術前絶飲食 京都大学医学部附属病院麻酔科 福田和彦 2010.6.5 第3回

2010.6.5 第3回周術期セミナー
術前絶飲食
京都大学医学部附属病院麻酔科
福田和彦
術前絶飲食が必要な理由
麻酔導入時に胃内容が逆流し気管に流入(誤嚥)する
ことによる誤嚥性肺炎(嚥下性肺炎)の予防
周術期誤嚥の頻度
• 30万例の手術患者で、周術期に約1%の患者に誤嚥
が発生し、その約半数がICUに入室し、約4分の1が死
亡した。
Kozlow JH et al. Crit Care Med 31, 1930-1937, 2003
• 全身麻酔1万件に対して2件程度誤嚥が発生し、帝王
切開手術では500件に対して1例程度発生した。
Olson GL et al. Acta Anaesthesiol Scand 30, 84-92, 1986
全身麻酔導入の流れ
1.マスクによる酸素投与(自発呼吸)
2.薬剤の投与
静脈麻酔薬 プロポフォール(ディプリバン)
吸入麻酔薬 セボフルラン
筋弛緩薬
ロクロニウム(エスラックス)
3.マスクによる補助呼吸、調節呼吸
4.気管挿管
気管挿管完了までに逆流した胃内容が逆流すると、気管に
流入する危険がある。
全身麻酔時(非挿管時)に胃内容逆流が
問題になる理由
• 胃内容逆流の可能性
下部食道括約筋圧の低下
マスク換気による胃への空気流入
• 咳嗽反射の欠如
全身麻酔と筋弛緩薬の影響
胃内容逆流の結果
• 覚醒時
咳嗽反射 → 気管への流入防止
• 全身麻酔下
咳嗽反射の欠如 → 胃液が気管に流入
(全身麻酔薬、筋弛緩薬)
胃内容排出に影響する因子
• 胃と十二指腸の圧差
• 胃内容の量
• 胃内容の成分
カロリー
pH
浸透圧
• 性差
女性の方が遅い
• 年令
高齢者では遅い
固形物とclear fluidでは胃からの
排出時間が異なる。
乳児における胃内容排出
• 母乳の完全な排出には2−3時間必要。
• 牛乳より母乳の方が排出が速い。
• 離乳食の排出時間は成分により異なる。
下部食道括約筋
胃内圧は食道内圧より約10cmH2O
高い。 → 逆流の可能性がある。
嚥下時以外は下部食道括約筋が
緊張性に収縮して逆流を防ぐ。
迷走神経により調節される(不随意)。
下部食道括約筋に対する麻酔の影響
• プロポフォール(ディプリバン)とデクスメデトミジン(プレセ
デックス)は、用量依存性に下部食道括約筋圧を低下させる
が、胃-食道内圧差には影響しない。
→ 胃内容が逆流しやすくなる。
• 多くの麻酔薬でも同様の報告がある。
誤嚥性肺炎の病態
1.胃酸による肺傷害
強酸を含む胃液の誤嚥による化学性肺炎
pH < 2.5、25ml以上で発症の危険
2.食物残渣による肺傷害
異物反応による炎症反応
細菌感染の合併
3.循環変動
肺毛細管透過性亢進、肺水腫
誤嚥性肺炎の病態
誤嚥
胃酸(強酸)
食物残渣
肺毛細管内皮細胞傷害
肺胞上皮細胞傷害
肺毛細管透過性亢進
肺出血、無気肺
循環血液量減少
血圧低下
気管支攣縮
炎症反応(好中球浸潤)
肺内シャント
換気血流比の不均等
低酸素血症
ARDS(急性呼吸促迫症候群)
• 急性発症
• 胸部X線写真上で両側性
の肺浸潤影
• 肺動脈楔入圧<18mmHg
(心原性肺水腫が否定
できる)
• PaO2/FiO2<200
(低酸素血症)
N Eng J Med 342, 1334-1349, 2002
ARDSの原因
直接的要因
間接的要因
肺炎
ショック
(細菌性、ウィルス性、真菌性) (出血性、アナフィラキシー)
誤嚥
急性膵炎
溺水
熱傷
肺挫傷
多発外傷
有毒ガス
人工心肺
大量輸血
神経原性
麻酔導入時の誤嚥リスクを減らす方法
• 胃内容が少なくなれば逆流が少なくなるはず。
• 胃内容を少なくするには、絶飲食したらよい。
術前絶飲食の考え方
• 絶飲食時間は長い方が確実?
• 絶飲食の欠点
脱水 → 輸液で予防できる?
口渇、空腹、不安感--• 明確なエビデンスが少ない。
全身麻酔前絶飲食に関する推奨(20世紀)
報告者
発表年
推奨
Buxton DW
1900
2-3時間の絶飲食
Gardner HB
1909
abstinence from food
Hewitt FH
1922
a regulated diet
Mackenzie JR
1944
no recent meal
Minnitt RJ
1948
術前3時間まで水分摂取
Wyle WD
1960
5時間の絶飲食
Evans FT
1965
術前4時間は絶飲食(不十分の可能性)
Gray TC
1971
6時間の絶飲食
Churchill-Davidson HC
1978
5時間の絶飲食
Churchill-Davidson HC
1984
5時間の絶飲食
Nunn JF
1989
術前3-4時間まで軽食
Haeley TEJ
1995
術前3時間まで水分摂取、5時間まで固形物
Prys-Roberts C
1996
小児では術前2時間まで透明飲料、成人で
は術前5-6時間まで固形物
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
(1999)
• 標準あるいは必要条件ではなく、特定のアウトカムを保証す
るものではない。
• 文献調査、専門家の意見などをもとに作成。
• 確実なエビデンスに基づくわけではない。
• 誤嚥による合併症を予防するために作成。
• 予定手術を受ける健康な患者を対象とする。
• 妊婦は対象としない。
• 様々な条件により修正する必要がある。
• 食物、飲物の種類により、絶飲食時間が異なる。
術前絶飲食の実際
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
1.術前評価
・ 術前評価により胃内容誤嚥の頻度、重症度が改
善されるというエビデンスはない。
・ しかし、誤嚥のリスクを増加させる病態(逆流性食
道炎、糖尿病など)や挿管困難の可能性について
評価するべきである。
・ 絶飲食が必要な理由を患者に説明する。
・ 絶飲食指示を守れるかどうか(コンプライアンス)
を判断する。
術前絶飲食の実際
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
2.透明な飲物(clear liquid)
例)水、果肉を含まないジュース、炭酸飲料
茶、ミルクなしの紅茶・コーヒー
・ 全身麻酔、区域麻酔、鎮静下に行われる手術で
は、術前2時間以上絶飲とする。量は問わない。
術前絶飲食の実際
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
3.母乳
・ 全身麻酔、区域麻酔、鎮静下に行われる手術で
は、術前4時間以上絶飲とする。
術前絶飲食の実際
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
4.粉ミルク
・ 全身麻酔、区域麻酔、鎮静下に行われる手術で
は、術前6時間以上絶飲とする。
術前絶飲食の実際
ASA (American Society of Anesthesiologists ) ガイドライン
5.固形物、ミルク(母乳以外)
・ 全身麻酔、区域麻酔、鎮静下に行われる手術で
は、術前6時間以上絶飲とする。
・ 脂肪の多い食物、肉類は胃からの排出が遅れる
可能性があることに注意すること。
誤嚥リスクを軽減するために推奨される
術前絶飲食時間(ASAガイドライン)
最低限の絶飲食時間(h)
透明な飲物(clear liquid)
2
母乳
4
粉ミルク
6
ミルク(母乳以外)
6
軽い食事
6
各国の術前絶飲食ガイドライン
国
ガイドライン
除外
飲料
固形食物
イギリス
3時間
6−8時間
救急/消化管疾患
カナダ
2時間
6−8時間
−
アメリカ
2時間
6時間
救急/妊娠/消化管疾患
ノルウェー
2時間
6時間
救急/胃腸疾患
スウェーデン
2−3時間
前日深夜から
救急/胃腸疾患
ドイツ
2時間
6時間
日本における術前絶飲食時間
透明飲料
(clear liquid)
成人
小児
乳児
各施設の絶飲食時間(施設数%)
中央値(時間)
施設数
>2時間
2時間
<2時間
午前手術
92
8
0
9
399
午後手術
94
6
0
6
399
午前手術
81
19
0
3.5
403
午後手術
82
18
0
3
394
午前手術
59
40
1
3
374
午後手術
60
39
1
3
361
Shime N et al. J Anesth 19, 187-192, 2005
日本における術前絶飲食時間
ミルク
乳児
各施設の絶飲食時間(施設数%)
中央値(時間)
施設数
>4時間
4時間
<4時間
午前手術
41
49
10
4
370
午後手術
40
50
10
4
356
Shime N et al. J Anesth 19, 187-192, 2005
日本における術前絶飲食時間
固形物
成人
小児
各施設の絶飲食時間(施設数%)
中央値(時間)
施設数
>6時間
6時間
<6時間
午前手術
95
4
1
12
436
午後手術
96
2
2
13
437
午前手術
73
19
8
9
406
午後手術
54
34
12
8
389
Shime N et al. J Anesth 19, 187-192, 2005
ASAガイドラインを採用しない理由
施設に利益がないから。
192 (56%)
手術予定の変更に柔軟に対応するため。
171 (50%)
絶飲食時間変更による混乱を避けるため。
135 (40%)
絶飲食時間が長くても輸液で補えるから。
109 (32%)
誤嚥を避けるため。
85 (25%)
麻酔科医に利益がないから。
71 (21%)
ASAガイドラインを知らないから。
50 (14%)
日本の現場に使えるか疑問があるから。
41 (12%)
ラリンジアルマスクをよく使うから。
26 (8%)
患者に利益がないから。
17 (5%)
Shime N et al. J Anesth (2005) 19: 187-192
ASAガイドライン導入と誤嚥発生率
誤嚥
ガイドライン
導入
施設数
Yes
101
188,301
9
4.8
No
345
538,363
49
9.1
全身麻酔件数
発生件数
発生率
(全身麻酔10万件毎)
ASAガイドラインを導入しても、誤嚥発生率が高くなることはない。
Shime N et al. J Anesth (2005) 19: 187-192
京大病院の術前指示
2歳以上
午前手術
午後手術
食事
前日夜12時まで
前日夜12時まで
ミルク・ジュース
前日夜12時まで
水・お茶・母乳・スポーツ
ドリンク
前日夜12時まで
当日朝9時まで
2歳未満
午前手術
午後手術
食事
前日夜12時まで
前日夜12時まで
ミルク・ジュース
当日朝2時まで
当日朝7時まで
水・お茶・母乳・スポーツ
ドリンク
当日朝4時まで
当日朝9時まで
ASAガイドラインよりは絶飲食時間が長い。
午後手術の症例では術前輸液が行われることが多い。
一部診療科で部分的に朝6時まで飲水させているが、他科にまで普及するかどうか不明。
胃内容排出時間遷延の可能性がある病態
妊娠
緊急手術
肥満
経腸栄養
糖尿病
痛み
食道裂孔ヘルニア
オピオイドの投与
逆流性食道炎
喫煙
イレウス、腸閉塞
麻酔
ガイドラインを守っても、胃内容逆流、誤嚥の可能性がある。
薬剤投与による誤嚥性肺炎の予防
1.消化管運動促進
メトクロプラミド(プリンペラン)
胃酸分泌、誤嚥頻度への効果は不明
薬剤投与による誤嚥性肺炎の予防
2.胃酸分泌抑制
ヒスタミンH2受容体拮抗薬
シメチジン(タガメット)
ファモチジン(ガスター)
ラニチジン(ザンタック)
プロトンポンプ阻害薬
オメプラゾール(オメプラール)
ランソプラゾール(タケプロン)
胃酸pHをあげ、胃液量を減らすが、誤嚥の頻度、重症度を
改善する明確なエビデンスはない。
薬剤投与による誤嚥性肺炎の予防
3.制酸薬
クエン酸ナトリウム
重炭酸ナトリウム
酸化マグネシウム
胃酸pHをあげるが、胃液量に対する効果は不明。誤嚥の
頻度、重症度を改善する明確なエビデンスはない。
制酸薬の粒子が気管に入ることにより肺傷害が重症化す
る危険がある。
薬剤投与による誤嚥性肺炎の予防
誤嚥性肺炎予防のためにルーチンで術前投
与することは推奨されない。
術前絶飲食が守られなかった場合
1.麻酔導入の延期
2.麻酔導入法の検討
意識下挿管
迅速導入
最近の話題
術前経口補水療法(ORT; Oral Rehydration Therapy)
・術前輸液の問題点を解決する。
静脈ライン留置の痛み
抜去・空気塞栓の可能性
患者の更衣・入浴などの行動制限
患者の口渇・空腹・不安
輸液準備や歩行移動などの看護師の労力
・術前2時間前までに500mL以上のORS(Oral Rehydration
Solution)を飲ませる。
ERAS(Enhanced Recovery After Surgery)
術後の早期回復を目指す周術期管理プロトコール
カウンセリング
切開創を小さくする
消化管前処置を行わない
胃管を挿入しない
術前 炭水化物と飲料を投与する
絶飲食を行わない
麻酔前投薬を行わない
切開創を小さくする
胃管を挿入しない
ドレーンを留置しない
術中
短時間作用性麻酔薬を使用する
硬膜外麻酔により鎮痛を行う
水分とNaの過剰投与を避ける
体温を維持する
ドレーンを留置しない
術後
短時間作用性麻酔薬を使用する
硬膜外麻酔により鎮痛を行う
水分とNaの過剰投与を避ける
体温を維持する
術前2時間まで、炭水化物を含むclear fluid
を飲ませると、術前の口渇、空腹、不安が
改善され、術後のインスリン抵抗性が軽減
される。
Fearon KCH et al. Clin Nutr 24, 466-467 (2005)
術前ORT
クエン酸
(mEq/L)
糖質(%)
65
30
1.35
20
60
30
1.6
50
20
50
9-23
3-5
5-18
50
20
50
Na+
(mEq/L)
K+
(mEq/L)
Cl(mEq/L)
WHO-ORS
75
20
ESPGHAN
60
O社製品
スポーツドリンク
3号輸液
胃液量
Mg2+
(mEq/L)
2
リン酸
(mEq/L)
2
乳酸
(mEq/L)
31
2.5
6-10
20
2.7
ORT群
輸液群
P値
口渇感
5(20%)
12(48%)
P = 0.04
空腹感
4(16%)
16(64%)
P = 0.001
行動制限
1(4%)
16(64%)
P < 0.01
Taniguchi H et al. J Anesth (2009) 23:222-229
術前ORTにより期待される効果
•
•
•
•
•
•
•
•
•
脱水の予防
不安・口渇感・空腹感の軽減
インスリン抵抗性の減弱
術後悪心・嘔吐の予防
免疫能の維持
術後罹病率の低下
安全性改善
入院期間短縮
コスト削減
術前ORT実施への問題点
•
•
•
•
適応の判断
患者教育
摂取量・最終摂取時間の確認
医師・看護師の業務量増加?
まとめ
1.術前絶飲食は誤嚥性肺炎予防のために必要である。
2.術前絶飲食の指針としてASAガイドラインがある。
透明な飲み物 2時間
母乳
4時間
ミルク、食事 6時間
3.術前絶飲食が守られなかった場合、胃内容貯留が疑われ
る場合には、麻酔導入法に配慮が必要な場合がある。