KOJ000803

研究ノート
史跡。野 古墳群の発掘調査成果
角南 辰馬
はじめに
岐阜県揖斐郡大野町・ 野古墳群は濃尾平野の 北端、 揖斐川と根尾州
に 挟まれた沖積地に
立地
する。 野 古墳 群 には 9 基の古墳 (野 i 一 9 号 墳 ) が現存しており、 昭和 31 年に一括して 国史跡
に指定されている。江戸時代末期の 地籍 図 等から消滅した 古墳を含め 20 基前後の古墳の 存在が
推定されているが、 1994年までの発掘調査の 結果、 円墳を中心とした 埋没古墳が確認されてい
る 。 本稿ではこれらの 古墳を墳丘規模で 3 つぼ分けて概観していく。
(1) 80m クラスの古墳
乾 屋敷古墳 (5 世紀前業 ) づ澄 越 古墳 (5 世紀中葉 ) づ南 屋敷 西 古墳は世紀後葉 ) ヰ城 塚
古墳㏄世紀末葉 ) の順に 4 基の前方後円墳が 築造された。
乾 屋敷古墳 (野 6 号 墳 ) は推定全長 79m の前方後円墳であ る。 後月 郡頂 には 野不動 院 が建て
られ、 墳丘南側は大規模な 削平を受けている。 発掘調査は行われていないが、 黒斑のあ る埴輪
不動 塚 古墳
古墳
|
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墳
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分
墳群
古
野
一 27 一
片 が古墳 群 中で唯一採集されており、 他の古墳に先行して 築造されたと 考えられる。
登越 古墳 (野 4 号 墳 ) は古墳 群 中で最大の前方後円墳であ る。 1990 年に前方部南側で 発掘 調
査 が行われ、 全長が 86.7m であ ることが確認、 されたが、 後月 郡 の剛平を考慮に 入れると g0m を
超えると考えられる。 内濠・内堀・
濠も確認、され、 二重 周濠 であ ることも判明した。
タは
南 屋敷 西 古墳 (野 3 号 墳 ) は全長 7f6m の前方後円墳であ る。 1982 年に後同部で 発掘調査が行
われ、 二段目テラスで 埴輪 列 が確認、されたほか、 周濠
・
外 堤も検出されている。 埋葬施設につ
いては不明であ るが、 東京国立博物館が「美濃大野郡野村古墳出土」として
環頭大刀が副葬品の
一 つ であ る可能性があ
所蔵 している三葉
る。
城 擬古墳 (南 出口古墳、 野 5 号 墳 ) は全長 75m の前方後円墳であ る。 2003 年に墳丘の東・ 南
側で周濠の確認を 目的とした発掘調査が 行われている (註 1) 。 埋葬施設の発掘調査は 行われて
いないが、 小川栄一の記録
mxo.gm
(註 2) に ょ れば後口部頂上の 中心点から北東へ 3m の地点に 2.4
の竪穴式石室があ ったという。 五島美術館が「低減 塚 古墳出土」として 所蔵 している
鍍金獣帯鏡は 有名であ り、 このほか馬具、 鉄剣、 鉄刀、 銑鉄が出土したことが 伝えられている
が 詳みW は不明であ る。
(2) 60m クラスの古墳
不動 塚 古墳 (5 世紀中葉 ) づモタン古墳は 世紀後葉 ) の順に 、 2 基の前方後円墳が 築造さ
れた。
不動 塚 古墳 (野 2 号墳 ) は全長 64m の前方後円墳であ る。 1994 年の発掘調査で 内濠,内堀・
外 、濠が検出され、 ニ重 周濠 であ ることが判明した。 周 濠の形状は盾形になると 考えられる。
モ タン古墳 (野 ] 号墳 ) は従来円墳と 考えられていたが、 1989 年の発掘調査で 剛平された 前
万部が発見され、 全長 54m の前方後円墳であ ることが判明した。
(3) その他の小古墳
現存する 3 基の古墳 (野 7
一
9 号 墳 ) のほかに、 7 基の埋没古墳 (野 10 一 16 号 墳 ) が存在す
る (註 3) 。 これらは主に 5 世紀末葉一 6 世紀前葉を中心に 築造されたと 考えられる。
野 7 号 墳は 1983年に発掘調査が 行われ、 全長 29m の帆立貝形古墳であ ることが判明した。 周
濠の形状は馬蹄形になると 考えられる。 後月 郡 頂から 3.2mx0.84m の竪穴式石室が 検出され、
管玉,銑鉄,刀子などが
出土している。
野 8 号墳 。 9 号 境 は 1993年に発掘調査が 行われ、 8 号 墳は 一辺 15.8m の方墳、 9 号墳は全長
30.5m で馬蹄形の周 濠 をもつ帆立貝形古墳であ ることが判明した。 両 墳の西側には 織田河内守
長考 (? 一 1606) の屋敷に伴う 土塁 跡 がみられることから、 両墳 とも屋敷内に 取り込まれてい
たと考えられる。
う
1989年に行われた モ タン古墳の西・ 南側の発掘調査では 4 基の埋没古墳が 検出された。 その
ちの野 ]0号 墳 。 12号 墳 の周慶 はモ タレ古墳の周 濠と 重複している。 推定される直径は 10 号 墳
が 19.6m 、 l2,号墳が 23.9m であ るが、 12 号墳は江戸時代末期の 地籍図から帆立貝形古墳と 考え
られる。 野 Ⅱ 号 墳は直径 24.6m の円墳、 野 ¥5 号 墳は 一辺 I5m 前後の方墳であ る。
続く 1990 年には 12号墳の東で 野 ]3号 墳 、 登越 古墳の南東で 野 ]4 号 墳 がそれぞれ検出されて ぃ
一 28 一
る 。 m3号墳は直径 18m の円墳と推定されているが、 江戸時代末期の 地籍 図 には比較的大きく
描
かれており検討を 要する。 14号墳は石塚と 呼ばれ昭和 20年代まで墳丘が 残存していた 古墳で、
直径 34m の円墳と考えられる。
このほか先述した 1994年の不動 塚 古墳の調査では、 後月 郡 南西側の内堀
と
切り合う
よ
うにし
て 野 ]6号 墳 (円墳 ?) の堤が検出されている。
このように 5 世紀代に絶えず 80m クラスの前方後円墳を 築造する中で、 5 世紀中葉と後葉の
段階に 60m クラスの前方後円墳も 同時に築造し、 6 世紀前後にはそれらの 隙間を埋める
よ
うに
して 小 古墳を築造している。 これは階層差を 古墳規模で表現した 結果と考えられる。 また 60m
クラスの古墳や 小古墳は基本的に 80m クラスと同様に 葺石や周 濠 、 類似した埴輪を 備えている。
これらの中には 周 濠や堤の一部が 重複している 古墳もみられ、 それぞれが密接な 関わりをもっ
ていたことが 指摘できる。 大小さまざまな 古墳が狭い範囲に 短期間で集中的に 造られている 野
古墳 群は 、 非常に特異性のあ る古墳 群 であ ると指摘できよ
つ
0
註
1. 大野町教育委員会・ 武藤葛 文氏のご教示に
よ
る。
2. 岐阜・宗学務部 1928 『岐阜県史蹟名勝天然記俳物調査報告書』第 3 回
天理大学が探査を 行った直後の 2001.@
年 10 月の発掘調査で、 登越 古墳の南西から 埋没したが古墳 (円墳 ハ
が新たに検出された。
この古墳は 1991 年のレーダ探査でもその 存在が指摘されていたもので、 これで最
少 17 基の古墳が存在したことが 確定された。 また同時に行われた 調査で 10 号墳 , 11 号墳 の周慶 が1989 年
調査 地 の西側でも検出されている。
参考文献
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高木安和
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具合
高木友和
1991 『史跡野古墳 群 Ⅳ一 第 13 号墳 第 U4 号墳 登越 古墳 周濠範囲確認調査一コ 大野町教育委員会
・
・
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中井正幸 1996 「美濃における古墳群の形成とその 画期 (上 )」『古代文化] 第 48 巻 第 3 号
成瀬正勝
2002 「美濃の中期古墳」『古墳時代中期の大型 墳と 小型 墳
一 初期群集墳の
出現とその背景一 (発
表要旨 編 Ⅱ第 10 回東海考古学フォーラム 浜北大会・静岡県考古学会シンポジウム 実行委員会
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査一
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大野町教育委員会
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1984 r史跡 野古墳 群 調査概 報い )一 第七号古墳の 調査一』大野 W 教育委員会
入質 晋 ・高田康成 1995 『史跡 野古墳 群 V
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