創価教育研究第5号 「牧 ロ常 三 郎 研 究 ノー ト」新 蒐 集 文献 の覚 書(3) 山 徹 口 「 小 学校 郷 土 問題 の解 決 に一 部 の壼力 を望 む 」 雑誌 「 教 育 界」 の第16巻 第3号(1917年=大 正6年1月3日 岡 田良 平 の 文 部 大 臣就 任(1916年10.月9日)に 発 行)に 掲 載 され た。 合 わせ て 特集 され た 同誌 の論 説 「 岡 田文 部 に 何 を望 むべ き 乎 」 に 、 「大 正小 学 校 長 」 と して 寄 稿 して い る。 牧 口は45歳 で あ る。 短 い 分 量 な の で 、 こ こ で全 文 を紹 介 して お く。 'へ 、 「行 政 の長 た る文 部 大 臣 に しか も一 見学 政 に 直 接 関係 な き が如 き斯 か る 問題 の解 決 を とい ふ が 如 きは 、怪 む べ し とな す もの もあ らん。 され ど吾 等 の 見 る 所 に て は 、決 して しか く些 末 の 問 題 には あ らず 、 学 制 上 緊 急 な る重 大 な る 問題 と思 ふ 。 単 に 地 理科 の み な らず 、歴 史 も修 身 も此 の 問 題 を蔑 に した る教 授 にて は 眞 に砂 上 の楼 閣 に終 り、 國 定 教科 書 の知 識 は 、 國 民 の實 生 活 と没 交 渉 な りと断 言 し得 べ し と信 ず 。 而 して 之 れ が 解 決 に は 、 教 科課 程 及 其 の配 當 時 間 に 大 異 動 を 生 ず べ し。 これ 本 題 の提 出 の理 由 な り とす 」 ■寄 稿 者 の氏 名 特 集 へ の寄 稿 者 とそ の 肩 書 き は 、以 下 の通 り (雑誌 へ の 掲載 順)。 澤 柳 政 太 郎(文 学 博 士)「 岡 田文 相 に望 む 」 湯本武比古 「 学 制 改 革 問 題 の解 決 を 望む 」 藤原喜代蔵 「 純 教 育 外 に於 け る岡 田文 相 に封 す る註 文 」 相 原 熊 太 郎(文 学 士)「 國語 の独 立 を」 渡 邊英 一 「 岡 田文 相 に望 む こ と」 根 本 正(衆 議 院 議 員)咽 民教 育 費 を國 庫 支 辮 にせ よ」 大津 復 活(普 通 教 育 社 社 長)「 直 言 献 策 を期 す 」 寺 田勇 吉(精 華 学 校 長)「 左 の 二件 を希 望 す 」 石 田新 太 郎(慶 磨 義 塾 幹 事)「 希 望三 件 」 肝 付兼 行 「岡 田文 相 に輿 ふ る歌 」 西 山慧 治(私 立帝 國小 学 校 長 ドク トル オ ブ ペ タ ゴギ ー)「 國 民教 育 調 査 會 を起 せ 」 坪 谷 善 四 郎 「常識 と人 格 の養 成 に注 意 せ よ」 佐 々 政 一(文 学博 士)「 豫 算 を豊 富 にせ よ」 佐藤稠松 「 希 望 二件 」 爲 藤 五 郎(東 京 日々新 聞記 者)「 希 望五 件 」 竹 原 素 峰(教 育 の實 際 主幹)「 希 望 三件 」 ToruYamaguchi(聖 教 新 聞 記 者) 一215一 「 牧 口常 三 郎研 究 ノー ト」薪 蒐 集 文 献 の覚 書(3) 川 本 宇 之介 「 補 習 教 育 を義 務 教 育 とせ よ」 市川 源 三(東 京 府 立 第 一 高 等 女 学 校 教 諭)「 希 望 三 件 」 相 澤 煕(國 民新 聞記 者)「 中 等教 育 の 改 善 を希 望 す 」 狩 野力 治(文 検 世 界 主 幹)「 岡 田文 相 に 望 む」 川 村 理 助(培 風 館 主)「 時 局 に鑑 み よ」 小西 信 人(東 京 聾 唖学 校 長)「 盲 唖 教 育 に封 す る希 望 」 西原 和 治(現 代 教 育記 者)「 下 級 教員 の俸 給 を あ げ よ」 大 島 正徳(内 外 教 育評 論 主 筆)「 月 並 に して必 要 な る三 件 」 杉 浦 鋼 太郎(大 成 中 学校 々主)「 文 部 大 臣 を政 攣 圏 外 に置 け」 中村 春 二(成 険 實務 学校 長)「 精神 的 方 面 の整 頓 を なせ 」 菊 池謙 二 郎(水 戸 中 学校 長)「 御 返 事 」 堀 尾 太 郎(教 育 資 料社 々長)「 實 業 学務 局 の復 興 を望 む 」 蛭 田太 一 郎(東 京 市 四谷 第 四小 学 校 長)「 希 望 五件 」 三 輪 田元 道(文 学 士)「 人 に価 て 教 育 せ よ」 斯 波 貞 吉(萬 朝 報 主 筆)「 教 育 家 と社會 の 関係 を密 接 にせ よ」 江 原 素 六(貴 族 院 議 員)「 國 民 道 徳 の 阻 害 をなす な 」 多 田房 之 輔(日 本 之 小 学 教 師 主幹)「 教 育 界 の代 表 者 と して輿 論 の貫 徹 に努 め よ」 町 田則 文(東 京 盲 学 校 長)「 盲 聾 唖 教 育 令 を獲布 せ よ」 津 崎 尚武(法 学 士)「 希 望 六 件 」 牧 口常 三 郎(東 京 市 大 正 小 学校 長)「 小 学 校 郷 土 問題 の解 決 に一 部 の壼 力 を望 む 」 稲 毛 認 風(教 育 實 験 界 主 筆)「 希 望 十 件 」 礒 江 潤(京 華 中学 校 長)「 希 望 二件 」 三 浦 藤 作(帝 國 教 育 記 者)「 優 良教 員 を優 遇 せ よ」 色 川 囲士 「 一 生 涯 御 壼 力 を望 む 」 玉 利 庄 次 郎(東 京 日々新 聞 記 者)「 余 の希 望 」 松 田茂(東 京 市 小 川 尋 常 小 学 校 長)「 希 望 二 件 」 金倦生 「 最 後 に一 言 」 ■岡 田良平 にっ い て 岡 田良平(1864=元 治20)年 治 元 年 ∼1934=昭 和9年)は 明 治 ∼ 昭和 期 の 教 育 行政 の 実力 者 。1887(明 に 帝 国 大 学哲 学科 卒 業 後 、第 一 高等 中学 校(=-eg一 高 等 学 校 の前 身)の 教 授 を経 て 、 1893年 に文 部省 に入省 した。 参事 官 ・視 学 官 ・書 記 官 兼 会 計 課 長 、実 業 学 務 局 長 、総 務 長 官 な ど を務 め 、1904年 に貴 族 院勅 選 議 員 に 、1907年 に は第2代 の京 都 大 学 総 長 に就 任 。1908年 、第 2次 桂 太郎 内 閣 の 文 部 次 官 の後 、 寺 内正 毅 ・加 藤i高明 ・第1次 若 槻 礼次 郎 各 内 閣 の文 部 大 臣 を 務 めた 。 1929年 には枢 密 院顧 問官 とな り、1930年 には 産 業組 合 中央 会 会 頭 に も就 任 して い る。 農 村 社 会 を基盤 と した勤 倹 節 約 を 旨 とす る 「報 徳 教 」 の信 奉 者 と して も知 られ る。 岡 田が1度 目の文 部 大 臣(寺 内 内 閣)に 就 任 した の が1916(大 正5)年 育 界 』 で の 特 集 論説 は 、 これ に合 わせ て 企 画 され た もの で あ る。 一216一 の10月 で 、如 上 の 『教 創価教育研究第5号 團 「 郷土問題」 牧 口は 表 題 に 「 郷 土 問題 」 と掲 げ て い る。 この 「問題 」 とは 、何 を指 す の か。 それ は 、彼 が 『人 生 地 理 学 』 に続 い て 著 した 第2著 作 『教 授 の 統 合 中心 と して の 郷 土 科 研 究 』(1912〈 大正 元〉 年)に 第3巻 明 らか で あ る(『 牧 口常 三 郎 全 集 』 〈 第 三 文 明社 〉 所 収)。 こ こで は 『郷 土 科 研 究 』 の 中 身 にま で 立 ち 入 らない 。佐 藤秀 夫 が 『郷 土 科研 究 』 の 内 容 にっ い て 簡 潔 に要 約 して い る 『全集 』 解 題 を紹 介 して お こ う。 端 的 にい っ て 、本 書 は 、愛郷 心 の 育 成 を 目的 とす る 「 郷 土 教 育 」、他 教 科 と併 立す る 単 な る一 教 科 と して の 「 郷 土 科 」、ま た は授 業 の 導 入 と して の 「 郷 土 観 察 」方 法 等 々 を論 じた 書 で は な い 。 要 約 す れ ば、 これ は 第 一 に初 等 教 育 の カ リキ ュ ラ ムの 根 本 的 な改 革 を論 じた 書 で あ り、 第 二 に は これ と関 連 して 授 業 過程 の 基本 的 な 改革 を提 唱 した 書 で あ る。(『全 集 』第3巻p336) ま た 、 佐 藤 は この よ うに も解 説 を加 え て い る。 梅 根 悟 はか っ て 、本 書 を評 して 「わが 国 にお け る コア ・カ リキ ュ ラ ム的 教 育過 程 論 の 最 初 の 文 献 と して 記 念 す べ き も の」 と述 べ て い た 。 戦 後 の一 時 期 に盛 行 した コア ・カ リキ ュ ラム 運 動 は 、文 部 省 の 「 学 習 指 導 要 領 」 基 準 の強 化 方 策 の前 に挫 折 した 。 教 科 課 程 が 国 定 され て い た 当 時 に あ りなが ら、敢 然 と しか も論 理 的 科 学 的 な手 法 を も って カ リキ ュ ラム 構 造 の 抜 本 的 な 変 革 を主 張 し、そ の見 地 か ら 「 教 授 の統 合 と して の」 の 一 句 を書 名 の冠 頭 に掲 げ た本 書 の画 期 性 は 、 あ ま り に も鮮 明 だ っ た とい わ な けれ ば な らない 。 第 一 次 新 教 育(大 正 新 教 育 運 動)が 騨 科愛傘 カ リキ ュ ラ ム 問題 を 回避 して専 ら狭 義 の教 授 方 法 改革 に のみ 没 しき っ た と評 価 され る なか で 、 そ の発 足 の初 期 にす で に 国定 カ リ キ ュ ラムへ の批 判 と変 革 を提 起 し(初 版)、 フ ァ シ ズ ム と戦 争 体 制 の進 行 に よ り新 教 育 運 動 が逼 塞 した時 点 に お い て そ の変 革 論 を一 層 鋭 く展 開 させ た(改 訂 ♂榊 羅 第十 版)本 書 の存 在 の 意 味 は 、今 日にお い て よ り深 くか み しめ られ な け れ ば な らな い だ ろ う。(『全 集 』 『牧 ロ常 三 郎 全 集』 第3巻p48よ り 第3巻p340-1) 『郷 土 科研 究 』は 、既 存 の 教 科 構 造 で の 教 育 を、 「 郷 土 科 」 を 中 心 に した教 科 編 成 へ と根 本 的 に変 更す べ き で あ る と訴 え 、 「 国 定 小 学 教 則 へ の 全 面 的 な 挑 戦 を行 な った 」(佐 藤 解 題)一 小 学 校 長 の 直 言 で あ る。 そ の 訴 えの"過 激"さ は、 「 小 学 校 郷 土 問 題 の解 決 に一 部 の 蓋 力 を望 む 」 に 見 え る 、"地 理 科 も歴 史 科 も修 身 科 も、郷 土科 をカ リキ ュ ラム の 中 心 に据 え る教 育 改革 を為 さ な けれ ば 砂 上 の楼 閣 に終 わ り、授 業 で 教 え る知 識 は国 民 の実 際 生 活 と没 交 渉 に な る と断 言 す る こ とが で き る""(ゆ え に)教 科課 程 お よび そ の 配 当 時 間 に 大 異 動 を生 ず べ し"(趣 意)等 の件(く だ り)に 充 分 に あ ら われ て い る。 21年 間 で10版 を重 ね るほ どに 売 れ行 き は好 調 だ った 『郷 土科 研 究 』 は 、『人 生 地理 学 』(1903 一217一 「 牧 口常 三 郎研 究 ノー ト」 新蒐 集 文 献 の覚 書(3) 年)と 『創 価 教 育 学 体 系 』(1930年)と を結 ぶ 長 編著 作 で あ る に もか か わ らず 、第4著 作 『地 理 教 授 の方 法 及 内容 の研 究 』 と とも に 、 こ の60年 間 、 ほ とん ど学 術 研 究 の光 が 当 て られ る こ とが な か っ た。 さ らな る研 究 が 待 た れ る。 一218一
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