池田大作先生の生命論

創 価教育研究第3号
池 田大作先生の生命論
董
武 ・王
偉英
生命 の本 質 にっ い て の 問 題 は 、 哲 学 と宗 教 の 基本 的 問題 で もあ る 。 生命 は何 処 か ら来 て 、何
処 へ行 くの か 。 この 人 生 最 大 の課 題 は哲 学 と宗 教 の 出発 点 で あ り、 ま た そ の 帰結 で も あ る。 哲
学 と宗 教 は この 問 題 に 注 目す る こ とで 、 人 間 の 人 生 に とっ て の 目的 と意 義 に つ い て注 目す る よ
うに な り、 そ れ に よっ て 人 類 の 「究 極 の 関 心 事 」 を説 明 し よ うと した の で あ る。 同様 に 、一 人
の 宗 教 思 想 家 と して 、 池 田大 作 先 生 のす べ て の 思想 体 系 の 中で 、 最 も人 々 の 関 心 を 引 きつ け る
もの が 、 氏 の 生 命 論 で あ る。 これ は た だ 単 に 氏 の す べ て の 思 想 展 開 の 原 点 で あ る だ け で な く、
氏 の 思 想 体 系 の 中で 最 も堅 実 な 哲 学 理論 の 基礎 とな っ て い る。 言 い 換 えれ ば 、 ま さに 池 田 先 生
の 生命 に対 す る深 い 思 索 は、氏 の 人 間学 と社 会 革 命 の理 念 と実 践 を裏 付 け て い る。した が っ て 、
池 田先 生 の生 命 論 を深 く把 握 す る こ とは 氏 の す べ て の 思 想 体 系 と実 践 の 核 心 の 所在 を 知 る こ と
とな る ので あ る。
1宇
宙 は生命の海
生 命 の起 源 を探 求 す る に は 、ま ず 宇 宙 の 根 本 的 問題 にっ い て遡 ら な くて は な らな い 。 この 問
題 にっ い て は ビ ッグ ・バ ン説 や 重 複 宇 宙 説 な どが あ る。 池 田先 生 は 、 どの説 にっ い て も人 類 の
認 識 能 力 に は 限界 が あ る こ とを認 め てい る。 ドップ ラー 効 果 に よれ ば 、星 雲 間 は 驚 くほ どの ス
ピー ドで互 い に 遙 か な 方 向へ 向 か っ て離 れ て お り、地 球 か ら200億 光年 の彼 方 に な る と、人 類 の
自然 科 学 は そ の 能力 を発 揮 で き な くな る。ま た 地 球 か らの 距 離 が200億 光年 以 内 の宇 宙 は 、物 理
学 上 で は 可視 的 宇 宙 で あ り、 こ れ よ り遠 い 、 い わ ゆ る 「
宇 宙線 」 の そ の 向 こ うは、 人 類 の 感 知
で き な い世 界 で あ る。 「そ こか ら先 は科 学 の範 囲 を越 えて 、純粋 に哲 学 、つ ま り人 間 の 思惟 と想
像 の 問題 に な ります 」(1)。
宇 宙 の 大 き さは 有 限 か 、 そ れ と も無 限 か。 宇 宙 は どの よ うな 起源 を持 つ の か。 宇 宙 の本 質 の
問 題 に 関 して は 、 「
結 局 は 哲 学 、 宗 教 に託 され るべ き性 質 の も の」(2)な ので あ る。 こ こで 、 池
田先 生 は この 科 学 的 問 題 を哲 学 化 、 宗教 化 す る こ とで 、 人 々 が 現 実 の 物 質的 世 界 か ら瞬 く間 に
宗 教 的 主観 の 世 界 へ と入 り、 そ して そ こか ら生命 の本 質 に っ い て の 宗 教 的認 識 が 、 自 由で 闊達
な 合 理 的 背 景 を得 る こ とが で き る と され て い る。
仏 法 で は、 宇 宙 は 「
五 百千 万億 那 由他 阿 僧 祇 の三 千 大 千 世 界 」(3)で あ る と して い る。 「
那由
他 」 とは現 在 の数 量 概 念 で は一 千 億 に相 当 し、 「阿僧 祇 」 は10の51乗 で あ る。 した が っ て 、これ
は計 算 で き な い 巨大 な数 字 で あ る。 ま た 仏 法 で は 、 宇 宙 は 無 限 大 で あ り、 無 量無 辺 で 、無 始 無
終 で あ る とみ な して い る。 こ の無 限大 の 宇 宙 にお い て 、 生 命 は 如 何 に して 誕 生 した の か。 池 田
先 生 は 、「
宇 宙 を有 無 とい う二 っ の概 念 の み で と らえ よ う とす れ ば 、そ こに お け る生 命 の発 生 は 、
無 か ら有 を生 じた とい わ ざる を え ませ ん」(4)と 述 べ 、こ の 点 にっ い て は仏 法 で は否 定 す る。な
ぜ な ら仏 法 で は生 命 は有 無 の 概 念 を超 越 してい る と理 解 す るか らで あ る。 仏 法 で は 、 あ る意 味
DongWu(北
京 行 政 学 院公 共 管 理 学 部副 主任 ・助 教授/北 京 大 学 池 田大 作研 究 会 会 員)
WangWeiying(北
京華 文 学 院 助 教 授)
一13一
池 田大作先生 の生命論
で 、 「地 球 を 含 む 宇 宙 そ れ 自体 が 、本 来 、 生命 的 存在 で あ り、"空"の
い る。 そ れ が"有"と
状 態 に あ る生命 を含 んで
して顕 在 化 す る条 件 が 整 った とき、 宇 宙 の どこ にで も、 生命 体 と し て発
生 す る可 能 性 が あ る」(5)と 理 解 して い る ので あ る。池 田先 生 は 「
生 物 を生み 出す 力 が宇 宙 自体
に あ り、無 生 の 物 質 に も生命 が冥 伏 した形 で 内在 して い る 」(6)と し、ま た 「大宇 宙 そ れ 自体 が
一 個 の生 命 体 で あ る」(7)と み な して い る。す な わ ち 、地球 を含 む宇 宙 それ 自体 が 本 来 、生 命 的
存 在 で あ り、「空 」の状 態 に あ る生命 を含 んで い る。「
有 」 と して 現 出で き る条件 を持 っ た 時 に 、
宇 宙 のい か な る場 所 で も生 命 体 として 出 現 し うる可 能 性 を持 って い る ので あ る。 した が って 、
池 田先 生 は 「
宇 宙 自体 が 生 命 を誕 生 させ る力 を内 包 した"生 命 の海"で あ る」(8)と述 べ て い る。
宇 宙 は これ ま で一 貫 して何 物 も存 在 し ない 「
真 空 」 で あ る とみ な され て き た が 、 じっ は そ れ
は た えず 「
物 」 を生 み 出す 生命 空 間 だ った ので あ る。 こ の発 見 は20世 紀 の科 学 が 証 明 した 偉 大
な成 果 で あ る。現 代 物 理 で の真 空 は 、 「
空 」で は ない が 、そ の本 質 を現 時 点 の言 葉 で 言 え る とす
れ ば 、我 々 の科 学 で は事 物 を包 含 す る基 本 的 物 質 の存 在 形 態 で あ る 、 とい う こ とで あ る 。 ア イ
ン シ ュ タイ ン は 、物 理 空 間 は 「
た ん な る広 が りを もつ だ けの 空 虚 で は な く、それ 自体 の性 質 が 、
そ の 中 に存 在 す る 物体 に影 響 を与 えた り、 あ る条 件 が 整 え ば 、物 質 を生 み 出す 可 能性 を も含 ん
で い る 」(9)と 分 析 して い る。 こ の よ うに、現 代 物 理 学 の 空 間 認 識 と池 田先 生 の 「空 」の 概 念 は
深 い 共通 性 を もっ て い る。 また 池 田先 生 の 「
空 」 の生 命 起 源 の観 点 は現 代科 学 の論 証 を得 て い
る の で あ る。
池 田先生 の 「空 」の 宇 宙観 で は 、 「
空 」 は一 種 の生命 創 造 の力 で あ るだ けで な く、生命 そ の も
の の 一種 の形 態 で もあ る。 また それ は新 た な生 物 や 物 質 変 化 を生 み 出す原 動力 で もあ り、 宇 宙
に 内在 す る一 種 の創 造 的力 で も あ り、神 秘 的 な 「
無 定 体(物 質 的 実 体 を持 た ない)」 の真 実 の存
在 で あ る。 した が っ て 、池 田先 生 の宇 宙 観 は 、実 際 に 「
宇 宙 即 生 命 、生命 即 宇 宙jの 大 生 命 観
な の で あ る。 こ の生 命 観 は 強 い 科 学探 究 の精 神 を体現 し、知 的 思 惟 の 色 彩 に満 ち て お り、「上 帝
造 人(神 が 人 間 を創 造 す る)」 とい う創 世神 話 と比 して 、科 学 的 に も人 々 を納 得 させ る もの で あ
る。 そ れ 故 この 基礎 の 上 に形 成 され た池 田先 生 の思 想 体 系 は強 い 信 仰 のカ を も有す る こ と に な
るの で あ る。
2,生
命 は 作 者 で あ り作 品
池 田先 生 は 「生命 の 誕 生 とい う厳 粛 な事 実 を前 に私 ども は 、科 学 、哲 学 、 宗 教 のす べ て の英
知 を集 め、 そ の 重 要 なテ ー マ を探 求 して い くべ きで あ る」(10)と言 う。 生命 の起 源 にっ い て は 、
一 般 に支 持 され て い るの は 自然 発 生 学 説 で あ る。 原 始 段 階 の生 物 化 石 の発 見 と簡 単 な 有機 物 の
人 工 合 成 に よっ て この学 説 は証 明 され て い る。
具 体 的 に は 、最 も早 い 生 命 形 態 は無機 物 の 中か ら有機 物 が 生 み 出 され 、タ ンパ ク質 を形 成 し、
そ の 物 質 の 新 陳 代 謝 に よっ て生 命 体 が誕 生 した の で あ る。 だ が池 田先 生 は この 種 の 生命 起 源 の
解 釈 は 、 た だ 生命 を物 質 現象 と して と らえ て い る だ け で あ り、生 命 誕 生 の過 程 を探 求 す る時 、
「
私 が 問 題 に した い の は 『どの よ うに』 で は な く、『なぜ 』無 生 の物 質 の世 界 に 生命 が 誕 生 す る
こ とが で き た か 、 とい う点 です 。 それ は 、物 質現 象 の側 面 の み の 問題 で はな く、 も っ と深 く、
生命 の本 質 にま で 掘 り下 げ て み な けれ ば な らな い テ ー マ に な る 」(11)と述 べ て い る。っ ま り、宗
教 哲 学 は 科 学 よ りも さ ら に一歩 進 ん で 、 生命 起源 誕生 の過 程 を 明 らか にす る こ とで満 足 す る の
で は な く、 さ らに生命 起 源 の原 因 にっ い て も明 らか に しな け れ ば な らない と考 えて い る、 と言
え よ う。 地 球 上 に生命 が どの よ うに して誕 生 した か で は な く、 この 地球 上 に生命 が なぜ 誕 生 し
た か 、 とい う問 題 な の で あ る。
一14一
創価教育研究第3号
池 田先 生 は 、 論 理 学 的 に 「
誕 生 した 当初 はた ぶ ん無 生 で あ った 地 球 に生 物 が 発 生 した とい う
こ とは 、 無 生 の 地 球 そ れ 自体 の なか に、 す で に生 命 へ の 方 向性 を は らんで い た とい え る の で は
ない で し ょ うか 」(12)と述 べ てい る。生命 は決 して 受 動 的存 在 で は な く、能動 的 存 在 で あ る。生
命 の この よ うな能 動 性 は 、「
激 発 性 」 とも言 え る が 、い った い どこ か ら来 た ので あ ろ うか。池 田
先生 は 「
私 は 、無 生 の なか に生 を 内包 し、そ の生 が 自己 を顕 現 して い った 過 程 こそ 、 ま さに生
命 の起 源 の意 味 す る とこ ろ だ と思 うので す 」(13)と言 う。ま さ し く この 点 に こそ 、池 田 先 生 が 生
命 の起 源 を一 種 の 「`創造'さ れ た`新 産 物'」 で あ る とす る見 解 に 同意 しない 理 由が あ る。 な
ぜ な ら生 命 が 無 か ら創 造 され た の で あ る とす れ ば 、必 ず 創 造 者 が い な けれ ば な らない 。 そ うな
る と 自然 に一 個 の 創 造 「
神 」 の 存 在 を認 め る こ とに な る か らで あ る。
池 田先 生 は 生 命 起 源 の正 確 な解 釈 と して 「
発 現 」 説 を採 って い る。 い わ ゆ る 「
発 現 」 とは 、
元 来 す で に存 在 して い た物 が顕 在 化 す る こ とで あ る。 こ の こ とにつ い て 、 トイ ン ビー も 「
変化
が現 われ る の はす べ て 実 際 に は錯 覚 にす ぎ な くな っ て しま い ます 。 なぜ な ら、現 在 存 在 す る も
の も、 これ か ら存 在 し よ う と して い る も の も、す べ て初 め か ら存 在 して いた こ とに な っ て しま
うか らです 。 す べ て の 出来 事 は 、 も とも と潜 在 して い た実 在 の要 素 が徐 々 に顕 在 化 した の だ ろ
う とい うこ とに な っ て しま うわ け です 」(14)と述 べ て い る。 この 見 解 に従 えば 、世 界 上 に は無 か
ら生 じた とい うい か な る もの も根本 的 に存 在 せ ず 、現 在 存 在 し将 来 現 出す る もの は 、 も と も と
あ っ た 物質 が 表面 化 した もの で あ る にす ぎ な い。 それ は ま た 、事 物 の存 在 はす べ て 「
潜在 」か
ら 「顕在 」 へ とい う過 程 が あ り、 そ れ ゆ え に有 の 中 に化 有 が あ る の で あ っ て 、無 の 中 か ら生 を
有 す るの で は な い。 池 田先 生 は 「
生命 は 地球 の 誕 生 か ら現 在 ま で 、 みず か らの顕 現 と出現 を継
続 的 に持 ち続 け て お り、 み ず か ら を個別 的 に発 展 させ る方 向へ と向 か わせ て い く」 性 質 を有 す
る こ と を肯 定 的 に と ら えて い る。この よ うな個 別 化 す る生 命 に能 動 性 が あ る こ とは、「生命 エ ネ
ル ギ ー のカ 」 と言 って も よ く、 「
す で に無 生 の 地 球 そ れ 自体 に内 在 して いた はず で す 」㈹ と。
この 意 味 か らい え ば 、 「
生命 はそ れ 自体 作者 で あ り作 品で あ る」(16)とい え よ う。
こ こで 、 わ れ わ れ は 池 田先 生 が 繰 り返 し言 及 して い る 「空 」 の概 念 にっ い て よ り進 ん だ 理 解
が 必 要 で あろ う。 な ぜ な ら 、 こ の 「
空 」 の概 念 を理解 で き て は じ めて 生命 とい う存 在 の 性 質 に
つ い て 理解 で き るか ら で あ る。 池 田先 生 はい わ ゆ る 「
空 」 とは 言葉 で 表 現 で きな い存 在 状 態 で
あ り、 現 象 と して 現 われ た も の で も ない 。 しか しそ れ は 一種 の 存 在 で あ り、 視 覚 で き る も ので
は ない た め に 、「
無 」 と同様 に見 な され てい る と言 うこ ともで き る。 しか し、それ は縁 に触 れ る
こ とで 、 肉眼 で見 る こ との で き る形 態 と して 出現 す るの で 、 こ の よ うな存 在 を 「無 」 と呼 ぶ こ
とは で き ない 。 した が っ て こ の よ うな状 態 を 「
有」 と 「
無 」 だ けで 表 現 す る こ とは で き ない の
で あ る。 い わ ゆ る 「
空 」 とは 、「有 無 」を超 越 した 実在 で あ り、 「
真 有jで も 「
虚 無 」で も な く、
それ は無 量 の潜 在 力 を 内含 して お り、無 限 の創 造 力 を持 つ 「
生命 空 間」 で あ る。 これ は現 代 物
理学 の 「
統 一 場 」 の概 念 と近 似 して い る。 池 田先 生 は仏 法 の 「
空 」 と言 う概 念 を用 い て 宇 宙 の
起源 と生 命 の 誕生 を解 釈 して お り、宇 宙 観 と生 命 論 を合 一 させ 、宇 宙 、地 球 、人 間 の 三 者 に 同
一 性 を具 有 させ る
。 氏 は 現在 の 生命 につ い て の概 念 は狭 隆 で 、生 命 を生 物 学 上 の存 在 との み見
な して い る が 、 これ で は 生命 を 有形 の物 との み認 識 させ 、本 質 的 な意 義 の探 求 をお ろそ か に し
て しま う。 仏 法 の 「大 生命 」観 は 、 生物 学 上 の 生命 を一 種 の存 在 とみ る だ け で な く、 生 命 を生
み 出す 力 そ の もの の 一種 の 存在 で あ る とみ な して お り、前 者 が顕 現 形 態 で あ り、後 者 が潜 伏 形
態 で あ り、 両 者 は と もに 生命 そ の もの が備 え て い る異 な る表 現 形 態 で あ る。 こ の意 味 か ら人 間
や 地 球 や 宇 宙 が 生命 で あ るば か りで な く、 そ のす べ て が 同一 性 を備 え た も の を必 然 的 に持 つ 共
同 性 を有 して い る。 した が って 、 人 間 、 地 球 、宇 宙 とは そ の形 態 に は違 い が あ る が、 本 質 的 に
一15一
池 田大作先生の生命論
は一 体 で あ り、 宇 宙 即 人 間 、人 間即 宇 宙 で あ る。 こ の思 想 は池 田先 生 が人 類 思 想 の歴 史 上 の独
創 的 な(イ ン ド思 想 の 「
汝 即 梵 」、 中 国 思想 の 「我 心即 宇 宙」)な どの伝 統 思 想 を 、新 た に理 論
的 に発 展 させ た も ので あ る。
以 上 の考 察 を通 し、我 々 は まず 池 田先 生 の大 生 命観 に含 まれ る徹 底 した科 学 的 理 念 を理 解 す
る こ とがで き る。 氏 は仏 法 の 「
空 」 の概 念 を現 代 物 理 学 の 「
場 の空 間」 理 論 に応 用 して両 者 を
結 び っ け た。 これ は 自身 の宗 教 思 想 に基 づ く確 固 た る立脚 点 か ら出発 して い る。 これ は ま た伝
統 的 宗 教 思 想 が 科 学 の発 達 した 現 代 に対 して 与 え た一 っ の 発 展 の道 程 で あ る。
第2に
は池 田先 生 が示 した 「
空 」 の概 念 を理 論 的 支 柱 とす る生 命 起 源 説 は 、有 神 論 と無 神 論
を画 す る画 期 的 な理 論 で あ ろ う。 池 田先 生 の 生命 観 に は、 伝 統 的 観 点 が備 え て い な い革 命 的 思
想 を も って い る。 氏 は人 間 が一 個 の生 命 体 と して も とも と有 してい る 主体 性 、能 動 性 、 そ して
そ こ か ら生 み 出 され る創 造 的潜 在 能力 を 強調 して い るが 、 そ こ に氏 の人 間学 、す な わ ち人 間 革
命 の理 論 的 根 拠 を見 出す こ とが で き るの で あ る。
3.生
死不二
池 田先生 の生 命 論 で は 、 「
空 」の概 念 を用 い て宇 宙 と人 間 の 同一 性 の 「
発 見 」 に成 功 した だ け
で な く、 さ らに 「空 」 の概 念 に よっ て 「死 」 を超 越 す る こ とが で き た。 そ して こ の 人類 に とっ
て最 も重 要 な 問題 を理 論 的 に 昇 華 させ 、 氏 の 人 間 学 にお い て最 も核 心 的 で革 命 的 な 内容 を 展 開
して い る の で あ る。
「た とえ 千年 の 鉄 の濫 に あ りて も、 終 に は 一 つ の 土饅 頭(墓)を
要す 」 とあ る よ うに 古 来 、
死 は 深刻 か っ甚 深 な 人 々 の 心 の 奥 底 を圧 迫す る本 質 的恐 怖 で あ っ た。 科 学 が い か に進 歩 し よ う
とも、社 会 が い か に発 展 しよ う とも 、「
生 あれ ばす な わち 死 が あ り、人 は総 じて死 な な けれ ば な
らな い 」 の で あ る 。 この 問 題 は い か な る 人 間 で あ っ て も解 決 で き な い が 、 人類 の最 も根 本 的 な
「臨 終 に 関 心 を持 っ 」 宗 教 に とっ て は 必 ず解 決 す べ き難 題 で あ り続 け て き た。 で は 、池 田先 生
は い か に して この 問題 を解 決 した の で あ ろ うか 。
池 田先 生 は 『法 華経 』を 中 心 とす る立 場 か ら、日蓮 以 来 の 生命 論 の 理 論 的 成 果 を 吸 収 し、「
空」
の概 念 を極 限 ま で 発 展 させ 、死 に対 して独 創 的 で深 遠 な考 察 を お こな っ て い る。池 田 先 生 は 「ふ
っ う、 生命 は 『生 で 始 ま り』、『死 で 終 わ る』 と考 え られ て い る。 しか し 日蓮 大 聖 人 は 、 生 命 と
は三 世 永 遠 にわ た る もの で あ り、『生 』 も 『死 』 も、生命 に も と も とそ なわ った 『本 有 』 の 理 で
あ る と説 か れ て い る」(17)と言 う。 した が っ て 、池 田先 生 は次 の よ うに 主 張す る。 「生命 とい う
も の は 『時 間』『空 間 』 をっ らぬ い て い る無 始 無 終 の実 在 せ る も ので あ る とい え る。」(18)さら に
ま た 、 「も と も と、生 死 を こえ た永 遠 に わ た る生 命 の実 在 が あ る。全 世 界 を焼尽 す る 大火 に も焼
けず 、 水 が 災 い を して 朽 ち らせ る こ ともで き ない 。剣 に も切 られ る もの で は な く、 弓 を も って
も射 られ る こ ともで き ない 。 き わ めて 小 さい 芥 子 粒 の微 塵 に い れ て も、芥 子粒 が 広 が る こ とは
な く、ま た 広 大 無 辺 な る宇 宙 の なか に遍 満 して も、 宇 宙 自体 が 広 す ぎ る とい うこ とは な い 。 つ
ま り一 念 の 生 命 とい うも の は 、生 死 、生滅 、大 小 、広 狭 の相 対 性 を こ えた 不 変 の 実 在 で あ る」(19)
と述 べ る。 す な わ ち 、 「
生 命 の流 転 とい うも の は永 遠 で あ る。 これ が仏 法 の大 原 則 」(20)なの で
あ る。
こ の大 原 則 を さ らに よ りよ く示 す た め に、 池 田先 生 は 次 の よ うな 例 を挙 げ て い る 。 「これ は 、
一 目にた とえて み る な らば 、朝 日が昇 り 目を さます 。『生』 で あ る。 そ の 『生』 の延 長 と して 一
目の行 動 が 始 ま る。 一 日の活 動 を終 えて 、疲 れ を癒 す た め に家 路 につ く。 夜 、 あ す の 『生 』 の
た め に休 息 の床 につ く。 これ す な わ ち一 日の 『死 』 で あ る 。 これ と同 じよ うに 、 一 生 の 価 値 あ
一16一
創価教育研究第3号
る活 動 を終 え 、新 た な活 力 あ る生命 力 を え るた め に、『死』とい う方 便 の 姿 を示 す とい うの です 」
(21)と。 これ が 『法 華 経 』 で説 く とこ ろ の 「
方 便 現捏 藥 」 で あ る。 した が って 、 大 乗 仏 教 の 主
張す る 「
生 死 不 二」 とは 、生 と死 は時 間 と空 間 にお け る現 象 で あ り、生 命 とは こ の時 間 と空 間
を超 越 した存 在 の 、2種 類 の異 な る顕 現 形 態 な の で あ る。 それ ぞ れ の生 命 体 はす べ て 生 命 が 顕
現 した状 態 で あ る。 い わ ゆ る 「
死 」 とは生 命 が 「
冥 伏 」 した 状 態 で あ り、 「
冥 伏 」 は無 に帰 結 す
る の で は な い。 これ に っ い て 、池 田先生 は さ ら に解 釈 を加 え て 、 「
空 」 とい う概 念 は、 目に は 見
え な い が確 実 に存 在 し、有 と無 の どち らか一 方 を用 い て決 定 で き る概 念 で も な い。 これ とは 反
対 に、現 実 の 様 々 な状 態 で 出現 す る それ ぞ れ の形 態 は 、「
仮 」 と呼 ばれ る。心 身 の統 一 した 生 は
「
仮 」 の状 態 で あ り、そ の 中 に 「
空 」 を含 ん で い る。 死後 の 生命 は 、 「空 」 とな って 存 在 し 、同
時 にそ の 中に 「仮 」 の傾 向 性 、 方 向 性 を含 ん で い る。 一 旦 条件 が そ ろ え ば 、 生命 の存 在 形 式 は
「
空」か ら 「
仮 」 へ と変 わ り、 肉 眼 で 見 る こ との で き る現 実 の 物 体 とな っ て 「再 生」 す るの で
あ る。
「
空」 と 「
仮 」 を貫 く生命 の 本 質 を 「中」 と呼 び 、 この 生命 の 本 質 は 永遠 に 「空 」 と 「
仮」
の 中 を 無 限 に流 転 し続 け 、 あ る 時 は 顕 現 し、 ま た あ る 時 は冥 伏 して い く(22)。さ らに ま た 、 生
命は 「
成 住 壊 空」 とい う生命 発 展 の リズ ム の な かで 生 死 流 転 し、 永 遠 に とどま らな い 。 人 も 、
星 も、宇 宙 そ の も の も 同様 で あ る。 仏 法 にお い て は 、 こ の よ うな生 命 本 源 の 法 理 を明 確 に示 し
て い る。それ は 「
有 形 」を通 して 「
無 形 」を理 解 し、「
無 形 」を通 して 永 遠 を理 解 す るの で あ る。
生命 が 生死 流転 の輪 廻 の 中 に あ る の で あれ ば 、 自然 に人 間 の運命 の 問題 が 発 生 して くる。 し
た が っ て 、宗 教 の 因果 応 報 とい う運 命 説 も 同様 に 導 き 出 され る。 仏 法 か らみ て 、運命 の法 則 と
は す な わ ち 因 果応 報 で あ る。 一 人一 人 が一 生 で成 す とこ ろ の全 て が 自己 の 「
業 」 とな り、 来 世
に転 生 す るた めの 「因 」 とな る 。 そ してす べ て の 「業 」 に は必 ず 応 報 が あ り、 い わ ゆ る 「善 に
は 善 報 、 悪 に は 悪 報 」 が あ る。 今 世 に蒔 か れ た 因 は 、必 然 的 に 来世 に あ っ て は果 とな る の で あ
り、 「瓜 を蒔 け ば瓜 を得 、豆 を蒔 け ば豆 を得 る」 よ うに、 い か な る 因が い か な る果 を得 る の か 、
応 報 に はい さ さか の く るい もな い 。 一 人 一 人 が み ず か ら蒔 い た 因 は 、 みず か らそ の果 を食 す る
の で あ る。 わ れ われ は 、 現 在 、 科 学 的 証 明 が 得 られ な い た め、 永遠 の 生命 の 問 題 に 関 して は 、
依 然 と して 哲 学 宗 教 の 仮 説 を承 認 せ ざ る を え ない 。 これ につ い て 、池 田 先 生 は 、「た しか に、人
間 の知 的 能 力 に は 限界 が あ り、 そ の範 囲 を越 えた 宇 宙 の 究 極 に あ る もの や 、 人 間 の 生命 の 本 質
に 関す る定 義 は 、す べ て 『仮 説 』 に な らざ る を え ない と思 い ます 」(23)と述 べ る。 しか し、 この
種 の宗 教 的 仮 説 は 、 ま た充 分 重 要 で あ り必 要 で も あ る。 なぜ な ら、 科 学 的 仮 説 が 追 求 す る の は
真 偽 の 問題 で あ り、宗 教 の仮 説 が求 め る の は人 々 の天 性 を改 善 す るた め に必 要 な価 値 な の で あ
る。「
人 間 存 在 が な るほ ど現 世 の 生 だ け の もの だ とす れ ば 、死 後 の運 命 な ど とい うこ と は問 題 で
は な くな っ て しま う。 しか し、 こ う した死 後 につ い て の と らえ方 の相 違 は 、 こ の世 で の われ わ
れ 人 間 の 生 き 方 を に大 き く左 右 す る こ とが 考 え られ る の で あ る」(24)。
この 意 味 か ら、 池 田先 生 は 仏 教 の 主 張す る 生命 輪 廻 と永 遠 存 在 の仮 説 につ い て次 の よ うに 主
張 す る。 「
仏 教 が 主 張す る 、輪 廻 しな が ら生 命 が永 続 して い く とい う 『仮 説 』 は 、人 間 が 生 ま れ
なが らに して 、個 人 に よ って 種 々 に異 な る宿 業(カ ル マ)を
もっ て い る とい う事 実 を説 明す る
うえ で 、有 効 性 を も っ てい る」(25)と。 そ して この 事 実 は 、 「
人 間 に 、 自分 が 人 間 以 外 の超 絶 者
に よっ て支 配 され て い る ので は な く、 す べ て につ い て 自分 自身 が 責 任 を もっ て い る こ と を 自覚
させ 、本 源 的 な主 体 性 が こ こか ら打 ち 立 て られ る こ とを可 能 にす る とい うこ とがで きま し ょ う」
(26)と。
ま さ し く この意 味 に お い て 、池 田先 生 は仏 法 の因 果 応 報 を人 間 革 命 の要 素 とみ な し、 こ こ に
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池 田大作先生の生命論
「
人 間 の本 源 的 な次 元 で の責 任 性 ・主 体 性 を確 立 す るカ ギ を秘 め て い る」(27)と述 べ て い る。ま
た 「しか し、そ うで な けれ ば、 刹 那 主 義 、快 楽 主 義 に陥 っ て 、 な ん の進 歩 も な くな って しま う
で し ょ う。時 代 の進 歩 も な く な って し ま う。ま た人 生 、あま りに もふ ざ け半 分 にな って しま う。
そ れ で は 、 自己 を律 す る こ と、 人 々 へ の 善 意 、社 会 へ の貢 献 な ど とい うも の は、 忘 れ ら去 られ
て しま うで し ょ う」(28)とも述 べ てい る。これ に よ り生 命 の 永 遠 性 とそ こか ら生 み 出 され る運 命
の因 果 律 が 最 終 的 には 仮 説 の 域 を出 な く とも 、我 々人 類 社 会 の発 展 に とって 必 要 か っ 素 晴 ら し
い 仮 説 な ので あ る。 こ の よ うな 仮 説 の 存 在 は 合 理 性 を有 し、ま さ に我 々 が 人 間 の 真 、 善 、美 を
追 究 す るの に必 要 な 前 提 とな る。
「
人 の一 生 で の 行 為 は 、 倫 理 上 の 結 果 を必 ず もた ら し、 この 結 果 は十 分 に重 要 で あ り、 自己
に対 して だ けで な く、全 人 類 、全 宇 宙 に と って も重 要 なの で あ る」。そ して ま さに この 因 縁 の故
に、 人 生 は 意 義 を もち 、宗 教 も意 義 を もつ の で あ る。
以 上 み て きた よ うに、 池 田先 生 は 生命 論 に お い て 、 伝 統 的 な 仏 教 思 想 の 中 か ら最 も意 義 を持
っ も の を掘 り起 こ し、 そ して 、 宗 教 の 生 死観 か ら出 発 して 、 よ り価 値 と意 義 を持 つ テ ー マ 、す
な わ ち人 々 が どの よ うに生 き て い くの か 、 を導 き出 した の で あ る。 こ こか ら大乗 仏教 の 『法 華
経 』 と小 乗 仏 教 は 明 確 に区 分 され る こ とが わ か る。 す な わ ち仏 法 とは 人 心 な の で あ る。 池 田先
生 は、 人 間 革命 の 可 能 性 と必要 性 を理 論 的 に 明 らか に し、 自身 の 宗 教 的 政 治 的 実 践 の た め に確
固 と した 哲 学 的 基盤 を確 立 した ので あ る。
(注)
(1)ト
イ ン ビー ・池 田 大 作
(2)前
掲 書 、242頁
(3)池
田大 作
『「仏 法 と宇 宙 」 を 語 る 』 第1巻(潮
(4)注(1)書215頁
。
(5)注(1)書216頁
。
(6)注(1)書247頁
。
(7)注(1)書247頁
。
(8)注(1)書216頁
。
(9)注(1)書255頁
(10)池
田大 作
。
(12)注(1)書212頁
。
(13)注(1)書212頁
。
(14)注(1)書213頁
。
(15)注(1)書214頁
。
(16)注(1)書213頁
田大 作
。
。
。
出 版 社 、1984年)245頁
。
(19)注(3)書70、71頁
。
(20)注(17)書86頁
掲 書86頁
出 版 社 、1984年)182頁
日新 聞 社 、1987年)229-230頁
『「仏 法 と宇 宙 」 を 語 る 』 第2巻(潮
(18)注(3)書71頁
(21)前
下 』(文 芸 春 秋 、1975年)236頁
。
『第 三 の 虹 の 橋 』(毎
(11)注(1)書212頁
(17)池
『二 十 一 世 紀 へ の 対 話
。
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。
(22)注(1)書232頁
。
(23)注(1)書223頁
。
一18一
。
。
創 価教育研究第3号
(24)注(1)書
360頁
。
(25)注(1)書
224頁
。
(26)注(1)書
224頁
。
(27)注(1)書
367頁
。
(28)注(17)書
80頁
。
一19一