虚数の壁: 偏光, ポアンカレ 虚数といえば、一般人には思考停止の対象で

虚数の壁: 偏光, ポアンカレ
虚数といえば、一般人には思考停止の対象である。理系とそれ以外を区別
するもっとも簡単なテストをするには虚数を持ち出せばよい。
『おなじものを
かければプラスになるかゼロであると習うのに、マイナスになるのはどうい
うことや!』 昔の流行語をつかえば、「プッツン」というやつである。
虚数を拡張して、複素数というものを考えるのが慣例である。式をつかっ
てあらわすと
z = x + iy
ここで、i =
√
−1. これが虚数単位というものである。x が実数部分、iy が
虚数部分といわれて, y は実数をあらわす。
うえの表示はガウスの創作になるガウス平面;つまり、(x, y) を平面上の座
標とみたてると、平面の点はあたかも複素数をあらわすとみなせる。ある意
味ではファンタスティックな発想ではある。しかし、ただファンタとしてで
はなく関数論という学問をやるときに、極めつけの役割を果たすのである。
たとえば、以下のような積分
∫
+∞
−∞
dx
dx
1 + x4
を考えると、これは普通のように、不定積分をつかっては、絶対に求められ
ない!
! 積分をガウスの平面内での積分、いわゆる複素積分に拡張して、留
数(りゅうすう)計算という技をつかって求める。いわゆる、コーシーの積
分公式というやつ:
f (a) =
1
2πi
∫
C
f (z)
dz
z−a
偉大なるコーシー万歳! こんな公式見たことない(とかなんとか仰って!
!
というところでしょうか)。ともかく強力無比な万能グッズです(たぶんガウ
スも知っていた)。複素数の世界で因数分解して, 分母がゼロになるところに
注目する(これを極とよぶ)。この極は実数のところにはでてこない。それか
ら分数式を分解するという手を使う。いわば、実数の世界のことごとを複素
の世界の威力にすがるものといえようか。
中学の同窓生の K 氏いわく:
「ともかくわからんのや」。
(財津一郎ばりでい
えば)、
『そのとおーりです』。日頃数学になじみのない人にとて、きわめて自
然な反応であろう。おなじものをかければプラスになるかゼロであるのはわ
かりきってるのに、マイナスになるのはおかしいではないか。これにたいして
1
合理的な説明はできない。バカの壁ならぬ「虚数の壁」である。昔(中学生の
ころ)、父が, 大学で講義をしていたときの写真があって、そこに、 i2 = −1
と黒板に書かれて、そのそばに虚数と書いてあった。あるとき、「『こすう』
ものがあるらしいな」と、言われたことを覚えている。
とりあえず、あるものとしようとするのであるが、納得がいかないと最後
まで頑張られると撤退せざるを得ない。
この壁は、専門の数学者のあいだでも、かなり長期にわたって立ちはだかっ
ていた。ガウスの時代でも、年寄りの数学者は、頑として虚数を認めなかっ
たので、ガウスの学位論文(有名な代数学の基本定理)は、頑迷な審査員の
連中をかわすために虚数を表に出さないでカムフラージュしたという話であ
る。ともかく、認識論の問題になる。近代的な数学の発想は、数の体系とい
う「抽象的」対象をつくってそのなかで、矛盾なく演算が行えるという基盤
を築いた。存在するかどうかというところをひとまず横に置くのである。現
在の類似でいうと、単離されないクオークをいわば虚数のようなものとみる
と、都合のよい言い訳ができるかもしれない。
さて、虚数(複素数)というものについて, 自然現象において、その存在を
知覚できる可能性について、語ってみたい。話は、かの偉大なる数学者、ポ
アンカレをダシにしようというわけである。
ポアンカレは、アインシュタインの相対論(特殊相対論)を実質的にそれ
以前に、数学的に構成していたことが知られている。ちなみに、数学者ある
いはそれに精通している(とやつがれも思っている)ものにとってはポアン
カレはアインシュタインをはるかに凌駕した碩学であるという評価である。
ただし、数学者と物理学者は単純には比較はできないが。さらに、一般人は
ポアンカレを知らない。というわけで、理論物理にも造詣が深く、長命して
いればあるいは量子力学にも実質的な貢献をしたかもしれない。
それは、ともかく、光学の分野で、彼の名前がつく対象がある。それが、
「ポアンカレ球面」である。なにかというと、光の偏り(その名の通り「偏光」
という)の状態を、図で描くとき、球面のうえの点で、指定されるというの
である。これを専門的に説明することは、退屈であるからやらないが、とも
かく、光学の専門家の間では、偏光に関する論文を書く際に便利な数学グッ
ズのようである。球面のうえの点は、角度で表示される。いわゆる、緯度と
経度である。この2つの角度をつかって、三角関数で点を式で書くと、これ
が、いわゆるストークス変数というものになる。ストークスも、かのベクト
ル解析における「ストークスの定理」があまりにも有名であるが、ストーク
2
ス変数(パラメーターともいう)でも有名である。
実は、やつがれはストークス変数には思い入れがある。つまり、あるとき
独立に導いたということである。まあ、昔昔やられていた対象を独自に再発
見するというのは、ままある話。とくに自慢になるわけではないが、
『ついで
にいえば, こういう経験をすれば、その対象をかなりよく理解できるという
ことは言える。通りいっぺんで人のやったあとを真似して論文を書いたとし
ても、なんとなくわかっていないものである。自分で、深いところまで掘り
下げて考えたあげく、でてきた結果というのは、その思索のあとが、くさび
で確実に打ち込まれているので、確かなものとして残っている』
閑話休題:ポアンカレ球面の話にもどす。問題は、ポアンカレがなんで、専
門でもない光学の分野でこんなものを考えついたのかという、その動機を推
測したい。結論的にいえば、それが複素数の表示の仕方と関連しているので
はないかということである。標語的にいえば、
偏光とはコマである。
これは何ナラ? まことにごもっとも。短絡的だが、コマとはまわるもの
ということであるが、コマの動きをみていると、ある矢印が回転しているこ
とがわかる。この回転を角度であらわすと、ちょうど球面の上で表示できる
ことがなんとなく納得してもらえるのではないかと思う。そこで、コマの回
転を球面の点で表し、球面の点が偏光を表すので、コマは偏光であるという
言明が意味をもってくる。しかし、これでは説明になっていない。ポアンカ
レのやったことを説明しなおしているだけではないかと。そこで、コマと偏
光のあいだの関係をもっと直接的に説明するのがよいだろう。
答えは、偏光というのは、じつは、光がもっているスピンと言う属性の具
体化であるということである。スピンというのは、電子でおなじみである。
電子が自転しているという説明がなされるが、イメージとしてはそのような
ものである。光(じつは光子)が自転しているというのは、どうにも分かり
にくい。実際、質量がゼロで大きさがないものが、自転できないのではない
かというのはもっとも。とりあえず、承認していただくとして、肝心なとこ
ろは、スピンは回転しているもので、その回転運動は、数学的に、2成分の
ベクトルで表示される。
これだけでは、なんの面白みもない。面白みを醸成するには、ちっとばか
り、煙にまく必要がある。その煙とは、
直線は球面である
3
これもプッツンであるが、説明しよう。まず、直線の説明をする。じつは、
この直線は、
w=z
をさす。つまり、中学の数学でならう 直線の式を y = x の式をそのまま、複
素数にあてはまたものである。いわば、複素数的直線である。しかし、わが
OB(OG) 諸子はおわかりであろうが, 複素数は、2つの実数の組で表され
るので、それは、平面のはづで、直線とはなんだという疑念がまづでてくる。
そのとおーりです。1次式が直線を表すという形式的面だけで言っているだ
けである。
ここまでくると、話は、俄然、専門的になる。
「複素直線は球面である」と
いう言明は、以下のカラクリが隠されている。複素数は、平面(ガウス平面)
によって表示されることは上で説明した。ここで、さらにもう一つ、わかり
にくい考えを導入する。それは、
「無限遠点」というものである。地平線のか
なたである。これをひとつの点として、平面の『点』として組み込もうとい
うのである。そうして、立体射影というやつをつかって、平面を球面のうえ
の点に写してしまう。イウタラデ、風呂敷でスイカを包み込むというような
もんタイ。風呂敷の端の辺は、ちょうど、一点で結ばれるということは、北
極が無限点に対応していることの類似とみれば、視覚的に描ける助けになる
かもしれない。
という具合で、以上のような類似をたどって、数学者ポアンカレは、複素
数の戦略が偏光の話に当てはまると推測したのではないだろうか。
4