女性、子ども ●10時間法(1847年)年少者と女性を10時間に制限 技術は労働を軽減し、時短を可能とした 〔生産工程の管理権は工場主に移った〕 女工哀史時年間3000時間、産業革命のイギリス5000時 時間、労働強度が引き上げられた 間。(森永卓郎07春・「社会保障」) 償却を早めるため、深夜労働が登場する 2 戦後の労働に対する意識 日本人の労働観 ■日本における労働観は、必ずしも特殊日本的 なものでもなければ、固定的なものでもなく、 個々人のその時の経済状態に応じ、最も好ま しい制度が合理的に選択されてきた。 ■従来から仕事を通して金銭や名声を求める意 識は弱かった。 ■仕事一辺倒の生き方は必ずしも望まれておら ず、生活の一部としての仕事であった。 ■終身雇用制や年功序列的な賃金は、おそくて も高度成長期の終盤には、将来的には切り替 わる制度として受け止められていた。 (大原社研 №542、2004.1) 日本人は農耕民族で勤勉である! 日本的経営の根幹は、年功的人事システムである。高 度経済成長期の日本企業において合理的な人事シス テムとして機能してきた。 ①企業の人員構成と適合していたこと。急速な経済成 長の下、大企業は毎年大量の若年労働力を確保し、 少数のベテラン管理者がその若年従業員を指揮し、 効率的な組織運営を実現できた。 ②年功的人事システムは、勤続年数を重ねるうちに誰 もが昇進・昇格できるとして、従業員の企業へのコミット メント(会社帰属意識)とモチベーション(仕事意欲)を 高めることができた。 ③長期雇用の下、OJT(On the Job Training)やジョブ・ ローテーションが行われる中で、企業組織内に優れた 技能や技術の蓄積ができた。 よく働いたが、ちゃんと休んでいた(西村直樹) 〔江戸時代〕-日の出から日没を基準に昼、夜を6等分した。単位を一(いっとき) とし12干支を割り振った。最 小単位は「四半刻」で分や秒の観念はなかった。 季節で変化 四半刻-平均30分 〔明治中頃〕-工場生産(産業革命)とともに時間に縛られる生活に入る 「時間の社会史」(中公新書) 雨宮製糸(甲府) 1日14時間をさらに延長し、賃下げ に対し、日本で最初のストライキが起きる 3 -文明開化- 「太陽暦」の導入が伝統習俗を抑圧 明治以来の時短は、まがりなりにも「立 法」と政府の姿勢にあった -過少評価でき 1873年(明治5年) 国家祝日の制定 天皇制国家の祝祭日を定着させるイデオロギーが強 い。旧慣にもとづく祭礼や農休日を減らすことで富国 のための勤勉を強いる。 祝日は元旦の四方杯、紀元節、天長節に大祭日を加 え計11日 1874年 官庁が日曜休業となる 1876年 官庁が土曜半休となる ない 明治末には「過労死」が発生 「1日の労働時間は短きも12~3時間下ることなく、長 きは17~8時間に達するものもあり」 「年期満了し帰 郷するときは、気抜けと工場における過度の労働の 結果、多くは病気を惹起し、甚だしきは死に至るもの 往々これありき」 (農商務省まとめの「職工事情」1903 ) 「過労による結果の衰弱や頓死」 「今や労働運動は 賃金問題でも権利問題でもなく、生命問題である」 (「労働世界」 労働組合期成会1991) 戦前は工場法で時短。 制定は、①結核予防という公衆衛生上の動機、 ②健全な壮丁を確保したいという軍事的な動機、 ③労働力保全という社会政策学派の思想的影響 労働基準法は民主化プログラムの一環 国民の休日増、公務員への週休2日制によって欧 米並みに近づける。動機は外圧。 いわば、突然 戦後も時短は軽視されてきた。「55年体 制」は終身雇用、年功序列の保障のか えありに賃金を企業業績にリンクさせる ことを容認。企業別組合は「時短に貢 献していないのは明らか」である。労働 者の生活を革命的に変えたのは組織 の力ではなく、高度成長(実態経済の 変化)である。 4 〔仕事と生活の調和〕 柔軟な働き方=選択肢は必要だが2つの現実対応が要となる 「法定限度」=「1日8時間、週40時間」を維持し、それを超える残業を「仕事と生活」の調和の範囲で制限すべきである。 「週60時間を超す」ことに手をつけなければ、労働時間の2極化を促す。 「3・6協定」のザル法ぶり 〔女性の時間外労働の規制〕 実は、20年前である 1800時間の約束(1988年労働省告示) 「92年度中に年間労働時間を1800時間へ短縮させる」 男女雇用均等法で1999年撤廃。女性に有害業務は男性にも有害 1947年の労働基準法制定時 「18歳以上、1日2時間、1週6時間、年150時間」 有給休暇 〔1998年告示154号〕 「1週15時間、1ヶ月45時間、1年360時間」 ・週5日なら1日3時間 ・1日15時間労働を認める-拘束9時間で24時間 最低10日 「6カ月間継続勤務し、 所定労働日の8割以上の出勤」(1994.4.1より) 労基法違反 →懲役6カ月以下、 30万円以下の罰金 取得率47.4%-未消化は4億2000万日分(03、厚労省「就業条件総合調査」) 有給休暇の完全消化で‥ ・雇用効果148万人-①代替要員919,000人+②生産波及による雇用創出562,000人 ・経済効果11兆8000億円-①代替雇用の生産波及2兆5000億円+②新規雇用の生産波及1兆8800億円、③余暇需要の生産 波及7兆4100億円 (「休暇制度のあり方と経済社会への影響に関する調査研究会報告」02.6、 由時間デザイン協会) 5
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