ひと 鎌倉アカデミア70周年 記念祭で思い出語る 服部

年4月、旧制川崎市立橘
中学に入学。
卒業時、
進学
っ た。﹁ 鎌 倉 ア カ デ ミ
理・収集に取り組む。2
アカデミア関係の資料整
中央図書館に寄せられた
006年には﹁鎌倉アカ
ア﹂と改称され、﹁映画
を機に文学科に転科。三
デミア落穂集﹂を編集、
科﹂が創設された。移転
上教授の授業のほか、平
緑内障検診のすすめ
日本眼科学会認定眼科専門医
野謙、片岡良一教授の授 発行した。
記念祭では講演会や座
日本人における視覚障
業は欠かさず受講。アカ
談会、展示会など多彩な 害原因及び中途失明原因
三上教授と白水会のエピ
催しが行われる。
自らは、 の第一位は緑内障です。
デミアは 年9月、財政
難のため4年半でその歴
先に迷った折、担任から
史にピリオドを打った。
は﹁鎌倉大学校﹂と呼ば
仮校舎として開校。当時
が母体となって光明寺を
北鎌倉の自宅を開放した
時代を通じ、三上教授が
税務畑一筋を歩む。役所
年退職するまでの
年間
課勤務を命ぜられる。定
﹁寺子屋大学﹂とも呼
アカデミアは終戦翌年
同年3月に卒業、翌年
ばれた鎌倉アカデミアの の 年5月、鎌倉文化会 川崎市役所に就職。税務
ら 学 ん だ 中 国 の 書 家・董
いたところ。三上教授か
ほぼ終わり、一区切りつ
えてくれた﹂
。資料整理も
出会いが自分の人生を支
カデミア、三上先生との
いていませんでした。
また、日本の疫学調査に
手渡され、
勧められた。
﹁鎌倉大学校入学案内﹂を
周年記
創立 周年記念祭︵鎌倉
れ、﹁ 文 学 科 ﹂﹁ 産 業
よると、 歳以上の 人
念祭実行委員会主催︶が
科﹂﹁演劇科﹂の3科で
ソードを中心に語る。﹁ア
材木座の光明寺で行われ
6月4日、校舎があった
内障で一度欠けた視野は
二度と戻りません。その
ため、早期発見・早期治
たことがない方は、ぜひ
声練習から﹁みんなで朗
れ 陶 器 や 歴 史 を 学 ぶ。
私塾﹁白水会﹂にも呼ば
﹁鎌倉市中央図書館に収
言 葉 が 常 に 頭 を よ ぎ る。 が視神経を圧迫障害し視
えない老境を過ごす︶﹂
の
琪昌の
﹁ 足 老 ﹂︵ 悔 い を 覚
ます。緑内障では、眼圧
圧︵眼圧︶がかかってい
で気づきにくいです。緑
眼でカバーしてしまうの
拡がっても、もう片方の
☎0467・ ・8603
︵プロシードビル2F︶
福田眼科
〒247︱0072
鎌倉市岡本2︱1︱
に二の足を踏んだようで
か皆さんお金を出すこと
光景だ。2006年に始
周年を迎え
まった﹁みんなで朗読﹂
は、今年で
た。そこで5月8日に記
念の﹁特別朗読会﹂が実
施された=写真。
﹄
て夫を亡くした真民さんの
た。この言葉には、若くし
年という月日は、朗読に
いた。改めて振り返れば、
てていく﹂という、強い想
どもたちを、何としても育
お母様の、﹁5人の幼い子
ように思う。
きた、積み重ねそのものの
﹁本気﹂で取り組み続けて
活動に参加されてきた皆
露もあった。それに加え、
自然と大輪を咲かせられる
気﹂で取り組み続ければ、
う。強い想いを持ち、﹁本
より大きな花をひらかせて
これからも初心を忘れず、
感謝申し上げるとともに、
たからだ。その有り難さに
様の﹁本気﹂を頂戴してき
あ る。﹁ み ん な で 朗 読 ﹂
にしてきた大切なテーマで
駿
南嶺老師に特別法話をいた
さんに朗読を発表しても
いけるよう、みんなで、朗
﹁本気﹂は、鎌倉てらこ
いが籠められているとい
や活動当初から、最も大切
だいたことだ。老師は坂村
らった。参加者の朗読にも
読に﹁本気﹂で向き合い続
教育との関連を述べ、脳
はその論文に加筆し、編
士論文を仕上げた。本著
科に入学。朗読研究の博
地にしたい﹂と話す。1
絵本と生き物図鑑、畑
の雑学事典で構成し、畑
いる。
山の復元活動に参加して
ている鎌倉広町緑地で里
寄せる感動のコンサート﹂
を忘れない。被災地に心を
の聴衆の前で堂々と発表し
ていた姿が印象深い。初参
加の際、自己紹介すらでき
ず、泣き出してしまう子も
を、 年に渡り続けてこら
たくさんの﹁本気﹂がきら
て、﹁ 念 ず れ ば 花 ひ ら ことを説かれた。
く﹂という言葉を紹介され
講師の幸田弘子・中里貴
子両先生の本物の朗読の披
真民さんの詩の朗読を交え
きらと溢れていた。中でも
読むことへの関心が芽生
科学や教育心理学の領域
集したもの。
ばならないと説く。
会の動向を解説し、市民
平井さんは﹁そのため
に鎌倉を新しい知の発信
7 2 8 円、図 書 新 聞 刊 ☎
に地方政治について考え
る機会を提供している。
・3234・3471
著書では、日本の近代
思想全般を評論し、世界
現している。
での一年を通して作物や
事。同団体が保全活動し
植物の成長、生き物を紹
っと、私の魔法になる︼
と口
を今年も開催!
聴きごたえ盛り沢山の内容
っ た 子 ど も た ち が、 多 く
けていきたい。
新刊書
小学校高学年、中学生とな
療が大事です。
﹁本気﹂を積み重ねる︱
小木曽
緑内障の治療は、点眼
みんなで朗読 周年記念特別朗読会
薬による治療が主です。
野が欠けますが、その速
近隣の眼科を受診するこ
福田 匠
度は遅く気づいたときに
﹁あ・え・い・う・え・
お・あ・お!!﹂。
えてくる。
毎日忘れずに点眼するこ
柔らかな陽光のもと、薫
風に乗って、声が漏れ聞こ
とで、眼圧が低く安定し
視野欠損の進行を抑えら
れます。
歳以上で、眼科にて
に1人は緑内障で、なん
は進行してしまっている
と約8割の方は、自分が
読﹂は始まる。円覚寺で
スタート。産業科一期生
﹁先生は誰にも真正面か
た年の秋から校長を務め
緑内障検診を一度も受け
子ども・保護者・大学
生が一緒になって行う発
緑内障であることに気づ
とをお勧めいたします。
として入学。三上次男教
ら接し慈しまれた﹂。
魅かれて入学した生徒も
アカデミア創立
こともあります。
る。第一期生で実行委員
授の﹁考古学研究会﹂に
田高梧さんが教壇に立ち
多かったようです。
に経済的支援を働きかけ
毎月繰り広げられてきた
の一員。﹁鎌倉アカデミ
興味を持ち入部。稲村ケ
められた資料が、今後ど
ました。著名な教授陣に
眼球の中には房水とい
通常は両眼でみている
う水があり、外向きに水 ので、一方に視野欠損が
アを伝える会﹂の会員で
う活かされるのかを見届
ていた三枝先生は多方面
まず特筆すべきは、臨
済宗円覚寺派管長・横田
とう
もあり、長年アカデミア
崎、姥ケ谷古墳群発掘調
三上教授が 年に死去
すると、その膨大な蔵書
けたい﹂
。
最近の心境であ
ましたが、アカデミアは
﹁赤い﹂という風評から
名 し ま し た。三 枝 校 長 の
︱音声読書
﹃声の文化史
研究するプラトンの﹁学
︻展示ミニ特集︼
▼午後2時∼ 本堂
創立 周年
*法要 声明念仏
*人形劇団﹁ひとみ座﹂ 鎌倉アカデミア
創ってゆこうという熱意
を感じてください﹂︵小
田島一弘副館長︶。
の 一 年 ﹄に 続 く、第 3 弾
著者はNPO法人﹁鎌
で、今回のテーマは
﹁畑﹂
。 倉広町の森市民の会﹂理
公演 ★シローおじさん
7月 日まで鎌倉文学
向田
智也
著
のひとり芝居﹁花咲かじ 館。アカデミア関係者の
鎌倉市坂ノ下在住の向
いさん﹂★くるしまたけ ノートや発行雑誌、書籍 田智也さんの絵本﹃畑の
ひこ人形劇場﹁トラの子 を展示。
一年﹄が発行された。里
ウーちゃん﹂
﹁かつて熱い時代があ 山の一年をテーマにした
ったこと、新しい時代を ﹃田んぼの一年﹄
、﹃雑木林
*朗読
*コーラス 鎌倉市民混
声合唱団 鎌倉アカデミ
ア学生歌ほか
▼展示 午前 時∼午
後5時 分 開山堂
*鎌倉アカデミア回想展
&劇団ひとみ座人形作家
介し、人の文化や生活と
1512円、小学館刊
☎ ・3230・5451
共存する身近な自然を表
︻大切なものを手放さない
◆第3回東日本支援チャ
リティコンサート﹁あの日
にしてみると、よしっ、
と新
でいよう。それはいつかき
しいエネルギーが生まれ
大学二階堂学舎。
です。奇跡の一本松ヴァイ
れたのも、関わってきた皆
鎌倉てらこや事務局
☎0467・ ・9746
︵平日 ∼ 時︶
terakoya.net/
http://kamakura-
17
き しょう
の資料整理・収集に当た
や資料整理に従事、遺言
る。
葉山町で妻と暮らす。
査に参加する。
により出光美術館に寄贈
ってきた。
1928年、現在の京
2年後に校舎が横浜市
都府・舞鶴で海軍軍人の 戸塚区小菅ヶ谷の海軍燃
される。その後、鎌倉市
長男として生まれた。
︱どのような経緯でお
寺に間借りを。
光明寺の寺房を仮学舎に
料厰跡︵現、栄区︶に移
歳。文・写真 浅田勁
戦後の日本を象徴する学び舎が
え、アナウンサーになっ
を前にして朗読を研究す
での実験結果をもとに、
平井
嵩
著
やり直せ﹄
﹃日本は近代思想を
著者は小学生の頃、ラ
4212円、成文社刊
ジオ番組で詩の朗読を聞 ☎ ・3203・9201
朗読の効用を提示する。
さらに、声の芸能の系 ることを決断し、早稲田
譜をたどり、朗読の誕生、 大学大学院社会科学研究
がいいのかを考察する。
いて、声の素晴らしさ、
としての朗読
大学をつくろうと話し 園 ア カ デ メ イ ア ﹂に 因 ん す。
原
合いをされていた人の中 で命名したそうです。
1950年︵昭和 ︶
良枝
著
始めに、朗読をすると
には長谷寺や本覚寺など
︱学内の雰囲気は。
9月 日閉校しました。
寺院の関係者もいまし
の果たす役割や
先生と生徒がすごく親
先生方は学生の行く末 きの﹁声﹂
密な関係でした。先生の を考えて転校の面倒をき 発 声 の メ カ ニ ズ ム、﹁ 読
た。そのような中で材木
た。その後、朗読につい
家まで押しか
ての疑問が尽きず、 歳
けて話を聞い
む﹂ということの意味、
朗
座の光明寺を貸してもら
読を﹁聞く﹂となぜ気持ち
えることになりました。
し て 教 室 と し、 一
科 ﹂が 設 け ら れ ま し た。 部の授業は本堂で
います。
移転を機に﹁映画
鎌倉アカデミアは開校
主に本堂左手の
3年目に大船に移転して 開山堂を間仕切り
︱映画科は後に創設さ
れたようですが。
鎌倉にあった 鎌倉アカデミア
かつて鎌倉には、民主国家日本を体現するような大学校が
あ っ た。 そ の〝 寺 子 屋 大 学 〟 は 戦 後 間 も な い 日 本 に 突 然 現
れ、貴重な人的遺産を残して、わずか4年半で姿を消した。
鎌倉アカデミア創立 周年記念祭実行委員会委員の平田恵美
さん︵鎌倉市中央図書館近代史資料室勤務︶にうかがった。
行っていたようで
的外使用が法に触
当時人気があった映画に
考えたかと思います。松
れることから移転
ちんと見ましたし、卒業
す。ところが開校
も豊かで、人材にも恵ま
竹大船撮影所が近くにあ
たり、先生側もまだ食べ
2年目に寺院の目
みたく、放送作家・司会
れた場所でした。
することになりました。
間近の人には証書を発行
学生が増えるのでは、と
の前田武彦をはじめ戦後
り抜群のロケーションだ
物が十分でない時代にも
関する学科をつくったら
日本で活躍した人たちが
大学創立を伝える新聞
の記事には
しました。在籍した人た
大勢いました。両者の出
かかわらず奥さんが食べ
務めた重宗和伸さん
︵映
ったのでは。映画科長を
1948年︵昭和 ︶
4月に横浜市戸塚区小菅
会いの場を作ったのが鎌
鎌倉大學創立
ちは、先生に大事にされ
一流の先生と生徒が奇跡の出会いを
︱そもそも﹁鎌倉アカ
デミア﹂とは。
戦争が終わって、これ
からどう生きてゆこうか
という若い人たちがい
物を出してくれたりした
が混迷し、時代が転換し
そうです。
ようとする今日、日本は
ヶ谷の海軍燃料廠跡
︵現
鎌倉市岡本在住の平井
たという実感を強く持っ
嵩さんが3作目の著書
栄区役所敷地︶に 移 転 し
﹃日本は近代思想をやり
これまでのように他国追
ています。わずか4年半
直せ﹄を出版した。
画 監 督 ︶は 戦 前 か ら 映 画
男女共學でゆく
アから未来の学びの種を
片岡昌作品展示
☆鎌倉市倫理法人会 通信
随型の思考を反省し、独
しかなかった学校に在籍
数々の名作を残した小津
︱校名の変遷は。
開校時には当然大学の
用件を充たしていなかっ
︵有志︶/企画制作団体
線から市や県の行政、議
優秀で個性的な生徒が
多く、先生の教える意欲
を撮っていた人ですし、
倉アカデミアでした。
産業科、文學科、
c hame leon /吉
﹃畑の一年﹄
た の で、 正 式 に は
﹁大学
︱どうしてわずか4年 は、充分理解できます。
校﹂で し た。 し か も 大 船 で閉校に。
︱どうもありがとうご
校舎移転時にも用件を充
不況の時期と重なり、 ざいました。
た し て い な か っ た の で 学校経営の行き詰まりだ
鎌倉市中央図書館
☎0467・ ・2611
周年記念祭
野家ほか
教育・文学に寄与した星
歴史と伝統のある鎌倉を梁山泊に!
る﹄
。この言葉を何度も何度
6 月 日︵ 土 ︶ 時 開
場、 時半開演、鎌倉女子
もかみしめていると、不思
議と力が湧いてきます。言
アルゼンチンタンゴ界の
葉が護符となって私を守っ
女王・香坂優を迎えてのコ
鎌倉市倫理法人会では、
毎週火曜日に﹁経営者モー
オリンの演奏
︵皆川真里奈︶
てくれるように感じます。
ニングセミナー﹂を開催し
もお楽しみ下さい!
ンサートをはじめ見ごたえ
ています。澄みきった心を
045・319・4553
84
・専業従業員
・婦人パート
・学生アルバイト
た。一方で、知識人、大
演劇科の三科を
したことを隠さず語る人
ました。
考える知識人が多く住ん
置 き、 本 科 五 年
も高まり、先生同士も刺
女優原節子さんの出演で
学の先生方や戦時中には
︱どのような経緯から
できたのでしょうか。
自由にものが言えなかっ
でいました。鎌倉文士と
制、専門部三年
激しあったといいます。
アメリカ式男女共學の
大學が鎌倉にできる。名
いう呼称があるように文
辺のお寺だった。
ったと思います。開校し
自の思想を形成しなけれ
映画の脚本を担当した野
人も多く住んでいました
制 で あ る。 鎌 倉
先 生 方 の 顔 ぶ れ は、
さいぐさひろと
三枝博音︵哲学者、科学
﹁ 鎌 倉 ア カ デ ミ ア ﹂と 改
鎌倉アカデミア創立
1期生︶佐々木達夫氏
生﹂服部博明氏︵文学科
︵三上先生私塾白水会会
員/考古学者︶
*思い出の授業を再現
野天知とその息子。星野
折れそうになるものです。
と、予期せぬ困難ほど心が
心の栞⋮いい言葉との出会い
る。星野天知は、明治女
一年365日、毎年同じ
ように季節は巡り月日は流
学校で教鞭をとりつつ女
性文学誌
﹁女学生﹂誌の主
れていきます。6月は一年
先日ある雑誌の中で見つ
けた素敵な言葉をご紹介し
ましょう。
持ち続けるため、実行すれ
ば誰でもすなおに幸せにな
2800円、前売250
0円、中学生以下千円。
れる日常生活の標語︵ 箇
お申込み・問合せ☎04
67・ ・8537︵ガソ
条︶を学んでいます。素晴
らしい言葉の力を感じてい
リンスタンド・マツヤ︶
も起こる。くじけそうにな
ただきたいと思います。ど
って、強い意志が必要にな
鎌倉市倫理法人会事務局
☎045・319・4551
る困難は様々。思いもよら
なたでも自由に参加できま
ない出来事に巻き込まれた
る時だってある。そんな時、 さいね。参加無料。
すのでお気軽にお越しくだ
り、家族が病気になったり
ていく毎日でも、降りかか
﹃生きることは一筋縄で
ませんか?同じように過ぎ
はいかない。予期せぬこと
足元を確かめてみたくなり
話を交わしながら、今一度
速く感じるね⋮﹂そんな会
﹁あっという間だったね
⋮﹂﹁年々、月日の流れが
もあるように思えます。
歩いた半年を振り返る月で
筆となり、後に
﹁文學界﹂ 前半の締めくくり。夢中で
編集人として北村透谷
島崎藤村 樋口一葉など
明治の文壇を飾る作家た
ちを支えた。︵後略︶﹂
各地に無くもがなの石
碑が多い。しかし、この
石碑は鎌倉と﹃文學界﹄
の作家たちの関わりを示
す原点で、明治の記憶を
留める場所である。鎌倉
にとって忘れてはならな
い大切な記念碑である。
10
10
平井さんは新聞﹃鎌倉
々の学校に対する誇り
評論﹄
を発行し、
市民の目
も
﹁ 鎌 倉 大 學 ﹂と 呼 稱 し
た優秀な先生方が幸運な
別荘地として発展した
鎌倉には広い視野で物を
出会いの場を持ったとい
が経済人も多く住み﹁鎌
山夕日ケ丘に校
うことです。しかも、出
倉同人会﹂などの集い語
会った場所が鎌倉の、海
史家︶
、菅 井 準 一︵ 自 然 科
舎が建設されるまで材木
授業を開始するが入學申
座光明寺地内の假校舎で
ら、大学をつくろうとい
込は四月十五日まで︱
し た。 そ の よ う な 中 か
うとてつもない話が盛り
学史︶
、
林達夫︵評論家︶
、 らう場も戦前からありま
中 村 光 夫︵ 劇 作 家、小 説
家︶
、
高見順︵小説家、詩
人︶
、
村山知義
︵劇作家、演
拶
*講演と座談会﹁学びの
原点をたずねて︱鎌倉ア
月
には﹁私立鎌倉大學校ヲ
カデミア﹂
年三月三十一日認可セ
寺崎昌男氏
︵教育学者︶
/山嵜雅子氏
︵立教大学︶
/渕上皓一朗氏
︵岩波書
劇科2期生/劇作家︶
﹁演劇科教授 青江舜二
郎先生﹂若林一郎氏︵演
吉人に嫁いた女流俳人星
*座談会﹁鎌倉アカデミ
が75人、文学科が12
﹁考古学者三上次男先
野立子が住んだ場所であ
店︶
8人です。映画科は開設
住宅に分譲された。記憶
や高橋是清などである。
天知の山荘は平成 年
頃失われ、跡地は数軒の
時135人でした。
をとどめるものは虚子の
﹁ここ笹目は、明治の
撒く﹂ルートカルチャー
天知の自伝﹃黙歩七十
年﹄の中には明治史に名
俳句のみである。平成
︱学生数は。
開校時の学生数は、産
業科が105人、演劇科
はなく大学校でした。
リ﹂とあります。大学で
設置スルノ件昭和二十一
日付の神奈川県公報
しました。しかし同年4
出家︶
、吉 野 秀 雄︵ 歌 人 ︶
、 上がってきました。
︵昭和 年3月 日付神
日にち 6月4日
三上次男︵考古学者︶、服
鎌倉は、第二次大戦で 奈川新聞︶とあります。
場 所 材木座光明寺
部 之 總︵ 歴 史 学 者 ︶
、宇 の空襲の被害がなく、街
▼午前 時∼ 書院
1946年︵昭和 ︶
5月6日に、大学は開校 *ゆかりの方々よりご挨
野 重 吉︵ 俳 優、演 出 家 ︶
、 の前面には海があり、緑
野 田 高 梧︵ 映
画脚本家︶
、久
板 栄 二 郎︵ 劇
作家︶と今も
その名が語り
継がれている
ような方々が
揃っていまし
た。そしてこ
の学校に在籍
した学生には
小説家山口瞳
や作曲家いず
を残した多くの人物の名
年、その一画に﹁文學界
25
50
13
詳しくは最寄りの
ASAへお問合せを
10
10
従業員募集
23
やエピソードが記されて
い る。 鎌 倉 女 学 院 の
初代教頭は天知であ
った。
た。
びたび句会が開かれ
なってからここでた
住 む。 立 子 の 住 居 と
人へ嫁ぎ笹目ヶ谷に
がようやく別荘地として
高 浜 虚 子 の 二 女、
立子は天知の息子吉
別荘があるだけだった。
の入り口近くに島津家の
ひらけてきた頃で、谷戸
住むようになった。鎌倉
奥に山荘をつくりそこへ
年8月、笹目の谷戸の
島本
千也
笹目ケ谷・星野天知旧居
笹目ヶ谷の中ほどに星
野天知の山荘︵暗光庵︶
があった。天知はマルチ
な才能をもった人物であ
った。日本橋に在った実
家の砂糖商は弟に譲り、
明治女学校に務める教育
谷・島崎藤村、鎌倉在住
の海江田信義、津田仙、
十日会にて。
13
25
ASA
38
10
25
87
木犀や明治の文化この
星野天知 星野立子の
あ っ た 星 良 子︵ 相 馬 黒
光︶、﹃文學界﹄の北村透 谷戸に
顕彰碑﹂が建てられた=
昭和 年 月 日、鎌 写真。碑文には次のよう
倉笹目・星野宅、二百二 に記されている。
る。明治女学校の生徒で
者、﹃女学雑誌﹄のち﹃文
天知の山荘には多くの
歴史上の人物が訪れてい
學界﹄の編集人、柳生心
眼流の宗家、
書家、
山林経
営者としても活躍した。
母が雪ノ下の本陣大石
家の出であったことか
ら、大石家内に鎌倉の別
九鬼隆一ほか、柳田国男
03
記念祭で思い出語る
宅を所有していた。明治
11
70
10
70
・手数料は一切不要
・手続き簡単
10
38
10
03
13
22
10
21
ありし日を証すのは記
念碑のみ=開山堂左横
念碑のみ
=開山堂左横
23
10
シローおじさん
17
12
朝日新聞の購読料は
口座振替で
40
86
開山堂正面。右手の渡り廊下の先が本堂
42
87
10
30
18
開山堂の部屋割(演劇科1期廣澤榮氏作)
アジサイ
大船移転直前の記念写真=鎌倉市中央図書館蔵
大船移転直前の記念写真
=鎌倉市中央図書館蔵
25
03
38
46
70
26
21
18
17
服 部 博 明 さん
70
20
鎌倉アカデミア70周年
70
40
50
(4)
1部 108円
2016年
(平成28年)6月1日
第447号
(5)