ひと 鎌倉を見つめた写真家の記録 今昔写真展を

1957年から 年間に
実家の仕事をしながら、
さんは東京・荻窪で妻の
の専属カメラマンだった
ん︵故人︶や鎌倉国宝館
真館を営んでいた皆吉さ
目薬のさし方
業とともに東京綜合写真
を勉強するため、大学卒
興味があった写真の世界
わかった。高校時代から
ム、ファイルが図書館に
万8千コマに及ぶフィル
2012年、遺族から2
域の風景や町並み、人々
わたって鎌倉に通い各地
写した現代版の写真も添
い。多くの作品に、自ら
とになった。
年先を
鈴木さんの作品が35
986年に 歳で死去。
0余点に及び圧倒的に多
の表情を撮り続けた。1
える。﹁鎌倉の
された作品も展示するこ
安田さん︵同︶から寄贈
す。次に人差し指で下ま
してキャップをはずしま
の先端に触れないように
目薬の正しいさし方を
ご存知ですか? まず、
手をよく洗い、目薬容器
眼科専門医・医学博士
専門学校研究科に入っ
寄贈された。劣化が目立
西尾 佳晃
類以上の目薬を使用する
場合は5分以上間隔をあ
けて点眼してください。
目薬の使用後は、その
目薬の保存方法に従って
小木曽 駿
もっとも大切なもの
2016年が始まった
保管してください。目薬
と思えば、既に2月に突
取ることができる。
子どもたちとの関わり
は一期一会だ。毎週同じ
う、時折報告されるその
瞬間が、感動や喜びを倍
加させる。
く、報告すべき感動や気
し、毎回の活動で都合よ
うして築かれる関わりを
も大切な宝物である。そ
り返しによって築かれて
る。そして、そうした繰
を、皆様にお読みいただ
る﹁てらのすけが行く﹂
題材が排除されて、写実
思います。
葉山の邸
宅と庭園
には内玄関と茶の間を増
改築しました。
視点を変えて
春を観よう
︱このお邸は。
︱﹁山口 春が愛でた
公開している庭園は約
600坪、敷地全体で約 花鳥、その美﹂︵∼3月
べた﹂﹁ずっと心を開い
していた大縄がやっと飛
画など
春作品の源泉が
分かるような作品を一緒
に展示しています。
日本画家は写生をし
て、画室で下絵を作成し
てから本制作を行うの
で、当館にも 春の写生
や下絵が沢山残されてい
作品ではかなり作風が変
当てます。戦前と戦後の
が、今回は花鳥に焦点を
岐の題材で描いてます
無料・但し入館料別途︶
︵午後2時∼。
先着 人。
説 が 行 わ れ て い ま す。
会期中の土・日曜、祝
日は学芸員による作品解
た。
日常の繰り返しの積み
子と関わっていても、そ
重ねから育まれる、子ど
︶ に て、 学 生 が
fc2.com/
発信していく試みが今年
も関わらず、写真の中の
いく、子どもたちと学生
的なものに移って行きま
日︶の見所は。
れ、改革していったのが
庭にある豊後梅は日本
画家・伊東深水から贈ら
現状に甘んじることな
く新しいものを取り入
ました。枝垂桜は、もと
年に描いた﹁望郷﹂
の日の子どもたちの興味
入しようとしている。3
度から実施されている。
には使用期限が記されて
月に大学4年生スタッフ
のすけが行く﹂︵ http:// 関心や一緒に遊ぶメンバ もたちと学生との間で結
kamakuraterakoya.blog22. ーによって、可能性は無 ば れ る 深 い 信 頼 こ そ、
数に広がっていく。しか ﹁鎌倉てらこや﹂
のもっと
いますが、これは未開封
の卒業を控え、学生リー
訪れている。
の状態で冷暗所に保管さ
因になりますので、点眼
性してゆきますので、1
子どもたちや学生にはあ
2015度を振り返れ
ば、 4 百 回 以 上 の 活 動
を 実 施 し て き た。 そ し
どけなさや幼さが漂って
カ月前のことに
れていた場合の使用期限
の際は容器の先端がまぶ
年間の記録を中
て、 そ の 日 々 の 活 動 の
わずか
糧にして、子どもたちと
ぶたを下に引いて隙間を
カ月を超えての使用は避
づきが訪れるわけではな
考えるために、市民の財
1滴だけ目薬を点眼しま
作り、
顔を少し上に向け、 たの縁やまつげに触れな
で、開封後は、徐々に変
産としてこれらの作品を
学生の物語は、また未来
ったため、保存方法につ
有効活用していただきた
正一郎
様 子 を、 鎌 倉 て ら こ や
☎0467・
点眼後に、すぐに瞬き
す。一度に目の中に入る
北鎌倉眼科
をすると目薬が喉の方へ
〒247︱0062鎌
倉市山ノ内1337︱5
流れてしまいますので、
ります。蓬春の師匠・松
1000坪です。庭は昭
蓬春の特徴です。古典も
わるので、その変遷をご
るのでご覧下さい。
という考えの方でした。
よく勉強しましたが、常
は福島・三春の滝桜で、
覧下さい。 春は勉強家
いうところを感じ取り観
備えた画家でした。そう
にはそのような傾向が現
東京美術学校を卒業し 画家とはちょっと違う。
れているのではないでし たときは伝統的なやまと
その時その時のいいも
のを敏感に捉える能力を
す。
した。そんなご縁で
ーフは三春の滝桜で
身です。幼少の頃家族と
ともに東京に移ってきま
戦後は日展に活動の場
を移し、モダンで斬新な
した。東京美術学校︵現
作風に変わって
日々の活動の記録を学
繰り返しが紡がれてい
生スタッフが愛おしく綴
い。一つひとつの報告に
いて相談された。鈴木さ
目薬の量は1滴程度です
ダーの引き継ぎの季節が
既に百件以上の活動報
告が記録されている4月
んの文章を読んで鎌倉へ
い。特に、若い人、高校
ので沢山入れても目から
へと編まれていくのだ。
鎌倉市中央図書館主催 た。
同専門学校の助手を経
の今昔写真展﹁鎌倉を見
て1971年、凸版印刷
の思いの深さを知り﹁鎌
からも、鈴木さんの写真
生に見て欲しい﹂。これ
は、むしろ平凡な日常の
トッパンアイデアセンタ
倉の貴重な財産として保
からの報告を見返すと、
ー写真部に入社。商業写
存・有効活用するのは写
けてください。
真撮影やスタジオ運営に
日まで鎌倉生涯学
いように注意します。
心に︱安田三郎・皆吉邦
携わる。2005年に定
つめた写真家たち︱鈴木
雄の3人展﹂が2月 日
から
1分位目を閉じるか目頭
がら活動に参加していた
て、
所在なげに、
緊張しな
けることを願っている。
あふれるだけで効果はあ
を押えておきます。2種
の深い結びつきを感じる
を多くの市民に知っても
りません。目薬汚染の原
いることに気付く。そし
真の世界に生きてきた自
らう活動に取り組む。
子が、緊張が解かれ、徐
てくれなかった子が笑顔
・尾形光琳の﹁飛鴨図﹂
々に学生との関係に慣れ
風を変えて表現しまし
画家の美術学校時代の同
という掛け軸や室町時代
の思考や感覚をもとに画
鎌倉てらこや事務局
がゆえに、﹁ずっと練習
☎0467・ ・9746
活 動 報 告 ブ ロ グ﹁ て ら
年退社するまで、一貫し
分の責務﹂と感じた。
景 観 ﹂写 真 三 人 展 に 北 鎌
た。常に進歩を目指した
窓生で近代数寄屋建築の
の伝雪舟﹁円窓 白菊芙
蓉図﹂
、
古い時代の中国絵
を見せてくれた﹂とい
然に即したリアルな色調
作家でしたので、制作年
名匠であった吉田五十八
ていく関係の深化を見て
で描かれた絵となり、作
を意識しながら鑑賞する
が画室を増築、昭和 年
岡映丘は日本の古典やや
す。それが戦前の特徴で
和
ており、江戸時代の画家
品からは人物とか人為的
と、より訴えかけるもの
家が購入後、昭和 年に
・88
習センターで開かれる。
て写真関係の仕事だっ
取り組むとともに、鈴木
図書館のスタッフと1
北鎌倉 舟 月荘で開催
年間かけてデジタル化に 中 の﹁ 残 し た い 北 鎌 倉 の
さんが撮影した同じ場所
52
︵8面に記事︶展示会開
た。 こ の 間 の 1 9 7 5
しゅう げ つ そ う
年、結婚を機に現在住ん
でいる鎌倉市山ノ内に転
に足を運んだ。そうした
近代絵画を吸収し、時代
催を提案、作品選定や現
居。退職後は、写真を生
文・写真 浅田勁
妻と2人暮らし。 歳。
が分かるのではないかと
まと絵を中心に勉強し、
す。
年に京都の岩城亘太
当館の所蔵作品で構成
されています。 春は多
︱蓬春作品鑑賞のポイ
ントは。
に新しいものを求め、﹁一
その苗木を橋本明治から
郎にお願いして作庭して
蓬春は、西洋画から出
発したということもあり
つの作風にとらわれてい
いただきました。皇居新
画を作るんだ﹂というこ
宮殿の杉戸に橋本明
ていたので陶磁器や果
とでやまと絵から離れ、
ていただくと、より一層
この家自体は昭和
初期の建物です。ど
という作品の小下絵=写
大正
年に帝展に出品した﹁三
物、庭の花々を組み合わ
中国の宋元時代の作風や
真下=の
画家・髙
に浴し、華々しい画壇デ
せた題材を取り上げてい
かっていません。画
なたが建てたかは分
治が描いた桜のモチ
山辰雄の
ビューを飾りました。し
きます。
いただいきました。
ますが、作風が移り変わ
ない﹂ということが他の
がら新しいやまと絵を、
新しいものを取り入れな
絵巻﹂がそれにあた
ものでは﹁源氏物語
呼びました。有名な
した絵をやまと絵と
景を題材にし、取材
し、日本の風俗、風
を扱った唐絵に対
古くは中国的な主題
かした地域活動に取り組
提案。同時に北鎌倉で写
倉の雪景色を出品してい
︱やまと絵とは。
る。
3人の子どもは独立、
平安時代以来の絵画様
式︵概念︶の一つです。
写真展のメーンの鈴木
なかで、今回の展覧会を
んだ。
〝蓬春モダニズム〟
と出逢う
代版の撮影などを裏方と
して支えてきた。
東京・上野で生まれ育
った。日本大学文理学部
数学科に入学したが、数
学が膚に合わないことが
山口 春記念館︵葉山町一色2320︶は、神奈川県立近
代美術館葉山の道路をはさんで向い側にある。道しるべの案
内板を見ると、日本画らしからぬかわいい白熊の絵と手書き
の 館 名。 そ の 先 に は 若 く し て そ の 作 品 が 皇 室 買 い 上 げ と な
り、晩年には皇居新宮殿の杉戸に﹁楓﹂を描き、日本芸術院
会員であり文化勲章を受章した画家の記念館がある。
加藤慶輝館長に、同館の由来と今についてうかがった。
春の作品世界を訪ね庭園を愛でる
人が集ま
って行きます。
で、沢山の絵画を収集し
︽日本画教室︾
初心者を対象とした
﹁日本画Ⅰ、Ⅱクラス﹂
った新興
絵を下地にしていまし
︱自動車道からの入り
口に趣のある案内板=写
﹁都波喜﹂=写真左上=
た。その後﹁新しい日本
大和絵会
熊野の那智の御山﹂が帝
ょうか。その後は静物画
真左=が立てられていま
展特選と帝国美術院賞を
を。古美術を沢山収集し
ていまし
一 部 で
受賞するとともに皇室買
あの白熊君は画家が昭
す。又館
い上げという三重の栄誉
和
名は日本
筆による
かしその後、中村岳陵、
理解が深まるでしょう。
福田平八郎、洋画家の木
琳派の作風を取り入れて
戦後、葉山に移り住ん
だときには積極的に西欧
いくようになります。自
も の で
す。
村荘八、牧野虎雄、中川
昭和 年には中国で開
催された雪舟等楊の記念
紀元、美術評論家の横川
式典に日本代表として出
んで持ちこんできたもの
毅一郎、外狩素心庵など
席し、その際、三彩や磁
いかと言われていて、桃
東京藝術大学︶に入学
た。
別館では絵画教室
と3年以上の制作経験者
を 対 象 と し た﹁ 日 本 画
Ⅲ、Ⅳ﹂があり、月2回
開講されています。
︽水彩画教室︾
水彩画Ⅰ、Ⅱ、
Ⅲと3ク
ラスあり、月1回開講。
日︶です。昨年から
︵平日 ∼ 時︶
http://kamakura-terakoya.
net/
有料見積りの薦め
ることもあります。
りし後から追加変更を求め
終の棲み家を考える
日本画家の画室﹂︵∼3
新築工事をする場合は完
成した家を見て説明を受け
月
保存しています。 春の
に指定されています。土
た。その後、重要文化財
ぎ保護しようと買い取っ
トを差し上げます。
館者先着百人にプレゼン
始めました。着物での来
や造作が影響するのか解り
依頼者もどの範囲まで解体
をメモにして示し、相見積
寸法・材質・仕上げの程度
スケッチを書いて、仕様・
あれば図面を下になければ
ると比較的に解り易いもの
リフォームは影響する範
囲が解り難いので、図面が
人は亡くなられました。
写生とか下絵だけでも1
難く、複数社の見積もりを
もりを告げて臨むことが一
たたぬうちにくじけてしま
﹁TIME﹂誌の﹁世界で
う。これまで果たしてくれ
えたものを捨ててみましょ
切 に す る た め に、 役 割 を 終
った⋮などと言う話はよく
最も影響力のある100
た役割にきちんと向き合
︱︱本当に大切なものを大
人 ﹂ に 選 ば れ た、 片 づ け コ
明しても一度に複数社に説
に業者を呼びつけ口頭で説
くあります。
常に評価していました。
依頼者は相見積もりの方
法を勉強すべきです。適当
不満を持ってしまう事が多
言われると悲しくなりま
りは無料でしょうと平然と
手間が掛かります。見積も
りの作成には相当の時間と
ます。しっかりした見積も
よくあるケースで業者は
決まっていて、金額が高い
で想像していた出来具合に
明している訳ではないの
す。その様な場合は有料見
春の出世作﹁三熊野の
で、仕様も材料も其々が勝
積もりを依頼する事をお勧
春の日記を見ると清方
を尊敬していたことがよ
く分かります。三人の間
にはそのような縁があり
ます。
もりを依頼してくる方がい
か安いかを知りたくて見積
手に決めて見積もりを作成
那智の御山﹂を清方は非
します。業者によっては影
めします。
響する範囲を抑えて見積も
︱どうもありがとうご
ざいました。
触れることを願っていま
す。
山口 春記念館☎04
■日向建設
鎌倉市大船1︱ ︱3
6・875・6094
☎0467・ ・5454
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こしてみましょう。
ま す。 新 年 に 仰 ぎ 見 た 富 士
って捨てることから始まり
きめく1日﹂は、意志を持
に入れることができる﹁と
か も し れ ま せ ん。 誰 で も 手
生そのもののリセットなの
片付けること⋮それは単
なるお掃除ではなく実は人
しゃ が とく
るは捨つるにあり︱捨我得
ぜん
全﹂と、解かれています。
045・319・4553
鎌倉市倫理法人会事務局
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まずは身の周りの小さな
毎週火曜朝6時半から由
物 か ら、 見 つ め な お し て み 比 ガ 浜 公 会 堂 で モ ー ニ ン グ
るのも良いですね。 そ の先
にあるときめきのある暮ら
しを手に入れるため、良い
と思ったことは即行動を起
ですが、リフォームの場合
土地、建物を含めて全て
比べても解らないのが現状
した絵画が から 点、
や
でしょう。結果金額の安い
番好ましい方法です。
運営しています。これほ
陶磁器関係も 点くらい
い、感謝しながら手放して
あ げ る こ と で 初 め て﹁ モ ノ
と の 関 係 ﹂ や﹁ 過 去 ﹂ に 片
を付けることができるので
す ﹄ ︱ こ の 文 章 は、 な に げ
の 言 葉、 の 中 の 一
ない1日がときめく1日に
変わる
こ こ 数 年 、 世 の 中 は﹁ 断
つです。
そ
佐光吉が描いたのではな
両画室とも吉田五十八
ゆかりのもの。年齢的に
業者に依頼する事が一般的
た。 春の膨大な作品や
どの日本画家を埋もれさ
建築を活かしつつ改築さ
焦点を当てた展覧会を開
さんをご存知でしょうか?
い
000点近くあります。
は大先輩の清方が 春を
収集した美術品を春子夫
ていて、JR東海に寄贈
れ、近代性を兼ね備えた
催 し ま す。﹁ 山 口
例年になく穏やかなお正
日 々 の 暮 ら し に 心 の と き め き を!
歴史と伝統のある鎌倉を梁山泊に!
☆鎌倉市倫理法人会 通信
開かれていますが。
人が管理していました
の申し出がありました。
山口 春美術館として生
と 十 二 ヶ 月 風 俗 図 ﹂︵
︵
﹂仮
だけでなく文化事業活動
日、春子夫
係のある遺跡が多かっ
月
んだ人達の広い敷地には
た。時には凶悪事件の舞
翌月
︵エントランス︶は海岸
黒松が植えられていた。
台 に も な っ た︵
﹃鎌倉の
通り側にあった。海岸通
松韻濤声︵松風の音、波
称 ︶で す。﹁ 十 二 ヶ 月 風
春
まれ変わりました。
術館にできないかと考え
が、後世に残せるよう美
せてはいけない、という あります。
﹁鏑木清方と山口 春
のがJR東海の考えでし
︱新年度の予定は。
吉田五十八建築にみる
た。 春邸は従来の木造
3月 日から 春作品
と﹁十二ケ月風俗図﹂に
︵右下写真
︽静物︾参照︶。
和
かわいがっていました。
を、作品の海外流失を防
と六 潮 会という団体を
州窯に魅せられ、そのよ
の財産をJR東海に寄付
模写関係が200点近く
山時代の作品です。
JR東海の文化芸術事業です
本名は山口三郎といい
ます。1893年︵明治
結成し、師である松岡映
うなものも作品の中によ
︱JR東海が運営する
いきさつは。
していただき、JR東海
あり、日本画も 点ぐら
り く ちょう
︶、北海道・松前の出
丘から離れてゆきます。
春は1971年︵昭
は財団︵現在は公益財団
り多く登場してきます
日、晩年を
法人︶を設立してこれを
ゆきます。
鳥風月の世界を
︶5月
年の生涯を閉じまし
過ごしたこの葉山の地で
し、西洋画科に入りまし
たが、途中から日本画科
春はもとも
と西洋画から出
発しているの
で、マティスや
ピ カ ソ、 ブ ラ ッ
クといった西欧
り入れるなどよく勉強し
の解釈、技法で描き始め
そして、またいったん
近代の画家たちの作風の
離れていた日本伝統の花
良いところを積極的に取
ていたので、いっきに花
ます︵下の写真︽洩るゝ
春なり
それを受けて1991
年
︵平成3︶ 月 日、
開くことになります。
もやらなければと考えて
俗図﹂も、戦後のどさく
特に昭和 年代には実 陽︾参照︶。
験的な、モダンでスマー
春は、日本野鳥の会
の発起人の一人でもあ
春の誕生日に当館は開館
︱画家の作品を何点ぐ
らい保管していますか。
り、鳥に詳しく作品の中
いた矢先でした。
しました。JR東海は民
た。当時はそのような作
に鳥を沢山取り上げてい
さに美術商が風呂敷に包
風が﹁ 春モダニズム﹂
ます。
間会社となり、鉄道事業
と 呼 ば れ て い ま し た。
り沿いは明治・大正期の
失われた風景⑤﹄荒波観
墓域でもあり、明治初期
てゆき海岸の風景は一変
ンサルタントの近藤麻理恵
元旦の富士山
39
まで付近に人家などはほ
細分化された住宅と黒
あることですよね?
とんどなかった。あるの 松の巨木は両立しなかっ
ところで、昨年4月、米
た。磯馴松の姿は失われ 常堂塚︵和田塚︶、六地
することとなった。
は畠山重保宝篋印塔や無
蔵、盛久頸座、骨塚、閻
魔川など死後の世界に関
17 84
・専業従業員
・婦人パート
・学生アルバイト
に所属し
21
10
13
詳しくは最寄りの
ASAへお問合せを
22
50
70
80
に転科しました。卒業後
え い きゅう
林の中に建っていた。同
海浜ホテル正面入口
従業員募集
したが。
10
82
いあります。 春が収集
︱鎌倉市鏑木清方記念
美術館とのコラボ催事が
︱山口 春とは、どの
ような画家ですか。
31
の音︶は海浜別荘の楽し
21
ASA
《静物
(遼三彩鉢と果物)
》
1956年
(昭和31)
中国陶器をモチーフに
1983点の美術品を
15
・手数料は一切不要
・手続き簡単
35
50
72
《望郷 小下絵》
1953年
(昭和28)
3月21日まで展示中
《扇面流し》
1930年
(昭和5)
22
28 活動報告ブログ
「てらのすけが行く」
QRコード
28
トな作風を展開しまし
40
46
77
31
10
11
は師である松岡映丘の門
な れ ま つ
は松林があり海風の影響
じく鎌倉を詠んだ句に、
南西側、由比ヶ浜海岸に
で陸地側になびいた姿を
の呼び名もあった。
していた。由比ヶ浜の磯
鎌倉は冬草青く松緑
馴松である。冬場の西風
鎌倉は市内各所に黒松
の緑があふれ﹁松の都﹂
による飛砂や防風・防潮
を目的に植えられてい
た。
明治末∼大正初の由比ガ浜=『絵葉書に
明治末∼大正初の由比ガ浜=
見る鎌倉百景』
(鎌倉市中央図書館)より
15
25
36
20
春邸の画室
28
26
朝日新聞の購読料は
口座振替で
15
大官富豪の別荘が建ち並
11
山口
山口
そそ
千也
《都波喜》1951年
(昭和26)頃。色面と線描が
色面と線描が交わるモ
わるモ
ダンな表現。3月21日まで展示中
21
47
春記念館
32
今昔写真展を支える
由 比 ヶ 浜 の 磯磯 馴馴 松松
島本
31
鎌倉を見つめた写真家の記録
時代を先取りし革新し続けた日本画家
26
《洩るゝ陽》
1961年
(昭和36)
伝統的画題にあえて挑戦
3月21日まで展示中
島 村 國 治 さん
17
28
22
月で1月もあっという間に
彼 女 の 日 め く り カ レ ン ダ 捨 離 ブ ー ム ﹂ で す が、 断 捨 山 の よ う に、 清 々 し い 気 持
んでいた。山本達雄︵日 みでもあった。
音を参照︶。
磯馴松とはこれをいふ
、間島弟彦︵三井
海浜ホテルの松を詠ん 銀総裁︶
黒松の樹間は海水浴客
昭和初期、由井ガ浜に 過ぎていきました。1日と ーの6の日にこんなことが 離の先にあるものは何か⋮ ちで毎日を過ごしてまいり
いう時間は、誰にも公平に 書かれていました。﹃役割 と考えていくと、自分らし ましょう。
冬木立
だ虚子の句には、
銀行︶
、芳川顕正︵文部大 に強い日差しをさえぎる 道路が建設され、昭和
与 え ら れ た 時 間 で あ る は ず を 終 え た も の と お 別 れ す る い 幸 せ な 暮 ら し、 す な わ ち
倫 理 法 人 会 の﹁ 経 営 者 モ
松の間に枯芝見えてホ 臣︶などである。
格好の樹影を提供した。 年東京オリンピック直前
高浜虚子の句で、昭和
な の に、 そ の 捉 え 方 は 千 差
ときめきのある暮らしなの ーニングセミナー﹂では、
年1月 日、鎌倉俳句
テルかな
海岸線近くに別荘を営
一方、黒松の林は夜間 には逗子・葉山方面へ1
万別であるようです。
ではないでしょうか?
毎週多彩なゲストによる講
会、海浜院で詠まれた。
など一種不気味な雰囲気 34号線が開通した。由
月の庭松の根方も明る
元旦の朝に、﹁今年こそ
﹃ 捨 て る ﹄ と い う 行 為 に 話 が あ り ま す 。 仕 事・ 家 庭
海浜院︵海浜ホテル︶の
もあった。由比ガ浜地区 比ガ浜地区から松の巨木
くて
は
○
○
を
実
行
し
よ
う
!
﹂
と
は大変深い意義が有ると、 ・親子等の様々な悩みの解
倫 理 の 学 び の 中 で も﹁ 得 決や、あなたの心の琴線に
がある。海浜ホテルは松
は特に中世期には鎌倉の は 次 々 と 失 わ れ て い っ 決意したはずが、1カ月も
15
21
64
(4)
1部 108円
2016年
(平成28年)2月1日
第443号
(5)