「kitayama_theory」をダウンロード

北山理論の発見
*敬称略
妙木浩之
目次
「きたやまおさむ」の出発点
芸能活動から精神分析への移行
 見るための時間
「見るなの禁止」と徐々に見ること
 見にくいことと醜いこと
ケガレ、心と体の間、心身両義性
 中間領域の言語論:わたしの橋渡し
あいまいさと比喩、そして劇化
 まとめ

「きたやまおさむ」の出発点:
芸能活動から精神分析への移行
出発点としてのフォークル
帰ってきたヨッパライとは天国に行き、そ
して快楽の限りを尽くし、その行き過ぎ
で天国を追われ、現世に戻ってくる
↓
天国良いとこ一度はおいで
超自我としての神様:声北山修
錯覚から脱錯覚のプロセス
戦争を知らない子どもたち
レコード大賞作詞家としての北山修
『戦争を知らない子どもたち』
語り部としてマスコミに活躍する
↓
言葉と錯覚の間で「きたやまおさむ」
が登場する。
転機としての転身
1970年
晴れ舞台として
レコード大賞作詞賞
芸能界
DJなどの仕事
1972年
結婚→留学へ
精神科医
精神分析
英国留学と精神分析
1974年ロンドン大学精神医学研究所に留学、
モーズレイ病院で、当初行動療法研修をすま
せ、外来の精神療法ユニットにうつり、その後
精神分析と出会い(1975:30歳)、Hayleyの
分析を受ける。
1977年帰国、武田病院で精神科医として働く、
マスコミ体験の振り返りとしての「人形遊び」
小此木啓吾先生よりSV.慶應大学精神神経学
教室、心理学研究室に出入りする。
1983年『人形は語らない』
 マスコミ的な公の発言と私的な心理
療法的なコミュニケーションの間のず
れを葛藤として表現する。⇒「きたや
まおさむ」という名前を使っていること
の意味。
 公に対してパーソナルであることの意
味として描く。
→みんなから見られる体験から
見るための時間:
「見るなの禁止」と徐々に見ること
開業:そして
臨床言語論研究会とウィニコット研究会
1979年 北山医院院長 父親一郎氏、死去
1980年 北山医院(現北山研究所、南青山心理相談
室)を南青山に移し、開業精神療法のクリニックとし
て開始、翌年より中村・佐野・佐伯先生らが参加、研
究会を開始して、数年後ウィニコット研究会と臨床言
語研究会の二つに分かれる。
1982年『悲劇の発生論』へ
→論文「乙姫」から「見るなの禁止」
言葉の効果を使う臨床的場面
構造>設定
→入院や病棟どの設定での治療
 開業:設定>構造:自分と居場所論
→開業場面など脆弱な場面でもっとも重要
な道義は言葉である。構造的な障壁だけで
治療はできないし、それをどれだけ言葉に
できるかが要因として重要になる。

精神療法と時間的要因1.2
精神分析研究 Vol23 No2 1979
ここでの事例はBrief Psychotherapyの事例で期
限設定の議論が中心に行われている。面白
いのは精神分析の「無時間性」と短期療法
の「有限性」が対比されていることで、次
のように述べる。「時間が存在せず無限の
時間を指向する精神と、死に向かって有限
の時間を生きる肉体の両方をかかえこんで
いる存在であると大胆に表現される矛盾を
ひきうけなければならないのは、まず治療
者自身だろう」
北山はこの頃、開業を考えている
精神療法と時間的要因3:
転移・逆転移理解における「乙姫の禁止」
1981年 第25巻第1号
事例は20歳代の男性で母親の禁止、見るなの禁
止がかかっている事例→1979-1981の間
浦島太郎
①竜宮訪問
②竜宮滞在
③帰郷
④時間の経過
⑤死(急激な脱錯覚)
1. 浦島の悲劇的体験の心理学的位置づけ
2. 乙姫との間に成立した乙姫の禁止の起源
1981年
患者の羞恥体験に対する治療者の〈受け取り方〉
恥という日本的な心性のもっている治療
者と患者の関係に注目
→イザナミ-イザナギ神話の分析
「見るなの禁止」
異類婚姻説話の再検討
動物的な夫や妻に対する嫌悪感
羞恥心に対する治療者の取り扱い方

動物と人間、自然と意識の出会い

異類婚姻譚
西洋の魔術的な奇跡
日本の羞恥の
美的なパターン
鶴女房からさまざまな問い
エディプスとスフィンクス
西欧のメルヒェン(異類婚姻譚)

ヨーロッパの場合には、変身にはかならず
魔術的手続きが必要とされており、動物と
の結婚は、じつは動物ではなく、魔法をか
けられて救済を求めていた人間だったとさ
れている。…また、人生の伴侶を得ること
をゴールとし、それが達せられたとき、聞き
手ないし読者は必ず満足して終る。
日本の異類婚姻譚では、無限定の自然のなかから、
ある力をもったものが人間の文化の世界へ来訪する。
そして人間と婚姻したのち、①自ら退去し、または②
人間に追放されて、無限定の自然に帰る、または③
人間に殺害される、の三種類である。
動物と人間の間、移行的存在
動物
人間
さまざまな異形たち
1982『悲劇の発生論』
 イザナギの視線とイザナミの怒り
 道成寺伝承
上田秋成『蛇性の婬』
 浦島太郎
 母の国からこの国へ
浦島→異類婚姻説話→道成寺
浦島-夕鶴‐イザナギの時間論
見るなの禁止-時間ととも破られる
うらみやくさり
清め
動物の世界
意識の国
母の国
この国
黄泉の国
見にくいことと醜いこと:
ケガレ、心と体の間、心身両義性
醜いものの起源:見にくい
北山がほぼ同時期にはじめたのは見にく
い対象、そしてその場所(肛門は自分で見
れないことと関連して)強迫や境界例の治
療の中でしばしば登場する肛門期的な保
持についての研究であった。
 そして、そこでの汚したい(怪我したいとも
読める)という気持ちの背景を心身両義性
のなかに見出していく。

分けられない間が汚いという文化人類学
なぜ唾液、汗などの間
内外の境界の液体が汚い
のか。にもかかわらず
(涙の問題)見ることの境界
がもっとも美しい体液=涙
であるという問題。そして
それが悲しくても、うれしくと
も使われるという問題。
メアリー・ダグラス

身体性:強迫と保持の機能について
1982「ある強迫神経症者の吐き気について」
精神分析研究第26巻4号→祟り
1983年 肛門期の観点から見たいわゆる「境
界例」 第27巻2号
そして保持機能 祟りの恐怖 ①服従と反抗
②見えないところの疑惑、③超自我
④万能感、⑤露出傾向、 ⑥矛盾の苦痛
⑦保持機能不全、⑧肛門サディズムとトイレッ
トトレーニング
→境界例=保持機能不全
保持と消化と排出と:
割り切れない、どっちつかずの領域が保持機能
をあまりに強力にして、漏れることの恐怖を感じ
る場合が強迫であり、それはしばしば祟りを、さ
らには汚したいという汚物をもたす場になる。こ
れに対して
 おさまりの悪さ、保持できないでもれてしまうこ
と、そして割り切れないものが、内側、身体から
漏れ出してしまうという体験についての論考は、
心身両義性という概念で、後の比喩の理論、治
療概念につながっていく。

ケガレの精神分析
1984年「汚したい」について:ケガレの精神
分析に向けて。精神分析研究、第27巻5号
再び民俗学的研究との接点が得られる。
①対象を汚したいという衝動。
②対象を汚して満足や快感を得る傾向。
③肛門サディズムを意識するとすぐに行動になってしまうと
きの、保持するための包容力のなさ。
④旺門期的な分極傾向をもつ対象関係。
⑤対象汚染の苦痛とそれを防衛する強迫行為。
⑥物質のように取り扱われる罪としての自己不浄。
ハレとケ、そしてケガレ
共同体と境界の間
に黄昏時があるという
空間論=妖怪の時間
 時間的にケの時間と
ハレの時間の間がケガレ
として排除されやすい

ケガレの時間論との関係で
ケガレ論
ケ
ハレ
ケガレ
ケ(気)は人間生活の基幹部を形成しているが、このケの領域
は絶えず動揺していて、それはケガレ現象によって左右され
るのである。しかし祭りや年中行事が催されるとケは縮小しハ
レが拡大する。それによってケは機能を回復してくる。
身体の境界線のなかで性感帯でもある
場所は、心と体のあいまいな領域
体
外
内
心
間としての心身両義性
心身両義性
身体語を
用いるこ
とで、心
身的な体
験を比喩
として用
いること
ができる。
中間領域の言語論:わたしの橋渡し
あいまいさと比喩、そして劇化
架橋機能としてのあいまい表現
あいまいさ、両義性、両面性を使う
何かをはっきりと言うこととはつねに選択であり、
同時に別の何かを言わないことでもあるが、暖
昧化は、日本語を記号として活用するときに必
要な基本的レトリックのひとである。
 ウラの意味を脱臭化し匂わす暖昧表現が、言語
的にウラとオモテを橋渡ししているという可能性
が理解されると思う。これは私の文脈では「中間
領域の架橋機能」のことである。

1984両義的な言葉の橋渡し機能
1983年「国語発想論的解釈」
解釈はあくまで日常語である
→『日常臨床語辞典』
1984年
ハコとかカベ
比喩の発生
1985年「妄想患者の治療における比喩の発生」
1985年「文字通りの体験が比喩になる過程」
1986「冗談と比ゆ」
1986年「開業精神療法:治療の最小単位として」
比喩の相互作用機能(Black)
おおかみ
男
男は狼である(AはBである)によって、AとBと
が相互作用を受ける。
1986年話を置いておくこと:非言語化の試みから
1986学会発表「匂わすことと明確にすること」
→あいまい耐性
1987年比喩化と「織り込み」について
「女王様」「箱入り息子」など
心身両義性のなかでの言葉
1987学会発表「劇化と比喩化」
→物語論の再構成
→1988「初診における比喩の使用」
言語の切断とは別の機能
比喩とは言語と非言語の間の、相互作用を
織り込むことで、文字通りの体験と言語的な
体験とを橋渡しする。
 PCTリンクの機能
 両義的なあいまいな領域を映し出す(情動
喚起的)
 心身両義性を示す(ボディスキャン)
 比喩の創造機能(新しい意味の創出)
エディプス:
 言語の探求=問いから、出自の問い、そし
て妻であり母である人を問い詰めて、自殺
にいたる。そして盲目になる。
異類の男性主人公:
 物質的な要求と覗き見的な欲望から見る
なの禁止を破って見てしまうことで、見られ
て恥を感じた女性を見送る
=甘えと見るなの禁止の緩やかな結合
見ることの分裂と統合
輻輳のなかで立体的な統合ができるため
の分裂(ウィニコット)
 「見るな」の禁止の背景にある、傷ついた
妻や母たちを見ないふりをすることのむず
かしさについて(北山)
⇒わたしと自分の間の、さまざまな見にくい
領域について、時間をかけてみる。

1989年自虐的世話役
1988年「アジャセ」の見直し
押しつけられた罪悪感
1989年「自虐的世話役について」
→海外への仕事: 悲劇の発生論
比喩の作用 そして自虐的世話役の三
つの英語論文
⇒治療論としての抱えること他
見ることと見ないこと⇒共視論
横になることについて一睡眠と覚醒の聞に
一、1989年
→見るなの禁止の臨床的な展開
共視論(媒介としての退行からエディプス)

時間をかけて見る1
(見るなの禁止を一定時間守る)
時間をかけて、プロセスを見
るという臨床的な態度は、ひ
とつは覆いをつくる(暴露しな
い)、あるいは覆いをとるとい
う二つの臨床的な態度の発
見をもたらした。
 しかもこの事例研究は、これ
までの症例報告の事後報告
の形を取っている。

時間をかけて見る2
(母子とともに見る浮世絵)

時間をかけて、プロセスを見
るという臨床的な態度は、も
う一つは、共に視る母子画
の研究、これはおそらく、共
同研究者たちとの仕事だろ
うが、人と一緒に仕事をする
という作業を含めて、共同注
視を使うという臨床的な作業
をもたらす。
覆うことから話すこと(劇と物語)
治療論としての抱えること、覆うこととの関連
で。
設定が舞台で、そこでの物語をどのように
作っていくかという治療論=筋やつながり
 「抱えること」と媒介的退行……
→劇的な精神分析:覆うこと、そして見えな
いところを見る。
話すことは、放すことと離すことの間のやりとり
のなかで実現する:身体と自己像の間、あいま
いさのなかで、時間とともに見にくいものを見る

語は話すことで、私と自分を離す。
他聞
私
身体
自分
多分
他分
まとめ
時間と抱えること、そしてみにくいことを見る
論考1:わたしの中間性
 時間的な経過、プロセス
仮説1:乙姫の禁止以来、北山が考えてきた
ことは、時間とともに抱えることである。
自分に居場所を与えるのは、長期的に、そして時
間的に穢れとはれとの間の時節を受け入れること
によって、徐々に達成されると考える。見るなの禁
止、みにくいことを見れるようになっていく時間。
あいまいさ、わからなさ、みにくさに耐える
論考2:両義性の容認とあいまい耐性
 わからない=わけられないものの言語化
仮説2:保持機能不全としての境界例以来、
排出されるものを抱えるための治療の場
開業場面における比喩や場の設定のなかで、遊
ぶことの中間的な場を通して、ハジにも、穢いもの
にも、いけないもの(タブー)にも立ち止まって、そ
れを受容する。
内と外、本当と偽り、裏と表をつなぐ
論考3.間の体験、自分の多様性
 日本的な筋と違う物語
仮説3:動物と人間、悲劇の発生論以以後、
さまざまな物語が〈つながり〉を生み出す。
見ることと醜いこと、見えないところを見るために
舞台裏と表舞台との間、分裂、内と外、体と心、本
当と偽、裏と表の間の語り方を精神分析の対象と
する。
このスライドは、
以下のサイトからダウンロードしてください。
http://winnicott.cocolog-nifty.com/psychoanalysis3/
カテゴリー 日本語臨床