YMN001104

貝貨の
[
土耳
苧
︵上し
輩達|
谷
Ⅱ
万
くのほそ道﹂の定本はここに見事 に完成するのであるが、その
でもなく素龍 なる人物であった。美文を鎮めた舌口薬の緒巻﹁お
し終え、剰え心にくいまでの祓文 をこれに書きつけたのは、いう ま
になっているのは、いかにも大阪人らしい0二に、﹁
炭俵﹂︵元
は豫め講程の代債を請求し、﹁上方風無是非事﹂と連中の笑草
二十三日付︶に素龍の歌書講程 のことが見え、それによれば彼
人らしい。その理由は、 一に、芭蕉宛桃隣書翰︵元禄 セ年五月
素龍﹂と肩書があること、等である。
﹁元禄百人一句﹂、賀子の﹁蓮實﹂等に入集する句には ﹁大坂
いずれも大阪在任俳人の撰集であること、殊に元禄四年江水の
同年昨非の﹁かなしみの巻﹂、同五年季範の ﹁ききらき﹂等、
の ﹁根合﹂、同年鬼貫の﹁犬居モニ、同四年自問の難
﹁波曲﹂、
木女に優に封鷹しぅ るこの城文の筆者 の卓絶した文才に注目せぬ 人
注O
故杉浦正一郎氏 であった。
氏は、蕉門野坂の言を書きとめた風律 の農本﹁小ばな し﹂、元禄
年子刷の ﹁別座館﹂に掲げる素韓薦金紋 の ﹁
贈苗里銭別締﹂等を
意 ぶかくとり撃げられ、久しく埋れたまま放置されていた素能に
しい照明を加えられた。
新 注 セ
素龍 について従来最も注意きれたのほ、
二年坪井
禄セ年 六月奥︶以前に講書に人集する彼の句は、元禄一
一、素龍は、一
・
小ばなし﹂には京の人とあるが、大阪に佳 んでいた
てのあらましを掲げると、およそ次のようである。
ここに、まず杉浦氏によって明らかにきれている素龍そ 0人にっ
植
/"
""'"
は、 恐らくないであろう。
.くの ほそ道 ﹂の浄書をな
元禄セ年初夏、芭蕉の信頼に底 えて -お
|築
素
二、歌孝は北村季吟の次子新 玉津鳴 王立の弟子で、 手 跡は上代様
に秀でていた。
某 頃、 蕉 披は共に素 龍 の手を習
三、元禄五年冬、江戸に下り、野坂の同道で深川に芭蕉を 訪ねた。
風雅に 投ムコ
して暫く逗留する。
い、 素龍は芭蕉の葮 実 で野坂東の 書即で講 程に震いだ。
四 、やがて 季吟 へも出入し、諸侯に代講した。大村屋などと懇意
であったが、柳澤 侯に 抱えられた。
五、最初は柏木 儀 左衛門と 穏 したが、のち 藤 玄永 と改 めた。 素龍
斎 ・全放 と擁する。
俳詣は鎗技と して楽しむ
元禄十二
歌軍者・書家として の方にあ
六、奥の細道・炭俵 集 の坂下を書いた。
セ 、従来芭蕉の門人と見たのは誤りで、
程度にすぎず、本領は古典軍者・
つたらしい。
八、江戸浅草自性院の住職という菖 説は誤りであろう。
年 十一月二十二日没というが、詳細は不明。
杉浦氏によって明らかにされている素 能に 聞する大要 は、ほぼ以上
の よ う である。
お埋れた部分の万が遥かに多いといわぬは ならない。
あろう。というより、素龍に閲するかぎりは、むしろその生涯はな
とはいえ、素龍の生涯は、今日においてもなお不明の裡に間きれ
ている部分が少なくなく、その全容は依然として十分蓋しがたいこ
ともまた事實である。しかし、その大領は従来考えるれていたとこ
ろとは興り、俳詣は寧ろその徐技 の一端にすぎなかつたとすれば、
次にその人と生涯は、営然 のことながら、更めて俳人ならざる、元
禄期の隠れた文人のそれとして追求してみる必要があろう。その場
合 、たとえ問題が芭蕉とは直接無関係の方向にそれた としても、や
むをえない。本稿は、あえてそうした文人素龍の本領 を求めようと
するものであるが、思えば同じ頃彼と相似た道をたど つた文人は他
にも多く、以下に掲げる資料中にもままそうした人々が浮び上って
くる。よって本稿は、またあえてそうした人々をもいとれずとりあ
げ 、かねて元禄期 の繁文の世界の一面をも窺う べきものとすること
が出来れば、最も幸いであると思う。
因みに、築貝貨とは、素龍 その他多くの寧輩を抱えて鋼吉の執政
一 ﹁奥の細道﹂
博本者、司
を補佐した柳澤侯 ︵松平美濃
守吉保︶の堂號 である。
注①杉浦正一郎﹁芭蕉研究﹂第三草の
﹁素龍﹂ 宍俳詣大辞典﹂︶等参照。また﹁
かはなし﹂の
紹介は早
沼波填昔 ﹁芭蕉に妾ありき﹂︵此
﹁ 一筋﹂所収︶に、ま た素龍停 め
あの際立つ
た断章の筆者系龍を更に求めて、以上の條々を具さに たどるとき、
奮説、及びその迎句は安井山西﹁蕉門名家句集﹂下に備わる。
しかし、﹁おくの ほそ道 ﹂のたくまざる害鳥者、そして
人はそこになお不明の鮎の残されていることも認めぎ るをえないで
三セ
"一
年次を追って 素龍の定跡をたどるとき、その材料は従来 知ら
いる元禄三年正月刊坪井編﹁根合﹂を最初に、同十一年五月刊
殆事項に
猿蓑﹂に至るまで、﹁小ばなし﹂は格別の好資料とし て、 他は
も諸俳書に見えるその句支 および坂下等の俳詣 関係の
誌 きるのであって、それ以外に判明した新しい事實は甚だ 砂ぃ
かし、その 勘い 中に次の一事は 、極めて些細な記事な がら、 従
く窺い知られなかつた素 龍の出自をゆくりなくも開示 するもの
西
即ち元禄三年初夏、伊藤仁斎は大阪の門人岩崎半産衛 M .
て 注目される。
右衛門の二人し招かれて、一子東涯 および門人数名を伴って 初
八日女侠、
大阪に下り遊ぶことがあったが、その大阪到着の四月上
謁見した四人の人々の中に、柏木儀左衛門なる人物が 含まれて
注O
のである。仁斎の門人隈﹁諸生納禧志﹂元禄三年の條 につけば
れは次のように 示 きれている。
四月六日以下大坂に連中條
之 牢人
一、上村 ャ太右衛門大坂町人
左衛門阿波
︵以下、十三日まで 十セ 大路︶
一、柏木 儀
し全しどれ
と来
。 ん面「れ
績て
山
仁
め
て
早
速
い
た
"
そ
右大坂謁見之人
三八
がきれたとこ
すでに問題の素龍が常時大阪にあったことは杉浦氏の一
ろ、従ってこの﹁柏木儀左衛門﹂が素龍 その人に他ならぬことは、
まず疑いえないであろう。とすれば、ここに彼は初めて仁斎にまみ
え、また自ら阿波の浪人であることを語ったことが知 られるのであ
注②
る。いま、﹁阿波
藩蜂須賀家家臣成立 書遊糸圓﹂によ れば、同藩中
に柏木姓を推したものは数案認められる由であるから、その阿波浪
人 たることは、まず信じて誤りないであろう。但し、そ の阿波時代
の動静については今は何ら知られるところがなく、果 してそこでい
かなる武士であったか等については全く不明の事柄に属する。が、
ともかく以上によって、彼は阿波藩を致仕浪人して大仮 に到った人
であることが少くとも判明するのであった。
なお、ここで以上の仁斎に同行して下阪した東涯 の日 記のうち、
その﹁伊藤氏家乗﹂庚午元禄三年の條にょれば、
四月六日 礎先生貝節約・換 ・綬元遊大坂、十四日婦 一0
足
と至って簡略であるが、同じく東涯の ﹁元禄三年庚午日録﹂によれ
ば、次のどとくある。
八日 0晴。 0大坂岩崎半左衛門・西山仁右衛門両人招待ニ村、
︵中略︶
先生大坂 へ御撰侯。吉田漢・草野籠 ・吉岡節約、丼拙 手相役。 日
出前、寂元元 へ被参、源八以下夫 二拙宅へ曹シ遠行
。高麗橋筋淀屋橋酉へ大ル丁南側中ほと、福島屋長兵衛と申
者之宅ヲ被借、是ニ何モ着申候。是二テ夕飯経営。 0其後、上村
注⑧
素龍
ものであろう。この句については、他に菖松山藩主久松家喜蔵﹁お
船 屏風﹂ 貼変短冊中の素龍の二葉にも、
と見えて、そ の博来の詳細についてはなお一考を要するとはいえ、
位中の う そ にて能はかⅠしかな
但し、これらの記事は何れも、必ずしも素龍の古義堂入門を意味す
これが 素籠め 阿波時代の一時ではなかつたかと疑わせる十分の可能
︵下略Ⅱ
るものではあるまい。所詮は﹁連中﹂﹁謁見﹂したにど
とまるという
性を秘めてい るもののどとくである。ここに、地方貞門の作法をそ
重大右衛門・柏木儀左衛門沖㍽2 初謁見
他 はないものであろう。しかし、それにしても浪々して上阪、前途
のまま大阪に 持ちこんだ素 龍を見るといえば、即断は鈴りに早きに
失するかも知れないが、しかしも し以上の諸 貼が認められるなら
模索期 にあった彼の動静を示すものとして、以上は十分 注目に慣す
る 一事といわねばならない。
。
ば、ここに素龍の大阪到来の時期は、恐らく元禄三年のこれらの直
なお、上記した元禄十一年五月まてのところで、 素 能に 沖 して他
ところで、これに先だつ事として、次に彼の大阪到来の時期が柳
解桂は 一% 困難のことといわねばならないが、またしかし却って背
に新しく判明した事實は、既にその江戸に下った後の元禄 セ 年正
前、即ち元禄二年中のいっの日かのことではなかつたか、と推定さ
ゅの﹁阿
景 にあるそうした資料的空白は、逆に例えば﹁諸生納祀士﹂
月 、季吟が催したその祖父宗龍 の五十回忌追善歌書 に 加わって、 湖
か問題となろう。素龍の動静を博える資料は、しか生 万緑三年正月
波之牢人﹂なるただそれだけの記事をも、思いなしかその大阪到来
春 ・正土および友喜らと共に詠歌を残していること、翌八年江月事
れるのてある。
直後を示すもののように感じさせないてもない。勿論、きればとい
吟 ・湖春 ・棚元らの歳旦集 ﹁乙亥 元旦﹂に歌俳 を人 集 していること、
ろで、これの
刊の ﹁根合﹂以前に逆上りえないことは既に見たとこ
てくれるわ
つてこの直前に位置する﹁根ムロ﹂が、早速とこれを讃し
の三% にとどまるようである。とはいえ、両者は共に、従来﹁小は
注④
けのものでもない。が、その﹁根ムロ﹂に見える彼の旬
八の中、例え
なし﹂によって知られるのみであ つた素龍 の季吟 ・正立 らとの 開係
三九
前者は 一鷹問題になるその﹁おく のほそ道 ﹂の浄書の時期に明らか
を、紛れもない事貫 として裏付け ぅ るものであることは勿論、殊に
注⑥
ば次の一句はいかがであろうか。
これは即座に貞門の口吻を示すものと、誰しも判定せざるをえない
と
に先行していて、浄書の作業が決して素龍の全く徒らに過していた
録 といわなければならないであろう。
藏︶
注①古義堂文庫 藏。但し、これの前稿﹁諸生初見帳﹂ ︵同文庫
には﹁二途中條﹂﹁
右大坂謁見玄人﹂の部分はない。便直上﹁納禧
志﹂に嫁 つたまでである。なお後出の﹁伊藤氏家乗﹂ ﹁元禄三年
庚午日録﹂も共に同文庫藏。
これは幕末のものらしいが、柏木姓は 大家ある中。この踵の貞享
ハり
る必斎
。 ず
た柳
" ら 詩作
" 一
事實は、その大阪はもとより、京都もまた、共に彼の期待を
わざるを得ないであろう。とまれ、江戸客居中の芭蕉との避
して以後若千の彼の動静については、既に﹁かはなし﹂ その
つて知られるところであるのでここには詳記しないが、芭蕉
によって歌書の講樺は とりあえず糊口を凌ぐ道を見出したら
は、やがて正正・季吟を通じて諸侯への代講という、 一企め
とってはやはり目ざましいと言わねばならぬ方向へと進んで
・
す
ちつつ
時代か
は
大阪
注②徳島大挙 圓書館宮島分館藏。飯田義貧民のど謝直 によつた。
素龍
想
期の記録の出現が期待きれる。
をくらかりにせむ夏の虫
の
、それにも拘らずやがて元禄三%冬
,、思い立つて彼が江戸に
と
注③和田茂樹氏の ビ教示による。も一句は次のもので、従来知ら
側隠燈
こ
の
仁
像
され
ま
四
つ
む
その後
から、 よ、
ら全
て故
暮
し
た
に 渉 龍
阿 を は
波 保
う
既 交 素
て
そ
も
ⅠⅡ
大
と
う
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い
と
で 僅 阪
あ か に
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な 到
た
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る
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て
人 初
連 年
る
く
こ 素
ろ 龍
で に
は
と
は
そ
俳 禄
ら
こ
ち
で
は
ね
か
十分発
満すには、なお遠くかけ離れたところであったことを一
不すも
た
れぬものである。
全故
注④野村貴 次氏 ﹁季吟の徒然章治穂砂 に就いて﹂中央大事文堅部
紀要文畢科第五號参照。素龍 のものとして次の二百が 掲げられて
いる。
周流諸國 五十鉄牛
全敗
おやと子のふかきえにしをしらま弔 いそちあまりの後のおふせに
懐菖
全故
素龍
移り行むかし語をしめやかにかきつくすへき友そすく なき
注⑤﹁資料と考 燈﹂ 一、白石悌三氏稿参照。素龍の歌俳は次のも
のであるり
夜明より五音のよさに四万の春
口乙
安元旦口
さかゆ へき國の御空にたり春の時にあへやと玉津しま姫
く
し
た
よ
う
お
暫
む
一
染めて
も
分
に
言
、
そ
日々の産物ではなかつたことを示すべき、きさやかながら貴重な記
月
暮ロ
などし
歳
く
衛に反えて後
し
十 下
に
よ
と
と
お
浪人し
て、土
な,
『
も
か 喜 人
俳 に 阪 阿
詣 旬 に 波
に
を 居 藩
投 を を
手 じ 定 数
を る め 仕
つ
東 と
涯 え
父 彼
手 の
彼 に 木
の
ま 領
期 み を
全
し
か
し
つ
他 遁 の
の
登
案
浪 し
大 い
に 彼
行ったようであったらとすれば、前途はなお定まら ひ とはいえ、 元
禄セ年 四月芭蕉に 托 きれて﹁おくの ほそ道 ﹂の浄書を なし遂げ 城文
を草したのは、 素龍 にとっては最も意欲に満ちていた時代であった
同 年 六月、芭
といつても過言ではあるまい。少くとも、そこには自らを頼む気概
に盆 れるものがあるといつて差し支えないであろう。
蕉 の去った後、彼の講樺を斡旋した江戸の俳人達をして 、﹁素 韻事、
注①
取持 かね申供。存候とは様子相違御座候﹂と大いに手 こずらせたの
% 検 讃する ためにも、 彼
も、 従って實はその自負の激しきのゆえで は なかった かと考えられ
る。ここに、浪人素龍 のそうした性向を一
9べき二三の登 旬 をとり出しておくこ とにしょう。
0作品から参照 ょ
接見に小もんの羽織着るはなし 同 ︵大坂︶
素龍
素龍
︵元禄四年八月 序刊 賀子偏﹁蓮 實 ﹂︶
あら ひ髪鬼か 笑はん大つもこ
素龍
︵同五年二月 序 刑事 範編 ﹁ききらき﹂︶
何かしのかうの殿の花見に侍りて
中丁もそれ相鹿の花見かな
︵﹁同 ﹂︶
︵
同セ年 六月刊﹁炭俵﹂︶
素龍
芭蕉よりの丈にくれの事いかしなと在し
其 かへり事に
爪取りて心やさしや 年 どもり
姫百ムロや
上よりきかる珠の糸
素龍
︵
同十一年五月刊﹁績猿蓑﹂︶
ともあれ、﹁績 猿蓑﹂に見える右の一句を最後に、俳書に人 集 する
彼の句は、以後全く途絶えるのである。従って、以後彼は江戸の俳
壇から全く身を退いたこととなるが、その元禄十一刀 至 十二年と
万 々代講
は、とりも直きず﹁小ばなし﹂にいう彼の柳澤侯への仕宮の時期を
示しているのではあるまいか。
正五門人牧、季 吟師 へも出入校 致 、殊の外気に入り、
に被 参候。大村侯など 御懇意にて候 虎 、柳澤 侯へ御抱 へにて 被
注②
参 、 某 頃は柏木 儀 左衛門と申 候に 藤之丞と由侯 ︵﹁
小は なし﹂︶。
勿論、ここにはその年次については全く示きれていな
服部手爪
しかし、いま右の一事を柳か傍 讃すべきものに、望月鹿門の ﹁三
英 随筆﹂に見える次の一條がある。即ち、
松平美濃守殿御出頭全盛 之時 、京都より柏木藤 之丞
とて 歌導者両人を呼下し、板石出。服部は母方連歌師長姉の 末
孫之由 、両人共に御納戸役務居串候 。
後 の詩人南部
と 。い う ところの柏木藤玄永とは、先に儀左衛門を縛 した素龍 その
注⑧
大 であることは 言,ヮ
までもない。また服部幸人とは、
歌人として柳澤 侯に 抱えられたことは、すでに請書 に見えて知られ
四一
るところである。いま、コ譲国雑話﹂によれば、南部の 仕官はその
掲げよ ぅ とする所以であるが、誠に大部の本書の全貌を明らかにす
素 龍の 正膿を明らかにすべく、かねてこれに開達する人々をも逐一
四二
十セ 歳の時、即 ち 元禄十二年のこととなる。但し、こ こに柏木藤 之
ること はもとより本稿の任ではないので、適宜取捨を加えて、大要
注①
丞の仕官の時期をも、またこれと同じく元禄十二年の こととするた
% お 断りして
誤停 もまま混じる よ う であ
本 ︶とある。 但 し 、﹁先哲
南郭は十四のとき元禄百子東都に至り、土ゼ歳の時柳澤 侯
に 仕へられたり﹂︵日本思想家典博全集
吉保 の 謎生より、五十
叢談﹂はこれを十六歳の時とするが、とらない。
吉保 の一面﹂に ょ れば、 明治初年頃
人より、柳澤家には古株 が 荻生 皮卿を相手に親撰した築只堂年録
坂田 諸遠 ︵﹁甲斐少将吉陳朝臣 實紀 ﹂百冊の著者︶は 、 ﹁偶 々ある
注⑥﹁人物論叢﹂所収﹁柳澤
論叢﹂等に既に若千の紹介がある。
セ歳を以て没した正徳四年十一月に至る間の事蹟を話録した公用
日記。福井久 蔵 ﹁諸大名の軍術と文藝の研究﹂、 辻善 2 助 ﹁人物
注⑤柳澤文庫 藏 。 嶌 特大本二百二七九巻。
注
①﹁
注③﹁文倉雑記﹂コ % 園 雑話﹂﹁閑散銭 録 ﹂等 。
善本とするが、ここでは﹁三十幅 ﹂所収本によつた。
る。その著﹁ 三英随筆﹂一名﹁ 鹿門 随筆﹂は、﹁杏林叢書﹂本を
した。 従 って時代はやや後れるため
二歳を以て 没
注②元文二年以後幕府 奥警 師を勤め、明和六年 セ 十一
翰篇 による。
注①元禄 セ年 六月 廿 八日付芭蕉 宛杉風書翰。校本﹁ 芭蕉全集﹂ 書
おきたい。
は表記課題の範 園 に限るものであることを、ここに一
麻人共に御細
めには、 爾者を同時に京都から呼び下したようにいう右の一文のみ
ではいききか心許ないが、﹁両人を::板石出。
月役﹂を相勤めたという所には、少くとも繭 者はほぼ 同時期に仕官
したものと受取られるのであって、今は一まず以上によって、その
仕官は元禄十二年のことてあったとしても、きほど大 きな誤りはあ
るまいと思われる。
素龍の柳澤侯への仕官の時期を 、服 りにいま元禄十二 年 のことと
したが、しかしその動静ほこの前後、元禄九 ・干 、同 十三年の間 全
く不明である。また、仕官後﹁御納戸役﹂を相勤めた とい,≦事實に
ついても、いまこれを徴すべきものを知らない。この難 は南部につ
いても同様である。
しかし、そのような若千の不明の時期を経て元禄十四年以降に及
ん ては、彼等の動静は共に仕官した柳澤侯 の 周退 に浮 び 上ってく
る。即ちそれを示すものは、柳澤侯 ・美濃守吉保 の 日 記 ﹁
築只重 年
注⑤
録 ﹂に他ならない。従来、本書は一部に知られるのみで、その全容
注⑥
は久しく 閉 きれたまま今日に至った。但し、その内容は 些かも 秘す
べき性質のものてないこと勿論である。以下木書 を中 応に、営面の
ム
と
む
け
つ れ
か ど
望 つ
を
と
る
事
@よ
記
が
あ
こ
百
人 車
日
す
と
る
あ
る
。
印
英 す
藩 る
こ
一
この歌曾 に一座の人々は、季吟 ・正士,棚元を初め、安喜 ・有
邦 ・宗恵 ・村螢に全故を加えて都合八人。安喜以下の口人は、何
れも季吟に属した江戸下りの歌人達。この中、宗高が貞徳弟子で
六字堂と縛 した内海兵右衛門なる京都の人と知られる他は、詳細
は殆んど知られぬ人達であるらしい。
り同年八月十五日、柳澤家詩歌曾 に孝吟 ・正士・棚元・宗恵 らと 一
座 ︵
同 ﹁年録﹂第八十六巻︶。
﹁年録﹂に見えるところは次のよう である。
十五日
一、因。例典二行詩歌曾子
私亭ぺ兵和歌兼題、月多秋夜。
校外タ空 正
還付秋タ棚元
早秋暁露 季吟
美本蓬楢種
頭松久 吉
雨中暁鐘 儀
水郷暮秋吉 保依忍増轡知惧
勝就
棚元旅宿 夢
寛正正位
後朝恨慰安貞田家老翁
寄風懐嘗
各詠歌は記載きれていない。この中、安貞は吉保 の嫡子て
且ハ
斐守古里。女子藤氏は正親町町子か。正堅は池田才次日
立野道庵、知惧は細井次郎大夫、種俊は依田十助、勝就は
左衛門、儀朝は矢野仁兵衛、何れも柳澤家家中の人々であ
四三
人 は
甲
俊貞故堅探題
ゑ蓄豊翼繁 陳朝
する
てと
" 題
禄
い
同
最
招 元
が
の
十 歴
し
と
巻
か 推 は
」 覧 の
と
其
間 木
き
@ま
て
秘
フ亡
湖一
ら
堅
檀像儀軌
茂
汀
恵て
0同年九月十三日、同軟膏 に出座︵ 同 ﹁年銭﹂第八十 セ巻 ︶。
知惧潜大勝 就全 改正
嘗 日の兼題は月前管絃、探題略 。一座の人々は 、
百重
村沢
の十九人。各詠歌の記載はない。百重は黒田豊前守の こと 。茂卿
ヰよ﹁庫銀﹂
は荻生 惣右衛門、行次は岡田新卒。荻生 惣右衛門の名 @
住③
にも既にこれ以前元禄九年九月から見えるが、元禄セ 年正 月 武州
池 口才 次
川越時代の柳澤家分限帳にも、﹁大近習﹂として岡田
新 平 ︵百名︶
山東久左衛門︵同︶・都築叉セ郎 ︵百 有五人扶持︶
とその
目﹂﹃
郎 ︵百五︶らと並ん て ﹁一、 拾五人扶持荻生 惣右衛 ﹂
志村
名 が見えている。これは従来知られている彼の仕官 の年次 を訂正
するものであろうか。因みに、同分限帳には細井次郎大夫
三左衛門らも、夫々﹁ 御 武頭・ 或百石 ﹂﹁軍者儒者, 或 百 石 ﹂と
して見える 0
0同年十二月十八日、同歌書 に出座︵ 同 ﹁年録 ﹂第九 十三巻 ︶。
常日の記事、及び一座の人々は次のよう である。
有歓聲 、即席探題︵略︶。
橘氏女子女子
豊前 守
一、今日和事典二行和歌 曾 @ 由グ拝二領松平 芝縛號 也 。 兼 題 、松
吉保古里藤氏女子源氏女子
王立
同藤原正 堅
同源 行次回文 眞
同藤原 全故
百重法印 季吟
卿
四四
慎司
陳勝 就
橘儀朝日 物部 茂
玄眞は成田 宗 庵 。
同藤原種俊司
湖九宗商家臣 源知
回漕 夫
の 二十一人。右の各詠歌の記載はない。
季吟
元禄十五年正月十八日、同軟膏 に出座︵ 同 ﹁年録 ﹂ 第 九十四巻︶。
橘氏女子女子
受 吉ム﹁
私
目年セ月 十二日、吉 保 、﹁諸ヰ北村高昌院 法印 季吟 @再博 Ⅰ
の 二十人。この中、初出の元孝は即ち服部南郭である。
脚荷次女真九季
玉江湖元宝高知 惧勝就全改正室積俊儀 朝茂
吉保古里藤氏女子藤原氏女子
兼題は松 添緑色、探題 略 。一座の人々は 、
O
卿
行
次女真竹
甫
兵勝
従五位下直垂法印事件親元
四位下古里藤原氏女子藤氏女子
兼題は依水月明、探題略 。一座の人々は 、
少将吉保徒
女子役二位公道
倭朝
徒長
季時等迄の分を記 載するが、
略 。正親町歩通は此頃から頻繁に柳澤家に出入・文通 している
の 十八人。以上各詠歌の中、公道・
全牧茂 卿
橘 氏女子
同年八月十五日、同歌書 に出座︵同一・手録二 第百三巻︶
録 ﹂第百二巻︶。
歌集口訣 -︵中略︶往年既 博愛 之 、 然ム﹁夏 焼亡 故復友子 此 ﹂︵同 ﹁年
ム
O
が 、吉保 とは和歌の叡覧・添削を時の仙洞乗 元暁に取 次ぐ 闘係に
光政
貴頼
宗像
九季佐直直往兵種貞全 改正室 儀朝茂 脚荷
湖
仙甫
の二十三人。各詠歌の記載はない。右の中、季任は正
次玄 真柚酢
﹁屈臣請吉川惟足徒長 @再 博二受林道八雲秘訣 二 ︵
同 ﹁年 録 ﹂第八十
八郎大夫、
種貞は前出依田十助種俊、光政は榊原某 、貴額 は今上 -
五月十 セ日
三巻︶している。 他甫は前出立野道庵潜 夫のこと。 な ね 、比周 正
宗條は 闘文右衛門。
0同年二月十三日、綱古柳澤 邸に 御成、﹁家臣田中清大 夫 省吾、進士
立は五十一歳を以て江戸に没しているが、いま素籠め 側に、これ
注⑥
に諦 して何ら徴すべきものがない。
講小雅抑篇無競継人草ゅ次韻 岡文二郎元 昌以 -唐音 -進 三諸大豊か
序 づ荻生 宗右衛門茂卿詳 。之。 既畢 唐音問答 敷返 ﹂︵同 ﹁年録 ﹂ 第
0同年十二月五日、将軍鋼吉柳澤 邸に 御成、﹁家臣 渡逼 惣 左衛門 幹
進,
講詩経秋千篇べ次柏木藤玄永金紋者、源氏物語紅葉 哲二節也﹂
百十三巻︶。
ぅが 、﹁庫銀﹂ではこれが初出である。﹁田中
桐江博 ﹂に も 近藤正
官は元禄十二年その三十二歳の時であった︵﹁田中
桐江 博﹂︶とい
か
り仕
宮口一座の寧 輩は 、前年十二月五日の條に同じ。田中省五口
︵
同 ﹁手録﹂第百十巻︶。
営口一座の畢 輩は、
小俣 二一郎君衛門 弼種
荻生 宗 右衛門 茂卿
宣風
都筑 又左衛門養親
志村Ⅰ 一
左衛門 栢幹
見権之 正俊秀
る 。また、﹁鞍 同文次郎、名は元 昌 、號 燕出、長崎の人 なり。総髪
斎 全集の好著故事中講 鉱の部から 省 五口の進講の記事を抄出してあ
津田五左衛門正信村井源五郎
擢セ郎清隣
にて容貌甚だ異なり。
柏木藤 之 正金紋
渡逼 宗左衛門 幹
津田宗助刊行酒
費金子
人のをとし 種 なりと 云ふ 。十九にして江戸に来り、
村上権 平好
の十二人。なお、右に全故に先立つて詩経を講じた渡 逗惣 左衛門
柳澤 侯に 仕へたり。 某時年は二十六なりと 申 けれども 實は十九な
ら逆算すれば、その仕官は十九歳の時として元禄十年 のこととな
年セ 十一を以て没した︵柳澤信復 ﹁聞書﹂水木直 箭氏 藏 ︶ことか
徐翁推華 にて
華昔をよくす。或は長崎の評者の子にて 華
幹は 、のち荻生 惣右衛門と並んで柳澤家の儒者に掲げ られた人で
注⑥
ある。
り ::。﹂︵譲
﹁ 國 雑話﹂︶という蘇山鞍岡元昌は寛延 二年三月六日
季吟
0元禄十六年正月十八日、同 歌曾に 出座︵ 同 ﹁竿縁﹂ 第百十二巻︶。
橘氏女子女子
兼題は松延齢夜 、探題 略。一座の人々は 、
吉保古里藤原氏女子源氏女子
四五
るゥ
0同年八月十五日、同歌曾に出座︵ 同 ﹁年録二第百二 十一巻︶。
兼題は月下交遊、探題略 。一座の人々は、
吉保 吉旦 橘氏女子女子 季吟湖 兄事 任徒 長全故
正堅儀朝茂脚立 眞元孝桓幹竹 甫 光政 貴頼種
貞
の十九人。各詠歌の記載なし。
0同年九月十三日、同歌曾に出座︵ 同 ﹁年録﹂第百二 十二巻︶。
嘗日の兼題は名所月 、探題略 。一座の人々は、前條の 人々に宗
條が加わり、玄眞が鉄座するのみで、他は同。また、各 詠歌の
記載なし。
悼詩歌曾に出座︵同 ﹁年録﹂第百二十三巻︶。
季吟
0同年同月十 セ日、於月桂寺 、吉保先考正寛院柳澤家 忠士セ年忌追
堅 儀軌
禎幹茂卿全 故仙
橘氏女子藤氏女子藤原氏女子女子
兼題は寄月懐旧、営陸路。軟膏に一座の人々は、
吉保古里
光政
棚元徒長事仕種真正
百九季 貴頼宗燦
︵以下司︶
季吟
の二十一人。次に兼題から二三の詠歌を掲げておく。
Ⅰ寄月
壊菖口
たのしみをきはなろ國にすむ人を酉の雲ゐ0月にとは㌧ や
四ハ
禎幹
むかしにもかはら めけふの秋の月影をし見れは袖 そつ ゆけき
茂卿
う へにやとるらし月の桂のてらす御 影も
全故
くり返し昔の秋を思ひ出て身は下ねからあふく月影
なき玉のうてなの
元章
いかなれやみれはあやしくいにしへのわすられやらぬ 秋の夜の 月
従兵
なき人のかたみと見れは睦ましなむかしをかたれ夜半 0 月影
嘗座 にも各詠歌があるが、略 。同日、歌曾後更に同額にて諸費あ
り。一座の人々は、
源朝臣 吉保司古里
池田正堅 矢野儀朝 貧苦長楽
臣 ︵以下同荻
︶津勝久柳澤 保誠 松平忠英
小田政府小俣弼種渡退幹
依田種貞
荻生皮 卿
酒見俊秀柏木 金紋平井立命柏原典治
就
志村 禎幹
津田利行
酒井勝也山東隣
村井 宣風
日間景賞服部元手
ム
﹁
立貴頼甜宗條
津田正信
立野 仙育成田玄 眞
都筑養親村上夙成 金子清隣 戦前冗員榊原光政久志木常道
の三十五人。ここには客分の人は見えず、すべて柳澤家家中の人
︵以下口︶
志村 禎幹
明輝ム﹁
々である。 全放 その他二三の人々の作を掲げておくと次のよ う で
ある。
自
寄月 壊菖ロ
荻生皮 卿
先君 已没 土鈴 年 、去 蚤 末運 不 。拝 "賢 、白露 農ゾ霜屋染戸
毒荏 %
高天 つ
柏木 全故
徳 尊下。裏話 驚 /人 、披 二旬月明 眼 景 親、一二洗 古来 懐菖 什 @遥空
雲客 仰 Ⅰ孤輪れ
年光好足 末流水、 萬古 清光同一切、 較潔 月明 無 。解 。者 、 等閑 三
五濁盈虚。
服部元章
営田、一座の人々は、
曾を興行︵同 ﹁年銭﹂第百二十セ巻︶。
吉保古里藤氏女子藤原氏女子
橘氏女子女子
季吟
湖九季 任 百重従兵勝久忠英 全故種 真正 堅禎
幹茂卿儀朝 光政元章 貴頼 宗像 仙甫
の二十五人。即席、菊襲多秋 。各詠歌の記載なし。
荻生宗君衛 門茂卿
山ホ
ム同年十月二十一日、吉 保 ﹁
招Ⅰ
請豊前川前任住唐詩 山法雲和尚子
営口、一座の一々は、
竺源 深淵空門
志村三左衛門積幹
憲海暁峰端
駒込別堅ニして 詩曾 ︵
同 ﹁年録﹂第百二十八巻︶。
築只堂主人法事
のほか、家臣、
ぬ回才郎郎正堅
小田清右衛門政府小俣三郎右衛門
津田宗助利メ
%
弼種渡遺 宗左衛 門幹
浮世高専 多壊 。萄 、歳々 如 。終又似ゾ初 、秋夜燭前 廣 。頭 望 、半天
ぽ回 五左衛門正信村井源五郎 宣風
鞍周文二郎元亀
托臣祓之@以遠二千金通卿 @使。供臣
仙洞御所叡覧 二 ︵
同 ﹁年録﹂第
古里曽謙称 歌各千首 招令。存立言尻内
毛@
明日常。掃。
洛、固持主
ロ@か
之 、去月有三頭
事来 二千匹
府づ頗晴二和歌@且興 臣公
道卿 親善。故
ム同年十一月二十一日、﹁ 一、山城園丁賀茂祠官架木主京権大夫祓
の、計十九人。各詩賦の記載あれど、略。
浦見権玄永俊秀
明月人。窓虚 。
鞍 岡元 昌
こ こにはその
帳望 宇宙歳時流、 莫ゾ羨月光今古 浮 、 徒教臣悠太息 二
往事 ハ百 東
濁 白木毛曽留ぺ
彼等の作は、いずれも各三篇宛 記録されているが、
すべてを掲げえない。
0同年九月二十八日、吉 保 、駒 籠 六義園において新玉松 法楽の和歌
四セ
行水にすむ鳥の跡たえせすも流れて
の言
よの
には全故
侍ふ
ここで少なからず気にかかることは、こ
素の
龍時
しら
がも
季吟
と共に箱根に到来していたとすれば、そして
季ま
吟た
らも
の
柳し
澤家訪問が元禄十三年以前に逆上りえなかっ
た素
と籠
すめ
れ
ば、
仕官は或はこれより以後のことではなか
とつ
疑た
わか
れ、
ること
が撃がるま
ではこのままにおくほかはない。
②この中、細井次郎大夫は書家上して最も知
細ら
井れ
廣る
澤
︵享保二十年十役
二、
月年セ十八︶。その仕官は﹁
叢先
談哲
﹂によ
れば廣澤三十六歳の時、即ち元禄六年のこと本
と﹁
な手
る録
が﹂
、
にょれば既に元禄四
笘年
八月十日、吉保の御前
澤に
を講
した
畢輩
の中に、家臣として﹁細井次知
郎惧
大
﹂夫
と見えてる
い。同年五
月九日の條にも、同じく﹁細井某
有
﹂平
と伏
見えるは
の、彼の前
各であろうか。後者はともかく、﹁先哲叢談
記い
述
は﹂
甚の
だ危
ものといわねばならないが、廣澤は柳澤家に例
おえ
いば
て
林は、
鳳岡の門人
晩小安見女捕︵享保十六年五月役、一
年︶
五・
十斎
拙
矢野利平義道︵十
享セ
保年正月
役、年セ十一︶
ちとほぼ
同時期に
志村二左
一衛門
禎幹・荻生
惣右衛門
茂卿らに先立つて最
、も早く抱
えられた
里輩の一人であった。なお、柳澤輩
家は
の、
畢
元禄初年
水鳥
①野村貴次氏前掲稿による。箱根羊
寺雲
藏の山。素龍のものと
掲げられている。
して次の二が
百
封戸思古人
百年は二たひ来れと箱根山月より外の面影は全
な故
し
注
注
四八
は主として林家の尊者達がその席を占有していたよう であるが、
以後次第に改まり、やがて征休の登場によって古里の人々と入れ
ここに﹁年録﹂から、本文に加ええなかつた元禄十二年以前の
替 つて行った。
一例を掲げて参考とする。
元禄十年十一月十四日
層面無。
倦章め沃、家臣五人、就二
御講桂 車。
問二
疑義め荻生宗左衛
一、今日天気好、
御,
成 手札亭入中略︶御。
講程論語拓也篇知者築。
水草、。︵中略、老中五他
人拝聞のこと︶。
次、吉保講二
論語子路篇
五人進講。
久左衛門勝就 ・池田才次郎正堅、柏縄奉。難地。沃、家臣
門茂卿、首唱=
共議ィ志村三左衛門槙幹 ・細井次郎大夫知惧 ・山東
論詰述而篇
子温前席章、依田十助檀像・孟子毒心篇行商不。若草、 道庵潜立野
渡逼宗左衛門幹 ,書経義典第二章、村井源五郎宣風
夫 ,職原抄首段、矢野仁兵衛儀軌・徒然草神無月之比栗栖野一段
也。︵下略︶。
因みに、,この元禄十年現在、柳
侯澤
に屈した孝葦 ︵睾
﹁問教授 ノ
井野口左源太正恒奥野友之 助某
者﹂ともある︶達を掲げると次のよう である。
細井次郎大夫知惧
村田平蔵周章
塊芋次郎則次
辰松本庄
左衛門勝也
岡田新平行次
芦田平助走久
山東久左衛門勝就
志村三左衛門槙幹
大原文右衛門資禰
都築久七郎種徳
池田末次郎正室
小俣三郎右衛門弼塵中村四郎 左衛門正基
河口治左衛門正恒小田清 助政府
津田五左衛門正信都築赤土 郎春親
清川興 亡一兵直
衛 清酉竹 右衛門宗
荻生宗右衛門茂卿
村上権平好賢
賀 古枝左衛門屋柴
依田 十助種俊
村井源五郎宣風
ふ事を法印 季吟 もとへよみてつかはしける
王 立身まかりし
一セ口詩量品 費樹 多花果衆生所遊楽と い
矢野仁兵衛儀朝
金子擢セ郎清隣
つたとは考えられない。
等々の作が見え、従ってこれらの機曾に素龍も追悼 歌 を 詠じなか
思ひ出るけ ふ二 とせの 秋 なれやかたみに残す袖の月影
けるとき月前 壊菖
元禄十六年八月什一日北村正式一周忌に法印季吟 勧進
かたうつら 鳴聲 きひし比比は露ふく風の野への夕暮
注 、﹁秋鳥 ﹂︶を
曾 しけるとき同し 題 ︵
元禄十六年八月 什 一日法印香 吟 家にて 王立一周忌追福 の
人の世の行 衛 やいつこわしの 出たのしみ深き花も果も
立野道俺潜夫
︵築
﹁只重年録﹂第四十五 @ 五十一巻︶
渡退宗左衛門幹
注③保井文庫 藏、横嶌 一冊。表紙に﹁元禄セ成年正月セ 日豊高石
絢加増武州川越御城主文節御家中御分限﹂、初下表 に ﹁元禄セ戊
年正月 セ目蓋高石御加増武州川越之御坂村市御拝領御家中御分限
玄鳥﹂と夫々あるが、内容はこれよりやや後れるかも知れない。
注①﹁ 築只堂年銭﹂第百二十巻・元禄十六年セ月二日の條に、
昼而
W︵
一、吉床数年、窃嗜寺和歌 之錬、頃者運二正親灯前大納自白通
目@ ︵
下
密々奉レ
ニエ仙洞御所之額判∼変通卿、恭見レ
博二勅許之ロ
略︶。
︵風水師臼玉︶としての佛は、まだ窺われない。それは享保十八
年セ月十二日午八十一を以て没した、その晩年のことに属する。
われる。但し、そこには歌人・神道家としてはともかく、狂歌師
﹁諸 生締 祀志 ﹂天和二年十月十一日の條によれば、
年セ 十二を以て没した︵柳澤信復 ﹁聞書﹂︶。いま、伊 藤江 斎め
幹 はその名であろう。のち隠居して一得と號し 、享保 一一十年五月
彼の名は嘗時の柳澤家の儒者二人の中に﹁ 一、四百 石
一、細井次郎大夫柳澤田
也 、唐木屋 善 五郎同道﹂と見えるのがそれである。
一年八月二十五日の條に、﹁
羽 守殿 内
井廣澤もまた古義堂の門をくぐつている。﹁諸 出納 頑士螢 元禄 十
くしていたこととなる。なお、このような人々がいたためか、 細
と推定きれるが、とすれば祖彼 はその仁斎門下の畢輩 と 席を同じ
の同道で古義堂に入門した人に同じ﹁渡逼惣 左衛門﹂ な る 人物が
井 上長右衛門
衛門﹂と並んで、﹁ 一、 薫百石渡部 惣 左衛門﹂と 示き れている。
荻生 惣右
公通の妹で近世女流女撃として知られる正親町町子︵田中氏藤原
ある。左注に﹁有馬左衛門殿 家中 之人 、日向立人﹂と 記す。同人
注⑥正徳二年四月改の﹁柳澤家分限帳﹂︵保井文庫 藏 ︶によれば
沸子、享保九年三月三十一日没、享年末詳︶は即ち柳澤侯の側室
セ年
であったが、柳澤侯 との間に生れた松平刑部少輔脛隆 ︵元禄
とあり、以後全通との書状往復の記事は同﹁庫銀﹂に移しくあら
十一月十六日生、享保十年八月役、年三十二︶・司式%少輔時睦
︵元禄九年六月十二日生、寛延三年四月
没、年五十五︶の生年から
少くとも町子の柳澤家に入ったのは元禄セ年以前のこととなる。
注⑤但し、吉里の﹁ 積正和歌集﹂︵柳澤文庫
藏︶に よれば、
しける
北村正正みまかりけるとき再具陳法印季吟もとへ っか
なけくらんみしかき夢のはかなきを思ひやるちに世中はぅし
四九