Page 1 八、七 集会の自由の制約と合憲限定解釈 ー広島市暴走族追放

論説
はじめに
渡 辺 康 行
広島市暴走族追放条例事件最高裁判決を機縁として
合憲限定解釈に関する判例理論
﹁明確性︵漠然性のゆえに無効︶の理論﹂と﹁過度の広汎性の理論﹂
﹁法文の明確性﹂と﹁解釈の明確性し
合憲限定解釈の要件と広島市暴走族追放条例事件判決
表現・集会の自由の制約に関する判例理論
判例における比較衡量論と広島市暴走族追放条例事件判決
結びに代えて
413 (75−2−159)
集会の自由の制約と合憲限定解釈
八 七 六 五 四
一 はじめに
広島市暴走族追放条例事件判決
いう﹂、と規定する。また一六条一項柱書きは、﹁何人も、次に掲げる行為をしてはならない﹂と定め、その一号は﹁公
くは恐怖を覚えさせるような特異な服装若しくは集団名を表示した服装で、い集、集会若しくは示威行為を行う集団を
条七号は、暴走族とは、﹁暴走行為をすることを目的として結成された集団又は公共の場所において、公衆に不安若し
ω この事件で中心的な争点であったのは、広島市暴走族追放条例の文言の不明確性と過度の広汎性である。同条例二
!
二 合憲限定解釈に関する判例理論
を再確認すると共に、そのような状況下にあって今後の憲法学が歩むべき道を模索したい。
て、従来の憲法学界において支配的であったアメリカ型の司法審査理論と最高裁の判例理論がどれほど異なっているか
裁による合憲限定解釈のあり方、および表現・集会の自由に関する違憲審査の手法について考えてみたい。それを通じ
方についての基礎的な理論に関しても、重要な論点を含んでいる。そこで以下では、この判決を機縁としながら、最高
また二名の裁判官は補足意見を書いていた。この事件は、事案それ自体が興味深いと同時に、人権論や違憲審査のあり
判決を下した。しかし、この判決において多数意見を形成したのは雷名の裁判官であり、二名の裁判宮は反対意見を、
最高裁第三小法廷は、二〇〇七年九月一八日に、広島市暴走族追放条例に関して、限定解釈を加えた上で合憲とする
論説
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集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
共の場所において、当該場所の所有者又は管理者の承諾又は許可を得ないで、公衆に不安又は恐怖を覚えさせるような
い集又は集会を行うこと﹂、を挙げている。それを受けて︸七条は、﹁前条第一項第一号の行為が、本市の管理する公共
の場所において、特異な服装をし、顔面の全部若しくは一部を覆い隠し、円陣を組み、又は旗を立てる等威勢を示すこ
とにより行われたときは、市長は、当該行為者に対し、当該行為の中止又は当該場所からの退去を命ずることができ
る﹂、と規定していた。さらに一九条は、﹁第一七条の規定による市長の命令に違反した者は、六月以下の懲役又は一〇
万円以下の罰金に処する﹂、と定めていた。
② 最高裁は、これらの規定の﹁適用範囲が広範に過ぎ﹂、憲法二一条一項、三一条に反するのではないかという疑念
に対して、およそ次のように答えている。
①たしかに、﹁本条例は、暴走族の定義において社会通念上の暴走族以外の集団が含まれる文言となっていること、
禁止行為の対象及び市長の中止・退去命令の対象も社会通念上の暴走族以外の者の行為にも及ぶ文言となっていること
など、規定の仕方が適切ではなく、本条例がその文言どおりに適用されることになると、規制の対象が広範囲に及び、
憲法二一条一項及び三一条との関係で問題がある﹂。しかし、﹁本条例の全体から読み取ることができる趣旨、さらには
本条例施行規則の規定等を総合すれば、本条例が規制の対象としている﹃暴走族﹄は、本条例二条七号の定義にもかか
わらず、暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には、服装、旗、言動などにお
いてこのような暴走族に類似し社会通念面これと同視することができる集団に限られるものと解され、したがって、市
長において本条例による中止・退去命令を発し得る対象も、被告人に適用されている﹃集会﹄との関係では、本来的な
意味における暴走族及び上記のようなその類似集団による集会が、本条例一六条一項一号、一七条所定の場所及び態様
で行われている場合に限定されると解される﹂。
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説 ㈹ また、本条例一六条一項一号、一七条、
論 という上告理由には、次のように答えた。
一九条の各規定が﹁明確性を欠き﹂、憲法一=条一項、三一条に反する、
ユ ②﹁各規定の文言が不明確であるとはいえないから、所論は前提を欠く﹂。
この判決の多数意見は明示的に引用しているわけではないが、下敷きとしていると考えられる三つの最高裁大法廷判
決を、予め示しておこう。
徳島市公安条例事件判決
その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ず
なく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、
が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところが
①﹁刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反し無効であるとされるのは、その規定
た。
目交通秩序維持に関する事項﹂、という規定が犯罪構成要件として明確か、が争われた。最高裁はおよそ次のように答え
る場合の外は、これを許可しなけれぼならない。但し、次の各号に関し必要な条件をつけることができる﹂、の三丁
があったときは、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められ
その第一は、徳島市公安条例事件判決である。そこでは、徳島市公安条例三条﹁公安委員会は前条の規定による申請
2
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集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
るからであると考えられる。しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるぽかりでなく、その性質上多か
れ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を
可能ならしめる基準といっても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合
があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきか
どうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、異体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの
判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによってこれを決定すべきである﹂。
②︵本条例三条が︶﹁その三号に﹃交通秩序を維持すること﹄を掲げているのは、道路における集団行進等が一般的に
秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすよう
な行為を避止すべきことを命じているものと解されるし。
③﹁このような殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為は、思想表現行為としての集団行進等に不可欠な要素では
なく、したがって、これを禁止しても国民の憲法上の権利の正当な行使を制限することにはならず、また、殊更な交通
秩序の阻害をもたらすような行為であるかどうかは、通常さほどの困難なしに判断しうることであるから、本条例三条
三号の規定により、国民の憲法上の権利の正当な行使が阻害されるおそれがあるとか、国又は地方公共団体の機関によ
る恣意的な運用を許すおそれがあるとは、ほとんど考えられないのである︵なお、記録上あらわれた本条例の運用の実
態を見ても、本条例三条三号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関
の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない。︶し。
④﹁本条例三条三号の規定は、確かにその文言が抽象的であるとのそしりを免れないとはいえ⋮⋮犯罪構成要件の内容
ハワニ
をなすものとして明確性を欠き憲法三一条に違反するものとはいえない﹂。
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3
札幌税関検査事件判決
の輸入規制が憲法二一条一項の規定に違反するもので﹂はない。
ヨ ③﹁右の次第であるから⋮⋮右規定は広汎又は不明確の故に違憲無効ということはできず、当該規定による狸褻表現物
会事情の下において、わが国内における社会通念に合致するものといって妨げない﹂。
また、右規定において﹃風俗を害すべき書籍、図画﹄とある文言が専ら狸褻な書籍、図画を意味することは、現在の社
釈することによって、合憲的に規制し得るもののみがその対象となることが明らかにされたものということができる。
②﹁関税定率法二一条一項三号の﹃風俗を害すべき書籍、図画﹄等を狼褻な書籍、図画等のみを指すものと限定的に解
〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁参照︶﹂。
の判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない︵⋮⋮最高裁昭和五
される場合でなけれぼならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうか
るものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかに
①﹁表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象とな
述べ て い た 。
の物心﹂という規定が明確性を欠き違憲ではないか、が一つの争点であった。この点につき、判決はおよそ次のように
﹁左の各号に掲げる貨物は、輸入してはならない﹂、のうちの三号﹁公安又は風俗を害すべき書籍、図面、彫刻物その他
第二は、札幌税関検査事件判決である。そこでは、︵昭和五五年法律第七号による改正前の﹀関税定率法一=条一項
論説
(75−2−164) 418
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
福岡県青少年保護育成条例事件判決
第三は、福岡県青少年保護育成条例事件判決である。ここでは、福岡県青少年保護育成条例一〇条一項の﹁何人も、
青少年に対し、淫行又はわいせつの行為をしてはならない﹂という規定は、処罰の範囲が不当に広汎に過ぎ、また﹁淫
行﹂の範囲が不明確であるため違憲ではないか、が争点となった。最高裁は、およそ次のように判示している。
①﹁本条例一〇条一項、一六条一項の規定⋮⋮の趣旨は、一般に青少年が、その心身の未成熟や発育程度の不均衡から、
精神的に未だ十分に安定していないため、性行為等によって精神的な痛手を受け易く、また、その痛手からの回復が困
難となりがちである等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を図るため、青少年を対象としてなされる性行為等のう
ち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のものを禁止することとしたもので
あることが明らかであって、右のような本件各規定の趣旨及びその文理等に徴すると、本条例一〇条一項の規定にいう
﹃淫行﹄とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく、青少年を誘惑し、威迫し、偽白し又は
困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的
欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいうものと解するの
が相当である﹂。
②﹁けだし、右の﹃淫行﹄を広く青少年に対する性行為一般を指すものと解するときは、﹃淫らな﹄性行為を指す﹃淫
行﹄の用語自体の意義に添わないぽかりでなく、例えば婚約中の青少年又はこれに準ずる真摯な交際関係にある青少年
との問で行われる性行為等、社会通念上およそ処罰の対象として考え難いものをも含むこととなって、その解釈は広き
に失することが明らかであり、また、前記﹃淫行﹄を目して単に反倫理的あるいは不純な性行為と解するのでは、犯罪
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4
の構成要件として不明確であるとの批判を免れないのであって、前記の規定の文理から合理的に導き出され得る解釈の
適切ではないだろう。ただし、後にも触れるように、この判決は憲法学では注目されているが、刑法学では醤及されないことが多
法の禁止規定には罰則もついており、本稿でとりあげる他の刑事事件の判決に状況は類似している。ここで並列して扱うことが不
︵3︶ 最大判昭和五九年=一月一二日、民集三八巻=一号=二〇八頁︵=二二二頁以下︶。この判決は行政事件であるが、関税定率
も、不明確のゆえに憲法三一条に反すると判断していた。
︵2︶ 最大判昭和五〇年九月一〇日、刑集二九巻八号四八九頁︵五〇三頁以下︶。なお、この条例の文醤については、一審・二審と
︵1︶ 最大判平成一九年九月一八日、刑集六一巻六号六〇一頁︵六〇四頁以下︶。
して 行 く こ と に し た い 。
と﹁明確性﹂の理論のかかわりあいに関する判例と学説の状況を確認し、次に合憲限定解除に関する判例と学説を考察
裁の判断は適切なものだったのだろうか。このような関心をもちながら、以下では、まず一般的に、﹁過度の広汎性﹂
のなかで、広島市暴走族条例事件判決はいかなる位置にあるのだろうか。この事件において合憲限定解釈を行った最高
これまで概観してきた、﹁明確性の理論﹂、﹁過度の広汎性の理論﹂および合憲限定解釈に関する主な判例理論の流れ
5 考察の視点
規定に違反するものとはいえ﹂な寧
るときは、同規定につき処罰の範囲が不当に広過ぎるとも不明確であるともいえないから、本件各規定が憲法三一条の
③﹁このような解釈は通常の判断能力を有する一般人の理解にも適うものであり、﹃淫行﹄の意義を右のように解釈す
範囲内で、前叙のように限定して解するのを相当とする﹂。
論説
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集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
見を書いていた。
い。なお、この判決では、伊藤正己裁判富など四名の裁判官が、当該規定は﹁不明確であり、かつ、広汎に過ぎる﹂とする反対意
と
﹁過度の広汎性の理論﹂
宮は、当該規定は﹁明確性を欠くもの﹂であり、違憲とする反対意見を書いていた。
︵4︶ 最大判昭和六〇年一〇月二三日、刑集三九巻六号四=二頁︵四一四頁以下︶。この判決でも、伊藤正己裁判官など三名の裁判
三 ﹁明確性︵漠然性のゆえに無効︶の理論﹂
従来の判例と学説の状況
ω 日本における憲法学や刑法学は、これまで、アメリカの憲法判例を参照しながら、﹁明確性﹂や﹁過度の広汎性﹂
の理論について語ってきた。しかしその内容は、アメリカの判例状況の確認という場面と、日本においていかに考える
べきかという場面のいずれにおいても、一致していない。ここでは後者の場面について、これまでの議論状況をごく簡
単に見ておく。
② 最も標準的な学説は、芦部信喜によるものである。ただし、芦部による説明も、アメリカの判例理論に関する解説
なのか、日本でもそう解すべきという主張なのか、定かでないところがある。ともあれ、﹁文言自体は明確であっても、
ヘ へ
へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
規制対象が広きに失するという場合もありうるので、漠然性と過度広汎性とを混同するのは妥当ではなく、両者は概念
的・理論的には区別して考えなけれぼならない﹂、とされる。アメリカでも二つの違いを強調する見解が有力であるが、
﹁もしそれが、漠然性が争われる法令については、表現の自由に対する萎縮的効果の根拠をもち出して、第三者の権利
42! (75−2−167)
1
侵害を理由とする法令自体の違憲無効を主張することはできない、しかし過度広汎性が争われる法令についてはそれが
できる、という趣旨のものだとすれば、判例理論を割り切りすぎる観がある﹂、といわれる。そして、﹁過度広汎性のゆ
し、﹁明確性の理論﹂は適正な告知を与えるという手続的基準としての性格をもつとともに、﹁過度の広汎性の理論﹂と
ハ 共通する実体的基準としての意味をももっという見解︵D説︶もある。
も、かなり異なった本質をもっている﹂とした上で、﹁過度の広汎性の理論﹂は実体的基準としての意義をもつのに対
また、﹁過度の広汎性の理論しと﹁明確性の理論﹂は、﹁本来は別々の展開をしてきたものであり、主張適格の問題で
請に、それぞれ由来するものとして区別することが可能﹂であることを指摘した上で、さらに、後に論ずる﹁広汎性﹂
ハ ﹁不明確性﹂の判断基準との関係で両者の違いを強調する見解︵C説︶も存在する。
かという点に見る見解︵B説︶もある、また﹁広範性の法理は実体的適正の要請に、不明確性の法理は手続的適正の要
これに対し、﹁漠然性﹂と﹁過度の広汎性﹂の理論を区別し、かっこの区別を第三者の権利侵害の主張を認めるか否
㈹ ﹁漠然性﹂と﹁過度の広汎性﹂の理論を区別した上で、その違いを第三者の権利侵害の主張を認めるか否かに求め
こ
るべきではない、という芦部説に同調する見解︵A説︶は多数であろう。
がある﹂、と指摘される。
ハ て﹂おり、﹁表現の自由に対する萎縮的効果を重視して法規の漠然性なり過度広汎性を厳しく考える姿勢に欠けるもの
﹁表現の自由の規制が争われた事件でも、ほとんどすべて、刑罰法規の明確性が充足されたか否かという形で処理され
また、日本の憲法判例については、﹁漠然性と過度広汎性とがそれほど明確に区別されて論じられたものはな﹂く、
う という点でカテゴリカルに区別することが難し﹂いことを指摘している。
う点に移行してきた﹂ことに言及しつつ、﹁漠然性と過度広汎性とを、第三者の権利侵害の主張適格が許されるか否か
えに無効の根拠の重点が、表現の自由に対する萎縮的効果の脅威から、明確な基準を欠く法の執行のもたらす危険とい
論説
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集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
ω 日本の判例において、憲法二︸条と三一条が要求する明確性が同一に扱われているが、二一条にかかわる場合には
表現に対する萎縮効果を考慮してより厳格に審査すべきだという芦部の指摘は、現在の学界では共有されている主張だ
と思われる。例えば、﹁アメリカの﹃過度の広汎性﹄の理論から我々が学ぶべきなのは、申立適格に関する訴訟手続上
の問題それ自体ではなく、むしろ申立適格の制限を排除する訴訟手続が取られる背後に存する思想である﹂とした上で、
それは﹁表現の自由に関わる、不明確で過度に広汎な刑罰法規についてはより厳格な基準を適用するという形で生かさ
ハれ れるべきし、という見解である。なおこの考えでは、先述したD説の立場とは逆に、﹁過度の広汎性の理論﹂の方が手続
な 的基準とともに実体的基準としての意味をもつと考えられているようである。
現在の代表的教科書のなかには、二一条と三一条にかかわる事例を区別せず、﹁明確性の理論は、刑罰法規に対して
が 適用されるだけではなく、表現の自由に事前抑制を加える立法に対しても重要な意味をもっている﹂、とするものもあ
る。しかし、無造作に書かれたこの見解が、前述のような多数説に対する意識的な挑戦であるのかは、定かではない。
以上で見てきたように、日本の学説は二つの理論の性格や区別の仕方について、アメリカの判例理論が混乱している
ことに対応して、芦部説という軸があるとはいうものの、混沌とした状況にあるようである。これは、従来の憲法学が
もっぱらアメリカの判例・学説のみを素材として議論してきたことのっけが回っているといえよう。もっとも日本の判
例は、この領域における主張適格を当初から厳格には要求してこなかったため、学説上の混迷が実務に影響を与えてい
るわけではない。
㈲ 日本における判例が、﹁過度の広汎性の理論﹂と﹁明確性の理論﹂をはっきり区別していないという芦部による指
摘は、やや言いすぎではないかと思われる。たしかに札幌税関検査事件判決においても、福岡県青少年保護育成条例事
件判決においても、﹁広汎又は不明確の故に違憲無効ということはできしない、といった両者を併記する言い回しがな
されていた︵前出、二3③、二4③︶。徳島市公安条例事件判決においては﹁明確性の理論﹂との関係のみが論じられ
423 (75−2−169)
︵15︶
ているが、これは﹁過度の広汎性の理論﹂と意識的に区別された意味で用いられているわけではないとも指摘されてい
る。しかし、判例はこの二つの理論の区別を無視してはいない。例えば福岡県青少年保護育成条例事件において、最高
広島市暴走族追放条例事件最高裁判決における﹁明確性の理論﹂と﹁過度の広汎性の理論﹂
オ条︶という文言が不明確だという弁護人の主張に対して、それぞれ検討を加えた上で、﹁不明確ということはで
② この事件の一審は、﹁公衆に不安又は恐怖を覚えさせるような﹂﹁い集又は集会﹂︵一六条一項一号︶、﹁特異な服装﹂
りと区別して論じている。これは従来の判例と比較すると、この判決の重要な特徴である。
ω 広島市暴走族条例判決は、本稿ニーで②と㈹に分けて紹介したように、﹁明確濡しと﹁過度の広汎性﹂とをはっき
2
確﹂でもない、という趣旨と解すべきであろう。
裁は、条例一〇条一項の﹁淫行﹂の解釈について、﹁広きに失する﹂例と﹁不明確﹂な例を挙げていた︵前出、二4②︶。
この思考は、前記二つの理論を念頭においているはずである。両者を併記した言い回しは、﹁過度に広汎﹂でも、﹁不明
論説
とは、外部から客観的に判断することが特に困難であるとまではいえないし、まして、条例執行者の主観的判断に委ね
て処罰対象となるというのである。そうすると、﹃公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集又は集会を行うこと。﹄
に、市長から中止命令、退去命令を出すことが可能となり、市長からの上記中止命令、退去命令に違反した場合に初め
な服装をし、顔面の全部若しくは一部を覆い隠し、円陣を組み、又は旗を立てる等威勢を示すことにより行われた﹄際
﹃公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集又は集会を行うこと。﹄ではなく、それが、暴走族集団に見られる﹃特異
ところは﹁明白﹂だとする。また本条例二条、一七条、一九条にかんがみると、﹁本条例が処罰対象とするのは、単に
き﹂ない、と判断していた。また原審の広島高裁も、本条例一六条一項一号にいう﹁い集しおよび﹁集会﹂の意味する
ぜ
(一
(75−2一】.70) 424
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
ることになるともいえず、本条例一六条一項一号が不明確であるなどとはいえない﹂、と判断していた。つまり、原審
も論点を条例の﹁明確性﹂の問題として受け止めた上で、﹁憲法二一条一項及び三一条に違反するとの所論は、その前
ハ 提に明らかに誤りがあ﹂る、として退けたものであった。また上告理由も、条例一六条一項一号の文言が不明確である
ことをまず主張していた。このような状況にもかかわらず、最高裁は本件の中心的論点をむしろ﹁過度の広汎性﹂の問
れ 題として扱ったわけである。
㈹ もっとも、第三小法廷の裁判官すべてが完全に自覚的に﹁過度の広汎性しと﹁明確性﹂の理論を区別したのかは疑
念がないではない。例えば、補足意見を書いた堀籠幸男裁判官は、基本的には、条例一六条の﹁明確性﹂の問題として
受け止めつつ、﹁広範性、不明確性﹂と併記する場合もあった。しかしこの見解は小法廷において例外であり、同じく
補足意見を書いた那須弘平裁判官、反対意見を執筆した藤田宙靖裁判官と田原睦夫裁判官も、﹁過度の広範性﹂の問題
とし て 論 じ て い た 。
れ 本判決の担当調査官も、﹁本判決も、一、二審判決と同じく、本件で問題とされている本条例の各規定の文言自体が
不明確であるとはいえないとしている﹂とした上で、﹁しかし、特異な服装をした者などによる集会等が公衆に不安又
は恐怖を覚えさせるようなものであれぼ、本来の規制対象と予定される暴走族であろうとなかろうと、中止命令等、ひ
いては刑事罰の対象となるかのような規定ぶりとなっているため、これが過度に広範な規制ではないかという問題を生
じ得ることは避けられない﹂、と指摘していた。本判決は、﹁過度の広汎性﹂と﹁明確性﹂の理論を明確に区別したとい
ぬ う点で、判例史に記憶されるべき判決と評することができる。
ω なお、本判決において堀籠裁判官は、本条例が典型的に規制しようとした行為を行った本件被告人が条例の違憲性
を主張できるのか、という疑念を表していた。この疑問に対しては、藤田裁判官が、﹁被告人が処罰根拠規定の違憲無
お 効を訴訟上主張するに当たって、主張し得る違憲事由の範囲に制約があるわけではな﹂い、と反論していた。第三者の
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権利侵害の主張適格にかかわるこの対立は、前者が本件を﹁明確性の理論﹂の問題とみており、後者が﹁過度の広汎
じ趣旨である。また、同書五二三頁。
合には、限定解釈の手法を用いることには慎重であるべきであって、法令違憲とさるべき場合が多いというべき﹂とするのも、同
に対して抑止的効果をもつことは否定できないから、その保全にとりわけデリケートな配慮が要求される精神的自由にかかわる場
三二頁など。佐藤幸治﹃憲法︹第3版︶﹄︵青林書院、一九九五年︶三六四頁が、﹁違憲に解釈される余地をもつ法律の存在が自由
の原則について﹂佐藤幸治ほか編﹃阿部照哉先生喜寿記念論文集・現代社会における国家と法﹄︵成文堂、二〇〇七年︶二ご二∼二
︵!!︶ 例えば、藤井・前掲書二三五頁、松井二曲﹃日本国憲法 第3版﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶五∼=頁︵註3︶、木下智史﹁明確性
頁以下、同﹃司法権と憲法訴訟﹄︵成文堂、二〇〇七年︶二三二頁以下。
︵10︶ 藤井俊夫﹁過度の広汎性の理論および明確性の理論﹂芦部信喜編﹃講座 憲法訴訟 第2巻﹄︵有斐閣、一九八七年︶三四七
た後述、註32を参照。
︵9︶ 駒村圭吾﹁刑罰法規の不明確性と広範性﹂高橋和之ほか編﹃憲法判例百選11︹第5版︺﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶二五三頁。ま
広汎性の法理においても、結局は第三者の主張適格は不必要だということになる﹂、とされる三〇七頁︶。
その点を攻撃する者は、第三者ではなく自己の適格に基づく主張を行っていることになる。したがって、突き詰めていうと過度の
︵8︶ 例えば、長谷部恭男﹃憲法 第4版﹄︵新世社、二〇〇八年︶二〇五頁以下。ただし、﹁法令全体が漠然不明確であるならば、
としている。また、萩原滋﹃実体的デュー・プロセス理論の研究﹄︵成文堂、一九九一年︶七二頁。
断を行うかどうかにつき、違いがもたらされた﹂が、﹁表現活動に対する萎縮効果を強調すれぼ、この違いを説明することは困難﹂
年︶=二六頁は、アメリカの判例法理では、﹁過度の広汎性の場合と不明確性の場合とで、主張適格につき、すなわち、文面上判
︵7︶ 戸松秀典﹃憲法訴訟 第2版﹄︵有斐閣、二〇〇八年︶三二九頁。その他、高橋和之﹃憲法判断の方法﹄︵有斐閣、一九九五
︵6︶ 芦部・前掲三九七頁以下。
︵5︶ 芦部信喜﹃憲法学斑 人権各論︵1︶︹増補版︺﹄︵有斐閣、二〇〇〇年︶三八八頁以下。
るという形で判例上は既に解決済みと考えるべきであろう
すると、そのような理論的な背景がある対立ではないと思われる。憲法上の争点の主張適格という論点は、適格を認め
性﹂の問題とみていたことと親和的ではある。しかし堀籠裁判官が両者を意識的に区別していたわけではないことから
論説
(75−2−172) 426
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
︵12︶ 萩原・前掲︵註7︶七三頁。
︵13︶芦部信喜・高橋和之補訂﹃憲法第四版﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶一九一∼一九二頁も、同じ趣旨。
︵14︶ 野中俊彦ほか﹃憲法亙︹第4版︺﹄︵有斐閣、二〇〇六年︶三四五頁︵中村睦男執筆︶。
と評している。
︵15︶ 戸松・前掲︵註7︶三二九頁は、最高裁は﹁過度の広汎性の法理や漢然性の法理を内容とする明確性の基準の採用を容認した﹂、
︵!6︶ また税関検査事件における伊藤正巳裁判官ほかによる反対意見も、﹁右規定は不明確であり、かつ、広汎に過ぎるものといわ
なけれぼならない﹂と述べていた。民集三八巻一二号=二〇九頁︵一三三四頁︶。さらに、同判決に関する調査官による解説も、
七頁。
広島地判平成一六年七月一六日、刑集六一巻六号六四五頁︵六四九∼六五一頁︶。
刑集六一巻六号六〇一頁︵六〇八∼六一七頁︶。
刑集六一巻六号六〇一頁︵六〇五∼六〇七頁︶。
刑集六一巻六口写六二五∼六三二頁。
広畠高判平成一七年七月二八臼、刑集六一巻六号六六二頁︵六七一∼六七二頁︶。
) ) ) ) ) ) )
﹁解釈の明確性﹂
刑箆小六一巻六号六〇一頁︵六〇五、六一二頁︶。
前田巌﹁時の判例﹂ジュリスト=二五〇号︵二〇〇八年︶八五頁。
1
四 ﹁法文の明確性﹂ と
刑法学からの問題提起
427 (75−2−173)
二つの理論を区別している。新村正人﹁潮解﹂﹃最高裁判所判例解説 民事篇 昭和55年度﹄︵法曹会、︸九九九年︶四九六∼四九
23 22 21 20 19 18 17
ω ﹁明確性の理論﹂にかかわる従来の学説のなかで、最も重要な問題提起を行ったのは、刑法学者の前田雅英である。
それによると、これまで﹁明確性﹂に関する二つの意味に混乱があった、とされる。
内﹄での解釈は要請される。しかし、国民の大多数が最も自然に採用する解釈のみが許されるのではない﹂。例えば東
た結果、国民の全く思いもよらない処罰が導かれるのではなんにもならない。その意味で、法文の﹃可能な語義の枠
で、結論の旦四体的妥当性の要請を重視せざるを得ないし。﹁たしかに、法文の明確性を要求しても、その解釈を自由にし
ロールされる法適用者自身が行う解釈の中身まで明確なものとすべき要請を含まない﹂。﹁解釈の場では、明確性と並ん
﹁明確性の理論は、明確な法文により法適用者の行動をコントロールすることを目指すが、明確な基準によりコント
主義違反ではないか、が論じられた。﹁しかし、解釈にまで条文そのものと同程度の明確性を要求する必要﹂はない。
このように限定する解釈は明確だというのである。しかし⑤の解釈は、明確とはいいがたい。そこで、それは罪刑法定
させるための対象として扱っているとしか認められないような性交又は性交類似行為﹂とに、限定解釈した。そして、
の心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交または性交類似行為﹂と、⑤﹁青少年を単に自己の性的欲望を満足
条文にいう﹁淫行﹂概念を、本稿二4①で紹介したように、④﹁青少年を誘惑し、威圧し、偽翻し又は困惑させる等そ
② 第二の意味における﹁明確性﹂は、﹁解釈の明確性﹂である。福岡県青少年保護育成条例事件において、最高裁は、
憲的解釈﹂は﹁司法⋮機関の仕事しであるため、両者は﹁ある面では、水と油の関係にある﹂。
よらざるを得ないから﹂である。ただし、﹁明確性の理論﹂は、﹁主として立法者に対する要請﹂であるのに対し、﹁合
は、最終的にはそのような規定を置くことのデメリットと、当該規定により抑止し禁圧し得る犯罪行為との比較衡量に
もっとも、﹁法文自体の明確性の判断と限定解釈とは全く接点がないというわけではない﹂。﹁法文の明確性のチェック
合には、不明確な条文が、後からの解釈により遡って一般国民にとって明確なものに変質することなどありえない﹂。
は、争点をこのようなものとして捉えた上で、法文に解釈を加えることにより条例を合憲とした。しかし、﹁通常の場
﹁明確性の理論﹂とは、もともとは、﹁法規それ自体の明確性﹂を問う理論である。例えば、徳島市公安条例事件判決
論説
(75−2−174) 428
集会の自由の劃約と合憲限定解釈(渡辺)
京都教組判決における﹁二重の絞り﹂論のような、﹁処罰範囲を限定する方向への解釈﹂については、ある程度寛容で
あってよい。福岡県青少年保護育成条例事件判決に関しては、解釈が不明確だからではなく、多数意見の⑤の類型に該
ハが 当する行為は﹁処罰することが不合理だ﹂と、批判すべきなのである。
2 反響と検討
ω ﹁法文の明確性﹂と﹁解釈の明確性﹂を区別した上で、﹁明確性﹂が要請されるのは前者だというこの主張に対して
は、批判も多くなされた。
最も知られた見解は、田宮裕によるものであろう。第一に、﹁何よりも実際問題として、解釈の明確性をも要求しな
けれぼ法文の明確性が無意味になってしまう﹂、とされる。第二に、﹁法はそれに対する解釈によって内容づけられる
︵自由な法解釈が行なわれる場合であっても、法文と解釈された具体的法が二元的に併存するわけではなく、法文はそ
のように解釈された法になると考えられているのである︶。それだからこそ、法文が﹃解釈によって明確化される﹄と
いう論理が通用するのであって、その意味では、﹃法文の明確性﹄とは、﹃そのように解釈された法文の明確性﹄の謂で
あるといってもよいであろう。そうであれぼむしろ、法文についての要請は、同時に解釈行動に対する要請でもある﹂、
というのである。
お ② 前田による問題提起の意義を認めた上で、異なった立場をとるのが、﹁明確性の理論﹂について多くの研究論文を
公表してきた刑法学者、門田成人である。それによると、﹁刑罰法規の明確性﹂と﹁解釈の明確性﹂が﹁厳然と区別さ
れなけれぼならない﹂ことは承認される。しかし、﹁刑罰法規の明確性を認め、揚重とした刑罰法規が解釈によって明
確化されることを是認するのであれば、その解釈に明確性を要求すべき﹂、といわれる。その上で、﹁そもそも、裁判所
429 (75−2−175)
説
払
清冊
が法的技術を駆使した解釈による刑罰法規の明確化は許容されるべき﹂かを問い、﹁毒素とした刑罰法規が解釈によっ
て明確化されることを安易に認めれば、それは﹃刑罰法規の明確性﹄の実質的な空洞化をもたらす﹂、とするである。
③ 田宮が提起した第二の点は、法理解や法解釈理解にまで遡る根本的なものである。この論点では、﹁法文﹂と﹁解
釈﹂を区別する前田説のほうが、むしろオーソドックスな見方であり、﹁法文はそのように解釈された法になる﹂とい
う田宮説は、制定法の存在意義を揺るがす極めてラディカルな見解である。日本において、ここまで突き詰めた主張が
なされることは珍しい。前田説が、被告人のために、不明確な法文を合憲限定解釈することに関心を向けるのに対し、
︵28︶ ︵29︶
門田説は、不明確な法文は違憲・無効とせよ、という。後者の思考の方が、憲法学にはよりなじむものであろう。この
合憲限定解釈の要件については、次に節を分けて論ずることとする。ここでは、﹁法文の明確性﹂と﹁解釈の明確性﹂
は論理的には区別できる問題だという指摘の重要性を確認しておきたい。本稿ではこの区別を、議論の整理のための道
具として用いる。
︵24︶前田雅英﹃現代社会と実質的犯罪論﹄︵東京大学出版会、一九九二年︶三六頁以下、五一頁以下、同﹃刑法総論講義︹第4
生古稀祝賀論文集﹂編集委員会編﹃中山研一先生古稀祝賀論文集 第三巻 刑法の理論﹄︵成文堂、一九九七年︶五〇頁以下。
版︺﹄︵東京大学出版会、二〇〇六年V七〇頁以下など。関連して、同﹁罪刑法定主義の変化と実質的構成要件解釈﹂﹁中山研一先
刑法の解釈﹂西田典之ほか編﹃刑法の争点﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶五頁。
︵25︶ 田宮裕﹃変革のなかの刑事法﹄︵有斐閣、二〇〇〇年︶五〇頁以下。同旨の冤解として、例えば、曽根威彦﹁罪刑法定主義と
︵26︶ 門田成人﹁刑罰法規明確性の理論と﹃公正な告知﹄の概念︵二︶﹂島大法学三四巻三号︵一九九〇年︶九六頁以下。
︵28︶ 門田・前 掲 ︵ 註 2 6 ︶ 一 〇 〇 頁 。
︵27︶ 前田・前掲︵註24・実質的犯罪論︶餌五頁、五七∼五八頁など。
︵29︶ 前田説が主に念頭に置いている福岡県青少年保護育成条例事件について、例えば、阿部泰隆﹁青少年保護条例による﹃いん行、
みだらな性行為﹄の処罰︵下ご法律時報五七巻五号八九頁以下、横田耕一﹁青少年に対する淫行の条例による規制と憲法﹂ジュ
(75−2−176) 430
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
リスト八五三号二九八六年︶四九∼五〇頁、矢島基美﹁福岡県青少年保護育成条例﹃淫行﹄処罰規定の合憲性﹂上智法学論集二
九巻一号︵一九八六年︶二五三頁以下、宍戸常事﹁青少年保護育成条例による淫行禁止﹂磯部力ほか編﹃地方自治判例菖選︹第三
版ご︵有斐閣、二〇〇三年︶五七頁など。
五 合憲限定解釈の要件と広島市暴走族追放条例事件判決
1 判例の状況
ω ﹁表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許される﹂要件について、最高裁の立場を示し
たのは、二3①で紹介した札幌税関検査事件判決である。再号すると、第一は、﹁その解釈により、規制の対象となる
ものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにさ
れる場合﹂である。第二は、コ般国民の理解において、旦ハ体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断
を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるもの﹂であることである。この判決に先立ち、徳島
市公安条例事件に際しても、最高裁は、二2①で紹介したように、﹁通常の判断能力を有する一般人の理解において、
具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうか﹂と
いう、税関検査判決の第二要件に相当する基準を示していた。これは﹁刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明
確のゆえに憲法三一条に違反し無効﹂になるかどうかを判断するための基準として、提出されたものであった。果たし
て両者は同じなのだろうか。最高裁自身は、札幌税関事件判決において徳島市公安条例事件判決を先例として引用して
431 (75−2∼177)
いることからすると︵二3①︶、同じ趣旨と考えていたようである。要件の定式化のずれは、それぞれの問いが異なっ
ていたことから生じたものであるのかもしれない。徳島市公安条例事件判決は、﹁あいまい不明確﹂な法規定が無効と
関係である。福岡県青少年保護育成条例事件に関するある解説は、その多数意見が、﹁人権制約の実体的正当性を支え
ここで問題は、先に述べたコ般国民の理解しとの合致という要件と、﹁社会通念﹂との適合性という基礎づけとの
基準として登場するのに対し、後者では解釈過程の中で用いられている。微妙に異なった用法である。
ることとしたものである﹂という形で、合憲限定解釈自体において使われた。前者では、解釈結果の妥当性を判定する
青少年保護育成条例事件判決においても、二4①で示したように、﹁社会通念上非難を受けるべき性質のものを禁止す
けるために用いられたのが、﹁社会通念﹂との適合性である︵二3②︶。なお、この﹁社会通念﹂という概念は、福岡県
② 徳島市公安条例事件判決では言及されなかったのに対して、税関検査事件判決において限定解釈の妥当性を論拠づ
ある。
しかし、この用法がこれまでの判例における﹁明確性の理論﹂とは違うものであることは、前田説の指摘するとおりで
示的には言及していない。ただし二4②③は、二つの要件を黙示的には踏まえているようではある。第二にここで注目
ハれ すべきは、この判決では、この要件が﹁法文﹂ではなく﹁解釈﹂の明確性に関して論じられているということである。
福岡県青少年保護育成条例事件判決は、これらの判決とかなり異なっている。まずこの判決は、先の二つの要件に明
ができる場合の第一要件として書き換えられた、ということであろう。
て恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからである﹂と述べていた。これが税関検査事件判決では、限定解釈すること
じめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられ
を識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらか
なる理由を挙げるなかで、﹁その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為と
論説
(75−2−178) 432
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
る規範を導出する根拠として﹃社会通念﹄を用い、法文の明確性を判定する基準として﹃︹通常の判断能力を有する︺
一般人の理解﹄を用いて、両者を自覚なきまま区別している﹂、という。しかしこの判決は、前述したように、﹁一般人
の理解﹂を合憲限定解釈の明確性についての基準として用いていると思われるため、この指摘には疑問がある。また
﹁人権制約の実体的正当性を支える規範﹂という用語も難解である。もっとも、﹁一般人の理解﹂を﹁法文の明確性﹂を
判断する基準として用い、﹁社会通念﹂を合憲限定解釈の明確性ないし妥当性を判断する基準として用いるべきである
という提言は、ありうべきものである。
2 学説の状況
ω 典型的には税関検査事件判決で示された、表現の自由規制立法を合憲限定解釈できる場合に関する二つの要件につ
いて、学説の多くは、一般論としては同意しているように思われる。例えば、先にも引用した田宮裕は、﹁判例のとる
ハ 合憲限定解釈の方法とその要件は大筋において支持してよい﹂と述べる。ただし、判例がこの要件を使った上で、問題
となった法律や条例の文言を不明確という理由として違憲とはせず、合憲限定解釈を行ったことについては、批判が多
かった。
ぶ ② 前節でやや詳しく紹介した前田雅英の見解は、最高裁の示した合憲限定解釈が可能な場合に関する要件に対する批
判という意味をももっていた。なお、ここで注意すべきは、刑法学においては徳島市公安条例事件判決における定式化
が先例と考えられていることである。前田説によると、最高裁が一般人を基準とするのは、主として二黒人に行動の
限界を知らしめ﹂るという要請を満たすためであるのだから、一般人の認識可能性の対象は﹁処罰の可能性﹂であり
﹁当該具体的解釈﹂ではな壌その上で、先にも引用したように、﹁たしかに、法文の明確性を要求しても、その解釈を
433 (75−2−179)
自由にした結果、国民の全く思いもよらない処罰が導かれるのではなんにもならない。その意味で、法文の﹃可能な語
しての明確性を問題にするという姿勢がうかがえる﹂。しかし、﹁﹃明確性の認定は、国民に対する告知機能がその基礎
的評価を加えたりする必要があるか﹄どうかという観点から、問題の規定による行為の規制可能性を含めた裁判規範と
かが了解可能であるかどうか﹄ではなく、﹃裁判官が法の解釈・適用を行う際に、構成要件を補充したり、︸定の規範
﹁行為規範として﹃規範名宛人たる一般人にとって、当該刑罰法規の文言からいかなる行為が禁止・命令されているの
わけではない。とはいえ、最高裁による判断結果に対する評価は、かなりの程度共通している。つまり、最高裁には
ω このように、合憲限定解釈できる場合に関して最高裁の提出した要件の適否については、学説上決着がついている
ハが このような見解が多いと思われる。
言の﹃可能な語義の範囲内﹄という要件のみでは不十分﹂とされるのである。先にも述べたとおり、憲法学においては
としたままということになる。これでは﹃刑罰法規明確性の理論﹄が実質的に無意味となる﹂。﹁やはり、刑罰法規の文
ハげ 然とした刑罰法規が有効とされる以上、一般人がその解釈に法文から到達できないのでは、なにを処罰するのかが漠然
する﹂見解と受け止めた上で批判を加えるのが、先に言及した門田成人である。それによると、﹁限定解釈によって漠
㈹ この前田説を、﹁刑罰法規の限定解釈が通常の判断能力を有する一般人の理解に適うこと﹂という要件を﹁不要と
不合理だ﹂と、批判すべきと論じられた。
にも紹介したように︵四1②︶、解釈が不明確だからでなく、多数意見の⑤の類型に該当する行為は﹁処罰することが
限定解釈の合理性をチェックするもの﹂への再構成される。その上で、福岡県青少年保護育成条例事件に関しては、先
ど得られないか否か﹂という形へ軟化させる。それに対し、コ般国民の理解﹂という要件は、﹁条文のム星感性ではなく、
説かれた。この立場は、徳島市公安条例事件判決で示された要件を、﹁法文からどこまで処罰するかの手掛りがほとん
義の枠内﹄での解釈は要請される。しかし、国民の大多数が最も自然に採用する解釈のみが許されるのではない﹂、と
論説
(75−2−180) 434
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
にある以上、裁判官を中心とする鞍懸者の解釈共同体から区別された主体を明確性判定の基準に据えるべき﹄とすれぼ、
−:犯罪処罰規定の明確性の問題は、裁判宮にとっての裁判規範としての側面ではなく、国民にとっての行為規範とし
ゐ ての側面からの判断が裁判所には求められる﹂、という考え方である。これに対し、刑法規範に両側面があることを前
あ 提として、裁判規範として機能していく側面にやや重点を置いてみているのが前田説であった。しかしその前田説にお
いても、例えば福岡県青少年保護育成条例事件判決による合憲限定解釈に対しては、厳しい批判がなされていたのであ
る。
広島市暴走族追放条例事件判決
ω広島市暴走族追放条例事件に関する最高裁判決は、ニー①で紹介したように、問題は条例の各規定の﹁過度の広範
性﹂にあると受け止めた上で、条例で規制の対象となっている﹁暴走族﹂を、﹁条例二条七号の定義にもかかわらずし、
﹁本来的な意味における暴走族﹂と、﹁社会通念上これと同視することができる集団﹂に限定して解釈される、とした。
ここでまず注目されるのは、この判決の多数意見が、徳島市公安条例事件判決、あるいは札幌税関検査事件判決で定
式化された、表現の自由規制立法を合憲限定解釈できる場合に関する二つの要件に言及していないことである。これは、
那須裁判官の補足意見と藤田裁判富の反対意見が、この二要件に即して論じていたことと対照的である。また田原裁判
官の反対意見が、﹁限定解釈によって合憲と判断できる﹂場合について、﹁その法律︵条例︶の立法目的、対象とされる
行為に対する規制の必要性、当該法律︵条例︶の規定それ自体から、通常人の判断能力をもって限定解釈をすることが
できる可能性、当該法律︵条例︶が限定解釈の枠を外れて適用される可能性及びその可能性が存することに伴い国民
︵市民︶に対して生じ得る萎縮的効果の有無、程度等を総合的に考慮し、限定解釈をしてもその弊害が生じ得ないと認
435 (75−2−181)
3
められる場合に限られるべき﹂という、新たな基準を設定した上で論じていることとも異なっている。
(75−2−182) 436
む とした。この解釈が、那須補足意見の言を借りるならば、﹁一般国民の理解においても極めて理解しやすいものであり、
条例全体の趣旨や施行規則の規定等を総合して解釈し、﹁暴走族﹂は条例二条七号の定義にかかわらず、﹁隈定される﹂
共に税関検査事件判決の二要件を用いつつ、正反対の結論を導いた那須裁判官の補足意見と藤田裁判官の反対意見から
は、この事件においては第二要件の充足性が争点であったことがうかがえる。多数意見は、ニー①で紹介したように、
㈹ そこで広島市暴走族追放条例事件判決における多数意見の立場をいかに理解すべきか、が問題となる。さしあたり、
かわる本判決については、別の考察を必要とする。
を異にする﹂から、先例の基準を用いなかったのだと解説している。この説明を前提としたとしても、表現の自由にか
ゐ り、これと、有害食晶の規制による公衆衛生の確保という目的と営業の自由等が対置される本件とでは、そもそも事案
て、不明確な法規による規制が萎縮的効果を持つことを考慮し、その観点から明確性の判断基準を導き出したものであ
これに対して、この決定を担当した調査宮は、﹁徳島市公安条例事件大法廷判決は、表現の自由に関わる事案につい
〇月三一日、輔弼五二巻五号三三七頁︶。学説の多くは、そのことも踏まえて、最高裁による簡単な判示は、この基準
をもちだすまでもなく、基準は満たされているという判断がなされたもの、と解している。
るかどうか﹂という、徳島市公安条例事件判決の要件に従った上で、不明確ではないとしていた︵菓京高判平成七年一
理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれ
断した、最音訳成一〇年七月一〇日︵刑集五二巻五号二九七頁︶がある。原審は、﹁通常の判断能力を有する一般人の
裁判例としては、食品衛生法四条︵現行法では六条︶二号の規定する﹁有害な物質﹂という文言が不明確ではないと判
しろ二要件を用いている裁判例を探す方が難しい。このような傾向の典型例として刑法学においてしぼしぼ言及される
② 税関検査事件以降の最高裁判決が、合憲限定解釈をする際に先の二要件を使わないことは、珍しくない。実は、む
論説
集会の自由の謝約と合憲限定解釈(渡辺)
お 本条例の﹃規定から読みとることができるものヒ、とされたのであろう。これに対して藤田反対意見は、﹁通常人の読
み方からすれば﹂、﹁ある条例において規制対象たる﹃暴走族﹄の語につき定義規定が置かれている以上﹂、その定義通
ぜ
りに理解されるのが当然だ、という立場であった。
ω ここでの関連で注目すべきは、那須裁判官の補足意見は過度の広汎な規制かどうかの判断について、前述した二つ
の要件を用いていることである。多数意見も暗黙のうちに同じ立場をとっているのであれば、先に可能性として示唆し
た、明確性の判断については﹁一般国民の理解﹂、過度の広汎性の判断については﹁社会通念﹂を、それぞれ基準とす
べきという提言は受け入れられてはいないことになる。
また第二に想起できるのは、この二つの要件は、元々は法律規定の文言が限定解釈可能かどうかの基準であったはず
だ、ということである。しかし那須補足意見では、﹁限定解釈の内容﹂は一般国民の理解においても極めて理解しやす
いものであるという形で、限定解釈について、要件の充足性が語られている。これは、五1ωで述べたように、福岡県
青少年保護育成条例事件判決の用法であった。これに対して藤田反対意見は﹁法文の規定そのもの﹂から、多数意見の
な ような解釈を導くことには相当の無理があるという形で、法文について、要件の充足性如何を語っていた。
第三に注目できるのは、田原裁判官の反対意見が示した、限定解釈の可否を、諸要素を﹁総合的に考慮し﹂て判断す
るという立場である。この考え方には、四1ωで紹介した前田雅英説からの影響がうかがえる。これに対して那須補足
ハが 意見は、﹁利益考量の点からも、限定解釈をすることが適切妥当である﹂、と駄目を押していた。多数意見も黙示的にこ
の立場なのであろうか。
⑤ 広島市暴走族追放条例事件において従来の事案とは異なる要素の一つは、﹁暴走族﹂について条例に定義規定があ
るにもかかわらず、それに反する形で限定解釈することが問題となっていることである。
また第二に、条例の制定過程において、二条七号の暴走族の定義を﹁暴走行為をすることを目的として結成された集
437 (75−2−183)
団をいう﹂と修正し、一六条一項についても﹁何人も﹂とある原案に対して、﹁暴走族の構成員は﹂と修正する案が上
者は﹁解釈の明確性しにかかわる問題であることを指摘しておきたい。
集団﹂という限定解釈の明確性を疑問とする見解も出されている。ここでも、前者は﹁法文の明確性﹂にかかわり、後
お 三2②で紹介した二審判決を肯定する趣旨であろう。このこと、および多数意見による﹁社会通念上これと同旨できる
という主張を、この判決は、ニー②のように、簡単に退けた。この判断は、調査宮も指摘するように︵註22の本文︶、
㈲ なお、条例一六条一項一号にいう﹁公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集書は集会﹂という文言は不明確だ
お 決について公表されている評釈類もほとんどこの立場である。
は適切だったと思われる。このように評価することは、これまで述べてきたように従来からの学説の傾向であり、本判
お 反対意見が先の二つの点を重視して、合憲限定解釈を行うよりも、過度の広汎性のゆえに無効とすべきだとしたこと
理だっただけに、それは妥当であるだろう。
じさせていないという論法を用いていたが、今回の判決ではそのような理由づけは捨てられている。疑義のありうる論
また、徳島市公安条例事件判決は、二2③で紹介したように、﹁運用の実態﹂を見た上で、当該条項は﹁弊害﹂を生
事件判決、とりわけ伊藤正巳裁判官の補足意見を、暗黙のうちに踏まえたものであろう。
の なお付言すると、多数意見が条例施行規則の存在をも判断の考慮要素としていたことは、岐阜県青少年保護育成条例
され た わ け で あ る 。
べていた。これに対して今回の判決は、ごく新しい条例について、しかも制定者の意図に反する形で合憲限定解釈がな
本国憲法施行前に制定された法律の規定の如きについては、合理的な法解釈の範囲内において可能である限り、憲法と
ハゆ 調和するように解釈してその効力を維持すべく、法律の文言にとらわれてその効力を否定するのは相当でない﹂、と述
程されたにもかかわらず、委員会において否決されたという経緯があった。税関検査事件判決は、﹁本件のように、日
論説
(75∼2−184) 438
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
ω 徳島市公安条例事件判決を念頭に置いて、﹁純粋の言論の場合には明確性を非常に厳しく要求すべきであるのに対
︵54︶
し、行動を伴う表現の場合にはある程度の幅を認めてもそれほど不当な結果は生じない﹂、という見解も提示されてい
た。この明確性判断にかかわって示された思考が、暴走族判決においても背後に隠れている可能性はある。たしかに、
﹁過度の広汎性﹂や﹁明確性﹂の判断も、後述するように︵八︶、次節以降で考察する実体的な側面と全く切り離されて
いるわけではない。しかし、先の発言をした、まさに同じ論者は別の機会に、﹁すべての表現活動は、非表現的要素を
︵55︶
伴っているともいいうるのであり、行動を伴うがゆえに表現としての価値を低からしめてよいものではない、表現それ
自体は、行動を伴うものであると否とを問わず、等しい価値を有している﹂、と述べていた。むしろ、この思考の方が
適切ではないかと思われる。
︵30︶ 合憲限定解釈と限定解釈は区劉されうる。合憲限定解釈は、﹁ある法令について違憲の疑いがかけられているとき、その疑い
条例事件判決は、﹁可能な解釈が違憲となりうることまで確言しているわけではないので、明瞭に合憲限定解釈といえるのかには
を除去するように法令の意味を解釈する手法﹂、だとされる。戸松・前掲︵註7︶二三四頁。先にも名を挙げた田宮裕は、徳島帯公安
若干の疑問もある﹂としつつ、税関検査判決については、﹁違憲・合憲のオルタナティブを設定して後者を選択しているので、明ら
かな合憲限定解釈である﹂という。そして、福岡県青少年保護育成条例事件判決は、﹁その中間程度の地位にある﹂という。田宮
﹁青少年保護条例における﹃淫行﹄処罰規定の意義と合憲性﹂判例時報一一七四号︵一九八六年︶一一頁。もっとも通常は、これ
らの諸判決は合憲限定解釈をしたものとして扱われている。また、合憲解釈と合憲限定解釈の要件も区劉されているわけではない
︵31︶ 井上典之﹃憲法判例に聞く﹄︵日本評論社、二〇〇八年︶二六〇頁。なお、同書二六一頁は、税関検査判決について、﹁﹃一般
ため、本稿ではこの区別については立ち入らないでおく。
国民の理解﹄が問題の規定自体の明確性を判定するために用いられているのか、規制対象をわいせつ表現物に限定するという解釈
の可否の判定のために用いられているのかは定かではない﹂、としている。この点に関して、本稿は、前者だという理解に基づい
︵32︶ 駒村・前掲︵註9︶二五三頁。なお、この見解は、﹁実体/手続﹂、﹁広範性/不明確性﹂、﹁社会通念/∼般人の理解﹂という区分
ている。
439 (75−2−185)
論説
とについては、前述三ユを参照。
を、それぞれ対応するものとして強調する。この見解︵註9の本文を参照︶における前者の対応関係に関する理解も独特であるこ
るとした事例﹂判例評論四八五号︵一九九九年︶五九頁、欝高・前掲︵註33︶七頁、村山・前掲︵註33︶一八三頁など。大塚裕史﹁アブ
︵42︶ 山本雅子﹁アブラソコムツが食費衛生法四条二号にいう﹃有害な物質﹄が含まれる食品に当たるとした原審の判断は正当であ
︵41︶ 鋼⋮臨集六一巻六口写六〇一頁︵六二〇頁︶。
︵40︶ 大谷實くω前田雅英﹃エキサイティング刑法 総論嚇︵有斐閣、一九九九年︶一七頁以下︵前田発言︶。
原均﹁漠然性の理論の分析e﹂法学新報九六巻一・二号︵一九八九年︶二五五頁以下など。
︵39︶ 井上典之・前掲︵註31︶二六二∼二六三頁。その他、例えば、鷺高・前掲︵註33︶六∼七頁、門田成人・前掲︵註26︶八七頁以下、宮
︵38︶ 註29、33、34で挙げた文献など。
︵37︶ 門田成人・前掲︵註26︶九八∼九九頁。
︵36︶ 前田・前掲︵註24・実質的犯罪論︶五九∼六四頁。筒旨、萩原・前掲︵註7︶七九頁など。
される︺と論じているのも、同じ趣旨であろう。
はない。そのような意味において、裁判官は、﹃通常の判断能力を有する一般人﹄の法律理解とは異なる法律解釈をなすことも許
らない。しかし、そのことは、裁判官の法律解釈は一般に理解可能な自然的語義の枠内でのみ可能だということを意味するもので
を形成する法規の文言を越えるものであってはならない。そのかぎりで、法解釈は、一般国民の予測可能性の範囲内になければな
︵35︶ 前田・前掲︵註24・実質的犯罪論︶五九頁。また、萩原・前掲︵註7︶七〇頁が、﹁たしかに、裁判官の法解釈は、法的規制の外枠
ど。
百選1︹第3版︺﹄︵有斐閣、一九九四年︶一四一頁、阪本昌成﹁輸入書籍・図画等の税関検査﹂高橋ほか編・前掲︵註33︶一五三頁な
性﹂法律蒔報五七巻四号︵一九八五年︶六五∼六六頁、隅野隆徳﹁輸入書籍・図画等の税関検査﹂芦部信喜・高橋和之編﹃憲法判例
︵34︶ 前註で挙げた徳島市公安条例事件判決に関する文献のほか、税関検査事件判決について、例えば、横田耕一﹁税関検査の合憲
版︺﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶一八三頁など。
動の規制﹂法学教室三一〇号︵二〇〇六年︶六三頁、村山健太郎﹁公安条例の明確性﹂高橋和之ほか編﹃憲法判例百選1︹第5
学の文献としては、浦部法門﹃憲法学教室︵全訂第二版︶﹄︵日本評論社、二〇〇六年︶九九頁、野坂泰司﹁公安条例による集団行
閣、一九七八年︶二三頁、日高義博﹁刑罰法規の明確性﹂西田典之ほか編﹃刑法の争点﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶七頁など。憲法
法廷判決﹂警察研究五二巻三号︵一九八一年︶六三頁、三井誠﹁刑事法規の明確性﹂平野龍一編﹃刑法判例百選1 総論﹄︵有斐
︵33︶ 田宮・前掲︵註25︶五三頁。また、同・前掲︵註30︶一〇∼=頁。その他の刑事法学の文献として、京藤哲久﹁徳島市公安条例大
(75−2−186> 4娃0
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
ブランコムツは、食品衛生法四条二号にいう﹃有害な物質﹄が含まれる鼻息に当たるとされた事例﹂ジュリスト一一九四号︵二〇
ラソコムツと食晶衛生法四条二号にいう﹃有害な物質﹄が含まれる三瀬﹂現代刑事法一四号︵二〇〇〇年︶五八頁、深町晋也﹁ア
︵3煙︶ 飾撚田士暑信﹁判解﹂響美育同裁判所判例解∼説 刑宙撃編 留半成一〇年︷度﹄ ︵法蕊聞△寡、 二〇〇一年︶ 一〇五∼一〇六頁。
〇一年︶ 一三五頁なども、食晶衛生法の規定から一般人が基準を読みとることは可能だ、としている。
美矢紀﹁暴走族条例と合憲限定解釈﹂﹃平成19年度重要判例解説﹄︵有斐閣、二〇〇八年︶一七頁。
︵44︶ 曽我部真裕﹁集会の自由の規制と合憲限定解釈﹂法学教室三三〇号別冊付録・判例セレクトニ○〇七︵二〇〇八年目七頁、巻
︵45︶ 刑鍍小六一巻六口写六〇一百以︵六〇九頁︶。
︵46︶ 刑集六︸巻六号六〇一頁︵六二頁︶。
︵47︶ 曽我部・前掲︵註44︶七頁が、﹁成立しうる解釈︵の一つ︶として当該限定解釈が一般国民にも理解できるかどうかの問題だと考
えるか﹂、﹁当該法文に接した一般国民がそこから当該解釈に到達できるかどうか﹂を区別し、本判決多数意見は前者であり、藤田
反対意見は後者の立場であるとみるのは、本文と同じ趣旨であろう。
︵49︶ 民集三八巻=一号=二〇八頁︵=二二五頁︶。
︵48︶刑集六一巻六号六〇一頁︵六一〇頁︶。
︵50︶ 最判平成元年九月一六日、刑集四三巻八号七八五頁。
︵三5︶ 藤田反対意見は、条例の立法意図が多数意見のいうようなものであれば、その趣旨に即した形で改正することは技術的に困難
意見も、条例の﹁規定の仕方が適切でな﹂いことは認めていた︵六〇三頁︶。調査官も﹁限界的な判断例であることは争えないし
ではないことを、違憲無効とすべきとする理由の一つに挙げている。刑集六一巻六号六〇一頁︵六一二∼六=二頁︶。なお、多数
︵52︶ 門田孝﹁広島市暴走族追放条例事件最高裁判決﹂法律蒔報七九巻=二号︵二〇〇七年︶二頁、井上禎男﹁﹃暴走族﹄による
という。前田巌・前掲︵註22︶八六頁。
﹃集会﹄に対する規制と憲法第21条1項﹂法学セミナー六三七号︵二〇〇八年︶一=一頁、豊田兼彦﹁刑罰法規の広範性と限定解
八年︶ 一九五頁、田中祥貴﹁暴走族の集会等を規制した広島市条例を合憲とした事例偏速報判例解説編集委員会︹編︺﹃速報判例
釈﹂法学セミナー六三七号︵二〇〇八年︶一一五頁、渋谷秀樹﹁広島市暴走族追放条例違反被告事件﹂立教法務研究一号︵こ○○
解説︿O富﹄︵日本評論社、二〇〇八年︶一六∼一七頁、山田健吾﹁広豊楽暴走族条例が合憲限定解釈により、憲法二一条 項およ
︵53︶ 田中祥貴 ・ 前 掲 ︵ 註 5 2 ︶ 一 七 頁 。
び三一条に違反しないとされた事例﹂速報判例解説編集委員会︹編︺・前掲六七頁、巻・前掲︵註44︶一七頁。
︵54︶香城敏麿ズ研究会﹀憲法判例の三〇年﹂ジュリスト六三八号︵一九七七年︶四七〇頁︵発言︶。
441 (75−2−187)
論 説
六三頁。
も行っている。
緕オ七年︶、現在、同﹃憲法解釈の法理﹄︵信由社、二〇〇四年︶
﹁このように限定的に解釈すれば、本条例一六条一項一号、一七条、一九条の規定による規制は、広島市内の公共の場
所における暴走族による集会等が公衆の平穏を害してきたこと、規制に係る集会であっても、これを行うことを直ちに
犯罪として処罰するのではなく、市長による中止命令等の対象とするにとどめ、この命令に違反した場合に初めて処罰
すべきものとするという事後的かつ段階的規制によっていること等にかんがみると、その弊害を防止しようとする規制
目的の正当性、弊害防止手段としての合理性、この規制により得られる利益と失われる利益との均衡の観点に照らし、
いまだ憲法二一条一項、三一条に違反するとまではいえない﹂。
② ここで最高裁は二つの大法廷判決を明示的に先例として挙げる。つまり、猿払事件判決と成田新法事件判決である。
本判決は、この二判決の﹁趣旨に徴して明らか﹂、というのである。そこでまず、その二判決の該当すると思われる判
旨を 再 確 認 し て お こ う 。
442
(75−2−!88)
︵55︶ 香城敏麿﹁政治的行為の規制に関する最高裁猿払判決﹂
広島市暴走族追放条例事件判決
六 表現・集会の自由の制約に関する判例理論
(一
ω最高裁は、ニー①で紹介したような合憲限定解釈に続けて、本条例による集会の自由の制約に関して内容的な判断
1
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
2 猿払事件判決
国家公務員法一〇二条一項および、それによって委任された人事院規則一四一七による国家公務員の政治的行為の禁
止が憲法二一条に反しないかについて、最高裁はおよそ次のようにいう。
①﹁公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえな
い限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところである﹂。
②﹁国公法一〇二条一項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとど
まるものか否かを判断するにあたっては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁
止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である﹂。
③﹁行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行
為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかなら
ないのであって、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政
治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性がある﹂。
④﹁公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの
制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見
表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、か
つ、国公法一〇二条一項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではな
く、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼
を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものとい
謹43 (75−2−189)
説 うべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない﹂。
論 ⑤﹁国公法一〇二条一項及び規則五項三号、六項=越鳥は 、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められ
ず、憲法二一条に違反するものということはできない﹂。
成田新法事件判決
暴力主義的破壊活動者が該当工作物を集合の用に供する利益にすぎない。しかも、前記本法制定の経緯に照らせば、暴
的見地から極めて強く要請されるところのものである。他方、右工作物使用禁止命令により制限される利益は、多数の
乗客等の生命、身体の安全の確保も図られるのであって、これらの安全の確保は、国家的、社会経済的、公益的、人道
管理の安全の確保並びに新空港及びその周辺における航空機の航行の安全の確保であり、それに伴い新空港を利用する
②﹁本法三条一項一号に基づく工作物使用禁止命令により保護される利益は、新空港若しくは航空保安施設等の設置、
体的制限の態様及び程度等を較量して決めるのが相当である﹂。
ものとして是認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる異
かつ合理的な制限を受けることがあるのはいうまでもない。そして、このような自由に対する制限が必要かつ合理的な
①﹁集会の自由といえどもあらゆる場合に無制限に保障されなければならないものではなく、公共の福祉による必要
よそ 次 の よ う に 答 え た 。
うに﹁集合﹂を要件とすることは、憲法二一条による集会の自由の保障に反するという上告理由に対して、最高裁はお
れ、又は供されるおそれがあると認められるときを、当該工作物の使用禁止命令発動の一つの要件としている。このよ
新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法三条一項一号は、﹁多数の暴力主義的破壊活動者の集合の用﹂に供さ
3
(75−2−190) 荏44
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
力主義的破壊活動等を防止し、前記新空港の設置、管理等の安全を確保することには高度かつ緊急の必要性があるとい
うべきであるから、以上を総合して較量すれぼ、規制区域内において暴力主義的活動者による工作物の使用を禁止する
ハガ 措置を採り得るとすることは、公共の福祉による必要かつ合理的なものである﹂。
4 考察の視点
広島市暴走族追放条例事件判決は、猿払事件判決と成田新法事件判決を先例としたが、この二つの判決はいかなる関
係にあるのだろうか。暴走族条例判決は、三つの基準、つまり①規制目的の正当性、②手段としての合理性、③利益の
均衡、を挙げた。これは猿払判決の三基準、①禁止の目的︵の正当性︶、②目的との手段の︵合理的︶関連性、③利益
の均衡、と微妙に異なるものの、基本的には同型である。広島市の事件を、この基準によって判断したことは適切で
あったのだろうか。暴走族による集会を憲法適合的に規制することはできないのだろうか。
このような問題関心を背景におきながら、以下ではまず一般的に、判例が採用している比較衡量論について再考し、
併せて最近の学説状況についてもごく簡単に確認することから始めたい。
︵56︶ 最大判昭和四九年一一月六日、刑集二八巻九号三九三頁︵三九八∼四〇二頁︶。
︵57︶最大判平成四年七月一霞、命令四六巻五号四三七頁︵四四一∼四四四頁︶。なお、①の判示の後に、最大判昭和五八年六月二
二日、民集三七巻五号七九三頁︵よど号ハイジャック記事抹消事件︶が引用されている。後出、註64を参照。
﹁暴力主義的破壊活動を現に行っている豊隆はこれを行う蓋然性の高い者﹂の意味に解すべきであるとする。また、同法三条一項
また、この判決は、緊急措置法二条二項にいう﹁暴力主義的破壊活動等を行い、又は行うおそれがあると認められる者﹂を、
にいう﹁その工作物が次の各号に掲げる用に供され、又は供されるおそれがあると認めるとき︺とは、﹁その工作物が次の各号に
445 (75−2−191)
掲げる用に現に供され、又は供される蓋然性が高いと認めるとき﹂の意味に解すべきであるとする。こう解釈すれぼ、﹁同項一号
が過度に広範な規制を行うものとはいえず、その規定する要件も不明確なものであるとはいえない﹂、というわけである︵四四四
いないことにも注目できる。
頁︶。つまり、この判決も合憲限定解釈を行っていた。本稿の観点からは、その際、税関検査判決が示した二要件には言及されて
広島市暴走族追放条例事件判決が援用した諸判決
七 判例における比較衡量論と広島市暴走族追放条例事件判決
1
裁判例は、比較衡量論を用いて制限の合憲性を判断する傾向にある、とする。
お 上告理由がその点を批判していたことに対応したものである。これに対し、表現および集会の自由に関する最近の最高
三五巻四号二〇五頁︶である。しかしこの判決は、原審が猿払判決の枠組みを用いつつ当該規定を違憲とし、検察側の
公職選挙法における戸別訪問禁止規定を猿払事件判決の枠組みに拠りつつ合憲とした最判昭和五六年六月一五日︵刑集
関係という特殊なコンテクストにおける判決という意味を持つにすぎないもの﹂と位置づけられる。注目される例外は、
決で採られた﹁間接的・付随的制約﹂論は、﹁表現の自由に関する一般的な審査枠組み﹂ではなく、﹁基本的に、公務員
両者の違いにアクセントを置いてみる立場の代表として市川正人を挙げることができる。それによると、猿払事件判
従来から議論があるところであった。
ω 暴走族条例判決は、猿払事件判決と成田新法判決を先例として明示的に援用していた。この二つの判決の関係は、
論説
(75−2−192) 睡46
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
② 最高裁自身は両者を;貝したものとして説明している。第一次家永教科書裁判における平成五年三月一六日判決は、
﹁憲法一二条一項にいう表現の自由といえども無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による合理的で必要やむ
を得ない限度の制限を受けることがあり、その制限が右のような限度のものとして容認されるかどうかは、制限が必要
とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる旦ハ体的制限の態様及び程度等を較量して決せられ
るべきものである﹂、とした。その際、先例として挙げていたのが、猿払判決、よど号判決、成田新法判決であった。
担当調査官による解説も、表現行為等に関する規制について、判例は﹁比較衡量の基準を用いるものが多い﹂、という
形でこれらの判決を整理していた。
⑧ 講評的な説明をするのが、松本和彦である。松本は、昭和四〇年頃からの判例の立場を比較衡量の手法で論証する
ものと特徴づけた上で、その比較衡量論を三つに類型化する。第一は、博多駅事件判決︵最大決昭和四四年=月二六
日、家集二三巻一一号一四九〇頁︶に代表される比較衡量である。その特色は、﹁衡量すべき事項を多数列挙して比較
の対象を絞らず、様々な要因をあれこれと衡量しょうとする点﹂にある。第二は猿払事件判決である。﹁目的と手段の
合理的関連性を前提とした上で、対立する利益の衡量を行っている﹂ところに、その特色があり、﹁博多駅事件の比較
衡量論と比べると、衡量のあり方がより準則化されたし、と評される。第三はよど号事件判決である。その特色は、﹁規
制の必要最小限度性を前提とし、害悪の重大性や害悪発生の相当の蓋然性を﹃具体的事情のもとにおいて﹄判断すべき
である﹂としたところにある、とされた。
ハお 最高裁による比較衡量論を類型化するという問題設定は、適切であろう。ただし、諸判決における利益衡量は次元が
異なることにも、留意すべきである。つまり、後二者では憲法上保障された権利を制限する法規定の合憲性が争われて
いたのに対し、博多駅事件では、法規定ではなく裁判所が出した取材フイルム提出命令の合憲性が争われていた。その
ことを留保した上で、前記のような比較衡量の三類型を立てることも可能であろうし、衡量を準則化している猿払判決
頃婆7 (75−2−193>
爺琶
説
醤ム.
ハお 型とそれ以外の比較衡量という二類型を立てることも可能かもしれない。
ω 市川や松本などは、猿払判決において、﹁利益衡量は規制が﹃合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否
かを判断する﹄ための三つの基準の一つにすぎない﹂、とみていた。それに対して、最高裁などは、おそらく猿払判決
の三基準全体が比較衡量の枠組みとして捉えているのではないか。この判決の担当調査官であったことで知られる香城
ハ が 敏麿も、そのような趣旨の説明をしていた。この立場に立つと、市川などが着目している第三基準は狭義の比較衡量を
行っているものと位置づけられるだろう。こうした見方は、ドイツにおける広義と狭義の比例原則に関する理解と同じ
構造である。最近、新正幸は、猿払判決を、比例原則の﹁第三の要素たる﹃狭義の比例原則︵均衡性の原則二を違憲
審査基準として導入したものとも見られ、その場面で比較衡量がなされているのが特徴である﹂、と論じている。これ
は本稿の見方と両者を比較するという問題関心では一致するものである。ただし、比例原則では三要素すべてが手段審
査にかかわるのに対し、猿払判決の第一基準は目的審査であること、第二要素が比例原則では﹁必要性しであるのに対
ゆ し、猿払判決では﹁合理的関連性﹂にとどまることなど、違いは大きい。
㈲ 猿払判決と成田新法判決を基本的に同一の手法を採ったものとする理解からすると、暴走族条例判決がこの二つを
先例としたことはあえて疑問とする必要はなくなる。暴走族条例判決が猿払判決の三基準に忠実には従っていないのも、
ハれ 比較衡量論の枠組みに従ったことに意味があると考えていたからなのかもしれない。しかし、そうであるならぼなぜ、
よど号、成田新法、第一次教科書裁判などのような、最高裁における表現の自由判例の主流をなす定式︵本稿六3①︶
を用いなかったのだろうか。猿払判決の三基準は、表現の自由のうちでも、行動を伴った表現に用いられ、暴走族の事
案はまさにこれに当てはまると考えた、という可能性はある。しかし、例えば猿払判決の翌年に出た徳島市公安条例事
ハれ 件判決が扱ったデモ行進の規制について、最高裁はこの判断枠組みを使わなかった。行動を伴う表現のなかでも、とり
わけ行動の要素が強い表現の規制については、この枠組みを使うということなのであろうか。しかし、この枠組みが従
(75−2−194) 基婆8
集会の自由の謝約と合憲限定解釈(渡辺)
来使われてきた猿払事件の事案などが、本当にそういう類型だといえるのだろうか。
他方、猿払判決の枠組みを﹁公務員関係という特殊なコンテクストにおける判決﹂と位置づける見方からは、そこか
お ら外れた事案において援用した暴走族判決は疑問とされることになる。最高裁は、猿払判決を、第一次家永教科書裁判
および本稿註59で挙げた教科書検定に関する諸判決でも、引用していた。しかしそこで依拠されていたのは三基準では
なく、比較衡量という原則的立場であった。三基準を公務員関係の事例以外で用いた本判決が、従来の判例とは、かな
り異なっていることは確かである。この判決を契機として三基準の枠組みの射程が一挙に拡大することになるのだろう
か。
援用しなかった判決
ω 最高裁は、表現や集会の自由を規制する法律の合憲性を審査する際に、常に単純な比較衡量に拠っているわけでは
ない。最高裁の調査官解説も、﹁精神的自由を制限する措置の合憲性の審査基準として利益較量論を採る場合、それが
無原則、無定量に行われることがないように、利益較量を指導するルールが必要である﹂ことを認め、そのようなもの
として、﹁明白かつ現在の危険﹂﹁不明確のゆえに無効﹂﹁﹂RA﹂などの原則を挙げていた。利益衡量論を基本としな
お がら、こうした﹁厳格な基準﹂を併議した典型例は、平成七年三月七日の泉佐野市民会館事件判決である。そこで最高
裁は、﹁集会の用に供される公共施設の管理者﹂は、管理権を行使して利用を拒否することもできるが、その﹁制限が
必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本亀入権としての集会の自由の重要性と、当該集
会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せ
られるべきものである﹂とし、さらに﹁このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち
449 (75−2−195)
2
精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない﹂、
という基本的な立場を示す。そして、本件会館の使用許可をしてはならない場合を、﹁本件会館における集会の自由を
であるということはさほど意味をもつわけではない。違いの要点は﹁事前規制﹂か﹁事後規制﹂かにあるといえよう。
いて再び同様な行為を行った場合に処罰するというような、熟慮の機会を与えてはいない。したがって、﹁段階的規制﹂
のではなかろうか。たしかに、この条例は、﹁段階的﹂とはいうものの連続した一連の行為を対象としており、臼をお
たのに対し、暴走族条例事件は﹃事後的かつ段階的規制﹄︵六1ω︶であるという事情が、大きな違いだと考えている
られると論じたものである。最高裁は明示的な判示をしているわけではないが、泉佐野市の事件が事前規制の事案だっ
この判断は、暴走族条例の事案には﹁厳格な基準﹂を併用しなくてもよいし、たとえ併用したとしてもその審査に堪え
といえないでもない﹂、などとして、二つの事案は﹁規制の趣旨、対象等が全く異なっている﹂、と結論づけた。つまり、
体を禁止したり規制したりするものではない﹂、②本件の場合、﹁他人の自由を侵害する具体的な危険が予見されるもの
ハろ
して、例えば二審の広島高裁は、①市民会館の使用の許否は、集会開催の許否に直結するが、﹁本条例は、集会それ自
かかわる事件なのであるから、この先行判決で用いられた基準により審査すべきであると主張していた。この主張に対
② 暴走族条例事件の原告側は、判例集に掲載されている限りで判断すると二審段階以降、同じく集会の螢由の制限に
ハ が具体的に予見されることが必要である﹂、としていた。
険性の程度としては⋮⋮単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生
安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危
保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の
論説
(75−2−196) 450
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
判例における利益衡量論を支える理論
ω 判例が採ってきた利益衡量論の立場を再言すると、﹁一定の利益を確保しようとする目的のために制限が必要とさ
れる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を具体的に比較較量す
る﹂というものであり、﹁事案に応じて、﹃明白かつ現在の危険﹄の原則、﹃不明確のゆえに無効﹄の原則、﹃必要最小限
が 度﹄の原則、﹃﹂RA﹄の原則などのその他の厳格な基準ないしはその精神を併せ考慮﹂する、というものである。
このような立場には、一九八○∼八九年の間に最高裁判所裁判官であった伊藤正巳が、一定の影響を与えている可能
性がある。伊藤は、まだ東京大学の教授であった一九七七年の論稿において、﹁現在では、最高裁判所の思考方式とし
て、少なくとも人権の制約の問題に関しては、利益衡量論が有力になっている﹂とし、これはかっての﹁抽象的な公共
の福祉の概念で先験的にわりきる立場を排斥した点で意馬がある﹂が、﹁その利益衡量の内容が必ずしも明瞭ではなく、
単に表現上のそれにとどまる場合もなくはない﹂とい%㏄その上で、﹁価値序列の低い人権の制限﹂や﹁価値序列にお
いて同等の利益が衝突する場合﹂には﹁個別的な利益衡量﹂にゆだねられるべきだが、﹁精神的自由権などのような価
値序列の高い権利を規制する場合には⋮⋮さらにきびしい衡量のための判断基準が要求される﹂として、﹁明白かつ現
が 在の危険﹂や﹁より制限の少ないそれに代わる手段﹂﹁過度の漠然性﹂などの基準に言及していた。
ハハ 伊藤は、裁判官としても、度々そのような見解を示した。しかしそれは補足意見であることが多く、最高裁の判例理
論そのものということはできない。にもかかわらず、しばしぼ引用される成田新法事件判決に関する調査官解説が、伊
藤正巳補足意見や伊藤の体系書﹃憲法﹄を、最高裁流の﹁利益較量論﹂の説明に際して援用していることは、注目に値
する。
② 最高裁の判例理論を体系的に説明する枠組みとして注目を集めてきたのが香城理論である。ジュリスト誌上の研究
451 (75−2−197)
3
会などの発言においては、重点の置き方の移行があるようにも思われるが、説くところは周知であろう。そこでも、
﹁憲法訴訟の問題は、最も広い意味においての利益衡量の問題に帰着するしとされ、﹁規制によって得られる国家の立法
最高裁がその立場を一般論としては示した泉佐野市民会館事件判決について、学説の評価は分かれた。この新しい判断
しかし、これまで見てきたように、判例を支えようとする理論も二重の基準的な発想を排しているわけではなかった。
る審査基準の類型化などがそれである。
む その他の場合には、衡量の内容をできるだけ準則化する方向がとられる。二重の基準、内容・内容中立規制の区分によ
裁者としての立場で、対立するほぼ同じ程度に重要な利益の調整を行うような場合﹂に限定されるべきだ、とされる。
準が明確ではなく、また秤の重みが権力の側に傾く可能性が大きい。そこで、﹁この手法は、国家権力が第三者的な仲
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ へ
㈹ 憲法学における通説は、最高裁の判例とは全く異なった立場を採ってきた。最高裁による比較衡量論は、比較の基
については、積極的規制を原則として憲法が許容していない﹂のに対し、﹁経済的規制については、許される範囲が非
ま 常に広い﹂。第二に、﹁利益衡量をどの程度でよしとするかという場面でも現れてくる﹂と応接した。
基準論との関係はどうなっているのか、という疑問がしぼしぼ出されてきた。これに対しては、第一に、﹁精神的自由
法行為との間の関連性がかなりゆるやかでも憲法上許される﹂、という説明が行われた。香城理論に対しては、二重の
れ 的規制でかつ、積極的規制の類型であるから、二つの判決は﹁合わせて一本になる﹂ものであり、﹁規制対象行為と立
決︵最判昭和五六年七月二一日、刑集三五巻五号五六八頁︶がほぼ同じ時期に出て注目された戸別訪問の事例は、付随
にも触れた、猿払判決の判断枠組みを使った判決と、選挙のルール論を語る伊藤正巳裁判官の補足意見が付せられた判
つの枠組みを用いた四分割の考え方を採ることによって、それぞれの利益状況が明らかになる、という理論である。先
に存在する関連性の程度﹂という三つが考慮要素とされ、積極的規制・消極的規制、付随的規制・直接的規制という二
利益と、規制によって失われる国民の側の利益あるいは規制対象行為の利益、それから規制対象行為と立法利益との間
論説
(75−2−198) 452
集会の自由の割約と合憲限定解釈(渡辺)
枠組みに期待する見解もあったが、従来の憲法学の通説を前提とすれぼ、不許可処分の目的と手段について厳格に審査
すべし、という主張をするのが﹁溶した思考であったはずである。もっとも、この事件で対象となったような行政処分
については違憲審査基準は妥当しない、と考えられていたのかもしれない。
広島市暴走族追放条例事件判決
ω 暴走族追放条例事件における最高裁は、既に六1ωで紹介したように、集会の自由の制約については、簡単に合憲
と判断している。
この最高裁の立場を、﹁暴走族の集会を、一律に憲法二一条一項の保障の博外と解﹂したものとみるのは、妥当では
ない。ドイツにおける基本権ドグマーティクの流儀に従っていうと、暴走族の集会も集会の自由の保護領域に入り、条
例の規定による規制がそれに対する制約となることを認めた上で、その制約が正当化されると判断したのがこの判決で
ある。以下では、この三段階審査の考え方を踏まえつつ、この判決について若干の検討を行っていきたい。
ハれ ②最高裁の担当調査官は、この判決について、①﹁規制対象が本来的暴走族及びその類似集団による、条例所定の態
様の公衆に不安若しくは恐怖を覚えさせるような集会に限定解釈できることを前提にして﹂いることと、②﹁事後的・
段階的規制﹂であることを考慮して、﹁他のより厳格な判断基準ないしその精神を併用するまでの必然性がないと判断
したもの﹂、と説明している。この解説の①は、成田新法判決に関して担当調査官が、﹁本法三条一項の使用禁止命令に
よって制限されるべき自由は、集会の自由一般ではなく、規制区域内に所在する特定の工作物における多数の暴力主義
的破壊活動者による集会の自由﹂であることを、厳格な審査を併用しない理由としていたのと同じ趣旨であろう。問題
は、この思考をいかなるものと理解すべきか、である。従来の憲法学の通説的立場は、例えば、性表現や名誉殿山稼表
453 (75−2−!99)
4
論 説
現も表現の保護領域に含まれると解した上で、それらは﹁低い価値の表現﹂であるから保護の程度は低い、と考えてき
た。これと同様に最高裁も、﹁多数の暴力主義的破壊活動者による集会の自由﹂や﹁本来的暴走族及びその類似集団に
よる⋮⋮公衆に不安若しくは恐怖を覚えさせるような集会﹂の自由は、集会の自由の保護領域に含まれるものの価値は
低い、と考えたのかもしれない。しかし、表現内容や集会内容そのものに﹁価値の高低が内在するという考えを支持す
ることは困難﹂、というべきであろう。むしろ、﹁低い価値の表現﹂とは、﹁表現内容がもたらす社会的害悪に着目して
いる﹂、ととらえる方が適切である。最高裁の立場も、﹁暴力主義的破壊活動者﹂や﹁暴走族﹂による集会の自由に対す
ゆ る制約は、集会の自由一般の場合よりも容易に正当化可能だという見解だと︵再構成して︶読むべきだと思われる。
㈹ 自由に対する制約が正当化されるかを比較衡量の手法によって判断するという基本的立場を多数意見と共有した上
で、異なった結論を導くのが田原裁判官の反対意見である。この条例の保護法益は、﹁市民生活の安心と安全の確保の
うちの極く限られた場面における利益であ﹂り、しかも、保護法益とされた﹁不安﹂や﹁恐怖﹂を抱かないことは、具
体性を伴わない﹁漠としたもの﹂でしかない。他方、本条例が﹁刑事罰をもって規制しようとする行為は、服装等の自
由、行動の自由という憲法によって保障される以前の本来的な自由権であり、また表現、集会の自由であるし。しかも
本条例は、﹁それらの自由を直接規制するものしである。これらの自由は、﹁民主主義社会における、いわぼ憲法一一条
や=二条によって保障される以前の自由﹂および﹁民主主義国家における根源的な自由﹂として最大限保護されるべき
ものであり、その規制が認められるためには﹁目的達成のために最低限必要な範囲に止まることが必要である﹂。﹁本条
ハ 例の保護法益ないし侵害行為と規制内容は、合理的均衡を著しく、失している﹂、というのである。
この反対意見で、まず注目されるのは、﹁規制対象行為﹂の捉え方が多数意見とは若干異なっている、ということで
ある。田原裁判官は﹁服装等の自由﹂を被侵害法益としていた。これに対して多数意見は、本条例は服装の自由等の自
が 由を規制しているわけではなく、服装等は一六条に該当する行為に対して中止又は退去命令を出す際の要件となってい
(75−2−200> 454
集会の霞由の制約と合憲限定解線(渡辺)
るにすぎない、と考えているものと思われる。この理解をとりたてて問題とする必要はないだろう。田原裁判宮の反対
意見のなかでむしろ注目すべきことは、それらの自由に﹁民主主義社会における、いわぼ憲法=条や一三条によって
保障される以前の自由﹂という位置づけが与えられていることである。そのことから、さらに、その自由への制約を正
当化するために厳格な比較衡量が要求されていることも重要である。多数意見との結論の違いは、そこから生じている。
憲法学上、﹁放任行為﹂と﹁憲法上の権利﹂との区別論は、従来から存在した。その場合、制限に対する正当化は、﹁権
利としての重み﹂をもっているという理由から、後者のほうが難しいと考えられてきたはずである。これに対して、田
原裁判宮は、﹁民主主義社会における、いわぼ憲法二条や=二条によって保障される以前の自由﹂という新たなカテ
ゴリーを創出し、それを最も尊重すべきものとしたわけである。二重の基準論とは別の類型化を志向する見解として受
け止めておくべきであろうか。
ω先に述べた、判例における比較衡量論を批判する憲法学の通説を前提とした上で、この事件を論ずることは十分可
能である。つまり、本条例を仮に暴走族的な表現行為を規制するものと限定解釈するならぼ、﹁かかる表現行為自体を
あ 有害なものと見立て、その属性に着目して規制するという意味で、まさに表現内容規制なのではあるまいか﹂、という
立場から厳格な審査を要求するアプローチである。この事件における被告人手も、一審以来、同条例による規制は、い
わゆる暴走族集団の﹁い集又は集会﹂自体を規制した内容規制であるから厳格に審査されるべきである、という主張も
行ってきた。もっともこの枠組みを前提としても、同条例による規制は、一・二審が考えたように、むしろ内容中立規
制に当たるとみることもできよう。条例が暴走族の集会を規制するものであるとしても、それはその集会の場所と態様
を規制するものと考える見解である。この点は、内容・内容中立の区別をどのように定義づけるかにかかわっている。
もちろん、集会の自由の規制であるから、内容中立規制だと捉えたとしても、通説を前提とすれぼ﹁厳格な合理性の基
準﹂により審査されるべきことになる。本条例二条七号の﹁暴走族﹂の定義や一六条一項の﹁何人も﹂という文言が仮
455 (75−2−201)
に文字通りに解釈されるのであれぼ、手段としても違憲とすべきであろう。
い。学説では、﹁﹃集会場所およびその付近における通行人の通行の支障や妨げとなること﹄の防止および是正など、具
集会を規律することは許容されるのではないか。しかし、いかなる規制措置であれば許されるのかを論ずることは難し
事件があったという特有な事情もあったようである。このような場合に、﹁必要かつ合理的﹂な手段によってであれば、
る﹂、といわれる。しかし、広島市には、過去、暴走族の集会が繰り返され、警察官との衝突や、けが人がでるなどの
て懐疑的であって、罰則の適用も暴走行為につながる空ぶかし等、実際の危害を惹起するような行為に限定されてい
制はどうだろうか。﹁広島市と同様な暴走族追放条例を制定している自治体でも、本条例のような集会規制にはきわめ
る、という状況に対処しようとしたということだろう。これは正当な立法目的となりうる。では、手段としての集会規
その付近に近づくこともできなくなり、また付近の飲食店などの売り上げが落ち込むとともに、少年犯罪も発生してい
かなり一般的である。しかし、より具体的には、公共の広場が暴走族によって事実上占拠され、一般の通行人が広場や
まず、この条例一条が規定する﹁市民生活の安全と安心が確保される地域社会の実現を図ること﹂という立法目的は、
方であれぼ合憲となるか。方向性だけでも探ってみよう。
解釈されるのであれぼ、手段について﹁合理性﹂や﹁必要性﹂がないという結論となるだろう。ではいかなる規制の仕
ハが て、判例理論を読む、ないし読み替えようとする立場である。この判断手法に従っても、現在の条例が仮に文言通りに
である。つまり、立法目的の正当性と立法目的達成のための手段の合理性、必要性、利益の均衡性を審査するものとし
が活用している比例原則から読み直し、新たな審査基準墨を構築しようとする傾向が現れていることは、周知のとおり
にも問題はなかったのかと自問してみることは、健全な態度である。そこから、判例理論をドイツ連邦憲法裁判所など
もかかわらず、最高裁の判例理論は変化していない。その原因を裁判官の憲法感覚などに帰すだけではなく、学説内容
⑤ このようなアメリカ憲法学由来の判断手法は、既に四〇年以上前から学界では主張されてきたものである。それに
論説
(75−2−202) 456
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
体的害悪の防止を規制目的としたうえで、そうした害悪を生じることが明白であるか、あるいは少なくとも蓋然性のあ
るような集会に限って、禁止・制限をしていくこと﹂が提案されている。この見解は、条例を多数意見が合憲限定解釈
ハが したような趣旨へ明文で改正した場合は違憲と考えるのだろうか。そうだとすると、やや厳格にすぎないかと思われる。
㈲ 事実に関する資料がないため、立法論を行うことは困難である。ここでは先に論じた点に戻り、審査基準論、比例
原則論のいずれの判断手法を採ったとしても、具体的な憲法適合性の判断を規定するのは、制約によって達成しようと
する目的と、制約される権利の重要性、程度などであることに変わりはないことを確認して終りとしたい。最高裁の判
例理論に、伊藤正巳や香城豊漁といったアメリカ憲法判例に精通した裁判官の影響がある可能性については、先に述べ
た。したがって、ドイツ的な比例原則のみが判例理論に整合的なドグマーティクであることを標榜できるわけではない。
しかし、後者には、行政法学や刑法学における基本概念を基礎とすることができるという利点もある。この研究動向は、
︵鵬︶
さらに探究して行く価値をもつものと思われる。
︵58︶ 市川正人﹁合憲性判断基準論﹂法律時報編集部編﹃新たな監視社会と市民的自由の現在﹄︵日本評論社、二〇〇六年︶一四六
務員関係の事例に射程が限られるべきものとしている。猿払判決と戸別訪聞判決は、本文で書及されているように、基本的に同じ
頁以下。その他、例えば、野坂泰司﹁国家公務員の政治活動の自由﹂法学教室三三一号︵二〇〇八年︶一〇六頁も、猿払判決は公
くる。猿払判決において、表現の自由に対する﹁問接的・付随的制約﹂であることは、六2④で紹介したように、第三基準の﹁利
判断枠組みを用いている。しかし、両者には微妙に異なる点があり、そこをどう解するかにより、猿払判決の位置づけも変わって
益の均衡﹂の場面で﹁表現の利益を低める要因として用いられているにすぎない﹂。これに対して戸別訪問判決では、﹁間接的・付
随的な制約﹂である場合には猿払判決の三基準によって判断するという形で、﹁前面に押し出されている﹂。つまり、この判決では、
﹁間接的・付随的な制約﹂論がいわば二重に使われている。松井幸夫﹁政治的表現と衷現の手段方法﹂晶大法学二六巻一号︵一九八
二年︶七五買、市川正人﹃表現の自由の法理﹄︵日本評論社、二〇〇三年︶七六頁など。猿払判決の調査官であった香城敏麿も、
﹁直接的規制﹂と﹁付随的規制﹂という類型論を、合憲性判定のための一般的枠組みとして説明していた。例えば、同﹁︹研究会︺
457 (75−2−203)
憲法裁判の客観性と創造性﹂ジュリスト八三五号︵一九八五年︶一〇頁以下。やや詳しくは本稿で後述する註81の本文。このこと
れる。これに対して、猿払判決において、﹁間接的・付随的制約﹂論は、﹁憲法判断の基本的な枠組みとしてではなく⋮⋮﹃利益の
を考慮すれば、猿払判決も暗黙のうちに、戸別訪問判決と同様な構造を採っているものと理解したほうが真意に沿っていると思わ
均衡﹄において考慮されたにすぎない﹂、と判示の文章どおりに受け取る見解も多い。例えば、大久保史郎﹃人権主体としての個
のものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止する﹂ものとしていた︵六2④︶。こ
と集団﹄︵日本評論社、二〇〇三年﹀三一一頁。両判決の違いはこれだけではない。猿払判決では、﹁付随的制約﹂を﹁意見表明そ
れに対して、戸別訪問判決は、戸別訪問の禁止を、﹁意見表明そのものの制約を目的とするものではなく、意見表明の手段方法の
もたらす弊害﹂を防止することなどを目的とするもの、とした︵刑集三五巻四号二〇五頁︹二〇七頁︺︶。市川・前掲書七八頁。こ
事件判決においては﹃表現/行動﹄モデルに近い発想にたち、戸別訪問事件判決においては﹃内容規制/時・場所・方法規制﹄モデ
の違いを、阪本昌成﹃憲法2 基本権クラシック︻全訂第三版︼﹄︵有信堂、二〇〇八年︶一四九∼一五〇頁は、﹁最高裁は、猿払
ルに近い発想にたっている﹂、と位置づけている。芦部・前掲︵註5︶四〇二頁も同旨。ただし、最高裁自身がこの差異を自覚してい
︵59︶ 民集四七巻五号三四八三頁︵三四九二∼三四九三頁︶。その後の教科書検定に関する判断でも岡三である。胴震平成九年八月
るかどうかは、定かではない。
二九日、民集五一巻七号二九二︷頁︵二九二九∼二九三〇頁︶、最判平成一七年=一月一日、判時一九二二号七二頁︵七六頁︶。
︵61︶ 松本和彦﹃基本権保障の憲法理論﹄︵大阪大学出版会、二〇〇一年︶二六〇頁以下。
︵60︶ 瀧澤泉﹁判解﹂﹃最高裁判所判例解説 平成五年度 民事篇︵上ご︵法曹会、一九九五年︶四一七頁。
︵63︶ 本文と同趣旨の区別を前提とした上で、一九七八年の段階では、﹁真正な意味で合憲性審査の場で比較衡量がなされた事例が、
︵62︶ 山川洋一郎﹁利益衡量論﹂芦部信喜編﹃講座 憲法訴訟 第二巻﹄︵有斐閣、一九八七年︶三〇一頁以下。
意外に少ない﹂という指摘もなされていた。浦部法穂﹁利益衡量論﹂︵一九七八年︶、現在、同﹃違憲審査の基準﹄︵勤草書房、一
︵64︶成田新法判決は、六3①のように判示した際に、よど号判決を先行判例として挙げていた。そこでは、﹁監獄は、多数の被拘
九八五年︶二〇頁。しかし、本文で述べているとおり、現在は状況が異なる。
禁者を外部から隔離して収容する施設であり、右施設内でこれらの者を集団として管理するにあたっては、内部における規律及び
秩序を維持し、その正常な状態を保持する必要があるから、この騒的のために必要がある場合には、未決勾留によって拘禁された
者についても、この面からその者の身体的自由及びその他の行為の自由に一定の制限が加えられることは、やむをえない﹂とした
程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである﹂
上で、﹁これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、右の目的のために制限が必要とされる
458
(75−2−204)
説
払
行醗
集会の自由の捌約と合憲限定解釈(渡辺〉
と判示していた。民集三七巻五号七九三頁︵七九六頁︶。こうした衡量手法に着目すれぼ成田新法判決とよど号判決は同一類型と
︵65︶ 芦部信喜﹁人権判例法理の特色﹂︵一九九四年︶、現在、同﹃宗教・人権・憲法学﹄︵有斐閣、一九九九年︶一二〇頁以下は、猿
なるし、よど号判決がより厳格な審査を行う枠組みを含んでいたことを重視して、別の類型と整理することもできるだろう。
を採りつつ、﹁その具体的な適用の仕方は、事件によって大きく違う﹂という形で捉えている。ただし﹁大きく違う﹂例として挙
払判決と成田新法判決の判断手法を﹁実質的には岡じ趣旨﹂とした上で、最高裁の表現の自由判例を、﹁個別的比較衡量の基準﹂
げている例のなかには猿払判決は入っておらず、形式上は異なった類型とみているようである。
︵67︶ 註58を参 照 せ よ 。
︵66︶ 市川・前掲︵註58・法理︶二九九頁。
︵68︶ 新正幸﹃憲法訴訟論﹄︵信山社、二〇〇八年︶五一一頁。猿払判決の三基準に対しては、﹁人権価値を織り込んだ比較衡の枠組
みが、圏的審査と手段審査である﹂はずなのに、もう一度、第三基準で﹁原始的な利益衡量﹂を行っていることを批判する見解が
査基準論﹂ジュリスト一〇八九号︵一九九六年︶一七〇頁以下。これはおそらくそのまま、比例原則にも向けられるものであろう。
ある。佐々木弘通﹁猿払事件判決批判・覚書﹂成城法学七七号︵二〇〇八年︶五八頁。実質的に同旨の批判として、高橋和之﹁審
︵69︶ なお、芦部信喜は、比較衡量論に二つの種類があるとしていた。第一は、﹁違憲審査の基準としての比較衡量論﹂である。第
この点については、さしあたり本稿八を参照。
事件に適用する際に、審査基準の枠内において審査基準を具体化するために行われる手法﹂とされる。芦部信喜﹃憲法学麺 入権
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
二は、﹁憲法解釈の方法としての比較衡量論﹂である。後者は、﹁各入権の性質の相違に応じて設定された違憲審査の基準を具体的
総論﹄︵有斐閣、一九九四年︶二〇八頁以下。この区別は、渋谷秀樹﹃憲法﹄︵有斐閣、二〇〇七年︶一六八頁以下などでも受容さ
︵70︶ 前田巌・ 前 掲 ︵ 註 2 2 ︶ 八 七 頁 。
れている。芦部説などにおいて批判の対象となっているのは、前者である。
︵71︶ この判決で、表現そのものの規制と表現に伴う行動の規制を区翻していたのは、岸盛一裁判官の補足意見である。しかし、そ
こでも猿払判決の三つの基準が用いられているわけではない︵刑集二九巻八号四八九頁︹五〇九頁以下︶︶。これに対して、香城理
︵72︶ 野坂・前掲︵註58︶一〇六頁。また、蟻川恒正﹁日本国憲法における公と私の境界﹂法律時報八○巻六号︵二〇〇八年︶二七頁
論によると、﹁道路交通法の規制﹂も﹁付随的規制﹂と位置づけられていた。香城敏麿・前掲︵註54︶四七五頁︵発言︶。
︵73︶ 千葉勝美﹁判解﹂﹃最高裁判所判例解説 民事篇 平成四年度﹄︵法曹会、一九九五年︶二三三頁、二四二頁。
以下も、猿払判決を﹁使用者としての政府﹂に関する判決と読んでいる。
︵74︶ 民意四九巻三号六八七頁︵六九六∼六九八頁︶。この事件における不許可処分については、﹁本件集会が開かれることによって
459 (75−2−205>
説
払
漸瞬
前示のような暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生ずる明らかな差し迫った危険が予見される以上、本件会館の管理責任
を負う被上告人がそのような事態を醸避し、防止するための措置を採ることはやむを得ない﹂、と判断された︵六九九頁︶。
︵76︶ 千葉・前 掲 ︵ 註 7 3 ︶ 二 四 二 頁 。
︵75︶ 刑集六一巻六号六六二頁︵六七四∼六七五頁︶。
︵77︶ 伊藤正巳﹁憲法解釈と利益衡量論﹂ジュリスト六三八号︵一九七七年︶二〇一頁。
結論であるが、理由づけに遠慮が見られる。赤坂正浩﹁集会の自由とその限界﹂LS憲法研究会編﹃プロセス演習 憲法︹第3
類型の規制に適用されるのか必ずしも明確でないことを考慮に容れると、大きな問題であろう﹂としていた。芦部説からは当然の
︵85︶ 芦部・前掲︵註5︶四九二∼四九三頁は、﹁比較衡量論と厳格な基準とをつなぎ合わせる考え方が妥当か否かは、それがいかなる
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
量﹂という判断の仕方を採用した点がより璽要なのではなかろうか。
会の自由と他の基本的人権との衡量という定式を採用したこと﹂に見ていた。しかし、岡論文三三頁も言及する、﹁厳格な利益衡
之﹁最高裁判例理論の﹃新展開﹄P﹂法学セミナー五一〇号︵一九九七年︶三二頁は、泉佐野市民会館事件判決の新しさを、﹁集
〇七年︶三三∼三四頁。もっともこれが本来の市川説ということではないと思われる。市川・前掲︵註58︶三〇二頁。なお、塚田哲
︵84︶ 市川・前掲︵註58・法理︶三七二頁、同﹁自衛隊宿舎へのビラ戸別配布のための立入りと表現の自由﹂立命館法学三一一号︵二〇
法﹄︵有斐閣、二〇〇五年︶一七七頁以下など。
︵83︶ 代表的な文献として、芦部・前掲︵註69︶二〇八頁以下、佐藤幸治・前掲︵註11︶五一七頁以下、高橋和之﹃立憲主義と日本国憲
︵82︶ 香城・前掲︵研究会︶一七頁︵発言︶。
挙運動の自由と裁判所﹂島大法学二八巻一号︵一九八四年︶七五頁以下など。
をする傾向であることにつき、奥平康弘﹃なぜ﹁表現の自由﹂か﹄︵東京大学出版会、一九八八年︶一六三頁以下、松井幸夫﹁選
はない﹂と疑念を表していた。刑集三五巻五号五六八頁︵五七七頁︶。これに対してその後の下級審は、﹁合わせて一本﹂的な判断
意識しつつ、﹁戸別訪韓の禁止がただ一つの方法の禁止にすぎないからといって、これをたやすく合憲であるとすることは適切で
﹁人権に関する判例理論﹂︵一九九三年︶、現在、同・前掲︵註55︶二一頁以下。もっとも、伊藤裁判官は、﹁間接的・付随的規制﹂論を
︵81︶ 香城敏麿﹁︹研究会︺憲法裁判の客観性と創造性﹂ジュリスト八三五号︵一九八五年︶一〇頁以下、一四頁以下︵発言︶、同
︵80︶ 千葉・前 掲 ︵ 註 7 3 ︶ 二 三 三 頁 。
︵79︶ 伊藤正巳﹃裁判官と学者の問﹄︵有斐閣、一九九三年︶一四六頁以下に再録されているものが、一覧性があり便利である。
佐藤功、小林直樹と並んで伊藤正巳の利益衡量を批判的に分析している。
︵78︶ 伊藤・前掲二〇四頁、また、同﹃憲法︹第三版︶﹄︵弘文堂、一九九五年︶二一ご二頁以下。なお、浦部・前掲︵註63︶六頁以下は、
(75−2−206) 460
集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
版ご︵信山社、二〇〇七年︶二三四頁は、パブリック・フォーラム論に依拠した上で、﹁本件施設のような多目的の市民会館は﹃指
定的パブリック・フォーラム﹄に分類され、不許可処分の合憲性は、内容規制であれば﹃やむにやまれぬ政府利益﹄の審査、内容
中立的規制であれば﹃重大な政府利益﹄との実質的関連性の審査を受けるべきだ﹂という。
︵86︶ 門田孝・前掲︵註52︶三頁。ただしこの論稿自身が、最高裁の立場を本文のように評価しているのかは定かではない。
︵87︶ この事件の一審の広島地裁は、明らかにこの三段階審査の枠組みに従い、﹁集会の自由に対する制約が正当化される場合﹂に
義について、松本・前掲︵註61︶二〇三頁以下。
ついて論じている。刑集六︸巻六号六四五頁︵六五一頁︶。この立場は、高裁・最高裁においても同一と思われる。保護領域論の意
︵88︶ 前田巌・前 掲 ︵ 註 2 2 ︶ 八 七 頁 。
︵89︶ 千葉・前掲︵註77︶二四三頁。これに対して、長谷部・前掲︵註8︶二二五頁は、﹁暴力主義的破壊活動者の集会は、憲法の保護に
︵90︶ 芦部信喜・高橋和之補訂・前掲︵註13︶一七七頁以下、一八三頁、同・前掲︵註65︶二〇一頁以下、同・前掲︵註5︶四一〇頁以下な
値しないとの前提に基づくものと考えられるしとして、保護領域該当性審査の段階でけりがつけられたと読む。
︵91︶ 高橋和之・前掲︵註83︶一八一頁。ニュアンスは異なるが、松井茂記・前掲︵註!!>四四六頁。
ど。また、伊藤・前掲︵註78︶三〇七頁は、わいせつな表現などは﹁保障の程度が低い﹂とする。
︵93︶ 刑佳木六一巻六口写六〇一百八︵六一三∼六一九百八︶。
︵92︶ 高橋∵前掲一八二頁。また、宍戸常寿﹁憲法上の保護の範囲・程度﹂法学セミナー六四二号︵二〇〇八年︶六七∼六八頁。
︵94︶ 渋谷・前掲︵註52︶一八四頁以下は、田原裁判官による規制対象行為の捉え方を、﹁もっとも正確﹂だと評している。また、橋本
基弘﹁集会規制における内容中立性の諸問題﹂申央ロー・ジャーナル三巻三号︵二〇〇六年︶七五頁以下も、服装の自由に対する
︵95︶ さしあたり、宍戸常寿﹁自由と法律﹂法学セミナー六書一号︵二〇〇八年︶七一頁以下、渋谷・前掲一八五頁など。
規制について論じている。
︵96︶ 橋本・前掲︵註94︶七三頁、田中祥貴・前掲︵註52︶一八頁など。
︵97︶ 石高健治﹁自分のことは自分で決める﹂樋口陽︸編﹃ホーンブック憲法︹改訂版︺﹄︵北樹出版、二〇〇〇年︶︸七二頁以下、
同﹁法制度の本質と比例原則の適用﹂LS憲法研究会編・前掲︵註85︶二七三頁以下、松本・前掲︵註61︶二六〇頁以下、宍戸常寿﹁目
的・手段審査﹂法学セミナー六四四号︵二〇〇八年︶八四頁以下など。その他、西村枝美﹁法令審査における厳格さ﹂安藤高行・大
隈義和編﹃手島孝先生古稀祝賀論集・新世紀の公法学﹄︵法律文化社、二〇〇三年︶一九五頁以下、日笠完治﹁人権の制約基準﹂杉
︵98︶ 橋本・前掲︵註94︶八○頁。沖縄市暴走族追放条例を中心とした研究として、伸事書﹁﹃暴走族﹄・﹃期待族﹄規制条例について﹂
原泰雄編﹃新版 体系憲法事典﹄︵青林書院、二〇〇八年︶四 八頁以下なども同趣旨。
461 (75−2−207)
琉大法学六九号︵二〇〇三年︶七三頁以下。広島市の条例についても、同論文八六頁で雷及されている。
︵99︶ 門田孝・前掲︵註52︶三頁。なお、この見解は目的審査を重視する立場からのものである。同﹁違憲審査における﹃目的審査﹄
︵GOl︶ 石川・前 掲 ︵ 註 9 7 ・ 法 制 度 ︶ 二 九 五 頁 。
の検討︵一︶︵二・完ご広島法学三一三二号︵二〇〇七年目一四五頁以下、四号︵二〇〇八年︶一九一頁以下。
八 結 び に 代 え て
漠然とした過剰禁止の要請を意味するにとどまるならぼ、それは二重の基準論以前の比較衡量論への先祖返りになって
という、最近の憲法学における傾向は、重要な試みだと思われる。しかし、そのような試みにおいては、﹁比例原則が
ことは、もう少し別の側面である。基本権制約の正当化に関する審査を比例原則の考え方を基礎に据えて再構成しよう
言の広汎性もいっそう明確にできる場合が少なくない﹂、ということもできるであろう。しかしここで述べておきたい
れぽ、むしろ一般的に受け入れられている。また第二に、﹁規制対象行為と規制目的を確定することによって、規制文
ハゆ う点に着目したものであったが、制約される権利の性質により﹁明確性し審査の厳格度が変わりうるという考え方であ
﹁過度の広汎性﹂審査の厳格度が変化するということはありうる。そこで紹介した見解は行動を伴う表現かどうかとい
両者は完全に分離されるわけではない。第一に、五3ωで言及したように、制約される権利の性質により﹁明確性﹂や
り﹁文面審査﹂されるのに対し、表現や集会の規制は実質に関わり﹁事実審査しされる、と整理されてきた。しかし、
ついて、多面的に論じてきた。﹁明確性の理論﹂や﹁過度の広汎性の理論しは、基本的には形式に関わることがもであ
本稿では、広島市暴走族追放条例事件最高裁判決を機縁として、人権論や違憲審査の手法における基礎的な諸問題に
論説
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集会の自由の制約と合憲限定解釈(渡辺)
︵鶏︶
しまう﹂、ことにも注意しなけれぼならない。目的・手段審査を基礎とする比例原則論は、そのことに配慮したもので
はある。しかし、その第三要素に﹁利益の均衡性﹂、あるいは﹁狭義の比例性﹂が挙げられることから、個別的利益衡
︵姻︶
量となってしまうのではないか、という懸念は残る。そのことを考慮して、ドイツ憲法学においても、﹁利益の均衡性﹂
﹁狭義の比例性﹂を図る任務は連邦憲法裁判所ではなく立法者に求めようとするシュリンクの立場と、連邦憲法裁判所
による衡量判断を正面から認めた上で、それを合理化していこうとするアレクシーなどの立場が対立している。ドイツ
︵門301︶
流の比例原則を土台に据えるとしても、いずれの方向性を採用するかによりかなり様相は異なる。しかしいずれを選択
︵鵬﹀
するにしても、均衡性判断を補充するものとして、﹁規範の明確性﹂や﹁過度の広汎性﹂といった﹁形式的﹂な審査を
再評価するという指向性は重要である。広島市暴走族追放条例事件は、このことを再確認させるものでもあった。
︵201︶ 門田孝・前掲︵註52︶三頁。学説では、一方面、﹁過度の広汎性と漠然性﹂の問題は、﹁実は立法目的との関連性と手段の妥当性
︵1⑪1︶ 例えば、藤井・前掲︵註10・司法権︶二三六∼二三七頁。その他、註11に挙げた諸文献などを参照。
の申に解消される﹂という見解がある。渋谷・前掲︵註52︶一八九頁。他方では、陶過度の広範性の理論﹄によって文面上無効とさ
れるのは、単なる広範な規制ではなく、﹃立法事実﹄の存在についての複雑な吟味を経るまでもなく法律の規定から一見して広範
頁。本文で紹介した指摘は、両説の中間に位置づけられよう。
な規制であることがわかるような、まさしく過度に広範な規制の場合である﹂という見解もある。浦部・前掲︵註23︶九九∼一〇〇
︵301︶ 宍戸・前掲︵註97︶八六頁。
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︵4⑪1︶ 最高裁の基本的態度は、﹁基準を定立して自縄自縛に陥ることを忌避するしもののようである。千葉・前掲︵註73︶二四二頁、前
田厳・前掲︵註22︶八七頁。比例原則の﹁柔軟性しは、この立場と親和的ではある。
uりOl︶ 簡潔には、宍戸・前掲87頁以下、詳しくは、渡辺康行﹁﹃憲法﹄と﹃憲法理論廓の対話︵六︶﹂国家学会雑誌=四巻九・一〇号
︵601︶ 小山剛﹁自由・テロ・安全﹂大沢・小山[編]﹃市民生活の自由と安全﹄︵成文堂、二〇〇六年︶三三一頁以下、西原博史﹁リス
念・日独憲法学の創造力﹄︵信山社、二〇〇三年︶一五頁以下。
︵二〇〇一年︶二六頁以下、同﹁憲法学における﹃ルール﹄と﹃原理﹄区分論の意義﹂樋ロ・上村・戸波編﹃栗城壽夫先生古稀記
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