長崎の惨禍と原爆投下直後の医療救護活動 “The

平和学Ⅱ
ナガサキへの原爆投下と惨禍
ナガサキへの原爆投下と惨禍
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はじめに
1945年8月9日11時2分
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長崎への原爆投下/衝撃波・熱戦・放射能/投下の瞬間と直後/火災の発生/
医療救護を求めて
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投下当日の医療救護
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長崎医科大学/浦上第一病院および被災地におけるその他の救護活動/近隣地
域からの救援部隊と大村海軍病院/「救援列車」による負傷者の市外搬送

8月10日
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長崎医科大学/浦上第一病院と市内救護活動/「差別」の問題/大村海軍病院

8月11日およびその後
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本格的救護活動の開始/長崎医科大学と仮救護所の開設/浦上第一病院と「救
護病院」設置/大村での異変/原爆の「真の恐ろしさ」

おわりに
はじめに
1945年8月9日11時2分
長崎への原爆投下

長崎は、京都にかわって最後にリストに追加さ
れた新兵器投下の候補都市で、投下当日も第
2目標であった。

高度約500メートルで炸裂した4.5トンのプルト
ニウム爆弾は、高性能化学爆薬TNTに換算し
て22,000トン、放出エネルギーは約20兆カロ
リーと推定されている。1945年当時の通常の
空襲にそくしていえば、2万トンのTNT爆薬は、
B29爆撃機4000機以上の搭載量に匹敵する。
衝撃波・熱戦・放射能

核爆発のエネルギーは、約半分が爆風に、約3
分の1が熱線に、約5%が初期放射線(ガンマ
線と中性子線)に、残りの10%が爆発1分以後
に放出される残留放射線によって構成される。
TNT火薬の爆発と比較した場合の核爆弾の特徴
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けた違いに大きな爆発力
多様な破壊効果
衝撃波を形成する爆風、熱線による被害
放射線による被害
パルス状の強力な電磁作用
複合被害
投下の瞬間と直後

惨禍は瞬間的に到来した。爆心地での地表面
の温度は摂氏3000~4000度に達した。

爆風の圧力は長崎では1平方メートルあたり6・
7~10.0トン、その作用継続時間は約0.4秒と
推定。
投下の瞬間と直後 「証言」

「一瞬にして地上の物は吹き飛び、破壊され、
天地がひっくり返った光景で、この世の終わり
ではないかと思った。人間の姿も着衣は、全身
または各部位の負傷でもぎとられ、男女の区別
がつかない。助けを求める声は耳にしても、自
分自身が立ち上り、にげるのが精一杯だっ
た。」

「手足のない人がころがりながら、助けをもとめ
る。ある人はピョン、ピョンと跳ね、ある人は水
をくださいと子供の私にすがる。目、鼻、顔、男
女の区別がつかない人の波。」
火災の発生

火災は、爆心地から1キロでは熱線によ
る直接発火、約2~3キロではほぼ1時間
後に起きた二次火災、2・5~3・3キロで1
時間半後におきた遠隔地発火により起き
た。
長崎の連合軍捕虜 「証言」

「[捕虜たちは]体力に任せて木材をはねのけ、取
り除き、汗と埃にまみれて火を消し止めてくれ
た。・・・このような美しい隣人愛、いやキリストの
「汝の敵を愛せよ」という言葉の実行を、目のあた
りに見たのはこれがはじめてであった。 」

「上の道に出たら、急に「ベイビイ、ダイジョウ
ブ?」と、外国人が走り寄ってきました。それは幸
町の捕虜収容所にいた捕虜の人でした。・・・捕虜
たちは救急箱から赤チンキを出して塗ってくれて、
包帯をしてくれました。息子も娘もみんなにで
す。・・・あの時はもう、敵も味方もなかった。 」
医療救護を求めて 「証言」

「広い講堂を片付ける間もなく被爆者が運ばれ
て来た。瞬く間に千人以上になり、足の踏み場
もない位、皮がめくれぶら下がり、目が飛び出
している人、血がダラダラと流れて息絶える人、
水くれと叫ぶ声が小さくなって行く人。生き地獄
とはこれだと、看護どころか気を失った。 」

「娘を抱き寄せると、「あんなにかわいい子だっ
たのに」全身は焼けただれてまっ黒、鼻も目も
見分けがつかないほどだった。その時私は「こ
の子はもう助からん。せめて病院の先生に手を
握ってもらって死なせたい」と思いました。」
投下当日の医療救護
長崎医科大学

爆心地から600メートルの位置 。

同大学内には、戦時救護の事態に備えて11個
隊からなる医療救護隊が組織されていたが、
「救護隊を編成することはおろか自らが救護され
る側に立たされる状態」に陥った。

永井隆、調来助、古屋野宏平医師らの活躍。
永井隆『長崎の鐘』
「先生、助けてください」
「薬をつけてください」「傷を診てください」「先生、
寒いです、着物をください」
口々にいいながら私らの周囲に異様な裸形が
群がってきた。そこら一面に投げ飛ばされた患
者のうち、息の根のまだとまらぬ人たちであ
る。・・・死んで動かぬ人の間をじりりじりりとにじ
り寄って、私の足首にしがみついて「先生、助
けてください」と泣く。
浦上第一病院
および被災地におけるその他の救護活動

爆心地から北東に1・4キロ離れた山上に位置。

結核療養所である同病院は、1945年8月当時、
1人の医師に約70人の患者、スタッフは20人ほ
どで、事務や経理は修道士や神学生がつとめ
ていた。

医師の秋月辰一郎は、結核の専門医。
秋月辰一郎『「原爆」と三十年』

もし私が医師でなかったら、どんなに気持ちが
楽だったかしれない。お互いに禍難をまぬかれ
たことを喜びあって、どこかへ避難したことであ
ろう。しかし私は医師である。怪我の患者や全
身火傷の患者が病院の庭で唸っているのに、
どうしてこれを見すてることができるだろう。病
舎は焼けてしまったし、薬品も医療器械も燃え
てしまった。しかし、患者がいる以上、私は医師
としての職責を果たさねばならぬ。
近隣地域からの救援部隊と大村海軍病院
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爆心地から直線で19.5キロに大村海軍病院。

午後3時頃、海軍の通信網を通じて第一報が入
り、広島に投下されたと同様の爆弾が長崎に投
下されたことが報じられた。その後、特別派遣救
護隊が組織、被爆地へ派遣。

同病院の患者収容能力は1700人、投下当日の
在院患者数200、病院側には864の人手、負傷
者1000収容の準備を整えた。
「救援列車」による負傷者の市外搬送

長崎では、「救援列車」が負傷者の救護や避難
に重要な役割を果たした。

原爆で破壊された鉄道(長崎本線)を至急復旧
して、午後1時50分には、最初の列車を爆心地
から1・4キロの地点まで到達させた。そして、燃
えさかる被災地で負傷者を収容すると、炎のな
かをふたたび引き返して、医療施設のある近隣
地区へと向かった。

9日の深夜までに救援列車4往復が運行し、お
よそ3500人の負傷者を輸送した。
塩月正雄『初仕事は安楽死だった』

無蓋の荷台にはこれ以上乗せられないほど、
死んでいるとも生きているともわからぬ人が折
り重なっていた。・・・どの人もみな頭髪は焼けち
ぢれ、着衣はボロボロになり、露出した肌は焼
けただれて血にまみれていた。しかも懐中電灯
を向けてみると、顔面にも背にも手足にも、無
数のガラス片や木片や鉄片が突き刺さってい
る。とても人間の姿とは思えなかった。しかも、
例外なく顔や体に真っ黒なコールタール状のも
のが附着していた。・・・みんな息をのんで見守
るだけで、誰ひとり動こうとはしない・・古参の下
士官たちですら、尻ごみして動けずにいた
8月10日
長崎医科大学
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原爆投下2日目、永井らが必死の思いで救出し
た負傷者たちは、次々と死んでいった。
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大学関係者の証言「ほとんどの人が「水をくれ」
と言っていましたが、水もなく困った。私等は病
院の地下室からブドウ糖のアンプルを持ってき
て、それを水の代わりにみんなに飲ませました。
助けることができず、ただ息の止まるのをじっと
みているだけ。」
浦上第一病院と市内救護活動

秋月「一日また一日、この負傷者や死者の中を
無我夢中で走り回った。それは治療するという
行為ではない。ただ医師として何かに追い駆け
られて走り回っていた。」

長崎県は現地救護対策本部を設置。本部の任
務は、1)家屋の下敷きになっている負傷者や、
周辺の山林に避難して動けずにいる負傷者の
救出、2)死体の回収、3)道路清掃、4)罹災者に
対する食料の提供などであった。
「差別」の問題

救護対策本部は、負傷者救護について、1)生
存者の救出を最優先とする、2)負傷者の救護
は傷の軽い者から実施する、3)やけどが半身
にも達するほどの負傷者は後まわしにする、な
どの注意事項を通告。

「助けられるものから助ける」という緊急救護の
鉄則が、思わぬ摩擦を引き起こす・・・
大村海軍病院

設備の整った大村海軍病院では、骨折や裂傷
であれば外科手術が可能であった。しかし、火
傷にはリバノール[=抗生物質の一種]を塗布
するしかなかった。また、負傷者の全身に食い
込んだガラス片や木片、鉄片は、いくら取り出し
ても際限がなかった。 ・・・
塩月『初仕事は安楽死だった』

ある患者は呼吸をすることがひどく苦痛になっ
ている。聴診器をあててみると、息をするたび
にガサゴゾという雑音が聞こえるし、ジャリジャ
リとガラスを踏み砕くような音さえ聞こえてくる。
さっそくレントゲン検査を依頼したが、現像され
てきたフィルムを見て、あらためてギョッとした。
背中や胸の傷は一見単純な切り傷かと思って
いたのに、肺の中にガラス片やその他の異物
が無数に飛び込んでいるのだ。どうしてこのよ
うなことが起ったのか。理由も不可解なら、それ
を取り出す方法もまったく検討がつかなかった。
8月11日およびその後
本格的救護活動の開始

来援救護隊のなかでは最大規模の部隊(針尾
海兵団第一次救護隊、249名)が長崎入りし、
翌12日頃から救護体制が整い出す気配がみえ
はじめた。
長崎医科大学と仮救護所の開設

派遣救護隊が臨時救護所を設営。
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陸軍の来援を機に、調は、大学関係の負傷者
の治療を改善するため、爆心地から4キロ離れ
た滑石に仮救護所を開設。
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永井も自らの救護隊を率いて、爆心地から5キ
ロ離れた三山に仮救護所を開設。
浦上第一病院と「救護病院」設置

秋月のもとを警備隊が訪れ、救護病院に開設
すると告げて、次々と重傷患者を運び込んだ。
だが、被災地で救護を行なった個人の開業医
がそうであったように、この病院に医師は秋月
ひとりしかいなかった。
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抗議する秋月に、警備隊は一袋の医薬品と全
身を負傷した200人の重症患者を残して去って
いった。・・・
大村での異変
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一見軽症で、回復に向かっていた者たちが突
然死ぬようになった。肌には紫斑があらわれ、
歯茎からは出血し、ブドウ糖やビタミン剤の注
射をすると針跡から腐りだした。

患者たちだけでなく、派遣されてきた日赤看護
婦にまじって働いていた長崎の女性たちにも同
じ症状が現れはじめた。被爆当日、市街地にい
た者たちであった。
原爆の「真の恐ろしさ」
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9月3日、放射線障害で調が倒れた。永井も病
の床に着いた。被災地にまったく足をふみいれ
ることのなかった塩月の白血球の値も一時的
にではあるが1ミリ立方あたり3000まで落ちた。
秋月も原爆症に苦しめられることに。・・・
秋月「原子爆弾の恐怖は、被爆の瞬間だけで
はなかった。いや、ほんとうの恐ろしさは、8月
下旬から9月の終わり、あるいは10月の初めに
かけての約4、50日間にひしひしと体験させら
れた。」
おわりに