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Title
北海道の港湾の史的展開
Author(s)
酒井, 多加志
Citation
釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第36号: 49-56
Issue Date
2004-11
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1323
Rights
本文ファイルはNIIから提供されたものである。
Hokkaido University of Education
釧路論集一北海道教育大学釧路校研究紀要一第36号(平成16年)
KushiroRonshu−JournalofHokkaidoUniversityofEducationat Kushiro−No.36:49−56.
北海道の港湾の史的展開
酒 井 多加志
北海道教育大学釧路校数青学研究室
Development of the Portsin Hokkaido
Takashi SAKAI
Department of Geography,Kushiro Campus,Hokkaido University ofEducation
要 旨
江戸時代の北海道の港湾は西廻り航路により、大坂・江戸と結ばれていた。当時、港は船が安全に停泊で
きる静穏な海水面が得られる場所が選ばれることが多かった。北海道では“松前”と“江差”と“箱館”が
蝦夷三湊として賑わった。このうち“松前”は天然の良港ではなかったが、東西蝦夷地の産物の集散場所と
して適していたこと、海上交易は藩経営と直接結びついていたこと等により、江戸時代を通じて港湾として
の機能を果たしていた。日米和親条約締結後、箱館港は外国船の入港ばかりでなく、北海道開拓のゲートウェ
イとしてもますます発展し、箱館港を中心とする沿岸航路の輸送ネットワークが形成された。明治10年代に
入ると、明治政府は殖産興業と富国強兵政策のもと、港湾整備に取りかかったが、北海道では函館港の整備
が行われた。明治中頃からは北海道内陸部の開拓の進行とともに小樽港が、そして明治末からは石炭の積出
港および工業港としての室蘭港が発展した。戦後、地方港湾の整備が進むとともに、地域開発と結びついた
苫小牧港が建設された。苫小牧港は日本最初の本格的な据込み港湾でもある。現在は北海道一の貨物取扱量
を誇るとともに中長距離カーフェリーの航路数および輸送量は全国一となっている。1970年以降はコンテナ
リゼーションが進行したが、北海道はコンテナ貨物への対応が遅れている。しかし、北海道は束アジアと北
アメリカを結ぶ主要国際コンテナルート上に位置しており、また今後の経済発展が期待されている北東アジ
ア(ロシア極東・中国東北部)と地理的に近接している。従って、北海道の港湾はこれら位置的な優位性か
ら北東アジア全体のゲートウェイとしての発展が期待されている。
船持ち商人が活躍し始め、若狭湾に位置する敦賀・小浜を
1.はじめに
拠点に京都・大坂から琵琶湖経由で北陸・奥羽地方から北
とする外部との接触は主として海上輸送を通じて行われて
海道の松前に至る輸送ルートを確立した。
江戸時代の幕藩体制は政治の中JL、であり大消費地として
きた。従って海上輸送の結節点でもある港湾の果たす役割
も急成長した江戸と経済の中心であった大坂を中心とする
は大きい。特に北海道の港湾は国の港湾政策とともに北海
国内の沿岸航路網を発達させ、江戸と大坂は全国からの物
資の大集散地となった。沿岸航路には主なものとして、東
回り航路、西回り航路、江戸・上方航路あるが、このうち
北海道との繋がりが最も強いのは西廻り航路である。この
北海道は周囲を梅に囲まれており、そのため交易を初め
道開拓と強い結びつきが見られ、港湾は開拓の進行ととも
に発展あるいは衰退した。そこで本稿では北海道の港湾の
盛衰とその背景について検討していきたい。
航路はもともと出羽国最上郡の天領年貢米を酒田から下関・
大坂経由で江戸まで回漕することを目的に1671年に河村瑞
2.江戸時代の北海道の港湾
賢によって整備されたものである。後に航路は蝦夷地まで
延長され、蝦夷地からは昆布、乾鮭、ニシン粕などの海産
物が大坂・江戸へ、近畿・瀬戸内からは木綿・紙・酒・醤
北海道の港湾が全国的な輸送ネットワークに組み込まれ
るのは、16C末の豊臣政権の全国統一とともに訪れる。す
なわち、豊臣政権の全国統一とともに、越前・若狭出身の
油・酢など主として加工品が蝦夷地へもたらされた。この
ー49−
酒井 多加志
航路の商品輸送に従事した船は北前船と呼ばれ、明治中期
まで活躍した。江戸・大坂問の航路に用いられた菱垣回船
や樽回船が純粋に貨物の輸送を目的としていたのに対して、
北前船は船主が商品を員い込んで消費地で売りさばく“員
い積み”がとられたため、投機的な性格が強かった。従っ
て、この北前船が入港すると、商取引を行う人々が港に集
まり大いに賑わったとのことである。このことに関する記
録は瀬戸内海沿岸の港に数多く残されている。
この北前船の取り扱った商品は地域の産業や食文化にも
大きな影響を与えた。例えば、肥料としてのニシン粕は、
大阪の和泉地方での綿花栽培を可能とし、その後大阪が日
本の繊維産業の中心となる基礎を築いた。また、染料に使
用する藍が徳島で栽培されるようになり、徳島の藍染めが
特産品になったのも肥料としてのニシン粕によるところが
大きい。両作物とも栽培には多くの肥料を必要とするとい
う共通点を持っている。食文化に関しては、昆布が九州経
由で琉球地方にもたらされ、昆布のとれない琉球で昆布を
第1図 北海道の港湾
使った郷土料理を生み出したこと、大阪の名産品として塩
昆布を初めとする多くの昆布の加工品を生み出したこと、
京都名物のニシンそばを生み出したことなど、枚挙にいと
まがない。
江戸時代の沿岸航路の発達は同時に地方の港の発達をも
たらした。今日の主要港湾はこの江戸時代の港を直接の起
源とするものが多くみられる。港湾は古来より津、泊とい
う用語が用いられていた。このうち“津”が水上交通と内
松 簡 鴨
陸交通および水上交通と水上交通を結びつける交通結節点
を指しているのに対して、“泊”は船舶を安全に停泊できる
第2図 松前(5万分の1地形図「松前」平成8年修正,×0.79)
天然の泊地を指していた。すなわち、“津”は交通地理学的
な、“泊”は自然地理学的な概念であると言える。津と泊は
地名にも残されており、事例として大津や唐津や中津、寺
泊や大泊や大輪田の泊などをあげることができる。近代港
船が沖合に停泊している様子が描かれている。しかし地形
図からもわかるように、この港には船舶を風波から遮る岬
湾以前の時代、港湾の位置選定にあたっては“泊”、すなわ
や島などがなく、津軽海峡の風波の影響をまともに受けて
ち船が安全に停泊できる静穏な水面が得られる場所、具体
いた。従って、船舶を安全に停泊できる天然の泊地を有し
的には入江や大規模な河川の河口、ラグーン(潟)、島陰な
ておらず、港湾としてはかなり劣っていたと言える。しか
どが“泊”として選ばれることが多かった。これは当時の
し、松前が江戸時代を通じて港湾としての機能を果たして
沿岸航路に就航していたのが、大和型帆船であり、大波や
いたのは、東西蝦夷地の産物の集散場所として適していた
強風に弱かったことによる。
ことがあげられる。また、海上交易は藩経営と直接結びつ
問(1751−1764)の松前を描いた松前屏風にも多くの北前
江戸時代、蝦夷地では“松前”と“江差”と“箱館”が
いていたため、不便であっても松前の港を利用せざるをえ
蝦夷三湊1)として賑わった(第1図)。このうち、“松前(当
なかったことも、理由としてあげることができる云 そのた
時は“福山”と呼ばれていた)”は松前藩の城下町であり蝦
め、幕藩体制崩壊後は天然の良港である函館に経済的中枢
夷地の物資の集散地でもあった。第2図の地形図のほぼ中
機能が移っていくことになった。現在の松前港の港城は市
央に位置する福山城は標高20∼30mの海岸段丘上に位置し
挟まれ東西方向に細長く延びた海岸部に市街地が形成され
街地の西に位置する弁天に移動し、地方港湾および漁港と
しての役割を果たしている。規模こそ小さくなったが、こ
こは弁天島に遮られた天然の泊地である。
江差も蝦夷三湊として賑わったが、松前と異なり天然の
良港であった。すなわち、船舶の泊地は鴎島の東側に形成
され、この鴎島によって風波が返られていた(第3図)。北
ているが、かつてはこの地域に町屋と蔵が密集していた。
前船の起点港およびニシン漁の中心基地としての役割を果
港湾はこの狭陰な市街地の前面に形成されていた。宝暦年
たし、明治時代中頃までは廻船問屋や蔵が海岸に沿って林
ており、城の東西に延びる海岸段丘上には武家屋敷が立地
していた。現在、城の天守閣(本丸三層櫓)は再建され、
公園になっているが、武家屋敷跡は畑・牧草地や荒れ地あ
るいは一般住宅地に代わっている。そして海岸段丘と梅に
−50−
北海道の港湾の史的展開
第3図 江差(5万分の1地形図「江差」平成7年修正,×1.2)
立していた。しかし、江差もニシンの不漁と北前船の廃止
とともに衰退していった。ただ、江差は松前と異なり多く
の歴史的遺産が残されており、それらを活かした街づくり
が行われてきた。そして1996年には歴史的景観の維持を目
的とした「ふるさと江差の街並み景観形成地区条例」が施
第4図 函館(5万分の1地形図「函館」「五稜郭」
行されている。
箱館は松前藩時代は小漁村に過ぎなかったが、1799年に
東蝦夷地が幕府の直轄地となり、1802年に蝦夷地経営のた
め箱館奉行が置かれると、港湾都市として急速に発展し、
蝦夷三湊の一つとして賑わうようになった。その背景には
平成2年修正,×0.75)
城下を築き、港湾を整備し、市街地と港湾を管理運営して
いくことは小藩である松前藩には負担が大きすぎたと言え
箱館の地が「綱知らずの港」とも呼ばれるほどの天然の良
る。しかし、このことは港湾としての将来性については高
港を有していたことがあげられる。現在の函館は陸繋島の
砂州の部分に中心市街地が形成されているが、この陸繋島
いことを意味している。江差も先に述べたように天然の良
港であったが、泊地の規模が小さく、港湾の拡張が困難で
の北東部に直接津軽海峡からの風波の影響を受けない静穏
あった。また、山が背後まで迫っており、背後との輸送ルー
な海水面が得られ、ここが泊地として利用された(第4図)。
トの確保も困難であったこともあり、地方港湾としては優
陸上の港湾施設は函館山の北東部に位置する弁天町を中心
れているが、大規模港湾には成り得なかった。従って、日
とした地域の海面を埋め立てることによって設けられ、市
街地はその背後に広がっていた。そして箱館は幕府の物資
輸送を一手に引き受けた高田屋嘉兵衛の活躍により、さら
米和親条約では開港する港として箱館が選ばれ、松前およ
び江差は一地方港湾へと衰退していった。
に発展していった。
3.北海道の港湾の近代化
以上、蝦夷三湊を見てきたが、箱館は松前と比較した場
合、天然の良港という点では遥かに優れていた。幕府も幕
末にロシアとの緊張関係および外国船出没に対し津軽海峡
1854年に日米和親条約が結ばれ、北太平洋での捕鯨が盛
んであったアメリカ合衆国は、捕鯨船の避難港および燃料・
警備の強化を目的に、松前藩に新たに城を築くことを命じ、
食料の補給港として箱館港の開港を要求し、翌年、箱館港
その第1候補に箱館をあげた。しかし、松前藩はそれを拒
否し、結局は現在の城を改築するにとどまった。拒否した
理由として、費用がかかることをあげている。事実、松前
と比較すると港湾の規模は大きく、そのため、箱館の地に
は下田港とともに開港した。なお、箱館は横浜や神戸に見
られるような隔離された居留地2)が設定されなかった。その
ため、外国人が一般市街地に雑居したり、神社仏閣と教会
が隣接するなど、独特の街並みが形成された。
一51−
酒井 多加志
第1表 明治年間に着エした主要な港湾工事
港 名 着工 技
坂井
北海道における最初の本格的な築港工事は1895(明治28)
師 国庫金 地方賓 市町村賛 私賓
年から1901(明治34)年にかけて函館港3)において行われて
明11.5
いる。広井勇博士の調査・設計に基づき、港湾の唆漢、防
施エデ・レーケ
古市公威
野蒜
砂堤・防波堤および船だまりの建設が行われた。同じ頃、
/′11.7
亀田川の付け替え工事も行われている。すなわち、もとも
40
三 角
手 品
浦 戸
0
と亀田川は第4図の中央埠頭の北あたりに河口を有してい
0
JJ19.
横 浜(第1期) /J22.9 ノヾ−
たが、この亀田川によってもたらされた土砂が港湾に堆積
0
 ̄?−
することにより、船舶の入港が困難になっていた。そこで
ロ
/J23. 石 黒 五十二 1,294 0 0 3,620
函 館(第1期) JJ28. 広 ■月=
勇 200 0 462 0
名古屋(第1其耶 ノ/29▲ 聾 I¶ 尊太郎 0 2,388 ロ 0
小 樽(第1期) /J30.5 広 梓 勇 2,189
/J30.
デ・レーケ
大阪
昔 松
北海道教育大学函館校付近から千歳町の海岸部まで開削し、
亀田川は港湾とは反対の市街地の南側に注ぐことになった。
その後、第1期拓殖計画(明治43∼大正11)と第2期拓
1,872
殖計画(昭和2∼21年)によって、沖合に大規模な防波堤
直木倫太郎
800
新 潟(流木工事)
JJ31.
安 芸
が建設され、港湾区域は北へと拡張していった。この間、
函館は北洋における鮭鱒漁業の基地として、また高田屋嘉
否 一他 936 197 63 0
横 浜(第2期) J/32. 丹 羽 糾 彦他 7,820 0 2,700 0
伏 木(第1期) ′′33. 板 木 丹 治他 0 47
三 池
′J35. 綿 木 平之允 0 0 0 3,000
0
0
兵衛の設けた造船所に端を発する造船業の街としても栄え、
東新告品翌) /J39. 鹿 本 倫太郎 0 0 2,600 0
神戸(第1期1
岩内
高西牧義
12,729
0
明治期を通して北海道一の人口規模を有していた。
4.370
函館港に続き、1897(明治30)年に小樽港において築港
0
工事が行われた。小樽港の築港工事は函館港と比べるとさ
′′40.
2,310 690
0
らに規模が大きく、金額にして3.3倍、しかもすべて国庫金
′ト 悼((第2期) /J41. 伊 藤 長右衛門 5,080 0
0 0
釧 路
//42. 閻 確 忠 正 4,760 0 0 0
敦 賀(第1期) ノJ42. 憤 けI 貞 介 800 0 0 0
/J42. 一夏 芸 杏 一一−
0 465 0 0
清 水
函 館(第2期) JJ43.4 荒 木 又四郎 1,572 0 0 0
留 萌
JJ43. 横井鋼太郎
林
千秋 3,923 0 0 0
四日市
/J43. 肌 井
厳 0 885 150
大 分
/J43. 高 しl 重大郎 0 1,350 0
名古尾(第2期) ′′43. 黒 rI.1 聖人郎 0 3,962 0 0
関門海峡(第1期) ′′43. 原 Ijlゞi介他 14.046 0 0
を用いて行われた。すなわち、小樽港の築港は国の一大土
木事業として行われた。これは、(1)明治政府が遅れた産業
革命を推し進めるために欠かせない石炭資源を北海道に求
めたが、それにより、空知地方の炭鉱が開発され、そこか
0
0
ら生産される大量の石炭を全国に積み出すための港の整備
が重要課題になっていたこと、(2)北海道開拓が内陸部まで
東尉若品質) J/44. 甘 木 倫太郎 0 2,470 0 0
船 川
′J44.
湯 川 秋 ノ1三
0
369
0
進み、開拓のゲートウェイが函館では南に偏りすぎていた
こと、(3)開拓使所在地の札幌の中心性が高まり、その中心
0
(出典:竹内良夫「港をつくる」)
性に応じた港湾が必要であったこと、などが理由として考
箱館港は開港後、外国船の入港ばかりではなく、北前船
えられる。
交易の拠点として、また北海道開拓の玄関(ゲートウェイ)
もともと小樽港は開拓使のある札幌の外港および開拓民
としてもますます発展した。すなわち、道内の沿岸航路は
の上陸港として1872(明治5)年に色内埠頭4)が整備された。
そのほとんどが箱館港と結びついており、箱館港を中心と
さらに、土木技師のクロフォードの意見を受け、政府は現
する沿岸航路の輸送ネットワークが形成され、道内外の貨
在の三笠市にあった幌内炭鉱の石炭を小樽港から積み出す
物が箱館に集まるようになったった。
計画を立てた。この計画に基づき、1880(明治13)年に手
明治10年代に入ると、明治政府は殖産興業と富国強兵政
宮・札幌問、1882(明治15)年に札幌・幌内聞の鉄道が開
策のもと、港湾整備に取りかかった。しかし、大型船に対
通し、小樽港は石狩炭田の石炭の積出港としての役割も担
応した近代的港湾の建設には莫大な建設費を必要としたた
うようになった。その後、石炭を中心とする貨物が増大し
のびる め、財政難の政府は港湾の整備を野蒜港や横浜港や若松港
続け、1889(明治22)年には特別輸出港に指定された。そ
など特定の港湾に集中した(第1表)。このうち、宮城県の
れにもかかわらず、1897(明治30)年の第1期工事まで、
野蒜港は運河によって北上川、松島湾、阿武隈川を連絡し、
港湾の整備はほとんど行われていなかった。
東北開拓事業の拠点、さらには一大国際貿易センターを目
この小樽港は第5図を見てもわかるように、小樽港の北
指して作られたが、完成してわずか3年で台風の来襲によ
に位置する高島岬によって北から西方向にかけての風波を
り突堤が崩壊した。以後、多大な費用がかかるため突堤は
防ぐことができるものの、全体に湾入が浅く、天然の良港
復興されず放棄され、現在に至っている。これ以降、東北
とは言えない。特に、北東から東方向からやってくる風波
地方には大規模な港湾は建設されていない。一方、現在の
に対してはほとんど遮るものがない。そのため、港内にお
北九州市に位置する若松港は筑豊炭田で産出する石炭の積
いて船舶が安全に停泊できず、船舶が遭難したり、荷役が
出港として建設されたが、以後エネルギー革命の起きる昭
行えなかったりすることが絶えなかった。それにもかかわ
和30年代まで日本の経済発展の牽引役としての役割を果た
らず、この地が港湾として選ばれたのは、札幌近くでは他
した。
に湾入したところがないという消極的な理由であったもの
−52−
北海道の港湾の史的展開
られている。世界でも例のない長い研究であり、その成果
は世界の土木関係者に注目されている。その後、広井博士
は東大の教授となり、「広井山脈」と呼ばれる多くの後継者
を育て上げている。
第1期工事に引き続き第2期工事において、北防波堤の
残りの部分、南防波堤(延長816m)、北防波堤と南防波堤
の問に位置する島防波堤(延長265m)が1908(明治41)∼
1921(大正10)年にかけて築かれた。このようにして、小
樽港は横浜港に匹敵する広大な泊地を得ることに成功した。
第2期工事が行われている頃、海岸部では係船岸壁の建
設が小樽町の事業として行われていた。岸壁は広井博士の
意見が採り入れられ、運河式とされた。工事は1914(大正
3)年に着工し、1923(大正12)年に長さ1324m、幅員40
m、水深2.6mの運河が完成した。これが現在、観光で多く
の人が訪れる小樽運河である。ただし、現在の運河は陸側
の約半分が埋め立てられて道路となっている。
小樽運河は運河と名が付いているが、小型船用の荷揚げ
場であり、船舶が航行する本来の意味での運河ではない。
この運河式の岸壁は水深が2.6mしかないため、大型の貨物
船が直接接岸できない。そのため、港内の泊地に貨物船を
停泊させ、岸壁と貨物船との間の貨物の運搬を膵によって
行う方法をとっていた。従って、荷役作業を岸壁と泊地の
2カ所で行わなければならず、非効率な方法であった。当
時、貨物船が直接接岸荷役できる埠頭式が一般的になりつ
つあったにもかかわらず、時代遅れとなっていた運河式を
なぜ広井博士は採用したのか、疑問に思うところがある。
予算が足りなかったのか、あるいは、埠頭式を採用するこ
とにより、膵輸送に携わっていた多く人が失業することを
広井博士が考慮したからなのかもしれない。なお、昭和に
入ってからは埠頭方式が採用されている。
第5国 小樽(5万分の1地形図「小樽東部」平成3年修正,×0.84)
と考えられる。そこで小樽港築港初代所長となった広井勇
は東から北方向の風波に対して、沖合に長大な防波堤を築
くことによって湾入している海域をすべて泊地にするとい
う壮大な計画を立てた。
まず、第1期工事の行われた1897(明治30)∼1908(明
治41)年に北防波堤(長さ1289m)が築かれた。第5図で
は平磯岬から高島近くに至る太線が防波堤を示しているが、
そのうち北半分が北防波堤である5)。この北防波堤は日本初
のコンクリート製の本格的な防波堤である。当時、コンク
リートを使った防波堤の建設は、各地でひびが入るなどの
さらに明治末の空知地方での石炭生産の増大に伴い、既
存の桟橋では対応しきれず、1911(明治44)年に手宮に延
長397m、高さ19mの巨大な木造桟橋が建設された。この桟
橋は手宮石炭船積高架桟橋と呼ばれ、桟橋には「COALPIER」
と大きく書かれていた。この桟橋の完成で、石炭は直接鉄
失敗が続いていた。そこで、コンクリートに火山灰を混ぜ
道貨車から石炭運搬船に積み込まれるようになり、荷役作
て強度を向上させ、ブロックの積み方も当時の最新技術を
採用した。北防波堤は100年程たった現在もその機能を発揮
しており、土木学会から「現在でも使われているのは日本
業の効率化が進んだ6)。
土木史で驚異的」と評価されて「選奨土木遺産」に選ばれ
太との中継港としての役割も果たすようになったこと等に
ている。
より、小樽港の貨物量は増大した。そして、港湾の背後に
は銀行や商社の立派な建物が立ち並び、「北のウォール街」
とまで呼ばれるようになった。人口は第1回国勢調査の実
施された1920(大正9)年には11万7953に達していた7)。
以上見てきた港湾の整備に加えて、道内の鉄道網が整備
され北海道の開拓も進行したこと、さらに日露戦争後は樺
この工事に携わった広井博士は日本の近代港湾技術の開
祖とも言うべき人物で、先の函館港を初め日本の多くの港
湾にその足跡を残している。小樽での防波堤建設に当たっ
ては、暴風に見舞われた日に防波堤に出かけ、もし防波堤
が砕け散ったら自決しようと、短銃を懐にしのばせて工事
現場に足を運んだ、というエピソードが残されている。広
室蘭港も小樽港と同じく1872(明治5)年に札幌の外港
として開港し、室蘭・森間の定期航路が開設された。この
定期航路は函館・札幌を結ぶ札幌本道の一部として開設さ
れたものである。その際、室蘭港には長さ256mの木造のト
キカラモイ桟橋が建設された。室蘭港は小樽港とは異なり、
井博士はコンクリートの耐久性を調べる実験にも着手した
が、現在でも小樽港湾建設事務所においてこの実験は続け
−53−
酒井 多加志
4.戦後の日本の港湾開発と北海道の港湾
太平洋戦争により日本の沿岸航路網は壊滅的な打撃を受
けたが、1956(昭和31)年には輸送トン数は戦前の水準に
まで回復した。この間、地方港湾の整備が進み、港湾はこ
れまでの集中化から分散化傾向を示すようになった。これ
は(1)人口や産業集積の小さい地方において先行的に港湾を
整備し、港湾を核とした地域開発を押し進めようとしたこ
と、(2)港湾を多く配置することにより港湾のヒンターラン
ドを小さくし、陸上輸送コストを下げようとしたこと、に
よる。(1)にみられる地域開発と一体になった港湾開発ば‘日
本型港湾開発”と呼ばれ、後に新産業都市や工業整備特別
地域へとつながり、日本の高度経済成長の原動力となって
いく。“日本型”と呼ばれるのは、当時の欧米諸国では港湾
はあくまで流通港としか、考えていなかったことによる8)。
北海道における日本型港湾開発の代表が苫小牧港であり、
第6同 室蘭(5万分の1地形図「室蘭」平成4年修正,×0.55)
1951(昭和26)年の北海道総合開発第一次五カ年計画にお
いて建設が採択され、1963(昭和38)年に第1船が入港し
た。苫小牧港(西港)は日本最初の本格的な掘込み港湾で
あるが(第7図)、これは本来港湾の立地に適さない外洋に
絵革丙半島と呼ばれる半島に囲まれた典型的な天然の良港で
あり(第6図)、1876(明治9)年に噴火湾周辺を調査した
イギリス軍艦のプロビデンス号も、室蘭港が天然の良港で
あることを紹介している。しかし、室蘭港は札幌から離れ
ていることもあり、外港としての役割を果たすこともなく、
その後しばらく港湾の整備は行われなかった。それが1889
(明治22)年に北海道炭鉱鉄道会社が設立され、3年後に
室蘭・岩見沢問に鉄道が敷設されると、空知地方で産出さ
れる石炭の積出港として発展することになり、1898(明治
31)年には小樽港を抜き道内一の石炭積出港となった。そ
の後、小樽港と同じ1911(明治44)年に手宮桟橋よりも規
模の大きい延長574mの鉄道院石炭積出高架桟橋が建設され、
石炭の移出量は飛躍的に増大した。
北海道炭鉱鉄道会社は1906(明治39)年に鉄道国有法に
基づいて売却され、それに代わって北海道炭鉱汽船株式会
社と社名を改め、室蘭において北炭輪西製鉄所(明治42年
操業開始)を建設した。同時に、国策により兵器製造を行
う日本製鋼所(明治44年操業開始)が建設されたが、これ
はわが国最初の民間兵器工場でもある。これらの工場はそ
れぞれ海岸部の埋め立ておよび埠頭の整備を行なっている。
以上見たきたように、室蘭港の特徴は石炭積出港である
とともに工業港としての性格が強いこと、民間主導型の港
/
第7図 苫小牧(5万分の1地形図「苫小牧」平成5年修正,×0.68)
面した砂浜海岸に港湾を建設するというもので、海外では
あまり例を見ない。また、これまで「砂浜には港は作れな
い」とされてきた常識を覆すものであった。
この苫小牧港の位置する苫小牧市はもともと旧王子製紙、
湾開発を行っていること、にある。なお、室蘭港は大正時
代から昭和初期にかけて、小樽港と貨物取扱量の道内一位
を競っている。
戦前の北海道では、以上の3港湾の他に釧路港、稚内港、
大日本再生製紙が立地しており、紙・パルプに特化した製
紙工業都市であった。しかし、苫小牧港の完成によって、
港湾一帯に新たに木材、化学工業、石油精製、食品製造、
セメント製造などの企業立地が進み、一大工業地帯ができ
根室港も重要な役割を果たしているが、釧路港については、
あがった。商港としては当初は石炭積出港としての機能を
拙稿「釧路港を中心とする輸送ネットワークの発達過程」
担っていたが、その後各種貨物を取り扱うようになり、1975
において論じた。稚内港および根室港については、別の機
(昭和50)年には室蘭港を抜き全道一の貨物取扱量を誇る
会に発表したい。
ようになった。さらに1980(昭和55)年には同じく掘り込
み港湾である東港が供用を開始した。現在、苫小牧港は北
−54一
北海道の港湾の史的展開
海道最大の商港(流通港)であるとともに、苫小牧港のあ
最も輸送量が多いのは東アジアと北アメリカとを結ぶルー
る苫小牧市の製造品出荷額は全道一となっている。
トであり、東アジアとヨーロッパ、東アジア域内、北アメ
1960年代中頃に始まるモータリゼーションの進展はカー
リカとヨーロッパがそれに次いでいる。北海道はこの東ア
フェリー航路の増加をもたらした。すなわち、1968(昭和
ジア・北アメリカのルート上に位置していることから、北
43)年に日本最初の長距離カーフェリーが小倉・神戸間に
海道の港湾は国内および東アジア諸地域のハブ港となりう
就航したが、その後各港でカーフェリーターミナルの整備
が進み、5年後にはほぼカーフェリー航路の全国ネットワー
クが完成した。カーフェリー航路の増加は自動車の機動性
と船舶の大量輸送能力、低廉性が結びついた結果もたらさ
れたものである。北海道は周囲を海で囲まれていることも
あり、カーフェリー航路が発達しており、2004(平成16)
る条件を備えていると言える。
また、北海道は北東アジア(ロシア極東・中国東北部)
と地理的に近接しているが、これらの地域は今後の経済発
展が期待されている。事実、ロシア船の北海道への入港数
や日本・ロシアのフェリー輸送実績は、近年停滞している
ところがあるものの、増加傾向にある。これらの地域はサ
とまんこう
年4月現在、本州との問に10本の航路を有している。中でも
ハリンプロジェクトや図イ門江地域開発などいくつかの経済
苫小牧港は中長距離カーフェリーの航路数および輸送量は
プロジェクトも進行中である。サハリンプロジェクトはサ
全国一となっている。しかし、2003年6月未に東日本フェ
リーが会社更生法の適用を申請するなど、北海道のカーフェ
リーは大きな曲がり角を迎えている。
1970年代には、世界の港湾は流通革命ともいうべき大き
な変化が訪れた。すなわち、外国貿易を中心にコンテナを
利用した雑貨貨物輸送が急速に進展していった。日本では
ハリン州北東部の大陸棚において、日本企業も参加した大
規模な石油・天然ガス開発のプロジェクトで、特に天然ガ
スは有望視されている。そして図イ門江地域開発は中国、ロ
シア、北朝鮮の国境が接する図イ門江流域を、3か国間の協
力により北東アジアの物流拠点として開発しようとするも
のである。中国は日本海側に領土を保有しておらず、もし、
1967(昭和42)年に神戸港に初のコンテナバースが整備さ
このプロジェクトが完成すると、中国東北部から図イ門江地
れて以来、横浜港や大阪港や東京港など外国との貿易量の
多い港湾では、大規模なコンテナバースが次々と建設され、
貨物取扱量を急増させた。コンテナ輸送のメリットとして
域への輸送路が確保され、中国東北部と日本との物流が活
は(1)コンテナの規格統一に伴い複合一貫輸送9)が可能になっ
される。
発になることが期待される。従って、これからの北海道の
港湾は北束アジア全体のゲートウェイとしての役割が期待
たこと、(2)輸送の安全性、確実性が確保されたこと、(3)輸
送コストの低廉化がもたらされたこと、(4)破損率が低くなっ
たこと、をあげることができる。
しかし、近年日本の港湾はコンテナ輸送への対応がシン
以上のことから北海道の港湾は、その有利な立地条件を
活かしたグローバルな視点からの港湾計画を行っていく必
要があると考えられる。
ガポール港や香港港や釜山港や高雄港など近隣アジア諸国
本稿は平成15年度の北海道教育大学キャンパスネットワー
の港湾と比較すると非常に遅れており10)、ハブ港としての
地位は低下傾向にある。これは日本型港湾開発の結果、地
方港の整備は進んだものの、核となる港湾の整備が遅れた
ク講座「北海道の地理」において発表した「港湾から見た
北海道」の原稿を加筆・修正したものである。
こと、すなわち、神戸港や横浜港を初めとする大規模港湾
の国際競争力が低下したことによる。これは特にコンテナ
【注】
化への対応において著しい。そこでコンテナ港湾の国際競
1)松前三湊とも呼ばれる。
争力を向上させ、日本経済の活性化を図るために、政府の
2)外国人の居住・営業を許可する地域。
政策の一環として“スーパー中枢港湾の育成”が提唱され
3)明治2年より“函館”と改称。
た。現在、京浜港(東京湾)、阪神港(大阪湾)、名古屋港、
北九州港、博多港が候補として選定されているが、北海道
4)現在の色内埠頭の基部にあった。
5)正確には北防波堤の83%を第1期工事において建設し
の港湾は達定されていない。
ている。
6)手宮石炭船積高架桟橋は昭和36年に取り壊された。
7)大正9年の札幌の人口は10万2580、函館は14万5843。
5.これからの北海道の港湾
8)このような港湾開発の考えはすでに江戸時代に土佐藩
以上見てきたように、北海道の港湾は国際コンテナ貨物
の家老野中兼山によって実行されている。すなわち、
については対応が遅れている。従って国際コンテナ貨物の
兼山は土佐と大坂をより安全に、より早く結ぶ航路を
多くは東京湾に位置する港湾を経由して輸出入されている。
確保するために、17C中頃に土佐藩内に4つの港湾を
また、まだ一部ではあるが釜山港を経由するものも見られ
先行的に建設した。これらの港湾の完成により、大坂
る。しかし、北海道は国際コンテナ貨物について有利な位
との問に物流ルートが確保され、その結果、土佐藩内
置にあると言える。すなわち、世界のコンテナ貨物のうち
において産業が振興し、藩財政は豊かになった。
−55一
酒井 多加志
9)異なった輸送機関の間を荷物の積み替えなしに(例え
ばコンテナに入れて)撤送すること。
10)2000年現在、日本でコンテナ取扱量の最も多い東京港
と比較し、香港港は6.7倍、シンガポール港は5.9陪のコ
ンテナ貨物を取り扱っている。
【参考文献】
小林照夫(1999):『日本の港の歴史−その現実と課題』.成
山堂.
酒井多加志(1996):釧路港を中心とした輸送ネットワーク
の形成過程.人文地理学研究第20号,pp.291−306.
竹内良夫(1989):『港をつくる一流通・産業から都市活動
ヘー』.新潮社.
平岡昭利編(2001):『北海道一地図で読む百年−』.古今書
院.
藤本利治・矢守一彦編(1978):『城と城下町』淡交社.
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