YMN002001

記
中村
で、 来 てしまった。
忠。
,
口一
の難題である。 有難い話
埋めよと -
業績目録 桂皮で済むと忠 って るた
号にする から、 注程 附き で略歴を
する。 たまたま、私が還暦を迎へ
プ
られ仁 か 、 吾 郷貢 之進 ,大谷篤藏 ・島 居浦・金井眞之助・埴谷Ⅱ
前 健 ,今西 夷 ・大橋正 叔 ・高見二一郎の諸君達、そして今は他に 移
木村三 四 吾の諸兄をはじめ、
も、勝 れた多くの益友を得た。門前貫一・中村幸彦・枯山善
高まれ た。天理図書館の設備は申し分ないし、研究室の同僚
顧み ると、 本畢に 勤める様になってから、私は実によい環境
しいもの を残してゐない のである
川村 勝太郎・ 一海知義 ,寛文 生 ・横山臥 ・鮫島綾子・諸井 康 子
蜂矢宣朗 ・廣濱 文雄・北川忠彦
雄
還暦の祝 智など、本来は 自 祝すべ
つい 自 己を語り過ぎたことに解 ㍼の心も動く。 齢 五十にして 四 十
ら、こ の稿ではそこまで及は なかった。自己を語るまいとして
主
ん
よ
@
ン
。
より
せめて、これらの益友の友情を詰りたく筆を起し @
の年齢を寛 へる様な気が しないで
九年の 非を悟り、六十にして六十化した聖者の眞似は出来な いに
ことか
君など 。私は、これらの人々に、どれ程肇び 、どれ 程 教へら ね た
あらうか。あれ やこれや
@
目ふ ので-
った日々
はやのっぴきな らぬ 研き
して、 ム-
もなる。 それに、過ぎ去
たから、 か ぅ して友人の 厚情に甘
、鋒矢 着 と私とだけであ るから、
といふ。 創刊常時の同 大 で、 現
書か でもの
コ山辺道 しが、
在、 尚 研究室に残
今更の様に白駒 渦
たので、その祝ひ
書けといふ。それ
のだが、 紀 金局の
ではあるが、第一
から、面映い限り
きものと、勝手に
えるとなると、何
を追想することは
もない。これを 去
と 思案する裡に 、
っ廿
院
を
、
も
半
、
心で
か
しても、私もそろそろ脱 変を遂ぐべき秋が来た様である。
一一
声先生は英文﹁武士道目に、﹁しやむの野に昇る旭の︵以下忘失-﹂
の歌 一
首を認めて興 へ、調 ふるに節酒・節生 ・節倹の一
韮一
巾を以てし
た。先考は、遅羅 では主として北部のコーラットに在ったが、待遇
はかなりよかった様で、後に第二
師国長になった井上一次氏 ︵
営時、
門田
セ番地に生れた、
。
根先
っ考
かは
らの百
新渡
姓
月で
相
造、
先生 大尉︶を、一時寄宿させてるた。共に劉伶が輩であるから、新渡戸
嵩
寧博士・経済寧
に私淑し
東、
嶺持
六地
三郎
義
晩博
年士
、。
錦鶏先生の訓戒などは、忽ちに吹飛んでしまったらしい。先 考の住んだ
兄嶺
翁
弟の命
名
は
間紙
候-に愛された。私達東
に名
よ、
る。 この家には、後に農業視察に赴いた川上瀧禰氏が宿った ことが、そ
明治
世九年、先考は領事
皇後
湾
に聞
渡も
りな
、い
総産
督局
府の のコ椰子の葉蔭目に見える。
殖
営め
祝
はた
、。
養蚕振興の業が
務、
に宮
携
はった
技手として勤
の
居
慈温きく 菊子-は、秋元氏。営時の苦畢生で、持地 家に書生と
して住込みながら、明治女軍校に畢び、東京音楽畢校 オルガン選科
に
従った。
種中
は
、
村大正年代の蔓湾を
米代
で表
、す
敗る
戦一
のを等
率 へた。明治女軍校 では、野上捕虫子女史の一・二年先輩の筈で
頃も農事試験場あたりで
ぬた
は様
育で
種あ
を
る
漬
。
け
パ
イ
ナて
ップあり、音楽畢校 でほ三浦環の一期下、本居長世氏と同期 である。長
明
川一年
-頃
は、本邦最初で
の、
も
の 世氏が、令嬢禰生 ・みどりさんを連れて事湾 に見える れた時、伴は
ル0%
詰化の成功治
酒
前酒
後の話に苦心談を聞かされたがを
、情
不さ
肖な
のか
子っ
供
耳
﹁だに失せない。音楽睾校に
れ
て達
楽屋は
に訪
ねた幼年時代の記憶は、ム
た。明川
治
五年、先考は、又、東京大
串っ助
授
外宰
山農
亀科
太大
郎通
てぬ教
た頃
、萱堂は、又、後藤新平伯の家の家庭教師として、愛
博士︵後、蚕の遺伝研究によって
軍っ
士
院賞子を
得-ら
た
︶
に
従
て
、
さん
鶴見れ
祐輔
夫人
-や 一歳氏 のお相手をしてぬた。 愛子さんの
遅
。
ャ
,
羅
図現在のタ
-政
イ府
図に招かれ、数
及び
年
養の
蚕間
の農
指業葉書などが、まだ兄の手許に残ってゐる。
導にっ
嘗た。中国には既に日本教
南万
習
諸の
地例
域が
へあ
のる
東が
嶺翁、
の御 一家には、私の姉なども、格別にお世話になった。翁
公的技術プラントと
章し
とて
いは
ふ初
訣の
で
肚
、矩
伊翁
能が稼大
昴
の簾中ゑ い女史は、明治・大正の婦人運動にも足跡を残す方で、熱
ヒ紙
壮
﹂行
を寄
立せ、新渡心な基督者ででもあった。萱堂は、よい意味でその彫塑@を受け、敬
の
筆を振っ蔓
て湾
日
、日
﹁新
報上に﹁辞
こと小川両義先生が、日曜毎に顔を見せた。小川先生は、正岡子規
営暗 まだ東京大豊文科大豊博高卑科 の畢生であった﹁ヒゲの小川﹂
ス ︵天理教の教義を
、 始めてドイツに紹介した人であるⅠそれに
ではあるが、
際の戦闘は遥か北方で行はれたので、採るに足らぬ俗伝
ふところに陣取って云々﹂といふ一節がある。賀する迄もなく、實
の里、階上岡の端、宮代 流布本。駿河三河の端、はやしろ︶とい
﹁義経記﹂番一﹁吉次が奥州物語の事﹂の
條不に・﹁源氏は信夫
好きであった。それは、私の郷家にまつはって、色とな伝説が語り
秋山眞之などとは松山中軍以来の友人で、後年、南洋土語の世界
頼義が陣を構へた場所が實は私の郷家のあるところで、新羅三郎も
虔な基督者としての生涯を送った。萱堂は、畢生時代、上嵩坂 の普
的な 権威として数々の業績を残し、 門
原語による 蔓潤 号抄族の伝説
此処で生れた
伝 へられてゐるからである。
の研究口 によって、恩賜買を受けられた。私は、奇しくも先生の最
及 福音教会に通ってぬたが・そこにはケ﹁ベル先生や ハンス・ハ|
後の講鑓に侍した畢生の一人となったが、その小川先生が、研究室
は、ただ夢中であった。老人となったム﹁も、少しばかり 関心があ
といった尾鰭まで用意されてめるのである。だから、 子供の時分
父君に営るといふ。紋切型ではあるが、世間は全く狭 いものと驚く
若千の参考にならうから、鎗談となるが一寸書き添へて置く。
る。義経記 ロの成立を考へる上で、その方面を研究さ れる方には
熊坂白州﹁信連敗考証ヒ・志田正徳﹁信達一統モし
ぬ︶
の同僚で、私の最も尊敬する友人の一人である北川忠彦君 には、叔
ばかりである。
供の頃は、無暗と強いものに憧れた。八幡太郎や源義経が英雄であ
ら、ム
﹁
成 って丈夫ではない。非力であり病弱である反動として、子
を害し、校醤の勧告で教練・体操免除となった様な身体であるか
代 、少しはかりスポーツをやったことがあるが、忽ち にして健康
入院したし、旧蔵まではとても生きまいと考へられてぬた。高校時
私は病弱な子供であっに。肺炎・腎臓炎・腸 チフス・骨折と屡と
一目で判ったが、昭和十六年であったか、落雷の為、
中途から欠損
らうかと思はれる銀杏の大本がある。昔は。遠く飯坂あたりからも
﹁こぶ︵国府︶八幡﹂と
稽する屋敷神を祭り、傍に樹齢セ百年はあ
部 に残存する二重の土塁に固まれた三町歩足らずの屋 敷の中央に、
を右傍に臨むが、その東に隣接するのが私の郷家である。環濠 と
て北上する列車は、二三分して国枝神社︵ 古硲 ﹁山王セ明明神﹂︶
私どもも家では日常さぅ呼び慣はしてゐる。東北本線、湖上曄を出
私の郷家 福島市大字宮代牢屋敷畑-き、土俗にほ﹁
館 ﹂と呼び、
ったことは、一般の少年と同様であるが、わけても新羅三郎義光が
一一
してしまった。銀杏の樹下には、弘安元年セ 同源 朝定 め建てた板碑
がある。上部に阿禰 陀の種字を置き、下に願文を記し た惨 らしい 形
式の板碑で、松平定信の﹁集古十種﹂にも収められて著 名 なもので
ある。上記の土塁あたりからは、今も時折土師器などが 出土する
が、この地を和銅以前の陸奥国府の跡 と断じたのは、 大 槻文彦博士
の ﹁古典菖地者摘録﹂高須 軒 雑纂 巨所収 - である。
代 ・矢代などの﹁しろ﹂で、宮代とは諸国鎮護の社 の御料 田 たる
みとしろ
﹁神田﹂ 御手代︶と同義語であらう。美濃 國國府 の 所在地に擬せ
四
八月セ日|十日の條︶を連想させるものであるが、このムロ
戦 ハ有
リ様
はその佳 口碑として土着し、一方では金膏吉次の伝説と緒付い て流
義や義家の話に変貌し成長を遂げたのではなからりか。
在する。その幾 っかが、山伏などを通じて都に伝へられる裡に、頼
町村合併によって、宮代の地は福島市に編入されたが、 つい先頃
までは信夫郡余目付 に属した。その信夫の里には、又 ﹁さんせぅ太
夫﹂の伝説がある。説経の﹁きんせぅ太夫﹂の伝本に は、典 七郎正
史ヒ などでも、右の大槻説を有力な一説として扱ってゐる様である
る 。郷家の近くにも、 條里 遺構の残存することが確認 きれてゐる
みかリヤ
御仮屋﹂といった小宇名もあることか ら 、﹁福島市
し 、﹁一の坪 ﹂・﹁
は少しく異る。私が伝聞するのは、説経系の話であるら しく、父は
は醤王充、常道の居館は石城郡玉川村住吉館 で、伝聞す るところと
の民話し別巻2-
木 ・佐渡セ太夫正本はじめ寛文セ年板本・正徳三年版本などあっ
が、それを誇示する意図は更にない。私にとって面白 いのは、右の
岩城判官王氏、姉は妄言姫 、弟は厨子王丸で、正氏の居 館は椿館で
られる岐阜懸垂井町府中の近くにも、宮代といふ小字名 が残って ゐ
土塁の上に、﹁三里さま﹂と呼ぶ近世初期のものと覚しき石造の小
ある。福島市教育委員会編﹁福島のあゆみ﹂は、中豊校 の副詣本岡
肩の弟頭囲が立籠った処と伝 へられ、その跡には頭囲の顕彰碑など
ところで、椿館 ︵弁天山︶は霞山との関係が深い史跡で
、北畠親
市周辺では、説経系の民話が一般に流布してぬるので あら,
フ。
ったといふ﹁信夫の細道﹂なる伝語地 のあることを記す から、福島
きに書かれに書物であるが、やはり椿館説 で、厨子王や 要言姫 の通
に伝へる話でも、父は岩城常道萬
、青
姉姫
は、弟
て、内容的にも幾分か出入がある。﹁みちのくの長者たち﹂ 宍日本
祠が 、郷土史家にも注目きれず、ひっそりと祭られてぬ ることであ
る。これは、何時の頃からか、山伏なんどの出入したことを物語る
ものであらう。 義 経伝説の成立に山伏が一役を買って ぬ ることは、
賀 思出の合戦省吾妻 鑑 ﹂文治五年
秘 かに思ってゐる。もっと端的 に 甘口
ふ Lこ、
柳田国男氏のいちはやく指摘するところであるが、それを 裏付ける
一の遺品ではないかと、
﹁義経記﹂の件の一節は、河津
従兄弟で、福島 悠 教育界の長老。 椿翁と 号し、晩年は服部 担夙 に師
た。羽田氏から出て、菅野家に入った三郎治翁は 、家厳 とは血縁の
田 氏を浴し
右衛門に改む︶も、危 ふく打首となるところであったが、蹄十八と
薄肉以下三名が、獄門に阜 せられた。郷家の営主治右衛門︵後、新
状ヒといった小説もある 結果は悲惨なものに終り、長倉村の斎藤
廻
々な兇慌録 ・騒動詞の類 が作られてゐるし、半井桃木 の ﹁天狗
も 建ってゐる。 顕匿の商は、
号、病
わ(
繁沿 ︵
事 して詩作に悠々自適の生活を送ってぬた。翁の長男
いふ若者であったのと、代官の非行が歴然としてゐにので、十年問
,は
,れ
てた。治右衛門が認めた訴状が
千軍四方追放だけで、辛う,、救
英-氏は、安積中豊時代、久米正雄に啓発されて 文豊 に志し、﹁ 文
で、先考を頼
﹁
ぬぬ延
二年五穀太平記ヒ に見え、﹁福島欺史二巻 九 ﹁近世資料﹂
直レ や ﹁文章世界﹂などに詩を投じた投稿作家の一人
って蔓湾 に渡り教育に従ったが、悪疫に侵されて殉職した。菅野家
い私を異様に興奮させたものであった。
︵2︶に収められてゐる。 一挨にまっはる数々の悲惨な口碑は、幼
繁治 氏の 病殿は、私 の 生前のこ
0%生彩四郎氏は、興治氏の弟で、数年前松坂屋の専務を 退き、 現
在は傍系会社の社長をしてゐる。
椿館 にまっ
家厳は文畢などに全く関心を寄せなかったが、慈温は多少﹁ ける
とであるが、その 想ひ 出はよく両親の口から洩れたし、
かな 調﹂の歌を詠んだ。私が国文畢を専攻する様になったのは、 や
自ら子供の
それに﹁立川
の星きから、﹁少年倶楽部 ヒ ・﹁日本少年﹂・﹁譚海﹂、
講書 範 庫を律して ぬ たからである。﹁赤い鳥 ヒ ・﹁金の船﹂︵後にコ金
い。敬虔な基督者としての教養からする視野の狭さが、
はり母親の影響があるであらうが、それもさ程 大きな ものでほ な
はって語られる山根大夫の話は、私には身に迫る恐ろし い話ででも
人 儂 ひの話など
いや、 ム﹁少し後になって からでも、幼児
あった。その頃の蔓湾
を籠に入れて責り歩く風習は島民間にあったから、
は、子供心に本富に怖 らしかったのである。
これに
文庫﹂の数々といった請書遍歴は、我々と同年輩の人 々と変りはな
郷家は、又、寛延二年の信連騒動の渦中に捲込まれた
たので、 皆
いが、﹁譚海 ヒや
やや長じて進んだ皇化第一中里校の校風も、 極めて ス パルタ 的
﹁立川文庫﹂などは買って呉れなかっ
八十八ケ村の
かなり正確なことが知られるが、とにかく信夫・伊達-
は、鎮撫に営 った米澤藩士堤三右衛門の﹁伊信騒動詞口もあって、
借りて 讃 んだ。
から、一寸した国史年表にも見えてゐる。従って、賃銀を装った色
農民一再六千八百余人が圧政に抵抗した信連地方最大の 一% である
五
を受け継ぐ第一部は全寮制で、寮母には教養ある英国人が傭はれる
た。大正十年までは第一部と第二部とに分れ、國語孝枝 以来の伝統
中堅部 として登足したこの畢校は、もともと進歩的な畢校 であっ
で、文串的な雰園気など、まるで無かった。明治川セ年 、国語豊校
談ずるなど女々しい行為であり、第一、課外の請書に耽る飲裕があ
てゐても、油断がならなかった。そんな校風であったから、文畢る
定めるところであったから、難癖は何にでもつけられる。街を歩い
に対しては、停止して不動の姿勢をとり撃手の構を行 ふ のが校則に
その片隅では、上級生の鉄拳が半ば公然と振舞はれてゐた。上級生
/"
@"
@
ことになってぬた。満洲事変以後廃止されたが、伝統的な行事とな
ったのは、飴 程の秀才を措いては無かったであらう。
懸賞論文を募集したことがあって、これに応募し、一等賞金仙田地
-﹂の
記課外講義を御願ひした様なことほあった。回文談話会では、
川秀夫・藤田植字君などと登起して国文談話曾を作り 、﹁紫式部日
多忙の様であったので、自然遠慮させられた。しかし、在豊中、中
あるが、先生は謹直な御方であり、且つ猛烈な勉強豪で、絶えず御
豊。武庫Ⅲ女子大豊教授︶の御宅にも、二三度はお伺 ひしたことは
後出︶などには、随分 御迷惑を御かけした。伊藤恒三口先生 国文
争。明治大聖教授。故人-・新聞部長であった須藤利一先生 故人。
文畢。後、龍谷大豊教授︶・文藝部長であった小山捨 男先生 英文
た。﹁主日聖の
ロ同人で、文壇の消息に通じて ぬた松村一雄先生 国
飴りしなかった。ただ、先生の御宅にはよく遊びに行 き、長座をし
私は、俄かに瀬怠 な畢生となった。豊校 はよく欠席し たし、勉強も
に入ってからのことである。が、その頃から友里青年かぶれをした
従って、私の場合、請書らしいものを始めたのは、蔓 比高等畢校
ってぬた卒業前の修豊旅行は、眞門 ・香港・マカオ・マ 二うと巡遊
するもので、生徒の楽しみの一であった。鶴翼の陣に則って配置き
れたと伝 へられる校舎も、赤煉瓦造り英国風の重厚な建
も我々の時代からは詰襟でなくなり、常時としては珍 らしい折襟と
なった。きぅした モダンな所がある一面、スパルタ的なところもあ
ったのである。校長の濱武光沢先生は、夏目漱石の門下で、辮説の
巧みな先生であったが、教育方針の嚴しい方であった。寧 期末 毎
に、全校生徒の成績を活字印刷とし冊弔出仕立てられたものが、父
元に送られる。これを見ると、上級生の成績も下級生の成績も、一
目瞭然である。席次は勿論、各畢科の点数・出欠状況 まで手にとる
様に判る。それも、父兄に送られるだけなら未 だしも、総督府立図
書館に新着図書として飾られ、誰でも閲覧出来るのだからたまらな
い。軍事教練なども厳しかった。我々の時代、年毎の査閲に大隊教
練 をやったが、中軍校 で大隊教練をやったのは企図で も始めてであ
るとかで、評判であった。校庭も大隊教練が出来る程広 かったが、
行の研究を発表されにのを拝聴しにのが切懸 であるが、この会を通
国豊院大豊講師 0
・
-・
が、西
中争時代の恩師氷田車 一郎先生︵詩人。
じて安藤正次・植松窒 穐田貞治・福田良輔先生起どの声咳に接し
を せしめにことがあるが、これはどうやら伊藤先生の御配慮による
た。又 、始めて出席した日、気軽にコーヒーを著 って呉れに大軍士
ものらしかった。小山・松村先生はお酒が強く、座中屡と 酒肴が 出
があった。それが黒田宜雄氏であった。後日知ったことであるが、
首時は全国的に 寧園紛寧 の流
黒田氏は浪速高等里校 で、中村幸彦兄と同級生であっにとか。偶ヒ
鹿
稲 田男 君・︵
されにので、それが自営てで参上したこともあった。
三日流連す
一
る 不作法もあった。今にして思へば、
黒田氏の下宿する中村 一郎君の家が筋向ひにあり、一郎君とは中軍
らぬことが多いと、先生の御宅を会場にしてしまひ、
児島大豊教授。中国文豊︶と﹁夜半の寝費目の輪讃を 始めたが、 訣
有 した直後のことで、先生方も、或いは腫物に解はる様な気持で、
からの友人であったから、次第に接近する様になった。無名草子﹂
一代の校長下
私
植松安先生の御令息 一郎君は、クラリネットをよく奏された。
我々の不作法を寛恕して下さったのかも知れない。第一
えてゐる。初代校長三澤糾先生をリベラリストの権化として仰ぎ見
も音楽部に一時籍 を置 いたので、親しく兄事した。彼は、酒の味を
の研究をして居られた氏の話は、それ追熟阿禰や南北に関心のあっ
る空気は、校内に依然として強く流れてゐたし、騒動の捲添 へる喰
覚えた私をよくたしなめに。不幸、チフスに罹 って早世されにが、
村虎 六郎︵潮入︶先生は、教育者としても立派な御方で、 又 すぐれ
って串園を去った林原耕三先生︵英文事、漱石門。明治大豊教授。
眞に天衣無縫、細心無垢な良友といふべき人であった。一日、彼か
た私を、次第に平安朝の物語の世界に引摺り込んだ。市川寛先生の
我 々もこの 両先
た歌人であった。短歌会を通じて、私は下村校長に比較的 接して ゐ
故人 - を 惜しむ聲は、時折先生方の口からも洩れ、
湖月抄ヒ 0校
ら思はぬ話を聞いた。大軍で、演習用のテキストに 巴
名を聞いて、秘かに憧燥の念に堪へなかっ
生の声 咳に 接し得なかったことを残念がっ仁。その三澤 先生が 、後
本を一誠宣に蒐めさせたのだが、二三部錬 って庭置 に困ってみると
たが、生徒との間には、何かしこりの様なものが蝸 ってぬ たのを 寛
年 満洲 国 で苦々しい経験を嘗められ、下村校長が、皇 比高等 豊校長
いふのである。早速、分興して頂いたが、自分の書架に大板本を飾
ふ。豊校 での授業には、酒津龍雄氏の﹁源氏物語精粋﹂が用ゐられ
った最初であった。送料などを加へて、確か十五回であったと 思
至 ったことは、
虎理 出来る問題で はない。
としてよりは、﹁次郎物語目の作者として名を遺すに
﹁人生の皮肉﹂といった言葉だけで、
叉 、この頃から、私は蔓北 帝國 大畢の国文談話会にも 出入した。
セ
たが、所定の教科書を使はず、専ら﹁湖月抄ヒを持ち歩くキザな睾
主 になってぬたから、二年の頃には、国文畢を専攻する気持ちが、
鹿 ろげながらも動いてぬたかと思ふ。新潮社の﹁日本 文掌大辞典﹂
か出たのもその頃で、これも植松君を介して八掛けで預 けて頂い
た
同じ頃、山田孝雄先生の﹁奈良朝文法吏ロ・﹁平安朝
文 法吏ヒが急
に高騰して、四十円から八十円位にまでなったが、とて 8手が出な
いので、筆 嶌を始めた。三木真朗文法吏ヒの 三分の一位 は寓したか
と思ふが、根気が濱 かず放側してしまった。勉強の方法 も謀らず、
我武者羅に猪突した時代であった。
﹁掌酒愛書会﹂が生れたのは、昭和士
年 であったか。もともと、
掌酒総督府図書館には、漢籍に於て、殊 に勝れた覚書があった。宋
版 こそ無かったが、金版・元版などに劣らしいものが紗からずあ
り、﹁奮慣調査会﹂ 営時蒐集した地方誌 の数々は、ム﹁日付
虞に出し
ても晒しからぬ内容のものであった。戦後、 蔓湾 関係の資料のみ
を印刷に附した﹁掌酒文献叢刊ヒ数百冊が公刊きれてゐるが、その
大部分は、常時の蒐書 である。従って、蔵書数も十四・五萬と、地
方図書館としては多い方であった。館長の山中樵氏は、日本考古畢
界の開拓者高橋健自翁の甥に営り、古瓦 の蒐集家として著名な方で
八
あったが、公共図書館長としても最長老であったらぅ。 営巨て仙
、ム
口
図書館に在った折、偶 さ訪れた森鴎外を書庫に案内し にことが、鴎
外の日記に徴して知られるが、営の本人はそれをすっかり忘失して
めて、﹁鴎外をも黙殺した﹂と悪童どもから
邸撤 されたが、それ 程
豪傑であり、政治的手腕の持主ででもあった。
一方、大肇の先生方の間に、蔵書家・愛書家の多かった
のは営然
である。営倉神田喜一郎先生は別格として、植松安先生は、東京帝
大附属図書館の司書官として長く勤められた経歴をお持 ちで、書誌
寧 ・図書館畢に詳しく、その家には百倍以来代々の鬼童
日
がある。円ナ笘
藤正次先生の架にも、落合直澄翁の遺書があったし、瀧田貞治先生
が、又、愛書狂と呼ばれるに適はしい先生であった。わが門前貫一
先生は、鹿田先生と四高時代同級であった由であるが、五高教授の
頃、鹿田先生に乞はれて、漱石関係の燐寸のレッテルや手拭などを
送られたことがあるといふ。とにかく、一旦蒐集を始められると、
徹底して蒐めなければ気が済まないといった性格の先生であった。
ヒ・﹁鴎外書
志﹂・﹁道道書ヒ
誌など 一連の御螢
﹁西鶴の書誌車師研究
作が、爾後四十星霜を経たム﹁日でも、立派に使用に堪へる事實が、
これを証して十分である。英文畑 では、矢野末梢先生が無類の愛書
家であるし、島田謹二先生は、﹁書誌が頭に入ってゐる人﹂と神田
先生が評きれる程、文献に精通した先生である。文豊 畑の先生ばか
りではない。農 軍部の田中長三郎教授は、アメリヵの国会図書館の
はれた。第一次大戦時の好景気に、武士の商法その俸、精糖事業か
大正末年から昭和の初期にかけて、私の家は経済的な危機に見舞
白鳥庫吉先生などと共に、東洋史豊界の四天王を以て目され、天下
の文政事部長であった側室藤田豊八先生は、内藤湖南 桑原揮藏
その頃の蔓北帝大には、一種清新な豊風が振ってゐに。殊に、初代
私が、蔓北帝国大宰に進んだことは、幸福であった。
はった。自然、私の選ぶべき大豊も決った。
くも潰ゑ去った。私も家庭教師などして、ちょっぴり苦豊の味を味
ら炭鉱事業にまで手を伸した先考の夢は、大恐慌の到来 と共に、脆
日本関係蒐書の基礎を築かれた人として、むしろ海外で知られに先
折
圭口には、
生であったし、醤卑部 の会関丈夫・森於菟先生なども、土日
金に糸目をつけぬ方であった。その他、河村徹﹁蔓 目口社長・草薙
青検察官長なども、愛書家と沙汰きれたが、さぅした先生方が集っ
たところに、期せずして﹁蔓湾愛書会﹂の話が時上ったものらし
い。同会は、機関誌として﹁愛書﹂を鐙付したが、 その内容は、
﹁書誌
畢b. 物 展量
望目
ロ・﹁書物趣味
L など同時代の他の雑誌に較べ
て、むしろ充実してゐる観がある。又 、この会は、年に 一回、展覧
00
が
立などとも
下親
﹁
由
交
コの
ロコ
あ
の口
っの
たおの氏@
九
ロも同様であ
乃至は中国哲畢の文字は用ゐられなかった。文豊の場ム
静かに見守って るた。東洋哲峯 植民地政策の為からか、支那哲肇
ひ、さ﹁
旧ユ曲言
が、巨人の如くどっかと腰を据ゑ、島田謹二先生が絢燗たる筆を振
な存在も、名物であった。英文科には、矢野末積 ・エ藤好美 先生
史 里村 に附属する土俗畢講座を担嘗された移Ⅲ千之藏先生の大らか
代三先生、若手の助教授陣に若生成一・小葉山淳先生が居られた。
八郎・中村喜
豊科 には、村上直次郎先生を長老として、中堅に桑田-
といった小さな所帯であったが、立派な先生が揃って居られた。史
ず政軍部
我々の時代にまで生きてゐた。文軍部は独立して居ら。、文
こいっ汁
几下上ムロ を陣睨されに豪傑であったから、高遵 な気風は自ら伝統となって、
会 を開いた。第一回は夏目漱石段。第二回は森鴎外展 L
志
L口
.などは﹁
、鴎
こ外
の書
展覧会の為に編纂されたも
で、会場にはっ蔓日ヒ社の講堂が充てられた。鹿田先生の ﹁漱石文
献 展観目録
のである。
この様な雰雪気に、吾 々も多分に影響された。そして、文化祭の
折に、文藝部主催で、明治・大正・昭和の文繁雑誌展を開いた。出
品の大部分は、大豊の附属図書館に司書をされてゐた豪州大菱氏の
蒐集に仰いだものである。裏川底は、創刊號の蒐集家として、日本
でも有名な方であった様である。無心を言って、出陳を需 めた新し
い雑誌の中に﹁文藝首都口があり、会期直前に居いたことを記憶し
てゐるから、昭和八年五月のことで、目録なども作った箸 である。
る ︶講座には、 ム﹁付売道 ・後藤俊瑞雨先生、文豊の方は
、神田喜
そ んなところに
郎先生が海外に留豊中で、塩谷温先生が集中講義に来 ム口された。 塩
谷 先生は 、 常にモーニング姿で教壇に立たれたが、
も 、 大 畢らしい 雰園気を感じたりした。そして、国詰 国文 豊科は、
安藤先生が第一講座・植松先生が第二講座の担任教授 で、鹿田先生
が第二講座の助教授、福田先生は助手で、まだ若かった
蔓北帝大は、設立後日の浅い大宰であったが、図書館や 研究室の
設備はよく、 各講座の図書費も本土の大豊のそれに較 べて数倍はあ
蔵書 数 が東北帝大や 九州帝大よ
ったし、殊に、年度末の特別会計で支出される図書賈が 、実に鹿火
であった。遅れて山登しながらも、
肩 士 太郎 - 文庫・ ュアール台目汀 仁︵叫
・仁ドニ
・
りも多かった事實が、これを澄明する。図書館に収繭された纏った
文庫にも、大息
一O
と、大鳥文庫の凡てではなかったかも知れぬが、それにしても大変
な 量であった。 ュアール文庫は、中東・アラビア関係の文献に富
み、その意味では我国唯一の特色のある 蒐書 であった 。﹁諸国道程
稀 親書こ そ歩 かった
0本﹂と題する十五・六世紀頃のアラビア語の写本などは 、珍本と
いって 差 支へないものだった。烏石山房には、
が、叢書類が実によく蒐 められ、便利であった。皇化帝大では、 最
初 、清末の碩儒、 葉徳輝 の蔵書に目を着け、目録 -四 冊 ︶まで作っ
たのであるが、その非業の死と共に蔵書も押へられ、 果さなかっ
た。その直後、国民政府も図書の海外搬出を禁ずるに 至ったから、
烏石山房の搬出にも危険が伴ったといふ。藤田先生は、 就任後幾何
もなくして道山に帰せられたが、如上の文庫の購入ば、 凡て先生の
息 めかかったものであると聞く。遠大な寧風ではない か。久保文庫
があった。大鳥文庫は、大鳥圭介の長男で外交官として活躍した 冨
文庫・深田 康算 ︶文庫・桃木文庫・長澤文庫・井上減産遺書等 ヒ
坂口文庫・深田文庫については、更めて説くまでもな ぃ。桃木文庫
北京大宰本 と合して﹁八種曲 ﹂となすべ く、天下の孤 本 であった。
たが、就中、李笠翁の﹁四種曲 ﹂は、﹁十種 曲 ﹂とは 別 行の伝奇で、
は、その一部で、戯曲を主にしたものであった。珍本も少 くなかっ
士太郎氏の菖蒲 書 で、日欧交渉史 関係の貴重重日に富み、 駿河 車 図書
は、桃木書院の旧蔵書で、神戸の白雲堂の手を経て入ったものであ
景-
館の内田嘉吉文庫よりも豊富、且つ良質であった と 聞知する。 最
るが、﹁古事記 し ・﹁日本書紀しの喜人本には、
坂口
近、反町茂雄氏の随筆中に、氏が手掛けたものとして大鳥文庫の名
なかった。室町期 の烏木で、﹁ 胡曽 詩抄﹂と題する 片嵌 名 交りの 抄
天随 -文庫
p ヨぎの臼の日の
コ︵
-文庫・烏石山房・久保 -
を見出したが、墓地帝大に入ったのは丸善を介してであったと記憶
物 があり、 謄寓して得意になって ぬた。抄物関係の書 目 にも見えぬ
珍 らしい ものが 少く
するから、 責 立ても二度三度と行はれたのかも知れな い。とする
、
堺水
と、
雑文
誌を庫
作る計画をした。岩壺君は一期先輩で、その頃から本居
様であるから、存在だけを報告しに
ては
置
か糸
う。長
澤
類他
も、
随日
分記
とや室歌
長を
研究すると、偉躯に物を言はせて、﹁も
且長全集﹂を謂んでゐ
﹁枕草
ヒ子
の
善本や伴雄の校本があった
稿
廿円
を
あった。田中重太郎氏が、いちはや
くか
着投
目され
、
百
た。
服大
部君枚
は、
神宮里畢館から遊里して来た明るい秀才型の人で、
じて
ロートグラフに収められれ時は思
、ひ
度で
胆あ
をっ
抜漢か
文れ
の力た
が非常にあった。不幸、岩壺君はノモンハン 事件で戦死
た。国文関係のものとしては、以上先
の生
他の
に菖
も蒲
、し上
田
、服
部萬
君も年
病に倒れたのは、痛恨の極みである。営初 は 三人だけ
関近
係世
のもの の廻覧雑誌を作る計画であったが、漸次、伝へ聞いて参加を申込ん
本の一部や鳥居書
素
が川
あの
っ蒐
た。何れ
文も
睾
で来る友人もあり、慮直に窮して、一夜安藤先生の御宅に相談に上
った。﹁掩に任せて置け﹂との御言葉で、やがて創刊すに
る至っにの
が、 秦 大立豊﹂である。タイプによる 謄黒印刷程度のものを考へ
てぬたのが、立派な活字印刷となり、幾分か性格も変ったものとな
ったが、やがて文豊部の機関誌の性格を帯びる様になった。勿論、
経管は赤字で、服部君と創刊号を携へて総長室に推参、幣原坦先生
二度酒席を同じくしてぬたから、気軽であった。大串での最初の受
じめ、回文の先生方の顔は見知ってぬたし、福田良輔先生とは、 一
並であった。受講生も多くて十人
講義
内や
外演
、習
一も
封あ
一かで
の
ら金一封の寄附を頂戴した。幣原綿長 には、その後も 一度赤字補
ったから、怠ける訣には行かない。い
絶の
対だ
にか
遁れっこはな
填 の為、多額の御寄附を御願ひしたが、第二巻からは、安藤先生の
ら、
苦しかっに。それだけ、教師と、
畢政
生豊
と科
の糸
間も親密で
御好意で、講座費 で一部を貿上げ、交換用の雑誌とする便法が採ら
の先生とも、ピンポン・テニス・野往
球復
なが
どあ
のっ
面を通じて
ねたから、その様な心配はなくなった。
に。
は勿
、
互
お、反
た。他大豊味
で
へは
ないことだったと思面
ふ
論
弊育
害ち
はと
免な
れる 話は前後するが、高等豊校を卒へて大串の授業が始 るまでの三
に錬磨しあふ機
く会
、が
や少
やもすれば温室
個月程の間、私はよく大軍の研究室に遊びに行った。安藤先生をは
なかったけれども。
一回生の夏休みも終る
頃 ︵昭和十年、
︶ 岩壺貞夫・服部正義岡君
一一
第四号があった。何気なしに見て行くと、﹁元和九発亥年間八月卿
れは 鎗談である。一日、福田先生の傍机に、庶女 荘 待 貫目録﹂
識 したが、﹁いの一番﹂の営養に指名されて冷汗をかいた。が 、そ
生も一緒で受
した。
はないか。元和までは遡るまい﹂との御 舌口業で、一層不 安を大きく
と、やはり主日部の存在を問題にされ、﹁奥書は後で加へたもので
ので、この本の価値は十分課らなかった。植松先生に御 鑑定を舶 ふ
までは 老,へが
及ばない。﹁錯簡の多い物語﹂といった先 入感 がある
四巻本であったことを暗示するものであるが、勿論、宮時は その辺
一一一
喜之 也﹂といふ奥書のある﹁宇 溥傑物五% の ﹁
俊蔭巻﹂ の高木 と、
業は 、安藤先生の門萬葉集口巻十の演習で、二一二年次
生 Ⅲ 春閉校本に更に校合を加へた佐野方脩 校本とが、 目 に映った。
俊蔭巻 の農本 が廿 五回・
明荘 ﹂の 印頼を見かけるので、これは大変な蔵 書家 よと 、ノート ま
があったが、誰のものとも謀らなかった。その後、色 とな本に﹁ 月
荘 ﹂の朱印
佐野方 脩校本が六十回とある。大軍人畢 の紀念に、何 か買ひたいと
で作り備忘に資したのは、
この本の巻首には﹁ 吾 ℡宝蔵書印﹂・巻末には﹁月明
考へて ぬた際ではあったが、丁度その頃、巌本萬葉集 ヒこ れも 廿
/秋葉 孫兵衛義之﹂と署した三寸四方もある末方印を捺した本が多
﹁日本古典令笹の基本 販が出て程ない頃で、この物語 には興味が
五国位しとなどを求めた直後のことであるから、とて 6手が出な
量 に出廻り、これ 亦良質の木が多かったので、すっかり謀られたの
あったから、欲しくてたまみない。価は、
い。目録が出てから既に二三個月経ってぬ たが、二三日 置いて、 照
であった。元和九年木 は 、西村宗一・ 笹淵 友一先生の 校本に、﹁中
笑 へぬ失敗 談 である。丁度 、﹁下総崎房
倉の葉書を、親にも内緒でこっそり出した。やがて返事があって 、
昭和の達磨屋五一を以て任じたであらう主 ︵失礼な評 三ロであるかも
荘 ﹂の 印穎が、
句 、校本の方は、 又別に得られる機会もあらうかと考 へて、俊蔭巻
知れないが︶のものであることを、察知してゐ なかっ たことが 訣
村本﹂として採られたが、あの解題を見ても、﹁月明
塘繰りめいた小遣 銭 で、何と
る。秋葉義之が、秋庭太郎日大教授の曽祖父に営る國串 者で、件の
愈と 迷った。あれやこれやと 思案した 揚
か出来たのである。送られた本は、朝鮮紙の様な粗い紙質の大和綴
印 頬も木印ではなく、實はゴム印で、
双方共に在庫するといふ。
本 で、筆致は走り書きする如く、所々に脱文を補って 傍書した所が
のであることなども、かなり後になって知ったことである。佐野方
のみではあるが、高本の万を求めた。
あり、 半葉 ほどの空白が二個所、一行分の空白が一個所 あり、奥書
脩木は、昭和川年代の初頭再び市場に出て、今は上坂信男早大教授
貢 立の前に早とに 捺されたも
も斜に歪んで認められてゐた。空白部の存在は、祖本が 口冊 乃至は
省東圃 遺稿口巻一︶といふ考へか
添 へられて ぬた。既に、﹁ム﹁口伝ふるもの何れも青表紙本にして、
河内本は伝 は う ざるものち如し﹂
った時代で ある。﹁手淫 保口も、 捜せば何か新しい材料が出て来
であらりと 、 私の夢は次第に大きくなって行った。
昭和十一年- の五月、数通の紹介状を 褒 にし
した 私は、二年目 -
んなことから、卒業論文に﹁宇津保物語口を採り上げる決心を
ム﹁一つ
、私の心を捉へたのは、その頃、新しい物詣の登見が次々
宇津保﹂の烏木は勿論、
て、 本土に回った。皇化帝大の藏本には、﹁
た。しかも、それらは﹁日本古典全集日本を除いては校註本で
と報告されたことである。金子武雄氏による﹁恋路ゆかしき大将し
あっ
刊本 もなく、披見し得るものは、﹁国文大観﹂以下の活字本だけで
ある 可能性が多く、﹁宇津保物語には錯簡が多く、巻序すら定かで
なく ﹂といった解題がなされてゐる程度で、初心の者にほ肺 に落ち
ね ことばかりであった。佐野方脩校本を買ひあぐねたことが
重大な失敗を犯しに様で、残念でならなかったが後の祭り であっ
@
@。
@
.
@
ナ
@
@@@
見え る若干の農本や校本の所在が、僅かに知る手掛りであっキ
%な
た
さ て、資料の採訪に出掛けるとしても、書誌といったものは、勿
版で印刷に附し、豊男に公開されるといった情報と共 に、﹁大阪夏
い。﹁日本文豊大辞典ヒの 解説や宮田和一郎先生の論文などに
の陣の折、分捕ったものと思ふ﹂といった徳川議親供の談話まで、
れた。記事は、﹁蔓湾 日日新報﹂にも大きく掲げられて、 近く金属
八年末か九年初には、尾州家蔵河内本﹁源氏物語二の葮見が報ぜら
と記憶するから、昭和
セ年か八年頃のことであったらり。きぅして、
巻 の御研究であったが、私が国文談話会に出入して日浅い頃のこと
頒布され、先年﹁葉月物語絵巻﹂と題して活字印刷にも附された絵
会の席上で発表された。後に、大和絵同好会からコロタイプ印刷で
尾州家に蔵 せられる﹁無名の物語絵巻﹂の紹介を、大阜の国文談話
安先生も、
Ⅲ瀬 一馬先生による﹁平中物語﹂の紹介、そして植松
がある。
りは高本を選んだ考への底には、多分に先生の御調に左右された面
︵昭和
セ年三月︶のは、眞に貴重な御指摘であった。私が、校本ょ
る ﹁源氏大鏡
口・﹁絵合﹂の註を引いて、伝本の少いこを
と説かれた
民
ら 脱皮して は ぬ たが、 實際に河内本の内容を窺ふには、金子元臣氏
る。
宮田和一郎先生が、﹁宇津保物語L-岩波講座﹁日本文畢しで、
て
かノ
の﹁定本源 底物語新僻目 に拠る以外、一般には方法が興へられなカ
の
宇津保の物語二十一巻としるしたり。ム﹁は
見 えず﹂とあ
﹁王代記に
架
男は、常時事 北帝大の助教授で、私はこの万を介しても御連絡を
一四
から、資料の採訪といっても、まるで雲を描む様な話で、甚だ心細
御願ひして ゐにから、先生は秘かに待って居られれ様 で恐縮した。
舌 朱墨の 三色の校異
いものであった。
正宗先生の御所蔵になる荒木田典之校本には、
がある。﹁日本古典全集二本は、同本を底本とするものであるが、
下関に上陸して山口に赴き、同地の中豊校 で教鞭を執 って居られ
た谷亮平先生の家に御厄介になりながら、図書館で大里屋仝
+︵ム﹁ルガ
し取りたいといふのが、私の願望であった。先生は決諾 され、大阪
似関本の新震-を調べたが、これは後々までも崇 った。短時間の調
関本の校異を本文中に流し込んでゐる為 、鶴的な本文 となってゐる
府立図書館に神谷元平校本のあることを詰られ、﹁東一
を設けず、凡て同一の符号で、校異を施してゐる。それを 正しく 嶌
ので、それに気付くまでには、かなりの時間を要した。山口に滞在
ことは、川瀬君に尋ねたらよからり﹂と、上松寅雄府立図書館長や
その区別を明示するのほ ﹁祭の使﹂ 巻以後で、冒頭部の 諸巻は区別
中 、一夜、谷先生に案内されて、市中の古本屋で、﹁
新 古今和歌集ヒ
Ⅲ 瀬 一馬先生への紹介状を下さった。先生の御宅に二泊
査 で、ノートが不備であったからばかりではない。大
の百鳥本を見せて貰った。鎌倉末期か南北朝頃の古烏木であったと
出、府立図書館には三週間近く通ひ、京都に出た。
して大阪に
示の図書館の
思ふが、その時代の古高本を手に取って見るのは始めての経験であ
廣木・三手文庫本などの閲覧の便を図って頂いた。
早速、鈴鹿 三セ先生を御訪ねして、京大に寄托されてゐた陽 明文
の高本があった。山登直前、潮田先生がしきりに探して居られたの
大の図書館が焼け、畢生の図書関賃にも場所がない有様だとかい ふ
るから、感激も一入であった。偶ヒ、 同じ書店に、﹁
萬 金産業袋﹂
で、求めて御送り市上げ、内心得意であったが、﹁日本経済大典ヒ
ことで、別棟の狭い一室を営てがはれた。暫くすると、
老先生が入
半 年 程前に 、京
か何かに入って めるので、それで間にムロ
はせたといふ御 便りを後日
山口を後にして、岡山懸和気郡伊里村の穂浪に正宗教 矢先生を訪
仕事をしてめたのである。久原本の絵巻︵天理図書館現藏 - は、こ
変へ仁が、吉澤義則先生であった。先生の机とは知らず 、占領して
慌 てて場所を
ねた。正宗文廟が建築されて程ない頃で、山腹に美しく
映えて ぬた。
の時には見られなかったが、鈴鹿先生のとられたノートによって 、
って来られ、黙って鞄で蝿を追ふ様な仕草をきれた。
二階に昇る階段の傍に、﹁萬
葉集総索引﹂の原稿が堆く 横上げてあ
大谷大里 藏古活字本ともども、宿で嶌し 取ることが出来 たのは有難
頂き、少ヒがっかりしたことを覚えてゐる。
嚴敬 茂 るのが、新参の客にもすぐ目に着いた。先生の令弟
植物分類
刈谷図書館本 を一見した後、東上した。
とは、短日月ではとても出来ない。校異は主要な部分だけに止め、
の心は東京に移った。陽明文庫本や三手文庫本の全巻を校合するこ
かった。鈴鹿先生は、又・私を笹淵友一先生に御紹介下 さった。私
大佐は、満洲国庫 國 の父とされる人で、当時の新間に時々その名が
宮家のこと。東宮家が、上野国造の後而 ときれることに 基く 。東宮
舌先生が研究室で購入されにもので、上毛野古家館 ︵印記 - とは東
この本は、京都の佐々木竹庖櫻に 出たのを、 偶と 訪れる れた橋本 進
だ公開きれてゐなかった目白の蓬左文庫、それに本居清造先生のお
と思ふ。先生は、私を連れて、東京帝大の国語研究室 図書館や禾
かかったか
た。御令息の茂君 ︵静岡大豊教授︶にも、この時お目に
攻撃校の卒業生で、
とが出来なかった。
御 令嬢が確か荷吉貞次 氏 の御合 室の筈である
関素袷,みきを 御 夫妻は 、古い天理中軍・天理
氏 が整理されることになって持 帰られにとかで、遂に御 話を承るこ
穂子氏も訪ねたが、丁度亡くなられた直後で、遺稿類も、関 みさを
私 は又 、富澤 美
宅 に足を運ばれ、御紹介下さった。蓬左文庫本の存在は、まだ豊男
が、 後に私は市吉留 三氏と若千の文通を生じたので、
出たりして め て、 私には心惹かれる人物であった。
に報ぜられてゐなかったし、本居先生の御宅で獲た田中道 麻呂の書
む様になってから、夫人は拙宅に見えられにこともあり、富澤さん
セ月初め、植松先生が帰省せられたので、長崎町の御宅に参上し
闇も、道麻呂校本を扱ふに必要な符牒を記すもので、非常に有難 か
の業績を追慕することも何度かあった。
私 が天理に住
つ%
こっ
j
めて居られたが、先考の遺志を継いで、﹁手淫俵物ま
浬 0校本作成
は、吉澤義則先生とは竹馬の友であった由で、常時は幼手掌校 に勤
生は、叉 、私を同道して西村宗一先生を御紹介下さった。西村先生
て 、尊経閣文庫・ 静嘉堂 ・無窮余・内閣文庫・日本人里
安太郎先生に、御紹介して頂いた。八月中旬から 九月一杯にかけ
頂いた。厚顔しい私は、先生にも御願ひして・永山近彰先生・秋葉
0図書館を探り、山田孝雄先生を常磐町の御宅に伺って、御 指導を
仙蔓に 赴いて 東北帝大
に徳ふこと廿年といふ篤豊の先生であった。先生は、蓬充文庫本の
野図書館・水戸彰考館と歩き、それぞれに収蔵せられる高本や校本
八月初旬、猛暑を避けて帰省した序でに、
ことを詳しく尋ねられ、本居木を未だに披見し得ないことを残念が
の ノートを作った。草径閣 ・静嘉堂 ・内閣文庫と、行く 先々で顔を
笹淵友一先生にも、早速御目にかかり、御指導を頂いた。笹淵先
られた。私は、叉、先生が古く校合され、爾後行方を矢した東宮鉄
氏で、上野
ムロ
は せ、言葉を交はすに至っにのが、鹿島 堀部︶正一 一
図書館・ 上
麿大佐旧蔵本が、東大の國話研究室に細ってゐることを中上げた。
一五
図書館・無窮余 で一緒になり、 菊坂町の御宅に案内 さ れて、母堂の
一山
ノ、
出される御話は、まるで夢の様に思へた。
早
﹁花香月影 ロ といった雑誌を編輯されに人である。澤田瑞穂 君 ︵
﹁風雅韓日
田先生に御紹介を頂いた石田元幸先生をお尋ねしたが、脚病臥の由
である。非常に木練が残っにが、帰蔓すべく決心した。名古屋で瀧
するので、軍位が興へられないと、某先生の注意があったといふの
九月も未になって、兄から速達便があった。長期にわたって欠席
稲田大豊教授。中国文卑︶がまだ国軍院を卒業した ばかりのこと
なので玄関ロで挨拶を済し、宇治山田に神宮文庫を訪ね、旅費をす
作られた 姿、こ
、が
、し
、の御馳走になったのが、安藤菊二君 であった。 安
で、彼は古書先生に詩作を習ってぬ たから、その 噂 さも 耳 にした。
っかり使ひ果して家に帰った。乗船した時は、文字通り懐中無一文
藤君の先考は古 香と 号し、大江 敬香 門下の漢詩人で、
軍 もの御宅に伺った。 先生は 、晩
一夜、松井簡治先生を、関口台町
であった。
凡そ半年にわたるこの旅行は、私には非常に勉強になった。自信
酌の後で 微臨を帯びて居られたが、この白面の窮措大を 一見奮知の
如く遇せられ、すっかり感激してしまった。先生の御蔵書 は、丁度
が出来にばかりではない。旅中、足を棒にして古本屋を覗き廻った
の文化補刻本で、数冊欠けてぬた。ム﹁一木は黒表紙の後刷本で、揃
静嘉堂 に納まったか納まる 頃かで、拝見出来なかった のは残念であ
そ の頃コ源氏
ってはぬたが刷も紙質も悪い本で、春日町の裏店で見付けたもので
お蔭で、板本を二本も手に入れることが出来た。一本は浅葱色表紙
物語 ヒの 古註に引用されてゐる﹁手淫保二の本文を調査 して る られ
ある。十五回といふのを値切りに値切って、十三回で八手 したかと
ったが、教へられるところが非常に多かった。私と前後して、片寄
る様であった。松井先生は、それを非常に面白い試みたとして高く
記憶する。各帝大の藏書や神宮文庫の木などは、大豊0図書館を通
正義氏が、﹁宇津保物語目の研究を手掛けられたが、
評価し、期待されて居られた。話は移って、先生の蒐重日の苦心談か
て、先生のお名前で、神宮文庫の嶌恭二部、東大図書館の南葵文庫
せば、借覧出来るといふことも知った。私は、植松先生にお@ ひし
私 はそれを 見
誌きるところが 無かった。
ら ﹁大日本国詰辞典し編纂の話となり、
先生の右の手首か左の手首かに、小さな瘤があった。
農本、九大図書館の音無文庫旧蔵細井貞雄校本などを次 々借 出し、
四・五巻︶の
か 三円だった﹂
青鳥眞や ロートグラフに撮った。植松先生も、﹁松陰
杢旦 にあった
旧藏の細井貞雄校本・版下木と覚しき﹁玉琴﹂ 釜
0%本や校本が 、 ﹁あれは朝倉屋で。確か二円五十銭
などと語り
詰めながら、ただ御話を拝聴した。先生の収蔵せられ る ﹁
宇津 保し
とか、﹁書物を買ふのに、たうとう郷里の藏を賈って﹂
らと、茂岳校本を貸興 された。敗戦後、先生が蔵書を虎介 された
の頃から秀才の誉れ高く、行儀のよい謹直な万だった。比島で戦死
教授で、市河三喜門の英語豊者として令名の高 い清水諸氏で、少年
、西村宗一先生が謄嶌されたものである。
大軍を卒へた私は、上京してセ條憲三氏の経営する西東書房に勤
として線香の煙が常に絶えず、時折、何を占ふのか、 ポェ を投げる
ぬたし、祭の日には村芝居が担って雑踏を極めた。廟の中ほ 、 様々
が、やがて家厳の入滅を機に豪湾 に戻り、その偉大豊の中国百文
謝将軍はじめ、牛頭大王や馬頭親昔にでも富る のであらうか、奇怪
畢に興味を有り様になった
私が函丈撃を専攻する 一万で、中国文
った関羽像の前を、練り歩いた。又 、廟の一角 では、白頭長髪の老
人 が入って担げる様に木枠が組んであって、祭 の折には、御輿に乗
な姿をした大きな像が並べてあった。これらの像の胴体には、中に
のは、勿論、育った環境が大きく影響してゐる。生れ育った新竹の
屋上 豆﹂など、老若男女が口を揃へて日本語を習って ゐ に。
山猿呈出 暇
翁がヨ 二字経しの様なものを教へて ぬたし、﹁
南一
@ん
足
@め
一
@
@旦
街は、州庁の所在地であ ったから、居任する邦人も比較的多かった
頃、家嚴は役人生活を辞め、柑橘栽培・製糖事業などに従ってゐに
%吊豪の家 もあった。 い ふ き
あらうかと思はれる扁額を、門に掲げム
た。乾隆帝あたりの文字を浮彫りして、金文字にした畳一畳ほども
建って ぬた。柱に龍などを彫刻したり、見事な石造りのものであっ
島民達の住宅街に少し入ると、盧 とに孝子節婦を表彰した 牌接 が
づつ邦人
から、私が生れた家は、 一般島民の住宅街にあり、二三軒
ゑ豊校 ︵
小豊校 に相営する島民のための初等教育機関︶で遊んだ。
小畢校は、歩いて三十分も離れた遠くにあったから、よく近くの
でもなく、軍人を出した名誓の家である。
度、各派ムロ同で行はれク
るリスマスで、世話役として奔走された清
一セ
水源治郎といふ銀行家があったが、その令息が、國際基督教大豊の
計商があったが、その合急が豊橋市長青木茂氏である。又、年に一
の家が寄り添ふ様にしてあった。道を隔てて両側に、青木といふ特
はば小さな日本人街を形成して ぬたから、事情は少しく違ふ。その
が、官衞 ・畢校 ・鉄道・病院に勤める人々には官舎が興へられ、謂
研究室に、副手として勤めた。
昔が石畳みの堂内に甲高く木察した。外陣の壁 に添 うて 、 落 将軍・
、西村・ 笹湖面先生及び安藤菊二君と、﹁手淫保しの
輪讃を始め
家の近くには、関帝廟があった。平日でも露 店が立並ぶ 程振 って
した南洋史学の俊秀松木盛衰氏も同じ教会に通 った仲間だった。
、この本を拝領したが、引揚げの際東京駅で盗まれた行李の中に
った為、ム
﹁は私の手許にない。元和九年暮鳥
本も失 ひ、手許の本
時 か
あ
は
め
た
尊
なん
立派な 豊校 で、孔子廟を軍んで教室が建ってぬ た。月立里の喧嘩
やがて 内 喜人の衝突に登 属するのを怖れて、先生に時と 注意 さ
ことほあったが、注意されると近くの校長官舎に行くふりをし
妾出校長の令息達雄 君とは、同級であったし、高等豊 校 まで 同
を歩んだ。
んな幼年時代を送ったから、後年、魯迅や郭沫若の小説を讃ん
、 何の抵抗もなく受取ることが出来た。
一八
贈って呉れたもので、営時、蔓湾軍司令官であった松井岩根大
園んで、級友と共に撮った嶌眞 で、場所は軍司令官官邸の庭で
。この日の大将の話は、孫文の神戸に於ける講演に始まり、大
亜主義に及ぶもので、約二時間銭り座談の形式で行はれ た。既
刑事変が起り、満洲国建設の聲も聞かれる頃であった ので、串
からも勇ましい意見が出たが、大将は、 ﹁さぅ無暗に鉄 砲を打
はならぬ﹂と、たしなめられたのが印象的であった。
國問題とは別であるが、この前後、私は久保天随先生を、大軍
の御宅に伺ったことがある。ゲーテの 殿 後百年か何か に営っ
記事にして、﹁蔓高新聞口 に書いたことがある。小軍持代 、児
、とても生活出来なかったこと等さ。私は、このインタ |ヴュ
こと。文士の生活は貧しいもので、絶えず筆を執って伺 か書か
凡て英語の教科書であり、英語が出来なければ上級に進めなか
ほ、適当な教科書といったものがないから、歴史でも 数豊で
ら移し江ものとしては最初のものであらうこと。先生が畢生の
ものであること。久保先生の程は、ドイツ語からの直 討 で、原
、高山樗牛が安積中里時代、英詳から童詳 して山形の新聞 に寄
。話は実に面白かった。﹁若きヴェルテルの悩み二の最初 の邦
0部諜者としての先生に、御詰を伺ふべく友人と参上したので
各種の紀危行事が我国でも催された頃のことで、私は コヱルテ
し、
小筆六年 の 二塁期 、私の一家は蔓此 に移り住んだ。 蔓北は新竹 @%
較べると遥かに都会で、日本人と中国系の島民の居住地が、かな @
はっきりと 回 別されてゐ た。後者は、ほぼ高車とか大相埋 とか 呼 イ
@
Jネ
@
れる地区に 集中して ぬたが、南華は歓楽街に近く、大稲垣は商家が
櫛比して段 賑を極めて ぬたけれど、日常生活の上では、我々と殆 ん
ど無縁の地域 であった。従って、 中畢から高等 串校の時代にかけ て
ゐ られたが、 實 ま
@
は、私と中 国附注文化との接 綺は錬りない。 蔓湾は 、地理的に大陸
に近く、﹁ 一衣帯水﹂などといった言葉がよく用
政治的にも文化的にも、中国からは一番遠い位置に置かれてゐた の
である。
もっとも、高等 豊校の頃には、中国問題に漸く目覚めてゐるこ と
を 示す一葉 0% 眞がある。先年、同窓の富田實 君が、わざわざ複 嶌
細るを将 し
亜あ
て
て側満
っ
生に
か て 台中
官
で臥せて居られたお宅の近くに落雷があり、病状を悪くされたのが
る。私が大豊に入る前の年、先生は道山に帰せられた。軽い脳溢血
と思ふが、のこのこ歩いて居られる姿を見て、感心しにことがあ
に構はない万で、官服姿にヵンヵン帽を被り、確か下駄ばきだっに
の先生も亦官服を着ることになってゐるが、久保先生は全く身扮り
販があって、式日には肩章や短剣を着けることになってぬる。大豊
ら、印象はム﹁も鮮やかである。
蔓湾 には、海軍将校の服装 に似た官
あったし、大寧の先生の書蘭を覗いたのは最初のことであったか
竜文集に載せられにものを除くと、始めて活字にした自分の文章で
たことは確かである。しかし、宋雲行記をほんの一部でも謹 んだこ
と吾 々との力の差は鎗りにも大きかったから、
卑京ミ
有
神田先生に御指導を御願ひした。輪講会は何回まで績 いかにか。
て 、やがて三人で月洛陽伽藍記し
の副手をして ぬ た 呉守和君
れる基礎的な知識の数々を、見様見眞 似 て覚えた。東洋文畢 研究室
ぅ。私は彼と親しく附合ふ裡に、中国文畢を専攻する畢 主 に要求さ
0差が 飴 りにも隔って ぬたら、歯車はうまく噛合はなか ったであら
して多くはない。それが却って私には有難かった。若し、二人の力
も 、大豊に入ったばかりの畢生であるから、中国文学の知識も 、決
ととなり、
ったが、黄君は卒業論文の作成に欲念がない頃であったから、稲田
攻 の畢 生 は 、買得 時 ︵
蔓湾 大豊教授︶ 君 と稲田君との 一一人だけであ
様になったのは、十月頃からのことと思はれる。常時、
私は、稲田
中園女軍事
保﹂の資料採訪に出掛けて ぬるので、東洋文豊の研究室 に出入する
と神田先生の講演があり、遺著や尺積、又、神田先生が パリで覆ら
かと思ふ。第二回は、王都安先生の逝去十週年紀念講演余 で、呉君
一拍であった
生がされた。十二年正月のことで、題はお得意の三冨一
た。登舎営日の講演は・折柄、集中講義に来蔓されてゐた塩谷温先
神田先生は、帰朝されると幾何もなく﹁東洋文 里会﹂ を 起され
中に、挿入してある。
新国 は ついての私の見解は、 俊蔭の漂流譚の素材と構成を論じた文
とは、後に、﹁ 宇溥傑ロの 波斯國を考へた時、大いに役 立った。 波
きう 永積 きしなかっ
巻 五の輪讃を始めるこ
釜湾 大豊教授。退体︶とも親しくなっ
原因だと聞く。
大豊 に入っても、最初の一年間、私は東洋文畢研究室 に出入した
記憶が 鈴りない。私に一年遅れて、親友の稲田尹君が入 畢し 、中国
君も 、話相手として自然に私を選ぶ様になったらしい。
れた敦焼文書の嶌眞の展観が行はれに。
文串を専攻することとなったが・この年の五月から、 私は﹁手淫
君から・中園女 畢は ついて多くのものを 串 んだ。勿論、 稲田君とて
一九
稲田君は、この年の秋頃から肋膜を忠って私
入ほ
院既
しに
た軍
。
た。大部な冊数のものは整理も簡車 であるが、小冊のものはさう簡
する方が便利であるが、研究室の 配栗も 亦 その方法 が採られてゐ
二O
位を充足しぬ
てたが、神田先生の御講義や、
演傍
習
聴は
させて頂い
軍 ではない。もともと、漢籍の知識が皆無なのであるから、毎日、
北帝大でも、中国語の講座が開設きれて、爆護的な人 気を呼んだ。
車に スパイ視されて、ジャワで命を損した。不幸な万であった。蔓
ある。彼は、その為 、四民政府からは狙はれ、大戦の末期 には日本
り、ム﹁少し前のことではあるが、郁達夫氏が秘かに
来 蔓したことも
往来も頻繁となった。軍服姿も凛々しく、麓保孝先生 が見えられに
この頃になると、日華事変が漸く泥沼の様相を呈し始め
た。これは、机の上では、畢び得ないことであっ
手に取って見なければならないのであるから、自然に馴染みが出来
難い体験であった。従来、とかく敬遠し勝ちであった漢籍を、 一々
辞書や文庫目録・叢書手目索引と首引きの生活であったが、又と得
てぬた。受講生は稲田君一人であるから、自
と然
な休
る講
。先生
は、私を憐んで、﹁古京遺文
謂﹂
むを
ことを提案さた
れ
。回文を
むといふことは、どの様なもので考
あ接
るの
か
豊。
とは、どの様な
作業を行ふものかを、更めて教へられた。宇
先治
生橋
の碑
﹁致
銘
理﹂・神
﹁護景
幸脛
一趺
百語放
﹂・鐘
﹁
字訓義者﹂等と一連払
の
冊御
立
は、アヒ
一
の時の御講義を墓に執筆されたものであるが
、占
そめ
れに
をし
八
て勉強出来たのであるから、福田良輔先生が羨
の望
もさ
無れ
理た
は
が、一月も経つと、葺酒人諸君と日本人との間には、大 きな力の差
鈴りに受講生が多いので、ニクラス か三クラスに分 けて行はれた
私が、副手として、東洋文里の研究室に入旦
っ
の
ハた
号
礼
君は
が、
が出来、日本人の受講生は多く脱落して行った。この一
別後、本上に
ない。全く地方の大卑の有難さといふべきであった。
京都の東方文化研究所に移ら
急れ
遠、
人手を必要と
したからであ
帰省した稲田君は、吉川幸次郎先生に激働きれて、閲南 語 の畢音を
の印刷所が大柄埋 にあった関係もあって、私も彼と連立 って大相埋
屋 の一室を借り、全く中国風な生活を始めるに至った。﹁
皇大女肇﹂
始めに。彼体不徹底した凝り屋であるから、やがて後 には本島人家
る。従って、自分としては院
、に
大入
軍った様な気持
あで
った。
偶ヒ、研究室の床を大修理せねばならぬ事情
圭戸
が籍
生を
じ一
、時
他に移さねばならなかった。搬出は容易であ
原っ
たす
がの
、が
に戻
大変であった。漢籍の場合、十進分類法によ四
る部
よに
り分
は類
、
の裏街を歩く機会が多くなった。
この頃、 蔓湾 育ちの我々の間に、新しい掌酒研究の聲が 挙って ゐ
、 漸く 芽生えにと
授 社会寧-陳紹馨君 に懇望されて、同君の所蔵する ﹁創造週報ヒ
の古刀
揃と 交換してしまったから、海老で鯛を釣った様なものであっ
た
﹁歌仔﹂と並んで、私は清末の翻詳小説を蒐めて ぬ た。清末の啓
豪的な思想家であった厳復や翻 諸王 と 枢はれた 林琴南 は、共に福建
に。幣原 坦 ・村上直次郎先生などの蒔かれた種が
言 へるが、直接的には、 移Ⅲ千之 藏 ・小川両義・馬淵 東一先生等の
省の人である。殊に、林葬南は 、親戚が 皇湾 に居住し ても ぬ たし・
彼等の謹書
ってゐるかと
高砂族の研究に恩賜賞が典 へられたことが、契機にな
時 、官命を帯びて広東・桂林方面を旅したことがあるが 、その折に
まれて、棚の上方にひっそり置かれてゐに。家厳は、辛 文革命宮
みる人もなく、永楽町と呼ばれに辺りの漢方薬店の奥深 く、 紙に包
営局の皇民化運動に圧 過 されて 顧
は 、まだかなりあった。それも、
生涯に三度 蔓湾 に遊んだと自記してゐる位であるから、
南山大豊教授- は台北帝大 の卒業生であ
思ふ。殊に、馬淵先生
冊 一・二
清歌謡- を
り、まだ 川歳 になるかならないかの 街齢 であったから、後輩に 典
へに影響は大きい。私は、何時の頃からか、﹁歌序﹂宮里
集める様になって ぬ た。
求めたのであらう、書架には若 千の漢籍があった。 多くは農業関係
﹁歌仔﹂は、袖珍版、 ニ ・三頁位な粗末な本で、価も一
の 書物であったが、その中に、
次 第に 吊り上
かなり後になって知ったことであるが、この様な店にこの様な資
,けられて、厚目 のものになると五十銭位も取られたことがある。
と買ひ集めて染 んで ぬ た。最初は十銭位であったが、
坦堂 古城 貞吉 ・創案藤田寛人先生な
三百点 位 までなら、 さぅ 苦労もせずに集る。私の場ムロ 、蒐集の契機
銭から五銭位 までのものである。粗末なものだから散 供し易いが、
領蔓以
どの 詳出に係るものがあって、面白く感じてもめたから、一冊二冊
の蒐集に努められてゐ て 、その数は千点に近く、
真似し始め
となったのは、南洋史豊科の畢生であった斎藤悌 亮君の 御尊父がそ
りのものをも含む 惨 らしい蒐集であることを聞知して、
たまでである。稲田君も、私と前後して集め始めた様 であるが、 同
呉 寸札・ 黄得 暗君みたりも
料が尚 商品として責られてゐにことは、
﹁
林L
翠.小説 ヒ といった類 のものが、 九
君の方は次第に本格的な研究となり、﹁き室湾
歌謡研究 L といった 著
年 ならずして、 諦部 叢書
全く知らなかったらしい。さしづめ 、穴場といった 様 な 訣で、二三
蔓湾 大豊 教
書 まで出版される様になった。熱し易く冷め易い私は、やがて蒐集
をあきらめ、宝の持ち腐れとしてしまったが、敗戦後、
一一一
十冊徐 0集った。ただ、残念なことに、その頃から私の求めて ぬた
ることの方が 、 遥かに面白い。その面白さに釣られて、
な 舌口
ひ種ではあるが、先生が御書きになる論文を讃むよ り、 話で承
一一一一
華翠 きれた日本の小説は殆んどなく︵実は、あったか も 知れない
には、週に二度も三度も御宅に御邪魔する様になった。
小説口四十冊鎗りを見出した時は、驚喜乱舞したもの である。これ
タンフォード大豊水 で補ふことが出来たⅠミシガン 大 寧でコ 休講
書庫で﹁説部叢書﹂のほぼ完揃を見出し 同本に欠けた ものは、 ス
御破算となってしまったが、それだけに、先年4 ンデ ノアナ大軍の
めて、資料を購ふ算段までした。結局は、お互の引揚げで、凡ては
稀 には私の万
るらしかった。 営然 話題が 、さ うしたものに及ぶことも あった。 勿
なってゐる﹁植民地文畢﹂の研究を、掌酒に営嵌めての御試みであ
なかった。十九世紀のフランス文畢 では、かなり重要な 研究課題と
蔓 酒を 舞皇 とした 文 卑の研究11﹁華麗 島文聖史二の述 作に飴念が
その頃、先生 は、﹁海潮音﹂や﹁若菜集目の御研究から進んで、
屡 と11時
か、童詩である為に気附かずⅠ遂に北京に在住する 先 輩に 博を求
らは、引揚げ後加年近く、日本の各地の図書館を捜して、遂に求め
から材料を差上げたこともあった。先生の詳細な研究によって 、正
釜 @ し。
臼ヨ -Ⅱ 0わコら
0めム
しい 評償が典 へられたり 、ズ ・バー ムの小説﹁華麗 島
得 なかった資料である。フィルムに或いはゼロックスによって、複
嶌し持ち帰ったことは賀する迄もない。
八五年のフランス艦隊の封鎖物語﹂
所詮掌酒育ちの子供である。手淫 保﹂の研究に手は 染めてみたも
間、私は島田謹二先生の影響を多分に蒙った。蔓湾育 ちの我々は、
報﹂昭和十四年五月︶に、 ﹁
ム﹁は文事上 になって研究 室にぬ るが、
った。先生の﹁リ l ス・バー ムの 蔓湾 小説 | ﹁華麗島﹂| ﹂ 宍菖湾時
パの
@
吋
-困毛 pオn
・お。e などは、 さ うした 珍 らしい 場ムロの 一つであ
0
㌔∼卜㏄Ⅱささい斉田∼ミオⅠ田ぬ0
卜 Ⅰ㏄㏄
ぬlⅠ㏄㏄
軌・ 出 0
臣斡。
ア口内・
のの、本土の串生と同じ方法で勉強しても、とても太刀打は出来ま
その頃は富北帝国大孝の卑生であった N君が訪ねて来て 、 いろいろ
もごに
い。本土の孝生とは違った新しい研究の分野が、何処かにある筈で
と雑談をしてゐる際に、ふとこの本の話が出て、自分は はじめて リ
つつある
あり、さうした研究方法もあって然るべきだと、摸索し始めて ぬた
l ス ・バー ム の名を識 り 、﹁華麗 島﹂の存在することを 教へられた
﹁歌序﹂の蒐集から清末の翻
詳小説へと、関心が移り
頃 であったから、先生が績 々と示された比較文豊史的 な業績が、極
云々﹂とあるが、
Nとは実は私のことで、先生も御存知 でない資料
めて魅力的であった。周知の如く、先生は座談の名人である。非礼
ス ・バ
を捜し出したことに、秘かに誇りを感じてぬた。原作者リー。
あるが、その意味で、明治文車史に若千の関係がなくもない。新垣
さぅ でなくても、我々 車湾 に育った者には、この戦争に格別の関
君は、その辺の研究に熱を上げてぬ た。
ね。リーズは め-@サ
z
のa
きかな﹂と見営をつけられながらも、遂に
心を懐 かせるものがある。この作戦中、悪疫にかかって陣 殿した ク
,
1ムの素性は、 嘗時は訣らなかった。先生も、 ﹁ダッチ ネームだ
ョ寺ね
あぐねたらしく、右の論文でも明らかにされてゐ ない。これ
ルベー提督を悼むフランス国民の心情は、今次の大戦中に山本元
帥を要 った日本人の気持に似たものがあると思はれる・が、フランス
︵
ト
㏄
ト凹|
も、後日、中園筆者として著名なま汀の ,目の手
ミ︵臣コのコ
︶ののど夫人であることを知って御
、知らせ手上げたことがある。先
基隆にあった。 又 、この戦闘牛、終始フランス艦隊を追跡 観戦した
墓前に花輪を棒げるのが行事であったし、提督の名を冠し 仁海浜も
黒田清隆中将、及び中将の坐乗した旗艦の艦長︵恐らくは、 未 だ少
極東海軍に属する艦艇は、例年馬公︵膨湖 昌 - に寄港 して、提督の
郡編 め ﹁
蔓湾文献目録・欧文篇﹂︵
謄嶌刷︶に、この書名 が見え、著
佐 であった若き日の東郷平八郎元帥︶が、硝煙去りやらぬ基隆に 上
生は、典拠を種々御質ねになったが、私は種明しをしなかった。@
者名の後に ぺン書きで 目ぁ・ヨ ののとあるのに
気附いたからで、嘗
陣 し、案内に立ったフランス軍の工兵大尉ジ 。 ツ フル ︵賀するまで
が拠っにのは、恐らく明治末期に成ったものであらう国語学校師範
時は未だ自信がなかったからである。しかし、何人とも知れぬ先肇
手 して喜びさうな話であらう。
日
くべく材料
叉 、その頃、私は須藤先生に課題を
大 である︶と、固い握手を交へて別れたといった挿話は、何人も拍
e宙A- もな
︵く
﹁、後年、第一次世界大戦の英雄となった ジ,ツ フル元帥その
によって記されたこの注記は、正確なものと思ふ。案ず るに、この
め衞︵ぽ
㏄の
@
日の女︶であらう。ヴィクトリヤ朝 朗 の 健全な道義心と
女性は、臼にのの後妻であったqの@
の
ミ 日田ヨぎp神畢博士
教養とを身に着けた文藻豊かな女性であった様である。
典 へられて、雑誌﹁南島しにチャンブレン先生の伝を圭
を 漁って ぬたが、この国語豊界の恩人と ピェル ・ロチ及 び 小泉八車一式
は、 何れも一八五 0 年の生れで、 セ歳の頃、パリ周辺で中尊に通っ
リ l ス・バームの小説の登抽から、私は清佛戟宇 にも関むを壊き
てぬ たといふ因縁もある。私は、悪露に魅せられる如く、ガルノー
大佐の同 佛軍 遠征児﹂などを持ち歩いて、実地踏査を試みたりした
るであらう。フランス艦隊によるこの封鎖作戦に従軍したピェル
知夫
の通りで
Lロ
. のある
﹁こ
水と
島は
の
周漁
始めた。これには、新垣宏一碧︵四国短大教授︶あたりの影響もあ
ロティに、 ﹁お菊さん
一一一一一
基隆は要塞
が、 想へばこれは極めて無暴 であり、危険なことであ った。﹁佛軍
遠征典﹂には、巻末に詳細な地図が附せられてゐるが、
地帯であるから、怪しまれたらとんでもない不祥事を惹起するに 違
ひなかった。私は、判然とした研究テーマも捉 めぬ間に 、空しく数
年を送った。
だが、 気 附いてみると、島田先生と私とでは、
豊間的 な 教養も オ
能も、雲泥の差がある。とても、先生の眞似などは出 来ることでは
ない。要は、先生の研究方法を盗むに及かずと、漸く気 拙く様にな
った。私の眼は、何時しか中国に紹介された日本文事に注がれてゐ
た
もとより、大畢の東洋文畢研究室には、中国の新女軍 に関する文
敵 が、注意深く集められてゐた。それらの中には、華 諸された日本
の近代小説が湿 ってぬたから、幾分かの知識は得られた。又 、雑誌
﹁
中回文車ヒに掲げられた 實藤 息男先生や近藤春雄 氏 などの論文
に、碑益 きれることも紗くなかった。しかし、文畢革命 以後の材料
は、掌酒では、日本本土以上に入手し難い面があったし、仮令、足
を踏み入れたにしても、到底、先豊の域には達し得ないだらぅとぃ
ふ豫感があった。叉 、現代から遡 って清末にまで及ぶならば、日本
にとって永遠の課題となるであらう中国問題に対しても、自分なり
二四
に。私が、清末の小説に関心を有り様になったのは、
れるかも知れないといふ、幾分か国士めいた感慨もな
ら
があったからである。
つ
認められれ御手紙には、百分も、 故吉野作造先生か
紙を頂いたが、柳田先生の御手紙は、特に私を感激き
先生に怨められたのである。雨先生から、それぞれに
秀雨先生に送って、叱正を乞うた。偶と出張講義に来
題して、梁諸司佳人奇遇ヒを書いた後、私は蕪稿を柳
表を始めてから三回目、﹁文車革命の先駆者としての
に及ぼせる日本文藝の影響﹂と、多分に誤解を招きさ
手 裡 恵 山 登 藝 算
。﹁この様な研究でも、やり甲斐があるのか﹂と、始
場もあるので、さうも参らず 云こといった言葉が認
の延長として是非研究する様に怨められたが、自分に
立 説 に
である。爾来、先生が亡くなられるまで、絶えず御指
た
、先生の御手紙は、常に新しい課題を典へられたり、
の
れるものであった。実藤先生は、叉、引揚げで資料を
が
た私に、秘庫を開いて、多年蒐集された資料を、惜し
さ
するのを許された。戦前に先生が蒐められた資料は、
っ
谷図書館にあるⅡそれを、先生の名で借出して、 天
げられて、常時は駿河皇図書館にあった 現在は移管
此 土 見
の
い
さ
埋まで持ち帰ることが出来たのである。先生は、又、私を 誘って 、
拝惜した
竹内好・松枝茂夫・岡崎俊夫・斎藤秋男といった﹁風媒礼二の同人
に 紹介して 下 きった。私は、これらの方 とからも材料を
り、 教へられたりする機会に恵まれた。お調子者の私は、かぅ して
叉 、神田営倉先生に、限り ない御恩
送った。しかし、それを後悔する気持は更にない。
煽てられる偉に、専攻する国文学の研究を忘れてしまふ様な日々を
か うした間を通じて、私は、
て 道山に帰せ
を受けた。直接、御教へを頂いた植松・鹿田柄先生は、敗戦の翌年
相次いで亡くなられたし、・安藤先生も、幾何もなくし
られたから、私は両親を喪った孤児の様な歩みを績け た訣である
か、先生は、慈父の様な目差しで、ともすれば瀬 高に 流 れ 勝ちな 私
未 だに果し得ない。 セ秩を開 いて、漸く
を働 まし、示教を垂れて倦まないものがある。何時かは、豊恩に酬
いる日をと念願しつつも、
心急かれるものがある。
二五
昭和十四年
。帝舜 伝説 致
。田中道麻呂の﹁宇津保物語
同
同
目
録
年月遺失
四巻五号十二月
円
四巻三号八月
四巻四号九月
口研究について
蔓湾 新生報
0 ﹁蜻蛉集 ﹂は
またまパリの古書市にゴーチェの原稿が出て、 驚くほ どの 高
作 的な論文であるから、黙殺してよい。
南洋史享の研究室に ぬ た兄の影響が 色 ととある。もと もと 習
な い ぢ って ぬた呉子和君︵中華民国掌酒 大豊教授。退体 - や
籍を置いて ぬた頃の所産である。その頃、しきりに亀 申文字
* ﹁帝舜 伝説破﹂は、一時、副手として東洋百文豊 研究 室に、
。コーチェ日 ・㈲
。 司蜻蛉 集 ﹂|若き日の西園寺公望とジュディッ ト
同
。﹁
宇津保 物証巾﹂・俊蔭の漂流譚の素材と構成
。俊蔭の モデル
文
中村忠
,
口一
ズがあり、新生報社で記者 を し
館 では、島袋金聾館長の好意によって、﹁歴代生業﹂
てゐる。 叉 、研究室から附属図書館に移った。
昭和十五年
。﹁宇津保物語﹂ 俊蔭の漂流譚の素材と構成口
事大文筆五巻一号
墓清新生報
者の
図書
西 表島
を 横し
年月遺失
膜剥離の為入院、数次の手術を受けたが、遂 に失明した。
*新生報には、尚幾つか書いてゐるが、想起しない。 0 主 眼 網
。どんくる,かるわる
三月
に 比嘉盛 章氏を、八重山に喜吉場末拘 氏を訪ね、首里の
遺骨を郷里に埋葬した。途中、路を沖縄航路にとり、
︵大鳥富士人部民同 藏 - 中にあった。 0 この年四月、先
﹁蜻蛉集 ﹂は 、珍 らしい本であるが、皇化帝大には大鳥 文庫
て ぬ た買得 時君 ︵
現 、 蔓湾 大害教授︶に頼まれて書いたもの。の。
価 で落札きれたといふニュー
ヘ
/
四巻 二1匹 號
四巻 二號
五月|セ月
五月
皆眞 面目であった。
マ ・蘭領東 印度で用に供せらるべき教科書の編修も行った
昭和十七年
笑止 千萬 な話ではあったが、
二月
Oロ臭 芝龍
け,ロ ・㈲
。おもろ き うし研究︵輪講︶
0バジル,ホール略伝南島
同
ニ台
%北四
同
七月
十二月
* 司宰津 尻ロ の研究を放棄した形となってゐるが、明らかに 行
真大女寧セ巻四號
0中国文藝に及ぼせる日本文藝の影響け
格 ・小葉山淳・小山 捨男 ・中村忠行
・須藤利一・比嘉盛 章 ・松村一雄・三島
金関 丈夫・ 川平朔申 ,木藤才蔵
︵同人︶、
同
高宮正二郎 詳 ・中村忠行脚注︶
同
| ジョン・ドッドの秘録
。清佛戦争封鎖日記
文薮重量
湾
昭和十六年
八巻一号
同
ハ@
六巻二号四月
同
。唐津和郎氏を軍む文勢雑談会
蔓大女 軍
同
同
。校本 う つほ 物語・ 俊蔭巻 釜日評 -
。国文車界の展望
九巻三号
。十六・ セ世紀の地図にあらはれたる蔓湾
科畢 の蔓湾
。﹁宇津保物語﹂の錯簡を論じて成立に及ぶ
寛大女軍六巻四号九月
先畢に 非礼にわたる文字の散見するのは、削らねばならぬ。
*この頃の文章には客気があって、生意気であること移 しい。
0 四月、附属 図書館
﹁国文雙の展望﹂で、比較文寧への志向を示してるるの
島田謹二先生の影響に因るものである。
から、 國 語国文 畢研究室の副手に舞戻った。何かせねば なら
正次
又、この年の春、畢生 部長
が結
ね といふ焦りがあった様である。
・福田良輔先生を顧問として、﹁南方画譜問題研究会﹂
であった能勢 頼 賢 臣 ︵昭和女子大豊教授︶を中心に、安藤
詰ったのである。常時、私の手許には、神宮文庫本 二 丁令︶
の青鳥貝、及び南葵文庫旧蔵細井貞雄校本・植松皮岳校
本
何にフィリッピン人を教育したか﹂︵黒田宜雄氏︶・﹁
国力の
成され、八月三日、公開講演を行ってゐる。﹁アメリ力は如
現藏 ︶・蓬左文庫本︵ 俊藤 巻のみ対校︶その他若干 の アキス
神谷元平校本の嶌・古活字本・久原文庫藏 絵巻︵天理 図 書館
トの ノート位しかなかったが、神宮文庫本・細井校本 植松
格を示して ゐよう。第二次大戦は、まだ始まってゐないが
ビル
増進と国語の進出﹂︵安藤先生︶といった題が、このんムの性
夏湾は 完全に戦時態勢 下 にあった。この会では、タイ
二セ
校本などの資料は、西村・
笹淵 先生は 、戦 災で
笹 湖面先生の校本作成の為 に、お
貸ししてあつた。これが却って幸した。
さうし た事情
多くの 蔵 書を失はれたが、私の資料は疎開して下さって
揚げ後御返し頂いた時は涙の出る程感激した。
0 ドッドの日記は、これからといふ ところ
。
0あるけれども、この奇怪な物語の研究には立ちすくんでし
まったのである。
牒報 活動に対する厳しさを説いて 、忠@
昭和十八年
二八
。中国文藝に及ぼせる日本文藝の影響㈲・㈲
文勢
蔓湾 六巻五号九月
十月
攻塊
花冠
録
同
藁北帝大新聞二号
大鳥文庫とユアール文庫 同
桃木文庫と長澤文庫
行人になれと交渉を受けた。応召や徴用で、若手に人を 欠い
*この年、葺地帝大新聞が創刊されることになって、続 輯兼遵
で、掲載を中止した。
0雑誌﹁南島口は 、 須藤
第甘一種
郵
4@
豫測 もつかぬ。 擦 つ-
採 んだの揚句、 渡行人は畢生部長入館勢頼 貧民︶に な って貰
ら、 厳しい 号呈柵
統制下に何が起るか、
便の認可を取り、保合に別った新聞にするといふのであるか
たが、この上雑務が重なってはたまらない。殊に、
のつ
た為に、お鉢が廻って来たのである。畢生新聞の経瞼は @
利一先生生締の 沖紐 研究の雑誌で、 毎號 二三 0 頁 前後、 豊問
告 して呉れた人があるからである。
大島
的な水準も高い内容豊富な雑誌であった。創刊は、昭 和 十五
年 八月、浅井忠 倫 ・伊波普猷・ 移川手二蔵・江崎 悌三
鐸 々たる 先 生方
広 ・金関 丈夫・喜吉場末胸 ・小葉田漢・島袋 全迎 ・玉 城南 季
東恩納寛惇 ・比嘉春潮・柳田国男といった
が、顧問となってゐる。私が同人となったのは第二號か もて
里佳
ふといふことで、編輯人となることに同意した。二 % 部 の講
座増設・現員軍部の分離問題・南方文化研究所の新設
ホ|
長、第二冊 挺寧
蔓湾 決戦文事会議が開かれ、所見を求めら
校長大浦精一先生 -が逸足して、福田良輔先生と共に委員の
柴圏内に於ける日本語教育問題の調査会答
らの要請に基くものであらう、正式な名棚を忘失したが、共
0 然るべき 筋か
に畔出され、油を絞られるのには閉ロした。
出陣とニュー ズ には事欠かなかったが、連行の度毎に何 処か
旧臓易 貴された。 0 この年 、 又、
一一局
ざん純の研
,め
るが、創刊 営初から関係はして るた 。須藤先生は 、水 戸高
校で 窪田敏夫先生と同期。造船畢の権威で、
究をされてゐたことから沖縄研究に深入りし、バジル
・東京大豊教授となられ、
ル の﹁南島航海記 ヒ 0% 著 もある。皇化高校教授から、
南方土俗事会客室 北帝大土俗事研究室内︶の幹事と なり、
﹁南万民俗し雀南方土俗口 改題︶の編輯に従ってゐる。
ねだりしたのも、この頃のことである。
依嘱を受けたり、
八月
昭和十九年
八八
㈲・㈲
巻巻
0曲国交藝に及ぼせる日本文藝の影響
文
寧
五四
号号
九月
八月
十
月
こ
0 四月、 章地女子専門孝枝教授 となっ
O十
蔓 北 帝大
軍昏の診断により即日帰休。八月、敗
召したのであったが、五月の大空襲で文政 畢部 本館は 被弾
の紀要として出版すべき 敦性 文書の解説の印刷中に、私 は応
戦 。 0 これより先、神田喜一郎先生の依嘱を受け、
休 となるも再度応召。
月 、墓地はじめ 蔓湾 の各都市、米軍の猛爆を受く。一時、帰
*三月、墓地帝国大害文政事 部副手を辞任。四月、応 召 。 五
昭和古年
は 尚更危険であるとて、翌春には教育会館に移った。
で、教場を蔓 北 第一高等 女寧校 の一隅に移したが、市街地で
からともなくにへられた。校舎を陸軍報導部に接収され たの
月、掌酒神大海空戦、出撃した全機 禾 帰還の悲報が 、 何処
長を兼任し、 寧徒 動員の作業も加はって多忙であった。
た。新設校のこととて専任教官が少く、教務部長・ 図 善郎
坊間には見かけない。
投じて宮古民族文化研究所から複製本を出されたが、
って ゐまいといふ。昭和四十四年十月、下地蕃民が退職金を
* 日南島口第三種 は、未確認ではあるが、本土にほ四部しか 渡
。おもろさうし研究㈲南島第三幅
呈大
月
@艮
∼
@
し、破片の一部が製本を待つばかりとなってぬ た製品 中 こ
再 整理の上、﹁ 敦煙秘籍留眞新
込み、目も営てられぬ惨状を呈してぬ た。戦後、同 寧呉 守和
買得暗君等の奔走により、
完弾
成、
被
編﹂と題して、中華 氏回国立掌酒人畢から蟹行されたの
8間近き西鶴語彙のカードが散乱して、手もつけられなかっ
せめてもの慰めである。浦田貞治先生の研究室40
た 。 値極安先生は、疏開地から帰られると、自らの手でぬ書
を % 分され、さっさと疎開先に戻られた。大切なものは 一部
心させられもした。
0 大専 は同 校舎に戻り、中国詰・
英語る
御頭りし、又、頂戴したものもあったが、その見事さ には 感
主とした授業が再開されたが、中国側の接収が始まって、自
ゐた康保健を、特別 留 畢生として 預 って ゐ
然援校 となった。畢生中にば、康有為の孫で、将来建築家た
た。彼女は送金の道を鎖され、精神的にも苦悩してぬ た が
らんと希望して
どうしてゐるであらうか。
私は藤野先生たらんとして、遂に及ばなかった。彼女は、ム﹁
。﹁
中 國の命運﹂ -日詳 @
同
青年書局
八月
五月
一月
昭和 廿 一年
。﹁
対詳 一件小事口
同
﹁中国
皇天文
。﹁
封課泥 淳二
ぬ た三和印刷所の S 君から、蒋介石の
*前年秋、中国側の接収工作がまだ本格的にならぬ頃、
亭の印刷をして
二九
急連そ の必要
日本
的 命運﹂の 日詳を頼まれた。徹底した皇民化運動の結 果 、大
語の力を借りるのも止むを得ないといふので、
半の島民は、白話が 諸 めなくなってゐる。一時的には、
三O
陳儀
帰属を異に した 童湾 には、﹁官場現形記 L も遠く及ばない 様
一人の力で は如何ともし難かったに違 ひない。物の考へ万の
な事態が現 出した。 狂 澗を既倒に廻らさうと試みても、
その底には 必らずと言ってよい程、皇民化教育・日本語教育
相違に起因 する中国人・島民間の衝突も色々と目撃したが、
十一月
ける 国
のであ雨
る國
。の 文
0 蔓 湾から一緒に 引場
居られた 姫 同勤先生の御助言で、古野清人校長に拾はれ たの
だった。 0 四月、天理詰 畢 専門 寧校 講師となる。 蔓北 帝大に
もなかったが、 愛藏の書物の二三やノート類は、返 とも 残念
さもしい心を起した人があった様である。衣類などは惜 しく
二個。0盗まれた。援護を装って手伝って呉れた人々の中
か。荷物の仕分けをしてゐる裡に、自分の行李三個の,
ヮち、
のった
々は、荷物の搬送 保 となった。東京着は一月二日で @
げたのは、 殆 んど六季の先生方 と御家族達とで、自然 若い五口
木 では 未 だよく知られてゐなかった。
化 関係は久しく途絶えて る たから、技工 化 運動のことは 、日
語国字問題﹂の冒頭に枕 として書いた 40
* ﹁中国における新文字運動﹂は、宮村﹁現代中国にお
天理詰 畢 専門 畢枚文化 課撰定、一九四 セ年度作品。
海の彼方の朋は呼ぶ︵寮歌-
和世二年
の 成果があ った。十二月、私は蔓湾から引揚げた。
を生じたのである。途中、テキストが長沙版から重慶版 に変
沫若︶などを 造 ひ心 貢 込んだ。 貢 込ん
0のもあっ た
ex
ロり
円
Ⅰハ%0
藏書 が惜しかった所為もある が
蔓清笛五図書館に徴 用 され
鹿児島大 聖教
0した
った。 0常時、図書館は日本時代の博物館で開館して居
つる。
て、睡眠中に惨殺されたが、惜しい人を失ったもので@
吾裳氏 で、清潔な感じのずる紳士であった。強盗に押入られ
編澤館 と同居して る たが、 編詳 館長は魯迅の親友であっ
こ
す⋮
許
日 、陳 儀 が視察に来たが、 赫ら 顔の堂々たる体躯の持主 ︵﹂
@
の
の企画は 、 凡てこれ 陳 儀の好意によるものであったとか。 一
からずあり、 流右 に日本人は偉いなと、妙な感心。
授︶も止まった。買上げた書物の中には、稀書・貴重書も少
た 。 歌仔の研究に鉄 念 のなかった稲田男君
集 ・整理するといふ名目の下に、
長の御高配で、邦人殊に大豊の先生万の道されれ 軍術 圭日ル
*ら
蒐
謙虚に中国を寧びたいといふ気持が強かった。山中構図書館
留 したいと思った。若干の
といふ語が使用されてゐたかと思ふ- が始まったが、 私 は残
0初春来、邦人の引揚げ -マ政府指令では、放逐
だものの中には、宇都宮清音先生の手に成る。
魯め・﹁ 泥檸ヒ郭
なって、受験参考書めいた 中 ・英 ・日射謹め ﹁一件小 事ヒ
ったし、重労働は出来ない身体なので引受けた。これが縁と
ったりして、意外に日数がかかったが、収入の目営 てが サ
@
よ人
ノ
り
人
昭
るたから、文字通り外囲語 掌故といつた 雰軍
である。その頃の寧生は 、お互の会話も、それぞれ専攻する
気があった。 0 秋、法隆寺の壁画を見事しての帰途、村尾方
外囲語を使って
君が孫文の同盟会結成苗日の話をしかけて来た。﹁あ Ⅰ
答へると、同伴の天人が﹁ほう﹂と嘆声を放たれだ。
村 昆君 と
夫 人は
れは赤坂憲 南 坂の坂本欽 禰邸 でのことだったね﹂と何気なく
欽禰 の 弟監 四郎氏の令嬢であった。このことから、
は格別に親しくなった。村尾君の母堂セッ刀自は、藤野漸の
女、従って藤野吉日とほ異腹の兄弟、正岡子規とは従兄弟で
めつ
ある。子規のことを、﹁のぼさん﹂と言ふ のが何か嬉し ,
とえ
古目の母に宮 る十重子の兄は拓Ⅲ 加腰垣
た 。漸の前妻で、
06 。
忠 。 恒忠の夫人ひさ刀自樫村民 は、熱心な天理教信者 で、 教
高野友治教授の回想文が、﹁天理大宰五十年誌ヒ にも 採 録さ
同
四号一月
川
中国語学研究会第十九
十五号五月
日 例会・ 於京都大串
中国語 寧
四月
い。 國語 研究所に転勤される前、秘かに相談を受けたりした
れてゐるが、さらした縁で同君も勤めることとなった らし
寧藝
か 、早世されたのは惜しいことであった。
文
休
右の要旨
啓
超
金口
表顕
|文化祭観劇 記
すべてに一度は成功天理詰草時報号外
﹁新羅馬持費目礼記
相仕三年
昭
梁
。徳富芦花と現代中国文豊
天理詰零時報六号
十二月
*前年とこの年﹁日華文 藝の比較交渉史 研究﹂で、 科畢 研究費
有離か
を頂いた。引揚げ後のことで、貯金などは凡て凍結されてゐ
った。研究費の支給は、倉石武四郎先生の御高配によるもの
たし、 貢り喰 ひも出来ない常時のことであったから、
と、村尾君から伝聞し、感激した。中国語豊 研究会での 連表
同 じ日
のった
愛知人婁の鈴木津 郎 先生の拉 丁化 運動の紹介が ,
は、さぅ した事情から辞び 得 なかったものである。
が、散会後、厚顔し い私は蕪 稿 ﹁現代中国 に於ける国語 国字
の話が起って る たが、十月、京都の河原町大教会で、
委 員の
問題﹂を御預けして、批正を乞うた 。 0夏頃から、典籍 畢会
先生万の初会合があった。中村幸彦・田中克己面見と私より
刊の案が 、 始めて正式に議せられた。
十月
五月
0 四月、天理 語孝 専門
幹事役といった資格で、陪席した。この日、審ブリア L Ⅱ
倉
寧校 教授となる。
昭和廿四年
畢報一輯
天理大豊
日本文化
十月
|中国文藝に及ぼせる日本文藝の影響の一例1
。﹁新中園未来記L孜説
。黄泉北良坂孜
天理大豊
畢報二輯
廿セ号
。徳富芦花と現代中国文卑り
れてめたので、中村幸彦教授が図書館から移籍きれる 迄の
ホ軍制改革により、天理大軍教授となった。枯山教授が入院さ
。現代中国に於ける国詰国字問題㈱・㈲
。徳富芦花と現代中国文豊㈲天理大串里親
草太胡適
先生と矢先生
宇
「
教授
ロー
の俳人
傑物
津
手
論
談
な
五年
苦心
は和楽
澤 雅 洋
雑記
叢
記
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口
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館の み正の迎
三輯
*春休みを利用し、佐藤誠氏と懸下の万言調査。名張から笠間
間
和世
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川 四号
セ月
十一月
十月
川骨・ 川五| 六号八月・十一月
。王静安先生を想 ふ
中国資接 的鯛の︶ 廿 八号
。事故国のことども
阿伝曲 ﹂ 同
。玉葉 註の ﹁
同
0中国に於ける演劇改良運動の曙
国詰国文七六巻十一号十二月
。晩清に於ける友里改良連動
*佐藤誠・ 兼弘 正雄教授と共に、正月早 と、十津川郷に
方言調査に従事した。山中を街律すること二週間、新宮 に出
日講堂で行はれたが、共に大変な盛況で、朝日講堂では記録
て 帰宅。 0 この年の比較文 畢会 大会は、同志社大豊 と大 陳朝
で、中島・波多野・島田,板垣・太田の諸先生と共に谷崎潤
一日月
破りのものと、社の人から聞かされた。後藤末雄 先生 の斡旋
一月
一月
三月・セ月
四一|四二号二月
四 O号
天理高校新聞世一号
氏 に招かれ、祇園の料亭に歓を轟した楽しい想ひ 出が ある。
昭和世七年
。小説の謂み万
同
。﹁東欧女豪傑し礼記中国資料
。康有為の演劇改良論
。挽清に於ける演劇改良運動
|旧劇と明治の劇壇との交渉を中心として
天理大豊畢報ゼ輯 ,八%
。人類呵 ,相愛罷|
聞書案 -
。古城貞舌先生の追憶 談 間書案 同
。一宮房次郎先生の話
同
同
八月
セ月 ・八月
四八号
四七号・四九号
八月
八月
同
同
四九号
さねとう・けいしゆう著
。亜東 展望
。現代中国詰入門望日 評 - 同
五 O号
九月
九月
八月
同
。晩活 小説のモデル問題
五二号
れw
血
叩
胎
@生雄
生@
口
一旧
生
同
。日本文学と中国文 卑 釜日評 ︶ 亜東資料五一号
。﹁忠吉吟社﹂そのほか
十月
斎藤秋男 著
十二月
玉川手五月
百十月
五三号
一八号
| 四七号
同
。新中国の人間教育案目語︶
。鶴外母堂日記 抄 ︵翻刻-
高校友 藝
*二月、比較文字 会関西支部ても例会を開くこととなっ て、隔
安藤正次先生を憶 う
同位 に催した。毎回集るのは十名内外、しかも同し顔 れであ
ったので、﹁日本比較文 里会 関西支部 報﹂を 編 揖し 、一一・一一一
の増加を図った。会報の体裁は、﹁中国語里 研究会報﹂ に倣
回の例会毎に、研究登表の要旨を謄嶌 印刷にして配り、 会員
ったものてあるが、一足遅れて、東京大軍比較文尊 研究 室か
らも、﹁比較文 里 新聞 報﹂が出、その体裁が全く同じて ある
仕事であった。
のは愉快てあった。要旨を細めるのは、なかなか骨の折
一一一一一一
の
セ 五 二 一
月 月 月 月
十 九
月
月
一
一
0カメラ と私
。科事と道徳
同
天理時報
昭和加年
三四
十月
九月
一号五月
一号五月
一二四四号八月
一二四八号九月
。荒木田麗女と﹁宇津保物語白山辺 道
朝日新聞
。中国劇評家としての 辻醇化㈲老朋友
。正倉院の双六
。正倉院の双 山
ハ %翻
大和文化研究三巻五号十月
%
。双六
ビ フリア
十八 号
十月
五号十月
。鴎外研究の資料
。晩晴児童文里界の一側面天理大串 寧報
戸外大
三木
︵関西寧院 大豊教授︶・大支考︵
壁
ット まで画いた。
内民の予定であったが、結局私がやることとなり、埋草 やヵ
雑誌に終った。雑誌の編輯は、初 め竹
したが、文字通りⅠ 一號
き、詩客も﹁新中国ヒと 改め、日中文化交流に一役をと 念願
入試。研究会は 、 後に青木正妃・ 欧 陽子 信先生を顧 間に戴
教授︶に私などが加はって結成した﹁中国越劇研究会﹂ 0局
正三氏と、 張源祥
岩上海内山完造,塚本助太郎・竹内良男・升屋治 三郎
*この年、研究室同人の機関誌﹁山辺道﹂が創刊された 。 又、
月
﹁老朋友ヒは 、 旧 ﹁支那劇 研究会﹂ 帖 裕 C.D.C- 系の
十
月
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ら
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作 会
月@
ハ
首 号
五 巻
四 九
号
六を
仏 骨
見
首 号
し 関
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月
月
五 一
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文
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種
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鶴
録
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る
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二
間
雑
政
で で 文
全学
ム
資比
料 敬
立
巻の
水 遁一
田
展串
観会
五
月
中て三巻
廿」
三の
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6 人 ン
の串 の
た理
一
文
流
文「
国 巻
青庫畢睾
・
ンヵ文小
宇
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展観目
。
国上
む倶は年
書
と
れ 大ハ
郡 ぐ津 元
保 る保 年
物 詣物
され、
成立
秋
親に
畢吉
つ
稗田 森
典精
南
塊
編
駄屋
録
文
昭
和世
中野「手
語 」
下
近火
大筒
代松 國 理並
日酒 分 大に
恭一
ね 八
政治
ハラ化政
迫
道
催献
あ
廿
わ
詩
が保
好走
購 和
小 吾 「
鴨
昭
昭和 m 一年
同
簡呑て
会﹂︵中国研究所内︶の依嘱を受けて、増田遊民
藏 の 由百
三号
八月
二一月
二月
の他百点を私が撮影し、中国に送ったことが、C.D ・C の
記録に見える。
一月
。中国劇評家としての辻聴在日新中国
天理大豊卑親付Ⅰ一揖
昭和州二年
山辺 道
六月
︶八月
十一月
三号
。春柳社逸史稿 ㈲
。書道年表明治・大正篇
平凡社販
書道全集
十二月
。中国に於ける﹁不如帰しの許慎明治大正文寧研究什一二号十一月
古典文庫
。有明の別丁冊
︵自律大吉辰と共同校訂︶
。﹁宇津保物語ヒ巻序破
三月
与一月
周回
。歌舞伎と中國の友だち確艶彦陀 新中国穣轍ヱ二
訳詩︶
二号
集
。五食言
㈲新中国
。中国劇評家として辻
の聴花
三月
二号三月
二 0号
山辺 道
。賀茂 真淵の﹁宇津保物語口研究天理大軍里親
。﹁宇津保物語 口 馬場本の 来源
| 山岡 明阿 ・細井貞雄の研究
天理大豊新聞六号十二月
天理大豊寧報廿 二号十二月
| 大豊楽・演劇コンクール寸評
。朝から夜中まで
。春柳社 逸史 稿 ㈱
|欧 陽子 情 先生に捧ぐ
*前年十月、猿之助一座の大陸公演、ついで中村新古衛 門 の帰
公演
国 ・郭沫若氏の来日があり、この年六月には京劇の来日
昭和州三年
古典文庫
天理時報
五@
月
四号三月
三月
天理大豊新聞十一号十二月
。語撃刺のむずかしさ
|大串祭演劇コンクー ル寸評
求めに応じて執筆したもので、中央戯 則孝 院で華詳し た 由を
0請書遍歴
0 ﹁春柳社 逸史 稿 ﹂は、 欧陽 先生の
百ハ
C.に
Dも
.、
C田漢氏から演劇関係窒
があった。日中友好の輿論を反映して、中国新劇の上演を色
とな 劇圓が 試み、
梁 氏から 棚 詳の許可を 求めて
十六冊の寄贈があった。
梁夢廻 氏から聞いた。最初は、
︵
曽浬大吉氏と共校︶
0有明の別上棚
。﹁在明 の列ニ雅致
|成立を中心として
集める
セ年 ︶の 頚 弾を求めて 来た。
来たのであるが、その時分には既に戯劇畢 院の詳がある と、
攻防先生から 梁氏 に連絡があり、 梁 氏からは 更 めて、 ﹁晩清
に於ける演劇改良運動﹂︵昭和世
両者とも、 華誰支 は未見。 又 、四月、﹁魯迅の手紙を
三五
。﹁有明の別﹂解題
同
同
平
書几
道社
金版
集
| 先行文事との関係を中心として
同年立・系図
圭
年
表
江
一
戸
期
。宇津保物語参考年表
安藤菊二編・中村忠行神︶
昭和州四年
。﹁有明の別﹂高致
| 成立と系図をめぐって
同
山辺 道
同
同
三月
同
十一月
八月
されることも多かった。
昭和州五年
山辺道
| ﹁宇津保物語
ヒの正頼 貴宮のモデル
0帝の御女やは得たるⅡ
ハ
- 号四月
阻止・松川事件原判決の破棄・勤務評定反対等とで、駆り出
幾つかの委員会の委員に選出され、多忙であった。安保改訂
。欧陽子債先生の手紙
四月
|中国話劇史の 一資料
宇津保物語
0帝の御女やは得たろ
八月
研究会大会︵
於、東京女子大︶
ホこの年は、教職員組合書記長・親交会世話役その他孝内 ての
五号
宇津保物語研究会編
。﹁宇津保物語﹂の背景
宇津保物語新論ヒノ内
|若 千の史実と素材について
早追
。藤 英のモデル
一一二、
飢ぎ
天理大軍 畢
朝川 二輯
。﹁宇津保物語﹂古活字本の本文について︵
宇津保物語研究会
大会︵ 於、天理大宰-
。﹁宇津保物語 ヒ に関する展観書目録 解説 -
同
%.
山辺 道
ハ月
@
十一月
同
十二月
十二月
貴宮のモデル
八号
天理大豊畢報川 二一揖十二月
。﹁宇津保物語﹂古活字本茶本文の成立
昭和州六年
1コ宇津保物語 L の五
。帝の御大やは得たる㈲
天理大豊畢報刑 @ 号
六月
十二月
十一月
文豊諸事二十四号
。粉雪昼前田綱紀の﹁宇津保物語し研究
昭和川 セ年
。比較文 里史の方法
平安 文豊 研究会
。物証田の型鈴巴
段、福岡女子大牢。清末の文壇と明治の少年女筆円山辺 道
九号
|資料を中心として
によって、女亭博士の畢位を受けた。
*かねて大阪大宰 に提出して ぬた﹁宇津保物語の基礎 的 所ぬ乃
﹂
昭和川八年
関西支部結成の頃
会報日本比較文星川
合二号一月
一O号
十二月
一月
﹁重慶日報臼の創始者竹川藤太郎㈲・㈲
天理大豊畢報四 0号 ・四一号三月・ セ月
和州九年
辮髪の俳人羅蒜山人㈲・㈱
昔文
昔物語の作者と讃
で-
昭和四十年
四月
学︶八月
。﹁宇津保物ニ
語・﹁内侍曹﹂﹁沖つ白波﹂の
下@
国語と国文
豊 四二巻一号
年立と成立教佛
思想
。﹁宇津保物語しの作者の
佛散文事研究Ⅱ
|中野幸一氏などと共に基調発表
一月
-
ホ四月から、五識六% に非常勤講師として出講 四二年 三月ま
﹁宇津保物語
ヒ・﹁内侍曹﹂﹁沖つ白波﹂の
年立と成立 上@
国語と国文寧 四一巻十二号 十 二月
畢 ・語
孝三四号
山辺道
清末の文壇と明治の少年女畢 ㈲
|資料を中心として
昭
川三巻十号十月
尊
。正岡子規と野口寧斎女
十二月
十二号
一月
十月
川五号三月
号
。桑原やよ子の﹁宇津保物語ヒ研究
山辺道
昭和四十一年
。物語歌 の一側面
昭和四十二年
ビブリヤ
十三号三月
山辺道
滋賀大国文四号
ゴ一月
。紫式部と額田王
。打毬
会報日本比較文学会五一号十月
八号十二月
︵伊藤恒
吾先生退官紀念号︶
。関西支部報告
保変
*四月から、京都女子大宰に非常勤講師として出講︵四十五年
致
。シタを出す文化
三月まで︶
昭和四十三年
九巻二月
︵出席者。大庭
脩 ・本田溝・水田紀人・米田賢次郎
頼推勘諸氏と中村-
三ヒ
。村上・圓融朝に於ける一歌人の生涯
| 平兼盛伝
0さうとうしし孜
覚
善
十四号
五
-"暦
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念
己
首
号
セ月
十月
つ
岡
ホ四月から、帝塚山導因短期大害に非常勤講師として出 請 四
唐
の
訪ねた
号六
)十
狩野
で 市
十セ年三月まで︶
著
と共
生
四
十
五
昭和四十四年
め
所( 天噺
別
つ
閑全
遺
三八
四十セ号
十月
*四月から・奈良女子大事に出講︵四十八年三月まで︶O前年
からこの年の前半にかけて、全国的に大豊紛争のあった落着
四十セ号 三月
天理大豊広報十号十月
月報
ビ フリア
かぬ年であった。0六月、横山臥 君と共に、畢生有 士ゅなっ
ね、神宮文庫・蓬左文庫を訪ね、伊良子時に遊んだ。
昭和四十六年
。﹁諏訪文畢﹂と﹁出牢昌ヒ
。森銑三先生の業績
ひら
。一枚の短冊
*前年来話のあった﹁天理図書館善本叢書﹂出版の案が具体化
し、十一月十四日第一冊﹁倭名類聚 抄 ・三宝類字抄﹂ ︵渡辺
田善雄・中村忠行か加はった。0春、梅田義彦・島田甫 氏等
実瓦解題︶が出た。和書主部は、野間光辰氏を代表と し、委
員 には中村幸彦・富永牧夫・木村三四百氏と、研究室 から枯
と、安藤正次先生の著作集を編纂す へき案を議し、八月、先
四十二号一月
生 の廿年祭を靖国神社で嚴修した際に公表した。
和四十セ年
|忘れられた謡曲大美和
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一
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。前田家十三う
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四十五
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︵基調報告。ケネス・レックロス、土橋
日本詩歌の海外における 日本比較文
受容をめぐって
関西大会
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一号十月
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於、同志社
女子大事
寛 ・中村忠行 -
︵バークレイ了
一時期として記憶に残るであらう。講義の飴暇を見て
、
オル ニ ャ
* 一年間の滞水生活は 、私の生涯にとって最も有意義な 楽しい
イ ・スタンフオード・カリフ
ガン・シカゴ・イエール・ハーバード諸大孝図書館や議全国
ら。
三九
書館の書庫を覗く機会も得たし、多くの資料も入手出来たか
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論府議口をめぐる循徐 ・鳩巣の対立
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。﹁手淫保ヒと﹁源氏口 ︵ジンポジウム︶
宝主調報告。石川
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宇津保物語
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昭和五十年
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十九号
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於 、天理ギヤラリー
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蔓湾軍談トと司唐船新令國佳節ヒ補正
山辺道
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。物語るれこれ 繍ぎ
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文学会全国大会国語大事
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。内山永久寺の本照
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|和歌六人党の側面的研究
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* 二一月、定年退職。四月再び天理大学教授として就職し
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首巻 0号
六セ
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0比較文里の諸問題 -シンポシゥム︶
基調報告。芳賀徹 ・剣持武彦 和田 繁 二郎・中村忠行︶
第川セ 同日本比較 於、関西井
先生
。天理市 史 ・女軍筒
た
てぬ
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勢頼貴
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五
月
たと 念 四
きこと
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大
学
全集 正ァい
北
岡
歌
に は
文 し
遺著
贋作
て
大葉 還義
-中
年
昭和
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