GKH019609

11
7
伊沢修二の漢語研究 (
上)
栄
目
鵬
吹
三.東亜文化統合活動 と日中教育交渉の接点
一.漢語研究へのプロローグ
1.「
字音仮名遺 ・棒引仮名遺」問題
1.漢語 との出会い
2.『日清字音鑑』の誕生 とその特色
3.『日清字音鑑』 と国語改革論争
二.台湾にたいする文化統合理念及び植民地
教育の展開
1.植民地文化統合理念の初説
2.学務郡長時代に展開した言語事情の特徴
3.伊沢の対中国文化統合理念の形成
-「
台湾人」内国民化の基本的論拠を通
2.泰東同文局 と漢字統一会について
3.「
視話官話韻鏡」の誕生 と王照の 「
官
話合成字母」
4.厳修 との交友関係及び 「
東亜普通読
本」の特徴
四.むすびに
じて (
以上,本号に収載。以下,次号)
、
い
伊沢修 二 にとって,視話法 による漢語研 究 は, どち らか と言 えば二次 的 な仕 事,いわゆる
「
余業 」 (
『
績対支 回顧 録』下巻)で あった と言 え よう。 しか し, 自伝 『
楽石 臼伝教 界周遊前
(
2
)
記』 には,そ こに 自記 している 4種類 9部の著述 のなか に,教育 ・進化論 ・音楽 と並 んで,請
学が含 まれてお り,伊沢が語学 に一定の ウエ イ トを置 くとともに,その研究 に自負 さえ持 って
いた様子が窺 える。 また,1
91
9(
大正 8)年伊沢記念事業会編纂 の伝記 『
楽石伊揮修二先生』
支那語音研 究 一新領土視 劇 に特 にペ ージを割 いて,伊沢 の漢語研 究 の 「
新領
にあって も,「
地」台湾統治 における有用性 を説明 している。
信濃教育会編纂の伊沢修二年蓑)
を辿 ってみ ると,伊沢は,1
8
95 (
明治2
8)年最初の語学著書
として
,『日清字音鑑』
を世 に出 し,それを一つの契機 として,教 育 の部面 か ら台湾 を統治す
(
5
)
る立場 に立 ったことがわかる。それい らい,政治の表舞台で活躍 しなが ら,1
91
7(
大正 6)午
4月 『視話応用支那語正音法』の出版 まで,伊沢 は生涯,漢語 との関係 を保 ち続けた。
近年,植民地史や国語成立史 などの分野か ら,彼 の言語 ナシ ョナ リズム観が アプローチ され
(
6
)
けが注 目されている。そ して, この方面の先行研究で
るようになった。 なかんず く明治以降,国語 の成立 に相伴 って,植民地支配及 び国民 の文化統
合過程 における伊沢の役割 とその位置づ
は,明治 日本の言語 ・教育 といわゆる 日本的近代 国家 との関係 において,伊沢の漢語研究 をど
の ように捉 え,それ を上述 した対外関係 と文化統合過程 に, どう逆投影すべ きかが問われつつ
ある。
伊沢修 二の漢語研 究 とい うテーマ については, これ まで に も関連す る先行研 究の蓄積 があ
る。後述の如 く,本稿 ではそれ らを踏 まえなが ら論 を展 開 してい くつ もりであるが, これ を明
治期 における日本 と対 中国文化交渉 とい うやや巨視 的な視座 で捉 えるばあい,単 なる言語学的
なアプローチに とどまるべ きではな く,更 に広範 囲で伊沢の行動範噂 を設定 し,その言語的活
11
8
天 理 大 学 学 報
動の意義 を考 える必要がある。ただ し,ここではあ くまで も関連資料の整理 と一応の見通 しを
立てることに主眼 をお き,その本格的な位置づけについては別満 にゆず りたい。
」
二・台湾 にたいする文化競合理念及 び植民地教育の
以下 「
一・漢語研究-のプロローグ 「
」「三
展開
東亜文化統合活動 と日中教育交渉の接点」 とい う三幸 による構成は,伊沢修二の
漢語学習,台湾総督府民政局学務部長-の就任,及び帰国後の文化活動 を概観するために便宜
的に設定 したものである。
-.漢語研 究へ のプ ロロー グ
1.漢語 との出会い
明治期 日本社会 に数多 く創出 された変革運動のエ リー ト達の出身 と同 じく,伊沢修二 もまた
,「脱藩出郷の有志劇
下層武士の家 に生 まれ
として,富国強兵 と高唱 される競争化社会の江
戸へ出向いた一人であった。かつ また,幕末に育てられた他のエ リー トと同様 に,彼 も藩校で
の漢学教育 によって学問の基礎 を築いた人物であった。
(
8
)
その伊沢が初めて 「
漢語」 と出会 ったのは,生 まれ育った故郷高遠藩の藩校 「
進徳館」主中
村元起 (
黒水 ・1
8
2
0-1
8
8
4)の指導 を受 けたころであった といわれ る。その ことは,6
6歳の
時, 自著 『
支那語正音発微』 を刊行 した二 ケ月後の1
91
6(
大正 5)年元旦,黒水先師の子息
1
8
5
4-1
9
2
9)宛ての年賀状か ら,その師弟関係 を
で, また同門竹馬の友で
もあった中村弥六 (
(
9
)
明かに知ることがで きる。
「
賀正
老生儀,近数年間支那語の研究に従事 し,其結果 として,支那語正音発徴完成致 し候 是
(
?
)
全 く幼時黒水先生に就 き,其素養 を得 たるに職由する事 と存 じ候 叢 に該当読告紙片 を具
し,新年の尖辞 に代へ,先生の霊 に告け奉慎也。
一月一 日
伊沢修二
(
1
0
)
中郡弥大殿」
91
5(
大正 4)年 1
0月に発行 された。伊沢が晩年 「
大陸への
『
支那語正音蔑微』の初版は,1
最後の夢 を託 しX
i
'
J といわれる語学業績 を集大成 した ものであるが,幼年のころ,黒水師か ら
得 た漢学の素養は,結局 自身は勿論, さらには 日本 に大 きく貢献で きたとの感慨が込められて
いる。「
先生の霊 に告け」る もの としては,数行の文字 しか記 されていない とは言 え,その関
係 と伊沢の気持ちを充分 に表わ した もの と理解で きるだろう。
ここで,師中村元起の学問系統 について少々言及 してお きたい。現在の長野県における近世
学問の源流は,南部にある上伊那の高遠薄がその一つだと見 なされてお り,高遠藩儒学 は創始
者の阪本天山 (
1
7
45-1
8
0
3) にまで さかのぼるといわれる。天山は江戸 中 ・後期の砲術家 とし
て傑 出 した人物であるが,彼の学問の もう一つの特徴 は,荻生狙裸,太宰春台の主張 に影響 を
受け,当時にあっては極めてめず らしく漢籍の唐音直諾'
を重ん じていたといわれる点 にある。
1
8
01 (
享和元)年長崎 に滞在 していた とき,唐通事 について学 び,晩年 にかえ り点な しで儒教
の経典 を唐音で読み下す ように修練 した。つ まり,それは ト 読直劇
を期 した学問の作法で
あった。その著作 とされる孝経 ・尚書 ・周易 ・毛詩 ・礼記 ・春秋 ・論語の音釈書は今 日で も高
遠町の図書館 に残 されている。 こうした 「
経書の章句や末節 にとらわれず に直読直解,古聖賢
に直接す凱 学風は,その後弟子の中村元恒 に伝 わ り, さらに中村元起 にいたって実学の学修
11
9
伊沢修二の漢語研究 (
上)
を中心 とした藩校進徳館 (
1
8
6
0年)が創立 された ことによって開花 した。
か くして,阪本天山⇒ 中村元恒⇒ 中村元起 とい う学統 歯 か描 かれるが,藩校進徳館か ら林業
学者の中村弥六 を含めて,明治国家 にとって,有能 な人材 を輩 出 したのである。 中村元起の入
2・1
3歳 ころには既 に四書五経 の素読 と講義 を終 え,和漢の
門弟子 の一人で もあった伊沢は,1
歴史書や 「
唐宋八家文」の無点本 を読み,優れた成績 を修 めていた。後 に進徳館 寮長 とな り,
とりわけ素読案内の句読路盲 も兼ねた。伊沢は この時期の 自らの勉学生活 を,以下の ように述
懐 している。
「
余 は六七歳の頃か ら謹書及習字 を外祖父内田文右衛 門に学 び,年齢稚長ずるに及 びて藩
学進徳館 に入 り,漢学 を中村黒水,海野喜左衛 門に受 け,撃剣 を大矢貫治 に学 んだ,而 し
て昔時算数の学 をば士人 これ を卑 しみ,藩学では これ を学科 に入れなか ったか ら して,私
(
ママ)
に憎了寛 に就 いて これ を学 んだ。在学 中の成績 は常 に良好 であ って,十二三歳 の時既 に
四書五経の素請及講義 を了 り,それ よ り和漢の歴史唐宋八大家文の無鮎謹詞 を為 し,飴暇
には詩 を作 り文 を属 し,又和歌俳語の道 に も心 を寄せ た。常 に年歯 の 自分 よ り長ず る もの
を友 とし,彼等 と競争 して抜群の馨 を博 し,青年の頃 には藩学 々生 中に俊秀の聞えが有 っ
(
l
&
)
て,挙 げ られて寮長 となった」
こう して,天山か ら伝 え られて きた句読 ・字音 を重 ん じる教 え方 と,伊沢 自身の体験が,徳
年の,彼 の漢語の発音 に対する極 めて強い関心 と情熱 を燃やす もととなった,最 も基本 的な原
,「今 日の小
9
01(
明治3
4)午,帝 国教育会の講演 において
点がそ こにあ った と考 え られ る。1
学では昔吾 々がやったや うな四書五経 の素読 と云ふ ものはや らぬか ら初めか ら片仮名 と漢字 と
コテ /\ やって行 くか ら頭の中が混乱 して仕舞って居 る。漢字 を教へ るには漢字の訓話 の法が
ある。能 く道理ある分類でやったな らば決 してこんな無法 な間違は出来 まい と思 ひまする。失
張初学の者 に文字 を教へ るにも多少文書 に基づいて さう して系統か ら正 して総 ての組立 と云ふ
(
1
9
)
もの を教へければ行 けぬ」 と,明治小学校 の教育 における漢字の訓話 にかんす る系統 的教科書
,「四書五経 の素読」 とい
の重要性 を唱導 しなが ら,同時 にそれ は, 自分が少年時代 に受 けた
う訓練法の良 さを誇示 した ことをも意味 してい よう。
2.『日清字音鑑』の誕生 とその特色
0歳 を過 ぎてか らであった とい う。 きっかけ
伊沢修二が,本格 的に漢語の研究 を始めたのは4
0年代 の国際関係 と国内政治の指向 と深 くかかわる ものであるが,その ときの勉 強ぶ
は,明治2
りについて,弟の多喜男が次の ように紹介 している。
「
精力絶倫の兄は,殆 ど三l
四時 間 しか睡眠 を摂 らず,次か ら次へ と前人未到の境地 を切 り
拓 いて行 った。例へば四十 を過 ぎてか ら,支那語 を研究 し出 したが,夜,十時頃か ら支那
T〕
人の家 に習 ひに行 き,二時頃帰 って来 るといふ有様 だっf
L
8
51(
嘉永 4)年の生 まれ とされているので,研究開始の時期 を推算すれば,お よそ
伊沢は1
1
8
9
0(
明治2
3
)年か91(
明治2
4)年前後 に考 え られ る。そ して,大変 な努力の結果,4年後 に
『日清字音鑑』 を世 に出 したのである。
1
8
9
0年 は,伊沢 自身に とっては実 に多忙 な年であった。1
8
81(
明治1
4)年文部省 に入省 して
1
20
天 理 大 学 学 報
いらい,調査長 ・請願取調べ係,編輯局次長 ・編集局長 などの官途にあって,教育官僚 として
様 々な事業 に取 り組んだ。 なかで も最 も知 られているのが,彼 の主宰 した最初の国定教科書の
89
0年 6月,編輯局の廃止 にともなって余儀 な く解任 されたが,ほぼ同 じ時期
編纂であった。1
に東京市会議貞 とな り, さらにその年に国家教育社 を創立 し,続いて機関雑誌 『国家教育』の
,『教育
創刊や,その他の政治活動 に も没頭 した時期であ ったoここで特 に注 目すべ きことは
勅語』の発布 と・帝国議会の開会を迎 えた日本政治の一大転換期 に生 きた彼が,精力的に, し
か も比較的短期間に該書を上梓 したのには,一体 どの ような意図が込め られていたのだろうか
という点である。
直接の動機は,本人 も紹介 しているように極 めて単純であった と考 え られる。「自分が学ぶ
にも或は清国に行 く人の創 こも,支那語の聾音法が解 らな くては困るか らして,視話法の原理
を磨用 して 『日清字音割
'
といふ書物 を著 。」 た,つ ま り漢語学習の副産物 として,発音辞書
を作 ったと自ら説明 している。1
871 (
明治 4)午,岩倉具視宛て江藤新平の 「
対外策」 を始め
」「北清」「南清」-外務官僚,軍人など多数の人物 を派遣 して,
として, 日本は次 々 と 「
満州
軍事視察 ・情報収戴 こ励 んだのであった。なかで も1
87
9(
明治1
2)午,陸軍参謀本部派遣の語
学留学生 として柴田晃 ・御幡雅文 ・関口長之 ら1
0数名 を北京 に派遣 し,度門在留の山口五郎太
(
2
3)
・天津在留の川上彦次 らを語学生徒 に命 じたことや,あるいは国内に興亜会支那語学校 を設立
したことなど,一連の行動 か ら見て,あ きらかに対清軍事 ・外交関係 を推進 してい くうえか
ら,言語不通の困難 を克服すべ く,漢語教育 を重視するようになったことを示 している。
該書 は大矢透 との共著 で,校 正 は 中国人語 学教 師の張滋坊が担 当 したO大矢 透 (
1
85
0-
1
9
2
8) は,明治期の国語学者 として知 られ,仮名づかい ・仮名字体や漢語音韻の研究 により,
訓点語学への道 を開拓 した人物 である。張滋肪 (
1
8
3
9- ?)は,中国に赴 いた外務卿副 島種
臣,諜報活動 に派遣 された曽根俊虎 らと交際 を結 び,1
8
7
9(
明治1
2)年来 日後 ,1
8
82 (
明治
1
5)年 5月までに興亜会支那語学校の教師 として勤めた。その後の教授生活 を含めて, 日清戦
争 までのお よそ1
5年間にわたって, 日本の漢語教育 を支 えた語学教師の。 kあった。 また,
伊沢の漢語学習にあたっては主要な助力者で もあった。
R
『日清字音鑑』の緒言で,該書の特徴 をこう述べ ている。
「
本書ハ,現今 日活両国二行ハル 、字音 ノ関係 ヲ明ニシ,東亜 ノ語学二志スモノ 、考究二
島昌'
'
V所 ノ文字ハ,支那官話二普通ナルモノ,四千有鎗ニシテ,之 ヲ,耗国従
附ス。其嘉
来慣用 ノ字音二随 ヒ,五十音 ノ順列二分類 シテ,技普通 ノ字音二由り,直二彼字音 ヲ索引
(
2
S
)
」
スルノ便 ヲ得 シメ,脚 力彼戎思想交通 ノ用二資センコ トヲ謀 レリ
すなわち,本書は 「
東亜 ノ語学二志スモノ 、考究二附ス」ために, また 「
彼技思想交通 ノ用二
資セ ン」がために編 まれた もので,明かに当初か ら日本人の漢語学習のための音声字引 きと足
らしめ ようとしていたこ冒'
がわかる。そのため,中国の北方方言が中心 となっている 「
官話」
の単語 4千余 を選 び,それを日本語の漢字発音 (
漢音 ・呉音)に基づいて,五十音順 に,漢字
の発音 を分類,編纂 した ものである。 もっと簡単 に言えば, 日本語の仮名発音 を通 して,漢語
の発音 を調べ るための ものである。実藤恵秀 はその包括範囲について, この書は日本人の創作
であ り, したがって漠字音 を知る日本人にとって都合 よくで きてお り, 日本人の学習に便宜 を
はかるようにつ くられていると評価 しなが らも, しか しそれが逆 に中国人にとっても西洋人に
とっても,任用困難 なものであ君と,その特徴の長短 を指摘 している。
1
21
伊沢修二の漢語研究 (
上)
漢字 (
官話)発音の表記 は,仮名 とウエー ド式 ローマ字の二種 によるが,表記方法 の原理
Be
l
l
,A
l。
Ⅹ
a
nd。
,G,
a
ha
m)に したがって学ん欄 話E
F(
vi
s
i
bl
e
を,アメリカでグラハム ・ベル (
s
pe
e
c
h)に基づいたことを,次の ように説明 している。
「
従来,支那音 ヲ我仮字二講 シ,又ハ羅馬字二詳セシモノ少ナカラズ ト雄モ,彼ニハ特有
ノ音韻 アルヲ以テ,其的中ヲ得ルコ ト甚 ダ難 シ。著者は,今彼我両国ノ音韻 ヲ生理的言理
(
マ
マ)
学,即 ち視話法 ノ原理二照テラシテ考究 シ,我仮字二附スル二,若干 ノ記号 ヲ以テシ,猶
ホ数個 ノ合字 ヲ作 リテ,其不足 ヲ補 ヒ,又四聾 ノ別 ノ如 キハ, 更二言理上二考へテ,適宜
J
ノ記号 ヲ,新二我国字 ヲ以テ,彼字音 ヲ表明スルノ法 ヲ議ヲ'夕 ir
と,視話法の原理 に基づ き,仮名、 または若干の記号、作字 という表音文字 を通 じて,漢字の
音韻 を示そ うとした 『日清字音鑑』 にかんする伊沢 自身の説明である。 これについて,図 1を
参照 されればその様子が窺われるが,視話法 について,伊沢は次の ように定義 している。
「
視話法 トハ,人類発音の理 ヲ攻究シテ,人体 中特二発音 二関スル諸器,即チ発音器 ノ位
置二基 ヅキ,若干 ノ音字 ノ原子 ヲ作 り,之 ヲ結合 シテ,各種 ノ音韻 ヲ表明記載スル所 ノ学
術 ナリ。之 ヲ視話法 卜稀スル所以ハ,斯 ノ如 ク原子 ヲ結合シテ作 りタル音字 ヲ見ル時ハ,
一 目ノ下,明二其尊スル音韻ノ何 タルヲ知 り得ル故ナ ',
ヲ'」
と,人体発声器官の位置 に基づいて作成 された視話文字 を使 うこと (
図 2を参照), またその
文字 を認識するだけで,直 ちに音韻発声がで きるのが特徴 である。視話法 について, ここでは
これ以上詳 しくは述べ ないが,伊沢の 『日清字音鑑』のみの視点か ら言 えば,漢語の音韻 を人
体喉頭の生理的部位 に照 らしなが ら,音声 を,「
青首」 と 「
音尾」 に細分化 して表音文字 を使
って音声 を記す,いわゆる 「
生理的言理学」 に即 している点が, とりわけ評価で きる部分であ
ろう。 なお 「
音韻」表記方法においては,完全 な日本語仮名字音の羅列ではな く, さらに記号
・合字の新作 を通 して,よ り適切 に音韻文字で標示 しようとしている点 も評価 されるべ きだろ
う。
中国においては,明末にイタリアイエズス会宣教師マテオ ・リッチ (
Ma
t
t
e
oRi
c
c
i
)をは じ
反切」の方法 よ りもさら
め,渡来 した西洋人によるローマ字表記法が,漢字の音韻組織 を,「
に簡化 し,中国の音韻界 に大 きな影響 を及ぼ していたが,明治 日本の漢語研究界 において,そ
れ まではウエー ド著 『
語言 自選集』の 「
平灰編」 を転写 した,若干の もののほかには,「とく
(
3
0)
に発音の問題 をとり上 げた書籍 は,ほ とん ど発行 されていなか った」 といわれ る状態であ っ
た。そのような意味で,仮名による漢語往昔書 としての 『日清字音鑑』の存在 は,極 めて重要
(
3
1
)
な もの として位置づけ られ よう。
この ように,人体の発声部位 に照 らしなが ら細分化 した音声 を, 日本語の仮名 を通 して標示
す る往昔法 とは,具体的には一体 どの ような ものなのか,図 1を通 じて例示する。
1
2
2
天 理 大 学 学 報
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]清字音岳』の漢字注書法
図1
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城 失
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津
二
伊
舵
日
4
伊 洋修二著 『日清字音鑑』並木善道 (
発行兼印刷者),明治2
8
年 6月 ・天理図書館蔵
1
2
3
伊沢修二の漢語研究 (
上)
ここでは,五十音順 に漢字 を配列 して,それぞれに伊沢式変則的な仮名注音 ・声調記号及び
ローマ字表記 を使 いなが ら,漠字音の音素 を,最大限に示そうとしていることがわかる。ただ
し,視話法の もっとも基本的な特徴 の一つは,「
音字 ノ原子」 とす る視話文字 にあることをこ
こで指摘 してお く必要がある。つ ま り,視話文字 を使 って発音 を標示するのが,本来伊沢 とし
,
て為すべ きことの一つである。 しか し,上図で示 されているように 『日清字音鑑』はあ くま
で,その原理 に照 らした程度 にとどま り,直接 に視話文字が使 われているわけではない。その
理由は,伊沢の視話記号 と漢語音韻表記 にかんする研究の度合は ともか くとして,彼 にとって
の研究の 目的は,漢語音韻 自身の特徴解明にあるわけ というよ り,む しろ如何に漢語 を対清交
渉の関係者 に覚えさせ るかが重要だったのである。そのため, 日本人にはなかなか覚えに くい
視話文字のかわ りに,仮名的な新記号の方が余 ほど馴染み易い という視点か ら,こうした標示
記号 を創 出 した もの と理解す ることがで きよう。
これまで,伊沢の視話法 に基づいた,漢語の発音 を綴る仮名注記記号の正確 さについて言及
un)
した先行研究は多 くはないが,筆者 には,北京官話音 に別 して考案すれば,例 えば (
君j
- 「チ (三ン」,(清 zhan) - 「芝 ア ン」, (
春c
hun) - 「
亘。 ウン」の ように,必 ず しも正確
だとは思えない発音表記が随所 に見出せ る。そ ういう意味で, この仮名標示法は,実際の使用
段階に到達するには, まだまだ大 きな限界のあったことも否めない。
この点について,伊沢 自身 も意識 していたはずである。たとえば,一個の漢字 にたい して,
仮名表記 を付 けなが ら,なお,わざわざローマ字表記 をも付 け加えていることか らも,そのこ
とが窺える。 さらに,「
緒言」の文中に,声調の標示 は中国人教師の張滋坊の校定 をうけた と
従来西人 ノ用 ヒ来 レ
い う文言 も付 され,それに念 を押 したかたちをとっている。ちなみ に,「
ルモ ノ」の ままに, ローマ字の注記法 を襲用 し,「
上平 ・下平 ・上声 ・去声」 とい う声調記号
は,あ くまで も伊沢の 自己流の ものであった。
しか し,それに もかかわ らず,伊沢のこの業績は大いに評価 されなければならないだろう。
明治以降における日本の漢語教育は,ほ とん ど単純 な実用会話主義 に重点が置かれた,いわゆ
る 「
特殊語学」 としてのみ位置づけ られ,それか らさらに踏み込んだ理論的 ・学術的な研究 に
(
3
2)
は程遠いのが実情であった。一方,学習者 自身 も,実用的,速習的な結果のみをもとめ,正道
を踏んで学習 しようとす る者が少 な く,まさしく迂遠 な学習法 をとろうとしなかったのが 日本
(
3
3)
の漢語教育 ・学習の実態であった。そ うした風潮 にたい して,伊沢の 『日清字音鑑』 は,方法
において,漢語音韻 を日本語の仮名,またはローマ字で綴 る試みを通 じて,発音規範 を日本人
の発音習慣 にしたが って系統化 したのであった。その 「
独創的 に してかつ科学的な点」 (
竹内
好)は,当時の漢語教育界にあって,それはまさに飛躍的に進んだ ものであった と断言 して良
いだろう。
3.『E
]清字音宅』 と国語改革論争
ところで,伊沢の著作動機 を間接的に考 えれば,彼の言語 についての関心が,明治期 におけ
る日本国内の言語改革及び国語 にかかわる論争 と関係 していることが察知で きる。1
9
01 (
明治
3
4
)午,その著 『
視話法』の序文 に,それまでの言語研究 について,次の ような記述が残 され
ている。
「
我 ガ,多年 コノ法 ヲ研究シ, コレニ ヨリテ,ワガ国言葉 ヲカキアラハ シ,マタ英語 ソノ
他 ノ外国語 ヲモ,ソノ助ニ ヨリテ,マナ ビウル方法 ヲマウケタルハ,言霊 ノサ カエルテフ
1
24
天 理 大 学 学 報
ワガ国言葉 ノ魂 ヲバ, コノ武器 ノ内ニコメテ,マヅ第-二国書 ノ靴 リヲウチ タヒラゲ,ス
〕
ス ンデ他 ノ国言葉 ノ困難ニモウチカタマシ トノ微意二外 ナラ男
この文は,伊沢の視話法 についての研究 目的を明示 したもの とい うことがで きるだろう。視
話法 を通 して彼が早急 に奏効 させたいのは, まず国語発音の統一であ り,それに続いて習得す
べ きは外国語であるというのが極めて示唆的である。つ まり,後述するように伊沢の視話法に
たいする強烈な関心 と根気 こそは, じつは彼の英語学習 によって引起 こされた言語的 コンプ レ
ックスに由来 した ものであったが, しか し,視話法の 日本 における実践 についての,彼の主眼
は,なによりもまず 日本語の発音統一にあったのである。
「
抑余 ガ,視話法 ノ原理 ヲ麿用 して,東北地方 ノ=
靴音 ヲ矯正セ ン ト志 シ 、は,明治十四五年
頃,青森願師範学校長藤田氏
ノ請二鷹 シ,東京師範学校 二於テ,数名 ノ同麟卒業生徒 こ,此法
(
ユ
5
)
ヲ試 ミタルニ始マ レリ」
と, じつは もっともっと早い時点に青森県師範学校で,東北地方の靴発音の矯正事業 に手始め
伊淳修二選集』所載の史料 を辿れば,彼の視話法 による日本語の発
(
図 2を参照), さらに 『
音改革 にかんする構想 は,明治2
0年代初めにすでに成果 をあげていたことが判明す る。すなわ
ち1
8
8
8(
明治2
1
)年,大 日本教育会常集会での数回にわたる演説 において,言葉の特性 につい
て,それは自分の考えを他人に伝 えるために伝達機能を持つ と同時に, また,生物の進化 と同
じように優勝劣敗の社会性 をも持つ と訴えている。他方,社会進化 に伴 って,この言葉 自身 も
形 ・昔 ・文法 ・内容など,絶えず省 くか,増やすか,変化 させて行かなければならない,言葉
は従来のままの不変の ものではな く,絶 えず進化するものだ と声 を大 に して主張 している。 と
りわけ,講演の内容
をもとに作成 した論文のなかでは,多 くの紙面 を割いて視話文字 に基づい
(
3
6
)
伊揮修二選集』 を参照 してい
た日本語の音韻整理 を試みている (
具体的 な内容 については 『
ただ きたい)
。
,
1
2
5
伊沢修二 の漢語研 究 (
上)
図 2.視話文字に基づいて伊沢修二が作成 した青森地方音 との比較表
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視話法 』大 E
]
本 図書 (
秩),明治3
4年
この資料 は呉宏明氏の提供 による
1
2
6
天 理 大 学 学 報
伊沢のこうした業績 は,明治の国語改革史に-頁 を残 していることは間違いない。ただ し,
説明を要するのは,伊沢の 日本語音韻にかんする視話法的な整理 について,た とえば帝国教育
0
年代前後 に現れた視話文字 という新I
Ttし
会の国字改良部新字調査部の記述 によれば,明治3
て認定 されていることである。新字 という論点 について筆者 には異論 はないが, しか し,伊沢
は視話文字 によって,従来使用 して きた漢字や 日本語の仮名文字 を無 くそ うとしたのではな
く,あ くまで 日本の国語 に,仁 定の標準 昔」 を確立 させ る方法 として,音標文字 を提供 しよ
うとしている点が注 目される。 さらに言えば,それは視話文字 を新国字 として通用 させ るとい
う意味ではな く,それを通 じて地方発音の靴 りを改め,発音 を標準化 させ るための手段 と考 え
ているのである。伊沢の 日本語標準音 についての視話法的解明は,本稿の主 目的で はないの
で,これ以上の論述は避けるが,時期的に,彼の漢語発音 にかんする視話法的なア レンジは,
日本語 にかん してそうした努力 をした上で行われた作業であることに留意する必要があるだろ
つ。
周知の ように,明治初期からの 日本の近代 国語運動史においては,欧化主義に伴 うローマ字
及び西欧言語学の導入派 と,漢字尊重論者 との間に,様 々な次元で論争が繰 り広げられた。加
藤弘之 ・上田万年 らの漢字撤廃,ローマ字導入論 にたい して,三宅雪嶺 らの漢字保護論者 もい
た。1
8
9
0(
明治2
3
)年 『
教育勅語』の発布 を機 に,天皇制イデオロギーが昂揚期 を迎 えたが,
漢字がすでに日本文化の一部 として組み込 まれていた以上,ナショナルアイデ ンティティの明
確化 という点で,教育における漢字の取 り扱 い方は,近代 国語成立 に連動する重要問題だった
と言える。 この とき,た とえば 『
勅語術義』の作者井上暫次郎が,漢字 を捨てることこそ,中
国か らの思想的独立 を達成する唯一の道だ と唱える一方,同 じく国粋主義を主張 していた三宅
雪嶺は,従来の主張 を,若干軌道修正 しなが らも,相変わらず漢字擁護諾'
を展開 していた。そ
うした状況のなかにあって,伊沢修二は漢字の役割 を肯定 し,学校教育 における漢字教育維持
論者であった。1
8
9
4(
明治2
7
)年 6月1
7日,大 日本教育会第11回給集会の席上,漢字排斥 を主
張する国体論者加藤弘之 にたい して,伊沢が展 開 した反論 は,そのことを示 している。
8
8
2(明治1
5
)年の 『人権新説』 を境 にして,幕末 と維新後の十数年間主張 し
加藤弘之は,1
つづけた天賦人権論 を放棄 し,1
8
9
3(
明治2
6
)年にいたって,次第に 「対外的進出に備 えての
(
3
9)
国民の思考 を軍国主義的国家主義の方向へ誘導す る理論 を提供 し始め た」 と評 されている人物
である。晩年の彼 は天皇制国家 を弁護 しようと, ヨーロッパ最新の 「
科学的」理論 をその弁護
に役立てよ竿としたのであるが,学校教育 においては,西欧言語学 を導入 しようとする上 田万
年の立役者 として,1
9
0
2(明治3
5
)年文部省設置の国語調査委員会の会長 を務め,漢字 と儒教
を排除するラジカルな持論 を唱えた。
加藤 は,1
8
9
3(
明治2
6
)年には 「小学校教育改良論」 を著 して,漢字習得の困難 さを唱え,
それを排除すべ きだ という方案 を説いていた。 これにたい して,漢字の役割 を肯定 し,教育 に
適用 させるには一定の規則 さえ発明すれば,漢字の取 り扱 いにおける困難は克服で きると,伊
沢は反論 している。そ して1
8
9
4(
明治2
7
)年 には,「
私 も,漢字音訓の教へ方 に付,年来考へ
L
て居 ることがあ ります故,遠か らずそれを世 に公 に し,諸君の批評 を乞はうと思 l
'
J と述べ て
いるoそれは,単 なる空論ではな く,近 く公刊する 『日清字音鑑』 を武器 に,漢字音訓表記 に
自分な りの方法 を示そうとした ものであった。彼は文部省編輯局時代,教科書編纂 を主宰 し,
大槻文彦 『
言海』の編纂 を推進 し, また国家教育社の創立趣 旨に 「
語学二於 テハ我国語 ノ優尚
ニシテ最モ愛スベ ク最モ重ズベキモノナルコ トヲ悟 ラシメ之二由テ大二 自尊 ノ心 ヲ養 ヒ以テ愛
(
4
2)
国心 ノ馨達 ヲ謀ルノ方法アラザルカ」 と宣言 した如 く,国昔 ・国字の改革 に大 きな関心 を払い
伊沢修二の漢語研究 (
上)
1
27
なが ら,それを通 しての愛国心養成 を重視 していた。
0年代以降に
ここで簡単なまとめが必要であろう。伊沢修二の背負 う文化的背景,及び明治2
おける彼の社会活動 を理解するには,漢語 ・漢学の学習及び言語研究が重要な手がか りの一つ
となる。その特徴 は音声研究であった。直接的なきっかけは,視話法 というアメリカ留学によ
る収穫であ り,それを媒介 として,まず国内の言語改革に着手 し, さらに,その経験 をもとに
しなが ら,漢語研究への挑戦 を始めたのである。
さて,伊沢のこのような言語にたいするバイタリティ-はどこか ら生 まれたのであろうかO
上述 した 『
視話法』にこういう一節がある。
「
余 ガ,初 メテ横文字 ヲ学 ビシハ,十八歳 ノ時ニシテ,京都 二於 テ,或ル医師 ノ塾二就
( ママ )
キ が らんまちかノ諾讃 ヲ為 シタルニ初マ リ,其後東京二出デ,今 日ノ所謂正則的ノ英語
,
ヲ学バ ン トセシこ,当時其語二通ゼル人ハ,甚 ダ少 クシテ,其師 ヲ得 ルノ道ナカ リシカ
(
マ)
レ
モ
バ,止ムヲ得ズ変則的ノ英語マ
ヲ学 ピタリ。其後,或ハ英語 ヲ能 クスル 日本人,又ハ英人,
米人等二就キテ,発音 ヲ学 ビタ
,一度変則的二学 ピタル除習ハ,容易こ脱却スル能ハ
ズ。故こ数年 ノ後,米国二留学セシ頃二至 リテた,其発音,甚 ダ正確 ヲ鉄キ,為二米人 ト
(
4
3
)
自由二談話スルヲ得ズ,常二遺憾 トシタリシガ,・
-」
というように,信濃出身の伊沢は,一度変則的な英語を学んだことにより,その不正確 な発音
か ら中々脱出で きずに,自由に米国人 との会話がで きないことに悩 んだ。こうした言語 コンプ
レックスこそは,彼の視話法にたいする関心の出発点であ り,その延長線上に,上述の漢語発
音研究が結実 したのであろう。伊沢 ・大矢 ・張滋肪 ら三人の協力は,明治初期,対内的に整理
された音声的な表記方法や話 し方を,仮名,ローマ字表記 を通 じて,対外的にその可能性 を実
(
4
4
)
果であったに違いない。
験 しようとする最初の試みでもあった。大矢透がその後,台湾に渡って教科書の編纂 に携わっ
たの も,伊沢 との協力によって得た成
二. 台湾 にたいす る文化統合理念及び植 民地教育の展開
1.植民地文化統合理念の初説
伊沢の生涯にとって,最 も画期的なチ ャンス となったのは,ほかで もなく台湾総督府民政局
89
5(
明治2
8)年 5月,学務部長心得 を受命 したときから,学務
学務部長への就任であった。1
部顧問 としての職 を解かれた1
89
8(
明治31
)年 6月2
8日までは, 日本の台湾植民地教育の基礎
を定めるための,あわただ しい三年間であったと言える。台湾赴任以前の伊沢は,文部官僚,
教育 ・政治結社活動 など多彩 な経歴 を有 していた ものの,国際的な政治舞台には遥かに遠い存
在であった。だが,台湾総督府民政局学務部長 という肩書 きの獲得 によって,国家的な使命 を
負 うことになった。それに したがって,筆頭社長 となった国家教育社が隆盛 に向かい,彼 は学
制研究会の創立にも関与 した。 さらに1
8
9
7(
明治3
0)年1
2月に貴族院議員に勅任 され,政党政
派を超 えて帝国議答で も大 きな発言力 を持つことになった。
さて, 日清戦争中に,伊沢は政府の対清政治交渉にどのような認識 を持ったのであろうか。
1
89
5(
明治2
8)年 4月1
7日,下関において 日清両国の間で,馬関条約が締結 された。 この条約
によって, 日本は遼東半島,台湾 を含む領土の割譲 を清国に押 し付けたが, じつはその半年前
89
4年1
0月頃,イギリス政府の勧告めいた講和の打診 をうけたとき,戦勢の成 り行 きを見込
の1
1
2
8
天 理 大 学 学 報
んだ日本政府はすでに旅順
口 ・大連湾か, または台湾かを日本 に割譲 させ る案 を,外相陸奥宗
(
4
6
)
光 に作成 させていた とい う。それを受けた軍部では,陸軍側が 「
朝鮮の背後 を制御 し,北嘉の
咽喉 を拒」 えるべ く遼東半島の占領 を主張 した。 これにたい して,海軍側 は 「
台湾 は東洋 と南
洋 との交通の要衝 に当 り,図南の飛石 として将亦南門の鎖鎗 として--・
太平洋の覇権 を掌返せ
(
4
7
)
三国干渉」 によって遼東半 島を還付 し,台湾
ねばならぬ」 との見解 を示 した。結果的には 「
,
の領有のみが果 されたのであるが,そのため台湾初代総督 には軍令部長 として,また海軍部内
に重 きをなしていた樺山資紀が就任することになった。樺山の就任 は1
8
9
5(明治2
8
)年 5月1
0
日であったが,その内走の三 ケ月前 に,伊沢 は樺 山に面会 し,台湾民衆教化の意見 を述べて台
湾 に行 く決意 を示 した。 このことは,台湾総督府計画立案の時点で,総督府内の治民 ・財務 ・
外務 ・殖産などの部門の うち,治民部 (
のちに民政部 と改称)の構成 メンバー として,既 に伊
沢が選ばれていたことを意味 している。
伊沢が選任 された理由の詳細 についてはなお不明な点 も多いが,伊沢は,早 くか ら日清戦争
の趨勢 を予測 して,植民地文化統制の理念 を持 ち出 していたことが,最 も大 きな理 由であった
8
9
4
年末,伊沢は国家教育社で演説 し, 日本人の厚い 「
忠君愛国の心」が 日清
か もしれない。1
戦争の勝利 に大 きな役割 を果 した とし,その心の養成は,国家主義の教育によって もたらされ
(
a)
た ものであるので,戦後 もこのような教育が ます ます大切であると力説 した。 また伊沢は,戟
,
此の新領地の贋狭
争の勝利 によって 「
必ず多少の新領土 を我 に得 ることあ らん」 と推測 し 「
に至 りては,固より諌め知るべ きことにあ らざれ ども,姑 く盛京省の全部 を得 る者 と仮定せん
(
4
9
)
に,・
--」 とい うように,中国東北部の盛京省が勝利品 として獲得で きるとの予測 を示 した。
そ して彼 は,新領地の統治にあたっては,行政官 ・司法官及びその他の人材 を必要 とす るが,
それはすべ て高等教育 を通 して早急 に養成することに重点 を置 くべ きだ と訴 えた。
以下,やや長い引用 になるが,同演説 において,伊沢は次の ような占領地派遣の人材論 を展
開 している。
まず,行政官については,
① この任に当るべ き者は, 日本 (
内地)において多少行政上の経験があ り,民政の要務
を理解 したる者でなければならない。
② さらに 「
新 に得たる領地の民 を制駁 し,其人民 と言語風俗 を一にせ る」必要がある。
清国 との交誼 を全 くしようとしなければ,種々の交渉 において,葛藤の生ず ることが
十分に予想 される。それを避 けるためには,何 として も深い国際交際 (
国際学)の知
識が必要である。
,
③ そのため 「
又支那人の如 く,従来不規則 なる,行政法の下 に支配せ られ,人民 より
申 し出づ る種 々雑多の事項 に射 し,官吏の猫断 を以て,任意の政 を施す所 に在 りて
は」,いっそ う 「
果断勇決の才幹」がなければならない。
といい,司法官については,次のようにい う。
「
一国の領土 を襲 じて,他の一国に合す る場合 には,為政者たる者が,成 るべ く蕃慣故俗
に従 て,政 を為 し,急激の賛草 を避 くることを務 むるにもせ よ,尚其の受 くべ き襲動 は,
尋常一様のことにあ らず と想像せ ざるを得ず。且つ我が商工民等の彼地に移住 して,生業
を営む者 も,必ず多数なるべ し。其間には種々の争訟 を生ずべ きこと自然の勢 なれば,裁
判事務の繁劇 なるべ きは言 を得 た判
1
2
9
伊沢修二の漢語研究 (
上)
そのほか,電気工芸 ・機械工芸の技師の養成 を唱導 し, さらに 「
其地の領域 を守護 し,反乱
を鎮圧 し,秩序 を維持す る必要 なる兵士 は,幾多 を要する」 ため,陸軍士官の教育が重要であ
,
故 に威力 を以て,其の外形 を征服す ると同時 に,別 に
ることも提案 している。伊沢はまた 「
其精神 を征服 し,膏国の夢 を去 て,新国民の精神 を蓉拝せ ざるべか らず。即之 を日本化せ しめ
ざるべか らず.彼等の思想界 を改造 して, 日本人の思想 と同化せ しめ,全 く同一の国民 となら
しめ ざるべからず,而 して比の如 く彼等の精神 を征服するは。即 ち普通教育の任務
な6)
'
」 と,
,
精神的に征服す るためには,優秀 な教育政務官が必要である と主張 し, さらに 「
歴史上の観
,
心理学上生理学上 の観察 によ
察 によ りて,其遺博の傾 向 を子細 に吟味」す る必要 を訴 え 「
り,新 に精神界 を造 る方案 を立てざるべか らず。最 も廉 さ観察力 と学識 とを以て立てたる方案
を,最 も確 固たる意志 と最 も熟練 なる政略 によ りて実行せ ざるべか ら判
と,優秀な教育家の
必要性 を強調 している。
総 じて言えば,伊沢修二は,将来の新領地の統治 にかん して, どんな人材が必要か, どうす
れば良いかについて敏感 に反応 し,具体的にその展望 を示 したのである。 とりわけ行政官の素
質 として,領地の民 を制御 し,その人民 と言語風俗 を統治者 として一つにまとめて,不必要な
トラブルを避 けるために,交誼 を含めた交際学の必要性 を強調 している。その際,単 なる領地
の外形 を征服するだけではな く,その地の民衆の精神 を征服 し,旧国を忘れ させ ることが重要
である。そのためには,普通教育 を通 じて彼等の思想 を改造す る必要があるとして,言語 ・思
想 ・風俗 にわたる, より一層深い統治理念の必要性 を提起 しているのである。
伊沢は,それから五 ケ月後 に 『日清字音鑑』 を刊行 したのだが,そこで唱導 した 「
彼我思想
交通」 は, もとよ り上述の考え方 と表裏 をなす ものであった。
2.学務部長時代に展開 した言語事業の特徴
吉野秀公 『
董滞教育史』 によれば,伊沢は植民地教育にかかわる 「急用事業」 として二つの
(
5
3
)
課題 を挙げているOその一つは講習貝の養成であ り,今一つは国語の伝習であった。
いわゆる講習員の養成 とは,内地 日本か ら派遣 した 日本語教員 に,土語 と呼ばれる漢語の間
方言 (
以下,今 日日本で慣用 される間南語 とい う用語 に統 一す る) を教 えて,効率的に 「日本
,「人民の心情 を開費 して往 く」教化 を完成 させ ることで
(
5I)
帝国の善政」 を台湾の人々に知 らせ
あった.その一方,国語の伝習は,一 日も早 く台湾民衆 に日本語教育 を施 し,彼等 に日本語 を
学ばせ ることで もあった。 これ ら二つの課題 は,言語習得の対象 という立場か ら言えば, まっ
た く相反す る性格の ものであるが,双方の言語疎通達成の最終的な筋道 を教科書の編集作業 に
もとめる点 においては,む しろ軌 を一 にする ものだったと言える。
この言語教育の二法 を同時に進行 させ,統治者 と被統治者の融合 を実現 させ るため,初期の
伊沢は,言語 を中心 に教育活動 を推進 したが,その際 とくに間南語の教育研究 を極めて重視 し
た。伊沢が台湾へ赴任す る船上で, きっそ く教科書の編纂指令 を出 したのが関南語会話編の編
集であ り,学務部の開始 した最初の事務 も同書の編集であったことは,その関南語重視の姿勢
をよ く表わ している。
,
我輩の戦争即 ち人心制服の一事 は牌 に着
『
教育時論』は,そ うした伊沢の動静 に注 目 し 「
手せんとす る場合 にて土言合話編の編輯 を始 として漸々師範学校及模範撃校等の事 にも及ぼす
べ ぎ」 と,被統治者社会の事情 を成 るべ く短期 間に把握するには,言語 を通暁 させて,それに
,
よって始めて 「
人心制服」 とい う長期 的な統治 ビジ ョンが立て られる, とい うのがその記事
の主張する理屈であった。具体的な実施状況 については,国府種武が 「
之 よ り先学務部が芝山
1
3
0
天 理 大 学 学 報
巌に移 されると共に部月は専 ら土語の研究 に若手 し,普通用語 ・軍隊用語 ・商工用語 ・教員用
語等の各単語篇,会話篇の編輯 に従事 してゐたのであるが,今や本島人に封する国語教授 も開
始せ られ,部員は一方 に於ては土語 を研究 し,教科書の編輯 に従事すると共 に他方 に於ては国
(
5
i)
語の教授 に従事 し頗 る繁忙 を極めたのである」 と,その様子 を詳細 に確認 している。
長期的なビジ ョンとしての言語教育, とくに関南語習得の重要性 を伊沢は認識 していたわけ
であるが,台湾現地 において,意思疎通がいまだ不十分だったことは,実際の統治実務 に深刻
な影響 を与 えたようである。伊沢は, 日本国内の講演で, しば しば次の ような趣 旨を述べてい
る。
「
明治二十八年の六月十七 日に始めて董北 に於て始政の式典 を行った時などは誰が味方で
あるか誰が敗兵であるか少 しも知れなかった,先づ大概立派な衣服で も着て居 る者は給督
(
S
7
)
に謁見 されるが宜いと云ふ位の話で,賓 に危いことであった」
味方か否か とい う判断,つ まり台湾統治にあたって必要 となる最 も初歩的な手続 きが,間南
語の研究 に拍車 をかけた。 しか し,北方 「
官話」 を目当てに して,懸命に取 り込んだにもかか
わらず,結局,何の役 にも立たなかったことは,伊沢 にとって如何 にもシ ョッキングな現実で
あったろう。皮肉なことに,この時期は, まさに伊沢の 『日清字音鑑』が東京で初刊行 された
時期 と重なっていたのである。
,
もちろん 『日清字音鑑』の作業 は,台湾での伊沢 に とって,何の役 に も立たなか ったわけ
ではない。大失透 とともに官話音韻にあてて利用 した仮名は, 日本語教育及び間南語の研究 に
たい して も,重要な方法論 として,む しろ大切 に受け継がれ られた と言える。伊沢は,台湾赴
任以前か ら,台湾における言語状況 について,西部の住民が 「
福州鼠
とい う間南語 を使 うの
にたい して,東部 に住んでいる人々は,一度 オランダ統治下 に,キリス ト教宣教師の薫陶によ
ってローマ字 を使 うこともあった原住民である, と判断 していた。その うえに,千字文,文
選,四書,五経暗涌の ような もの を学 んだことがある西部の人々に比 して,東部地域の人々
,
は, 日本の教化が し易い と認識 していた。ただ,その際 に伊沢は 「日本語 を輸入 し繁雑 なる
漠文字 に代ふるに片仮名 を以て し成る丈早 く言語の通ずる事 に力 を尽 し而 して後漸次彼等の脳
裡の開拓 に取 り懸かるの外 な しと判
,
とい うように,台湾の人々の 「
脳裏の開拓」にとりかか
片仮名」を導入することが まず必要であ り,その うえで,台湾の人々にたいす
るためには 「
る 日本語学習, 日本人講習月 にたいす る関南語学習 を促す ほか はない と考 えていた ようであ
る。
,
台湾人」の 日本語学習 と, 日本人講習員の関南語習得 を目指 して,教科書 の編
か くして 「
修 に, 日本語 ・関南語 という二言語の効用 を重視 しつつ,仮名でその発音 を記 した教科書 を編
纂するとい うのが,伊沢による初期の教育統治方針の大 きな特徴であった。
「
教育 と云ふ ことに附帯 して最 も大切 なるは,教科書の編纂であ ります。此の事 も,私が
二十九年此方へ参 りまして以来,少 しも油断な く著手 しました。殊 に草書の編纂-
これ
は大事業で,僅かな書物の編纂 と違って,大いなる労力 と非常 なる長年月を要 します。初
は 「日台小辞典」 といふ簡単 なものを出 しま した。--其の他の教科書の編纂 も色々有 り
ましたが余 り管々 しくな りますか ら略 します。唯,此処 に一つ申 し上げて置 きたいのは,
仮名達の問題であ ります。 これは,決 して台湾のみならず,内地 において も,非常 にむづ
伊沢修二の漢語研究 (
上)
1
31
か しい事 だが,--吾 々 も此の台湾 に来 ました時 には,台湾 は国語の法則の無い処 で,成
るだけ早 く覚 えさせ るが よいのだか ら,旧来の仮名道 を,簡単 に学 び易 い ものにすれば宜
(
6
0)
しい と云ふので,初めはや った」
互いの言語 を疎通 させ る うえで最 も重要なことは,語嚢発音の認識 と意味の整合であった。
そのため
,『日台小辞典』 とい うような辞書の編纂 ばか りでな く, この時期 に編纂 した教 科書
も,辞書 または辞書 的な役割 を果 していた。 この点は,その後 における伊沢の漢語研究,及び
教 科書編纂 を理解 す るため に も重 要で あ る。「
旧来 の仮名達 を,簡単 に学 び易 い もの にす れ
ば」 とい うことは, 日本 人に とっての関南語学 習, または台湾 の人 々に とっての 日本語学 習
に,橋渡 し的な役割が期待 される ものであった。
さて, こうした努力 を払 う伊沢修二がその任期 内に,具体 的にい ったい どんな教科書が編纂
毒酒 にお け る国語教 育 の展 開』で ,「
教 科 用 及参考 用 図
され たのであ ろ うか。国府種 武が 『
(
6
1
)
書」 を1
5
種類 ほ どあげている。特徴 的な もの を取 り上げれば,1
89
6(
明治2
9)年初期 に刊行 し
董湾土人 に我現行 の国語 を教へ又本 国人が
た 『
新 日本語言集 甲号』 には,教科書 の性格 を,「
(
G
Z
)
童滞土語 を学ぶの用 に供せ んが為撰集」 と,緒言 にみずか ら前述 した二言語 にたいす る効用性
を規定 しなが ら,同 じように 『
壷滞適用会話入 門』 も 「
東京盲唖学校訓導、石川倉次 ノ、著述
セシ所 ノ、草案 ヲ修正 シ、且之二重滞語 ノ封諾 ヲ附シ、-ハ、以テ本 島生徒 ノ、本 囲語 ヲ学 プ
こ便 シ、-ハ内地人 ノ董湾語 ヲ学 ブノ槽梯 トズ」 と,その特性 を繰 り返 し述べ ている。その う
,『壷滞適用小学話方作文掛図教授指針』 には,『日清字
え,教科書 にはなるべ く漢語訳 を付 け
音鑑』 の形式 をなぞ って,関南語の発音 を示す記号 は,仮名 に基づ くことも前述 したことと重
務 めて 日本語 の語法 に率 由せ しめた り」 とある如 く, 日本語 の
なる。 ただ,漢文の訳文が ,「
語法 を基準 とした。そのため,た とえ些か間南語,漢文の 「
典別 に不馴 れなる」 ところがあっ
『日本語教授毒恥 とい う記述が極めて示唆的である。
た として も,やむをえない ことにす る (
『日本語教授書』 とい う原書が入手 で きてい ないため,国府種武が提供 した引用文 を参照せ ざ
る得 ないが,文化的な照準主体が,あ くまで も日本語及びその文法 に基づ くため,漠訳文 に不
自然 さがあって も,あえて無視せ ざるを得 なかった らしい ことが,次の 『
董滞適用会話入 門』
の例 に顕著 に表れている。
第一部。請求及諾否。
第-。下サ イ。
メシ
輿我。
ヲ 下サ イ。
第二。上ゲマス。
フデ
飯 、輿我。
送汝。
ヲ 上ゲマス。筆 、送汝。
第二部O疑問及磨答。
第十六。
老人
(
ママ)
ガ、メガ子 ヲ
カケテ、帳面 ヲ
ミテ 井マス。
老 人、掛 目鏡、在寓字簿。
第十七。
オ客
ガ,茶
ヲ
ノ ミマ シタ。
人客、食茶了。
(
例文 をその まま引用 したが,各文の往昔 を省
い芹)
1
3
2
天 理 大 学 学 報
ことに,訳文 とした漢語訳が的確か否かを問わないにして も,「
飯、輿我」「
老人、掛 目鏡、
在寓字簿」の如 く, 日本語の表現順序 に無理 に適応 させている点が明 らかに読み取れる。伊沢
のこうした教科書編纂の方針は,経過的なもの とは言え,その後,′
」
、
川尚義が関係 している対
訳 日台会話類の書物 にも,その手法が貫かれているかの ようである。伊沢の方針 と手法 になら
って誕生 した対訳鮎 ,こうい う二言語教育 によって生 じた文化的統合の必要性か ら生 まれた
もの と言 うこともで きるだろう。
伊沢 を中心 とした,学務部 によるこの ような日本語教科書の作 成 にたい して, 日本国内 に
様 々な意見があった。たとえば,台湾は被 占領地である以上,その教育 にはあまね く日本語 を
強行 して, 日本語学校,官吏採用や布告文な どにおいては,相手の理解如何 に関係無 く,すべ
て日本語 を徹底すべ きだ とす る強硬 な意見 もあった。「
他人の国を取 ってグズ /\ す る位 な ら
ば,寧 ろ取 らぬ方が よJ
6
,
7
1 というような,赤裸 々に現地住民の立場 を無視する軍人的な文化統
合策がそれである。 これは,明 らかに台湾学務部の言語政策にたいする批濁'
である。そ してま
た,台湾 を 「
思ふ に彼の頑迷不霊の島民,動 もせ ば皇園の御趣意 を解 し得ず,一方 には故国を
思ふの情 と習慣 に泥める性 とに堪 られて,我が教育 を否むものな しといふべか らず, よし否む
が如 きことな しとする も,数千年来,衣服習慣 を異 に し,言語思想 を別 に したる異種族のこと
なれば,之 を して我教化の下 に立た しめ,内心 より我国風 に帰服せ しめんことは,賓 に容易の
業 にあ ら判 とい う立場 にた-,次の ような議藍 ,
bあったOす なわち・「
此事業は,既 に容易
の事業 にあ らざれば,一代 にて教化す る能 はず ,二代 か 、り,二代 に して能 はず ば三代 を
(
7
0
)
経,四代五代 に至 りて,遂 に我民俗 に同化せ しむるに至 るべ し」 というものである。そ してこ
は
の議論 には長期的な視点のもとに,台湾の人々の 日本 にたいする 「
愛国心」 を地道 に養成 させ
ようとい う論調が含 まれてお り,それが当時の教育関係者 における認識の主流 をな していたと
考 えられる。
,『董滞十五音及字母表附
一方,教科書の編纂 と並行す るこの時期の漢語研究の成果 として
人声符号』 と 『
董漕十五音及字母詳解』の刊行 を挙 げることがで きる。 この 2冊の刊行 は,台
湾において,漢語関南語の発音 を仮名で注記する手法 を採用 した最初の事例 として位置づける
ことがで きるのである。
』『壷湾十五音及字 母詳解』は,学務部 によって編纂 さ
れ,いずれ も日本人を対象 にした関南語の入門書であった。台湾十五音 というのは, もともと
(
7
1
)
『
董滞十五音及字母表附人声符号
福建か ら伝 わって きた 『
柔集雅俗通十五音』 をモデルに して再編成 した もの といわれる。そ し
8
9
2
年に 『
一 目了然初階』 を刊行 し,
てその源流 は,清末中国の切音字運動の発動者 として,1
漢字 と異なった 「
切音新字」 とい う独特の字母 をつ くった慮悪章 にまで さかのぼる。虞 は福建
省展 門近 くの出身で,1
8
歳の時科挙の試験 に失敗,その後 シンガポールで英語 を学んだあ と,
度門でイギ リス人宣教師マ ックゴウン (
J
o
hn Ma
c
g
o
wn)の英語 ・屡門語辞典の編纂 を手伝 っ
た。『
一 目了然初階』は,虞が教会 ローマ字 にヒン トを得て,郷里で昔か ら使 われていた 「
十
五音」 を基礎 に,編纂 したものであるが,虞 には戊成政変 (
1
8
9
8
年)の直後,当時台湾総督府
の学務部長であった伊沢に招かれた経絡があったことを特記 しなければならない. これは恐 ら
く,学務部編纂の上記 2冊の刊行 と関係 しているのではないか と推測 される。
1
3
3
伊沢修二の漢語研究 (
上)
3.伊沢の対中国文化統合理念の形成
-
「
台湾人」内国民化の基本的論拠 を通 じて 、
台湾総督府赴任 中における伊沢の漢語研究は,主 に日本語教育 とかかわって間南語の媒介的
役割 に主眼を置いたが, この時期 は,彼 にとって, じつに対中国文化交渉における方法論の集
大成期であった, と筆者 は見ている。
小熊英二は,明治以後 における日本臣民の血族的ナショナ リズムにかん して,単一民族論 と
混和民族論 とい う二つの傾眉'
が あった と指摘 している。実際,明治国家 とい う大 きな看板の も
とで,国体論 をめ ぐって単一的な血族国家 をつ くるか,それ とも植民地人を含めた現実的な混
合民族論 に基づいて国家経営 を展 開するのか, 日清, 日露戦争 とかかわって複雑 な様相が繰 り
広げ られていたのである。例 えば,エ コノミス トとして 「内地雑居論」 を捷起 した田口卯吉 と
井上曹次郎の論争や,加藤弘之,穂積八束,井上哲次郎 らの国体論 とキ リス ト教系知識人 との
論争などが展 開されたのだが,それ らの論争が,結局, 日本 にとって台湾領有 を一大契機 とす
る国体論の推進 にまったをかけたのである。つ まり,小熊 によって指摘 されたように,キ リス
ト教 的 「
普遍的なもの」 を排除 して,単一純粋 な血族 として 「日本人」の団結 を叫び,みずか
らの特殊性の殻 にとじこもることは,外部か らの影響 を排するためには有効 だが,それでは外
部 に進出す ることがで きない。外部か ら身を守るために固 く閉 じた ドアは,みずか らが外部 に
(
7
4
)
進出するにあたっては,逆 に障害 になる。初代学務部長の任 を与 えられた伊沢 にとって,この
「
外部 に進出す る障害」 を取 り除 く作業 は,む しろ現実味のある問題 として対応 を迫 られるも
のだった。そ して,その対策 として彼が提起 したのが,混和主義の理念だった と言える。
1
8
9
7(
明治3
0)年秋,台湾総督府学務部長の任 を終えて二 ケ月ばか り後の伊沢修二は,神戸
,
で開催 された帝国教育会大会の席上で,イス ラム創始者マホメ ッ トの戦闘的布教 を 「
右 に剣
(
7
5)
戟 を振 ひ左 に 『コーラン』教典 を以て」 とた とえなが ら,征服地台湾にたいする精神的教化方
法 として, 自主主義 ・仮他主義 ・混和主義の三者の採用 にかんす る比較論 を展開 した。
まず 「自主主義」 については,占領者所有のすべての精神文化 を強権的に推進するもので,
「
我国語我風俗 など凡て我 と云ふ ことを主 として此教化 を行 うて往 く仕
割 であると説明 しな
が ら,普仏戦争 とアメリカのハ ワイ占領 とい う二つの事例 を取 り上げる。一つ 目は失敗の例 と
して,鉄血統治者 とされるビスマークが植民地 として獲得 したアルサス,ロー レン二州の学校
教育において, フランス語使用の禁止 と ドイツ語の強制使用 を推 し進めたが,結果的には,現
地の人々が母語のフランス語 を捨てることはな く,その言語 に記 されたフランスの歴史 を忘れ
て ドイツ化 にすることは決 してなかった と指摘 した。二つ 目は成功 した例 としてハワイを取 り
上げ,そこには,長い年月にわたる原住民の減少 と,その一方でアメリカがは らった相当な殖
民の努力 を紹介 している。そ して伊沢は,台湾の場合 について,上述の二事例 とも異 なった事
情があると指摘 している。その一つは,台湾 を占領地 としてあまりにも急 に手 に入れたので,
(
T
T)
「
先づ教化することを先 きにして然 る後 に匁 に血ぬ らず して」の占領状況 とは異 なること, ま
た人種 ・言語 ・文化の程度 において, 日本 と台湾 との間の隔 りは,アメ リカとハ ワイ原住民の
,
ような 「
天地の懸隔」 とい うほ どの ものではなかったことを強調 している。そ して伊沢は結
局, 自主的な教化方法は台湾 において実施不可能であるとの結論 に至 ったのである。
第二の 「
仮他主義」 について伊沢は, フランス人のベ トナム及びオランダ人のバ タビア占領
における場合の言語使用問題 をとり上げている。 フランスのベ トナム植民地統治は,学校でフ
,「忽 ちに して其所等 に叛乱が起って来 る種 々様 々な困雑
なことが起って来 た」ため,1
8
9
1
年以降は方針 を変えて,フランス語の使用 をやめ,
「
役人で
ランス語 を施す ことには じまったが
1
3
4
天 理 大 学 学 報
も皆安南東京語 を学んでそれに依 って総ての仕事 をもする」 までに至った とす る。 また,オラ
ンダ占領下のイン ドネシアのバ タビアでは 「
決 して和蘭語 と云ふ もの を習 うてはな らぬ と云
,
ふことを法律 を以て定め」 ていたとい写'
。その一方,バ タビアに赴任するオランダ人は,バ タ
ビア語 を特別学校 で学ばなければならないことが義務づ けられていたともい う。
,
これ らの議論 には,安定 した植民地統治 をす るには 「
民 は之に由 らしむべ し知 らしむべ か
ら判
という統治策,つ まり仮他主義が大 きな役割 を果たす という認識 を,伊沢が持 っていた
様子 を窺 うことがで きようO伊沢は,江戸時代松前侯がアイヌ人にたい して とった策略 も同様
だった と強調 している。 しか し,台湾の場合, この方法 を採用で きない と伊沢は考 えた。その
理由 として伊沢は, 日本 と台湾は,何 よ りも,儒教 による 「
知徳」,東 アジア 「
人種」である
事実, さらに漢字が共有 されてお り.それらの点 において,極端な日本的文化の優位性が保 ち
に くいか らだ と説明 している。そ してそのため,台湾統治 には 「
混和主義」 を採 らなければな
らない と主唱 した。
では伊沢修二は, どの ように 「
混和主義」 を定義づ けたのであろうか。
,
我れ と彼れ と混合融合 して不知不識の間に同一国に化 して往 く仕鼎
彼 は混和主義 を 「
,
で
混和 の第一歩 と云
あるという。具体的な内容 として, まず言語の疎通 を挙 げる。すなわち 「
ふのは我頭脳 と彼頭脳 と互 に脳 中が よ くわか りあって相融合 して往 く」 ため に, どうして も
「
互 に言葉が分 らなければならぬ」 とい う。他の国の場合は占領す る前 に,宣教師や商人など
の往来 によって,ある程度言語 の疎通がで きるのが普通 だが, 日本 の台湾 占領 は,は じめ に
,「僅 に北京官話の分かった訳官」
,「北京語の分 る所の台湾人を拾出 して」,通訳 は日本語⇒北京語⇒ 「台湾語」 とい う
「台湾語が分 った者は一人 もござい ませぬ」 とい う状態で
を通 して
複雑なプロセスを辿 らなければならなかった。その結果,軍事上は勿論,政治上において も大
なる障碍 を抱 えていた。 したがって,なによりもまず 日本語 を台湾の人々に教 え,逆に日本人
は台湾の言葉 を学ばなければならなかった。その際に伊沢は,ほかならぬ漢字 こそが,混和で
きる媒介物 と見 な していた。
,「此孔
つ ぎに伊沢が取 り上げたのは 「
孔孟の道」 とい う道徳教育である。その理由 として
孟の道 と云ふ ものは台湾人の実 に宗教の如 く尊ぶ所の もの」であ り, 日本 において も,それは
「
古来大 に治道 に資 して」お り,この考 え方は今 日に至って もなお,恐 くは半数以上の 日本人
の頭 を支配 しているであろうと伊沢は考えた。 この文化的共通性 により, 日本 と台湾は 「
全く
,
互 に相混合 して往 く」 もの と見 な したのであ岩'
。孔孟主義 によって 「
実
同数の国」であ り 「
に究寛なる利益」が得 られ,漢語 と同 じく儒教 も混和する媒介物の一つ と受 けとめ られた。た
,『孟子』の思想 は, とくに 「易姓革命」 を肯定する側面 において, 日本の儒教思想 で異端
ど
,「万世一系」の王統の継続性 に天皇支配の正統性 を求める国体論 と対立す る もの とし
視 され
て,伊沢は排斥の態度 をとったことを,駒込
式も
哨 摘 している。
勿論, こうい う漢語研究 と 「
孔孟の道」 を内容 とする混和主義理念の形成は,伊沢が台湾 に
赴いた後 には じめてまとめたものではない。それは彼の経歴 とも直接的な関係があ り,明治2
0
年代教育勅語の発布が もたらした社会世相 とも深 く関連 している。1
8
9
0(
明治2
3)年,茨城県
における国家教育社での講演において,伊沢は教育関係者 にたい して,道徳主義 を実現する方
法 として以下のように述べているが,その内容 は上述の事情 をよく物語 っている。
「
私の-按 は此東洋には先づ孔子 といふ様 な大聖人があ ります,樺迦 と言ふ様 な人 もあ り
ます。而 して今 日迄 日本国の道徳 を維持す る事 に付て,力のあった庭の者は, ドゥしても
伊沢修二の漢語研究 (
上)
1
3
5
此二道である と云 はなければな らぬ。其 中に も儒教 といふ者 は,最 も能 く適す る所 の者で
(
83)
あ らうと思 はれる」
内地雑居論 ,キ リス ト教系知識人 による対外 開放 な どの当時の論調 は,台湾 において,混合
我
民族論 の隆盛 をもた らした。伊沢 は,教育勅語 を台湾の教 育方針 に移用す るにあたって,「
天皇陛下-
日本 の帝室 は実 に一視 同仁 の朝廷である。--若 しや此我 日本 の人民 は神 の御末
である我 々は神の子孫 である我々の此大和民族の外 は悉 く一
一層低 い人類である と云ふが如 き他
の方面 に於 て も最前 申 したや うな主義 を以て参 りま したな らば是れは大層 な間違 ひだ らうと私
(
8
4
)
神 の御末」「
神 の子孫」 と一方的に血族 的属性 を
は信ず る」 と述べ ている。そ してそこでは,「
唱 えなが らも,台湾 に同 じく教育勅語 を通用 させ るため に,他 民族 に対 す る皇室 の 「
一視 同
仁」 の寛容 をも強調 している。
実 に我
か くして伊沢 は,漢語 と儒教 を彼 の混和主義 の二本柱 としなが ら,台湾 について,「
数千の将卒の血 を以 て買 うたる所 の台湾であることを忘れ られぬや うに致 された 帯
と,統合
構想 を立 てている。駒込武の指摘 を借 りると,伊沢 は,台湾の在来文化 を,中華帝国の統合原
理か ら脱す ることによってではな く,その固有 の存在感 と侮 りがたい価値 をふ まえつつ,国体
帝 国 日本の文化統答」枠 内 に取 り込 もうと したのであ る。 こ
論 と日本語 を接合す るこ とで,「
の論述 は極 めて説得 的である。 また小熊英二 も, こう した 「
混合」 は言 うまで もな く真の意味
(
8
7)
での混合ではな く,双方向的な共通化 を述べ ているものでない と指摘 し,あ くまで も伊沢の計
画 した便宜 的な統制方法であることを強調 してい る。
西洋文明 を摂取 してい くうちに, 日本 では,次 第 に中国 を唯一の文明の中心 とす る認識が相
対化 された。 また,山室信一が指摘 しているように, 日本 は 「
西洋文化 に同化 したことによっ
て,中国文 明の辺境 とい う位置 を西洋文明の最前線 に運転 させ,東洋文明の魁 としての 自己規
(
B8)
定 を得 た」 のである。
ここでは,伊沢の混和主義 において,儒教 や漢字が 自己強化 と対 中国交渉の手段 として利用
されるに至 る過程 を見て きた。そ うしたス タンスの転換 は,その後の伊沢の政治,文化活動 に
も繋が ってい くことになるのである。
註
(1) 日本では漠字音から成る語,漢字の熟語を指すが,本稿では近代中国における適用言語 とい
う意味で使いたい。また,この意味において,日本では,江戸時代の 「
唐詩」をは じめ,明治
以後,時勢の政局に応 じて様々な呼称が存在 してきた。六角恒廉 によれば,1
8
7
1(
明治 4)午
-1
8
7
6(
明治 9)年 までは 「
南京語」 と呼ばれた一九 1
8
8
5(
明治1
8
)年 まで 「
漢語」
,また
1
9
4
5(
昭和2
0
)年 まで同時に 「
支那語」「
清語」 という使い方が一般的であったC場合 によっ
て 「
華語」 と呼ばれることもあったが,1
9
3
1(
昭和 6)年以後,「
満州国」の語 として 「
満州
語」などとも称 された (
同著 F
中国語教育史の研究j東方書店,1
9
8
8年 7月,2
0
頁参照)
o今
支那語」
日の日本で,中国語 と称 されているものである。伊沢修二の関連資料では 「
清語」,「
などの称呼が使われていた。本稿では,伊沢修二幼年時代 に受けた漢語 ・漢学教育及び台湾に
おいて漢語間方言についての研究をも包括 したことを意味する。
(
2) 伊揮修二君還暦祝賀会 『
楽石臼伝教界周遊前記』 (
非売品)1
9
1
2
年 5月。
(
3) 伊揮修二記念事業会編纂 『
楽石伊淳修二先生』 (
非売品)1
9
1
9
年1
1
月。
(4) 『
伊淳修二選集』(
信濃教育会,1
9
5
8年 7月)
。
(5) このことについて,伊沢は自ら次のように説明 している。「
二十八年の四月末頃か五月始頃
136
天 理 大 学 学 報
であって,昔時既 に戦争の大局は走ってをる,下開催約には彼の有名なる三園干渉 もあった,
けれ共毒酒丈けは我国の領土 といふは公然の秘密であった,然か も新領土たる憂湾の初代総督
としては,樺 山伯が任ぜ られるといふ ことも略解ってをた,依って余 は牧野文部次官 に紹介 を
得,大本営 に樺山伯 を訪ねて同伯の憂滞教育意見 を間ひ,且つ又同地 に国家主義教育の章施 を
望む創 こ,余の意見 をも語ったのであった。然 るに昔時余 は清国人張滋防氏か ら支那語 を畢 び
つ 、あったが, 自分が学ぶに も或は清園に行 く人の創 こも,支那語の替昔法が解 らな くては困
るか らして,視話法の原理 を唐用 して 柏 清字音鑑』 といふ書物 を著 し,それが殆 ん ど出来上
る時であったか らして,旅行中にも其校正 に従事 した,依ってそれ をも樺 山伯 に示 した所が,
伯 は大にこれを善 しとせ られ,且つ余の教育意見 を聞いて,左程 に意見があるな らば,寧 ろ自
ら局 に首って見ては如何 との事であって,種々談 しあった末,遂 に略童漕線督府 に仕へ て,新
領土の教育 を開拓 してみ ようとい うことに した」。伊揮修二君還暦祝賀会 『
楽石 臼伝教界周遊
4頁 12
05頁を参照。
前記』,20
(
6) 周知の ように,明治期の 日本 「国語」成立史 と植民地言語政策 との関連 において,近年,そ
の方面の研究の発展が著 しい。伊沢関連の論著 を上げてみ ると,駒込武 は 「
中華帝国の宇宙 を
離脱 して,中華文明圏 という F
地』のなかに, 日本 とい う F
図」 を浮かび上が らせ る」 ところ
に,漢語 を含めた帝国 日本の統合原理のあ りようが提示 され (
r
植民地帝国 日本の文化統合』
岩波書店,1
9
9
6年 3月,7頂 ),長志珠絵 は国語の制度化 と台湾での教育問題 との関連性 に着
眼 し,さらに伊沢の 「
視話法」による日清韓言語の解釈 を含めた 「
東亜語構想」が取 り上げ ら
(
近代 日本 と国語 ナシ ョナ 7
)ズム』吉川弘文館 ,1
99
8年11月,20
6頁 -21
4頁)
。 この
れて きた F
ほか,安田敏朗 は,伊沢の 「
東亜共通語」 と別個の視点 において,つ ま り, 日本語 を海外 に広
FE
]本帝国の言
め ようとい う意味で,上田万年の主唱 した 「
東亜共通語」 を取 り上げてい る (
語編制』世織書房,1
997年 1
2月,6
3頁)0
(7) 明治 日本における官僚の形成過程 について,神島二郎は,明治 日本の農業社会か ら産業社会
への変貌について,富国強兵 とい う国家 レベルの競争化社会 (
群化社会)へ,国民国家の変革
前衛 とす る 「
脱藩出郷の有志家」の造出が,結局,個人 レベルの 「
立身出世」理念か らきてい
ると総括 している。 とりわけ,彼 らの産業社会 とす る 「
群化社会」への進入は,従来の 自然村
とい う 「
第-のムラビ ト」 とするよ りも,藩校,塾,租 とい う 「
第二のムラ」 によって,明治
社会における文武官僚 ・企業 ・組合の組織のなかにあい対応 して,定着 し,同時にそ こでそれ
ぞれの性格が規定 される要素 を成 した と捉えている。その ような意味で,筆者は とくに伊沢 に
たいす る藩枚の影響 に注 目したい。神島二郎 「
明治の終 寓」 (
橋川文三 ・松本三之介編修 『
近
」
有斐閣,1
971
年 2月)
。ほか,同著r
近代 日本の精神構造』(
岩波書店,1
97
4
代 日本政治思想史 Ⅰ
年 3月)22
頁 一39頁を参照。
(8) 先行研究 として,埋橋徳良F
伊沢修二の中国語研究 一日中文化交流の先覚者』(
銀河書房 ,1
991
年 3月) 6頁 1 7頁 を参照。なお,同著 r
坂本天山の華昔研究 と西遊事蹟』 (
高遠町図書館資
料叢書第十六,高遠町図書館発行 ,1
9
93年 8月) 8頁 -1
0頁 をも参照。
(9) 埋橋徳良 『
伊沢修二の中国語研究一日中文化交流の先覚割 1
8頁に言及 されている。
」r
伊揮修二選集』1
02頁一1
03頁。
(
1
0) 「
中郡弥六氏宛の書簡
(
l
l
) 上沼八郎 F
伊沢修二」 (
吉川弘文館 ,1
9
62年1
0月)20
頁。
(
1
2) 石崎又造 『
近世 日本 に於ける支那俗語文学史』 (
弘文堂書房,1
9
4
0年1
0月) を参照。
(
1
3) F
長野県上伊那副 (
第二巻 ・歴史篇,上伊那誌刊行会 (
非売品),1
965年1
0月)11
39頁 一11
41
頁Oなお,上記埋橋徳良 F
坂本天山の華昔研究 と西遊事別 が詳 しいO
(
1
4) 「
長野県上伊那誌」11
45頁。
(
1
5) 阪本天山の学枕 について F
長野県上伊那誌』1
26
6頁 を参照。
伊沢修二の漢語研 究 (
上)
1
37
(
1
6
) 中村元起の門弟 として,高橋 白日
」,中村節蔵,伊沢修二,神尾光臣,中村弥六,安藤貞美,
松尾千振,皆川四郎,市江利済,渡辺猶人,後藤杉嵐 青山勝謙,河野通万,佐藤国紀,海野
幸嵐
内田文皐,長尾無量,富永介春,馬場凌冬 らの名が記 されてい る。『
長野県上伊那誌』
1
1
4
7
頁を参照。
(
1
7
) 上掲 『長野県上伊那誌」1
1
4
8
頁。
(
1
8
) 伊揮修二君還暦祝賀会 『楽石 臼伝教界周遊前記』1
9
1
2
年 5月,3頁。
(
1
9
) 「高等師範学校附属小学校国語科実施方法の要領 について」
r
伊滞修二選集』1
9
3
頁。
(
2
0
) 伊沢多喜男伝記編纂委月会 『
伊沢多喜男J(
羽田書店発行 ,1
9
5
1
年 8月)3
6
頁。先行研究では
埋橋徳良 『
伊沢修二の中国語研究 一日中文化交流の先覚者』2
0
頁 に言及 されている。
(
2
1
) 伊淳修二君還暦祝賀会 『楽石 臼伝教界周遊前記』2
0
5
頁。
(
2
2
) 佐藤三郎 『近代 日中交渉史の研究』 (
吉川弘文館 ,1
9
8
4年 3月)1
3
6
頁 -1
4
3
頁。
(
2
3
) 六角恒廉 F中国語教育史の研究』東方書店,1
9
8
8年 7月,1
7
5
頁 -1
7
8
頁を参照.
(
2
4
) 鱒 淳彰夫 「興亜会の中国語教育」(『
興亜 会報告 ・亜細亜協会報告』第 1巻,不二出版 ,1
9
9
3
年 9月)2
9
頁。興亜会の漢語教育 にかん しては,ほかに並木頼寿 「
明治初期 の興亜論 と曽根俊
虎 について」(
『中国研究月報J社団法人中国研究所 ,1
9
9
3
年 6月号)にも言及 されている。
(
2
5
) 伊 揮修二編 F日清字音鑑』1
8
9
5
年 6月。
(
2
6
) この点について,魚返善雄 は明治期 日本の漢語発音解説書 について,真 っ先 に同書 を取 り上
げたの もその ことを意味す るのであろう。魚返善雄著 『
支那語注音符号の発音』 (
東京帝 国書
9
4
4年1
0月)1
7
5
頁。
院,1
(
2
7
) 実藤恵秀 「支那語書誌学 (4)-日清字音鑑 -」
『
支那語雑誌』Ⅲ- 9,帝国書院,1
9
4
3
年9
月。
(
2
8
) 伊滞修二 『日清字音鑑』 l衷o
(
2
9
) 伊揮修二 F視話法j大 E
]本図書 (
樵)1
9
01
年 , 1頁Oこの史料 は呉宏明氏 よ り提供 していた
だいた。記 して謝意 を表 したい。
(
3
0
) 六角恒廉 『近代 日本の中国語教育J(
淡路書房 ,1
9
6
1
年1
2月)1
4
4頁D
(
3
1
) 張昇余 『日本唐音輿明清官話研究』 (
世界図書出版公司,1
9
9
8
年 8月)2
7
頁で伊沢の同著 に言
及 し,明清時 における南京官話及び江南方言昔の間接参考資料 としてそれ をと り上 げている
が,詳 しいことは今後の研究 に期待 したい。
(
3
2
) 安藤彦太郎 『中国語 と近代 日本j岩波新書 ・1
2
,1
9
8
8年 2月。
(
3
3
) 六角恒寮 『近代 日本の中国語教育』 (
淡路書房 ,1
9
61
年1
2
月)1
5
8頁D
(
3
4
) 伊滞修二 F
視話法』Ⅳ頁。
(
3
5
) 同上掲書1
2
6
頁 -1
2
7
頁。
(
3
6
) 「本邦語学二就テノ意見」
『
伊滞修二選集J を参照。
(
3
7
) 湯本武比古 「所謂国語調査 に就 きて」 (
信濃教育会編 r
湯本武比古選集』1
9
5
5
年 7月)第2
6
8
頁,原 出 『
教育時論』5
3
7
,1
9
0 年 3月1
5日,平井 昌夫 『国語国字問題 の歴史』 (
復 刻版) (
三
元社 ,1
9
9
8
年 2月)第2
1
3
頁一第2
1
5
頁。ほかに日下部重太郎 r
現代国語思潮』(
中文館書店 ,1
9
3
3
年 6月)2
9
4頁 -2
9
6
頁 を参照。
(
3
8
) イ ・ヨンス ク F「国語」 とい う思想 一近代 日本の言語認識』 (
岩波書店,1
9
9
6
年1
2
月)4
0
頁4
6
頁。
(
3
9
) 安世舟 「加藤弘之一草創期の特殊 E
]本的ブルジ ョアジーの国家思想」 (
小松茂夫 ・田中浩編
9
8
0
年 6月)所収,1
2
0頁。
F日本の国家思想』上,青木書店 ,1
(
4
0
) 同上掲書 1
2
3
頁 を参照。
(
4
1
) 「加藤文学博士の F
′
J
、
学教育改良論』 を駁す」
F
伊滞修二選集』1
1
4
頁。
1
3
8
天 理 大 学 学 報
(
4
2
) 伊葎修二君還暦祝賀会 F楽石 臼伝教界周遊前記』1
8
0
頁。
(
4
3
) 伊揮修二 「視話法」11頁 -1
2
頁。
(
4
4) 長志珠絵の研究 によれば,大矢透 はのちに杉 山文悟 とともに,「
r
内地』での音声主義的な表
記方法や話 し方教授 と連携 し,表音式仮名遣い と呼ばれる方式 を採用 した点 に最大の特徴があ
った」国語教科書 の r
毒酒教科書国民読本」 (
1
9
0
1
年 -1
9
03
年)を作成 した とい う。同著 『
近
代 日本 と国語ナシ ョナ リズム」2
0頁 -2
0
1
頁 を参照。
(
4
5
) 伊沢修二年譜 に示 された とお り,明治3
0
年以後,伊沢の貴族院での活躍ぶ りが 目立 っている
(
『
伊荏修二選集A)
。ほかに r
楽石伊津修二先生」2
2
3
頁 -2
2
4
頁 を参軌
(
4
6
) 中塚明 r日清戦争の研 剰 (
青木書店,1
9
68
年 3月)2
5
6
頁 -2
5
8頁 を参照.
(
4
7
) 藤崎済之助 r董滞史 と樺山大将J(国史刊行会,1
9
2
6
年1
2月)7
5
3頁 -7
5
4頁。
(
4
8
) 「明治廿八 年の教育社 会一伊 揮修 二 口話」
『
教育時 制 (
第三百五十号,開発社 ,1
8
9
5
年1
月)1
7
頁。
(
4
9
) 同上掲書。
(
5
0
) 同上掲書 1
8
頁。
(
5
1
) 同上掲書 1
9
頁。
(
5
2
) 同上掲書。
(
5
3) 吉野秀公 F
墓滞教育史J(
1
9
2
7
年1
0
月)1
1
頁 を参照。
(
5
4) r
童滞協会会報」第二号 ,2
6
頁。
(
5
5
) 「伊荏墓滞総督府学務部長の消息」(
『
教育時論』第三百七十号 ,1
8
9
5
年 7月)3
3
頁。
(
5
6
) 国府種武 r董滑 における国語教育の展開』 (
第-教育社 1
9
3
1
年 6月) (
柑 本譜教授法基本文
献上復刻版,冬至書房,1
9
8
6
年 3月) 8頁 -9頁 を参照。
(
5
7
) 伊揮修二 「毒酒の学事」
r
壷滞協会会報』第 2号 ,1
8
9
8
年.
(
5
8
) 「台湾教育談」「伊荏修二選剰 5
7
0
頁。厳密 に言 うと,漢語間方言は, さらに南,東,北,
福 州語」 とは,本来間東方言 を代表す る ものである。 ここで伊
中な どの方言地域 に分かれ,「
沢のいう 「
福州語」は,恐 らくそういう方言学の意味で区分 されている ものではな く,漢語間
方言全体 をさしているのではないか と考える。
(
5
9
) 「台湾教育談」
『
伊滞修二選集』5
7
0
頁。
(
6
0
) 「台湾教育 に対する今昔の感」
『
伊淳修二選集』6
5
4頁 -6
5
5
頁を参照。
(
6
1
) 国府種武 r量掛 こおける国語教育の展開j6
2
頁 -6
3
頁。
(
6
2
)1
8
9
5
年学務部が編纂刊行 した r日本語教授書』
r
新 日本語言集」 について,国府種武 『
墓滑 に
9
頁 を参照。
おける国語教育の展開」6
(
6
3
) 天理図書館蔵 r妻滞適用会話入門全』董漕総督府民政局学務部 ,1
8
9
6
年1
1月。
(
6
4) 国府種武 『
董溝 における国語教育の展開16
7
頁。
(
6
5
) r
墓滞適用会話入門全lの例文 を参照。
(
6
6
) 対訳法について,近藤純子 「伊沢修二 と r対訳法j -植民地期台湾 における初期 日本語教育
(
r
日本語教育j9
8
号 ,1
9
9
8
年1
0月)がある。
の場合 -」
(
6
7
) この言葉は右の文に再引用 された ものである。「董滑の教育 に関す る某官人の書簡」
『
教育時
8
95年1
0月)3
3
頁。
論』 (
第三百七十九号 ,1
(
6
8
) このような論調はほか にもある。例 の芝山巌事件の後で,「教育 は威圧の後 に施行すべ き者
若 し教育 を必要 とせば,何処 まで も新主義 に依 りて,断然之
にて,寧 ろ第二位 に置 くべ し」「
」(r教育時論』第三百九十
を施行すべ し」 と述べている記事がある。「
時事新報の墓滞教育論
六号,1
8
9
6年 4月)1
0頁 -11
頁。
(
6
9
) 「台湾教育の方針」
F
教育時論」 (
第三百八十二号 ,1
8
9
5
年11月) 5頁。
伊沢修二 の漢語研 究 (
上)
1
3
9
(
7
0
) 同上掲書 7頁。
(
7
1
) 国府種武 『董湾 における国語教育の展開j90頁。村上嘉英 「日本人在十九世紀末期対台湾関
南方言音韻的研究工作」
『
天理大学学報』 (
第1
6
0
韓,1
9
8
9
年)2
8
頁 -3
2
頁 を参照。
(
7
2
) 大原信一 F近代中国のことばと文字』 (
東方書店,1
9
9
4
年1
1月)2
鵬頁 -2
1
0
頁O
(
7
3
) 小熊英二 r単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』新曜杜,1
9
9
5
年 7月。
(
7
4
) 同上掲書58頁 15
9
頁。
(
7
5
) 「新版図人民教化の方針」
『
伊滞修二選集』6
3
2
頁
(
7
6
) 同上掲書。
(
7
7
) 同上掲書6
3
5
頁。
(
7
8
) 同上掲書6
3
6
頁。
(
7
9
) 同上掲書。
(
8
0
) 同上掲書6
3
3
頁。
(
8
1
) 「混和主義」 にかん して,頻繁に引用を したが,すべて同上掲書6
3
7
頁 -6
4
1
頁によるO
(
8
2
) 駒込武 『植民地帝国日本の文化統合』5
5
頁 を参照。
8
9
1
年 1月)3
3
頁.
(
8
3) 「
伊津修二の演説講義」国家教育社 『
国家教育』第四号 (
明治館 ,1
(
84) 「
新版図人民教化の方針」
『
伊滞修二選集』6
4
0
頁。
(
8
5
) 同上掲書6
41
頁O
(
8
6
) 駒込武 r植民地帝国 日本の文化統合』53頁。
(
8
7
) 小熊英二 「日本への道一台湾統治初期 の言語政策論-」 田中克彦他編 『言語 ・国家,そ して
権力』 (
新世杜,1
9
9
7
年1
0月)1
5
9
頁。
(
8
8
) 古屋哲夫編 『近代 E
]本のアジア認識』 (
京都大学人文科学研究所 ,1
9
9
4
年 3月)1
5
頁。