トヨタ

TOYOTA
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準備期
開発期
戦時下のトヨタ
戦後のトヨタ
次世代車
功労者の紹介
営業方針
vs YULON
.会社体制の再構築
トヨタの準備期
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創業者 豊田喜一郎(1894/6/11生)
静岡県、長男
父 佐吉
織機の発明に生涯を捧げた人
最終の狙いは織布業の機械工業化
「一家を支えるには一町歩の土地がいる
が、1町歩の面積で工業すれば、一か村が養
える、何にしても日本は工業へ進まなくては
いかぬ」
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父 佐吉 「一人一業」
83件の発明特許
35件の実用新案権
海外では 19カ国の特許権
喜一郎
自動織機の開発.製造に熱中
昭和12まで 32件特許.実用新案権
自動車開発進出
自動車業界の変化
S6 政府は国産の自動車工業の確立を促進
S8 大量生産方式の自動車工業目指し
自動車部を設置し、製鋼所、組立工場
塗装工場など生産設備の充実図る
S10 「A1乗用車」試作車 誕生
大部分が米国産の部品
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国産トヨダの最初の営業危機
S11 「国産トヨダ」
「自動車製造事業法」により保護
政府の要請でトラック製造
 「G1トラック」
誕生
A1のエンジンとフォードのトラックボティ
トラブルが多く、不満続出、国内需要伸びず
在庫増え営業危機に陥ったが、日中戦争によ
り乗り越えた
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「トヨタ」誕生
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トヨダ車のイメージ作りにトヨダマークを一
般公募し、選ばれたのが美術図案家中島種夫
の作品で今日の「トヨタ」マーク
「タ」その理由は
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「トヨタ」濁点を付けないほうがさわやか
「トヨタ」字画が八画で縁起がよい
豊田の人名から離れることにより、社会的存
在の発展を意味
S12 商標として登録され、社名もトヨタ自
動車工業(株)と命名
戦時下のトヨタ
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政府は高度な技術と生産力のあるGMと提携
させようとしたが進展しなかった。
急速な生産力を高める為、トヨタ独自の「ジ
ャストインタイム」の生産方式の思想ができ
つつある時期である。
乗用車の生産は許可されず、軍の要請で戦時
型トラック、水陸両用車、電気自動車の実
験、航空機のエンジンなど製造
戦後のトヨタ
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GHO(連合国総司令部)より、軍需工業の
生産停止を命じられたがトラック製造許可
↓ 理由は
食糧配給の輸送に必要
電気コンロ、電気アイロン、鍋、釜などの家
庭用品製造を各工場の特徴に応じ指示
経営改革→各専門工場を独立経営を持たせる
トヨペット
自動車工業の将来性
戦後当時乗用車生産は禁止されたが
「自動車工業なしの国は低級国家だ」
↓
トヨタの技術者たちは欧米車に対抗できるよ
うな新小型の研究開発に執念を燃やし、イギ
リスのベビーフォード.西ドイツのアド-ラ
などのエンジンを参考に小型車向きの新型エ
ンジンの設計に取り込んだ
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S22 「SA型乗用車」完成
一般公募で「トヨペット」
(トヨタのペットの意味)
当時最先端をゆく技術が随所用いられ、他社
に先駆けて開発に成功し、生産規制された中
で、製造販売を軌道に乗せることができなか
ったが、トヨタの自動車開発の出発点となっ
た。
ドッジ.ライン政策の影響
1949-1950年 ドッジ.デフレに見舞われ、
在庫が山積み、倒産寸前。喜一郎は責任を取
り社長を退任、石田退三が第二任社長とな
る。
 石田退三が就任すると、すぐ朝鮮戦争が起こ
り、米軍のトラック発注で在庫を一掃でき、
営業業績が回復
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ドッジ.ライン政策
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戦後のインフレを収束させ、通貨価値の混乱
を安定させる政策
↓ 内容は
融資を停止
単一レート
1ドル→360円
企業への補助金廃止 → 自立化を促す
モータリゼーション
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モータリゼーション (motorization) とは、自
動車が大衆に広く普及し、生活必需品化する
現象である。1960年後半、日本では高度成
長が本格化し、サラリーマンの所得も急上昇
して、何とか手の届きそうな大衆車として1
966年「カローラ」が発表され日産は「サ
ニー」と、本格的なモータリゼーションの起
爆剤となり、この年はのちに「マイカー元年」
と呼ばれる。
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日本のモータリゼーションは予想以上に早い
ピッチで進み、アメリカより40年、ドイツよ
り10年遅れての本格的なモータリゼーション
の波が押し寄せたのである。
排気ガスの石油危機
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1970年から急激な自動車文明により排気
ガスの鉛公害で、マキスー議員排気ガスの規
制法案を提起、世界大手自動車が排気ガスの
削減の研究開発を始めた。
いち早く規制値に達したのが技術が遅れてい
た日本.トヨタと日産だった。
1975年の石油危機でアメリカが燃費規制を
目的としたエネルギー節約法もトヨタが省エ
ネにつながる低燃費エンジンの開発を先行し
ていた。
トヨタはいち早く達成できた要因
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欧米の傲慢ー技術が遅れている日本に開発成
功は自分より早いはずがない。
日本人の特有の個性ー家庭を顧みず昼夜猛烈
に働く技術者の集中力
「ジャスト.イン.タイム」方式の効果
↓
結果
コストダウン、品質の向上
80年代の「日米逆転」といわれるほどの競争
力を生み出す原動力
次世代車第一弾ー「プリウス」
バイブリッド.カーとは
「雑種」「混成」の意味で、ガソリンエンジ
ンと電池と電気モーターの組み合わせ
↓
燃費が2倍に引き上げられ、排気ガスも大幅
削減できる
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プリウス
1997年 トヨタは乗用車1500CC「プリ
ウス」を世界に先駆けて量産販売開始
↓
今までの世界自動車メーカーはいずれも電気
自動車同様試作域を出ていなかった。
↓トヨタの大胆な決断の背景には
「21世紀の環境及び省エネでもトヨタは世界
をリードする」と奥田社長の積極経営姿勢
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「カローラ」クラスの大衆車として販売
改良を重ね二代目「大ヒット」となる
世界トップクラスの低燃費と2.4Lガソリンエ
ンジン並みのパワー実現
低価格189万円(当時日産車は315万円)
スマッシュヒット
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2009年4月に施行された「エコカー減税」政
策により発売開始から6月17日までの1か月
間の受注台数が月販目標1万台の18倍18万台
を受注。納車は7ヶ月待ち状態で自動車史上
稀に見る「スマッシュヒット」
新車販売台数も2009年6月からずっと首位を
獲得
電気自動車ーRAV4
世界戦略車である(1994~)
世界200カ国販売.リース
 ニッケル水素電池を使用し、エネルギー、出
力密度は優れているが電気自動車としての充
分な性能を確保できなかった。
(航続距離.充電時間.耐久性.車両価格)
↓
世界大手の競争である、その実用化として
いずれも2010年をめどにしているようであ
る。
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トヨタの功労者たち
大野耐一
「ジャスト.イン.タイム」を体系化した人
物。「生産管理のゴッドファーザー」と称さ
れる
 石田退三
「自分の城は自分で守れ」と内部留保方針。
現在でも受け継がれ「トヨタ銀行」と呼ばれ
るほど内部留保を多く持っている。
トヨタの無借金経営の優良な財務体質の基礎
となった
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奥田碩(ひろし)
保守的だったトヨタを改革した人物。
国内販売落ち込んでいたシェアを3年で40%ま
で回復させ、現在の世界第一位の自動車メー
カーの座を手にした。
が、安易な拡大路線に走り品質管理を怠ったこ
とが2010年の大量リコールに繋がったと彼の
経営姿勢を批判する声もある
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神谷正一郎
当時1935年は「日本GM」の販売部長だった
喜一郎が豊田自動織機製作所入りを勧めた
 Gm方式を生かしつつGM.フォードの各道
府県のディーラー網を自社ディーラー網とし
て組織化し取り組み、大成功を収めた。
 彼は常に「運転免許者を増やすこと」を念頭
に消費者の趣向を考え、多くのオプションを
用意する戦略で他社を圧してきた。
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月賦制度の完備や全販売店をアフターサービ
ス拠点にと完璧な販売網作り
海外市場の開拓計画
「車の売れる環境づくり」
常にモータリゼーションの先手を読んで、業
界をリード「販売の神様」と称された。
豊田綱領
豊田創始者豊田佐吉の考えをまとめたもので
今日までトヨタの経営の「核」である。時代
の流れで表現方法が変わるが、トヨタグルー
プ各社の経営理念となり、トヨタイズムを支
えるものとなっている。
一.上下一致、至誠業務に服し、産業報国
一.研究を創造に心を致し、時流に先んず
一.華美を戒め、質美剛健たるべし
一.温情友愛の精神発揮、家庭的美風を作興
一.神仏を尊崇し、報恩感謝の生活為すべし
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YULONの準備期
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創始者 嚴慶齡は上海出身でその父は紡織工
場を経営していた。
1953年,嚴慶齡は国家の発展は自動車工業か
ら始まらなければならないと思い、また政府
の「発動機救国」政策で9月に「裕隆機械製
造股份有限公司」を設立
早期の部品生産と技術協力
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1960年 政府的保護政策により「「裕隆汽
車製造股份有限公司」」が誕生。当時,臺灣
は戦争によって多くの工業地区が破壊され、
工業力と技術力が弱い。一般國民所得もわず
か2320元(マイカーには所得が5000元以上必
要だったころ)。そのためわずかな「船用柴
油機」の製造と機械鑄造技術の研究開発。
日産と技術協力
1957年,日產自動車株式會社の技術合作のもと
で、1960年 正式に乗用車「ブルーバード」
1200c.c.の生産が始められ,國產乗用車とし
て新紀元を迎える。
1960年~1964年自動車の部品生産の技術を絶え
ず研究し技術を磨いた。
1965年 には更に多くの車種を生産。年間生産
量一萬輛を突破。
自動化生産
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1966年~1973年,裕隆汽車は海外から大型機
械を輸入し自動化の一貫作業生產を図る
多くの自動車の部品工場(子会社)を設立
ガラス、自動車用椅子、安全ベルトなど
それらの六大部品工場で自製率60%までに達
し,20%の部品を日產工場に輸出。
1972年建衝壓工廠,難関生產量五萬輛突破。
自主設計の開発
1980年までの國內自動車製造の技術力はつけて
きたが設計開発にはまだ外国の技術協力が必
要であった。
1981年 吳舜文が二代目の社長となり、裕隆汽
車開発センターを設立した。これにより自主
設計開発が大きく花開いたのである。
1983年中東地区へ初の海外輸出を果たされる
「飛羚101」
1986 初の自主設計開發の第一号
「飛羚101」として量産をはじめ、
「中華民國裝上自己的輪子」と評価された。
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会社体系の再構築
1988年 「產銷一體」之新經銷體系を成立
 1989年
嚴凱泰が三代目の社長となるが当
時販売パートナーとの意見違いや自主開発し
たため日産との関係が緊張化、
更に政府の自動車の市場開放で裕隆汽車が営
業危機に陥る
 1992年からの国産車を日産ブランドとして
売り出すが連続3年の営業赤字となる。
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企業再建の第一段階
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1994-1995 廠辦合一、流程改造
各地に分散し単独闘争していた工場、開発
センター、販売店を集中し、内部組織を改革
更に国際大手自動車と組み、また日產の高級
車「Cefiro」で裕隆汽車を危機から脱出。
第二段階
1996-1998 差異化策略
速やかに販売大体系を整い、正確且速やかに
消費者趣向と要求を把握するのがいわゆる「
差異化策略」である。
1.1998年 円安により,日本の部品のコスト
が下がりためこの機會に大量に関連設備を購
入。国内で組み合わせ、消費者の趣向に改良
2.アフターサービスの整備工場を充実化
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3. 移動式サービス
休日でも営業、各観光地には臨時設備工場
を設置、いつでも、どこでも顧客がサービス
を受けられる
↓ これらの政策により
裕隆汽車は赤字から70多億的利益となり、
,消費者も「裕隆は品質不良」という印象が
消えた。
1997 日産の高級車「INFINITI」の輸入により
1998-1999連続の販売台数首位を獲得
↓
「INFINITI」の成功が裕隆に新しい時代へ
と導き,そして、一連の国外大手との協力計
画は始まりでもある。
 1998
裕隆亞洲技術センター(YATC)設立
完全な生産線と国際化と自動車関連事業の統合
を図り、東南アジアと中国へ進出
第三段階「大三圓戰略」
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YATCを核として発展していく戦略である、
完璧な製品線、國際化、自動車関連の周辺事
業(すなわち大三圓)製品線及び國際分工で
コストを抑え、その製品をまた兩岸三地(台
灣、中国、フィリピン)へ送る,裕隆水平整
合汽車相關事業透過國際分工創造新的全方位
價值鏈,再以汽車相關事業結合優勢完整產品
線,創造出智慧型運輸系統,以達到大三圓的
目標。
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「大三圓」達成するには多々問題が残されて
おり
例えば:人力資源的整合の管理
水平整合的落實、人事コストは?
YATC 的研究發展の未熟
第四段階
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2003年~
製造業から脱出し、サービス業となる
2003年5月裕隆汽車が「裕隆」と「裕隆
日產」に分割。
2005年7月アメリカのGM集團と合資し「
裕隆通用汽車公司」設立。
自動車產業の必勝要素は,生産ではなく,
品牌和通路が主導となることを読み、裕隆が
多品牌及多角色の企業となる
次世代車第一弾ーLUXGEN MPV7
では、いくら戦っても他人の天下だ」と語
り、そして、「YULON自動車はブランドの
主ブランドを考え始めたころ、ちょうど19
90年に中国の自動車市場が台湾の3.4倍から
今では60倍に達した。この時機を逃してはな
らないと、巨額を投入し創立Luxgenブランド
。
2009年8月,LUXGEN(納智捷汽車)發表され、世界
初の智慧科技車LUXGEN7MPV。
嚴凱泰は,LUXGEN7 MPVは一つのスタートで、これ
からのLUXGENは智慧車のブランドのもとで,研究
開発し,台湾から出発し国際へ進出。そして
YULONグループでけでなく,世界第一の台灣IT産
業もまたMADE IN TANWANを目指す。また,
電気自動車の開発もすでに完成した,将来は
LUXGENの経営の重點となるであろう。
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多くの専門家がLUXGENの先をよく思わない
が、実際月300台の販売予想数だったのがこ
の半年ですでに4000台を超す受注をだっ
た。
LUXGENは台灣の誇りであるIT産業+AUTO
で、台湾ブランドとして大きな意味を持つだ
けでなく,これからの台湾の自動車工業とIT
産業にも大きな影響となる。
未来の智慧電動車ーLUXGEN EV+
電動車は新世代主流となる今。自動車工業發展
はこの百年來最大の產業革命といえるだろ
う。嚴凱泰は電気自動車の研究開發を通し
て,台湾を世界の大手自動車メーカーと肩を
並べる好機でもあると語る。
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納智捷はアメリカの有名電動車開発單位ACP
(AC propulsion)と協力し,そして國內では資訊科
技業者宏達電、億光と協力,台湾初の「智能電動
車」を開発した。その狙いは國際大廠との競争であ
る。去年發表された電動車は伝統的な自動車開発
(Auto)、創新能源技術(Energy Technology)そし
て資訊產業(IT;Information Technology)の3つの部
份を統合し重要なのは,電動車の主要部品はモータ
ー、電池、コントローラー等,すべて台湾でつくら
れたことである。
台湾電動車の可能性
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BMW的電動車「MINI E]は和信集團旗下的
能元科技の生產の鋰離子電池を使っており
美國Tesla電動モーターは高縣公準精密工業が
開発したものである。
嚴凱泰の経営理念
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「一.五哥」からの出發
「兄弟順」と例えでいうと,世界有名ブ
ランドは「兄貴(大哥)」だけど,ブランド
の無い裕隆「二哥」で甘んじてはならない,
よって,有名ブランドとの技術協力により
「一哥半」になる。だから一‧五哥からの出
發。これ、すなわち「一.五哥」の哲學であ
る。その中に「遠見、氣度、策略、方法」四
項要素が含まれる。
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この「兄貴」を恐れない「二哥」に甘んじな
い嚴凱泰の「挑戦精神」,まさに新裕隆成功
の原因であろう。
まとめにかえて
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トヨタとYULON、スタート時点が違う
現在と未来の可能性を見る
YUKLONの未来には裏づけがある
充電切れや公共の充電、インフラの整備、電
池の性能やコストなど課題が山積しているが
、yulonが世界大手に先駆がけて電気自動車
量産に一番早くこぎつけられることは夢では
ないと思う。「MADE IN TAIWAN」