薫園 と寂景静 運動 序 乙おける選者薫園 の落合直文との避 遁 ㈲﹁新声﹂ 片われ月 L の周辺 反 ﹁明星﹂の姿勢 ㈲﹁ ㈹ ㈲﹁叙景 詩﹂の実相 結語 序 金子薫園は、作歌生活四十年を記念する傑作自選歌集 ﹁水聲集 ﹂ の序に 、次のような言葉を述べている。 太 田 一筋に 鞭う つて、 僻怠の 情 に打 克 繍怒蹄鮎鮨到巳、 不遇ながら 残 念 ながら 現在までそれを確証した論はない。そこで、直文歌風の継承の ,つ え では、どのように直文歌風が継承されていったのか。 もその足跡を近代短歌典ほとどめているといえよう 。 たけれども、一つの流派として永続し﹂ 歌風は繊細 温健 であったから、鉄幹の歌ほど歌壇に影響 をしなかつ 者 たる面目によって、歌壇の主潮流とはなりえなかったが、﹁その 負 にも似た本音がうかがえる。自他共に認める落合百文の歌風継承 命を閉じようとしていた。その意味でも、薫園のこの述懐には、 自 この時、 僻耳順の薫園は、明治大正昭和にわたる歌人と しての 生 つて来た。この気持はこれからも続くであらう。 今日に及んで ぬ る。その間私は自ら かも私は落合先生の流れを継承して、迷はず、惑はず、 歌壇の思潮は私がこの道に入ってから幾変遷かを重ねた 。 し 登 に る 具 き 景詩 L 、 ね 連 れ 動 が 近 て 歌 老 吏 察 に し 特 て 殊 短 占 雑報結城 耕珪にょ れば、明治二十五年春頃、 肋 膜 炎に躍り、 師直 文 との 出ムム それだけに の白眉とい え よ う。その追懐によると、初対面の薫園は兼好法師に ついての 小 た ﹁国文学﹂所載の薫園の追悼 支 は 、そ 師追慕の情は深いが、門弟大町桂月,与謝野寛らによ って編纂され は 、自己の文学的資質を生かす唯一最後の場であった。 に 正規の学業を断念した若輩金子雄太郎にとって、 セ月に東京店第一尋常中学校を退学している。生来の虚弱体質の故 譜繍 きれるが、同時に歌人薫園の生涯の出発をも意味している 。彼の年 六日の寒夜であった。この訪問をもって、直文師事・浅 香社 入門と 薫園が初めて直文の警咳に 接したのは、明治二十六年十一月二十 ㈲ い 』」 詩会 位 の 代 に つ い 現 叙 な 位 置 み た い 宗 コ 「 れ 『 ら 認 で る 最 と 註 ① 一 品の添削を受け、翌月発行の﹁少年文庫﹂に向ケ岡、佼潔金子雄太 郎の署名で投稿している。師直文の斧鉱を仰ぐに短歌にあらず文章 ﹁ 妹長子を 祭る文﹂などの清新な文章を発表していた直文の薫陶によって、文 童衆たらんとする薫園の初志によるものである。因みに、浅香社人 門前後の所謂投稿時代の作品は散文が圧倒し、管見の範囲では、最 る忠君愛国の 志気は明治二十年代初頭のナショナリズムに洗脳された青少年に通 有 のものではあろうが、身体的に脆弱なだけにその渇仰も人並み以 上に強かったと考えられる。きらに硬質の文章を志向する重要な囚 子として、﹁つねに忠臣義士のことを書きたる画図を好み、蔵する ところ、き はめて多かり。︵略︶またつねに靖献遺@ を好み、こと 直で古武士 然 とした父親から日本外史・十八史略等の素読を受けた幼少の薫育 も看過できないであろ, ≦。 このように文章家をめざす薫園が・浅香社に入門した明浩二十六 ・コ一博文館 師直文は国語国 文の改良か 年末は﹁もう同社の末期に属してめて会ムロ といふものは行はれ な ﹂︶頃であったが、 、 , Ⅴ ら、浅香社結成前夜のピー・アールとしての コ新撰歌典口 一明 何 編纂に代表される和歌改良運動へとその情熱を転換していた時期で あ 入門後かなり早い時期の作品である。 ﹁山家春雨﹂一百 が 紹介されている。瞥見の限りでも、 た。司書の意義については武 Ⅲ忠一氏の最近の詳嗣に諾 うま @ か 、その ん堕亘から看破きれた﹁直文の中に、 藤浄 いる古典的伝統的な四季観﹂鮪瞳が 、新派和歌の枢軸 とし の折衷を意図する直文の指導理念の根底に充溢していた こと 索は 、二十五年二一月創刊の雑誌﹁歌学﹂に発表の﹁ ム﹁や 国 をの べて歌学発行の趣旨に代ふ﹂に具現化される。﹁ 費 成 のゆ までもない。二十年代の国粋的な動向を背景にした直文 の新 旧 う に隆盛をきはめ居れり。その割合に、歌学のさかりなら ざる この題詠は 巻 三号にも さらにこの歌 寸蔓 たがえず伝統的な題詠の詠口を踏襲した陳腐な歌 ではある が 、未熟ながらも叙景の特色がうかがえなくもない。 一首として投稿。 を 改稿の うえ 、同年四月十五日発行の﹁少年文庫﹂十一 題詠﹁山家春雨﹂ 山里も軒の松かぜ昔はせて柴のあみ戸に春雨そふる 二、三旬に視覚的な景情から聴覚的なそれへ改戻 させた 苦心が 諒 察される。かきねて二十九年八月三十日発行の﹁文学界 ﹂四四号に き 浅 て 掲 載の 一 "一 歌の品格を 尊重する直文歌風の継承の第一歩が、これら﹁m家春 雨﹂系列の歌 歌論が歴然と存在していたことは自明である。つまり、 歌 ひてよき歌をい ふなり。﹂として、歌の調べを重視 する 師 直文の ちろんその背景には﹁歌のまことによきは、見てよき歌 にあらず。 然の景物を客観描写する稟質はすでに内包していたと いえよう。も ら 三様の﹁山家春雨﹂系列歌の表現措辞は陳套の域を出ないが、 自 塙家から中央の文芸誌に寄稿する新進歌人へと飛躍し ている。これ とあらたな変貌が見られる。この二年半の間に、薫園は無名の投 やまざとは軒もる昔もしのび つ Ⅰ柴のあみ戸に春さめ ぞ ふる に、また必ずさかりならざるべからず。︵略︶おのれは 薫園 は、必然的に浅香社 の結成 掲載の﹁ひと雫﹂と題する短歌二十五首の巻頭に になっていた。 、小泉 茎三 氏の﹁近代短歌典 の 香社 詠草として明治二十七年二月二日の﹁二六新報﹂ 萌治篇 ︶ヒ輪 捌社6︶では 、薫 すにとどまらず、子規の革新運動さえ議故する歌壇の大 きな の熱意は、社中最年少の薫園の、文章家から歌人への仝 心向転 等の紙上における新派和歌実作の高潮期 でもあった。 こ 0百 した時期は会ムロこそ 行 なわれないにしても、﹁日本﹂﹁自由 し、塊園 ・鉄幹らの新世代によって実践されていった。 。そまむとするなり。﹂という主張 なる歌といふものを、すべての国人、ことに、青年有為 0人 にぞや。歌は国文学中、最も高尚なるものなり。国文学 の隆 やまざとは軒の松より暮 そめて柴のあみ戸に春雨ぞふ っ き、 な て、 い も て 生、か 新 国 は 詩 い 模 ゑ よ し の 盛 は 文 高 と い 学 尚 夫 か 大 起 換 文 新 が る 々 潮 を 周 間 人 喚 に カ 促 迫 」 門 起 の 園 ている。同誌の誌度会﹁松風左下﹂の幹事としての活躍 四 によって具体化されている。そして、それは後年の コ叙目詩 界﹂ へL し 最年少門生という立場などが考慮きれたためであろうか。二十九年 一月十日発行の﹁文芸倶楽部﹂二巻一編に投稿の﹁春山祝 わずか一首 ﹂一昔 は、 の ﹁文学界﹂誌上のめざましい活躍へと延長していくこ とにもなる。 にしてもこのことは青年歌人金子薫園にとっての声誉であり、 先き 金子薫園の号をもって和歌欄の首位に据えられている。 や 、浅香社の 展開きれる叙景志向の徴証でもあった。 ︵註記︶ き︵ M囲杵,︶ 等に所載の年譜では十月と明記きれ、従来の各種年譜も十月読 はまった ﹁かな﹂止めの寿詞ではあるが、薫園にとって一種の記 合作であ この﹁ 寄山祝﹂一百 は ﹁山家春雨﹂と同じく題詠の型に ②﹁落合直文先生を億 ふ﹂コ%﹂1︶。 り、﹁文学界﹂掲載の﹁ひと雫﹂と題する二十五百 の, ヮちに、加え を通用しているが、直文逝去直後の回想旦翻押乳とに 拠った。 ③﹁歴史 | 近代短歌の本質|れ口﹁新撰歌典ヒをめ ぐって﹂ ④短歌二十五首の他に、﹁武夫﹂﹁漁夫﹂﹁忘れが ため﹂と題 初登場の作品となったが、いずれも祝賀にふきわしい類語 をよみ こ れている。この 三載の ﹁寄 山祝﹂を含む題詠五百 が、薫 固め ﹁新声﹂ て三十一年一月十日発行の﹁新声﹂二巻一号の新年付録にも 再掲さ するセ五調の新体詩三編が掲載きれ、意欲的な姿勢が, ヮかがえ んだだけの不本意なデビュー作であった。が、これは典 雅流麗の趣 ︵ m 。 一 % n︶ @ u ﹂ 。 % .﹁ O一 る。特に﹁忘れがたみ﹂は直文の代表作でもある、ゼ五調 の長 を生命とする直文歌風の盲目的な追随ぶりを明証するも のである。 板行まで 待 詩 ﹁孝女白菊の歌﹂の影響が瞭然である。 る薫園の意識を考察しておこう。 日清戦後の新国民の声を宣布すべく、投書雑誌﹁新声﹂ た。同年十二月十日発行の一巻六局からは、和歌を鹿島桜花が 、俳 投書青年佐藤儀助 ︵ 義亮︶によって明治二十九年 セ月 十日創刊され は 一介の たなければならないが、その自覚を徐々に助長した﹁新 声 ﹂におけ ⑤﹁賛成のゆゑょ しをのべて歌学発行の趣旨に代ふ﹂ 一 W 。 蒔 @ ︶ @ ひ @ ﹂ 。 . 甘 m ﹁.n,直文歌風の継承という自覚は、第一歌集コ片 われ月日の ㈲ 咬 潔と 署名さ ﹁少年文庫﹂の十一巻三号に例の﹁山家春雨﹂を投稿 し てから 三 用後、二十セ件 セ月 十五日発行の十一巻六号では、 た短文﹁一日のまこと﹂が従来の少年文庫寄稿欄から格上げきれ ケ れ 句を河東碧梧桐が、漢詩を大酒鶴林がそれぞれ選者として担当、 韻 が佐藤 橘香らと共に﹁謹賀新歳﹂に名を連ね、﹁はつ若菜﹂と題す る 、一調神恩 洲 々杏 たるを覚ゆるものあり﹂と称賛して いる。この 大ならざれど、造詣するの深き侮る可からず、殊に其 詩形の流麗な 地玄黄目を読む﹂において、﹁薫園は年少の歌人未た 名 をなすこと 太后陛下への哀悼欣二百が登載され、きらに橘香 ︵ 儀 助 ︶が﹁﹁ 天 題詠五百をもって薫園の名が初登場する。ついで二巻一一号には、皇 勉、沈滞して振はざる国歌の復興を図るべきなり。Ⅰと い う 着任の 欄の担任を以てす。︵中略︶予輩翼くは今より諸君と 共に拮据 謂 は 、薫園の﹁文彦こたび脳をやみて故山に仮臥し、 しく﹁らむ・かな・けり﹂止である。ついで四巻三号の和歌 椅に む止は百五十 首 以上に及んで め る﹂ 稿 。都合二十六百のうち十三首までが、﹁遺作手八十入首のうちら る 短歌 十セ 首を寄稿。次の四巻二号にも短歌﹁六花絹紡 ﹂丸首を寄 佐藤 儀助の厚志を機縁として、﹁新声﹂および新潮社 との生涯にわ 辞が 述べられ、 欄末に ﹁次号には梅の歌を寄せ給へ。﹂ 翌 新年号の二 番一月には、 たる長い交誼が始まったともいえよう。二巻四号の和歌欄は前号の る 。その 同頁 下段に選者の範として損銀 の ﹁梅の花笠﹂ セ首には、 文 投稿欄の体裁を整えている。そして、 記者選から新たに清原文彦選となっているが、これは 薫園が 未 だ 青 初心者向きの題詠 法 の一端がうかがえる。つまり、 選 者薫園の提唱 の上口川 持 があ 予 に托するに 木 師直 文の薫陶よ る 書生の故の隠宅であった。本号の表紙Ⅱの﹁新記者︵選者清原文彦 鈴木栄吉の 処 までも 我作 なりと主張した所が甲斐なかろ べし。 そ れよりはおと れている。﹁春 門の歌 と詞意 亀も異なるふしなきものを詠みて、 同 は、鈴木栄吉の釈明文﹁金子薫園君 に答ふ﹂に薫園の短評が添える 残されて 春 たけにけり︶を盗作しているという。次号の 五巻一号に ﹁蕨 ﹂の詠草が、江戸派村田春海の︵雅子なく岡の小松の下蕨をり 問題を採り上げている。薫園の戒生口によれば、投書家 四巻五号の和歌欄は 、薫園の選者としての姿勢が明察さ れる瓢細 を無批判に 継聾 するだけのことであった。。 する﹁国歌の復興﹂とは、結成当初の浅香社詠草に頭著な 八題詠 V 一十年中の作 君︶紹介﹂は、薫園の実質的な新声仕入社の告知でもあった。かく して﹁新声﹂和歌欄の選者薫園は誕生したのである。一一 品 としては、上記の他に二巻四号に短歌五百、二巻五 号 に美文﹁ 花 ふ ぜき﹂一編、三巻二号の巻頭に論説﹁万葉集に 放 け る風俗の研 清原文彦︶ 多 岐 にわたる うえ ﹁野分﹂と題して﹁ 片わ れ月 L に収 究 ﹂、三巻三号に短歌二百、三巻四号に短歌人首 をま じえた美文 ﹁夜半のあらし﹂︵改稿の 録 ︶、三巻五号に短歌﹁節の菊﹂十二百などを寄稿、 活躍である。 翌 三十一年一月十五日発行の四巻一号では、金子薫園︵ 五 抹 して前人以外一機軸を出きむことを忘るべからず。﹂とい, フ峻厳 なしく己が詠草中より除却せらるⅠに若かず、︵略︶よく古歌を玩 開きに掲載、選者薫園を浅香社の先輩で短歌革新の焼将鉄 号 には、鉄幹 の ﹁ 紫墨吟﹂十二百 と 薫園の﹁菜花実﹂ る ﹁注意四則﹂が掲げられ量から質への転換が強調され 況がうかがえる。次号の三編四号の和歌欄 には、厳選 主義 ﹂ な態度は、ただに選者の自信や街気 のみならず投書時代の自己批判 することによって、﹁新声﹂歌壇の躍進をはかろうとする "" も加味きれている。やはりこの問題に対する薫園の姿勢 にち、八百 配慮が認められる。また三編六号の薫園の﹁焚きのこり ﹂ " / Ⅹ " ¥" 歌を学びながら個性を尊重するV という師直文の スロ|ガンが鮮明 二編五号に短歌﹁枕上微吟﹂二十八首 をそれぞれ寄稿、 この年は病 編 三号に短歌﹁ひとしづく﹂三首を、二編四号に美文﹁虫の音﹂を、 翌二一十二年一月十五日発行の一編一号に美文﹁のぼる 畑﹂を、二 する反論が述べられている。要旨は、四十三首甲一首も佳 された﹁ う たの悪口﹂には、先述の三編三号の選者薫 園の 喧伝するかのよ うである。ところが、同号掲載のあぅ むの 、それぞれに﹁鉄幹 云 ・・・・・・﹂の寸言を付し、鉄幹時 薫代 園 十セ に投影きれている。 裾 に伏すこと多く﹁発汗剤を用めて婁暗黙のさのたる時 、朱筆もつ 。答えて、﹁本誌の主張せる風気の革新は、ム﹁日の青年 を がたく、添削する選者の指導性を疑わざるをえないとい,ブ 翌 三十三年は﹁新声﹂の飛躍発展期を迎える。一月十五日発行の ッ つけ節を歌 ふ壮士たれと勤むるものに非 ざる 也 ﹂。 こ れ 手も戦きつち咄 々として諸子の詠草を諦しけむ﹂惨状であった。 につづいて蒲原有明が入社、質量面の拡大がみられる。投書欄には 三編一号は誌型を従来の菊判から四六倍判へ変更、前年の高須梅渓 風などの投書家が定着、その和歌欄 には荒木枯園 ・及Ⅲ清藻 ・小Ⅲ ものに至りては、嘔吐三円を催きぢ るをえず。﹂と ぃ, フ薫 0滴 紙 ﹁少女﹂をひきいで b、動物的の恋を描き、得色 という明快なも 皇目でもあった。ついで四編一号の和歌欄 til 向きの投書雑誌﹁新声﹂歌壇の選者として、初学者指 導に 聖学・福田義 二らの﹁叙景詩﹂歌人が放出、特に聖学の歌は コ叙景 がある。自明のことながら、これは八少女︵子 ︶ V に内 包 新体詩・短歌・俳句・叙事文・評論の各ジャンルに活躍する山口吟 詩L 収載の最初のケースでもある。そして三編三号の和歌欄の ﹁以 放 甘美なロマンチ であ 上四十三首は一千三百九十六百中より比較的佳作と認のたるものを もと直文の歌風には鉄幹らに継承される濃厚な主情的側面 シ。スムを賞揚する﹁明星﹂への批判 選抜して多少修正を加へたるもの也 。﹂という選者の評言 にも投書 もあったが、清澄な師風を維持せんとする薫園の自覚 0発露であっ れば、これより和歌国文は面目を改むるものあるべし。 する 所頗る深し。而して今や我社 に入りて大に力を尽 さる 可け ﹂ たと考えられる。鉄幹薫園時代は意外にも早く対決の様柏を迎えた 五巻六号 輌滴 芦田には、鉄幹の﹁ 豊詠 といふこと我は大 嫌な ま さに暗中模索 れど工夫の一法としては功多きものなり 打集ひ 題を探り などし か、 漸く投書雑誌の名実相伴った﹁新声﹂の選者であるに過ぎない 薫園にとって未だ独自の歌境を表明するに及ばず、 て詠むもまた詩才の運用をためすには妙ならんなと物語りて 人 の状態であった。一計として四編五号の和歌欄末 に選外 る 。 二一十二一年十二月十日発行の四編 セ号に掲載の﹁風伯 花﹂十一首 稿 されている。 ﹁少年文庫﹂の十拳四号︵ 子を試むるなど、熱心無くばかりに候 。﹂とある。 に力を傾け居られ 候、或は優美 体、或は素材体、さま ぐ鰯 四編一号の﹁編集便﹂に、﹁薫園兄は例に依 て 、和歌 0% 新 ゑむ︶も含まれている。 登美子の歌︵鳥籠を小枝にかけて少女子が梅の花歎 か ぞ へてぞ 首もあり、このなかには﹁作者得意の詩境﹂と選評の ある 山 Ⅲ 同号和歌 欄 九十一首中に八少女︵子 ︶ V をよみこんだ 歌 ゴセヵ 牽に 取消しおく、﹂という刮目すべき記事がある。 敬 は、同氏の作に非ざる 故 、取消したしと 中 越されたる に 由り、 井寺の瞳のねを 聞 て目 及 ﹁和歌の浦に遊びて 宸ニ 題す る 二百 の 文庫第十巻第二号に載せたる、金子雄太郎氏と署名せ る ﹁紀三 Ⅱ︶の和歌 欄 天に 、 ﹁少年 明 no. 々に拙速を誇りける時の作﹂という前記の ﹁探題二十 首 ﹂が 寄 駄作十四 ④ ⑤ 首を掲げて、少女色を一掃のうえ ﹁新声﹂歌風の確立 をめざしてい は、薫園の直文歌風継承ひいては﹁新声﹂歌風確立への模索による み どとな結実である。 鳳仙花照らす夕日におのづ からその実のわれて 秋 くれ むとす 就中、右の歌は翌三十四年一月刊行の﹁片 われ 月 ﹂に 所載され、 おだやかな自然の景趣を特質とする同歌集の一典型である。この絵 面的手法による叙景性が﹁新声﹂歌壇の選者薫園の成果 であり、 そ れを軍旗として同門の鉄幹を領袖とする﹁明星﹂調によって 腐触さ 証④参照。 れつつある師風の擁護につとめたことはいう までもない ︵註記︶ ①のの 妊暁館軌巳二四九頁。 セ ②﹁文話歌話し ③﹁君国学に思を潜むること多年、協商 は壮なりと 造 ㈲ ノ入 味 が豊かである。﹂と 評 し 、また 詞 た ︵春雨に青む垣根のこぼれ 種 くきだつ見れば鈴菜なりけり︶を 、 ﹁その手法、観方共に素直で自然 集 中二 橘香 ・高須梅津 ら新声社の全面的な後援によって刊行きれた ﹁片わ び付いている。それは師風継承という緊張の余韻でもあった。佐藤 自身が再々回顧しているが、それらの趣旨はすべて師 直文追想に結 最初の本格的な歌集の出版であった。刊行の経緯については、薫園 れ月 ﹂の傑作︵鳳仙花照らすのふ日におの づ からその 実のわれて 秋 り物へまかりける道にて﹂という詞書をもつ﹁調鶴集 ﹂ の ︵山里の まめふ そともの豆生おの づ からこぼる ち見れば 秋 更けにけり︶ と、コ片わ にして﹁見たまⅠを言ひ下す﹂ことにあった。﹁八月 っ どもりばか じた薫園が日調鶴集ヒから修得した点は、自然を観察する眼を正確 なくなり︶を 、 ﹁ぅすきみしい秋の姿が見えるやぅ であ る 。﹂と感 書 ﹁河上暮秋﹂の︵ 秋 くるⅠ タ河そひ のくぬぎ 原ぅす 百六十 五官 は、巻頭の︵ あ けがたのそ ぢろありきにう ぐひす のはつ くれむとす︶とを比較すれば、いかに薫園が八文雄式構図 V に強く コ庁われ戸ロは薫園の第一歌集であると同時に新声社 においても 青 きⅠ たり 藪 かげの道︶の清新な叙景歌、︵亡き母の恋しくな り,て 魅せられていたかが明瞭であろう。 れ 戸し は、歌人薫園の将来を占 う 重要な意味をもっていた。 日もす がら山のおくつきめぐり見しかな︶の亡母追慕を含む 多くの 秩父へ帰るのふ立の雨︶や︵ え みし 舟おろす碇のニま たに人の 、 心の 薫園を魅了した別の理由として、︵あらⅢの瀬のと残 して水上の らをの 友 ︶の近親交友の歌の三つに概ね分類される。つとに坂井久 ならはずもがな︶に顕著な生っ粋の江戸っ子歌人である文雄の意気 どろ ねられざる る む ます 哀伎 が ﹁此集中にて、先日鉄幹張りと、楽屋落なる友人間の消息歌 軽妙・ 蒲酒の趣が認められる。長男広 兄の追憶による と 、薫園は 追悼の 歌、 ︵気はあがり心をどりでこの夜 とを 除 いて、 隠雅 なる作を択ばんには、薫園の真伎価多く認識 せら その一生を和服で通し、東京の街ことに夜の銀座の灯を 愛したとい 伝 統 主義者たる 賞賛する子規の動向とは正反対に、東京生れの歌人薫 園は用語や技 たろ う。文雄の﹁調律集 b に失望し、 曙覧の ﹁志濃 天延 舎歌集 ヒを 薫園にとって、文雄の繊細で酒脱 な江戸前の歌風は強 い憧尿 であっ う。神田生れの古風なダンディズム都会育ちの 特徴 るべし 江 戸派 は沈静 な叙景の趣にある。そしてその多くが自然を素描しただ けの 生地 そ のままの歌であったが、これは薫園の述懐によれば、 最後の 歌人ともいうべき井上文雄の家集﹁調鶴集 ﹂ 鹿荻和弘糾の乙 に影響きれたものであることが分明する。﹁垣根若草﹂と題詞きれ 者として瞠目されつつあった明治三十三年の春、鉄幹 相識の 間 となった。四編一号︵ 明 ㏄・ 巧 にとらわれず田園の風越を自在によみこんだ文雄の境地を模倣 す ありあけの 月かげあ はき円窓にきりの葉さそ ふ 風を見 るかな 城素明君を誘ひて、堀切に花菖浦を見る﹂と詞書のある、 ︵画にな りに向島弘福寺門前の蘇迷盧を訪れ、美術学校派の俊英結城泰明 と 鐘の音にもみぢ こぼるⅠ山寺の折戸さびしくりふ日さすなり ろはみな君が手にしるされてわが歌 ぶくろ 歌 なかりけり ︶などの 父 ることに自己の方向を見い出したともいえる。 葉鶏頭 一もとたてるわが庭のかきれ きびし きゆふ づく 日 かな 遊 歌人 首が 掲載、二人の親密な往来がうかがいえられ る 。かさねて 一集成美など 巧7 ︶. の﹁新声 ﹂には、﹁ 結 は っ時雨 よきてもふれや朝顔のちひきく咲きて秋 くれ む とす 叶 われ 月 ﹂には、中村不折・福井狂事・下村観山・ ﹁ の画人との幅広い交渉が歌われている。薫園と素明 とが 相知の仲 と これらの歌はたしかに類型的ではあるが、自然の情景を凝視する 作者の境地が明瞭である。つまり、巻頭敵 の 八ぅぐひ すのはつ 昔き 敬堂などによって無声会は結成された。それに先駆ける 三十一年、 なった、三十三年の春頃、素明 ・狂事・島崎 柳鳩 ・渡辺 香涯 ・大森 の貴重な持ち味であったとい えよう。 したり 敷 かげの道 V という表現に具象する都会人の冷徹 な自然 観 か 、第一歌集コ庁われ戸ロ 田園趣味の八文雄 式構図 V の映写だけに集約されるの であろうか。 設 した日本美術院は、旧来の線描法から没骨生 彩の 描 沃 によって 新 して橋本雅邦・横山大観・菱田春草・下村観山らのムロ 東京美術学校長の地位を追われた岡倉天心が、明治美術界の先達と 結論からいえば、淡い自然味を特色とする無声会 の画 凪 が察知され 日本画の樹立をめざしていた。同年十月の第一回展覧ム蚕には 雅邦の コ叶われ 月 L の特色である絵画的手法は、清 涼 とした なければならない。同歌集に添えられた、結城泰明・中村本折 ・ ﹁蘇武﹂、大観の﹁屈原﹂、観山の﹁ 闇維﹂などが出品 さ ね 、時論家 ところで、 集成美 ら当代画人の淡 雅な挿画は、この歌集の質朴な性格を如実に 高山樗牛は﹁日本絵画界の一大飛躍と﹂して﹁近来絵 国界の新風潮 力 によって 創 歌文書画 をたしなむ 母 が、歴史画の復活に存せ む ﹂と歓迎した。しかし、 示している。薫園の資質に照らしていえば、 親 と﹁忠臣義士のことをかきたる画図﹂を好み文雅の士 ともいうべ 画 と称され権威に甘んじた日本美術院に満足しない美 術学校派によ 彦 ・前田清 邨 ・小林古径らの征児 会 とならぶ東都の小 画会であった そ の作風が 檬極 き父親とによる感化が大きい。さらに家庭的に不遇で病 弱 な幼時か 歌壇の選 って、 小画会が分立するようになった。無声会も今村繋紅 ・安田切 亡 ら絵筆を手にすることが多かった彼が、絵画への興味 や 関心を深め ていったのも極めて自然なことであった。長じて﹁新主 九 て、同会は写実主義を標倍 して 理盟主義の美術院派と真っ向から対 歩兵第二連隊に入営するが、翌年 の四月に上京の百穂の参加によっ に過ぎない。無声会の指導者的存在 の泰明が三十三年の暮頃、近衛 いることはい うまでもない。一万、第二﹁明星﹂の﹁閑 是非﹂︵ 明 美 な浪漫主義・理想主義に耽溺する﹁明星﹂への攻襲 に集約されて 越していることを強調している。これらの論評の視点が 、華麗で 優 光線偏重の檬 鹿 とした化物絵に対して、自然の写生に徹した点に卓 一O 立した。 百 穂の上京に尽力したの が、同郷︵秋田県仙北郡角館℡︶ の ﹁新声﹂記者田口 掬汀 ならびに 川端 塾 ・美術学校以来の画炭素 し、没理想の無声合の作品を﹁スケッチ作者兼挿画かき ﹂の産物で あ ・3. 工︶では、ゾライズムによる小杉天外の自然主義を論難 明 であったから、おのずから無声会 と﹁新声﹂とは 親呪の関係を結ぶ あると一蹴している。﹁明星﹂側からすれば、租界の理 想 を放擬す る輩 として、天外も無声会も共に面前の怨敵に変わりなかった。 だ に至った。 月十五日発行の﹁新声﹂五編一号 が、天外の自然主義には、﹁自然は自然である、善でもない、悪で 百 穂の上京に先立つ三十四年一 の ﹁甘言舌圭﹂ 巾欄には、無声会に 関する最初の記事が掲載されてい も 無い、美でもない、醜でも無い、⋮⋮小説また の旗 織を 翻 へした無声 会 ﹂は﹁美 術 団体中の第一位であらう﹂とい る。ところが無声合 のそれは自然そのものを純粋に写実するという ︵コはやり 唄 L 叙 ︶という社会環境論による合理性が露 呈されてい 想界の 自然である﹂ る。要するに、﹁新に日本美術の眼帯を作らう﹂として﹁自然主義 ぅ紹介である。因に本号から鉄幹との確執によって新詩社を脱退し 自然への態度は結局﹁写生﹂にとどまる。それは洋画練習法の階梯 れば叙事に対する叙景という位相の差がある。ともかく、 無 土戸ム耳の 客観性を重視し、その根底には自然を美化する要素をもっ。極論す 百穂を社友として美術的屋味な鼓 穂と の新鮮な挿画が登場している。そ た 一条成美と未だ故山の人面 の ﹁編集たより﹂には、青年画家 吹し 、白馬会の華麗な洋画色 を満 喫させる﹁明星﹂をライバル祝す 言舌 語﹂欄では、理想派の美術院と自然派の無声合の拮抗を座談風 歌 に明らかなよ う に、自己の文学革新の理論として透 徹させたこと を 受け、﹁第一二 線ノ 配合真次 モ赤沈 モ写生々々ナリ﹂ Ⅱ︶の﹁新声甘 ﹂の﹁ であったが、子規が明治二十セ年春頃、洋画家の中村木折から示唆 に分析、﹁明星﹂と﹁新上戸﹂のそ れにオーバ・ラップきせている。 は周知のことである。短歌の真髄は客観的な叙景歌 にあ ると認めた る意欲が明瞭である。五編三号︵明胆 ・3. 無声合の展覧会は怠りなく紹介さね、六編六号︵明肘 ・は・F︶に 子規は、俳句のように客観の領域が広くない短歌では、 殺風景な主 は ﹁﹁無声会 展覧会﹂ムロ評 ﹂が 組 まれ、聖戸会の作品が美術院派の 写生し、目よ 。 に啓発 詠め」 とも論 て、十 じてい が、 成らのん 、 写薫 因 子 規 も 享掃妾 で あ 雄 ヒ 集 る が 載 し 」 」 あ ざ べ 「 主 く 新 に 自 派 よ 然 和 っ を め 光 」・10 調 所 歌る の 「大 五 いと て君 立案 自 るっ も はり ろ 、 ば個性 だ軽妙 る や 無声余 分之を得るや ち 所収の せよ う された へ 渉 然 か 昇 て 会 つ り人 に其其 とした を伝 く さ 論 に大 い よ 在 を推進 づ う て 歌 の た 習練し 閉 合 調 薫 曙 年 現 両 りに」 さ 「) 著 交 との れ 「 落 るり 。 、 のな前 」 「 か川 者 コ 「 「 そ 叙 景 明 「 『 ① 0 が, 結 子 城 薫 素 因 記 絵 の 如 究 画 趣 れ 追 観 記 の 註 ② ③ ⑤ ① ⑥ 平福百穂追悼首元 尹 ・ 卸 - し所載の﹁平福百穂年譜草案﹂ や 村松 ⑦ 関 苗氏の 大著コ大日本絵画史﹂ 軸棚閣ユにょれば、明治三十 ﹁歴史画題 鴇論 親﹂ 代 糾見博。 敵蝉 春 とし 捕風著 ﹁本朝画人伝﹂︵平福百穂の項目︶や薫園還暦記念 号 ③ 年前後、美 術院派の専横に対して東都・京阪に旗職鮮明の小西 会が 幾つも 派生した。 ⑨大正四年 ﹁中央美術﹂創刊、司五年日本画研究の金鈴 社組 織 、同八年 中央美術展開設など斯界に貢献した掬 汀の素養が、 ﹁新声﹂の美術趣味を鼓吹し、薫園の書画蒐集に寄与するとこ 歌と画 ナ。 @ ハ ろ 大であっ @ ⑩﹁ て 、この子 規の歌論を愚弄し、早くも不可並称の前哨戦を展開 している。 ハ頁。 ⑪同和歌人 門﹂輌沖社田山ハ- 叶 われ月二集中 画人グループ無声会 と の交渉は、薫園に叙景歌の方向に進むべき 示唆を与え、 反 ﹁明星﹂ への気勢をもたらした。﹁ 一一 には、︵駒 ながらりたを 手 むけて過ぎにけり関帝廟のあ けがたの 月 ︶ や塞ョ ふかきあら山中のひとつ家を磯ゑしまがみのめぐ り ては 乱 ゆ︶などの虎刺 調もあり、﹁鉄幹元に寄す﹂と題詞 き ね た︵京に入 り てまた 雄 たけびの歌ありやあⅠ衰へぬ君がうしろ影 ︶ などの交友 知らる。その 録に、 ﹁わか 歌 十三首 と合わせて、薫園の兄弟子鉄幹に対する敬慕 の深さが読み とれる。鉄幹の第二詩歌集コ天地玄黄し 菜 ﹂十四 首が ﹁薫園金子雄太郎氏の短歌、流麗を以て 近日の進境、頗る著しきものあり。﹂と紹介、登載さ れたという 所 以もある。だが﹁鉄幹 ぬしの家の名を梅花鶴痩堂 といふ ﹂と詞書の ︵ 梅と鶴とりあつめたるいへの名にならびてきよききみが歌 かな︶ 十 二官 は、二 は、追従口にも似た戯歌としてのみ解釈しきれぬ面もあ る 。三編入 号 ︵ 明鈴 ・5. 蝸 ︶の﹁新声﹂掲載の﹁焚きのこり﹂ ﹁探題世官﹂ 大羅葡頭 ﹂、 同四号に新 人の交友が絶頂期に至ったことを感じきせる。鉄幹の ﹁新声﹂への 寄稿は・三十一年度は、五巻二号に新体詩﹁三人旅﹂、 休詩 ﹁形見の袖﹂と談話﹁対面千里﹂、同五号に談話﹁ H-ハ号に﹁換頭世官﹂入首、三十二年度は一編一号に 十二官、同五号に﹁白藤集﹂三十二百、三十三年度は 一 二編四号に と ころが、 管 一一一 載の ﹁わが初恋﹂を最後として再び﹁新声﹂誌上に鉄 会 う ことはない。さまざまな事情が想起されるなかで最 性 に富む事象として、鉄幹子規不可並称の論戦を考慮 がある。あまりにもタイムリーではあるが、三十三年九 書﹂ お 星﹂に鉄幹の﹁子規子に与ふ﹂、﹁大帝国﹂に八良伎 新消息﹂、﹁心の花﹂に記者の﹁竹の里人に与ふる ﹁国詩革新の歴史﹂などと、不可並称説の主要な論評が 表されている。この論争は三巻十号︵明認・Ⅱ ,8 ︶ 雑報欄に﹁ボヤ程にもなくて、人騒がせに終りし道行 し 。﹂と 椰捕 されたよ う に、実質的な展開のないまま が氷解した時点で表面的な解決を迎えている。不思議 可 並称の発端となった横浜の菊迂生なる投書家の﹁毎 号 謝辞鉄幹正岡子規渡辺光風金子薫園なんどの新派若武者 題の方を分担なさしめ本誌の本領を明かにせられむこ いう 一文が﹁心の花﹂に掲載された三十三年五月から、 賀言 なが Ⅰつ を遂げた同年の十月まで、﹁新声﹂は本件に関して絨 黙 いている。この事情を明らかにするために、 可 並称説の震源地﹁心の花﹂を瞥見しておきたい。 却7 ︶. の雑報欄に﹁役人々の 歌 先 きの 一投書家の文章は根岸派の論客伊藤左千夫の奮 し 、三巻 セ号 ︵明 ㏄・ 百六の発 と を喚 ﹁紫屋吟 ﹂十二 首 、四編二号に﹁女士官﹂、同四号に美文 ﹁わが初 恋 ﹂などがあり、かなり積極的な助力を示している。 見の及ぶ限りでは、明治三十三年九月二十五日発行の四編四号に掲 歌 起 の も て 月 「 よ 集 「 知 両 こ の き を 一 の 鉄 とは 其標準に於て根底より相違して居る﹂と怒気満面の抗議を寄せ は、九月一日発行の﹁明星﹂六号から従来の新間タイプで 二十直前 こ の ﹁明星﹂の 大幅な刷新によって新詩社の勢力拡充を画策する鉄幹は、八月初旬 名義を本名である与謝野寛にそれぞれ改めている。 後を四六倍判の六十八頁に、きらに編集兼発行人称滝野 という妻の 硝軽侮 ハリ 甘口を弄 斗とフ につ あレ らずもⅠ﹂ ている。この左千夫の文意によれば、﹁正岡 師 と他の両三氏を一列 に見るさ へあるに若武者なんどⅠ ということの他に、前号漫録欄 に久良伎 か ﹁新歌人としては伊藤左 吟遊 にと多忙を極 めた。帰京 から中旬にかけて西下、講演・面談・ 二反共に前途有望の方々であ 干天・金子薫園 ニ氏が訪問せられた、 後の九月 セ日に病床の子規を見舞い、両者の誤解が晴れ一応の安堵 文壇の有力誌 ﹁よしるし草 ﹂が﹁わが 紫﹂と合併、﹁関西文学の代 る﹂と述べたことに対する、﹁金子薫園氏 と小生と同趣味様に 云ひ 表者として、復興者として、起たんが為 ﹂︵ムロ同の辞︶に、八月十 の支部を新詩社発展の重要な拠点と考えていた。期せずして、関西 なった左千夫の発言に関与していたこと自体、 ム﹁や逸話的価値が認 日 、改題 誌 ﹁関西文学﹂として再発足している。﹁よし な えた鉄幹は、 鳳晶子・山川登美子などの有望な新人をねえる関西 められよ う 。ともかくも、﹁新声﹂歌壇を代表する薫園が渦中に巻 なきれたれば今は吾一身の為にも柳か物 云 はねばならずなりぬ﹂と き込まれぬためにも、﹁新声﹂は傍観者的 態度を貫徹したものと考 編集は、この年の三月から鉄幹が﹁文庫﹂の和歌柵選 者を担当し、 いう事由があった。薫園が鉄幹子規不可%弥論議の事実上の端緒と えられる。また鉄幹と﹁新声﹂の関係に立ち返れば、そのことが遠 河井酔茗・伊良子清白・横瀬夜雨などとの交誼が深まるほ つれて、 梅渓 ・中 村 春雨らの あし草 ﹂ の 因 で両者が次第に疎遠になったともいえよう。しかし、それはあく 次第に﹁明星﹂創刊後の新詩社支持を明らかにしていた 。もっとも ﹁関西文学﹂一号には、創刊以来の同人、高須 までも間接的な理由である。自明のことながら、三十四年春の﹁文 だ 寄稿もあり同誌の新声社への周到な配慮がうかがえる。 ところが 三 が、その間にはおよそ半年の空白がある。徒労に終わるかも知れな 号 ︵ 明 ㏄・Ⅱ・ 托 ︶の﹁来者下垣﹂欄では、四編三号の ﹁新声﹂の 壇 照魔鏡﹂事件は、鉄幹と新声社 とに 決 定 的な亀裂を招来した。 いが、﹁文壇照魔鏡﹂事件勃発までのブ ランクを埋めながら、その 六号欄を材料にしながら、﹁新声の和歌欄は交 手占な ものである、 新派がつて喜んで居るとのことである、﹂と酷 ・評し、 薫 風 が同誌 へ しかし担当者の金子薫園といふ男は、こんな歌が得意なので、大に ︵太田 註| ﹁新声﹂三編三号の和歌梼の作品︶ 明確な根拠を探り当ててみることにする 特 に 一方の旗頭である鉄幹 明治三十三年九月は鉄幹子規の抗争に著明なよ う に、新派歌壇 秋 0陣とも 称 すべき様相を呈していた。 一一一一 寄稿した短歌人首を没書にした胃 まで暴露している。 こ の ﹁関西友 学﹂の亡状に対し、十二月十日発行の同誌五号の﹁来 老木 拒 ﹂欄に 一四 十四年一月十五日発行の﹁新声﹂五編一号には、奥村恒 ︵ 梅皐︶ の ﹁与謝野鉄幹足下に与ふ﹂と題する公開 書 が提示されて いる。これ の宣戦布告重日というべきものであった。これらの文脈 に 従えば、 は鉄幹の駁論に対する再駁論というより事実上の新語 社 ﹁明星﹂へ 日の長者はあるべし、然るにその歌を没書したりなど一ムひ給へるは ﹁新声﹂の薫園、﹁明星﹂の晶子が両誌の恰好の攻撃標 目であること は、﹁薫園兄の歌は兎に角、仝兄は僕等よりも先輩なり、他より 礼を守るの道に於て 、甚だ典当を得ず 候 。﹂と、﹁新ナ 戸﹂記者とし が明白である。薫園にのみ言及すると、新声社対新語社の紛争の口 火が ﹁新声﹂和歌 欄選者としての指導性に抵触してい ただけにその ての 梅渓の抗言があるけれども、その下段の﹁薫園の如 き弱い者 イ ヂメ 的の人物には今後とも其所置を認め次第、攻撃を加 へんことは 衝撃甚大であったろう。薫園と比べるに、梅渓の創傷 ほ致命的とも いえる。中村春雨と共に浪華青年文学会︵明㏄・ 4結成 ︶の幹事と 敢えて 庸曙 せぬつもりである。﹂という同誌の強硬な態度によって 険悪な局面が察知きれる。さらに同号巻末には、﹁鉄 幹子よりの 来 星﹂へも協力的であり、八月の鉄幹の来阪も懇情をも って迎えた。 指しの攻撃が梅渓 にとって痛恨の極みとなったことは賀 舌9 ロ 斗るままで このような事情からも、因縁浅からぬ﹁関西文学﹂誌上の鉄幹の名 して﹁よしるし草﹂の発展に尽力してきた梅渓は、創刊 当初の﹁明 書 ﹂として次のような来信が掲げられている。 ︵太田 註|明時・℡・Ⅱ発行の四編セ言︶ 本月の﹁新声﹂に息女史の歌は鬼才なりと云ふ 様なこ とが見 ●ⅠⅠⅠⅠⅠ●●Ⅰ●ⅠⅠ え候 、生意気も程のあることに候 、新声社の中に一人で 6 国詩 の智識を有する人有之候や 、だれが万葉の一の巻でも ︵中思 人十 士人 もなかろう。 三十四年四月十五日発行の﹁新声﹂五編四号に、梅渓 の ﹁文壇照 でも︶講義が出来候や 、友人 梅渓の如きも﹁新声﹂の記 者 とし て評論は達者に候へども国詩と云へぱ 仮名遣だに知らぬ 大仙、 魔鏡を読みて江湖の諸氏に池ふコと題する痛烈な鉄幹糾弾文 が公表 ︵ 曲杜 @ 記︶ どもを、 克 きれたのは、梅皐の宣戦布告書から三カ月後のことで あった。 来る男と ●●ⅠⅠⅠ●Ⅰ●Ⅰ●Ⅰ●● ては一人も之れなか ろ べく候、 発禁処分となり、さらに翌十二月に成美が退社という本 穏な事態を ①﹁天地玄黄﹂集中に﹁金子薫園子、わが歌の旧稿 十一月二十 セ日発行の﹁明星﹂八号が一条成美の裸体 回 によって 背景にすれば、この焦燥にみちた鉄幹の駁論も納得が いこう。 翌三 めくれらる。﹂という詞書もあり、上梓に際する薫園の熱心な 協力が視察される。 一文に鉄 薫園主宰﹁ 光﹂の同人小島吉雄氏の指摘㌔ 献 古ゴによ れば、 ㍉という 自分が先年選 述 した﹁叙景 詩﹂一巻も此写生の歌を輯 めたも あった とか﹁水彩画手引草 ﹂とか 云ふ種類の書とは少し性質を異にし た、作例を示して、直に其門 に入らしめんとする目的で 臨 後年薫園は﹁所謂新派和歌について﹂ のです。 初学者の参考書版行という目的は、あくまでも第二次的なことで 幹の ﹁亡国の音﹂の説は鮎 貝椀 園の意を借用したもの であると 述べている。さらに小島氏は、﹁﹁東西南北﹂初版本第四十四 ある。その主たる目的は、前述のように鉄幹の新詩社を徹底的に攻 ね は 教へ ざ 直に 、 ︵門にたちて物乞ふためと玉琴を世のたらち 伐 すべく﹁新声﹂歌壇の本領を明示することにあった。 詳しくは後 り けむ︶といふ歌があるが、この歌は実は鉄幹の歌ではなくて 述 することにして、本書の名義について少しく考察してみよう。 コ叙景諸ロ と命名した編者の 意図する に ﹁此 善二 ニ スル 所ハ 、 詩二 アラ ズ 、 欣 二アラ ズ、而シ テ之ヲ詩ト ところは何であったか。明治十五年刊行の﹁新体詩抄口 の八 凡例 V ﹁叙景歌集ロというべきを 大町桂月の歌であることが初版発行後金子薫園に発見 せられ て、金子氏より与謝野氏に注意があった。﹂という挿話も 紹介 梅 一菜﹂元エ盟朋白 ︶ されている。 ②﹁ 云フハ 、泰西 ノ八 ポエトリー V ト云フ語即チ歌ト詩トヲ ﹁日本語 による長詩の可能性が絶えず探求され﹂ていたのであった 。鉄幹の 浩二十年前後の韻文は新旧の調和的世界を志向しながら 白菊 詩﹂とその和訳新体詩﹁孝な白菊の歌﹂とに明白 な よ う に 、明 ったと考えられる。ところが、編者の一人井上哲次郎の漢詩﹁孝女 するものであ 詩 ・俳句などの韻文を総称したジャンルの誕生を表明 ﹁ 詩﹂の概念は、懇意的ながら伝統的な漢詩から解放きれた和歌 総称スル ノ 名二当 ツルノミ 、 吉ョ リイハユ ル詰 二プラザル チリ ﹂と定義された 利 代 署 ﹁関西文壇の形成 ヒ ︵ 昭 ㏄・ 9︶ ①文末に﹁﹁文壇照魔鏡﹂は、 梅浜 君が依然﹁明星ヒ に 関係あ ③明石 次のよう る 如く 伝 へたるは % 安 也 、同君は 、 已に本年一月に 於い て、全 無 関係を絶ちたる 也 。﹂と付記されている。 ㈱ 薫園は﹁叙景詩 ﹂刊行の目的を﹁和歌入門﹂ に述べている。 一五 諸 にせよ、 一、ノ いる。その極致が﹁新声﹂への最後通達ともいう べき ﹁新声社の中 に 一人でも国詩の智識を有する人存亡 ﹁東西南北﹂の自序には﹁小生の詩は、短歌にせよ、新体 誰を崇拝するにもあらず﹂という韻文総称の概念が明壬目され、短歌 という激語であろう。この鉄幹の激語への反駁が、コ叙 景詩 ﹂編纂 す べて国詩の分 景 持ロとは何ぞや﹂によれば、 鉄 幹 の硬論 具現する ﹁新声﹂の詩論が 、コ 叙景諸ヒ 0席として凝縮きれてい る 。﹁同駅 ﹁国詩は国民の詩 也 、時代の詩仙、﹂という熱弁に対応 の直接原因であり同時に目的であったと考えられる。 候や ﹂︵﹁鉄幹子ょ りの来書﹂︶ には全盲にわたり句読点を施して新体詩と形式的に区 別 ︵短歌を短 V という 二 新体詩を長詩 と呼称︶している。文学形態の 一ジ ャシ ルとして の詩の㎎立は、表現を変えれば八明治の詩 V 八時代の詩 歌 ・短歌・和歌・国歌これ 十年代中葉の﹁国詩﹂樹立の気運に負うところが大き い 。総称とい ぅ ことでいえば、短詩・ 窃 かに訪る 、ム﹁時の詩に志すもの、 たビ 、浅薄なる 理 想 を味 じ 、卑近なる希望を う た ひ 、下劣の情を野 べ、混雑の愛を 説き、 に ﹁美文を花 にな ずら ふ るも 可 なり、韻文を組 葉 とみはやすも赤砂げ ず、花ゃ、 、以て 、 ﹁詩の極致 情詩なると共に主観 詩 なり﹂に対して、﹁新声﹂の提 喝する﹁叙景 に達すべき捷径﹂であるという。﹁明星﹂の特色であ る ﹁恋歌は序 まざるに在り﹂という没 主観・ 純 客観に徹することが、 能 となる。﹁たぜ自然に従て、之を写すに在り。写し て、人意を挿 とある。﹁一往直進、自然の懐に入り﹂てこそ﹁真正 の詩 ﹂が 可 得 べしとなす、謬れるの甚しきにあらずや。 つとめて、自然に遠ざからむと期し、而して、真正の詩 当 然、散文界 紅葉や、これ天の文、美文や韻文やひとしくこれ詰む り 0 ﹂とある ように、ここにも総称的な詩の主張がなされている。 にも漢文体・和文体・欧文直訳休 ・俗語但言休め ﹁四体兼用 ノ時文 ニ題 ユベキ者ナキヤ 明白ナリ。﹂と、激しく転変する新 時代に適応 総 称 として両者 の文体を尋究する形勢は高まりつつあった。散文におけ 8時文、 韻 丈 における国詩これらはそれぞれのジャンルの 相侯 って近代文体の構築に貢献したと考えられる。 照らせば、﹁自然の叙景を生命とする国詩﹂の謂では 詩﹂こそ﹁真正の詩﹂であったと要約できる。㍉叙景詩ヒ 0名義に 湖村の国詩論︵漢詩・西詩の交流純化︶も注目きれる が、やはり 鉄 薫風は﹁叙景 詩 ﹂刊行の翌月発行﹁新声﹂ 国詩の樹立という視点からいえば、子規の短歌革新を後援した 佳 幹の業績を認めざるをえない。先の﹁国詩革新の歴史﹂ のような青果を記述している。 セ編 二号の 和歌 欄末 に次 治 の詩 V を創案したという鉄幹の強い自負が、その文 ム﹁あ@ わ 国詩革新の上に就いて、吾人と主義懐抱を同じうせる畏友 尾 一腎の力を添へむことを約せらる。 上 柴舟君は 、先に﹁叙景 詩 ﹂の撰述を共にせられしが、 が 新声歌壇にも、 派の ﹁東海文学﹂と対陣していた名古屋の有力 誌 ﹁秋 水 ﹂の同人 伊 下の勢力圏な 藤金星や協力者の児玉屋 人 ︵在外の弟︶・鵜飼翠渓 な どの名古屋 グ プの 活躍が注目きれる。近畿地万は関西青年文学ム ので、当然その半数が大阪・兵庫に集中し、西島両拳 木屋 秋遊 原晃自雁などの﹁明星﹂派がその中心である。三仙方以外では、 佐 ﹁新声﹂和歌欄からの抜粋敬二百八十二官 千百・ 秋セ 十八百・ 冬 三十二百・ 雑 四十八百に排列構 成された 藤儀助の出身地秋田県が、新詩社の羽後支部主宰者の佐々木 寛綱一 コ叙 景詩 L の人と作品について、中時氏の論証に重ならぬ範囲で紹介し 君 であるというのも皮肉な偶然であろう。 を、 春 六十四 首 ・真大 ておこう。 百四十六名の作品でもある。奥原東雲・鳥取指摘・宮 本柏 浦 ・和田 黎明期には四巻六号五・ してみると、およそ黎明期・胎動期・ 次に﹁叙景 詩﹂登載者の、﹁新声﹂和歌欄 デビューの 時期を検討 吹雪の四名を除けば、全投稿者の殆どの作品が﹁新声﹂和歌 概 で 照 し、五巻四号の岡 稲 里や二編二号︵㏄・ 四季・雑に分類の総数二百八十二昔 は、雅号署名を含 めた投稿者 合することができる。出身地の判明する九十二名を現在の県別で区 五名が抽出される。これは薫園が仮名の清原文彦から選 者を引き継 燗熟 期の三期に 分けられる。 介 すれば、最北の秋田・岩手から最南の鹿児島までの一一十九県に及 ぎ、題詠に執着していた修業期 ともかきなる。胎動期 は、三編一号 る 。三編 一 ︶ぜ のの みやなど す ︵㏄・Ⅰ・蝸 ︶から五編三号︵阿 ・3. 蝸 ︶までにあた 8.F 6. 蝸 ︶に登場の玉水生を もって鳴矢 と ぶ。その七割までが関東・中部・近畿の三地方に集中している。 関 折 竹院 夢 ・河 田白露・新庄 号 に登場の小川聖学・佐藤笛秋 らの短歌は、﹁叙景詩 ﹂ 登載の最初 京地方はその大部分が東京で占められ、 付注・ 原柳涯らの所謂地方関心派も多い。中部地方は信州勢が圧倒 デビ ユーしてい のケースでもある。本号は誌型が菊判から四六倍判に改変 きれ 、集 中掲載 歌 が最多︵十八百︶の福田義二一など八名が 岡 凹め ﹁星光L し、 他に北陸有数の歌人と嘱目され、神戸の﹁新潮﹂ へと地方文芸の隆盛に貢献した﹁文庫﹂派の沢田臥猪︵富山︶ や、 大きく、 臨増の三編五号と四編二号を別にして毎号 コ ンスタントに る。この時期は、﹁明星﹂創刊が刺激となって選者薫 園への期待も 知︶らがいる。きらに、小木曽旭昇 の ﹁地方文芸史 ﹂︵ 新人が登場している。なかでも四編一号 冤 ・7, 巧 ︶ は 、この 期 ﹁新声﹂記社の登坂北嶺︵新潟︶、地方文士の中堅派野 村童 雨 ︵ 愛 えば、奥村梅皐 ・折竹院 要 るの﹁新声﹂派の寄稿によ って、﹁文庫﹂ 一セ ﹂︶といヮ ,事 旬年に発して、覚に、精煉陶冶するに遠なく、意を得ざるもの、苦 一失 最多の八名も初登場しているが、これは﹁明星﹂調の八少女 V ブ| 情を裏付けている。だが、初出時期の早い登載歌 については、かな ムの悪影響による、九十一首という創刊以来の投詠数の 反映であ ハ号︵綴 る。 欄熟畑 は、五編四号から﹁叙景詩 ﹂刊行前月の六編- りの修正を認めることができる。 あり、全投稿者の約半数弱を占めている。五編四号からは従来の和 春菊にまじりて芥子の咲く自のあたりに干 せし紙帳達磨 評言によれば、その原作は、 っ となっている。これも﹁着想いとめづらかなるはうれし﹂とい, 春 の荊芥子にまじりて咲く昌の中に干したり紙張達磨 は、三編 セ号の初出では、 春 の菊芥子にまじりて咲くはたの中に手したり蛇の目から傘 となる。また コ叙景諸し︵春︶の開校蘇白 め {Ⅰ { 冬がれの寂しき野路を小走りに膣の男の一人鋤 かたげ仁何 きらに初出誌の評言によれば、その原作は 冬がれの野路のタ を小走りに賎の男一人鍬 かたげ行く は、三編二号の初出では、 冬枯の野路のゆふ べを小ばしりに嬢の男ひとり鍬 かたげ行く 例えば、﹁叙景詩 ﹂︵冬︶の木屋臥遊 め は ・巧 ︶までにあたる。この期も六編三号以外の毎号に デビューが 歌欄と 別途の独立した歌欄が 設けられ、福田義 二 ・金子烏江・河田 白露らの詩友を優遇している。これは﹁文壇照魔鏡﹂事 件 による 反 新詩社対策として、﹁新声﹂和歌欄の強化充実が急務となったから である。さらに同六号からは和歌欄が 三つの詠草 欄 に拡 大分散し 、 出身地や評言などがなくなり投詠欄の イメージが刷新 きれている。 とが理解でき このように投稿者デビューの時期を一覧してみると、﹁新声﹂和歌 欄が ﹁叙景諸口運動の流れにみどとに順応しているこ よ う。これを﹁叙景諸口登載歌の初出時期に照校すれば、その適応 皮が一層明らかになろう。黎明期からは当然ながら コ叙景 詩 ﹂への 登載歌は皆無である。胎動期からはセ十一首が、煽惑期 からは百八 十八音がそれぞれ登載されている。集中二百八十二百のほぼ半数の 百四十四首までが六編一号から同六号にかけて初出している。これ となる。このように、投稿者の原作上初出歌山登載歌という添削 過程が一般的であり、初出そのままの登載歌は集中僅か 二十首ばか は、照魔鏡裁判の落着後、﹁叙景詩 ﹂発刊の計画が卒然 と 持ち上が ったことの証左となろう。たしかに、発刊直前の六編四 りである。﹁秋﹂に登載の北村君良郎の ︵新しき 卒塔婆 のあたりと 五 ・ハ号 からはそれぞれ三十首 以上の登載 歌があり、﹁本書 選述 の事、もと のほつれに春のかぜ吹く︶や︵悲 しげにかたるこ ゑ して 影 ふた かげに黒し ぅしみつの頃︶がある。前者は選者好みの清 楚な情 のつばきつめたくさす夕日かな︶は、六編二号の初出歌 が ︵ 新 卒塔婆の う へになく蝉のこ ゑものきびしなつの薄暮︶である。 感じられ、﹁ 雑﹂の部の後者は集中でも稀有の素材離 れした歌 き 叙景詣 しの作品の特徴は、自然の景趣を客観的に描写するため 季節まで変化した用例は他にも多い。 句八 ものきびし し 情 ︵いくさ はて 野の末のあけがたに荒薦一つ血にあきて飛ぶ︶のよう に 、﹁上戸 ぐれ 星閃きぬ金字塔の う へに︶とか、本多 杏汀の 麗 、 温籍 にして雅馴なる﹂叙景歌 とは異質の勇壮な 歌 もある。 種の素材中心主義に陥っていることである。素材の吟味 選択が 巧拙を決めかれない。素材偏重のための改悪の例もある。奥原 らは、雄大な奇想を特色とする﹁明星﹂調への風刺面的性格を し にけぶ の初出 歌 ︵雨情し松原すぐる 旅 びとのす げ かさ淡く ゆふ づきの ︵夕日かげ斜にさせるひとむろの竹のはや ているといえよう。逆に実景の視覚的描写に徹した作ロ叩として ぎす V と改稿きれている。初出歌の素朴な景趣が 、八 松原 V ︵あし 原にゆ ふ風 たち て かすか つ見ゆ︶、松井文彦の︵樫の木の枝もたわしに五位鷺の 羽 だた る よみきⅠぎの 池 ︶、 原柳涯の 白き 帆見ゆる利根のⅢづら︶などがある。とりわけ松井文彦の る。色彩感覚を加味しての絵画的趨向に多少の美点があ るけれ 訣 とする 詩 両極致の一致を具象しているともいえよう 。 四季に された コ叙景 詩 L の作品は、おしなべて季節の自然的素 材が包 ようで る情趣を、ただ平面的・視覚的に描写する詠沃 に安閑 と してい 、稚気そのままの平面的描写に投稿歌の限界が認められる 。矢 数少な つ@ 千@ ト 。 まさに、それらは、感興を忘れた動かぬ点景の集ムロ休の な ︶も、やはり絵画的素材の未消化な歌の典例である。 ⅡⅩ ハ ハ ス 事 歌としては、みす ぜのやの︵かりそめに結びし妹があげまき 一九 ど 賢次の︵雨にぬれてかき つばた折る手弱女の小金かす めてと ぶ も コ叙景 詩 ﹂ 、見開きの表明の挿画﹁冬暁 ﹂への画題歌でもあり、 あか ノⅠと夕日 てりたる塔の上に昨日の雪のなほのころ かな︶ といふべし。﹂と評された鈴 本天 美 はえたる、おもしろき配ムロ 塔上の残 雪にタ 人 V ハすげかさ V の素材と季節とに拘泥の余り、登載歌では 不 ト 材 の配 ムロ美に力点がおかれた作品としては、﹁ 山脇 晩渓の ︶の主眼点である下の句が、登載歌では八小笠のうへに なく ほ に る 。﹁ 雑﹂のなかには、森夫弛め ︵獅子ほえて椰子の木 ゆる Ⅰ V が視覚的表現八つばさつめたく V に改めら ぶ 畑 感 れ 、 『 一 か 泣 歌 げ 繭 の と 自 八 旅 然 索 日 の の ( が あ ケ 崎 苑 か い 人 ︵註記︶ し ︵昭 ㏄・ 9 ︶八一頁 別 に 弐心情 L の数多い序の巻首に、﹁吾人は已に擬古体の和 ①剣持武彦着コ日本近代詩音 ②﹁東西南北 歌を排し、 又支那人の余 唾に 本づく漢詩を廃して、 ⑥ 平出露花色﹁日明星 口 にあらはれたる恋歌﹂輌 桂泰成﹁新興明治歌壇史 の考証﹂ 二O の ⑧すでに 中晴氏が誌面極致一致 諭は盧花の ﹁自然と 人生口︵ 明㈹ 所載の﹁風景画家コロ オ﹂の影響であると指摘さ れてい る。序の﹁自然は良師なり。よく吾人に教訓を垂れ、顕 樺を加 毯 へ、神秘を教ふ。﹂という汎神論的自然観は、やはり ﹁風景画 をあらはすべきものを求め、遂に新体詩と称する国詩を作り 田 だ せり、仮令 ひ兵威効の如何は 未だ予知すべからざる も、 已に と感 ﹂︶ 用の地理書地文学書は、乏しくなかったが、それが コ風景若世 勒した愛読書である。その岩波文庫本の﹁その頃でも、教科書 受けた賜物といふべきである。 敵 に志し、叙景の歌に眼を開くに至ったのは、間接に本書から きらに志賀重昂のコ日本風景論口銅鍋社田は、薫園が ﹁私は 画家の 家 コロオ﹂の﹁然れども彼が真教師は自然なりき。 輌 別館6︶なども、小説 を読 体 に示唆きれたものと類推される。 我 邦 に於て文学の新区域を開拓せるや疑 なし、﹂と、 井 上 哲次 記文学﹂ ""- 心を養ひ手限な養ふには広大なる自然の学校に若くも のなし。﹂ 琉鰹 郎は述べている。 正 ﹁明治美文の詩史的意義﹂ 評 龍渓著 ﹁経国美談﹂後編︵ 明 W.2 ︶の自序 八文体論 V ③野山幕 ④矢野 ⑤ハルトマンの 詩 ジャンルの分類は、鴎外の﹁遭逢子の諸 の奥村信太郎編コ通俗文学汎論﹂ と区分するハルトマン 0分類法 語 ﹂︵辮脚㍉︶にその理論的支柱として詳述きれているが、手元 詩 ︵散文︶として韻文の吟俳話 ともなって、風景の観方、描き万までが教へられ、日本人自ら に至って、叙景詩 ともなり、詩文と画図と兼ね佛はる名所図会 の風景観も変革せざるを得なかった。﹂という小島烏水の解説 によっている。本書によれば、﹁叙景詩とは、簡短なる詩形の 充分余地を存ぜ ざる がため自ら一万に偏したるに出づ ︵略︶き は極めて印象的である。 はれ読者多くは、叙景詩の全く主観を没了して、客観的なるを 見て 、宜しく叙事詩中に入れしむべきものなりとせり、 わが 所 き五 見を以てすれば、寧ろ叙事的野情詩中に置くべきもの なれ。﹂ ども﹁心意発情詩の低級にあるもの﹂と断定されてい 結 尾山篤二郎の﹁明治歌壇概史 ﹂ 鮪到皇都とでは、﹁金子 薫園、尼 の ﹁﹁叙景詩 L をよみて﹂の批評もある。 猪玄言 は ﹁ 多 くは、小景 にとビ まりて、六景を手中に入れたるもの生 きが如し。 ﹂とか﹁ 選 者が句を撰むに当り、あまり叙景と 云 ふに、拘泥せし 如き 痕 ある 一 そ の言説も隠 詰 は 、 余計 諾 なり﹂ 3. エ ︶の﹁青瓢箪﹂︵ 士農 工商合評︶ として、 蕪 坊 間の写真に 詩 ﹂批判は、平出格 の ﹁叙景詩 とは 何 尿詩﹂序文の 集 中の作品分析 ぞや﹂ 繍鰐航 ︶に委ねられている。平出の論鋒は﹁取目 ﹁明星﹂の本格的な﹁叙景 村の叙景 何 に遠く及ばぬと論難した。 も劣るものを作りて得々たるは、 愚かなる骨折なり。﹂ 俳句にも劣り、絵画にも劣り、散文の写実にも劣り、 笑 している。鉄幹は、次号の﹁余材﹂欄に﹁但だ 叙景 詩と 号して、 なしの粗景詩も完成して、全く国詩の革新も成就し申 した。﹂と 晦 の批判が最も早い。八良伎の余計諸 になぞらえて﹁ 只よ りは 廉い吻 ﹁明星﹂では、三号︵㏄・ と 件の毒舌で言下に否定している。 やかであったが、根岸派の人民伎などは、﹁叙景 桂月も猪玄言もともに浅香社創設来の縁故者だけに、 しはとも事 かなり。﹂と、﹁叙景 詩﹂の限界を看破した鋭い論評を与えている。 門 埋れ木﹂と共に 、大なる反響を得 ずして終っ 上柴舟の合著﹁叙景詩 ﹂は 、主として雑誌の選歌を集 めたものであ つて、鉄幹の詩文集 埋れ木 た。﹂と、僅か二行に短縮されている。鉄幹の コ コ 叙景請口その後の展開を明らか にしておきた くも、﹁叙景詩 日の反響は論及するに足らぬものなのか。歌壇的皮 響を追尋しながら、 アウトされ 六編六号︵ 明綴 ・は・巧︶の﹁新声﹂には、蒲原有明 の新体詩集 ﹁ 草 わかばロとコ 叙景 詩しとの広告が、同一頁に しィ ている。目次の下欄に、 ﹁ コ叙景 詩 L に就いて﹂と標題 された刊行 趣旨 文 がある。三十五年元旦をもって新声歌壇の覇気を 示さんとす る意欲が、異例の趣旨交 はもうかがえる。次号のセ編一 号の五十 セ セ編 二号の目次下欄 には、﹁太平 頁は 、上段に素明の挿画﹁冬暁 ﹂を配し、下段にコ取目 示詩﹂の序文 を再揖 するという入念きである。 洋 ﹂誌上の大町桂月の新刊紹介︵未見︶が再録されている。コ照 魔 自然 観 ・詩画極致一致 は ついて疑問を投じながら、 銃ロ事件では鉄幹を攻撃した佳月だけに、﹁ コ叙景 詩 し 一部世に公 に及んでいる。﹁新声﹂では、これに対して 平 出の ﹁自然 は美なり而して 叉醜 なりとせば、自然は何れの場合に於 ても常に良 に 選者の﹁ 解噸 ﹂と題する同誌記者宛の回答を掲載。 セ編 五号︵ 舖 ・5. 蝸 ︶ にせられぬ。内容に、外形に、いやみなくして、可憐也 。余り気取 ﹁新 @ナ戸﹂ らずして、清楚也 。同じ新派の中にても、明星派とは硝 面目を異に 久保猪之吉 して、一方に雄視するに足る。﹂という好意的な批評も 派 には極め付きの讃辞となったろう。さらに本号には、 一一一 暗 中 に 一一一一 必ず、自然を理想化するを要し、﹂と汎神論的自然 独立した詠草欄の質的向上・充実をはかるためであったが 、薫園を 薫園自身にとって新生面を開く絶好の機会をもたらした。それは、 な き のうちに、 セ編 四号︵ 鍋 ・4. 巧 ︶に発足の﹁新亡 け歌壇﹂は 、 ﹁自 初学者指導の責務から解放、奔放な世界への飛躍を促すことになっ す 1︶の﹁昨年の短歌壇﹂に、﹁御主張の叙景詩 よりも 寧ろ叙情の ・8.Lb︶の﹁ 賢 語録﹂に、薫園 冤 ・8 には、︵詩に 巧 ︶に掲載の いる。これらの歌からも、 セ首のうち四省 が ﹁小詰固 しにそれぞ れ 収載されて 浪漫的な野情歌であった。この薫園歌の極端な変質は、 八話 国 の町 V などの語句が発酵する神秘的な野情性に傾心している ﹂独自の歌境を築くための コ叙景 詩 L運動が充分の展 閲さ 事 収載のなる 「新声 ことが看取できる。すかさず、次号の﹁前号の歌壇を評す ﹂では、 八貴人の憂ひ V 八恋人の城 V 八霊の水 V 由 によるものであろうか。 """- 薫園の﹁夏花﹂ 柴舟の﹁ 悼歌 ﹂ 五昔 のうち四百が第一歌集﹁銀鈴 ﹂ 輌 ア 潮 3社 エ . エ︶ こ、 @ か 考えられる︶によって助長きれ、十編二号 平吉・Ⅲ合玉堂らによって発足の短詩研究会紅白金での頻繁な交渉 欧的な浪漫 調 に熟達の柴舟との相互影響︵三十五年末に直文・梶田 いる。実景描写に観照的な野情味を加えるという薫園の技巧は 、酉 古語・雅語の重畳によって野情質を高めようとする修 辞が 漸増して 会せず春の雨夜はくだちたり瓶の丁子の香もくだちた り ︶のように もかかわらず、﹁新声﹂九編四号に掲載の﹁誇負﹂ゼ百 ちゃうじ も云ふ のか、 叉別に訳が有るのか。﹂という鉄幹の洞見がある。に 作 、即ち主観の混じた作の方が多いやう に見受ける。 君 子 豹変とで たく﹂の一句に刮眼すべきである、ということなどは、 氏の指摘論証がある。ただ、 お 不 叙 量 より質の投詠 態度を 望 たザ、 単に叙景にのみ止まりて、 れは、前号に掲載の﹁朝窓 以下セ首のうち入首までが、第二歌集﹁小詰国 ﹂ し 薔 微の香の高きにま どひ ゆくりなくきめし婁 時は夢と しも ﹂ セ首の弁明とも聞こんなく を 含むもの 分 きは、甚だ憾むべし。﹂と、真意を吐露 して つ Ⅰあるところなり。 ﹁叙景詰 は、我覚め 、最も 、力を尽さむとするところ、 の方法や評語廃止の理由を述べ、 ﹁新声﹂八編二号 けは補足しておかねばならない。 純客観の写生に 倦色を示し新たな局面に向けられつつ あっ コ 叙景諸口刊行後の薫園 ら め 矛盾することや、末尾の﹁具申、詩学の一冊も翻訳して に従ひ に致し )に 序 て、 之を写すに在り。写して、人意を挿まざるに在り。 線が、 ことだ 歌 例えば 修正 でから を致し こ ろ の分子 。(、 。 らず) た。この薫園の倉卒の転身については、﹁明星﹂卵殻一一号︵㏄・2 ﹂ 云ひ得 べからざるにあらずや。﹂という疑念に、﹁詩は 然を写 て応酬している。この﹁自然を理想化する﹂態度が、 すに、 なりと をもっ 師 で 公 ( 然 観 官 視 た 選 力 ん い 惰 な あ に 何 柴舟の八百標的臭味Ⅴが指摘され、﹁君の詩境が、柴舟君と共に一 変転した﹂薫園歌 にも主客観の不分明が言及された。 甜︵・ェ ・エ︶には、 浪漫的色彩が濃厚な ﹁白首ムロ﹂の一巻三号 ﹁白菊会を起すとて﹂の詞書をもつ薫園歌 ︵われらに賜ひし御旨の おふけなや天の香のこ るしら菊の花︶に続いて、柴舟から薫園への と、薫園から柴舟への ︵詩の国の春のはじめのめさぼらけ召されて 刃文芸誌﹁よしあし草 ﹂︵﹁関西文学﹂︶における、﹁新声﹂﹁明 として見ることほたやすい。前述のように地 る ﹁明星﹂派への反動 呼んだに過ぎない。﹁叙景詩匡の成立を、奔放な恋愛風潮を鼓舞す 学者向けの質朴な口銀景請口にふさわしく、歌壇内に小きな反響を 髪 ﹂が文壇内外に大きな衝撃を与えたことと比べると、如何にも初 ・メーキングな展開に至らなかった。前年刊行の晶子の﹁みだれ 柴舟自身が回顧するように、たしかに コ叙景詩し運動は ェポック 来の﹁明星﹂との反目が再び展開される端緒となったのである。 各自の浪漫的な資質が開花きれたけれども、同時に﹁叙景 詩 ﹂以 ら、薫園の第二歌集Ⅰ小詰国﹂、柴舟の第一歌集﹁銀鈴﹂において 万へ後退し、瞑想的な野情性が満喫されている。自明のことはが な私信にしても、これらの歌には、もはや清新な細叙景の世界は遠 君と行くや大宮︶とが、贈答歌として掲げられている。社交儀礼的 ︵ うたの都う たの大路を花束の雨にう たれてきみと行かむかな︶ 」 星 と 景何 む発 「 の の主導権争いを看過しては、この運動を正当に評価する ない。従来、等閑視されることの多かった地方文芸誌の動 新 七戸﹂ 意外な中央の歌壇的事象を発見することがある。この ﹁叙 動も 、明治三十年代中葉期、中央文芸誌︵﹁文庫﹂﹁ ム%而 うと ︶の刺激によって興隆を迎えた地方文芸誌との関連から誘 一事象であった、といえなくもない。独自性を貫こ 、中央文壇の情勢に鋭敏に反応せざるをえない地方文士 状況を直視する必要はある。 には﹁新声﹂二巻六号の要目を掲げた新声社 サイドの ﹁よ ﹂が、その有力な同人高須梅渓 ・中村春雨・奥村梅 皐 ら め 百社人社に従って、鉄幹の新詩社支持を表明、﹁明星﹂ な性格を露呈したことは本論で述べたところである。﹁新 壬辱 ョ のために新声社の全面的後援 %欄の選者薫園が、地方文芸誌の制覇をめぐる論争の原 ていたことから、その 忙 のうちに﹁叙景 詩 ﹂一編を広く江湖に問う たのであ る 。 意図が余りにも露骨であったが故に、局部的な歌壇事 象と 黙殺されてしまったのである。きらに﹁新声﹂歌壇が質 的 ほ つれて、初心者に叙景性を強要する必要がなくなった 叙景 詩﹂運動の中絶を早めたともいえよう 。加えて、 薫 園 が初学者指導からの解放による叙景離れを自覚しつつ あっ 一一一一一 三十年前の﹁叙景詩﹂序文の鋭い語気と通ずるものが認められよ 二四 コ叙景諸ヒ の ぅ 。 槌色 した定型世界から流動的で未知数の新体歌への転向であっ たということも、この連動の大きな歯止めになった。 作者たちにしても、人事葛藤の世界から逃れて自然を生命として 自 コ 叙景請口といふ針路 は 、まさに到るべ ゐる観がある。﹂㌔祀るい鞍心 勒ヂ﹂︶という窪田空穂の批 氏 が示きれた 柴 しの主体となってゐる定型の千三百首の歌を読むと、 評を待つま き 所に到って 二一十年前、 でなければならない﹂︵ コ白鷺集し 序︶のであった。﹁ ム﹁、﹁白鷺 向する新体 歌 とは、﹁定型短歌を母胎とした、伝統を 重んじたもの ただけに、その気迫は凄まじいものがあった。ところが、薫園の志 ﹂という黄 無愛に沈潜するというリゴリズムはない。もっとも、﹁初期の研究 者は自然に対し、正直に、おとなしく客観するがよい。 叙景 詩 ﹂全体の意味を軽減して しまった。 コ 園の指導方針にも問題がある。素材自身の自然的情趣にのみ依存し た作品が多いことも、 ﹁叙景詩し 運動の意義を求めるとすれば、薫園の コ覚め たる 歌 ﹂ 然を内省 観 っ万法は 、す でに三十年前の門叙景詩 L運動にその源流を辿ることが できる。 こ でもなく、伝統的な定型に自由律の新味を加えるとい, 0元 瑚 となったことが考えられる。柴舟自身については、﹁叙景詩 ﹂ の新定型樹立への執念は、伝統を踏まえながら新国詩の樹立に心血 牧水 ・夕暮・善麿らの 気鋭の自然派 に掲載の︵さしわたる葉越しの夕日ちからなし枇杷の花ちる やぶか を 注いだ 師 直文の衣鉢を継ぐべきためでもあった。 照 する独自の作風をもたらし、 げの道︶に明らかなように、細微な観察によって自然を 内面化する 辛 しかけた頃の薫園は、 私は余命 幾ばくもないと思ふが、最後までも先生の道 を 継承 新体歌運動に着 柴舟 調が 培われたことが第一の収穫となった。薫園自 身については 直文歌風の継承に自己の指標を定めたことが第一である 。但し 、そ とは、先生の御志の延長に過ぎない。先生がもし生きてム﹁目さ して 適進 する りもりである。 敵近、私が新体の歌に転 同 したこ えば、﹁試みは遂に試みとして終るべきか。私は往くところまで 往 でいらしったならば、一代の先覚者として真先きに れが結実化するのは、幾多の試行錯誤を経過してのことである。 例 ってみたいと思ふ。私はかの短歌の本質も弁へず、定見もなく、 た 新を唱道された先生は 、私よりも前に転向して居られ たことを 短歌 革 ザ新奇にのみ馳する人々に与しないと共に、またかの何 等の自覚も 堅く信ずるものである︵﹁ と・ひそかな信念を吐露している。これは、直文歌風の継承が 、 落 ムロ直文先生を偲ぶ﹂︶ なく、信念もなく、情勢で作をしてゐる人々にも与し 吉旦日には、 新定型の樹立によって叙景 歌 に新しい息吹を与えるこ いう 再 確認から誘引されたものであった。 ︵註記︶ とにある、 と ①﹁叙景詩を読む﹂⑨胴四の﹁ 此書の表紙黄吻の 黄にチナミ と 実 ・ っの て真黄なる両面白し、﹂とは、さすが歌壇の緑雨とい, ヮ異名に 恥じぬ調刺 である。 ﹁叙景詩時代﹂取鮮歌細﹂ 誌 、自然の写生に徹する初期の段階を区別している。 思われるものは、その中のどれであろうか。叙景詩と 哲学 歌調がいろいろと見出きれる。門流に対して影響の多かった 柴舟の生涯には、旧派調、前衛調、叙景詩、哲学歌、自 閉調、 乙 @ 景の作は、作者の主観が瞭りと盛られてゐなければな らぬ﹂ 山崎敏夫﹁叙景歌の意味﹂テ繭尭Ⅲl四 参照。 拙稿﹁地方文芸誌﹁敷島﹂について﹂ ⑤ ④ ③ ② 叙 と 悲 「 べている。 |昭乾 ・ェ ・托補 昭駐 ・9.舘稿 、この二つが特にいちじるしかったのではあるまいか。﹂と と 歌 述 ︵追記︶本稿の執筆にあたり、小田切進・前田愛・ 佐 藤 書地 吉田弘寿夫の諸先生から多大のど教示をえた。ここに 記し て 、感謝の意を表する。 二五
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