研究ノート 史跡。野 古墳群の発掘調査成果 角南 辰馬 はじめに 岐阜県揖斐郡大野町・ 野古墳群は濃尾平野の 北端、 揖斐川と根尾州 に 挟まれた沖積地に 立地 する。 野 古墳 群 には 9 基の古墳 (野 i 一 9 号 墳 ) が現存しており、 昭和 31 年に一括して 国史跡 に指定されている。江戸時代末期の 地籍 図 等から消滅した 古墳を含め 20 基前後の古墳の 存在が 推定されているが、 1994年までの発掘調査の 結果、 円墳を中心とした 埋没古墳が確認されてい る 。 本稿ではこれらの 古墳を墳丘規模で 3 つぼ分けて概観していく。 (1) 80m クラスの古墳 乾 屋敷古墳 (5 世紀前業 ) づ澄 越 古墳 (5 世紀中葉 ) づ南 屋敷 西 古墳は世紀後葉 ) ヰ城 塚 古墳㏄世紀末葉 ) の順に 4 基の前方後円墳が 築造された。 乾 屋敷古墳 (野 6 号 墳 ) は推定全長 79m の前方後円墳であ る。 後月 郡頂 には 野不動 院 が建て られ、 墳丘南側は大規模な 削平を受けている。 発掘調査は行われていないが、 黒斑のあ る埴輪 不動 塚 古墳 古墳 | .1 ,4 墳 古 塚 城 いし Ⅱ 上 ; 作成 イ 基 を 3 9 9 1 井 中 み @ロ @ 図 概 布 分 墳群 古 野 一 27 一 片 が古墳 群 中で唯一採集されており、 他の古墳に先行して 築造されたと 考えられる。 登越 古墳 (野 4 号 墳 ) は古墳 群 中で最大の前方後円墳であ る。 1990 年に前方部南側で 発掘 調 査 が行われ、 全長が 86.7m であ ることが確認、 されたが、 後月 郡 の剛平を考慮に 入れると g0m を 超えると考えられる。 内濠・内堀・ 濠も確認、され、 二重 周濠 であ ることも判明した。 タは 南 屋敷 西 古墳 (野 3 号 墳 ) は全長 7f6m の前方後円墳であ る。 1982 年に後同部で 発掘調査が行 われ、 二段目テラスで 埴輪 列 が確認、されたほか、 周濠 ・ 外 堤も検出されている。 埋葬施設につ いては不明であ るが、 東京国立博物館が「美濃大野郡野村古墳出土」として 環頭大刀が副葬品の 一 つ であ る可能性があ 所蔵 している三葉 る。 城 擬古墳 (南 出口古墳、 野 5 号 墳 ) は全長 75m の前方後円墳であ る。 2003 年に墳丘の東・ 南 側で周濠の確認を 目的とした発掘調査が 行われている (註 1) 。 埋葬施設の発掘調査は 行われて いないが、 小川栄一の記録 mxo.gm (註 2) に ょ れば後口部頂上の 中心点から北東へ 3m の地点に 2.4 の竪穴式石室があ ったという。 五島美術館が「低減 塚 古墳出土」として 所蔵 している 鍍金獣帯鏡は 有名であ り、 このほか馬具、 鉄剣、 鉄刀、 銑鉄が出土したことが 伝えられている が 詳みW は不明であ る。 (2) 60m クラスの古墳 不動 塚 古墳 (5 世紀中葉 ) づモタン古墳は 世紀後葉 ) の順に 、 2 基の前方後円墳が 築造さ れた。 不動 塚 古墳 (野 2 号墳 ) は全長 64m の前方後円墳であ る。 1994 年の発掘調査で 内濠,内堀・ 外 、濠が検出され、 ニ重 周濠 であ ることが判明した。 周 濠の形状は盾形になると 考えられる。 モ タン古墳 (野 ] 号墳 ) は従来円墳と 考えられていたが、 1989 年の発掘調査で 剛平された 前 万部が発見され、 全長 54m の前方後円墳であ ることが判明した。 (3) その他の小古墳 現存する 3 基の古墳 (野 7 一 9 号 墳 ) のほかに、 7 基の埋没古墳 (野 10 一 16 号 墳 ) が存在す る (註 3) 。 これらは主に 5 世紀末葉一 6 世紀前葉を中心に 築造されたと 考えられる。 野 7 号 墳は 1983年に発掘調査が 行われ、 全長 29m の帆立貝形古墳であ ることが判明した。 周 濠の形状は馬蹄形になると 考えられる。 後月 郡 頂から 3.2mx0.84m の竪穴式石室が 検出され、 管玉,銑鉄,刀子などが 出土している。 野 8 号墳 。 9 号 境 は 1993年に発掘調査が 行われ、 8 号 墳は 一辺 15.8m の方墳、 9 号墳は全長 30.5m で馬蹄形の周 濠 をもつ帆立貝形古墳であ ることが判明した。 両 墳の西側には 織田河内守 長考 (? 一 1606) の屋敷に伴う 土塁 跡 がみられることから、 両墳 とも屋敷内に 取り込まれてい たと考えられる。 う 1989年に行われた モ タン古墳の西・ 南側の発掘調査では 4 基の埋没古墳が 検出された。 その ちの野 ]0号 墳 。 12号 墳 の周慶 はモ タレ古墳の周 濠と 重複している。 推定される直径は 10 号 墳 が 19.6m 、 l2,号墳が 23.9m であ るが、 12 号墳は江戸時代末期の 地籍図から帆立貝形古墳と 考え られる。 野 Ⅱ 号 墳は直径 24.6m の円墳、 野 ¥5 号 墳は 一辺 I5m 前後の方墳であ る。 続く 1990 年には 12号墳の東で 野 ]3号 墳 、 登越 古墳の南東で 野 ]4 号 墳 がそれぞれ検出されて ぃ 一 28 一 る 。 m3号墳は直径 18m の円墳と推定されているが、 江戸時代末期の 地籍 図 には比較的大きく 描 かれており検討を 要する。 14号墳は石塚と 呼ばれ昭和 20年代まで墳丘が 残存していた 古墳で、 直径 34m の円墳と考えられる。 このほか先述した 1994年の不動 塚 古墳の調査では、 後月 郡 南西側の内堀 と 切り合う よ うにし て 野 ]6号 墳 (円墳 ?) の堤が検出されている。 このように 5 世紀代に絶えず 80m クラスの前方後円墳を 築造する中で、 5 世紀中葉と後葉の 段階に 60m クラスの前方後円墳も 同時に築造し、 6 世紀前後にはそれらの 隙間を埋める よ うに して 小 古墳を築造している。 これは階層差を 古墳規模で表現した 結果と考えられる。 また 60m クラスの古墳や 小古墳は基本的に 80m クラスと同様に 葺石や周 濠 、 類似した埴輪を 備えている。 これらの中には 周 濠や堤の一部が 重複している 古墳もみられ、 それぞれが密接な 関わりをもっ ていたことが 指摘できる。 大小さまざまな 古墳が狭い範囲に 短期間で集中的に 造られている 野 古墳 群は 、 非常に特異性のあ る古墳 群 であ ると指摘できよ つ 0 註 1. 大野町教育委員会・ 武藤葛 文氏のご教示に よ る。 2. 岐阜・宗学務部 1928 『岐阜県史蹟名勝天然記俳物調査報告書』第 3 回 天理大学が探査を 行った直後の 2001.@ 年 10 月の発掘調査で、 登越 古墳の南西から 埋没したが古墳 (円墳 ハ が新たに検出された。 この古墳は 1991 年のレーダ探査でもその 存在が指摘されていたもので、 これで最 少 17 基の古墳が存在したことが 確定された。 また同時に行われた 調査で 10 号墳 , 11 号墳 の周慶 が1989 年 調査 地 の西側でも検出されている。 参考文献 大下 武 200t3「東海の古墳解説 [4 コ美濃縮①」『第 Ⅱ回春日井シンポジウム 資料集コ春日井市教育委員会 高木安和 1990 『史跡 野古墳群 Ⅲ一帯 10 号墳 ・第 11 号 墳 ・第 12 号墳周濠範囲確認調査一』大野町教育委 具合 高木友和 1991 『史跡野古墳 群 Ⅳ一 第 13 号墳 第 U4 号墳 登越 古墳 周濠範囲確認調査一コ 大野町教育委員会 ・ ・ 中井正幸 1993 「美濃の主要古墳」『春日井シンポジウム資料集』春日井市教育委員会 中井正幸 1996 「美濃における古墳群の形成とその 画期 (上 )」『古代文化] 第 48 巻 第 3 号 成瀬正勝 2002 「美濃の中期古墳」『古墳時代中期の大型 墳と 小型 墳 一 初期群集墳の 出現とその背景一 (発 表要旨 編 Ⅱ第 10 回東海考古学フォーラム 浜北大会・静岡県考古学会シンポジウム 実行委員会 入質 晋 ‥波多野蒜勝 ・大熊厚志・徳田誠忠 1983 『史跡野 古墳 群 調査概報 (1) 一両屋敷 西古墳 周濠確認調 査一 』 大野町教育委員会 入質 晋 ・徳田誠忠・成瀬正勝 1984 r史跡 野古墳 群 調査概 報い )一 第七号古墳の 調査一』大野 W 教育委員会 入質 晋 ・高田康成 1995 『史跡 野古墳 群 V 一第 8 号墳 ・第 9 号墳 範囲確認調査 概報一] 大野 W 教育委員会 日川田哲 1996 F史跡 野古墳群 (Vr) 一 不動 塚 古墳範囲確認調査 概報一』大野 W 教育委員会 一 29 一
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