大堀 具視 准教授 大堀 具視 准教授

2016年(平成28 年)6月2日
私たちが意思決定する時、
どのような過程を
たどっているのでしょうか? おそらく、
「自
分自身の今の状態を認識する」
→
「習慣や過去
の経験などから選択肢を想定する」
→
「ある選
択をした場合に起こり得る状況を予想する」
→
「何らかの決定を下し行動する」
という流れだ
と思います。つまり、
“意思決定は行動となっ
て現れる”のです。言い換えれば、
意思は行動
(動き)
をもって判断できると考えられます。
当事者の思いや意思を尊重するとは、
実はそ
の方の動きを尊重すると言えるのかもしれま
せん。特に、
認知症など意思を言葉で発信する
ことが難しい方たちにとって、
「 動き出しは意
思の現れ」と認めて差し上げる必要がありま
す。目には見えない意思、
本人もうまく説明で
きない意思ではありますが、
意思があるからこ
そ
「動き出し」
があり、
目に見えるものとなって
現れます。
しかし、
見えているはずの
「動き出し」
が、
実
は私たちの目に入っていないことが多いので
す。何かに集中している時、
私たちは目の前で
起こる明らかな出来事にさえ、
気づかないこと
が心理学の実験でいくつも紹介されています
(※ 1)
。つまり、
私たち目線で当事者と関わっ
ている時、
当事者主体の動きに私たちは全く気
づくことができていないという恐れがあると
いうことです。そのような自分の傾向にも、
気
づくことができていないということも示され
ています。
誰にも意思があるわけですから、
誰にも
「動
き出し」
があるという前提で当事者と関わらせ
ていただくと、
見えていなかったものが見えて
くる可能性がでてきます。
関わりとなることがあります。
「 動 き 出 す」方 に
「 あ 〜、で き
る の で す ね」と 声 を か け る と、
喜んでいただけることが数多
くあり、
時にはそれだけで涙さ
れ る 方 も い ま す。
「ちょっと待
って」
「危ない」
の言葉は置いて、
「できるのです
ね、
私が安全だけは守りますから、
途中で難し
くなったらいつでも手伝いますから、
どうぞ安
心して続けてください」
という関わりが、
「動き
出しは当事者から」
です。少なくとも、
「 私だけ
はあなたのことを信用しています」
という姿勢
です。
(
意思は見えなくても、
「動き出し」は見える
「分かっていても恐ろしい」
というのが正直な
感想のようです。
「分かっていても恐ろしい」
と
感じるからこそ、
もし
「分からない」
でされてい
たら…ということは想像に難くないと思いま
す。
意思を決定して動く前に、
選択した動きに対
して結果を予測することで、
安心して動くこと
ができます。他者から
「される」
ということは、
いつ、
何が起こるのかを他者に委ねることで、
少なからず恐怖が伴うでしょう。その結果、
身
構え、
緊張し、
抵抗するという反応が起きるこ
とも、
自然なのかも知れません。私たちは他者
と関わる際、
事前の声かけと了承を得るという
手続きを経ることで、
少しでもケアが当事者に
とって予測可能なものになるよう努めている
はずです。
しかし、
自分の身に起こることを確実に予測
できること、
それは自分で動くことです。自分
で決めて動くわけですから、
「 突っ張り」
も
「抵
抗」
も起きません。まさに、
「 その人らしく」
で
す。
認定作業療法士・手稲渓仁会
連載第5回 意思の尊重? その人らしさ?
( 病院非常勤職員
関わることの原点が
「気づき」
と
「関係」
をもたらす
日本医療大保健医療学部
リハビリテーション学科
大堀 具視 准教授
「さあ、
どうぞ」
という信用する姿勢
が大切
舵取りを当事者に
感じ合い、察し合う
予測なしに不意に身体に触れられ
ると、
気持ち良く受け入れられる
ことはできない
「動き出す」人は「できる」人
何か手に取ろうとするとき、
あるいはそれを
使おうとするとき、
そこにはもうすでに
「私は
それを手に取ることができる」
「 それを使うこ
とができる」
という意識が働いています。言い
換えると、
「 できる」
という意識があるから
「動
き 出 す」の で あ っ て、
「 動 き 出 す 人」は
「できる
人」
とみなすことが可能であることを哲学や現
象学ではとらえられています
(※ 2)
。
「起き上がれますか?」
と聞いて動き出す人
結果的に起き上がることができなく
は
「起き上がれる人」
であり、
「 立てますか?」
と
ても、
手や足の動き出しはその動作
ができそうだという意思の現れ
聞いて動き出す人は
「立てる人」
であり、
「 歩け
ますか?」
と聞いて動き出す人は
「歩ける人」
と
いうことになります。これは、
極端な話ではな
当事者の主観的な
く、
現場で証明されています。しかし、
「 どうせ
体験の共有が必要
できないでしょう」
「できるはずがない」
という
「 突 っ 張 る」
「 抵 抗 す る」 … 現 場 で 聞 か れ る
目線が、
見えるものを見えなくさせてしまいま
言葉ですし、
私も使用してしまいます。
「 動き」 す。
は意思の現れと考えると、
「 突っ張る」
「 抵抗す
「できます」
という当事者の声を本当に信用
る」
も、
やはり当事者の意思ととらえ、
関わらせ
するかどうか、
当事者に私たちを信用していた
ていただかなければならないように思います。 だく以前に、
私たちが当事者を信用することか
『当事者視点』
『 当事者中心の関わり』
と当たり
ら始めることだと思います。信じてくれてい
ない人の前で誰が動くでしょうか?
前のように言われていますが、
私たちには困難
であり、
当事者中心を妨げる要因があると思い
ます。それは、
当事者の主観的な体験です。
「あなたのことを信用しています」
疾病や障害という何らかの不調の中で、
かつ
「できます」
という言葉に対して、
「 さあどう
他者に介護、
リハビリ、
看護を
「される」
という
ぞ安心して動いて下さい」
という態度で臨める
体験がどのようなものなのか、
完全に理解する
ことが大切です。私たちが疑うと、
当事者の自
ことは不可能だということです。しかし、
ケア
信も揺らぎます。人間関係はお互いが写し鏡
という関係性には、
当事者の体験に気づかせて
のように影響し合うものだと思います。自信
いただき、
共有するチャンスがあります。何を
面倒くささ、
機嫌の悪さなど、
負の感情
思い、
どうしたいのか? 関わりのヒントは、 のなさ、
はそのまま当事者の感情となって返ってきま
当事者の動き出しに思いを透かしてみること
のように感じています。
す。機嫌の悪い当事者、
やる気のない当事者で
「される」
ことを体験する1つの方法があり
はなく、
機嫌が悪いのは私で、
やる気がないの
ます。仰向けで閉眼している健常者に対し、 も私だと認める覚悟が大切であると、
当事者の
本人には気づかれないタイミングで一気に身
方たちとのさまざまな関わりの中で教えてい
体を持ち上げるというゲーム感覚の体験です。 ただきました。
顔は強張り、
身体を硬直させ、
人によっては反
「さあ、
どうぞ」
と信じ、
前向きに関わらせて
り返ますし、
悲鳴を上げる人まで出てきます。 いただくだけで、
拙い技術が何倍かの効果的な
当事者の
「動き出し」
に、
何をしているのか?
どうしたいのか? を察しながら、
いつ、
ど
のタイミングで、
どのような手出しができるの
かを考えて準備します。もちろん、
介助によっ
て当事者の動きを妨げてしまうこともあるで
しょう。その都度、
身体と身体のコミュニケー
ションが成立していなければなりません。
動作という一つの船に私たちと、
当事者の二
人の船頭がいては船が真っ直ぐ進みませんか
ら、
船頭は当事者一人で良いのです。船頭の意
図を汲み、
進んでいく方向やスピードをさりげ
なく調整すること、
一方、
船頭である当事者も
ケアによる時にはさりげなく、
時には動きを思
い出すきっかけとなる刺激を受け入れること
で、さらに自分で動くということが促されま
す。介助であろうと、
自立であろうと、
当事者
自身の能力の範囲で自分から動き出している
ことが、
突っ張る、
抵抗するなどの過剰で誤っ
た反応を抑えると思います。
私たちも当事者の
「動き出し」
を待つことで、
ケアによって当事者へ余計な刺激を入れるこ
となく、
また当事者の能力に気づくきっかけに
なると思います。能力に気づくことは、
できる
人という見方になり、
できる人と見ると過剰な
手出しをしなくなることにつながるものと考
えます。
2人で棒の端を支えながら、
落とさ
ないよう立ち上がるゲーム。感じ合
い、
察し合うトレーニングになる
(参
考:
「身体感覚を取り戻す 腰・ハ
ラ文化の再生」
斎藤孝・NHK出版)
<参考文献>
※1
「ファスト&スロー」
〜あなたの意思はど
のように決まるか?〜
(ダニエル・カーネ
マン=早川書房)
※2
「現象学という思考」
(田口茂=筑摩選書)