Common Sense

COMMON SENSE
失業対策年鑑の「昭和26年度版」を読む
-その1-
№36
2012.1.18
失業対策年鑑は名前が変わり、2003年度(平成15年)からは雇用
対策年鑑となっている。理由は語られていない。当時、私は壮丁の
貧層な雇用対策年鑑を手にして、政策当局は“失業”の言葉をもう
過去完了としたいのかとの思いであった。ふり返ると失業対策事業
の廃止は平成8年(1996.4.1)であり、すでに失業保険から雇用保険
への転換(1974年)により、失業者は「求職者」とされてきたのである
が‥。
今回、失業対策年鑑の「昭和26年度版」を有栖川公園・都立図書
館で通読した。建交労本部に在籍時、事務所を家探したが見つか
らず、労働政策研究・研修機構では、全52巻のうち、「昭和26年度
版」の「欠落」を私が発見者となった。因縁の本なのである。
なぜ、「昭和26年度版」なのか。「年鑑」の第1巻であることはもちろ
んだが、敗戦から5年、日本社会の「経済の麻痺的混乱と厖大な失
業者の発生」の実相と当局の政策対応を知りたいとことがあった。
「年鑑」が失業問題議論の必携書であることをあらためて確認した
ところである。
「失業対策事業」が、現在の失業に何を物語っているのか。私なり
に認識した事実を備忘しておきたい。
労働運動への発信
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敗戦により、政府は「国民勤労動員令の解除(10月)、軍の解体、在外邦人の引揚」による厖
大な失業者の発生を予想していた。
昭和20年10月の時点では「第1次、第2次復員を合計すれば1,324万人(外に女子75万人)の
膨大な労働力が労働市場に供給されることと見積もられた。極力前職復帰を図ることとしたが、
なお600万人の就業不能者の発生」とした。
昭和21年4月26日の人口調査結果では顕在失業者-約255.5万人、潜在失業者-約344.6
万人、全失業者-約600.1万人とされている。
昭和22年7月の「経済実相報告書」(経済安定本部)では「最近、我が国鉱工業生産活動は戦
前の3割程度であり、農村も人口飽和の状態にあるから、戦前の生産能率を基にして考えれば
1,000万に近い失業者が生ずる筈である」としている。
未曾有の失業に対して公共事業が活用され、「多大の努力」がはらわれた。具体的には、「
簡易公共事業」「知識階級失業応急事業」「共同作業施設」の実施である。背景に昭和21年度
予算に対する事業費60億円に及ぶGHQの公共事業実施命令(「日本公共事業計画原則」)があ
った。
昭和22年6月の「経済緊急対策」では「積極的」「消極的」な位置づけの分類で失業対策がま
とめられた。積極的失業対策とは、①公共職業安定所の効率的運営、②職業補導施設の拡充
強化、③輸出産業その他民需産業の振興による雇用量の増大化、④公共事業への失業者の
吸収であり、消極的失業対策とは失業保険制度及び失業手当制度の創設であった。
戦前、財界の執拗な反対により「流産」させられてきた失業保険制度の創設が初めて現実化
した。法案が第1回国会に提出され、昭和21年12月1日に公布された。その後、保険金の実質的
増額、適用範囲の拡充、日雇失業保険制度の創設の改正法が昭和24年6月1日から施行され
た。
失業保険の制定時のスキームは、受給資格が「離職の日前1年以内に、通算して6ヵ月以上
の被保険者」であり、給付は「報酬の6割に当たる失業手当を180日の範囲内で支給」され、費用
は「国は事務費の全額と給付費用の1/3を負担。国の負担以外は、労使折半負担。報酬に比例
する」というものであった。
なお、失業保険の意義について、「失業問題の解決は雇用政策の推進以外には真に有効な
る方法はあり得ない。失業保険はいわばこれを側面から補足して、短期的失業者に対して生活
保障を与えるに止まる。長期的要素を帯びる失業の解決は、飽くまでも雇用政策の推進以外に
はあり得ない」とされ、「就業促進と結びつくところに積極的失業対策の一助をなすもの」でり、失
業保険は他の社会保険と「著しくその本質を異にする」としている。
失業情勢は昭和24年に断行された行政整理、企業整備を契機として悪化の一途をたどっ
た。「労働攻勢が時日の経過とともに熾烈化」したのである。労働攻勢とは、「経済の停滞は、労
働市場を硬直化し、農村不況を誘引し、失業問題は労働の最低線である日雇労働に集中する
ようになる。失業攻勢はここを拠点として展開され、労働不安はこの面に生起」し、「昭和24年5月
頃より公共職業安定所及び地方公共団体を対象とする『求職闘争』は大衆行動を伴って
日常闘争として展開され、公務執行の妨害行為が各地に頻発した」ことを指している。「雇
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用は伸長せず、緊迫せる日雇労働情勢は必然的に失業者の求職攻勢となって現れた」の
である。背景には実施されていた公共事業の大半は農山村地域で行われ、都市地域の失
業者を充分吸収できなかったことがある。
「現下の失業情勢に対処するべき失業対策」が閣議決定(昭和24年3月4日)され、失業
対策法草案の準備が進められた。なお、閣議決定は、「失業の深刻化が社会不安の原因となり、
ひいては経済9原則の円滑なる推進を妨げる事のないよう失業対策を急速に確立整備するもの
とする」というものであった。ポイントは、以下の内容である。
第1-人員整理の実行を適正ならしめるよう必要措置を講ずること。
このために政府、民間において過剰労務の調査が先行した。措置には将来における優先的再雇
用の考慮等が言及されていた。
第2-公共事業に失業者を吸収すべき特別方途を講ずること。
この内容は、①公共事業の拡大と職安の全面的活動強化、②公共事業失業者を優先的に雇用
させる、③失業対策事業費の予算化である。当初案では、「従来通りの公共事業を建設事業と失
業対策事業との間に明確に区別して失業者の吸収措置をとる如く計画し、従って法案の名称は
『公共事業雇用(安定)法案』として整備していたが、24年度予算編成に新たに失業対策事業費
が計上されることになり、名称も(緊急失業対策法に)変更された」としている。
第3-配置転換を円滑ならしむべき措置を講ずること。
ここでは労働者住宅の建設や職安管内での労使協議会の設置が決められている。
第4-失業保険制度の整備拡充
これは、緊急措置の90日延長と土木建築業等への適用拡大である。
第5-職業補導事業を整備拡充すること。
職業補導とは、職業訓練であり、不足していた技能工養成の訓練強化である。
第6-その他
その他としては「失業し、なお生活困窮者は生活保護を適用する」としている。
緊急失業対策法は「失業対策事業の創始」と「公共事業の失業者吸収率」を法律化したもの
である。これにより、従来公共事業の一部として実施されていた「簡易公共事業」「知識階級失業
応急事業」「共同作業施設」は失業対策事業に一本化された。緊急失業対策法の概要と直後の
状況は次の通りである。
①多数の失業者の発生に対処する。生活の安定と経済に寄与することが目的である。従来の公
共事業「失業対策事業」及び「公共事業」の二つに分類した。
②失業対策事業を実施すべきことを定めた。事業種目は経済安定本部と協議する。公共職業安
定所の紹介する失業者を使用する。
③失業者吸収率-(「GHQ覚書」、昭和21年5月)を踏襲し、法文化した。
④監督は、失業者の吸収活用面から行うので罰則はない。ただし補助金返還がある。
失業対策事業実施後の特徴的な記述
・予算-昭和24年度-16億5000万円
昭和25年度-当初予算40億円、補正予算15億円
・輪番制の実施、作業規律の確立。
・地方失業応急事業が実施された。年間、1に就平均1万人以上に達した。
・「完全就労」の求職闘争が展開された。
・特定の思想団体がこの事業の就労者を動員して、不当な政治目的に利用せんとしたため、
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この事業の正常な運営は著しく阻害された。
・作業能率は当初30%程度だったのが60%に改善した。(25年度第4四半期)
「-その2-」以降の読解の予定
〔完全雇用政策〕-失業対策事業あるいは公共事業による失業者救済は、取り敢えず端的な措
置である」「わが国では、失業者の急速な増大傾向に圧倒され、(完全雇用政策が)事実上実施
の段階に至らず、研究も未着の状態である。
〔失業と社会保障〕-最終的な救済対応策として失業者は社会保障制度による補償を受けるこ
とができる。我が国において、社会保障制度と称されているものは、明治4年に制定せられた恩
給法以来、何らの基本構想を持たずに、従って、相互間に何らの関連もなく、全く個々別々に、
時代の要求に従って、次々と制定されてきた各種の社会保障制度とみられるべき制度の総称に
過ぎず、従って‥。
〔諸外国における失業問題〕-失業問題は今世紀前半の中心的な社会、経済問題の一つで
あった。特に、第1次大戦の終了から第2次世界大戦勃発までの20年間は「失業の時代」と呼ば
れるほど深刻な様相を呈し‥。戦争が失業を一応「解消」した。1944年、フィラディア宣言と完全
雇用は‥。
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