住宅近代化への歩みと日本建築協会

 日本建築協会創立70周年記念出版
『住宅近代化への歩みと日本建築協会』
㈹日本建築協会(1988年5月12日発行)
り、これらを見直し伝えることの意
曳
義を考えてのことであったと、本文
儀評認鶏
㍉・
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財
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態ゴ
懸
献の「序」に記されている。
本文献は、「大正期の住宅改良問
題と『住宅改造博:覧会』への動き」(石
川康介)、「『住宅改造博:覧会』(箕面・
桜ヶ丘)と、その成果」(吉田高子)、
「『住宅改造博覧会』と、その周辺」
写真1
日本建築協会創立70周年記念出版
の3章から構成されるが、圧巻は附
「住宅近代化への歩みと日本建築協会』
章の「復刻版『住宅改造博覧会出品
発行:社団法人 日本建築協会
印刷:青葉印刷株式会社
仕様:A5判 本文174頁
発行日11988年5月12日
住宅図集』」という、協会から出版
された全出品作品の解説書。私が本
㌃集
住宅展委員会
、
企画・編集1日本建築協会創立70周年記念
文献をまず買おうと思ったのは、こ
童
の貴重な平戸の完全復刻版が収めら
れていたからである。
文献について
えば、わかりやすいか。
本づくりとしては、創立70周年に
大正デモクラシーの波に乗って、
本文献は、この日本建築協会が、
際して協会手持ちの資料を急いでま
日本の住宅が大きく変わろうとして
関東の建築系団体と競い合うように
とめてしまったという感は否めない
いた時代の雰囲気をかなりダイレク
実現した、大正ll年の住宅改造博:覧
が、住宅改造博覧会・桜ヶ丘住宅地
トに伝えてくれる文献である。しか
会と、そこに展示された25棟がその
に関わりのある、ありとあらゆる資
も豊富に、写真、図面、パースが掲
まま住宅として販売された住宅群を
料を惜し気もなく網羅した資料集と
載されていて、いくら社団法人の記
中心にできた桜ヶ丘住宅地(大阪府
しては、大変貴重である。なお、同
念出版物とはいえ、これで1,500円
箕面市桜ヶ丘地区)にまつわる貴重
協会では、本文献の出版と併せて住
は安い。タイトルから類推されるよ
な復刻資料と住宅地の調査結果を、
宅改造博覧会の展示会を行うことも
うな、㈹日本建築協会の70年の歩み
同協会創立70周年を機に編集したも
企画され、『大正「住宅改造博覧会」
そのものをまとめたものではない。
のである。
の夢三一箕面・桜ヶ丘をめぐって』
日本建築協会は、後に述べるように
この70周年記念事業において、住
と題してINAXギャラリーで実施さ
関西に拠点を持つ建築関係者有志の
宅改造博覧会にターゲットが絞られ
れ、同表題の冊子も別途発行されて
会として、関東に拠点を持つ建築学
たのは、協会に同点:覧会に関する記
いる個)。
会に、あたかも対抗するような形で
録がかなりあることに加えて、この
設立され、名付けられた団体であり、
博覧会に出品された主要な作品が同
片岡安と日本建築協会
現在もその活動を継続している。『建
協会主催のコンペ当選作品であった
日本建築協会の生みの親は、片岡
築と社会』という、社会派の建築系
こと、さらに1987年当時、実際に建
安という建築家であった。彼は明治
雑誌を長らく発行している団体とい
設された住宅の多くが現存してお
30年に東大を卒業し、明治38年に大
家とまちなみ54〈2006.9>
61
蹴したい気分に駆られはじめ、自由
主義・民主主義の拡大に貢献してい
った。一方で、第一次大戦のさなか、
大正6年に起こったロシア革命の気
分は、日本の中流層以下の人々の気
分に通じていた。すでに明治末期か
ら起きつつあった労働争議は大正時
代に全盛を向かえ、大正7年には近
代労働者だけではなく、一般大衆を
巻き込むかたちで米騒動が起こっ
た。これを受けて、政府などは地方
公共団体がつくる公営住宅を後押し
写真2 会場全景模型写真(1988年3月、INAXギャラリー大阪特別企画「大正『住宅改造博覧会』
の夢」展において製作)
したり、住宅組合法を制定したりす
るようになった。つまり、住宅政策
阪で「辰野片岡建築事務所」を開設
ての性格を強めた。建築学会がどち
らしきものが生まれはじめたのであ
している(・2)。この「辰野」というの
らかといえば東大を中心とする官・
る。中流層の革新的な気分と、一般
はもちろん、明治の建築界のドンで
学組織であるのに対し、民・実学と
大衆を含めた世直し的な気分。これ
あった東大教授、辰野金吾のことで
の連携を重:視したのが日本建築協会
らが結合することによって、大正デ
ある。彼と名を連ねた建築事務所を
といえよう。また、この組織の機関
モクラシーな気分が高揚したといえ
開設しているということだけでも、
誌も『関西建築協会誌』から大正9
よう。
片岡のさまざまな能力を証明してい
年に『建築と社会』と名称変更され、
この大正デモクラシー的気分は、
る。片岡は、建築家としてばかりで
より、「社会」との接点を意識する
住宅供給の場面においても、いくつ
はなく都市計画論者としても有名で
ようになったといえる。
かの発露が見られた。「あめりか屋」
あった。とくに大正5年に発行した
を起こした橋ロ信助が、アメリカか
『現代都市之研究』は、日本の都市
住宅改造博覧会前夜
らの輸入組立住宅を手がけるように
計画専門書としてほぼ最初のもので
住宅改造博覧会の背景を知るため
なったのが明治42年。大正5年には
あり、大正8年に制定された市街地
には、やはり大正デモクラシーを復
「住宅改良会」を組織し、機関誌『住
建築物法・都市計画法の成立に当た
習しておかなければならないだろ
宅』の発行を始めた。この機関誌で
っては、関西方面から精力的に働き
う。第一次世界大戦は大正3年に始
は、建築界の有識者が、中流層に向
かけた立役者の一人でもあった。
まり大正8年に終結した。日本とは
かって次々と日本の住宅の改良を薦
このような片岡であったので、関
直接関係なかったとはいえ、多様な
めていた。また、数々の住宅コンペ
西の建築家団体設立の中心人物とも
側面から日本の変革をさまざまに後
を催し、「住宅改良」という概念を
なった。大正6年、「関西建築協会」
押ししたのがこの出来事であったと
ビジュアルに読者に伝えることに成
が関西の建築家の団結を図る目的で
思える。この対岸の火事により日本
功し、コンペという変革の手段を世
結成された。もちろん、ただの親睦
では戦時好景気がおとずれ、世界市
の中に普及させた。こうした「民」
組織というよりは、東京主導の諸法
場においても有利な条件が生まれ、
からの変革の一方で、「官」のほう
制定の動きを牽制するため、という
資本の蓄積が進んだ。それらが、新
では、文部省が大正8年「生活改善
意図も大きかったに違いない。さら
しいライフスタイルを追及する中流
展覧会」を主催した。そこでは、東
に大正8年には、名称を「日本建築
層を生み出す原動力をつくったとい
大教授、佐野利器を中心として社会
協会」と変え、東京における建築学
える。すなわち、新しい金持ち層が、
の底辺の住宅問題、すなわち不良住
会に対抗し、一線を画する団体とし
江戸明治から続く伝統的価値観を一
宅地区の改良手法としての規格住宅
62
P家とまちなみ54<200ag>
などが提案された。これを受け、展
いう言葉の採用には、大正8年発刊
43年に開業した箕面有馬電鉄(現:
覧会主要メンバーを中心に「生活改
の進歩的雑誌『改造』(改造社刊)
阪急電鉄)が初めて住宅地の販売を
善同盟会」が結成され、住宅改善調
のもつイメージを重ね合わせていた
始めた池田室町住宅地に次ぐ、沿線
査委員会が大正9年に発足し、各種
に違いなく、実際に直接的に手を下
住宅開発地であり、大正11年にはす
住宅の改善の要点が、次々に指導的
して変革を導く、極めてダイナミッ
でに市街地と呼んでよい状況であっ
立場から発表された。また、同じ大
クでストレートな語感をもつ「改造」
たらしい。
正9年には、森本幸吉・吉野作造と
という言葉が、直戴的なネーミング
このように、住宅改造博は当初、
いった文化人を中心に、「文化生活
を好む関西文化に積極的に受け入れ
天王寺公園で開催される予定が、東
研究会」という団体が、生活の「文
られたに違いない。
京の建築学会から茶々が入り、仕方
化」化を目指して結成され、大正14
大正10年2月には「住宅改造博:覧
なく会期先延ばしと会場変更を行っ
年にはそれを御茶ノ水文化アパート
会準備委員会」が組織され、この時
たものであり、建築学会に一歩譲ら
メントという実物の米式アパートメ
点ですでに「住宅改造博:覧会」とい
されたかたちとなってはいるが、会
ント建設でアピールした。
うタイトルが決定していたことがわ
場を桜ヶ丘に変更したことにより、
このように、大正デモクラシーの
かる。このときには、博覧会は大正
ただの実物展示にとどまらず、実物
中で、それぞれ「改良」「改善」「文
11年3月から、天王寺公園で始める
を土地建物ともに売却し、町を丸ご
化の普及」といったキーワードを持
予定であったようだ(本文献p.40)。
と売って人を住まわせてしまうとい
った団体が、東京を中心に活動を始
ところが、上野で行われる平和博で
う、ある意味で大変関西らしい解決
めていたのであった。こうした動き
も住宅実物展示をするとの意向が建:
方法を導いている。このことについ
の、いわば一つの総決算が、第一次
築学会から示され、改造博の会期は
て、西山夘三は、「東京の文化村は
大戦の終結を記念して、大正11年3
延長され大正11年9月となり、会場
公園をつかったので、博覧会終了後
月から7月にかけて、上野公園で開
も大阪府豊能郡箕面村の桜ヶ丘とな
撤去されたが、そのまま居住者に売
催された「平和記念東京博覧会」で
った。この博:覧会場敷地を開発・提
りつけるというのも関西流である」
展示された、全14棟の住宅、「文化村」
供したのは田村眞策が経営する田村
(・3)と感想を述べている。
であった。ここには、前出のあめり
地所というところで、博:覧会敷地は
か屋、生活改善同盟会のほか、建築
そこからの借地であった。この新開
三回のコンペ
施工会社を中心にそれぞれ自慢の実
地である桜ヶ丘の隣には、すでに明
上記のような会期・会場を巡る変
物住宅が出品された。「文化村」は、
治44年から分譲され始めた櫻井住宅
更があった一方で、実際にどのよう
当初博覧会の計画には入っていなか
という中流層向けの住宅地が開発さ
な「改造住宅」を展示するかについ
ったが、建築学会からの強い要請を
れていた。この櫻井住宅地は、明治
ても、策が練られていた。『建築と
受けて実現したものだった。
難議雛雛
熱難灘課
識音
住宅改造博覧会の初動
一方で、関西の日本建築協会では、
「住宅改造」という合言葉のもとに、
もう一つの博:覧会の動きが本格化し
っっあった。「改良」でも「改善」
でもなく、「文化」という言葉すら
避け、あえて生々しい響きのある「改
造」を採用しているところが、独自
路線を貫く日本建築協会の姿勢を表
現している。きっとこの「改造」と
灘縫
ロ
図1 改良住宅設計第二等当選図案(設計:早良俊夫)初出:『建築と社会』第4輯4号(1922)
家とまちなみ54〈2006.9>
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三、家族=主人、主婦、老人一、子供二、
女中一、計六人
四、敷地=(イ)敷地は前面のみ道路(幅
員4間)に面し間ロ5間以下とす(ロ)
敷地面積50坪
囲鵬.
〆蕊
燈
調嘱=
五、建物=(イ)二階建(ロ)延坪35坪
以内
六、建築費=約6千円(門培庭園費を含
まず)当選図案は実物建設の予定なる
を以て経費増大の見込あるものは入
漏せず
七、構造及様式=前各項の範囲内に於て
自由とす
このコンペの締切りは大正10年8
【≧
月いっぱい。『建築と社会』9月号
に当選案の発表が行われた。応募総
醗、
数118通、第1等から第5等第3席
し
までの10作品が当選し、このうち4
作品を基にした住宅が実際に、日本
畿蕪病識1壌ンン難 陸.
建築協会出品作品となったのであ
“1
顯民・耐
る。この第1回目のコンペに続き、
第2回目のコンペが「改良四戸建長
屋二階建一棟」をテーマに大正10年
.胃
i︸
量1
難
ll月締切りで行われ、第3回目が「郊
圏噂
外一・戸建住宅」をテーマに大正11年
2月締切りで行われた。2回目のコ
騨’囲
幽
ンペの結果は本文献には明らかでは
ないが、3回目のコンペ結果は、応
mし
募総数124通、第1等から第6等第
___
図2 「日本住宅協会出品住宅 第三号」 初出:『建築と社会』第5輯9号(1922)
3席までの10作品が当選した。結果
からいうと、第1回目の4作品と、
社会』を通じて、コンペの形式で「改
ングであった。「改造住宅」ではな
第3回目の4作品の合計8作品が、
造住宅」を募集するというものであ
んだか既存の住宅を増改築したもの
実際に博覧会に展示された。おそら
った。日本建築協会ではすでに、大
のような語感があるからだろう。さ
く第2回の長屋は、上述した、会期
正9年に大阪住宅経営株式会社主催
て、コンペ応募の条件としては、「当
や会場の変更にともなう諸条件の変
の「改良住宅設計懸賞募集」で連続
選及選外優秀図案は大正11年9月開
更のために、利用されなかったので
四戸建という極めてリアルな条件の
催の予定なる本協会主催の住宅改造
はないかと推測できる。
コンペに協力した経験があったの
博覧会にこれを陳列す尚其数案に
で、博覧会もコンペで、という流れ
基づき建築の実施又は模型の作成を
出品作品について
は自然であったといえよう。
為すことあるべし」とされ、これが
出品された25戸のうち、主催者で
こうして、『建築と社会』大正10
いわゆる「実施コンペ」であること
ある日本住宅協会側からは上記のコ
年6月号には、「改良住宅設計図案
が明記されている。具体的な設計条
ンペ入選作8作品を基にした住宅が
懸賞募集」の記事が載った。ただ、
件としては、以下が示された。
出品された、他の17戸は、竹中工務
さすがに募集したのは「改造住宅」
一、種類=市街地に於ける一戸建住家
二、制限:市街地建築物法の制限に適合
するものたるべし
店(2戸)、大林組(2戸)、大阪橋
ではなく「改良住宅」というネーミ
64
i家とまちなみ54〈2006.9>
本組、鴻池組、銭高組、清水組大阪
の郊外洋風戸建住宅をつくってみま
した1 といわんばかりの屈託のな
さ。まさに理想的な青年建築家の姿
である。
こうした雰囲気の大正デモクラシ
ー青年たちが設計した、夢のすまい
群、桜ヶ丘住宅地は、昨年8月、箕
面市から景観法にもとつく都市景観
形成地区に指定された。おそらく、
この住宅地を愛し続けた居住者た
ち、そして、協会70周年を記念して
昭和63年に編まれた本文献や展覧
会、そこにかかわった研究者や建築
関係者の努力が、大正デモクラシー
のまちなみを、地域で守るべき宝物と
写真2 筆者が撮影した「出品住宅 第三号」の現在のすがた
認識させた結果であったのだろう。
支店、横田組といった関西系を中心
して募集した「改造」住宅を一番条
とした建設会社計から計9戸と、片
件のよいところに並べるところに、
岡建築事務所(2戸)、田村地所部、
この博覧会の主たる意図があったこ
大阪住宅経営株式会社、葛野建築事
とが読み取れる。
務所、横河時介、あめりか屋、眞水
じつは私は、昨年暮れに初めて現
三橋建築事務所といった、協会に関
地を訪れたのだが、7、8棟ほど、
連の深い個人・団体から8戸という
当初の建物だと思われる作品を確認
構成であった。このなかで、銭高組
した。その中でも、第3回コンペ第
とあめりか屋の2社が東京の文化村
2等案で、協会出品作第3号の住宅
にも住宅を出品していた。
が、中央の通りに面して今もなお、
博:覧会場は、会場中央を南北に走
郊外の洋風一戸建住宅にコンパクト
る幹線道路によって、東西に二分さ
に住むという理想を可愛らしい外観
れる。西側には、種々の品々を展示
で表現し続けていることが、ひとき
する本館をはじめ、音楽堂や活動写
わ印象的であった。私がこの作品を
真館、休憩所などが西洋式庭園の中
気に入ったもう一つ理由は、コンペ
に並び、実物作品は、東側の同心円
当選案の紹介ページ(本文献p.35)
変形街路によって敷地割された、
に載っている設計者、早良俊夫君の
100坪程度の敷地に建設された。こ
ポートレイトである。長髪に丸眼鏡、
こで面白いのは、協会の作品の全て
蝶ネクタイ姿でおそらく製図版に両
が中央の南北の通りに沿った敷地
肘をついて、ニッコリポーズ。他の
と、会場北部の東西道路に沿って南
当選者のポートレイトがひたすら緊
面した敷地に建設されたことであ
張しているのに対して、この緊張感
る。これらの敷地は、博覧会エリア
のなさというかリラックスさ加減
の中でも比較的条件のよい場所であ
が、いかにも作風とマッチしている
アジアのスラムのまちづくりなどを中心
ることには間違いない。コンペを通
のである。いかにも楽しそうに理想
勉強している
琳1「大正「住宅改造博覧会」の夢同一箕面・
桜ヶ丘をめぐって』INAX1988年
*2吉田高子r箕面櫻ヶ丘/箕面一住宅改造
博:覧会が創った町と家」片木篤+藤
谷陽悦+角野幸博:『近代日本の郊外
住宅地』鹿島出版会2000年
*3西山夘三『日本のすまい(弐)』勤草書
房1976年目.71
大月敏雄(おおつき としお)
東京理科大学工学部建築学科・助教授。
1967年福岡県八女市生まれ。東京大学大
学院博士課程終了後、横浜国立大学助手を
経て現職。同日会アパートの住みこなしや、
に、住宅地の生成過程と運営過程について
家とまちな繊ooag> P65