哲学の論文を書くために

哲学の論文を書くために
序
「哲学」の論文とは?
納富信留
とわず、おもに哲学をテーマとする学生や、哲学的な問題
を扱う学生に必要と思われるアドバイスを行ないたい。
哲学の論文も、論文であるからには﹁学術的﹂でなけれ
の書き方や基本的なルールに従わなければならない。文献
が多いわけではなく、他の分野と同様に、学術論文として
︵二︶考察の道筋を見つける。
︵一︶自ら問題を立てる。
ことで﹁哲学する﹂とはどのようなことか。
ばならない。だがそれ以上に、論文を書くことをつうじて
を ど う 調 べ て 引 用 す る か、 論 文 を ど う 構 成 し て 執 筆 す る
︵三︶多角的に可能性を考察する。
本稿では、哲学を専門分野として卒業論文を執筆する際
か。そのような書き方の基本は、分野を問わずほぼ同様で
︵四︶問題に答えようとする。
﹁哲学する﹂ものでなければならない。では、論文を書く
あり、
﹃三色旗 ﹄ で こ れ ま で 各 分 野 の 先 生 が 紹 介 さ れ た や
ここで﹁哲学する﹂とは、
︵一︶から︵四︶の過程を忍耐づ
のガイドを行なう。哲学だからといって特別に変わった点
り方が参考になる。本稿ではそれらとの部分的な重複をい
三色旗 2011.3(No.756)
よく遂行する作業の全体を指す。この四段階に沿って、特
ていくのである。何もこだわりがないところからは、面白
るのか、それを解きほぐして客観的な﹁問題﹂に練り上げ
いている本人にとってそれを考えたいと思うことである。
い問題がでてくることはない。
﹁面白い﹂とは、何よりも書
徴を考えていこう。
一
哲学の問題を立てる
こうして自らの問題を明らかにすることは、
﹁自分自身﹂を
問題を製錬する一例を挙げよう。誰でも小さい頃から、
見つめるということでもある。
が、とりわけ哲学においては問いがきちんと立てられた時
﹁ 自 分 が 死 ん だ ら ど う な る の か ﹂ と い う、 考 え る の も 怖 く
どの場合でもテーマの設定はもっとも重要な作業である
に、研究の半分、いやそれ以上が終っていると言っても過
自分の生き方を見つめ直したいと思っている場合が多い。
という学生は、人生において何か漠然と不安を感じたり、
の動機や覚悟があるはずである。とりわけ哲学を学びたい
大学で学び苦労して卒業論文を執筆するには、それなり
学するために、西洋哲学では伝統的に﹁魂の不死﹂という
を信じても、根本的な解決にはならない。だが、
﹁死﹂を哲
り は な い。宗教の来世や臨死体験のような不可思議なもの
るのか﹂といきなり問うてみても、それを考察する手がか
て 喪 失 感 を持つこともある。しかし、
﹁死 後、私はどう な
なる不安を抱いている。あるいは、身近の者の死を経験し
ただ、それがそのまま哲学の問題となるわけではない。そ
問題を立ててきた。私たちの本来の存在である﹁魂﹂が身
言ではない。
れを取り上げて﹁問題﹂に"製錬"していくことは、哲学
体との分離︵=死︶を超えて永遠に与るかどうか。哲学者
で出会った人や出来事に由来するものかもしれない。そう
小さい頃から疑問に思ってきたことかもしれないし、人生
抱いているのかを問い直してみるとよい。それは、自分が
まず、自分が何に対して、どのような漠然とした関心を
て、存在論という哲学の伝統問題に至る。
る。 こ う し て 当 初 の 素 朴 な 問 い は、 魂 論、 時 間 論、 そ し
﹁私とは何か﹂
、
﹁生きるとは何か﹂を問い直すことにな
を 意 味 す る の か を 問 う た の で あ る。 この よ う な 問 い は、
たちは、
﹁魂﹂とは 何 か、 あ る い は、 魂 が﹁ あ る ﹂ と は 何
あずか
の第一段階である。
いったきっかけを見直しながら、自分が何にこだわってい
三色旗 2011.3(No.756)
ことが多い。その場合、順序は逆になるが、自分が考えた
たかったことは、実はこういうことだったのか﹂と気づく
以前から漠然と気になっていた問いに出会い、
﹁自分が考え
普通の人はむしろ、さまざまな哲学書を読んでいく中で、
学の問題にまで製錬することは、必ずしも容易ではない。
自分の漠然とした気持ちを見つめ直して、このように哲
手、あるいは思索の友とすることができる。
え た い 問 題 に 一 番﹁ 響 く ﹂ 哲 学 者 を 見 つ け て、 対 話 の 相
の角度や関心から問題に挑んでいる。その中で、自分が考
ヌス、デカルト、そして近代哲学へと、様々な哲学者が別
ついては、プラトンやアリストテレスから、アウグスティ
こ と が必要 となる。例 えば、
﹁ 魂 と は 何 か ﹂ とい う 問 題 に
の足跡をたどりながら、それを導き手として考えを進める
このような論究には、さらに大きく二つのやり方がある。
かった問題を伝統的な哲学テーマから遡って明瞭な形にす
ることになる。
一つは、そうして一人の哲学者、あるいはその哲学者の
一つの著作をテーマとして、それを徹底的に読み込んで解
うなって頭を振り絞っても、たいしたアイデアは出てこな
イメージを持たれることがあるが、私たちが一人でいくら
﹁哲学﹂というと、自分でこもって瞑想しているような
に対して自分の考えを展開していくことが求められる。
たちは何を学ぶことができるのかをきちんと整理し、それ
えていたのか、を考えるのが最善の道である。そこから私
私たちが悩むその同じ問題にどう直面し、どう根本的に考
哲学の問いに挑むためには、過去の偉大な哲学者たちが、
えるというので十分である。その際に大切なことは、難解
いが、実際には一冊の書物を二~三年かけてじっくりと考
は気負って複数の本を取り上げて論じたくなるかもしれな
りの伴侶となってくれる。卒業論文を書くとなると、最初
いう姿勢である。その覚悟があると、先人の哲学書は何よ
自分が考えたいと思っている問題をより深く考えていくと
切なことは、その一人や一冊ととことん付き合うことで、
を絞っていく中で、教員から示唆されることもあろう。大
まな読書を通じてその一冊に出会うこともあるが、テーマ
二
問題を追究する道筋
いし、すぐに行き詰まったり、堂々巡りしてしまう。そこ
であっても﹁原典﹂
︵無論元の言語で読めればよいが、そう
読していくことである。自分が問題と向き合う中でさまざ
で、同じ問題を生涯かけて追究した偉大な先人たちの思索
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でない場合は信頼できる翻訳で︶に取り組むことであり、
解 説 書・ 概 説 書 の 類 で﹁ 分 か っ た 気 ﹂ に な っ て は い け な
ら方向を探るしかない。
哲学を勉強したいという人の中には、時折、過去の哲学
る。教科書や参考書に書いてある程度のまとめを行なって
約上、表面的で形式的なものにならざるを得ないからであ
きない。より多くの資料にあたることは、時間や労力の制
やり方ではあるが、第一の方法と比べると一般に推奨はで
比較検討する。これは言うまでもなく、有意義で役に立つ
る。一つの問題に対する異なる立場を対照させ、それらを
ずに、より広く問題の流れや考えを整理してみることであ
もう一つのやり方は、一人の哲学者やその哲学書に絞ら
書いている本人にとっても実は発展性のない自己満足であ
な文章は、読み手にとっても得ることがない苦痛であるが、
らである。一人よがりで自分の考えだけを書き連ねるよう
を無視して、自分では何一つ明瞭なことは考えられないか
にわたって培われてきた哲学概念や思考方法や問題枠組み
とんど上手くいくことがない。それは、これまで長い時代
は大いに評価されるが、すでに述べた理由から、実際はほ
のではなく、自分で生きた哲学を行ないたいという﹁志﹂
開したいと言う場合もある。哲学を死んだ思想として学ぶ
者や哲学書をいっさい考慮せずに、自分の独自の思索を展
も、それほど新鮮な考えがでてくる訳ではない。他方で、
る。
﹁哲学﹂は、そのように勝手な仕方で遂行できるもので
い。
哲学とは結局はどこかで徹底的に考える作業であり、その
はない。
見取り図を得ながら自分で考察をしていくことを望む人も
所を超えた対象を比較対照することで、より大きな視野や
哲学書を読むばかりでは、いつまでたっても自分の考察に
階となる。しかし、漠然と問題に考えを巡らせたり、ただ
問題と方法︵素材︶が決まったところで考察を進める段
三
多角的な可能性の考察
ためには、特定の哲学者とその﹁原典﹂にとことん付き合
わなければほとんど何も得られない。
しかし、本人の目的意識に応じては第二のやり方が相応
いるからである。これら二つの方途のうち、どちらが自分
はならない。卒業論文を執筆するためには﹁章立て﹂が、
しい場合もある。少数の素材に限定するよりも、時間や場
の問題関心に相応しいかは、指導教員とじっくり話しなが
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て﹁章立て﹂をつねに念頭において、それを適宜改訂して
手段となる。論文執筆にあたっては、その議論の構成とし
頭の中を整理しながら考察を進める﹁筋道﹂として必須の
それを理解しようとしながら対決する姿勢も重要である。
大切である。時には、あえて自分と反対の解釈を検討し、
ことがないように、できるだけ多角的にものを見る訓練も
また、自分の見方や解釈が、独断的な思い込みに終わる
それは、結果として自分の考えを明瞭化させ、発展させ、
進めていってもらいたい。
取り組んでいるのが大きな問題であれば、それを追究す
それを解きほぐす﹁分析︵アナリシス︶
﹂そのものが、哲学
がある。一つの問題が複雑な構造になっている場合もあり、
へ、さらにその本論の中にも考察すべき問いの順序や段階
た考えに凝り固まることもなく、自由な精神で物事を見る
する訓練が推奨されている。そうすることで、安易に誤っ
あるが、そこでは相対立する見解を同等に組み立てて擁護
哲学には﹁懐疑主義︵スケプティシズム︶
﹂という立場が
補強することにつながるからである。
の重要な作業である。議論を段階に分け︵
﹁章/節/項﹂の
目が養われるからである。そのような懐疑主義は、単なる
るには順序が必要である。予備的な考察から本格的な考察
章立て区分が役立つ︶
、それぞれの論理関係を意識しながら、
哲学の一流派ではなく、哲学的な﹁探求﹂の生き方の典型
ているケースも多い。どこまでが原著者の言葉で、それを
して、その問題を徹底的に考えていく。こうして哲学が遂
問題を明確に提示し、特定の哲学者や哲学書の原典に即
四
答えがでない問いを問い続ける
となっている。
全体として一つの問題を追究していく。
その際、他人の考えと自分の考えをきちんと区別しなが
ら整理することが大切である。先行する諸学説を整理して
評価することは、どの学問分野でも基本の作業であるが、
誰がどのように解説し、それらに対して自分自身はどう考
行されていくが、そこで最終的に、当初の問題に対して決
客観的に解説することと主観的に評価することが混同され
えているか。これらの区別は、一つの問いを巡って人々︵原
ない。論文を書く以上は誰でもそのような結果を求めてお
定的な回答や、行き詰まりへの打開策が得られるとは限ら
著者
注
―釈者
論
―文筆者︶が交わす対話のようになってい
く。
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り、その成否によって論文の価値が決定されると思いがち
する見解は見当たらない。
論になっても構わない。おそらく、哲学の論文が他の分野
ている。極端な場合は、徹底して考えた結果、破綻した結
がでるかは、あまり気にする必要はない﹂とアドバイスし
に考察を巡らせ、多角的に自分や他人の意見を検討しなが
ろうと予想される問いに︶
、辛抱づよく、かつ学問的に冷静
がある。答えのでない問いに︵あるいは、答えがでないだ
その反対である。哲学は問題を考えていくこと自体に意義
では、哲学では論文を書いて考える意味はないのか?
のものと大きく異なるのはこの点なので、少し詳しく見て
ら、暫定的であっても自分の考え方を提示していく。そう
である。しかし私は、論文指導において、
﹁どのような結論
おこう。
﹁ 時 間 とは 何 か ﹂
、
﹁ 存 在するとは何か﹂といった根源的な
う な 回 答 が 出 さ れ て は い な い。 ま た、
﹁ 自 由 と は 何 か ﹂、
も考えを巡らせながら、けっして納得も合意も得られるよ
は何か﹂といった倫理の問題には、人類がこれまで何千年
何か﹂
、
﹁幸福とは何か﹂
、あるいは﹁死とは何か﹂
、
﹁正義と
答えが簡単にでるという種類のものではない。
﹁生きるとは
た具合である。しかし、哲学が取り上げる問題は、どれも
を明確化し、解決への方策を提示し社会に役立てるといっ
である。特定の社会問題を主題にするならば、その問題点
ことが目指されている。いわば、
﹁問い 答
―え﹂の対が重要
適正な方法で検討を重ねて一定の有意義な結論が得られる
は、試験を受けなかったり不合格だった場合には、結果と
した。例えば、試験に合格して資格をとるためにする勉強
ルゲイア︶
﹂と呼び、こちらがより高次の行為であると主張
的を含むタイプの動きを、アリストテレスは﹁活動︵エネ
て意味をもたない。これに対して、そのプロセス自体が目
も建設中の家や、途中までしか作られない家は﹁家﹂とし
時には﹁建築﹂というプロセスは完了している。いつまで
く過程が﹁建築﹂であるが、家が完成してそこに人が住む
えば家の建築では、設計図に基づいて資材を組み立ててい
作︵ポイエーシス︶・運動︵キーネーシス︶﹂と呼んだ。例
とその外側︵後︶に成果が達成されるタイプの動きを﹁制
アリストテレスは、一定時間のプロセス︵過程︶を経る
いった営為そのものが、哲学の訓練なのである。
問題についても、現代でもさまざまな考え方が提示されて
して意味がなかった﹁制作﹂
︵あるいは制作の失敗︶である。
自然科学や社会科学の論文では、当初の課題に対して、
いるが、疑問はさらに深まるばかりで、皆が一致して納得
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しかし、学習はそれを行なう最中に行為の目的を実現して
いるのであり、結果の成否だけで左右されるものではない。
つまり、勉強をすること自体が、人間の理性に適った現実
の﹁活動﹂であり、意味があるのである。この区別を参照
すると、
﹁哲学する=思索する﹂という営為は、何か特定の
成果をだすために行なわれる結果中心のものではなく、一
つ一つの物事をきちんと考えながら生きていくという人間
の理性的なあり方を実現する、自体的な意義をもつ。この
意味で、哲学の論文では、たとえ積極的な提案や解決が結
論としてでなくても、
﹁考えている=考えてきた﹂というプ
たとえ積極的な結論がでなかった考察でも、その︵失敗︶
専攻。一九九四年東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士
︹のうとみ
のぶる
慶 應 義 塾 大 学 文 学 部 教 授、 西 洋 古 代 哲 学
ているのではないか、と私は考えている。
経験を活かしてさらにそれ以後自分で考えつづける力が得
課 程 中 退。 一 九 九 五 年 ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 博 士 課 程 修 了。 博 士
ロセスに十分に意味が認められるのである。
られたのであれば、一生をつうじてその問題と考察を深め
Unity of Plato’s “ Sophist”: Between the
︵哲学︶
。主要業績
̶The
ていくことが可能となる。卒業論文を書くことの意義は、
訳﹃ソフィストと哲学者の間
︵邦
Sophist and the Philosopher, Cambridge University Press, 1999.
営みそのものにある。その意味で、本章で論じた四つの段
名古屋大学出版会、二〇〇二年。
︶
﹃プラトン ̶
哲学者とは何か﹄
そのように、論文の直接的な成果にではなく、それを書く
階を身につけることが、哲学の論文を書くことの意義とな
NHK出版、二〇〇二年。
﹃哲学者の誕生 ソ
̶クラテスをめぐる
院、二〇〇六年︵サントリー学芸賞︶
︺
人々﹄筑摩書房、二〇〇五年。
﹃ソフィストとは誰か?﹄人文書
プラトン﹃ソフィスト﹄を読む﹄
̶
る。
哲学は、大学で学ばれる多くの学問分野の一つではある
が、このような営みを行なうことで実は学問の基本となっ
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